Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第31巻 「勝ち鬨」 勝ち鬨

小説「新・人間革命」

前後
2  勝ち鬨(2)
 山本伸一の祝電は、こう結ばれていた。
 「アメリカの青年も
 ドイツの青年も
 またイタリアの青年も
 そしてフランスの青年も
 イギリスの青年も
 東南アジアの青年も
 皆 真実の平和のために立ち上がった
 わが真の同志たる日本の青年部の
 すばらしい団結とすばらしい成長と
 すばらしい勝利の連続の歴史を
 祈り待ってメッセージとしたい」
 伸一は、広宣流布即世界平和のために、地球上の創価の青年たちが、スクラムを組み、先駆となって、生命尊厳の人間蘇生の哲理を広げていってほしかったのである。
 この呼びかけに応えるかのように、会場後方には、青年たちの誓いとして「新たなる広布の歴史は始まった 2001年へ勇んで勝利の前進を!!」との横幕が掲げられていた。
 一方、地球の反対側に位置するブラジルでは、大瀑布イグアスの滝から二十キロほどのところにあるフォス・ド・イグアス市で、十一日午後四時(現地時間)から、ブラジルをはじめ、パラグアイ、チリ、ウルグアイ、アルゼンチン、ボリビアのメンバー千人が集い、初の南米男子部総会が開かれた。
 アマゾン方面最大の港湾都市ベレンから、バスをチャーターしてブラジルを縦断し、八十時間をかけて参加した同志もいた。
 伸一は、ここにも祝福の言葉を贈った。
 「ともかく二十一世紀の舞台は君たちのものである。あらゆる苦労をしながら、題目を声高らかにあげながら、職場で第一人者になりながら、生涯を大切にしながら、生活を大切にしながら、教学を研鑽しながら、一歩、一歩、また一歩と、南米の歴史に残る諸君の成長と健闘を心から祈り待ちます」
 伸一の呼びかけに、南米の青年も意気盛んに立ち上がった。青年の時代の幕は開いた。
3  勝ち鬨(3)
 それは、突然の訃報であった。七月十八日午前零時五十三分、会長の十条潔が心筋梗塞のため、信濃町の自宅で他界したのである。享年五十八歳であった。
 前日、十条は、山本伸一と共に、東京・小平市の創価学園グラウンドで行われた北多摩圏の総会に出席し、引き続き創価中学・高校の恒例行事である栄光祭に臨んだ。
 夜、伸一は、十条や秋月英介ら首脳幹部を自宅に招き、共に勤行した。唱題を終えて伸一が、世界の青年たちが目覚ましい成長を遂げていることを伝えると、十条は、嬉しそうに、「二十一世紀が楽しみです」と言って目を細めた。語らいは弾んだ。
 午後十時ごろ、伸一の家を出た十条は、さらに、数人の首脳と懇談し、帰宅した。自宅で御本尊に唱題し、入浴後、就寝したが、体の変調を訴えた。そして、そのまま眠るがごとく、安らかに亡くなったのである。
 十条の会長就任は、荒れ狂う宗門事件の激浪のなかであった。伸一が名誉会長となり、会合に出席して指導することもできない状況下で、十条は必死に学会の舵を取らねばならなかった。また、この年の一月に恐喝の容疑で逮捕された山脇友政が、学会を意のままに支配しようとした卑劣な謀略への対応にも、神経をすり減らし、苦慮し続けた。体は人一倍頑健であったが、この二年余の心労は、いたく彼を苛んだようだ。
 伸一は、十条とは青年時代から一緒に戦ってきた同志であった。一九五四年(昭和二十九年)三月、伸一が青年部の室長に就任した時には室員となった。十条の方が、五歳ほど年長であったが、信心の先輩である伸一を慕い、共にあらゆる闘争の先頭に立ってきた。伸一にとっては、広布の苦楽を分かち合った、信頼する“戦友”であった。
 伸一が第三代会長に就任すると、十条は彼を師と定め、自ら弟子の模範になろうと努めてきた。師弟のなかにこそ、創価学会を永遠ならしめ、広宣流布を大発展させゆく要諦があると、十条は深く自覚していたのだ。
4  勝ち鬨(4)
 五十八歳での十条潔の他界は、早いといえば、早い死であったかもしれない。しかし、広宣流布に人生を捧げ抜き、自らの使命を果たし切って、この世の法戦の幕を閉じたといえよう。海軍兵学校出身で、「同期の桜」をよく歌ったという十条らしく、桜花の散るような最期であった。
 御聖訓には、「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて」と仰せである。正法を受持した私たちは、死して後も、束の間にして、この世に生じ、広布のために活躍していくことを述べられた御文である。
 十八日朝、十条家に弔問に訪れた伸一は、十条の妻である広子を励ました。
 「広宣流布の闘将として完結した、見事な生涯でした。日蓮大聖人が賞讃してくださり、また、恩師・戸田先生が腕を広げてお迎えくださることは間違いありません。
 どうか、悲しみを乗り越え、ご主人の遺志を受け継ぎ、ご主人の分まで、広宣流布に生き抜いてください。その姿こそが、最大の追善になります。また、子どもさんたちを、皆、立派な広布の人材に育て上げてください。あとに残った家族が、幸せになっていくことこそが、故人に報いる道です」
 この十八日午後、会長・十条潔の死去にともない、臨時の総務会が開かれた。席上、第五代会長に、副会長の秋月英介が推挙され、参加者の全員一致で就任が決定したのである。
 秋月は、五十一歳で、一九五一年(昭和二十六年)の入会である。草創期の男子部建設に尽力し、男子部長、青年部長を務め、また、聖教新聞の編集に携わり、編集総局長、主幹として活躍した。さらに、総務、副会長として学会の中枢を担ってきた。
 伸一は、冷静、沈着な秋月ならば、大発展した創価学会の組織の中心軸として大いに力を発揮し、新しい時代に即応した、堅実な前進が期待できると思った。また、自分は、皆を見守り、これまでにも増して、力の限り応援していこうと、強く心に誓った。
5  勝ち鬨(5)
 十条潔が亡くなった十八日の夜には、十条家としての通夜が、また、翌十九日には告別式が営まれた。さらに、二十三日夜には、創価学会本部葬の通夜が、翌二十四日には本部葬が、巣鴨の東京戸田記念講堂で厳粛に執り行われた。山本伸一は、すべてに参列し、追善回向の唱題を捧げた。
 また、二十四日夜には、新宿文化会館で東南アジア八カ国・地域のメンバーと勤行し、十条の遺徳を偲ぶとともに、東洋広布の未来展望について語り合った。
 伸一の行動に休息はなかった。
 彼は、二十五日、世界の平和実現への道を探るために、アメリカの元国務長官キッシンジャー博士と三度目の会談を行った。
 さらに同日、東京戸田記念講堂で開催された新出発の本部幹部会に出席した。彼は、新会長の秋月英介を中心とした学会の新たな船出を心から祝福し、「明るく、朗らかに、仲良く、広宣流布への一歩前進を遂げていただきたい」と期待を述べた。
 その翌日から八月上旬まで、長野を訪問し、会員の激励に徹し抜いた。
 そして、八月十七日、明石康国連事務次長と東京・渋谷の国際友好会館(後の東京国際友好会館)で会談し、10・24「国連デー」や、世界平和の推進と文化の向上を図るうえでの、日本の役割などについて語り合った。
 世界の平和を実現していくには、国連が力をもち、国連を中心に各国が平等の立場で話し合いを重ね、進んでいかなければならないというのが、伸一の一貫した主張であった。
 彼は、明石事務次長に言明した。
 「私どもは、国連支援のために全力を尽くします。世界の平和を築き、飢えや貧困、疾病から人間を守ることこそ、生命の尊厳を説く宗教者の使命であると考えるからです」
 人びとの現実の不幸を、いかに打開し、幸福を実現していくか――そこから、日蓮大聖人の立正安国の戦いは始まっている。仏法者の宗教的使命は、この立正安国という社会的使命の成就をもって完結するのである。
6  勝ち鬨(6)
 山本伸一は、明石康国連事務次長とは十八回の会談を重ねることになる。その間に、学会は、国連と協力して、「現代世界の核の脅威」展、「戦争と平和展」「現代世界の人権」展などを、世界各地で開催していった。
 さらに、一九九二年(平成四年)には、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長特別代表となっていた明石から、中古ラジオの支援要請があり、学会青年部は「ボイス・エイド」(カンボジア・ラジオ支援キャンペーン)を展開し、二十八万台余りのラジオを寄贈した。それは、カンボジア内戦後初の総選挙に、大きな貢献を果たした。
 八一年(昭和五十六年)八月下旬、伸一は、第二回SGI総会などに出席するため、ハワイ・ホノルルへ飛んだ。そして、世界各国・地域の代表七千五百人が集ったこの総会で記念講演を行い、最後にこう訴えた。
 ――SGIは、日蓮大聖人の仏法を根本としながら、平和と文化と教育の大路線を邁進していきたい。そして、国連を一段と支持し、ともどもに支援してまいりたい。
 また、滞在中、ハワイ大学の構内にあるアメリカ国立東西センターを訪問し、仏法の平和と融合の哲学を基調に対話を重ねた。
 「広宣流布」即「人類の幸福と平和の実現」こそが、われら仏法者の誓願である。
 宗門では、十月十日から十六日まで、日蓮大聖人第七百遠忌大法会が営まれた。伸一は法主・日達から、この慶讃委員長の任命を受け、日顕が法主となってからも、その責任を担うことになっていた。彼は、広宣流布のために僧俗和合を願い、誠心誠意、その責務を果たしていった。すべての行事は、厳粛かつ盛大に執り行われ、大法会は幕を閉じた。
 一方、前年九月に、「宗内の秩序を乱した」として、約二百人が処分された正信会は、さらに宗門批判を強めていった。そして、この八一年一月、彼らは日顕と宗門を相手取って裁判所に提訴するなど、対決は激化し、ますます熾烈な争いとなっていった。
7  勝ち鬨(7)
 正信会の僧たちは、相次いで宗門から擯斥されていった。
 彼らは、広宣流布を口にしながら、ひたすら広布を進めてきた学会を「謗法」と断じ、尊い仏子である学会員を苛め抜き、僧俗和合を破壊してきた。そして結局は、滔々たる広宣流布の大河の流れから離れ、嫉妬と瞋恚の修羅の濁流に沈み去っていくのである。
 宗門側は、最終的に百八十人を上回る正信会の僧を、擯斥処分していくことになる。また、裁判所に、正信会住職に対する「建物明渡請求」を行うなど、法廷でも長期にわたる争いが続いていった。
 この間、学会は、一貫して宗門を外護し、興隆のために最大に力を注いでいった。
 擯斥処分され、追い詰められた正信会は、宗門攻撃を重ねるとともに、学会への誹謗中傷を執拗に続けた。
 しかし、学会員には、“日蓮大聖人の御遺命のままに、死身弘法の誠を尽くして、現実に広宣流布を推進してきたのは創価学会の師弟しかない。御聖訓に照らして正邪は明白である”との、強い不動の確信が育っていた。
 そして、山本伸一が自ら矢面に立つことも辞さず、会員を守るために反転攻勢を開始し、国内を、世界を駆け回る姿に、共に立とうとの決意を新たにしていったのである。
 いかに深き闇に覆われ、嵐が吹き荒れようとも、師子が敢然と立ち上がる時、暁鐘は鳴り渡り、金色の夜明けが訪れる。鉄鎖を断ち切り、師弟が心を一つにして、一歩を踏み出す時、既に勝利の幕は開かれているのだ。
 伸一は、さらに、宗門事件で苦しめられてきた地域を回り、わが創価の同志の奮闘を讃え、ねぎらい、ともどもに凱歌の旅立ちをしようと、深く心に誓っていた。
 伸一が真っ先に駆けつけたかったのは、四国であった。彼が会合にも自由に出席できない状況に追い込まれていた時、「それならば、私たちの方から馳せ参じよう!」と、大型客船「さんふらわあ7」号でやって来た、健気なる同志の心意気に応えたかったのである。
8  勝ち鬨(8)
 九月六日付の「聖教新聞」には、十一月に徳島講堂の落成を記念して祝賀行事が行われ、山本伸一も出席する予定であることが報じられた。伸一の行事出席の予告は異例のことであり、それは、いよいよ全国の同志とスクラムを組み、新たな前進を開始しようとする、彼の強い決意の表明でもあった。
 また、十月三十一日、創価大学の第十一回「創大祭」のオープニングセレモニーに出席した彼は、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題して講演した。
 そのなかで、悲運の晩年を強いられた菅原道真、万葉の歌人・柿本人麻呂、明治維新の夜明けを開いた頼山陽、吉田松陰らは、いずれも迫害と苦難の人生を生き、後世に光る偉大な足跡を残したことを述べた。さらに、中国では戦国時代の詩人にして政治家の屈原、大歴史書『史記』を著した司馬遷、また、インドの偉大なる魂・ガンジー、西洋にあっては文豪ユゴー、哲学者ルソー、現代絵画の父セザンヌなど、嵐のなかを営々と信念の歩みを貫いた崇高な人間の生き方を語った。
 そして、偉業には、迫害、苦難が、なかば宿命づけられていると洞察していった。
 ――それは、歴史的偉業をなす人物は、民衆の大地にしっかりと根を張っている。それゆえに、民衆の犠牲の上に君臨する権力者たちは危機感を募らせ、野望と保身から発する妬みと羨望の炎に身を焦がし、民衆のリーダーを躍起になって排斥しようとするからである。それが迫害の構図であると訴えたのだ。
 彼は、力を込めて、自身の信念を語った。
 「私も一仏法者として、一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながら、この“迫害の構図”に照らして見れば、迫害こそ、むしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます」
 伸一は、未来に向けての勝利宣言を、愛する創大生と共に、とどめたのである。
9  勝ち鬨(9)
 山本伸一は、十一月八日、東京・新宿区の家族友好運動会に出席したあと、関西に向かった。夜には関西文化会館での区・圏長会で激励し、さらに代表幹部と懇談を重ねた。
 関西は、永遠不滅の“常勝の源流”であってもらいたい。いや、断じてそうであらねばならない――そう思うと、彼の心は燃えた。
 四国の徳島講堂では、七日から、理事長の森川一正を中心に、講堂落成の記念行事が開催されていた。徳島の同志は、伸一を迎える準備を整え、訪問を待っていた。
 しかし、伸一には、要人との会見や諸行事出席の要請が数多く寄せられ、なかなか日程が決まらなかった。徳島には学会本部から、「山本先生は、徳島行きを決意し、スケジュール調整をされていますが、最終的にどうなるかは未定です」との連絡が入っていた。
 徳島県でも、同志は、卑劣な悪侶らの仕打ちに、何度となく悔し涙を流してきた。学会の正義を叫んでの攻防戦が続いた。
 皆を支えてきたのは、広宣流布への“師弟の誓い”であった。
 それだけに、堂々と戦い抜いた姿をもって記念行事を迎え、なんとしても、伸一と共に新しい出発をしたかったのである。
 しかし、八日も伸一の出席はなかった。
 九日の午後となった。徳島講堂落成記念勤行会の開会となった。
 伸一の姿はない。森川理事長の導師で勤行が始まった。参加者は、“先生の徳島訪問は「聖教新聞」にも発表されている。いつ、先生は到着されるのだろう”と思いながら、読経・唱題した。勤行会の式次第は進み、森川理事長の指導となり、それも終わった。
 ほどなく、会場後方の扉が開いた。
 伸一の姿があった。
 「とうとう来ましたよ! 約束を果たしにまいりました!」
 大歓声が沸き起こった。彼は参加者に声をかけながら、皆の中を会場前方へ進んだ。
 師と弟子の心は一つになって燃え上がり、歴史を画する「四国闘争」が始まった。
10  勝ち鬨(10)
 山本伸一は、九日午後の飛行機で大阪を発ち、徳島空港に到着すると、そのまま徳島講堂へ向かい、落成記念勤行会に臨んだのだ。
 彼は、勤行の導師を務め、懇談的に指導し、「冬は必ず春となることを確信して、勇気ある信心を!」と、強く呼びかけた。
 皆、決意を新たにした。どの顔にも太陽の微笑みが輝いた。
 さらに伸一は、車で二十分ほどのところにある徳島文化会館(後の徳島平和会館)を初訪問し、夜には再び、徳島講堂での記念勤行会に出席した。
 ここでも全力で激励するとともに、皆の労をねぎらい、徳島の新しい時代の幕を開いてほしいとの思いを託してピアノに向かい、「熱原の三烈士」など、七曲を演奏した。
 また、勤行会では、女子部の「渦潮合唱団」、婦人部の「若草合唱団」が晴れの記念行事に彩りを添えた。なかでも「若草合唱団」は、ベートーベンの交響曲第九番から、合唱「よろこびの歌」を、一、二番は日本語で、三番はドイツ語で披露したのである。
 アジアで最初に、「第九」の全楽章が演奏されたのが、現在の徳島県鳴門市であった。
 第一次世界大戦で日本軍は、ドイツ軍が守る中国の青島を攻略した。ドイツ兵は捕虜として日本に移送され、徳島県に造られた板東俘虜収容所にも千人ほどが収容された。
 収容所の所長であった松江豊寿は、彼らを、祖国のために堂々と戦った勇士として手厚く遇し、自由な環境を整え、人間愛に満ちた対応に努めた。また、住民たちにも客人を大切にする気風があり、ドイツ兵と親しみ、受け入れていった。
 ドイツ兵もこれに応えようと、パンやケーキの作り方、トマトなどの野菜栽培、畜産技術、サッカーなどのスポーツを教えた。
 いつの時代にあっても、“開かれた心”をもつことこそ、国際人として最も大切な要件といえよう。真の国際化とは、人間は皆、等しく尊厳なる存在であるとの信念をもち、友情を広げていく心を培うことから始まる。(林啓介著『「第九」の里ドイツ村 「板東俘虜収容所」改訂版』井上書房)
11  勝ち鬨(11)
 一九一八年(大正七年)六月、板東俘虜収容所で、ドイツ兵の捕虜によって、「第九」の演奏会が行われた。ベートーベンは、「第九」の第四楽章に声楽を導入し、ドイツの詩人シラーの詩「歓喜に寄す」を使った。
 すべての人が兄弟になる――この「第九」のテーマさながらに、徳島の地から、人間讃歌の共鳴音が、友情の調べが響いたのだ。
 そして、今、その歌を、創価の婦人たちが、声高らかに歌い上げたのである。
 晴れたる青空 ただよう雲よ
 小鳥は歌えり 林に森に……(「よろこびの歌」(訳詞=岩佐東一郎)から。JASRAC 出1714648-701)
 山本伸一は大きな拍手で讃えながら、悪侶の圧迫をはね返した徳島の同志の、勝ち鬨を聞く思いがした。皆の胸に広宣流布の使命に生き抜く歓喜の火が燃え盛っていること自体が、大勝利の証明にほかならない。
 翌十日、伸一は徳島講堂で落成記念の植樹をし、役員などと記念のカメラに納まり、さらに、自由勤行会にも出席した。
 「日蓮大聖人は、『妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり』と仰せです。ゆえに、その妙法を持った私どもには、行き詰まりはありません。いかなる窮地に立ち至ったとしても、そこから状況を開き、事態を打開し、みずみずしい、満々たる生命力をみなぎらせて、前進を開始していくことができる。したがって私たちには、あきらめも、絶望もない。
 本来、自身が最高の仏なんです。そう確信していくことが信心の肝要です。自分を信じ、自信をもって広宣流布に生き、わが地域に、妙法の幸の灯を広げていってください」
 この日、彼は香川に向かうことになっており、出発間際まで代表メンバーを励ました。真剣勝負とは、一瞬一瞬に全力を注ぐことだ。
 「『徳島』というのは最高の県名です。功徳の島であり、高い徳のある人が集う島という意義にも通ずる。この徳島から、四国広布の新しい風を起こしてください!」
12  勝ち鬨(12)
 徳島講堂を午後二時半に出発し、香川県・庵治町にある四国研修道場へ車で向かった山本伸一は、一時間ほどしたころ、ドライバーに休憩してもらおうと、喫茶店に立ち寄った。
 その時、徳島から同行していた四国青年部長の大和田興光が、「四国青年部の代表と、ぜひ懇談の機会をもっていただきたいのですが」と切り出した。伸一は、即座に答えた。
 「わかった。やりましょう」
 体当たりでぶつかってくる青年の一途さを、誠実に受けとめたかったのである。
 懇談は、十二日の夕刻と決まった。
