Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序論 「哲学不在の時代」を超えて  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
2  「生きる意味」を教える経典
 遠藤 池田先生が、学会の座談会に初めて出席された時の模様が、小説『人間革命』には描かれていますが、戸田先生(戸田城聖創価学会第二代会長)の前で詠まれた即興詩(「地涌」)を思い出します。そこには
  旅びとよ
  いづこより来り
  いづこへ往かんとするか
  月は沈みぬ
  日 いまだ昇らず
  夜明け前の混沌カオス
  光 もとめて
  われ 進みゆく
  心の 暗雲をはらわんと
  嵐に動かぬ大樹を求めて
  われ 地より湧き出でんとするか(本全集第39巻所収)
 とあります。
 池田 戦後の動乱期を生きる青年として、人生の意義を、私は切実に求めていた。
 そして私は、戸田先生と出会い、軍国主義に反対して投獄された人物ならば信用できる、と直感したのです。
 戸田先生との出会いが、私にとっての法華経との出合いになりました。
 人は「どこから」そして「どこへ」「何のために」──この問いに答えることこそ、人間としての、一切の営みの出発点となるはずです。
 須田 それに明快に答える思想・哲学・宗教は、どこにあるのか──これが課題ですね。社会が戦争で「焦土」であっても、心に「哲学」が生きていれば、未来は明るい。それを池田先生は証明されたと、私には思えます。
 斉藤 それが法華経の哲理でもありますね。
 須田 しかし、社会が豊かであっても、心が「焦土」であっては、未来は暗い──。
 池田 その通りだ。それで思い出したのだが、現代人の心象を「心のなかが爆撃を受けた」と表現した人がいます。ナチスの強制収容所の体験で有名なフランクル博士てす。
 遠藤 『夜と霧』(原題「強制収容所における一心理学者の体験」)の著者として高名ですね。
 池田 博士は「現代は、あらゆる熱情が乱用されたあげく、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代なのです。じつさい、ほんとうなら、若い世代に最も理想主義と熱情を求めなければならないのに、こんにちの世代、こんにちの青年には、もはやどのような理想像もないのです」と語られています。(『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)
 「生きる意味」を失ってしまった、というのだ。
 遠藤 強制収容所は、それこそ「人間の尊厳」も「生きる意味」も破壊し尽くされるような環境であった。それでも、「人間」として生き抜いた人もいたのですが、──。博士は、平和の時代になっても、別の意味で、目に見えない強制収容所が人類を取り巻いているのではないかと、示唆されているのでしょうか。
 池田 そうとも言えるだろう。また、現代を支配している気分を一口で言うと、それは「無力感」だと言った人もいる。
 ともあれ、だれもが、このままではいけないと思っている。しかし、政治も経済も環境の問題も、すべて自分の手の届かないところで決定され、動かされている。自分一人が何かしたところで、大きな機構の前に何ができようか──この「無力感」が、さらに事態を悪化させる悪循環をもたらしているのです。
 この無力感の対極にあるのが、法華経の一念三千の哲学であり、実践なのです。一人の人間の「一念」が一切を変えていくというのですから、一人の人間の可能性と尊貴さを、極限まで教えた思想とも言えるでしょう。
 斉藤 人間は、無力で哀れな存在ではないことを強調しなければなりません。池田先生と親交のあるロシアのヤコブレフ氏は「ペレストロイカの設計者」と言われる方ですが、「ロシアに明日はあるか」を展望されて、こう言われています。
 「今日、最もクールな科学的合理主義ですらも、人間一人一人の価値を認めない限り、人類そのものが破滅するということをわれわれに教えている」(『歴史の幻影』、月出皎司訳、日本経済新聞社)と。
