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日蓮大聖人・池田大作

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序品(第一章) 二処三会──″永遠″と…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
1  列座大衆──登場人物たち
 斉藤 冒頭の「如是我聞」の後、序品は「一時、仏、王舎城耆闍崛山ぎしゃくせんの中に住したまい」(法華経七〇ページ)と続きます。ここでは、法華経が説かれる「場所」が示されています。すなわちマガダ国の首都・王舎城の郊外にある耆闍崛山──霊鷲山です。さらに続いて、その説法の場(会座)に、どのような衆生が参列していたか(列座大衆、列衆)が挙げられていきます。
 池田 法華経のドラマが始まるにあたって、「舞台」と「登場人物」が紹介されているわけだね。
 須田 霊鷲山には、私も第一回のSGI(創価学会インタナショナル)インド青年文化訪問団の一員として訪れたことがあります(一九九〇年)。幽玄な霊地かと期待して行ったのですが、場所そのものは何の変哲もない岩山でした(笑い)。
 池田 それほど高くもないようだね。霊鷲山と呼ばれるのは、一説に、山頂の形が鷲に似ているからだと言われているが、その頂上付近が、釈尊の説法の場所だったと伝えられている。
 遠藤 「登場人物」ですが、経文の順に示すと次のようになります。
 (1)阿若憍陳如あにゃきょうじんにょや迦葉・舎利弗など、声聞の最高位である阿羅漢の境地を得た一万二千人の比丘たち。代表して二十一人の名が挙げられています。そのほかに学(阿羅漢果を得るために戒定慧の三学を学んでいる者)や無学(阿羅漢果を得て学ぶべきものが無い者)の二千人の声聞もいます。
 (2)釈尊の叔母・摩訶波闍波提比丘尼、釈尊の出家前の妻・耶輸陀羅やしゅだら比丘尼とその眷属数千人。
 (3)文殊菩薩、観世音菩薩など八万人の菩薩たち。代表して十八人の名が挙げられています。
 以上の声聞衆、菩薩衆のほかに、次のような娑婆世界のさまざまな衆生が集っています。
 (4)帝釈天、四大天王、梵天など天界の王や天子たち。その眷属は七〜八万、数え方によっては十数万になります。
 (5)八人の竜王とその眷属。
 (6)四人の緊那羅王とその眷属。
 (7)四人の乾闥婆王とその眷属。
 (8)四人の阿修羅王とその眷属。
 (9)四人の迦楼羅王とその眷属。
 (10)阿闍世王とその眷属。
 以上、ざっと数えて、少なくとも、数十万、解釈の仕方によっては数百万の衆生が法華経の聴衆です。
2  池田 実に多彩かつ膨大な大衆だね。天界の神々や竜王、緊那羅王など、人間ではないものも挙げられている。もちろん、これほど多くの大衆が、同時に霊鷲山に集まれるはずはない。
 須田 実際に訪れた感じを言いますと、釈尊が説法したとされる場所は、百人座れるかどうかという程度の広さです。しかも岩山ですから日陰もなく、真夏など到底、長時間座っていられるような場所ではありません。私たちが行ったときも、余りの暑さに、案内してくださったインドの人が倒れてしまうほどでした。
 池田 戸田先生が言われたように、法華経が表現しているのは、仏の己心の世界、悟りの世界です。何万人の大衆が登場しても差し支えない。
 斉藤 その意味で、列座大衆のそれぞれは、全て生命の働きの象徴と考えられます。十界でいえば、菩薩界、声聞界、天界、人界、修羅界、畜生界の衆生がいる。そこに挙げた大衆をもって九界全体を代表させているようです。つまり、序品の大衆は、仏の己心に包まれた九界の衆生の姿といえるのではないでしょうか。
 遠藤 そうとらえると、挙げられている大衆のそれぞれに意義があるはずですね。代表的なものの意味を考えてみましょう。
 須田 まず最初に挙げられている阿若憍陳如。彼は、釈尊が成道した後、初めて教化した五人の比丘の一人です。
