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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) 方便──巧みなる「人…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  池田 今は乱世です。思想も社会も乱れている。
 そうしたなか、心ある人々は、日本と世界の行く末を真剣に考え始めた。このままでは、柱のない家のように、人間も社会も崩れていくのではないか──そういう危機感を強く抱いているようです。
 そして、人間が人間として、どう生きるのが正しい軌道なのか、その「道」を模索している。宗教についても、遠い無関係の世界のものとしてではなく、どう見ればよいのか、どう考えればよいのか、どう関わるべきなのか、切実な関心が寄せられ始めたようだ。
 その意味でも、この座談会で、法華経を通して「二十一世紀の宗教」を考えていくことは重大な意義があると思う。
 きょうも、語りに語っていこう。
 斉藤 はい、よろしくお願いします。
 ここから、いよいよ、方便品(第二章)です。私たちは、朝夕の勤行で読誦していますので、親しみがあります。また、池田先生による「方便品・寿量品講義」も聖教新聞紙上で連載されています。(一九九五年五月から九六年三月まで四五回連載)
 方便品は、法華経二十八品の中でも、譬喩品(第三章)、化城喩品(第七章)についで長い章です。私たちが読誦している、冒頭から諸法実相・十如是までの部分は、方便品全体の二十分の一ほどにすぎません。しかし、日寛上人は、そこまでに方便品の最重要の法門が説かれていて十分であると延べられています。
 池田 そうだね。法門的に見れば、方便品は、本門の寿量品(第十六章)とともに、法華経の最重要の章です。南無妙蓮華経の意義を知るうえで方便品の理解は欠かせない。その意味でも、初めに方便品全体の展開を見ておいたらどうだろうか。
2  方便品の展開
 須田 はい。釈尊は序品(第一章)で無量義処三昧という瞑想に入っていました。方便品では、釈尊がこの三昧から立ち上がり、突然、舎利弗に対して「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり」(法華経一〇六ページ)と、″仏の智慧の素晴らしさ″を語り始めます。
 池田 法華経における釈尊の第一声だね。この第一声に意味がある。法華経が仏の智慧をそのまま説こうとした随自意の教えであることが劇的に表現されています。
 甚深無量の仏智は、仏にしか分からない。だから釈尊が、だれに問われるのでもなく、みずから諸仏の智慧を賛嘆し始めたのです。方便品冒頭の説法が「無問自説」(『法華文句』)の形式を採っているのも、問うことさえできないほど、仏の智慧は深く、無量だからです。
 遠藤 たしかに、仏が成就した法は「未曾有の法」であり「第一希有難解の法」であるから、仏以外には分からないと説いています。
 池田 「唯だ仏と仏のみ諸法の実相を究尽したまえり(唯仏与仏、乃能究尽諸法実相)」(法華経一〇八ページ)とあるね。
 智慧第一とたたえられた舎利弗に向かって「お前たちにはとうてい分からない」と、いきなり決めつけ(笑い)、突き放したわけですから、皆、驚いたことでしょう。
 須田 対告衆になった舎利弗は、ショックで心臓が止まりそうになったかもしれませんね(笑い)。
 斉藤 舎利弗は、いわば二乗のチャンピオンであり、自他ともに一番優秀だと認めていた。その舎利弗の智慧も遠く及ばないと宣言することで、仏の智慧の素晴らしさが強調されているわけです。
 遠藤 作劇法としても、見事ですね(笑い)。ドラマチックな効果をあげています。
 池田 その通りだ。そこで問題は、その智慧の中身は何かということになる。
 遠藤 方便品では、仏と仏とが成就した法を「諸法実相」と表現しています。天台はこれを一念三千の法理として展開し、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と説かれました。
 池田 そう。したがって、方便品の冒頭での仏智の賛嘆は、文底から言えば、南無妙法蓮華経の賛嘆にほかならない。そこに、私たちがこの部分を読誦する最大の理由があります。
