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日蓮大聖人・池田大作

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第31巻 「誓願」 誓願

小説「新・人間革命」

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1  誓願(1)
 新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。ゆえに山本伸一は、常に青年の育成に焦点を当て、全精魂を注いできた。
 青年が、広布の後継者として大成していくうえで大切な要件は、何よりも信心への揺るぎない確信をつかむことである。そして、地涌の深き使命を自覚し、自身を磨き鍛え、人格を陶冶していくことである。ゆえに、挑戦心、忍耐力、責任感等々を身につけ、自身の人間的な成長を図っていくことが極めて重要になる。伸一は、そのための一つの場として、青年たちを中心に、各方面や県で文化祭を開催することを提案してきた。
 文化祭は、信仰によって得た生命の躍動や歓喜を表現する民衆讃歌の舞台である。さらに、信頼と友情がもたらす団結の美と力をもって描き示す、人間共和の縮図である。また、広宣流布、すなわち世界平和への誓いの表明ともなる希望の祭典である。
 二十一世紀に向かって飛翔する創価学会の文化祭の先駆となったのは、関西であった。
 一九八二年(昭和五十七年)三月二十二日、大阪の長居陸上競技場で、第一回関西青年平和文化祭が開催されたのである。
 関西には、全国、全世界に大感動を呼び起こした、六六年(同四十一年)に阪神甲子園球場で行われた「雨の関西文化祭」の歴史があった。この文化祭の記録フィルムを、当時、中国の周恩来総理の指示で、創価学会を研究していた側近の人たちも観賞していた。その一人で、総理と伸一の会見で通訳を務めた林麗は、こう語っている。
 「若人が泥んこになって生き生きと演技している姿を見て、本当にすばらしいと思ったのです」「創価学会が大衆を基盤とした団体であることを実感しました。中日友好への大切な団体であると深く認識したのです」
 関西青年部には、この文化祭を超える、芸術性と学会魂にあふれた感動の舞台にしなければならぬとの、強い挑戦の気概があった。
2  誓願(2)
 第一回関西青年平和文化祭の前年にあたる一九八一年(昭和五十六年)十一月、第三回関西総会に出席するため、大阪を訪れた山本伸一に、関西の青年たちは言った。
 「来年三月の関西青年平和文化祭は、『学会ここにあり、創価の師弟は健在なり!』と、満天下に示す舞台にいたします!」
 「十万人の青年がお待ちしております!」
 燃える太陽のごとき、若き情熱を感じた。
 文化祭は、三月二十一、二十二の両日にわたって行われる予定であったが、二十一日は激しい雨で中止となった。この日、大阪入りした伸一は、落胆しているであろう青年たちを励まそうと、役員会に駆けつけた。
 この文化祭で関西の青年たちは、至難の技である六段円塔に挑もうとしていた。前年四月に、東京下町の同志が集った東京家族友好総会で、江東区男子部が完成させていたが、文化祭では、初の挑戦となる。その報告を受けていた伸一は、こう言って励ました。
 「今日は中止になって、さぞ残念に思っているだろうが、六段円塔という極限の演技を二日も続けることは、あまりにも過酷です。事故も起こりやすい。むしろ雨が降ってよかったんです。明日を楽しみにしています」
 文化祭は、安全、無事故が鉄則である。事故を起こしては、取り返しがつかない――関西の青年たちは、そう深く自覚し、六段円塔への挑戦が決まると、絶対無事故を決意し、事故を起こさぬための工夫、研究を重ね、皆で真剣に唱題に励んだ。
 出演者も体操競技の経験者などを優先して集め、まず、徹底した基礎体力づくりから始めた。走り込みや腕立て伏せ、足腰や体幹強化のための運動などが、来る日も、来る日も繰り返された。
 屋外の練習場では、怪我などさせてはならないと、近くの壮年・婦人部が、自主的にガラスの破片や小石を拾い、清掃に努めた。
 仏法は道理である。御書に「前前の用心」と示されているように、万全な備えがあってこそ、すべての成功がある。
3  誓願(3)
 「常勝関西」に、さわやかな希望の青空が広がっていた。二十二日午後一時半、関西青年平和文化祭は、新入会員一万人の青年による平和の行進で幕を開けた。
 誉れの青春を、真実の生き方を求めて創価の道に進んだ新入会の若人たちが、胸を張って歩みを運ぶ。宗門事件の逆風のなかで、懸命に彼らと仏法対話し、弘教を実らせた同志たちは、その誇らかな姿に胸を熱くした。新しき力こそが、新しい未来を開く原動力だ。
 「国連旗」「創価学会平和旗」が入場したあと、山本伸一が青年たちに贈った詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」に曲をつけた合唱曲を、二千人の混声合唱団が熱唱し、グラウンドいっぱいに純白のドレスが舞う。女子部の創作バレエである。
 平和の天使・鼓笛隊のパレードや高等部のリズム体操、女子部のダンス、袴姿も凜々しい学生部の群舞、音楽と人文字とナレーションで構成する「関西創価学会三十年の歩み」、中等・少年部の体操、女子部のバレエ、音楽隊のパレード、和太鼓演奏「常勝太鼓」と、華麗な、また、勇壮な演技が続いた。
 やがて、男子部の組み体操となった。
 「ワァー」と雄叫びをあげ、男子部四千人がフィールドに躍り出る。
 「紅の歌」「原野に挑む」など、学会歌が流れるなか、次々と隊形変化し、人間の大波がうねり、人間ロケットが飛び交い、八つの五段円塔がつくられた。
 そして、中央で六段円塔が組まれ始めた。
 一段目が六十人、二段目二十人、三段目十人、四段目五人、五段目三人、六段目が一人――一段目は立ったまま、その肩に、あとの三十九人を乗せていく。一段目が揺らげば、上段を支えることはできない。
 二段目が乗り、中腰の体勢で円陣を組む。
 さらに、三段目、四段目……と順に乗り、同じ体勢で、六段目が乗るのを待つ。
 「いくぞーっ!」
 限界への挑戦というドラマが始まった。皆には、鍛錬を通して培われた自信があった。
4  誓願(4)
 六段円塔の二段目のメンバーが、上に十九人を乗せたまま、腰を伸ばす。その足が一段目の友の肩に食い込む。自分たちが腰をしっかり伸ばしきらなければ、上に乗った人たちがバランスを崩して落下することになる。歯を食いしばって立ち上がる。
 続いて、三段目が、四段目が次々と立った。皆、体が小刻みに震えている。
 頭上を撮影用のヘリコプターが飛ぶ。
 バババババババー……。
 ヘリの起こす風が予想以上に激しい。円塔が揺れる。周囲のメンバーは、心で題目を唱える。やがて、ヘリは遠のいていった。
 五段目が立った。音楽隊の奏でるドラムの音が響く。六段目となる最後の一人が立とうとした。が、腰をかがめた。足下の青年の肩に手をかけ、もう一度、体勢を整える。観客も息をのみ、いっせいに円塔の頂上を見る。
 “立て! 俺たちを信じて立て!”
 彼を支える青年たちが、心で叫ぶ。
 「頑張れ!」
 観客席から声が起こる。
 青年は深呼吸し、空を見上げた。
 そして、一気に立った。
 最上段に立った青年は、両手を広げた。
 大歓声と大拍手が、長居陸上競技場の天空に舞った。スタンドには、「関西魂」の人文字が鮮やかに浮かび上がる。
 山本伸一も、大きな拍手を送った。
 円塔のてっぺんで、青年が何かを叫んだ。
 「弘治、やったぞ!」
 大歓声にかき消され、聴き取ることはできないが、魂の絶叫であった。青年は菊田弘幸といい、弘治とは、五日前に他界した親友で男子部員の上野弘治のことである。二人は、同じ水道工事の会社で働いており、上野も、この青年平和文化祭に組み体操のメンバーとして出演する予定であった。しかし、三月十七日、彼は病のために他界した。親友の思いを背負っての菊田の挑戦であった。
 青年たちが打ち立てた六段円塔は、永遠に崩れぬ、美しき友情の金字塔でもあった。
5  誓願(5)
 組み体操の練習に励んでいた上野弘治が、「気分が悪い」と訴え、救急病院へ運ばれたのは、三月六日のことであった。いったん自宅に戻るが、意識障害が始まり、再び入院した。混濁する意識のなかで、「親友が六段円塔の一番上に立つんだ……」と繰り返した。
 やがて意識不明になり、救命救急センターに転院することになった。菊田弘幸も駆けつけ、彼の体を抱え、ストレッチャーに乗せた。その時、上野は、小さな声だが、はっきりした口調で言った。
 「不可能を可能にする!」
 これが、上野の最後の言葉となった。
 彼は、原発性くも膜下出血と診断され、十三日に呼吸停止となったが、人工呼吸で四日間、生き続け、「広宣流布記念の日」の三月十六日を迎えた。そして、翌十七日午後、安らかに息を引き取った。その枕元のハンガーには、彼が文化祭で着る予定であった青いユニホームが掛けられていた。
 菊田は、友の霊前で誓った。
 「弘治! 君の分も頑張るぞ!」
 十八日、菊田は、上野の写真を胸に、練習会場の交野の創価女子学園(同年四月から関西創価学園に)体育館に向かった。これまで六段円塔を立てることはできなかったが、この日、初めて至難の円塔が完成したのだ。
 また、この日、学園にいたメンバーだけでなく、別の場所で練習に励む、組み体操メンバー全員に、上野の死と彼の不屈の心意気、「不可能を可能にする!」との遺言ともいうべき言葉が伝えられた。組み体操四千人の若人の心が、一つになって燃え上がった。
 菊田は、上野の最後の言葉を心に焼き付け、自身の力の限界に挑み、まさに不可能を可能にする見事な演技を成し遂げたのだ。
 上野には、創価学会から、男子部本部長の名誉称号が贈られた。彼の母親は述懐する。
 「あの子は、中学二年の時、紫斑病で生死の境をさまよいました。今、思えば、それ以来、御本尊様に寿命を延ばしていただいたと実感しています」
6  誓願(6)
 上野弘治の妻は、山本伸一への手紙に、こう記した。
 「宿命と闘った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生き抜いて教えてくれました」
 さらに、関西青年平和文化祭の出演者らで、決意の署名をすることになった時、皆から弘治の名も残したいとの希望があり、彼女が夫に代わって筆を執った。
 「我が人生は広宣流布のみ!! 上野弘治 名誉本部長」――夫の心をとどめたのだ。
 その報告に伸一は、上野への追善の祈りを捧げるとともに、夫人が亡き夫の分まで広宣流布に生き抜き、幸福な人生を歩んでほしいと祈念し、題目を送った。
 文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに“負けるな!”と励まし合ってきた。
 そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
 “関西魂”は、どこから生まれたのか――。
 “この大阪から、貧乏と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”というのが、戸田城聖の思いであった。
 この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執り、関西の地を走りに走った。そして、一九五六年(昭和三十一年)五月には、大阪支部で一カ月に一万一千百十一世帯という弘教を成し遂げ、民衆凱歌の序曲を轟かせた。
7  誓願(7)
 山本伸一は、一九五六年(昭和三十一年)七月、学会が初めて推薦候補を立てた参議院議員選挙で、大阪地方区の支援活動の最高責任者を務め、見事、当選を勝ち取った。“当選など不可能である”との、大方の予想を覆し、「“まさか”が実現」と新聞で報じられた、劇的な大勝利であった。
 翌五七年(同三十二年)の七月三日、彼は、同年四月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反をしたという無実の罪を着せられ、逮捕される。大阪事件である。新しい民衆勢力の台頭を恐れる横暴な権力の弾圧であった。同志は怒りに震えた。
 七月十七日、大阪府警並びに大阪地検を糾弾する大阪大会が、中之島の大阪市中央公会堂で開かれた。場外も多くの人で埋まった。途中から激しい豪雨となり、稲妻が天を切り裂いた。外の人たちは、雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる声に耳をそばだてた。幼子を背負った婦人もいたが、誰も帰ろうとはしなかった。
 “無実の山本室長を、なぜ逮捕したのか! 民衆の幸せを願って走り抜き、私たちに勇気の灯をともしてくれた室長を迫害する、権力の魔性を、私たちは断じて許さない!”
 同志の心に、正義の炎は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、“常勝”の誓いが刻まれ、目覚めた民衆の大行進が始まったのだ。
 その時の、背中の子どもたちも、今、凜々しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
 青年たちは、仕事や学業のあと、息せき切って、練習会場に駆けつけ、必死に、負けじ魂をたぎらせて練習に汗を流した。草創期を戦った壮年や婦人は、毎日のように応援に訪れ、連れて来た孫たちに言うのである。
 「よう見とき、あの懸命に頑張る姿が関西魂や! 学会精神や!」
 草創の同志は、後継の若師子たちが、見事に育ち、魂のバトンが受け継がれていくことに、喜びと誇りを感じたのである。
8  誓願(8)
 大阪の庶民のなかに身を投じ、“この世の悲惨をなくす”“誰一人として幸せにせずにはおくものか!”と誓った戸田城聖の一念――それは即「平和の心」にほかならなかった。
 山本伸一は、この戸田の心を胸に、その実現のために、全精魂を傾けて奔走した。そして、関西の同志は、伸一と共に戦い、権力の弾圧にも屈せず、民衆の幸と蘇生の歴史を綴ってきた。まさに、“関西魂”“学会精神”の継承のなかで、「平和の心」も受け継がれていくのである。
 関西青年平和文化祭は、「平和宣言」へと移った。関西青年部長の大石正志は、マイクに向かうと、「全関西の山本門下生十万の同志諸君!」と力強く呼びかけ、平和への誓いを読み上げていった。
 「一、我々は、日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め、『生命尊厳・人間平和主義』の理念にのっとり、立正安国の恒久平和運動を展開しゆくことを誓う。
 第二代戸田城聖会長の『原水爆禁止宣言』以来二十五年。今や、この不動の精神は第三代山本会長によって継承され、世界的な潮流となって民衆の共鳴を呼んでいる。我々は、この深き仏法者の信念より発した平和行動を、二十一世紀へ更に高めて、この宣言の透徹した理念を訴え続け、核兵器廃絶の実現を期す。
 恒久平和建設の生命線は、民衆と民衆との連帯にかかっている。我々は、広汎なる世界の平和を希求する青年の力を糾合し、もって国連憲章の精神を守る新しい時代の国際世論を形成し、二十一世紀を、人類が希求する、生命・平和の世紀にすることを誓う」
 この「平和宣言」は、競技場を埋め尽くした全員の賛同の大拍手をもって採択された。
 平和運動には、運動を支える確固たる哲学が求められる。仏法では、万人が「仏」の生命を具えていると説く。つまり人間は、等しく尊厳無比なる存在であり、誰人も幸福に生きる権利があることを裏づける法理である。
9  誓願(9)
 創価学会の平和運動は、仏法の生命尊厳の思想を人びとの胸中に打ち立て、ユネスコ憲章に謳われているように、「人の心の中に平和のとりで」をつくることを基調としている。
 法華経の精髄たる日蓮仏法には、人間に内在する「仏」の生命を顕現し、悪の心を滅して善の心を生じ、自他共に幸福を確立していく方途が示されている。学会は、日々、その教えを実践し、一人ひとりが人間革命に励み、苦悩の宿命を転換するとともに、社会建設の主体者となって、はつらつと生命尊厳の哲理の連帯を広げてきた。
 平和とは、単に戦争のない状態をいうのではない。地球上のあらゆる人びとが、核の脅威や飢餓、貧困、差別など、人間を脅かすあらゆる恐怖や不安から解放され、生きる喜びと幸せを実感できてこそ、真の平和である。創価学会員には、まさに、その歓喜と幸福の人生の実像がある。
 関西青年平和文化祭では、五千五百人の来賓を代表して、広島市の荒木武市長と長崎市の本島等市長があいさつした。
 荒木市長は、「世界で唯一の戦争被爆国である日本は、核廃絶への世界の先駆となっていく使命がある」との、山本伸一の主張を紹介した。そして、それは、まさに「ヒロシマ・ナガサキ」の世界化を説き、「ヒロシマ・ナガサキの平和の心」を心とした実践の哲理を示していると述べた。
 さらに、「人類の悲願である世界の恒久平和の確立は、互いの人間の奥に光る善性を発見し、民衆と民衆との強い連帯のもとに、人間の心と心のふれあいによってはぐくみ、育てるものである」と力説。その意味から、創価学会青年部の、平和活動と文化の発展のための努力に対し、惜しみない賛辞と拍手を送りたいと語った。
 また、本島市長は、一九五七年(昭和三十二年)、戸田城聖第二代会長の「原水爆禁止宣言」以来、学会が被爆証言集の出版や核廃絶の署名など、長年にわたり、平和の建設に取り組んできたことを高く評価した。
10  誓願(10)
 本島等長崎市長は、山本伸一がこれまで、世界平和と人類の幸福を願って、ソ連のコスイギン首相やアメリカのキッシンジャー博士、中国の周恩来総理など、世界の指導者と対話を重ねてきたことこそ、平和実現のカギになると訴え、こう続けた。
 「三発目の原爆が、地球上のどこにも、永遠に投下されてはならない――長崎こそ世界における原爆の最後の被爆の地であらねばならない、ということを皆さんとともに誓い合いたい」「皆様は、どうか、日本の各地で、平和の運動の先頭に立ってください!」
 また、あいさつに立った関西総合長の十和田光一は、この青年平和文化祭を新たな出発点として、さらに、「核兵器のない世界」「悲惨な戦争のない世界」をめざし、平和に貢献していく決意を披瀝した。そして、デクエヤル国連事務総長から、この文化祭の開催にあたって届けられた、SGI会長の伸一へのメッセージを紹介していった。
 「創価学会のような日本のNGO(非政府機関)が、世界平和と軍縮の推進に寄与されていることを知り、我々は大いに勇気づけられております」「私は軍拡競争の危険性を世界の諸国民と諸政府に、より広く知らしめんとするSGI会長並びに創価学会のご尽力に深く感謝するものであります」
 国連でも、国家レベルの論議は、ともすれば国益の確保などが優先され、軍縮や核兵器廃絶への前向きな交渉が進まない現実がある。その壁を破るために、不戦を願う民衆の連帯を広げ、時代変革の波を力強く起こす機軸となるのが、NGOの存在といってよい。
 創価学会は、前年の一九八一年(昭和五十六年)に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国連広報局のNGOとして登録されている。また、SGI結成から満七年にあたる、この八二年(同五十七年)の一月二十六日、創価学会平和委員会が設置され、いよいよ本格的な平和運動の展開に着手したのである。
 仏法は、人間を守るためのものだ。ゆえに平和を守ることは、仏法者の使命である。
11  誓願(11)
 関西青年平和文化祭では、会長の秋月英介のあいさつに続いて、山本伸一がマイクを手にした。彼は、出演者や来賓の方々に、深く感謝の意を表し、平和への思いを語った。
 「平和は、人類の願望である。私どもは正法正義を根本とし、ただひたすらに、平和に向かって前進してまいりました。また、これからも、断固、進んでいかねばならない。
 さまざまな中傷、批判があったとしても、それらを乗り越えて、最も重大な、人類願望の平和を実現する大河の一滴として、私どもは前進していかねばならない。どうか諸君、あとはよろしくお願いします!」
 そして、各職場、各地域で大いに貢献していくよう期待を寄せ、「今まで以上に、愛される創価学会になっていただきたい! 信頼される創価学会になっていただきたい!」と呼びかけたのである。
 伸一は、関西の青年たちに和歌を贈った。
 ああ関西
   天晴れ地晴れ
     十万の
