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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) 「諸法実相」の心──…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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2  現実の諸法から離れない実相
 斉藤 まず初めに、「諸法実相」が方便品に、どのように説かれているかを見ていきたいと思います。
 須田 私たちが、毎日、勤行で読誦しているところですね。「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(法華経一〇八ページ)と。
 斉藤 この文の前後には、「仏の智慧が、いかに素晴らしく、いかに理解し難いか」が繰り返し説かれています。
 その仏の智慧について、ここでは具体的に、「諸法の実相」を究めた智慧なのだと強調しています。そして、その実相とは何かが、如是相、如是性……如是本末究竟等と続く「十如是(十如実相)」で表現されています。
 須田 前に、「開三顕一」(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗を開いて一仏乗を顕す)について論じていただきました。
 天台は、この「諸法実相・十如是」前後の部分を「略開三顕一」を表すと言っています。「開三顕一」が″略して″明かされている、と。
 池田 仏が出現したのは、ありとあらゆる人々を仏にするためである。仏になることこそ人生の根本目的であり、その他の目標は「方便」の低い目標に過ぎないことを教えたのです。いわんや名聞名利など、人生の真の目的ではない。
 「開三顕一」は、「仏の真意を明かした」ものであり、同時に「人生の真の目的を明かした」のです。
 ただし、″略″開三顕一だから、ここでは″かすかに″しか示されていない。
 そのことを大聖人は″寝ぼけた人が、初めて鳴くほととぎすの音を一回だけ聞いたようなものだ″と譬えられている。鳴いたけれども、聞こえたかどうか分からない(笑い)。それほど″かすか″だと。(御書二〇八ページ、趣意)
 しかし、仏はたしかに「真意」を説いたのです。大聖人は「仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う」と仰せです。それが諸法実相・十如是の文です。
 また「一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり」と述べられている。″すべての人を仏に″という法華経の主張の根っこは、諸法実相にこそあると仰せなのです。
3  須田 たったの四文字が、なぜ一切衆生の成仏の根源になるのか。そこですね、むずかしいのは……。
 遠藤 基本的な意味から確認したいと思います。
 「諸法」とは、この現実世界において、さまざまな姿・形をとって現れている″すべての現象″と言えます。
 「実相」とは、文字通り″真実の相″、すなわち″真理″と言ってよいでしょう。天台によりますと、実相の「相」の字は、″真理は見えないが、諸仏がたしかに覚知した壊せないものであることを示している″ということです(『法華玄義』、要旨)。
 池田 見ることはできないが、厳として実在するということだね。
 斉藤 はい。そして「十如是」は、「十如実相」と言われるように、この″見えないが、実在する実相″を言い換えたものです。
 「如是」は″このような″という意味で、それぞれの現象、個々の生命(諸法)について、仏は「このような相(如是相)、このような性(如是性)、このような体(如是体)……」と実相を知見したと言うのです。
 池田 そう。「諸法の実相」と説かれていることが大事だね。真理(実相)と言っても、どこか遠い別世界にあるというのではない。具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この具体的な現実(諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。
 寿量品(第十六章)にも「如来は如実に、三界の相を知見す」(法華経四八一ページ)とあります。三界とは現実世界です。
 現実世界(諸法)から決して離れない決心──これが仏の心なのです。
 同時に、現実世界(諸法)の表面にとらわれず、そこに秘められた偉大なる真実の姿(実相)をとらえ、教え、開いていく──これが仏法の智慧なのです。
 「諸法実相」という言葉の中に、仏法の徹底した「現実主義」と、「現実を超えていく智慧」が込められているのです。
