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日蓮大聖人・池田大作

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授記品(第六章) 授記──万人を「絶対…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 学会の活動の基本は座談会です。この「法華経の智慧」の座談会も、全国・全世界の座談会で行われている座談会で、また語らいで、大いに活用していただけるよう頑張っていきたいと思います。
 池田 そうだね。さらに力を入れていこう。
 座談会は″大河″です。あらゆる活動は、その大河に注ぎこむ″支流″です。
 友好活動も各種会合も、すべて座談会という″大河″に合流して、″民衆の世紀の大海″へと進む。その大河の両岸には、広大な「人間文化の沃野」が開け、豊かな実りを結んでいく──。
 座談会にこそ学会の「心」がある。戸田先生は、よく語られた。
 「初代の会長は、自分が真っ先に行って、一人がくると、その一人の人とじつくり話し合う。二人目の人がくると二人と、三人くると三人と話しあって、実に懇切丁寧に教えてくださった」と。
 遠藤 真っ先に座談会場へ牧口先生は、座談会に全力を注がれたのですね。
 池田 そうです。戸田先生は、こうも言われている。
 「ただ一人でもいい。その一人の人に全力で法を説き、体験を語り、広布のこと、人生のことを心から話しあっていけばよいのだ。二人でもいい、御本尊の話をして、感激し合って帰る座談会にしてほしい。三人もくれば、″大勢″というべきである」。
 須田 ″たくさん集める″ことも大事ですが、来た人が「もう一度、来たい」「今度は、友だちと一緒に来たい」と、満足できる座談会をつくり上げていくことですね。
 池田 「号令」ではない、「心」です。「人と人」の語らいなのだから、「人」を大事にしなければ。その結果として、にぎやかで盛大な座談会が定着していくのです。
 「伝統の座談会」と呼ぶのも、″長年、続いている″からではない。座談会を根本に、一人一人を大事にしてきた、その「心」が、学会の伝統なのです。
 学会はつねに、無名にして健気なる「民衆」を、励まし抜いてきたのです。そこに座談会の″魂″がある。世間から見れば、人数も少ない、だれに注目されるのでもない。これほど地味な集いもないでしょう。
 しかし座談会には、大宇宙を貫く法を説ききった「哲学」がある。どんな人をも包みゆかんとする「潤い」がある。どんなに宿命に打ちひしがれていても、″もう一度、頑張ってみよう″と奮い立たせずにはおかない「希望」がある。
 遠藤 ″湯上がりの爽快さ″という感じでしょうか(笑い)。
 池田 そうなればすばらしいね。仕事をやり遂げ、汗をふきふき、青年が駆けつける。「今日は間に合った着いたとたん、安心してドツと眠気が襲うけど、そうはいかない(笑い)。
 「元気出しなさいよ。若いんだから」と、いつも優しく、声の大きい地区担さん(=現地区婦人部長)。本当は″若いから″眠いのだけれど(爆笑)。
 いぶし銀のような味わいある言葉で、信心の醍醐味を語ってくれる多宝会の方々。未来っ子たちは、少しぐらい騒いでも、かわいい(笑い)。
 「家内が、あんまり言うもんで」と久しぶりに登場した壮年部のお父さん。「そろそろ本気を出さんとね」と照れながら決意発表すると、大拍手のなか、奥さんが目を真っ赤にして笑ってる。
 笑いあり、涙あり、感動あり。決意と感謝の心が響き合い、悩みが勇気に、疲れが充実に変わる″庶民のオアシス″、それが学会の座談会です。
 この小さな集いに「人間共和の縮図」がある。「民主主義の実像」がある。「信仰と家庭と地域とを結ぶ広布の脈動」がある。尊い仏子を、大切な友を、幸せにせずにおくものかという「心」がある。その心が「法華経の心」なのです。
 遠藤 池田先生の世界広布の行動も、アメリカでの「ザダンカイ」から始まりました。小説『新・人間革命』に書いてくださっています。
 須田 私も『新・人間革命』を読んで、こう思いました。釈尊が、かつての修行仲間に初めて仏法を説いた場面(初転法輪)も「座談会」ではなかっただろうかと。
 参加者は、釈尊のほかに五人。この小さな小さな集いが、仏教史に燦たる″旭日″となつた。しかも、そこへ赴くために釈尊は、二百数十キロもの道のりを歩いたとされています。
 池田 仏の説法は「対話」であり、「座談会」に通じると言ってよいでしょう。