   平和の勇者は
     歴史築けり
 第一回関西青年平和文化祭は、民衆を基盤とした新たな平和の夜明けを告げる旭日となり、感動のうちに幕を閉じた。
 これには、法主の日顕も来賓として出席していた。文化祭が終わって二日ほどしたころ、宗門から、すぐに登山せよとの連絡があった。伸一は、京都、滋賀を訪問する予定を変更し、秋月と共に総本山へ向かった。三月二十五日のことである。
 待ち受けていたのは、修羅のごとき形相をした日顕であった。居丈高に話しだした。
 ――文化祭の折に、青年部が行った「平和宣言」で、「日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め」云々と言っていた。もともと高いものを「高める」とは、なんたる不遜な言葉か、と言うのだ。
 まさに、言葉尻をとらえての言い分であった。誰の耳にも、その真意は、仏法を広く時代、世界の精神にしていくという広布と平和への誓いであることは明らかだ。歪んだ心の鏡には、すべてが歪んで映るものだ。
12  誓願(12)
 日顕は、山本伸一の関西青年平和文化祭でのあいさつについても、「『日顕上人猊下』と言ったが、なぜ、『御法主上人』と言わなかったか!」と言うのである。
 あの感動の文化祭を見て、青年たちをねぎらうどころか、わざわざ、このことを言うために伸一たちを呼びつけたのだ。嫉妬深いのか、本性をさらけだしたのか、いたずらに自分の権威を誇示するかのように威張り散らす姿に、ただ、あきれ果てるばかりであった。
 しかし、広宣流布のために、僧俗和合していこうという伸一の姿勢は、いささかたりとも変わらなかった。
 「今こそ、平和・文化の新しき創造を!」
 四月二十九日、中部広布三十周年を記念して、七万人の青年たちが集い、第一回中部青年平和文化祭が岐阜県営陸上競技場で盛大に開催された。「曇り後雨」の天気予報を覆し、青空が広がっていた。
 国連旗、創価学会平和旗、中部創価学会旗の入場、掲揚で幕を開けた文化祭では、華麗なる青春の舞が、躍動と歓喜の調べが、熱と力の団結の演技が披露され、人間共和の大絵巻が繰り広げられた。
 これには、国連広報センターから、小田信昭副所長も出席し、来賓を代表してあいさつした。
 「本日の文化祭を通じて、平和は遠い世界のどこかでつくるものではなく、この地で、私たちの周りでつくり上げていくものだという実感を強くいたしました。このことは、SGI会長の国連支援の精神に触れるものであり、強い感激を覚えました」
 そして、この年は国連軍縮特別総会が開催される年であり、それと時を合わせての青年平和文化祭の開催に、国連の期待も大きいことを述べた。
 「団結してこそ勝利は至る」(「連帯性の歌」(『ブレヒト詩集』所収)野村修編訳、飯塚書店)とは、ドイツの劇作家にして詩人のブレヒトの言葉である。平和という壮大な理想を実現するには、青年の熱と力の結集がなければならない。
13  誓願(13)
 最後にマイクに向かった山本伸一は、「平和の輝きと響きと力の文化祭」であったと賞讃し、岐阜、愛知の県知事をはじめ、来賓に心から謝辞を述べ、簡潔にあいさつした。
 「有意義に充実の人生を生きていくには、常に、根本に立ち返って、進むべき道を考えることが大切です。『人生、いかに生きていくべきか』『人生の目的とは何か』、また、『平和実現への原理とは何か』などを探究していくことであり、いわば、哲学という根っこをもつことが大事であるといえます。
 日々、多くの友と、それらを語り合い、共に実践しながら、平和という理想に向かって前進しているのが、私ども創価学会であると申し上げたい」
 大拍手が轟き、岐阜城がそびえる金華山にこだました。彼は、言葉をついだ。
 「古来、力ある宗教には、いわれなき、中傷、批判がつきまとうものである。しかし、生命の世紀を、恒久平和をめざす皆さんは、何があろうが、勇敢に乗り越え、二十一世紀へ威風堂々と前進を開始していただきたい。
 そして、各職場、各学校、各家庭、各地域で、信頼される一人ひとりになってください。それが、仏法の偉大さの証明となり、平和の道を開くことにつながるからです」
 中部青年平和文化祭が終わるのを待つかのように、雨が降り始めていた。
 伸一は、躍動する青年たちの姿を目にしながら、中部に、創価の崩れざる“金の城”が築かれたことを確信した。東京、関西の中間に位置する中部に、難攻不落の広宣流布の堅塁を築きあげることは、師・戸田城聖と彼の「師弟の誓い」であった。
 伸一は、若き日、一首の和歌を師に捧げた。
 いざや起て
   いざや築けと
     金の城
   中部の堅塁
     丈夫勇みて
 戸田は、即座に返歌を認めた。
 いざや征け
   仏の軍は
     恐れなく
   中部の堅塁
     立つは楽しき
 この師弟の念願が、見事に成就したのだ。大勝利の歴史を刻む文化祭であった。
14  誓願(14)
 九月十八、十九の両日には、第二回世界平和文化祭が、「平和のルネサンス」をテーマに掲げ、埼玉県所沢市の西武ライオンズ球場で盛大に開かれた。
 前年の六月、アメリカのシカゴ市郊外のローズモント・ホライゾンで第一回世界平和文化祭が行われてから一年三カ月、今回は、世界三十七カ国三地域のSGI代表三千人を含め、四万人の若人が集い、屋外球場を使ってのナイターでの開催である。
 山本伸一は、十九日の文化祭に出席した。
 各界の来賓一万二千人をはじめ、三万人の観客を迎えて、光と音を駆使した、世界平和の讃歌と誓いの祭典となった。
 この日は、朝から雨が、時に強く、時に弱く、断続的に降っていた。
 開会一時間前の午後四時半過ぎ、雨に煙るグラウンドにスーツ姿の伸一が下り立った。人文字の出演者ら青年たちに、心からお礼を言いたかったのである。
 彼は、降りしきる雨のなか、傘も差さずに、グラウンドを回り始めた。スタンドは大歓声に包まれた。皆に向かって手を振り、何度か立ち止まっては、深く頭を下げた。
 役員の青年が差し出したマイクを手にすると、伸一は呼びかけた。
 「皆さん! 本当にご苦労様。風邪をひかないよう、工夫してくださいね。……本当にありがとう!」
 そこには、なんの気負いもなかった。父親が愛するわが子を気遣って、語りかけるような言葉であった。
 世界平和文化祭の成功は、当然、大事である。皆、何カ月も前から、梅雨の日も、炎暑の夏も、この日をめざして練習に励んできたのだ。なんとしても成功してほしいと、真剣に祈りもしてきた。
 しかし、彼にとっては、それよりも、青年たちが風邪をひいたり、決して事故などを起こしたりしないことの方が、はるかに大事であった。世界平和の旗手となる、創価の宝の、大切な後継の青年たちであるからだ。
15  誓願(15)
 世界平和文化祭では、「きらめく瞳」と題する女子中・高等部員の希望弾むリズムダンスもあった。「羽ばたき」という男子中・高等部員のマスゲームでは、明日に向かう若々しい力が躍動した。男子部のグラウンド人文字は、恒久平和建設への誓いを込めて、「平和乃波」の文字を浮かび上がらせた。
 少年・少女部員は、巨大ボールと戯れるリズムダンスで、果てしない未来へ膨らむ夢を表現。女子部の松明の舞では、点火された松明の炎が一人、三人、五人と燃え広がり、六百人の美しき“平和の光”が踊った。
 海外メンバーのパレードでは、漁業専管水域をめぐって争いが続くアイルランドとイギリスの友が、一緒に笑顔で歌い、行進した。
 「たとえ道は長くとも 希望の光かかげつつ 二十一世紀の勝利めざして」とは、SGIの歌「21世紀のマーチ」の歌詞である。
 この文化祭にも、前月の八月二十四日に山本伸一が会見したデクエヤル国連事務総長から、メッセージが寄せられた。
 「分裂と混乱が国際情勢を支配する現在の困難な時代に、国連憲章に込められた理想に向かう決意を新たにすることは、最も重要であります。人類は平和の維持と軍縮の促進を可能にする国際機構としての国連を保有しております。しかしながら、この国際機構も人類が真剣にこれを役立てようと、その機構の権威強化に全面的に取り組んでこそ、初めてその機能が発揮され得るのであります。
 もし、この取り組みがなければ、人類はなんの手立てもないまま、地球的な破滅へと向かわざるを得ないでありましょう」
 そして、SGIのようなNGOは、国連への世界市民の支持を創出し、平和と軍縮の目的達成を推進するうえで、極めて意義ある役割を果たしていくと強調。今回の文化祭が、その目的へと向かう国際的な勢いを、一段と増すものになるとの確信を述べた。
 伸一は、国境を超えた民衆の平和の連帯をさらに広げ、人類の議会たる国連の支援に、いっそう力を注ぐ決心であった。
16  誓願(16)
 平和文化祭は、関西や中部などの方面にとどまらず、引き続き、各県ごとに開催され、平和意識啓発の一つの運動として、新しい流れをつくっていくことになる。
 この一九八二年(昭和五十七年)は、創価学会が世界平和の実現のための運動に、これまでにも増して、さらに大きな一歩を踏み出していった年であった。
 青年平和会議や学生平和委員会主催の青年平和講座、婦人平和委員会(後の女性平和委員会)の講演会も盛んに行われた。また、第二回となる「女たちの太平洋戦争展」や、地域に根差した草の根の平和運動として、「沖縄戦と住民展」「徳島県民と戦争展」など、各地の歴史に光を当てた展示会を開催していった。
 四月には、創価学会青年平和会議とUNHCRが主催し、「アジアの難民」救援募金を全国約六百五十カ所で実施したのをはじめ、青年部が国連広報センターと共に、長崎市平和会館で「私たちと国連」展を行っている。
 六月七日、ニューヨークの国連本部で、第二回国連軍縮特別総会が開幕した。この総会に際し創価学会は、NGOとして、広島、長崎の三十人の被爆者を含む、五十人の代表団を派遣し、「被爆証言を聞くNGOの集い」や「反核討論集会」を実施したのである。
 さらに、総会の四日前から会期終了まで、国連広報局及び広島・長崎市と協力し、国連本部総会議場一般ロビーで、「現代世界の核の脅威」展(後の「核兵器――現代世界の脅威」展)を開催した。
 世界の人たちは、核兵器が実際に使用された脅威を知らない。日本は、膨大な数の犠牲者を出し、核の悲惨さを体験した唯一の戦争被爆国である。ならば、その使命は、この地上から核兵器を廃絶することにこそある。
 ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインは、自らの信念を、こう述べている。
 「もしもわれわれが心から平和の側に立つ決心をする勇気をもつならば、われわれは平和を獲得するはずです」(『アインシュタイン選集3』井上健・中村誠太郎編訳、共立出版)
 戦争をなくす力は、人間の意志の力である。
17  誓願(17)
 「現代世界の核の脅威」展は、「広島・長崎原爆被害の概要」「現代の核兵器の実態」「軍縮と開発」の三部構成となっていた。
 このうち「広島・長崎原爆被害の概要」では、被爆後の焦土と化した両市の写真などとともに、広島の原爆ドームの模型、焼けた衣類、溶けた瓦など、三十余点の被爆物品も展示された。また、ニューヨーク市上空で核が爆発したらどうなるかを示すコーナーもあった。
 核兵器の脅威は、実際に被爆し、苦しみのなかで生きてきた人たちの生の声に耳を傾け、映像や物品などを通し、破壊の現実を直視してこそ、初めて、実感として深く認識することができる。反戦・反核の広がりのためには、単に頭で理解するのではなく、皮膚感覚で、さらには生命の実感として、脅威を認識していくことが大切になる。
 会場には、デクエヤル国連事務総長をはじめ国連関係者やNGO関係者、総会に参加した各国大使ら外交官など、二十万人を超える人びとが見学に訪れた。反響は大きかった。
 展示を見て、書店を経営するニュージャージー州の婦人は、叫ぶように言った。
 「人間が、ここまで恐ろしいことができたとは信じられない! 吐き気がしてくる。ニューヨークの上空で一メガトンの核が爆発していたら、私の住むところは破滅だ。核戦争は絶対にいけない!」
 第二回国連軍縮特別総会では、「世界軍縮キャンペーン」が採択された。核の脅威展は、その一環となるもので、翌年の一九八三年(昭和五十八年)には、ジュネーブの国連欧州本部総会議場ロビーで開催されている。
 以来、同展は、インド、カナダ、中国、ソ連と巡回していった。そして、八八年(同六十三年)の第三回国連軍縮特別総会(五月三十一日開幕)までに、日本国内の七都市を含め、世界十六カ国二十五都市で行われ、百二十万の人たちが観賞し、平和意識の啓発に、大きな役割を果たしていったのである。
 この推進力こそ、SGIの青年たちであり、その献身は、仏法者の良心の発露であった。
18  誓願(18)
 戸田城聖は、かつて山本伸一に語った。
 「人類の平和のためには、“具体的”な提案をし、その実現に向けて自ら先頭に立って“行動”することが大切である」「たとえ、すぐには実現できなくとも、やがてそれが“火種”となり、平和の炎が広がっていく。空理空論はどこまでも虚しいが、具体的な提案は、実現への“柱”となり、人類を守る“屋根”ともなっていく」
 この師の指針を、伸一は実行してきた。一九八二年(昭和五十七年)の第二回国連軍縮特別総会開催の際には、「軍縮および核兵器廃絶への提言」を発表。総会の開会を前にした六月三日、創価学会代表団からデクエヤル国連事務総長に、その提言の文書が手渡された。
 ここでは、トランスナショナリズム(脱国家主義)に立脚したNGOこそ、軍縮を実現する大きな役割を担うものであることを述べ、非核保有国の総意をもって、保有国、とりわけ米ソに核兵器の先制使用をしない旨の誓約をさせるよう求めた。さらに、全地球的な“平和の包囲網”形成をめざし、「非核地域平和保障機構創出のための国連特別委員会」を発足させることなどを提案した。
 伸一は、七八年(同五十三年)五月に開幕した第一回国連軍縮特別総会の折にも、十項目にわたる核軍縮、核廃絶の提言をしている。人類を破滅へと向かわせる核の脅威を、看過するわけにはいかなかったのである。
 また、八三年(同五十八年)には、第八回となる1・26「SGIの日」を記念して、「平和と軍縮への新たな提言」を行った。早急に米ソ最高首脳会談を実現し、核兵器の現状凍結を早期に合意するよう訴えたほか、「核戦争防止センター」の設置や、米ソが「軍事費凍結のための国際会議」の開催を呼び掛けることなどを提案したのである。
 以来、彼は、毎年、「SGIの日」には記念提言を重ねた。新しい平和の波を起こそうと、世界への発信を続けた。声は、人の心を動かし、社会、世界を変えていく。声をあげることから、新しい一歩が始まる。
19  誓願(19)
 一九八三年(昭和五十八年)五月、SGIは国連経済社会理事会(ECOSOC)の、協議資格をもつNGOとして登録された。
 また、この年の八月八日、SGI会長である山本伸一に「国連平和賞」が贈られ、東京・渋谷区の国際友好会館(後の東京国際友好会館)で、その伝達式が行われた。
 これには、明石康国連事務次長をはじめ、国連広報センターのエクスレイ所長らが出席した。デクエヤル国連事務総長からの感謝状には、授賞の理由が、こう述べられていた。
 「国連憲章の目的及び原則を支持するために、広範な運動を展開し、また、諸国家間の相互理解と友好の促進のために不断の努力を続けてきた」「国際緊張の緩和並びに軍縮、特に今日の最重要課題である核軍縮の推進のために、建設的な提言を行ってきた」「国連の広報活動に対して、あなたの指導のもとに行われた学会並びにSGIの多大な貢献は、国連の目的と理想への一般市民の支持を強化する力強い援助となった」
 道は遠い。しかし、歩み続ける。その粘り強い行動が、世界に確かな平和の波動を広げていく。世界中で、人びとが核兵器廃絶を叫んでいけば、必ず時代は変わっていく。
 八九年(平成元年)には、国連難民高等弁務官事務所から、伸一に、長年の難民救援活動への貢献をたたえ、「人道賞」が贈られた。
 その折、彼は、こう述べている。
 「今回の『人道賞』は、私個人に与えられたものではない。これは、学会の平和委員会の活動と連動し、青年部が仏法者として進めてきた献身的な人道活動の結実であり、私どもの活動に対する一つの世界的な評価と受けとめたい」
 創価学会の平和運動の源流は、初代会長・牧口常三郎の、国家神道を精神の支柱に戦争を遂行する軍部政府の弾圧との戦いにある。思想統制のために、神札を祭れという軍部政府の強要を、牧口は、断固として拒否し、四三年(昭和十八年)七月、弟子の戸田城聖と共に逮捕・投獄されたのである。
20  誓願(20)
 軍部政府が強要する神札を公然と拒否することは、戦時中の思想統制下にあって、国家権力と対峙し、思想・信教の自由を貫くことである。それは、文字通り、命がけの人権闘争であった。事実、牧口常三郎は、逮捕翌年の一九四四年(昭和十九年)十一月十八日、秋霜の獄舎で生涯を終えている。
 思想・信教の自由は、本来、人間に等しく与えられた権利であり、この人権を守り貫くことこそ、平和の基である。
 万人に「仏」を見る仏法思想は、人権の根幹をなす。ゆえに、その仏法の実践者たる牧口は、人間を手段化する軍部政府との対決を余儀なくされていった。さらに、弟子の戸田城聖が、五七年(同三十二年)九月八日、人間の生存の権利を奪う核兵器を絶対悪とする、「原水爆禁止宣言」を発表したのも、仏法者としての必然的な帰結であった。
 そもそも創価学会の運動の根底をなす日蓮仏法では、人間生命にこそ至高の価値を見いだし、国家を絶対視することはない。大聖人は、幕府の最高権力者を「わづかの小島のぬしら主等」と言われている。
 また、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」とも仰せである。王の支配する地に生まれたので、身は従えられているようでも、心を従えることはできないと断言されているのだ。この御文は、ユネスコが編纂した『語録 人間の権利』にも収録されている。
 つまり、“人間は、国家や社会体制に隷属した存在ではない。人間の精神を権力の鉄鎖につなぐことなどできない”との御言葉である。まさに、国家を超えた普遍的な価値を、人間生命に置いた人権宣言にほかならない。
 もちろん、国家の役割は大きい。国家への貢献も大切である。国の在り方のいかんが、国民の幸・不幸に、大きな影響を及ぼすからである。大事なことは、国家や一部の支配者のために国民がいるのではなく、国民のために国家があるということだ。
21  誓願(21)
 日蓮大聖人がめざされたのは、苦悩にあえいできた民衆の幸せであった。そして、日本一国の広宣流布にとどまらず、「一閻浮提広宣流布」すなわち世界広布という、全人類の幸福と平和を目的とされた。この御精神に立ち返るならば、おのずから人類の共存共栄や、人類益の追求という思想が生まれる。
 世界が米ソによって二分され、東西両陣営の対立が激化していた一九五二年(昭和二十七年)二月、戸田城聖が放った「地球民族主義」の叫びも、仏法思想の発露である。
 仏法を実践する創価の同志には、誰の生命も尊く、平等であり、皆が幸せになる権利があるとの生き方の哲学がある。友の不幸を見れば同苦し、幸せになってほしいと願い、励ます、慈悲の行動がある。この考え方、生き方への共感の広がりこそが、世界を結ぶ、確たる草の根の平和運動となる。
 ――一九八二年(昭和五十七年)四月、南大西洋のフォークランド諸島(マルビナス諸島)の領有をめぐって、イギリスとアルゼンチンの間で戦争が起こった。
 フォークランド諸島を舞台に、戦闘が続いたが、六月半ばアルゼンチン軍が降伏し、戦いは終わった。しかし、両国の国交が回復するのは、九〇年(平成二年)二月である。この戦争では、両軍で九百人を超える戦死者が出ている。
 イギリスとアルゼンチンのSGIの理事長らは、日本での研修会などを通して知り合っていた。国と国とが戦火を交え、両国の人びとも互いに憎悪を募らせていくなかで、SGIメンバーは、平和を願って唱題を開始した。互いに相手の国の同志を思い浮かべ、戦争の終結を懸命に祈った。
 アメリカの社会運動家として知られるエレノア・ルーズベルトは訴えている。
 「この世界で平和を実現するには、まず、個人と個人との間の理解を築かなければなりません。それが萌芽となって、集団と集団とのより良い相互理解も生まれるのです」(Eleanor Roosevelt著『This Troubled World』H.C.Kinsey&Company,Inc.)
