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第30巻 「雄飛」 雄飛

小説「新・人間革命」

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1  雄飛(1)
 北京は、うららかな陽光に包まれていた。空港の周囲に広がる、のどかな田園風景が、「北京の春」を感じさせた。
 一九八〇年(昭和五十五年)四月二十一日の午後二時半(現地時間)、山本伸一たち第五次訪中団一行は、北京の空港に到着した。
 この訪中は、伸一が会長を辞任して以来、初めての海外訪問であった。彼は、これまで民間交流によって築き上げてきた日中友好の金の橋を、いっそう堅固なものにするとともに、二十一世紀に向かって、平和の大道を広げていこうとの決意に燃えていた。
 空港で一行を出迎えた中日友好協会の孫平化副会長が、伸一に語り始めた。
 「北京は、この二、三日、『黄塵万丈』だったんですよ」
 「黄塵万丈」とは、強風で黄色い土煙が空高く舞い上がる様子をいう。
 「一寸先も見えない状態でした。昨日の夕方、やっと収まったんです。今日は春らしい日和となり、青空も広がりました。大自然も、先生の訪中を祝福しているようです」
 今回の中日友好協会からの招聘状には、「春の暖かく花が咲く季節」に一行を迎えたいとあり、まさにその通りの天候となった。
 伸一は、束の間、日本国内での学会を取り巻く状況を思った。
 “宗門の若手僧たちは、異様なまでの学会攻撃を繰り返している。まさに「黄塵万丈」といえる。しかし、こんな状態が、いつまでも続くわけがない。これを勝ち越えていけば、今日の青空のような、広宣流布の希望の未来が開かれていくにちがいない”
 案内された空港の貴賓室には、大きな滝の刺繍画が飾られていた。これは、黄河中流にある大瀑布で、さらに下ると、竜門の激流がある。ここを登った魚は竜になるとの故事が、「登竜門」という言葉の由来である。
 御書にも、竜門は仏道修行にあって成仏の難しさを示す譬えとして引かれている。
 一行は、幾度も激流を越えてきた創価の歩みを思いながら、滝の刺繍画に見入っていた。
2  雄飛(2)
 二十二日午前、山本伸一たち訪中団は、北京市の中国歴史博物館で開催中の「周恩来総理展」を参観したあと、故・周総理の夫人で、全国人民代表大会常務委員会の副委員長等の要職を務める鄧穎超の招きを受け、中南海の自宅「西花庁」を訪れた。
 彼女の案内で、海棠やライラックの花が咲く美しい庭を回った。亡き総理が外国の賓客を迎えたという応接室で、伸一は一時間半にわたって懇談した。前年四月、日本の迎賓館で会見して以来、一年ぶりの対面であり、総理との思い出に話が弾んだ。
 この日午後、人民大会堂で行われた歓迎宴でも、周恩来の生き方が話題となり、鄧穎超は、総理の遺灰を飛行機から散布したことについて語った。胸を打たれる話であった。
 「若き日に恩来同志と私は、『生涯、人民のために奉仕していこう』と約束しました。
 後年、死んだあとも、その誓いを貫くために、『遺骨を保存することはやめよう』と話し合ったんです」
 遺骨を保存すれば、廟などの建物を造ることになり、場所も、労働力も必要となる。それでは、人民のために奉仕することにはならない。しかし、大地に撒けば、肥料となり、少しでも人民の役に立つこともできる。
 ところが、中国の風俗、習慣では、それはとうてい受け入れがたいことであり、実行することは、まさに革命的行動であった。
 「恩来同志は、病が重くなり、両脇を看護の人に支えられなければならなくなった時、私に念を押しました。
 『あの約束は、必ず実行するんだよ』
 そして、恩来同志は亡くなりました。私が党中央に出したお願いは、ただ一つ、『遺骨は保存しないでください。全国に撒いてください』ということでした。この願いを毛沢東主席と党中央が聞いてくれ、恩来同志との約束を果たすことができたんです」
 人民への奉仕に徹しきった周総理を象徴するエピソードである。意志は実行することで真の意志となり、貫くことで真の信念となる。
3  雄飛(3)
 山本伸一たち訪中団一行は、二十二日の午後、北京大学を訪問し、季羨林副学長らの歓迎を受けた。同大学の臨湖軒で、創価大学との学術交流に関する議定書の調印が行われ、その際、北京大学から、伸一に名誉教授の称号授与の決定が伝えられた。
 伸一は、謝意を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。
 中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も早く神話と決別した国であるといえよう。
 講演では、司馬遷が、匈奴の捕虜になった武将・李陵を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑に処せられた時、「天道」は是か非かとの問いを発していることから話を起こした。わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、「個別を通して普遍を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、こう論じていった。
 ――それに対して、西洋文明の場合、十九世紀末まで、この世を支配している絶対普遍の神の摂理の是非を、人間の側から問うというよりも、神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめようとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的、排外的な植民地主義が、神のベールを被って横行してしまうと指摘したのである。
 さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的な法則性を探り出そうとする姿勢の大切さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民群像の誕生を期待したのである。
 伸一は、中国の大きな力を確信していた。それゆえに日中友好の促進とアジアの安定を願い、訪中を重ねたのである。
4  雄飛(4)
 北京大学では、講演に引き続き、四川大学への図書贈呈式が行われた。当初、山本伸一は、四川省の成都にある四川大学を訪問する予定であったが、どうしても日程の都合がつかず、ここでの贈呈式となったのである。
 四川大学の杜文科副学長に伸一から、図書一千冊の目録と贈書の一部が手渡されると、拍手が鳴り渡った。また一つ新たな教育・文化交流の端緒が開かれたのである。
 二十三日午前には、敦煌文物研究所(後の敦煌研究院)の常書鴻所長夫妻と、宿舎の北京飯店で会談した。
 常書鴻は七十六歳である。敦煌美術とシルクロード研究の世界的な権威として知られ、第五期全国人民代表大会代表でもある。彼は、前日、西ドイツ(当時)から帰国したばかりであったが、旅の疲れも見せずに会談に臨んだ。
 伸一はまず、常所長が、敦煌研究に突き進んでいった理由について尋ねた。
 興味深い答えが返ってきた。
 ――一九二七年(昭和二年)、二十三歳の時、西洋画を学ぶためにフランスへ留学した。そのパリで、敦煌に関する写真集と出合う。すばらしい芸術性に驚嘆した。しかし、それまで、祖国・中国にある敦煌のことを、全く知らなかったのである。これではいけないと思い、三六年(同十一年)、敦煌芸術の保護、研究、世界への紹介のために、すべてを捨てて中国に帰ってきたのだ。
 四三年(同十八年)、研究所設立の先遣隊として、念願の敦煌入りを果たす。以来、三十七年間にわたって敦煌で生活を続け、遺跡の保存、修復等に尽力してきた。
 「敦煌の大芸術は千年がかりでつくられたものです。ところが、その至宝が海外の探検隊によって、国外へ持ち去られていたんです」
 こう語る常書鴻の顔には、無念さがあふれていた。その悔しさを情熱と執念に変え、保護、研究にいそしんできたにちがいない。不撓不屈の執念こそが、大業成就の力となる。
5  雄飛(5)
 常書鴻が敦煌の莫高窟で暮らし始めたころ、そこは、まさに“陸の孤島”であった。
 周囲は砂漠であり、生活用品を手に入れるには約二十五キロも離れた町まで行かねばならなかった。もちろん、自家用車などない。
 土レンガで作った台にムシロを敷いて麦藁を置き、布で覆ってベッドにした。満足な飲み水さえない。冬は零下二〇度を下回ることも珍しくなかった。
 近くに医療施設などなく、病にかかった次女は五日後に亡くなった。彼より先に敦煌に住み、調査などを行っていた画家は、ここを去るにあたって、敦煌での生活は、「無期懲役だね」と、冗談まじりに語った。 
 しかし、常書鴻は、その時の気持ちを次のように述べている。
 「この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした」
 覚悟の人は強い。艱難辛苦の嵐の中へ突き進む決意を定めてこそ、初志貫徹があり、人生の勝利もある。また、それは仏法者の生き方でもある。ゆえに日蓮大聖人は、「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」と仰せである。
 莫高窟は、長年、流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、崩落の危機に瀕していた。その状態から、石窟内の壁画や塑像を保護し、修復していくのである。
 作業は、防風防砂のための植樹から始めなければならなかった。気の遠くなるような果てしない労作業である。だが、やがて彼の努力は実り、敦煌文物研究所は国際的に高い評価を受けるようになったのである。
