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方便品(第二章) 開三顕一──「師弟の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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1  斉藤 先日、池田先生がマンデラ大統領(南アフリカ共和国)と再会された記事(聖教新聞一九九五年七月六日付)を読みました。
 会談の内容も素晴らしく、何より感動したのは、前回の出会い(一九九〇年)以来、池田先生が、アパルトヘイト(有色人種への差別・隔離政策)反対を訴える″人権写真展″をはじめ、文化・教育による多角的な支援の提案を実現してこられたという″事実″です。
 池田 マンデラ大統領は「正義の巌窟王」であり、現代の英雄です。その人権闘争を支え、受け継ぐ南アフリカの人々もまた偉大です。世界への精神的影響も大きい。
 大統領のような闘士が一人いれば、皆が学び、仰ぎ、全人類の境涯が高められる。大統領の戦いを支持し、広く知らしめていくことが、人類全体の人格を高めることに通じるのです。
 世界には、血涙の苦闘のさなかの人々が、数限りなくいる。この方々にとって、大統領の行動が、勝利が、どれほどの希望の光明と輝いていることか。
 遠藤 日本にいると、なかなか分からないですね。″人権後進国″ですから。
 池田 そう。境涯を変えなければいけない。現代は文明社会全体が科学技術に頼り、経済競争に目を奪われ、自然を破壊し、殺戮兵器をつくり、不信と欲望をエスカレートさせている。
 まるで精神的な″幼児″が、危険な″火器″を弄んでいるようなものだ。人間を取り巻くものは変わったのに、人間だけが変わっていない。
 法華経の意義は、そうした未熟な人類を、賢き人類へと変革させていくことにある。「仏界」という、一人一人の内にある最高の境涯を開発することにある。全人類の境涯を高めたい──この一点に、戸田先生の願いと悩みもあった。
 ″我ら学会員こそは、「地涌の菩薩」である。「如来の使い」「日蓮大聖人の使い」と確信すべきである。この確信に立つとき、私どもは「如来の事」を行わなくてはならない。それは何か。それは一切の人をして仏の境涯におくことである。すなわち、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることである″と。
 全人類を仏に──。戸田先生は、別の折にも言われている。法華経の「開三顕一」で明かされる「一仏乗」こそ、″人類が志求すべき最高の境涯″を教えていると。ここでは、この戸田先生の達観を指標として、方便品の「開三顕一」の法門を探究してみよう。
2  法開会と人開会
 斉藤 はい。先にもふれましたが、まず基本的なことを確認しておきたいと思います。
 「開三顕一」とは、方便品に始まる法華経迹門の中心的な説法の内容を要約した言葉です。「三乗を開いて一乗を顕す」という意味です。
 「三乗」とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つをいいます。それぞれ、声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。「乗」と言われているのは、教えを乗り物に譬えています。仏の教えは、人を乗せて、より高い境涯へと運ぶものだからです。
 また「一乗」とは″唯一の教え″という意味です。仏の唯一の教えは″仏に成る″ための教えなので「仏乗」とも「一仏乗」とも言います。これには、仏自身が乗ってきた乗り物という意味もあると考えられます。
 仏自身が歩んできた道を教え、仏自身が乗ってきた乗り物を与えるのが一乗です。
 遠藤 方便品では、いわゆる「開示悟入の四仏知見」として一乗を明かしています。すなわち、衆生に仏知見を開かせ、示し、悟らせ、仏知見の道に入らせるのが、仏の唯一の教えです。またこれが、仏がこの世に出現した唯一の目的であるという意味で「一大事因縁」とも言われています。
