Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第30巻 「暁鐘」 暁鐘

小説「新・人間革命」

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1  暁鐘(1)
 ドイツは、ヨーロッパの歴史を画した宗教改革の発祥の地である。
 十六世紀初め、聖職者の腐敗、教義の形骸化、教会の世俗化が進むなかで、ローマ教皇は、ドイツでの贖宥状(免罪符)の販売を許す。贖宥状を買えば、犯した罪の罰は赦免されると宣伝され、売られていったのである。
 修道士のマルチン・ルターは、それに疑義をいだいた。救いは、どこまでも信仰によるものだ。彼は、「九十五箇条の論題(意見書)」を発表し、敢然と抗議の声をあげた。これが、宗教改革の新たな発火点となっていくのである。
 ルターは、ローマ教皇から破門されるが、信念を貫く。根本とすべきは聖書であるとし、自ら聖書のドイツ語訳も行っていった。そして、万人祭司主義の立場を取り、神のもとに人間は平等であると訴えたのである。
 山本伸一は、決意を新たにしていた。
 “ルターの宗教改革から四百数十年。今、二十一世紀を前に、全人類を救い得る、人間のための宗教が興隆しなければならない”
 一九八一年(昭和五十六年)五月十六日午後八時半(現地時間)、伸一は欧州広布に思いをめぐらしながら、フランクフルトの空港に降り立った。彼の西ドイツ(当時)訪問は、十六年ぶりであった。
 翌十七日、宿舎のホテルに、ボン大学名誉教授のゲルハルト・オルショビー博士、ヨーゼフ・デルボラフ博士夫妻、また、ベルリン自由大学教授のナジール・A・カーン博士の訪問を受けた。オルショビーは環境保全問題の研究で知られ、デルボラフは教育学、ギリシャ哲学の第一人者である。カーンはインド出身で宗教への造詣も深く、耳鼻咽喉科の権威である。皆、伸一とは旧知の間柄であり、再会を喜び合った。
 人間を脅かす諸問題は、今や複雑に絡み合い、種々の領域に及んでいる。ゆえに伸一は世界の知性との交流を深め、人類の平和と繁栄のために英知のネットワークを広げ、時代建設の新潮流を創ろうとしていたのである。
2  暁鐘(2)
 山本伸一は、フランクフルトでの識者との語らいのなかで、デルボラフ博士とは対談集を発刊していくことで合意した。
 以後、二人は六年がかりで対話を進め、対談集の原稿がまとまった時、博士は、その原稿を、「嬉しくて、いとおしくてたまらない」と言って、枕元に置いていたという。
 一九八九年(平成元年)四月、対談集『二十一世紀への人間と哲学――新しい人間像を求めて』が発刊された。しかし、博士は、その出版を待たず、八七年(昭和六十二年)七月に死去する。享年七十五歳であった。
 伸一は、その後も各界の識者と対話を重ね、対談集の出版に力を注いでいった。実は、そこには秘められた決意があった。
 ――あらゆる学問も、政治も、経済も、教育も、芸術も、その志向するところは、人間の幸福であり、社会の平和と繁栄である。
 日蓮大聖人は、天台大師の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」の文を引かれ、世を治め、人間の生活を支える営みは、仏法と違背せず、すべて合致していくことを訴えられている。
 その厳たる事実を、識者との語らいを通して、明らかにしておきたかったのである。
 さらに、環境問題や教育、核、戦争、差別、貧困等々、人類のかかえる諸問題の根本的な解決のためには、人間自身の変革が求められる。そこに、最高峰の生命哲理たる日蓮仏法を弘め、時代精神としていく必然性があることを示しておきたかった。また、意見交換を通して、その識見と知恵から学びつつ、問題解決に向けての視座と実践の方途を、探求していきたかったのである。
 “対談を通して、諸問題解決の具体的な道筋を示せることは、極めて限られているかもしれない。しかし、自分が端緒を開くことによって、多くの青年たちが後に続いて、人類の未来に光を投じてくれるであろう”というのが、彼の願望であり、期待であった。
 思想と哲学とを残すことは、未来を照らす灯台の明かりをともすことだ。
3  暁鐘(3)
 木々の緑を縫い、さわやかな薫風が吹き抜けていく。五月十七日午後、山本伸一が出席し、フランクフルト市内のホテルの庭で、ドイツ広布二十周年を記念する交歓会が行われた。これには、オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア、イタリア、そして日本から訪独中の親善交流団も含め、八カ国約八百人が集って、世界広布への誓いを固め合った。
 庭には、ステージが特設され、日本から世界広布の大志をいだいて渡独し、炭鉱で働きながらドイツ広布の道を切り開いてきた青年たちの苦闘などが、ミュージカル風に紹介された。彼らのなかには、初めて炭鉱での労働を経験した人が多くいた。肉体を酷使し、疲れ果て、食事の黒パンも喉を通らぬなかで、自らを叱咤して学会活動に励んだ。
 彼らの胸に、こだましていたものは、伸一が一九六三年(昭和三十八年)の『大白蓮華』八月号の巻頭言に綴った、「青年よ世界の指導者たれ」との万感の呼びかけであった。
 この青年たちをはじめ、草創期を築いた勇者たちの行動と努力が実り、ドイツにも数多の地涌の菩薩が誕生したのだ。「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」(「青年訓」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社)とは、戸田城聖の大確信であった。
 ステージでは、後継の少年少女が登場し、希望の五月を迎えた喜びの歌を合唱。大喝采を浴びた。
 登壇したドイツ理事長のディーター・カーンは、感極まった顔で語った。
 「十六年間の夢が、遂に、遂に、実現しました。山本先生が、こうして、わがドイツにいらしてくださったのです!」
 彼らは、日本で宗門僧らの学会への不当な仕打ちが続いてきたことを伝え聞いていた。「それならドイツの私たちが広宣流布を加速させ、世界広布の新天地を開こうじゃないか!」と、果敢に活動を展開してきたのだ。
 ドイツの大詩人ゲーテは、「合い言葉は戦い 次の言葉は勝利!」(ヨハーン・ヴォルフガング・ゲーテ著『ファウスト第二部』池内紀訳、集英社)と詠っている。それは、まさに皆の心意気であった。
4  暁鐘(4)
 交歓会には、来賓としてカーン博士らも出席しており、あいさつに立った。
 博士らは、いずれも、山本伸一が進める仏法を基調とした平和運動への期待を述べた。
 最後に伸一がマイクを取った。
 「私たちには、この地球上で幸せになる権利がある。平和に生きていく権利がある。また、自由に生きていく権利がある。
 では、それを実現していく源泉とは何か。日蓮大聖人の仏法であると訴えたい。
 なぜか――人間こそが一切の原点であり、最も大切なものは生命です。その生命をことごとく解明し、万人が等しく、尊極無上なる『仏』の生命を具えていることを説き、各人の崩れざる幸福と平和を確立する方途を示しているのが、大聖人の仏法であるからです。また、それを実践しているのが創価学会です。
 太陽が地球を遍く照らして、その光が恵みを与えるように、日蓮大聖人の仏法は、人びとに真実の幸福をもたらす教えであり、いわば太陽の仏法であります。
 仏法のその厳たる力を、全世界の同志の体験が証明しています。皆さんは、大仏法の光を浴びて、わが生命を蘇生させ、崩れざる幸せを築いてください。
 一人の人間を幸せにし、満足させ得ないような宗教が、どうして世界の平和を実現し得よう。どうして世界の人びとを救えようか。
 どうか、皆さんは、この太陽の仏法を確実に実践し抜き、一人ひとりが幸せを厳然と享受していただきたいのであります。
 今日の仏法兄弟の集いは、まだ小さな存在かもしれない。しかし、三十年、五十年、百年後には、この集いが幸福と平和の広宣流布の大潮流をもたらし、今日という日が、記念の日と輝いていくことを確信してください」
 伸一は、信心の目的は一人ひとりの幸福にあり、そこにこそ、平和運動の目的もあることを、確認しておきたかったのである。
 戦争がなければ平和なのではない。人間が生の喜びを噛み締め、歓喜に包まれ、幸せを満喫して生きてこそ、平和なのだ。
5  暁鐘(5)
 十八日の午後、山本伸一は、フランクフルト会館を訪れ、ドイツ広布二十周年の記念勤行会に臨んだ。会館では記念植樹や記念撮影も行われ、ドイツ広布の道を切り開いてきた同志の、さわやかな喜びの笑みが広がった。
 勤行会に引き続いて、伸一を囲んで、信心懇談会が行われた。
 彼は、東西に分断されたドイツの現状を憂えながら、語っていった。
 「ご存じのように、資本主義も行き詰まっている。社会主義も行き詰まっております。しかし、私どもは、それぞれの体制をうんぬんしようというのではない。どんな体制の社会であろうが、そこに厳として存在する一人ひとりの人間に光を当てることから、私たち仏法者の運動は始まります。
 際限のない人間の欲望を制御し、一人ひとりが自他共の幸福をめざして、身近な生活のうえに、社会のうえに、いかに偉大な価値を創造していくか――そこに、社会の行き詰まりを打開していく道があります。どんな理想を掲げた体制も、人間自身の生命の変革、すなわち人間革命なくしては、その理想は画竜点睛を欠き、絵に描いた餅にすぎない。
 日蓮大聖人の仏法は、宇宙根源の法とは何かを教えており、その法への信仰は、人間に内在する無限の創造力の根源である『仏』の生命を引き出していくためであります。
 混迷する社会にあって、わが生命に仏界を涌現させ、清新な生命力をみなぎらせ、明確なる人生道と幸福道と平和道を闊歩していく力となり、道標となるのが信心なんです。
 しかも、『天国』といった現実を離れたところに幸福を求めるのではなく、自分が今いる場所で、日々の現実生活のなかで、崩れざる幸福を確立していけると説いているのが、仏法の教えです」
 カオス(混沌)の様相を呈している時代だからこそ、仏法という確かな生命の哲学を求めることが、各人の人生にとっても、世界にとっても、大きな希望の光となることを、伸一は訴えたかったのである。
6  暁鐘(6)
 山本伸一は、ここで、ドイツの理事長たちから相談を受けていた事柄の一つである、離婚の問題について言及していった。
 欧米では、離婚が多く、メンバーから相談を受けることもあるという。理事長らは、仏法者として、これに、どう対処していけばよいのか、懇談の際、伸一に尋ねたのである。
 彼は、この問題について、考え方の原則を、あらためて確認しておこうと思った。
 「社会では離婚に関する問題が多いようですが、プライバシーについては、私たちは深く立ち入るべきではないし、干渉めいたことも慎むべきです。それぞれが責任をもって考えていく問題です。
 ただし、他人の不幸のうえに自分の幸福を築いていくという生き方は、仏法にはないということを申し上げておきたい。
 ともかく、よく話し合い、夫婦が信心をしている場合には、解決のために、互いにしっかり唱題し、どこまでも子どもの将来のことなどを考えて、できうる限り歩み寄っていく努力をお願いしたい。離婚をしても自身の宿命というものを変えることはできません。
 また、リーダーの心構えとして、悩める友が相談に来た場合、その人の人格、人権を尊重して、いっさい他言するようなことがあってはなりません。その人のプライバシーを、自分の家族や友人も含め、第三者に軽率に語るようなことは、絶対に慎むべきです。そんなことがあれば、本人に迷惑をかけるだけでなく、自分も、また学会も、信頼を失うし、幹部としては失格者であることを銘記していただきたい。
 これは、ドイツに限らず、日本においても、どの国にあっても、リーダーが厳守すべき鉄則であることを確認しておきます」
 伸一は、メンバーが疑問に思っていることや聞きたいことについて、わかりやすく、明快に語っておきたかった。そのために、フランクフルト入りした時から、皆に声をかけ、話に耳を傾けてきた。皆の心に宿った疑問を解決できてこそ、晴れやかな大前進がある。
7  暁鐘(7)
 山本伸一は、次いで、学会の組織はなぜ必要なのかについて、語っていった。
 「ともすれば、個人の自由と組織とは相反するように感じる人もいるかもしれない。しかし、国家でも、会社でも、また、いかなる団体でも、その目的を果たしていくためには、組織は不可欠です。同様に創価学会にあっても、皆が信・行・学を実践し、広宣流布を進めていく手段として、組織はなくてはならないものといえます。
 今、皆さんが、こうして信仰することができたのも、組織があっての結果です。また、多数の人びとが秩序ある前進をしていくためにも組織は必要であり、それがなければ、独善的で自分勝手な信心となり、いわゆる我見に陥りかねない。
 そうなれば、正しい信仰、正しい行学から外れ、妙法を基盤にした正しい生き方を確立していくこともできなくなってしまう。
 ともかく、一人だけの信仰では、進むべき軌道がわからなくなってしまうものです。信心を貫くには、大勢の人びととスクラムを組み、勇気ある人生を歩み抜けるよう励まし合い、退転を戒め合い、正道へ向かうよう守り合うことが大切です。そう考えるならば、組織というものが、いかに重要であるか、よくおわかりいただけると思う。
 ただし、組織は手段であり、個々人の信心の向上を促し、幸福になっていくための指導こそが、その出発点であることを忘れてはならない。あくまでも学会の組織の目的は、一人ひとりのメンバーの絶対的幸福であり、成仏にあります。組織での役職も上下の関係を意味するものではありません。幹部は、いわば団結の要となる存在といえます。
 ゆえに、メンバーは互いに尊敬し合い、共に社会の一員として理解、信頼し、励まし合いながら、人生を勝ち飾っていただきたい」
 学会は、人びとの幸福と人類の平和、すなわち広宣流布を実現する唯一無二の団体である。したがって戸田城聖は、「戸田の命より大切な学会の組織」と言明したのである。
8  暁鐘(8)
 懇談会のあと、山本伸一の一行はフランクフルト市内にある「ゲーテの家」を訪れた。
 三日前、伸一は、モスクワで、「トルストイの家」を視察していた。戦後の混乱した時代のなかで青春期を過ごした彼は、この文豪らの作品をむさぼるように読み、未来に生きる希望と力を得てきた。
 伸一は、文豪たちの住居を訪ね、その生活環境を知ることで、人間像と作品への洞察をさらに深め、機会があれば、青年たちに人物論や作品論を講義したいと考えていたのだ。
 「ゲーテの家」は、五階建てであり、一九四四年(昭和十九年)に戦火に焼けたが、復元されたという。
 伸一たちは、台所から食堂、居間、音楽室、美術室などを、一部屋一部屋、見て回った。ゲーテは、当時、フランクフルトきっての富豪であったといわれ、調度品なども見事な光沢を放ち、風格を感じさせた。
 書斎は四階であった。この部屋で、『若きウェルテルの悩み』や畢生の大著『ファウスト』などの執筆を手がけていったのである。
 部屋には、立って書くための机が置かれていた。ゲーテは、立って書くことを心がけていたという。ここにも、脈打つ青年の気概が感じられた。
 トルストイもゲーテも、当時としては、かなりの長寿であり、共に八十二歳で他界するが、生涯、ペンを執り続けた。ゲーテは、「太陽は沈む時も偉大で荘厳だ」(高橋健二著『ヴァイマルのゲーテ 評伝』河出書房新社)との言葉を残している。まさに、彼自身の人生の終幕を予言しているようでもあった。
 伸一は、今、自分は五十三歳であることを思うと、まだまだ若いと感じた。
 “人生の本格的な闘争は、いよいよこれからである。世界広布の礎を築くため、後継の青年たちの活躍の舞台を開くために、命ある限り行動し、ペンを執り続けなければならない”と、自らに言い聞かせた。
 伸一が西ドイツでの一切の行事を終え、次の訪問国ブルガリアへと飛び立ったのは、二十日の午後一時であった。
9  暁鐘(9)
 残雪をいただいたバルカンの山々が美しく輝いていた。フランクフルトを発って約二時間半、山本伸一たちの一行は、東欧の社会主義国であるブルガリア人民共和国(後のブルガリア共和国)の首都ソフィアの空港に到着した。この訪問は、ブルガリア文化委員会の招聘によるものであり、伸一にとっては初めてのブルガリアであった。
 ソフィアは山々に囲まれた緑の街である。
 空港で同委員会の第一副議長であるM・ゲルマーノフ文化担当大臣らの出迎えを受けた一行は、夜には文化委員会を表敬訪問し、さらに、ソフィア市内のホテルで行われた歓迎宴に出席した。
 翌二十一日午前、「九月九日広場」(後のバッテンベルク広場)にある、同国の初代大統領ゲオルギ・ディミトロフ廟を訪ね、献花し、冥福と平和への祈りを捧げた。九月九日は、ブルガリアの「革命記念日」である。
 続いて科学技術振興委員会に、N・パパゾフ議長を訪ねた。議長は病後で、公式行事に姿を見せることもなかっただけに、健康が懸念された。伸一が「今日はブルガリア訪問のごあいさつだけで、おいとまさせていただきます」と言うと、議長は笑顔を向けた。
 「もう大丈夫です。ぜひ、お目にかかろうと、この日を楽しみにしておりました」
 議長は、一九六七年(昭和四十二年)から七一年(同四十六年)まで駐日大使を務め、その間に伸一の講演を聞く機会があり、深い感銘を受けたという。また、当時、創価大学が建設中であったという記憶があるが、既に開学したのかを尋ねた。「もう十年になります」と答えると、嬉しそうに目を細めた。
 伸一は、両国の交流に全力を尽くすことを述べて、辞去しようとイスから立った。議長は両手を出して止めようとする。
 「私を心配し、大事にしてくれることは、本当に感謝します。しかし、医者の許可も得ています。どうぞ、座ってください」
 何か必死なものが感じられた。
 向上を欲する進取の精神は、対話を求める。
10  暁鐘(10)
 「お体をいたわってください」と言う山本伸一に、パパゾフ議長は、再度、座ることを勧め、胸の思いを一気に語った。
 「私は、山本先生の行動を、特に平和を願われ、人と人とが互いに理解し合うための文化交流に挺身されていることを、高く評価しております。駐日大使の時代から、山本先生にわが国に来ていただくことを、強く望んでおりました。今日、その念願が叶い、私は、嬉しくて仕方がないのです。
 ご存じのようにわが国は、バルカン半島にあって交通の要路にあたり、文明の交差点となってきました。それゆえに、古くから戦いが繰り返され、マケドニア王国、ローマ帝国、ビザンチン帝国に支配されてきました。モンゴルからの来襲もあり、オスマン帝国による支配は約五百年も続きました。第一次世界大戦、第二次世界大戦の辛酸もなめました。
 ですから、世界平和の実現は、私の、いやすべてのブルガリア人の悲願なんです。それだけに平和のために戦ってこられた先生の行動に期待を寄せ、大きな成果を収められるように望んでおります」
 その言葉には、平和を熱願する切実な思いがあふれていた。議長は言葉をついだ。
 「私は、科学技術振興委員会の議長として、将来、わが国の大学と、先生の創立された創価大学が交流できればと考えています」
 伸一は重ねて議長の健康を気遣い、「どうか、国家のためにもお体を大切にしてください」と述べ、固い握手を交わした。
 午後、教育省にA・フォル教育相を訪ね、引き続いてソフィア大学を訪問した。同大学は一八八八年に創立されたブルガリア最古の国立大学である。この日、大学から伸一に、名誉教育学・社会学博士の学位が贈られ、彼は記念講演を行うことになっていた。伸一の名誉学術称号の受章は、ソ連のモスクワ大学、ペルーのサンマルコス大学に続いて、これで三大学目となる。
 大学という知性の学府との交流は、未来にわたって平和を創造する連帯をつくり出す。
11  暁鐘(11)
 ソフィア大学は、聖クリメント・オフリドスキ通りにあった。青い屋根をもつ重厚な石造建築の校舎が伝統を感じさせた。
 山本伸一への名誉学術称号授与の式場となった講堂は、高い天井に彫刻が施され、荘厳な雰囲気に包まれていた。
 式典では、I・アポストロワ哲学部長が推挙の辞を述べたあと、I・ディミトロフ総長が立ち、古代ブルガリア語で認められた名誉博士の学位記を伸一に手渡し、握手を交わした。集っていた学部長や教授など、約百人の参加者から、盛んな拍手が起こった。
 引き続いて、「東西融合の緑野を求めて」と題する伸一の講演となった。
 彼は、ブルガリアは、地理的にも、歴史的にも、精神面においても、“西”と“東”とが交わり、拮抗してきた大地であり、西洋文明と東洋文明を融合・昇華させ、新たな人類社会を構築していくカギともいうべき可能性があることを訴えた。
 そして、ブルガリア正教など、東方正教における「神」と「人間」の距離について論じ、東方正教では「神」と「人間」との間に介在するものは、いたって少なく、両者の距離は近いとの洞察を語った。
 さらに、ブルガリアの革命詩人フリスト・ボテフの詩「わが祈り」の一節をあげた。
 「おお わたしの神よ 正しき神よ!
