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日蓮大聖人・池田大作

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薬草喩品(第五章) 個性を伸ばす「智慧…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  三草二木の譬え
 斉藤 はい。まず、薬草喩品の位置付けについて見ておきたいと思います。
 先の信解品(第四章)では、迦葉の四大声聞(迦葉・須菩提・迦旃延・目犍連〈目連〉)が釈尊の説法(譬喩品〈第三章〉の三車火宅の譬え)を理解したことを、「長者窮子の譬え」をもって示しました。
 薬草喩品では、それを聞いた釈尊が、「すばらしい。すばらしい。迦葉よ。巧みに如来の真実の功徳を説いた」(法華経二四〇ページ、趣旨)とたたえ、四大声聞の理解が正しいことを承認します。
 そのうえで、釈尊は「如来の功徳は、あなたたちがいかに説いても、説き尽くすことはできない」(法華経二四〇ページ、趣旨)と述べ、さらに「三草二木の譬え」を説くのです。
 言うなれば、薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。この説法を天台は「述成」と位置付けています。
 そして、これを受けて、次の授記品(第六章)では、四大声聞の一人一人に、未来に必ず成仏するとの「授記」が与えられるわけです。一人一人が、いつ(劫)、どこで(国)、何という名(名号)の如来に成るかが具体的に示されています。
 遠藤 「釈尊の説法→四大声聞の領解→釈尊の述成→四大声聞への授記」という順に展開されています。これは、先の方便品(第二章)の説法から始まる舎利弗の場合や、後の化城喩品(第七章)の説法から始まる富楼那等の場合も、同じ手順で授記に至っています。
 池田 この「師弟の交流」「師弟の一体」に成仏のカギがある。
 授記の意義については後に考察するとして、何のために「述成」があるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、「成仏に至る菩薩道に間違いなく入った」ことをはっきりさせるためです。
 遠藤 たしかに、薬草喩品の末尾には、「汝等が所行は是れ菩薩の道なり漸漸に修学して悉く当に成仏すべし」(法華経二五五ページ)とあります。
 斉藤 それが、後に一人一人の声聞に授記を与える「前提」になっているのですね。
 池田 そう。「間違いなく成仏への道に入った」ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです。その功徳をさらにくわしく説いたのが、薬草喩品の「三草二木の譬え」です。
3  須田 それでは、譬えのあらましを述べてみたいと思います。(法華経二四一ページ)
 ──三千大千世界(全宇宙)にある山や川、渓谷や大地に、多くの樹木や薬草が生えているとします。それらは、さまざまな種類があり、それぞれ名前や形も異なっています。
 譬えでは、このように多種多様の草木を、一応、上・中・下(大・中・小)の薬草と、大・小の樹木に立てわけています。それで「三草二木」と言います。
 そのようなところへ、厚い雲が空いっぱいに広がり、あまねく世界を覆い、雨となって降り注ぎます。そして、多くの樹木や薬草をあまねく潤します。雨は平等に降り注ぎますが、草木は、それぞれの性質にしたがって生長し、異なった花を咲かせ、異なった実が成ります。
 同じ大地に生育し、同じ雨に潤されても、多くの草木にはそれぞれ差別がある──と説れています。
 遠藤 厚い雲は「仏」を譬え、雲が起こって空を覆うのは「仏の出現」を譬えています。また、平等の雨とは「仏の説法」であり、「法雨」とも呼ばれています。種々の草木は「衆生」で、草木が雨を受けるのは「聞法」(法を聞くこと)です。
 そして、草木が生長し、花を咲かせ、実を成らせていくのは「修行」や「功徳」を譬えていると言えます。
 また、三草のうち「小の薬草」は人界・天界を譬え、「中の薬草」は声聞・縁覚を譬えています。「上の薬草」と、二木に当たる「小樹」と「大樹」は、いずれも成仏を目指す菩薩を譬えていると説かれています。