 この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。二人は、一九九二年(平成四年)までに七回の会談を重ねることになる。
 そして九〇年(同二年)には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩――美と人生を語る』が発刊されている。
 未来に友好と精神文化のシルクロードを開きたいとの、熱い思いからの対話であった。
6  雄飛(6)
 一九九〇年(平成二年)十一月、静岡県にあった富士美術館で、常書鴻の絵画展が開催された。
 そのなかに、ひときわ目を引く作品があった。特別出品されていた「チョモランマ峰(科学技術の最高峰の同志に捧ぐ)」と題する、縦三メートル余、横五メートル余の大絵画である。チョモランマとは、世界最高峰のエベレストをさす土地の言葉で、「大地の母なる女神」の意味であるという。
 ――天をつくように、巍々堂々たる白雪の山がそびえる。その神々しいまでの頂をめざす人たちの姿もある。
 絵は、常書鴻が夫人の李承仙と共に描いた不朽の名作である。文化大革命の直後、満足に絵の具もない最も困難な時期に、「今は苦しいけれども、二人で文化の世界の最高峰をめざそう」と誓い、制作したものだ。
 山本伸一は、絵画展のために来日した夫妻と語り合った。常書鴻との会談は、これが六回目であった。彼は、この労苦の結晶ともいうべき超大作を、伸一に贈りたいと語った。あまりにも貴重な“魂の絵”である。伸一は、「お気持ちだけで……」と辞退した。
 しかし、常書鴻は「この絵にふさわしい方は、山本先生をおいてほかに断じていないと、私は信じます」と言明し、言葉をついだ。
 「私たちは、文革の渦中で、口には言い表せないほどの仕打ちを受けました。人生は暗闇に閉ざされ、ひとすじの光も差していませんでした。しかし、この絵を描くことで、権力にも縛られることのない希望の翼が、大空に広がっていきました。絵が完成すると、新たな希望が蘇っていました。
 山本先生はこれまで、多くの人びとに『希望』を与えてこられた方です。ですから、この絵は、先生にお贈りすることが、最もふさわしいと思うのです」
 過分な言葉であるが、この夫妻の真心に応えるべきではないかと伸一は思った。人類に希望の光を注がんとする全同志を代表して、謹んで受けることになったのである。
7  雄飛(7)
 絵画「チョモランマ峰」の寄贈にあたり、常書鴻・李承仙夫妻から、この絵を制作した文革直後の時代は、絵の具の品質が良くないので、末永く絵を残すために、描き直したいとの話があった。
 山本伸一は、その心遣いに恐縮した。
 新たに制作された同じ主題、同じ大きさの絵が贈られ、一九九二年(平成四年)四月、除幕式が行われた。後にこの絵は、創価学会の重宝となり、八王子の東京牧口記念会館の一階ロビーに展示され、人類に希望の光を送ろうと奮闘する、世界の創価の同志を迎えることになる。
 また、常書鴻との出会いから始まった敦煌との交流は、さらに進展し、八五年(昭和六十年)秋からは、「中国敦煌展」が東京富士美術館をはじめ、全国の五会場で順次開催されている。広く日本中に、敦煌芸術が紹介されていったのである。
 九二年(平成四年)、敦煌研究院は、伸一に「名誉研究員」の称号を贈り、さらに、九四年(同六年)には、彼を「永久顕彰」し、肖像画を莫高窟の正面入り口に掲げたのである。
 第五次訪中で山本伸一たち一行が、中国共産党中央委員会の華国鋒主席(国務院総理)と会見したのは、二十四日の夕刻であった。
 人民大会堂での一時間半に及ぶ語らいで、「新十カ年計画」「文化大革命」「官僚主義の問題」「新しい世代と教育」などについて話し合われた。
 主席は、伸一に、笑顔で語りかけた。
 「このたびの中国訪問は五回目と聞いております。中国の古い友人である先生のお名前は、かねてから伺っておりました。
 私のように、山本先生にお会いしたことがない人も、先生のこと、そして、創価学会のことは、よく知っています。私は、学会の記録映画も拝見しました」
 人間革命を機軸にした学会の民衆運動に、華国鋒主席も注目していたのである。社会建設の眼目は、人間自身の改革にこそある。
8  雄飛(8)
 山本伸一との語らいで華国鋒主席は、十億を超える中国人民の衣食住の確保、とりわけ食糧問題が深刻な課題であるとし、まず国民経済の基礎になる農業の確立に力を注ぎたいと述べた。農民の生活が向上していけば、市場の購買力は高まり、それが工業発展の力にもなるからだという。
 その言葉から、膨大な数の人民の暮らしを必死に守り、活路を見いだそうとする中国首脳の苦悩を、伸一は、あらためて実感した。
 政治は、現実である。そこには、人びとの生活がかかっている。足元を見すえぬ理想論は空想にすぎない。現実の地道な改善、向上が図られてこそ、人びとの支持もある。
 また、伸一は、革命が成就すると官僚化が定着し、人民との分離が生じてしまうことについて意見を求めた。
 華主席は、官僚主義の改革こそ、「四つの現代化」を進めるうえで重要な課題であるとし、そのために、「役人への教育」「機構改革」「人民による監督」が必要であると語った。
 指導的な立場にある人が、「民衆のため」という目的を忘れ、保身に走るならば、いかなる組織も硬直化した官僚主義に陥っていく。
 ゆえに、リーダーは、常に組織の第一線に立ち、民衆のなかで生き、共に走り、共に汗を流していくことである。また、常に、「なんのため」という原点に立ち返り、自らを見詰め、律していく人間革命が不可欠となる。
 華主席は、五月末に訪日する予定であった。語らいでは、日中友好の“金の橋”を堅固にしていくことの重要性も確認された。
 この北京では、創価大学で学び、今春、帰国した女子留学生とも語り合った。
 「今」という時は二度とかえらない。ゆえに伸一は、一瞬たりとも時を逃すまいと決め、一人でも多くの人と会い、対話し、励まし、友好を結び、深めることに全精魂を注いだ。
 文豪トルストイは記している。
 「重要なことは、何よりもまず、今、自分が置かれた状況にあって、最高の方法で、現在という時を生きることである」(『レフ・トルストイ全集第69巻』テラ出版社〔ロシア語〕)
9  雄飛(9)
 四月二十五日、山本伸一を団長とする訪中団一行は、北京を発ち、空路、広東省の省都・広州市を経て、桂林市を訪ねた。
 翌日、車で楊堤へ出て、煙雨のなか、徒歩で漓江のほとりの船着き場に向かった。霧雨の竹林を抜けると、河原にいた子どもたちが近寄ってきた。そのなかに天秤棒を担いで、薬を売りにきていた二人の少女がいた。
 彼女たちは、道行く人に、「薬はなんでもそろっていますよ。お好きなものをどうぞ」と呼びかけている。
 質素な服に、飾り気のないお下げ髪である。澄んだ瞳が印象的であった。
 伸一は、微笑みながら、自分の額を指さして、「それでは、すみませんが、頭の良くなる薬はありませんか?」と尋ねた。少女の一人が、まったく動じる様子もなく答えた。
 「あっ、その薬なら、たった今、売り切れてしまいました」
 そして、ニッコリと笑みを浮かべた。
 見事な機転である。どっと笑いが弾けた。
 伸一は、肩をすくめて言った。
 「それは、私たちの頭にとって、大変に残念なことです」
 彼は、妻の峯子と、お土産として、少女たちから塗り薬などの薬を買った。
 少女の機転は、薬を売りながら、やりとりを通して磨かれていったものかもしれない。
 子どもは、社会の大切な宝であり、未来を映す鏡である。伸一は、子どもたちが、大地に根を張るように、強く、たくましく育っている姿に、二十一世紀の希望を見る思いがした。そして、この子らのためにも、教育・文化の交流に、さらに力を注ごうと決意を新たにしたのである。
 一行は、桂林市の副市長らに案内されながら、楊堤から漓江の下流にある陽朔まで約二時間半、船上で対話の花を咲かせた。
 「江は青羅帯を作し、山は碧玉の如し」(『続国訳漢文大成 文学部第九巻 韓退之詩集 下巻』東洋文化協会、現代表記に改めた)と謳われた桂林の景観である。川の両側には、屏風のように奇岩が連なる。白いベールに包まれた雨の仙境を船は進んだ。
10  雄飛(10)
 同行した中日友好協会の孫平化副会長の話では、「漓江煙雨」といって、煙るような雨の漓江が、いちばん美しいという。だが、桂林の景観が醸し出す詩情に浸りながらも、話題は現実の国際情勢に及んでいた。
 前年末に、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、ソ連への非難の声が中国国内でも高まっていたのだ。そして、山本伸一がソ連へも友好訪問や要人との対話を重ねていることに対して、快く思わぬ人もいたのである。
 船上の語らいで、伸一は、こう言われた。
 「中国と日本に金の橋を架けたあなたがソ連に行けば、中日の関係は堅固なものになりません。行かないようにしてほしい」
 伸一は、率直な意見に感謝しながらも、同意することはできなかった。
 「皆さんのお気持ちはわかります。しかし、時代は大きく変化しています。二十一世紀を前に、全人類の平和へと、時代を向けていかなくてはなりません。大国が争い、憎み合っている時ではありません。
 “互いのよいところを引き出し合いながら調和していこう”“人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう”――そういう人間主義こそが必要になってくるのではないでしょうか」
 彼は懸命に訴えたが、なかなか納得してもらうことはできなかった。すぐに、中国とソ連と、どっちが大事なのかといった話に戻ってしまうのである。
 漓江の風景は刻々と変わるが、やがては大海に注ぐ。同様に、時代は人類平和の大海原へと進む――そう伸一は確信していた。