  それは 天の上に在す神ではなく
  わたしの中に在す神なのです
  わたしの心と魂の中の神なのです」(『フリスト・ボテフ詩集』真木三三子訳、恒文社)
 ここでは、既に「神」は「人間」の心の中にあり、民衆との隔たりはない。
 伸一は、わが胸中に「神」を見る、その考え方は、「神」が天上の高みから、人間の生命の奥深く降り来ることによって、人びとをあらゆる権威の呪縛から解き放とうとするかのようであると所感を述べ、ボテフの訴える「神」について言及していった。
 「それは、虐げられた農民、民衆に、燦々と降り注ぐ陽光にも似た、人類愛の叫びであります」
12  暁鐘(12)
 山本伸一は、人間自身のなかに「神」を見いだす、詩人ボテフらの考え方は、形態こそ違え、ブルガリアの掲げる社会主義ヒューマニズムの理想につながり、さらにそれは、一切の人びとに、“仏性”という尊極無上の生命が具わっていると説く、仏教の人間観さえ想起させると述べた。
 また、人間の内なる「神」というボテフの命がけの叫びは、「宗教であれ、何であれ、『人間のため』に存在している」ことを訴えるものにほかならないと強調した。
 宗教も、政治も、あるいは、科学も、文化、芸術も、この原点を忘却した時、たちまち堕落の坂を転げ落ちてしまうというのが、伸一の一貫した主張であった。
 次いで彼は、オスマン帝国の「軛の下」で起こった、一八七六年の「四月蜂起」に言及した。そして、その民族精神の高揚こそ、何にも増して人間の尊厳を守り抜こうとする、やむにやまれぬ生命のほとばしりであったとして、ブルガリアの担うべき役割を語った。
 「貴国の大地にへんぽんと翻る、この人間性の旗が失われぬ限り、道は、民族の枠を超えて、二十一世紀の人類社会へと、はるかに開けているでありましょう。それはまた東西両文明が融合し、平和と文化の華咲く広々とした『緑野』であることを、私は信じてやまないものであります」
 最後に、ブルガリアのシンボルが獅子であることに触れ、自分も一仏法者として獅子のごとく、人びとの幸福と平和のために世界を駆け巡っていきたいと決意を披瀝。参加者に、「獅子のごとく雄々しく、獅子のごとく不屈に、人間の自由と平和と尊厳の旗を振り抜いていっていただきたい」と念願し、約四十分にわたる講演の結びとしたのである。
 盛大な拍手が、講堂内に鳴り響いた。
 この日の名誉博士号の授与を記念して、記帳を求められた伸一は認めた。
 「学問のみが世界普遍の真理なるか
  学問が世界平和を左右しゆく真理なるか
  学問が未来の青年への正しき指標なるか」
13  暁鐘(13)
 ソフィア大学での記念講演を終えた山本伸一が訪れたのは、文化宮殿であった。今回の招聘元である文化委員会のリュドミーラ・ジフコワ議長(文化大臣)と会談するためである。彼女は、ブルガリア国家評議会のトドル・ジフコフ議長(国家元首)の息女で、文化を大切にするブルガリアを象徴するかのような、気品にあふれていた。
 伸一は、二月末から三月初めにかけてメキシコを訪問した折、ジフコワ議長が偶然にも同じホテルに宿泊していることがわかり、妻の峯子と共に会っていた。この時、既にブルガリア訪問が決まっており、招聘の中心者が議長であった。彼女は、諸外国と文化交流を推進していくことが平和の道を開くとの信念で、精力的に世界を駆け回っている途次であった。しかし、体調を崩していると聞き、伸一たちは、お見舞いの花束を届けたのだ。
 そして、三月三日、伸一と峯子は、健康を回復したジフコワ議長とホテル内で会見した。この日は、一八七八年にブルガリアがオスマン帝国から解放された記念日であった。
 彼女は、瞳を輝かせながら語った。
 「ご夫妻は日本、私はブルガリアと、お互いに遠く離れた世界の端と端に住みながら、こうしてメキシコの地でお会いできるとは、なんと嬉しいことでしょう」
 伸一も全く同感であった。
 彼は、議長の体調を考慮し、会見は、早めに終わらせようと思った。
 彼女は、オックスフォード大学などで学んだ歴史学者であり、穏やかな笑みを浮かべながら、話題にのぼった一つ一つの事柄の本質を、的確に語っていった。短時間の語らいであったが、聡明さと知性を感じさせた。仏法にも強い関心をもっているようであった。
 「文化は橋です。国と国だけでなく、体制と体制の間にも橋を架けてくれます。私は文化で戦争と戦いたいのです」
 彼女の断固たる言葉に、伸一は、美しき花を貫く芯を見る思いがした。「芯」とは、生き方の哲学であり、信念といえよう。
14  暁鐘(14)
 山本伸一と峯子は、メキシコでの出会い以来、約二カ月半ぶりに、ジフコワ議長と再会したのである。
 議長は、白いスーツに白い帽子を被り、あの柔和な微笑をたたえながら言った。
 「先ほど、ソフィア大学の名誉博士になられ、本当におめでとうございます。この学位記の授与は、先生のこれまでの実績が、名誉博士にふさわしいからこそです。
 私たちは、先生を『平和の大使』と考えております。先生は、人間と人間との交流を促進することになる文化交流に、人生をかけていらっしゃいます。ブルガリア人は文化を重んじる国民ですから、先生の生き方を深く理解することができます」
 伸一は、感謝の意を表した。
 会談は、ブルガリア民族の歴史、文化的伝統、東洋の文化とブルガリアの関連性等に及んだ。そのなかで、議長は、ブルガリア人の民族的背景に触れ、ブルガリア人は、トラキア人、スラブ人、原ブルガリア人で構成され、このうち原ブルガリア人は中央アジアから出ており、仏教文化とも深い関係があると語った。人類は、どこかで深くつながっているというのが、彼女の洞察であった。
 また、今後の文化交流についても意見交換し、民音(民主音楽協会の略称)を通して合唱団を日本へ招くことや、少年少女の交流などが話し合われ、実りある語らいとなった。
 伸一は、文化政策の重責を担い、奔走し続ける議長に、気遣いの言葉をかけた。
 「長い人生です。長い戦いです。ブルガリアのため、世界のために、ご無理をなさらずに、どうか、お体を大切にしてください」
 彼女は笑顔で頷いたあと、毅然と語った。
 「ありがとうございます。でも、重い立場にいる人には、重い責任があります。その責任を自覚して、全力で働くしかありません。たとえ、そのために何があろうとも……。それは、覚悟のうえのことです」
 不動の決意が光っていた。覚悟なくして大業を果たすことはできない。
15  暁鐘(15)
 一夜明けた二十二日午前、山本伸一たちは、ブルガリア国家評議会(後の大統領府)に、国家元首である同評議会のジフコフ議長を表敬訪問した。折からブルガリア建国千三百年祭で、外国の賓客が相次いでいることを考え、伸一は、最初に、「早くおいとまいたします」と告げて、語らいに入った。
 そして、黒海の汚染が進みつつあることを憂慮していた伸一は、沿岸諸国が協力し、浄化を進めていくことを提案した。
 黒海の海面から水深二百メートルより下は、地中海系の水が入り込み、停滞しているため、塩分が高い。溶存酸素もなく、硫化水素が多いことから、魚類はすめない状態であった。漁業は、主に、水深が浅く、各河川の流入で塩分の少なくなった北岸で行われてきた。しかし、この沿岸も、近年、各河川からの、流入泥土などによるヘドロ化が懸念されていたのである。
 「そこで、貴重な自然資源を守るうえからも、二十一世紀をめざして、黒海をたくさんの魚がすむ、豊かな“青い海”にしていってはどうでしょうか。
 その費用を捻出するために、沿岸諸国は、互いに少しずつ武器を減らし、力を合わせて、黒海をきれいにしていってはどうかと、提案したいと思います」
 議長は賛同しつつ、こう述べた。
 「そうです。お互いに武器を減らさない限り、その構想を実現することは不可能です。しかし、アメリカとソ連の緊張関係があり、北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構(WTO)の緊張関係があります」
 ソ連をはじめ、ブルガリアなどはワルシャワ条約機構の加盟国だが、黒海南側のトルコは北大西洋条約機構に加盟している。
 黒海の海はつながっている。しかし、沿岸諸国の背景にある東西両陣営の対立が、国と国との結束を阻み、環境破壊を放置させる結果になっているのだ。イデオロギーが人間の安全に優先する――その転倒を是正する必要性を訴え、伸一は世界を巡ってきたのである。
16  暁鐘(16)
 山本伸一は、さらにジフコフ議長に、「重工業も大切ですが、今後は軽工業を、もっと充実させていく必要があるのではないでしょうか」などの意見を伝えた。議長は「同感です」と述べ、今後の展望について語った。
 「最近、わが国は、次第に国民の生活レベルが上がりつつあるので、軽工業を重視し、人びとの生活を豊かにするように力を注いでいます。また、文化のレベルを、もっと上げることに取り組んでいます。パンは、今、豊富にあります。だから本を普及させ、各家庭の図書の充実に努めているところです」
 ジフコフは、戦後、ブルガリアが王制を廃止し、人民共和国となると、一九五四年(昭和二十九年)にはブルガリア共産党第一書記(後に書記長に改称)に就任し、首相も兼任した。以来、国家の最高指導者を務めてきた。
 テレビカメラが回るなかでの会見であった。伸一は、三十分ほどで辞去した。
 一行は、この日午後、ソフィアから車で二時間ほどのところにあるブルガリア第二の都市・プロブディフ市を視察した。新石器時代からの歴史をもつブルガリア最古の都市であり、木々の緑とレンガ色の屋根が美しいコントラストを描く街並みが続いていた。
 伸一は、地元の県議会副議長らと会談したあと、市内に建設されたトラキア団地に案内された。ここで記念に樅の木を植樹することになっていた。
 植樹をしようとすると、近くにいた子どもたちが集まって来た。「一緒に木を植えようよ」と語りかけると、皆、笑顔で頷いた。
 伸一は、「“この木が大樹に育ちますように。そして、ブルガリアと日本の友情が大きく育ちますように”との祈りを込めて、植樹させていただきます」と言って土をかけた。子どもたちが後に続いた。
 子らに、「将来、何になりたいの?」と尋ねると、目を輝かせて、口々に夢を語った。
 時代はどんなに激動したとしても、子どもが夢をいだけるならば、希望の未来がある。
17  暁鐘(17)
 山本伸一たちは、遺跡の町ともいうべきプロブディフの旧市街へ足を運んだ。ここにある、十九世紀のブルガリア・ルネサンス様式の重厚な建物で、ミシェフ市長から、市の歴史と現況について説明を受け、古い石畳を踏みしめながら市街を見学した。
 国定文化財である歴史的な建造物に案内されると、六十人ほどの少年合唱団が待っていた。濃い茶の上下に、フリルの付いた白いシャツを着た少年たちが、澄んだ美しい歌声で、次々と合唱を披露してくれた。
 そして、一人の少年が前に進み出て言った。
 「次は、日本のお客様のために、日本語で歌を歌います。『草津節』です」
 皆の心を和ませようとする配慮であろう。
 草津よいとこ 一度はおいで
  ハ ドッコイショ
 お湯の中にも コリャ花が咲くョ
 このあとに入る合いの手の「チョイナ チョイナ」が、「チェイナ チェイナ」という発音になってしまう。それがまた、いっそうかわいらしさを感じさせる。
 合唱が終わると伸一は、イスから立ち上がり、大きな拍手を送り、御礼を述べた。 
 「なんと清く、なんと美しく、なんと楽しい合唱でしょう。感動しました。ひと時の合唱のために、長い時間をかけて、一生懸命に練習してくださった、皆さんの真心が胸に染み渡ります。この短い出会いが、永遠の宝物となりました。ありがとう!
 一緒に日本で、温泉につかっているような、温かい気持ちになりました。どうか、日本へ来てください。友情を結んでください」
 子どもは“未来からの使者”である。伸一が、その使者たちに託して、未来に贈ろうとしたものは、“友情で世界を結び、平和を築いてほしい”とのメッセージであった。
 「子ども! 彼の小さな体には偉大なる魂が宿っている」(謝冰心著『冰心全集1』卓如編、海峡文芸出版社(中国語))とは、伸一夫妻が親交を結んだ中国文学の母・謝冰心の言葉である。
18  暁鐘(18)
 山本伸一は、二十三日夕刻、文化委員会のジフコワ議長の招きを受け、「文化の日」の前夜祭として行われた「平和の旗」の集いに出席した。これには、建国千三百年を祝賀する意義も込められ、ソフィア市郊外の名峰ビトシャ山を望む丘の上で、盛大に開催された。
 丘には、三十メートルをはるかに超える「平和の旗」の記念塔がそびえ立つ。塔には「調和」「創造」「美」の文字が刻まれ、また、塔の入り口の上には、キリル文字を創り出し、ブルガリア文化の礎を築いたキュリロス、メトディウス兄弟の絵が掲げられていた。
 「平和の旗」の集いは、一九七九年(昭和五十四年)の「国際児童年」を記念して始まったものである。第一回の集いには、ブルガリアはもとより、世界七十九カ国から、二千五百人の子どもたちが参加して交歓し、平和を誓い合った。日本からも体の不自由な子どもたちがブルガリアを訪れ、代表が自作の詩「生きる」を朗読している。世界が絶讃した集いであった。
 この催しを実現させる大きな力となったのがジフコワ議長であった。彼女は、世界を回って、平和を、子どもの未来を守ることを訴え続けてきたのだ。
 午後五時過ぎ、伸一と峯子がジフコワ議長と共に席に向かうと、色とりどりの民族衣装を着た子どもたちが、白と緑と赤のブルガリア国旗の小旗を振って歓迎してくれた。
 一行が着席し、合唱が始まった。
 その歌の意味は、“子どもの笑いと喜びで全世界を満たしたい。ビトシャ山から友情の翼をつけて、空高く、世界へ飛んでいきましょう”であるという。
 歌あり、民族舞踊あり……。伴奏にも、古くから伝わる笛や太鼓が登場し、どの演目にも、自国の文化への誇りがあふれていた。
 ジフコワ議長は、一つ一つの演技、演奏に対して、「よくできたわ。すばらしいわよ」などと声をかけ、大きな拍手で応える。
 そこには、子どもを慈しみ、守ろうとする、優しく、強い、“母の顔”があった。
19  暁鐘(19)
 あいさつに立ったジフコワ議長は、ブルガリアの「文化の日」の意義に触れ、この日は、キリル文字の原型を創ったキュリロス(スラブ読みはキリル)と兄メトディウスの永遠の功績を讃え、祝賀する日であることを語った。
 ――かつてブルガリアなどで使われているスラブ系言語を表記できる文字はなかった。九世紀にギリシャ人の宣教師であったキリル兄弟は、聖書等をスラブ系言語に翻訳するため、ギリシャ文字をもとにグラゴール文字を考案した。その後、弟子たちが修正を加えて、ブルガリアでキリル文字ができ、ロシアなど、広くスラブ語圏に伝わっていった。
 議長は、「平和の旗」の塔に刻まれた「調和」「創造」「美」の三つの言葉とともに、世界平和をめざしていきたいと呼びかけた。
 次いで山本伸一があいさつに立った。
 しとしとと雨が降り始めていたが、傘を差さずにマイクに向かった。
 「日本を代表して、かわいい、大切な皆さんに、ごあいさつを申し上げます」
 こう語ると彼は、用意してきた原稿を、ブルガリア語で通訳に読んでもらうだけにした。少しでも、子どもたちが雨に打たれる時間を短くしたかったのである。
 その原稿で彼は、「勇敢ななかにも、優しい思いやりにあふれた人に」「体と心を鍛えに鍛えていっていただきたい」と訴えた。
 また、人生そのものが闘いの異名であり、皆の夢多い前途にも幾多の試練や苦難が待ち受けているであろうと述べ、その時こそ、「障害や苦難は力を鍛える格好の場であると心に刻んで、雄々しく、たくましく成長していってください」と望んだ。
 子どもたちの大拍手が、丘に舞った。いよいよフィナーレを迎えた。
 世界各国から贈られた「平和の鐘」が鳴り響くなか、子どもの手で、聖火台に「平和の火」が点火され、赤々と燃え上がった。
 子どもたちの心に平和の火がともされるならば、二十一世紀の地球は、平和の光が満ちあふれる、輝く星となる。
20  暁鐘(20)
 ブルガリア建国千三百年を祝賀する「文化の日」のパレードが、二十四日午前、「九月九日広場」で盛大に行われた。山本伸一も招待され、ジフコフ国家評議会議長をはじめ、ブルガリアの政府閣僚らと共に、この祭典に出席した。
 前日の雨もあがり、初夏の太陽がまばゆかった。小・中学校や高校、大学、職場や地域のグループなど、老若男女の集団が、さっそうとパレードを繰り広げていく。キリル兄弟を讃えた大きな絵も掲げられ、パレードに花を添えていた。吹奏楽団は軽快な調べを奏で、バトントワラー隊は躍動の演技を披露しながら進む。
 ソフィア大学のパレードの先頭に立っているのはディミトロフ総長であり、教授、学生が続いていた。幼い子どもの手を引いたり、肩車をして歩く市民の姿もある。カーネーションを振っている人たちもいる。
 心は一つにつながりながら、笑みの花が咲く、伸びやかで人間味豊かな大行進である。
 来賓として招かれていたモスクワ大学のV・I・トローピン副総長は、伸一に言った。
 「ここにはヒューマニズムがあります。その理想は創価学会の精神にも通じています」
 翌二十五日の午後、伸一の一行はブルガリアを発った。ソフィアの空港に見送りに来たアレクサンドロフ文化委員会副議長は、頬を紅潮させながら語った。
 「私たちも、世界的な活躍をなさっている先生の、友人の一人に加えていただければ幸甚です。文化委員会のジフコワ議長も、先生ご夫妻の訪問を心から感謝し、『くれぐれもよろしく』と申しておりました」
 そのジフコワ議長は、二カ月後の七月二十一日に急逝する。享年三十八歳であった。早すぎる死を世界が惜しんだ。
 ブルガリアの美しき純白の花は、すべてを覚悟のうえで、全力で働き抜き、鮮やかに散った。伸一は峯子と共に、信念に生き抜いた気高き生涯を偲びつつ、冥福を祈った。
21  暁鐘(21)
 ブルガリア時間の五月二十五日午後三時二十分、ソフィア国際空港を出発した山本伸一の一行は、一路、オーストリアの首都ウィーンへ向かった。
 機中、伸一は、思った。
 “今回のブルガリア訪問で植えた文化交流と友情の苗は、大地深く根を張り、幹を伸ばし、二十一世紀の大空に、大きく枝を広げるにちがいない。また、やがて、この国にも、御聖訓に照らして、地涌の菩薩が陸続と出現する時が必ず来るはずだ。時代は変わる。ブルガリア広布の朝は、きっと来る!”