 伸一は、四国の青年たちの敢闘精神に強い期待を寄せていた。この年の八月、大和田は長野研修道場にいた伸一を訪ね、四国から広布の新風を起こしたいとの思いをぶつけた。
 「率直に申し上げます。先生が機関紙誌にほとんど登場できない状況が続く今こそ、師弟の精神が大事になっていると思います。先生の著作や平和への行動を紹介する展示館を四国につくりたいと、皆で考えております」
 口ごもりながらも、情熱のこもった訴えであった。伸一は、その心を大切にしたかった。
 「君たちの気持ちはよくわかりました。どうすれば同志の希望になるのかを考え、四国長たちと、よく相談してみてください」
 四国の青年たちは、世界の平和のために、伸一が行動してきた記録を調べ始めた。
 中国を世界から孤立させてはならないと、一九六八年(昭和四十三年)に行った「日中国交正常化提言」をはじめ、東西冷戦下に訪中、訪ソを重ね、友好の橋を架けるとともに、中ソ紛争の危機を回避するために尽力してきたこと。平和の道を探ろうと、キッシンジャー米国務長官や国連事務総長らと対談を続けてきたことなど、イデオロギーを超えて行動してきた事実が、鮮明に浮かび上がってきた。
 “わが師匠の平和への足跡を、胸を張って伝えていこう!”――彼らは、それを平和行動展とし、四国研修道場で開催した。十月三日に開幕したこの催しの入場者数は、十一月三日の閉幕までに六万一千人を超えた。
13  勝ち鬨(13)
 四国の青年たちが企画・推進した平和行動展は、広宣流布の新しき道を照らし示す、一つの光明となった。
 ただ指示されて動いていたのでは、未来の開拓はない。「前進を阻んでいるものは何か」「時代、社会の課題は何か」を読み取り、積極的に、絶えざる挑戦を重ねていくなかにこそ、新たなる創造の道はある。「革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事」(正岡子規著『病牀六尺』岩波書店)とは、“詩国”ともいうべき四国が誇る正岡子規の言葉である。
 山本伸一が、徳島から四国研修道場に到着したのは、十日の午後五時過ぎであった。
 そして夜には、研修道場で開催された11・10「香川の日」記念幹部会に出席した。大拍手のなかを進み、伸一は席に着いた。
 同志は、皆、元気であった。創価の師弟を分断しようとする、卑劣な悪僧の言動に苦しみながらも、今、見事にそれを勝ち越えて、喜々として集って来たのである。まさに凱歌轟く新しき出発の時が来たのだ。
 あいさつで伸一は、声高らかに宣言した。
 「もう一度、指揮を執らせていただきます! これ以上、ご心配、ご苦労をおかけしたくない。私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
 それは、鉄鎖を断ち切った師子の叫びであった。万雷の拍手が鳴りやまなかった。
 彼の胸には、“創価の師弟の絆が強ければ、いかなる邪悪も、必ず打ち破っていける。もう、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会の前進を、横暴な衣の権威で阻ませてはならない。今こそ、反転攻勢の時だ!”との、断固たる誓いの火が燃えていた。
 何があろうが、創価の師弟の精神だけは、途絶えさせてはならない。広宣流布の道が閉ざされてしまうからだ。
 当然、会内の運営については、会長の秋月英介を中心に、皆で合議して進めていくことになる。彼は、根幹となる創価の師弟の道を、自らの行動をもって、これからの青年たちのためにも、示し伝えていきたかったのである。
14  勝ち鬨(14)
 四国研修道場で「香川の日」記念幹部会に出席した山本伸一は、引き続き、四国の首脳幹部らと打ち合わせを行った。
 翌十一日も、フル回転の一日であった。研修道場に集って来たメンバーを激励し、高松市の勅使町に建設が進められている新四国文化会館を視察。さらに隣接する高松講堂で、駆けつけた近隣の友と一緒に勤行し、ピアノを弾いて励ました。研修道場に戻ると、職員や四国の首脳幹部との懇談会が待っていた。
 「私は、四国で、創価の師子として再び広宣流布の指揮を執る宣言をしました。ここから、新しい時代建設の幕を開きます。それは四国が、広宣流布の“魁の天地”であるからです。この黄金の歴史を、どうか忘れないでいただきたい。
 その意義は、歳月とともに、ますます深く大きなものとなっていくでしょう」
 伸一の言葉には、烈々たる気迫と確信が満ちあふれていた。
 この十一日夜、四国各県の青年部長、男子部長が研修道場に集まり、翌日の伸一との懇談会を前に、打ち合わせがもたれた。その席で一つの提案があった。
 「明日の懇談では、山本先生に、四国青年部の意気込みをお見せし、“これならば四国の未来は大丈夫だ”と、ご安心いただきたいと思います。そのために、私たちの決意と心意気を託した愛唱歌を作り、先生にお聴きいただきたいと思うが、どうだろうか」
 皆、大賛成であった。
 「この歌は、みんなで力を合わせて作ることが大事なので、それぞれ、これは、ぜひ歌詞に入れたいという言葉を言ってください」
 皆が、「青春の汗」や「この道」など、思いつくままにあげる言葉が、ホワイトボードに書き出されていった。
 それをもとに、作詞に取りかかり、明け方近く、四行詞で三番までの四国男子部歌の歌詞ができあがった。皆、真剣であった。
 青年の魅力とは一途さであり、それが不可能の壁を打ち破り、新しき道を開くのだ。
15  勝ち鬨(15)
 十二日、いよいよ山本伸一と四国青年部代表との懇談会当日である。
 朝、作曲を担当する四国音楽隊の杉沼知弘が研修道場に来た。彼は、これまでに四国の歌「我等の天地」、高等部歌「正義の走者」などの作曲を手がけてきた青年である。
 杉沼は、歌詞を目にすると、新しいイメージを出すために、四行詞を六行詞にできないかと提案した。歌詞をまとめたメンバーも、これだけの言葉では、自分たちの思いを表現し尽くすことはできないと感じていた。
 書き換え作業に入った。思いのほか難航した。それでも、午後には歌詞が出来上がり、夕方までには曲も完成した。
 伸一は、この十二日の午後、研修道場で行われた、11・11「愛媛の日」を記念する幹部会に出席し、法華経に説かれた「随喜」について語った。
 「『随喜』とは喜びです。私たちの立場でいえば、南無妙法蓮華経という最高の法を聴いて湧き起こる喜びであり、大歓喜です。
 大聖人は、随喜は即信心であり、信心は即随喜であると仰せになっている。
 この法によって、あらゆる苦悩を克服し、一生成仏を成し遂げ、自身の最高の幸福境涯を確立していくことができる。さらに、一切衆生を未来永劫にわたって、救済していくことができる――それを確信するならば、妙法に巡り合えたことに、汲めども尽きぬ感謝の思いが、大歓喜が湧き起こるのを禁じ得ないはずです。また、その歓喜と躍動の生命は、既に大幸福境涯といってよい。
 そして、随喜すれば、人びとに妙法を語らずにはいられなくなり、おのずから折伏・弘教の実践が始まる。それが、ますます大功徳を積んでいくことになる。この随喜の広がりが広宣流布です。また、弘教は、信心の随喜がもたらす、自然の振る舞いなんです。
 随喜は、真剣な唱題と、自ら勇んで広宣流布を担おうとする主体的、能動的な実践のなかで、湧き起こるものであることを、深く心に刻んでいただきたい」
16  勝ち鬨(16)
 山本伸一は、創価学会は民衆の歓喜のスクラムであり、学会活動の原動力は一人ひとりの歓喜であることを確認しておきたかった。
 最後に彼は、「『信心とは随喜である』を合言葉に、共に喜びの大行進を開始していきましょう!」と呼びかけ、あいさつとした。
 午後六時前、四国青年部代表八十人ほどのほか、十人ほどの愛媛県幹部も参加し、研修道場で懇談会が始まった。青年部としての活動の取り組みなどが話題にのぼり、話が一段落した時、大和田興光が立ち上がった。
 「先生! 四国男子部の愛唱歌を作りました。お聴きください」
 大和田をはじめ、主だった青年たちの目は腫れぼったく、充血していた。“皆で夜を徹して作ったのであろう”と、伸一は思った。
 「わかりました! 曲名は?」
 「『黎明の歌』です」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「『ああ黎明の時が来た』とか、誰でも考えそうな歌詞では、新鮮味がないよ。それでは夜明けは遠いからね」
 すぐに歌詞が書かれた紙が差し出され、カセットデッキから歌声が流れた。
 ああ黎明の 時来る
 魁 今と 走りゆけ……
 「やっぱり、『ああ黎明』か……」
 笑いが広がった。
 伸一は、歌詞に目を通した。
 「いい歌だね。でも、いい言葉だけ寄せ集めてきた感じがするな」
 冗談交じりに語ると、青年たちは苦笑した。制作の過程を見られてしまったような思いがしたのだ。
 四国男子部長の高畑慎治が、声をあげた。
 「筆を加えて、ぜひ魂を入れてください」
 真剣な眼差しであった。新しい時代を切り開きたいという志からほとばしる、青年の気迫を感じた。四国は「志国」でもあった。
17  勝ち鬨(17)
 山本伸一は、青年たちを見ながら言った。
 「君たちの希望なら、私も手伝います。手を入れてもいいかい?」
 「はい!」という皆の声が返ってきた。
 「では、一緒に、永遠に歌い続けられる最高の歌を作ろう」
 そのまま歌詞の検討に入っていった。
 「まず、冒頭の『ああ黎明の 時来る』だが、“黎明”という言葉は、学会歌でも、一般の寮歌などでも、頻繁に使われてきた。歌は出だしが大事だよ。最初の一行が勝負なんだ。太陽や月の光が、ぱっと広がっていくような、鮮やかな色のイメージが必要だ。
 この歌は、紅のイメージかな。冒頭は、『ああ紅の……』としてはどうだろうか。曲名は『紅の歌』だ。
 曲調も、明るく力強く、歌い進むにつれて、今までにない斬新さが出るようなものにしたい。たとえば、こんな感じにしてはどうかね」
 伸一はハミングした。作曲を担当する杉沼知弘が、その場で譜面に起こした。これで曲のイメージも決まった。
 「曲は、今までのものを踏まえながらも、時代の先端を行く、新しいものを生み出してほしいな。曲だけ聴いても、“ああ、いいなー”と皆が思えるものにしたいね。
 率直に言わせてもらえば、忙しく動き回り、落ち着きがないという印象の曲ではなく、悠々、堂々とした曲にしたい。また、無理に皆に歌わせるのではなく、皆が歌いたくなるような歌にしようよ」
 懇談会は、歌作りの場となっていった。
 「この『障魔の嵐』という言葉も、工夫しよう。『驕る障魔よ』としてはどうかな。
 歌詞は、これまでに使われてきた類型化された表現にすがるのではなく、常に創意工夫を重ね、新鮮であることが大事だよ。
 私たちがめざす世界広布も、また立正安国も、これまでの概念ではとらえきれない面がある。過去に類例のない、全く新しいものだからだ。したがって、それを示すには、必然的に新しい表現が求められる」
18  勝ち鬨(18)
 山本伸一は、青年たちと対話しながら、歌詞に筆を入れていった。彼は、歌作りを通して、青年に学会の心を教え、創価後継の自覚を育もうとしていた。
 「三番の『父母築きし 広宣の』は、『老いたる母の 築きたる』としよう。こうした方が具体的なイメージが湧くだろう。この『母』というなかに、父も、学会の草創期を築いてくださった、すべての方々も含めたいと思う。
 ここは重要なところだよ。今、学会には、こうした立派な研修道場もあれば、各地にすばらしい会館もある。学会は実質的に日本一の宗教団体となった。しかし、ここに至るまでには、皆さんのお父さんやお母さんをはじめ、多くの先輩同志の苦闘があり、涙ぐましいドラマがある。
 『貧乏人』や『病人』と蔑まれ、誤解から生じる偏見や中傷と戦いながらも、一歩も引かず、懸命に、意気盛んに、弘教に励んでくださった。
 どんなに辛い思いをしても、同志には、大いなる希望があった。それは、後継の子どもたちが、つまり君たちが、立派に、凜々しく成長し、広布と社会のリーダーに育ってくれるという確信であった。だから、何があろうが、“今に見よ! 負けるものか!”と頑張ることができた。
 そのお父さん、お母さんたちの期待を、絶対に裏切ってはならない。もし、それを踏みにじるならば、恩知らずです。どうか、皆さんは、草創の同志から、『見事な後継者が陸続と育った。これこそが最高の誇りだ!』と言われる、一人ひとりになってください」
 伸一は、一番から三番までの歌詞に、一通り直しを入れた。その数は、三十カ所ほどになっていた。
 「まだまだ考えます。青年部のために、永遠に歌い継がれる、最高の歌を残してあげたいんだよ。広宣流布の反転攻勢を宣言した証明となる歌を完成させるよ」
 彼は、この日、夜遅くまで推敲を重ねた。一語一語に魂を注ぐ思いで考え続けた。
19  勝ち鬨(19)
 十三日午後、山本伸一は、四国研修道場の講堂で行われた、高知支部結成二十五周年記念勤行会に出席した。
 三年前の高知訪問で伸一は、県内の全同志と会って励ます思いで、足摺岬に近い、高知研修道場にも滞在し、会う人ごとに、指導、激励を重ねた。その同志が、幾多の試練を乗り越えて、勇躍、集って来たのだ。
 記念勤行会で伸一は、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」等の御文を拝して、広宣流布の道に、大難が競い起こるのは当然であることを確認し、信心の姿勢について訴えたのである。
 「苦難の時にこそ、その人の信心の真髄がわかるものです。臆病の心をさらけ出し、逃げ去り、同志を裏切る人もいる。また、“今こそ、まことの時である”と心を定め、敢然と奮い立つ人もいる。
 その違いは、日ごろから、どれだけ信心を磨き、鍛えてきたかによって決まる。一朝一夕で強盛な信心が確立できるわけではありません。いわば、日々、学会活動に励み、持続していくのは、苦難の時に、勇敢に不動の信心を貫いていくためであるともいえる。
 私たちは凡夫であり、民衆の一人にすぎない。ゆえに、軽視され、迫害にさらされる。しかし、私たちが弘めているのは、妙法という尊極無上の大法であるがゆえに、必ずや広宣流布していくことができます。
 また、『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』です。したがって、最高の大法を流布する“弘教の人”は、最極の人生を歩むことができる。
 広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」
 弾けるように大きな拍手が轟く。
 徳島も、香川も、愛媛も、高知も立った。四国は反転攻勢の魁となったのである。
20  勝ち鬨(20)
 山本伸一は、高知の勤行会が行われた、この十三日も、勤行会参加者をはじめ、各部の友や役員などを激励し、多くのメンバーと記念のカメラに納まった。そして、その間にも、「紅の歌」の推敲を続けた。
 歌詞を直すたびに、青年たちに伝えた。
 作曲を担当する杉沼知弘は、懇談会での伸一のハミングをもとに、曲づくりを始め、一応、かたちにした。
 十三日夕刻、伸一が道場内を視察し、講堂をのぞくと、有志が、直しを反映させた歌を合唱し、カセットテープに録音している最中であった。伸一は、しばらく合唱を聴くと、曲についての感想を作曲者の杉沼に伝えた。
 「曲が少し難しすぎるように思う。もっと歌いやすい、さわやかなものにしよう」
 夜、曲が入ったカセットテープが、伸一のもとに届いた。それを聴くと、彼は言った。
 「いい曲が出来た。これで曲は決まりだ。今のままでは、歌詞が曲に負けてしまっている。歌詞も、もっと、いいものにしよう」
 伸一は、さらに歌詞を練りに練った。
 十四日、伸一は、四国研修道場で、また、訪問した四国文化会館や四国婦人会館でも、歌のテープを聴き、推敲を重ねた。
 夜、四国の壮年・男子部の代表と風呂に入った時にも、歌詞の検討が続いた。
 男子部からは、この歌を四国男子部の歌ではなく、広く全男子部の愛唱歌として、全国で歌いたいとの要請が出されていた。
 「それならば、さらにすばらしい、最高のものにしたいね」
 彼は、入浴後も、“ほかに直すところはないか”“もっと、よくすることはできないか”と、一節一節を、一語一語を、丹念に見直していった。
 創造とは、安易に妥協しようとする自身の心との戦いであるともいえよう。その心に打ち勝ち、極限まで、挑戦、努力、工夫を重ねていってこそ、新しき道は開かれる。
 伸一は、その創造の闘魂を、後継の青年たちに伝えたかったのである。
21  勝ち鬨(21)
 「ああ紅の 朝明けて……」
 山本伸一は、「紅の歌」のテープを聴き、歌詞の意味を噛み締めながら、心で青年たちに呼びかけた。
 ――雲を破り、真っ赤な太陽が昇る。刻一刻、空は紅に染まり、新生の朝が訪れる。
 「紅」とは、わが胸中に燃える元初の太陽だ! 時代を開かんとする熱き闘魂だ! 若々しき生命力の輝きだ!
 おお、旭光のごとく、世界広布へと先駆ける、凜々しき創価の丈夫たちよ! 
 「生命の世紀」を告げる暁鐘は、今、音高く打ち鳴らされ、栄光の朝が到来したのだ。
 栄光とは、不撓不屈の挑戦がもたらす、幸と勝利の光彩である。青年よ、恐れるな! 「驕れる波浪」を、そして、一切の障魔を打ち砕いて、前へ、前へと進みゆくのだ。
 広宣流布は、正義と邪悪との戦いである。正義だからといって、必ずしも勝つとは限らない。悪が栄える場合もある。ゆえに仏法は勝負なのだ。地涌の使命に生き、仏法の正義の旗を掲げ持つわれらは、断じて負けてはならない。勝たねばならぬ責任がある。
 地涌の菩薩とは、われら創価の民衆群像である。苦悩する人びとを救おうと、あえて五濁悪世の末法に出現したのだ。辛酸と忍耐のなかで、たくましく自らを磨き上げ、人生の勝利劇を演じ、仏法の偉大なる功力を証明せんと、勇んでこの世に躍り出たのだ。
 宿命の嵐が、吹き荒れる時もある。苦悩なき人生はない。しかし、広宣流布の使命を果たすために、勇気を燃え上がらせて戦う時、希望の虹は懸かり、苦悩は歓喜へと変わる。
 人間は、臆病になり、挑戦をやめ、希望を捨て、あきらめの心をいだくことによって、自らを不幸にしていくのだ。
 われらは妙法という根源の法に則り、満々たる生命力をたたえ、一つ一つの課題を克服しながら広布に走る。ありのままの自分を輝かせ、自他共の幸福を築くために。あふれる歓喜を胸に、誇らかに「民衆の旗」を掲げ、民衆の勝ち鬨を高らかに轟かせゆくために。
22  勝ち鬨(22)
 山本伸一は、さらに、「紅の歌」の歌詞に思いをめぐらしていった。
 「毀誉褒貶の 人降し……」
 「毀誉」とは、「毀る」ことと「誉める」ことであり、「褒貶」とは、「褒める」ことと「貶す」ことである。
 ――無節操に、信念もなく、状況次第で手のひらを返すような生き方を見おろして、崇高なる「信念の道」を進むのが創価の師弟である。それが真の「人間の道」である。
 初代会長・牧口常三郎先生を、偉大なる教育思想家として慕っていた人びとが、軍部政府の弾圧で先生が逮捕・投獄されるや、態度を翻し、平気で「牧口にだまされた」と罵詈雑言を浴びせたのだ。また、戦後、戸田先生の事業が行き詰まった時も、さんざん先生の世話になった人たちが、その恩義も忘れ、悪口中傷を重ねたのである。
 そんな徒輩の言に、一喜一憂することがあってはならない。広宣流布という信念の「輝く王道」を、悠々と進みゆくのだ。
 われらには、師弟の大道を征く無上の誇りがある。ともどもに誓いの父子の詩を綴りゆくのだ。
 青年の君たちがいる限り、私は安心だ。どうか、私を土台にし、私を凌ぎ、大樹へと育ってほしい。私は、敬愛の思いをもって、君たちを仰ぎ、賞讃したい。
 新世紀の大空に伸びゆく君たちよ!
 未来のために、自らを磨き、鍛え、働き、学び、喜び勇んで労苦を担っていくのだ。「青春の 金の汗」こそ、永遠に自身を荘厳する財産となるにちがいない。私には、見える。青々と葉を茂らせ、明日へ伸びゆく木々の頭上に、燦然と輝く栄光の虹が!
 さあ、若き翼よ!
 地平線の彼方に、澎湃として躍り出よ!
 万葉の人間讃歌の時代を、絢爛たる生命尊厳の新世紀を開くために、舞いに舞い征け!
