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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) かけがえのない個々の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  斉藤 諸法実相が、一切衆生の成仏の「根元」の法理であることを確認できました。諸法実相の現代的な意義について、さまざまな角度から語っていただきたいと思います。
 「諸法すなわち個々の生命」が即「実相すなわち宇宙生命」と一体である──部分が即全体であるという、この不可思議な関係を明らかにしたのが諸法実相の法理ですが、現代科学の各分野でも、全体は部分の単なる総和ではなく、個の中に全体が含まれているということを主張するようになっています。
 池田 その通りだね。
 このあたりから見ていくと、現代人には、むしろ分かりやすいかもしれない。
2  「個」の中に「全体」を見る
 遠藤 個に全体が含まれていることを示す科学的な知見は数多くあります。最も分かりやすいのは、細胞の中にあるDNA(デオキシリボ核酸)の話でしょうか。
 DNAというのは、生命体の遺伝情報を担う物質で、生命のすべての細胞の中にあります。人間の身体を構成している細胞はほぼ二百種類あり、さまざまな異なる働きをしています。ですから、それぞれの細胞に含まれるDNAは当然異なっていると考えるのが自然です。
 しかし実際には、ほとんどすべての細胞に同じDNAがある。つまり、髪の毛を作っている細胞であれ、肝臓を作っている細胞であれ、どの細胞ひとつとっても、そこには身体全体の情報が入っていることになります。
 須田 だから、「ジュラシック・パーク」というアメリカの恐竜映画にあったように、化石から取り出した一つの細胞があれば、絶滅した恐竜でも再生できるということが理論的には成り立つわけですね。
 池田 どの細胞のDNAにも、すべての情報が入っているからこそ、その細胞が身体のどこに位置するかによって、その位置に適った機能を発揮できる。髪の毛なら髪の毛、肝臓なら肝臓と。それで、身体全体の調和がある。生命の妙です。
 戸田先生は、生命体の各部分が、あるべきところにあることを、「衆生法妙」の譬えに挙げられていた。(「大白蓮華」での座談会「生命の不思議をめぐって」の中で)
 斉藤 一つ一つの細胞の中の遺伝子に、身体全体の情報が入っているということですが、このことを巨大な図書館に譬えた人もいます。笑い方、泣き方、歩き方など、私たちの身体が、どのように振る舞うか、という情報のすべてが、この細胞の「図書館」に所蔵されていると言うのです。
 一説によると、一つの細胞に収められている情報は、五百ページの本千冊に相当するそうです。ちなみに、生きている間に習得した情報を保存する脳を図書館に譬えれば、収まる情報量は二千万冊にもなると言われます。
 池田 ″脳の世界″は、二十一世紀の科学の最大のフロンティアとされる。まさに一つの小字宙というべき広大な世界です。これまでの研究によって、脳の部位ごとの働きなどが明らかになってきたようだね。
 須田 はい。喜怒哀楽の感情はもとより、○や△、×といった記号を識別する脳の部分まで発見されているということです。
 池田 ところが、脳の研究が進むにつれて、脳というのは、単にそれら部分部分の働きを集めただけのものではないことが明らかになってきた。
 最近の脳神経外科のリポートによると、人間の脳には理論的・知的な機能を司る「左脳」と、創造的・感覚的な機能を担う「右脳」があるとされている。しかし驚いたことに、片方の大脳がすっぽり欠けている人がいるという。(以下、「驚異の小宇宙・人体2 脳と心」5 NHK取材班〈日本放送出版協会〉を参照)