 この伸一のブルガリア初訪問から三年後の一九八四年(昭和五十九年)十月、創価大学とソフィア大学との学術交流協定が調印される。以来、創大生のソフィア大学への留学、ソフィア大学から創価大学への教員と学生の受け入れなど、活発な交流が行われていくことになる。また、九二年(平成四年)春には、伸一の「自然との対話」写真展(主催・東京富士美術館など)が、首都ソフィアの文化宮殿で開催され、開幕式にはジェリュ・ジェレフ大統領も出席している。
 九九年(同十一年)十一月には、ブルガリアを代表する知性であるソフィア大学教授のアクシニア・D・ジュロヴァ博士との対談集『美しき獅子の魂』が発刊され、その翌年には同書のブルガリア語版が完成した。
 この対談は、仏教とギリシャ正教という異なった基盤をもつ文化間の対話でもある。伸一は、東欧世界と日本を結ぶ一本の「新しい精神のシルクロード」になることを願い、対談を重ねてきたのだ。
 また、特筆すべきは、伸一の初訪問から二十年後、二十一世紀の開幕となった二〇〇一年(同十三年)の五月三日を記念し、ブルガリアにSGIの支部が結成されたことである。支部長は、創大生として初めてソフィア大学に留学したメンバーである。
 「一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」――まさに、御聖訓のままに、時代は動き始めたのだ。
22  暁鐘(22)
 美しい田園風景が広がり、緑の木々を縫うようにして碧きドナウが流れる。
 五月二十五日の午後四時(現地時間)、山本伸一たちは、ウィーンの空港に到着した。
 伸一がオーストリア入りするのは、ヨーロッパ初訪問の時以来、二十年ぶりであった。
 当時、メンバーは誰もいなかったが、今では、支部が誕生し、支部長の永村嘉春らが出迎えてくれた。彼は、印刷会社に勤務する、三十九歳の若きリーダーであった。
 永村は新潟県に生まれ、東京の専門学校でデザインを学び、紙工芸の会社に勤めた。一九六二年(昭和三十七年)に入会し、男子部として活動に励み、二十人に弘教を実らせた。二十七歳の時、世界広布に生きようと、シベリア鉄道を使い、オーストリアに渡った。
 仕事もなく半年が過ぎ、就職できなければ日本に送還されるという日の前日のことだ。既に厳寒の季節に入り、外は零下一〇度である。アパートで“オーストリア広布のために戦いたい”と、一睡もせず、懸命に祈った。
 夜が明けた。“帰国しかないのか”と、荷物をまとめて部屋を出た。隣室から現れた中年の男性と視線が合った。いきなり、「君、仕事は? うちで仕事をしないか」と言われた。男性は、ガソリンスタンドの経営者で、隣室に住んでいる従業員の青年が病に倒れ、人手がなくて困っているという。
 永村は、窮地を脱した。強き一念の祈りある限り、行き詰まりはないと確信した。
 七二年(同四十七年)、彼は、ウィーン在住の四人のメンバーが署名した色紙をもって一時帰国し、伸一と会った。広布建設へ確かな一歩を踏み出していたのだ。行動と実証をもって師に応えるのが、弟子の道である。
 永村は日本人の女子部員と結婚。夫妻でオーストリア広布の礎になろうと誓い合った。伸一がパリを訪問するたびに、彼は、列車に十八時間も揺られ、訪ねて来るのであった。
 “リーダーの自分が師を求め抜き、多くを吸収し、成長しなければ、組織の発展はない”というのが、永村の考えであった。
23  暁鐘(23)
 ウィーンの空港で山本伸一は、オーストリア支部長の永村嘉春に言った。
 「あなたに会いにきました。弟子が必死に奮闘しているんだもの。精いっぱい応援したいんだよ。もう大丈夫だよ」
 ちょうどウィーンは音楽祭のシーズンであり、世界中から人びとが訪れていた。
 翌二十六日、伸一は、宿舎のホテルでイギリスのオックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授と会談し、進行中の対談集『社会と宗教』の発刊に向けて、最終的な打ち合わせを行った。
 この夜、ホテルの会議室に、二十人ほどの現地メンバーが集い、信心懇談会が開かれた。彼は、皆の質問に答えながら、オーストリアの広宣流布の在り方について語った。
 「人びとの幸せを願う仏法者として、生命の尊厳と文化・平和を守り抜くために、行動する人であっていただきたい。その活動の源泉は唱題であることを銘記し、日々の一つ一つの課題に、勇んで挑戦していってください。そこに歓喜と希望と充実の人生がある。
 また、広布を担いゆく皆さんは、自分自身を、家庭を大切にし、良き市民として周囲の人たちから慕われ、尊敬される存在となって、地域、社会に貢献していくことが大事です。生活を離れて仏法はありません。
 一人ひとりが心身ともに健康で、人格的にも尊敬され、社会的にも立派な輝く実証を示していくことが、広宣流布の力となります。
 決して焦る必要はありません。二十一世紀をめざし、着実に、信頼の連帯を広げ、今は将来の大発展の基盤を築いてください」
 この席で待望のオーストリア本部が結成され、一本部二支部の陣容で新出発したのだ。本部長は永村である。
 翌二十七日は、ウィーン国立歌劇場を訪問し、エゴン・ゼーフェルナー総監督と会談した。前年秋に民音の招聘で行われた日本公演に対して、民音の創立者として御礼を述べたかったのである。
 友好の核心は誠意を尽くすことにある。
24  暁鐘(24)
 山本伸一は、二十七日、文部省を表敬訪問し、フレッド・ジノワツ副首相(文部相)と会談した。彼は、後に首相となる。
 ジノワツ副首相との語らいでも、ウィーン国立歌劇場が日本で公演したことが話題にのぼった。伸一は、「これからも、文化・教育の交流を通して、世界の平和に貢献していきたい」と、平和への信念を語った。
 その足で彼は、国立歌劇場から数分のところにある、ベルベデーレガッセ街にある永村嘉春のアパートを訪ねた。会場として使われている部屋は、十数畳ほどの広さであり、ここがウィーンの活動の拠点でもあるという。家族は、夫妻と七歳の長男、四歳の長女である。
 質素な部屋であった。しかし、この部屋こそが、オーストリア広布を担う人材の揺籃となり、幸と平和の新しき民衆史が織り成されていくことになるのである。
 伸一は厳粛な気持ちで、永村の家族や居合わせたメンバーと勤行し、皆の健康と成長、オーストリア広布の伸展を祈った。“幸福の凱歌を、声高らかに響かせてほしい”と。
 それから近くの庭園で、皆と記念写真を撮ったあと、ハイリゲンシュタットにある楽聖ベートーベンの記念館を訪れた。ここは、ベートーベンが住んだアパートで、難聴という絶望の淵に立った彼が、三十一歳の時、弟たちに宛てて遺書を書いたことから、“ハイリゲンシュタットの遺書の家”と呼ばれている。二階の二部屋だけの小さな記念館である。
 この家を三十五年間にわたって守り続けてきたという老婦人の案内で見学した。
 部屋には“遺書”の複製も展示されていた。
 音楽家でありながら、聴力が失われていったベートーベンは、希望を失い、自ら命を絶とうとさえ考える。彼は、この“遺書”に、「私を引き留めたものはただ『芸術』である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ」(ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳、岩波文庫)と記している。
 使命の自覚こそ、いかなる試練にも打ち勝つ力だ。使命に生きる時、無限の勇気が湧く。
25  暁鐘(25)
 ベートーベンのアパートを、山本伸一は丹念に見て回った。苦悩と戦いながら、優れた作品を生み出していった仕事部屋も見学した。彼の肖像画も飾られていた。
 ベートーベンの作曲にかける執念は、すさまじいばかりであったといわれる。一つの小節にも徹底してこだわり、納得のいくまで、修正に修正を重ね、十数回も書き改めたこともあった。
 彼は、ピアノ奏者としても高く評価されていたが、その演奏は、流麗さを求めるものではなく、魂を叩きつけるような、激しく、力のこもったものであった。
 部屋に置かれていたピアノも、木目の見える、頑丈そうなピアノであった。
 ベートーベンは述べている。
 「僕の芸術は貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」(ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳、岩波文庫)
 彼は、上流階級のための音楽ではなく、民衆のため、人間のための音楽をめざした。
 このあふれ出る一念が、彼を楽聖たらしめていったのであろう。崇高なる目的に生きる時、人間に内在する力が引き出される。
 このあと、伸一は、丘の上にあるレストランで、メンバーと夕食を共にしながら懇談し、オーストリア本部の出発を祝った。
 彼は、本部長になった永村嘉春に言った。
 「滞在中は、本当にお世話になったね。広宣流布は、長い戦いだ。無理は長続きしないものだよ。知恵を働かせて、よく睡眠をとるように心がけ、体に気をつけるんだよ」
 伸一は、永村が昼間は一行に同行し、夜遅く職場に戻り、仕事をしていたことを知っていた。しかし、永村は、そんなことはおくびにも出さなかった。中心者の彼に、この誠実さがある限り、オーストリアSGIは、やがて大きく発展していくだろうと思った。
 仏法は、生命の因果の法則を説いている。長い目で見た時、勝利を収めるのは誠実の人である。人生にあっても、広布にあっても。
 暮れなずむ空の下を、ドナウ川が静かに流れていた。二十一世紀へ向かうかのように。
26  暁鐘(26)
 青い空が広がり、太陽がまぶしかった。オーストリアのウィーンを発った山本伸一の一行は、五月二十八日午後三時(現地時間)、イタリアのピサ国際空港に到着した。
 「ベンベヌート!」(ようこそ!)
 瞳を輝かせ、太陽を思わせる朗らかさで、大勢のイタリアの青年たちが伸一を迎えた。
 二十年前の一九六一年(昭和三十六年)十月、伸一が最初にイタリアを訪問した時、ローマの空港に出迎えてくれたのは、仕事でイタリアに赴任していた一組の日本人夫妻だけであった。以来二十年、はつらつと集った多くの青年たちの姿に、彼は新しい世界広布の時代の到来を感じ、胸が高鳴るのを覚えた。
 一行は、フィレンツェのホテルに向かう途中、ピサの斜塔にも立ち寄った。
 翌日、伸一は、代表に和歌などを贈り、さらに、青年たちと、次々に対話を重ねた。
 そして、三十日午後、メンバーの家で開催された、イタリア広布二十周年の記念勤行会に出席した。これにはフィレンツェ大学で、医学、哲学、文学、経済などを学ぶ学生が、多数参加し、若々しい息吹にあふれた。
 また、シチリア島から船に乗り、さらに列車で十六時間かけて来たメンバーもいれば、南部のナポリやソレント、さらに北の経済の中心地ミラノから駆けつけた友もいた。
 伸一の導師で厳粛に勤行したあと、懇談会となった。そのなかで伸一は、ルネサンスに言及していった。
 「フィレンツェの緑の天地は、私にとって憧れの地でした。この地は、『神』に縛られた時代の窓を開け放ち、ルネサンスへの新しい波をつくった電源の地であったからです。
 ルネサンスは、もともと『再生』を意味するフランス語であり、日本では『文芸復興』とも『人間復興』とも訳されてきました」
 伸一は、人類史という大きな流れの中で、広宣流布の意味を確認しておこうと思った。人間の生命を変革し、民衆を蘇生させる創価の人間革命運動の真価は、歴史を俯瞰するなかでこそ、より鮮明になるからだ。
27  暁鐘(27)
 山本伸一は、青年たちに、未来を託す思いで語っていった。若き力が、いかんなく発揮されてこそ、新しい時代は開かれるからだ。
 「ルネサンスには、人間の解放があり、自由があり、それは、人間という原点への目覚めをもたらし、まことに新しき時代を打ち立てました」
 その担い手が、十四世紀にルネサンスの先駆的な役割を果たした詩人ダンテをはじめ、ボッカチオ、マキャベリ、ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロなど、フィレンツェの詩人、思想家、芸術家たちであった。
 ルネサンスの波は、ローマなど、イタリアの各都市に広がり、さらに、フランス、ドイツ、イギリスなど、西ヨーロッパからヨーロッパ全体に及び、宗教改革にも結びついていくのである。
 ルネサンスは、「古代に帰れ」「古典に帰れ」「人間に帰れ」との思潮のもと、人間を「神」と「教会」の軛から解き放ち、その限りない可能性を開花させていった。それは、まぎれもないヒューマニズムの勝利であり、人間的自由の讃歌であった。
 伸一の声に力がこもった。
 「しかし、人間は、真の自由を手にすることができただろうか! 本当に人間は、歴史の主役の座を手にしたか!
 残念ながら、違うといわざるを得ない。
 むしろ、人間は、『制度』の、『イデオロギー』の、あるいは『科学』や『機械』の奴隷になってしまっているといってよい。また、肥大化するエゴイズムのぶつかり合い、そして、精神の放縦の果てに待ち構える独裁、ファシズムの魔手――これが、現代社会の憂慮すべき現実といえる。
 つまり、ルネサンスによって解き放たれた人間は、自身の心を師とし、欲望や感情に翻弄され、片や、それを抑え込もうとする外なる力に縛りつけられ、求め続けた幸福から、著しくかけ離れた時代をつくってしまった」
 仏典には、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とある。
28  暁鐘(28)
 山本伸一は、今日、ルネサンスの理想を実現するために著名な思想家たちは、「新人間主義」「人間性革命」などを提唱し、人間自身の変革に最大の関心を寄せていることに言及した。そして、それなくしては、人間が時代と社会の主役となり、真の幸福を手にしていくことはできないと指摘。さらに、人間の変革のためには、自己自身を律し、無限の価値の創造をもたらす、生命の根本法が必要不可欠であると訴えたのである。
 「その法こそが、南無妙法蓮華経であり、人間の生命をあますところなく説き明かした日蓮大聖人の仏法なのであります。ここに、多くの思想家たちが理想とする人間変革の方途があり、この生命の大法にこそ、人類の未来を開くカギがあります」
 参加者の多くは青年、なかんずく大学生である。伸一の目には、イタリア広布の希望の未来が広がっていた。彼は、“皆が「生命の世紀」の新しき旗手として立ってほしい”と祈り念じながら言葉をついだ。
 「自身の将来のためにも、広宣流布の未来のためにも、今は、しっかり学問に励んでいただきたい。学生時代は、学問に打ち込むことが信心に通じます。もちろん学会活動は大切ですが、今、学ばずしては、生涯、悔いることになる。信心即生活であり、学生にとっては信心即学問であると言明しておきます」
 次に、学会の役職の考え方について語った。
 「学会の役職は、権威ではないし、役職のいかんによって、信心が強いか、弱いかが決まるわけでもない。したがって、役職というモノサシで人を評価し、後輩たちを下に見るようなことがあっては絶対にならない。どこまでも互いに尊敬し合い、信頼し合い、励まし合って、信心に取り組んでください。
 学会の役職は、広宣流布の責任を担うための責任職です。役職に就けば、苦労もあり、大変であると思う。同時に、それだけ、功徳、福運が積めることは間違いありません」
 伸一は、青年の育成に全力を注いだ。放っておいたのでは人は育たないからだ。
29  暁鐘(29)
 雲一つない抜けるような青空が広がった。
 三十一日午後、山本伸一が出席して、フィレンツェ郊外のセッティニャーノにある庭園で、イタリア広布二十周年を記念する友好文化総会が開催された。これには、イタリア各地から集ったメンバー七百人のほか、日本からの親善交流団なども加わり、日伊友好の陽気で賑やかな祭典となった。
 イタリアのメンバーにとっては、自国での初めての大行事である。皆、何日も前から、準備や練習に励んだ。舞台一つ造り上げるのも一苦労であった。皆、さまざまな作業に精を出し、演目の練習に努め、一人で何役もこなしながら、この日を迎えたのだ。
 会場に到着した伸一は、真っ先に、陰で行事を担っている運営役員の青年たちのもとへ向かい、全力で激励した。
 「一緒に、記念の写真を撮りましょう」
 男子部、女子部に分かれてカメラに納まったあと、彼は言った。
 「御書には『地涌の義』との言葉がある。広宣流布の使命を担い、人びとを救うために、陸続と地涌の菩薩が出現することを意味しています。皆さんは地涌の菩薩なんです。
 皆さんには希望もあるでしょう。また、大きな悩みもあり、挫折もあるでしょう。人生とは、苦難との闘争であるといえるかもしれない。しかし、すべての苦難、苦悩は、それを乗り越えて、仏法の偉大なる力を証明するためにある。つまり、苦悩の宿命があるからこそ、それを打開することによって、仏法の真実と正義が立証でき、仏法を流布していくことができる。そして、地涌の菩薩としての使命を果たしていくことができるんです。
 いわば、苦悩は、地涌の使命を果たしていくうえで、必要不可欠な条件なんです。ゆえに、宿命は即使命であり、どんなに激しい宿命の嵐が吹き荒れようが、乗り越えられないことなど絶対にありません」
 フィレンツェでの、多くの青年の誕生は、伸一に「地涌の義」を強く確信させ、世界広布への大いなる希望を感じさせた。
30  暁鐘(30)
 周囲には木々が茂り、薫風が吹き抜けるなか、イタリア広布二十周年を記念する友好文化総会が始まった。
 特設された舞台の正面には、太陽と、陽光を浴びて育つ動物や樹木、花が描かれている。その舞台で、ナポリのメンバーによる伝統舞踊をはじめ、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ジェノバ、トリノのメンバーなどが、次々と歌や踊りを披露していく。
 高齢の声楽家による生命力みなぎる独唱もあった。ベルガモのメンバーは、口笛と手拍子に合わせて、舞台狭しと陽気に踊った。
 女子部は、山本伸一が「白蓮グループ」に贈った「星は光りて」を日本語で歌い、婦人部も「今日も元気で」を日本語で合唱した。日本からの親善交流団も声を合わせ、やがて全員の大合唱となって青空に広がった。
 親善交流団は、「高知音頭」を踊り、「オー・ソレ・ミオ」(私の太陽)をイタリア語で歌い、大喝采を浴びた。
 伸一は、各演目が終わるたびに、大きな拍手で賞讃した。
 また、出演を終えたメンバーが、伸一のもとに駆け寄って来ると、「ありがとう。すばらしい演技でした」と、ねぎらいの声をかけ、固い握手を交わした。彼の席には人波が絶えなかった。未入会の両親を連れてくる青年もいた。目の不自由な少女の手を引いて訪れた父母もいた。
 その一人ひとりの話に、真剣に耳を傾け、渾身の力を振り絞るように、激励と指導を重ねた。“この時を逃せば、もう、お会いする機会はないかもしれない”との強い思いが、伸一にはあった。一瞬一瞬が勝負であった。
 友好文化総会は、イタリアの責任者である本部長の金光弘信のあいさつとなった。
 彼はメガネの奥の目を光らせながら、全メンバーを代表して誓うように叫んだ。
 「山本先生を迎えることができ、私たちは幸せです。今日はイタリアの新しい出発です。さあ、広布へ走りましょう! 勇気をもって挑戦を開始しましょう! 時は“今”です」
31  暁鐘(31)
 山本伸一は、この二十年間でイタリアの創価学会が目覚ましい発展を遂げたことが、何よりも嬉しかった。
 会場に、役員として走り回る小柄な日本人壮年がいた。十四年前のイタリア訪問の折、ローマのホテルのエレベーターで励ました小島保夫である。当時、美術学校に通う学生であった。本部長の金光弘信の報告では、現在、ローマにあって、支部の中核の一人として皆を守り、活躍しているという。