 平和の礎は、人間と人間の信頼にある。
22  誓願(22)
 イギリスの理事長であったレイモンド・ゴードンは、フォークランド(マルビナス)戦争の翌年となる一九八三年(昭和五十八年)の十一月、「聖教新聞」紙上で、その時の様子を、こう語っている。
 「大半のメンバーは、この戦争が一日も早く終わるようにと、心から御本尊に祈りました。私も心配でアルゼンチンのメンバー(大木田和也理事長)と電話で連絡をとったところ、彼らもまた、私たちと同じように、平和を願って、唱題していました。
 私は、それを知って、二国間は遠く離れてはいるが、また不幸にも政治的には交戦状態にあるが、平和への願いは、ともに同じだと痛感しました。そこには、温かい血の通った平和を志向しての団結があると感じました」
 彼は、祖国イギリスの宿命転換を祈った。
 戦闘が続いていた八二年(同五十七年)五月、ゴードンは来日し、山本伸一と共に長崎市の平和公園を訪れ、世界の恒久平和と原爆犠牲者の冥福、そして、フォークランド戦争の終結を祈って、平和祈念像に献花した。
 不幸中の幸いというべきか、翌月には戦いは終結し、戦火が拡大することはなかった。
 イギリスSGIは、戦争から一年を迎えようとする八三年の三月、ロンドンで「チューズ・ライフ」(生への選択)をテーマに「世界平和展」を開催し、平和を訴えた。BBC放送などのテレビやラジオ、新聞が、これを報道し、賞讃を惜しまなかった。
 全世界の人びとの心に、生命の絶対的尊厳という思想が確立されるならば、平和のために、人類は結び合うことができる。平和建設とは、その思想を打ち立て、共感の輪を不断に広げていくことでもある。
 八六年(同六十一年)三月、イギリス、アルゼンチンのメンバーが来日し、学会本部で合同研修会が行われた。共に平和を願い続けてきた同志である。最初の緊張は瞬く間に解けた。「私たちは平和の戦士として、世界から戦争をなくすまで、戦い続けよう!」と、互いに誓いを新たにしたのだ。
23  誓願(23)
 山本伸一は、民衆に深く根を張り、仏法の平和思想、人間主義の思想を、世界に伝え弘めていく広宣流布の運動を、着実に展開していくことこそが、恒久平和の揺るがざる基盤を築く要諦であると考えていた。民衆の力、草の根の力こそが、確かな反戦・反核の世論をつくり、世界を結ぶ推進力となるからだ。
 その一方で彼は、各国の指導者との対話を重ね、国連を軸に平和の潮流を創造していくことを深く決意していた。
 また、未来を担う学生たちが、友情と平和の連帯を幾重にも結んでいけるよう、世界の大学等との教育・文化交流にも力を注ぎ続けていこうと決めていた。
 政治の世界は、ともすれば時代の激流に翻弄されがちであるが、大学などの学問の府には普遍性、永続性がある。その国の最高学府に学んだ人たちは、社会建設の次代の担い手となる。さらに、若い世代の交流は、グローバル化する世界を結ぶ新しい力となろう。
 伸一の行動に力がこもった。同志の激励のために、日本国内を以前にも増して、くまなく回り、さらに、世界を駆け巡った。
 一九八三年(昭和五十八年)の五、六月には、アメリカ、ヨーロッパを訪問した。
 翌八四年(同五十九年)二、三月には、アメリカ、南米を訪れた。その折、十八年ぶりにブラジルを訪問し、ジョアン・フィゲイレド大統領と会見した。同大統領からは、八二年(同五十七年)五月、訪問を要請する親書が届いていた。会見は二月二十一日、首都ブラジリアの大統領府執務室で行われた。
 思えば、十八年前の訪問中、彼の周囲には、常に政治警察の監視の目が光っていた。学会への誤解と偏見から、敵意をいだく日系人らが喧伝した「宗教を擬装した政治団体」などという話を、信じてしまった政府関係者もいたのである。
 以来、社会に学会理解と信頼を広げるための、ブラジル同志の奮闘が始まった。誤解を招くのは一瞬だが、それを解き、信頼を築き上げるには、何年、何十年の歳月を要する。
24  誓願(24)
 山本伸一は、一九七四年(昭和四十九年)にもブラジル訪問を予定していたが、ビザ(査証)が出ず、実現できずに終わった。ブラジルの同志は、自分たちの力が及ばぬために、学会への誤解を晴らせなかったことを悔やんだ。“さらに、さらに、学会理解のための対話と社会貢献に努め、ブラジル政府の方から山本先生の訪問を強く求める時代をつくるのだ!”と、皆が深く心に誓った。
 不屈の魂は、辛酸の泥土の中で勝因を育む。
 そして、遂に、八四年(同五十九年)二月のブラジル訪問となり、フィゲイレド大統領との会見となったのである。
 席上、大統領から、同年五月末か六月初めの訪日の予定が伝えられたほか、日伯の技術協力や民政移管の推移、核問題と未来展望などが語り合われた。なかでも、各国首脳による話し合いこそ、世界不戦への道であるとの伸一の主張に、大統領は全面的に賛同した。
 ブラジリアでは、外相、教育・文化相らとも会談し、六百人のメンバーと記念撮影をした。また、ブラジリア大学を訪問し、図書贈呈式にも出席している。
 二月二十五日には、第一回ブラジル大文化祭の公開リハーサルが行われていた、サンパウロ州立総合スポーツセンターのイビラプエラ体育館を訪れた。大歓呼のなか、伸一は両手を上げながら、中央の広い円形舞台を一周したあと、万感の思いを込めてマイクを握った。
 「十八年ぶりに、尊い仏の使いであられるわが友と、このように晴れがましくお会いできて、本当に嬉しい。この偉大なる大文化祭が、ブラジルの歴史に、広布の歴史に、燦然と輝き残るであろうことは間違いありません。
 しかし、これまでに、どれほどの労苦と、たくましき前進と、美しい心と心の連携があったことか。私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを賞讃したいのであります」
 大歓声があがり、ブラジルの勝ち鬨ともいうべき、意気盛んな掛け声がこだました。
 「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ……」
25  誓願(25)
 山本伸一は、二十六日、「二十一世紀の大地に平和の賛歌」をテーマに行われたブラジル大文化祭に出席した。席上、フィゲイレド大統領からのメッセージが紹介された。
 そのなかで大統領は、ブラジル創価学会が文化、教育、体育、さらには世界の平和への活動を繰り広げ、核兵器廃絶など、広範な平和運動に貢献していることを述べ、その「高貴なる理想が、実現されることを切望いたします」と期待を寄せた。
 十年前、学会が政府から警戒の目を向けられ、入国のビザさえ出なかったことを思うと、まさに隔世の感があった。ブラジルの同志が社会で信頼を築くとともに、あらゆる人びとと地道な対話を展開してきた賜物といえよう。厳とした変毒為薬の姿である。
 伸一は、ブラジルに次いで訪問したペルーでは、リマ市の大統領府でフェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領と会見した。彼は、国際的に著名な建築家で、一九六三年(昭和三十八年)に大統領に就任するも、クーデターによってアメリカに亡命している。やがて帰国し、軍政から民政に移行後の初の大統領選で当選を果たした。
 その大統領から伸一に、世界の平和、文化、教育への貢献を高く評価して、「ペルー太陽大十字勲章」が贈られたのである。
 また、この日、伸一は、南米最古の学府・国立サンマルコス大学を、同大学の名誉教授として訪問し、図書贈呈式に出席した。伸一に同大学から、名誉教授の称号が贈られたのは、八一年(同五十六年)四月、東京の創価中学・高校の第十四回入学式の席上であった。
 この授与のために、総長ら一行が、わざわざ来日してくれたのである。
 伸一は、この教育交流の道を、さらに堅固なものにするために努力を重ねてきた。
 さらに同大学は、二〇一七年(平成二十九年)には、彼の人間主義に基づく平和と教育の業績に対して、名誉博士号を贈っている。
 切り開かれた交流の道は、何度も歩き、踏み固めることによって、大道となっていく。
26  誓願(26)
 山本伸一は、ペルー滞在中、一万人が集っての第一回ペルー世界平和青年文化祭にも出席し、あいさつをした。
 「皆さんは、青春を勝利で飾られた。私は、皆さんの心の奥深く手を差し伸べ、真心と愛情の、固い、固い、握手を交わしたい。
 文化は一国の華である。文化運動は平和運動に通じ、人生の幸福を開花させゆく運動となる。なんの名誉も利益も欲せず、青春の純粋な心をもって、あらゆる困難を乗り越え、ペルーの文化運動の歴史に残る見事な文化祭を成し遂げた皆様は、人生の栄冠を勝ち取る資格を自らのものにしたと申し上げたい」
 さらに、この日、リマの空に虹が懸かったことに触れて、ペルーとペルーSGIの未来が、「美しき虹の輝きゆく時代に入っていく象徴であると確信したい。わが愛するペルーの繁栄と安穏と栄光を、心から祈りたい」と語り、晴れやかな前途を祝福した。
 また、伸一は、ペルー文化会館で三回にわたって行われた勤行会にも出席し、ペルーSGIの前理事長・故ビセンテ・セイケン・キシベの功労を讃えつつ訴えた。
 「妙法こそ、国を救い、繁栄させゆく、幸福の原動力である」「信心ある人は、生涯、永遠にわたる信念の持ち主であるとともに、幸福の持ち主である」――“全員が不退の信心を貫き、幸福の王者に”との願いを込めてのスピーチであった。
 山本伸一は、一九八七年(昭和六十二年)二月の北・中米訪問では、カリブ海に浮かぶ美しき真珠の国・ドミニカ共和国を初訪問した。ホアキン・バラゲール大統領と会見し、その後、ドミニカ共和国の最高勲章「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章した。
 また、ドミニカ会館を訪問し、ドミニカ広布二十一周年を祝す記念勤行会に臨んだ。
 日本から移住し、石だらけの耕作不能地で絶望と闘い、苦労に苦労を重ねるなかで、ドミニカ広布の基盤を築いた草創の同志を、彼は、心から讃え、励ましたかったのである。
27  誓願(27)
 勤行会の参加者のなかに、日に焼けた顔をほころばせる、ドミニカ広布の尊き先駆者たちの姿があった。山本伸一は、笑顔を向けながら、語っていった。
 「広宣流布の道を切り開いてこられた皆様が、御本尊の無量の功力を満身に受けつつ、朗らかに、また強く、よき人生を生き抜いていく――その歩み自体が、ドミニカ広布即社会の繁栄を示すものであり、そこに壮大な希望の未来が開かれていくのであります」
 そして、「一人も漏れなく『多幸の人生』『栄光の人生』『長寿の人生』を享受せられんことを祈っております」と激励。引き続き第一回SGIドミニカ総会にも出席した。
 翌日、伸一は、サントドミンゴ自治大学を訪問した。フェルナンド・サンチェス・マルチーネス総長は、微笑みを浮かべて、「わが大学は、SGI会長の幅広い人道主義的諸活動に対し、法律政治学部名誉教授の称号を授与することを決定しました」と伝え、その授与式が挙行されたのである。
 伸一は、ドミニカ共和国を発つ日にも、独立公園で献花したあと、メンバーの代表二百数十人と記念のカメラに納まった。
 さらに、パナマ訪問では、エリク・アルトゥロ・デルバイエ大統領と会見。そして、同国の最高勲章「バスコ・ヌニェス・デ・バルボア勲章」を受章したのである。
 また、パナマ文化会館での記念勤行会に出席した彼は、唱題の大切さを訴えた。
 同国滞在中、国立パナマ大学も訪問し、アブディエル・ホセ・アダメス・パルマ総長らと懇談した。同大学からは、二〇〇〇年(平成十二年)に名誉博士号が伸一に贈られている。
 これらの栄誉は、学会の平和・文化・教育運動への高い評価であり、各国同志の社会貢献への賞讃と信頼の証にほかならなかった。
 伸一は、自身が代表して受けることによって、創価の先師・牧口常三郎の、恩師・戸田城聖の偉業を顕彰するとともに、メンバーの懸命な奮闘に報いたかった。皆に喜びと誇りをもって、前進してほしかったのである。
28  誓願(28)
 山本伸一は、各国の指導者との対話にも力を注いだ。それが、世界平和を実現する道になり、また、学会への理解を促し、その国の同志を守ることにもつながっていくからだ。
 一九八五年(昭和六十年)には、来日したインドのラジブ・ガンジー首相を、東京・港区の迎賓館に表敬訪問し、平和、青年、印中関係などについて語り合った。
 八七年(同六十二年)五月には、モスクワでの「核兵器――現代世界の脅威」展開幕式に出席し、「民衆の心は平和を熱望」とあいさつ。さらに、ソ連のニコライ・ルイシコフ首相と会談。次の訪問国フランスではジャック・シラク首相、アラン・ポエール上院議長とも意見交換した。
 翌年二月のアジア訪問では、タイのプーミポン国王、マレーシアのマハティール・モハマド首相、シンガポールのリー・クアンユー首相と会見した。
 また、八九年(平成元年)のヨーロッパ訪問では、イギリスのマーガレット・サッチャー首相、スウェーデンのイングバル・カールソン首相、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領らと語らいの機会を得た。この訪問では、フランス学士院芸術アカデミーの招きを受け、学士院会議場で、「東西における芸術と精神性」と題して記念講演を行っている。
 さらに同年、オーストリアのフランツ・フラニツキ首相、コロンビアのビルヒリオ・バルコ大統領と会見。大統領との語らいでは、同国の「功労大十字勲章」が親授された。
 九〇年(同二年)五月の第七次訪中では、李鵬首相、中国共産党の江沢民総書記と胸襟を開いて対話を交わした。
 そして同年七月、第五次訪ソで、ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ大統領とクレムリンで初の会談が行われたのである。
 伸一は、ユーモアを込めて語りかけた。
 「お会いできて嬉しいです。今日は大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、なんでも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」
29  誓願(29)
 SGI会長の山本伸一の言葉に、ゴルバチョフ大統領もユーモアで返した。
 「会長のご活動は、よく存じ上げていますが、こんなに“情熱的”な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです。
 会長とは、昔からの友人同士のような気がします。以前から、よく知っている同士が、今日、やっと直接会って、初めての出会いを喜び合っている――そういう気持ちです」
 伸一は、大きく頷きながら応えた。
 「同感です。ただ大統領は世界が注目する指導者です。人類の平和を根本的に考えておられる信念の政治家であり、魅力と誠実、みずみずしい情熱と知性をあわせもったリーダーです。私は、民間人の立場です。そこで今日は、大統領のメッセージを待っている世界の人びとのため、また後世のために、私が“生徒”になって、いろいろお聞かせ願いたい」
 大統領は、あの“ゴルビー・スマイル”を浮かべて語った。
 「お客様への歓迎の言葉を申し上げる前に先を越されてしまいました。“生徒”なんてとんでもないことです。会長は、ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、私にとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ペレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」
 伸一は、自分の思いを忌憚なく語った。
 「私もペレストロイカと新思考の支持者です。私の考えと多大な共通性があります。また、あるのが当然なんです。私も大統領も、ともに『人間』を見つめているからです。人間は人間です。共通なんです。私は哲人政治家の大統領に大きな期待を寄せています」
 伸一は、二十五年前、「人間性社会主義」の理念を提唱したことがあった。大統領は「人間の顔をした社会主義」をめざして改革の旗を掲げた。人間という普遍の原点に立つ時、すべては融合し、結合することが可能となる。
30  誓願(30)
 ゴルバチョフ大統領は、山本伸一の社会・平和行動について言及していった。
 「私は会長の知的・社会的活動、平和運動を高く評価していますが、その理由の一つは、あらゆる活動のなかに、必ず精神的な面が含まれているからです。私たちは今、『政治』のなかに、一歩一歩、道徳やモラルという精神的な面を盛り込んでいこうとしています。困難なことですが、それができれば、すばらしい成果をあげられると思っています。現在、人びとは、それを考えられないと思うかもしれないが、私は可能だと信じたい」
 二人は、「政治」と「文化」の同盟・統合の大切さでも、意見の一致をみた。さらに、日ソ関係、ペレストロイカの現状と意義、青年への期待など、幅広く意見交換した。
 大統領との会談にあたって、伸一には、一つの“宿題”があった。というのは、戦後四十五年がたとうとしているのに、ソ連の国家元首が日本を訪れたことはなく、ゴルバチョフ大統領の訪日が実現するか、注目されていたのである。しかし、この二日前に日本の国会代表団との会見が行われたが、大統領が、訪日に言及することはなかった。
 伸一は、大統領に、こう切り出した。
 「新婚旅行は、どこに行かれたのですか。日本には、どうして来られなかったのですか」
 そして、笑みを浮かべて言葉をついだ。
 「日本の女性は、大統領がライサ夫人とお二人で、隣国である日本へ、春の桜の咲くころか、秋の紅葉の美しい季節に、必ずおいでになっていただきたい、と願っています」
 「ありがとうございます。私のスケジュールに入れることにします」
 即答であった。伸一は重ねて要請した。
 「日本を愛し、アジアを愛し、世界平和を愛する一人の哲学者として、大統領の訪日を念願しています」
 大統領は、「絶対に実現させます」「幅広く対話をする用意があります」「できれば春に日本を訪れたい」と明言した。新しい時代の扉が、大きく開かれようとしていた。
31  誓願(31)
 ゴルバチョフ大統領は、山本伸一との語らいのなかで、自分の率直な真情を口にした。
 「私は、どのようなテーマでも、取り上げたくないものはありません。すべて、言いたいことを言ってください。私もそうします。
 今まで日本の方とは、あまりにも紋切り型な対話が多かった。ともかく、お互いに協調の歩みを始めれば、問題は、そのなかで解決していくものです。偉大な国民が二つ集まって、いつまでも『前提条件』とか、『最後通告』などと言っているようではダメです」
 伸一は、大統領の対話主義の信念を見た思いがした。
 対話は、権威や立場といった衣を脱ぎ捨てて、率直に、自由に、あらゆる問題に踏み込んで、双方が主張をぶつけ合ってこそ、実りあるものとなる。また、初めに結論ありきという姿勢ではなく、柔軟に、粘り強く、何度でも語り合っていくなかから、新しい道が開かれていくのである。
 語らいは、約一時間十分に及んだ。
 伸一と大統領との会見は、即刻、世界に打電された。ソ連国内では、モスクワ放送や共産党機関紙「プラウダ」、政府機関紙「イズベスチヤ」などで大々的に報じられた。
 大統領が訪日を言明したことは、視界が開けなかった日ソ関係に、新しい交流の光が差したことを意味していた。
 日本では、その晩から、二人の会見と「ゴルバチョフ大統領訪日」のニュースが、NHKをはじめ、テレビ、ラジオで流れた。また、全国紙などがこぞって、一面で報じた。
 大統領は、会談翌年の一九九一年(平成三年)四月、約束通り、日本を訪問した。
 伸一は、東京・迎賓館に大統領を表敬訪問した。再会を喜び、対話が弾んだ。伸一は、大統領が安穏の日々をあえて振り捨てて、ソ連のため、人類のために、ペレストロイカという現実の“戦闘”に飛び込んだ勇気を心から賞讃した。二人は、日ソの「永遠の友好」を、共に強く願い、語り合った。未来を照らす、“友情の太陽”は赫々と昇ったのだ。
32  誓願(32)
 「ビバ! マンデラ!」
 一九九〇年(平成二年)十月三十一日、東京・信濃町の聖教新聞社前は、五百人ほどの男女青年の歓呼の声に包まれた。この日、山本伸一は、青年たちと共に、南アフリカ共和国の人種差別撤廃運動の指導者である、アフリカ民族会議(ANC)のネルソン・マンデラ副議長を迎え、会談したのである。
 副議長は、投獄一万日、二十八年に及ぶ鉄窓での「差別との闘争」に勝利した、人権闘争の勇者である。この翌年には、ANCの議長となり、九四年(同六年)には、全人種が参加して行われた南ア初の選挙で、大統領に就任することになる。
 「“民衆の英雄”を満腔の敬意で歓迎いたします!」
 車を降りたマンデラ副議長に、伸一が語りかけると、彼は、穏やかな笑みで応えた。
 「お会いできて光栄です。日本に行ったら、ぜひ、名誉会長にお会いしなければならないと思っていました」
 語らいが始まった。
 伸一は、わざわざ足を運んでくれたことに感謝の意を表したあと、副議長の闘争を心から賞讃した。
 「正義は必ず勝つことを証明されました。世界に勇気を与えられました」
 マンデラは、獄舎にあって、囚われた人たちが、それぞれの専門知識や技術を教え合う学習の組織をつくった。また、あらゆる障害と戦い、政治囚の“学ぶ権利”を拡大していった。そうして、「ロボットのような群衆」をつくり出す、牢獄による「精神の破壊」と「知性の否定」を克服していったのである。
 伸一は、この獄中闘争に言及した。
 「貴殿が牢獄を“マンデラ大学”ともいうべき学習の場に変えた事実に、私は注目したい。どこにいても、そこに『教育』の輪を広げていく。人間としての向上を求めてやまない。その情熱に打たれるんです」