 仏知見とは、仏の智慧であり、悟りです。一切の究極を知る最高の智慧なので、方便品では「一切種智」とも言われています。この智慧を開いて得る最高の悟りを「無上菩提(阿耨多羅三藐三菩提)」と言います。仏知見こそ、一乗が教えるものなのです。
 須田 ところが、この仏知見は簡単には分からない。言葉を超え、思考を超えているからです。人間だれしも、種々の異なった執着を持っている。
 ゆえに、いきなり随自意で仏の真意(仏知見を開示悟入すること)を説いても理解できないし、拒否したり不信を起こして悪道に堕ちてしまうかもしれない。そこで随他意として、衆生の機根に合わせた教えが必要になってくる。
 ここから仏の「方便の力」によって、衆生の生命状態に応じて説かれた教えが三乗です。それは、仏知見を教えるものではない。仏の真の目的ではない。しかし、目的である一乗を教えるためには、その衆生に対して不可欠の手段になるものです。
 池田 方便品では、三乗の教えを仏が説いた″真意″は、一乗にあることを徹底して説いている。これが開三顛一です。仏の教えは一乗だけであり、二乗も三乗もないと強く言っています。
 「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(法華経一二一ページ)とある。これは「顕一」(一乗を顕す)の面です。
 また「諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう」(法華経一二四ページ)とあるのは、「開三」(三乗を開く)の面を言った経文です。三乗は、一仏乗を仏の方便の力で説き分けたものであると。仏の真意は一仏乗にしかないことを、方便品では繰り返し強調するのです。
 このように、「三乗は方便」「一乗こそ真実」と明かして、三乗を一仏乗のもとに統一することを「開会」と言う。この開会には人と法の二面がある。
 斉藤 はい「法開会」は、今述べられたように、三乗を一乗に統一することです。統一された後は、三乗の教えも一乗のなかに正しく位置づけられ、それぞれに意義があることになります。部分観として生かされるのです。
 これに対して「人開会」とは、一乗によって教化される衆生はすべて菩薩であると明かすことです。方便品に「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(法華経一二一ページ)とあり、また「但一乗の道を以って諸の菩薩を教化して声聞の弟子無し」(法華経一四五ページ)等とあります。これは一仏乗という乗り物を示して、一切衆生、とくに声聞・縁覚という二乗に、これに乗りなさいと呼びかける。
 それによって二乗も、菩薩へと統一されます。菩薩とは「成仏を目指す人」であり、より深くは「成仏が確定した人」です。その意味で摩訶薩(偉大な人)とも言われます。
 池田 要するに、仏の教えは「一仏乗しかない」と、はっきり言うことは、一切衆生が菩薩であると示すことになる。二乗も菩薩であり、仏に成れるのです。
 人開会は、一乗の教えがすべての衆生を成仏させることを強調するものです。その要が法華経の「二乗作仏」です。この法と人の二面から見ていけば、開三顕一が理解しやすいのではないだろうか。とくにここでは、人開会つまり二乗作仏を中心に考察していきたいと思うが、どうだろうか。
 斉藤 賛成です。二乗作仏こそは法華経の独自の法門ですから。
3  二乗作仏の意義──十界互具
 遠藤 「二乗作仏」については、私も教学試験のたびに教わりました。先輩たちが必ず言うことには「二乗根性にはなるな」と(笑い)。二乗というと、頭はよいけれども、それを鼻にかけていて、利己的で、人を救おうという慈悲がなくて──という悪いイメージが強いのですが。
 池田 それだけでは、二乗がかわいそうだね(笑い)。たしかに、そういう面もあるだろうが、多くの場合、そういう人は「エセ二乗」であって、二乗を二乗たらしめている激烈なまでの「求道心」をもっていない。「真理への渇仰」がない。
 戸田先生は、皆に分かりやすいよう意味を広げて、現代において二乗とは「知識人」にあたり、本来ならば「世の宝」となる人々であるとされています。