 池田 ヤコブレフ氏とは、一九九四年も、モスクワでお会いしました。
 (レオナルド・クラブ会長のヤコブレフ氏tお九四年五月の「レオナルド国際賞」の受賞式で会見。氏は「池田博士! 我が国も、池田博士の行動に見習って、人道的な、また″社会に尽くしていこう″とする広範な動きが、そのような人々が登場してきています」とあいさつした)
 氏は、真剣に「ロシアのルネサンス」を求めておられる。その核心にあるのは、「人間的価値の復権」です。
 「二〇世紀の残りの数年は、われわれが一九世紀半ば以来知っている共産主義の幻想が完璧に破綻する時になるだろう。そうなるに違いない。と同時に、この数年間に、本当の人間的価値の復権が起こるだろう。人間的価値は、これまで『社会的実践』の結果として、誤解、嘘、中傷によって圧倒され尽くしてきたが、やっとそれから解き放たれる時がきたのだ。
 現在と未来に考えをめぐらせば、今日ぶつかっている危機のなかで最大のものは精神的理想の分野にあるという結論に達するに違いない」(同前)と。
 斉藤 この「人間的価値」を、最も壮大にして崇高に、うたいあげたのが法華経と言えますね。
 池田 そうです。それが私どもの確信です。
3  「人間のための宗教」の復権
 池田 かつて神聖ローマ帝国時代に「大空位時代」(一二五四年または五六年〜七三年)があった。皇帝が実質的に空位だった時代です。ちょうど日蓮大聖人の御在世(一二二二年〜八二年)当時に当たる。
 冷戦後の今は、「哲学の大空位時代」ともいえる。指導的哲学がなくなってしまった。ゆえに、今こそ私は、古来「経の王」といわれる法華経を語りたいのです。
 遠藤 「諸経の王」「諸経の皇帝」ですね。「大空位時代」は、まさに現実だと思います。共産主義への信仰はなくなりましたが、かといって「自由」が人を幸福にしているのかは疑問です。
 かえって拝金主義、物質主義、快楽主義といった風潮が、全世界的に広まってしまったといえるかもしれません。
 須田 同感です。池田先生が会見されたチェコのハベル大統領は、共産主義の抑圧と戦った勇士として有名ですが、その後の社会の変化に、警告を発しています。
 「われわれは異様な事態の目撃者となった。なるほど社会は自由を手に入れた。だが、ある意味で、社会は鎖に繋がれていたときより堕落している」(アンドルー・ナゴースキー『新しい東欧』、工藤幸雄監訳〈共同通信社〉の中で紹介)と。
 そして「道義的にタガの緩んだ社会に自由が取り戻されると、(中略)思いつく限りのあらゆる悪徳が、目も眩むばかりにどうと噴き出した」(同前)と言っています。
 斉藤 極端なナショナリズムも、その一つですね。「統合ドイツ」でも、ネオナチズム(第二次大戦後、ナチズムを再興しようとする運動)のような動きは、ごく一部にしても、民族的な「排除」の声が高まっているようです。
 「ベルリンの壁」を、今度はドイツ全土を包囲するように、再び建設すべきだという主張さえ聞かれる昨今です。
 池田 その通りである。民族主義の問題は、根が深い。民族主義をあおって、政治的、経済的、宗教的に利用しようという動きが絶えないし、何より人間の「心」の欲求に関わっているから、その深刻さは当然なことだ。
 つまり、自分は「どこから来て」「どこへ行くのか」というアイデンティティー(自己を支える帰属意識)への欲求が、民族主義の根っこにはあると考えられる。
 思想、哲学が空白状態であるから、アイデンティティーを民族に求める。思想の″真空″には耐えられないからです。だからこそ宗教が大切なのですが、宗教がむしろ「分断」を助長しているのが実情ともなっている。
 遠藤 国連の明石康氏は、旧ユーゴスラビア紛争の解決に当たっている担当者(旧ユーゴ問題担当国連事務総長特別代表)ですが、ある宗教者会議で、こう語られています。
 「旧ユーゴでは、宗教は偏狭な民族主義者に誤用、乱用されている。宗教者がしっかりしていて、こうなる前に立ち上がっていたら、それは避けられたろう」(「東京新聞」一九九四年十一月十七日付)と。