 池田 いわば釈尊の最初の弟子だね。最後に挙げられている阿闍世王は、提婆達多と共謀して、釈尊に敵対した人物です。釈尊の晩年になってみずからの罪を悔い、釈尊に帰依したと伝えられている。最初の弟子と最晩年の弟子がいるということは、釈尊の一生の間の門下をすべて含めている象徴と見ていいかもしれない。
 斉藤 大聖人が御義口伝で列衆を論じられているのも、この最初の阿若憍陳如と、最後の阿闍世王についてです。
 池田 御義口伝では、列衆の意義を生命論から解明されている。
 阿若憍陳如については、「我等法華経の行者の煩悩即菩提生死即涅槃を顕したり」と。
 また父を殺し、母をも殺そうとし、釈尊に背いたのが、阿闍世王です。その反逆の生命については、法華不信の心や貪愛・無明を殺して成仏を遂げていく「逆即是順(逆即ち是れ順なり)」(『法華文句記』)の原理を表す、とされている。
 遠藤 その他の大衆も同様に、生命論から考えていくことができます。
3  須田 ところで、迦葉や舎利弗などの大声聞が列衆の冒頭に挙げられているのは、彼等が歴史的にも釈尊の教団を支えてきた有力な弟子であったことから当然といえますが、その直後に、摩訶波闍波提比丘尼や耶輸陀羅比丘尼を代表とする女性の声聞が挙げられていることが注目されます。また、阿闍世王の名を挙げる時も、母親の韋提希夫人の名をあげています。
 池田 「女人成仏」の象徴として、提婆達多品(第十二章)の「竜女の成仏」は有名だが、法華経で女性の成仏が説かれるのは、ここだけではありません。
 勧持品(第十三章)では、比丘尼たちに、将来、仏になるという記別が、すでに決まっていることを確認する形で授けられている。そのときの代表が、摩訶波闍波提比丘尼や耶輸陀羅比丘尼です。
 その女性の代表が、男性と並んで序品に紹介されている。法華経の特徴とされる「女人成仏」は、序品から既に予定されていたとみてよいでしよう。
 常不軽菩薩は「あなたがたは皆、菩薩道を行じて必ずや仏になることができる」と、男性にも女性にも、同じように呼び掛けている。
 法華経全体からみれば、仏になることにおいて男女に差別がないことは、当然のこととみなされていたのだね。
 斉藤 重要なポイントだと思います。
 次に登場するのは、八万人にも上る菩薩たちです。これらの菩薩については人々を救おうとする慈悲の行動がたたえられています。
 池田 初めに声聞、次に菩薩が挙げられている。法華経全体の対告衆(仏が説法する時の聴衆の代表者)を見ても、初めは舎利弗らの声聞だが、法師品(第十章)以降は、薬王らの菩薩に交代する。
 後にくわしく語ることにしたいが、声聞から菩薩へという担い手の転換が、法華経を理解する一つのカギになっている。
 遠藤 序品で登場する菩薩たちの名前も興味深いですね。文殊菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩などはよく知られていますが、常精進菩薩、不休息菩薩、宝掌菩薩、大力菩薩、宝月菩薩など、あまり聞いたことのない菩薩の名もあります。
 池田 それらも、すべて菩薩の生命のさまざまな側面を示したものと考えられる。
 常精進菩薩、不休息菩薩は文字通り、常に仏法のために休みなく戦い続ける生命を象徴している。「不休息」は、サンスクリットでは″重荷を捨てない″(アニクシプタドゥラ)という意味であるという。(『大乗経典』4〈松濤誠簾・長尾雅人・丹治昭義訳〉中央公論社、参照)
 須田 また、宝掌菩薩とは″宝を手にした″という意味ですし、勇施菩薩は″施しの勇者″といってもよいでしょう。宝月菩薩、月光菩薩、満月菩薩などは、さまざまな智慧の光で人々を照らすという菩薩の生命の働きを象徴していると思われます。
 遠藤 弥勒菩薩は″慈しみの師″という意味ですし、宝積菩薩は″宝の根源″を意味します。最後の導師菩薩は″キャラバン(隊商)のリーダー″の意味で、多くの人を成仏へと導いて行く指導者の働きを表しています。
4  斉藤 菩薩の次は、天界の衆生が挙げられます。筆頭は天界の帝王である釈提桓因(帝釈天)です。帝釈天はもともとは古代インド神話の中心的な神の一つであるインドラ(雷神)でした。