4  十如実相を見る仏の目
 須田 よく分かりました。
 この十如実相のうち、「相」は外に現れて見分けられる姿・形など、「性」は内にあって見えない性質、性分、可能性などです。天台は、如是性の究極は仏性だと言っています。「体」は相と性をあわせ持った主体です。この三如是は、諸法──個々の生命の本体を三つの角度から見たものです。
 斉藤 一応、この三つで、個々の生命を統一的にとらえているので、空・仮・中の三諦や法・報・応の三身に当てはめられ、いろいろな法義が立てられていますね。
 須田 十如是のうち、「力」は、色心の潜在的な能力です。「作」は、その力が色心に現れた働きです。
 また「因」は個々の諸法それ自身の中にある変化の原因、「縁」は変化をうながす内外の条件、間接的な原因。「果」は変化によって得られた直接的な結果で、「報」は結果によってもたらされる報いです。因・縁・果・報の四つで総じて″因果″ということができます。
 斉藤 妙楽は「十如を語らざれば因果備わらず」(『摩訶止観輔行伝弘決』)と、十如是の特性を因果に見ています。
 池田 因果は、成仏の因果──仏になれるか否か──に関わるから大切なのです。
 大聖人は十如是を「色心の因果」と表現しておられる。
 どの生命(諸法)も、それぞれの「色心の二法」に「因果の二法」が具わって、千変万化の変化を続けている。そういう実相を、仏はありのままに見たのです。
 遠藤 最後の「本末究竟等」ですが、これは一つには、如是相を本とし如是報を末として、首尾一貫して等しいという意味です。
 つまり、地獄界なら地獄界として、仏界なら仏界としての統一性を言います。
 池田 そういう実相を見るのが仏眼なのだね。
 隠された可能性(性・力)や、変化しうる開放性(因・縁・果・報)をもちながら、しかも統一性をたもっている。相互に依存し、相互に開かれつつ、統一性をもって成り立っている──それが諸法のありのままの姿(実相)なのです。くわしくは述べないが、縁起観や三諦論に通ずる見方です。
 須田 「諸法実相抄」には「地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず」と述べられています。
 池田 「本末究竟等」については、より高次のとらえ方ができます。すなわち″仏が悟った実相においては、仏の生命(本)も、九界の衆生の生命(末)も、詮ずるところ(究竟して)、妙法の当体として等しい″ということです。ゆえに、いかなる衆生も、自身が妙法の当体であるという実相を悟れば、仏となる。
 自身の生命の実相(妙法の当体であること)を悟るか否か、それだけが仏と衆生との違いなのです。
 大聖人はこう仰せです。
 「本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり
5  諸法に即して実相が発揮
 遠藤 諸法実相の四文字が「一切衆生皆成仏道の根元」であるとの大聖人の仰せの意味が、少し分かってきました。諸法実相は、″諸法にはいろいろな差別(違い)があるが、その実相は平等に妙法の当体である″ということなのですね。
 池田 そう。実相とは、無明を克服した仏の悟りから見た生命の真実の姿です。
 そこでは、一切が平等であり、主体と客体、自分と他人、心と身体、心と物など一切の差異・差別を超えている。始めもなければ終わりもない。十界の差別も超えている。広大な広がりをもった「永遠の生命」の世界なのです。
 生命であるということは、躍動であり、智慧であり、慈悲であり、不二の生死であり、法則であり、大宇宙に広がっても大宇宙が広すぎるということもない。素粒子に宿っても素粒子が狭くて困る(笑い)ということもない。
 言葉も思考も超えて、まさに不可思議であり、「妙法」としか言いようがない。そういう世界です。
 仏は、こうした生命の世界こそが、十界の衆生(諸法)の生命の本当の姿(実相)だと悟ったのです。つまり、″諸法(十界)の実相″です。
 ゆえに、大聖人は「諸法実相──本末究竟等」の経文の意義を、こう明かされている。
 「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり
 地獄界から仏界までの衆生(正報)も、その衆生の住む世界(依報)も、じつは、すべて「妙法蓮華経のすがた」なのだと仰せです。
 ″諸法″は無数ですが、すべて″十界の依報と正報″に含まれます。それらが、ひとつのこらず「妙法蓮華経のすがた」として等しい(本末究竟等)と見るのが、″実相″を見ることです。
 十如是も、このことを説こうとしたのです。
 大聖人は「十如是と云は妙法蓮華経にて有けり」と仰せです。