 自分に光は当たらなくとも、新しい青年たちを励まし、黙々と皆のために尽くす存在は貴重である。組織が強くなり、発展していくには、リーダーのもとに、そうした陰の力となる人が、どれだけいるかが決め手となる。広宣流布とは、結局は連携プレーであり、団結のいかんにかかっている。
 友好文化総会で伸一は、舞台に上がり、マイクを手にした。
 「遠くアルプス山中に湧いた一滴一滴の水が、イタリアの地を流れ、ポー川の大河となって、やがて、アドリア海へと至る。生命のルネサンスをめざす私どもの運動は、今は山中を下り始めたばかりかもしれないが、やがて三十年後、五十年後には、滔々たる大河の流れとなり、人類の新しき平和の潮流になるであろうことを宣言しておきます。
 そのためには、人を頼むのではなく、自分こそが広布の責任者であると決めて、一人立つことです。そして、日々、弛みなく、もう一歩、もう一歩と、全力で前進していく――この小さな行動、小さな勝利の積み重ねこそが、歴史的な大勝利をもたらします」
 伸一は、最後に、「いつも陽気に、そして祈りは真剣に。生活を大切に、体を大切に」と指針を示し、「世界の青年と手に手を取り、世界平和のために雄々しき前進をお願いしたい」と述べて話を結んだ。
 さらに、この夜、彼は、代表メンバーと懇談した。イタリアから宗教間対話の波を起こし、人間共和の新しい歴史を創ってほしいというのが、伸一の念願であった。
32  暁鐘(32)
 六月一日午前、山本伸一は宿舎のホテルでローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ会長と会談した。会長は、前日にロンドンからローマの自宅に戻り、朝、ローマを発ち、自ら車を運転して、四時間がかりで訪ねて来たのである。七十二歳にして疲れも見せず、精力的に動く姿に、伸一は感嘆した。理想に向かい、信念をもって行動する人は若々しい。
 二人の間では、対談集発刊の準備が進んでおり、この日も、指導者論などをテーマに語り合い、対談集の構成等の検討も行われた。
 ペッチェイ会長との会談を終えた伸一は、青年たちの代表と、ダンテの家へ向かった。
 家は石造りの四階建てで、博物館になっており、外壁には彼の胸像が飾られていた。
 ダンテは、ヨーロッパ中世イタリアの最高の哲人・詩人であった。一二六五年、フィレンツェに生まれ、三十歳の時、祖国のために尽くそうと政治家になり、頭角を現していく。しかし、政争と嫉妬の渦に巻き込まれ、無実の罪で祖国を永久追放される。
 彼の胸には、虚言、捏造、陰謀によって、正義が邪悪とされ、邪悪が正義とされる転倒を正さねばならぬとの、怒りが燃えていた。そして、『神曲』の執筆に着手し、キリスト教に基づく死後の世界を描き出していった。
 そこでは、虚飾や偽りは、一切、通用せず、誰もが生前の行為によって厳たる報いを受ける。人気を博した政治家も、著名な学者も、勲功の将軍も、聖職者たちも、皆、冷徹に容赦なく裁かれ、地獄に落ちていく。
 彼は死後の世界を描くことで、人は、いかに生きるべきかを突きつけたのである。
 仏法は、三世を貫く生命の因果の理法である。この法に則り、日々、広宣流布という極善の道を行くわれらは、三世永遠に、崩れざる幸福境涯を確立できることは間違いない。
 日蓮大聖人は、「きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」と仰せである。使命に生き、勇み戦う歓喜の境涯は永遠であり、死して後もまた、われらの生命は歓喜に燃え輝く。
33  暁鐘(33)
 ダンテの『神曲』は、神の審判という尺度をもって、嫉妬、欺瞞、傲慢、暴力、嘘、裏切りなどがもたらす、死後の世界の無残な結果を描き出した。それは、いわば、人間を不幸にする諸悪との闘争の書といえよう。
 人間は、いくら地位や、名声や、財産を得ても、「死」という問題が解決できなければ、真実の生き方の確立も、幸福もない。現代の歪みは、人間にとって一番大事な「死」の問題を避け、目先の欲望ばかりを追い求めてきた帰結といえよう。
 山本伸一は、人びとが仏法という永遠の生命の大法に目覚めてこそ、新しき生命のルネサンスがあるとの確信を強くいだいていた。
 彼は、さらに青年たちと、フィレンツェ郊外にあるフィエーゾレの丘に足を運び、語らいのひと時をもった。
 「仏法は、対話を重視しているんです。それは、宗教の権威、権力によって人を服従させることとは、対極にあります。釈尊も対話によって法を説き、日蓮大聖人も対話を最重要視されています。学会の座談会も、その精神を受け継いでいるんです。さあ、聞きたいことがあれば、なんでも質問してください」
 青年たちは、瞳を輝かせて伸一に尋ねた。話は、ダンテ論、依正不二論、因果倶時論などに及んだ。質問が一段落すると、伸一は彼方に広がる市街地を眺めながら語った。
 「やがて、ここから見える、たくさんの家々の窓に、妙法の灯がともる日が必ず来ます。広宣流布の時は来ている。今こそ、皆が勇気をもって一人立つことです。
 戸田先生が第二代会長に就任された時、同志は三千人ほどにすぎなかった。しかし、師弟共戦の使命に目覚めた青年たちが立ち上がり、七年を待たずに、学会は先生の生涯の願業であった会員七十五万世帯を達成します。
 それは、果敢な対話の勝利でした。私たちには、仏法への大確信があった。皆が教学に励み、理路整然と明快に法理を語っていった。そして、ほとばしる情熱があった。対話は心を結び、時代を創る力となります」
34  暁鐘(34)
 六月二日午後、山本伸一は、フィレンツェ中央駅に駆けつけた百人ほどのメンバーに送られ、ミラノ行きの列車に乗り込んだ。
 窓の外には、名残惜しそうな、幾つもの青年たちの顔があった。彼は、“頼むよ。君たちの時代だよ”との思いを込めて、目と目でガラス越しに無言の対話を交わした。
 列車が動き出した。皆が盛んに手を振る。その目に涙が光る。伸一も手を振り続けた。
 青年が立つ時、未来の扉は開かれる。
 彼は、フィレンツェの街並みを見ながら、「生命の世紀」のルネサンスを告げる暁鐘が、高らかに鳴り響くのを聞く思いがした。
 この時の青年たちが、雄々しく成長し、イタリア社会に大きく貢献していった。そして三十五年後の二〇一六年(平成二十八年)七月、イタリア共和国政府とイタリア創価学会仏教協会のインテーサ(宗教協約)が発効される。それは、まさに信頼の証明であった。
 ミラノに到着した伸一は、三日、二百余年の歴史と伝統を誇るスカラ座に、カルロ・マリア・バディーニ総裁を訪ねた。そして、総裁の案内で、スカラ座前のミラノ市庁舎に、カルロ・トニョーリ市長を表敬訪問した。
 実は、この年の秋、民音などの招聘で、スカラ座の日本公演が行われることになっていたのである。公演は、総勢約五百人という空前の規模のものであり、前年のウィーン国立歌劇場に続き、オペラ界の最高峰の日本公演として大きな期待が集まっていた。
 会見の席上、トニョーリ市長から伸一に、市の銀メダルが贈られた。
 さらに、スカラ座でも、バディーニ総裁、フランチェスコ・シチリアーニ芸術監督らと会談した。「スカラ座の名に十分に値し、世界的音楽団体である民音の名に値する、最高の公演にします」と語る総裁の顔には、日本公演にかける並々ならぬ決意がみなぎっていた。
 伝統とは、単に歳月の長さをいうのではない。常に“最高のものを”との、妥協なき挑戦の積み重ねが育む気高き年輪である。
35  暁鐘(35)
 スカラ座での語らいで、バディーニ総裁は、さらに言葉をついだ。
 「この公演は、山本先生の力がなければ、実現しなかったでしょう」
 思えば、民音の専任理事であった秋月英介がスカラ座を訪ね、日本公演の交渉に当たったのは、十六年前のことであった。スカラ座全体を招いての公演など、日本でも、アジアでも例がなかった。日本の文化・芸術関係者は、民音がスカラ座を招きたい意向であることを聞くと、決まって「夢想だ!」と一笑に付した。民音や学会などに世界最高峰の大歌劇団を呼べるわけがないというのだ。
 しかし、伸一は、秋月に言った。
 「心配しなくても大丈夫だよ。スカラ座には、どこまでも音楽の興隆のために尽くそうという、誇り高い精神を感じる。その伝統を受け継ぐ音楽の担い手たちが、民衆の新たな大音楽運動を推進している民音に、関心をもたないわけがない」
 この伸一の確信通り、スカラ座は日本公演に賛同の意を示し、やがて仮契約を結ぶまでにいたった。だが、当時の総裁の他界や、後任の総裁の病による引退などが続き、事態は、なかなか進展しなかった。
 そのなかで伸一は、民音の創立者として、陰ながら応援し、手を尽くしてきた。そしてこの一九八一年(昭和五十六年)秋の、スカラ座日本公演が決まったのである。
 困難の壁に、一回一回、粘り強く、体当たりする思いで挑んでいく。その行動の積み重ねが、誰もが“まさか!”と思う壮挙を成し遂げ、新しい歴史を創り上げていくのだ。
 翌四日、伸一は、モンダドーリ出版社に招かれ、教育出版局長らと懇談した。同社はイタリア最大手の出版社で、伸一と世界の知性との対談集を、イタリア語で出版する企画があり、この日の訪問となったのである。
 同社からは、後に、『法華経の智慧』が出版され、大きな反響を呼ぶことになる。
 出版は、思想を流布し、精神の対話を育み、文化向上の力となる。
36  暁鐘(36)
 四日の夕刻、山本伸一は、宿舎のホテルの会議室で、学生をはじめ、青年の代表ら約五十人と信心懇談会を開催した。
 メンバーの質問に答えながら彼は、指導、激励を重ねた。そのなかで強調したのは、制度の改革といっても、自身の生命の変革が不可欠であるということであった。
 立派な制度をつくっても、それを運用していくのは人間であり、肥大化していくエゴイズムを制御する人間革命の哲学を確立しなければ、本当の意味での社会の繁栄はない。
 彼は青年たちに、生命の世紀を開く“人間革命の旗手”として立ってほしかったのだ。
 さらに伸一は、イタリアは青年のメンバーが多く、その両親などから、結婚観についても、ぜひ語ってほしいとの要請があったことを踏まえ、この問題に言及していった。
 「結婚は、自分の意思が最重要であるのは言うまでもないが、若いということは、人生経験も乏しく、未熟な面もあることは否定できない。ゆえに、両親や身近な先輩のアドバイスを受け、周囲の方々から祝福されて結婚することが大切であると申し上げたい。
 また、結婚すれば、生涯、苦楽を共にしていくことになる。人生にはいかなる宿命があり、試練が待ち受けているか、わからない。それを二人で乗り越えていくには、互いの愛情はもとより、思想、哲学、なかんずく信仰という人生の基盤の上に、一つの共通の目的をもって進んでいくことが重要になる。
 二人が共に信心をしている場合は、切磋琢磨し、信心、人格を磨き合う関係を築いていただきたい。もし、恋愛することで組織から遠ざかり、信心の歓喜も失われ、向上、成長もなくなってしまえば、自分が不幸です」
 人生の荒波を越えゆく力の源泉こそ、仏法である。崩れざる幸福を築く道は、学会活動の最前線にこそある。広布のために流す汗は、珠玉の福運となり、その一歩一歩の歩みが、宿命を転換し、幸と歓喜の人生行路を開いていく――ゆえに伸一は、信仰の炎を、絶対に消してはならないと訴えたのである。
37  暁鐘(37)
 山本伸一は、さらに、結婚観について語っていった。
 「近年は、世界的な傾向として、すぐに離婚してしまうケースが増えつつあると聞いています。しかし、どちらかが、しっかり信心に励み、発心して、解決の方向へ歩みゆくならば、聡明に打開していける場合が多いと、私は確信しています。ともかく、確固たる信心に立つことが、最も肝要です。
 よき人生を生き抜き、幸福になり、社会に希望の光を送るための信心です。ゆえに、よき夫婦となり、よき家庭を築き、皆の信頼、尊敬を集め、仏法の証明者になることです」
 この夜、伸一は、スカラ座のバディーニ総裁の招きを受け、峯子と共に、クラウディオ・アッバード指揮のロンドン交響楽団による、ムソルグスキー作曲「展覧会の絵」などの演奏を鑑賞した。
 すばらしい演奏であった。彼は、この感動を、日本の市井の人びとに、ぜひ味わってもらいたいと思った。彼が民音を創立した目的の一つは、民衆に世界最高の音楽・芸術と接してもらうことにあった。芸術も文化も、一部の特別な人のものではない。
 翌五日の正午過ぎ、伸一たち一行は、メンバーに見送られ、ミラノから空路、フランスのマルセイユに向かった。
 伸一のミラノ滞在は、三泊四日にすぎなかった。しかし、彼と身近に接したミラノの青年たちが、心に深く焼き付けたことがあった。それは、彼が、ホテルのドアボーイや料理人、運転手、会社の経営者、学者など、すべての人に、平等にねぎらいや感謝の言葉をかけ、丁重に御礼を言う姿であった。
 仏法では、万人が等しく「仏」の生命を具え、平等であると説く。まさに伸一の行動が、それを体現していると感じたという。
 思想、哲学、そして宗教も、その真価は、人の行動、生き方にこそ表れる。
 友の幸福のため、社会のために、喜々として懸命に活動する姿のなかに、仏法はある。
38  暁鐘(38)
 山本伸一の搭乗機は、右手に白雪を頂くアルプスの山々を望みながら、地中海沿岸のフランス第二の都市マルセイユへ向かった。
 現地時間の六月五日午後一時過ぎ、マルセイユの空港に到着した一行は、エクサンプロバンスのホテルで、直ちにフランスでの諸行事について打ち合わせを行った。
 さらに伸一は、トレッツにある欧州研修道場に移動し、午後六時から開催されたヨーロッパ代表者会議に出席した。これには、十三カ国の代表が集い、欧州広布に向けて、種々、協議が行われた。
 この席で、ヨーロッパ各国が一段と力を合わせ、希望の前進を開始していくため、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治のもと、新たにイギリスの理事長であるレイモンド・ゴードンと、ドイツ理事長のディーター・カーンが同会議の副議長に、日本で高等部長、男子部主任部長などを歴任してきた高吉昭英が書記長に就任することが決議された。
 高吉は、高校生の時から人材育成グループの一員として、伸一が育んできた青年で、大学院で学んだあと、本部職員となった。この人事は二十一世紀への布石であった。
 伸一は、参加者に訴えた。
 「今回の訪問は、ヨーロッパ新時代の夜明けを告げるためです。青年たちが、次代を担う使命を自覚し、生命尊厳の哲学を自身の生き方として確立し、社会貢献の道を歩んでいくならば、現代社会にあって、分断された人と人とを結んでいくことができる。そこから、平和も始まります。
 ゆえに私は、青年と会い、語らいに徹していきます。そして、行動を通し、心の触れ合いを通して、皆の魂を触発していきます。
 人は、心から納得し、共感し、感激し、“よし、私も立ち上がろう!”と決意して、自発的に行動を開始した時に、最大の力を発揮することができる。この触発をもたらしてこそ、“励まし”なんです。
 それは、誠実と全情熱を注いでの対話であり、生命と生命の打ち合いです」
39  暁鐘(39)
 欧州研修道場の北側には、サント・ビクトワール山(聖なる勝利山)がそそり立ち、青空の下、太陽を浴びて、石灰岩の岩肌が輝いていた。“二十世紀絵画の祖”といわれるセザンヌもこの山に魅了され、多くの名画を残している。
 六月六日の昼前、山本伸一は、妻の峯子をはじめ、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治らと共に、トレッツ市庁舎を訪問した。
 ジョン・フェロー市長をはじめ、市議会議員ら約二十人が迎えてくれた。市長は、フランス国旗と同じ、青・白・赤を配した儀礼用の懸章をつけて、あいさつに立った。
 「山本先生をトレッツ市にお迎えできたことは、市民にとって大きな喜びであります。先生が平和のために世界的に重要な働きをされていることも、また、その優れた思想も、著作を通して、よく存じ上げております。
 先生は、東西対立のなかで、核の危機を回避するために奮闘されてきました。また、創価学会インタナショナルの国際的な平和運動の指導者でもあります。
 さらに、これまで、世界を代表する知性と対話を重ね、平和のために戦い、人間と人間の交流を深める努力をされてきました。
 その先生が、世界各地に数あるSGIの会館のなかで、わがトレッツの欧州研修道場を訪問してくださったことに対して、心より感謝申し上げます」
 市長の賞讃の言葉に、伸一はいたく恐縮しながら耳を傾けた。市長は、一段と力のこもった声で、厳かに告げた。
 「私どもは、誠実と忍耐、真心と熱意、旺盛なバイタリティーとエネルギーで行動される“平和の大使”である山本先生を、ここに名誉市民としてお迎えいたします」
 拍手のなか、市長から伸一に、市のメダルと名誉市民章が贈られた。伸一は、市長の深い理解と厚意に、心から感謝の意を表した。
 この陰には、メンバーの誠実な努力と対話があったにちがいない。私たちの運動への理解を促す力は、粘り強い真心の語らいである。
40  暁鐘(40)
 六日の午後、欧州研修道場では、山本伸一が出席して、ヨーロッパ広布二十周年を記念する夏季研修会が晴れやかに開幕した。
 これには、地元フランスの百人をはじめ、十八カ国五百人のメンバーが集った。
 伸一は皆と厳粛に勤行し、参加者の多幸とヨーロッパ広布の伸展を祈った。そして、マイクに向かうと、こう提案した。
 「本日六月六日は、二十一世紀への飛翔を遂げる研修会が開催された日であると同時に、初代会長の牧口常三郎先生の生誕の日であります。この意義深き日を、『欧州の日』と定め、毎年、この日を節として、互いに前進を誓い合う記念日としてはどうかと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 出席者全員が挙手をもってこれに応え、正式に6・6「欧州の日」が決定したのだ。
 牧口は、伸一が入会する三年前に獄死しており、謦咳に接することはなかった。しかし、伸一は、恩師・戸田城聖を通して、その人格、信心、実践、教育思想について学んできた。また、牧口の著作を繰り返し読んでは、自身の大事な規範としてきた。
 著書の中で牧口は、平和への道筋として、「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」から「人道的競争」に入ると予見している。
 伸一は、人類の平和のために、今こそ世界に、「人道的競争」への確かな潮流を創っていかなくてはならないと、決意を新たにするのであった。
 夏季研修会では、記念植樹が行われ、さらに、体験談大会に移った。信心によって前向きな自分になり、病との闘いにも勝った西ドイツの女子部員の体験や、念願の音楽家として活躍するイタリアの男子部員の体験などが披露され、大きな感動が広がった。
 いずれの体験にも、勇気と挑戦による境涯革命のドラマがあった。
 信仰とは、“絶望”“あきらめ”に打ち勝ち、前へ、前へと進みゆく原動力である。その前進のなかで自身の生命は磨き鍛えられ、境涯を大きく開いていくことができるのである。
41  暁鐘(41)
 翌七日、夏季研修会の一環として、ヨーロッパ広布二十周年の記念総会が開催された。山本伸一は、この席でも、御書を拝して、参加者と共に、仏法の法理を研鑽し合った。
 そのなかで彼は、一切衆生が「仏」の生命を具えていることを述べ、生命の尊厳を説く仏法は、古来、平和主義であったことに言及。戦時中、日本にあって、国家神道を精神の支柱に戦争を遂行する軍部政府の弾圧と戦った学会の歴史も、それを証明していると訴えた。
 さらに、平和を信条とする仏法者の、社会での在り方を示していった。