 向上への不屈の信念がある人には、すべてが学びの場となる。
33  誓願(33)
 山本伸一がマンデラ副議長の功績を讃えると、副議長は応じた。
 「温かい歓迎に感謝します。名誉会長は、国際的に有名な方で、わが国でもよく知られています。人類の『永遠の価値』を創りながら、その価値で人びとを結ぶ団体のリーダーとしての役割は、世界的に重要です」
 そして、「名誉会長とSGIのことを聞いて以来、私は、ぜひ、お会いしたいと願っていました。日本に来た以上、お会いするまでは帰れません」と述べ、微笑みを浮かべた。
 それから、目を輝かせて言った。
 「名誉会長との会見は、『啓発』と『力』と『希望』の源泉と思っています」
 偉大なるリーダーは、対話を大切にし、そのすべてを、前進の糧としていく。
 伸一は、恐縮しながら、マンデラ副議長が出獄以来、世界を東奔西走して、反アパルトヘイト(人種差別撤廃)運動への支援を訴えていることを賞讃した。副議長は、アフリカや欧米等の約三十カ国を訪問し、各国首脳と会談。さらに、アジア、オセアニアを巡っているのである。
 伸一は、反アパルトヘイトの運動を、末永く支援する意味から、次々と提案した。
 「アフリカ民族会議からの、アフリカの未来を担う留学生を、創価大学が受け入れる」「南アフリカの芸術家などを招き、民音での日本公演を行いたい」「仮称『アパルトヘイトと人権』展という総合的な展示会を開催し、しかるべき国際機関とも連携し、海外での巡回も行う」「仮称『反アパルトヘイト写真展』を日本で開催する」「アパルトヘイトをはじめとする多様なテーマで、『人権講座』を日本各地で開催する」
 それは、教育・文化交流を通して、日本と南アフリカの友好を促進するとともに、人びとの意識を啓発し、日本に、世界に、人権擁護の波を大きく広げていくことが大切であるとの、強い思いからの提案であった。
 人びとの意識の改革がなされてこそ、「人権の世紀」は開かれる。
34  誓願(34)
 山本伸一は、マンデラ副議長の行動は、広い意味での人間教育者の役割を担ってきたと述べ、その功労に対して、創価大学から最高栄誉賞を贈りたいと伝えた。そして、同席していた学長から同賞が副議長に手渡された。
 さらに、伸一は、南アフリカ共和国は「花の宝庫」と呼ばれ、喜望峰一帯では七千種を超える植物が育っていることに触れ、仏典の王・法華経には、「人華」という美しい言葉があることを紹介した。
 「人華」の語は、法華経の「薬草喩品」にあり、この品では、さまざまな衆生を多様な草木にたとえながら、仏の教えの慈雨は遍く降り注ぎ、平等に仏性を開花させることを説いている。
 この法華経に代表されるように、仏教は発祥以来、あらゆる差別と戦ってきた。カースト制度をはじめ、人種、民族、国籍、宗教、職業、階層、出自等々による一切の差別を否定している。それゆえに、既成の体制や権力から、無数の迫害を受けた。日蓮大聖人も自らを「旃陀羅が子」と言われ、差別される側である、社会の最底辺に身を置きながら、絶対平等の仏法思想の流布に戦われた。
 伸一は、こうした、いわば仏法の人権闘争の歴史と精神を踏まえ、SGIは、仏法を基調に、あらゆる人びとに開かれた「平和」「文化」「教育」の運動を推進するものであることを訴えた。さらに、未来を展望する時、国家発展の因は、「教育」であり、知性の人が増えることは、「より多くの人びとが社会の本質を見抜き、『善』と『悪』とを明確に判断できるようになる」と語った。
 また、人権闘争の英雄である副議長に、尊敬と賛嘆の思いを込めて一詩を捧げた。
 「私は もろ手をあげて称えたい
 その偉大なる精神の力を
 その不撓なる信念の力を
 そして
 満腔の敬意をもって呼びたい
 誇り高き『アフリカの良心』にして
 人道の道を行く我が魂の同志――と」
35  誓願(35)
 マンデラ副議長に贈る詩を、通訳が朗読し終えると、山本伸一は立ち上がって、“人権の闘士”と固い握手を交わした。
 感動の面持ちで、伸一の手を握る副議長に、伸一は言った。
 「『同志』が、日本にもいることを忘れないでください。世界にもいます。後世に、もっと出てくるでしょう」
 そして、最も感銘を覚えた言葉として、副議長が獄舎から解放された直後(一九九〇年二月)の演説で、結びの部分で述べた言葉を読み上げた。それは、二十六年前の裁判で、マンデラ自身が語った言葉の引用であった。
 「『私は、白人支配と、ずっと戦ってきた。黒人支配ともずっと戦ってきた。私は、すべての人びとが、ともに仲良く、平等な機会をもって、ともに暮らすことのできる民主的で自由な社会という理想を心にいだいてきた。それは、私がそのために生き、実現させたいと願っている理想である。しかし、もし必要ならば、その理想のために、命を捧げる覚悟である』(『NELSON MANDELA Conversations with Myself』Farrar, Straus and Giroux)
 この言葉には、貴殿の魂が凝縮しています。私も『平和の闘士』『人権の闘士』『正義の闘士』の道を歩いているつもりです。ゆえに、この言葉が、深く私の胸に共鳴してやまないのです」
 副議長は語った。
 「私たちが、今日、ここで得た最大の“収穫”は、名誉会長の英知の言葉です。
 勲章は、いつか壊れてしまうかもしれない。賞状も、いつかは焼けてしまうかもしれない。しかし、英知の言葉は不変です。その意味で私たちは、勲章や賞状以上の贈り物をいただきました。
 名誉会長のお話をうかがい、私たちは、この場所を訪れた時よりも、より良き人間になって、ここを去っていくことができます。名誉会長のことを、私は決して忘れません」
 「私の方こそ、今、言われた以上に、深く感謝しております」
 真実の対話は、互いに啓発を与え合う。
36  誓願(36)
 マンデラ副議長と山本伸一の語らいは弾み、予定された五十分の会見時間は、瞬く間に過ぎた。会談を終え、共に歩みを運びながら、伸一は言った。
 「偉大な指導者には迫害はつきものです。これは歴史の常です。迫害を乗り切り、戦い勝ってこそ偉大なんです。これからも陰険な迫害は続くでしょう。しかし、真実の正義は、百年後、二百年後には必ず証明されるものです。お体を大切に!」
 それは、伸一自身が、自らに言い聞かせる言葉でもあった。人間として、人間のために戦う二人の魂は、熱く響き合ったのである。
 伸一の平和をめざしての人間外交は、その後も、ますます精力的に続けられた。それは、魂と魂の真剣勝負の触発であった。
 彼は、マンデラ副議長と会談した翌月の一九九〇年(平成二年)十一月には、ナイジェリアの元国家元首のヤクブ・ゴウォン博士、ザンビアのケネス・カウンダ大統領らと相次ぎ会見した。
 さらに、同月には、ブルガリアのジェリュ・ジェレフ大統領、トルコのトルグト・オザル大統領らと、また翌年には、フィリピンのコラソン・アキノ大統領、統一ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー初代大統領、イギリスのジョン・メージャー首相らと対話を重ねていった。
 人と人とが語り合い、平和への思いを紡ぎ出し、心を結び合っていく――まさに、対話は、内発的で漸進主義的な、問題解決への道である。また、対話は、最後まで貫徹されてこそ対話といえる。ゆえに、それには、忍耐力と強靱な精神の力が求められる。
 一方、「問答無用」といった急進主義的な姿勢は、弱さゆえの居直りであり、人間性の敗北宣言にほかならない。その帰結は、暴力など、外圧的な力への依存へと傾斜していくことになる。
 対話による人間同士の魂の結合こそ、平和のネットワーク創造の力となる。
37  誓願(37)
 山本伸一が会談したのは、各国の大統領や首相などの指導者にとどまらず、学術・芸術・教育関係者など多岐にわたり、しかも、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、北・中・南米、アフリカと全世界に及んでいる。
 一九九〇年(平成二年)の十二月から、翌年前半にかけて語り合った主な識者だけでも次の方々がいる。
 オスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長、カナダ・モントリオール大学のルネ・シマー副学長、米・ハーバード大学のジョン・モンゴメリー名誉教授、ユネスコのフェデリコ・マヨール事務局長、フィリピン大学のホセ・アブエバ総長、香港中文大学の高学長、アルゼンチン・パレルモ大学のリカルド・ポポスキー学長らである。
 また、世界の指導者、識者と心を結び合っていくために、伸一が友好の対話とともに力を注いだのが、自らの真情や賞讃の思いを詩に詠んで贈ることであった。
 中国では、中国仏教協会の趙樸初会長、故・周恩来の夫人である中国人民政治協商会議の鄧穎超主席、北京大学の丁石孫学長。ソ連では、モスクワ大学の故ホフロフ総長、対文連のテレシコワ議長、そしてゴルバチョフ大統領などである。さらに、インドのラジブ・ガンジー首相、アメリカの元国務長官キッシンジャー博士、アルゼンチンのアルフォンシン大統領、ペルー・サンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ元総長、イギリスのサッチャー前首相らにも詩を贈ってきた。
 人間の心の奥深く、目には見えない黄金の琴線がある。詩の言葉は、その見えざる琴線に働きかけ、共鳴音を奏でる。やがて、それは、友情と平和の高らかな調べとなる。
 「真に理想を抱く人には理想が味方しよう
 真に正義を貫く人には正義が味方しよう
 真に民衆を守る人には民衆が味方しよう」
 これは、凶弾に倒れた夫の遺志を継ぎ、フィリピンの民衆のために立った、コラソン・アキノ大統領に贈った詩「燦たれ! フィリピンの母の冠」の一節である。
38  誓願(38)
 山本伸一は、広宣流布に駆ける全世界の尊き同志を励まし、活動の指針、人生の指針を示すためにも、詩を贈り続けた。
 一九八一年(昭和五十六年)のヨーロッパ、北米訪問の折に、フランス青年部、アメリカ青年部に、また、大分・熊本等の指導では全青年部に「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」を贈ったが、彼は、ますます力をこめて、長編詩の作詩を重ねた。
 たとえば、八七年(同六十二年)だけを見ても、「世紀の太陽よ昇れ」(アメリカ)、「パナマの国の花」(パナマ)、「悠遠なるアマゾンの流れ」(ブラジル)、「カリブの偉大な太陽」(ドミニカ共和国)、「文化の花 生命の城」(フランス)、「新たなるルネサンスの鐘」(イタリア)、「七つの海へ 人間の世紀へ」(イギリス)、「ライン河に響く平和の交響曲」(ドイツ)、「ナイアガラにかかる虹」(カナダ)が作られている。
 また、この年は、日本の同志に対しても、「幸の風 中部の空」(中部)、「青き天地 四国讃歌」(四国)の詩を贈り、翌年には「平和のドーム 凱旋の歌声」(広島)をはじめ、北陸、沖縄、東北と続き、さらに、全方面、県・区へと広がっていくのである。
 カナダの同志への詩には次のようにある。
 「『法自ら弘まらず
 人・法を弘むる故に
 人法ともに尊し』と
 君たちよ あなたたちよ
 なればこそ
 徹して 人格を磨きゆけ
 信心は 即生活
 信心は 即人格
 信心強き人とは
 すべての人を包み慈しみゆく
 円融にして円満なる人格の人と知ろう
 その輝きありてこそ
 法の輪は幾重にも広がりゆく」
 伸一は、詩を通して、人間の道を、信仰のあるべき姿を、進むべき目標を示し、希望を、勇気を発信し続けていったのである。
39  誓願(39)
 山本伸一は、第三代会長辞任から十余年、世界平和の道が開かれることを願い、広宣流布の大潮流をつくらんと、走りに走り、語りに語ってきた。
 そのなかで世界は、一つの大きな転機を迎えようとしていた。東西冷戦の終結である。
 世界を二分することになる、東西両陣営の対立の端緒は、第二次世界大戦末期の一九四五年(昭和二十年)二月、クリミア半島南部のヤルタで行われたヤルタ会談にある。ここで、連合国であるアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が、戦後処理、国際連合の創設、ソ連の対日参戦などについて話し合い、協定を結んだのである。
 これによって、戦後の国際秩序の枠組みがつくられ、ヨーロッパは、アメリカを支持する資本主義の西側陣営と、ソ連を支持する社会主義の東側陣営に分かれていった。そして、ソ連は世界の社会主義国化を進めようとし、一方のアメリカは世界の国々を自国の影響下に置こうと、戦後、両者の核軍拡競争が続いていったのである。
 核を保有する両国の、直接の戦争はないことから、「冷戦」と呼ばれたが、そこには、常に「熱戦」になりかねない危険性があった。
 両陣営の対立は激化し、一九六一年(昭和三十六年)には、東西に分割されていたドイツのベルリンに壁がつくられ、市民の自由な行き来が禁じられた。
 また、六二年(同三十七年)のキューバ危機は、米ソの全面核戦争に発展しかねない、一触即発の状況にあることを痛感させた。
 さらに、東西の対立は、ベトナム戦争のように、アジアをはじめ、世界に広がり、悲惨な戦争をもたらしていったのである。
 しかも、同じ社会主義陣営のなかで、ソ連と中国の間に紛争が起こり、対立は、複雑な様相を呈していった。
 分断は分断を促進させる。ゆえに、人間という普遍的な共通項に立ち返ろうとする、統合の哲学の確立が求められるのである。
40  誓願(40)
 世界は激動している。動かぬ時代もなければ、変わらぬ社会もない。氷結したように見える事態にも、雪解けの時は来る。
 山本伸一は、人類の歴史は、必ずや平和の方向へ、融合の流れへと向かっていくことを強く確信していた。いや、“断じて、そうさせていかねばならない”というのが、彼の決意であった。
 やがて、米ソの間にも、緊張緩和への流れが生じ始めた。一九六九年(昭和四十四年)には、両国の間でSALT(戦略兵器制限交渉)が始まった。そして、七〇年代には、米ソはSALTI、SALTIIの調印にまでこぎ着けたのである。SALTIIは、発効されることはなかったが、互いに敵視し合ってきた両国にとっても、世界にとっても、歴史的な出来事であった。
 そのなかで伸一が、憂慮してきたのが、中ソ紛争であった。それは、日本にとっては隣国同士の争いであり、アジアの平和にとっても、重大要件であった。
 六八年(同四十三年)九月に学生部総会で伸一が、日中国交正常化や中国の国連参加など、中国問題についての提言を行ったのも、万代への日中の友好促進はもとより、世界平和のために、中国を孤立化させてはならないとの信念からであった。
 また彼は、民間人の立場から、中ソ首脳に和睦の道を歩むよう、直接、訴えていった。
 提言から六年後の七四年(同四十九年)五月から六月には、初訪中し、李先念副総理らと会見。九月にはソ連を初訪問し、コスイギン首相と会見した。首相からは、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との明確な回答を引き出した。そして、十二月の第二次訪中では、このソ連の考えを中国側に伝え、周恩来総理と会見したのである。
 すべては、平和のため、民衆のために、両国の対立を解決できないものかという、切実な思いからであった。
 あきらめてしまえば事態は何も開けない。平和とは、あきらめの心との闘争である。
41  誓願(41)
 戦争を行うのは人間である。ならば、人間の力でなくせぬ戦争はない――山本伸一は、そう強く確信し、第二次訪中を果たした。周恩来総理は、彼との会見を強く希望し、入院中であるにもかかわらず、医師の制止を振り切って、迎えてくれた。
 伸一は、中ソの和平を願う自分の心は、周総理の胸に、確かに届いたと感じた。
 「世界の流れは人民の友好促進」(『周恩来選集』森下修一編訳、中国書店)というのが、総理の信念であった。
 一九七〇年代、時代は緊張緩和への様相を見せ始めたが、七九年(昭和五十四年)、親ソ政権支援のためにソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、西側諸国は激しく反発した。八〇年(同五十五年)のモスクワ・オリンピックを西側の多くの国々がボイコットした。
 その報復として東側諸国は、八三年(同五十八年)のアメリカによるグレナダ侵攻を理由に、八四年(同五十九年)のロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。時代の流れは逆戻りし、「新冷戦」と呼ばれる状況になっていったのである。
 伸一は、東西対立を乗り越えるために、米ソ首脳らと対話を重ね、「スイスなど、よき地を選んで米ソ首脳らが会談を」など、具体的な提案を行ってきた。
 この冷戦にピリオドを打つ、大きな役割を担ったのが、ソ連のゴルバチョフであった。八五年(同六十年)、党書記長に就任した彼は、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカを推進し、社会主義体制から自由化へと大きく舵を切った。
 さらに、「新思考」を掲げ、西側諸国との関係改善に努め、軍縮を提案、推進していった。そして八五年十一月、六年半の長きにわたった閉塞の扉は開かれ、ジュネーブで米ソ首脳会談が再開されたのである。伸一は、このニュースに、時が来たことを感じた。かねてからの念願が、はからずも実現したのだ。
 お互いが真剣に平和をめざすならば、あらゆる見解の違いを超えて合意は可能となる。大海に注ぐ川が一つに溶け合うように――。
42  誓願(42)
 ゴルバチョフは、膠着した状況にあったアフガニスタンからの撤兵を決断した。
 一九八七年(昭和六十二年)十二月、米ソ間で、軍事史上画期的なINF(中距離核戦力)の全廃条約が調印された。
 また、ソ連の改革は東欧の国々にも及び、自由と民主の潮流は一気に広がり、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなどで共産党政権が倒れていった。東欧革命である。
 改革の遅れていた東ドイツでは、国民の西側への脱出が続いたが、八九年(平成元年)十一月九日(現地時間)、即日、自由出国を認めるとの発表があった。これは、翌十日から出国ビザの申請を認めるという内容を、広報担当者が間違えてしまったのだ。
 検問所に市民が殺到した。やむなく検問所が開けられ、人びとは西ベルリンになだれ込んだ。さらに、ベルリンの壁が打ち壊されていったのである。自由と民主への流れは、歴史の必然であったといってよい。
 この八九年の十二月初め、地中海のマルタで、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ共産党書記長(最高会議議長)による米ソ首脳会談が行われた。
 そして、両国の首脳が初めて共同記者会見を行い、東西冷戦が終わり、新しい時代が到来したことを宣言したのである。
 十二月二十二日、分断の象徴であった、ベルリンのブランデンブルク門が開放された。
 山本伸一は、テレビから流れるニュースを見て、六一年(昭和三十六年)十月、ベルリンを訪問し、雨上がりの門の前で、同行のメンバーに語った言葉が思い出された。
 「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」
 それは、平和を希求する人間の、「良心」と「英知」と「勇気」の勝利に対する確信であった。また、仏法者として世界の平和実現に一身を捧げようと決めた、彼の決意の表明でもあった。以来、二十八年――今、遂に、それが現実となったのだ。時代は、大きな一歩を踏み出したのである。
43  誓願(43)
 軍縮への流れをつくり、ソ連国内の経済再建、民主化への政治改革を打ち出したゴルバチョフは、一党独裁から複数政党制の容認、大統領制の新設など憲法改正を行い、一九九〇年(平成二年)三月、ソ連の初代大統領に就任した。同年、その平和への偉大な貢献に対し、ノーベル平和賞が贈られた。
 ゴルバチョフは、自身が推進するペレストロイカという人類史的実験がもたらす、試練と混乱をも予測していた。
 彼は、山本伸一との最初の会見の席で、こう語っている。
 「わが国の社会は、特殊な歴史を経てきているのです。言語も約百二十もあり、民族となると、それ以上あります。大変に複雑な社会です。ペレストロイカの第一は『自由』を与えたことです。しかし、その自由をどう使うかは、これからの課題です」
 長い間、闇の中にいた人が、突然、外に出れば、太陽に目がくらむように、「自由」や「民主主義」が根差していない風土に、急に、それがもたらされていけば、人びとが戸惑うことは、当然であった。社会的にも、それぞれの勢力が、それぞれの主張をし始めるにちがいない。
 ゴルバチョフの、この憂慮は的中した。民族問題は各地で火を噴き、経済停滞の濃霧が行く手を塞いだ。特権の座にしがみつく官僚たちは、彼の排斥を企て、時流に乗る急進の改革者たちも、彼に非難を浴びせた。
 そのなかで、ソ連邦内に分離独立の動きが起こり、バルト三国などが、次々と独立へと走り始めた。時代は、彼の予想を超えて、激しく、奔馬のごとく揺れ動いた。
 九一年(同三年)六月、ソ連邦のロシア共和国では、選挙で急進改革派のエリツィンが大統領に就任した。
 一方、八月には、改革に反対していた保守派が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフは滞在先のクリミアで軟禁状態に置かれた。