 池田 明石氏は大切な友人です。旧ユーゴの戦乱は、本当に悲惨だ。現地の人々を思うと、胸もつぶれる思いです。まさに「この世の地獄」となっている。ある文学者に、ボスニアの詩人は言ったという。「今日のサラエヴォで書くことができるのは死亡記事だけだ」(フアン・ゴイティソーロ『サラエヴォ・ノート』、山道佳子訳、みすず書房)と。
 斉藤 同じキリスト教系の進行ゆえに、歴史的にも激しく憎悪・対立してきたという背景も考えられます。
 それを象徴する例として、真偽はともかく、現地で伝えられている情報があります。サラエヴォに取材に行って見聞した生々しいエピソードですが。
 「カトリックを信仰するクロアチアの兵士が、正教徒であるセルビア側の捕虜になると、正教流に三本指で十字を切るように強制され、拒否すると、三本でしか十字を切れないように指に針金を入れられたりすることもあるそうだ」(堅達京子・稲川英二『失われた思春期』径書房)
 須田 カトリックでは、十字を切るさい二本指で行うようです。
 斉藤 ええ。その捕虜が三本指にされた写真を、クロアチア側の新聞が大きく報道します。それを見た人は当然、セルビア側へのさらなる憎悪をつのらせるわけです。(同前)
 池田 宗教は、使い方によっては″悪魔″となる。人々を結びつけるべき宗教が、利用され、かえって分断を煽っている。これほどの不幸はない。
 どこまでも「人間のための宗教」が根本とならねばならない。「宗教のための人間」では絶対にない。「二十一世紀の宗教」の、これは根本原則です。
 遠藤 モスクワ大学前総長のログノフ博士は、池田先生に学んだこととして、「人間のための社会」であって「社会のための人間」ではないという信念をあげておられます。かつてのソビエト社会で、これは衝撃的な思想であった、と。まさに「人間的価値の復権」です。
 池田 これが法華経の法理だ。これが仏法の人間主義なのです。
 サラエヴォからのリポート(『失われた思春期』)は私も目にしましたが、戦乱によって「思春期」が奪われた子どもたちの、悲痛な叫びが伝えられている。
 サラエヴォのある少女は、戦争が始まってから一年半、家から出ることもできず、爆撃が続くなか、自分の部屋でさえ危険で入れなかったという。トイレと廊下が比較的安全なので、そこで一ヵ月も暮らした。水もない。電気もない。周りは爆撃でバラバラになった人体が吹きとび、冬はマイナス十七度のなかで薪もストーブもない。コップの水も凍っている。手も顔も洗えない。水くみ場にいくと狙撃される危険がある……。
 また、同じような状況のなかで、ある十七歳の少年は語っています。
 「ぼくにはいろんな夢があったけど、戦争がすべてを奪ってしまった」「でも、いつになるかわからないけれど、今後、人を愛せるのなら、そういう能力がまだ残っているのなら、誰かを愛したいと思う。一番大切なことは、何が起ころうとも『人間』でいることだ。『人間』であり続けることだ……」(同前)
 二十一世紀といっても、「平和」が大前提です。平和なしには、一切が不毛です。ゆえに二十一世紀の宗教は、平和を生み出す宗教でなければならない。
 そして「平和学の父」ガルトゥング博士が結論されたように、仏教こそ最も平和的な宗教なのです。その仏教の骨髄が法華経です。
 遠藤 「何が起ころうとも『人間』でいることだ」という叫びは、状況が状況だけに、切実に胸に迫ってきますね。
 日本は一見、平和ですが、はたして「『人間』であり続けること」ができているのかどうか、大いなる疑問を持つのは、私一人ではないと思います。
 池田 そうだね。だからこそ、いずこであれ、「一人の人間」の蘇生から出発することが必要となる。それが「人間革命を通しての社会革命・地球革命」です。その法理が、法華経です。その行動が、法華経の智慧と言いたい。
4  変革期に輝きを放つ経典
 須田 こうして概観するだけでも、現代という変革期が、行き詰まった「哲学の大空位時代」であり、カオス(混沌)であることがわかります。ますます地球は狭くなっているのに、ますます「どこへ行くべきか」わからなくなっている。今こそ人類をリードする根本規範が必要になることは当然のことです。
 池田 じつは法華経は、そういう大変革期にこそ輝きを放つ経典なのです。