 そして釈尊の結論である法華経も、壮大な「座談会」です。人生を模索し、真摯に問いかける求道の人々。体験を通し、譬喩を駆使して、誠実に答えていく釈尊。そのやりとりを見て聴いて、ともに「境涯を開く喜び」に包まれる人々。その決意の発光、連動、感応の妙──。
 この「座談会」で釈尊は、どのようにして衆生の心に、妙法の″旭日″を昇らせていったのか。その大きな焦点となるのが「授記」です。授記品(第六章)について語り合っていこう。
2  ″受持即成仏″
 遠藤 「授記」とは、未来に必ず成仏できるという″保証の言葉″を釈尊から弟子に授けることです。
 授記品では、四大声聞、すなわち迦葉、須菩提、迦旃延、目犍連(目連)の四人の声聞に対して、釈尊から授記されていきます。先の舎利弗への授記に次いで、二回目の授記になります。また、これで、譬喩品(第三章)の「三車火宅の譬え」から始まった四大声聞に対する説法が、いちおう締めくくられることになります。
 斉藤 会員の皆さんから「成仏とは具体的にどういう状態なのか」と、よく質問を受けます。法華経の声聞への授記では、成仏は未来のことになります。一方、大聖人は一生成仏だと説かれている。であれば、この一生において、成仏とは、どういう状態をいうのであろうかという疑問です。
 池田 むずかしい問題であるが、端的に言えば、成仏とは、ひとつの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。
 法華経の迹門では、まだ歴劫修行の成仏観から出ていません。それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。仏が歩んだ「生命の軌道」「絶対的幸福へのレール」にたしかに乗ったよ、と保証するのが授記です。
 「色相荘厳の仏に成る」という爾前流門の成仏ではない。仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。
 それでは、仏と同じ「軌道」を行くとは、具体的には、どういうことか。それは法華経を「受持」することです。
 法華経の受持とは、法華経に示された仏の心を自分の生命に刻んで、仏の心の通りに生きていくことです。何があっても仏の心から離れないように生きていくことです。だから仏道という「軌道」をはずれない。
 神力品(第二十一章)には「我が滅度の後に於いて応に斯の経を受持すべし是の人仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」(法華経五七八ページ)とあります。すなわち、法華経を「受持」する人が、「仏道」を間違いなく歩めるのです。そして、その人の成仏は疑いないと説かれている。
 斉藤 ″成仏とはどのような「状態」か″という問いそのものに、まだ爾前迹門の成仏観にとらわれている面がみられます。今の姿とは違う、何らかの″達成された状態″を想定している場合が多い。私たちは、どうしても「仏に成る」という表現から、そういう考え方になりがちです。
 池田 そうだね。大聖人は、成仏とは仏に「成る」のではなくて、我が身を仏と「成(ひら)く」、仏の生命を「成く」ことだと仰せです。
 戸田先生も「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することである」(『戸田城聖全集』3)と言われています。
 授記品には、目連への授記のときに、「是の身を捨て已って(捨是身已)」(法華経二七〇ページ)という言葉が出てくる。目連が今の身を捨てて、未来世に多くの諸仏のもとで修行し、最終的には成仏するという趣旨の文です。
 大聖人は、この文について「是の身を捨てて仏に成るというのは爾前権教の意である。むしろ、そのような執情(とらわれ)を捨てることが、法華経のこの文の本意である」(御書七三一ページ、趣意)と言われている。そして、この「捨てる」というのは「ほどこす」と読むのだとされ、この身を捨てるとは「法界に五大を捨(ほどこ)す」ことであると仰せです(御書七三一ページ)。法界とは宇宙であり、世界であり、すべての衆生です。五大とは生命です。「法界に五大を捨(ほどこ)す」とは、わが生命を利他のためにほどこす「菩薩の行動」です。菩薩道を歩むこと自体が、成仏なのです。
 法華経では、本門(後半の十四品)で新しい成仏観が示されます。すなわち、寿量品(第十六章)で説かれた久遠実成の仏は、成仏してからも菩薩行をやめていません。″菩薩であることをやめて仏に成った″のではないのです。
 仏の実践、姿といっても、具体的には菩薩行なのです。成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続ける。それがすなわち「仏道」なのです。