 それでは、「妙法」という真実の「仏の智慧」を説き出した章が、なぜ「方便品」になっているのだろうか。
 遠藤 なぜ「仏智品」でもなければ「真実品」でもないのか──たしかに、ここに方便品の核心があると思います。
3  須田 それを考えるうえでも、もう少し、方便品の説法の流れを追いたいと思います。
 仏の智慧を賛嘆してやまない釈尊に対し、一座の疑問を代表して、舎利弗が「ぜひ仏の真実の法を説いてください」と嘆願します。三回お願いして、やっと三回目に釈尊は応じ、説き始めようとする。
 遠藤 その大事な時に、五千人の増上慢の僧尼や信者が座を立っていってしまいます。釈尊は、去る者は追わずで、構わずに黙って去らせます。(法華経一一八ページ)
 池田 この「五千の上慢」については、いろいろ論ずべきことがあるが、増上慢の人間は、一番大事な時にいなくなるものです。
 釈尊は、巌然と舎利弗に宣言する。
 「是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし」(法華経一一九ページ)
 そして諸仏がこの世に出現した目的──「一大事因縁」とは、衆生をして仏知見(仏の智慧、仏界)を開かしめ、衆生に仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見の道に入らせることであったと教えるのです。
 須田 要約しますと、「諸仏・世尊は、ただひとつの偉大な仕事を目的として(一大事因縁)のためにのみ、出現される」と説かれます。
 そして、その「特別に大事な目的」の内容が、「開・示・悟・入]の「四仏知見」として明かされます。
 池田 衆生の仏知見(仏界)を開かせるということは、衆生に仏知見がそなわっているということです。仏知見があるのは、衆生が本来、仏だからです。つまりこれは「衆生こそ尊極の存在なり」という一大宣言なのです。
 遠藤 いわゆる「三乗方便・一乗真実」ということですね。
 「三乗」とは、二乗(声聞乗・縁覚乗)と菩薩乗です。乗とは、″迷い″から″悟り″へ運ぶ乗り物のことで、仏の教えのことです。声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。
 しかし、三つの別々の教えがあるのではない。仏の教えには、ただ「一乗」があるだけだと言うのです。「一乗」とは″唯一の教え″という意味です。それは″仏に成るための教え″であるから「一仏乗」とも言います。
 池田 衆生の側から見ると、三乗という別々の教えを説かれているように見えるが、仏の側から言えば、ただ一仏乗があるのみだということです。
 「一仏乗」とは、全人類を仏にする、全人類を「開示悟入」させる教えです。
 須田 三乗は、一仏乗に導き入れるための「方便」の教えであり、仏の「真意」は一仏乗にあるということですね。
 方便品では、この三乗を開いて一仏乗を顕すという「開三顕一」について、過去の諸仏、未来の諸仏、現在の十方諸仏、そして釈尊自身に当てはめていきます。それぞれの中には、種々の大切な法門が説かれていますが、ここでは省略します。要は、釈尊も含めて一切の仏が教えを説く真意は、一仏乗にあると言うのです。
 なお、開三顕一の説法は方便品で終わるわけではありません。人記品(第九章)まで続きます。法華経前半(迹門)の大テーマと言えます。
4  「方便」について
 池田 方便品全体の流れを見ると、開三顕一が主題となっているが、その前提として「方便」の思想があることが分かる。じつは、迹門の開三顕一だけでなく、本門寿量品の開近顕遠の説法においても「方便」はキーワードになります。つまり、始成正覚が方便で、久遠実成が真実であると明かされていく。
 斉藤 法華経全体から見れば、開三顕一以上に「方便」のほうが重大なテーマだとすら言えるかもしれません。
 遠藤 方便品の「方便」は、サンスクリット本では「ウパーヤ・カウシャリヤ」と記されています。「ウパーヤ」という語は、英語でいうと「アプローチ」に当たり、「接近」「接近の手だて」という意味です。「カウシャリヤ」とは「優れた」「巧みな」という意味です。したがって、方便品の「方便」とは「巧みなる接近(の手だて)」という意味になり、漢訳では「善巧方便」と訳されます。