 また「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」とも言われている。宇宙全体が「妙法蓮華経のすがた」なのです。
 戸田先生は「宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです」と言われていた。
 諸法の実相を見るならば、人間も草木も、太陽も月も「妙法蓮華経」の姿でないものはない。森羅万象は「妙法蓮華経」の律動を奏でているのです。
 現代人に分かりやすく、まとめて言えば、「諸法」は個々の生命、その諸法の「実相」は、ひとつの大いなる宇宙生命と表現することも可能でしょう。
 数限りない個々の生命は、それぞれの「色心の因果」に則って、千差万別の多彩な生命の曲を奏でています。その曲は、表面的には、各々が勝手に奏でているように思えるかもしれない。しかし、それは部分観である。
 その実相は、一切の曲が、まとまって、妙法という、ひとつの大いなる交響詩を奏でているのです。個々の曲は、それぞれ曲として統一性をもち、それぞれ完全でありながら、しかも、すべてが、妙法という宇宙生命のシンフォニーに、なくてはならない曲なのです。もちろん、これは譬喩にすぎません。
6  大切なことは、たとえば地獄界なら地獄界の衆生も、自己の真実の姿(実相)、すなわち″汝自身″を知れば、じつは輝かしい宇宙生命と一体であるということです。
 しかも、その宇宙生命は、ほかならぬ地獄界という自身の現実に即して開顕する以外にない。
 「実相」という永遠の生命世界は、いつ、どこにあるか。「いま」「ここに」ある。それを悟れば仏、悟らなければ九界です。ゆえに、菩薩界が仏界に近いのでもなければ、地獄界が仏界から遠いのでもない。平等に、自己に即して仏界を開くことができるのです。
 「個々の生命(諸法)」は即「宇宙生命(実相)」である。しかも「宇宙生命(実相)」と言っても「個々の生命(諸法)」を離れては存在しないのです。
 こういう「諸法実相の生命の世界」を、大聖人は、こう表現されています。
 「心すなはち大地・大地則草木なり」と。「心」は宇宙生命と言ってよいでしょう。
 法華経以前の経典では、まだ哲学が浅いゆえに、″心(宇宙生命)から万法(個々の生命)が出生する″等と説いた。心は大地のごとく、万法は草木のごとしと。心と万法が別々です。
 しかし法華経は、そうではない。心がすなわち大地であり、大地はすなわち草木である。実相と諸法は一体である。分けられない。月も花も、ひとつひとつが、宇宙生命の全体と一つである。
 「月こそ心よ・花こそ心よ」です。
 斉藤 多くの哲学が「現象の奥に」真理を見ようとしたり、「現実の根底」に根源の一者を立てたりしました。しかし、法華経は、そうではないのですね。
 この「白米一俵御書」には「まことの・みちは世間の事法にて候」との有名な御言葉があります。「世間の事法」という現実(諸法)に即してこそ、「まことの道」すなわち実相の智慧は発揮されるわけですね。
 遠藤 法華経法師功徳品(第十九章)では、法華経を受持する人に六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が清浄になる功徳があると説きます。その中の意根の功徳をこう説いています。
 ──法華経を受持する人が説くことは、すべて実相に背かない。世間の書物や、治世の言葉や、経済の営みについて説いても、みな正法に適っている。(法華経五四九ページ、要旨)
 これを受けて天台は「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(『法華玄義』『摩訶止観』)と述べています。
 池田 法華経の偉大な功徳です。また、法華経を信ずる人のあるべき姿です。法華経を信ずる人は、善は善、悪は悪として、正しいことを説かなければなりません。それでこそ「実相と相違背せじ」となる。
7  現象を通して本質を知る
 遠藤 次元は違うかもしれませんが、中国の古典に「一葉落知天下秋(一葉落ちて天下の秋を知る)」(『淮南子』)とあります。「一葉が落ちる」姿を見て、「秋」の到来を知ることができる。あえて諸法実相に置き換えれば、「一葉が落ちる」姿は諸法、「秋」は実相でしょうか。
 池田 見えない「秋(実相)」は、見える「一葉(諸法)」に自分を映し出すのです。諸法は実相の顕れです。また諸法に顕れない実相はありません。
 須田 諸法を見て実相を知る智慧は、学者や芸術家、商売上手な人、家庭をきりもりする聡明な母など、それぞれ一面的には持っているのではないでしょうか。
 池田 当然、そうでしょう。法眼・仏眼にいたらなくとも、慧眼・天眼がある。
 何と言っても、戸田先生は鋭かった。現象を通して本質を見抜く天才だった。先生ほどの指導者は、ほかにいないでしょう。