 遠藤 自在天子、大自在天子もバラモン教の主神の一つで、世界を破壊する神とされるシヴァ神の異名です。そして世界創造の最高神とされる梵天王(ブラフマー)さえも、眷属とともに連なっています。
 池田 神々が法華経の説法を聴きにきているということは、仏が神々をも超え、それらを導く存在であることを示している。
 仏の別名に「天人師」とあるように、仏は、諸天をも人をも導く師です。
 成道した釈尊に、梵天が説法を要請したとされているが、仏を、インドの伝統的な神々を遥かに超えた存在として位置づけるのが、仏法の基本的な考え方です。
 斉藤 次に八竜王が挙げられます。難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王等が多くの眷属とともに集っています。このうちの娑伽羅龍王の娘が、「女人成仏」の範を示した竜女です。
 遠藤 さらに、八部衆と呼ばれる種々の想像上の衆生が挙げられています。先の天と竜も八部衆に含まれますが、仏教では別格に扱われています。これは、仏教以前に天や竜がこの世の主として信仰されていたことによると思われます。
 須田 八部衆とは、(1)天(天界に住む諸天)(2)竜(海・池などに住む畜類)(3)夜叉(森などに住む鬼神)(4)乾闥婆(帝釈天に仕える音楽の神)(5)阿修羅(天に敵対し、須弥山下の海に住む鬼神の一つ)(6)迦楼羅(竜を主食とする鳥で、翼・頭が金色なので金翅鳥と訳される)(7)緊那羅(楽器を奏する音楽の神で半人半獣の姿)(8)摩ゴ(目ヘンに侯)羅伽(人身・蛇頭の神)です。
 池田 人間だけではない。広く、生きとし生けるものを救おうとしているのです。
 また仏教以前からインドの各地で信仰されてきた神々が、法華経の会座に列座しているのも興味深い。これは、これまで最高の存在とされた神々を、「外にあって人間を支配する実体」ではなく、人間の生命そして宇宙の生命の「働き」として捉えたからです。
 このように、仏の悟りは深く生命の根源に到達しているのです。その根源の一法を明かすのが法華経です。ゆえに法華経を行ずる者は、諸天をも動かす生命の王者となる。
 大聖人は「心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」と仰せです。
 また、天と阿修羅、竜と迦楼羅といった敵対関係にある者たちが同席しているのもおもしろい。民族対立を煽るような宗教は低級宗教だと言っているようだね。法華経は平和と平等の教えです。
5  霊鷲山から虚空へ、そして再び霊鷲山へ
 遠藤 さて「登場人物」の次は、「舞台」ですが。
 池田 そうだね。ここでは、序品の舞台の霊鷲山だけでなく、「二処三会」に触れておこう。
 遠藤 はい。法華経全体の流れをみますと、序品(第一章)から法師品(第十章)までは、霊鷲山を舞台に展開されます。
 そして見宝塔品(第十一章)の冒頭、巨大な宝塔が突如として大地から涌出して空中に浮かびます。その宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並んで座り、一座の大衆も空中に引き上げられて、説法が行われていきます。この「虚空会」が嘱累品(第二十二章)まで続きます。
 次の薬王菩薩本事品(第二十三章)からは、再び霊鷲山に戻り、最後の普賢菩薩勧発品(第二十八章=終章)まで雲鷲山での説法となります。
 須田 法華経の「舞台」は、初めと終わりが霊鷲山(前霊鷲山会と後霊鷲山会)、中間が虚空(虚空会)。二つの場所で三つの集会があった。そこで「二処三会」というわけです。
 斉藤 霊鷲山が、現実に存在する説法の場であるのに対して、虚空会というのは、いわば″超現実″です。宝塔の大きさにしても、ある計算によれば、地球の三分の一から二分の一という巨大なものになってしまう。なぜ、そんな現実離れした虚空という場を設定し、想像も及ばないような宝の塔を登場させなくてはならなかったのか。この点が重要ですね。
 池田 くわしくは後で論じたいと思うが、宝塔や虚空の意義については、これまで会った仏教学者の方とも話題になりました。
 遠藤 たとえば、ネパールのシャキャ博士は、こう言われていますね。