 たとえば、ノーベル賞をいくつももらうような大学者、大哲学者をイメージすればよいかもしれない。しかも名聞名利を捨て、私利私欲を滅し尽くそうと努力している。いわゆる大人格者です。その意味では、二乗など、なろうと思っても、そう簡単になれるものではない(笑い)。
 須田 それほどの仏弟子たちが、どうして永久に成仏できないとされたのか。考えてみれば不思議ですね。
 遠藤 法華経が説かれるまでは、その嫌われ方も辛辣です。
 ″焼いた種のように絶対、仏性の芽は出ない″(『大方等陀羅尼経』巻二)とか″地獄に堕ちるほうが、まだまし″(『華厳経』)とか(笑い)。
 斉藤 二乗の修行の理想は「灰身滅智」です。煩悩のよりどころとなる肉体も、苦しみを感ずる心の働きも、すべて滅した状態を目指します。「身も心もうせ虚空の如く成るべし」と。それでは、仏になるべき自分すら残りません。
 須田 また、二乗とよく比較されるのが、三乗のなかの菩薩です。菩薩には「利他」の心があるけれども、二乗には「自利」しかない。だから二乗は成仏できないのだ、と。
 池田 六道(地獄界からから天界まで)の世界を嫌うのが二乗ですから、そこから出て″虚空の如く″になったら、もう現実世界には戻ってこない。戻ってこず、六道の衆生を救おうとしない。じつは一切衆生に恩があることを忘れてしまう。
 「永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し」。また「解脱のあなに堕して自ら利し及以および他を利すること能わず」です。救うべき人々を見捨ててしまっては、もはや仏法ではない。また、それでは自分も救われない。ゆえに「一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり」とされたのです
 須田 そうしますと″不知恩な二乗なんか放っておいて(笑い)、菩薩になればいいじゃないか″となるのが普通だと思うのですが。
 池田 それが三乗のうちの菩薩乗だね。しかし、″二乗は成仏できない。菩薩なら成仏できる″──じつはここには、重大な矛盾がある。ここのところを掘り下げれば、法華経が説かれなければならなかた理由も分かってくるのです。
 かりに二乗を放っておいて、菩薩になったとしよう。しかしそれでは、二乗が六道を救わないのと同じく無慈悲なのです。
 菩薩は「四弘誓願」といって、成仏を目指して四つの誓いをした。その一つ、「衆生無辺誓願度」とは、すべての衆生を救わんとすることです。二乗を不作仏のまま見捨てるなら、菩薩は、この誓いを捨てたことになる。誓いを捨てれば成仏はできない。
 大聖人は「所詮しょせんは二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願のくるが故なり」と仰せです。
 爾前経では″菩薩は仏になれる。二乗はなれない。このことを菩薩は悦び、声聞は嘆き、人界・天界の衆生等は思いもかけない″(御書四〇一ページ、趣意)等というが、ここに大きな錯覚がある。菩薩も、自分だけは大丈夫だと笑ってはいられないのです。
 遠藤 道理ですね。
4  池田 なぜ、こういう錯覚と矛盾に陥ってしまうのか。結論から言えば、法華経以外は「十界互具」ではないからです。
 須田 十界とは、地獄界から仏界までの十種類の生命の境涯ですが、十界互具とは、十界のうち、すべての一界に、そのほかの九界が具わっていることです。御書には「十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し……」とあります。
 斉藤 十界互具のポイントは「九界即仏界」「仏界即九界」にあります。そのうち迹門では「九界即仏界」が表になっています。二乗も含む九界に、仏界が具わっていることを明かします。
 池田 端的に言えば、仏界とはどこにあるか。ほかでもない、二乗界にある。逆に、二乗界とはどこにあるか。ほかでもない、菩薩界にある。また仏界にもある。生命観の大転換です。
 斉藤 「十界互具」の生命観に立てば、菩薩が「二乗は嫌だ」と言ってもだめなんですね。「それは、お前のなかにも、あるじゃないか」となる(笑い)。