 須田 「上の薬草」「小樹」「大樹」はともに菩薩を譬えているわけですが、それをどう立てわけるかについては、古くからさまざまな解釈がなされています。たとえば天台は、「上の薬草」は蔵教の菩薩、「小樹」は通教の菩薩、「大樹」は別教の菩薩であると解釈しています。
 斉藤 雲から雨が「等しく」降り注ぐということは、如来の説法が「一相一味」であることを意味しているとされます。「一相一味」とは、究極的には、いかなる衆生をも等しく成仏させるという功徳があるということです。つまり「一仏乗」のことです。
 池田 しかし、それは仏の側から見た本質であって、衆生の側からは、この功徳はわからない。
 草木の性質や大小によって、受け止める雨の量や効用が違うように、仏はただ一仏乗を説いているのに、衆生の受け止め方が違うのです。衆生が受け止める教えがいわゆる「三乗」(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)です。
 須田 結局、三草二木の譬えも、前の二つの譬え(三車火宅と長者窮子)と同様、やはり「開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕す)」を表現しているわけです。
 つまり、一つには、仏がなぜ三乗などの教えを説いてきたかを明かしている。それは、仏の教えを受け止める衆生の能力・資質に種々の違いがあったために、それに合わせて種々の教えが説かれたということを示しているわけです。
 もう一つには、仏の教えはさまざまであるが、本質は一仏乗であり、雨のように一味平等であるということを明かしています。
4  池田 法華経の譬喩の巧みさには、いつも感心させられるね。香港で対談を開始した金庸氏(現代中国の代表的な人気作家)は、法華経は釈尊と弟子たちの「対話の記録」であり、巧みな譬喩を駆使した「大文学」であると語られていた。(=その後、金庸氏と名誉会長とは対談集『旭日の世紀を求めて』を発刊)
 須田 氏は仏教、なかんずく法華経に傾倒されているようですね。
 池田 実によく勉強されています。氏の作品に「天龍八部」という小説があるけれども、これは、法華経の提婆達多品(第十二章)の経文がタイトルになっている。この天龍八部とは、天、龍、夜叉等々のことで、序品(第一章ですでに列挙された法華経の聴衆です。
 遠藤 人間以外の八種の衆生ですね。
 池田 そう。小説の舞台は、北宋時代の大理国という仏教国です。「天龍八部」という題名は、八種の衆生に、登場人物たちの個性を象徴させている、といわれている。
 須田 対談(「聖教新聞」一九九五年十一月十八日付け)の記事を読んで、先生が金庸氏に「ヒロシマ 平和祈願の碑」の碑銘を書いてくださるよう提案された場面に感動しました。
 池田 快く引き受けてくださって、うれしかった。氏は、一貫して反核の論陣を張ってこられた「平和のペン」の闘士です。いろいろ考えた末に、碑銘の筆は、金庸氏にこそお願いするのがふさわしいと思ったのです。
 その後、氏は、法華経を読みながら、連日、書の練習をされているという。法華経の平和の心を込めて書けるようにと言っておられた。
 斉藤 すばらしい話です。結局、東洋文明の心を追求していくと、「法華経」に至りますね。
5  ″衆生の多様性″を強調
 池田 そうだね。法華経という「大宗教文学」のなかでも、三草二木の譬えには独自のおもしろさがあります。それは、″衆生の多様性″を強調していることです。これは法華経の七譬の中では唯一です。また、それによって、同時に″仏の慈悲の平等性″が浮き彫りにされているのです。
 仏の慈悲は、完全に平等であり、差別はない。一切の衆生を″我が子″と見て、自分と同じ仏の境涯へと高めようとしている。
 それは「衆生に差異がない」からではない。「仏が衆生を差別しない」のです。むしろ仏は、衆生の違いを十分に認めている。衆生の「個性」を尊重し、自分らしさを存分に発揮することを望んでいる。
 衆生に違いがあるからといって、偏愛したり、憎んだりしない。個性を愛し、個性を喜び、個性を生かそうとする──それが仏の慈悲であり智慧です。
 須田 薬草喩品にはこう説かれています。