 「私は中国を愛します。中国が大事です。同時に、人間を愛します。人類全体が大事なんです。ソ連の首脳からも、『絶対に中国は攻めない』との明言をもらい、お国の首脳に伝えました。両国が仲良くなってもらいたいのです。私の考えは、いつか必ずわかっていただけるでしょう」
 彼の率直な思いであり、信念であった。
 粘り強い行動こそが不可能を可能にする。
11  雄飛(11)
 二十六日の夕刻、山本伸一は宿舎の榕湖飯店で、桂林市画院の院長で広西芸術学院教授の李駱公と懇談した。李院長は日本留学の経験もあり、著名な書画家、篆刻家である。
 書や絵画について話が弾んだが、次の言葉が、伸一の心に深く残った。
 「書道というものは、単なる文字のための文字ではありません。人間の思想、感情から生まれるものであり、その人の世界観、宇宙観、人格を表すものです」
 広西芸術学院は、三十年後の二〇一〇年(平成二十二年)四月、伸一に終身名誉教授の称号を贈っている。
 二十七日午前、訪中団一行は桂林を発ち、広州を経由して、夕刻、上海に到着した。ここが、最後の訪問地となる。
 翌二十八日午前、伸一は上海体育館で行われた、上海市へのスポーツ用品の贈呈式に出席し、午後には同市の長寧区工読学校を視察した。ここは、十六、七歳の非行少年の更生を目的とした全寮制の学校である。
 一行は、校長らの案内で各教室を回った。
 伸一は生徒たちと次々に握手を交わし、語り合った。あらゆる可能性を秘めているのが若者である。何があっても強く生き抜いてほしいと思うと、手にも声にも力がこもった。
 「人生は長い。ちょっとしたきっかけで挫折してしまうこともある。でも、それによって、絶対に希望を失ってはならない。挑戦ある限り、必ず希望はあります。
 しかし、自暴自棄になったり、あきらめたりすることは、その希望の灯を自ら消してしまうことになる。したがって、どんなことがあっても、自分に負けてはなりません。自分に勝つことが、すべてに勝つことです。
 この学校で、しっかり学び抜いて、社会のために、お父さん、お母さんのために、自己自身のために勝利してください。決して落胆せずに大成長し、必ず日本に来てください。
 忍耐だよ。負けてはいけないよ!」
 頷く生徒たちの目に、決意の輝きを見た。
12  雄飛(12)
 二十八日の午後、宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一のもとへ、復旦大学の蘇歩青学長が訪れた。伸一は、復旦大学へは一九七五年と七八年(昭和五十年と五十三年)に図書贈呈のために訪問しており、蘇学長とは旧知の間柄である。
 蘇歩青は著名な数学者であり、この日も数学や教育をめぐっての語らいとなった。そのなかで、「数学は難しいといわれるが、易しく教えることはできるか」との質問に対する学長の答えが、伸一の印象に残った。
 「何事も、『浅い』から『深い』へ、『小』から『大』へ、『易しいもの』から『難しいもの』へという過程があります。無理をさせずに、その一つ一つの段階を丹念に教え、習得させていくことで、可能になります」
 さらに学長は、力を込めて語った。
 「つまり、学ぶ者としては、一歩一歩、おろそかにせず、着実に学習していくことが大事です。そして、自分の最高の目標をめざして、歩み続けていくことです。しかし、そこに到達するまでには、“とうてい出来ない”と思うこともあるでしょう。まさに、この時が勝負なんです。そこで我慢し、忍耐強く、ある程度まで歩みを運んでいくと、開けていくものなんです。それは、『悟る』ということに通じるかもしれません」
 何かをめざして進む時には、必ず「壁」が生じる。そこからが、正念場であるといえよう。それは、自分自身との戦いとなる。あきらめ、妥協といった、わが心に巣くう弱さを打ち砕き、前へ、前へと進んでいってこそ、新たな状況が開かれるのだ。勝者とは、自らを制する人の異名である。
 伸一は蘇歩青と、その後も交流を重ね、二人の語らいは六回に及ぶことになる。
 八七年(同六十二年)六月、伸一は、復旦大学の名誉学長となっていた蘇歩青との友情と信義の証として、詩「平和の大河」を贈った。そこには、こうある。
 「大河も一滴の水より 平和の長江へ 我等 その一滴なりと ともどもに進みゆかなむ」
13  雄飛(13)
 山本伸一は、二十八日、蘇歩青との会談に続き、夕刻には作家・巴金の訪問を受けた。
 巴金は、『家』『寒夜』などの作品で世界的に著名な中国文学界の重鎮であり、中国作家協会の第一副主席であった。
 巴金との会談は、これが二回目であった。
 今回の訪中を控えた四月五日、中国作家代表団の団長として日本を訪れた彼と、静岡研修道場で初めて懇談したのである。
 ここには、中国作家協会名誉主席で、代表団の副団長として来日した現代中国文学の母・謝冰心らも同席し、文学の在り方や日本文壇の状況、紫式部、夏目漱石などをめぐって、活発に意見を交換した。
 この会談の六日後に行われた聖教新聞社主催の文化講演会で巴金は、「私は敵と戦うために文章を書いた」と明言している。彼は、革命前の中国を覆っていた封建道徳などの呪縛のなか、青春もなく、苦悩の獄に繋がれた人たちに、覚醒への燃える思いを注いで、炎のペンを走らせてきたのだ。
 巴金は語っている。
 「私の敵は何か。あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸長を妨げる一切の不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの」
 彼は七十五歳であったが、民衆の敵と戦う戦士の闘魂がたぎっていた。伸一は語った。
 「青年の気概に、私は敬服します。
 今日の日本の重大な問題点は、本来、時代変革の旗手であり、主役である青年が、無気力になり、あきらめや現実逃避に陥ってしまっていることです。そこには、文学の責任もあります。青少年に確固たる信念と大いなる希望、そして、人生の永遠の目標を与える哲学性、思想性に富んだ作家や作品が少なくなっていることが私は残念なんです。
 社会を変えてきたのは、いつの世も青年であり、若い力です。青年には、未来を創造していく使命がある。そして、実際にそうしていける力を備えているんです。断じてあきらめてはならない。それは、自らの未来を放棄してしまうことになるからです」
14  雄飛(14)
 訪中前の日本での語らいで、山本伸一は、巴金ら中国作家代表団に、「次回は、革命と文学、政治と文学、平和と文学などについて語り合いましょう」と言って、再び会うことを約したのである。
 そして、第五次訪中で、二十四日に伸一が主催した北京での答礼宴の折には、謝冰心と再会。さらに、この上海で巴金と二度目の会談が実現したのである。
 伸一が、政治と文学の関係について意見を求めると、彼は即答した。
 「文学は政治から離れることはできない。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなり得ません。文学は、人の魂を築き上げることができるが、政治にはできないからです」
 話題は、文化大革命に移っていった。
 巴金は文革の時代、「反革命分子」とされ、文芸界から追放された。彼を批判する数千枚の大字報(壁新聞)が張り出され、「売国奴」と罵られもした。彼は、この苦難をきちんと総括し、自分を徹底的に分析し、当時、起こった事柄を、はっきり見極めていくことの大切さを強調した。
 巴金は文化講演会でも、こう訴えている。
 「私は書かなければなりません。私は書き続けます。そのためには、まず自分をより善良な、より純潔な、他人に有益な人間に変えねばなりません。
 私の生命は、ほどなく尽きようとしています。私はなすべきこともせずに、この世を離れたくはありません。私は書かねばならず、絶対に筆を置くことはできません。筆によってわが心に火をつけ、わが体を焼きつくし、灰となった時、私の愛と憎しみは、この世に消えることなく残されるでしょう」
 時代の誤った出来事を看過してはならない。その要因と本質とを深く洞察し、未来のために戦いを開始するのだ。
 会談で巴金は、「今、文革についての小説を書き始めました。ゆっくりと、時間をかけて書いていくつもりです」と語った。
 正義の闘魂が、新しき社会を創る。
15  雄飛(15)
 人は、出会いによって「知人」となり、語らいを重ねることで「友人」となり、真心を尽くし、共感し合うことで「心友」となる。
 山本伸一と巴金は、さらに交流を続け、深い信頼と強い友誼の絆に結ばれていく。
 巴金は、その後、中国作家協会の主席となる。二〇〇三年(平成十五年)十一月、伸一は、同協会と中華文学基金会から、「理解・友誼 国際文学賞」を受けている。
 この二年後の二〇〇五年(同十七年)、巴金は百歳で永眠する。
 また、謝冰心は、一九九九年(同十一年)に九十八歳で他界している。その前々年の九七年(同九年)、巴金が会長を務める冰心研究会が発起人となって、彼女の功績を宣揚するため、福建省長楽市に「冰心文学館」が設立されている。二〇〇四年(同十六年)九月、同館から、伸一に「名誉館長」、峯子に「愛心大使」の称号が贈られる。
 伸一は、峯子と共に、これらの厚意に応えていくためにも、さらに、日中の文化・芸術の交流と友好の推進に力を注いでいこうと、誓いを新たにしたのである。
 二十九日は、第五次訪中団の帰国の日である。伸一は、宿舎とした錦江飯店の総支配人から記帳を望まれると、署名に添えて、「金の橋 訪中五たび 八幡抄」と記した。
 大聖人は、「諫暁八幡抄」に、「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」と断言されている。「仏法西還」の未来記である。
 日蓮仏法の人間主義の光をもって、アジア、世界を照らし、人びとの幸福を築きゆくことこそ、後世の末弟に託された使命である。ゆえに伸一は、この未来記を実現するために、生命を注いで平和旅を続けてきたのだ。