 社会的にも何不自由ない生活を送っていたある青年は、たまたま受けた脳の精密検査で左大脳半球がないことが分かった。知的能力を担っている左脳がないのだから、従来の常識からいえば、その青年は言葉を理解できないし、右半身も不自由なはずです。しかし、実際にはそうではなかった。つまり、残された右脳が、欠けている左脳の役割まで肩代わりしていたと言うのです。
 遠藤 生命は本当に神秘ですね。脳に欠損部があるため、機能障害をもった子どもが、成長するにしたがって脳が自己修復していき、成人するころには正常な状態になっていたという例も数多く報告されています。
 そうした脳欠損の障害をもつ子どものために、その子を他の子どもたちと一緒に育て、絶え間なく刺激を与え続けるようにしている保育園もあるそうです。そのなかで、たとえば脳幹と前頭葉の一部しかなかった子どもでも、根気強く接することによって、他の子どもと一緒に遊べるようになった例もあります。
 池田 なるほど。生命には測り知れない可能性がある。その莫大な力が、明らかになってきているようだ。だから、どんな人に対しても、あの人はダメなどと決めつけてはいけないね。とくに自分自身の可能性を決めつけてはいけない。多くの場合、「行き詰まり」は、自分自身のそうした決めつけから生まれているものです。
 斉藤 脳のこうした機能について、ホログラムの原理との相似を指摘する人もいます。
 ホログラムは光の波を重ね合わせることによって作り出す三次元の立体像です。この一つのホログラムのフィルムがいくつかに切り離されても、どの一つの断片からも元の全体像を見ることができるのです。前ほど、くっきりした像にはなりませんが、ともかく全体の立体像が見えるのです。
3  池田 「一粒の砂に世界を見る」という詩人(ブレイク)の直観を思い出すね。
 須田 「個」の中に「全体」が含まれているという意味では、近年注目されている「フラクタル理論」があります。
 これは、もともとは幾何学の理論上生み出されたもので、一部と全体が同じ形をもっているという自己相似性をもった構造をいいます。じつは、この「フラクタル構造」は自然界のいたるところで見られます。人間の肺の気管支の枝分かれの仕方は、その細部を拡大しても全体と同じ枝分かれをしている点で「フラクタル」です。ほかにも、脳の中の細かな血管の分かれ方。川の支流が描き出す形。雲の形。樹木の枝分かれ。これまで、規則牲がないように思えた自然界の諸現象に、「個」と「全体」の相似性が見られるのです。
 さらに、自然現象に止まらず、通信のエラーや株価の変動、所得の分布といった社会現象にも「フラクタル構造」を見ることができると言います。
 遠藤 個の中に全体があることは、十界論で言えば、十界のそれぞれ(個)に十界(全体)があるということになります。つまり、十界のそれぞれが小字宙であるということです。
 須田 十界互具ですね。これは、一個の生命に十界を具するということですが、それと同時に、宇宙生命自体も十界を具しているということです。戸田先生は、生命論に関する座談会で、次のように言われています。
 「地球状態の他の星でも同じことですが、人間を感ずる、感ずるというと、ちょっとおかしいが──大宇宙ぜんぶが十界ですから、そこ(=その星)において人間生命がそれに応じて、なんらかの形で出現する。あるいは、ここに、イヌだのネコだのいるとする。仮定ですよ、これは。そこに人間が一人もいなかったとすると、その畜生界にその人間界を感ずるのです、十界互具だから。そうすると生まれるのが人間みたいなのが生まれるのです」(『戸田城聖全集』2)
 斉藤 感応の妙ですね。大宇宙そのものが十界全てを具足した当体であり、宇宙に具わる十界が、それぞれの星の状態の、それぞれの縁に応じ、また時を感じ、何かに感応して現れてくる……。
 十界互具の法理は、進化論など生物哲学の分野にも重要な示唆を与えるものではないでしょうか。
 池田 今後の研究課題でしょう。部分即全体という諸法実相の智慧から見るならば、万物は、それぞれが全宇宙の宝をもつ尊極の存在です。