 創価の青年の情熱と力で、二十一世紀の大勝利の幕を、断じて開くのだ。
 後継のバトンは、君らの手にある。
23  勝ち鬨(23)
 十一月十四日の夜、山本伸一は、二十数回にわたる推敲の末に、宣言するように、青年たちに語った。
 「よし、これでいこう! 『紅の歌』の完成だ! 青年の魂の歌だ!」
 一、ああ紅の 朝明けて
  魁光りぬ 丈夫は
  ああ暁鐘を 打て 鳴らせ
  驕れる波浪よ なにかせむ
  邪悪の徒には 栄えなし
  地涌の正義に 民衆の旗
   
 二、毀誉褒貶の 人降し
  輝く王道 この坂を
  父の滸集いし 吾らあり
  子よ大樹と 仰ぎ見む
  ああ青春の 金の汗
  誓いの青藍 虹かかれ
   
 三、老いたる母の 築きたる
  広布の城をいざ 護り抜け
  眩き地平に 澎湃と
  若き翼よ 爽やかに
  万葉の詩 ともどもに
  舞いに舞い征け 世紀まで
 妻の峯子が、伸一に言った。
 「ここには、あなたが青年におっしゃりたいことが、すべて入っていますね」
 「そうなんだよ。男子部は、この『紅の歌』を、そして、女子部は、新愛唱歌の『緑のあの道』を歌いながら、二十一世紀をめざして進んでいくんだ」
 「緑のあの道」は、女子部結成三十周年を記念して、八日前に発表された愛唱歌である。伸一も、女子部から強い要請を受け、歌詞に手を加え、曲についてもアドバイスした。
 「緑」とは、みずみずしい生命が放つ、青春の光彩である。ダンテは、「青春」について、「わたし達の善き生涯に入るところの門と道とである」(『ダンテ全集第六巻 饗宴・下巻』中山昌樹訳、新生堂)と述べている。
24  勝ち鬨(24)
 女子部の新愛唱歌「緑のあの道」の完成が「聖教新聞」に報じられ、譜面と歌詞が掲載されたのは、十一月六日であった。
 一、春の霞に 舞う桜
  舞いゆく桜に 友も舞う
  花輪の幸に 包まれて
        包まれて
  緑のあの道 歩まんや
 二、光きびしき 夏なれど
  やがて紅葉の 秋来る
  霜降る冬も いかにせむ
        いかにせむ
  やがて我らの 春の曲
 三、この詩うたえや 父娘の詩
  やがてこの道 乙女らが
  世界の道へと 翼あり
         翼あり
  翼は天使と 飛びゆかん
  いざやあの空 虹かかれ
 「緑のあの道」の発表から十日後の十一月十六日、「紅の歌」が男子部の新愛唱歌として、「聖教新聞」に掲載された。
 二つの歌は、いずれも、新時代にふさわしい、新しい感覚の、心弾む歌となった。
 「紅の歌」は、伸一と四国男子部の、師弟不二の魂が紡ぎ出した歌であったが、結果的に、当初、彼らが作った原案は、ほとんど跡をとどめていなかった。しかし、作詞は「四国男子部有志」となっていた。伸一は、彼らの心意気と努力を讃えたかったのである。
 また、四国滞在中に、徳島県の歌「愛する徳島」も誕生している。
 この歌も、皆の要請を受けた伸一が、加筆し、推敲を重ねたのである。
 世界の友も いざ来れ
 徳島天地の 喜びは
 鳴門の如く うねりあり……
25  勝ち鬨(25)
 十一月十五日昼、山本伸一は四国の高松空港から、空路、再び大阪入りした。その後、和歌山県、奈良県と回り、激闘は続いた。
 二十二日には、大阪府豊中市の関西戸田記念講堂で行われた第三回関西総会に出席し、「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を執った。
 さらに、滋賀県、福井県を訪問したあと、中部を巡り、静岡県でも指導と激励に全力を注いだ。伸一が、東京へ戻ったのは、十二月二日の夜であった。
 男子部では、十一月二十二日、福島県郡山市で全国男子部幹部会を開催した。彼らは、この幹部会を、“紅男幹”と名づけ、「紅の歌」とともに二十一世紀へと旅立つ、師弟共戦の誓いの集いとしたのである。
 ああ紅の 朝明けて
 魁 光りぬ 丈夫は……
 集った青年たちは、広布の魁として、茨の道を開きゆく決意を固めたのである。
 “たとえ、いかなる試練の烈風が競い起ころうとも、同志のため、社会のために、険しき坂を勇んで上りゆくのが創価の丈夫だ! 負けてなるものか! われらは、老いたる父や母が命がけで築いてくれた広布の城を、断固、守り抜いてみせる!”
 その合唱は、宗門事件の嵐を見事に乗り越えた青年の凱歌であり、未来にわたる人生勝利の勝ち鬨となったのである。
 なお、この「紅の歌」の作詞者名について、四国男子部から、「山本先生が作られたものであり、先生の作詞として、後世に残していただきたい」との強い要請を受け、後に「作詞・山本伸一」に改めることになった。
 また、伸一は、二〇〇五年(平成十七年)、歌詞に手を加え、三番の「老いたる母の」を「老いたる父母の」とした。そして、一六年(同二十八年)十月、四国での本部幹部会の折、四国青年部から、二番の「父の滸集いし」を「師の滸集いし」として歌いたいとの願い出があり、伸一はその志を汲んで了承した。
26  勝ち鬨(26)
 “最も苦しんだ同志のところへ駆けつけよう! 一人ひとりと固い握手を交わす思いで、全精魂を込めて、生命の底から励まそう!”
 山本伸一が、九州の大分空港に降り立ったのは、十二月八日の午後のことであった。四国、関西、中部等を巡った激闘の指導旅を終え、東京に戻って六日後のことである。
 大分訪問は、実に十三年半ぶりであった。
 彼は、広宣流布の勝利の上げ潮を築くために、「今」という時を逃してはならないと、強く心に言い聞かせていた。
 「正信」の名のもとに、衣の権威を振りかざす“邪信”の僧らによって、どこよりも非道な仕打ちを受け、苦しめられてきたのが、大分県の同志であった。「御講」などで寺に行くと、住職は御書ではなく、学会の中傷記事を掲載した週刊誌を使って、「学会は間違っている。謗法だ!」と言うのだ。
 そして、脱会したメンバーが学会員に次々と罵詈雑言を浴びせ、そのたびに場内は拍手に包まれるのだ。それを住職は、ほくそ笑んで見ているのである。老獪この上なかった。
 学会を辞めて寺につかなければ、葬儀には行かないと言われ、涙ながらに、会館に訴えてくる人もいた。また、あろうことか、葬儀の席で学会攻撃の暴言を投げつける悪侶もいたのである。遺族の悲しみの傷口に塩を塗るような、許しがたい所業であった。
 伸一は、そうした報告を受けるたびに、胸が張り裂ける思いがした。同志がかわいそうで、不憫でならなかった。
 “負けるな! 必ず勝利の朝は来る!”
 彼は心で叫びながら、題目を送り続けた。
 空港に来ていた九州方面や大分県の幹部たちは、伸一の姿を見ると、「先生!」と言って駆け寄って来た。
 「さあ、戦うよ! 大分決戦だ。大逆転の栄光のドラマが始まるよ!」
 師子吼が放たれた。皆、目を輝かせ、大きく頷いた。どの顔にも決意がみなぎっていた。
 苦節のなかで培われた闘魂は、新しき建設への限りない力となる。
27  勝ち鬨(27)
 大分空港で山本伸一が車に乗ろうとすると、二、三十人の学会員が駆け寄ってきた。手に花束を持っている人もいる。
 「ありがとう! 辛い思い、悲しい思いをさせてしまって、すみません。でも、皆さんは、遂に勝ったんです」
 伸一は、こう語り、目を潤ませるメンバーに、「朗らかにね!」と、笑顔を向けた。
 彼は、空港から真っ先に功労の同志宅へ向かい、一家を激励した。その後、大分平和会館に直行する予定であったが、まず、別府文化会館に行くように頼んだ。別府は、宗門事件の震源地ともいうべき場所であったからだ。
 国道沿いには、あちこちに、車に向かって手を振る人たちの姿があった。伸一が大分に来ると聞いて、“きっと、この道を通るにちがいない。一目でも姿を見たい”と、待ち続けていたのであろう。
 ガードレールから身を乗り出すようにして、手を振り続ける婦人もいた。
 伸一は、その健気さに、胸が熱くなった。
 “皆さんは、耐えに耐えてこられた。ひたすら広布に生き抜いてきた、この尊き仏子たちを、正信会の悪侶たちは苛め抜いた。絶対に許されることではない。御本尊、また日蓮大聖人から厳しきお叱りを受けるであろう。今日の、この光景を、私は永遠に忘れない”
 伸一は、路上に待つ同志を目にするたびに、合掌する思いであった。
 日没直前、彼は別府文化会館に到着した。会館の窓という窓に明かりがともされ、たくさんの人影が見えた。伸一が車を降りると、近くにいた三人の老婦人が声をあげた。
 「ああっ、先生! お会いしたかった」
 「とうとう来ましたよ。私が来たんだから、もう大丈夫です!」
 会館には、二百人ほどのメンバーが詰めかけ、玄関に「先生、お帰りなさい」と書かれた横幕が掲げられていた。皆、伸一の別府文化会館訪問を確信していたのだ。
 邪悪と戦い続けた別府の同志たちと伸一は、共戦の魂で強く結ばれていたのである。
28  勝ち鬨(28)
 山本伸一は、別府文化会館の玄関周辺にいた人たちに語りかけた。
 「さあ、写真を撮りましょう! 別府の新出発の記念です」
 彼は、カメラに納まったあと、広間で皆と一緒に勤行した。
 「別府の同志の勝利を御本尊に報告するとともに、皆さんの永遠の幸せを願っての勤行です!」
 誰もが歓喜に胸を躍らせ、声を弾ませて、祈りを捧げた。同志は、悪侶の仕打ちに耐えながら、この瞬間を待ち続けてきたのだ。
 勤行を終えると、彼はマイクに向かった。
 「長い間、皆さんには、苦しい思いをさせてしまい、まことに申し訳ありません。
 本来、仏子を最も大切にするのが僧侶の道であるはずです。ところが、悪僧たちは、広宣流布に走り抜いてきた同志を苦しめ続けてきた。とんでもないことです。
 しかし、最も苦しみ、戦い抜いた人が、いちばん幸福になれると教えているのが仏法です。皆さんは、こうして障魔を打ち破り、堂々と勝利したんですから、功徳爛漫の人生が開かれていくことは間違いない。いよいよ春が来たんです。どうか、不幸に泣く人びとを救いながら、最高の人生を生きてください」
 わずかな時間であったが、伸一は思いの限りを注いで、皆を励ました。そして、大分市内にある大分平和会館へ向かった。
 午後六時過ぎ、会館に到着した彼は、玄関に居合わせたメンバーとカメラに納まった。皆、晴れやかな笑みである。
 会館には、県の各部代表ら四百人が集っていた。伸一が広間に姿を現すと、大拍手と歓声が沸き起こった。
 広間には、「大分家族に春が来た!」の横幕が掲げられていた。そこには、皆の思いが表現されていたのである。
 伸一は、力のこもった声で話し始めた。
 「皆さんは勝ちました。長い呻吟の歳月を経て、師子身中の虫を打ち破り、遂に正義が悪を打ち破ったんです!」
29  勝ち鬨(29)
 山本伸一は、御書を拝していった。
 「『悪知識と申すは甘くかたらひいつわび言をたくみにして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり
 悪知識というのは、誤った教えを説き、人びとを迷わせ、仏道修行を妨げる悪僧らのことをいいます。彼らは、広宣流布に生きようとしている人を、甘言をもって騙し、また、媚びて、言葉巧みに『善』を『悪』と言いくるめ、その人の心を奪って、信心を破っていくと仰せになっているんです。
 皆さんも、悪僧によって、さんざん苦しめられてきた。彼らは、学会を謗法であるなどと中傷する一方で、狙いをつけた人間に対しては、褒めそやし、媚びへつらい、巧妙に騙して退転させていく。それが悪知識の手口なんです。
 この悪知識の本質は、慢心であり、エゴです。そこに付き従ってしまえば、当然、信心の正道を踏み外してしまうことになる。
 広宣流布に生きるうえで大切なことは、清純な信心を破壊する、この悪知識を鋭く見破っていくことです。
 皆さんの周りにも、共に信心に励んできたのに、悪僧にたぶらかされ、学会を去っていった人がいるでしょう。皆さんは、学会という仏意仏勅の団体から離れさせまいと、何度も説得に通われたことと思う。ところが、せっかく学会員として頑張ると決意しても、またたぶらかされ、翻意し、学会を誹謗して去っていった。皆さんが断腸の思いを重ねてこられたことを、私はよく知っております」
 その時の悔しさを思い起こしてか、目を潤ませる人もいた。
 伸一は、さらに訴えた。
 「仏法では、『変毒為薬』、毒を変じて薬と為すと説いています。災いも幸いに転じていけるのが信心です。風があってこそ、凧が空高く舞い上がるように、苦難、試練を受けることによって、境涯を大きく開き、幸福の大空に乱舞していくことができるんです」
 この転換劇に、仏法のダイナミズムがある。
30  勝ち鬨(30)
 山本伸一は、語るにつれて、ますます言葉に力があふれていった。
 「日蓮大聖人は、さらに仰せである。
 『但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり
 御自身の生涯が、いかに迫害の連続であったとしても、それは、もとより覚悟のうえである。どんな大難に遭おうが、決意が翻ることはないし、誰に対しても恨みもないとの御断言です。
 広宣流布の久遠の使命を果たし抜いていくうえで、また、一生成仏を遂げ、崩れざる幸福境涯を確立していくうえで、最も大切なことは何か――。それは『覚悟の信心』に立つことです。心を定め、師子の心をもつならば、恐れるものなど何もありません。
 そして、その時、自分を苦しめ抜いた、もろもろの悪人も、すべて善知識となっていくんです。覚悟を定め、大難に挑み戦うことによって、自らの信心を磨き鍛え、宿命転換がなされていくからです。
 大分の皆さんは、今回の問題で、大変な苦労をされた。でも、それは、次への飛躍を遂げるジャンプ力になっていきます。
 私は、もう一回、広布の大闘争を開始します。本当の創価学会を創ります。皆さんも、私と一緒に戦いましょう!」
 「はい!」
 力強い、決意のこもった声が響いた。最も辛酸をなめた大分の同志は、伸一と共に、決然と立ち上がったのだ。
 懇談会では、「男子部員で、この宗門事件によって学会を離れていった人は、ほとんどおりません」との、嬉しい報告もあった。
 伸一は、身を乗り出すようにして言った。
 「そうか! すごいことじゃないですか。青年が盤石ならば、大分の未来は盤石だよ。青年たちに、前進の励みになるような、何か指針を残したいな」
 大分では、明後日の十日に、県の青年部幹部会を予定していた。
31  勝ち鬨(31)
 山本伸一は、懇談会のあとも、数人の県幹部らとさまざまな協議を重ね、二つの文書を代表に贈った。
 一つは、会長辞任を発表した一九七九年(昭和五十四年)四月二十四日の夜に、記者会見の会場となった聖教新聞社で、終了後、その模様などを記した一文であった。
 もう一つは、宗門事件が勃発した七七年(同五十二年)の十二月四日夜、訪問先の宮崎の宿舎で、自身の心境を綴ったものである。
 そこには、こう書かれていた。
 「宗門問題起こる。心針に刺されたる如く辛く痛し」
 「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不盡の攻撃をなすのか」
 「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子に、何故、かかる迫害を、くりかえし……」
 「私には到底理解しがたき事なり。尊くして 愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起れり……」
 この二つの文書を渡し、伸一は言った。
 「これが私の心だ。同志こそ、私の命だ。会員を守り抜くことがリーダーの使命です。
 もしも、また、こうした事態が起こったならば、これを持って、仏子のために、広布のために、君たちが真っ先に立ち上がるんだ。最も苦しみ抜いた大分には、破邪顕正の先駆けとなる使命がある!」
 大分の同志の顔が、決意に燃え輝いた。
 翌日、伸一は、会員が営む喫茶店を訪れ、婦人部の代表らと懇談した。
 彼は、若手の婦人部幹部に、先輩との関わり方についてアドバイスした。
 「一家のなかでも嫁と姑の問題がある。婦人部のなかで、先輩幹部と若手幹部の意見が食い違うのは当然です。それを乗り越えて、団結し、心を合わせていくなかに、互いの人間革命も、広宣流布の伸展もあるんです」
32  勝ち鬨(32)
 婦人部のメンバーは、真剣な面持ちで、山本伸一の次の言葉を待った。
 「若手の婦人部幹部は、未知への挑戦の意欲に燃えているし、先輩には豊富な体験と実践経験のなかで培ってきた考えがある。
 両者のギアが噛み合い、円滑に進んでいくには、潤滑油になっていく存在も必要です。たとえば、世代的にも中間ぐらいで、双方の考えを十分に理解し、意思の疎通が図れるように努めてくれる人です。
 また、娘が母親に対する時も、お嫁さんがお姑さんに対する場合も同じですが、若手幹部は先輩幹部の言うことを、真っ向から否定したりするのではなく、まず、『はい』と言って、素直に聞いていく姿勢が大事です。そのうえで、こういう考え方もあると思うと、自分の意見を述べていくんです。
 それを、頭ごなしに、つっけんどんな言い方で否定すれば、相手もこちらの話を聞いてくれなくなる。反対に、優しく頷いて聞いていけば、相手だって嬉しい。年配になればなるほど、その傾向は強まっていきます。
 人間の心の機微を知り、聡明に対応していくことができるかどうか――これは、リーダーに問われる大切な要件です」
 広宣流布のリーダー像は、新たなる前進の段階に入って若手幹部が誕生し、世代交代が進められることによって、大きく変わりつつあった。リーダーには、新たな開拓力とともに、皆の力を引き出し、全体の調和が図れる指揮者(コンダクター)としての役割がより求められていた。
 広宣流布の教団である学会のリーダーには、弘教の力や指導力、率先垂範の行動が必要であることはいうまでもない。そして、さらに重要視されるのが、誠実、真剣、良識、勤勉、配慮など、人間としての在り方であり、どれだけ信頼を勝ち得ていくかである。
 信仰のいかんは人間性に表れる。創価学会が人間革命の宗教である限り、「あの人がいるだけで安心できる」と言われる、人格の輝きこそが、リーダーの最大の要件となる。
33  勝ち鬨(33)
 喫茶店での懇談会の帰り、山本伸一の乗った車は、大分市内の大洲総合運動公園の前を通った。立派な野球場もあった。
 伸一は、同乗していた幹部に言った。
 「あの野球場で、大分の文化祭を行ってはどうだろうか。青年を糾合し、立派に育成している姿を、また、信仰を持った歓喜の姿、民衆の団結の姿を、社会に示していこうよ」
 伸一が大分平和会館に戻ると、通用口前に、三十代から五十代前半の男性たちが待機していた。「大分百七十人会」のメンバーである。伸一は、一緒に記念撮影することを約束していたのだ。
 彼らは、二十一年前の一九六〇年(昭和三十五年)十二月、伸一が会長就任後、初めて大分を訪問し、県営体育館での大分支部結成大会に出席した折、場外整理などを担当していた役員の青年たちである。寒風にさらされながら、朝から黙々と「陰の力」に徹する彼らを、伸一は、ねぎらわずにはいられなかった。
 「生涯、信心を貫き通して、自らの使命に生き抜いていただきたい。人生は、二十代、三十代で、ほぼ決定づけられてしまう。ゆえに、これから十年間を一つの目標として、広布の庭で戦い、自身を磨き、高め、進んでいってもらいたい」
 そして、十年後に再び集い合うことを約し、七〇年(同四十五年)十月、福岡の地で再会を果たした。その時、伸一は、「このメンバーでグループを結成してはどうか」と提案し、「百七十人グループ」と命名。その後、「大分百七十人会」としたのである。
 以来十一年、三たび、伸一のもとに集ったのだ。皆、社会にあっては信頼の柱となり、また、学会を担う中核に成長していた。
 ひとたび結んだ縁を大切にし、長い目で見守り、励ましを重ねてこそ、人材は育つ。
 伸一は嬉しかった。彼は呼びかけた。
 「さあ、二十一世紀をめざそう!」
 皆、決意も新たにカメラに納まった。
 師弟の誓いを固めることは、未来への確かなる人生の軌道を築くことだ。
34  勝ち鬨(34)
 山本伸一は、九日夜、大分平和会館で行われた、同会館の落成三周年を記念する県幹部会に出席した。宗門事件という試練に打ち勝った新しい出発の集いは、「人間革命の歌」の大合唱で幕を開けた。この歌こそ、学会精神を鼓舞してきた魂の歌であった。
 君も立て 我も立つ
 広布の天地に 一人立て……
 席上、伸一の提案を受けて、明一九八二年(昭和五十七年)五月を「大分月間」とするとともに、5・3「創価学会の日」と5・20「大分の日」を記念し、五月に三万人の文化祭を開催することが発表されると、ひときわ大きな拍手が響いた。
 また、五項目からなる「大分宣言」が採択された。
 そこには、「末法の御本仏たる日蓮大聖人の御遺命のままに立ち、『和楽の大分』の旗を掲げて破邪顕正の法戦に団結して前進する」ことが謳われていた。
 さらに、「広布実践の最高指導者と共に、苦楽を分かち合いながらの一生」を誇りとして正法興隆に尽くし、地涌の同志として、互いに讃え、守り合っていくなどの決意が表明されていた。
 それは、前日、「もう一回、広布の大闘争を開始します。本当の創価学会を創ります。皆さんも、私と一緒に戦いましょう!」と呼びかけた伸一への、共戦の誓いであった。
 宣言への賛同の大拍手が沸き起こった。
 広布の師弟を分断しようと、悪侶が跋扈した苦闘の時代を勝ち越え、今、声を大にして師弟共戦を叫び、大分の勝利を宣言できる喜びが、皆の心に満ちあふれていた。
 誰もが、“新しい時代が到来した!”との実感を深くした。
 そして、“青年を先頭に、信心からほとばしる歓喜と躍動で、民衆凱歌の文化祭を成功させ、平和の連帯の拡大へスタートしよう”との、希望に燃えていたのである。