 斉藤 寿量品の最後にも「どうすれば衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるのか」(法華経四九三ページ、趣意)との仏の願いが説かれています。
 「無上の道に入らせる」ことが、仏身を成就させる(成仏させる)ことであることがうかがえます。
 池田 やはり本門の眼で見ると、成仏とは「ゴール」とか特別な「状態」というよりも、「軌道」だということになるね。あえて、成仏以前と以後との「状態」の違いを言うとすれば、軌道が「定まっている」か、「定まっていない」かの違いと言えるのではないだろうか。
 「軌道が定まっている」というのは、自他ともの幸福を願う「心」が定まっているということです。その心でつねに前進しているということです。
 須田 自他ともの幸福、平和を願う心の軌道が、全世界に広がればすばらしいですね。
3  四大声聞への授記
 斉藤 「軌道が定まる」というお話がありましたが、これは「授記」という言葉の元意にも一致しています。
 遠藤 「記」という漢字は元来、″ものごとを立て分け、筋道を立てて表す″という意味です。漢訳の「授記」は、鳩摩羅什が使い始めた訳語で、それ以前は「記別」「授決」などといっていました。記別の「別」も″立て分けて区別する″という意味ですし、授決の「決」は″はっきりと立てわけて取り決める″ことです。
 須田 「授記」のサンスクリットの原語は「ヴィヤーカラナ」といいます。これには、「区別」「分析」「発展」などの意味があります。仏典では、″疑問に対して明確に答えること″という意味で用いられています。
 斉藤 要するに、授記の「記」というのは、明確に述べることです。明確に述べることによって、成仏への軌道を最後まで間違いなく歩ませるのです。信解とは″向上への志″であることは既に確認しましたが、その志を″生命の奥底に刻む″力が授記にはあるのでしょう。
 池田 そう。元来、授記とは、明快な答えを述べ、人々の心の疑いを解決することだね。
 リーダーはつねに「明快」でなければならない。あいまいは悪です。人々に不安を与えるからです。「確信を与える」のが「授記」のポイントです。
 斉藤 経典で述べられている「授記」「記別」の大半は、死後どのようになるのかに関するものです。死後や未来にどうなるかは、はっきりとはわからない。だからこそ「明快に語る」必要があったのではないでしょうか。
 天台も、授記とは「言葉を用いて弁える」ことだと述べています。
 池田 仏が「記を授ける(授記)」のは、その人自身に、成仏できることを″はっきり弁えさせる″ためです。自覚させ、確信させるのです。
 須田 授記品では、四人の声聞のうち、まず、迦葉に対して授記が行われます。その光景を見て、目連ら三人が自分たちも授記を受けたいと釈尊に願い出ます。釈尊は、須菩提、迦旃延、目連の順で授記を与えていきます。
 遠藤 目連ら三人が授記を願う場面では″大王膳の譬え″が述べられています(上記の経文を参照)。
 すなわち、授記を願う心境は、飢えた国からやって来て「大王の膳」つまり最高級の料理を目の前にしているようなものだ、と。食べたくて仕方がないけれども、王の許しがなければ安心して食べられない。
 同じように、「声聞も成仏できる」という一仏乗の教えを聞き、納得したけれども、仏から明確な授記を与えられなければ真の安心は得られないと言うのです。
 須田 ちなみに、三人の言葉の中で、釈尊が授記を与えることを「甘露をそそぐ」と譬えています。
 「甘露」は″不死″を意味する梵語「アムリタ」の訳で、天界にある″不老不死の妙薬″のことです。授記には、今世だけではなく、未来世にも及ぶ力があることが暗示されています。
 池田 生命の根底の不安を取り除き、絶対の安心を与える。授記には、こういう効果がある。授記という″仏の保証″によって、生命の根底に未来への深い確信が得られたのです。
 四大声聞が成仏するときの劫・国・名号を具体的にあげているのも、この確信を強めるためではないだろうか。
 斉藤 はい。「劫」すなわち成仏する時代の名前、「国」すなわち成仏する国土の名前、「名号」すなわち仏としての名前などが具体的に示されます。四大声聞への授記で言えば、次のようになります。
 ┌────┬───┬───┬─────────┐
 │弟子名 │ 劫 │ 国 │名号       │
 ├────┼───┼───┼─────────┤
 │迦葉  │大荘厳│光徳 │光明如来     │
 │須菩提 │有宝 │宝生 │名相如来     │
 │迦施延 │   │   │閻浮那提金光如来 │
 │目連  │喜満 │意楽 │多摩羅跋栴檀香如来│