 方便品に、諸法実相を言い換えて「是の法は法位に住して世間の相常住なり」(法華経一三八ページ)と説かれている。世間の相(諸法)は常住の妙法の姿(実相)である、と。
 天台も「一色一香も中道に非ざること無し」(『摩訶止観』)と言った。一色一香とは、微細な物質を指します。いかなる微細な物も中道実相の当体、すなわち宇宙生命の当体だということです。
 その意味で、自然も、人間が一方的に消費し支配する対象では絶対にない。自然も人間も同じ宇宙生命の部分であり全体である。自然と人間は一体です。自然を破壊することは、人間を破壊することです。
 遠藤 諸法実相の法理は「環境倫理」の問題にも直結しているわけですね。
 池田 そう。大聖人は「生住異滅の森羅三千の当体ことごとく神通之力の体なり」と仰せです。生滅し、変化してやまないすべての現象は、それ自体、如来の神通の力である、と。変化、変化を続ける万物も、じつは、そのままで常住であり、中道であり、実相であり、如来なのです。
 戸田先生は言われた。
 「つきつめるなら、万物の一瞬を如来とは読むべきである。(中略)吾人の生命のみならず、宇宙の万物は、一つとして一瞬も変化せざるものはない。一刻一刻に変化へ、変化へとたどるのである。されば、いかなるものでも、如々として移るので、家の如きもの、あるいは、家そのもの、そのものとして変化し、刻々に土くれとなり、塵となり、土くれは土くれ如きもの、土そのもの、塵そのものとして、また分解の作用へと進むのである。
 万物を『如きもの』として観ずれば、これは仮の義で、仮のすがたなるがゆえに、実体にあらずとすれば空の義である。
 もし、一瞬一瞬がそのままの存在とみるなら、それは中道である。されば、一瞬一瞬の万物も、相、性そのままが実相であるのである。われらも、この一刻一刻の生命、生活が実相で、この一瞬の実相のうちに過去久遠の生命を含み、かつ、未来永遠の生命をはらむのである。この一瞬の生命のうちに、過去久遠の生活の果を含み、未来永劫の生命の因を含む、これ蓮華の法である。
 この一瞬の生命こそ、宇宙自体の活動であり、自己の生命であり実在である。この宇宙の一瞬一瞬の活動は、時々刻々に変化した種々の現象として表現し、万象ことごとく活動のうちに変現する。これを、『神通の力』というのである。だれが、どういう力を与えるのでもない。それ宇宙の万象自体が、あらゆる他の活動を縁として変貌自在するのが、宇宙の実相である」(『戸田城聖全集』1)
 戸田先生の諸法実相観が述べられています。先の法華経、天台、そして大聖人の御言葉と寸分もたがわない。よくよく味わい、会得していくべき言葉です。
4  ″もの″の次元、″こと″の次元
 遠藤 この戸田先生の言葉では、物質も生命も同じように扱っているように見えますが、どう説明したらよいか少し困ります。
 仏法でいう「諸法」というのは、物質も生命も含まれるということは分かるのですが、通常の考えでは、両者は全く違うものですから。
 池田 大事な点だね。諸法とは現象と訳せる。仏法では、物質をも、固定化した″もの″ではなく、生滅変化する現象、すなわち″こと″の次元で見ているのです。生命も同じく生滅変化する″こと″です。
 ″こと″というのは、私たちが普通、物を見る時のように「有る」と言って固定化して見ると間違いになる。だからといって「無い」のでもない。「有」でもなく「無」でもない。しかし場合によっては、「有る」と言ってよい時もあるし、「無い」と言ってよい時もある。こう見るのを「中道」といいます。「有」「無」のいずれにも、とらわれないので「中道」です。ありのままに正しくとらえた「実相」と同じです。
 遠藤 ″もの″と″こと″という二つの次元を立て分けて考えると分かりやすいですね。戸田先生の言葉に出てきた空・仮・中の三諦にも応用できそうです。