35  勝ち鬨(35)
 山本伸一は、大分県幹部会で、全同志の敢闘を心からねぎらった。
 「皆さんは、現代社会にあって、広宣流布の戦いを起こされ、果敢に折伏を展開してくださった。戸田城聖先生が第二代会長に就任された時、会員は、わずか三千人ほどに過ぎなかった。しかし、わが同志の死身弘法の実践によって、広宣流布の陣列は、全世界に広がりました。大聖人が仰せの『地涌の義』を現実のものとしたのが創価学会であり、皆さんです」
 そして、伸一は、「此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり」との御文を拝した。
 「大聖人は、明確に、こう仰せです。
 折伏に励んできた人を誹謗し抜いた者がどうなるのか、ここに厳として示されています。しかも、生活も大変ななかで、宗門の発展を願って供養もし、献身してきた皆さんです。その仏子を謗れば、仏法の因果の理法によって、厳しく裁かれていくでしょう。
 この正信会の事件は、広宣流布を妨げる魔の働きであり、また、一つの難といえます。大事なのは、難があるからこそ、信心が深まるということです。功徳だけの安楽な信心であれば、宿命の転換も、一生成仏もできません。仏道修行を重ね、宿命を転換し、崩れざる幸福境涯を開くために、難は不可欠なんです。難があるのは、正義の証です。
 日蓮大聖人は、『月月・日日につより給へ』と仰せです。信心の持続は当然のことながら、日々の生活など、人生のあらゆる面で、常に前進し続ける持久力が大事であると銘記していただきたい。
 仏法は勝負です。強盛な信心を貫き、聡明に生活し、真剣に仕事に励み、人格を磨き、幸せの人生を歩み抜いてください」
 生涯を見なければ、人生の勝敗はわからない。持続の信心を貫いた人が勝者となる。
36  勝ち鬨(36)
 十二月十日の夜は、大分県青年部幹部会が開催されることになっていた。
 この日の午前中、山本伸一は、県の中心幹部らと、今後の活動について検討を重ねた。
 昼過ぎ、大分平和会館の管理者室を訪れ、管理者をはじめ、草創期から大分広布に尽力してきた婦人たちを激励した。
 ここには、諸行事の運営担当として、学会本部から派遣された青年部幹部も同席していた。青年たちは、この日の幹部会で、新たな出発の決意を込めた“正義の詩”を発表し、二十一世紀への前進を開始したいと言う。
 ちょうど、この年は、恩師・戸田城聖が、あの「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」で始まる「青年訓」を発表してから三十周年にあたっていた。伸一も、青年たちに新しい指針を残したいと考えていた。
 「よし、ぼくが作って贈ろう!」
 こう言うと、彼は、口述を始めた。その胸には、万感の戦う魂が光っていた。
 「『なぜ山に登るのか』『そこに山があるからだ』と、かつて、ある著名な登山家は言った」――そこにいた男子部と女子部の幹部が、急いで筆記し始めた。伸一の口からは、ほとばしるように言葉があふれ出る。
 「我らは今、広宣流布の山である二十一世紀の山を登はんせんとしているのだ。我が、青年達よ、妙法正義の旗を振りながら、満ちたりたる人生の自立のために、二十一世紀の山を勇敢に登り征け……」
 そして彼は、「二十一世紀の山」を登るために、「直面する日々の現実の山」を、一歩一歩、登りきることの大切さを強調し、今日一日を、すべて勝ち取っていくよう呼びかけた。また、その原動力は、「勤行、唱題」であり、常に希望を失うことなく、何があろうが、「信心」の二字だけは、決して敗れることがあってはならないと述べた。
 “皆が二十一世紀の大人材に!”との、祈りを込めての口述であった。
 「人材を教育するは善の大なるものなり」(『世界教育宝典 日本教育編 細井平洲・広瀬淡窓』後藤三郎、柳町達也校註、玉川大学出版部)――大分の教育者・広瀬淡窓の言である。
37  勝ち鬨(37)
 山本伸一は、詩のなかで、「民衆と共に歩みゆくことを絶対に忘れてはならない」と、創価の不変の軌道を示し、いかなる権威、権力をもって迫害されても、その大難を乗り越えていくところに、人間革命の勝利の旗は翻ると断言した。さらに、「二〇〇一年五月三日」を目標に、広布第二幕の勝負は、この時で決せられることを銘記して、労苦の修行に励みゆくよう訴えたのである。
 口述を一言も漏らすまいと書き取る不二の青年たちとの、真剣勝負の作業であった。
 伸一は、午後四時から、代表メンバーと懇談会を行うことになっていた。
 「この続きは、帰って来てからやろう!」
 彼は、急いで会場へ向かった。
 青年たちは、詩の清書を始めた。
 伸一は五時半に戻ると、すぐに推敲に入り、再び口述が始まった。新しい言葉が、次々と紡ぎ出される。時には、清書した十三行罫紙の半分余りを書き換えることもあった。余白がびっしりと文字で埋まり、用紙の裏にも、筆記しなければならなかった。
 この詩を発表する大分県青年部幹部会の開始時刻が刻々と迫ってくる。
 午後六時過ぎ、幹部会の会場では開会が宣言され、「紅の歌」の合唱が始まり、青年部の県幹部や、東京から派遣された女子部副書記長や学生部長のあいさつと進んでいった。
 ようやく、直しの口述が終わったのは、副会長のあいさつに入った時であった。
 「これでよし! さあ、行くぞ! 清書ができたら、持っていらっしゃい」
 会場では、副会長の話も終わった。間もなく午後七時になろうとしていた。
 その時、伸一が姿を現した。
 大歓声と大拍手が沸き起こった。
 悪僧の迫害と戦い勝った凜々しき丈夫の男子部と、決して挫けなかった、清らかにして信強き女子部の凱歌の出発である。
 苦労し抜いて戦い、勝利の道を開いた勇者の表情は晴れやかであった。広宣流布の敢闘あるところに、大歓喜の泉は湧く。
38  勝ち鬨(38)
 大分県青年部幹部会で山本伸一は、共に勤行し、正義を守り抜いた青年同志のますますの成長と幸福を祈念した。
 別室では、まだ詩の清書が続いていた。ペンを手にしていた青年の一人が言った。
 「もう時間がない。発表できなくなってしまう。清書は終わっていないが、ともかくお届けしよう」
 彼らは、会場に駆け込んだ。
 マイクに向かった伸一は、御本尊を受持した人生の尊さを述べ、信心には、「邪信」「狂信」と「正信」があることを述べた。
 学会を利用して名聞名利を得ようとする信心は「邪信」であり、道理、良識、社会性を無視した信心は「狂信」である。そして、どこまでも良識をもち、信・行・学の着実な実践を根本として広宣流布に生き、社会、仕事、生活のうえで、信仰の勝利の実証を示していくなかにこそ、「正信」があることを訴えた。
 また、青年時代の生き方にも言及した。
 「青年とは、悩み多き年代であり、行き詰まり、スランプがあるのは当然です。そうした時にこそ、現実から目を背けるのではなく、“信心で事態を切り開こう。唱題で乗り越えていこう”と決めて、御本尊に向かっていくことです。その挑戦のなかに、宿命の打開も、人間革命もある。その労苦こそが、青春時代の得がたい財宝となります」
 青春の苦闘という開墾作業がなければ、自身の成長も、人生の開花もあり得ず、総仕上げとなる実りの秋を迎えることもない。
 ドイツの詩人ヘルダーリンは詩う。
 「あらゆる喜びは苦難から生れる。
  そしてただ苦痛のなかにのみ
  わたしの心をよろこばす最善のもの、
  人間性のやさしさは、育つのだ」(ヘルダーリン著「運命」(『世界名詩集大成6 ドイツ篇I』所収)手塚富雄訳、平凡社)
 伸一の話は、結びに入った。
 「二十一世紀の未来は、すべて現在の青年部諸君に託したい。黄金のごとき青年時代を学会とともに生き抜き、人生を見事に荘厳していっていただきたい。創価の大道に勝る人生勝利の道はないと、断言しておきます」
39  勝ち鬨(39)
 山本伸一は、指導の最後に、こう告げた。
 「私は、二十一世紀へと向かう新しい指針にしてほしいとの思いで、詩を作りました。さきほど、口述し終えたばかりです。これから、発表してもらいます」
 直前まで清書していた大分出身の副男子部長・村田康治が立って、詩を読み始めた。
 「『なぜ山に登るのか』『そこに山があるからだ』と、かつて、ある著名な登山家は言った……」
 一瞬、村田の脳裏に、伸一が、“青年たちのために!”と、一言一言、生命を吹き込むように口述し、推敲に推敲を重ねていた姿が浮かんだ。その師の心に胸を熱くしながら、彼は朗読を続けた。
 「我が門下の青年よ、生きて生きて生き抜くのだ。絶対不滅にして永遠の大法のために。また、この世に生を受けた尊き自己自身の使命のために」
 一語一語に力を込めて、読み進んでいく。
 「来るべき時代は、かかる若きリーダーを望み待っていることを私は知っている。信仰と哲学なき人は、羅針盤のなき船舶のようなものだ。もはや、物の時代から心の時代、心の時代から生命の時代に刻々と移り……」
 清書が終わっていないため、後半部分になると、びっしりと書き込みがなされたままの原稿を読み上げることになった。村田は、読み間違えないように、細心の注意を払いながら、朗読していった。
 「若き君達よ、朝な夕なに大衆と常に接し、共に生き、大衆と温かき連係をとりながら、そして大衆と呼吸し、共鳴してゆく若き新世紀のリーダーになっていただきたいのだ。
 私は君達を信ずる。君達に期待する。君達を愛する」
 青年たちは、感無量の面持ちで真剣に耳を澄ましていた。伸一は、その参加者に、じっと視線を注ぎながら、心で叫んでいた。
 “今、この大分の地から、新世紀への前進の幕が切って落とされたのだ。不撓不屈の創価の新しき歴史が、ここから始まったのだ”
40  勝ち鬨(40)
 長い詩であった。読み上げる青年の声は、かすれながらも、気迫に満ちていた。
 「真実の充実しきった意義ある人生には、真実の偉大な仏法と信仰が必要なのである。君達の最高の誇りは日蓮大聖人の仏法を持ち、青春を乱舞しぬいているということにつきることを知らねばならない。
 二十一世紀の山は近い……」
 山本伸一は、人間勝利の旭日が昇り、創価の同志の勝ち鬨がこだまする新世紀に思いを馳せながら、朗読の声に耳を傾けていた。
 「二十一世紀は全てが君達のものだ。君達の暁であり檜舞台である。君達が存分に活躍しゆく総仕上げの大舞台である。二〇〇一年五月三日――この日が私共のそして君達の大いなる目標登はんの日であるといってよい。広布第二幕の勝負は、この時で決せられることを忘れないでほしいのだ」
 やがて朗読は終わった。詩のタイトルは「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」である。
 大きな、大きな拍手が沸き起こり、いつまでも、いつまでも鳴りやまなかった。師弟の大道に生き抜く誓いの拍手であった。創価の青年たちの堂々たる旅立ちであった。
 拍手が収まると、伸一は語った。
 「この詩は、明日の『聖教新聞』に、全文掲載してもらう予定です。この大分の地から、全国に発信します。その意義を、深く心に刻んでいただきたい。また、今日、ここに集った男子部で『大分男子二十一世紀会』を、女子部で『大分女子二十一世紀会』を結成したいと思うが、どうだろうか!」
 またしても、喜びにあふれた賛同の拍手が広がった。創価の正義を叫び、貫き、邪悪に勝利した青年たちの生命は躍動し、その胸には紅の大情熱がたぎっていた。
 勝利には、歓喜がある。前進の活力があふれる。新しき勝利をもたらす最大の要因は、勝利にこそある。勝利、勝利、勝利――それが創価の行進だ。
 「正義とは正しい者が勝つことだ」(「ダントン」(『ロマン・ロラン全集10』所収)波多野茂弥訳、みすず書房)とは、文豪ロマン・ロランの言葉である。
41  勝ち鬨(41)
 山本伸一は、翌十一日も朝から大分平和会館を訪ねてくる同志に声をかけ、一緒に記念のカメラに納まり、激励に余念がなかった。
 また、九日に再会した大分百七十人会や、前日に結成された大分男子・女子二十一世紀会の前途を祝し、次々と記念の揮毫を認めていった。
 「ほかに、まだ書き贈るべき人はいないのかい。宗門の事件で苦しみながら、頑張り抜いてきた方は、まだまだいるだろう」
 そして、県の幹部らから、奮闘した同志の名前を聞くと、直ちに硯に向かい、その人の名を冠した「○○桜」「○○山」など、一枚、また一枚と色紙に筆を走らせた。
 午後には、大分市内の個人会館を訪れ、県の代表と懇談した。この席で、制作中の大分県歌について相談を受け、歌詞に手を入れ、曲についてもアドバイスした。
 夜には、大分平和会館で自由勤行会が行われた。ここでも、伸一は、自ら勤行の導師を務めるとともに、全力で参加者の激励、指導にあたった。
 彼は、大分ゆかりの人のなかに、多くの歴史的人物がいることに触れた。
 「大友宗麟は、キリスト教に帰依し、西洋文明の文物を残した。江戸後期の儒学者・広瀬淡窓は、学塾『咸宜園』を開き、たくさんの弟子を残した。滝廉太郎は名曲を残し、福沢諭吉は大学を残した。
 では今、私たちは、信仰者として何を残すべきか。それは、日蓮大聖人が顕された生命の大法である南無妙法蓮華経を全世界に流布し、永遠に伝え残していくことです。
 各人が、万人の絶対的幸福への道を開く妙法を、わが人生において、幾人の人に教えることができたか――そこに、私どもの、この世で果たすべき使命があります。
 この一点のみが、御本仏・日蓮大聖人の御賞讃をいただき、自身の永遠にわたる思い出と、仏法者としての最高の功績と栄誉をつくる方途であります。この確信に立つなかに、信仰者の真髄があることを知ってください」
42  勝ち鬨(42)
 山本伸一は、皆の幸せを願いつつ語った。
 「私は、自分が非難の嵐にさらされても、なんとも思いません。もとより覚悟のうえのことです。私の願いは、ただ皆さんが、御本尊の大功徳に浴しながら、ご多幸の人生を歩んでいただくことであり、それが、私にとって、何よりの喜びなのであります。また、そうなっていただいてこそ、私が責任を果たせた証左といえます。
 お一人たりとも、病気になったり、事故に遭ったりすることのないように、懸命に祈ってまいります」
 彼の、率直な思いであった。ほのぼのとした心の交流が図られた勤行会となった。
 いよいよ明日は、大分から熊本へ向かう日である。この夜、伸一は、大分の首脳幹部らに言った。
 「なんとしても、明日は竹田に行きたい。熊本に行く前に、竹田の皆さんとお目にかかりたいんだ。最も苦しみ、悔し涙を流してこられた同志だもの……」
 翌十二日朝も、伸一は、九州や大分の幹部たちと、これからの地域広布を展望しながら、懇談を重ねた。そして、さまざまな報告を聴くと、自分の真情を漏らした。
 「今まで苦しんできた同志のことを考えると、私は、それこそ一軒一軒、皆のお宅を訪ね、励まして歩きたい気持ちです。
 しかし、日程的にも、それは難しい。そこで、今回、お会いできなかった人たちを、私の代わりに激励してください。私の心を伝えてもらいたいんです。
 ともかく、広宣流布のために戦ってきた、尊き仏子である会員一人ひとりを大切にし、守り抜いていくことです。それが、幹部の大切な使命だと思ってほしい」
 大分平和会館には、伸一に一目会いたいと、大勢の会員が集まってきた。彼は共に勤行し、午前十時、学会本部のバスで竹田に向かった。移動にバスを使うことになったのは、車中、打ち合わせや執務を行えるからである。
 広宣流布は、時間との戦いである。
43  勝ち鬨(43)
 竹田市は大分県の南西部にあり、かつては岡城の城下町として栄えてきた。
 バスに山本伸一と同乗した県書記長の山岡武夫が、岡城について語っていった。
 ――この城は、源氏方につき、平氏追討で戦功をあげた緒方三郎惟栄が、源頼朝と不仲になった弟の義経を迎え入れるため、文治元年(一一八五年)に築いたといわれる。
 周囲を山々に囲まれ、南に白滝川、北に稲葉川が流れ、深い渓谷が刻まれた台地は、そのまま自然の要塞となり、難攻不落の城であった。しかし、ここに義経を迎えることはかなわず、その後、惟栄は捕らえられ、流罪されている。義経への思いは、実を結ぶことなく終わったのである。
 城は、十四世紀に志賀氏の居城となる。天正十四年(一五八六年)から翌年にかけての豊薩戦争では、島津の大軍が岡城を攻めた時、周囲の城が次々と落ちていくなか、青年城主・志賀親次が奮戦し、城を守り抜いたと伝えられている。
 岡城は、明治の廃藩置県にともなって取り壊され、城館は失うが、苔むした堅固な石垣が往時を偲ばせているという。
 また、少年時代を竹田で過ごした作曲家の滝廉太郎は、岡城址に思いを馳せつつ、あの名曲「荒城の月」を作曲したといわれる。城址の二の丸跡には滝廉太郎の銅像が、本丸跡には作詞者・土井晩翠の筆による「荒城の月」の詩碑が建てられているとのことであった。
 伸一は、感慨深そうに語った。
 「岡城の築城は、緒方惟栄の、義経に対する忠節の証でもあったのか。美しい話だ。
 志賀親次の奮闘は、竹田の同志の、さっそうたる戦いの勇姿と重なるね」
 バスの車窓に、木々の間にそびえる、岡城址の石垣が見え始めた。
 伸一は、歌を詠んだ。
 荒城の
   月の岡城
     眺めつつ
   竹田の同志の
     法戦讃えむ
 竹田の勇将は、衣の権威の横暴に敢然と戦い、民衆のための宗教の時代を開いたのだ。
44  勝ち鬨(44)
 バスは、岡城址の駐車場に到着した。
 山本伸一がバスを降りると、「先生!」と叫んで、何人もの同志が駆け寄って来た。
 「ありがとう! 民衆の大英雄の皆さんにお会いしに来ました!」
 彼が差し出した手を、皆、ぎゅっと握り締めた。伸一の手にも力がこもる。屈強な壮年の目にも、見る見る涙があふれた。男泣きする、その姿は、邪智の悪僧の非道な仕打ちに耐えに耐えて、戦い勝った無上の喜びの表現であった。
 伸一は、駐車場にあるレストランで、地元の代表五十人ほどと、昼食をとりながら懇談し、皆の報告に耳を傾けた。
 城の本丸跡に、地元のメンバーが集まって来ているという。
 「よし、皆さんに、お目にかかろう!」
 地元幹部の代表二人と乗用車に乗り、同志の激励に向かった。
 車中、彼らは、伸一に語り始めた。
 「私たちは、護法のために尽くそうと、住職を全力で応援してきました。最初は、僧俗和合を口にしながら、手のひらを返すように学会を批判し、攻撃するようになりました。そして、陰で同志に、学会を辞めるようにそそのかしていたんです……」
 ある大ブロック(後の地区)では、四十五世帯の学会員のうち、一挙に三十二世帯が去っていった。断腸の思いであった。悔しさを堪えながら、“もう、これ以上、創価の正義の陣列から離れていく同志を、絶対に出すまい!”と、山間の地に点在する学会員の家々を訪ねては、懸命に励ました。
 隣に乗った年配の壮年が、「人間のやることじゃありません……」と唇を噛み締めた。
 伸一は頷き、笑顔を向けた。
 「お父さんには、ずいぶん苦労をかけてしまいましたね。よくぞ持ちこたえ、見事に竹田を再起させてくれました。ありがとう!」
 頭を下げた。壮年のすすり泣きが漏れた。
 冬の試練が厳しければ厳しいほど、春を迎えた喜びは大きい。「労苦即歓喜」となる。
45  勝ち鬨(45)
 岡城址の本丸跡には、メンバーが続々と詰めかけていた。背広姿で、さっそうと石段を上る壮年。お年寄りを背負い、元気に歩みを運ぶ青年。急ぎ足で、額に汗をにじませて進む婦人……。交わす笑顔も明るい。
 山本伸一は、途中で車を降り、二の丸跡へと上り始めると、十数人の男子部員が待っていた。悪僧の陰謀のなかで、同志を守り抜くために戦った丈夫たちである。伸一は一人ひとりと固く握手し、励ましの言葉をかけた。
 本丸跡に到着すると、三百人ほどの人たちが集まっていた。伸一が姿を現すや、歓声があがり、大拍手がこだました。
 「皆さんに、お会いしに来ました。尊い、宝の同志と共に、二十一世紀へ出発するためにまいりました。では、一緒に記念撮影をしましょう。竹田の皆さんの、広宣流布の歴史に残る大勝利を記念しての写真です」
 集ってきた人たちのなかには、何人かの子どもたちの姿もあった。最前列には、祖母に抱きかかえられた二歳ぐらいの男の子もいた。“民衆凱歌の魂の絵巻ともいうべき、この光景は、幼い心にも、永遠に刻まれるにちがいない”と、伸一は思った。
 「聖教新聞」のカメラマンが、ファインダーをのぞいた。メンバーが多すぎて収まりきらない。やむなく、もう一人のカメラマンの肩に乗って、撮影が行われた。
 悪戦苦闘の暗雲を突き抜けた同志の顔は、晴れやかであった。皆の頭上にも、心にも、青空が広がっていた。シャッターが切られた。
 伸一は言った。
 「せっかく岡城址に来たのだから、みんなで一緒に『荒城の月』を歌いましょう!」
 県書記長・山岡武夫の指揮で、大合唱が始まった。伸一も声を限りに歌った。
 春高楼の花の宴
 めぐる盃 影さして……
 同志の胸に、感激の波が幾重にも押し寄せる。信心ある限り、必ず勝利の太陽は昇る。
46  勝ち鬨(46)
 「荒城の月」の指揮を執る山岡武夫は、竹田の地に幾度となく足を運び、非道な僧に敢然と抗議し、友の激励に走り抜いてきた。彼は、苦節の来し方と、山本伸一の渾身の励ましが思い起こされ、熱いものが込み上げてきてならなかった。
 仏法は勝負である。そして因果の理法も厳然である。
 障魔の嵐を耐え忍び、広布に邁進してきた尊き仏子たちは、誇らかに胸を張り、頬を紅潮させて熱唱した。
 伸一も共に歌いながら、心で呼びかけた。
 “皆さんは勝った! 創価の闘将として、広布の正義城を、よくぞ守り抜いてくださった。さあ、出発だ! 一緒に旅立とう。二十一世紀のあの峰へ!”