 池田 要するに「方便」とは、衆生を成仏へと導く「教育」の方法であり技術です。人間の偉大な可能性を、最大に開花させる──ここに法華経の心があり、そのために「方便」を説く。方便とは、広い意味での「人間教育」の手だてといえないだろうか。
 じつは、初代会長・牧口先生が教授法を図式的に記したメモに「1開 2示 3悟 4入」とあるのです。牧口先生は、仏が衆生を導く方法を、教育方法として取り入れられていた。
5  遠藤 それは知りませんでした。しかし、とても納得できます。
 牧口先生の教育の主眼は、どこまでも生徒自身の可能性を開くことでした。「知識の切り売りや注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ」(『創価教育学体系』、『牧口常三郎全集』6、趣意)と。
 池田 牧口先生は、教育の混乱の原因は、その目的があいまいなことであるとし、「教育の目的は児童を幸福にすることである」とされた。当時、″国家の役に立つ″人間をつくるのが教育の目的であると多くの人々が考えていた時に、余りにも画期的な「児童本位」「人間本位」の教育観であった。
 この信念から、創価教育の眼目も、一人一人が「幸福になる力を開発する」こととされたのです。
 そして、医学にも技術があり、農業にも工業にも技術があるように、教育にも技術が必要である。機械的な「注入主義」でも、無策の「人格主義(感化主義)」でもいけないと主張された。技術──すなわち「方便」です。
 そして教師を「無技術」「技術」「芸術」と三段階に分けられたのです。
 どう子どもたちを幸福にするか。どう子どもたちの「幸福になる力」すなわち「価値創造の力」を引き出し、開示悟入させるか。この一点に、牧口先生は全精魂を傾けられた。
 それは学者の机上の教育論ではなく、現実の教育実践の中で、子どもたちを愛し、子どもたちを救いたいという慈愛から生み出された教育の体系であった。
6  斉藤 子どもたちへの慈愛から生まれた知恵だった──そこに創価教育学の生命があると思います。
 それで思い出されるのが、釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。
 なぜ釈尊は逡巡したのか。そのときの様子を、方便品には、こう説かれています。
 「私は仏眼をもって衆生を見た。彼等は貧しく、幸福への智慧もなく、生死の苦しみは絶え間なく続いている。欲望に執着するありさまは、牛が自分の尻尾を追うがごときである。貪りで自分自身をおおい、『大いなる仏』と『苦悩を断ずる法』を求めようとしない。このような衆生のために、私は大悲の心を起こした」(法華経一三九ページ、通解)と。
 遠藤 そして、衆生の余りの救い難さに愕然としたのですね。
 「どのように救えばよいのか。悟った法をそのまま説くと、彼等は信ずることができなくて、反対に法を破壊し、悪道におちてしまうだろう。それなら、いっそのこと説かないでおいたほうがよいのか。過去の仏と同じような方法で説くべきか」(法華経一四一ページ、趣意)
 斉藤 その時、十方の仏が、釈尊をこう励まします。「すべての仏と同じように、方便力を用いなさい。私たちも皆、そうしてきたのだから」(法華経一四二ページ、趣意)
 それを聞いて釈尊は「仏のおっしゃる通りにします」と喜び、決意する。
 「我濁悪世に出でたり 諸仏の所説の如く 我も亦随順して行ぜん」(法華経同ページ)
 この場面は、先生の小説『新・人間革命』の「仏陀」の章で、学ばせていただきました。
 池田 釈尊は「大悲の心」ゆえに悩んだのです。慈悲の「悲」とは「同苦」を意味する。「救いたい」という思いがあるから、「どう救えばよいのか」と悩むのです。
 そういう慈悲があるからこそ智慧がわく。それが「方便力」です。「人間教育」の芸術です。
 仏とは、ある意味で、悩み続ける人のことかもしれない。人々の「幸福になる力」を開くために。自身の使命を果たすために。
 斉藤 私たちが日々読誦している寿量品の最後の部分に「以何令衆生」(法華経四九三ページ)とあります。「以何」とは「何を以ってか(どのようにして)」という意味です。
 ここにも、人々の幸福のために、どうしたらよいか常に考え続けているという仏の慈悲が表されています。
 池田 方便品に「種種因縁。種種譬喩」(法華経一〇七ページ)とあるが、仏は相手に応じ、さまざまな因縁や譬喩を使って、正しい軌道に導こうとする。この仏の力を「方便力」と言います。