 「我一切を観ること普く皆平等にして彼此愛憎の心有ること無し我貪著無く亦限礙無し恒に一切の為に平等に法を説く一人の為にするが如く衆多の為にも亦然なり」(法華経二五〇ページ)
 仏はつねに、すべてのもののために平等に法を説く。彼と此れとわけ隔てる心や、愛憎の心などもなく、まさに一人のために説くように、多くの人々に説くのだ──と。
 池田 大事なことは「人間の多様性を認めるところから、仏の説法が出発している」という点です。
 状況も違う、個性も違う、機根も違う具体的な一人一人をどうすれば成仏させることができるか。個々の人間という「現実」から一歩も離れずに、成仏への道筋を明かすのが法華経です。
 ″一人を大切に″こそ、法華経の「人間主義」であり、「ヒューマニズム」なのです。それが「仏の心」です。″一切衆生の成仏″という法華経の根本目的も、″一人を大切に″から出発し、そこを徹底させる以外にないのです。
 抽象的な「人間愛」や「人類愛」なら簡単です。現実の個々の人間への慈愛はむずかしい。
 ドストエフスキーは「人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまり独立した人格としての個々別々の人間を愛することが少なくなる」(『カラマーゾフの兄弟1』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』10、筑摩書房)、「抽象的に人類を愛するということは、ほとんど例外なく自分ひとりを愛することになる」(『白痴』小沼文彦訳、同全集)と言っている。
 創価学会は、具体的な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福するために戦ってきた。これは人類史に燦然と残る崇高な歴史です。
6  遠藤 まさに法華経は、他のどこにあるのでもない、「今、ここに」ある、創価学会にあるのですね。
 ところで、どうして、そういうかけがえのない衆生を「草木」で譬えているのでしょうか。いま一歩、わかりにくい面があります。
 池田 そうだね。仏を「雲」に譬えているのもそうだが、インドの気候や文化を考えないと、わかりにくいかもしれない。
 須田 インドの気候は、乾期・熱期・雨期とわけられますが、雨期は約四ヵ月間ですから、逆に八ヵ月間は雨が降らないわけです。
 それだけに、インドの人々にとっては、雨は待望の雨というか、文字通り恵みの雨です。そのためか、薬草喩品の「法雨」のように、衆生の心を潤す仏法を雨に譬える例は仏典に多く見られます。
 遠藤 インドでは、雨が降ると″天気がよい″と言うそうです。
 四年前(一九九二年二月六日)に、池田先生のインド訪問に同行させていただきましたが、先生が到着された日は、あいにくの雨でした。しかし、現地の方々は「インドでは、賓客を迎える時には雨が降るとされています」と言って、大変に喜んでおられた。ちょっとしたカルチャー・ショックでした(笑い)。
 斉藤 日本人は、つい″あいにくの雨″と言ってしまいますね(笑い)。
 仏を大雲に響えることは、インドの文化的・宗教的背景からもうなずけます。インドラという神は、仏教以前からインド人に最も親しまれ、尊敬されていました。この神は、雨を降らす神であり、また雷神でした。そのイメージをうまく使っていると考えられます。薬草喩品には「慧雲は潤いを含み、電光がきらめき、雷声が遠くとどろいて、衆生を喜ばせた」(法華経二四七ページ、趣意)とあります。
 池田 雷声とは、衆生を救おうとする慈悲の「大音声」だね。雲が大空を覆って、雨を降らすのは、まさに、すべての人間を慈しみ守る仏を譬えるのにふさわしいことがわかる。
 いずれにしても、文化・歴史・地理といったさまざまな違いを知ることがいかに大切か。たとえば、″水の信心″″火の信心″といっても、通じない国もある。日本ではこうだから、というだけでは、世界の人々の納得は得られない。どうすれば異なった人々に理解してもらえるかに心を砕くのが仏法です。独善になっては仏法の魂はない。
 衆生を草木に譬えることにしても、インドでは、雨の降らない時期が長いだけに、草木を育てるのに手がかかるのです。また、その分、非常に草木を大事にする。仏が手をかけて成仏へと導く大切な衆生だからこそ草木に譬えているのでしょう。