 「皆さんは、『一切法は皆是仏法なり』との御聖訓を深く心に体して、それぞれの国にあって、良識豊かな、人びとの模範となる、良き市民、良き社会人であってください。
 われわれは、暴力を絶対に否定します。その信念のもとに、各国各地にあっては、その伝統並びに風習を最大に尊重し、社会に信頼の根を深く張っていっていただきたい。そして、世界の友と、心と心を結び合い、平和をめざしていただきたいのであります」
 次いで伸一は、宇宙の根源の法たる妙法を具現した、御本尊の力について語った。
 「人間の心ほど、瞬間、瞬間、微妙に変化し、複雑極まりないものはない。その心を、いかに強く、揺るぎないものにしていくかによって、人生の充実、幸福も決まっていく。
 また、人生には、“なんで自分は、こんな目に遭わなければならないのか”と思うような、宿命・宿業の嵐に遭遇することもある。それを乗り越えていく、何ものにも負けない強い心を培うための信心なんです。
 妙法という宇宙根源の法を具現したものが御本尊です。私どもの信力、行力によって、南無妙法蓮華経の御本尊の仏力・法力に、わが生命が感応して、大生命力が涌現し、困難の厚き鉄の扉も必ずや開くことができる」
 フランスの思想家モンテーニュは言う。
 「勇猛さは、足と腕がしっかりしているということにはなく、心と魂の堅固さにある」(『世界の名著19 モンテーニュ』荒木昭太郎訳、中央公論社)
42  暁鐘(42)
 山本伸一は、ここで、仏法で説く「発心」について語っていった。
 「『発心』とは、『発菩提心』という意味である。簡単に申し上げれば、悟りを求める心を起こすということであり、成仏への決心です。
 人生をより良く生きようとするには、『汝自身とは何か』『汝自身のこの世の使命とは何か』『汝自身の生命とは何か』『社会にいかなる価値を創造し、貢献していくか』等々、根源的な課題に向き合わざるを得ない。
 その解決のために、求道と挑戦を重ね、仏道修行即人間修行に取り組んでいくことが『発心』であり、それは向上心の発露です」
 彼は、仏法の法理や仏法用語を、いかにわかりやすく、ヨーロッパの友に伝えるか、心を砕いていた。どんなに深遠な法理であっても、人びとが理解できなければ、結局は、価値をもたらすことはないからだ。仏法の現代的展開にこそ、人類の至極の智慧を、世界共通の精神の至宝とする方途がある。
 翌八日には、夏季研修会の掉尾を飾って、友好文化祭が開催された。
 イギリスの同志は熱唱した。
  心のふれあいに
  強き絆に結ばれて
  自由の道を拓きゆく
  たとえ道は長くとも
  希望の光かかげつつ
 デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの同志が、花柄のスカーフをなびかせて踊れば、スペインの同志は陽気に舞い、黒いハットを場内に投げる。ベルギーのメンバーは、「同志の歌」をバックに創作舞踊を披露。西ドイツ、スイス、ギリシャ……と続く。
 “私は負けない! 断じて勝つ!”――広宣流布へ、皆の心は一つにとけ合い、歌声が勝利山(サント・ビクトワール山)にこだまする。欧州は一つになった。それは、世界の平和をめざす、人間の魂と魂の連合であった。
43  暁鐘(43)
 九日正午、山本伸一たちは、マルセイユを訪れた。小高い丘の上に四角い鐘楼がそびえていた。ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院である。丘に立つと、地中海のコバルト色の海に浮かぶ、石造りの堅固な城壁に囲まれた小島が見える。
 『巌窟王』の邦訳名で知られる、アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の舞台となったシャトー・ディフである。
 本来、シャトー・ディフは、要塞として造られたが、脱出が困難なことから、政治犯などを収容する牢獄として使われてきた。
 エドモン・ダンテス(後のモンテ・クリスト伯)も、十四年間、ここに幽閉されていた人物として描かれている。
 戦時中、二年間の獄中生活を経て出獄した恩師・戸田城聖は、“巌窟王のごとく、いかなる苦難も耐え忍んで、獄死された師の牧口先生の敵を討つ! 師の正義を、断固、証明し、広宣流布の道を開く!”と、固く心に誓い、戦後の学会再建の歩みを開始した。
 ナチスの激しい弾圧に耐え、勝利したフランスのレジスタンス(抵抗)運動にも、まさに、この“巌窟王の精神”が脈打っているように、伸一には思えた。
 巌窟王とは、勇気の人、不屈の人、信念の人であり、忍耐の人である。広宣流布は、そうした人がいてこそ、可能になる。ゆえに、いかなる困難にも決して退くことなく、目的を成就するまで、粘り強く、執念をもって前進し続けるのだ。そこに立ちはだかるのは、“もう、いいだろう”“これ以上は無理だ。限界だ”という心の障壁である。それを打ち破り、渾身の力を振り絞って、執念の歩みを踏み出してこそ、勝利の太陽は輝く。
 伸一は、フランスの、ヨーロッパの青年たちの姿を思い浮かべ、二十一世紀を仰ぎ見ながら、願い、祈った。
 “出でよ! 数多の創価の巌窟王よ! 君たちの手で、新世紀の人間共和の暁鐘を打ち鳴らしてくれたまえ”
 太陽を浴びて、海は銀色に光っていた。
44  暁鐘(44)
 広宣流布は、常に新しき出発である。希望みなぎる挑戦の旅路である。
 十日午後三時半過ぎ、山本伸一の一行は、五十人ほどの地元メンバーに送られ、マルセイユを発ち、鉄路、パリへと向かった。約七時間ほどの旅である。
 伸一の間断なき奮闘の舞台は、花の都パリへと移った。
 パリ滞在中、十一日には、歴史学者の故アーノルド・トインビーとの対談集『生への選択』(邦題『二十一世紀への対話』)のフランス語版の出版記念レセプションに出席した。
 翌十二日には、美術史家でアカデミー・フランセーズ会員のルネ・ユイグと会談し、前年九月にフランス語で発刊された二人の対談集『闇は暁を求めて』や、ビクトル・ユゴーなどをめぐって意見交換した。
 そして十五日には、フランス議会上院にアラン・ポエール議長を訪ね、議長公邸で初の会談を行った。
 会談に先立ち、議長の厚意で議場を見学した。ここは由緒あるリュクサンブール宮殿であり、上院議員としても活躍したビクトル・ユゴーの部屋もあった。そこで、ひときわ目を引いたのが、壁に飾られたユゴーのレリーフであった。ヒゲをたくわえ、剛毅さにあふれた彼の顔が浮き彫りされていた。
 荘厳な本会議場には、ユゴーが座っていた議席があった。そこには記念板が取り付けられ、机の上には彼の横顔を彫った金の銘板がはめ込まれ、不滅の業績を讃えていた。
 伸一は、その席に案内してもらった。貧困の追放を、教育の改革を、死刑の反対を訴えた彼の熱弁が響いてくるかのようだった。
 類いまれな文学の才に恵まれ、二十三歳でフランス最高の栄誉であるレジオン・ドヌール勲章を受章した彼が、政界に入ったのは一八四五年、四十三歳の時である。人びとの困窮など、現実を看過することはできなかった。彼は、「文の人」であるとともに、「行動の人」であった。それは、まぎれもなく「人間」であるということであった。
45  暁鐘(45)
 ビクトル・ユゴーは、独裁化する大統領のルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世)によって弾圧を受け、亡命を余儀なくされた。そのなかで、大統領を弾劾する『小ナポレオン』『懲罰詩集』を発表し、この亡命中に、大著『レ・ミゼラブル』を完成させている。フィレンツェを追放されたダンテが『神曲』を創ったように。
 彼らが、最悪の状況下にあって、最高の作品を生んでいるのは、悪と戦う心を強くしていったことと無縁ではなかったであろう。
 悪との命がけの闘争を決意し、研ぎ澄まされた生命には、人間の正も邪も、善も悪も、真実も欺瞞も、すべてが鮮明に映し出されていく。また、悪への怒りは、正義の情熱となってたぎり、ほとばしるからだ。
 彼が祖国フランスに帰還するのは、ナポレオン三世が失脚したあとであり、亡命から実に十九年を経た、六十八歳の時である。
 彼の創作は、いよいよ勢いを増していく。
 彼の心意気は青年であった。人は、ただ齢を重ねるから老いるのではない。希望を捨て、理想を捨てた刹那、その魂は老いる。
 「わたしの考えは、いつも前進するということです」(ユゴー著『九十三年』榊原晃三訳、潮出版社)とユゴーは記している。
 山本伸一は、ユゴーの業績をとどめる上院議場を見学して、蘇生の新風が吹き抜けていったように感じた。
 彼は、この時、思った。
 “文豪ユゴーの業績を、その英雄の激闘の生涯を、後世に残すために、展示館を設置するなど、自分も何か貢献していきたい”
 その着想は、十年後の一九九一年(平成三年)六月、現実のものとなる。パリ南郊のビエーブル市に、多くの友の尽力を得て、ビクトル・ユゴー文学記念館をオープンすることができたのである。記念館となったロシュの館には、ユゴーが何度も訪れている。
 ここには、文豪の精神が凝縮された手稿、遺品、資料など、貴重な品々が公開、展示され、ユゴーの人間主義の光を未来に放つ“文学の城”となったのである。
46  暁鐘(46)
 フランス上院の議場を見学した山本伸一は、公邸で、ポエール議長と会談した。議長は、創価学会に強い関心をもち、かねてから親しく話し合えることを願っていたという。
 また、人間尊重と平和への理念のもと、今回、伸一が、ソ連、ブルガリアなど、社会体制の異なる国々を訪問して要人とも会見し、平和・文化交流を重ねていることに対して、共感しているとの感想を語った。
 平和のためには、異なる体制、異なる文化の国々との交流が大切になる。しかし、多くの人は、その交流を避けようとする。それだけに、彼の行動に議長は着目していたのだ。
 伸一は、自らの平和への信念について簡潔に訴えた。
 「売名のため、あるいは観念で、平和や生命の尊重を語る人もいるかもしれない。しかし、平和を切実に願う人びとや、純粋な青年たちは、鋭く見ています。
 大切なのは、実際に何をしたかという、事実のうえでの行動です。私は、その信念で動いています。そうでなくては、次代を担う青年たちに、平和への真実の波動をもたらすことなどできません。私は真剣なんです。
 創価学会は、戦時中、軍部政府の激しい弾圧を受けました。それによって、牧口初代会長は獄死し、戸田第二代会長をはじめ、多くの幹部が投獄されています。また、私個人としても、戦争で兄を失い、戦禍の悲惨さも身に染みています。
 だからこそ私は、戦争のない世界を創らねばならないと、生命の尊厳の法理である仏法を信奉し、その平和主義を実現するために、行動しております」
 語らいは弾んだ。議長は、自身のレジスタンス運動の体験を語っていった。
 話題は、フランス大統領を務めたド・ゴールなどの人物論から、人間の生き方に及び、三時間にわたって意見交換がなされた。
 「人間は、自分より不幸な人を助けなければならない」――それが議長の信念である。
 平和への共鳴音が、また広がっていった。
47  暁鐘(47)
 山本伸一は、パリにあっても、要人や識者と対話を重ねる一方で、メンバーの激励に全力を尽くした。
 パリに到着した翌日の十一日には、フランスの青年メンバーとの信心懇談会に臨み、十二日にはパリ会館を訪問し、勤行会に集った人たちを激励。さらに、懇談会を行っている。十三日は、パリ会館での友好文化祭、フランス広布二十周年記念の銘板除幕式、記念勤行会へ。十四日は、フランス最高協議会などに出席した。
 また、パリ滞在中も、多くのメンバーと記念撮影を行い、家庭訪問にも足を運んだ。
 二十一世紀の大飛躍のために、今こそ、青年を中心に、信心の基本を、創価の精神を、一人ひとりに伝えていかねばならないと決意していたのである。
 十四日午前、伸一は、宿舎のホテルから、ルーブル美術館に隣接するチュイルリー公園沿いの通りを歩いていた。地下鉄と電車を乗り継いで、ソー市のパリ会館へ行くためである。前日も電車を利用していた。日ごろ皆が、どんな状況で活動に励んでいるかを、知っておきたかったのである。
 地下鉄のチュイルリー駅の階段を下り、構内に入った時、彼は同行の幹部に言った。
 「今日は、パリ会館では、青年部の第一回代表者大会が行われることになっていたね。青年たちの新しい出発のために、詩を贈ろう。言うからメモしてくれないか」
 わずかな時間であっても、広宣流布のために、有効に使いたかったのである。
 ホームで口述が始まった。
 「今 君達は
 万年への広宣流布という
 崇高にして偉大な運動の
 先駆として立った
 正義の旗 自由の旗
 生命の旗を高く掲げて立った
 二十一世紀は 君達の世界である
 二十一世紀は 君達の舞台である」
48  暁鐘(48)
 地下鉄の中でも、山本伸一の口述は続いた。
 同行のメンバーは、懸命にメモ帳にペンを走らせる。
 チュイルリー駅から三つ目のシャトレ駅で、郊外に向かうB線に乗り換える。“動く歩道”でも、電車を待つ間も口述を重ねた。
 「今 社会は
 夕陽の落ちゆくごとく
 カオスの時代に入った
 故に我らは今
 新しき太陽の昇りゆくごとく
 平和と文化の
 新生の歌と曲を奏でゆくのだ
 多くの新鮮な
 友と友の輪を広げながら
 老いたる人も 悩める人も
 求める人も 悲しみ沈む人も
 すべての人の心に光を当てながら
 すべての人の喜びを蘇生させながら
 我らは絶えまなく
 前進しゆくのだ」
 彼の瞼に、新世紀の広布に生きる、凜々しき青年たちの雄姿が浮かんだ。
 「新しき世界は
 君達の
 右手に慈悲 左手に哲理を持ち
 白馬に乗りゆく姿を
 強く待っている」
 電車を乗り換えてほどなく、伸一の口述は終わった。実質、十分ほどであった。
 同行のメンバーが、走り書きしたメモを急いで清書する。彼は、それを見ながら、推敲し、ペンで直しを入れていく。
 その時、「センセイ!」という声がした。
 三人のフランス人の青年男女が立っていた。数百キロ離れたブルターニュ地方から、パリ会館へ向かうところだという。
 「ご苦労様。遠くから来たんだね。長旅で疲れていないかい?」
 青年を大切にしたいという思いが、気遣いの言葉となった。
 青年こそ希望であり、社会の宝である。
49  暁鐘(49)
 三人の青年たちのうち、一人の女子部員が口を開いた。
 「私は一年前に信心を始めました。私の住む町では、信心をしているのは私だけです。座談会の会場にいくにも数時間かかります。こんな状況のなかでも、地域に仏法理解の輪を広げていくことはできるのでしょうか」
 すかさず、山本伸一は答えた。
 「心配ありません。あなたがいるではありませんか。すべては一人から始まるんです。
 あなた自身が、その地域で、皆から慕われる存在になっていくことです。一本の大樹があれば、猛暑の日には涼を求めて、雨の日には雨宿りをしようと、人びとが集まってきます。仏法を持ったあなたが、大樹のように、皆から慕われ、信頼されていくことが、そのまま仏法への共感となり、弘教へとつながっていきます。
 自身を大樹に育ててください。地域の立派な大樹になってください」
 電車がパリ会館のあるソー駅に着くころには、詩はすべて完成した。題名は「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」とした。
 一行が会館に到着すると、メンバーによって、直ちに翻訳が開始された。
 伸一は、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治らと打ち合わせを行った。彼は言った。
 「青年部の第一回代表者大会が行われる今日を、『フランス青年部の日』としてはどうだろうか。それを、川崎さんの方から、皆に諮ってみてください」
 この日、パリ会館では、二日目となる友好文化祭や、フランス最高協議会が行われ、午後五時半、フランス青年部代表者大会が、意気軒昂に開催された。
 この席上、川崎が、「六月十四日を『フランス青年部の日』に」という伸一の提案を伝えると、賛同の大拍手が沸き起こった。
 さらに、フランス男子部のリーダーによって、詩「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」が読み上げられていった。
 皆、伸一の魂の叫びを聴く思いがした。
50  暁鐘(50)
 詩を読み上げる力強い声が会場に響く。
 フランスの青年たちの瞳が輝き、新しき世紀への旅立ちの決意が燃える。
 「今ここに 立ちたる青年の数二百名
 君達よ
 フランス広布の第二幕の
 峰の頂上に立ちて
 高らかなるかっさいと
 凱歌をあげるのだ
 そのめざしゆく指標の日は
 西暦二〇〇一年六月十四日
 この日なりと――」
 朗読が終わった。一瞬の静寂のあと、感動と誓いの大拍手が広がった。
 この日、フランスの青年たちの胸に、二〇〇一年という広布と人生の目標が、明確に刻まれたのである。
 目標をもつ時、未来の大空に太陽は輝き、美しき希望の虹がかかる。人生に目標があれば、歩みの一足一足に力があふれる。
 山本伸一は、全参加者と共に記念のカメラに納まり、新しい旅立ちを祝し、励ました。
 「まず、二十年後をめざそう。人びとの幸福のため、平和のために、忍耐強く自らを磨き鍛えて、力をつけるんだよ。自分に負けないことが、すべてに勝つ根本だよ」
 ――「ねばり強さだけが、目標の達成への道なのだ」(『フリードリッヒ・シラー詩集』ヨーヘン・ゴルツ編、インゼル出版社(ドイツ語))とは、人生の勝利を飾る要諦を示した、詩人シラーの箴言である。
 伸一が、パリでも力を注いだのは、信心懇談会であった。特に青年たちとは、折々に語らいの場を設け、信心の基本や仏法者の生き方などを語っていった。
 彼は、皆を二十一世紀を担う大人材に育てたかった。だから自身の生命を紡ぎ、捧げる思いで真剣に語らいを重ねた。
 ある懇談会では、こう訴えた。
 「仏法では、皆が広宣流布を担う尊き“使命の人”であり、地涌の菩薩であると説いている。その使命を自覚した時、人は最高最大の力を発揮していくことができるんです」
51  暁鐘(51)
 広宣流布は、団結の力によってなされる。そして、団結といっても、皆がいかなる人間観をもっているかが、重要な決め手となる。ゆえに、山本伸一は、誰もが使命の人であるという仏法の人間観に立ち返って、団結について語っておこうと思った。
 「皆が等しく広宣流布の使命をもっていても、個々人の具体的な役割は異なっています。たとえば、一軒の家を建てる場合でも、土台を建設する人や大工仕事をする人、内装工事を行う人など、それぞれが責任をもって作業をすることで、立派な家が完成する。
 広宣流布の大偉業も、さまざまな役割の人が集まり、それぞれの分野、立場で、個性を発揮しながら、力を合わせることによってなされていく。分野、立場の違いはあっても、それは、人間の上下などではありません。
 したがって同志は、互いに個性、特性を、尊重し、励まし合い、信心の連帯を強めながら、前進していかなくてはならない。これが異体同心という、仏法の団結の姿です。
 学会にも組織はありますが、それは活動を合理的に推進していくための機能上の問題にすぎない。したがって、役職は一つのポジションであり、人間の位などでは決してない。
 ただ、役職には責任が伴う。ゆえに、幹部は人一倍、苦労も多い。同志は、皆のために働くリーダーを尊敬し、協力し、守っていくことが大事になります」
 また、リーダーの在り方にも言及した。
 「幹部の方々は、心の余裕をもち、決して感情的になったりせずに、皆を大きく包容していただきたい。リーダーがピリピリし、何かに追われ、押しつぶされそうな状態では、日々、楽しく、同志を善導していくことはできないし、それでは後輩がかわいそうです。
