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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) 方便──巧みなる「人…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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13  如我等無異──人材育成の心
 須田 学会活動も、自分の立場で、自分なりの「自己教育」「人間教育」に取り組んでいくことが大事ですね。
 池田 そこなのです。弘教はもちろん、人材育成も、すべて法華経の精神にかなった実践です。また他の文化的・社会的活動も、人材を育て、仏縁を広げる方向へ向いてこそ、深い意味がある。方便品に「如我等無異(我が如く等しくして異ること無からしめん)」(法華経一三〇ページ)とあります。
 一切衆生を、自分と同じ境涯まで高めたいという仏の誓願です。ここにこそ、人材育成の精神、「人間教育」の精神の根本があると思う。それが「師弟」の心です。
 もちろん、自分もさらに成長していく立場ですから、″自分と同じように″というより、″この人を自分以上の人材に育てよう″という決意が「如我等無異」に通じるでしょう。
 斉藤 人を育てるどころか、″自分以上に偉い者は認めない″というのが日顕宗ですね。法華経と正反対です(笑い)。誤った宗教は、皆そうです。
 池田 後輩のために、どれだけ祈ったか、苦労したか。その慈愛と真剣さに「人間性」の真髄がある。
 学会は「人間性の組織」です。ゆえに権威でも号令でもない。「人間性」に触れる感動とともに前進していくのです。
 ロシアの民衆詩人プーシキンの詩才を育てたのも、農奴の一老婦人の人間性でした。詩人は彼女を「おかあさん」と呼び、心から信頼した。世界の人々の心を揺さぶってやまない彼の作品は、「おかあさん」から聞いた、民衆の言葉による民衆の物語が源になっている。
 また″三重苦″のヘレン・ケラーを、ハーバード大学にまで行かせたのは、サリバン先生という女性です。彼女は自身の才能や可能性の一切を犠牲にしてまで、生涯ヘレンの目となり、耳となって働いた。
 サリバン女史の晩年、ある大学から二人に名誉博士号が贈られることになった。しかし女史は断った。「愛する教え子のヘレンが名誉をうけただけで、わたくしはこの上もなくまんぞくです」(村岡花子『ヘレン・ケラー』偕成社)と。
 一度は辞退したが翌年、女史にも称号が贈られるが、その四年後、女史は亡くなる。そのとき、ヘレンは決意する。
 「先生は、自分のような者のために、その一生を捧げきって死んで行かれた。それこそ完全な奉仕の生涯である。残されたわたしこそ、その連続でなければならない」(ヘレン・ケラー『わたしの生涯』岩橋武夫訳〈角川文庫〉のの「解説」〈岩橋英行〉で紹介)。
 そして全世界を舞台に、彼女は、目の不自由な人たちへの救援運動を展開していったのです。
 こうした、地道な一人の婦人。生涯、表舞台に出ることのなかった一教師。「人間教育」の勇者とは、こういう人たちのことではないだろうか。
 その意味で、妙法を胸に日夜、人材育成に奮闘している学会の同志が、どれほど尊く、どれほど偉大な存在か。
 方便品に「是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり」(法華経一〇九ページ)──この法は(言葉で)示すことができない。言葉の表現は滅し尽きてしまっている(この法を示すのに遠く及ばない)──とある。
 妙法の偉大さが、言葉では表現できないと同じように、妙法に生きる人生の偉大さも、言葉では言い表せないのです。
 斉藤 ″人を育てる″ということについて、以前、先生が語ってくださった魯迅の言葉が忘れられません。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一〈東方書店〉で紹介)と。
 池田 今、私も全く同じ気持ちで、青年を育てている。諸君も、そういう人生を歩んでほしい。それが法華経を信ずる人の生き方であり、「師弟不二」です。
 そして、師と弟子が一体となって、人類を潤す人間性触発の教育運動を繰り広げていく──その闊達な社会貢献そのものが、一つの次元から言えば、仏界即九界、九界即仏界であり、ダイナミックな「秘妙方便」の行動になっているのです。

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