 伸一は、激動する歴史の大波のなかでゴルバチョフの無事解放を祈った。
44  誓願(44)
 保守派指導者によるクーデターは、ロシア大統領のエリツィンが打倒を呼びかけ、民主化を求める民衆がこれに続き、鎮圧された。
 解放されたゴルバチョフが、モスクワに戻ると、既に実権はエリツィンに移り、その流れは、加速していった。
 一九九一年(平成三年)八月、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、党解散に踏み切る。九月には、バルト三国の独立をソ連国家評議会が承認。十二月、ロシアのエリツィンの主導で、ウクライナ、ベラルーシの三共和国が、ソ連邦に代わる独立国家共同体の創設を宣言する。この創設の協定には、十一の共和国が調印し、ソ連邦消滅が決まり、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任する。
 ロシア革命から七十四年、東側陣営を率いてきたソ連は、歴史の大激流にのみ込まれるようにして幕を閉じた。
 ソ連の最初にして最後の大統領となったゴルバチョフは、激しい批判にさらされたが、彼の決断と行動は、ソ連、東欧に、自由と民主の新風を送り、人類史の転換点をつくった。
 ゴルバチョフの親友で、彼のペレストロイカを支援した著名な作家のチンギス・アイトマートフは、ゴルバチョフの大統領辞任直後、山本伸一に一文を送った。「ゴルバチョフに語られた寓話」と題するもので、ペレストロイカに対する、ゴルバチョフの信念を伝えるエピソードを綴ったものであった。
 アイトマートフは、ペレストロイカが実行に移され、未曾有の民主的改革として脚光を浴びていた時、ゴルバチョフに呼ばれ、クレムリンの執務室に出向いた。そこで、こんな寓話を語ったという。
 ――ある時、偉大な為政者のもとに、一人の予言者が訪れ、「民の幸福を願い、完全な自由と平等を与えようとしているというのは、本当なのか」と尋ねる。その通りであると述べる為政者に、予言者は告げる。
 「あなたには二つの道、二つの運命、二つの可能性があります。どちらを選ぶかは、あなたの自由です」
45  誓願(45)
 予言者の語った二つの道の一つ目は、「圧政によって王座を固めること」であった。そうすれば、王権の継承者として、強大無比な権力が与えられ、その恩恵に安住できる。
 そして、二つ目は、民に自由を与えることであり、それは「受難の厳しい道」である。
 なぜか――予言者は、そのわけを語る。
 「あなたが贈った『自由』は、それを受け取った者たちのどす黒い、恩知らずの心となって、あなたに返ってくるからです」
 「自由を得た人間は隷属から脱却するや、過去に対する復讐をあなたに向けるでしょう。群衆を前にあなたを非難し、嘲笑の声もかまびすしく、あなたと、あなたの近しい人びとを愚弄することでしょう。
 忠実な同志だった多くの者が公然と暴言を吐き、あなたの命令に反抗することでしょう。人生の最後の日まで、あなたをこき下ろし、その名を踏みにじろうとする、周囲の野望から逃れることはできないでしょう。
 偉大な君主よ、どちらの運命を選ぶかは、あなたの自由です」
 為政者は、熟慮し、七日後に結論を出すので、待っていてほしいと告げる――。
 アイトマートフが寓話を話し終え、帰ろうとすると、ゴルバチョフは口を開いた。
 「七日間も待つ必要はありません。七分でも長すぎるくらいです。私は、もう選択してしまったのです。私は、ひとたび決めた道から外れることはありません。ただ民主主義を、ただ自由を、そして、恐ろしい過去やあらゆる独裁からの脱却を――私がめざしているのは、ただただこれだけです。国民が私をどう評価するかは国民の自由です……。
 今いる人びとの多くが理解しなくとも、私はこの道を行く覚悟です……」
 アイトマートフが山本伸一に送った、この書簡には、ペレストロイカを推進するゴルバチョフの、並々ならぬ決意があふれていた。
 保身、名聞名利を欲する人間に、本当の改革はできない。広宣流布という偉業もまた、「覚悟の人」の手によってこそ成し遂げられる。
46  誓願(46)
 ソ連の崩壊にともない、エリツィン率いるロシア共和国は、ロシア連邦となり、旧ソ連の国際的な諸権利等を継承するが、財政危機など、前途は多難であった。
 また、東側陣営であった国々は自由を手に入れたが、ユーゴスラビアをはじめ、アゼルバイジャン、アルメニア、チェチェンなどで、民族・地域紛争が起こっていった。テロも激しさを増した。
 さらに、世界のあちこちで民族、宗教、経済などをめぐって対立の溝は深まり、冷戦後は、局地的戦乱が広がりを見せていった。
 平和への道は、険路である。だからこそ、断じて、その歩みをとどめてはならない。
 山本伸一は、毎年の1・26「SGIの日」に発表する提言において、冷戦終結後の新しい世界秩序の構築へ、国連が中心となって平和的なシステム、ルールをつくり上げていくべきであることなどを、訴えていった。
 とともに、新しき時代の地平を開くには、平和と民主と自由を希求してきた人びとの心を覆う、絶望を、シニシズム(冷笑主義)を、不信を拭い去らねばならない。
 そのためには、開かれた心の対話の回路を、あらゆる次元でめぐらせていくことが必要となる。それは、時代の病理の対症療法ではなく、根本療法の次元の労作業といってよい。
 伸一は、ゴルバチョフが大統領を辞任したあとも、幾度となく会談を重ねていった。
 一九九三年(平成五年)四月にゴルバチョフ夫妻が来日した折、元大統領に創価大学から名誉博士の称号が、また、共に世界を駆けるライサ夫人には、創価女子短期大学から最高栄誉賞が贈られた。元大統領は、この日、大学の講堂で記念講演を行っている。
 そして、九六年(同八年)には、ゴルバチョフと伸一の語らいをまとめた『二十世紀の精神の教訓』が発刊されたのである。
 さらにゴルバチョフ夫妻は、九七年(同九年)十一月、関西創価学園にも訪れている。
 友情は、永続性のなかで、より深く根を張り、より美しく開花する。
47  誓願(47)
 山本伸一が、正信会僧らの理不尽な学会攻撃に対して、本格的な反転攻勢に踏みきり、勇躍、創価の同志が前進を開始すると、広宣流布の水かさは次第に増し、月々年々に、滔々たる大河の勢いを取り戻していった。
 しかし、広布の征路は険しく、さまざまな試練や、障害を越えて進まねばならない。
 伸一自身、個人的にも幾多の試練に遭遇した。一九八四年(昭和五十九年)十月三日には、次男の久弘が病のために急逝した。享年二十九歳である。彼は、創価大学法学部の修士課程を修了し、「次代のために創価教育の城を守りたい」と、母校の職員となった。
 九月の二十三日には、創価大学で行事の準備にあたっていたが、その後、胃の不調を訴えて入院した。亡くなる前日も、「創大祭」について、病院から電話で、関係者と打ち合わせをしていたようだ。
 久弘は、よく友人たちに、「創価大学を歴史に残る世界的な大学にしたい。それには、命がけで闘う本気の人が出なければならないと思う。ぼくは、その一人になる」と語っていたという。
 伸一は、関西の地にあって、第五回SGI総会に出席するなど、連日、メンバーの激励に奔走していた。
 訃報が入ったのは、十月三日夜であった。関西文化会館で追善の唱題をした。思えば、あまりにも若い死であった。しかし、精いっぱい、使命を果たし抜いての、決意通りの生涯であったと確信することができた。
 伸一は、久弘の死は、必ず、深い、何かの意味があると思った。
 広宣流布の途上に、さまざまなことがあるのは当然の理である。しかし、何があっても恐れず、惑わず、信心の眼で一切の事態を深く見つめ、乗り越えていくのが本物の信心である。広布の道は、長い長い、一歩も引くことのできぬ闘争の連続である。これを覚悟して「難来るを以て安楽と意得可きなり」との原理を体得していくのが、大聖人の事の法門であり、学会精神である。
48  誓願(48)
 山本伸一もまた、一九八五年(昭和六十年)十月には、体調を崩し、精密検査のために大学病院に入院しなければならなかった。
 青春時代に胸を患い、医師からは三十歳まで生きられないだろうと言われてきた体であったが、全力疾走の日々を送ってきた。会長辞任後も、世界を回り、以前にも増して多忙を極めた。さらに、会長の秋月英介が、一時期、体調を壊したこともあり、皆を支えるために、伸一は一段と力を注いできた。
 彼は、この時、師の戸田城聖が亡くなった五十八歳に、間もなくなろうとしていることを思った。また、自分のあとに会長となった十条潔も、五十八歳で他界したことを振り返りながら、決意を新たにした。
 “私には、恩師から託された、世界広布の使命がある。そのためには、断じて倒れるわけにはいかない。師の分までも、生きて生きて生き抜いて、世界広宣流布の永遠の基盤をつくらねばならない!”
 伸一は、健康管理に留意することの大切さを改めて感じながら、新しき広布の未来を展望するのであった。
 人生は、宿命との容赦なき闘争といえる。
 愛する人を失うこともあれば、自らが病に倒れることもある。あるいは、家庭の不和、子どもの非行、失業、倒産、生活苦……。これでもか、これでもかというほど、怒濤のごとく、苦難は襲いかかってくる。だからこそ、信心なのだ。自らを強くするのだ。信心で乗り越えられぬ宿命など、断じてない。
 苦難に負けず、労苦を重ねた分だけ、心は鍛えられ、強く、深くなり、どんな試練をも乗り越えていける力が培われていく。さらに、人の苦しみ、悲しみがわかり、悩める人と共感、同苦し、心から励ましていくことができる、大きな境涯の自分になれる。
 また、苦難に挫けることなく、敢然と戦い進む、その生き方自体が、仏法の偉大なる力の証明となっていく。つまり、広宣流布に生き抜く時、宿命は、そのまま自身の尊き使命となり、苦悩は心の財宝となるのだ。
49  誓願(49)
 山本伸一は、世界広布へ全力で突き進んでいった。時は待ってはくれない。
 日本国内では、学会への恐喝及び同未遂事件で逮捕された、山脇友政の裁判も続いていた。伸一は一九八二年(昭和五十七年)十月にも、その翌年にも、検察側証人として出廷していた。東京地裁での第一審判決は、八五年(同六十年)三月であった。
 判決は「被告人を懲役三年に処する」というものであった。当然、実刑である。「量刑の事由」では、「被害金額が大きいのみならず、弁護士の守秘義務に背き、背信性がきわめて強い犯罪であるといわなければならない」としていた。さらに、「活動家僧侶と結んでその学会攻撃を支援し、かつ週刊誌等による学会批判を煽るような行動に出ながら」、他方において、僧俗和合を願う学会を脅迫するという、山脇の卑劣で悪質な手口も明らかにした。
 しかも、裁判においても、さまざまな虚偽の工作を行ってきたことを指摘。「被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の、証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」「本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大」と断罪した。
 また、判決文では、「被告人の供述は、信用できない」といった表現が随所に見られた。法廷で虚言を重ねてきたことも明白になったのである。
 山脇は、「懲役三年」という東京地裁の判決に対して、直ちに控訴する。しかし、東京高裁においても、判決が覆ることはなかった。
 これを不服として上告するが、九一年(平成三年)一月、最高裁は棄却し、「懲役三年」の刑が確定するのである。
 八〇年(昭和五十五年)六月に、学会が警視庁に告訴し、八一年(同五十六年)一月、山脇は逮捕。それから十年がたっていた。
 広布の行く手に立ちはだかる、いかなる謀略も、学会の前進を阻むことはできない。御聖訓には、「悪は多けれども一善にかつ事なし」と。
50  誓願(50)
 山本伸一は、日蓮大聖人の仏法の法理を根幹に、世界に平和の大潮流を起こそうと、あらゆる障害を乗り越えながら、渾身の力を尽くしてきた。
 また、広宣流布のために僧俗和合への最大の努力を払い、宗門の外護に全面的に取り組んでいった。
 宗門では、一九八一年(昭和五十六年)に日蓮大聖人第七百遠忌を終え、九〇年(平成二年)秋に挙行される大石寺開創七百年の式典を、いかに荘厳なものにし、大成功させるかが大きな課題となっていた。
 八四年(昭和五十九年)一月初め、伸一は再び、法華講総講頭に任命された。日顕の強い要請を受けての就任であった。
 三月、開創七百年記念慶祝準備会議の席上、伸一は、十年後を目標に、寺院二百カ寺の建立寄進を発表した。
 「『大願とは法華弘通なり』との御聖訓のままに、令法久住と広宣流布を願って、新寺院建立の発願を謹んでさせていただくものであります」
 その寄進は、僧俗和合を願う学会の、赤誠の発露であった。
 翌八五年(同六十年)十月、伸一は、日顕から、開創七百年記念慶讃委員会の委員長の辞令を受けた。彼は、最大の盛儀にしようと、全精魂を傾けて準備にあたっていった。
 二百カ寺についても、学会は万難を排して建立寄進を進め、やがて九〇年(平成二年)十二月には、百十一カ寺を数えることになる。
 伸一の念願は、僧たちが、日々、広宣流布のために戦う同志を、心から大切にしてほしいということであった。
 御聖訓には、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」とある。日蓮大聖人の仰せ通りに、苦労し抜いて弘教に励む同志は、地涌の菩薩であり、仏子である。弘教の人を、「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」というのが、大聖人の御精神である。仏子を讃え、守り、励ましてこそ、広布はある。
51  誓願(51)
 一九九〇年(平成二年)夏、総本山では、学会の青年たちが、九月二日に行われる大石寺開創七百年慶祝記念文化祭の準備に、連日、汗を流していた。この文化祭は、開創七百年の記念行事の幕開けとなるもので、十月には、慶讃大法要の初会、本会が営まれる。
 九月二日夕刻、慶祝記念文化祭が、「天座に輝け 幸の光彩」をテーマに掲げ、総本山・大客殿前の広場で盛大に開催された。
 宗門からは、日顕をはじめ、総監などの役僧、多数の僧らが、学会からは、名誉会長である山本伸一、会長の秋月英介、理事長の森川一正のほか、副会長らが出席した。
 文化祭では、芸術部、男女青年部による、邦楽演奏や優雅な寿ぎの舞、バレエなど、熱演が繰り広げられた。
 また、色とりどりの民族衣装に身を包んだ、世界六十七カ国・地域のメンバーが誇らかにパレードすると、会場からは大拍手が鳴りやまなかった。
 世界広布への誓いを胸に、満面の笑みで手を振る、メンバーの清らかな思いに応えようと、伸一も力いっぱい拍手を送った。
 隣には、日顕も、笑みを浮かべて演技を観賞していた。
 この年の十二月――宗門による、伸一と会員とを分離させ、学会を破壊しようとする陰謀が実行されることになるとは、誰も想像さえしなかった。
 慶祝記念文化祭を終えた伸一には、第五回日中民間人会議に出席するために来日した中国代表団との交歓会、第十二回SGI総会のほか、ブラジルのサンパウロ美術館の館長や国連事務次長、インドの文化団体ICDO(国際文化開発協会)の創立者らとの会談などが、連日、控えていた。
 日蓮大聖人は「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」と、世界広宣流布即世界平和を展望されている。その実現の流れを開くために、伸一は懸命に奮闘を重ねていた。彼にとっては、毎日が、平和建設への大切な歩みであった。
52  誓願(52)
 山本伸一は、九月二十一日、初めて韓国を訪問した。ソウル市の中央日報社ビルの湖巌ギャラリーで開催される、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」韓国展の開幕式に、同美術館の創立者として出席するためである。
 伸一は、韓国は「日本の文化の大恩人」であり、東京富士美術館所蔵の西洋絵画を同国で初公開することによって、せめてもの「恩返しの一分」になればと考えていた。
 また、「人類の宝」を共有し合う文化の交流は、奥深い魂の共鳴を奏で、日韓友好を促進する道であるとの信念があった。さらに、それは、仏法の人間主義を基調に、平和・文化・教育の交流を推進している創価学会への理解となり、メンバーへの励ましになるにちがいないと確信していた。
 二十二日、韓国を発った伸一は、福岡、佐賀、熊本、鹿児島と回り、十月二日に東京へ戻った。
 そして、六、七の両日は、大石寺開創七百年慶讃大法要・初会に臨んだ。学会は、この時までに、正本堂の補修整備や、総一坊、総二坊の新築寄進などもしてきた。
 初会第二日の七日には、伸一が発願主となって寄進した大客殿天蓋の点灯式も行われた。八葉蓮華をデザインした大天蓋は、直径五・四メートル、高さ三・四五メートルで、伸一が点灯ボタンを押すと、透かし彫りの幢幡やカットグラスなどが金色の輝きを放った。
 この日、慶讃委員長として祝辞を述べた伸一は、胸中の厳たる思いを披瀝した。
 「宗祖大聖人は、開創の大檀越・南条時光殿に、『大難をもちてこそ・法華経しりたる人』――大難にあってこそ法華経を知った人といえる――と仰せであります。いかなる難をも、正法弘通のためには決して恐れない。いな、大難こそ無上の誉れとしていく。この御聖訓の通りの金剛信を、私どもは、一生涯、深く持っていく決意でございます」
 まさに、その大難が競い起ころうとしていたのである。
53  誓願(53)
 日顕は、大石寺開創七百年慶讃大法要で、初会第一日の説法でも、第二日の慶讃文でも、創価学会の功績を讃えた。なかでも、説法では、「特に、近年、信徒団体創価学会の興出により、正法正義は日本ないし世界に弘まり」と絶讃したのである。
 山本伸一は、初会が終わると、その足で愛知指導に赴き、そして、十二、十三日と再び総本山での慶讃大法要・本会に出席した。
 本会第二日には、日顕から伸一に、開創七百年の慶讃委員長として記念事業の推進にあたり、外護の任を尽くした功績は誠に顕著であるとして、感謝状並びに記念品の目録が贈られている。
 日顕らの学会破壊の謀略が実行に移されたのは、それから間もなくのことであった。
 慶讃大法要を終えた伸一は、各国の識者との語らいに余念がなかった。トルコ・アンカラ大学のネジデット・セリーン総長夫妻、平和学者のヨハン・ガルトゥング博士や、ニューヨークの国際写真センターのコーネル・キャパ理事長夫妻、ヨーロッパ最古の大学であるイタリア・ボローニャ大学のファビオ・ロベルシ・モナコ総長らとの会見が続いた。
 東西冷戦が終結の時を迎えた今こそ、二十一世紀へ向かい、新しい平和の橋を架けようと、真剣勝負の日々であった。
 十二月十三日、伸一は、ノルウェーのオスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長と聖教新聞社で会談した。
 語らいでは、所長が提案している「環境安全保障」が大きなテーマとなった。これは、環境問題と軍縮問題をセットにした安全保障の構想である。
 伸一は、仏法の「依正不二」の原理などを紹介し、環境破壊や飢饉、疫病、戦争という社会の混乱は、人間の善性を毒する「生命の濁り」に根本原因があると指摘。「生命自体を変革し、浄化していくなかに、平和への確かな道があり、仏法を基調にした、その“人間革命”の実践が、SGIの平和・教育・文化運動の根幹になっています」と訴えた。
54  誓願(54)
 山本伸一が、オスロ国際平和研究所のルードガルド所長と会談した十三日、東京・墨田区の寺では、学会と宗門の連絡会議が行われた。学会からは、会長の秋月英介らが、宗門からは、総監の藤本日潤らが出席した。
 連絡会議が終了しようとした時、総監が封筒を秋月に差し出した。前月の十六日に行われた、学会創立六十周年を祝賀する本部幹部会での伸一のスピーチについて、入手したテープに基づいて質問書を作成したので、文書で回答してもらいたいというのである。
 唐突にして性急な要求であった。学会の首脳たちは、宗門側の意図がわからなかった。
 秋月は、何か疑問があれば、文書の交換などという方法ではなく、連絡会議の場で話し合うよう求めた。総監は、考え直すことを約束し、文書を持ち帰った。
 しかし、三日後の十二月十六日付で、宗門は学会に文書を送付した。「到達の日より七日以内に宗務院へ必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います」とあった。
 伸一のスピーチは、世界宗教へと飛躍するための布教の在り方、宗教運動の進め方に論及したものであった。だが、その本義には目を向けぬ、一方的な難詰であった。
 そして、伸一が、ベートーベンの「歓喜の歌」を大合唱していこうと提案したことについて、“ドイツ語で「歓喜の歌」を歌うのは、キリスト教の神を讃歎することになり、大聖人の御聖意に反する”などと、レッテルを貼ったうえでの質問であった。
 十二月十六日、伸一は、第一回壮年部総会を兼ねた本部幹部会に出席。この日が、ベートーベンの誕生の日とされ、生誕二百二十年に当たることから、楽聖の“わが精神の王国は天空にあり”との毅然たる生き方に言及した。
 なぜ、べートーベンが、苦しみのなかで作曲し続けたのか。自身がつかんだ歓喜の境涯を、未来のため、不幸な貧しき人びとのために分け与えたかったからである――それが伸一の洞察であった。まさに、この大音楽家の一念は、学会精神に通じよう。
55  誓願(55)