 立正安国をめざすわれら仏法者の社会的使命は、人びとの胸中に、生命の尊厳と慈悲の哲理を打ち立て、社会の繁栄と世界の恒久平和を建設していくことにある。
16  雄飛(16)
 新しき世紀へ、新しき戦いは開始された。
 四月二十九日の午後一時四十分(現地時間)、山本伸一たち一行は、上海虹橋空港を発ち、帰国の途に就いた。伸一が向かった先は、九州の長崎であった。
 彼は、新たな広宣流布の道を開くために、今こそ、創価の師弟を引き離そうとする退転・反逆者や宗門僧による謀略の鉄鎖を断ち切って、新生の闘争を開始しようと、固く決意していた。そして、中国訪問の帰途、長崎、福岡、大阪、名古屋などで、記念勤行会や各種の会合に出席し、全力で同志を励まそうと決めたのである。
 それによって、広布破壊の魔の勢力が、騒ぎだすであろうことは、よくわかっていた。しかし、“何があろうと、横暴な衣の権威の迫害に苦しんできた会員を守らなければならない”と、心を定めていたのだ。
 この日、長崎空港上空には、美しい虹がかかった。伸一たちが空港に到着したのは、二十九日の午後四時半過ぎであった。
 彼はタラップに立った。空港の送迎デッキでは、「祝 大成功 創価学会第5次訪中団」の横幕を広げ、大勢の学会員が手を振って出迎えてくれた。
 伸一も皆に向かって手を振り返した。この時から、彼の激励行は始まったのである。
 皆の顔には、喜びがあふれていた。
 長崎県長の梅森嗣也は、満面に笑みを浮かべていたが、伸一と握手を交わすと、感極まり、目を潤ませた。長崎空港のある大村もまた、宗門僧らによって苛め抜かれてきた地域であり、彼らは悔し涙を堪えながら、この日が来るのを、待ち続けてきたのだ。
 「師子が来たんだ! もう大丈夫だ。何も心配ないよ」
 女子部の代表が、「先生、お帰りなさい!」と言って、伸一に花束を手渡した。
 「ありがとう! さあ、新出発だよ。広宣流布の長征の開始だ。未来の扉を開こう!」
 前進ある限り、希望の明日は来る。闘魂燃える限り、未来は太陽の輝きに満ちている。
17  雄飛(17)
 山本伸一は、長崎空港から長崎文化会館へ向かった。彼の長崎訪問は、十二年ぶりであった。
 伸一は、県長の梅森嗣也から、文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会が行われていることを聞くと、直ちに会場に顔を出した。大拍手がわき起こった。
 「お久しぶりです。嵐を乗り越えた長崎の勝利を祝って、全員で万歳をしましょう!」
 梅森が音頭を取り、「長崎創価学会、万歳!」の声が場内に轟いた。
 伸一は、これから市内のホテルで訪中についての記者会見があるため、すぐに出発しなければならないことを告げ、言葉をついだ。
 「人生を勝ち越え、幸福になっていくには、どうすればよいか――。
 仏の生命も、地獄の生命も、わが心のなかにあります。その仏の生命を涌現させることによって、崩れざる幸せを築いていくことができる。それには、自身の一念を広宣流布に定め、自他共の幸福の実現を誓って唱題し、信心し抜いていくことです。
 日蓮大聖人は、『我もいたし人をも教化候へ』『力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』と仰せです。広宣流布に走り、折伏・弘教に生きるならば、わが身に仏の大生命が涌現し、あらゆる人生の苦をば、大歓喜に変えていくことができる。ゆえに大聖人は、流罪の地である佐渡にあっても、『我等は流人なれども身心共にうれしく候なり』と述べられているんです。
 学会員が何百万世帯になった、一千万人になったといったって、今現在、地球上には四十数億の人がいます。まだ数百人に一人、学会員が誕生したにすぎない。そう考えるならば、世界広布は、まだまだ緒についたばかりじゃないですか。いよいよこれからです。二十一世紀が本当の戦いです。
 皆さんは、うんと長生きしてください。そして、共に広宣流布に生き抜きましょう!」
 歓喜と誓いの大拍手が響いた。
18  雄飛(18)
 山本伸一は、長崎文化会館から、報道各社合同の記者会見会場である長崎市内のホテルへと急いだ。
 記者会見では、第五次訪中で見聞した中国の様子や感想などについての質問を受けた。
 そのあと、訪中団メンバーと解団式を兼ねて会食懇談を行い、皆をねぎらった。
 彼は、訪中を振り返りながら語った。
 「私は、今回の中国訪問によって、新時代の世界平和への幕が開かれたと思っています。そして、二十一世紀を迎えるこれからの二十年間は、民間交流、教育・文化交流を推進し、世界を結ぶ平和の潮流をつくるうえで、極めて重要な時期であると感じています。
 この間に、中国は大発展を遂げていくだろうし、また、世界は、激動、激変していくでしょう。それだけに、仏法の平和思想、人間主義の哲学を、広く世界に発信していかなくてはならない。したがって、仏法を深く掘り下げ、生命尊厳の法理を、社会に、世界にと展開していく教学運動も大事になります。
 二十一世紀の平和を築くうえで、今こそ、すべての面で、一時の猶予も許されない段階に入っているんです」
 懇談が終わったあと、伸一に同行していた「聖教新聞」の記者が言った。
 「帰国報道のほかに、先生が長崎文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会に出席されたことも、記事にしたいと思います」
 「かまいません。事実を隠す必要はない。創価の師弟が分断され、不二の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう。さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」
 翌四月三十日付の「聖教新聞」一面には、伸一の帰国や記者会見の模様、記念幹部会への出席の報道とともに、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と記されていた。
 この一文は、読者の目をくぎ付けにした。日本列島に歓喜の激震が走った。
19  雄飛(19)
 三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。
 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われた初の九州青年部総会の折、当時、男子部の長崎総合本部長であった大林と、「長崎に行った時には、必ず君の自宅を訪問させてもらうよ」と約束していたのである。
 その話を聞いた大林の母・倭代は、「それを実現できるようにするのが、弟子の信心です。祈りましょう」と毅然と語った。以来、家族で真剣な唱題が始まった。彼女は、長崎広布の先駆者の一人であった。
 大林の家は、眼下に長崎港を一望する高台にあった。母親の倭代をはじめ、彼の兄、弟、その夫人たちが伸一を迎えた。皆で記念のカメラに納まり、勤行した。
 倭代は、「先生がいつ来られてもいいように」と、手作りの座布団も用意していた。伸一は、その真心に深く感謝しながら、懇談のひとときを過ごした。話題は、一年前の会長・法華講総講頭の辞任に及んだ。
 ――そのニュースをテレビで知った倭代は、体を震わせて激怒し、こう叫んだという。
 「とんでもないことだ! 何かの謀略です。こんなことを許してはならない」
 道理に反すること、恩知らず、広宣流布を破壊する悪は絶対に許さぬというのが、母の信念であった。威張りくさった僧の横暴にも“今に見よ! 正義は必ず勝つ!”との思いで、この苦汁の一年を過ごしてきたのだ。
 いかなる外圧も、同志の心に滾々と湧く、創価の精神の泉を枯渇させることはできない。
 「ありがとう! その精神は、見事に、息子さんたちが受け継いでくれています。お母さんは勝ったんです。私もこれからは自由に動きます。また長崎にも来ますよ」
 語らいを終えた時、地元の女子部の幹部が指導を受けたいと言って訪ねてきた。伸一は出発時刻ぎりぎりまで、彼女を励ました。
20  雄飛(20)
 山本伸一が長崎駅に到着すると、彼を見送ろうと、たくさんの人たちが来ていた。
 伸一は、駅員や乗客の迷惑にならないように気遣いながら、励ましの言葉をかけた。
 「ありがとう。皆さんのご苦労を、私はよく知っております」
 「幸せになってください。いや、絶対になれると、確信して進むことが大事です。広宣流布に生き抜いてきた地涌の菩薩が、幸せになれないわけがありません」
 「一緒に、もう一度、新しい創価学会をつくりましょう」
 列車に乗ってからも、会釈し、手を振り、心と心の窓越しの対話が続いた。
 伸一の乗った特急列車は、長崎を発つと、諫早、肥前鹿島、肥前山口、佐賀、鳥栖と止まった。どの駅にも学会員が集まって来ていた。彼の福岡行きは、既に新聞発表されていたために、どの列車に乗るかは容易に察しがついたのである。
 皆、伸一の姿を見つけると、満面の笑みで手を振った。しかし、ホームまで来ていながら、柱の陰などに身を潜め、遠くからジーッと彼を見詰める人もいた。伸一を「先生」と呼ぶことさえ、宗門僧から批判されてきただけに、彼に迷惑をかけてはならないと考えていたのである。伸一は、そんな同志が、いとおしくて仕方なかった。ホームに降りていって力の限り励ましたい思いにかられた。
 伸一は、同行の幹部に言った。
 「こうした無名の同志が、今日の学会を築いてこられた。炎暑の夏も、吹雪の冬も、友の幸せを願い、祈り、対話に歩き、広宣流布を現実に進めてくださった。その歩みこそ、社会の、一国の、全人類の宿命転換を成し遂げていく原動力だ。まさに、一人ひとりが、立正安国の実現のために出現した尊き使命の仏子だ。私は、この人たちのために戦う!