 遠藤 竜樹の「大智度論」では、不惜身命(身命を惜しまず)で法を供養することを「草木を断つが如し」と譬えています。こうした表現にも、草木を″命あるもの″″自分の命と同じくらい大切なもの″として尊ぶ心がうかがえます。
7  「無常の安楽の薬」
 須田 そもそも薬草喩品は、なぜ「薬草の喩え」というタイトルなのか。こういう疑問が出てきますね。「三草二木」の「三草」は、たしかに「薬草」のことなのですが、経文で、「薬草」という言葉は、卉木、草木、叢林、大小の諸樹、あるいは大樹、小樹などと並べて説かれています。別に″樹木の喩え″でも″草木の喩え″でもよさそうなのですが。
 池田 その通りだね。じつは、サンスクリット語(古代インドの文章語。梵語)の法華経の薬草喩品にあたる章には、鳩摩羅什訳にはない部分がある。この部分は、羅什以外の漢訳にもあるようだ。
 斉藤 はい。かなり長いものです。この部分では、「薬草」に、より焦点が当たっています。
 池田 そう。そこには山の王者である雪山からとれる四種類の薬草について展開されている。雪山とは、ヒマラヤです。
 ネパール王国でヒマラヤを見たが、大雪山は、まさに王者の風格であった。一切に勝利した人間のごとき堂々たる威風があった。まさに人間の最高峰・釈尊の故郷にふさわしいと思った。
 サンスクリット語の薬草喩品には、生まれつき目の見えない男を治療するために、一人の医師が、ヒマラヤヘ薬草を探しにいく物語が説かれているのです。
 斉藤 はい。「山の王者の雪山〔ヒマーラヤ山〕には四種の薬草がある」(中村瑞隆著『現代語訳法華経上』春秋社)という言葉があります。
 すなわち、ヒマラヤにある四種の薬草とは、(1)一切の色と味の要因を貯えている(2)一切の病気を治療する(3)一切の毒を消す(4)それぞれの病状に応じて安楽を与える、と名づけられる。
 薬草のおかげで、この男は目が見えるようになり、喜ぶのですが、世の中のすべてが、わかったかのように錯覚してしまうんですね。
 池田 そう。目が見えないとは、六道の苦悩の闇に沈んでいる状態を譬えている。治療後は、六道の流転を脱した状態。このなかには、声聞の悟りに満足している者もいる。縁覚の境地に安住する者もいる。
 しかし物語は、無上の悟り、すなわち仏の境界をこそ目指すべきだと教えている。
 須田 すると、この「医師」は、「仏」を譬えているのですね。
 池田 そう。寿量品(第十六章)にも仏を「良医」とする譬えがあります。仏は「生命の医師」「人生の名医」なのです。
 また「薬」という字は、草かんむりに「楽」と書く。生命の病を癒し、安楽を与えるのが薬です。もちろん字の由来は別にあるわけだが。
 遠藤 大事なのは、何ものにも揺るがない、無上の安楽の薬は何かということですね。
 池田 そうです。大聖人は「薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり」と仰せです。
 また「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん」と仰せです。すべての人を、根本から救い切る秘薬が、南無妙法蓮華経なのです。この一点に「薬草喩品」の肝心要があります。
8  一切種智の意義──智慧即慈悲
 斉藤 仏は、衆生の違いを知りつつ、平等の一仏乗を説くわけですが、薬草喩品では、こういう智慧をもった仏を「一切知者」と呼んでいます。また、その仏の智慧である「一切種智」を強調しています。
 池田 「一切知者」であるがゆえに、仏はあらゆる法を説くことができ、いかなる衆生をも導けるのです。しかも、ほかならぬ自分と同じ「一切智地」(一切知者の位)、つまり仏の境涯に至らせるように衆生を育てるのです。
 遠藤 「一切を知る」というと、キリスト教の神の「全智」を思い起こしますが、違いをどう説明したらよいのでしょうか。
 池田 キリスト教の場合は、創造神の完全な知恵を全智といっているようだ。万物は神によって創造されたものであるから、神は一切を知っていると言うのです。