 これは、その人のために、今、何を教えたらよいのかを知る力です。
 言い換えれば、人々の生命状態を洞察する力であり、適切な教えを選びとる智慧の力です。また、いかなる衆生をも成仏へと育んでいこうという慈悲の力です。その根源には甚深無量の仏智があるのです。
7  遠藤 天台は根源の仏智そのものを「実智」、そこから生まれる方便力を「権智」と呼んでいます。その権実の二智を、釈尊みずからが賛嘆しているのが、方便品の冒頭の部分です。
 須田 「方便力」とは、牧口先生の用語で言えば、「技術」の上の「芸術」、そのなかでも、人間教育の最高の芸術ですね。
 斉藤 方便とは何か──。
 天台は『法華文句』で、方便を(1)法用方便(2)能通方便(3)秘妙方便の三種類に分け、秘妙方便こそ「方便品」の方便であると言っています。
 「法用方便」とは、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その法の働き(用)で、人々に応じた利益を与える教えです。「能通方便」とは、真実に入る門となる教えを言います。通り過ぎる門なので能通(能く通る〈通ることができる〉)といいます。
 これらはいずれも「方便品の方便」ではなく、「爾前権教の方便」の二つの側面です。法用方便は当面の利益を与える面、能通方便は真実へと導く面と言えます。
 遠藤 一例を挙げれば、低い教えに満足しているのを叱った「二乗弾呵」は、それによって真実に向かわせようとする能通方便であるとともに、利己主義の蒙を啓くなどの利益を与えているので、法用方便の面も含んでいます。
 ある時は衆生を喜ばせ、ある時は厳しく弾呵し──「飴と鞭」と言うと、言葉が悪いですが……。
 池田 一面の真実を突いているかもしれないが(笑い)、仏の場合は、あくまで慈悲が根本です。
 仏の教育法は、まことに巧みです。仏は「天人師」と呼ばれ、また「調御丈夫」とも呼ばれます。「天人師」とは人間だけでなく天界の神々の教師でもあるとの意味です。また「調御丈夫」とは「人を調和させるのが巧みな人」とも言える。最高の目的観に立って、人々を誤りなく指導していくからです。仏とは″人間教育の最高の教師″なのです。
 ともあれ、方便品で「正直に方便を捨て」と言われている方便が、法用・能通の二つの方便です。
 これに対し、「秘妙方便」は、まったく違う。捨てるべき方便ではなく、そのまま「真実」である「方便」なのです。
8  法華経は秘妙方便
 遠藤 方便といえば、「ウソも方便」(笑い)ではないですが、あくまで″手段″であって、″真実でないもの″と思い込みがちです。だから「秘妙方便」が方便でありながら真実というのは、理解するのが非常にむずかしいですね。
 池田 たしかにむずかしい。戸田先生も、秘妙方便について、どう皆に分からせようかと苦心されていた。先に述べたように、方便には「接近する」「近づく」という意味があるわけだが、それにも二つの方向性があると思う。
 一つは、現実から悟りへ近づかせる方向。これが法用・能通方便です。
 もう一つは、悟りの境地から現実へと近づく。その悟りを現実世界に説明し表現していく方向。これが秘妙方便です。
 同じ方便でも、方向がまったく逆になっている。
 須田 そうしますと、前の章で論じていただいた「二処三会」の構造とも重なりますね。「霊鷲山から虚空へ」が法用・能通方便に、「虚空から霊鷲山へ」が秘妙方便にと。
 池田 そうとも言えるでしょう。
 仏の智慧は甚深無量です。言語を絶し、説くことのできない究極の法である。方便品には「止みなん止みなん須く説くべからず 我が法は妙にして思い難し」(法華経一一七ページ)とある。
 そうした、言葉にもならず、考えることもできない真実を、言葉で説いたり、何らかのかたちで表現するとすれば、これはもう方便としかいいようがない。説くことのできない真実を、慈悲ゆえに、あえて説いた。それが秘妙方便であり、仏の智慧と一体の方便なのです。
 遠藤 天台は、法用・能通を「体外の方便」、秘妙を「同体の方便」と立て分けています。つまり法用・能通は仏の真実の智慧の外に立てられた方便、秘妙は真実と一体の方便ということです。今、言われたことと同じですね。