 これから、最も幹部に求められていくのは包容力であり、温かい人間性です。いかに人格を高めるかが、信仰の力の証明となっていきます。どうか、自身を見詰め、自らを成長させようと、真剣に唱題し、仏道修行に励んで、境涯を開いていってください」
52  暁鐘(52)
 山本伸一は、小会合の大切さも強調した。
 「小さな会合を、着実に重ねていくことです。メンバーがそろわないことがあっても、また声をかけ、よく励まし、疑問があれば、納得するまで語り合い、友情と信頼の絆を結んでいくことが大事なんです。
 寄せ返す波が岩を削るように、月々、年々に小会合を続けていけば、それが団結と前進の力になっていきます。地道な、目立たぬところに、同じことの繰り返しのなかに、いっさいの勝敗を決する生命線があるんです」
 また彼は訴えた。
 「ナチスと戦ったフランスのレジスタンス運動は、よく知られています。
 皆さんは、日蓮大聖人の仏法を根本とし、自分の己心の魔、堕落へのレジスタンスを進めていただきたい。また、世の中の不幸を幸福へと変えていくための、仏法のレジスタンス運動を展開していってください。
 そして、一人ひとりが、生活のうえで、現実のうえで、自身の人格の輝きを示し、誰からも信頼され、慕われる、地域の柱となってください。愛するフランスのために!」
 伸一は、五月十六日にソ連からヨーロッパ入りして以来一カ月、行く先々で信心懇談会を開き、激励、指導に徹してきた。そこにこそ、ヨーロッパ広布の新時代を開く、確かなる方途があるからだ。未来の建設は、人を育てることから始まる。
 また、彼は、“日蓮仏法は世界宗教である。そうであるならば、二十一世紀の広宣流布の潮は、世界の各地から起こしていかねばならない”と、強く思っていたのである。
 六月十六日午前、伸一は、宿舎のホテルに、既に旧知の間柄であるパリ大学ソルボンヌ校のアルフォンス・デュプロン名誉総長夫妻の訪問を受け、“ヨーロッパ文化”や大学教育について意見交換した。
 この日の午後、伸一の一行は、シャルル・ド・ゴール空港からアメリカ・ニューヨークへと飛び立った。
 広布の旅路は、常に新しき闘魂をたぎらせ、進む開拓の道である。常に新しきテーマへと突き進む挑戦の道である。一瞬の逡巡も許されぬ連続闘争である。
 彼の眼には、二十一世紀へと広がる、広宣流布の希望の新大陸が、陽光に燦然と輝いていた。
53  暁鐘(53)
 大西洋を越えて、山本伸一の一行がニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に到着したのは、現地時間の十六日午後三時前であった。ニューヨークは六年ぶりの訪問である。
 このニューヨークでは、以前、現地の宗門寺院に赴任した住職が狡猾に学会批判を重ね、それに紛動された人たちによって組織が攪乱され、なかなか団結できずにいた。伸一は、徹底してメンバーと会い、地涌の使命に生きる創価学会の確信と誇りを、一人ひとりに伝え抜いていこうと心に決めていた。
 また、アメリカの広宣流布は、ロサンゼルスなど西海岸が先行しており、ニューヨークなど東海岸での広布の伸展が、今後の課題でもあった。そのためにも人材を育てたかった。
 彼は、この日も、翌日も、ニューヨークを含むノース・イースタン方面の中心幹部らと何度となく懇談し、指導を重ねた。
 「アメリカは、自由の国ですから、皆の意思を尊重することが大事です。幹部が一方的に、自分の意見を押しつけるようなことがあってはなりません。必ず、よく意見交換したうえで、物事を進めていくべきです。
 もし、意見が食い違った場合には、感情的になったり、反目し合ったりするのではなく、御本尊、広宣流布という原点に立ち返り、一緒に心を合わせて唱題していくことです。
 御聖訓に、『仏法と申すは道理なり』と仰せのように、活動方針などを打ち出す際にも、皆が納得できるように、理を尽くすことです。つまり、常に道理にかなった話をするように心がけてください。道理は万人を説得する力となる。その意味からも教学力を磨いていただきたい。
 御書が、それぞれの生き方に、しっかりと根差していけば、同志を軽んじたり、憎んだりすることも、妬んだり、恨んだりすることもなくなり、心を合わせていくことができる。
 御書は、自分の規範であり、生き方を映し出す鏡です。したがって、人を批判する前に、自分の言動や考え方を、御書に照らしてみることです。それが仏法者です」
54  暁鐘(54)
 山本伸一は、アメリカには日系人のリーダーも多いことから、日々の活動を推進するうえでの留意点を、語っておこうと思った。
 「特に、日系人のリーダーは、日本と同じ感覚に陥らないように注意してほしい。
 アメリカは多民族国家であり、人びとの考え方も、価値観も多様です。それだけに、大前提となる基本的な事柄も、一つ一つ確認して、合意を得ていくことが必要になります。日本社会のように、『言わずもがな』とか、『以心伝心』などという考えでいると、誤解を生じかねません」
 さらに、世界広布を進めるうえで、心を合わせていくことの重要性を訴えた。
 「アメリカに限らず、すべての国のメンバーは、各国の法律や慣習等を順守し、尊重しながら、よき市民として、仲良く、活動を進めていただきたい。『異体同心なれば万事を成し』です。同志は心を一つにして、世界広布の流れを加速させ、永遠ならしめていかなければならない。
 その広宣流布の原動力こそ、創価の師弟です。したがって、リーダーはメンバーを自分につけるのではなく、皆が師弟の大道を歩めるように指導していくことが肝要です。
 それには、リーダー自身が、清新な求道の心で、創価の本流に連なっていくことです。自分中心というのは、清流を離れた水たまりのようなものです。やがて水は濁り、干上がってしまう。メンバーを、幸福と平和の大海へと運ぶことはできない。
 また、広宣流布の機軸に、歯車を噛み合わせていかなければ、回転は止まってしまう。仮に回っていても、空転です。
 ゆえに、どこまでも、創価の本流に連なろう、歯車を噛み合わせていこう、呼吸を合わせていこうとすることです。これが、世界広布に進むリーダーの心でなければならない」
 創価学会は、世界宗教として大きく飛躍する時を迎えている。そのための最も大切な要件は、広宣流布の信心に立ち、揺るぎない異体同心の団結を築き上げていくことである。
55  暁鐘(55)
 十八日正午、山本伸一は聖教新聞社の社主として、マンハッタンのロックフェラー・センターにあるAP通信社を訪問し、社内を視察したあと、キース・フラー社長らと会談した。人種問題や、マスコミの責任と役割など、多岐にわたって意見交換を行った。
 そのなかで伸一は、世界の出来事を、正しく世界中に知らしめることは、「平和への最高の手段」であると述べ、同社の奮闘と努力に敬意を表した。
 また、経済などの不安が増すと、人間は、理想よりも目先の利益を重視し、理性よりも感情が先行し、排他的な社会がつくられていく懸念があると指摘した。そして、人びとが平和・社会貢献の意識を高めていくには、自分の感情に翻弄されるのではなく、心の師となる真の宗教が必要であると訴えると、フラー社長も大きく頷き、同感の意を示した。
 AP通信社を後にした伸一は、同じマンハッタンにあるパーク・アベニュー・サウスのニューヨーク会館を訪れた。
 ここはビルの一階にあり、八十脚ほどのイスしかない、小さなフロアの会館であった。伸一の訪問を聞いて、多くのメンバーが集って来たため、会場は立錐の余地もなかった。
 「グッド アフタヌーン!(こんにちは!) お会いできて嬉しい。ニューヨークの広宣流布を、また、皆さんの健康と幸せ、ご一家の繁栄を願って、一緒に勤行をしましょう」
 伸一は、ニューヨークの同志が一人も漏れなく信心を全うし、崩れざる幸福境涯を築くとともに、社会にあって信頼の柱に育ってほしいと念願しながら、深い祈りを捧げた。
 そのあと、信心の基本中の基本である、南無妙法蓮華経の偉大なる力と、唱題の大切さについて語っていった。
 御本尊への祈りこそ、信心の根本である。それを人びとに教えるための組織であり、学会活動である。広宣流布への前進の活力も、宿命転換への挑戦も、また、団結を図っていくにも、各人が御本尊への大確信に立ち、強盛な祈りを捧げることから始まる。
56  暁鐘(56)
 山本伸一は、御書を拝し、指導していった。
 「御聖訓には『我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るはしかしながら四徳の香を吹くなり』とあります。宿命の暗雲に覆われ、不幸に泣いて生きねばならない人もいる。いや、多くがそうかもしれない。
 しかし、私どもは、南無妙法蓮華経と唱えることによって、常楽我浄の香風で、その苦悩の暗雲を吹き払っていくことができる。
 また、『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』です。人生には、いろいろな楽しみがあるでしょう。しかし、自身が仏であると覚知し、南無妙法蓮華経と唱えていくことこそが、歓喜のなかの大歓喜であるとの御断言です。
 欲しいものを手に入れたり、名誉や名声を得たりする喜びは、外からのものであり、その喜びは一瞬にすぎず、決して永続的なものではありません。
 それに対して、唱題に励むならば、自身の生命の大宮殿が開かれ、心の奥底から、泉のごとく、最高の喜びの生命、すなわち大歓喜が湧き出でてきます。しかも、いかなる試練にさらされ、逆境に立たされようが、その歓喜の泉が涸れることはありません。
 さらに、御書には『真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり』とあります。南無妙法蓮華経と唱える私どもを、諸天善神は、三世十方の諸仏は必ず守ると約束されている。したがって、題目を唱え抜いていくことが、いかなる難も防ぐ秘術となり、それによって人生の最高の幸福を満喫して生きることができる。
 御本尊とともに、唱題とともに生き抜いていくなかに、最高の所願満足の人生があることを確信して、仏道修行に励み、自らの生命を磨いてください。人の言動に右往左往したり、一喜一憂したりするのではなく、唱題に徹して、『私は題目が大好きである』といえる皆さんであってください」
 「唱題の人」とは、晴れ渡る青空の心の人であり、大歓喜の人、幸福の人である。
57  暁鐘(57)
 十九日の午後、ニューヨーク州のグレンコーブ市で、山本伸一が出席して、ノース・イースタン方面代表者の集いが開催された。
 この日、メンバーはニューヨークをはじめ、ボストン、フィラデルフィア、さらにはカナダとの国境の町からも駆けつけ、二百人ほどが集ったのである。
 会場の建物は、御本尊を安置した部屋が狭いために、幾つものグループに分かれて勤行を行い、いずれも伸一が導師を務めた。
 さらに、緑陰で懇談会がもたれた。彼は、額に汗を浮かべながら、メンバーの輪の中へ入り、次々と声をかけていった。
 少し沈んだ顔の婦人を見ると、こう言って励ました。
 「信心を貫いていけば、いかなる苦悩の闇も払い、幸福な人生を送っていけることは間違いありません。しっかり唱題し、学会活動に励めば、あなたが太陽となって輝いていきます。一家を、地域を照らし出していけるんです。太陽に涙は似合いません。朗らかな、微笑みの人になってください」
 懇談に続いて、皆で軽音楽を鑑賞した。
 ニューヨークは、世界を代表する文化都市であり、メンバーにも著名な音楽家が多かった。その世界的な奏者たちからなる軽音楽バンドが、「荒城の月」や「オーバー・ザ・レインボー」(虹の彼方に)を演奏していった。
 そうしたメンバーが、常に学会活動の第一線に立ち、家庭訪問などにも積極的に取り組み、会合となれば、喜々として皆のためにイスを運んでいるという。
 それを聞くと、伸一は言った。
 「尊いことです。本当に嬉しい。これが真実の創価学会の姿です。御本尊のもとでは、学会での役職も、社会的な地位や名誉も、いっさい関係ありません。仏道修行には特権階級はない。全員が平等なんです。
 苦労して信心に励んだ分だけ、宿命転換でき、幸せになれる。また、皆が等しく仏子として敬い合っていくのが学会の世界です」
 創価学会には、真の人間共和がある。
58  暁鐘(58)
 午後一時に始まった代表者の集いに続いて、五時過ぎからは、三十人ほどの中心的なメンバーと懇談会を行った。
 席上、山本伸一は語った。
 「ニューヨーク州では、『アイ・ラブ・ニューヨーク』をスローガンに掲げていると伺いました。わが街、わが地域を愛するというのは、すばらしいことです。その心から地域広布も始まります」
 そして、さらに、「アイ・ラブ・ニューヨーク創価学会」を、もう一つの合言葉として、互いに尊敬、信頼し合って進んでほしいと訴えた。そこに、広布推進の要件である“団結”をもたらす、カギがあるからだ。
 このあとも伸一は、青年の代表と懇談した。皆、役員等として、運営にあたったメンバーである。
 青年たちの忌憚のない質問が続いた。指針がほしいとの要望もあった。彼は、次代を担う若人の求道心にあふれた姿が嬉しかった。
 実は、伸一はニューヨークに到着した翌十七日の朝から、アメリカの青年たちに、指針となる詩を贈ろうと、詩作に取りかかっていたのだ。青年と懇談した翌日の二十日朝には、推敲も終わり、詩は完成をみた。
 この日の午後、伸一は、ニューヨーク郊外のロングアイランドにある、大詩人ウォルト・ホイットマン生誕の家を訪ねた。
 伸一がパリからニューヨークに着いた十六日、青年たちから、ホイットマンについての評論集と、その日本語訳が届けられた。そこに添えられた手紙に、「ホイットマンの生家を、ぜひ訪問してください」とあった。彼らの真心に応えたかったのである。
 詩人の家は、樹木が茂り、青々とした芝生が広がるなかに立つ、質実剛健な開拓者魂を宿すかのような二階建てであった。
 伸一の脳裏にホイットマンの「開拓者よ! おお開拓者よ!」(『ホイットマン詩集』白鳥省吾訳、彌生書房)の詩が浮かんだ。それは、広布開拓の道を征く創価の精神にも通じる、気宇壮大な詩である。伸一も多くの勇気を得てきた。優れた詩は力を呼び覚ます。
59  暁鐘(59)
 ホイットマンの生家の一階には、彼の生まれた部屋、応接間、キッチンがあった。
 キッチンにはロウソク製造器やパン焼き器、大きな水入れ、天秤棒などが陳列され、原野での自給自足の生活を偲ばせた。
 二階の部屋には、数々の遺品が展示されていた。直筆原稿のコピー、肖像画、あの悲惨な南北戦争当時の日記……。
 詩集『草の葉』についてのエマソンの手紙もあった。形式を打破した、この革新的な詩は、当初、不評で、理解者は一握りの人たちにすぎなかった。そのなかでエマソンは、ホイットマンの詩に刮目し、絶讃したのである。
 先駆者の征路は、めざすものが革新的であればあるほど、険路であり、孤独である。過去に類例のないものを、人びとが理解するのは、容易ではないからだ。われらのめざす広宣流布も、立正安国も、人類史に例を見ない新しき宗教運動の展開である。一人ひとりに内在する無限の可能性を開く、人間革命を機軸とした、民衆による、民衆自身のための、時代、社会の創造である。
 それが正しい理解を得るには、長い歳月を要することはいうまでもない。広宣流布の前進は、粘り強く対話を重ね、自らの行動、生き方、人格をもって、仏法を教え示し、着実に共感の輪を広げていく、漸進的な歩みであるからだ。しかも、その行路には、無理解ゆえの非難、中傷、迫害、弾圧の、疾風怒濤が待ち受けていることを知らねばならない。
 ホイットマンは詠っている。
 「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!
 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」(ウォルト・ホイットマン著『詩集 草の葉』富田砕花訳、第三文明社)
 伸一にとってホイットマンは、青春時代から最も愛した詩人の一人であり、なかでも『草の葉』は座右の書であった。
 彼は、同書に収められた、この一節を信越の男子部員に贈り、広布の新しき開拓への出発を呼びかけたことを思い起こした。
 悪戦苦闘を経た魂は、金剛の輝きを放つ。
60  暁鐘(60)
 ホイットマンは一八九二年(明治二十五年)三月、肺炎のため、七十二歳で世を去る。聖職者による葬儀は行われず、友人たちが、仏典やプラトンの著作の一部を読み上げるなどして、彼を讃え、送った。宗教的権威による儀式の拒否は、詩人の遺志であった。
 彼は『草の葉』の初版の序文に記した。
 「新しい聖職者たちの一団が登場して、人間を導く師となるだろう」(ホイットマン著『草の葉』杉木喬・鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波書店)と。
 一九九二年(平成四年)三月、ホイットマンの没後百周年記念祭が挙行されることになり、その招聘状が、アメリカのホイットマン協会から山本伸一のもとに届く。彼は、どうしても出席することができないため、敬愛する民衆詩人ホイットマンに捧げる詩「昇りゆく太陽のように」を作って贈った。そのなかで、こう詠んだ。
 「誰びとも 他人の
 主人ではなく 奴隷でもない――
 政治も 学問も 芸術も 宗教も
 人間のためのもの
 民衆のためのもの――
 人種的偏見を砕き 階級の壁を破り
 民衆に
 自由と平等を分かち与えるために
 詩人は
 懸命に 力の限り うたいつづけた」
 さらに、彼は詠う。
 「わが胸にあなたは生きる――
 太陽のように
 満々たる闘志と慈愛をたたえ
 たぎりたつあなたの血潮が
 高鳴りゆくあなたの鼓動が
 私に脈打つ
 熱く 熱く 熱く……」
 伸一は、ホイットマンの生家を見学しながら、アメリカ・ルネサンスの往時を偲んだ。そして、“自分も、広宣流布という新たな生命のルネサンス運動を展開していくなかで、生涯、人びとのために、励ましの詩を、希望の詩を、勇気の詩を書き続けよう”と、心に誓ったのである。
61  暁鐘(61)
 山本伸一がホイットマンの生家を後にした午後四時ごろ、ニューヨーク市にある高校の講堂では、日本からの親善交流団とアメリカのメンバーによる、日米親善交歓会が行われていた。ニューヨークのコーラスグループが「スキヤキ・ソング」(上を向いて歩こう)、「森ケ崎海岸」を日本語で歌い、また、バレエやダンスを披露すると、日本の交流団は、日本各地の民謡や日本舞踊で応え、心和む文化交流のひとときが過ぎていった。
 そして、伸一の詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」が発表されたのである。
 英語で朗読する青年の声が響いた。
 「今 病みゆく世界の中にあって
 アメリカ大陸もまた
 同じく揺れ動きつつ
 病みゆかんとするか
 かつてのアメリカの天地は
 全世界のあこがれと
 新鮮にして
 自由と民主の象徴であった」
 詩のなかで伸一は、妙法を護持した青年には、この愛する祖国アメリカを、世界を、蘇生させゆく使命があると訴えた。
 「声高らかに妙法を唱えながら
 そして社会の大地に
 足を踏まえながら
 根を張りながら
 花を咲かせながら
 あの人のために
 この人のために
 あの町の人のために
 あの遥かなる友のために
 走り語り訴えつづけていくのだ」
 さらに、あらゆる人びとが共和したアメリカは「世界の縮図」であり、ここでの、異なる民族の結合と連帯のなかにこそ、世界平和への図式があることを詠っていった。
 人類の平和といっても、彼方にあるのではない。自分自身が、偏見や差別や憎悪、反目を乗り越えて、周囲の人たちを、信頼、尊敬できるかどうかから始まるのだ。
62  暁鐘(62)
 山本伸一は、さらに、呼びかけた。
 「意見の違いがあったとしても
 確かなる目的の一点だけは
 忘れずに進みゆく君達よ!
