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日蓮大聖人・池田大作

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序品(第一章) 二処三会──″永遠″と…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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12  生命の全体像としての二処三会
 遠藤 虚空会が三世永遠に連なる世界だとすれば、そこで説法する釈尊も歴史的な存在としての釈尊を超えた、永遠の実在としての釈尊ということになりますね。
 池田 時間・空間の制約を離れた世界ですから、当然、歴史上の人物としての釈尊ではなく、いわば「永遠の仏陀」です。このことは、寿量品において久遠五百塵点劫の成道としてつぶさに説かれていくわけだが、その舞台設定が宝塔品から始まっているということになる。
 とともに、その「永遠の仏陀」は、釈尊の悟った法の真理を体現している。その真理とは、私たちの生命に「七宝を以てかざりたる宝塔」が厳として実在するという真理です。
 会座の大衆が虚空に引き上げられたのは、この真理の世界に入ったということです。言い換えれば、すべての衆生が永遠の仏陀であるということだ。
 大聖人は「過去久遠五百塵点のそのかみ当初唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」と仰せです。
 虚空会は、十界の衆生がことごとく平等であるという世界です。衆生と仏との間に差別はないという世界なのです。
 須田 衆生も仏も別々のものではない──「生仏一如」の世界ですね。
 観心本尊抄には「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり」と示されています。仏の教えを聞く衆生(所化)も仏と同体である、と。
 斉藤 戸田先生は「自己の生命は即宇宙の生命であり、即仏の生命である」と喝破されました。
 その「我即宇宙」「宇宙即我」という点から見ますと、二処三会の流れは、現実の大地である霊鷲山から、大宇宙に広がる虚空会に昇り、そしてまた霊鷲山に戻ってくるという、その往復運動になっているようにも思えます。
 いわば小字宙と大宇宙との交流のドラマです。観念ではなく実感として宇宙大の生命を体得していく──虚空会、二処三会はそのための儀式のように思えてなりません。
 池田 そう。二処三会は、生命の全体像、生命のダイナミズムを表現しようとしているのです。たとえば「色心不二」を表している。
 斉藤 御義口伝に「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり」とあります。
 池田 また、二処三会は「生死不二」を表しているとも言えるだろう。
 遠藤 はい。「皆在虚空とは我等が死の相なり」と、大聖人は仰せです。「虚空」を「死の相」とすれば、霊鷲山が「生の相」と考えられます。
 すなわち二処三会では、「生」→「死」→「生」という生命のダイナミズムが展開されている。そこに生死が不二であるという実相が表されているといえます。
 池田 そうなるね。このことは生死一大事血脈抄の「妙は死法は生なり」との仰せからも論じられると思う。
 斉藤 その場合、「死の相」である「虚空」が「妙」にあたり、「生の相」である「霊鷲山」が「法」にあたりますね。
 池田 そうです。「虚空」は永遠不変の世界であり、仏の悟りの世界を象徴している。「妙法」に約せば「妙」といえる。なぜならば、凡夫には思議できない「不可思議」の世界だからです。
 それに対して、現実の場としての霊鷲山は「法」にあたる。「法」とは、現象・事象を意味する。「生の相」です。この「妙=死」「法=生」が不二なのです。さらに、この生死不二という宇宙の実相は、虚空会における二仏並坐でも表されています。
 須田 「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と御書にあります。現在の仏である釈迦如来は「生」を、過去の仏である多宝如来は「死」を表しています。
 池田 生死こそ根本の課題です。
 ひるがえってみれば、法華経そのものが「生死の二法」を説いているのです。序品第一が「如是我聞(是の如きを我れ聞きにき)」(法華経七〇ページ)の「如」で始まり、普賢品(第二十八章)が「作礼而去(礼を作して去りにき)」(法華経六七八ページ)の「去」で終わっていることを踏まえて、大聖人は「如去の二字は生死の二法なり」と述べられています。
 二処三会には、まだまだ、汲めども尽きぬ智慧が込められていると考えられます。今後もさらに論じる機会があると思う。
 大事なことは、私どもは日々、この二処三会を行動しているということです。日蓮大聖人は虚空会の儀式を借りて、御自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった。この御本尊を信受している私どもこそ、法華経のダイナミズムを、そのまま生活に反映させているのです。
 これまで歴史上、どれほど世界の多くの人々が法華経を学び、読誦してきたか計り知れない。しかし、私どもこそが、法華経の本義を生きているのです。その栄光と誇りを自覚したい。
 妙法を行じる私どもの人生は、一瞬一瞬が虚空会という「真如実相の世界」に連なり、「永遠の世界」を呼吸している。妙法の大宇宙から、光が、風が、音楽が、そして福徳の香気が流れこみ、私どもを包んでいます。
 妙法の流布に生きる人生の″今″は、常に″永遠″と一体の″今″です。私どもの生活の中で、″永遠″と″今″が出あい、交流し、交響している。人生が「永遠の今」というべき常楽の連続となるのです。
 ゆえに、信仰者にとって、一瞬は一瞬ではない。一日は一日ではない。そこに永遠性の価値を含んでいる。時がたてばたつほど黄金と輝く一瞬であり、一日なのです。
 この無上道の人生を教えたのが法華経です。
 そのための釈尊の第一声は何であったか。次から、いよいよ「方便品」(第二章)に入っていこう。

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