 宗門の「お尋ね」と題する質問文書に対して、学会は、十二月二十三日、「あくまでも話し合いで、理解を深めさせていただきたい」との返書を送った。併せて、僧俗和合していくために、これまで思い悩んでいた事柄や疑問を、率直に、「お伺い」することにした。それは、秋月英介が山本伸一と共に対面した折の法主の話や、僧たちの不謹慎な言動など、九項目に及んだ。
 二十六日付で宗門から書面が届いた。
 「『お伺い』なる文書をもって、事実無根のことがらを含む九項目の詰問状を提出せられるなど、まことにもって無慙無愧という他ありません」「一一・一六のスピーチについては、文書による誠意ある回答を示される意志が全くないものと受けとめました」
 翌二十七日、宗門は臨時宗会を開き、宗規の改正を行った。改正された宗規では、これまで任期のなかった総講頭の任期を五年とし、それ以外の役員(大講頭ら)の任期を三年とした。また、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」は処分できるとなった。
 この変更された宗規は、即日施行され、それにともない、「従前法華講本部役員の職にあった者は、その資格を失なう」とあった。つまり、総講頭の伸一も、大講頭の秋月や森川一正らも、資格を喪失することになる。
 宗門の狙いは、明白であった。宗規改正を理由に、伸一の宗内における立場を剥奪し、やがては学会を壊滅させ、宗門の権威権力のもとに、会員を隷属させることにあった。
 宗門は、総講頭等の資格喪失について、二十八日にはマスコミに伝えていた。本人に通知が届く前である。
 伸一は、暮れも押し詰まったこの日、中国・敦煌研究院の段文傑院長と聖教新聞社で対談を行い、仏法の民衆根本の精神などをめぐって語り合った。周囲は騒然としていた。しかし、平和と文化の創造をめざし、世界の識者との対話を着実に重ねた。人類の未来を思い、信念の軌道を突き進んでいった。
56  誓願(56)
 学会員は、新聞の報道などで、宗門の宗規改正によって、山本伸一や学会の首脳幹部らが、法華講総講頭・大講頭の資格を失ったことを知った。
 同志たちは、予期せぬ事態に驚くとともに、宗門への強い怒りを覚えた。
 「なんで宗門は、こんな理不尽なことをしたのか!」「宗門を大発展させたのは、山本先生ではないか! その先生の総講頭資格を、なんの話し合いもなく、一方的に喪失させるとは何事だ!」
 資格喪失の通知が届いたのは、二十九日であった。年末の慌ただしい時期ではあったが、学会では、各県・区で、緊急の幹部会を開くなどして、宗門の問題について状況を説明した。迅速な対応であった。
 「われわれは時すでに遅しとならないうちに今行動しなければならない」(『私には夢があるM・L・キング説教・講演集』梶原寿監訳、新教出版社)とは、アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング博士の叫びである。
 学会が「平和と拡大の年」と定めた一九九一年(平成三年)が明けた。
 伸一は、新年の出発にあたって、和歌を詠み、「聖教新聞」をはじめ、各機関紙誌に発表した。このうち、「聖教新聞」に掲載された和歌の一首は――
 新春を
   共に祝さむ
     喜ばん
   皆 勇猛の
     心 光りて」
 『大白蓮華』に掲載された三首のうちの一首には――
 恐れなく
   妬みの嵐も
     烈風も
   楽しく越えゆけ
     自在のわれらは
 創価の同志は、この新春、全国各地の会館で、また、海外七十五カ国・地域で、晴れやかに新年勤行会を開催し、希望あふれる一年のスタートを切った。
 伸一は、学会本部での勤行会に参加した各部の代表と、学会別館で新年のあいさつを交わし、励ました。
 「世界広布の新しい時代の扉を開こうよ。烈風に向かって、飛び立つんだよ」
57  誓願(57)
 一月二日、会長の秋月英介と理事長の森川一正が登山し、日顕との話し合いを求めたが、拒否された。その後も宗門は、学会に対して、「目通りの儀、適わぬ身」などと対話を拒絶し続けた。
 十二日付で、宗門から文書が送られてきた。
 実は、宗門の「お尋ね」のなかで、山本伸一の発言だとして詰問してきた引用に、幾つかの重要な誤りがあった。また、明らかに意味を取り違えている箇所や、なんの裏づけもない伝聞に基づく質問もあった。
 この文書は、学会が、それを具体的に指摘したことに対する回答であった。宗門は、数カ所の誤りを認めて撤回した。それにより、主張の論拠は根底から崩れたのである。
 しかし、彼らは、学会への理不尽な措置を改めず、僧俗の関係についても、「本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの」とまで言っているのだ。もはや看過しておくわけにはいかなかった。日蓮仏法の根幹を歪め、世界広布を根本から阻む元凶になりかねないからだ。
 学会としては、公式謝罪を強く要求した。また、「お尋ね」文書の引用には、このほかにも重要な誤りがあることを学会は指摘しており、それについても回答するよう求めた。
 宗門は、学会の再三にわたる話し合いの要請を、ことごとく拒否してきたが、大聖人は「立正安国論」で「しばしば談話だんわを致さん」と仰せのように、対話主義を貫かれている。すべての人と語り合い、道理をもって、理解と共感と賛同を獲得していくことを教えられている。武力や権威、権力など、外圧によって人を屈服させることとは対極にある。
 対話は、仏法の人間主義を象徴するものであり、それを拒否することは、大聖人の御精神を否定することだ。学会が広布の花園を大きく広げてきたのも、家庭訪問、小グループ、座談会など、対話を中心とした草の根の運動を積み重ねてきたからにほかならない。
58  誓願(58)
 対話主義の根底には、万人尊重の哲学と人間への信頼がある。そして、それは、すべての人が等しく「仏」の生命を具え、崇高なる使命をもっているという、万人の平等を説く仏法の法理に裏打ちされている。
 しかし、日顕ら宗門は、その法理に反して、日本の檀家制度以来の、僧が「上」、信徒は「下」という考えを踏襲し、それを学会に押しつけ、隷属させようとしたのだ。
 日蓮大聖人が根本とされた法華経は、「二乗作仏」や「女人成仏」が示すように、身分など、あらゆる差別と戦い、超克してきた平等の哲理である。それゆえに、世界の識者たちも、生命の尊厳を説き、人間共和と人類の平和を開く法理として、仏法を高く評価しているのである。
 大聖人は、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」と、僧俗も、性差も超えた、人間の平等を明確に宣言されている。
 大聖人の仏法は、民衆の幸福のためにこそある。もしも、宗門によってその根幹が歪められることを放置すれば、横暴な宗門僧らの時代錯誤の権威主義がまかり通り、不当な差別を助長させ、混乱と不幸をもたらしてしまうことになる。
 まさに、「悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」と仏典に説かれているごとく、正しき仏法が滅しかねないのだ。
 さらに、学会が、深く憂慮したことの一つは、宗門の文化などに対する認識である。
 彼らの文化に対する教条主義的、排他的な態度は、ベートーベンの第九「歓喜の歌」についてだけではなかった。かつて、『大白蓮華』で、「英国王室のローブ展」の展示品・ガーター勲章を紹介したところ、そこに「十字」の紋章が施されているのを見て、役僧がクレームをつけてきたのである。
 各国、各地、各民族等の、固有の伝統や文化への理解なくしては、人間の相互理解はない。文化への敬意は、人間への敬意となる。
59  誓願(59)
 文化・芸術にせよ、風俗・習慣にせよ、人間社会の営みには、多かれ少なかれ、なんらかの宗教的な影響がある。
 「西暦」にしても、イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年としているし、日曜日を休日とするのもキリスト教の安息日からきている。また、「ステンドグラス」も、教会の荘厳さを表現するために発達してきた、キリスト教文化の所産である。西欧の多くの建造物や建築様式には、キリスト教が深く関わっている。だからといって、それを拒否するならば、社会生活は成り立たない。
 仏法には「随方毘尼」という教えがある。「随方随時毘尼」ともいい、仏法の根本法理に違わない限り、各国、各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとするものだ。
 法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信・行・学を実践して、広宣流布の使命に生きる――この日蓮仏法の根本の教えに違わぬ限り、柔軟な判断が必要になる。
 信心即社会である。妙法を受持した一人ひとりが、人間の英知の所産である文化等には敬意を表しつつ、社会に根差して信頼を勝ち得ていってこそ、世界広布も可能となる。
 ましてや、ベートーベンが「交響曲第九番」に取り入れた合唱部分である、シラー原詞の「歓喜の歌」には、「神々」との表現はあるが、それは特定の宗教を賛美したものでは決してない。
 山本伸一は、一九八七年(昭和六十二年)十二月、学生部結成三十周年記念特別演奏会で、メンバー五百人による第九(合唱付)を聴いた。その時の感動が忘れられなかった。
 そして、創価学会創立六十周年を祝賀する本部幹部会の席上、創立六十五周年には五万人で、七十周年には十万人で「歓喜の歌」を大合唱してはどうかと提案した。この時、日本語だけでなく、「そのうちドイツ語でもやりましょう!」と呼びかけたのである。
 偉大な音楽・芸術は、国家・民族の壁を超え、魂の共鳴音を奏で、人間の心をつなぐ。
60  誓願(60)
 「歓喜の歌」は、人間の讃歌、自由の讃歌として世界で歌われてきた。
 一九八九年(平成元年)、チェコスロバキアで、“ビロード革命”によって、流血の惨事を引き起こすことなく、共産党独裁にピリオドが打たれ、十二月十四日、首都プラハで革命を祝賀する演奏会が行われた。そこで演奏、合唱されたのがベートーベンの第九であり、「歓喜の歌」であった。
 演奏が終わると、場内は爆発的な大拍手に包まれた。鳴りやまぬ拍手のなか、新大統領となるバツラフ・ハベルが舞台に上がると、「ハベル! ハベル!」の大合唱が起こった。第九は、民主の喜びの表現であった。
 また、十二月二十三日と二十五日には、壁が崩壊したベルリンで、東西ドイツの融和を祝ってコンサートが開催された。ここで演奏されたのも第九であった。
 しかも、バイエルン放送交響楽団を中心に東西両ドイツ、さらに、戦後、東西に分割されるまでベルリンを管理していたアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の楽団からなる混成オーケストラを編成しての演奏であった。
 まさに、自由と融和の勝利の象徴が、第九であり、「歓喜の歌」であったのである。
 宗門が、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して、ドイツ語の合唱に、「外道礼讃」とクレームをつけたことに対して、外部の識者らが次々と声をあげた。
 ニーチェ研究などで知られる哲学者の河端春雄・芝浦工業大学教授(当時)は、「人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒をつくり断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」(「聖教新聞」1991年1月24日付)と指摘する。
 そして、シラーがいう「神々」の意味は、もとより「一神教であるキリスト教の神を称える」ものではなく、古代ギリシャの神に託して、「人間の内なる精神の極致、理想」を述べたものである。新しい思想も、その時代の既存の“何か”に託して表現する以外にないからだ――と語っている。
61  誓願(61)
 アメリカでSGIメンバーと交流してきた作家の牛島秀彦・東海女子大学教授(当時)は、文化の本質に立ち返り、訴えている。
 「文化と宗教は不即不離の関係にあり、両者は同義ではない。文化・芸術は宗教宗派を超えて広く社会に根差し、歴史のなかで他の文化を吸収・淘汰・融合しながら、人間の生活様式を形成している。したがって、ベートーヴェンの『第九』の合唱部分を異教徒(私は宗教の枠を超えた人間の賛歌ととらえている)として断罪、排斥することは、世界の文化、ひいては人間の生活様式を否定するという論理になってしまう。
 自らはコップの中に閉じこもり、ドグマを振り回すことはたやすい。だが、それでは日蓮大聖人の遺命とされる世界への布教は決してなされないのみか、自らがそれを阻んでいることを認識する必要がある」(「聖教新聞」1991年2月10日付)
 宗教が教条主義に陥り、独善的な物差しで、文化や芸術を裁断するならば、それは、人間のための宗教ではなく、宗教のための宗教である。
 “今こそ、人間に還れ”――新しき時代のルネサンスの必要性を、同志は痛感した。
 また、学会の首脳たちは、宗門僧の振る舞いにも、心を痛めてきた。各地の会員からは、傍若無人な言動や、遊興にふけり、華美な生活を追い求める風潮に、困惑、憂慮する声が、数多く寄せられていた。学会としても、そのことを宗門側に伝えた。このままでは、将来、宗内は荒廃し、収拾のつかない事態になりかねないことを危惧したのである。
 大聖人は、折伏もせず、「徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」と仰せである。
 広宣流布への志を失い、衣の権威を振りかざす宗門僧の姿は、学会の草創期から見られた。ゆえに第二代会長・戸田城聖は、「名誉と位置にあこがれ、財力に阿諛するの徒弟が、信者に空威張することなきよう」(「日蓮正宗の御僧侶に望む」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社)等と、たびたび宗門僧に対して、信心の赤誠をもって厳しく諫めてきたのである。
62  誓願(62)
 学会は、日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布を進めていくために、いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、正すべきことは、正さぬわけにはいかなかった。
 一九九一年(平成三年)の一月三日、全国県長会議が開かれ、宗門の問題が報告された。
 会長の秋月英介は、日蓮大聖人の御遺命を達成すべく、二十一世紀をリードする世界宗教にふさわしい広布の基盤を整えるために、①民主の時代に即応し、世界に開かれた宗門になってほしい②日蓮大聖人の仏法の本来の精神に則り、権威主義を是正し、信徒蔑視を改めてほしい③僧侶の堕落を戒め、少欲知足の聖僧という宗風を確立してほしい――との宗門への学会の要望を語った。
 山本伸一は、皆と共に勤行し、「使命の人、信念の人としての深い自覚をもって、見事な一年に!」とあいさつした。彼は、“何があろうが、世界広布のために、仏意仏勅の創価学会を守り抜かねばならぬ”と強く決意し、「平和と拡大の年」であるこの年も、年頭から、会員の激励に奮闘した。
 一月二十六日には、第十六回「SGIの日」を記念して提言を行った。
 折しも前年八月のイラクのクウェート侵攻を契機に湾岸戦争が始まり、一月にはアメリカを中心とした多国籍軍とイラクが交戦していた。提言では、湾岸戦争の早期終結を要請するとともに、国連のリーダーシップによる中東和平国際会議の開催などを訴えた。
 翌二十七日、彼は、香港・マカオ訪問に出発し、三十一日には、香港文化会館に、アジアなど十四カ国・地域の代表千五百人が集って行われた、SGIアジア会議総会に出席した。
 この席上、湾岸戦争の早期解決に向けて「緊急アピール」が採択された。アピールでは、国連主導による一日も早い和平の実現を念願し、イラクのクウェートからの撤退表明、戦闘再発防止策の構築、「中東和平国際会議」の開催、「緊急安全保障理事会」の招集を呼びかけた。
 信仰の炎は、平和への闘魂の炎となる。
63  誓願(63)
 香港を訪れた山本伸一は、マカオも初訪問し、マカオ東亜大学の名誉教授称号授与式に出席。「新しき人類意識を求めて」と題して記念講演を行った。二月二日には、そのまま沖縄指導に入り、引き続き宮崎を訪問した。
 三月に入ると、関西、中国、中部と、国内の同志の激励行が続いた。
 この三月のことである。学会との話し合いを拒否し続けてきた宗門は、突然、海外組織に対する方針の転換を発表した。
 これまで海外では、SGI以外の信徒組織は認めなかったが、その方針を廃止する旨の通知を送付してきたのである。
 さらに、学会の月例登山会を廃止し、七月からは、所属寺院が発行する添書(登山参詣御開扉願)を所持しての登山しか認めないと通告してきた。学会の組織を切り崩そうとする意図は明らかであった。
 学会員は、その一方的で傲岸不遜なやり方にあきれ返った。信心の誠をもって登山を重ね、また、総本山を荘厳するために、身を削る思いで供養し続けてきたからである。
 総本山の大石寺は、戦後、農地改革によって、それまで所有していた農地の大半を失い、経済的に大きな打撃を受け、疲弊の極みにあった。すると、宗門は、生活手段を確保するために、大石寺の観光地化を計画した。一九五〇年(昭和二十五年)十一月には、総本山で地元の市長や村長、観光協会、新聞記者などが集まり、「富士北部観光懇談会」を開き、具体的な検討を始めたのだ。
 その話を聞いた戸田城聖の驚き、悲しみは大きかった。金のために、総本山を信仰心のない物見遊山の観光客に開放し、大聖人の御精神が踏みにじられてしまうことを憂えた。そして、事態打開の道を考え、定例の登山会を企画し、二年後の五二年(同二十七年)から実施したのだ。これによって、宗門は窮地を脱し、大いなる発展を遂げた。登山会には四十年間で延べ七千万人が参加している。 
 広宣流布を願う創価学会員の信心が、宗門を支え、総本山を大興隆させてきたのだ。
64  誓願(64)
 学会は、総本山整備にも、最大の力を注いできた。戸田第二代会長の時代には、奉安殿、大講堂を建立寄進し、山本伸一が第三代会長に就任してからは大坊、大客殿、正本堂をはじめ、総門、宿坊施設など、総本山の建物や施設を寄進した。
 総本山所有の土地も、農地改革直後は、わずか五万一千余坪にすぎなかったが、かつての二十三倍の百十七万余坪になった。その土地も、大半が学会からの寄進であった。こうした長年の外護の赤誠に対しても、学会員の真心の御供養に対しても、登山会の無事故の運営のために、止暇断眠して挺身した青年たちの苦労に対しても、一言のあいさつも感謝もなく、添書登山が始まったのである。
 一九九一年(平成三年)の七月、宗門は学会を辞めさせて寺の檀徒にする「檀徒づくり」を、公式方針として発表した。
 仏法上、最も重罪となる五逆罪の一つに、仏の教団を分裂混乱させる「破和合僧」がある。彼らは、現実に広宣流布を推進してきた仏意仏勅の団体である、創価学会の組織の本格的な切り崩しに踏み切り、この大重罪を犯したのだ。それは、供養を取るだけ取って切り捨てるという、冷酷、卑劣な所行であった。
 また、宗門は、大聖人の教えと異なる「法主信仰」の邪義を立て、法主を頂点とした衣の権威によって、信徒を支配しようと画策していった。
 しかし、その悪らつさと、時代錯誤の体質は、既に学会員から見破られていたのだ。
 九月には、二年前の八九年(同元年)七月、日顕が、先祖代々の墓を福島市にある禅宗寺院の墓地内に建立し、開眼法要を行っていたことが明らかになった。さんざん学会を謗法だなどと言っておきながら、こんなことまでやっていたのかと、皆が呆れ果てたのである。
 また、宗門の数々の腐敗堕落の実態も、次々と知られるようになっていった。
 これでは、もはや、日蓮大聖人の仏法ではない。日興上人の御精神は途絶え、富士の清流は、悲しいかな濁流と化してしまった。
65  誓願(65)
 山本伸一は、東西冷戦終結後の新たな平和の構築を展望し、行動した。一九九一年(平成三年)四月には、教育・文化交流のため、フィリピン大学を訪問。経営学部の卒業式に出席し、「平和とビジネス」と題して記念講演した。この日、伸一に、同大学から、名誉法学博士号が贈られている。
 六月初旬からは、ヨーロッパを回り、ドイツに続いて、ルクセンブルクを初訪問し、フランス、イギリスを歴訪。それぞれの国で、文化交流を重ねる一方、国家指導者や識者と会談した。九月下旬から十月初旬にかけては、北米を訪れ、九月二十六日、ハーバード大学で、「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を開くために」と題して記念講演を行った。
 また、日本国内を東奔西走し、宝友の励ましに心血を注いでいった。
 今回の第二次宗門事件では、同志は陰険にして姑息な宗門の謀略を冷静に見抜き、破邪顕正の情熱をたぎらせて、敢然と戦った。
 伸一は、会長を辞任した、あの第一次宗門事件の折、もう一度、広宣流布の使命に生き抜く師弟の絆で結ばれた、強靱な創価学会を創ろうと、同志一人ひとりに徹して光を当ててきた。個人指導、家庭訪問、小グループでの対話、懇談、さらに、さまざまな会合にも足を運び、激励を続けた。
 食事も、できるだけ皆と共にし、語らいのための時間とした。また、寸暇を惜しんで、句や和歌を詠み、色紙や書籍に揮毫して贈るなど、励ましに励ましを重ねてきた。