 遠藤 二乗が成仏できないとすれば、菩薩に具わる二乗界が成仏しないことになる。生命は、そこだけ切って捨てるわけにはいかないので(笑い)、菩薩そのものが成仏できないことになります。
 須田 大聖人が「菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり」とおっしゃっているのは、そのことですね。
 池田 そうです。この原理は、十界の各界すべてについて同じです。
 「二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず」と仰せの通りです。
 「二乗不作仏」ならば、仏ですら、仏ではありえなくなる。仏の中の二乗界が成仏しないからです。法華経以前の経典には、十界それぞれの因果が別々に説かれている。しかし、そこで説かれる成仏には実体はなく、″影″のようなものです。
 法華経には、その十界の因果の「互具」が説かれている。ゆえに法華経によって初めて、十界すべての衆生の成仏が可能となるのです。「十界互具」が説かれるか否か。ひとえに、ここにかかっている。
 遠藤 「法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり」──法華経とはほかの何を説いているのでもない。十界の因果は爾前の経に明かしているが、今(今経〈法華経〉)は十界の因果の互具こそを定めている──と、大聖人が明言されている通りですね。
 斉藤 そうしますと、成仏できないと聞いた二乗の嘆きは、菩薩にとっても″他人ごと″ではなかったと言えますね。
 池田 そこなのです、大事なのは。
 大聖人は「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり」と仰せです。
 そして「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生」という考え方を示されている。
 十界互具になる前は、他の衆生のことは、あくまで″他人ごと″であった。それが十界互具になって、″人の成仏は自分の成仏″″人の不成仏は自分の不成仏″と受け止めていく生き方に転換している。これは生命観、世界観の大変革です。
 「他人だけが不幸」はありえない。「自分だけが幸福」もありえない。他者のなかに自分を見、自分のなかに他者との一体性を感じていく──「生き方」の根底からの革命です。
 すなわち、人を差別することは、自分の生命を差別することになる。人を傷つければ、自分の生命が傷つく。人を尊敬することは、自分の生命を高めることになる。
 斉藤 「十界互具」の生命観に立てば、人間は差別を超えられる、平等になれるということですね。
5  池田 その通りです。
 「権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり」と大聖人は仰せです。法華経は、単なるスローガンとしての平等ではなく、生命の法理のうえから、そして「生き方」の根源から、自他共の幸福への道を教える経典なのです。そして大聖人は、末法は「南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり」と教えてくださっている。
 遠藤 法華経に説かれる「不軽菩薩」は、十界互具の生命観を「振る舞い」に示したものですね。不軽菩薩は軽蔑されても、迫害されても、上慢の四衆(慢心した出家・在家の男女)に向かって礼拝行を貫きました。
 池田 くわしくは不軽品(第二十章)のところで語ることになると思うが、大聖人は「自他不二の礼拝」と仰せです。
 不軽菩薩が人々を礼拝すれば、人々の生命に具わる仏性がまた、不軽菩薩を礼拝するのであると。甚深の法門です。
 英国の詩人ジョン・ダンは言っている。
 「人は孤島にあらず。自身のみで完全なる者はなし。人はみな大陸をなす一部なり。大海原の一部なり。波きたりて土くれを洗いゆけば、洗われしだけ、ヨーロッパは小さくなれり。さながら岬の消えゆくごとく、さながら汝の友そして汝自身の領地の消えゆくごとく。一人の死も我を小さくせん。我は人類の一部なるゆえに。されば、誰がために(弔いの)鐘は鳴るやと問うなかれ。汝自身のために鳴るなり」(『Devotions upon Emergent Occations〈邦題・危機に際しての祈り〉』McGill─Queen's University Press 1975)と。