 仏の一切知はそういうものではありません。さまざまな解釈があるが、私は、あくまでも衆生を救おうとする慈悲ゆえに、その衆生のことや説くべき法を知り尽くす智慧が、仏の一切知であると思う。いわば「慈悲と一体の智慧」です。
 その点から、「ミリンダ王の問い」という仏典に説かれている解釈に心引かれる。それは、仏は知りたいものに「傾注」するゆえに一切を知ることができるというものです。あらかじめ全部を知っているというのではないのです。しかし、仏は自分自身の生命の実相を知っていますから、衆生の一人一人に「心を傾ければ」、その衆生が何を考え、何に苦しんでいるか、また何を教えれば成仏の道を歩めるかなど、衆生を救うための一切がわかるのです。
 慈悲ゆえに衆生に心を傾け注ぐのです。苦しんでいる衆生を救わずにはおくものかという心です。親が我が子を必死に守るように衆生を慈しむ心です。そこに無限の智慧がわき起こつてくる。それが仏の一切知であると思う。
 斉藤 納得できます。「スッタニパータ」という経典では、「究極の理想に通じた人」がなすべきこととして、釈尊がこう説いています。
 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」「また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし」(『ブツダのことば──スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫)
 池田 本当の悟りを得た人は、その悟りに閉じこもらずに、一切の人々の幸福と全世界の安穏を願う無量の慈しみの心を起こすのです。そうでなければ真の悟りではないのです。
 ゆえに、修行者が低い悟りにとどまったり、誤った悟りに陥らないように、釈尊はこのような言葉を指標として残したのでしょう。
 仏の真の悟り、真の智慧は、無量の慈悲と一体なのです。この「智慧即慈悲」「慈悲即智慧」を、法華経では「一切種智」と呼んでいるのではないだろうか。
9  遠藤 そうしますと、薬草喩品の「我は是れ一切知者、一切見者、知道者、開道者、説道者なり」(法華経二四三ページ)との経文も「智慧即慈悲」を示唆していると考えられます。
 「一切知者」である仏は、同時に、道を知り、道を開き、道を説く者だとされているのです。
 池田 そう。仏法の指導者は、「知道者」「開道者」「説道者」でなければならない。「身(開道)」「口(説道)」「意(知道)」の三業すべてで、広宣流布を切り開いていくのです。
 須田 「一切知者」について、天台は一心に三智を具えた人であると解釈しています。三智とは一切智、道種智、一切種智の三つです。
 このうち一切智とは、空諦を知る智慧です。つまり、すべてのものの本性は平等に「空」「無常」であると知る智慧です。これは、二乗の智慧であり、空智ともいいます。
 道種智は、仮諦を知る智慧です。あらゆる存在の本性が平等に空であることを踏まえたうえで、かりに成り立っている個々の存在の多様性を知る菩薩の智慧です。菩薩は現実の中で人を救わなければならないので、この智慧が必要です。
 そして、一切種智とは、一切智と道種智を兼ね備え、自在に正しく使っていける仏の智慧であり、中道の智慧です。
 これら三智が、私たちの生命に円満に具足することを天台は「一心三智」と呼び、修行によって実現すべき境地としました。この天台の捉え方においても、仏の智慧とは衆生を救う慈悲と一体であることがわかります。
 池田 どんなに「自分は悟っている」と言ってみても、振る舞いが無慈悲であれば、ウソなのです。智慧は見えない。その見えない智慧を推し量る目安は行動です。仏の出世の本懐はどこまでも「振る舞い」なのです。
 須田 日顕など、「振る舞い」の「無慈悲」を見れば、全く「智慧がない」ことがあまりにも明らかですね。
 池田 智慧即慈悲の「一切種智」とは、自身の生命の根源を究めた仏の智慧です。
 若き日に愛読した三木清の『人生論ノート』には「自己を知ることはやがて他人を知ることである」(『三木清全集』1,岩波書店)とあった。
 自分を見つめ、境涯を高めた分だけ、他の人々への理解が深まる。高き境涯の人とは、他の人々の個性を認め、大切にできる人です。智慧ある人は、他の人を生かそうとするのです。