 └────┴───┴───┴─────────┘
 釈尊は、弟子たちに威徳があるゆえに授記すると述べていますが、劫・国・名号には、弟子の長所・個性と何らかの関連があるように感じられます。
4  池田 そう。一人一人の人生のドラマが、そこには込められていると思う。
 須田 たとえば、最初の迦葉は、光明、光徳と、″光″という言葉が用いられています。
 「光明」という如来の名は、梵語では、″光の輝き″という意味あいがあります。「光徳」という国の名は″誉れある世界″″栄光にあふれる世界″という意味です。「大荘厳」という劫の名も″偉大なる輝かしい姿″という意味です。
 遠藤 迦葉は、名門の家柄でしたが、釈尊よりも早い時期に出家し、正しい法を求めて遍歴していました。やがて、釈尊に巡り会い、一目見るなり弟子となったと伝えられています。
 釈尊が自分より粗末な衣服を着ているので、自分の衣服を釈尊の使い古しと交換し、それをずっと身につけて、清貧の修行である頭陀行に徹したとされます。
 弟子たちの中には、粗末な衣服をまとった迦葉を疎んじた、心ない人々もいたようですが、釈尊は正反対でした。迦葉を「修行者の先輩」と仰いで自身と同じ高座に座らせ、「頭陀第一」と称賛しています。
 池田 最も地味な修行に徹する迦葉を、釈尊は″最も輝く人″と見ていたわけだね。
 斉藤 頭陀といえば、薬草喩品(第五章)の後半、鳩摩羅什訳にはない部分にある譬えでは、雪山(ヒマラヤ山脈)の薬草で盲目を治した人が、さらに頭陀行で「千里眼の神通力」を得たとされています。この譬えからも、頭陀行と光明との関連がうかがえます。
 池田 その頭陀行の功徳は、「法華経を信解する功徳」を譬えたものです。その功徳とは、未来にわたる″心の光明″を得ることです。それが人間としての″最高の栄光″でもある。
 頭陀とは、衣食住における″貪りを払いのける″修行です。仏の智慧の光にも″人生の苦悩の闇を払いのける″力がある。この仏のイメージを迦葉の長所と重ね合わせて「光明如来」と名づけたのかもしれない。
 大聖人も「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経の光明を謗法の闇冥あんみょうの中に指し出だす此れ即ち迦葉の光明如来なり」と仰せです。謗法の闇を払いのける妙法流布こそ、最高の頭陀行なのです。
 須田 次に、須菩提への授記では「宝」という言葉がキーワードになっています。国の名前の「宝生」は、文字どおり″宝を生み出すもの″という意味です。また劫の名前の「有宝」は″宝の輝き″という意味です。仏の名前である「名相」は、″名声の様相がある者″という意味です。
 遠藤 須菩提は、有名な「祗園精舎」を供養した須達(スダッタ)長者の甥です。祗園精舎の供養の際に、釈尊に出会って弟子になったとされます。
 また、出家してからもつねに布施を実践し、無諍第一(心に争いがない境地の人の第一人者)、被供養第一(供養を受けるにふさわしい人の第一人者)とされています。
 池田 布施の実践に優れていたことが「宝」のイメージにつながっているのかもしれないね。
 しかし、より根本的には、法華経で真実の「智慧の宝」「生命の宝」を得たことを象徴しているのでしょう。信解品(第四章)では、四大声聞が、自身の生命に仏界が具わっているという発見を「無上の宝聚を求めずしてみずから得たり」と喜んでいます。
 斉藤 それと関連するかもしれませんが、須菩提は、信解品の冒頭で「慧命須菩提」と呼ばれています。「慧命」とは「智慧を命とする人」という意味で、仏の別名でもある。また「生命力ある人」「長生きの人」という意味もあります。
 須菩提は智慧に優れていました。釈尊の弟子の中で。解空第一(空の法理を理解することの第一人者)とも言われます。空を説いた多くの般若経典で、釈尊の説法の相手となっています。
 とくに「大品般若経」等では、菩薩に対して、仏の完全な智慧(般若波羅蜜)を説くように命じられているほどです。
 池田 しかし須菩提自身は、まだ二乗の智慧にとどまっていた。人には説いたけれども、自分が仏の完全な智慧を求めようとはしていなかった。信解品では、そのことを反省している。
 そして法華経を聞いて、仏の智慧を得る道、つまり成仏の道に入ることができた。「無上の宝」を得ることができたのです。それで、仏界という生命の内なる「宝」を輝かせて、「名声高い仏」に成れると授記されたのではないだろうか。
5  須田 次に、迦旃延への授記では、劫、国については記されず、「閻浮那提金光」という名号だけがあります。これは″閻浮河から採れた砂金の輝き″という意味です。「閻浮河」とは、雪山の北側にあるとされた理想郷、閻浮の林を流れる河で、そこで採れた砂金は格別に美しく輝くとされていました。