 幹部は、この健気な学会員に最大の敬意を表し、最も大切にし、守り励ましていくんだ」
 組織も、また幹部も、すべては、会員、同志の幸福を実現するためにこそある。
21  雄飛(21)
 三十日の夕刻、山本伸一は福岡市博多区の九州文化会館(後の福岡中央文化会館)に着いた。車を降りて最初に向かったのは、会館に集って来た同志のところであった。
 多くの人たちは、会館には来たものの、伸一とは会えないのではないかとの思いがあった。それだけに、彼が皆のところへ足を運び、「ありがとう! 皆さんは勝ったんです」と声をかけると、喜びが弾けた。
 伸一の手を握り締めて離さぬ壮年や老婦人もいた。一人の婦人が、持参してきた雑誌を見せながら、「念願の料理店を開きました。店が雑誌に紹介されています。ぜひ来てください」と語ると、伸一は「お伺いしますよ」と笑顔を向けた。
 なんの分け隔てもない、信心で結ばれた人間の絆――これが“創価家族”である。
 翌五月一日も、九州文化会館には、早朝から大勢の同志が訪ねて来た。伸一は、会員の姿を見ると、「どうぞ、こちらへ」と言ってねぎらい、握手を交わし、記念のカメラに納まった。その人数がどんどん増えていった。運営にあたる男子部幹部は困惑した。
 “これでは対応しきれない。何よりも、先生がお疲れになってしまう!”
 彼は、来館者が、なるべく伸一に会わないように誘導していった。だが、それに気づいた伸一は、あえて厳しい口調で言った。
 「求めて会いに来た方々を、さえぎる権利など誰にもないよ」
 会長辞任以来一年、思うように学会員と会えないなかで、満を持して開始された激励行である。全同志と会い、全精魂を注いで励まそうというのが、伸一の決意であった。
 男子部の幹部は、師の心を十分に汲み取ることのできなかった自身を恥じた。
 この日、伸一は、「ぜひ来てください」と言っていた婦人部員の料理店にも足を運んだ。死力を尽くす思いで、一人でも多くの同志と会っていった。反転攻勢の「時」を、断じて逸するわけにはいかなかった。“師子よ立て! 今が勝負だ!”――彼は心で叫び続けた。
22  雄飛(22)
 山本伸一は、五月一日午後、福岡市西区(後の早良区)の九州記念館を訪問。夜には博多区の九州平和会館での福岡県本部長会に出席し、師子の魂を注ぎ込む思いで訴えた。
 「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」
 「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」
 「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」
 彼は、この言葉を、強く繰り返した。
 本部長会には、宗門との問題で最も苦しみ抜いてきた大分県の代表も参加していた。
 大分県の別府では、寺の住職が「学会は謗法だ!」などと誹謗中傷を重ねた。それにたぶらかされて脱会し、学会を批判するパンフレットを配って回る人もいた。しかし、同志は、そのなかで、団結を固め、毅然として創価の正義を叫び抜いてきたのだ。
 伸一は、大分の同志と、平和会館のロビーで記念のカメラに納まった。
 「苦労した分だけ、信心は磨かれ、輝きを放つ。あなたたちの戦いは、広宣流布の歴史に永遠に残るよ」
 「先生! 大分に来てください!」
 皆が口々に言った。その目に涙が滲んだ。
 伸一は、深く頷いた。
 この福岡滞在中、学会員は、続々と九州文化会館や九州平和会館、九州記念館に集って来た。「会館に行けば、先生にお会いできる」との話が流れていたのだ。
 タクシーや自転車で乗り付ける人もいた。ジャージー姿のまま家を飛び出してきた人もいた。二日昼、彼が福岡を発つまでに会った同志の数は二万人を超えた。
 出発前、大分県の壮年部書記長の山岡武夫が、平和会館にいた伸一を訪ねてきた。
 彼は、県内の住職が学会員の功労者に脱会を唆したという急報を受け、寺に抗議に出向いた。語らいは深夜に及び、それから列車を乗り継いでやって来たのだ。攻防戦の渦中にあって、最も大切なのは迅速な行動である。
23  雄飛(23)
 福岡へ向かう車中、山岡武夫は、宗門僧への憤怒と悔しさを必死に堪えていた。
 山岡が訪ねた住職は、「自分たちから学会員に、脱会して寺につくように言ったりはしない」と言明していた。ところが、卑劣にも、陰で脱会を唆したのだ。その点を突いても、言を左右にするのである。宗門僧の本質を見せつけられた思いがした。
 九州平和会館の管理者室で、山本伸一は山岡の報告を聞いた。
 「疲れただろう」
 伸一は、包み込むように微笑を浮かべ、言葉をついだ。
 「私も、六時間、僧たちと話し合ったこともあるから、よくわかるんだよ。
 大事な、大事な仏子を、断じて守らなければならない。絶対に、皆を幸せにしていくのだ。そのために、体を張って身を粉にして戦う――それが、私の決意です。創価のリーダーの精神です。私に代わって、わが弟子を、わが仏子を守ってください。頼んだよ」
 ほどなく伸一は、九州平和会館を発ち、空路、次の訪問地である関西へ向かった。
 大分の山岡をはじめ、九州のメンバーは、会館の庭に出て大空を仰ぎ、飛翔する飛行機に手を振った。“先生! 九州は勝ちます”と熱く誓いながら。吹き渡る薫風が心地よかった。彼らの誰もが、今、九州の地から、新しい創価の風が起こり始めたことを感じた。
 一九八〇年(昭和五十五年)五月三日。
 ――この年二月に、学会は、恩師・戸田城聖が第二代会長に就任し、伸一が第三代会長に就任した「5・3」を、「創価学会の日」と定めた。その初めての「創価学会の日」を、伸一は大阪市天王寺区の関西文化会館で、愛する関西の同志と共に迎えたのだ。
 同会館は、五日前に落成したばかりで、淡いブラウンの外観をした地上五階、地下一階建ての大関西の中心となる新法城であった。
 五月晴れの常勝の空が、美しく広がっていた。今再びの前進が始まろうとしていた。
24  雄飛(24)
 五月三日、関西文化会館では、「創価学会の日」記念勤行会が開催されることになっていた。開会は午後一時の予定であった。
 しかし、朝からメンバーは喜々として集い、周辺は、人であふれた。しかも、ほとんどが勤行会の入場整理券を持たない人たちであった。実は、長崎、福岡に学会員の親戚や友人がいる関西のメンバーは、電話で、山本伸一の激励の様子を聞いていたのだ。その話が瞬く間に広がり、皆、伸一に会いたい一心で集って来たのである。
 関西の幹部や運営役員たちは、急遽、対応を協議した。第二会場の文化会館隣の別館四階にも、入場整理券のない人を誘導した。
 伸一が、大阪府豊中市の関西牧口記念館から関西文化会館に到着したのは、午前十一時前であった。彼は、館内にいた役員らを次々とねぎらっていった。
 同志は、熱い求道の心を燃やして、続々と集って来る。安全を確保するため、別館前の門扉が閉められた。
 しばらくすると、伸一が外に姿を現した。大歓声があがった。彼は門扉の外に待機している人を見ると、役員の青年たちに言った。
 「門を開けて入れてあげてください」
 「もう館内に、入れる場所はありません」
 「いいんだ。この広場で激励するから。この方たちこそ、最も大切な方々なんだよ」
 門扉が開くと、待機していた人たちは、躍り上がらんばかりに喜び、構内に入った。通りすがりの人まで後に続く有り様であった。
 伸一は、「ようこそ! 嬉しいです」と言いながら、皆と握手を交わした。何回も何回も、記念のカメラに納まった。
 「あとで写真をお届けできるように、お名前などを控えて!」
 役員に指示が飛ぶ。
 創価班や牙城会など、役員のメンバーとも記念の写真を撮った。伸一の胸中には、“すべての同志を励まさずにはおくものか!”という、炎のような気迫が満ちあふれていた。
 その一念こそが“創価の魂”である。
25  雄飛(25)
 山本伸一は、別館の外にある非常階段に向かった。役員の青年が言った。
 「別館の広間の常勝会館は第二会場で、本会場の話を音声で聴けるようになっています」
 「そこにいらっしゃる方々を、まず最初に激励しよう」
 非常階段を上る伸一に峯子も続いた。
 この階段から常勝会館に入るには、内側から鍵を開けなければならなかった。役員の青年が急いで会場に先回りし、人をかき分けてドアまで進み、鍵を開けた。参加者は“何が始まるのだろう”と、その様子を見ていた。
 すると、ギギィーと音をたてて会場前方の扉が開いた。そこには、伸一の姿があった。
 「やあ、お元気!」
 彼は手を挙げ、マイクを手にした。
 熱気に満ちた場内に、どよめきが起こった。待ちに待った瞬間であった。皆、喜びを満面にたたえて、伸一を見つめた。目を潤ませる人もいた。
 「わざわざ駆けつけてくださってありがとう。私と皆さんとの魂の絆は、いかなる権威権力も断つことはできません!」
 ワーッと、会場を揺るがさんばかりの大歓声と大拍手が広がった。
 「学会を支えてくださっているのは誰か。表舞台に立つ人よりも、陰で黙々と頑張ってくださっている方々です。その人こそが仏であり、真の勝利者です。まさに皆さんです。皆さんあっての学会であり、広宣流布です」
 目を腫らしながら、一言一言に大きく頷く同志たちに、伸一は深い親愛の情を覚えながら、力強く呼びかけていった。
 「皆さんは、さまざまな悩み、苦しみと、日々格闘しながら、希望に燃えて折伏・弘教に奔走されている。ここに真実の人間の輝きがあり、これこそが地涌の菩薩の姿です。再び新しい決意で、私と共に前進しましょう!」
 「はい!」という決意の声が響いた。
 別館の外に出ると、さらに同志が集って来ていた。また一緒に記念写真を撮った。
 激励に徹し抜いた。仏に仕える思いで。
26  雄飛(26)
 関西文化会館では、会長の十条潔が出席して、既に記念勤行会が始まっていた。
 山本伸一は、会場である同会館の三階に向かい、勤行会の最後に入場した。皆、今か今かと、伸一の登場を待っていただけに、喜びは一気に爆発した。彼はマイクに向かった。
 「輝くばかりの五月晴れのこの日、『創価学会の日』並びに関西文化会館の落成を記念する勤行会の開催、まことにおめでとうございます。心から祝福申し上げます。
 妙法は、永遠不滅の法である。この妙法を信受したわれわれの生命もまた、妙法と共に永遠であります。その永遠の生命から見るならば、今世は、広宣流布の使命旅の一里塚といえるかもしれない。
 広布の道は、魔との戦いです。御書にも、“八風”に侵されることなく、信心の大道を歩み抜くことの大切さを説かれている。
 この“八風”とは、目先の利益や名誉、称賛、譏り、苦しみ、享楽等々、人心を扇動し、信心を失わせてしまう働きをいいます。
 自分の心を制する人間革命があってこそ、自身の幸福の確立も、広宣流布の前進もあります。私どもは、潔い信心で、この“八風”に打ち勝ち、再び二十一世紀への希望の出発を開始していこうではありませんか!