 「あなたも私も、人類という大陸の一部」──すべての人の幸不幸を我が幸不幸と観じて生きる″大陸大の境涯″を開きたい。
 否″宇宙大の境涯″を開かせたいというのが、戸田先生が強調された「一仏乗」の目的であり、「開三顕一」の心ではないだろうか。そこまで人類の境涯を高めたいと。
 須田 目がさめるような思いがします。二乗作仏には、ここまで現代的な意義があったわけですね。
 池田 ただ、ここで論じたのは「迹門の十界互具」であって、「九界即仏界」「仏界即九界」の両側面のうち、「九界即仏界」の面だけです。真の十界互具は、本門の寿量品(第十六章)で、仏の常住が明かされて初めて完成する。これはまた、別の機会に語ることにしよう。
6  真の仏子となった声聞
 須田 釈尊は法華経を「大乗平等の法」(法華経一三〇ページ)と呼んでいますが、こうした、「最高の法」「最高の生き方」を知った二乗の喜びは、どれほどだったでしょうか。
 遠藤 経文では、舎利弗は歓喜のあまり思わず踊りあがって、釈尊に向かって合掌したと説かれています。「踊躍歓喜。即起合掌」(躍りあがって歓喜し、起ちあがって合掌した)」(法華経一四八ページ)と。
 斉藤 ″智慧第一″の大学者が、躍りあがるぐらいですから(笑い)、よほどうれしかったのでしょう。法華経によって蘇った「声聞」の姿ですね。
 池田 根底から一念が変わったのです。
 そして舎利弗は、一仏乗を納得してこう告白しています。
 「今、仏から未曾有の法を聞いて、すべての疑いや悔いがなくなり、心身ともに安穏になりました。今日はじめて知りました。自分は真の『仏子』です。仏の口から生まれ、仏の教化から生まれたのです」(法華経一四九ページ、趣意)と。
 この「仏子」という言葉は、大乗では菩薩を意味します。舎利弗は一仏乗を信解して、声聞から菩薩に生まれ変わったのです。
 遠藤 このことは、「三車火宅の譬え」を聞いて開三顕一を会得した迦葉、目連(目犍蓮もっけんれん)等の四大声聞の場合も同じです。
 彼等は、信解品(第四章)で「我等は今、真の声聞になった。仏道の声を一切の人々に聞かせていこう」と述べています。すなわち″教えの声を聞く声聞″から、″教えの声を聞かせる真の声聞″へと生まれ変わった。
 池田 そう。開会されれば、声聞は声聞の姿のままで、「如来の使い」としての本来の使命を果たせるようになるのです。
 斉藤 声聞たちは、さらにこう変わりました。
 「世尊は大恩をくださった。希有なることをもって、憐れみ、教化して、私たちに利益を与えてくださった。無量億劫という長い時間をかけても、だれがその恩に報いることができるであろうか。できるはずがない」(法華経二三六ページ、趣意)
 「不知恩」とされた二乗が、仏の大恩を賛嘆している。これは一八〇度の転換です。
 須田 そして、釈尊が言います。
 「汝たちの修行するところは、菩薩の道である。だんだんと学を修めていって、ことごとく必ず仏となるべきである」(法華経二五五ページ、趣意)
 「多くの菩薩たちが声聞・縁覚となって、多くの衆生を教化するのである。彼らは、内に菩薩の行を秘め、外には自分は声聞であるという姿を見せている。生死の輪廻を厭うなど、(いかにも声聞らしくしているけれども)じつは、みずから仏の国土を浄めているのである」(法華経三三〇ページ、趣意)と。
 池田 あなたがたは自分を声聞だと思っているけれども、じつは「菩薩」なのですよ。あえて声聞の役を演じながら、人々を仏道に向かわせているのですよ──こう教えているのだね。
7  一仏乗とは師弟不二の道
 須田 方便品でも、一仏乗はただ「菩薩」だけを教化する教えであることが強調されています。
 ここで分かりにくいのは、一仏乗を信解した菩薩と、もとの三乗のうちの菩薩との関係です。両者は同じなのか異なっているのか。異なっているとすれば、どう違うのか。