 斉藤 迦旃延の肌は、金色に輝いて美しかったと伝えられています。恐らくは、このことを踏まえた名前だと思います。
 池田 慈悲と智慧によって、黄金のごとく輝く仏の人格を示す名前でしょう。
 こうして見ていくと、弟子たちの個性を踏まえて命名されていることが、わかってくるね。しかも、個性が仏の徳性として昇華されている。
 須田 最後は、目連です。「多摩羅跋栴檀香」という仏の名前は、でタマーラ樹の葉と、栴檀の木の香」という意味です。どちらも粉にして香料とされ、体にふったり塗ったりしました。また、祭火にくべて使うこともあります。
 「喜満」という劫の名前は″安らぎ・喜びに満ちあふれた″との意味です。また、「意楽」という国の名前は″心を楽しませるところ″を意味します。
 遠藤 この劫・国・名号は、目連が神通第一とされることに関係があるようです。彼には、数多くの神通のエピソードがありますが、そのなかで、しばしば壁画などに描かれている話があります。それは、梵天を敬服させ、釈尊に帰依させる話です。
 ──ある時、目連は、天高く梵天たちの住む所にまで上がり、火炎の中で禅定している姿を示す。そのまばゆい光は、世界の創造主とされていた梵天も経験したことがないほど明るかった。目連は「自分は釈尊の弟子だ」と名乗る。
 梵天は配下を使いに出して、「あなたのような偉大な神通をもった人が釈尊の弟子には多いのか」と問う。「多い」との答えを使いから聞いた梵天は、大歓喜を起こし、釈尊への帰依を誓います。娑婆世界の主である梵天が、大歓喜に包まれたのです。その喜びは、全世界に広がり、満ちたにちがいありません。
 池田 弟子が自身の姿を見せることによって、師匠の偉大さを教える。これほど師匠にとっても弟子にとっても、誉れあることはないでしょう。
 須田 「祭火まつりびにくべる香料の名」を目連が成仏した時の仏名としているのは、このエピソードでの″火炎″のイメージが踏まえられているのではないでしょうか。また、その輝きが全世界を喜ばしたので「喜満」「意楽」の劫名・国名が付けられたのだと推測できます。
 池田 大事なことは、自分の個性や人生経験を、すべて仏の徳性として輝かしていけるということです。信心している限り、むだなものは何一つない。これが法華経の大功徳です。
 いずれにしても、その人にぴったりの、すばらしい劫・国・名号を聞いて、本人も周囲の人も、「本当に自分が成仏できるのだ」「あの人が立派な仏になれるのだ」と実感できたのではないだろうか。授記を聞いた人々に歓喜の輪が広がっていったのも、そのためでしょう。
6  須田 それをうかがって、学会で行っている功労者の方々への表彰を思い起こしました。私が感動するのは、参加者の人たちが、表彰されている人を心から祝福していることです。そして、自分もあの人のように成長しょうと決意していることです。
 池田 皆の「代表」ですから、一人を顕彰することは、同じ道を進む人全員を顕彰することに通じる。とはいえ、せちがらい世の中で、同志の顕彰を喜び、さらには自分の目標にするというのは、実に尊いことです。こんな世界は、他にはないでしょう。
 これは、学会が強き信心の世界だからです。″称賛する心″は確信が生むのです。反対に、″嫉みの心″は、自信のなさが生む。
 斉藤 嫉みは、悪しき平等を求めます。″出る杭は打つ″式に他人の足をひっぱって、低いほうで横並びを求める。称賛の心は、正しい平等を求めます。″あの人もこの人も尊いそしてまた自分も″と、皆が平等に成長していく──それが仏法者の在り方だと思います。
 遠藤 法華経の世界が、そうですね。″すべての人が成仏できるのだ。その無上の道を、自分も″一緒に歩んでいこう──仏が一仏乗を明かすことによって、そういう世界が現出したのだと思います。
 池田 その通りです。「一仏果」とは、成仏という目的地へ向かって「間違いなき軌道を行く乗り物」に譬えられる。仏の慈悲を原動力とし、智慧を眼として走るから、正しい軌道を行けるのです。
 成仏への正しい軌道に入ることが、法華経の一仏乗を「信解」する功徳です。それを仏が保証するのが「授記」です。その授記が、さらに人々の歓喜を生み、確信を生むのです。そうやって、成仏への無上の軌道を歩む人の輪が広がっていくのが法華経の世界なのです。
7  授記の心──一切衆生皆成仏道
 遠藤 実際、法華経では、授記を受ける人の数が、どんどん拡大していきます。
 まず譬喩品(第三章)では、舎利弗一人に授記されます。それを見て歓喜の心を起こし、一仏乗を信解した四人の声聞が授記品(第六章)で授記を受けます。