 今日も学べ
 今日も動け
 今日も働け
 そして今日も一歩意義ある前進を
 明日もまた一歩朗らかな前進を
 尊極なる妙法と日々冥合しながら
 社会の泥沼の中に咲く
 蓮華の花の如く
 自己の尊き完成への坂を
 汗をふきながら上りゆくのだ
   
 信仰とは
 何ものをも恐れぬことだ
 何ものにも紛動されぬことだ
 何ものをも乗り越える力だ
 何ものをも解決していく源泉だ
 何ものにも勝ち乗り越えていく
 痛快なる人生行路のエンジンだ」
 彼は、広宣流布という新しき時代の建設は、一歩、また一歩と、日々、着実な前進を重ねていってこそ、なされるものであることを伝えたかった。また、その戦いは、自己自身の制覇から始まる、人間革命の闘争であることを知ってほしかったのである。
 そして、今、青年たちに後継のバトンを託したことを宣言し、詩を締めくくった。
 「私は広布への行動の一切を
 諸君に託したのだ
 一切の後継を信ずるがゆえに
 今 世界のすみずみを歩みゆくのだ
 君達が
 小さき道より
 大いなる道を創りゆくことを
 私は信ずる
 ゆえに
 私は楽しく幸せだ」
 会場は大拍手に包まれた。この魂の言葉を生命に刻み、アメリカの青年たちは立った。
63  暁鐘(63)
 山本伸一がニューヨークを発って、カナダのトロント国際空港に到着したのは、六月二十一日の午後四時過ぎ(現地時間)のことであった。空港では、カナダの理事長であるルー・ヒロシ・イズミヤと、議長で彼の妻であるエリー・テルコ・イズミヤをはじめ、大勢のメンバーが、花束やカナダの国旗を持って一行を出迎えた。
 カナダは、伸一が一九六〇年(昭和三十五年)十月、最初の海外訪問の折にトロントを訪れて以来、二十一年ぶりである。
 思えば、その時、空港で一行を迎えてくれたのは、まだ未入会のテルコ・イズミヤただ一人であった。
 彼女は、この年の三月、日系二世のカナダ人で、商社に勤めるヒロシ・イズミヤと結婚し、四月にカナダへ渡った。
 そして、伸一が到着する日の朝、日本に住んでいる学会員の母親から、エアメールが届いたのだ。そこには、山本会長がカナダを訪れる旨が記され、「ぜひ空港でお迎えしてください」とあった。
 しかし、行くべきかどうか迷った。身重で気分も優れなかったし、“もしも折伏などされたら困る”との思いがあったからだ。それまで、母親から教えられた功徳などの話が、迷信めいた時代遅れなものに思え、信心に抵抗を感じていたのである。でも、行かなければ、母の願いを踏みにじり、親不孝をするような気がして、空港に向かったのだ。
 伸一は、出迎えてくれたことに心から感謝するとともに、家庭の様子などを尋ね、「なぜ、人生にとって信仰が大切か」を述べ、仏法とは、生命の法則であることを語った。
 この一年七カ月後、病気がちであった彼女は、健康になれるならと、自ら信心を始めた。体のことで夫に心配をかけたくなかったし、入会することで、母親を安心させたいとの思いもあった。
 心田に植えられた妙法の種は、時がくれば必ず発芽する。大切なことは、自分に関わる人びとと仏縁を結び、種を植えることだ。
64  暁鐘(64)
 「私は一人で立つ」「自分の足で、敢然と」(ケイト・ブレイド著『野に棲む魂の画家 エミリー・カー』上野眞枝訳、春秋社)とは、カナダの画家で作家のエミリー・カーの心意気である。
 信心を始めたテルコ・イズミヤは、たった一人から活動を開始した。日本から送られてくる「聖教新聞」を頼りに、知り合った人たちを訪ねては仏法対話した。
 会合などには、国境を越えて、アメリカのバファローやニューヨークへ、長距離バスや飛行機で通わねばならなかった。
 夫は、彼女の信心のよき理解者であり、よく車で送迎してくれた。しかし、自分は信心をしようとはしなかった。
 夫のヒロシ・イズミヤは、一九二八年(昭和三年)、カナダのバンクーバー島に生まれた。彼の父は和歌山県からカナダに渡り、一家は漁で暮らしを立ててきた。
 四一年(同十六年)、太平洋戦争が始まると、イギリス連邦のカナダにとって、日本は敵国となった。翌年、日系人は、ロッキー山中の収容所に入れられた。厳冬の季節になると、零下二〇度を下回った。
 カナダに忠誠を尽くすために、軍隊に志願する青年もいた。それを「裏切り」として非難する人もいた。日系人同士がいがみ合い、心までもが引き裂かれていった。
 戦争が終わった。しかし、帰るべき家はなかった。日系人は、日本に帰るか、東部に移住するか、選択を迫られた。
 ヒロシの父は既に七十歳を超えており、「死ぬ時は日本で」との思いがあった。一家は、父の故郷の和歌山県へ帰った。
 やがてヒロシは、東京に出た。大学進学を決意し、進駐軍の基地にある店で働きながら勉強に励んだ。不慣れな日本語の習得にも努力を重ね、慶応大学の経済学部に進むことができた。卒業後、外資系の銀行に勤めるが、カナダへ帰って日本との懸け橋になりたいとの思いが募り始めた。彼は、トロントに出張所のある日本の商社に勤務した。
 戦争で苦しんだ人には、平和のために生き抜く使命がある。
65  暁鐘(65)
 一九六〇年(昭和三十五年)、ヒロシ・イズミヤが勤める日本商社の現地法人が設立された。この年、彼は、日本で知り合ったテルコと結婚した。彼女は、春にカナダへ渡り、山本伸一のカナダ初訪問の折に、トロントの空港で伸一の一行を迎えたのである。
 その後、入会したテルコは、“カナダ広布に生きよう”と思うようになった。また、学会活動に励むなかで、夫は協力的であるとはいえ、信心しないことが気がかりになっていった。
 六四年(同三十九年)の秋、来日した彼女は、カレンという愛らしい女の子の手を引いて、学会本部に伸一を訪ねた。四年前、お母さんのおなかの中で、一緒に彼を迎えてくれた娘である。
 カナダの地で信心を始めたテルコには、辛いこと、苦しいことも、たくさんあったにちがいない。彼女は、目を潤ませ、語り始めた。伸一は、何度も頷きながら、話を聞くと、力のこもった声で言った。
 「日々、大変なことばかりでしょう。しかし、経文に、御書に照らして見るならば、あなたは、久遠の昔に広宣流布を自ら誓願し、地涌の菩薩として、カナダの天地に出現したんです。この地涌の使命を自覚し、果たし抜いていこうと、決意することです。その人生こそ最も尊く、そこにこそ最高の歓喜が、最高の充実が、最高の幸福があることを確信してください。
 人は、さまざまな宿命をもっています。何があるかわからないのが人生です。また、どんなに裕福に見える人であっても、老、病、死という問題は解決できず、心には、不安や悩みをかかえています。
 私たちは、あらゆる人びとに、揺るぎない、絶対的幸福境涯を確立する道を教えて、社会、国家、人類の宿命を転換していくという、誰人もなしえなかった未聞の聖業にいそしんでいるんです。そう思えば、苦労はあって当然ではないですか。迷いは人を臆病にします。心を定めることです。その時に、無限の勇気と無限の力が湧きます」
66  暁鐘(66)
 心が定まれば、生き方の軸ができる。その一人が組織の軸となって、広宣流布の歯車は回転を始めていく。
 山本伸一は、さらに、テルコ・イズミヤの夫のヒロシのことに触れ、こう語った。
 「ご主人には、信仰を押しつけるようなことを言うのではなく、良き妻となって、幸せな家庭を築くことです。信心のすばらしさを示すのは、妻として、人間としての、あなたの振る舞い、生き方です。一家の和楽を願い、聡明に、誠実に、ご主人に接していくならば、必ず信心する日がくるでしょう」
 この指導を、テルコ・イズミヤは、全身で受けとめた。彼女は、カナダ国籍も取り、美しき紅葉と人華のカナダの大地に骨を埋める覚悟を決めた。どんなに、悲しい時も、辛い時も、夫に愚痴をこぼしたりすることはなかった。すべてを胸におさめ、苦しい時には御本尊に向かい、ひたすら唱題した。
 妻として家庭を守り、母として三人の子どもを育てながら、明るく、はつらつとカナダ広布の道を切り開いてきた。弘教の輪も着実に広がっていった。
 夫のヒロシが、信心することを決意したのは、一九八〇年(昭和五十五年)三月のことである。テルコは夫に、「一緒に信心に励み、あなたと共に幸せになりたい」と、諄々と夜更けまで話した。ちょうど彼は、大好きだった姉二人が、相次ぎ病で他界したことから、宿命という難問と向き合っていた時であった。戦争によって、少年期に収容所生活を強いられたことにも、思いを巡らした。
 自身の力では、いかんともしがたいと思える不条理な事態に遭遇する時、人は、それを「運命」や「宿命」と呼び、超越的な働きによるものなどとしてきた。仏法は、生命の因果の法則によって、その原因を究明し、転換の道を説き明かしている。
 妻に遅れること十八年、夫は創価の道を行くことを決めたのである。この夜、夫婦で初めて勤行をした。外は大雪であった。部屋は歓喜に包まれ、テルコの頬を熱い涙が濡らした。
67  暁鐘(67)
 一九八〇年(昭和五十五年)の十月、山本伸一は、北米指導でカナダを訪問する予定であった。しかし、シカゴの空港を発つ直前にエンジントラブルがあり、訪問を中止せざるを得なかった。皆が待っていてくれたことを思うと、心が痛んだ。この時、伸一は、議長のテルコ・イズミヤに和歌を贈った。
 忘れまじ
   カナダの天地に
     君立ちて
   広布の夜明けは
     ついに来りぬ
 また、訪問先のロサンゼルスにカナダの代表を招いて、語らいの機会をもった。そのなかにテルコ・イズミヤと共に、夫のヒロシ・イズミヤの姿もあった。温厚な、端正な顔立ちの紳士である。伸一と同じ年齢であるという。
 伸一は、固い握手を交わしながら、彼が信心したことを心から祝福し、二人で記念のカメラに納まった。夫の横顔を見るテルコの瞳には、涙が光っていた。
 ――以来八カ月、伸一のカナダ訪問が実現し、今、イズミヤ夫妻は、一行をトロント国際空港に迎えたのである。
 このカナダ滞在中、伸一は、ヒロシ・イズミヤと一緒に行動するように努めた。カナダの法人の運営面を担う理事長である彼には、メンバーを守り抜く精神をよく学んで、身につけてほしかったのである。
 また、組織の中心者として広布の道を切り開いてきた議長のテルコに、伸一は言った。
 「ご主人の協力がなかったら、ここまでこられなかったでしょう。カナダの組織が大きく発展できたのは、ご主人のおかげですよ」
 人は、物事が成功した時には、ともすれば自分の力であると思いがちである。しかし、成功の陰には、必ず、多くの人の尽力があるものだ。常に、そのことを忘れず、謙虚に、皆に感謝の心をもって生きることができてこそ、常勝のリーダーとなり得るのである。
 伸一のカナダ訪問二日目となる二十二日、トロント市内のホテルの大ホールで、約千人の同志が参加し、カナダ広布二十周年記念総会が盛大に行われた。それは、新世紀への、希望あふれる新しき出発の集いとなった。
68  暁鐘(68)
 カナダ広布二十周年記念総会に出席した山本伸一は、約二十一年ぶりにカナダを訪問できた喜びを語るとともに、初訪問の思い出に触れながら、一人立つことの大切さを訴えた。
 「『0』に、いくら多くの数字を掛けても『0』である。しかし、『1』であれば、そこから、無限に発展していく。このカナダ広布の歴史は、イズミヤ議長が、敢然と広宣流布に立ち上がったところから大伸展を遂げ、今や約千人もの同志が集うまでになった。
 すべては一人から始まる。その一人が、人びとに妙法という幸福の法理を教え伝え、自分を凌ぐ師子へと育て上げ、人材の陣列を創っていく――これが地涌の義であります。
 こうした御書の仰せを、一つ一つ現実のものとしていくことこそ、私ども創価学会の使命であり、それによって、御書を身で拝することができるのであります」
 ここで伸一は、今回、ソ連をはじめとする訪問国で、政府要人や有識者と会談を重ねてきたことを述べた。
 「そこでは、人類にとって平和こそが最も大切であることを訴え続けてきました。
 万人が等しく『仏』の生命を具えていると説く仏法こそ、生命尊厳を裏づける哲理であり、平和思想の根幹をなすものです。また、そこには、他者への寛容と慈悲の精神が脈動しています。
 その思想は、戦争を賛美し、民衆を隷属させて、死に駆り立てる勢力とは、原理的に対決せざるを得ない。ゆえに学会は、戦時中、国家神道を精神の支柱に戦争を遂行する軍部政府から、弾圧を受けたんです。
 私は、政治家でも、外交官でも、また、経済人でもありません。しかし、平凡な一市民として、一個の人間として、仏法を根底に、平和実現のために対話を続けています。
 それは、人間は等しく尊厳無比なる存在であると説く仏法の精神を、あらゆる国の人びとが共有し合い、国境を超えた友情の連帯を強めていくことこそ、最も確実なる平和への道であると確信するからです」
69  暁鐘(69)
 根が深く、しっかりしていてこそ、枝や葉も茂る。平和運動も同じである。多くの人が平和を願い、平和を叫びはする。しかし、根となる哲理なき運動ははかない。私たち創価学会の平和運動には、生命の尊厳を説き明かした、仏法という偉大なる哲理の根がある。
 人間一人ひとりを「仏」ととらえる仏法の法理に立てば、絶対に人の生命を、生存の権利を奪うことなどできない。また、イデオロギーも、民族も、国家も、宗教も超えて、万人が平等に、尊厳無比なる存在であることを説く仏法の視点には、他者への蔑視や差別はない。さらに、慈悲を教える仏法には、いかなる差異に対しても排他性はない。
 この生命尊厳の法理を、つまり、妙法という平和の種子を、人びとの心田に植え続けていくことこそが広宣流布の実践であり、それが、そのまま世界平和の基盤になることを、山本伸一は強く確信し、実感していた。
 次いで彼は、人生の目的とは真の意味で幸福になることであり、それには「死」という問題を解決することが不可欠であると述べた。
 この大問題を根本的に解決し、生命の永遠と因果の理法を説き明かしたのが日蓮大聖人の仏法である。その仏法に立脚してこそ、不動なる人生観を確立し、困難を乗り越える智慧と力を涌現させ、絶対的幸福境涯を開いていくことができるのである。
 伸一は、この日を起点に、さらに新たな二十年をめざしつつ、清らかな、麗しい創価家族として、所願満足の人生を送っていただきたいと望み、話を結んだ。
 総会の最後は、愛唱歌の合唱である。二十人の鼓笛隊が壇上に進み、演奏を開始した。メンバーは、バンクーバーやカルガリー、モントリオールなどからも参加しており、全カナダの鼓笛の友の演奏は、これが初披露となった。その中心者は、イズミヤ夫妻の長女カレンであった。新しい世代が育っていた。
 場内の同志は、総立ちとなり、肩が組まれた。スクラムは大波となって、右に左に揺れた。歌声は歓喜の潮騒となって轟いた。
70  暁鐘(70)
 二十三日、トロント郊外にあるカレドンに千人余のメンバーが集い、日本の親善交流団との文化交歓会が、晴れやかに開催された。
 会場は、木々に囲まれた丘で、冬はスキー場になるという。ゲレンデの緑が、太陽の光に映えてまばゆかった。
 文化交歓会は、ガーデンパーティー形式で、昼食をとりながら行われた。
 やがて、カナダの少年・少女部の合唱で、ミニ文化祭の幕が開いた。日本の交流団は、「厚田村」や中部の「この道の歌」の合唱、「さくら変奏曲」や、「武田節」の舞などを披露。カナダの友は、ケベックのフォークダンスや、音楽家メンバーによる「森ケ崎海岸」の演奏、婦人部による「広布に走れ」の合唱など、熱演、熱唱を繰り広げた。
 あいさつに立った山本伸一は、「見事な合唱、芸術の薫り高い演奏、真心のダンスなど、夢のひと時をすごすことができました」と感謝の思いを述べた。そして、将来、カナダ文化会館を建設してはどうかと提案するとともに、この千人の同志が太陽の存在となって、地域に貢献しつつ、洋々たるカナダ広布の未来を開いてほしいと期待を寄せた。
 この日、伸一は、ミニ文化祭の前後に、多くのメンバーに声をかけ、激励を重ねた。会場を提供してくれたスキー場の支配人にも、御礼のあいさつをした。
 対話することは、仏縁を広げることだ。
 この支配人の継母はメンバーで、伸一が一九六四年(昭和三十九年)にイランのテヘランを訪問した折、激励した婦人であった。
 ――テヘランで伸一たちは、中華料理店のマネジャーをしている太田美樹という学会員の婦人を店に訪ねた。ところが、オーナーの話では、契約が切れたので既に店を辞め、今、旅行中とのことであった。
 その時、イラン人の従業員が、伸一の顔を見て「オーッ!」と声をあげ、店の奥から写真誌を持ってきた。『聖教グラフ』であった。ページを開き、伸一の写真を指差し、「ミスター・ヤマモト!」と言って微笑んだ。
71  暁鐘(71)
 中華料理店にあった『聖教グラフ』は、太田美樹が、学会のすばらしさを知ってほしくて、オーナーや従業員に見せるために渡したものであった。
 従業員の一人が、山本伸一に言った。
 「ヤマモト・センセイのことは、いつも太田さんから聞かされ、グラフの写真も見ていますので、よく知っていますよ。お会いできて嬉しいです」
 伸一は、皆と握手を交わし、自分たちが宿泊しているホテルの名前を告げて別れた。
 この日、太田は旅行から帰り、中華料理店に土産を持って立ち寄ったところ、伸一たち一行が訪ねて来たことを知らされたのだ。
 “創価学会の会長である山本先生が、全く面識のない自分を訪ねて来るわけがない”と半信半疑であったが、ともかく一行が宿泊しているホテルへ向かった。
 伸一は、妻の峯子とともに、太田を温かく迎えた。ここで彼女は、カナダ人の男性から求婚されており、どうすべきか迷っていることを話した。
 伸一は、励ました。
 ――幸福は彼方にあるのではなく、自分の胸中にあり、それを開いていくのが信心である。強盛に信心に励んでいくならば、いかなる環境であろうが、必ず幸せになれる、と。
 「だから、どんなに辛いことがあっても、決して退転しないということです。世界中、どこに行ったとしても、着実に、謙虚に、粘り強く、最後まで信心を貫いていくことです」
 幸福は、広宣流布の道にこそある。
 太田は、数年後に、その男性と結婚して、カナダに渡ったのである。
 伸一は、今はミキ・カーターと名乗るようになった彼女と、夫、その子息であるスキー場の支配人と語り合った。
 彼は、婦人が、あの時の指導を胸に、信心を貫いてきたことが、何よりも嬉しかった。十七年前に植えた種子が、風雪の時を経てカナダで花開いていたのだ。励ましという種子を植え続けてこそ、広布の花園は広がる。
72  暁鐘(72)
 山本伸一は、ミキ・カーターに語った。
 「これからも、水の流れるごとく、信心に励み抜いてください。一生成仏の要諦は信心の持続にあります。ゆえに、日蓮大聖人は、『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』と仰せなんです。広宣流布という理想に向かい、人びとの幸せのために生きていってください。そこに自身の幸せもあるんです」
 カナダの作家モンゴメリは、記している。
 「理想があるからこそ、人生は偉大ですばらしいものになる」(L・M・モンゴメリ著『アンの青春』松本侑子訳、集英社)
 翌二十四日、伸一はトロント市内のキング・ストリート・ウエストにあるトロント会館を訪問した。百五十人ほどの代表と勤行し、皆の健康と幸福を祈念するとともに、「自信と希望と勇気をもって、『生涯、不退転』を合言葉に進んでいただきたい」と訴えた。
 このあと伸一は、メンバーと一緒に、ナイアガラ瀑布を見学した。
 二十一年前にも、ここを訪れていたが、轟音とともに水煙を上げて落下する瀑布の景観は、いつ見ても雄壮そのものであった。彼は、しばし見入り、写真にも収めた。
 伸一の脳裏に、あの日、この滝に懸かる虹を見ながら思ったことが、鮮やかに蘇った。
 ――満々たる水が、絶え間なく流れ、勢いよく落下し続けているからこそ、水煙が上がり、太陽に照らされれば虹が懸かる。同様に広宣流布の道にあっても、胸中に満々たる闘志をたたえ、日々、間断なき前進を続ける人には、生命の躍動があり、その頭上には、常に希望の虹が輝く。
 彼は、たった一人から発展を遂げたカナダ広布の虹のスクラムを思いながら、「行動即歓喜」であり、「行動即希望」であると、しみじみと実感するのであった。
 さらに一行は、カナダ独立のヒロインと仰がれるローラ・セコールの家も訪ねた。
 ナイアガラ瀑布から十五キロほどのところに、歴史の舞台となった、その家はあった。
73  暁鐘(73)
 一八一三年、アメリカとイギリスの間で、英領北アメリカ(後のカナダの一部)をめぐって、戦争が続いていた。ローラ・セコールの住むクイーンストンも激戦地となり、夫は英軍として戦い、負傷してしまう。セコールの家は米軍に徴用され、士官の宿舎として使われた。そんなある日、彼女は、たまたま、米軍が英軍を急襲する計画を聞いてしまった。作戦が成功すれば、ナイアガラ半島は米軍の手に落ちてしまう。
 “なんとしても、この情報を英軍に伝えなければ!”