 やがて、合唱が終わった。
 「ありがとう!」
 伸一がこう言って、竹田の同志の勝利を讃えるかのように、「V」の字に両手を上げると、「万歳!」の声が起こった。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 皆、手をいっぱいに振り上げて叫んだ。声は一つになって大空に広がった。まさに、民衆の時代の朝を告げる勝ち鬨であった。
 「私は、今日という日を、生涯、忘れません。皆さん、お元気で!」
 伸一が歩き始めると、大勢の同志が、談笑しながら後に続いた。
 空の上で、冬の太陽が微笑みかけていた。
 しばらく行くと、彼は、足をとめた。
 「今日は、私も、竹田の闘将である皆さんの写真を撮らせていただきます。そして、お一人お一人の顔を、わが生命に永遠に焼き付けます。さあ、階段に並んでください」
 伸一は、風景を撮影しようと手にしていたカメラを向け、シャッターボタンを押した。皆の顔に、会心の笑みが浮かんでいた。
 月の荒城は、栄枯盛衰を繰り返す世の無常を見続けてきた。今、その城跡は、陽光に映え、常楽の幸風がそよぎ、凱歌が轟く、希望の歓喜城となった。
47  勝ち鬨(47)
 山本伸一は、メンバーの姿をカメラに収めたあと、レストランのある駐車場に戻った。バスに乗り換えて熊本に向かうためである。
 バスの周囲は、本丸跡から下りて来る多くの人たちで埋まっていった。
 伸一は、皆のなかに入り、声をかけた。
 「長生きしてくださいよ! 必ず、幸せになってください!」
 一人ひとりを励まし、握手を交わして、車中の人となった。
 バスが動きだした。
 「先生。さようなら!」
 「ありがとうございました!」
 「大分は負けません!」
 口々に叫びながら手を振る。
 伸一も、揺れるバスの窓から盛んに両手を振った。バスは次第に遠ざかり、カーブにさしかかった。彼は反対側の窓際に移動し、手を振り続けた。
 彼と同志の間には、目には見えずとも、固い絆があった。信の絆であり、久遠の誓いの絆であり、広宣流布の師弟の絆であった。
 伸一は、初訪問となる熊本県の阿蘇町(後の阿蘇市の一部)にある白菊講堂をめざした。
 バスは、大分との県境を越え、阿蘇山麓を進んだ。やがて、彼方に、三つの凧が舞っているのが見えた。近づくにつれて、凧には、それぞれ、「旭日」「獅子」「若鷲」が描かれているのがわかった。伸一は言った。
 「きっと、あの凧を揚げているところが、白菊講堂だよ」
 午後二時、バスは講堂の正門に入った。車窓から、門の前の空き地で凧を揚げている青年たちの姿が見えた。そのうちの一人は、学生服を着ていた。高校生なのであろう。
 バスを降りると、出迎えた幹部に言った。
 「苦労をかけたね。さあ、戦闘開始だ!」
 熊本でも、学会員は悪僧による中傷の嵐にさらされ、理不尽な迫害に耐えて、戦い抜いてきた。広布破壊の魔軍と戦い、勝ち越えるたびに、いや増して広布前進の加速度はつく。
48  勝ち鬨(48)
 山本伸一は、すぐには白菊講堂に入らず、地元メンバーの代表らと記念撮影し、これまでの苦労をねぎらい、しばし懇談した。
 また、凧を揚げてくれた高校生を呼び、心から励ましの言葉をかけた。本間雄人という県立高校の三年生であった。
 「凧を見たよ! 遠くからもよく見えました。寒かっただろう。ありがとう! 君も、未来の大空を悠々と舞ってください」
 こう激励し、講堂に入った。会長の秋月英介が出席して、自由勤行会が行われていた。
 途中から入場した伸一は、会場にいた車イスに乗った若者を見ると、真っ先に、彼のもとへ向かった。
 筋ジストロフィーで療養所に入所している、高校一年生の野中広紀であった。病のため、未来に希望が見いだせず、悶々とした日々を送っていたが、化膿性髄膜炎を乗り越えた男子部員の体験を聞いて発心し、本格的に信心に取り組み始めたばかりであった。
 彼の母親の文乃は、真剣に唱題する息子を見て、“自分も弘教を実らせて、山本先生を熊本に迎えよう”と決意した。これまで彼女は、筋ジストロフィーの息子がいることを知っている人には、仏法対話を控えてきた。御本尊の功徳を語っても、相手を納得させることはできないと思ったのである。
 しかし、わが子の姿に励まされ、娘と一緒に、同じ病気で入所治療している子どもをもつ母親に、勇気をもって仏法の話をした。
 すると、意外な答えが返ってきた。
 「挫けることなく、息子さんの闘病生活を支え、明るく元気に、確信をもって信仰のすばらしさを語る姿に感動しました」と言うのだ。そして、入会を決意したのである。
 悩みのない人生はない。生きるということは、「悩み」「宿命」との闘争といってもよい。大事なことは、何があっても、御本尊から離れないことだ。勇気をもち、希望をもち、敢然と祈り、戦い続けることだ。そこに人は、人間としての強さと輝きと尊厳を見いだし、共感、賛同するのである。
49  勝ち鬨(49)
 山本伸一は、野中広紀の傍らに立つと、彼の体をさすりながら語りかけた。
 「強く生きるんですよ。使命のない人はいません。自分に負けない人が勝利者です」
 野中は、慰めではない、生命を鼓舞する励ましの言葉を、初めて聞いた思いがした。
 さらに翌日、彼のもとに伸一から、バラの花が届いた。花を手に、生きて今日を迎えられたことに、心から感謝した。
 彼が筋ジストロフィーの診断を受けたのは、小学校に入学する前であり、医師からは、六年生まで生きることは難しいと言われた。入所した療養所から学校に通い、やがて、通信制の高校に進んだ。療養所では、十九人の友が次々と亡くなっていった。
 伸一の激励に、彼は決意した。
 “自分の人生は、短いかもしれない。しかし、一日一日を懸命に生き、自らの使命を果たし抜きたい”――病というハンディがありながら、強く、はつらつと、未来に向かって進もうとする野中の真剣な生き方は、同世代の友人たちに、深い感銘を与えていった。
 彼は、県内の高校から、文化祭で講演してほしいとの要請を受け、「生きる勇気」と題して、自分の闘病体験と抱負を語った。それは大きな感動を呼んだのである。
 伸一は、白菊講堂の自由勤行会で、参加者と共に勤行したあと、懇談的に指導した。
 「日蓮大聖人の仏法は、いかなる世代にも必要不可欠です。飛行機が大空へ雄飛していく姿は青年時代であり、安定飛行に入って悠々と天空を進む様子は壮年時代といえる。その間には、乱気流に巻き込まれ、大きな揺れや衝撃を受けることもあるかもしれない。
 したがって、安全に飛行し、幸福という目的地に行くには、それに耐え得る十分な燃料と強いエンジン、すなわち大生命力が必要となり、その源泉こそが信心なんです。また、軌道を外さず誤りなく進むための計器、すなわち確かなる哲理が大切であり、それが仏法という法理なんです」
50  勝ち鬨(50)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「人生という空路を飛んだ飛行機は、やがて着陸の時を迎える。飛行機は着陸が最も難しいともいわれている。いわば、人生でいえば、総仕上げの年代であり、まさに一生成仏への滑走路に入れるかどうかです。この総仕上げの時を、いかに生きて、わが人生を荘厳していくかが、最も大事なんです。
 どうか皆さんは、年はとっても、心は青年の気概で、広宣流布のため、人びとの幸せのために、完全燃焼の日々を送っていただきたい。生涯求道、生涯挑戦、生涯青年です」
 彼は、こう話を結んだ。
 「飾られていた白菊の花も、会場入り口の花も、窓際の花も、すべてに皆様の真心が染み渡っている。その労作業に感謝と賛嘆の思いを託して拍手を送りたい。可能ならば、お正月までこのままにして、来館される方を楽しませていただければ幸いです」
 伸一は、この日、和歌を認めて贈った。
 熊本県の女子部には――
 白菊の
   その名の如き
     乙女等が
   茜の夕日に
     瞳ひかりぬ
 大分県竹田の同志には――
 月光の
   曲の聞ゆる
     城趾に
   竹田の友の
     笑顔嬉しや     
 伸一の一行が阿蘇の白菊講堂を発って、熊本市にある熊本文化会館に到着したのは、午後六時前であった。休む間もなく県幹部らとの懇談会が待っていた。
 終了後、彼は、県長たちに言った。
 「私が激励に訪れた方がよいお宅や、お店があったら、どんどん言いなさい。一軒でも、一人でも多くの同志とお会いしておきたい。大きな飛躍を遂げていくには、一人ひとりの同志にお目にかかり、悩みや疑問に耳を傾け、心から納得するまで対話することが肝要なんです。そして、信心への確信をもって、同志の生命を触発するんです。個人指導とは、人間を根底から蘇生させる真剣勝負の対話なんです」
51  勝ち鬨(51)
 十二月十三日昼、山本伸一は、学会員が営む喫茶店で、五十人ほどの各部の代表と懇談会をもち、さらに南九州婦人会館を視察して熊本文化会館に戻ると、会館を訪れる人と相次ぎ記念撮影した。
 夜には、熊本文化会館での会館落成五周年を記念する県幹部会に出席した。
 県幹部会では、県長の平賀功一郎から、明年五月に文化祭を開催することや、新世紀への出発の誓いをこめた「熊本宣言」などが発表された。
 伸一は、席上、熊本県、なかんずく水俣、八代、人吉、荒尾、天草、阿蘇方面等の同志の奮闘を讃えたあと、広宣流布のために呼吸を合わせていくことの大切さを訴えた。
 「広宣流布を進めていくうえで最優先すべきは、皆が呼吸を合わせていくことであるといっても過言ではない。学会が未曾有の大発展を遂げたのも、御本尊の仏力、法力によるのは当然として、皆が信心を根本に呼吸を合わせ、それぞれの地域の広宣流布に邁進してくださったからにほかなりません。
 活動を推進していくうえでは、協議が大事です。ところが、いろいろな考え方があり、なかなか意見がまとまらないこともあるかもしれない。そうした時には、常に、“なんのためであるか”に立ち返ることです。
 たとえば、旅客機の操縦士ら乗員は、大勢の乗客を無事に目的地へ運ぶために、安全を第一に考え、任務を遂行していきます。無理をしたり、冒険をしたりすれば、大きな事故につながりかねない。私たちの活動も、多くの仏子である同志を、安全、無事故で、崩れざる幸福の都へ運ぶことが目的です。そのために、皆が楽しく、生活と人生を歩めるように考慮し、全体観に立つことが必要です。
 皆が、この目的観に立ち、心を一つにして呼吸を合わせてこそ、実りある協議もできるし、目的を成就していくこともできる。
 よく戸田先生は、言っておられた。
 『信心のうえで呼吸が合わない人は、必ず落後していく』と。心すべきご指導です」
52  勝ち鬨(52)
 ここで山本伸一は、今回の宗門事件のなかで、学会の組織を攪乱するなどした幹部がいたことから、その共通性に言及していった。
 「これまで、私の側近であるとか、特別な弟子であるなどと吹聴し、皆に迷惑をかけた幹部が一部におりました。結局、私を利用して自分の虚像をつくり、同志を騙す手段にしてきたんです。
 私は、日々、さまざまな会員の方々と接しておりますが、皆、平等に、指導・激励にあたってきたつもりです。信心のうえで特別なつながりなどというものはありません。
 強いて言えば、私の身近にいて、すべてを託してきたのは、十条前会長であり、秋月現会長です。したがって、“自分は側近である。特別な関係にある”――などという言葉に騙されないでいただきたい。そんな発言をすること自体、おかしな魂胆であると見破っていただきたい。どこまでも、会長を中心に力を合わせていくことが、広宣流布を推進していくうえでの団結の基本です。未来のためにも、あえて申し上げておきます」
 さらに伸一は、「甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ」などの御文を拝して指導した。
 「信心を全うしていくうえで、大事なのは善知識であり、よき同志の存在です。不甲斐ない者であっても、助ける人が強ければ倒れない。反対に、少しばかり強くとも一人であれば、悪路では倒れてしまう。どうか、同志の強い励ましの絆で、一人も漏れなく、広宣流布の二十一世紀の山を登攀していっていただきたいことをお願い申し上げ、私のあいさつとさせていただきます」
 県幹部会を終えた伸一は、熊本文化会館内にある「聖教新聞」熊本支局の編集室を訪れた。翌日付の、岡城址での記念撮影が載った新聞の早版を、見ておきたかったのである。彼は、竹田から阿蘇に向かうバスのなかで、できる限り大きく写真を掲載してあげてほしいと、担当の記者に頼んでいたのだ。
53  勝ち鬨(53)
 山本伸一が熊本支局で待っていると、ほどなく明十四日付の「聖教新聞」の早版が届いた。彼は、すぐにページを開いた。二・三面に見開きで掲載された、竹田の同志との記念写真が目に飛び込んできた。これほどの大きな写真の扱いは異例である。一人ひとりの顔までよくわかる。誇らかに胸を張り、凱歌が轟くような写真であった。
 そして、「雄々しき大分竹田の同志に、長寿と多幸あれ」「岡城趾で『荒城の月』を大合唱」「『涙』と『悔しさ』に耐え抜いた三百人と」との見出しが躍っていた。
 彼は、居合わせた記者たちに言った。
 「すばらしいね。迫力がある。これで、みんな大喜びするよ! ありがとう!」
 翌日、大分県では、早朝から同志の喜びが爆発した。その記念写真は、烈風を乗り越えて、創価の師弟が二十一世紀への広宣流布の長征を誓う一幅の“名画”であった。
 写真に写った同志の多くは、この新聞を額に入れて飾ったり、家宝として大切に保管した。その後の人生のなかで、苦しいことや悲しいことに出遭うと、新聞に載った写真を見ては自らを元気づけ、勇気を奮い起こして頑張り抜いたという人も少なくない。
 この十四日、伸一は、福岡県にも足を延ばし、久留米会館を訪れた。会館に集っていた同志と厳粛に勤行し、激励したあと、八女会館を初訪問した。八女は、初代会長・牧口常三郎も、第二代会長・戸田城聖も弘教に奔走した、広布開拓の歴史を刻む地である。さらに、八女支部の初代支部長を務めた功労者宅を訪ね、家族と語らいのひとときをもった。
 引き続き、筑後市内の中心会場となっている個人会館で、筑後の代表や福岡県の幹部らと勤行し、懇談会を開いた。伸一は、広宣流布の途上には予期せぬ困難が待ち受けており、その時こそ、リーダーの存在が、振る舞いが重要になることを確認しておきたかった。
 御聖訓には、「いくさには大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」と仰せである。
54  勝ち鬨(54)
 山本伸一は、イギリスの首相チャーチルの姿を通し、指導者の在り方を語っていった。
 第二次世界大戦中、ヒトラーのナチス・ドイツは、イギリスの首都ロンドンを爆撃した。焼け跡に現れたチャーチルは、悠々と葉巻をくわえ、指でVの字をつくって歩いた。その姿に、人びとは勇気づけられた。
 「チャーチルには、“こんなことでロンドンは滅びない! イギリスは負けたりはしない!”という強い一念があった。その心意気を、多くのロンドン市民は感じ取り、奮い立っていった。一念は波動し、確信は共鳴し、勇気は燃え広がるんです。
 また、ヒトラーのやり口を見た市民たちには、“ヒトラーは異常な破壊者である。そんな人間が支配するナチス・ドイツに、断じて負けるわけにはいかない!”という強い思いがあった。それは、平和を欲する良識からの、正義の炎であったといってよい。
 今、正義の学会を攻撃し、破壊しようとする者もまた、いかに巧妙に善を装おうとも、常軌を逸した卑劣な正法の破壊者です。私たちは、その悪を鋭く見破り、断じて勝たなければならない。それなくして、広布の道を開くことはできないからです。
 リーダーである皆さんは、いかなる大難があろうが、巌のごとき信念で、絶対に勝つという強い一念で、悠々と、堂々と、使命の道を突き進んでください。その姿に接して、会員は、皆、安心し、勇気をもつからです。
 リーダーには、次の要件が求められます。
 『信念と確信の強い人でなければならない。
 誠実で魅力ある人でなければならない。
 さらに、健康でなければならない。常に生き生きと指揮を執り、リズム正しい生活であるように留意すべきである。
 仕事で、職場で、光った存在でなければならない。社会での実証は、指導力の輝きとなっていくからである。
 指導にあたっては、常に平等で、良識的でなくてはならない』
 以上を、心に刻んで進んでいただきたい」
55  勝ち鬨(55)
 十四日夜、熊本文化会館に戻った山本伸一は、翌十五日午前、長崎・佐賀県の幹部を招いて今後の活動などを協議し、午後には同会館で自由勤行会を開催した。
 これには熊本市内をはじめ、城南地域の八代・人吉・水俣本部、天草の同志、さらに、鹿児島・佐賀・長崎・福岡県の代表も参加し、晴れやかで盛大な自由勤行会となった。
 城南地域や天草からは、バスを連ねて集って来た。皆、喜びに胸を弾ませていた。
 これらの地域では、悪僧の奸計によって、学会を辞めて檀徒になった幹部もいた。昨日まで、すべて学会のおかげだと言っていた人物が、衣の権威を振りかざす坊主の手先となって、学会を口汚く罵り、会員に脱会をそそのかしていったのだ。同志は、悔しさに、断腸の思いで日々を過ごしてきた。
 “寺の檀徒をつくりたいなら、自分たちで、折伏すればよいではないか! それもせずに、信心のよくわからぬ、気の弱い学会員を狙って脱会させ、寺につけようとする! 卑怯者のすることじゃ! 信仰者のやることではない!”