 はじめに話題になった、日本の敗戦と荒廃の姿──これは「諸法」です。それを見て、先生は、「大仏法興隆の時」であると叫ばれた。これこそ諸法実相の智慧ではないだろうか。
 逝去された年(一九五八年〈昭和三十三年〉)の「年頭の言葉」にも書かれていた。
 「政治、労働、文化、経済、教育等々、各界がみな自界叛逆の相を呈して、五濁悪世の名にもれず、泥沼にうごめくがごとき状態を続けている。そして、これが一国謗法の総罰のすがたであるとは、だれも考えおよぶ者がいない」(『戸田城聖全集』3)と。
 遠藤 具体的には何をさして、おっしゃったのでしょうか。
 池田 政界では、組閣や閣僚ポストをめぐる内部分裂。労働界では、指導者層の、一般組合員層からの遊離。文化面では、健全な文化の育成を阻む学閥抗争──等々を挙げられていた。
 須田 そうした傾向は、今も変わっていません。問題は、なぜこうなるのかだと思いますが。
 池田 そう。戸田先生は、指摘された。
 「もともと、あらゆる機構は相争うために生みだされたものではない。それは人類福祉のために考えられ、採用されたものであったはずである」(同前)
 斉藤 まったく、その通りです。
 池田 そして結論的に、こう言われた。
 「それにもかかわらず、いま、まったく反対機能の場となってしまった理由は、一国こぞって正法に反対し、これを説く者を迫害し、こぞって誹謗正法の罪をつくっているところにある。
 すなわち、日蓮大聖人の立正安国のお教えに背いているためなのである」(同前)と。
 遠藤 「立正安国論」で大聖人は、経文に照らして警告されました。人間の根本である思想・宗教が乱れ、それを放任したまま正法に目覚めないならば、その乱れは必ず国土・社会に反映するであろうと。
 池田 思想・宗教の乱れとは、「諸法の実相」を見られない智慧の乱れであり、ひいては生命の乱れです。依正不二が実相であるゆえに、その「正報」の乱れが、「依報」である社会・国土にも不調和を起こすのです。
 須田 三災七難ですね。
 池田 大聖人の当時は、軽い難から重い難へと、順次、起こった。数々の天変地夭。権力抗争による内乱(自界叛逆難)。そして最後は、蒙古襲来という最大の難「他国侵逼難」です。
 時移り、戸田先生は「いま広宣流布の時をむかえて、難の出方が大聖人御在世と逆次にでてきている」と指摘された。つまり最初に、未曾有の大敗戦という「他国侵逼難」。そして、各界の分裂・抗争に見られる「自界叛逆難」にさしかかっていった。
 妙法に背いた罪による病は、妙法に帰することによってしか治らない。だから全民衆の幸福のためには、妙法の広宣流布しかないのだと叫ばれたのです。
 斉藤 戸田先生は、経典と大聖人の仰せに照らし、民衆のゆく末を憂えて、戦後社会という諸法の実相を洞察されたのですね。
 池田 そう。身近なことでは、広宣流布の大進展が、まちがいないという一つの証拠(諸法)として、「交通の便」の発達をよく挙げられていた。多くの人が集まれること自体、すごいことなのだと。その通りであった。
 ともあれ、諸法実相は、どこまでも「現実を変革」する哲理です。苦悩に満ち満ちた現実を絶対に離れない。逃げない。その現実のなかから、人々の仏界の生命を開発し、世界の安穏を実現していく智慧なのです。
8  「諸法実相」と「一生成仏」
 遠藤 「諸法実相」を実現するとは、個人においては「一生成仏」を、社会においては「立正安国」を実現することと言ってよいでしょうか。
 池田 その通りです。
 「一生成仏」とは、この現実の今世において成仏することです。
 成仏といっても、何か固定的な到達点のことではない。現実の真っただ中で苦闘する、その姿のままで、仏の境涯を開くのです。
 苦悩する境涯から仏の境涯へ、そして仏の境涯から現実の変革へと、常に出発していく″信心の強さ″戦い続ける″信心の強さ″。そこにしか仏界はない。
 観心本尊抄には「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」とあります。
 須田 日寛上人も「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)と言われています。「信心」によって「諸法実相」が実現できるということですね。天台との大きな違いですね。
 池田 そうです。
 天台の方法は「一心三観」と言って、諸法実相の深理を思索し、明らかに実感する修行です。瞑想が中心的な実践です。
 しかし、この方法は難しく、だれもが正しく修得できるとは限らない。確かな地図とコンパスなくして密林に入れば、たいていの人は迷ってしまうでしょう。目的地まで行ける人は少ないに違いない。
 これに対して、大聖人の仏法の修行は何か。