 「虚空会の儀式は、仏の偉大な境地の象徴であり、その『現在』のうちに、『過去の十方世界』も『未来の十方世界』も含んでいると考えられます。時空を超越しているのが『仏界』です。虚空会で説かれている世界を悟れば、人間には何でもできる力が出るということです」(「聖教新聞」一九九二年十一月八日付)と。
 須田 戸田先生は、虚空会の儀式について次のようにおっしゃっています。
 「われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力およぴ状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかしこれを、われわれの生命体のうえに具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である」(『戸田城聖全集』6)と。
 池田 先生は、宝塔出現の意義、宝塔とは何かを明確に教えてくださった。あの巨大な宝塔も、私たちの生命に潜在する仏界を表現したものなのです。生命の宇宙大の尊貴さを教えているのです。
 斉藤 「然れば阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」の御文の通りですね。
 池田 宝塔について質問した阿仏房に対して、「あなたの生命そのものが宝塔なのですよ」との御本仏の御断言です。大聖人の温かい肉声が聞こえてくるような御言葉です。
 遠藤 宝塔品の会座で、一座の大衆の願いのままに、釈尊が神通力をもって大衆を虚空に引き上げますが、そこにも仏の慈悲が感じられます。
6  池田 仏は、高みから衆生を見ているのではない。同じ高さに引き上げようとする。同じ尊極の宝塔であると教える。ここに法華経の哲学がある。大聖人の御精神がある。真の人間主義です。
 宝塔品に説かれる虚空会の儀式も、仏が悟りの境地を民衆に何とか伝えようとする慈悲の現れです。
 斉藤 法華経の会座の衆生は、この虚空会に昇ることによって、いってみれば″無明の大地″の束縛を打ち破り、自在無礙の″法性の大空″にかけ昇ったといえるのではないでしょうか。
 須田 御書にも「実相真如の虚空」、また「法性真如の大虚」との言葉が拝見されます(御書一四四三ページ)。「虚空」のもつ意味の一端が示されているように思います。
 池田 「虚空とは寂光土なり」と大聖人は仰せだが、虚空会は広大な「仏の世界」「悟りの世界」を示しています。この「実相の世界」「真如の世界」は、時間・空間を超越しています。
 空間的には、無限の宇宙に広がっている。虚空会が始まる見宝塔品では、いわゆる三変土田によって、娑婆世界が浄化され、実に広大な仏土が形成されます。また、虚空会が終わる神力品・嘱累品の付嘱の儀式では、いわゆる十神力の一つとして、十方(東西南北と東北・東南・西北・西南の四維と上下の二万)の世界が隔たりのない一仏土であることが示されている。
 (十神力とは釈尊が付属にあたって、梵天に届く長い舌を出して仏の不妄語を証明するばど、十種の力を現じた)
 また時間的には、永遠の世界である。虚空会の儀式は、過去の仏である多宝如来と現在の仏である釈迦如来が並んで座って始まります。そして未来の仏である上行菩薩が呼び出され、上行菩薩への付嘱をもって終わる。
 「過去」「現在」「未来」が、この儀式に納まっている。このような「永遠」にして「無限」の仏の世界を示すためには、虚空会という、時空間の枠をたたき破った舞台こそがふさわしいのではないだろうか。
 遠藤 民衆に分かりやすく、象徴的に、映像的に表現しようとしたのですね。
 池田 虚空会は、特定の場所・空間を超えているゆえに、逆に言えば、どこの場所にも通じている。特定の時点・時間を超えているゆえに、いつの時代、いつの時にも通じているのです。
 ただ、ここで考えなくてはならないのは、虚空会だけでなく、二処三会という法華経全体の流れが、何を表そうとしているかです。
7  須田 霊鷲山会と虚空会の関係は、生命論のうえから、非常に深い意味をもっているように思うのですが。