 同志の憤怒は激しかったが、皆、僧俗和合のためにと、黙していた。理不尽な状況があまりにも長く続き、耐え忍ぶしかないと考えるまでになっていたのだ。歯ぎしりしながらも、ひたすら広布の前進と、正邪が明らかになることを願っての唱題が続いた。
 そのなかで、“燦々と光が降り注ぐような、あの自由な学会を、また築こう!”と、自らを鼓舞し、弘教に走ってきたのだ。
 やがて、事態は動き始めた。そして、長い苦渋の時を経て、ようやく希望の曙光を仰ぎ、伸一の熊本訪問を迎えたのだ。
 メンバーは、勇んで熊本文化会館をめざした。苦闘を勝ち越えた同志の胸には、厳として師がいた。伸一も、苦労し抜いて戦い続けてきた同志と会い、一人ひとりを抱きかかえるようにして励ましたかった。
 遠く離れていようが、何があろうが、共に広布に戦う師弟は金剛の絆で結ばれている。
56  勝ち鬨(56)
 自由勤行会は、希望みなぎる新しき旅立ちの集いとなった。地元・熊本の県長をはじめ、県幹部らのあいさつに続いて、地域広布への誓いを込めた、「天草宣言」「城南宣言」が、それぞれ採択された。
 「天草宣言」では、こう述べられていた。
 「天草の地は、歴史的に不幸な、あまりにも不幸な地であった。しかし、今我らは、日蓮大聖人の大仏法を根本として、楽土天草の建設に努力しあうことを誓う」
 「我ら“妙法の天草四郎”は、生涯青春の信心をもって、生き生きと、広宣流布の模範の地としゆくことを、ここに誓う」
 このあと、各県長らが登壇した。鹿児島県長は、明年中には鹿児島文化会館が完成の予定であることを報告し、佐賀県長は、明春、二万人の県友好総会を開催することを発表。長崎県長は、明春、諫早文化会館が完成の運びであることを紹介した。
 参加者の喜びのなか、マイクに向かった山本伸一は、熊本訪問に先立ち、十三年半ぶりに大分を訪れたことを述べ、西南戦争での大分・中津隊の戦いについて語っていった。
 「一八七七年(明治十年)、西郷隆盛の軍と政府軍は、田原坂で激戦を展開し、西郷軍は敗退してしまう。一方、大分の中津では、増田宋太郎と共に数十人が義勇軍として挙兵した。これが中津隊です。
 彼らは、阿蘇で西郷軍と合流し、見事な戦果をあげるが、最後は政府軍に敗れ、命を散らしてしまう。勇壮な戦いであったが、あまりにも悲惨です。
 広宣流布の前進にあっては、一人たりとも犠牲者を出してはならないというのが、私の決意であり、信条です。また、戦争で最も苦しむのは民衆であり、民衆は、常に苦渋を強いられてきた。それを幸せと希望の歩みへと転換していくのが、日蓮大聖人の御精神であり、創価学会の運動の原点でもあります」
 ――「君の無骨な手がふるえ 素朴な顔に輝きわたる生の歓喜を この地上に獲得するまで戦う」とは、彼の詩「民衆」の一節である。
57  勝ち鬨(57)
 山本伸一は、確信のこもった声で言った。
 「広宣流布に生き、弘教に励むならば、経文、御書に照らして、難が競い起こることは間違いない。これまでに私たちが受けてきた難も、すべて法華経の信心をしたがゆえに起こったものです。
 しかし、『開目抄』に説かれているように難即成仏です。広宣流布に戦い、難を呼び起こし、それをバネに偉大なる人生へ、無上の幸福へと大飛躍していく力が信心なんです。
 また、万策尽きて、生活や人生で敗れるようなことがあったとしても、私たちには御本尊がある。信心さえ破られなければ、必ず最後は勝ちます。いや、すべての労苦を、その後の人生に、財産として生かしていけます。
 安穏な人生が、必ずしも幸福とは言い切れません。また、難があるから不幸なのではない。要は、何があっても負けない、強い自己自身をつくることができれば、悠々と、あたかも波乗りを楽しむように、試練の荒波も乗り越えていくことができる。そのための信心であり、仏道修行なんです。
 ゆえに、いかなる大難があろうが、感傷的になるのではなく、明るく、朗らかに、信念の人生を生き抜いていただきたい。
 熊本といえば、『田原坂』の歌が有名ですが、人生には、いろいろな坂がある。広宣流布の道にも、“越すにこされぬ”険路がある。しかし、広布の使命に生きる私たちは、その宿命的な坂を、一つ一つ、なんとしても乗り越えていかねばならない。その戦いが人生であり、信心です。小さな坂で、へこたれては、絶対になりません。
 『田原坂』の歌には、『右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年』とある。
 私たちは、『右手に慈悲 左手に生命の大哲学』を持つ、凜々しき後継の青年部に、次代の一切を託してまいりたい」
 そして、結びに、「城南並びに天草の同志が、ますますの精進と団結とをもって、福運と栄光の人生を歩まれんことを、心よりお祈り申し上げたい」と述べ、あいさつとした。
58  勝ち鬨(58)
 山本伸一の話が終わると、会場には大きな拍手が広がった。なかでも、城南、天草の同志の多くは、感涙を拭い、頬を紅潮させ、立ち上がらんばかりにして、決意の拍手を送り続けるのであった。
 自由勤行会は、感動のなかに幕を閉じた。
 参加者は、熊本文化会館を出ると、足早に会館から歩いて二分ほどのところにある壱町畑公園に向かった。伸一の提案で、ここで記念撮影をすることになっていたのである。
 公園には、櫓が組まれていた。千五百人という大人数の撮影となるため、高い場所からでないと、全員がカメラに納まりきらないのである。
 皆が公園に集まったところに、伸一が姿を現した。
 うららかな春を思わせる陽気であった。
 「さあ、一緒に写真を撮りましょう!
 皆さんは耐えに耐え、戦い、勝った。まことの師子です。晴れやかな出発の記念撮影をしましょう。この写真は、『聖教新聞』に大きく載せてもらうようにします」
 歓声があがった。伸一は、皆に提案した。
 「皆さんは、試練の坂を、見事に越え、“勝利の春”を迎えた。一緒に、胸を張って、『田原坂』を大合唱しましょう!」
 熊本の愛唱歌ともいうべき、郷土の誇りの歌である。
 ゆっくりとした、力強い、歌声が響いた。
 雨はふるふる 人馬はぬれる
 越すにこされぬ 田原坂
 右手に血刀 左手に手綱
 馬上ゆたかな 美少年
 皆、勤行会での伸一の指導を?み締めながら、“これからも、どんな苦難の坂があろうが、断固、越えてみせます!”と誓いながら、声を限りに歌った。
 同志の目は、決意に燃え輝いていた。決意は、強さを引き出す力である。
59  勝ち鬨(59)
 喜びにあふれた、はつらつとした「田原坂」の歌声が、晴れた空に広がっていった。
 熊本の同志たちは、熱唱しながら、悪僧らとの攻防と忍耐の日々が脳裏に浮かんでは消えていった。しかし、今、皆が勝利の喜びを噛み締めていた。
 山本伸一は、熊本の宝友の敢闘に対して、“おめでとう! ありがとう!”と、心で何度も叫びながら、共に合唱した。
 天下取るまで 大事な身体
 蚤にくわせて なるものか
 合唱が終わると、伸一は提案した。
 「凱歌は、高らかに轟きました。今、私たちは、見事に田原坂を越えました。万歳を三唱しましょう! 皆さんの大勝利と、二十一世紀への熊本の門出を祝しての万歳です」
 皆、大きく両手を振り上げ、胸を張り、天に届けとばかりに叫んだ。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 カメラマンがシャッターを切った。
 この熊本での写真は、十七日付の「聖教新聞」に、二・三面を使って大きく掲載された。無名の庶民による広布の凱歌の絵巻が、また一つ、描かれたのである。
 この日、伸一は、城南、天草の同志の代表に歌を贈った。
 妙法の
   城の南に
     嵐をば 
   耐えに耐えたる
     友や尊し
 天草に
   老いも若きも
     堂々と
   広布に生きゆく
     笑顔忘れじ
 伸一が、九日間にわたる九州指導を終えて東京に戻ったのは、十二月十六日であった。
 そして二十二日には、神奈川の小田原、静岡の御殿場方面の代表が集い、神奈川研修道場で開催された勤行会に出席した。これらの地域でも、悪僧らによって学会員は中傷され、非道な仕打ちを受けてきた。しかし、師弟の誓いに生きる同志は、決して負けなかった。師弟は魂の柱である。
60  勝ち鬨(60)
 山本伸一は、全国を回り、正信会僧の攪乱に苦しめられてきた同志を励まし、共に二十一世紀への出発を期そうと心に決めていた。
 小田原と御殿場は、神奈川県と静岡県に分かれているが、江戸時代には、共に小田原藩領であった。また、両地域の同志は、「日本一の富士山」を誇りとしてきた。
 一九七五年(昭和五十年)八月、小田原の友が「箱根すすきの集い」を開催した折には、御殿場の代表を招待した。そして、九月に行われた「御殿場家族友好の集い」には、小田原の代表が招かれている。
 宗門事件の烈風が吹き荒れてからも、互いに励まし合いながら、広布の険路を突き進んできたのであった。
 「信心を教えてくれたのは学会だ!」
 「『魔競はずは正法と知るべからず』だ。負けてたまるか!」
 同志は皆、師弟の道を堂々と踏破して、神奈川研修道場に集って来たのである。
 空は晴れ渡り、青く輝いていた。箱根の外輪山の向こうに、くっきりと、白雪の富士が浮かぶ。皆で、スクラムを組み、「ふじの山」の歌を合唱した。
 あたまを雲の上に出し
 四方の山を見おろして……
 巍々堂々たる富士の如く――それは、小田原と御殿場の同志の、心意気であった。
 この日、伸一は、和歌を贈った。
 白雪の
   鎧まばゆき
     富士の山
   仰ぎてわれらも
     かくぞありけり
 限りなく
   また限りなく
     広宣に
   天下の嶮も
     いざや恐るな   
 伸一は、年の瀬も、東京の板橋、江東、世田谷、江戸川の各区を訪問し、さらに神奈川文化会館を訪れている。御聖訓に「火をきるに・やすみぬれば火をえず」と。全精魂を注いでの間断なき闘争によってこそ、広布の道は切り開かれるのだ。
61  勝ち鬨(61)
 闇を破り、赫々と青年の太陽は昇る。
 清らかな瞳、さわやかな笑み、満々たる闘志、みなぎる力――青年は希望だ。若人が躍り出れば、時代の夜明けが訪れる。
 一九八二年(昭和五十七年)――学会は、この年を、「青年の年」と定め、はつらつと二十一世紀へのスタートを切った。
 元朝、山本伸一は、神奈川文化会館から、東天に昇りゆく旭日を見ていた。
 “いよいよ青年の時代の幕が開いた!”
 彼は、各方面に行くたびに、そのことを強く実感していた。自身が手塩にかけて育ててきた青年たちが、若鷲のごとく、たくましく成長し、新世紀の大空へ大きく羽ばたかんと、決意に燃えているのだ。
 “創価の全同志よ! 時は今だ。今こそ戦うのだ。青年と共に広布の上げ潮をつくろう”
 伸一は、新年にあたり、和歌を詠んだ。
 妙法の
   広布の彼方に
     山みえむ
   金剛かがやき
     旭日光りて
 幾たびか
   嵐の山を
     越え越えし
   尊き同志の
     無事ぞ祈らむ
 死身をば
   弘法にかえゆく
     嬉しさよ
   永遠に残りし
     歴史なりせば  
 元日、神奈川文化会館では、八階、七階、五階、三階、地下二階と、五会場で新年勤行会が行われた。モーニングに身を包んだ伸一は、各会場を回り、十数回にわたって勤行会に出席し、参加者を励ました。
 彼は、この一年こそ、新世紀への勝利の流れを開く勝負の年であると心に決めていた。それには、自らが同志の中へ入り、語らいを重ね、率先垂範をもって皆を鼓舞し、触発していく以外にないと結論していた。
 闘将は、闘将によってのみ育まれる。
 午後、創価高校サッカー部のメンバーが、神奈川文化会館に創立者の伸一を訪ねて来た。彼らは、全国高校サッカー選手権大会の東京Bブロック代表となり、東京・国立競技場で行われた開会式が終わると、直ちに、大会出場の報告にやって来たのである。
62  勝ち鬨(62)
 山本伸一は、創価高校のサッカー部員と共に記念のカメラに納まった。全国選手権大会に出場するのは、初めてのことである。
 伸一は、選手たちに声をかけた。
 「いつも通りに、伸び伸びとね」
 メンバーは、肩に余計な力が入っていたのが、すっと抜けるような気がした。
 彼は、周りにいた人たちに言った。
 「負けた時には、明るく笑って、励ましてあげてください。勝った時には、泣いてあげてください」
 翌二日、創価高校は一回戦を迎えた。対戦相手は、大分代表の高校である。この日は、伸一の五十四歳の誕生日であった。
 選手たちは、「初戦の勝利をもって、創立者の誕生日をお祝いしよう」と誓い合った。皆、普段以上に力を発揮できた。また、見事な連係プレーが随所に見られた。
 ゴールキーパーの選手は、年末の練習試合で左膝内側の靱帯を損傷したが、テープを巻いて出場し、鼻血を出しながらもゴールを守り抜いた。しかし、容易に決着はつかず、試合は0対0のまま、PK戦となった。そして、シュートが決まり、創価高校が勝利したのだ。“負けじ魂”が光る勝負であった。
 この試合は、テレビ中継されており、学園寮歌「草木は萌ゆる」(後の創価中学・高校の校歌)の歌声が流れ、胸を張って熱唱する選手たちの凜々しい表情が放映された。
 四日には、二回戦に臨み、北海道代表と対戦した。接戦の末に0対1で惜敗したが、初出場ながら、いかんなく敢闘精神を発揮した試合となった。
 対戦した北海道代表のフォワードは高等部員であった。彼は、試合終了後、創価高校の監督のもとへ駆け寄り、「ありがとうございました!」と一礼し、自己紹介した。二人が固い握手を交わすと、拍手が起こった。
 「これから創価高校の分まで頑張ります」と語る、彼の姿がさわやかであった。
 もう一つの青春のドラマであった。
63  勝ち鬨(63)
 元日、山本伸一は、神奈川文化会館で午前と午後にわたって新年勤行会に出席したあと、静岡県へ向かった。翌二日は、宗門の総本山での諸行事に参加した。
 三日には、静岡研修道場で静岡県の代表幹部を激励し、四日、五日は、自ら教育部の新春研修会を担当するなど、飛行機が勢いよく離陸していくように、フル回転で新年のスタートを切ったのである。
 九日、伸一は、学会本部の師弟会館で行われた首都圏高等部勤行会に、会長の秋月英介と共に出席した。
 彼は、戸田城聖が世界広宣流布を誓願して願主となった、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の創価学会常住の御本尊に、皆と一緒に深い祈りを捧げた。唱題しながら、十六年余り前の一九六五年(昭和四十年)十月、この会場で、当時の高等部の部長一人ひとりに、出来上がったばかりの部旗を授与した日のことが、鮮やかに思い起こされた。
 その時に集った高等部員の多くは、今や男女青年部の中核として、広宣流布の檜舞台に躍り出ていた。同様に、ここにいるメンバーも、二十一世紀を担う学会の柱となっていくことを思うと、彼の心は弾んだ。
 “学会には後継の若師子たちが、陸続と育っている。未来は盤石である”――この確信こそが、伸一の勇気の源泉であった。彼は、男女青年部を、学生部を、高等部、中等部、少年・少女部のメンバーを、さらに全力で励まし、育成していこうと決心していた。
 勤行のあと、伸一は、全参加者と共に、記念のカメラに納まり、若き俊英の前途を心から祝福した。さらに、少年・少女部の代表とも記念撮影した。
 それから、目黒平和会館(後の目黒国際文化会館)へ向かい、東京の目黒・品川区の代表との懇談会に臨んだ。目黒には正信会僧の活動拠点となってきた寺があり、同志は悪僧との攻防戦を続けてきたのである。
 “苦闘する同志を応援しよう!”――伸一は、年頭から激戦の地へと走った。
64  勝ち鬨(64)
 山本伸一は、目黒平和会館での懇談会で、参加者の報告に耳を傾けた。
 目黒の同志は、傲慢で冷酷な正信会僧らの攻撃によって、さんざん苦しめられてきた。それは、まさしく、学会の発展を妬んだ、広布破壊の悪行であった。
 伸一は、目黒の幹部に語った。
 「今こそ、本気になって戦いを起こす時です。行動です。どんな困難な状況にあっても、行動から新しい局面が開かれていきます」
 静かな口調であったが、力のこもった声であった。
 「皆の、なかでもリーダーの一念が変われば、いかに最悪な事態であっても、必ず道を切り開いていくことができます」
 このあと、伸一は、自由勤行会を行い、集って来た同志を全力で励ました。
 「正しい信心とは何か――それは、生涯、何があっても御本尊を信じ抜いていくことです。また、正邪、善悪に迷っている人には、真実を言い切っていくことが大事です。それには勇気が必要です。目黒の皆さんは、見栄や体裁にとらわれるのではなく、勇気をもって仏法対話のうねりを起こしてください」
 ――「人生が私たちに要求するのは勇気である」(ローザ著「大いなる奥地」(『世界文学大系83』所収)、中川敏訳、筑摩書房)とは、ブラジルの文豪ジョアン・ギマランエス・ローザの言葉である。
 翌日、伸一は秋田指導に出発することになっていた。準備もあったが、時間の許す限り激励を続けた。東京で最も苦しみながら、創価の正義の道を歩み通した目黒の同志に、勝利の突破口を開いてほしかったのである。
 この夜、伸一は、日記に記した。
 「僧の悪逆には、皆が血の涙を流す。此の世にあるまじきこと也。多くの苦しんでいった友を思うと、紅涙したたる思いあり。御仏智と信心は必ず証明される」
 仏法は勝負なれば、われらは必ず勝って、創価の正義を宣揚しなければならない。
 目黒の法友は、この年、「弘教千百十五世帯」という全国一の見事な発展をなし遂げていくのである。
65  勝ち鬨(65)
 上空から見た秋田は、美しき白銀の世界であった。一九八二年(昭和五十七年)一月十日午後二時過ぎ、山本伸一たちを乗せた飛行機は、東京から約一時間のフライトで、秋田空港に到着した。
 「こんな真冬に行かなくても」という、周囲の声を退けての、約十年ぶりの秋田指導である。彼が秋田行きを決行したのは、「西の大分」「東の秋田」と言われるほど、同志が正信会僧から激しい迫害を受けてきたからであった。それだけに、新年を迎え、松の内が過ぎると、“一刻も早く”との思いで、雪の秋田へ飛んだのである。
 彼は、出迎えてくれた県幹部とあいさつを交わし、空港ビルを出た。吹き渡る風は、頬を刺すように冷たい。車寄せに、七、八十人ほどのメンバーが待機していた。できることなら、皆のもとへ駆け寄り、一人ひとりと握手を交わし、敢闘を讃えたかった。しかし、ほかの利用者の迷惑になってはならないと思い、声をかけるにとどまった。
 「また、お目にかかりましょう!」
 伸一は、車に乗り込み、前年の末、秋田市山王沼田町に完成した秋田文化会館(後の秋田中央文化会館)へ向かった。車窓から見ると、雪化粧した大地が、雲間から差す陽光に映え、きらきらと輝いていた。前日は未明から朝にかけて、どか雪であったという。
 しばらく走ると、ガソリンスタンドの前に四十人ほどの人影が見えた。同乗していた、東北を担当してきた副会長の青田進が言った。
 「学会員です。皆、頑張ってくれました」
 伸一は、黙って頷くと、車を止めるように頼み、求道の友の方へ歩き始めた。革靴に、雪が解けた路面の水が染みていった。だが、同志が寒風のなかで待っていてくれたことを思うと、居ても立ってもいられなかった。
 「寒いところ、ご苦労様!」
 皆が歓声をあげた。真剣な、そして、“遂に、この日が来た!”という晴れやかな表情であった。苦労の薪が多ければ多いほど、歓喜の炎は赤々と燃え上がる。
66  勝ち鬨(66)
 ゴムの長靴にズボンの裾を押し込んだ中綿コートの壮年や、ブーツに毛糸の帽子を被った婦人、日曜日ということもあり、親と一緒に来た、頬を赤くしている子どももいた。
 山本伸一は、雪に足を取られないように注意しながら、大きく手をあげ、笑顔で皆を包み込むように、歩みを運んだ。
 「皆さん、ありがとう! お元気ですか?
 ご苦労をおかけしています。これからも私は、皆さんを守っていきます。全員、長生きして、幸せになってください。今日から新しい出発です。頑張ろうではないですか!」
 子どもの頭をなで、壮年たちと握手を交わしていく。仕事のことや健康状態などを報告する人もいる。“街頭座談会”であった。
 そして、一緒に記念のカメラに納まった。
 車が走りだして、しばらくすると、道路脇に立つ数人の人影があった。また車を止めてもらい、降りて励ましの言葉をかけ、一緒に写真を撮る。「聖教新聞」のカメラマンは、無我夢中でシャッターを切り続けた。
 それが何度か続き、牛島西二丁目の四つ角に近付くと、通り過ぎる車を見詰めている、七、八十人の一団がいた。行事の成功と晴天を祈って唱題していたメンバーであった。
 「きっと先生は、この道を通るにちがいない。表に出て歓迎しよう」ということになり、待っていたのだ。
 伸一は、すぐに車を降りた。皆、驚いて、喜びを満面に浮かべた。
 「皆さんにお会いしに来ました! 今日の記念に写真を撮りましょう!
 大変な、辛い思いをされた皆さんの勝利を祝福したいんです。私の心には、いつも皆さんがいます。題目を送っております。皆さんも、題目を送ってくださっている。それが師弟の姿です。普段はお会いできなくとも、私たちの心はつながっています」
 すると、一人の婦人が言った。
 「先生! 私たちは大丈夫です。何を言われようが、信心への確信は揺らぎません。先生の弟子ですから。師子ですから!」
67  勝ち鬨(67)
 車を走らせ、交差点から、ものの数百メートルも行くと、自動車工場の前にも、人が集まっていた。山本伸一は、ここでも降りて、“街頭座談会”を始めた。
 集っていた人のなかには、学会員に脱会を迫る寺側と懸命に戦い、同志を守り、励ましてきた地域のリーダーもいた。
 伸一は、固い握手を交わしながら、その健闘を讃えた。
 「皆さんが、同志を守ろうと、必死の攻防を展開されてきたことは、詳しく報告を受けております。私と同じ気持ちで、私に代わって奮闘してくださる方々がおられるから、学会は強いんです。それが異体同心の姿です。
 何かあった時に、付和雷同し、信心に疑いをいだき、学会を批判する人もいます。それでは、いつか大後悔します」
 彼の脳裏に「開目抄」の一節が浮かんだ。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 伸一は、言葉をついだ。
 「皆さんは負けなかった。“まことの時”に戦い抜き、勝ったんです。その果敢な闘争は、広布史に燦然と輝きます」
 皆の顔に、晴れやかな笑みが広がった。
 伸一は、秋田文化会館に到着するまでに、九回、同志と激励の対話を続けたのである。
 副会長の青田進と一緒に、伸一の車に乗っていた東北長の山中暉男は、その行動を身近に見て、深く心に思った。
 “先生は、一人ひとりに師子の魂を注ごうと、真剣勝負で激励を続けられている。これが先生の、学会の心なのだ。私も、同志を心から大切にして、励ましていこう!”