 物質でいえば、″こと″であって″もの″ではないという真理(諦)を「空諦」といい、しかしかりに″もの″として見ることもできるので「仮諦」といい、どちらにもとらわれないのを「中諦(中道)」と言う。
 天台は、この三つの面から総合的に諸法の実相を把握し、欠けることがないことを「円融の三諦」と呼び、これをもって「実相」としています。
 池田 すべては″こと″であり、生住異滅、つまり生成し、安定し、変化し、消滅していくのです。その一時の安定期の姿を、物質についてはかりに″もの″と言っているわけです。
 須田 ニュートンの力学を中心とする古典科学は、″もの″中心の見方で成り立っています。たとえば、物体という実在があって、二つの物体の間に重力が働くというのがニュートン力学です。これが、多くの物理現象を見事に説明したので、生命についても″物質にすぎない″″機械にすぎない″というような見方が支配的になりました。
 池田 ただ、そのような見方は、本来、科学そのものにはないはずだね。
 遠藤 科学そのものではなく、科学信仰に由来するのだと思います。物事の一側面をとらえて、すべてが″それにすぎない″と主張する態度を「還元主義」と表現する人もいます。全体を部分に還元し、部分観を全体観に押し広げようという誤った態度です。
 斉藤 この「……にすぎない」という還元主義の見方が、現代人の生き方に暗影を投げかけ、希望を奪い、無力感を増長している一因になっているのではないでしょうか。
 池田 科学信仰に陥らないためには、生命の全体観を示した真の哲学が必要でしょう。科学には本来、部分観を部分観として示す節度があると思う。また、真実に迫ろうという要求が科学の根底にはあるから、それまでの部分観が行き詰まれば、それを打ち破って、より深く実在に迫る創造的な新理論が発見される。つまり″科学革命″がなされる。
 須田 科学革命は、個人の創造的な力でなされるという研究もありました。
 池田 当然、そういう面が大きいでしょう。人間生命こそ創造性の源ですから。アインシュタインなどは、そのよい例だと思う。戸田先生は、来日したアインシュタインの講演を、牧口先生とともに聴いたことを生涯の喜びとされていた。
 アインシュタインは自分の真理探究の情熱を支えたものを「宇宙的宗教感覚」と表現しています。それは、この宇宙を「一個の意味のある全体として体験したい気持ち」であり、自然の世界や思考の世界に、崇高さを感じ、驚くべき秩序を感じとる感覚です。彼は、この「宇宙的宗教感覚」は、仏教にとくに強く表現されていると書いています。(「科学と宗教」、井上健・中村誠太郎編訳『アインシュタイン選集』3所収〈共立出版〉から引用・参照)
 アインシュタインは、こういう立場から、科学と宗教は対立するものではないと主張した。科学探求の「動機」が宗教性にあっただけではなく、科学の「結果」もまた、万物の妙なる法則に対して人間を謙虚な態度にさせる、と。
 「この態度は、その語の最高の意味において、宗教的であると私には思われる。したがってまた、科学は宗教的衝動をその擬人主義という夾雑物から純化するばかりでなく、われわれの人生を宗教的精神によって理解するのにもまた貢献するものであるように私には思われる」(「科学と宗教」同選集)
 アインシュタインは、科学と宗教が対立するとすれば、その主因は人格神の概念にあると考えていた。彼の言う「擬人主義という夾雑物」は、人格神の概念のことです。
 仏教のような「生命の法への謙虚な探究」は、彼の見方からすれば、科学的であり、同時に宗教的でもある。
 仏法の立場から端的に言えば、仏法は生命の全体を対象にした総合知であり、科学は生命の「仮有」の面を対象にした「仏法の一部」とさえ言えるのではないだろうか。ゆえに両者は、対立するものでは絶対にない。一切世間の善論は皆これ仏法なのです。
 戸田先生は「科学が進めば進むほど、仏法の正しさが証明されるようになる」と、よく言われていた。