 池田 前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば「現実→悟りの世界→現実」という流れです。
 より正確に言えば、「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の現実」という流れになっている。
 時空や煩悩.生死に束縛された現実の大地から、鎖をたたき切って、それらを見おろす虚空の高き境涯に到達しなければならない。
 その高みから見れば、一切の苦しみ、悩み、喜怒哀楽も、すべて浮島のごとく小さな世界での一喜一憂にすぎないことが、ありありと見えてくるのです。
 大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」と仰せです。
 これが虚空からの眼であり、仏法の眼であり、信心の眼です。
 そうなるための修行が唱題行です。大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」と教えられています。
 私たちが御本尊に勤行・唱題している信心の姿は、そのまま「虚空会」に連なっているのです。
 これほど、ありがたいことはない。戸田先生は、勤行・唱題は「我ら凡夫の日常において、これほど崇高なる場はないのです」と、よく言われていた。
 虚空に昇るというのは、透徴した信心によって、我が境涯を引き上げるということといえる。
 「前霊鷲山会→虚空会」の流れには、こういう意義がある。
8  斉藤 そうしますと、続く「虚空会→後霊鷲山会」という流れは、勤行・唱題で得た仏界の生命力に基づいて、再び生活・社会の現実へ戻っていく、挑戦していくということに当たりますね。
 池田 そう。生活即信心であり、信心即生活です。法華経は、絶対に現実から離れない。ここに偉大さがある。
 ひとたび虚空会に住してみれば、厭うべき現実も、今度は、仏界を証明するための現実となる。苦しみ、悩みも、信心を証明し、信心を強めるためのものとなる。煩悩即菩提です。変毒為薬です。
 汚れた九界の世界から仏界を開く、すなわち「九界即仏界」が「前霊鷲山会→虚空会」といえよう。
 今度は「仏界即九界」で(虚空会→後霊鷲山会)、九界に勇んで救済者として入っていった時、汚れた九界の穢土が、仏界に照らされた寂光土になっていく。穢土即寂光土です。
 その時は、無常・苦・無我・不浄のこの世が、常・楽・我・浄の世界になっていくのです。
 「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」と、大聖人は仰せです。序品の登場人物に象徴される九界の生命は、すべて妙法に照らされ、凡夫が凡夫のままで、最高に尊き本来の姿となって、現実社会に輝きを放っていくのです。
 現実から虚空会に、虚空会から現実へ──この往復作業に「人間革命の軌道」がある。小我から大我への境涯の革命があるのです。
 人生は、目の前の現実にとらわれていてはいけない。理想を目指し、現実を超えねばならない。
 一方、現実から遊離してもならない。地に足が着いていなければ、何も変わらない。
 多くの人生が、また多くの宗教が、社会の現実に「妥協し埋没」するか、「隔絶し逃避して別世界をつくろう」とする。そのどちらも誤りです。
 遠藤 日顕宗は、両方の誤りを犯しています(笑い)。
 池田 法華経の本義はどちらでもない。虚空という生命の高みから現実を見おろしつつ、その現実へ「変革者」として、かかわっていく生き方を教えるのです。
 「変革の宗教」としての法華経の特徴は、二処三会という全体の構成そのものに、見事に表現されているといえるでしょう。
 斉藤 よくわかりました。「変革の宗教」といえば、とくに日蓮大聖人の仏法の著しい特徴です。
9  「従因至果」の仏法と「従果向因」の仏法
 池田 じつは、大聖人の仏法と釈尊の仏法の特質の違いを、この「二処三会」の構造を借りて説明することができる。
 須田 どういうことでしょうか。
 池田 釈尊の仏法は、どちらかといえば、霊鷲山から虚空会へ、すなわち現実生活から、仏の智慧の世界を求めていく仏法です。虚空会で説かれる寿量品(第十六章))の文底に秘し沈められた「南無妙法蓮華経」が目標であり、ここに到達しようとする仏法です。