 彼は、同志の成長のため、幸せのために、生命を削る覚悟で動き、働いた。“皆が一人立つ勇者になってほしい”と、広宣流布の魂を注ぐことに必死であった。
 そのなかで後継の青年たちも見事に育ち、いかなる烈風にも微動だにしない、金剛不壊の師弟の絆で結ばれた、大創価城が築かれていったのである。しかも、その師弟の精神は、広く世界の同志の心を結んでいった。
 命をかけた行動に、魂は共鳴する。
66  誓願(66)
 山本伸一は、毎月の本部幹部会などの会合に出席するたびに、民衆の幸福を願われた日蓮大聖人の御精神や真実の仏法者の在り方などについて語っていった。
 ある時は、喜劇王チャップリンの言葉を紹介し、「自由」のために戦う勇気の大切さを語り、ある時は、文豪ユゴーの『レ・ミゼラブル』を通して、「民衆よ強くなれ! 民衆よ賢くなれ! 民衆よ立て!」と呼びかけた。
 さらに、御聖訓通りに難を受けるのは、学会の広宣流布の戦いが正しいことの証左であると訴えた。また、仏法の本義のうえから、広布に生き、御本尊を信じ、仏道を行じ抜いてきた人は、皆“仏”であることや、民衆のための宗教革命こそ正道であると力説した。あるいは、「『一人の幸福』に尽くしてこそ仏法である」「太陽の仏法は、全人類に平等である」「世界広布の大道は、どこまでも『御本尊根本』『御書根本』である」ことなどを確認してきた。
 創価の同志が心を一つにして、日顕ら宗門による弾圧を、乗り越えていく力になったのが、一九八九年(平成元年)八月二十四日の第一回東京総会から始まった、衛星中継であった。それまで、電話回線を使っての音声中継は行われていたが、この時から、全国の主要会館の大画面に、映像も流れることになったのである。
 伸一は、全同志と対話する思いで、仏法の法理に、日蓮大聖人の御指導に立ち返って、“何が正であり、何が邪なのか”“宗門事件の本質とは何か”“人間として、いかに生きるべきか”など、多次元から、明快に語っていった。共通の認識に立ってこそ、堅固な団結が生まれる。
 衛星中継を通して同志は、深く、正しく、問題の真実と本質を知った。ただただ、広宣流布を願い、使命に生き抜こうとする伸一の思いを感じ取っていった。そして、“何があっても、腐敗した宗門の策略などに負けず、共々に広布に走り抜こう!”と、皆の心は、固く、強く、一つに結ばれたのである。
67  誓願(67)
 一九九一年(平成三年)の十一月八日のことであった。宗門から学会本部へ、「創価学会解散勧告書」なる文書が届いた。十一月の七日付となっており、差出人は、管長・阿部日顕、総監・藤本日潤である。宛先は、学会の名誉会長でSGI会長の山本伸一、学会の会長でSGI理事長の秋月英介、学会の理事長の森川一正であった。
 そこには、僧と信徒の間には、師匠と弟子という筋目の上から厳然と差別があり、学会が法主や僧を師と仰がず、平等を主張することは、「僧俗師弟のあり方を破壊する邪見」だなどとして、創価学会並びに、すべてのSGI組織を解散するよう勧告してきたのである。
 しかし、そもそも創価学会は、一九五二年(昭和二十七年)に、既に宗門とは別の宗教法人となっているのだ。広宣流布の使命を果たし抜かんとする第二代会長・戸田城聖の、先見の明によるものである。宗門は、法的にも解散を勧告できる立場ではなく、なんの権限もないのだ。
 戸田は、「宗門は金を持てば、学会を切るぞ! その時のために、万全の備えをしておくから」と、鋭く見抜いていた。この英断によって正義の学会は厳然と守られたのだ。
 学会員は、解散勧告書の内容に失笑した。
 「法主に信徒は信伏随従しろとか、僧が信徒の師だとか、自分たちに都合のいいことばかり言っているが、大事なのは何をしてきたかだ」「だいたい、折伏をしたことも、個人指導に通い詰めて信心を奮い立たせたこともほとんどない、遊びほうけてばかりいる坊主が、どうやって、広布に生き抜いてきた学会員を指導するつもりなんだ!」
 この八日、東京婦人部は、「ルネサンス大会」を開催した。寺の従業員であった婦人らが、僧と寺族の堕落した生活ぶりや、信心のかけらすらない傲慢な実態を告発。皆、“衣の権威の呪縛を断ち、いよいよ人間復興の時が来た!”と、決意を固め合った。
 「人間のため」という、仏法の原点に還ろうとの機運が、一気に高まっていった。
68  誓願(68)
 十一月八日、会長の秋月英介らは、宗門から「創価学会解散勧告書」が送付されてきたことにともない、記者会見を行った。
 解散勧告書の内容は全く無意味なものであることを述べるとともに、宗門が、日蓮大聖人の仏法の教義と精神から大きく逸脱している事実を話した。
 また、宗門には、根深い信徒蔑視の体質があり、対話を拒否してきたこと、狭い枠の中でしかものを見ず、ドイツ語での「歓喜の歌」の合唱についても、クレームをつけてきたことなどを述べた。そして、現在、学会が行おうとしているのは、そうした偏狭な権威主義を覚醒させる運動であり、大聖人の仏法が世界宗教として広まっているなかでの宗教改革であると訴えた。
 さらに、全国の会員たちの怒りは激しく、自分たちで、法主の退座を要求する署名を始めている状況にあることを伝えた。
 葬儀や塔婆供養等を利用した貪欲な金儲け主義、腐敗・堕落した遊興等の実態。誠実に尽くす学会員を隷属させ、支配しようと、衣の権威をかざして、「謗法」「地獄へ堕ちる」などと、繰り返された脅し――同志は、“こんなことが許されていいわけがない。大聖人の仏法の正義が踏みにじられていく。その醜態は、中世の悪徳聖職者さながらではないか!”との思いを深くしてきた。
 そして、“なんのための宗教か”“誰のための教えなのか”と声をあげ始めたのである。
 山本伸一は、一貫して「御本尊という根本に還れ!」「日蓮大聖人の御精神に還れ!」「御書という原典に還れ!」と、誤りなき信心の軌道を語り示してきた。
 同志は、宗門の強権主義、権威主義が露骨になるなかで、大聖人の根本精神を復興させ、人間のための宗教革命を断行して、世界広布へ前進していかねばならないとの自覚を深くしていった。その目覚めた民衆の力が、新しき改革の波となり、大聖人の御精神に立ち返って、これまでの葬儀や戒名等への見直しも始まったのである。
69  誓願(69)
 学会では、葬儀についても、日蓮大聖人の教えの本義に立ち返って、その形式や歴史的な経緯を探究し、僧を呼ばない同志葬、友人葬が行われていった。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり
 「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし
 これらの御書は、成仏は、故人の生前の信心、唱題によって決せられることを示されている。僧が出席しない葬儀では、故人は成仏しないなどという考え方は、大聖人の御指導にはない。
 また、戒名(法名)についても、それは、本来、受戒名、出家名で、生前に名乗ったものである。大聖人の時代には、死後戒名などなく、後代につくられた慣習を、宗門が受け入れたに過ぎない。戒名は、成仏とは、全く関係のないものだ。
 大聖人の仏法は、葬式仏教ではなく、一切衆生が三世にわたって、幸福な人生を生きるための宗教である。
 各地の学会の墓地公園は、そうした仏法の生命観、死生観のもと、皆、平等で、明るいつくりになっている。
 学会の同志葬、友人葬が実施されると、その評価は高かった。学会員ではない友人からも、絶讃の声が寄せられた。
 「葬儀は、ともすれば、ただ悲しみに包まれ、陰々滅々としたものになりがちですが、学会の友人葬は、さわやかで、明るく、冥土への旅立ちに、希望さえ感じさせるものでした。創価学会の前向きな死生観の表れといえるかもしれません」
 「今は、なんでも代行業者を使う。葬儀で坊さんに読経してもらうのは、そのはしりでしょう。しかし、自分たちで、故人の冥福を祈ってお経を読み、お題目を唱える。皆さんの深い真心を感じました。これが、故人を送る本来の在り方ではないでしょうか」
70  誓願(70)
 同志葬、友人葬について、ある学者は、次のような声を寄せた。
 「日本の葬儀に革命的ともいえる変革をもたらすもの」「時代を先取りしているだけに、一部、旧思考の人びとから反発されるかもしれないが、これが将来の葬儀となり、定着することは明らかである」「三百年かかって日本に定着した檀家制度を、わずか三十年で、もう乗り越えようとしている学会の発展とスピードは奇跡的である」
 各地の学会員は、第一次宗門事件後、再び宗門の権威主義という本性が頭をもたげ始めたなかで、仏法の本義に基づく平成の宗教改革に立ち上がった。
 そして、宗門が学会に出した「解散勧告書」を契機に、改革への同志の思いは奔流となってほとばしった。それは、日蓮大聖人の正法正義に背き、広宣流布の和合僧を破壊しようとする、阿部日顕の法主退座を要求する署名運動となっていった。
 11・18「創価学会創立記念日」を前にして、署名は、わずか十日足らずで、五百万人に至る勢いであった。その広がりは、学会への理不尽極まりない仕打ちに対する、同志の怒りの大きさを物語っていた。
 同時に、創価の宝友には、大聖人の“民衆の仏法”が世界に興隆する時が来たとの強い実感があった。それは「三類の強敵来らん事疑い無し」の御金言が、現実となったことによるものであった。
 学会は、三類の強敵のうち、俗衆増上慢、すなわち仏法に無知な在家の人びとによる悪口罵詈等の迫害を、数多く受けてきた。また、道門増上慢である、真実の仏法を究めずに自分の考えに執着する僧らの迫害もあった。
 しかし、聖者のように装った高僧が悪心を抱き、大迫害を加えるという僭聖増上慢は現れなかった。ところが今、法主である日顕による、仏意仏勅の広宣流布の団体たる創価学会への弾圧が起こったのである。まさに、学会が、現代において法華経を行じ、御金言通りの実践に励んできたことの証明であった。
71  誓願(71)
 宗門から「解散勧告書」なる文書が送付されてきてから三週間後の十一月二十九日、またしても学会本部に文書が届いた。「創価学会破門通告書」と書かれていた。
 宗門は、解散するよう勧告書を送ったが、学会が、それに従わないから、“破門”するというのだ。さらに、「創価学会の指導を受け入れ、同調している全てのSGI(創価学会インタナショナル)組織、並びにこれに準ずる組織」に対しても、“破門”を通告するとあった。
 初代会長・牧口常三郎の時代に入会し、戦後は第二代会長・戸田城聖のもとで学会の再建期から戦い、宗門の実態を見続けてきた草創の幹部たちは、日顕らの卑劣な策略を糾弾した。最高指導会議議長の泉田弘や参議会議長の関久男、同副議長の清原かつ等である。
 泉田は、あきれ返りながら語った。
 「いったい誰を“破門”にしたのかね。普通、“破門”は、人に対して行うものだが、学会とSGIという組織を“破門”にしたという。そして、個々の会員には、宗門の信徒の資格は残るので、学会を脱会するよう呼びかけている。結局、学会員を奪って、寺につけようという魂胆が丸見えじゃないか。
 宗門の権威主義、保身、臆病、ずるさは、昔から全く変わっていないな。信心がないんだ。だから、戦時中は、神札を受けるし、御書も削除している。また、何かあると、御本尊を下付しないなどと、信仰の対象である御本尊を、信徒支配の道具に使う。
 それと、注意しなければならないのが、創価の師弟を引き裂こうとしてきたことだよ。
 宗旨建立七百年(一九五二年)の慶祝記念登山の折、戦時中、神本仏迹論の邪義を唱えた悪僧・笠原慈行を、学会の青年たちが牧口先生の墓前で謝罪させた。その時も宗門の宗会は、戸田先生に対して、大講頭罷免、登山停止等を決議した。戸田先生一人を処分して、同志との離間、創価の師弟の分断を謀り、学会員を宗門に隷属させようという魂胆だったんだよ」
72  誓願(72)
 創価学会は、広宣流布を使命とする地涌の菩薩の集いである。そして、その生命線は、師弟にこそある。ゆえに、広布の破壊をもくろむ第六天の魔王は、さまざまな方法を駆使して、創価の師弟の分断を企てる。
 宗門の腐敗と信徒蔑視の体質をよく知る、泉田弘ら草創の幹部たちは、今こそ戦おうと、宗門に対して率先して抗議してきた。
 若い世代に、学会の精神を伝え抜いていくためには、歴戦の先輩たちが、自らの実践を通して、示していくしかない。後継の同志を育て上げることこそが、先輩の使命であり、責任である。
 泉田は、意気軒昂に断言した。
 「これで宗門が、大聖人の仏法を踏みにじり、謗法の宗となったことがハッキリしたわけだ。宗開両祖のお叱りは免れない!」
 同志の気持ちは晴れやかであった。“これで、あの権威ぶった陰湿な宗門に気を遣わず、さわやかに世界広布に邁進できる!”というのが、皆の心境であった。
   
 破門通告書が届いた二十九日、東京・千駄ケ谷の創価国際友好会館では、SGI会長の山本伸一への、「教育・文化・人道貢献賞」の授賞式が行われた。これは、東京に大使館を置くアフリカ外交団二十六カ国の総意として贈られたもので、授賞式には、十九カ国の大使(臨時代理大使)等とANC(アフリカ民族会議)の駐日代表が出席した。アフリカ諸国の大使、大使館代表が、これだけそろっての訪問は、異例中の異例であった。
 外交団を代表してあいさつした団長のガーナ大使は、伸一並びにSGIの世界平和への実績として、アパルトヘイト撤廃への貢献をはじめ、創価大学や民音などを通してのアフリカと日本の教育・文化交流などをあげた。そして、SGIは人類の理想を共有する“世界市民の集い”であると述べ、力を込めた。
 「私どもは、“共通の理想”を実現しゆくパートナーとして、SGIを選んだことが正しいと確信します」
73  誓願(73)
 ガーナ大使は、さらに、山本伸一に対して、「貴殿は、実に、どの点から見ても、“真の世界市民”であり、日本にとって“最高の大使”です」と語った。
 長い間、圧迫、差別などに苦しめられ、多くの困難と戦ってきたアフリカ大陸の歴史。そのなかで培われた鋭い眼による評価に対して、伸一は身の引き締まる思いがした。
 続いて伸一に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られると、祝福の拍手が広がった。同賞には、次のように授賞の理由が記されていた。
 「教育、文化、人道主義の行動、民族の平等と人権の尊重、貧困の救済と精神的な励まし、人間性のための献身を通して世界平和を推進されている貴殿の功績を評価し、在東京アフリカ外交団は、こうした人類への奉仕のご行動の中に光る、貴殿の卓越した人間的資質をここに証明し、讃えるものである」
 マイクに向かった伸一は、「今日は、感動的な“歴史の日”になりました」と述べたあと、学会は、創立以来、人間の尊厳と平等を守るために戦い、第二代会長・戸田城聖は「地球民族主義」を提唱したことを紹介。“民衆の勝利”へ進む「二十一世紀の大陸・アフリカ」との、一層の交流を誓った。
 また、授賞式に出席したANCの駐日代表は、マンデラ議長から伝言を託されていた。
 「SGI会長にくれぐれもよろしくお伝えください。ご健勝を心よりお祈りします」
 伸一は、外交団の一人ひとりに感謝の言葉を述べ、固い握手を交わして見送った。
 「教育の道」「文化の道」「人道の道」――これらの道が開けてこそ、真実の仏法の精神も広く世界に脈動していく。仏法の精神である人間主義、平和主義は、あらゆる壁を超えて、「人」と「人」を結んでいく。その実現をめざすなかに、仏法者の正しき実践がある。二十一世紀の世界市民運動がある。
 “人権の勝利”へ、新しい時代の幕が、この日、厳然と開いたのである。各国大使の心こもる祝福は、堂々と「魂の独立」を果たした創価の未来に寄せる、喝采と期待でもあった。
74  誓願(74)
 授賞式翌日の三十日夜、「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」が全国各地で盛大に開催された。山本伸一は、会長の秋月英介らと共に、創価国際友好会館での集いに出席した。
 彼は、創価の新しき出発となるこの日を記念して句を詠み、全国の同志に贈った。
 「天の時 遂に来れり 創価王」
 記念幹部会の席上、この句を紹介した秋月は、「創価王」とは、創価学会員全員が信仰の「王者」の意味であることを伝えたあと、日顕ら宗門の本質を明らかにしていった。
 「数々の謗法行為を犯し、“日顕宗”と化した宗門には、学会を破門する資格など、毛頭ありません。大罪を犯した日顕法主こそ、大聖人から厳しく裁かれなければならない」
 「今回の、広宣流布の前進を妨げる『破和合僧』の行為により、宗門は、日蓮大聖人から間違いなく破門になったと断じたい」
 「宗門による破門の本質は、陰湿な檀徒づくりの策略であり、学会をさらに解体しようと狙っている野心は、少しも変わっていない。その本質を見抜いていかなければならない」
 ここで彼は、声を大にして叫んだ。
 「私どもは、信心のうえからも、黒い悪魔の鉄鎖を切って、自由に伸び伸びと、世界広布に邁進できることになったのであります。本日、私どもが『魂の自由』を勝ち取った、創価ルネサンスの『大勝利宣言』をしたいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 大歓声と大拍手が鳴り響いた。
 さらに秋月は、「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」の御文を拝した。
 そして、「信心こそが、『血脈の本体』であり、御本尊に具わる功徳は、仏力・法力と、私どもの信力・行力の四力がそろうところに必ず現れ、『強盛の大信力』にこそ無量の功徳がある。そのことを、実証をもって示していきたい」と力説した。
75  誓願(75)
 会長の秋月英介は、同志葬、友人葬などを担当していくため、各県・区に儀典部を設置することを発表した。また、全国で、世界で進められてきた日顕法主退座要求署名は、国内、海外合わせ、千二百四十二万に達したことを報告し、全世界から集まった民衆の怒りの声を突きつけていきたいと語った。
 集った同志は、大拍手をもって賛同の意を表した。皆、世界広布の「天の時」を感じていた。大宗教革命の新しき歴史の大舞台に、主人公として立つ喜びに、血湧き、肉躍らせるのであった。
 いよいよ山本伸一のスピーチとなった。
 「本日は、緊急に“祝賀の集い”があるというので、私も出席させていただいた」とユーモアを込めて切り出すと、爆笑が広がり、拍手が起こった。明るく、伸びやかな、喜びと決意がみなぎる集いであった。
 伸一は、宗門が十一月二十八日付で学会に破門通告書を送ってきたことから、こう述べていった。
 「十一月二十八日は、歴史の日となった。
 『十一月』は学会創立の月であり、『二十八日』は、ご承知の通り、法華経二十八品の『二十八』に通じる。期せずして、魂の“独立記念日”にふさわしい日付になったといえようか」
 またしても大拍手が場内に轟いた。
 魂の“独立記念日”――その言葉に、誰もが無限の未来と無限の希望を感じた。
 伸一は、日蓮大聖人の仰せ通りに、不惜身命の精神で妙法広宣流布を実現してきたことを再確認し、力を込めて訴えた。
 「これ以上、折伏・弘教し、これ以上、世界に正法を宣揚してきた団体はありません。
 また、いよいよ、これからが本舞台です。
 戸田先生も言われていたが、未来の経典に『創価学会』の名が厳然と記し残されることは間違いないと確信するものであります」
 まさしく、仏意仏勅の創価学会であり、広宣流布のために懸命に汗を流す、学会員一人ひとりが仏なのである。
76  誓願(76)
 「宗教」があって「人間」があるのではない。「人間」があって「宗教」があるのである。「人間」が幸福になるための「宗教」である。この道理をあべこべにとらえ、錯覚してしまうならば、すべてが狂っていく――山本伸一は、ここに宗門の根本的な誤りがあったことを指摘し、未来を展望しつつ訴えた。
 「日蓮大聖人の仏法は『太陽の仏法』であり、全人類を照らす世界宗教です。その大仏法を奉ずる私どもの前進も、あらゆる観点から見て、“世界的”“普遍的”であるべきです。決して、小さな閉鎖的・封建的な枠に閉じ込めるようなことがあってはならない」
 御書に「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり」と。「南浮」とは、南閻浮提であり、世界を意味する。太陽の日蓮仏法は、あらゆる不幸の暗雲を打ち破り、全世界に遍く幸の光を送る。
 さらに伸一は、宗門事件に寄せられた識者の声から、世界宗教の条件について語った。
 ――それは、「民主的な“開かれた教団運営”」「『信仰の基本』には厳格、『言論の自由』を保障」「『信徒参画』『信徒尊敬』の平等主義」「『儀式』中心ではなく、『信仰』中心」「血統主義ではなく、オープンな人材主義」「教義の『普遍性』と、布教面の『時代即応性』」である。
 また、彼は、戸田城聖の「われわれ学会は、御書を通して、日蓮大聖人と直結していくのである」との指導を紹介。学会は、どこまでも御書根本に、大聖人の仏意仏勅のままに、「大法弘通慈折広宣流布」の大願を掲げて、行動し続けていることを力説した。
 そして、誰人も大聖人と私どもの間に介在させる必要はないことを述べ、あえて指導者の使命をいえば、大聖人と一人ひとりを直結させるための手助けであると訴えた。
 牧口初代会長、戸田第二代会長は、御本仏の御遺命通りに死身弘法を貫き、大聖人門下の信心を教え示した。創価の師弟も、同志も、組織も、御書を根本に大聖人の御精神、正しい信心を、教え、学び合うためにある。
77  誓願(77)
 山本伸一は、未来へ、世界へと、広宣流布の流れを開く、創価学会の使命を確認していった。