 「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり」と仰せです。
 また「一念三千の法門をすすぎたてたるは大曼荼羅なり」と。
 一念三千の「一念」は実相、「三千」は諸法です。御本尊は、諸法実相の御本尊であり、一切衆生の諸法実相を映す″鏡″です。中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」は実相を表し、左右の十界は諸法を代表しています。
 この諸法実相の御本尊に向かって唱える妙法の音声は、我が身の仏性を呼びます。呼ばれた仏性は、外に顕れようとします。すると、自覚するとしないとにかかわらず、胸中に「仏界の十如是」の太陽が昇る。本有の青空が、厳然と我が胸に広がるのです。
 御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経」と唱えることによって、自身(諸法)が妙法の当体(実相)と輝くのです。まさに万人に開かれた「一生成仏」の修行法です。
 外にある御本尊も「妙法蓮華経」。内なる我が一心も「妙法蓮華経」。御本尊を″信ずる″ことが、同時に、我が身の諸法実相を悟る″智慧″になっている。「以信代慧(信を以て智慧に代える)」の法門です。
9  須田 一生成仏抄にも「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」と仰せです。自分の生命(諸法)が「妙法蓮華経(実相)」そのものなのだと。
 斉藤 また、こうも仰せです。
 「我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければやがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり
 妙法蓮華経とは経典の名前だろうと思っていたら、そうではなかった。自分自身のことだった。妙法蓮華経は、本来の自分(自身の実相)を呼び顕す仏の言葉なのだと。
 須田 そのことを心の底から分かれば、どう変わるのか。御文は続いています。
 「かく覚ぬれば無始より已来このかた今まで思いならわしし・ひが思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如く・あとかたもなく成りぬる事なり
 今までずっと、自分はつまらない存在だと思い込んでいた錯覚は、跡形もなく消えてしまう。まるで昨日の夢のように。
 遠藤 その様子は、あたかも、月を覆っていた雲が晴れ、晧々たる月輪が輝き出すようであるとも説かれていますね(御書四一四ページ)。諸法の実相が分かれば、じつは仏も衆生も″一つ″であり、別々ではないのですね。
 ただ、それは私たちの生活において、具体的に、どうなることなのか。それが分からないと、諸法の実相といっても観念論のような気がするのですが……。
 池田 戸田先生は、分かりやすく教えてくださっています。
 「病気などで悩んでた人も、御本尊様を受持することによって、すなわち、安心しきった生命に変わるのだ。根底が安心しきって、生きてること自体が楽しいというようになる。生きてる自身が楽しいといったって、九界を具するのだから、ときには、悩むこともあるし、悩みが変わることもある。いままで自分のことで悩んでいたのだが、人のことに変わることもある。
 生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか」(『戸田城聖全集』2)と。
 人生には、苦もあれば楽もある。信心が深ければ、それらの諸法(諸の現象)が、すべて仏界の十如是を強めるように働くのです。「苦楽ともに」楽しめる境涯になるのです。
 大聖人が諸法実相の御本尊を顕されたことが、いかに偉大な、前代未聞のことであられるか。ありがたさが胸に迫ってきます。
 須田 そういえば、大聖人は、諸法実相について述べられた主な御書で、必ず御本尊への信心の「実践」を強調されていますね。
 池田 それは大切なことに気がついたね。
 須田 たとえば諸法実相抄には「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」「行学の二道をはげみ候べし」とあります。
 日女御前御返事には「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」と仰せです。
 池田 大聖人の仏法の根本は「信心」です。信を根本にしての「如説修行」です。
10  諸法実相の本義と実践
 斉藤 同じ法華経を拠り所としながら、この「修行」を見失ったのが、大聖人当時の天台宗です。″衆生は本来、仏なのだ。そのままで仏なのだから、どんな欲望も、どんな現実も、そのまま肯定していいのだ″と。