 池田 秘妙方便こそ方便品の心であり、そこに「方便品」と名づけられたゆえんがある。また、秘妙方便の「秘」とは、ただ仏だけが知っているということ。すなわち一切衆生が仏だという真実を、仏だけが知っている。
 そして、その真実は秘められているにもかかわらず、縁にふれて顕現する。そうした不可思議な生命の実相を「妙」という。
 十界論で言えば、仏界は九界の衆生には「秘」されている。しかし、縁にふれて九界の上に顕れてくる。この不可思議が「妙」です。
 戸田先生は「秘妙方便」について次のように教えられています。
 「私も皆さんも凡夫です。しかし、われわれ自身、理のうえでは仏なのです。成仏とは、自分が仏であることを知ることで、これは秘密にされ、妙がかくされているのです。これを秘妙と言うのです。仏が、凡夫の姿で、苦労させるためにつくられたのです。これが、秘妙方便の原理です。皆さん方は、地涌の菩薩なのです。この原理が心の奥底でわかれば、方便品が読めるのです」(『戸田城聖全集』2)
 「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」(同全集5)
 凡夫がそのまま仏である。これは不思議です。思議し難い。「妙」です。法華経を信じない人には、とても分からない。「秘」です。
9  斉藤 日蓮大聖人は、御義口伝で「一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う」と、秘妙方便の意義を明かされています。
 池田 そう。自分自身が仏なのだと自覚すれば、秘妙方便が分かったことになる。
 大聖人は「妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法そほうなり」と仰せです。
 いずれにしても、秘妙方便の「妙」とは、人間生命それ自体の「不可思議」なのです。すなわち、九界はすべて仏界の当体である。九界即仏界です。しかし悟ってみれば、仏界といっても凡夫の九界を離れては顕れない。九界に即してのみ顕れる。仏界即九界です。
 目的である仏界を「真実」、そこに至っていない九界を「方便」とすれば、方便即真実(九界即仏界)であり、真実即方便(仏界即九界)なのです。これが秘妙方便です。
 たとえば、御本尊を信受したあとの九界の苦悩は、苦悩のための苦悩ではない。すべて、より信心を奮い起こして仏界を強めるための悩みであるし、それを乗り越えて仏界(真実)を証明するための″秘妙方便としての悩み″となる。悩みは、もっと成長しなさいと呼びかける″メガホン″なのです。
 遠藤 大聖人は「妙法の五字は九識・方便は八識已下なり九識は悟なり八識已下は迷なり、妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟不二なり森羅三千の諸法此の妙法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり」と仰せですね。
 池田 そう。森羅万象──人生で言えば、生も死も、喜びも悩みも、罰も功徳も、生じる一切の現象、ありとあらゆる姿は、信仰者にとって、すべて妙法の表れであるし、妙法を証明する方便なのです。戸田先生は「罰も功徳も方便です」と言われた。
 たとえば、一人の未入会の人がいる。何らかの悩みがある。悩んでいる姿は地獄界でしょう。その悩みがきっかけで信仰した。そうなれば、地獄界即仏界であり、その悩みは仏界に至るための法用・能通方便だったといえる。どちらかといえば能通方便だろうか。
 しかし、信心してからも悩みはある。行き詰まりもある。ただ今度は、何が起こっても、全部、信心を証明するための悩みである。秘妙方便である。
 いわんや広宣流布のための悩みであれば、菩薩界所具の地獄界、仏界所具の地獄界でしょう。こんな尊い悩みはない。悩みの山に挑戦すればするほど、乗り越えれば乗り越えるほど、仏界は強まっていく。その意味で、信心が強ければ、マイナスは即プラスであり、罰も即利益なのです。人生のうえに起こる一切が功徳なのです。
 今、どんな姿をしていても、一切が「成仏イコール人間革命」という今世のドラマにとって、必要不可欠の一場面一場面である。″真実″(仏界)を表している″方便″(九界)なのです。これが秘妙方便です。
 大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」と仰せです。苦楽は九界であり方便。妙法を唱えるのは仏界であり、仏の真実の智慧の世界です。