 ついで五百弟子受記品(第八章)では、富楼那と五百人の比丘への授記が行われ、授学無学人記品(第九章)では、阿難及び羅喉羅と二千人もの弟子たちに授記されます。
 以上、方便品から人記品に至る一連の説法で、合わせて四回にわたり声聞の弟子への授記が行われます。
 須田 舎利弗一人から始まって、四大声聞、五百人の弟子、そして二千人の比丘へと次第に授記の対象が広がっているわけです。
 池田 次の法師品(第十章)では、さらに授記の対象が広がっていくね。
 遠藤 はい。人記品までは、授記の対象は声聞たちだけですが、この法師品では、″法華経の一句一渇を聞いて一念でも随喜の心を起こした人″すべてに授記されます。
 「一念随喜」だけが授記の条件とされ、天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩喉羅伽の八部衆も含め、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆、声聞、縁覚、菩薩というあらゆる衆生が授記の対象とされています。しかも、それは釈尊の在世だけではなく滅後の衆生にも及んでいます。
 池田 壮大な授記だね。生命が、ぐんぐん開けゆくドラマです。
 遠藤 法華経の授記はまだ続きます。すなわち、提婆達多品(第十二章)では、成仏できないと思われていた悪人の提婆達多への授記が行われます。
 また、勧持品(第十三章)では、女性への授記が具体的に説かれます。女性も法華経以前の諸経では成仏できないとされていました。
 池田 結局、法華経では一切の衆生に授記していることになる。法華経は「一切衆生皆成仏道」(すべての衆生が仏道を成就できる)の教えだということが、授記にも具体的に表れている。
 斉藤 授記には、「善道への授記」と「悪道への授記」があります。他の経では、提婆達多のような悪人に対しては堕地獄の授記はあっても、成仏の授記はありません。悪人に善道への授記がなされることもありますが、せいぜい辟支仏(縁覚)どまりです。
 また、二乗に対しては「永不成仏」、永遠に成仏できないとされています。このように諸経は「差別の授記」です。
 池田 法華経は「万人への授記」であり、「平等の授記」です。他経では成仏できないとされた二乗・悪人・女人を含めて、すべての人に成仏の授記がなされている。
 その授記の要件は「信解」です。法師品で言えば「一念随喜」です。この、いわば″エンジン″によって、成仏の「軌道」に入り、「軌道」を前進するのです。
 遠藤 天台大師は、法華経の授記の他経にない特徴について、次のように述べています。
 「他経では、ただ菩薩に授記するだけであって、二乗には授記していない。ただ善人に授記するだけであって、悪人には授記しない。ただ男性に授記するだけであって、女性に授記しない。人界、天界の衆生に授記するだけであって、畜生には授記しない。法華経では、皆に授記している」(『法華文句』趣意)と。
 「万人への授記」が、法華経の心なのですね。
 須田 それなのに、どうして声聞への授記が中心になっているのかという点について、天台大師は『法華玄義』でこう述べています。
 「法理は具体的な物事に託してはっきりと彰すものである。具体的な物事は言葉でもってはっきりと弁えるものである。法華経の中で、声聞に対して記別を授けるというのは、一切の衆生が皆、成仏できるということを彰している」(趣意)と。つまり、万人の成仏という法理を、具体的に声聞に即して、はっきり述べたのである、と。
 最も成仏から遠いと思われている声聞にさえも成仏の授記が与えられるのですから、万人に成仏の授記が与えられるのも不思議ではないことになります。
 池田 「あらゆる人を成仏させる」というのが、法華経の「授記の心」です。この心をそのまま実践したのが不軽菩薩ではないだろうか。彼は、いかなる人も将来、仏になる人であるから尊敬すると言って、すべての人を礼拝しました。
 斉藤 その時、不軽が唱えた言葉は、まさに授記の言葉ですね。
 いわゆる「二十四文字の法華経」です。
 「我れ深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経五五七ページ)
 これに対して、礼拝された人々は不軽菩薩を軽んじて、″お前のような無智な者からの虚妄の授記などいらない″などと悪口・罵詈し、迫害しました。
8  万人を成仏への確かなる軌道へ
 遠藤 天台は、法華経の授記を三因仏性に当てはめ、不軽菩薩の授記は″正因仏性の授記″であるとしています。