 遠藤 この問題は、中国仏教では、三車家・四車家の論争として知られています。譬喩品では三車火宅の譬えによって開三顕一を説いています。
 そのくわしい内容は省きますが、声聞乗が羊の車に、縁覚乗が鹿の車に、菩薩乗が牛の車に、そして一仏乗が大白牛車に譬えられています。
 したがって、菩薩乗(牛車)と一仏乗(大白牛車)が同じだとする立場は、車が三つだけあることになりますから三車家、違うとする立場は、四つになるので四車家と呼はれました。天台大師は四車の立場です。
 池田 いろいろな論じ方ができると思うが、一次元の見方として、こう考えたらどうだろう。
 一乗が顕される前の三乗の仏弟子たちは、一応、「師弟の道」を歩んでいた。しかし、開三顕一は「師弟不二の道」を歩むことを教えていると。
 斉藤 「師弟」から「師弟不二」へ──それは、どういうことでしょうか。
 池田 「三乗」のなかの菩薩は「二乗不作仏」という差別を残した菩薩です。「十界各別」であり、ゆえに菩薩が衆生を救うこともできず、菩薩自身が仏になることもできない。
 それに対し、仏の願いは一切衆生を仏にすることにある。
 師弟の境涯の違いは致し方ないとしても、師と弟子の「心」が、「願い」が、「哲学」が、根本的に違っているのです。
 一方、「開三顕一」された後の菩薩は″蘇生した声聞たち″も含め、すべての衆生が平等に成仏できるという「十界互具」の法理に立っている。
 そして、この大哲学の上に、すべての人々を仏にしようという大闘争の軌道に入った。そこで初めて、仏が歩んでいるのと同じ道に入った。根本の一念において、師弟が目的を同じくする同志となり、「不二」の道を歩む先輩と後輩の関係になった。そのように進んでいくのが、真の師弟なのです。
 斉藤 なるほど、そういう見方ができるのですね。
 池田 しかも、現実社会という″海″に飛び込み、民衆一人一人を幸福への″大船″に乗せていく──この戦いにおいては、仏もまた菩薩なのです。大聖人は十界互具を説明されて、「仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり」と仰せです。
 ともあれ、師の心は「如我等無異」です。方便品に「一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき」(法華経一三〇ページ)とある。すべての衆生に、仏と不二の境涯を得させようという慈悲です。
 また「諸仏の本誓願は 我が所行の仏道 普く衆生をして 亦同じく此の道を得せしめんと欲す」(法華経一三八ページ)と。同じこの道を歩ませたい、不二の道を会得させたい──これが仏の「本誓願」です。
 もちろん、法華経以前の三乗も、仏を信じてついてきた。それなりに「師弟の道」を歩んできたでしょう。しかし、そこには自分は自分、仏は仏という断絶の心があった。師の心を知らなかった。その迷妄を破ったのが法華経です。
 「開三顕一」とは、「師弟の道」から「師弟不二の道」へと、弟子の一念、弟子の生き方を、根底から変革させるものではないだろうか。
8  須田 よく分かりました。先ほど話に出ましたが、舎利弗は一仏乗を聞いて、自分が「真の仏子」であると確信しました。「不二」の意義は、この「仏子」という言葉にも込められているのではないでしょうか。
 池田 そうだね。戸田先生は言われていた。
 「かじ屋の弟子であるから、かじ屋でしょう。魚屋の弟子だから魚屋でしょう。同じように仏様の弟子は仏様でしょう。うまくいっています」「(われわれも)大聖人様の仰せ通り折伏しているのですから、大聖人様の弟子なのです」(『戸田城聖全集』6)と。
 また「われわれは仏様の子供です」と、何度も強調されていた。
 自覚しようとしまいと、「ライオンの子」は「ライオン」です。「仏の子」は「仏」です。他の何ものでもない。ライオンであるという事実、仏であるという事実に変わりはない。それを「自覚」すれば「不二」の道となる。
 遠藤 「仏子」とは、声聞とか縁覚とか菩薩とかの立て分けを超えた言葉ですね。具体的な振る舞いは、菩薩だと思います。