 苦も楽も、信心という大きな高い境涯から悠々と見おろしていく。そして妙法の喜びを楽しく味わっていく──それが「妙法蓮華経方便品」を身読したことになるのです。
10  須田 よく分かりました。毎日、「妙法蓮華経方便品第二」と読誦していますが、こんなにも深い意味を感じて読んではいませんでした。
 斉藤 今、語っていただいた「方便」観は、生命の永遠観からも論じられると思います。
 法華経の五百弟子受記品(第八章)は「衆に三毒有りと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便して衆生を度す」(法華経三三〇ページ)とあります。
 たとえ、三毒強盛の凡夫の姿に生まれても、また邪見に迷った姿に生まれても、妙法に目覚めてみれば、それは、同じように三毒強盛で、邪見に迷った衆生を救うための方便である、と。
 池田 その通りだ。久遠の妙法蓮華経をみずからも修行し、人にも教えるという根本の使命に目覚めれば、それが分かる。そこに、最も深い人生観があります。
 妙法を持ったわれわれは、本来、尊い地涌の菩薩である。ともに虚空会で広宣流布を誓いあってきた同志です。戸田先生は、それを「思い出すんだ」とよく言われた。
 また、私たちは凡夫です。しかし、願って凡夫の悩みの姿を表しているのです。「願兼於業(願が業を兼ねる)」(『法華文句記』)です。妙法(真実)の力を証明するための宿業(方便)です。だから絶対に、悩みを乗り越えられないわけがない。
 皆、この娑婆世界という舞台に登場し、広宣流布というドラマを演じる主演俳優なのです。
 遠藤 演じているということ(方便であること)を、いつのまにか忘れて、悩める役そのものになりきり(笑い)、苦悩に埋没してしまう場合もあります。それでは、いけませんね。
 斉藤 秘妙方便を理解するために、もう少し続けたいと思います。
 方便と真実の関係を「権実」でいえば、南無妙法蓮華経を信受する前と、信受した後では、権教(方便)の意味が変わってきます。大聖人は、信受する前を「体外の権」、信受した後を「体内の権」として、こう説かれています。
 「所詮しょせん謗法不信の人は体外の権にして法用能通の二種の方便なりここを以て無二無別に非るなり、今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは是秘妙方便にして体内なり
 いったん法華経(実経、真実の教え)の智慧の世界に入れば、それまでの仮の教え(権教)も、「体内の権」として、それぞれ、全体の中に正しく位置づけられ、「権」は「権」のまま、法華経を証明する分々の「真実」となるわけですね。
 池田 そうです。先ほどのたとえで言えば、入会する前のさまざまな人生体験は「体外の権」であり、法用方便・能通方便に当たる。
 妙法の素晴らしさは、入会したあとの体験がすべて秘妙方便として輝くだけでなく、入会する前の体験までもが、すべて生きてくるのです。これが「体内の権」です。
 戸田先生もよく「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、むだはなかったことが分かるのです。これが妙法の大功徳です」と言われていた。
 須田 すばらしい法理ですね。
 池田 秘妙方便は、いまだ妙法を持たない人であっても、本人は知らないが(秘)じつは妙法と一体(妙)であることを教えています。ゆえに、生命の奥底では、妙法を求めているのです。
 御義口伝では「大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり」と仰せです。このほか、秘妙方便については、論じたいことが尽きないが、法華経全体を貰くテーマでもあるし、別の機会にしよう。
 ここで、とくに明確にしておきたかったのは、先ほども触れた通り、仏法の「方便」思想は、そのまま最高の「教育」思想だということです。
11  「人間教育」と仏法
 須田 かつて池田先生が、青年に対してこう語られたことを思い出します。「真の宗教性と、真の教育の精神とは、伸び伸びとした『人間全体の解放』という理想において、じつは表裏一体なのである」と(一九九〇年十一月、「創価教育同窓の集い」でのスピーチ)。