 法華経が説かれた時代も、そうであったようだ。釈尊当時のインドは、都市の発達によって、人々が部族という分断の枠を超え、新しい結びつきのなかで「共生」しなければならない時代になりつつありました。
 そうしたなか、思想的には唯物論から快楽主義、苦行主義に至るまで、混乱の極みに達していた。
 須田 いわゆる、有名な六師外道が代表ですね。
 池田 そうです。こういう一大転換期に、人類を結ぶ新しい統合の原理を教えたのが、釈尊の教えであった。そして、その精髄が法華経です。
 後の中国の天台大師も、日本の日蓮大聖人も、さまざまな宗教が入り乱れ、人々が何を拠りどころとしてよいか、わからなくなっていたときに、「法華経」を掲げて、時代の課題にまっこうから立ち向かわれた。法華経は、いわば「精神の戦国時代」を突き進みゆく「統合の旗印]だったのです。
 須田 その点で思い出すのは、ハワイ大学宗教学部長のジョージ・タナベ博士の言葉です。同学部は、東西の比較宗教学では世界屈指とされています。博士は述べています。
 「法華経は普遍性、永遠性を説いた教えとして、仏典の最高峰に位置しております……法華経が時代を超え、文化を超えて、世界の人々に共感をもって受け入れられたという事実は、現代に生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。すなわち、多文化の融合、多様性の統合が叫ばれている現代、まさに異なる文化に生きる人々の心を引きつけ続けた法華経の秘けつを探ることによって、私たちは統合への原理を見いだすことができるのではないか、ということです」(「聖教新聞」一九九四年四月十四日付)と。
 また「法華経の″一乗″とは、″世界は一つ″の意義であり、普遍の法のもとにすべての差異が生かされ共存する、とのイメージを私たちは普遍の法である法華経から学び取らなければならない」(同前)と。
 池田 まさに、法華経の現代的意義を的確に示しておられる。「法の華の経」──法華経は「経の王」です。王とは、他を否定するのではなく、一切を生かしていく立場です。
 日蓮大聖人は仰せです。
 「所詮しょせん・万法は己心に収まりて一塵もけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず」と。
 法華経以外の哲学は、生命の法の「片端片端」すなわち部分観を説いたにすぎない。それらは「部分的真理」ではあっても、それを中心とすることは、生命全体を蘇生させることにはならない。かえって、歪みを生じてしまう。これに対し、法華経はそれらを統一し、きちんと位置づけ、生かしていく「根源の一法」を説いているのです。
 それが「法華経の智慧」です。法華経の寿量品には、「良医の智慧聡達にして」(法華経四八四ページ)とある。名医のごとく、法華経の智慧は、苦しみ悩む人々を救うのです。
 遠藤 その智慧で救われた人々について、「常懐悲観、心遂醒悟」(法華経四八八ページ)とあります。すなわち深く苦悩していたけれども、「心遂に醒悟しょうごし」──心が目ざめて、救われた、と。それは、どういう智慧だったのでしょうか。
 池田 そう簡単に言えれば、この連載をやる必要もない(笑い)。結論だけ言えば、「自分は永遠の昔から仏であり、永遠の未来まで仏である」という真理を悟ったのです。そう言ったところで、「なるほど、わかりました」と(笑い)急に開けるものでもない。
 この真理を、万人にわかりやすく説かんとしたのが、法華経であり、万人が事実の上で体得できるようにされたのが、「末法の法華経の行者」日蓮大聖人なのです。
 ともあれ、法華経は、無力感を打ち破る宇宙大の「心の秘宝」を教えている。宇宙の大生命を呼吸しながら、はつらつと生きる人生を教えている。自己変革という真の大冒険を教えている。
 法華経には、万人を平和へと包み込む大きさがある。絢爛たる文化と芸術の薫りがある。いつでも「常楽我浄」で生き、どこでも「我此土安穏」で生きられる大境涯を開かせる。
 法華経には、邪悪と戦う正義のドラマがある。疲れた人を励ます温かさがある。恐れを取り除く勇気の鼓動がある。三世を自在に遊戯する歓喜の合唱がある。自由の飛翔がある。
 燦々たる光があり、花があり、緑があり、音楽があり、絵画があり、映画がある。