 「仏子」という言葉には、弟子を「不二」の境涯に高めたいという師の慈愛、そして、どこまでも師と「不二」の心で進むのだという弟子の決意が込められているのではないでしょうか。
 池田 その通りだと思う。
 仏にとっては、十界の衆生すべてが「吾が子」です。そのなかでも、妙法を受持した衆生こそが「真の仏子」と言えるでしょう。
 宝塔品(第十一章)に「(未来の世において法華経を持つものは)是れ真の仏子」(法華経三九四ページ)と説かれる通りです。
 斉藤 法華経が滅後のための経典であることを考えれば、「真の仏子」とは、具体的には「地涌の菩薩」を指すといってもよいのではないでしょうか。
 池田 そうです。
 「子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり」と、大聖人は仰せになっている。師と同じ誓願、同じ責任感、すなわち師弟不二に立ち上がった弟子が「地涌の菩薩」です。そして、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せです。この同意に意味がある。
 日蓮大聖人の御誓願を我が誓願として、今まさに広宣流布へ進んでいる創価学会こそ、久遠の使命を担った「地涌の菩薩」の教団です。大聖人と一体の弟子の集まりなのです。
9  遠藤 しかし、学会員が地涌の菩薩であると、言わせないようにしてきたのが宗門です。「地涌の菩薩」ではなく、せいぜい「地涌の菩薩の眷属」なのだと。
 須田 眷属というなら、私たちは日蓮大聖人の誉れの本眷属です。堕落した坊主の眷属などでは絶対にない。
 斉藤 だいいち、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との大聖人のご明言を、彼らはどう拝すのでしょうか。
 須田 日寛上人も、大聖人と「不二」の境涯になるのが、大聖人の仏法の真髄であることを強調されています。
 「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」(文段集六七六)
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集五四八)と。
 遠藤 その御精神とは正反対に、「不二」にさせまいとするのが日顕宗です。大聖人の弟子が大聖人と「不二」の道を進むことが、彼らには、よほど都合が悪いのでしょう。
 須田 「不二」たるべき師と弟子を、どうしても引き離したい。要は、そのすき間に、自分たちが入り込んで、弟子たちの上に君臨したいのです。
 大聖人の凡夫即極の教え、それを受けた日寛上人の御教示を、まっこうから否定するものです。
 斉藤 「本仏」という言葉さえ、彼らにとっては、自分たちを権威化する手段となっています。
 大聖人を、凡夫から隔絶した超絶の存在のように思わせておいたほうが、法主をはじめとして自分たちの権威も高まるという邪智です。
 池田 大聖人を崇めているようで、じつは大聖人のお心を殺しているのです。
 最高の「人間尊敬の教え」を、最低の「人間蔑視の教え」に、すり替えてしまっている。民衆を蔑視する傲慢ゆえに、大聖人の説かれた「不二」の道を壊したいのです。
 ドストエフスキーは洞察している。
 「傲慢な人物は多く神を信じますよ。ことに幾分かは人間を軽蔑している人には、それがいっそう著しいです」「原因はきわめて明らかです。彼らは跪拝したくないために神を選ぶのです。(中略)神の前に跪くのは、それほど屈辱じゃありません」(『未成年』米川正夫訳、「ドストエフスキー全集」11、河出書房新社)
 傲慢な人間は、人に頭を下げたくないから神を敬う。神に頭を下げるのであれば、自分の傲慢は傷つかず、何ら苦痛ではないからだ──と。
 文豪の、非常に鋭い″心理学者″の一面をのぞかせている。
10  斉藤 この言葉の「神」を、彼らの言う「凡夫と隔絶した御本仏」と置き換えれば、その心理は、より明瞭ですね。
 遠藤 彼らがひざまずいているのは、じつは大聖人の教えに対してではなく、自分自身の醜い欲望に対してなのですね。
 池田 堕落した人間に惑わされることほど愚かなことはない。
 要は、見抜けばいいのです。