 大関西は、日本、全世界の模範となり、永遠に広宣流布の先駆となってください。私も関西の皆さんと共に、新しい常勝の歴史を、新しい人生の歴史を、生涯、綴っていく決意であります。
 最後に『関西万歳!』と申し上げて、皆さんの真心に甚深の敬意を表して、あいさつとさせていただきます」
 次いで「常勝の空」の大合唱が始まった。
  今再びの 陣列に……
 常勝の空高く、凱歌は轟いた。それは、衣の権威に抗して、仏法の人間主義の旗を高く掲げ立った、創価の師弟の決起であり、目覚めたる民衆の宗教改革の烽火であった。
27  雄飛(27)
 山本伸一は、記念勤行会のあと、関西文化会館内の別会場へ足を運び、集っている同志を励ました。さらに、夕方五時からの記念勤行会にも出席した。
 彼は、ピアノも弾いて激励した。随所で、参加者と記念撮影し、固い握手を交わし続けた。いつの間にか彼の手は、赤く腫れ上がっていた。それでも、同志の輪のなかへと、勇んで突き進んでいったのである。
 また、聖教新聞関西支社にも立ち寄り、記者たちを全力で激励し、関西牧口記念館へ向かった。
 この夜、牧口記念館で伸一は、胸中に新しき旅立ちの銅鑼を響かせながら筆を手にし、魂を注ぎ込む思いで大書した。
 ――「五月三日」
 脇書には、彼にとって節目の五月三日を列記した。「昭和二十六年五月三日」「昭和三十五年五月三日」「昭和五十四年五月三日」「昭和五十八年五月三日」「西暦二〇〇一年五月三日」……。
 昭和二十六年(一九五一年)は、戸田城聖が第二代会長として立った日であり、同三十五年(六〇年)は、伸一が第三代会長に就任した日である。同五十四年(七九年)は、彼が会長を辞任した直後の本部総会の日である。
 戸田の会長就任から三十二年後に当たる昭和五十八年(八三年)、二〇〇一年(平成十三年)の「五月三日」には、“この時を目標に、必ず新たな創価学会の大発展の流れを!”という、金剛の誓いが込められていた。
 さらに、「此の日は わが学会の原点也」「昭和五十五年五月三日 記す」「心爽やかなり 合掌」と書きとどめた。
 会長辞任から一年。学会を破壊し、学会員を隷属させようとする宗門僧と結託した邪知の反逆者の謀略は、日を追うごとに明らかになりつつあった。第六天の魔王は、仏道修行を妨げ、広宣流布を阻もうとするとの、御書に仰せの通りの姿であった。
 伸一は、常勝関西の地で、新しき勝利の闘争へ、決然と立ったのである。
28  雄飛(28)
 五月四日の午前中、山本伸一は、大阪府豊中市の関西戸田記念講堂で行われた鳥取県の勤行会に出席した。わざわざ鳥取から集って来た同志である。彼は力の限り励まし、勇気づけたいと会場に駆けつけた。
 鳥取の友の会合に出席するのは、一九七八年(昭和五十三年)七月に米子を訪問して以来、約二年ぶりであった。どの顔も求道と歓喜の輝きに満ちていた。
 鳥取支部の誕生は、伸一が会長に就任した六〇年(同三十五年)五月三日であり、この勤行会は、いわば、支部結成二十周年を記念する集いでもある。彼は共戦の同志に、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「遠いところ、お疲れさまです。明るい、元気な皆さんの姿を拝見し、希望の未来を見るようです。諸天も皆さんを寿ぐかのように今日も五月晴れになりました。この関西の常勝の空を、十分に味わってください。
 皆さんは、尊い地涌の菩薩です。さまざまな宿命と日々格闘しながら、それを乗り越えて、仏法の大功徳を証明し、広宣流布の使命を果たしゆく方々です。すべての苦悩は、大幸福境涯にいたるステップです。何があっても、信心根本に悠然と進み、意義深き黄金の思い出をつくってください。
 人の一生には、さまざまな出来事がある。しかし、長い目で見た時、真面目に信心に励んだ人は、必ず勝利し、輝いています。背伸びする必要はありません。ありのままの自分でいい。学会と共に進んでいくことです。
 仏にも悩みはある。悩みは常につきまとうものです。しかし、煩悩即菩提・生死即涅槃です。苦悩を歓喜へ、幸福へと転じていけるのが南無妙法蓮華経です。濁世の、せちがらい苦労だらけの世の中で、自他共の幸せを築いていくために出現したのが、地涌の菩薩である皆さんです。幸福を勝ち取るために、自分に勝ってください。私も、お題目を送ります」
 その指導は、同志の心に、深く染み渡っていった。地涌の使命に目覚め立つ時、勇気が湧く。大生命力がみなぎる。
29  雄飛(29)
 四日は、関西文化会館の落成を祝う大阪支部長会が、四回に分けて開催されることになっていた。山本伸一は、“大事な支部長・婦人部長の皆さんと、共に新しいスタートを切りたい”と、すべての支部長会に出席し、全魂を注いで指導した。
 「健康第一で、はつらつと地域広布の指揮を執ってください。皆さんが元気であれば、全支部員もまた、元気になっていきます。常に満々たる生命力をたたえたリーダーであっていただきたい」
 「どんなに財や地位、名誉を手にしたとしても、むなしさに苛まれた人生であれば、幸せとはいえない。真剣に信心に励み、会合などに参加した時は、身も心も軽くなり、生命の充実を感じることができる。この充実のなかにこそ、最高の満足があり、幸福がある」
 「学会活動をしていくなかで、“なんで自分が、こんなことを言われなくてはならないのだ”と思うこともあるでしょう。しかし、経文、御書に照らして見るならば、仏の使いとして、この末法に出現して法を説いているのだから、苦難があって当然です。また、広宣流布のために苦労を重ねることによって、今世で宿業を転換し、永遠の幸福境涯を開いていくことができる。そう思うならば、苦労は即歓喜となるではありませんか!」
 「一生成仏の信心の火を消してはならない。生涯、広宣流布の陣列から離れずについていく、持続の信心のなかに、人生の大勝利があることを知ってください」
 一回一回、全力投球の指導であった。その間に、関西の十三大学会の新しい期のメンバーと記念撮影もした。支部長会の参加者のために、ピアノも演奏した。多くの同志と握手も交わした。四回目の支部長会が終了したのは、午後八時過ぎであった。
 さらに、奈良から大挙して同志が到着した。そのメンバーのために、急遽、勤行会が開かれたのである。
 同志のために労を惜しまない――伸一の心であり、指導者の永遠不変の精神である。
30  雄飛(30)
 五月五日は、「創価学会後継者の日」である。関西文化会館では、午前十一時から、高等部、中等部、少年・少女部の代表が集い、第五回「後継者の日」記念勤行会が行われた。
 一年前、山本伸一は神奈川文化会館でこの日を迎えた。未来部員の集いに出席して、メンバーを力の限り励ましたかったが、当時の状況が、それを許さなかった。しかし、彼は今、時が来ていることを強く感じていた。
 伸一は、未来部員に、ぜひとも会っておきたかった。二十一世紀を託すために、全生命を注いで鳳雛たちを育てたかったのである。
 会場に姿を現した伸一に、少年・少女部の代表から、紙のカブトが贈られた。
 勤行会で、彼は訴えた。
 「皆さんは、これから大地に根を張り、大樹へと育ちゆく若木である。若木には添え木も必要であるし、水もやらねばならない。育てるには、多くの労力を必要とする。
 そのように、お父さん、お母さんも、皆さんを育てるために、厳しい現実社会で、人知れず苦労に苦労を重ねていることを知ってください。そして、感謝の心をもつことが、人間として最も大切な要件です。
 親と意見が食い違い、腹の立つ時もあるでしょう。でも、すべてを自身の成長への励ましであるととらえていくことです。わがままや甘えは、自分をだめにします。しかし、我慢は自分を磨いていく。その経験が、将来の大事な精神の財産となっていきます。
 未来部の年代というものは、基本をしっかり身につけて、基礎を強固にする時代です。基礎を築くためには忍耐が必要です。辛抱強く勉強に励むとともに、信仰の世界で、自分をつくっていくことを忘れず、広布の大樹へと育ってください」