 最高の心理学があり、人生学があり、幸福学があり、平和学がある。「健康」の根本の軌道がある。
 「心が変われば一切が変わる」という宇宙的真理に目ざめさせてくれる。個人主義の「荒れ地」でもなければ、全体主義の「牢獄」でもない──人々が補い合い、励まし合って生きる、慈悲の浄土を現出させる力がある。
 共産主義も資本主義も、人間を手段にしてきたが、人間が目的となり、人間が主人となり、人間が王者となる──根本の人間主義が「経の王」法華経にはある。こういう法華経の主張を、かりに「宇宙的人間主義」「宇宙的ヒューマニズム」と呼んではどうだろうか。
 斉藤 賛成です。これまでの、他の生命を犠牲にした″人間中心主義″との違いも明確にできると思います。
 池田 二十一世紀を標榜する、壮大なる名称と私は思う。
5  二十一世紀を「智慧の世紀」へ
 池田 ともあれ、大切なのは「智慧」である。智慧を体得することです。智慧と知識の関係は、今後も論じていくことになると思うが、あるイギリスの思想家は書いています。
 「知識がありながら智慧がないよりも、知識はなくとも智慧があるほうがよい。それはちょうど、鉱山をもちながら富がないよりも、鉱山はなくとも富があるほうがよいのと同じである」(チャールズ・C・コルトン『ラコン』)
 智慧も知識も両方あるのが理想ですが、根本は智慧である。目的は「幸福」であり、知識だけでは「幸福」はないからです。その意味で、二十一世紀を幸福にするには「智慧の世紀」とする以外にない。
 そして知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです。じつはそこに、法華経が「師弟」という全人格的関係を強調する一つの理由もあるのです。
 遠藤 経典に対しても、頭脳だけでなく、全人格的関わりが絶対に必要ですね。また、それが現実の道理と思います。
 須田 戸田先生の獄中での悟達も、法華経への生命をかけた肉薄から生まれたものでした。
 斉藤 このときの「仏とは生命なんだ」との悟達が、法華経を″過去の古典″から現代に蘇生させる原点となったわけです。ここに学会の不滅の深さがあると感じられます。
 池田 その通りだ。次は、この戸田先生の悟達の意義から入っていきたい。
 法華経をどう読んでいくのか──日蓮大聖人は御義口伝に仰せです。
 「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なり」と。法華経二十八品の一文一句が、ことごとく妙法の当体である自分自身のことを説いている。決して、遠くのことを説いているのではない。
 その根本の立場から、法華経をどう読むべきかを、大聖人は御義口伝として残してくださっている。この御義口伝を、深く、厳格に拝しながら、二十一世紀へ「法華経を語る」壮大な挑戦の旅を、読者とともに始めたい。若き諸君の英知を借りながら。
 それは、どこまでも「自分自身が仏である」という真理への旅である。人生とは、自分自身への永遠なる旅なのです。
 人類の意識革命の必要を痛切に語った詩人に、ヘルマン・ヘッセがいたね。彼は今世紀の病を、鋭敏に感じとっていた。彼の「書物」と題する詩が、私どもの法華経探求にも示唆を与えてくれています。
  この世のどんな書物も
  君に幸福をもたらしてくれはしない
  けれども書物はひそかに君をさとして
  君自身の中へ立ち返らせる
  そこには太陽も星も月も
  君の必要なものはみんなある
  君が求めている光は
  君自身の中に宿っているのだから
  そうすると君が書物の中に
  長い間 捜し求めていた知恵が
  あらゆる頁から光ってみえる──
  なぜなら今その知恵は君のものとなっているから(『生きることについて』三浦靭郎訳・編、社会思想社)
 斉藤 私どもも、これを通して、法華経に関して、さまざまな角度から勉強をしていきたい。また、勉強していかねばならない。これが二十一世紀に向かう若き指導者たちの真髄の哲学である、こう言えるよう頑張ってまいります。

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