 智慧があるように見えても無慈悲であれば、人を生かすことはできない。それどころか、ともすれば冷酷な邪智になり、人を傷つける。それは本当の智慧ではない。
 生命は十界互具であり、一念三千です。本来、「多様」なのです。三千すなわち全宇宙が、一念に具わっているのです。その実相を自分自身の生命に覚知した仏には、いかなる衆生をも、自分の生命のように、また我が子のように大切にしたいという心が自ずと現れるのです。全世界、全宇宙を安穏にしたいという心が、わいてくるのです。これが慈悲であり、慈悲は仏の智慧と一体なのです。
 その心を釈尊は薬草喩品でこう説いている。
 「いまだ救われていない者は救っていこう。いまだ理解していない者には理解させよう。いまだ安穏でない老は安穏にしていこう」(法華経二四二ページ、趣意)
 「一切の枯れしぼんだ衆生を潤して、みな苦を離れさせ、安穏の楽、世間の楽、そして涅槃の楽を得させていこう」(法華経二四九ページ、趣意)
 一仏乗の実体は、この智者即慈悲の仏の大境涯そのものとは言えまいか。それを薬草喩品では、大雪と平等の雨で譬えているのです。
 多様な草木を等しく潤す雨について同品には「等雨法雨(等しく法雨を雨して)」(法華経二五一ページ)とある。
 これについて日蓮大聖人は、「ひとしく法の雨をふらす」と読む時は「釈迦如来の平等の慈悲」を指し、「ひとしき法の雨ふりたり」と読む時は「平等大慧の妙法蓮華経」を指していると言われている)。
10  繚乱たる「人華」広がる世紀へ
 斉藤 多様な個性の人々を等しく潤すのは、智慧即慈悲の大境涯なのですね。
 池田 そうです。師匠である仏の慈悲に潤されるのです。そして自身も慈悲の当体として成長するのです。人間を潤すのは人間です。生命を潤すのは生命です。
 薬草喩品の最後には「仏の説きたまう所の法は、譬えば大雲の一味の雨を以って 人華を潤して 各実を成ずることを得せしむるが如し」(法華経二五四ページ)とあります。
 私は、この「人華」という言葉が好きです。個性を持った一人一人の人間の開花というイメージが強く出ています。
 釈尊には、どの人も桜海桃李の果実を実らせる、色とりどりの花のごとく見えたのではないだろうか。その「心」を薬草喩品では学びたい。
 これは「多様性の調和」という二十一世紀の根本問題に直接、かかわってくる。多様な民族・文化が、その多様さを尊重しつつ、同じ「人間」「生命」という次元で連帯していく。それなくして人類の未来はない。多様性が世界に「対立」をもたらすのではなく、「豊かさ」をもたらすようにしなければならないのです。
 そのカギが法華経の人間主義にある。その具体化は「慈愛の人格」です。
 ガンジーが、インドの独立運動で、あれほど多くの民衆を動かせたのはなぜか。私は、その根本の要因は、ガンジーの人格にあったと思う。真理に生き、戦い抜いて、磨かれたガンジーの人格が、民衆の心を潤したのです。
 象徴的なエピソードとして、以前(一九九四年八月、北海道研修道場で)にも語ったことがあるが、ふたたびここでふれておきたい。(青年部主催の講演会〈「マハートマ・ガンディーにみる政治と宗教」〉で孔子の森本達雄氏が紹介〈「聖教新聞」九四年七月五日付けに掲載〉)
 「ある重大な会議を前にガンジーは着席していた。しかし、何かそわそわした様子で、あたりを見回したり、机の下をのぞいたりしていた。
 『何か、おさがしですか』ある人がと聞くと、ガンジーは『鉛筆をさがしているのだ』。それではと、その人はガンジーに自分の鉛筆を渡した。
 すると『その鉛筆は、私のさがしている鉛筆ではない』。これから大事な会合が始まろうというときに、どうしてこんな小さなことにこだわるのかと不思議だった。
 『どうして、この鉛筆ではいけないのですか』『その鉛筆ではだめだ』
 ガンジーはつよく言った。
 しかたがないので一緒に机の下をさがした。やっと見つかったのは、三センチほどの、ちびた鉛筆だった。
 ガンジーは説明した。
 「私が以前、独立運動を呼びかけ、援助を求めて覚知を演説して回っていたとき、ある会場で一人の少年が、この鉛筆を寄付してくれた。
 子どもにとって大事な鉛筆を、独立運動のために差し出してくれたのだ。そんな一人一人の国民の『思い』を忘れて、私の政治活動はありえない。