 しかし、英軍の基地までは三十キロ以上も離れている。夫の傷は、まだ癒えていない。
 ローラは、自ら、この情報を伝えに行くことを決意する。道なき森を必死に進んだ。しかも敵地である。女性が一人で踏破するには、どれほどの不安と困難があったことか。
 彼女の、この貴重な情報によって、英軍は、奇襲攻撃に対して万全な備えをし、米軍に勝利することができたのである。
 命がけの行動で危機を救ったローラであったが、長らく、その功績が知られることはなかった。戦争で不自由な体となった夫が他界したあとも、彼女は、社会の荒波と戦い続けてきた。
 ローラ・セコールに、光が当てられたのは、一八六〇年に、イギリス皇太子のアルバート・エドワード(後のエドワード七世)が、カナダを訪れた時、彼女の奮闘を聞いてからといわれる。ローラは既に八十五歳になっていた。その後も、九十三歳で世を去るまで、つましい生活は変わらなかった。
 彼女の家は、木造の白い小さな二階建てであった。一九七二年(昭和四十七年)に改装されているというが、レンガ造りの暖炉や煙突、また、手織機などが、質素な往時の生活を偲ばせた。伸一は、深い感慨を覚えながら、同行のメンバーに語った。
 「一人の女性の働きが、結果的にイギリス軍を守り、カナダを守った。まさに『必死の一人は万軍に勝る』だ。一人が大事だね」(Janet Lunn著『Laura Secord:a story of courage』Tundra Books)
74  暁鐘(22)
 山本伸一は、隣にいた妻の峯子に言った。
 「ローラ・セコールの生き方は、学会の婦人部に似ているね。彼女は、英軍を救うために恐れなく、勇敢に行動した。そこには、強い信念と勇気がある。しかも、大功労者でありながら、威張ったり、権威ぶったりするのではなく、夫を支え、また、母として黙々と子どもたちを育てていった。まさに婦人部の生き方そのものだね」
 峯子が、笑顔で大きく頷きながら答えた。
 「本当にそうですね。歴史が大きく動いていった陰には、女性の努力や活躍が数多くありますが、そこに光が当たることは少ないんですね」
 それを受けて、伸一は、同行のメンバーに向かって語った。
 「私も、その通りだと思う。だから私は、どこへ行っても、民衆、庶民のなかのヒーロー、ヒロインを、草の根を分け、サーチライトで照らすようにして探し出そうとしているんだよ。無名でも、人びとの幸福と平和のために、一身を捧げる思いで、広宣流布に尽力してくださっている方はあまりにも多い。不思議なことです。まさしく、地涌の菩薩が、仏が集ったのが創価学会であるとの確信を、日々、強くしています。
 私は、その方々に光を当て、少しでも顕彰していこうと、各地で功労の同志の名をつけた木を植樹したり、また、各地の文化会館等に銘板をつくって、皆さんの名前を刻ませていただいたりしてきたんです。
 幹部は、決して、学会の役職や、社会的な地位などで人を判断するのではなく、誰が広宣流布のために最も苦労し、汗を流し、献身してくださっているのかを、あらゆる角度から洞察し、見極めていかなくてはならない。そして、陰の功労者を最大に尊敬し、最高に大切にして、賞讃、宣揚していくんです。
 つまり、陰で奮闘してくださっている方々への、深い感謝の思いがあってこそ、組織に温かい人間の血が通うんです。それがなくなれば、冷淡な官僚主義となってしまう」
75  暁鐘(74)
 誰からも、賞讃、顕彰をされることがなくとも、仏法という生命の因果の法則に照らせば、広宣流布のための苦労は、ことごとく自身の功徳、福運になる。仏は、すべて見通している。それが「冥の照覧」である。
 したがって、各人の信心の在り方としては、人が見ようが見まいが、自らの信念として、すべてを仏道修行ととらえ、広宣流布のため、法のため、同志のために、勇んで苦労を担い、奮闘していくことが肝要である。
 そのうえで幹部は、全同志が喜びを感じ、張り合いをもって、信心に励んでいけるように、皆の苦労を知り、その努力を称え、顕彰していくために心を砕いていくのだ。
 山本伸一たちは、ローラ・セコールの家の庭に出た。そこでも語らいは続いた。
 「英軍の勝利は、ローラという、一婦人、一民衆の命がけの協力があったからです。同様に、すべての運動は、民衆の共感、賛同、支持、協力があってこそ、成功を収める。広宣流布を進めるうえでも、常に周囲の人びとを、社会を大切にし、地域に深く根を張り、貢献していくことが大事だ。
 したがって、日々の近隣への配慮や友好、地域貢献は、広宣流布のための不可欠な要件といえる。社会、地域と遊離してしまっては、広布の伸展などあり得ない。
 また、彼女は、負傷した夫の面倒をみながら、子どもたちを育てている。人間として大切なことは、生活という基本をおろそかにしない、地に足の着いた生き方だ。それが民衆のもつ草の根の強さだ。そして、その人たちが立ち上がることで、社会を根底から変えていくことができる。
 それを現実に成し遂げようとしているのが、私たちの広宣流布の運動だ。その最大の主人公は婦人部だよ」
 伸一は、こう言って、テルコ・イズミヤに視線を注いだ。彼女は、大きな黒い瞳を輝かせ、笑みを浮かべて頷いた。伸一の、この訪問によって、カナダは世界広布の新章節へと、大きく羽ばたいていったのである。
76  暁鐘(75)
 山本伸一は、六月二十五日午後五時(現地時間)、百五十人ほどのメンバーに見送られ、カナダのトロント国際空港を発ち、約一時間半の飛行でアメリカのシカゴに到着した。
 シカゴでは、二十八日に、今回の北米訪問の最も重要な行事となる、第一回世界平和文化祭が開催されることになっていた。それは、世界広布新章節の開幕を告げる祭典であり、まさに世界宗教としての創価学会の、新たな船出の催しであった。
 伸一は、シカゴ訪問では、「シカゴ・タイムズ」のインタビューにも応じた。
 また、シカゴ市は、市長が公式宣言書を出して、伸一の平和行動を高く評価し、二十二日から、平和文化祭が行われる二十八日までを、伸一の名を冠した週間とすることを宣言。シカゴ市民に対して、伸一並びに平和文化祭参加者の歓迎を呼びかけたのである。
 同行した日本の幹部たちは語り合った。
 「本当に世界広布の時代が到来している! こうしてアメリカで、メンバーの社会貢献の活動や、青年を大切にし、青年がはつらつと活躍しているSGIの運動に、大きな期待が寄せられていることが、何よりの証拠だ」
 「残念だが、日本には島国根性のようなものがある。新しい民衆運動に対しても、その発展を妬んだりして、正視眼で見ない。時代はどんどん変化している。狭い心では、世界からどんどん取り残されていってしまう」
 「一月に山脇友政が恐喝容疑で逮捕されて以来、山脇が一部マスコミを利用して学会を誹謗中傷していた内容が、いかにいい加減なものかが明らかになった。今こそ、学会の真実を訴え抜いていくのが私たちの使命だ」
 二十七日には、学会が寄進したアメリカ五カ所目の寺院(出張所を含む)がシカゴ郊外に完成し、法主の日顕が出席して落慶入仏式が挙行された。これには伸一も参列した。
 彼は、僧俗和合によって、広宣流布が進むことを願い続けていた。ただ、ただ、広宣流布大願成就のために――これこそが、常に創価学会に脈打つ不変の大精神であった。
77  暁鐘(76)
 六月二十八日、二十一世紀へと羽ばたく歴史的な第一回世界平和文化祭が開催された。
 シカゴ郊外にある会場のローズモント・ホライゾン(後のオールステート・アリーナ)には、世界十七カ国の在米大使館関係者をはじめ、各界の来賓、各国のSGIメンバーの代表ら約二万人が集った。
 テーマ曲「朝日」の合唱が流れる。「生命の世紀」の朝だ。白いユニホームに身を包んだ、眠りから覚めた青年たちが、躍動のダンスを踊り始める。
 ステージは四面で構成され、中央と、その前、そして左右にも舞台がある。それらを駆使して、アメリカのメンバーが、ラテン・アメリカ、アフリカ、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、中東、アジアの歌と踊りを相次ぎ披露していく。メンバーは、日々、練習を重ねて、各国の踊りを習得したのだ。
 ロシアのダンスを踊ったニューヨークの友は、ソ連の人びとに思いを馳せ、その心になりきって踊ろうと努めた。練習に励むうちに、イデオロギーや国家の壁を超えて、まだ見ぬソ連の人びとが、親しい友人に思えてきたという。文化には、心と心をつなぎ、人間と人間を結び合う力がある。
 日本からの親善交流団も日本舞踊や民謡などを披露。日本の音楽隊も登場した。また、創価合唱団が力強く「威風堂々の歌」を合唱すると、アメリカの草創期を切り開いてきた婦人たちが、労苦の幾山河を思い起こし、目に涙を浮かべる一幕もあった。
 長野県男子部は、舞台狭しと組み体操を展開し、五段円塔をつくり上げた。「オーッ」と感嘆の声が場内を包み、喝采が広がった。
 どよめきが続くなか、二つのグループが左右の舞台で、パレスチナとイスラエルの民族舞踊を踊る。踊り終わって双方から何人かが中央の舞台に近づく。しかし、ためらう。それでも、自らを鼓舞するように歩みを運んでいく。そして、固い握手を交わした。
 大拍手が沸き起こった。それは、平和を願う全参加者の願いであり、祈りであった。
78  暁鐘(77)
 世界平和文化祭は、開催国アメリカの音楽と踊りに移った。カウボーイハットを被ってのウエスタンダンス、ハワイアンダンス、さらに、チャールストン、ジルバ、タップダンスと、陽気で賑やかなアメリカンダンスの世界が繰り広げられていく。
 一転。暗くなった舞台に立つ一組の男女をスポットライトが照らす。山本伸一が詠んだ詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」の、力強い朗読の声が流れる。
 「あらゆる国の人々が集い共和した
 合衆の国 アメリカ
 これこそ世界の縮図である
 このアメリカの
 多民族の結合と連帯の中にこそ
 世界平和への図式の原則が
 含まれているといってよいだろう……」
 やがて朗読が終わると、決意のこもった大拍手が場内を揺るがした。拍手には、アメリカから世界平和の波を起こそうとする同志の思いが、ほとばしりあふれていた。
 フィナーレでは出演者が舞台を埋め尽くし、アルゼンチン、オーストリア……と、各国の旗を持った出演者が前へ進み出て、高く掲げる。全世界から人びとが集う、人間共和の合衆国アメリカの理想を讃え、決意を表明したものだ。観客席では、それぞれの国の関係者らが立ち上がって拍手し、喝采の波が会場中に広がる。そして、歓喜の歌声が響き、スクラムが大きく揺れる。
 地球は一つ、世界は一つであることを、描き出した、美事な世界平和文化祭であった。ここに、創価の世界広布新章節の幕は上がり、高らかに、晴れやかに、旅立ちのファンファーレは轟き渡ったのだ。
 この世界広宣流布の大潮流は、いかなる力をもってしても、決して、とどめることはできない。「一閻浮提広宣流布」は、日蓮大聖人の御遺命であるからだ。そして、その御本仏の大誓願を実現しゆくことこそ、創価学会が現代に出現した意義であり、われらの久遠の大使命であるからだ。
79  暁鐘(78)
 世界平和文化祭には、テレビ局をはじめ、三十余の報道各社が取材に訪れた。ABC放送は、終了後、直ちにニュース番組で、その模様を放映。祭典は世界平和と生命の尊厳を志向して開かれたものであり、出演者は素人であると紹介した。
 テレビのインタビューに登場したメンバーは、「一人ひとりの人間の可能性を最大に発揮させつつ、世界平和のために貢献しているのが、創価学会の運動です」と胸を張った。
 翌二十九日昼、世界平和文化祭の感動は、シカゴの街に広がった。晴れ渡る空の下、シカゴ市庁舎前の広場で、文化祭の舞台が再演されたのだ。シカゴ市並びに市民の惜しみない協力に感謝しての催しであった。
 市庁舎前には、各界の来賓、招待した老人ホームのお年寄り五百人をはじめ、一万人の市民が詰めかけ、熱演に喝采を送り続けた。
 音楽隊の演奏、イタリア・韓国・ハンガリー・インドの民族舞踊、日本の交流団による勇壮な太鼓演奏や梯子乗りの妙技、オーケストラによるテーマ曲「朝日」の演奏、組み体操では人間ロケットが飛び交う。
 山本伸一と共に演技を鑑賞していた来賓の一人は、満面に笑みをたたえて語った。
 「感動しました。すばらしい文化をありがとうございます!」
 喝采と賞讃の交響曲に包まれて、創価学会は、アメリカの天地から二十一世紀への新しい船出を開始したのである。
 伸一がシカゴから最後の訪問地ロサンゼルスに到着した七月一日、詩人のクリシュナ・スリニバス博士が事務総長を務める世界芸術文化アカデミーは、伸一に「桂冠詩人」の称号授与を決定した。
 後に届いた証書では、彼の詩を、「傑出せる詩作」と評していた。伸一は、過分な言葉であると思った。そして、心に誓った。
 “私は、人間の正義の道を示し、友の心に、勇気を、希望を、生きる力を送ろうと、詩を書いてきた。この期待に応えるためにも、さらに詩作に力を注ぎ、励ましの光を送ろう!”
80  暁鐘(79)
 山本伸一は、平和と民衆の幸福への闘争を重ねつつ、詩を書き続けた。多忙なスケジュールの合間を縫うようにして口述し、書き留めてもらった作品も数多くある。
 その後、彼には、インドの国際詩人学会から「国際優秀詩人」賞(一九九一年)、世界詩歌協会から「世界桂冠詩人賞」(九五年)、「世界民衆詩人」の称号(二〇〇七年)、「世界平和詩人賞」(二〇一〇年)が贈られている。
 伸一がアメリカでの一切の予定を終えて、成田の新東京国際空港(後の成田国際空港)に到着したのは、日本時間の七月八日午後四時過ぎであった。空港には、会長の十条潔らの笑顔が待っていた。
 今回の訪問は、六十一日間に及び、ソ連、欧州、北米と、八カ国を訪ね、ほぼ北半球を一周する平和旅となった。各国の政府要人、識者らと、文化・平和交流のための対話を展開する一方、世界広布の前進を願い、各地でメンバーの激励に全精魂を注いだ。
 第一回世界平和文化祭をはじめ、ヨーロッパ代表者会議、各国各地での信心懇談会や御書研鑽、総会、勤行会、交歓会など、いずれの行事でも、力の限り同志を励まし続けた。
 また、今こそ、未来への永遠の指針を残そうと必死であった。片時たりとも無駄にするまいと、パリでは地下鉄の車中など、移動時間を使って詩を作り、フランスの青年たちに贈りもした。
 間断なき激闘の日々であった。しかし、進むしかなかった。二十一世紀を、必ずや「平和の世紀」「生命の世紀」にするために――。
 彼は、新しい時代の夜明けを告げようと、「時」を待ち、「時」を創っていった。一日一日、一瞬一瞬が真剣勝負であった。死闘なくしては、真実の建設も、栄光もない。
 その奮闘によって、遂に“凱歌の時代”の暁鐘は、高らかに鳴り渡ったのだ。今、世界広宣流布の朝を開く新章節の旭日は、悠然と東天に昇り始めたのである。

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