 池田 諸法実相の曲解です。修行の放棄であり、現実への追従です。諸法実相は、平板な「諸法イコール実相」ではない。
 諸法即実相、実相即諸法。その「即」は「イコール」ではない。大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」と仰せです。一瞬たりとも停滞せず、顕現し、冥伏し、創造し、拡大してやまない生命のダイナミズムが「即」の一字には込められているのです。
 諸法即実相といっても、あくまで仏が見た究極の真理です。迷いの凡夫が見る現実とは隔たりがある。ゆえに「人」は「真理」の実現へ向かって、絶えず近づかねばならない。それが「修行」です。諸法実相という「理想」に向かって、絶えず「現実」を超えていかねばならない。それが「変革」です。
 この挑戦を忘れると、諸法実相という立派な法理を隠れミノにして、人は現実に埋没し、無気力になってしまいます。これは恐ろしいことです。
 無気力は、権力者を野放しにする素地になるからです。権力者の側からすれば、こんなに支配しやすいことはないのです。どんな悲惨な現実があっても、その現実を民衆が肯定し、受け入れてくれるのだから。
 本来は、その反対に、生命の道に背く権力者を諌めるのが諸法実相の智慧です。それは大聖人の実践に明らかです。
 遠藤 天台宗は、法華経の「開会」の法門を曲解して、何らかの利益があると思えば、どんな教えも真実だと主張しました。″念仏も、真言も、禅も、すべて法華経だ。そう信ずるのが修行なのだ″と。
 「当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪く意得て邪義を云い出し候ぞ」と大聖人は仰せです。
 須田 いわゆる「本覚思想」ですね。大聖人は、こうした邪義と厳しく戦われました。
 「如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」と彼らの主張を挙げられたうえで、「然らず」(御書五〇二ページ)──そうではない──と破折されています。
 池田 人それぞれに良いと思っていれば、どんな教えも同じ──こうした宗教者の驕りと怠慢が、今の日本の精神風土をつくってきたとは言えないだろうか。
11  斉藤 その通りだと思います。
 正邪の峻別を嫌い、安易な「和」に溶け合うことで保身を図る。そういう「なれ合い」を「寛容」と勘違いしている。
 強力な現実には常に追従し、屈伏する。そのため、権力者と戦う民衆に対しては、権力者の手先となって封じ込めようとする。あるいは傍観し、正義を黙殺することで、悪に荷担する。
 自分たちはうまく生き延びているつもりでいて、じつは権力の魔の手に骨抜きにされていることに気づいていない……。
 須田 こうした″理想なき現実主義″ほど、人間を卑小にするものもありませんね。
 遠藤 また、本覚思想と反対の意味で極端なのが念仏の思想です。この世で仏になるのではなく、死んでから別のところに生まれ変わって幸せになるのだと主張する。
 現世で幸せになれないのなら、どこに、来世で幸せになれる保証があるというのか。つきつめれば、現世で頑張るより、早く来世に行ったほうがよいとなってしまう。現実からの逃避、現実否定の宗教です。
 斉藤 また禅宗などは、社会の現実と自分を分断し、自分だけの小さな世界に閉じこもってしまう傾向が強い。
 池田 これらに対して「諸法実相」を悟った仏とは、どういう仏か──大聖人は仰せです。
 「本末究竟と申すは本とは悪の善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」と。
 現実のこの世の「善」と「悪」を見極め、人々を救うのが諸法実相の智慧の実践です。この御文の直後に、大聖人は「智者とは世間の法より外に仏法を行ず」とされ、仏法以前の人であっても、民衆の苦しみを救った人は「教主釈尊の御使として」「内心には仏法の智慧をさしはさみ」(同ページ)行動したと仰せです。
 教条的でない、広々としたお考えが、うかがわれます。
 ″この世に埋没する″現実追従。
 ″この世に目をつぶる″現実拒否。
 ″あの世に逃げる″現実逃避──。
 法華経は、このいずれでもない。大聖人は、旧来の天台宗を、また禅宗・念仏宗を強く批判された。それらはすべて「諸法の実相」に背いているのです。法華経の諸法実相は「現実を変革する」哲学です。
 運命論には従わない。あきらめにも同調しない。それらの無力感をはね返す″バネ″を開発する。「だからこそ変えていくのだ」と闘志を奮い立たせる。そして「自分は今、何をなすべきか」と問い続ける責任感を呼び起こすのです。
12  諸法実相とは「挑戦の心」