 これに対し、寿量文底から霊鷲山へ、すなわち「南無妙法蓮華経」から現実生活へと向かう方向が強く出てくるのが大聖人の仏法です。現実変革を目指す仏法であり、民衆の中へ慈悲の行動を展開していくのが、その実践です。
 斉藤 そうしますと、「上求菩薩(上は菩提を求め)」「下化衆生(下は衆生を化する)」という菩薩の生き方のうち、釈迦仏法は「上求菩提」に、大聖人の仏法は「下化衆生」に、それぞれ力点を置いていると見ることもできるのではないでしょうか。
 池田 その通りだね。もちろん「下化衆生」のためには、絶えざる「上求菩提」が必要となることは当然であるが──。
 これは、釈尊の「従因至果」の仏法と、大聖人の「従果向因」の仏法の違いといってもよいだろう。
 少し難しくなるけれども、端的にいえば、従因至果とは「因依り果に至る」ということで、九界の衆生(困)が、仏界(果)を求めて修行していくことです。
 従果向因とは、逆に、「果従り因へ向かう」ことで、御本尊への唱題によって即座に得られた仏界(果)を根底にしつつ、現実の九界(因)の場へ向うことです。
 あえて譬えれば、釈尊の仏法は、ふもとから頂上を目指して、山を登っていくようなものです。その途中、頂上がいかにすばらしいか、言葉では説明されるけれども、実感としては分からない。本当に頂上にたどり着けるのかどうかも保証されていない。道に迷うことも、遭難することもあるでしょう。
 それに対し、大聖人の仏法は「直達正観」であり、原理的には、直ちに頂上に立つようなものです。そこで、すばらしい眺めを実感として満喫し、その喜びを何とか人々に伝えようと、ふもとへ降りていくのです。社会に入っていくのです。
10  斉藤 法華経で、滅後の弘法を託されたのも、″山を登ってきた″迹化の菩薩ではなく、″すでに頂上に立ち(仏果を証得し)、社会へ降りていく″地涌の菩薩です。
 池田 私どもの信心と実践でいえば、日々の勤行・唱題は、一往は九界から仏界へ至るための修行であり、従因至果といえます。
 しかし再往は、それ自体が即仏界に連なっている。そこから現実生活に妙法の智慧と慈悲を広げていく、従果向因の活動の出発点となっている。御本尊に南無し、唱題しゆく信心のなかに、この従因至果、従果向因の二方向が同時に包含されている。ここに大聖人の仏法の卓越性がある。
 斉藤 「南無=帰命」でいえば、妙法蓮華経に「帰して」いく、そして次に妙法蓮華経に「命いて」行動していく──この帰・命の双方向が南無妙法蓮華経に含まれているわけですね。
 仏の悟りの境涯自体に、この双方向があるのだと思います。そうでなければ真の悟りとは言えないのではないでしょうか。その意味で、仏の悟りの全体像を二処三会で表し、人々に伝えようとしたのだとも考えられます。
 池田 それは、これからの探究課題にしよう。
 いずれにしても、法華経は不思議な経典です。仏の智慧は甚深無量であり、その悟りは頭では考えられないし、言葉でも表現し尽くせない。このように仏の智慧を賛嘆しながら、他方では、すべての人々に仏の智慧を開かせ、悟りを得させるのが、仏が世に出現した目的であると説く。
 そして、そのために説かれるのが法華経であり、法華経を聞けば必ず成仏できると強調する。たとえ仏の滅後であっても、法華経を聞いて一句でも一偈でも心にとどめた人は必ず成仏すると何回も説いています。
 聞くだけで成仏できる。そのように法華経の功徳を賛嘆しながら、悟りの内容は表立っては説いていない。これほどしきりに自経の名をあげて賛嘆している経典も珍しい。ここに法華経の不思議さがあり、秘密があります。虚空会や二処三会は、この法華経の秘密を解く一つの鍵だと言える。
 遠藤 二処三会が仏の悟りの全体像を反映しているということは、仏の十号(十種の尊称)の一つである「如来」という言葉にもうかがえます。
 大乗仏教では如来を「真如から来生するもの」ととらえています。つまり、「悟りの世界」である真如から現れ、慈悲と智慧の体現者として衆生を教え導いていく仏の異名を「如来」と呼んでいるわけです。