 「師弟不二」こそ法華経の魂であり、日蓮大聖人の仏法の真髄です。その一番大事なものを壊し、切り離そうとする。
 それが「魔イコール奪命者」の特徴です。
 「不二の道」の否定は、十界互具の否定、人間の平等に対する冒涜にほかならない。この一点に、日顕宗の本質が顕れている。
 日淳上人は、学会の信仰の基盤は「師弟」にあると、厳然と見抜いておられた。学会の第十九回総会(一九五八年十一月)のために用意された日淳上人の原稿には、こう残されている。
 「大聖人は日蓮が法門は第三の法門と仰せられておりますが、誠に此の仰せを身を以て承けとられたのは会長先生(=戸田城聖第二代会長)であります。大本尊より師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるのであります」と。
 須田 重大な御言葉ですね。
 「師弟の道」と「師弟不二の道」の違いについて、忘れられないのが、池田先生の小説『人間革命』です。戸田会長と山本伸一(=池田大作第三代会長)の「不二」の戦いについて第十巻には、こう描かれています。
 「戸田は彼の膝下から多くの指導者の輩出のために心を砕いていたものの、時機はまだ熟していなかった。
 彼の弟子たちは、師弟の道は心得ていたが、広布実践のうえの師弟不二のなんたるかを悟るものはほとんど皆無といってよかった。不二とは合一ということである。
 昭和三十一年の戦いに直面したとき、彼の弟子たちは戸田の指導を仰いだが、彼らの意図する世俗的な闘争方針を心に持しながら、戸田の根本方針を原理として聞き、結局、彼らの方針の参考としてしか理解しなかった。戸田の指針と彼らの方針とは、厳密にいって不同であったのである。師弟の道を歩むのはやさしく、師弟不二の道を貫くことの困難さがここにある。
 ただかろうじて、山本伸一だけが違っていた」
 「その彼の作戦の根本は、戸田の指針とまったく同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった」
 「彼は一念において、すでに戸田の一念と合一したところから出発していた」
 斉藤 「師弟不二の道」とは、師と同じ心、同じ祈りに立って戦っていこうとすることだと感じます。
11  池田 法華経の説く「十界互具」こそ、万人の境涯革命を可能にする根本原理です。この智慧を我が身で行い、万年の未来へ伝えていかねばならない。その黄金の軌道こそ「師弟不二の道」なのです。
 広げて言えば、どんな事業も運動も、偉大なものは一代では完成しない。後継者が絶対に必要です。
 マンデラ大統領との最初の出会いのさいに、私は言いました。
 ──「マンデラ」という偉材が、ただ一人いるだけでは、あなたの仕事は完結しません。一本の高い樹だけでは、ジャングルはできないように──。(一九九〇年十月に会見。当時、アフリカ民族会議〈ANC〉副議長)
 今回の会見でも後継者についておうかがいし、大統領は心配ありませんと自信を示しておられた。
 大聖人は「伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」と仰せです。
 法華経の涌出品(第十五章)で、民衆救済の真の後継者である地涌の菩薩が出現したとき、釈尊は、この菩薩たちとの久遠からの師弟不二を明かそうとして告げた。「如来は今、師子奮迅の力を顕し宣べ示さん」(法華経四六三ページ、趣意)と。
 大聖人は、末法万年の衆生を救う御本尊を「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ」と残された。
 そして御本尊を認められる御一念を「師子奮迅之力」と仰せになられた。
 全民衆のために、永遠の人類のために──その魂こそ「師子奮迅の力」である。師から弟子への全力の教育であり、鍛錬です。
 また「師子」の「師」は師匠、「子」は弟子とすれば、師弟一体となって、奮迅の力で、「人類の境涯を変える」戦いをするよう、法華経は呼びかけているのです。

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