 こうした一人の少年の『心』を忘れて、いくら政治を論じたところで、それは空論にすぎないだろう。この気持ちを私は捨てることができないのだ」
 彼にとって、ちびた鉛筆は鉛筆ではなかった。美しい「心」そのものだった。だから捨てられなかったのです。
 人々から「マハトマ(偉大な魂)」と尊敬されていたガンジーが、一方では「バプー(お父さん)」と呼ばれて親しまれていた秘密が、このあたりにあるのではないだろうか。
 私も会員の真心がこもったものは紙一枚、むだにはしません。日蓮大聖人は、真心の白米を供養された時、こう教えてくださっています。「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」と。
 本当の人間の世界においては、物であっても物ではない。命であり、心なのです。いわんや人間自身は、最高にかけがえのない存在です。
 斉藤 ガンジーには、民衆への無限の信頼があったと思います。「一人に可能なことは万人に可能である」(クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな──ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)という信念で、あの「非暴力」の理想を説き、大規模な民衆運動を組織化していきました。
 池田 そう。運動や組織というものは、命令や規則で長続きするものではない。いわんや、強制で動かしても絶対にうまくいかない。
 一人一人の個性を尊重し、勇気と希望を与え、喜びも苦しみもわかち合ってこそ、多くの人々が団結できるのです。和気があり、触発があって、真の民衆運動が成り立つのです。
11  学会は「法華経の人間主義」を実践
 遠藤 組織というと「型にはめる」というイメージがつきまといがちですが、今の時代に、そんなことで大勢の人がついてくるわけがありませんね。
 池田 その通りです。「人間主義」こそ民衆運動の根本原理です。
 須田 創価学会の発展の根底には、生き生きとした人間主義があります。子どものころから学会の庭で育ってきた私たちの偽らざる実感です。
 池田 自然にそうなったのではない。そうなるために、毎日、時々刻々、渾身の力で仏法の慈悲の精神を組織に脈動せているのです。この辛労、この責任感を、学会のリーダーは未来永劫にわたって失ってはなりません。
 須田 組織といっても、核となる「人間」を離れて実体はないということですね。
 大聖人の御書を拝しましても、弟子門下の個性、性格を、実に的確につかんだうえで、さまざまな御指南をされていることがうかがえます。四条金吾が短気な性格であったということを私たちが知っているのも、御書のおかげです(笑い)。
 池田 大聖人がどれほど弟子門下のことを思っておられたか──その証左です。
 四条金吾に対しては、″外では酒を控えるように″とか、″女性にどんな失敗があっても叱ってはいけない、まして争ってはいけない″などと、親が子どもを諭すように、こまやかな心配りをされています。
 その一方で、たとえば、池上兄弟の兄・宗仲が父親から二度目の勘当にあった時、大聖人は弟・宗長のことを心配されながらも、″今度は、殿は必ず退転してしまうだろうと思う。退転することを、とやかく言うつもりはまったくないが、ただ地獄に行って日蓮をうらんではならない″というように、一見、突き放した言い方をされている。
 こうした言い方は、相手のことによほど通じ、その心をつかんでいないと到底できるものではない。大聖人は、人生最大の岐路に立たされた宗長の心の葛藤を知り尽くされていただけではない。その性格までも手に取るように知悉されていたのでしょう。
 遠藤 とくに、遺族に対する励ましなどは、いくつか例がありますが、大聖人はお子さんがおられなかったのに、子どもに先立たれた親の心情というものを、余りにも深くつかんでおられるのに驚き、どうしようもなく感動したことがあります。
 池田 本当に偉大な仏様です。一人一人の「現実」をすべて受け止め、同苦してくださっているのです。決まりきった答えを押しつけるような観念的指導では絶対にない。