 斉藤 真の教育の心と法華経の精神とは、表裏一体であるということですね。
 牧口先生は「法華経と創価教育」と題して、こう述べられています。
 「要するに創価教育学の思想体系の根底が、法華経の肝心にあると断言し得るに至った事は余の無上幸栄とする所で、従って日本のみならず世界に向ってその法によらざれば真の教育改良は不可能であると断言して憚らぬと確信するに至ったのである」(『牧口常三郎全集』結語)
 池田 牧口先生は、ペスタロッチなどの先駆者たちが、繰り返し繰り返し訴えてきた「人間教育」の理想を、何とか根付かせたいと願われた。その「人間を幸福にする教育」の探究の結論として到達したのが、法華経だったのです。
 たとえばペスタロッチの言葉には、こうあります。
 「人類に純粋な幸福を与える力というものはすべて技巧や偶然のたまものではない。それらはすべての人間の内に、人間のさまざまな本性といっしょにひそんでいるのである。それを引きだして育てることこそ、人類共通の願いである」(梅根悟訳『隠者の夕暮』、世界教育学選集35所収、明治図書出版)
 この「人類共通の願い」を追求した果てに「教育革命」を主張され、その教育革命の実現には、法華経による「宗教革命」以外にないとされたのが牧口先生です。
 この「人類共通の願い」である教育の精神について、もう少し深く見ておきたい。
 ここに、コロンビア大学のサーマン博士(宗教学部長)のインタビュー記事があるので、冒頭のところを少し、読んでくれますか。
 斉藤 はい。アメリカSGIのボストン二十一世紀センターのニュース・レター(一九九五年)からですね。
 質問──「社会における教育の役割について、教授はどのような考えをもっておられますか。また、この点につき、教授の考えに影響を与えたものは何ですか」。
 こう答えておられます。「私は、むしろこの質問は『教育における社会の役割は何か』であるべきだと思います。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると私は見ているからです……」
 池田 ありがとう。まだ答えは続くけれども、私は、この一言に感動したのです。
 博士は、質問のしかたが違うと言われている。「社会における教育の役割は何か」ではなく「教育における社会の役割は何か」と問うべきだと。ここには、博士の透徹した人間観がにじみ出ている。
 つまり「教育は、社会の一部分ではない。社会から派生したものでもない。教育こそが、最初から人間とともにあり、人間の最も根元的な営みである」という見方です。
 「人間」とは「教育」を離れてありえない存在なのだと。だからこそ「師弟」が、根本の大事となるのです。
 須田 この場合の教育は、機構や制度としての教育より、もっと深く、広い次元ですね。
 池田 そう。博士は「教育が、人間生命の目的である」と述べられている。言い換えれば──人間は何のために生まれたのか。何のために生きるのか。それは「教育によって、生命の可能性を極限まで開くため」である、ということでしょう。その究極が(仏知見の)開示悟入です。
12  斉藤 博士は続いて、こうも語られています。
 「私のこのような考えに影響を及ぼしているのは、仏陀の教えです。私の認識では、仏教は、最も真実の意味において教育的な教えです」
 「仏教は本来、宗教伝道の運動ではありません。むしろ宗教的な側面をもった教育運動です」と。
 池田 鋭い洞察だと思う。
 人間教育と仏法は表裏一体なのです。ゆえに、牧口先生は教育から出発して法華経に至り、私は法華経を根底に、教育・文化運動を繰り広げているのです。
 「仏教は教育運動」ということを、「方便」との関連で言えば、こうなるだろうか。
 すなわち、みずからの仏性を開くという「自己教育」を根本にして、同時に、さまざまな智慧を湧かせ、さまざまな方便(方法)を使って、人々の仏性をも開いていく運動であると。この、自他ともの「人間開発」「人間教育」にこそ、人間としての最高の軌道があるのではないだろうか。
 遠藤 そうしますと、成道した釈尊が逡巡の末、苦悩に沈む人々に正法を説こうと立ち上がった瞬間、いわば「方便」の出発点であるあの瞬間に、人間本来の生き方が凝縮されているといえるのではないでしょうか。