 哲学者・西田幾多郎は訴えている。
 「何事も辛抱と忍耐とか第一です 一度や二度でうまく行かなくとも決して挫折してはならない 百折不倒根氣よく幾度でも又工夫をめぐらすにあり 古人も英才は忍耐にありといふ」(「書簡集 昭和10年」『西田幾多郎全集第18巻』所収、岩波書店)
31  雄飛(31)
 五日の午後、山本伸一は、まず、大阪の男子部部長会に出席して指導した。
 「地道な戦いのなかに人生の開花がある。青年時代は悩みと葛藤の日々かもしれない。しかし、焦ることなく、着実に、粘り強く、信心、学会活動に励み、生活の場で、職場で実証を示してもらいたい。
 さまざまな苦難もあるでしょう。しかし、地道に信心をしていくならば、時が解決してくれます。真剣に題目を唱えていけば福運がつき、自身が成長していきます。ゆえに、現実がどんなに厳しくとも、希望を捨ててはいけません。御本尊への大確信をもってもらいたい。皆さんには、何があっても妙法がある。この永遠不滅の法がある限り、人生の大勝利者になれないわけがない。
 物事は長い目で見ていくことです。皆さんの多くは、二十一世紀の初めには、五十代になっていくでしょう。最も働き盛りの年代です。その時に、悔いなく、存分に力を発揮していけるように、微動だにしない人生の根を張るための修行を忘れないでいただきたい」
 そのあと、集って来た創価女子学園出身のメンバーらを激励し、午後四時には、女子部部長会に出席した。彼は力説した。
 「水の流れのごとく、日々、題目を唱え抜き、日本一、世界一、幸せだといえる人になっていただきたい。いかなる状況にあっても、最後は、信心を貫いた人が絶対に勝ち、福運に満ちあふれた人生を歩むことができると、私は断言しておきます。
 また、いかなる宿命の渦中にあっても、題目を唱えられること自体が、最高の幸福であることを確信してください。信心とは、何があっても御本尊から離れないことです」
 伸一は、夕刻には、近くのレストランで関西の代表と会食懇談を行い、帰途、中大阪文化会館に立ち寄った。
 出る会合、出る会合で、会う人ごとに励ましの言葉をかけた。未来といっても、この一瞬にある。明日、何かをなそうとするのではなく、今、何をするかである。
32  雄飛(32)
 関西文化会館に戻った山本伸一は、設営グループ「鉄人会」メンバーが集っていることを聞くと、「お会いしよう」と、喜び勇んで励ましの語らいを重ねた。
 実は、メンバーは伸一に使ってほしいと、イスを作って届けていた。彼は、その真心に応えたかった。また、いつも陰の力として設営に奮闘してくれていることに、心から感謝の言葉を述べたかったのである。
 「ありがとう。皆さんの苦労を、私はよく知っています。作ってくださったイスにも、何度も座らせていただきました。最大の感謝をもって、その心を受けとめております。濁りのない、清らかな心と心で結ばれているのが、創価の世界ではないですか。私には健気な一念が痛いほどわかります」
 伸一の言葉に、目を潤ませる人もいた。もとより、見返りを欲しての作業ではなかった。必死に広宣流布の指揮を執る師のために何かしたいとの、清らかな信心と弟子の信念の発露にほかならなかった。それゆえに、その行為は、美しく、尊かった。彼らは、伸一が自分たちの思いを知ってくれているというだけで満足であった。
 伸一は、その心根に、最大の讃辞を贈り、最高の敬意を表したかった。
 日蓮大聖人が、「心こそ大切なれ」と仰せのように、信心の世界にあって肝要なのは「心」である。
 引き続き彼は、人材育成グループである「関西同志の集い」の勤行会に出席した。
 「真の人材とは、地涌の菩薩の使命を自覚し、より広く、深く法を知らしめていく人である。より大勢の人の依怙依託となれる人である。聡明で、理に適い、人びとを納得させられる人である。次の後継の人を育成できる人である。また、良識の人であり、皆に、安心と希望と確信を与えられる人である。そのために自らを磨き鍛えていただきたい」
 彼は懸命に訴え抜いた。「励ます」という字は「万」に「力」と書く。全力を注ぎ込んでこそ、同志の魂を揺り動かす激励となるのだ。
33  雄飛(33)
 六日は、午後から夜にかけて、三回にわたって関西指導部の勤行会が関西文化会館で行われた。山本伸一は、この日も、いずれの勤行会にも出席した。
 婦人には、「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」との御文を拝して、「幸福は身近なところにある。悩みのない人生はない。しかし、悩みは幸福の肥料でもある。唱題をもって、すべてを幸せへの力に!」と指導した。
 また、壮年には、「題目は全宇宙に響き、永遠の大生命力の源泉となる。御本尊根本、題目第一で新しい出発を!」と呼びかけた。
 連日、関西文化会館には、大阪をはじめ、関西各地から、続々と同志が集ってきた。しかも、その数は次第に多くなっていった。
 伸一は、関西の幹部に言った。
 「さらに勤行会を行いましょう。わざわざ、同志が駆けつけてくださるんだ。私は、全員とお会いします」
 そして、七日の日には、当初、予定になかった自由勤行会が、昼夜二回にわたって行われたのである。
 また、この日午後七時からは、全国県長会議も開かれた。伸一は、ここにも顔を出し、参加者に訴えた。
 「邪が正を滅ぼさんとする時、リーダーは敢然と立ち上がって戦わなければならない。妥協は許されません。そうでなければ同志がかわいそうです。そして、正義は勝たねばならない。勝ってこそ正義なんです。
 創価の師弟の道が断たれてしまえば、広宣流布は断絶してしまう。正法正義を守り、広布の大道を開くために、私は戦います。私と共に戦おうという勇者と、今、再び師弟の新しい前進を開始したい。
 広宣流布の師弟、創価の師弟は、社会的な契約や利害による結びつきとは違います。徒弟制度でもない。それぞれが、自らの誓願によって定めた、人生を懸けた魂と魂の結合です。それゆえに、最も清らかで、最も尊く、最も強い、人間の絆なんです」
34  雄飛(34)
 五月八日正午前、山本伸一は、関西文化会館を出発し、新大阪文化会館に立ち寄り、午後一時過ぎの新幹線で名古屋へ向かった。
 九州から、五月二日に関西入りして以来七日間、伸一は、七万人以上の同志と会い、激励を重ねた。
 また、その間に中大阪文化会館も訪れている。同会館には、一九六九年(昭和四十四年)十二月、関西指導に赴いた伸一が高熱に見舞われ、一夜を過ごした仏間があり、今は、そのフロアが関西婦人会館として使われていた。
 あの時、妻の峯子は東京から駆けつけ、夜通し看病した。伸一は、幾分、熱が下がると、無理を押して和歌山行きを断行した。県立体育館で行われた和歌山県幹部会に出席し、全力で指導したあと、参加者の要請に応えて、「武田節」の指揮を執った。会合が終わり、退場した時には、フラッとして足がもつれた。力を使い果たしていたのだ。彼は、もしも、ここで倒れても本望だと思っていた。
 日々、挑戦と苦闘の連続であった。こうした真剣勝負の行動の積み重ねによって、広宣流布の創価の大道が開かれてきたのである。たとえ時代は変わっても、不二の同志には、この不惜の精神を受け継いでほしかった。
 「日興遺誡置文」には、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と仰せである。その精神が途絶えたならば、世界広布の大願成就はあり得ないからだ。
 伸一は、五月一日に行われた関西婦人会館の開館式を記念し、句を詠み、贈った。
 「断断固 関西護れや わが城を」
 また、妻の峯子は、この関西滞在中に来館し、芳名録に、こう認めた。
 「学会の 母の館に 集い来て
     心豊かに 広布に走らむ」
 九州に続いて関西も、伸一と共に雄々しく立ち上がった。学会の不屈の強さは、師弟共戦のスクラムにこそある。
 “さあ、次は中部だ!”
