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日蓮大聖人・池田大作

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信解品(第四章) 信解──「信仰」と「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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15  池田 法華経が「信」を強調する理由を、生命の次元でいえば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち「元品の無明」を断ち、「元品の法性」すなわち″本来の自己自身を知る智慧″に目覚めることにある。この法性を″仏性″″仏界″と言ってもよいでしょう。
 ところが、これは生命の最も深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて″仏性″″仏界″は、自身の生命に顕現してくるのです。
 大聖人は「此の信の字元品の無明を切る利剣なり」と仰せです。「信」は「開」であり、「疑」は「閉」です。
 妙法に対して自身を開けば、妙法が自身に開かれるのです。だからこそ「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人「三重秘伝抄」)なのです。「信」も仏界、その結果の「智慧」も仏界です。
 宇宙の根源の「法」を、その宇宙の一部である人間の小さな頭でつかむことはできません。その「法」が自身の生命に顕になるように、心身を整える以外にないのです。
 そのための妙法への「信」であり、「帰命」です。大聖人は「信は不変真如の理なり」「解は随縁真如なり」と仰せです。帰命でいえば、信は「帰」、解は「命」です。
 妙法を信じ、妙法に「帰する」ことによって、妙法が自身の上に顕現し、妙法に「命く」生命となるのです。妙法が躍動する生命になった証が、随縁真如の「智慧」であり、信解の「解」です。
 「信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」と仰せの通りです。
 その意味で、信と解は対立するものでないことはもちろん、信が解を支えるというだけの静止的なものでもない。
 本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める「解から信へ」──この双方向のダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが「信解」の本義といえるでしょう。
 そう考えれば、梵語の「アディムクティ」が「志」とも訳せることは興味深い。成仏といっても、一つの静止した状態のことではない。智慧即慈悲を深めつつ、限りなく向上し続ける境涯──--それが仏界です。人間としての限りなき向上へ。その「志」に進む両輪が「信」と「解」なのです。
 斉藤 現代の世俗的社会では、「信仰」というと「理性」を休眠させ、閉ざされた主観の世界に安住するというイメージがあります。しかし、法華経の「信解」は全く違うことが、よくわかりました。
 池田 そう。法華経の説く「信仰」は、人生という難問題に対して、安易な回答を得ようとするのではない。むしろ、そういう安易さを拒否し、「信」と「解」という、″生命探究の二つの武器″を握りしめて、限りなく問い続け、限りなく向上していく。そのエネルギーを与えてくれるものなのです。
 近代の「知」は「信」と分離することで″自立した″と錯覚した。しかし、じつは、物質主義をはじめ″検証なき信(自明の前提)″の上に安住する場合が多かったのではないだろうか。そこから近代の苦悩と流転が始まった。
 今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき「信と知の統合」です。それは壮大な文明的挑戦です。「信念なき知識」と「理性なき狂信」に引き裂かれた人間社会を復興させる試みです。
 また、生命という″親″のもとに、″放浪の息子(近代の知)″が帰還する物語ともいえる。
 「信解」。それは、現代という「精神の漂流時代」を正しく方向づけ、生命の高みに向かって進歩させていくキーワードと言えるのではないだろうか。

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