 池田 仏とは実践する人です。戦う人です。悟りの境地に安住しているのが、仏ではない。衆生のために、衆生を救うために九界の大地で戦い続ける人が仏です。如来です。
 大聖人は「古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよ」と仰せです。「心地を九識に」とは「虚空会に住する」ことにあたり、「信心に住する」ことにあたるでしょう。「修行をば六識に」とは、どこまでも現実を離れてはならないということと言えないだろうか。
11  須田 そうしますと、この御文も「二処三会」、とくに虚空会から後霊鷲山会への意義を教えてくださっていると拝されます。″真如から来生する″「如来」の精神を示されているといえますね。
 斉藤 後霊鷲山会では、主だったものだけでも薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩などの菩薩たちが、表舞台に登場します。
 これらは、根本的には如来行を行ずる菩薩であり、それぞれの力を発揮して如来滅後の法華経の広宣流布を助けるのだと思います。
 池田 虚空会の儀式を経て、これらの菩薩の現実における多彩な働きが説かれている。ここに深い意義がある。
 遠藤 仏界の生命に命いて、智慧と歓喜を表現していく姿ですね。
 池田 そうなるだろう。学会が世界で繰り広げている、仏法を基調とした平和・文化・教育の運動も、この方程式に則ったものにほかならない。
 生命の永遠性の世界の鼓動を、現実の上に反映し、現実を変革していく──そこに法華経のもつ生き生きとした宗教性がある。文化創造のダイナミズムがある。
 須田 日本では、仏教というと、宗教の世界に閉じこもっているような印象が強いですが、これは大きな誤りですね。
 池田 そのようなイメージをもたらしたのは、ひとえに、これまでの仏教指導者の責任です。
 現実の社会を離れて仏法はありません。仏法即社会です。社会即仏法です。一民間人である私が、世界の識者・文化人と対話を重ね、微力ながら、人類的課題の解決への道を探求しているのも、ひとえに、この仏法者としての信念からなのです。
 仏法の心、仏法の智慧を、常に社会へ、世界へとダイナミックに展開していく。それでこそ真実の仏法です。宗教の世界に閉じこもるのは宗教の自殺行為です。
 法華経は「世間の法が、そのまま仏法の全体」と説いていることを、大聖人は教えられています。(御書一五九七ページ)
12  生命の全体像としての二処三会
 遠藤 虚空会が三世永遠に連なる世界だとすれば、そこで説法する釈尊も歴史的な存在としての釈尊を超えた、永遠の実在としての釈尊ということになりますね。
 池田 時間・空間の制約を離れた世界ですから、当然、歴史上の人物としての釈尊ではなく、いわば「永遠の仏陀」です。このことは、寿量品において久遠五百塵点劫の成道としてつぶさに説かれていくわけだが、その舞台設定が宝塔品から始まっているということになる。
 とともに、その「永遠の仏陀」は、釈尊の悟った法の真理を体現している。その真理とは、私たちの生命に「七宝を以てかざりたる宝塔」が厳として実在するという真理です。
 会座の大衆が虚空に引き上げられたのは、この真理の世界に入ったということです。言い換えれば、すべての衆生が永遠の仏陀であるということだ。
 大聖人は「過去久遠五百塵点のそのかみ当初唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」と仰せです。
 虚空会は、十界の衆生がことごとく平等であるという世界です。衆生と仏との間に差別はないという世界なのです。
 須田 衆生も仏も別々のものではない──「生仏一如」の世界ですね。
 観心本尊抄には「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり」と示されています。仏の教えを聞く衆生(所化)も仏と同体である、と。
 斉藤 戸田先生は「自己の生命は即宇宙の生命であり、即仏の生命である」と喝破されました。