 池田 そうだろう。釈尊の成道後の生涯はそうした瞬間の連続だったと思う。「方便」は、人を救わんとする慈悲です。智慧です。行動です。「方便」という言葉には、一切の固定化に陥らず、常に、どう、より深く、より広く、人々を救っていくかという、ぎりぎりの挑戦の心が込められているのです。
13  如我等無異──人材育成の心
 須田 学会活動も、自分の立場で、自分なりの「自己教育」「人間教育」に取り組んでいくことが大事ですね。
 池田 そこなのです。弘教はもちろん、人材育成も、すべて法華経の精神にかなった実践です。また他の文化的・社会的活動も、人材を育て、仏縁を広げる方向へ向いてこそ、深い意味がある。方便品に「如我等無異(我が如く等しくして異ること無からしめん)」(法華経一三〇ページ)とあります。
 一切衆生を、自分と同じ境涯まで高めたいという仏の誓願です。ここにこそ、人材育成の精神、「人間教育」の精神の根本があると思う。それが「師弟」の心です。
 もちろん、自分もさらに成長していく立場ですから、″自分と同じように″というより、″この人を自分以上の人材に育てよう″という決意が「如我等無異」に通じるでしょう。
 斉藤 人を育てるどころか、″自分以上に偉い者は認めない″というのが日顕宗ですね。法華経と正反対です(笑い)。誤った宗教は、皆そうです。
 池田 後輩のために、どれだけ祈ったか、苦労したか。その慈愛と真剣さに「人間性」の真髄がある。
 学会は「人間性の組織」です。ゆえに権威でも号令でもない。「人間性」に触れる感動とともに前進していくのです。
 ロシアの民衆詩人プーシキンの詩才を育てたのも、農奴の一老婦人の人間性でした。詩人は彼女を「おかあさん」と呼び、心から信頼した。世界の人々の心を揺さぶってやまない彼の作品は、「おかあさん」から聞いた、民衆の言葉による民衆の物語が源になっている。
 また″三重苦″のヘレン・ケラーを、ハーバード大学にまで行かせたのは、サリバン先生という女性です。彼女は自身の才能や可能性の一切を犠牲にしてまで、生涯ヘレンの目となり、耳となって働いた。
 サリバン女史の晩年、ある大学から二人に名誉博士号が贈られることになった。しかし女史は断った。「愛する教え子のヘレンが名誉をうけただけで、わたくしはこの上もなくまんぞくです」(村岡花子『ヘレン・ケラー』偕成社)と。
 一度は辞退したが翌年、女史にも称号が贈られるが、その四年後、女史は亡くなる。そのとき、ヘレンは決意する。
 「先生は、自分のような者のために、その一生を捧げきって死んで行かれた。それこそ完全な奉仕の生涯である。残されたわたしこそ、その連続でなければならない」(ヘレン・ケラー『わたしの生涯』岩橋武夫訳〈角川文庫〉のの「解説」〈岩橋英行〉で紹介)。
 そして全世界を舞台に、彼女は、目の不自由な人たちへの救援運動を展開していったのです。
 こうした、地道な一人の婦人。生涯、表舞台に出ることのなかった一教師。「人間教育」の勇者とは、こういう人たちのことではないだろうか。
 その意味で、妙法を胸に日夜、人材育成に奮闘している学会の同志が、どれほど尊く、どれほど偉大な存在か。
 方便品に「是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり」(法華経一〇九ページ)──この法は(言葉で)示すことができない。言葉の表現は滅し尽きてしまっている(この法を示すのに遠く及ばない)──とある。
 妙法の偉大さが、言葉では表現できないと同じように、妙法に生きる人生の偉大さも、言葉では言い表せないのです。
 斉藤 ″人を育てる″ということについて、以前、先生が語ってくださった魯迅の言葉が忘れられません。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一〈東方書店〉で紹介)と。
 池田 今、私も全く同じ気持ちで、青年を育てている。諸君も、そういう人生を歩んでほしい。それが法華経を信ずる人の生き方であり、「師弟不二」です。
 そして、師と弟子が一体となって、人類を潤す人間性触発の教育運動を繰り広げていく──その闊達な社会貢献そのものが、一つの次元から言えば、仏界即九界、九界即仏界であり、ダイナミックな「秘妙方便」の行動になっているのです。

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