 もちろん、証明といっても、両者は次元も違うし、アプローチの仕方も違う。″科学の言うことは間違いないから、科学の支持する仏法も間違いない″ということではない。科学の知見は日進月歩で変化しているし、そうした相対的な科学の知見によって、仏法の絶対的な真理の真実性が左右されるものではありません。
 ただ科学は、進歩すればするほど、仏法と見事に調和することが分かってきた。この相似性(アナロジー)が、現代にあっては、仏法の卓越性を類推させる強い動機になるということです。たとえばアインシュタインの相対性理論は、″こと″中心の世界観に極めて接近したものだと思うが、どうだろうか。
5  斉藤 そうだと思います。相対性理論は、空間の三次元と時間の次元が融合した「時空」という四次元の″場″において、すべての物理現象をとらえようとするものです。
 それまで、ニュートンが打ち立てた古典力学では、「絶対時間」「絶対空間」といって、時間と空間とは互いに独立に存在するものとしてきました。自動車に乗っている人と歩いている人とで時計が早くなったり遅くなったりするわけはないという、私たちが日ごろ抱いている感覚からも当然とされていたものでした。ところが、相対性理論の登場によって、高速で運動している空間ほど、観測者に対して時間が遅く経過するということになった。
 いわば「時空不二」です。両者は切り離せない。双方の「関係(こと)」によって、双方の現れ方が決まってくるということです。
 須田 また、量子というミクロの範囲に限っていえば、物体の運動量を正確に計ろうとすると、その物体の位置は正確に計れなくなるというように、計測者の存在が物体の運動に大きく関わるということが分かりました。
 これはハイゼンベルクの「不確定性原理」と言われるもので、またしても、近代科学の中心軸にあった″主観と客観の分離″という原則も打ち破られたのでした。「主客不二」ですね。観測とは、観測する側とされる側の「関係(こと)」の問題であるということになったのです。
 池田 ″もの″中心の科学が、分子から原子へ、原子から素粒子へと、宇宙を構成する「基本的要素」を探究した果てに見たものは、素粒子が「粒子」であり同時に「波」であるというパラドックス(逆説)であった。
 これによって科学は、それまで固定的にとらえていた″もの″の世界を、じつは″もの″自体の変化の様相や、″もの″と″もの″の関係性としてとらえざるを得ないことに気づいたのです。すなわち″こと″の世界です。また観測者と対象との相互関係も考えなければならない。
 こうして現代物理学が描く世界像は、それまでの「無数の物質の集まり」から「無数の関係の織物」へと劇的に変化したわけです。この世界観は、まさに大乗仏教の洞察と共鳴する。
 斉藤 アインシュタインによって、物質はエネルギーが一時的に安定したものであることが分かりました。「物質・エネルギー不二」理論です。不二でありながら、必ずどちらかの形態をとる。不ニであり而二です。
 またエネルギーは「質量×光速度×光速度」に等しいことも分かりました(E=mc2)。光速度(c)は秒速三十万キロメートルですから、わずかな質量(m)の物体から膨大なエネルギー(E)が出ることになります。
 遠藤 それが後に、原子爆弾の開発に応用された──。
 池田 それは、アインシュタインの理論が独り歩きし、その理論が示唆していた″こと″中心の世界観が人々に理解されなかった悲劇と言えるのではないだろうか。
 世界は限りなき「関係の織物」である──この見方が、物質にも生命にも人間にも徹底すれば、戸田先生が言われたように、一切はひとつの大いなる生命であり如来であると見ることができる。そして、それが自己自身の実相であるとも見ることができる。
 原子爆弾のような破壊と分断のためにだけあるような兵器は、実相を覆う無明の産物にすぎない。元品の無明は第六天の魔王と現れる。戸田先生は、原子爆弾を使用する者は、誰であれ、悪魔であり、サタンであると宣言された。そこには、この尊き生命を破壊するものに対する、五体をうち震わせての、すさまじい怒りが込められていたのです。