 三因仏性とは、正因、縁因、了因の三つです。正因とは、すべての人にある仏界の生命です。了因とは、その仏界を涌現させる智慧です。緑因とは、その智慧を現すための善根、修行です。
 この三つが成仏の原因になります。天台によると、法華経における声聞への授記は″了因仏性の授記″に当たります。
 また、法師品の十種供養など、仏を賛嘆する信仰実践によって成仏できると説くことを″縁因仏性の授記″としています。(十種供養とは、(1)華(2)香(3)瓔洛〈玉をつないだ首飾り〉(4)抹香〈粉にした香〉(5)塗香〈香を手や身に塗って行者の身を清めること〉(6)焼香〈香をたくこと〉(7)繪葢〈絹のかさ〉(8)幢旛〈仏堂に飾る旛〉(9)衣服(10)伎楽〈音楽〉の供養。繪蓋と幢旛をあわせて一種とし、合掌と加えて十種とする説もある)
 そして、不軽菩薩があらゆる人々に仏性を見いだし、礼拝したことが。″正因仏性の授記″です。
 斉藤 正因仏性の授記は、自身の内なる仏界に気づかせることですね。
 池田 そう。正因仏性とは、要するに心そのもの、生命そのものです。その偉大な可能性に気づかせるのが正因仏性の授記であろう。
 分かりやすく言えば、あらゆる人々に″あなたも必ず最高に幸せになれる″と、言い切っていくことです。苦悩の闇の中で諦めきった人々に希望を与え、挑戦する心を蘇らせることです。また、停滞し、行き詰まった社会にあって、「人間には、すべての難問を解決する無限の可能性がある」と主張することです。
 どの人も妙法の当体です。人間であることが尊いのです。それを身をもって示したのが不軽菩薩の礼拝行です。
 大聖人は、この不軽菩薩の実践とご自身の実践は同じであると言われている。南無妙法蓮華経と唱え、弘めるのは「末法における授記」なのです。大聖人は「記とは南無妙法蓮華経なり」と仰せです。
 この南無妙法蓮華経の授記について、大聖人は「妙法の授記なるが故に法界の授記なり」と仰せです。法界の授記とは、十法界(十界)すべてに対する授記ということです。十界のいかなる衆生も妙法の当体であるとはっきり示すのが、南無妙法蓮華経の授記なのです。
 たとえ地獄界にあっても妙法の当体であるから必ず成仏できる──そのように授記していくのです。これが法華経の「万人への授記」「平等の授記」の究極です。
 そして大聖人の仏法は下種仏法です。その「授記」、つまり南無妙法蓮華経の記を授けるとは、妙法を下種することであり、妙法と結縁させることです。人々の生命の奥底に、自分は妙法の当体であるとの自覚を植えつけることです。それは、生命の無限の可能性を言い切っていくことでもある。
 また、南無妙法蓮華経は、幸福と平和の種子です。南無妙法蓮華経の授記とは、人類を幸福と平和への「間違いなき軌道」に乗せていくのです。すべての衆生は妙法の当体であるとの深い生命観、人間観が根づいていけば、人類は、その「間違いなき軌道」を歩むことができるにちがいない。
 ともあれ、成仏とは「ゴール」のようで「ゴール」ではない。絶対の「軌道」です。永遠に向上、永遠に充実、永遠に遊楽へと進んでいける「希望」そのものです。法華経の「未来成仏」も、永遠に「未来へ」「未来へ」もっと成長していこう、もっと人を救つていこうという、現当二世の心を教えているのではないだろうか。
9  遠藤 成仏が、そこから先は何もない「完成」だったら、かえって、つまらないでしょうね(笑い)。
 池田 成仏の「軌道」に入れば、そこで出あう嵐も、吹雪も、木枯らしも、もちろん春風も、青空も、太陽も、すべて心から楽しみきっていける。
 「生」も楽しい、「死」も楽しいという無上の境涯。その永遠の充実、永遠の希望を約束する「軌道」なのです。「一生成仏」「即身成仏」の、限りない連続とも言える。
 遠藤 その究極が「難来るを以て安楽と意得可きなり」との大聖人のご境涯ですね。
 池田 そうだと思う。「三類の強敵」「三障四魔」。これらの難は、「あなたの進む道に間違いはありませんよ」「これを乗り越えれば必ず仏になれますよ」という最高の保証です。
 難があるから今、進んでいる広布の道が正しいとわかる。生々世々、仏の軌道に入っていくと確信できる。最高の励みです。
 ゆえに信心の眼でみれば、「難」もまた「授記」なのです。仏道修行の″卒業試験″とも言えるだろう。「三類の強敵」が競い起こった時こそ、じつは、成仏の「軌道」に入るチャンスなのです。入れば、永遠に仏です。
 斉藤 これまで、漠然としていた「授記」の深い意味が明快になりました。
 池田 人類にとって、正しき「軌道」が必要です。
 「われわれは、曲がりくねった道を無謀な速度で車を運転しており、いまにも大惨事を招く危険を冒しています」(「二十一世紀への警鐘」『池田大作全集』4収録)と。