 遠藤 そううかがって思い出すのは、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という、池田先生の小説『人間革命』のテーマです。これは法華経の智慧そのものであり、大聖人の仏法の根本精神なのですね。
 池田 私は「戸田先生の弟子」です。そこに私の根本の誇りがある。
 戸田先生は、獄中で法華経を身読された。「法華経が分かった」と主張するだけの宗教者なら、他にもいたでしょう。教祖にまでなった者もいた。
 しかし戸田先生は違っていた。あなたは仏様かと新聞記者たちから聞かれて、「立派な凡夫だよ」と語っておられた。挫折と蘇生のドラマを演ずる民衆群を抱きかかえながら、嵐の真っただ中に、厳然と立っておられた。
 人間革命──先生の人生そのものです。
 人間革命──先生はこの一言に、宗教が陥りやすい独善の罠を打ち砕いて、仏法の最高の智慧と、人間の最高の生き方と、社会の最善の道とを、見事に合致させたのです。
 須田 「一生成仏」と「立正安国」を、一言で現代の言葉に結晶させていると思います。
 池田 人間革命は即、社会革命・環境革命になる。
 諸法実相抄で大聖人は、妙楽の「依報正報・常に妙経を宣ぶ」との釈を挙げられています。依報(環境世界)も、正報(主体となる生命)も、常に妙法蓮華経を顕していると。
 天台も言っている。″国土にも十如是がある″と。
 依報も正報も、別々のものではない。不二です。ここから、人間の変革が国土・社会の変革に通じるという原理が生まれる。
 諸法実相という仏眼から見れば、森羅万象は、ひとつの生命体です。正報だけの幸福はありえない。依報だけの平和もありえない。自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。人を幸福にした分、自分も幸福になるし、だれか一人でも不幸な人がいる限り、自分の幸福も完全ではない。こう見るのが諸法実相であり、ゆえに、「現実変革への限りなき挑戦」が、諸法実相の心なのです。
 大聖人は、立正安国論を著された御心境を「ひとえに国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」と述べられています。どんな大難の嵐も、この民衆救済への炎を消せなかった。
 この御精神を受け継いで、「立正安国」の旗を高く高く掲げ、牧口先生は獄中に殉教なされた。戸田先生は、敗戦の荒野に一人立たれた。
 「法華の心は煩悩即菩提生死即涅槃なり」「一念三千は抜苦与楽ばっくよらくなり
 民衆を苦悩から救うために仏法はある。創価学会はある。人類を幸福にするために創価学会は戦う。それ以外に存在意義はありません。
 その学会とともに進む人生は、どれほど偉大か。どれほど尊いか。諸法実相の眼で見れば、「いま」「ここ」が、本有の舞台です。本舞台なのです。「ここを去つてかしこに行くには非ざるなり」です。
 「宿命」とも思えるような困難な舞台も、すべて、本来の自己の「使命」を果たしていくベき、またとなき場所なのです。
 その意味で、どんな宿命をも、輝かしい使命へと転換するのが、諸法実相の智慧を知った人の人生です。
 そう確信すれば希望がわく。出会う人々、出あう経験のすべてが、かけがえのない「宝」となる。
13  タゴールはうたった。
 「この世は味わい深く、大地の塵までが美しい」(森本達雄著『ガンディーとタゴール』〈第三文明社〉の中で紹介)と。
 彼は子を思う母の心を、こう綴っています。
 「坊や、おまえにきれいな色のおもちゃをもってくるとき、母さんにはわかります──どうして雲や水にあんなに美しい色彩の戯れがあるのかが、どうして花々が色とりどりに染められているのかが。坊や、おまえにきれいな色のおもちゃをあげるとき。
 おまえを踊らせようと歌うとき、母さんにはほんとうにわかります──どうして木の葉のなかに音楽があるのかが、どうして浪たちが耳を澄ませて聴いている大地の心臓にさまざまな声の合唱を送るのかが。おまえを踊らせようと歌うとき」(同前)
 子を慈しむ母の心には、色鮮やかな世界が輝いている。生き生きとした生命の音律が響いている。愛は、生命の個別性を超えて、「不二」という生命の実相へと心を開くからです。
 ならば全人類を慈愛で包みゆかんとする私どもの人生には、どんなにすばらしい生命の光彩が、音楽が、満ちあふれていくことか。
 「諸法実相」と確信すれば、今いるこの場所が「常寂光土」です。
 「生きてること自体が、絶対に楽しい」
 戸田先生が言われた、この大歓喜の世界を、現実の大地に創り拡げていく。その晴れやかな「挑戦の人生」を、法華経は教えているのです。

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