 ともあれ、″もの″から″こと″へという科学革命は、人類の思想を根底から変える衝撃力をもっていた。それは、一次元から言えば、分析知が行きつくところまで行った結果、分析知ではとらえきれない広大な世界を垣間見たと言えるかもしれない。
 そこからアインシュタインや、ハイゼンベルクらは、物理学的真理がその一部であるような、より大きな全体、究極の実相について思索をめぐらしたのではないだろうか。
 須田 分析知は、近代科学の強力な武器でした。現象を観測しやすいように、物質を細かく分割したり、実際の複雑な現象を単純化することによって自然界の法則を発見してきました。
 その際、現象を単純化したり、要素ごとに分割するということで、他の面を切り捨てるという傾向があるわけです。いわば、関係し合いながら変化する諸法(現象)に即して実相を見るのではなく、諸法(現象)をあえて固定化したり、諸法の一部を切り取り、そこから抽出された法則を真理としたわけです。
6  人間に希望を与える学問を
 遠藤 最近では、そのような科学の在り方に対して、科学の内部から反省が出ているようです。その一つは、分析によって知り得た知識は自然界のほんの一部にすぎないという認識です。
 科学の世界では、どんなに分析を重ねても、将来の現象を予測できないことが、しばしは見られます。関係者の方には申し訳ないのですが、天気予報などはその典型で、なかでも長期予報などは、本当に苦労していると思います。
 長期的な気象は、あまりにも多くの要素が複雑にからみ合って変化するので、従来の分析的なやり方では探究できないのです。
 斉藤 最近言われている「複雑性の科学」という考え方も、新しい潮流の現れですね。これまでの科学が、さまざまな現象の複雑性を取り除いて単純化することで明晰な認識を得ようとしたのに対し、「複雑性の科学」というのは、現象の複雑性をあえて切り捨てることなく、そのまま受け止めようとするものです。
 現在、有名なのは米国ニューメキシコ州にあるサンタフェ研究所で、従来の生物学、数学、物理学などの学問領域の枠を取り払って、現象を総合的にとらえようとする研究システムをとっています。
 須田 天候のほか、生態系、脳などは、数学的な解析やシミュレーションを寄せつけない複雑なシステムの代表例です。
 なぜ、こうした自然現象では、単純性の科学が通用しないか。一つは、小さな変化が劇的に大きな変化を生み出すからだとされています。いわゆる″バタフライ(蝶)効果″です。すなわち、アマゾンの熱帯雨林で一匹の蝶が羽をパタパタさせると、それが次々に連鎖的に物事を引き起こし、ついには地球規模の気象の変化が起きるというものです。
 遠藤 「風が吹けば桶屋がもうかる」(爆笑)
 池田 そう。庶民の知恵は、たくまずして「すべてが関係している」という実相を突いているね。
 須田 はい。しかも蝶が翌日、羽ばたいても、何ら天候に影響を与えないかもしれない。この不確実性が「複雑性の科学」の特徴の一つでしょう。
 また、単純性の科学と複雑性の科学の違いは、コンピューターと人間の脳の能力の違いにもよく表れていると思います。コンピューターは単純な計算処理や記憶などは得意ですが、ちょっとしたエラーがデータに紛れ込んでいると、とたんにその能力は発揮できなくなります。
 一方、人間の脳は、単純な計算や単純な情報を多量に記憶することなどには向いていませんが、少々のエラーが出ても対応できる柔軟性があり、多様な情報のなかから、必要な情報を瞬時に取り出せる能力ももっています。
 池田 なるほど。ちょっと概観しただけでも、現代の科学が、法華経の諸法実相と調和してきていることが分かるね。大切なことは、こうした志向性を「一人の人間の限りない尊貴さ」の認識へと、リードしていくことです。
7  斉藤 人間を無気力にさせる科学でなく、人間に勇気を与える科学であってほしいですね。