 ゆえに、ある場合は、他の人に対して言われたこととは正反対に見えることも、あえて言われている。
 病弱で苦しんでいたが医者にかかろうとしなかった富木常忍の夫人には「智者なれども夭死あれば生犬に劣る」と長寿の大切さを説かれ、治療を促された。
 しかし、鎌倉武士であり、「名は惜しむが命は惜しまない」気風の四条金吾に対しては、長寿よりも、仏法と社会の誉れが大切であると強調されています。
 須田 「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」と仰せです。
 池田 そう。どちらも弟子を慈しむお心から出た慈悲即智慧のご指導です。どちらも真実です。これが薬草喩品の心です。
 四条金吾に対しては、短気な性格を自覚して一日一日を賢明に振る舞いなさい、というお気持ちもあったでしょう。そうでなければ、金吾は命さえ危うい状況だったのです。
 御書を子細に拝すると、大聖人のお振る舞いにこそ法華経の人間主義が躍動していることに感動します。法華経と符合するのは、大難を忍ばれる法華経の行者としてのお振る舞いだけではないのです。
 大聖人は、民衆を苦しめる権力者たちや、権力と癒着する宗教者たちに対しては、烈火のごとく怒り、厳しく諌められた。従来、それをもって、大聖人の仏法は非寛容だとか、排他的であると言われてきたが、あまりにも偏った見方です。民衆に対する慈愛のご指導にも、権力者への厳しい諌言にも、生きた人間主義が貫かれているのです。
12  斉藤 この十年余の先生のスピーチで、多くの御書が拝されてきましたが、一貫して大聖人の人間主義に焦点が当てられています。
 池田 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と断言された大聖人の広大なるご境涯──その「最高の人間性」を、全世界に伝えたいとの思いで御書を拝し、語ってきました。
 薬草喩品の譬えでは、仏の慈悲の大雲は三千大千世界、つまり全宇宙を覆ったと説かれている。どうすれば全世界を御本仏の大慈大悲で潤すことができるか──私の一念は、いつも、そこにあります。この「如来行」こそ創価学会の使命だからです。その戦いは、これから本格化する。いよいよ本門に入るのです。
 行き詰まった現代世界を開き、蘇生させるために必要なのは「宇宙的視野」であると思う。大宇宙と一体のものとして人間を捉える見方です。大宇宙と一体であれば、自然、地球とも一体であることは言うまでもない。そういう人間観のもとに社会も国家も民族も捉え直していくのです。
 心の窓が閉ざされていては、大きな未来は見えない。窓を開け放つことです。そうすれば、行き詰まりはないのです。
 すべての人間は、全宇宙と一体です。全宇宙のあらゆる営みが、一人の人間の独自性を成り立たせている。言い換えれば、一人一人の人間は、「大宇宙」を独自の仕方で映し出す「小宇宙」です。「個人」は、本来、「全人」なのです。だから、″一人″がかけがえのない存在なのです。
 そういう生命の秘密を知る究極の智慧が、仏の一切種智であり、平等大慧です。どの人も、どの生命も、かけがえのない存在として平等と見るのです。この法華経の人間主義こそ、「次の千年」に必要な「宇宙的ヒューマニズム」であると私は確信します。
 タゴールは歌っています。
 「昼となく夜となくわたしの血管をながれる同じ生命の流れが、世界をつらぬいてながれ、律動的に鼓動をうちながら躍動している。
 その同じ生命が大地の塵のなかをかけめぐり、無数の草の葉のなかに歓びとなって萌え出で、木の葉や花々のざわめく波となってくだける。
 その同じ生命が生と死の海の揺藍(ゆりかご)のなかで、潮の満ち干につれてゆられている。
 この生命の世界に触れるとわたしの手足は輝きわたるかに思われる。そして、いまこの刹那にも、幾世代の生命の鼓動がわたしの血のなかに脈打っているという思いから、わたしの誇りは湧きおこる。」(「ギタンジャリ」森本達雄訳、『タゴール著作集第一巻詩集』1所収、第三文明社)
 我が命に宇宙の根源のリズムを鼓動させながら、にぎやかに、楽しく前進また前進していきたいものです。

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