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日蓮大聖人・池田大作

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五百弟子受記品・授学無学人記品 声聞た…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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13  「大願」に立った庶民がつくった創価学会
 斉藤 「すべてを生かす」といえば、創価学会には、実に多様な人々がいます。これも偏った「小願」ではなく、全人類のための「大願」に立っているからこそですね。
 須田 才能や環境に恵まれ、学歴のあるリーダーもいます。また学歴や肩書はなくとも、人生の苦労を知り、民衆の心を知っているリーダーもいます。それぞれに使命があり、役割があると思います。
 池田 その通りだ。しかし、忘れてならないことは、戦後の焼け野原の時代から、学会を死にもの狂いでつくってきたのは、絶対にインテリではないということです。庶民のなかの庶民がつくったのです。″病人と貧乏人の集まり″と蔑まれた民衆が、世界に広がる、今の平和・文化・教育の大集団を築いたのです。インテリには、強さもあるが、弱さもある。とくに日本のインテリは「民衆を守ろう」とするよりも「自分を守ろう」とする傾向が強いようだ。そんな保身は「大願の人生」には必要ない。
 捨て身です。「ちりを大地にうづむとをもへ」です。青年は「苦労」が大きければ大きいほど、その分、「民衆の心を知ることができるのだ」「使命が大きいのだ」と決めて頑張ることです。
 ともあれ、二乗たちに「生命の根源に帰れ」「大願を思い出せ」と呼びかけたのが法華経です。その具体的行動は、民衆のなかで、民衆とともに人生を生きることであった。
 何よりも、「民衆に学べ」です。あのドストエフスキーは、インテリたちに、こう警告します。
 「いかに真実を語るべきかを、民衆に学ぼうではないか。同時にまた民衆の謙虚と、実際性と、理知の現実性と、まじめさを学ぼうではないか」
 「(=社会を)なぜ活気づかせることができないかというと、諸君が民衆によろうとせず、民衆が諸君と精神的に一体となっていず、まるで無縁の存在にひとしいからである」(前掲『作家の日記』)と。
 遠藤 長い流刑生活を、民衆とともに生き抜いた彼ならではの信念ですね。
 池田 とくに彼は、自由主義思想によって一度は手放した「信仰」を、「民衆のおかげで」魂に取り戻したのだと言っている。彼にとって民衆は、人間としての″根っこ″である信仰を教えてくれた″大地″だったのです。
 興味深いことに、ドストエフスキーは、死の当日、奥さんに聖書を開かせ、子どもたちに「放蕩息子の話」を読んで聞かせるょうに頼んだという。(エーメ・ドストエフスキー『ドストエフスキー傳』高見裕之訳、アカギ書房、参照)
 遠藤 「放蕩息子の話」とは、父から離れた息子が、遠くで生活するうちにおちぶれ、再び父のもとに帰ってくるという物語ですね。
 須田 法華経の「長者窮子の譬え」(信解品〈第4章〉)に似ていることから、この物語が、法華経の影響を受けていると見る学者もいます。
 池田 ドストエフスキーは、信仰によって、精神の「放浪」をやめたいと願った。同時に他の「放浪者」たちを連れ戻したかった。信仰が息づく「民衆」の大地に帰らせたかった。
 「放浪者」は「長者窮子の譬え」の「窮子」に通じる。「衣裏珠の譬え」の「貧人」にも通じるだろう。ある意味で、今、人類全体が「放蕩息子」であり「貧人」なのではないだろうか。
 その、さ迷える人類に向かって、「ここに、帰るべき生命の大地がありますよ」「放浪をやめるカギは、あなたの胸中にあるのですよ」と呼びかけるのが、私どもの人生なのです。その行動にのみ、生命の「貧人」でなくなる真の道がある。
 日蓮大聖人は、迫害の嵐の中で「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし」と宣言なされた。
 このご確信、この誇りに、私どもも連なりたいものです。

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