 池田 そう。学問は人間に希望を与えなければならない。そうでなくて何のための知性か。そのことで思い起こすのは、中国の厦門大学の「平民学校」での魯迅の講演です。(一九二六念十二月)
 遠藤 厦門大学といえば、昨年(一九九四年)、池田先生に名誉教授の称号が贈られました。創価大学との交流も始まっています。先日は、池田先生の肖像のレリーフも届けられました。
 須田 魯迅は、たしか厦門大学で教鞭をとっていますね。短期間ですが。
 池田 そうだね。「平民学校」は、厦門大学の学生が貧しい子どもたちのために開いた学校です。自分たちが教師となって教えようとした。魯迅は、その開校式に招かれ、講演したのです。(魯迅の厦門大学での講演の模様は、石一歌著『魯迅の生涯』、金子二郎・大原信一訳〈東方書店〉から引用・参照)
 初めに、大学の権威的な教授が登壇した。拍手はなかった。教授は、平民学校の意義について、こんなふうにしゃべった。
 「この学校の平民に利益あること、たとえば……たとえば召使いが文字を知るとせば、手紙の配達は誤配がなくなり、主人は喜ぶ……」
 とんでもない民衆蔑視の発言だった。平民が勉強するのは支配者に喜ばれるためだと言うのです。教授は魯迅の射るような視線に出合って、しどろもどろになった。
 「……ええ、主人が喜び……」「かれを使うと、かれはめしにありつく……」。会場からは、嘲笑が起こった。彼は驚いて強くうろたえ、騒いで、逃げるように壇から下りたという。ここで魯迅が立った。
 「わたしの言いたいのは、あなたがたはみな労働者・農民の子供です。貧しいために、勉強の機会を失いました。しかし、あなたがたの貧しいのはお金だけです。聡明さと知恵ではありません。あなたがた貧しい者の子供は同じように聡明であり、同じように知恵があるのです」
 魯迅は、最前列で冷や汗をかいている教授と学長を一瞥した。そして、子どもたちに向かって言った。
 「あなたがたを永久に奴隷のように使える、そんな大きな権力をもつものはどこにもいません」「また、あなたがたを一生涯貧乏人にしておく運命などというものもありません」
 「魯迅の声は一段と高くなった。
 『あなたがたは決心するかぎり、奮闘するかぎり、かならず成功し、かならず前途があるのです』」会場は嵐のような拍手で揺れた。
 遠藤 心を揺さぶられる話ですね。
 池田 魯迅は、どんな境遇にあろうと、すべての人間が等しく、広大な可能性をもっていることを教えたかった。そして、その可能性を阻む、いかなる権力にも、運命にも、絶対に屈してはならない、そんなものは打ち返そうではないか、奮闘しようではないかと訴えたのです。
8  民衆救済に「戦う心」
 斉藤 考えてみれば、釈尊が「諸法実相」の法を説いた元意も、そうした奮闘を呼びかけるものだったのではないでしょうか。釈尊自身が、その先頭に立って戦った。
 方便品には「私は、仏眼をもって六道(地獄界から天界まで)の衆生を見た。彼らは貧窮し、福運も智慧もなく、生死の苦悩の険しき道に入って、絶え間なく苦しみ続けている。(中略)さまざまな誤った思想に深く染まり、苦を捨てようとしながら、そのことでまた苦しんでいる。こうした衆生のことを思うと、大悲の心が起こってきた」(法華経一三九ページ、趣意)とあります。
 池田 「大悲」の「悲」とは、「同苦する」ということです。ともに苦しむ「うめき声」が、その原義とされる。すべての衆生を、何としても苦悩の″鉄鎖″から解放したい。そのために釈尊は悩み、戦ったのです。
 方便品には「我濁悪世に出でたり」(法華経一四二ページ)とある。闘争へ踏み出す釈尊が、心に叫んだ第一声です。偉人は嵐の中に立つ。乱世に挑んでこそ偉大な人になるのです。そして偉人が嵐と戦う胸中には、次の世代への慈愛が海原のごとく広がっている。
 厦門アモイ大学の学生が、平民学校の開校式の会場に向かう魯迅に言った。
 「『あなたのそばにいると、ほんとうに大海の傍にいるのと同じように、気持がすっきりします」。