 精神の継承は、言葉だけでなされるものではない。それは、行動を通して、教え、示してこそ、なされていくのである。
68  勝ち鬨(68)
 秋田文化会館では、大勢の同志が山本伸一を待っていた。会館の庭には、伸一が認めた「秋田桜」の文字を刻んだ記念碑が設けられ、その除幕式や記念植樹の準備ができていた。
 会館に到着した伸一は、雲間から降り注ぐ太陽の光を浴びながら、除幕、植樹をし、皆で記念撮影もした。
 伸一が、会館の構内を視察していると、案内していた県長の小松田俊久から、玄関前の広場に名前をつけてほしいと要請された。
 「昨日は、雪だったようだが、今日は晴れた。『晴天広場』というのはどうだろうか。嵐も吹雪も、必ずいつかは収まり、晴れの日が来る。また、そうしていくのが信心だ」
 小松田は、顔をほころばせた。
 「『晴天』は、私たちの誓いです」
 ――十年前の一九七二年(昭和四十七年)七月、日本列島は大雨に見舞われた。東北指導のため、伸一が仙台を訪問した九日までに、九州、四国方面では山崩れや崖崩れが発生し、二百人近い死者、行方不明者が出ていた。「昭和四十七年七月豪雨」である。秋田県でも大雨となり、県北では、河川の氾濫による浸水害が多発した。
 秋田では十二日に、伸一との記念撮影会が予定されていた。だが、この豪雨のために、やむなく中止とした。しかし、伸一は、山形県での記念撮影会を終えると、十一日に秋田入りしたのである。
 “皆、水害に遭い、暗い気持ちでいるにちがいない。だから、万難を排して秋田へ足を運び、いちばん大変な思いをしている人たちを励まそう”との思いからであった。
 秋田会館を訪れた彼は、県内各地の豪雨被害の詳細な状況を尋ね、幹部の派遣や被害者へのお見舞いなど、矢継ぎ早に手を打っていった。会館で行われていた会合にも出席し、「変毒為薬」の信心を訴えたのである。
 この日は、既に雨もあがっており、空は美しい夕焼けに包まれた。以来、秋田の同志にとって、晴天、夕焼けは、豪雨という試練を越えた象徴となったのだ。
69  勝ち鬨(69)
 秋田の同志は、今、正信会僧による“嵐の宗門事件”を勝ち越え、“歓喜の晴天”のなかで、山本伸一を迎えたのだ。
 それだけに、「晴天広場」との命名を聞いた時、小松田俊久だけでなく、周囲にいた誰もが喜びを隠せなかったのである。
 この日、夕刻からは、秋田市内で東北代表者会議が行われた。その席で、大曲、能代などの寺院での、正信会僧による過酷で非道な学会員への仕打ちも、つぶさに報告された。
 ――ある寺では、法事を頼むと、来てほしいなら学会を辞めよと、ここぞとばかりに迫ってきた。そんな恫喝に屈するわけにはいかなかった。大ブロック長(後の地区部長)が導師になり、冷やかし半分でやってきた脱会者たちを尻目に、学会員は声を合わせて、堂々と、厳粛に読経・唱題し、法要を行った。
 別の寺では、家族が他界し、悲しみと戦っている婦人が、坊主から、「学会なんかに入っているからだ」と、聖職者とは思えぬ暴言を浴びせられたこともあった。
 代表者会議では、この両地域の同志を激励するために、派遣する幹部についても検討が行われた。伸一は語った。
 「これまでの皆さんのご苦労を思うと、胸が張り裂けんばかりです。よくぞ耐えてこられた。広宣流布のために正義を貫かれた皆さんを、御本仏は大賛嘆されるでしょう。
 ともあれリーダーは、皆を大きく包容し、守り抜いていただきたい。その際、こまやかな心遣いが大切です。人間は感情で左右されることが多いものであり、こちらの配慮を欠いた、些細な言葉遣いによって、相手を傷つけてしまうこともある。しかし、信心の世界にあっては、不用意な言動や暴言で、同志を退転に追いやってしまうようなことは、絶対にあってはならない。仏を敬う思いで、同志と接していくことが基本です。
 あくまでも一人ひとりを尊重し、良識豊かな、人格錬磨の世界こそが、わが創価学会であることを、深く自覚していただきたい」
70  勝ち鬨(70)
 山本伸一は、東北代表者会議を終えて、秋田文化会館に戻ったあとも、役員と勤行し、青年部と記念の写真を撮った。彼が、この一日で激励したメンバーは、約千人に及んだ。
 さらに伸一は、多くの同志が、家で諸行事の大成功を祈って、唱題してくれていることを聞くと、感謝の題目を送った。そして、後年、そのメンバーで「雪の秋田指導 栄光グループ」が結成されるのである。
 翌十一日は、朝から青空が広がった。太陽の光がまぶしいほどであった。
 正午前、彼は、東北方面や秋田県の幹部らと学会本部のバスで、秋田会館に向かった。この会館は、前年末に秋田文化会館が完成するまで、県の中心会館として使われてきた法城である。ここで、元日から一カ月間、伸一の世界平和推進への歩みを紹介する平和行動展が開催されていたのである。
 伸一は、年末年始も返上して準備と運営にあたってきた青年部員と会い、感謝の気持ちを伝えようと、足を運んだのである。
 「ご苦労様! よく頑張ってくれたね」
 運営役員や案内担当のメンバーに声をかけ、観賞のひとときを過ごした。
 そのあと伸一は、代表と昼食を共にしながら懇談し、さらに功労者宅を訪問した。かつて“日本海の雄”といわれた秋田支部の初代支部長を務めた故・佐藤幸治の家である。
 佐藤は、一九五三年(昭和二十八年)に三十九歳で入会した。東京に出ていた末の弟が信心を始め、この弟の弘教によって、前年には、長男の幸治を除いて、四人の弟・妹が次々と入会した。幸治は学会を見ていて思った。
 “学会は、これだけ多くの青年を魅了している。その学会の会長に、ぜひとも、直接、会って話を聞きたいものだ”
 そして、第二代会長の戸田城聖を訪ねた。語らいのあと、戸田は彼を見すえて言った。
 「秋田を頼みます!」
 その気迫と人柄に打たれて、彼は、思わず「はい。秋田で頑張ります」と答えていた。
 生命と生命の共感が、人間を動かす。
71  勝ち鬨(71)
 入会した佐藤幸治は、真剣に学会活動に取り組んだ。生来、生真面目な性格であった。
 当時、秋田は、蒲田支部の矢口地区に所属しており、山本伸一の妻の両親である、春木洋次と明子が、地区部長と支部婦人部長をしていた。二人は、毎月のように交代で、夜行列車に十二時間も揺られて、秋田へ指導、激励に通い続けた。
 そして、佐藤たちに、信心の基本から一つ一つ丁寧に、心を込めて教えていった。一緒に個人指導、折伏にも歩いた。御書を拝して、確信をもって、仏法の法理を語っていくことの大切さも訴えた。純朴な愛すべき秋田の同志は、砂が水を吸い込むように、それらを習得し、急速に力をつけていった。
 信心の継承は、実践を通してこそ、なされる。先輩の行動を手本として、後輩は学び、成長していくのである。
 佐藤の入会から一年後の一九五四年(昭和二十九年)には、八百世帯の陣容をもって秋田大班が誕生し、さらに、五六年(同三十一年)には、秋田支部へと発展し、佐藤は支部長に就いた。この時、支部婦人部長になったのは、妹の佐藤哲代であった。
 佐藤は、温泉などを試掘するボーリングの仕事に従事していた。戸田城聖は、宗門の総本山に、十分にして安全な飲料水がないことから、五五年(同三十年)の正月、地下水脈の試掘を彼に依頼した。総本山の水脈調査は、明治時代から、しばしば行われてきたが、「水脈はない」というのが、地質学者たちの結論であった。
 年々、多くの学会員が訪れ、宗門が栄えるにつれて、飲料水の確保は喫緊の課題となっていた。佐藤は、目星を付けた場所を、約三カ月かかって、二百メートルほど掘ってみたが、地下水脈には至らなかった。
 戸田は、「宗門を外護し、仏子である同志を守るために、必ず掘り当てなさい」と、厳しく指導した。佐藤は、広宣流布を願うがゆえに、どこまでも宗門を大切にする、戸田の赤誠に胸が熱くなった。彼は懸命に祈った。
72  勝ち鬨(72)
 佐藤幸治は、断固たる一念で、真剣に唱題を重ねた。ある日、別の場所を掘り始めると、わずか二十六メートルほどで、奇跡のように地下水が噴出した。水量は一分間に約二百十六リットルの水質良好の、こんこんたる水源であった。これによって、総本山境内に水道を敷設することができたのである。
 佐藤は、宗門の外護に尽くし抜いてきた学会の真心を踏みにじった悪僧たちを、終生、許さなかった。
 山本伸一は、会長を辞任する三カ月前の一九七九年(昭和五十四年)一月、青森文化会館を訪れ、東北の代表と懇談した。そのなかに佐藤と妹の哲代の姿もあった。佐藤は、二年前に肺癌と診断され、「余命三カ月、長くて一年」と言われていた。
 伸一は、彼の手を握り締めて語った。
 「信心ある限り、何ものも恐れるに足りません。一日一日を全力で生き抜くことです。
 また、朝日も、やがては夕日になる。赫々たる荘厳な夕日のごとく、人生を飾ってください。人びとを照らす太陽として、同志の胸に永遠に輝く指導を残してあげてください」
 佐藤は、不死鳥のごとく立ち上がった。率先して、学会員の家々を個人指導に歩いた。彼の励ましに触発され、多くの同志が、破邪顕正の熱き血潮を燃え上がらせた。皆が、創価の城を断じて守り抜こうと誓い合った。戦う人生には、美しき輝きがある。
 翌年五月、佐藤は六十六歳の人生の幕を閉じた。癌と診断されてから三年も更賜寿命の実証を示しての永眠であった。
 伸一の代理として妻の峯子と息子が弔問に訪れた。生前、伸一は、彼にステッキを贈っていた。本人の強い希望で、棺には、モーニングに身を包み、そのステッキを手にして納まった。「来世への広布遠征の旅立ち」との思いからであったという。
 以来、一年八カ月がたとうとしていた。黄金の夕日のごとき晩年であった。佐藤家を訪問した伸一は、夫人の美栄子や、妹の哲代ら家族、親族と勤行し、追善の祈りを捧げた。
73  勝ち鬨(73)
 佐藤宅での勤行を終えると、山本伸一は、遺族らに、しみじみとした口調で語った。
 「幸治さんは、本当に人柄のいい、信心一筋の人でした。大功労者です」
 それから、皆の顔に視線を注いだ。
 「幸治さんによって、佐藤家の福運の土台は、しっかりとつくられた。これからは、皆さんが、その信心を受け継ぐことで、永遠に幸せの花を咲かせ続けていくんです。
 トップで後継のバトンを受けても、走り抜かなければゴールインすることはできない。後に残った人たちには、あらゆる面で、周囲の人たちから、“さすがは佐藤家だ!”と言われる実証を示していく責任がある。
 これからは、いよいよ佐藤家の第二章です。一緒に新しい前進を開始しましょう」
 この十一日の夜、伸一は、秋田文化会館での県代表者会議に出席した。
 席上、県婦人会館の設置や、県南にも文化会館を建設する構想が発表され、歓喜みなぎる出発の集いとなった。
 伸一は、マイクに向かうと、まことの信仰者の生き方に言及していった。
 「それは、決して特別なことではありません。人生には、いろいろなことがあります。しかし、“何があっても、御本尊に向かい、唱題していこう!”という一念を持ち続け、堅実に、学会活動に邁進していくことです。そして、何よりも、自分の生き方の軸を広宣流布に定め、御書を根本に、法のために生き抜いていく人こそが、真実の信仰者です。
 これまで、一時期は華々しく活躍していても、退転して、学会に反旗を翻す人もいました。そうした人をつぶさにみていくと、決まって、わがままであり、名聞名利、独善、虚栄心が強いなどの共通項があります。
 結局は、自分自身が根本であり、信心も、組織も、すべて自分のために利用してきたにすぎない。いかに上手に立ち回っていても、やがては、その本性が暴かれてしまうのが、妙法の厳しさであり、信心の世界です」
74  勝ち鬨(74)
 山本伸一は、さまざまな苦難の風雪を乗り越えてきた秋田の同志に、自分の真情を率直に語っていった。
 「私は、ずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。
 弟子を名乗る者のなかにも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と言ってくる人もいました。それでも私は、寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気強く、対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。
 なぜか――騙されても、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ尽くすのが師であるからです。それが、私の心です。
 しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならば、それは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに、躊躇があってはなりません。
 人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃する――それが、私の三十数年間にわたる信仰生活の実感です。
 だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。
 私どもは、広宣流布のため、世界の平和と人びとの幸福のために、献身し抜いてきました。しかし、悪僧や、それにたぶらかされた人たちは、この厳たる事実を認識することができない。大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、悪人がどう見ていたかを述べられている。
 『或は悪人はすみる・或は悪人ははいとみる・或は悪人はかたきとみる
 歪んだ眼には、すべては歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」
75  勝ち鬨(75)
 大情熱にあふれた、山本伸一の指導が終わった。秋田の友の胸には、“日本海の雄”としての誇りと決意がみなぎっていた。
 退場にあたって伸一は、会場の後ろまで来ると、そこにいた一人の婦人に笑みを向けた。田沢本部の婦人部指導長である関矢都美子であった。
 彼女は、一九七九年(昭和五十四年)一月、伸一が岩手県の水沢文化会館を訪問した際、秋田県の代表として懇談会に参加し、県内での僧と檀徒による、常軌を逸した学会攻撃の様子を報告した。
 ――七八年(同五十三年)二月、寺は御講のために訪れた学会員を入場させないために、檀徒たちが入り口に立って、追い返した。しかし、関矢は、「あなたたちに、私を止める権利はありません」と言って本堂に入った。すると今度は、住職が「あんたは、出てってくれ!」と怒鳴り散らした。
 彼女は毅然として、理由を問いただした。「学会は謗法だからだ」と言う。すかさず、「なぜ、学会は謗法なんですか!」と一歩も引かず、学会の正義を訴えた。
 “遂に障魔が襲い始めた!”と感じた関矢は、学会員の激励に奔走した。一婦人の堂々たる創価学会への大確信と、理路整然とした破邪顕正の言に、多くの同志が立ち上がっていったのである。
 水沢での語らいから、三年がたっていた。
 伸一は、関矢に語りかけた。
 「先輩もいないなかで、本当によく頑張ってくれました。学会を守ってくださっているのは、何があっても、私と同じ決意で、“自分が、皆を幸せにしていこう! 一切の責任を担い立っていこう!”という人なんです。これが、学会の側に立つということです。
 学会を担う主体者として生きるのではなく、傍観者や、評論家のようになるのは、臆病だからです。また、すぐに付和雷同し、学会を批判するのは、毀誉褒貶の徒です。
 あなたは信念を貫き通してくださった。見事に勝ちましたね。ありがとう!」
76  勝ち鬨(76)
 山本伸一は、さらに関矢都美子に、力を込めて語った。
 「さあ、新しい出発ですよ。二十一世紀を、二〇〇一年の五月三日をめざして、一緒に前進しましょう」
 「はい。その時、私は八十一歳になっています。必ず元気に生き抜きますから、また、お会いくださいますか」
 伸一は、微笑みながら答えた。
 「あと、まだ二十年近くもあるじゃないですか。何度も、何度も、何度も、お目にかかりましょう。広宣流布のために、まことの時に苦労し、苦労し抜いて戦った方を、私は永遠に忘れません。あなたのお名前は広布史に残り、光り輝いていくでしょう」
 彼は、後日、関矢に句を贈っている。
 「世紀まで 共に生きなむ 地涌かな」
 翌日の一月十二日、秋田文化会館の落成を祝う県幹部会が開催された。
 これには、同じく宗門事件の試練を勝ち越えた大分県の代表も参加しており、席上、両県が「姉妹交流」を結び、“広布の虹の懸け橋”を築いていくことが発表された。また、秋田は、「支部建設」「座談会の充実」を掲げてスタートを切ることも確認された。
 この日、あいさつで伸一は語った。
 「私の唯一の願いは、皆様が、“健康であっていただきたい。安定した生活であっていただきたい。すばらしい人生であっていただきたい”ということです。そして、そのための信心であり、信心即生活であることを銘記していただきたいのであります」
 信心、学会活動は何のためか――それは広宣流布、立正安国のためであるが、その根本目的は、自分自身の幸福のためである。唱題とともに、広宣流布、立正安国の実現への実践があってこそ、自身の生命の躍動も、歓喜も、人間革命も、宿命の転換もある。
 さらに、わが家に、わがブロック・地区に、わが地域に、幸せの花を咲かせていく道が、日々の学会活動なのである。
77  勝ち鬨(77)
 秋田県幹部会で山本伸一は、“人生の最も深い思い出とは何か”に言及していった。
 「人それぞれに、さまざまな思い出がありますが、普通、それは、歳月とともに薄らいでいってしまうものです。
 しかし、信心修行の思い出は、意識するにせよ、無意識にせよ、未来永劫の最高の思い出として残っていきます。広宣流布の活動は、因果の理法のうえから、永遠の幸福への歩みであり、歓喜と躍動の思い出として、最も深く生命に刻印されていくからです」
 まさに、「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」と、御聖訓に仰せの通りである。
 伸一は、自身の文京支部長代理としての活動や、一カ月で一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げた関西での戦いを振り返りながら、日々、広宣流布に全力で走り抜くなかに、わが人生を荘厳する、黄金の思い出がつくられていくことを語った。
 この日、彼は、秋田の幹部らに言った。
 「来館した人たちと話し合っていると、『支部や地区のメンバーを、ぜひ、勤行会に参加させたい』との声が多い。そこで、明日は自由勤行会を行ってはどうだろうか」
 皆、喜びに頬を紅潮させながら頷いた。
 「よし、決定だ。これまでは支部幹部以上の集いだが、明日からは、希望者は全員参加だ。これからが勝負だよ。勤行会の回数は、二、三回になってもかまいません。私は、午前中、代表との協議会が入っているので、午前の勤行会が終了したところで参加した皆さんと合流し、一緒に記念撮影をします」
 自由勤行会開催の連絡が駆け巡った。
 翌十三日朝は、前夜からの雪が降り続いていた。秋田の同志は、降りしきる雪のなか、県北西部の能代や県中央部の大曲などから、意気揚々と集って来た。
 「嵐吹きまく 雪原の 広布の法戦に 集いし我等……」とは、秋田の同志が、折に触れて歌ってきた県歌「嵐舞」の一節である。
78  勝ち鬨(78)
 山本伸一は、十三日朝、秋田文化会館で役員らと共に勤行したあと、市内での協議会に出席し、正午過ぎ、記念撮影の会場となる、会館前の公園へ向かった。
 そこには、午前中、二回にわたって行われた勤行会の参加者が、記念撮影のために喜々として集まっていた。雪は降り続いていたが、皆、元気いっぱいであった。
 思えば、この数年、秋田の同志は、歯ぎしりするような日々を過ごしてきた。
 ――悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常套手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会への悪口、中傷を繰り返してきた。揚げ句の果ては、「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。人間とは思えぬ、冷酷無残な、卑劣な仕打ちであった。
 そうした圧迫に耐え、はねのけて、今、伸一と共に二十一世紀への旅立ちを迎える宝友の胸には、「遂に春が来た!」との喜びが、ふつふつと込み上げてくるのである。
 伸一が、白いアノラックに身を包んで、雪の中に姿を現した。気温は氷点下二・二度である。集った約千五百人の同志から大歓声があがり、拍手が広がった。
 彼は、準備されていた演台に上がり、マイクを手にした。
 「雪のなか、大変にお疲れさまです!」
 「大丈夫です!」――元気な声が返る。
 「力強い、はつらつとした皆さんの姿こそ、あの『人間革命の歌』にある『吹雪に胸はり いざや征け』の心意気そのものです。