 その「我即宇宙」「宇宙即我」という点から見ますと、二処三会の流れは、現実の大地である霊鷲山から、大宇宙に広がる虚空会に昇り、そしてまた霊鷲山に戻ってくるという、その往復運動になっているようにも思えます。
 いわば小字宙と大宇宙との交流のドラマです。観念ではなく実感として宇宙大の生命を体得していく──虚空会、二処三会はそのための儀式のように思えてなりません。
 池田 そう。二処三会は、生命の全体像、生命のダイナミズムを表現しようとしているのです。たとえば「色心不二」を表している。
 斉藤 御義口伝に「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり」とあります。
 池田 また、二処三会は「生死不二」を表しているとも言えるだろう。
 遠藤 はい。「皆在虚空とは我等が死の相なり」と、大聖人は仰せです。「虚空」を「死の相」とすれば、霊鷲山が「生の相」と考えられます。
 すなわち二処三会では、「生」→「死」→「生」という生命のダイナミズムが展開されている。そこに生死が不二であるという実相が表されているといえます。
 池田 そうなるね。このことは生死一大事血脈抄の「妙は死法は生なり」との仰せからも論じられると思う。
 斉藤 その場合、「死の相」である「虚空」が「妙」にあたり、「生の相」である「霊鷲山」が「法」にあたりますね。
 池田 そうです。「虚空」は永遠不変の世界であり、仏の悟りの世界を象徴している。「妙法」に約せば「妙」といえる。なぜならば、凡夫には思議できない「不可思議」の世界だからです。
 それに対して、現実の場としての霊鷲山は「法」にあたる。「法」とは、現象・事象を意味する。「生の相」です。この「妙=死」「法=生」が不二なのです。さらに、この生死不二という宇宙の実相は、虚空会における二仏並坐でも表されています。
 須田 「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と御書にあります。現在の仏である釈迦如来は「生」を、過去の仏である多宝如来は「死」を表しています。
 池田 生死こそ根本の課題です。
 ひるがえってみれば、法華経そのものが「生死の二法」を説いているのです。序品第一が「如是我聞(是の如きを我れ聞きにき)」(法華経七〇ページ)の「如」で始まり、普賢品(第二十八章)が「作礼而去(礼を作して去りにき)」(法華経六七八ページ)の「去」で終わっていることを踏まえて、大聖人は「如去の二字は生死の二法なり」と述べられています。
 二処三会には、まだまだ、汲めども尽きぬ智慧が込められていると考えられます。今後もさらに論じる機会があると思う。
 大事なことは、私どもは日々、この二処三会を行動しているということです。日蓮大聖人は虚空会の儀式を借りて、御自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった。この御本尊を信受している私どもこそ、法華経のダイナミズムを、そのまま生活に反映させているのです。
 これまで歴史上、どれほど世界の多くの人々が法華経を学び、読誦してきたか計り知れない。しかし、私どもこそが、法華経の本義を生きているのです。その栄光と誇りを自覚したい。
 妙法を行じる私どもの人生は、一瞬一瞬が虚空会という「真如実相の世界」に連なり、「永遠の世界」を呼吸している。妙法の大宇宙から、光が、風が、音楽が、そして福徳の香気が流れこみ、私どもを包んでいます。
 妙法の流布に生きる人生の″今″は、常に″永遠″と一体の″今″です。私どもの生活の中で、″永遠″と″今″が出あい、交流し、交響している。人生が「永遠の今」というべき常楽の連続となるのです。
 ゆえに、信仰者にとって、一瞬は一瞬ではない。一日は一日ではない。そこに永遠性の価値を含んでいる。時がたてばたつほど黄金と輝く一瞬であり、一日なのです。
 この無上道の人生を教えたのが法華経です。
 そのための釈尊の第一声は何であったか。次から、いよいよ「方便品」(第二章)に入っていこう。

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