 「日蓮大聖人は『御義口伝』に、『今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり』と仰せになっています。大聖人の仰せのままに進む人は、誰でも成仏できることを確信し、いよいよ万年の未来へ、壮大なる希望の出発をしたい。
 また、日興上人は、『本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し』と残されている。かつて、インドの釈尊の言葉が、中国語や日本語に翻訳されたように、大聖人が使われた尊い言葉も、広宣流布の時には、仮名を用いて書かれた御書を訳して、インドへも、中国へも流布していくべきであるとの意味です。
 その教え通りに、御書を正しく翻訳し、世界中に流布しているのは、わが創価学会だけです。学会は、この日興上人の御精神のままに、御書根本に進んでいきます。宗祖・大聖人も、日興上人も、必ずやお喜びくださり、御賞讃くださっているにちがいありません」
 そして彼は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との「日興遺誡置文」を拝した。時の法主であるといっても、仏法に相違して自分勝手な教義を唱えれば、これを用いてはならないとの厳誡である。
 伸一は、どこまでも、この遺誡のままに大聖人に直結し、勇躍、世界広布へ進んでいきたいと訴え、結びに、こう呼びかけた。
 「どうか、皆様は、『世界一の朗らかさ』と『世界一の勇気』をもって、『世界一の創価学会』の建設へ邁進していただきたい。そして、大勝利の学会創立七十周年の西暦二〇〇〇年を迎えましょう!」
 会場を揺るがさんばかりの、決意の拍手が沸き起こった。新世紀へ、世界宗教へ、人間主義の時代へ、足取りも軽く、創価の新しき前進が始まったのだ。
78  誓願(78)
 全国、全世界の同志が、創価ルネサンスの闘士として、勇んで立ち上がった。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」との御聖訓を胸に、世界広宣流布への新たな長征が始まったのだ。
 同志は、「学会によって知った、この正しき信心の軌道を踏み外すまい」「どこまでも学会と共に進み、断じて幸福な人生を切り開いていこう」「悪縁に紛動されて、悔いを三世に残すような友を出すまい」と誓い合った。異体同心のスクラムを固めながら、さっそうと、朗らかに、二十一世紀を、「生命の世紀」をめざしたのである。
 宗門が破門通告なる文書を送付してから約一カ月後の十二月二十七日、学会は、日顕に対し、「退座要求書」と、それに賛同する世界各国を含め、千六百万人を超える人びとの署名簿を送った。この厳たる事実は、永久に広布史に刻まれることになったのである。
 学会では、この年の師走、東京の江戸川・葛飾・足立区をはじめ、神奈川の川崎などの文化音楽祭が開催された。また、富士鼓笛隊、富士学生軽音楽団、富士学生合唱団などが、盛んに演奏会を行った。そのなかには、あの「歓喜の歌」に歌詞をつけた、「創価歓喜の凱歌」を誇らかに披露した催しもあった。
 山本伸一は、可能な限り、出席し、鑑賞するとともに、メンバーを励ました。
 同志の晴れやかな歌声は、明一九九二年(平成四年)「創価ルネサンスの年」の開幕を告げる、希望のファンファーレとなった。
 九一年(同三年)は、まさに激動の一年であったが、学会の「魂の独立」の年となり、新生・創価学会の誕生の年となった。そして世界宗教への飛翔の年となったのである。
 今、人類の平和と幸福を創造しゆく大創価城は、厳としてそそり立ったのだ。世界広宣流布の時代を迎え、「悪鬼入其身」と化した宗門は、魔性の正体を現し、自ら学会から離れていった。不思議なる時の到来であった。すべては御仏意であった。
79  誓願(79)
 「創価ルネサンス」の鐘は、高らかに鳴り響いた。一九九二年(平成四年)の元日、山本伸一は、学会別館で各部の代表と勤行・唱題したあと、皆を激励し、一年の戦いを開始した。
 五日の新春幹部会では、「あの人にも温かく、この人にも温かい言葉を。これが指導の第一歩である」と訴え、新出発を呼びかけた。
 この年、宗門を離脱する僧が相次いだ。日顕をはじめ宗門の在り方は、日蓮大聖人の仏法に違背するものであると、「諫暁の書」を送った僧たちもいた。
 宗門は、この年の八月、今度は、伸一を信徒除名処分にした。なんとかして、創価の師弟を分断しようとしたのであろう。しかし、もはや学会員は歯牙にもかけなかった。
 学会から離れた宗門は、信徒数が大幅に激減し、没落していくのである。
 宗門は、学会を破門したあと、学会員への御本尊下付も停止していた。そうしたなか、宗門を離脱した、栃木・淨圓寺の成田宣道住職から、同寺所蔵の日寛上人書写の御本尊を御形木御本尊として学会員に授与していただきたいとの申し出があった。
 九三年(同五年)九月、学会は、この申し出を、日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布を進める唯一の仏意仏勅の団体として、「信心の血脈」を受け継ぐ和合僧団の資格において受け、今後、全世界の会員に授与していくことを、総務会・参議会・教学部最高会議・県長会議および責任役員会で決議した。
 一方、宗門は、九五年(同七年)、「耐震」を口実に大客殿の解体を発表、着手した。さらに、九八年(同十年)六月には、八百万信徒の真心の結晶ともいうべき正本堂の、破壊を強行したのだ。伸一が発願主となって建立寄進した、先師・日達法主の事績の建物を、日顕は、次々と破壊していったのである。
 伸一は、九二年(同四年)「創価ルネサンスの年」の一月末、アジア訪問へと旅立った。“東西冷戦が終結した今こそ、世界に平和の橋を!”と思うと、一瞬の猶予もなかった。
80  誓願(80)
 アジア訪問でタイを訪れた山本伸一は、チトラダ宮殿にプーミポン・アドゥンヤデート国王を四年ぶりに表敬訪問し、文化、平和、芸術について語り合った。国王は「文化の大王」と謳われ、芸術への造詣が深く、豊かな教養と学識で知られている。
 伸一は、一九八八年(昭和六十三年)に初めて会見した折、国王撮影による写真展の開催を提案した。それが実現し、八九年(平成元年)の東京富士美術館に始まり、アメリカ、イギリスと三カ国で行われ、好評を博した。
 今回の会見では、国王が作曲した作品の特別演奏会を提案。これは、翌九三年(同五年)十一月、創価大学の講堂で、国王・王妃の日本公式訪問三十周年を記念する特別演奏会として開催されている。
 さらに、三回目の九四年(同六年)の会見では、国王制作の絵画を中心とする特別展を提案し、これも、東京、名古屋、大阪の三都市で行われることになる。
 タイでも伸一は、同志の激励に終始した。
 励ましの心、励ましの行為こそが、仏法である。その人の持つ「法」は、振る舞いを通して、燦然と光り輝くのである。
 メンバーは、国王と伸一の友誼を誇りとして、社会貢献に努め、着実に信頼を勝ち取っていった。そして、タイ創価学会は、“微笑みの国”に“幸の花園”を広げながら、大きな発展を遂げていくことになる。
 伸一は、インドではラマスワミ・ベンカタラマン大統領、シャンカル・ダヤル・シャルマ副大統領、ガンジーの直弟子の一人であるガンジー記念館のビシャンバル・ナーツ・パンディ副議長らと相次ぎ会談した。
 また、ガンジー記念館の招請により、「不戦世界を目指して――ガンジー主義と現代」と題して講演している。
 インドのメンバーの文化祭にも出席した。友は大きく成長し、若き人材の森が育とうとしていた。釈尊生誕の地ネパールからも同志が集っており、皆と記念のカメラに納まった。伸一は、新しい夜明けの歌を聴く思いがした。
81  誓願(81)
 インドから香港を訪問した山本伸一は、デビッド・ウィルソン総督と会談するなどして、二月二十二日には帰国の途に就き、沖縄へ向かった。
 このアジア訪問は、学会が「魂の独立」を果たして、最初の平和旅であった。仏法発祥の地であるインドでも、タイでも、香港でも、メンバーは、社会に、着実に信頼と友情の根を張り、活発に平和と文化と教育の運動を展開していた。伸一は未来を展望し、世界広布の新しい布石に全力を注いだ。
 沖縄では、アジア各国・地域の代表が参加して、第一回SGIアジア総会が、二十五日から三日間にわたって、恩納村の沖縄研修道場で開催された。伸一は、連日、総会に出席し、メンバーを力の限り励ました。
 総会二日目の勤行会では、インドのニューデリー付近に、創価菩提樹園を開設することを発表した。さらに、民衆の幸せを願う日蓮大聖人の御精神に照らして、信仰は自分自身が生き生きと、楽しく生き抜いていくためにあることを確認し、こう訴えた。
 「信仰のことで、いたずらに“とらわれた心”になって、窮屈に自分を縛る必要は全くありません。また、気持ちを重くさせ、喜びが失せてしまうような指導をしてもならない。
 勤行・唱題も、やった分だけ、自分の得になる。かといって、やらなければ“罰”が出るなどということはありません。それでは、初めから信仰しない人の方がよいことにさえなってしまう。
 妙法への信心の『心』に、一遍の唱題に、無量の功徳があると大聖人は仰せです――そう確信し、自ら勇んで、伸び伸びと、喜びの心をもって仏道修行に励んでいく一念によって、いよいよ境涯は限りなく開け、福運を積んでいくことができるんです。信心は、決して義務ではない。自身の最高の権利です。この微妙な一念の転換に信心の要諦がある」
 彼は、皆が創価家族として、信心の歓喜、醍醐味を満喫しながら、聡明に、楽しく、広布の道を進んでもらいたかったのである。
82  誓願(82)
 第一回SGIアジア総会三日目の二十七日には、アジア十五カ国・地域二百五十人と、沖縄をはじめ、日本の同志が参加して、アジア総会並びに平和音楽祭が、本部幹部会、沖縄県総会の意義を込めて盛大に行われた。
 沖縄は、ちょうど、本土復帰二十周年を迎え、同志たちは、“この島々を常寂光土に、永遠の幸福島にしよう!”との決意に燃えていた。また、“アジアの玄関口である沖縄から、立正安国の哲学を発信していこう!”との、誓いを新たにしていたのである。
 アジア各地から集ったメンバーも、“互いに心を合わせ、友好と信頼の絆を結び、平和交流の礎を築いていかなければならない”との思いを強くしていた。
 音楽祭では、インドの男子部長がSGI「アジア宣言」を英語で発表した。
 「われらアジアのSGIメンバーは、次の三点を宣言するものである。
 ①自国の文化・伝統を重んじ、社会の繁栄のために『信心即生活』の実証を!
 ②グローバリズムに立脚した国際的な文化交流、教育交流を活発に!
 ③国連を中心とした新たな平和秩序確立の努力に協力していく」
 宣言は、全員の賛同の拍手で採択された。
 次いで沖縄音楽隊・鼓笛隊のファンファーレ「アジアの夜明け」に続いて、マレーシア、インドネシア、フィリピン、シンガポール……と、民族衣装に身を包み、喜びの舞や合唱を次々に披露していった。伸び伸びと広布に生きる躍動感と若い活力にあふれていた。
 フィナーレでは、沖縄復帰の年(七二年)に生まれた二十歳のメンバーを中心に構成した二百人の合唱団が登場し、「地涌の行進」「わったーうちなーちゅらさじま」(私たちの沖縄は美しい島)を熱唱。沖縄の即興の踊り「カチャーシー」を舞いだす人もいる。
 山本伸一は、県幹部から、出演者が二十歳の青年たちと聞くと、目を輝かせた。
 「すごいね。青年は皆が宝だ。青年が元気に信心に励んでいる限り、未来は盤石だ」
83  誓願(83)
 山本伸一は、さらに沖縄の幹部に言った。
 「若い力を大切にし、一人ひとりを抱きかかえるように、磨き、育てていくんだよ。放っておいては人は育ちません。
 先輩は、後輩と一緒に祈り、共に御書を研鑽し、共に家庭訪問や弘教に歩き、徹底して信・行・学を教えていくんです。粘り強く面倒をみていくことが大事だ。
 そして、この合唱祭のように、青年を表に立て、自主性、主体性を生かしながら、自由に、伸び伸びと力を発揮してもらうんです。
 その姿が、そのまま、未来の沖縄創価学会の縮図になる。
 後輩を、一人、また一人と、自分以上の人材に育て上げていった人こそが大指導者です。今、真剣に青年を育成し、それを伝統にしていくならば、二十一世紀の沖縄は盤石です」
 若者たちの熱と力にあふれた歌声に合わせて、場内の参加者も、次々と踊りだし、「カチャーシー」の輪が広がる。
 歴史や文化は違っても、“アジアの心”“平和の心”は一つに解け合っていった。
 伸一は、マイクに向かうと、語り始めた。
 「『花』がある。『海』が広がる。『光』があふれる。沖縄研修道場は、『春爛漫』である」――すると、大拍手が広がった。
 それは、邪宗門の鉄鎖を断ち切り、晴れやかに創価の大行進を開始した、歓喜にあふれた皆の心と、見事に響き合ったからだ。
 彼は、スピーチのなかで、フィリピンに研修道場を建設することや、香港に次いでシンガポールにも創価幼稚園の設立が決まったことなどを発表した。全てが希望に満ちていた。
 また、かつて沖縄は、「万国の津梁」と呼ばれ、国々を結ぶ懸け橋の役割を担ってきたことを紹介。沖縄での、このアジア総会は、二十一世紀へと向かう、哲学と文化と平和の「大交流時代」の幕開けとなることを述べた。
 語りながら伸一は、“アジアの民衆の幸福と平和を願われた戸田先生が、この総会をご覧になったら、どれほど喜ばれることか”と、心深く思った。
84  誓願(84)
 沖縄には、「命どぅ宝」(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、「いちゃりば兄弟」(行き会えば、兄弟)という、開かれた友情の気風がみなぎっている。
 「身命の儀、どの宝物よりも大切に存じ保養いたすべく候」(高良倉吉著『御教条の世界―古典で考える沖縄歴史―』ひるぎ社)とは、琉球の名指導者・蔡温の言葉である。
 ところが、あの太平洋戦争では、凄惨な地上戦が展開され、多くの県民が犠牲となった。
 山本伸一は、沖縄に思いを馳せるたびに、国土の宿命転換と立正安国の実現の必要性を痛感してきた。
 彼が第三代会長就任から二カ月半後の、一九六〇年(昭和三十五年)七月十六日に沖縄を初訪問したのも、この日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出された日であったからだ。沖縄の同志が、立正安国の先駆けとなる永遠の平和・繁栄の楽土建設へ、立ち上がってほしかったのである。
 初の沖縄訪問の折、伸一は、南部戦跡も見て回った。同志たちから、悲惨な戦争体験も聞いた。胸が張り裂ける思いであった。そして、“沖縄を幸福島に! 広宣流布の勝利島に! そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
 仏法の法理に照らせば、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利がある。
 六四年(同三十九年)十二月二日、彼が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない……」との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった。
 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」――同書のこのテーマこそ、恩師・戸田城聖が示した平和建設の原理である。
 七七年(同五十二年)、沖縄研修道場が誕生する。ここは、かつて米軍のメースB基地であり、発射台のミサイルは、アジアに向けられていた。それならば、そこを、世界への平和の発信地にしていこうと伸一は思った。
85  誓願(85)
 沖縄研修道場の開設にあたって、当初、ミサイルの発射台は、撤去する予定であった。それを聞くと、山本伸一は提案した。
 「人類が愚かな戦争に明け暮れていた歴史の証拠として残してはどうだろうか。そして、この研修道場を世界の平和の象徴にしていこう!」
 研修道場は整備され、発射台の上には、未来をめざす六体の青年像が設置され、恒久平和を決意し合う「世界平和の碑」となった。道場内には、ヒカンザクラやブーゲンビレア、ハイビスカスをはじめ、百種類を超える花や草木が咲き競う。かつてのメースB基地は、今や、多くの友が集い、広宣流布を、世界の平和を誓い合う地へと蘇ったのだ。
 日蓮大聖人は、「浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」と仰せである。もともと土に隔てがあるわけではなく、そこに住む人間の心、一念のいかんで、自分の住む場所を、最高の環境に変えていくことができるとの御断言である。言い換えれば、一切の主体者である人間自身の生命の変革があってこそ、平和で豊かな社会環境を築いていくことが可能になるのである。
 大聖人の御生涯は、「立正安国」の実践に貫かれている。「立正」(正を立てる)とは、広宣流布することによって、人びとの胸中に仏法という生命尊厳や慈悲の哲理を打ち立てることを意味する。そして、「安国」(国を安んずる)とは、立正の帰結として、社会の繁栄と恒久平和が実現されることをいう。
 ゆえに、立正すなわち広宣流布という仏法者の宗教的使命は、安国という社会的使命の行動へと必然的に連動していくのである。
 立正なくして、真実の安国はない。安国なくして立正の実践の完結もない。
 われらは、誇らかに胸を張り、現実の大地をしっかと踏みしめ、一人、また一人と、対話の渦を起こし、平和をめざして、漸進的に立正安国の前進を続ける。そこに、真実の“民衆勝利”の道がある。
86  誓願(86)
 山本伸一は、沖縄研修道場に集ったアジアの同志に、沖縄の同志に、そして、衛星中継で結ばれた日本の全同志に呼びかけた。
 「わが創価家族は、『誠実』と『平等』と『信頼』のスクラムで、どこまでも進む。国境もない。民族の違いもない。なんの隔てもない――人間主義で結ばれた、これほど麗しい“地球家族”は、ほかに絶対にないと確信するものであります! 私どもは、第一級の国際人として、新しいルネサンス、新しい宗教改革の大舞台に出航していきたい」
 ここで彼は、力を込めた。
 「新時代の広宣流布もまた険路でありましょう。『賢明』にして『強気』でなければ、勝利と栄光は勝ち取れません。
 仏法は勝負である。人生も勝負である。一切が勝負である。ゆえに勝たねばならない。勝たねば友を守れない。正義を守れない。
 断じて皆を守り切る。幸福にしていく――そうした『強気』に徹した『勝利のリーダー』になっていただきたい!」
 誓いの大拍手が轟いた。
 伸一は、この沖縄訪問のあと、十年ぶりに大分県を訪れ、県総会で、学会歌の指揮を執った。あの第一次宗門事件で正信会僧による非道な学会攻撃に耐えながら、敢然と創価の正義を叫び抜いた大分の同志たちは、今回の第二次宗門事件では微動だにしなかった。
 皆が、陰険な宗門僧の本質も、学会攻撃の卑劣な手口も、知り尽くしていたからだ。また、御書に照らして、“いよいよ第六天の魔王が競い起こったのだ! 負けてなるものか!”と、強く自覚していたのである。
 同志は、第一次宗門事件を乗り越えたことによって、“断じて、創価学会と共に広宣流布に進むぞ!”との決意も、信心への確信も、一段と増していた。
 御聖訓には、「かたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」と。難を呼び起こし、難と闘い、難を乗り越えることによって、大飛躍を遂げてきたのが、創価学会の誉れの歴史である。
87  誓願(87)
 山本伸一は、広布に走った。
 “権威主義、教条主義の宗門の鉄鎖から解き放たれた今こそ、世界広宣流布の壮大にして盤石な礎を築かねばならない。時が来たのだ! 新時代の希望の朝が訪れたのだ!”
 彼は、西暦二〇〇〇年、つまり二十世紀中に、その布石を終えるため、力の限り、世界を駆け巡ろうと心に決めていた。二十一世紀の開幕の年、伸一は七十三歳となる。そして、八十歳までには、世界広布の基盤を完成させたいと考えていたのである。
 一九九二年(平成四年)六月上旬から七月上旬にかけては、ドイツをはじめ、欧州三カ国とエジプト、トルコを訪問した。ドイツのフランクフルトでは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアなど、中欧、東欧、ロシアの十三カ国の代表メンバーが集い、歴史的な合同会議が行われた。
 伸一は、戸田城聖が東欧・ロシアの民衆のことを深く思い、特に五六年(昭和三十一年)の「ハンガリー動乱」の時には、「実にかわいそうでたまらない。かの民衆は、どれほど苦しんでいるか」と、強く心を痛めていたことなどを紹介し、集った同志を励ました。
 「こうした悲劇を転換しゆくために、戸田先生は、私ども青年に“確固たる生命哲学を打ち立てよ!”“人間主義の行動で世界を結べ!”と呼びかけられた。私は、そうした先生の構想を、一つ、また一つと、実現してきました。今や、先生が憂慮しておられたハンガリーをはじめ、東欧・ロシアの天地に、このように地涌の菩薩が誕生した!」
 どの国も、日蓮仏法を待望していたのだ。
 伸一は、十月には第八次訪中を果たした。この訪問では、中国社会科学院から同院初となる名誉研究教授の称号が贈られた。
 その折、彼は、「二十一世紀と東アジア文明」と題して講演。東アジアに共通する精神性を特徴づけている「共生のエートス(道徳的気風)」について論及し、世界は、人間と人間、また人間と自然が「共生」していく思潮を必要としていると、強く訴えた。

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