 今日は、秋田の大勝利の宣言として、この『人間革命の歌』を大合唱しましょう!」
 雪も溶かすかのような熱唱が響いた。
 君も立て 我も立つ
 広布の天地に 一人立て……
 伸一も共に歌った。皆の心に闘魂が燃え盛った。創価の師弟の誇らかな凱歌であった。
79  勝ち鬨(79)
 山本伸一は、秋田の同志の敢闘に対して、さらに提案した。
 「皆さんの健闘と、大勝利を祝い、勝ち鬨をあげましょう!」
 「オー!」という声が沸き起こった。
 そして、民衆勝利の大宣言ともいうべき勝ち鬨が、雪の天地に轟いた。
 「エイ・エイ・オー、…………」
 皆、力を込めて右腕を突き上げ、声を張り上げ、体中で勝利を表現した。
 降りしきる雪は、さながら、白い花の舞であり、諸天の祝福を思わせた。この瞬間、高所作業車のバケットに乗っていた「聖教新聞」のカメラマンが、シャッターを切った。
 伸一は、呼びかけた。
 「皆さん、お元気で! どうか、風邪をひかないように。また、お会いしましょう!」
 午後一時半過ぎからは、この日、三度目となる自由勤行会が行われた。
 ここにも伸一は出席し、勤行の導師を務めたあと、マイクに向かった。
 彼は、日蓮仏法の仏道修行の原理原則は、「信・行・学」であることを確認するとともに、そのための学会活動であることを力説した。そして、学会活動という実践のなかにこそ、仏道修行も、宿命転換も、一生成仏もあることを訴えたのである。
 また、秋田県創価学会には多くの立派な教育者がいることから、協議会で検討し、教育部員の代表によって「秋田教育者クラブ」が発足したことを紹介し、地域貢献の柱となっていただきたいと期待を寄せた。
 さらに、日本で最も広宣流布が進んでいる地域の一つとして仙北郡太田地域をあげ、その推進力となってきた草創の同志たちに光を当て、これまでの奮闘を讃え、心から励ましを送った。
 伸一は、“どうすれば、各地域の特色を生かして、有効に広宣流布を進めていくことができるか”を、さまざまな角度から、常に考え続けていたのだ。それが、広布を担う指導者の在り方だからである。
80  勝ち鬨(80)
 仙北郡太田地域で、初代地区部長として戦ってきたのが、小松田城亮である。
 彼は、一九五三年(昭和二十八年)、東京の大学で学ぶ五男が帰省した折、信心の話を聞いた。城亮の妻・ミヨは病弱で、長男の子どもたちは相次ぎ他界し、長男の嫁も結婚三年にして敗血症で亡くなっていた。先祖伝来の黄金の稲穂が実る広大な田畑を有してはいたが、心は暗かった。
 不幸続きの人生に合点がいかなかった彼は、仏法で説く因果の理法に触れ、半信半疑ながら、妻、長男と共に入会した。
 秋田県の太田町(後の大仙市の一部)周辺で、最初に誕生した学会員である。
 勤行を始めた妻は日ごとに元気になり、暗かった家に笑い声が響くようになった。また、激励に通ってくれる学会員が、それぞれ大きな苦労を抱えながらも、強く、明るく、前向きに生きる姿に、信心への確信をもった。
 人に仏法の話をしたくてたまらず、最初に弘教したのが従弟だった。妻の実家も、信心を始めた。時間をつくり出しては、ワラ蓑に菅笠姿で、夫妻で折伏に歩いた。
 地域には、親戚が多かった。親類から親類へ、そして知人へと弘教の輪が広がり、五九年(同三十四年)には、地元・太田地域に地区が結成され、城亮は地区部長になった。
 入会から十年ほどしたころには、親族のうち四十七軒が入会し、県南一円に約四千七百世帯の学会員が誕生するまでになった。しかし、順風満帆な時ばかりではなかった。六三年(同三十八年)には、出先で自宅の家屋が全焼したとの知らせを受ける。代々続いた家と家財道具を、すべて焼失したのだ。
 「『最高の教えだ。必ず守られる』と言っていたではないか!」と、疑問と不信の声があがった。だが、彼は、にこにこと笑みを浮かべて、胸を張って言い切った。
 「大丈夫し、すんぱい(心配)すんなって。御本尊さある!」
 心に輝く確信の太陽は、周囲の人びとを覆う、不安の暗雲をも打ち破っていく。
81  勝ち鬨(81)
 小松田城亮の一家は、仮住まいの作業小屋に御本尊を安置し、唱題に励んだ。弘教に、後輩の激励にと、自転車であぜ道を走った。
 やがて、家も新築することができた。
 一族の学会員からは、高校の理事長や役場で重責を担う人など、たくさんの社会貢献の人材が出ていた。また、学会にあっても、多くのメンバーがリーダーとして活躍している。県長の小松田俊久も、その一人であった。
 城亮の人材輩出の秘訣は、自分が弘教した人は、独り立ちするまで、徹底して面倒をみることであった。
 彼は、よく後輩たちに語ってきた。
 「自分が弘教した人が、一人で弘教できるようになるまで、一緒に行動し、育て上げる責任がある。つまり、自行化他の実践を教え抜くまでが折伏である」
 山本伸一は、一族、地域の広布の“一粒種”となった小松田城亮の話を、秋田の幹部から詳細に聞いていた。城亮は、既に八十四歳であるという。
 伸一は深く思った。
 “学会の大発展は、こうした、人知れず苦労を重ねながら、誠実と忍耐で、家族、兄弟、親戚、そして、地域の友人たちと、強い信頼の絆を結び、それを広げてきた数多の無名の英雄がいたからこそ、築かれたのだ”
 自由勤行会で伸一は、草創の同志の涙ぐましいまでの活動に深く敬意を表したあと、午前中の勤行会参加者を「吹雪グループ」、午後の、この勤行会参加者を「嵐舞グループ」とすることを提案した。
 喜びの大拍手が鳴りやまなかった。
 勤行会終了後、再び会館前の公園で記念撮影が行われた。雪は、すっかりやんでいた。
 小松田県長の音頭で、万歳を三唱した。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 勝利の雄叫びが天に舞った。
 この日を記念して、伸一は和歌を贈った。
 寒風に
   喜々と求道
     広布へと
   胸張る秋田の
     友は光りぬ
82  勝ち鬨(82)
 自由勤行会を終えた十三日夜、山本伸一は、秋田市内で行われた県青年部の最高会議に出席した。翌日は、県青年部総会が予定されていた。彼は、若きリーダーたちの意見、要望を聞くことに、多くの時間をあてた。
 地域広布の確かな流れを開くために、人材育成グループの充実なども話題にのぼった。
 秋田で世界農村会議を開きたいとの意見も出た。伸一は、「いいね」と言うと、笑顔で語り始めた。
 「こういう発想が大事だよ。食糧問題は、世界にとって深刻な問題だ。まさに農業に力を注ぐ東北の出番だ。東京など、大都市主導ではなく、農村から、地方から、人類の直面する重要課題の解決の方途を見いだして世界に発信していく――そこから、秋田の新しい未来も開いていくことができる。
 青年は、常に、『皆が、困っている問題は何か』『地域発展のために何が必要か』を考え、柔軟な発想で打開策を探っていくんです。不可能だと思ってしまえば、何も変えることはできない。必ず、なんとかしてみせると決めて、思索に思索を重ね、何度も何度も挑戦し、粘り強く試行錯誤を重ねていく情熱があってこそ、時代を変えることができる。これが青年の使命です」
 彼は、未来を託す思いで話を続けた。
 「東北や北海道は米の生産地として知られているが、昔は寒冷地での稲作は難しいとされてきた。長い間、品種改良などを重ね、懸命に努力し抜いて“今”がある。
 ドミニカのメンバーには、お米を使って、日本の『粟おこし』のようなお菓子を作ろうと工夫を重ね、成功した人もいます。
 たとえば、秋田ならば、“この雪をどうするか”を考えることも大事だ。これをうまく利用できれば、秋田は大きく変わるよ。一つ一つのテーマに必死に挑んでいくことだ。真剣勝負からしか、未来の突破口は開けません」
 “必ず、事態を打開していこう”と一念を定めるならば、自身の可能性は限りなく拡大していく。そして、新しき扉は開かれる。
83  勝ち鬨(83)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「何かを成し遂げよう、改革していこうと思えば、必ず分厚い壁があり、矛盾に突き当たる。いや、現実は矛盾だらけだ。しかし、そのなかを、日々、聡明に、粘り強く、突き進むしかない。ましてや、世界広宣流布は、前人未到の新航路だ。困難だらけのなかでの建設です。頼れる人など、誰もいないと思い、一人立つのだ!
 皆が“山本伸一”になるんです。全員が、この自覚に立つならば、二十一世紀は、洋々たる希望の世紀となる。明日の県青年部総会は、その船出の集いにしよう」
 翌十四日付の「聖教新聞」には、二・三面見開きで、「秋田 “冬は必ず春”の誉れの友の吹雪舞」の大見出しが躍った。そして、それぞれの面に一枚ずつ、全面を使って、前日の記念撮影の写真が掲載されたのである。
 十四日は、雪が激しく降り続き、一日中、気温は氷点下であった。伸一は、秋田文化会館で、次々と功労者に贈る和歌を詠み、また、支部証を揮毫していった。瞬間瞬間が完全燃焼の日々であってこそ、人生は金色に輝く。
 さらに彼は、会館にやって来た、仙北郡の太田地域で初代地区部長を務めた小松田城亮と妻のミヨを励ました。
 「健康、長寿を祈っています。お二人が元気であることが、みんなの誇りになります。同志を見守ってあげてください」
 そして、伸一は、会館前にある公園の一角に、地元・山王支部などのメンバーがつくった「かまくら」へ向かった。「かまくら」は、横手地方などで行われてきた、小正月(旧暦の一月十五日)の伝統行事の名であり、その時に雪でつくる室を「かまくら」という。
 彼は、激励の揮毫をしていた時、窓から、降りしきる雪のなか、「かまくら」づくりに精を出しているメンバーの姿を目にした。“秋田の冬の風物詩を知ってほしい”と労作業に励む同志の、尊く、温かい心遣いに胸を打たれた。その真心に真心で応えたかった。
84  勝ち鬨(84)
 山本伸一は、すぐに、「かまくら」づくりに励む同志への感謝の思いを和歌にして、色紙に認めて贈った。
 かまくらを
   つくりし友の
     嬉しさよ
   秋田に春の
     曲はなりけり
 伸一は、峯子と共に「かまくら」を訪れた。
 「おじゃましますよ」
 中は四畳半ほどの広さであろうか。絨毯が敷かれ、ロウソクがともされていた。
 案内してくれた人に、伸一は言った。
 「幼いころから、『かまくら』に入りたいと思っていました。夢が叶って本当に嬉しい」
 心づくしの甘酒に舌鼓を打っていると、外から、かわいらしい歌声が聞こえてきた。
 雪やこんこ 霰やこんこ……
 地元の少年・少女部員の合唱団らであった。
 「ありがとう!」
 伸一は、握手を交わし、一緒に写真を撮った。さらに中等部員や、岩手県から駆けつけた女子部員らとも、相次ぎカメラに納まった。また、「かまくら」をつくってくれた同志を讃え、「かまくらグループ」と命名した。一瞬の出会いでも、発心の旅立ちとするために心を砕く――それが励ましの精神である。
 学会にあって「日本海の雄」「東北の雄」といわれてきた秋田が、今、未来へと大きく飛翔しようとしていた。一月十四日夜、雪のなか、県内千五百人の代表が、伸一のいる秋田文化会館に喜々として集い、第一回県青年部総会が開催されたのである。
 席上、九月に秋田の地で第一回世界農村青年会議を、明年五月に野外会場を使って友好体育祭を開催することなどが発表された。
 さらに、伸一の提案を受け、この日の参加者全員をもって「二〇〇一年第一期会」とし、同年の五月三日をめざして、前進していくことが伝えられた。
 皆、一つ一つの発表に心を弾ませ、希望の翼を広げながら、決意を新たにした。
85  勝ち鬨(85)
 山本伸一は、県青年部総会が行われた十四日の夕刻、秋田入りして五軒目となる功労者宅を訪問したあと、後継の同志と会うことに胸を躍らせながら、この総会に出席した。
 会場に姿を現した彼は、「二〇〇一年第一期会」の結成を祝して、女子部と男子部の二回にわたって、参加者と記念撮影し、未来の一切を託す思いでマイクに向かった。
 「時間をどう使うかは、人生の大切なテーマです。『仕事を終えて午後六時から八時までの時間をいかに過ごすかによって、人生の成功者になるかどうかが決まってしまう』と語った人がおります。
 仕事に力を注ぐことは当然だが、就業時間のあとに、自分の信条とする活動を成し遂げていくかどうかによって、人生に格段の違いが生ずることは間違いない。この時間は、私どもにとっては学会活動の時間です。
 それは、自他共の永遠の幸福と繁栄のための行動であり、地域貢献の道であり、全世界の崩れざる平和を築く道でもある。そこには人生の歓喜があり、生きることの意味の発見がある。そして、現代社会の孤独の殻を破って、人間の心と心を結ぶ作業でもあります。
 この学会活動という軌道を、絶対に外すことなく、生涯、戦っていきましょう!」
 伸一の言葉に、一段と熱がこもった。
 「次代の広布は、すべて君たち青年部に託す以外にない。これからの十年間で、その大きな変化の時代を迎えていきます。ゆえに、心して、『勉強』『努力』し、自らを鍛え上げていっていただきたい。
 特に、生き方の哲学となる教学は、徹底して身につけてほしい。一流といわれる人たちは、必ずそれなりの努力をし、人の何倍もの苦労と研究を重ねている。今、諸君も、庶民の哲学者、民衆の指導者として、一切の根本となる大仏法を行じ、深く学んでいただきたい。そこに人間勝利の王道があります」
 秋田の、そして、東北の青年たちの胸に、二十一世紀の勝ち鬨をあげんとする誓いの種子が、この時、確かに植えられたのである。
86  勝ち鬨(86)
 青年が広宣流布の舞台に、澎湃と躍り出るならば、いかに時代が変わろうが、創価の大河は水かさを増しながら、悠久の未来へと流れていくにちがいない。
 山本伸一は、“青年たちよ! 学会を頼む。広布を頼む。世界を頼む。二十一世紀を頼む”と心のなかで叫んでいた。
 作家の山本周五郎は、「どんな暴い風雪の中でも育つものは育つ」(『山本周五郎からの手紙』土岐雄三編、未来社)と綴っている。
 伸一は、信じていた――ここに集った青年たちが、新世紀のリーダーとして立ち、友情と信頼のスクラムを社会に広げてくれることを! 広布を担う人材の陣列を幾重にもつくってくれることを!
 日蓮大聖人は仰せである。
 「たねと申すもの一なれども植えぬれば多くとなり
 伸一は、若き魂に、発心の種子を、誓いの種子を、勇気の種子を蒔き続けた。全精魂を注いでの労作業であった。しかし、それなくして、希望の未来はない。力を尽くして、人を育てた分だけ、人華の花園が広がる。
 翌十五日、伸一は、秋田と大分の姉妹交流を記念し、両県の代表と共に、勤行会を行い、秋田文化会館を後にした。
 空港に向かった彼は、平和行動展の会場である秋田会館の前を通るように頼んだ。
 彼の乗ったバスが会館の前に差しかかると、数十人の青年たちが、横幕を広げて待っていた。「先生 ありがとうございました」という、朱の文字が目に飛び込んできた。伸一は、笑みを浮かべ、大きく手を振った。
 皆が口々に叫んだ。
 「ありがとうございます!」
 「秋田は戦います!」
 「また来てください!」
 青年たちも、手を振り続ける。束の間の、窓越しの交流であったが、心と心の対話であり、永遠に忘れ得ぬ一幅の名画となった。
 彼は、この秋田での六日間もまた、反転攻勢の一つのドラマとして、広布史に燦然と輝きを放つであろうと思った。
87  勝ち鬨(87)
 秋田指導の翌月となる二月の七日、山本伸一は休む間もなく茨城県を訪問した。
 茨城もまた、正信会僧による卑劣な学会攻撃の烈風が盛んに吹き荒れた地である。なかでも鹿島地域本部では、必死の攻防が続いてきた。鹿島、潮来、牛堀、波崎などの町々で、悪僧の言にたぶらかされて、檀徒となる会員が広がっていったのである。
 毎月の御講や、葬儀などの法事の席でも、学会への悪口雑言が繰り返された。それでも同志は、ひたすら耐えてきた。
 一九七九年(昭和五十四年)二月、鹿島地域の神栖に学会が建立寄進した寺院が落成した。同志は、この寺なら、清純な信心の話が聞けるだろうと希望をいだいた。しかし、落慶入仏式の席で、新任の住職から発せられたのは、学会を謗法呼ばわりする言葉であった。広宣流布を、僧俗和合を願っての赤誠は踏みにじられたのだ。龍ケ崎や筑波山南部の地域(後のつくば市)などでも、学会への非難・中傷が激しくなっていた。
 同志たちにとって、最も残念だったのは、つい先日まで一緒に広布に生きようと話し合ってきた友が、悪僧に踊らされていることが分からず、信心を狂わされ、人が変わったようになっていったことであった。
 “今に正邪は明らかになる!”“必ず、学会の正義を示してみせる!”
 同志は、こう誓い、郷土に“春”を呼ぼうと広布に走った。この時、皆で何度も歌ったのが、七八年(同五十三年)十月、伸一が作詞して贈った県歌「凱歌の人生」であった。
 君よ辛くも いつの日か
 広宣流布の 金の風
 歓喜の凱歌の 勝ちどきを
 天空までも 叫ばんや
 ああ茨城は 勇者あり
 一節一節から、伸一の思いが、びんびんと伝わってくる。“勇者になるんだ! 負けるものか!”との決意が、皆の胸に湧いた。
88  勝ち鬨(88)
 一九八二年(昭和五十七年)二月七日の午後、山本伸一は、水戸婦人会館を視察したあと、水戸市内の茨城文化会館を訪問し、落成を祝う県代表者の集いに出席した。
 この席で彼は、「今回の訪問で一人でも多くの同志と会い、希望の目標を示し、新世紀への出発をしたい」との思いを語った。
 翌八日には茨城文化会館の落成記念県幹部会に出席。ここでは、学会の幹部でありながら、退転していった者の根本原因について言及していった。
 「信心がむしばまれていってしまった人に共通しているのは、強い慢心があることです。そこに最大の原因があるといえます。
 実は、慢心と臆病・怠惰とは、表裏をなしている。それゆえに慢心の人は、広布への責任をもたず、新しい挑戦や苦労を避けようとする。だから進歩も成長もない。その結果、信心は淀み、心はエゴに支配され、憤懣があふれる。それが、広宣流布の破壊の行動となっていくケースが多い。
 また、慢心の人は、必ずといってよいほど、勤行を怠っている。傲慢さに毒され、信心の基本を軽く見ているんです。
 若くして幹部になり、指導的な立場につくと、自分に力があると錯覚し、傲慢になり、周囲を睥睨する人もいます。しかし、役職があるから偉いのではない。苦労して、その使命と責任を果たしてこそ立派なんです。
 役職は一つのポジションであり、皆に使命があることを忘れてはならない。さまざまな立場の人が団結し、力を出してこそ、広宣流布を進めることができるんです。役職は、人間の上下の関係などでは断じてありません。
 私は、三十数年間、多くの学会員を見てきました。その結果としていえることは、“策の人”は長続きしない。“要領の人”は必ず行き詰まっていく。“利害の人”は縁に紛動されてしまう――ということです。
 結局は、求道の人、着実にして地道な信心の人、生活という足元をしっかりと固めてきた人が、人生の勝利者になっています」
89  勝ち鬨(89)
 山本伸一は、九日も、茨城文化会館落成記念の勤行会に出席し、水戸、鹿島、常陸から集った同志二千人を激励した。彼は訴えた。
 「仏の異名を『世雄』という。世間にあって、勇猛に民を導く人のことです。ゆえに御本仏・日蓮大聖人の門下である私たちは、どこまでも現実社会の荒海のなかで信頼を勝ち取る、力あるリーダーでなければならない。
 また、仏の別名を『能忍』ともいう。五濁悪世の娑婆世界、すなわち忍土に出現し、悪をよく忍び、慈悲を施す人のことです。大聖人の大難を思えば、私たちの難など、まだまだ小さい。信心は忍耐です。大聖人門下ならば、何があっても微動だにしない信心に立つことです。現実という嵐に挑み、耐え忍んで、人生勝利の旗を掲げてください」
 十日には、日立市に足を延ばし、日立会館落成五周年の記念勤行会に出席した。
 席上、伸一は、こう提案した。
 「水戸藩第二代藩主の徳川光圀が、この辺りの海上に朝日の昇るさまを見て、領内一の眺めであると賛嘆したことから、『日立』と呼ばれるようになったという。そこで、それにならって、組織の表記を、『常陸圏』から『日立圏』へと改めてはどうだろうか」
 皆、大喜びで、賛同の大拍手で応えた。
 十一日には、茨城文化会館で盛大に開催された県青年部総会参加者三千五百人と、構内の旭日庭園で記念のカメラに納まった。そして、このメンバーで「茨城男子二〇〇〇年会」「茨城女子二〇〇〇年会」が結成された。
 さらに同日、宗門事件の嵐が吹き荒れた鹿島の鹿島会館を初訪問し、第二代会長・戸田城聖の生誕記念勤行会を厳粛に執り行い、鉾田での鹿島地域本部の代表者会議に臨んだ。
 翌十二日には、石岡を経由し、土浦文化会館の開館三周年を記念する勤行会に出席し、場外の参加者とも記念撮影するなど、寸暇を惜しんで激励を重ねたのである。
 同志は勝った。凱歌の旭日は昇った。
 伸一の力走は続き、全国各地で師弟共戦の勝ち鬨を轟かせていった。

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