 「いや、ほんとうの大海は、見たまえ、あすこにある」。
 元気よく講堂に入って行く、善報の労働者の子供たちを、魯迅は指さした。」(前掲『魯迅の生涯』)。
 遠藤 大海といえば、古来、法華経も「大海」に譬えられました。
 池田 そう。大聖人は「大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり、如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす」と仰せになっている。
 部分に全体が含まれている。一人の存在に、一切の宝がある。一人の行動から、無限の価値創造のドラマが始まるのです。
 斉藤 ホワイトヘッド(イギリスの哲学者)も、自然は″ものの集合″ではなく″できごとの連鎖″であるとした哲学者ですが、こう言っています。
 「生命とは、環境の諸条件が許容する完成を目指すものとしてのみ理解される。しかし、このねらいは、常にすでに達成された事実を常に超えている」(『観念の冒険』山本誠作・菱木政晴訳、『ホワイトヘッド著作集』12,松籟社)。つまり、生命は可能な限り、どこまでも完成を目指すと言うのです。すでに達成された現在を、常に乗り越えていこうとするのが生命なのだ、と。
9  池田 そうかも知れない。生命は、物理学的な因果律に支配されるだけの単なる機械ではない。もちろん物質でできている以上、生命体に″機械の側面がある″のは当然である。しかし″機械にすぎない″のではない。
 生命は本来的に、″価値を創造しよう″という要求をもっている。価値も「関係性」の概念ですが、「関係の織物」であるこの世界にあって、常に「よりよき関係」すなわち「より大きな価値」を創造しようとしている。より美しい織物(美)、より役に立つ織物(利)、より善なる織物(善)を織ろうとする。この「創価(価値創造)作用」に、生命の大きな特色があることは確かだと思う。
 その意味で、「戦い」こそが「生きている」証です。″すでに達成されている現在″を常に超えていく──十界互具という実相から見れば、生命は、現在、いかなる姿をとっていても、今の自分を超えて最大の完成を目指そうとしている。
 生命の本然の姿は、仏界という完成へと向かっているのです。「合掌向仏(一切衆生は根底で仏に向かって合掌している)」です。こういう実相を示しているのが諸法実相であると思う。ここに、いかなる生命もかけがえのない存在であることが示されているのではないだろうか。
 この「法華経の心」を叫びきって戦われたのが日蓮大聖人であられる。近代においては大聖人直結の牧口先生、戸田先生です。
 今年(一九九五年)は、学会創立六十五周年。一人一人の民衆に「あなたのかけがえのなさ」を教え続けた六十五年であった。そのために、民衆蔑視の勢力と戦い続けた六十五年であった。
 牧口先生が獄死された後、戸田先生は獄中にあって、一詩を詠まれた。
 「如意の宝珠を我もてり
 これでみんなを救おうと
 俺の心が叫んだら
 恩師はニッコと微笑んだ」
 須田 池田先生が、小説『人間革命』(第一巻「一人立つ」の章)で紹介してくださいました。
 池田 そう。「如意の宝珠」とは一念三千であり、御本尊です。「宝珠即一念三千なり」と御書にはある。
 一念三千の信仰とは、自分一人いれば、すべてを変えてみせるという大確信ともいえる「一人立つ」信心です。
 いよいよ、一人一人が、妙法の無限の力を満身に漲らせて立つ時代です。その一人の中に、学会という全体がある。その一人の中に、二十一世紀がある。
 ゆえに一人ももれなく、「私はこの世に、このために生れてきたのだ」という、かけがえのない使命を、事実の上で果たし切ってほしいのです。
 その″戦う心″″戦い続ける心″自体が、すでに″勝った心″であり、本門の十年を絢爛と飾りゆく原動力なのです。

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