 十年ほど前にペッチェイ博士(ローマクラブの創設者)と語り合った際、博士と私の現代文明の危機をこう指摘されました。
 私も「怖さを知らない若者が、速度を増せば増すほど喜んで、自動車のアクセルを強く踏むようなものです」(同前)と率直に申し上げ、博士と私の認識は一致しました。
 遠藤 われわれは、どこへ向かっているのか。どこへ向かうべきなのか。「確たる軌道」がないまま、予測できない暗闇に向かって、今も暴走し続けている。それが現代の人類なんですね。
 池田 博士と語り合った十年前から、状況は一向に良くなっていない。良く変えようという「気力」さえ、ますます失われてきている昨今ではないか、と私は憂える。
 斉藤 原因は、やはり、人間を″置き去り″にしてきたからではないでしょうか。
 機械は進歩した。性能もアップした。スピードも増した。それらの粋を集めて文明社会という″車″をつくったのに、運転する「人間」自身が未熟なままなのです。だから、子どもが車を暴走させて喜ぶような状態になっている……。
 池田 その通りです。どうすれば、暴走を減速させ、人類を正しい方向に向かわせることができるか。「人間革命しかない」。これが博士と私の結論であった。
 「人間自身」が、変わらねばならない。「正しい方向を目指す人間」をつくろう。そうした人間が社会に広がれば、社会の方向も変えられるはずだ、と。
 博士は言われた。「人間革命こそが、新しい進路の選択と、人類の幸福の回復を可能にする積極的な行動の鍵なのです」(同前)と。
 「正しい方向を目指す人間」を開発するのが仏法です。「正しい方向」とは「自他ともに幸福になる」ことでしょう。その方向への「確かなる軌道」へ、自分も入り、人をも入らせていく──この″生命の触発作業″が、「人間革命」の運動です。また仏法を基調にした平和・文化・教育運動です。これらは広い意味で、法華経の「授記」の精神に通じている。
10  座談会は楽しき「授記の広場」
 須田 そうしますと、座談会のもつ意義は、ますます大きいですね。座談会こそ「人間革命の広場」「生命の触発作業の最前線(フロンティア)」ですから。
 池田 そこです、強調したいのは。
 牧口先生は「大善生活実験証明座談会」と名づけました。「大善生活実験証明」とは、妙法を根幹にした「信心即生活」の素晴らしさ、社会と人々に尽くす「人間革命」の生き方を、だれにも納得できるよう、事実の姿で示そうということです。学会の座談会は、その発祥の時点から、広々と民衆に開かれている。
 遠藤 学会が何をしているか、なぜ発展したかを知りたければ、続けて座談会に出て研究すればいいんですね。「実験はうまくいってますか──」と。(笑い)
 池田 学会の座談会は、社会に「智慧」と「活力」を送る草の根の広場です。
 功徳の体験を聞いて決意する。「よくぞ戦い、よくぞ打ち勝ったな。そうだ、私も宿命転換できるのだ。私も頑張ろう!」。
 奮闘する友をたたえる。「この人のように、この人を模範に、私たちも成長しようではないか」と。
 それが一生成仏への励みになり、広布への使命感を呼び起こす。これこそ、授記と同じ効果でしょう。その意味で、座談会は、仏子に励まされ、仏子を励ましゆく「授記の広場」とさえ言えるのではないだろうか。
 須田 さきほどの、広布功労の同志への顕彰も、同じ意義ですね。
 池田 そう。″たたえる″心が″たたえられる″自分をつくるのです。もう一つ言っておこう。
 牧口先生が逮捕(一九四三年七月六日)されたのは、座談会に出席するために訪れた伊豆の下田であった。そのころ、座談会は特高刑事が監視するなかで開かれ、神札問題等で何度も圧迫を受けながら、先生は一歩も退かれなかった。座談会は、権力に対する精神闘争の熾烈な″戦場″でもあったのです。
 また大聖人の宗教改革の闘争も、今の「座談会」とも言うべき対話の集いから始まったと見ることができる。
 斉藤 大聖人ご流罪中、門下の人々は、大聖人からのお手紙を寄り合って読み、大難を乗り越えていきました。その励まし合いの集いも、座談会だと思います。
 池田 このように座談会の「伝統」には、大聖人以来、牧口先生、戸田先生以来の「偉大なる闘争の精神」が込められている。その精神を満々とみなぎらせて、一回一回の座談会を、楽しく、明るく開きゆく意義は、どれほど大きいか。
 道なき現代に、人類の幸福への「確固たる軌道」を切り開いていく。この生き抜く「強さ」「明るさ」を、大座談会運動から脈動させたいのです。
 「あなたの心」へ! 「あの友の心」へ!──と。

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