 彼は、闘魂をたぎらせた。
35  雄飛(35)
 五月九日、愛知県名古屋市の中部文化会館は、朝から長蛇の列が続いた。
 「支部長、婦人部長の勤行会を行おう。しかし、役職に関係なく、来たい方には皆、声をかけてください。自由勤行会です!」
 同志は、欣喜雀躍して中部文化会館をめざした。会館は、勤行会の会場となった広間だけでなく、会議室や応接室も人であふれた。
 勤行会は、午前中に五回ほど行われた。伸一は喉を痛めたが、一緒に勤行し、激励を続けた。彼の腕をつかみ、手を握り、目に涙を浮かべて喜ぶ同志の顔を見ると、とてもわが身をいたわることなどできなかった。
 一年前、会長辞任が発表されると、中部の同志からも、数多くの手紙や電報が届いた。彼は、そうした方々に心から御礼を述べ、共に新しい前進を開始したかったのである。
 伸一は、勤行会での指導を終えると、会議室やロビー、場外を回って参加者に声をかけ、握手し、記念撮影を繰り返した。
 午後の勤行会も五回、六回と回を重ねていった。午後十時を過ぎても、屋外に人が待機していた。伸一は、すかさず激励に走った。
 「先生!」と声があがる。彼は、「しーっ、静かにね。もう夜も遅いから」と近隣を気遣い、皆を制しながら笑顔で包み込んでいく。すべてが終わったのは午後十一時近かった。
 中部では、岐阜にも足を延ばした。
 十一日、五月晴れの空が広がっていた。
 伸一は、岐阜市の功労者宅を訪問し、岐阜文化会館での岐阜支部結成二十周年の支部長会に出席した。二階のロビーで、娘と共に参加していた、数え年百歳の老婦人と対話を交わした。岐阜市でいちばんの長寿者とのことであった。草創の時代の入会であり、唱題が最高の楽しみであるという。
 「お会いしに来ましたよ。日本の宝です。学会の宝です。いついつまでもお元気で!」
 この日が「母の日」であることから、お祝いにカーネーションの花束を贈り、一緒にカメラに納まった。高齢ながら、共に広布に立とうという姿に、彼は仏を見る思いがした。
36  雄飛(36)
 山本伸一は、岐阜文化会館から各務原文化会館に移動した。ここにも、彼の岐阜訪問を聞いた大勢の同志が集い、会館は人であふれ、玄関から入ることはできなかった。
 「よし、自由勤行会をやろう!」
 伸一は、こう言うと、建物の外にある螺旋状の非常階段を上がり、会場へ向かった。
 彼は、参加者に呼びかけた。
 「辛い思いをされたでしょう。でも、もう大丈夫です! 皆さんは勝ったんです。一人も残らず、幸せという人生の栄冠を勝ち取ってください。私は、皆さんを断じて守ります」
 勇気の声が響いた。
 伸一は、共に祈りを捧げた。「春が来た」など、次々とピアノも弾いた。婦人部の代表と懇談し、各部の友と記念撮影もした。中部滞在中の記念撮影は優に百回を超えた。
 翌十二日に岐阜羽島駅を発つまで、岐阜での彼の激励は続いた。“一目でも会いたい”と駅に駆けつけたメンバーを見ると、改札に入る間際まで声をかけ、集った十九人を「羽島グループ」としてはどうかと提案した。
 一回の出会いを、単なる思い出として終わらせたくなかった。新しき誓いと未来への出発の起点にしたかったのである。
 伸一の指導旅は続いた。静岡に移動した彼は、静岡文化会館で男子部部長会参加者に万感の思いを込めて訴えた。
 「広宣流布の後継を頼む!」
 「今こそ、信心修行の労苦を忘れるな!」
 「『身は軽く法は重し』を深く心に刻め!」
 「社会、職場の勝利者たれ!」
 さらに、十三日には、同会館で自由勤行会を開催し、第一線の同志の輪の中に飛び込み、十四日に東京に帰った。
 四月二十九日に長崎から始まった激励行で、彼は十五万人を超える同志を励ました。皆の胸に、歓喜と勇気の火を赤々と燃え上がらせた。皆が、広宣流布に生き抜く創価の師弟の大道を歩み抜こうと誓願した。
 冷酷無残な悪侶と反逆の徒輩の謀略に対し、反転攻勢の烽火が天高く上がったのだ。
37  雄飛(37)
 東京は、青葉の季節であった。
 山本伸一は、広宣流布への飛翔を阻む謀略の鉄鎖を断ち切り、大鷲のごとく希望の青空へ飛び立った。
 第五次訪中、そして、長崎、福岡、大阪、愛知、岐阜、静岡の指導を終えて信濃町に戻った伸一は、本陣・東京の再構築をめざして、練馬区や台東区、世田谷区、港区の会館などを訪れ、同志の激励に奔走した。
 伸一は、広布新時代に向かって翼を広げ、奮戦を続けていた。一方、会長の十条潔をはじめ学会首脳は、しばらく前から悩み抜いていた。山脇友政についての問題であった。
 ――金に目がくらんだ山脇は、五年前に富士宮の土地売買等に絡み、巧妙な手口で大金を手にすると、自ら冷凍食品会社の経営に乗り出した。しかし、所詮は素人商売であり、放漫経営がたたって事業不振となり、四十数億円の莫大な負債をかかえるにいたった。返済のめども立たず、追い詰められた彼は、学会から金を脅し取ることを考えた。
 これまで山脇は、若手僧らに学会を激しく批判させ、自分が宗門との和合の交渉役となって、学会を意のままに操ろうと暗躍してきた。そのために、裏で僧たちの学会への不信と反感を煽り、攻撃させるように、捏造した情報を流し続けたのである。
 さらに、学会攻略の計画を練り、再三にわたって、それを宗門に伝え、法主・日達にも讒言を重ねてきた。
 自分が火をつけ、事態を紛糾させておいて、自分が収拾役を買って出るという、いわゆる「マッチポンプ」を繰り返したのだ。
 また、学会の社会的な信用を失墜させ、会長の伸一を追い落とそうと、マスコミにも事実を歪めた情報を流し続けた。
 だが、その化けの皮が次第にはがれ、謀略と二枚舌の背信行為の数々が露見するとともに、事業は窮地に陥ったのだ。自業自得であった。御聖訓には、「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」と仰せである。
38  雄飛(38)
 山脇友政が陰でつながっていたのが、教学部長の原山高夫であった。彼は、前年の一九七九年(昭和五十四年)九月、聖教新聞社に保管されていた資料文書の大量のコピーを運び出した。山脇は、それらを使いながら学会と宗門の離間工作を企て、マスコミにも歪曲した学会攻撃の材料を流してきたのである。
 八〇年(同五十五年)四月、遂に山脇は、学会に、金を出すよう脅しにでたのだ。
 十条潔ら執行部は、山脇の悪質な手口と執拗な性格がわかってきただけに、対応に悩んだ。このままにしておけば、学会が努力に努力を重ねてめざしてきた僧俗和合に、さらに亀裂を生じさせる卑劣な工作を行うことは目に見えていた。その結果、横暴な宗門僧によって、どれほど多くの会員が苦しめられることか。それだけは避けたかった。
 苦慮する執行部に対して、山脇は三億円を出せと恐喝してきた。
 ――「恐喝だって何だっていいんだ。刑務所に入ったっていい」(東京地方裁判所判決、昭和56年〔刑わ〕第288号)
 十条は苦悩の末に、今後、一切、謀略や攻撃は行わないことを約束させ、断腸の思いで支払いに応じた。山本伸一の中国訪問中の出来事であった。
 しかし、山脇は、なんと、さらに五億円を要求してきたのだ。六月七日、学会は恐喝並びに恐喝未遂で、彼を警視庁に告訴した。
 これを機に山脇は、狂ったように攪乱工作を始めた。週刊誌を使い、卑劣な学会攻撃を繰り返した。それは、御書に「跡形も無き虚言なり」、「そねみ候人のつくり事」とある通りの、妬みの作り話などであった。
 さらに原山も週刊誌に登場し、中傷を重ねていった。彼は山脇から大金を受け取っていたことが、山脇の裁判で明らかにされている。
 学会は、真剣で真面目な人びとの、清浄な信心の団体である。“邪心の徒”を許さぬ世界である。山脇も原山も、最後は、周囲にまったく信用されない存在になっていた。
 皆、背信者の自滅の末路を感じていた。
39  雄飛(39)
 学会が山脇友政を告訴した六月七日、宗門の宗会議員選挙の結果が発表された。学会攻撃を続ける若手僧らが、十六議席のうち過半数を占める十議席を獲得した。七月三日には選挙後初の宗会が開かれ、彼らが宗会議長などの主要ポストを得たのだ。
 そして翌四日、彼らは、正式に「正信会」と称する組織を結成した。七月の御講では、学会批判を禁ずる再三の院達を全く無視して、多くの寺で、学会への激しい攻撃が行われた。
 こうした動きの背後にも、追い詰められた山脇の暗躍があった。山脇に煽動された彼らは、宗門の指示に従わず、勝手な行動を繰り返した。
 悪侶や週刊誌等による学会への集中砲火を、同志は耐え忍んだ。職場などで、同僚や上司から週刊誌の学会批判の話を聞かされる人もいた。しかし、創価の仏子たちは、「難来るを以て安楽と意得可きなり」、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」等の御文を思い起こしながら、互いに励まし合い、弘教に走った。
 当時、「聖教新聞」は、ようやく山本伸一の行動等が報じられるようになったとはいえ、まだ、遠慮がちな掲載で、力強い前進の息吹を与えるものとはなっていなかった。
 伸一は、同志を思い、心を痛めた。
 “皆に、新生の光を送らねばならない!”
 折しも聖教新聞社からは、広布途上に逝去した草創の友らの回想録を連載してほしいとの要望が出されていた。伸一は、草創期から黙々と信心に励み、学会を支え、生涯を広宣流布に捧げた同志を宣揚しようと、その連載の開始を決めた。功労の同志の尊き生き方を通して、皆を勇気づけたかったのだ。タイトルは「忘れ得ぬ同志」である。
 また、小説『人間革命』も、二年前の八月に第十巻を終了して以来、連載を中断しており、再開を望む声が数多く寄せられていた。彼は、『人間革命』の執筆も決意した。
 吹き荒れる嵐に向かい、敢然と一人立つ――これが学会魂だ。これが師子の道だ。
40  雄飛(40)
 七月下旬、山本伸一は、「忘れ得ぬ同志」と小説『人間革命』を担当する「聖教新聞」の記者たちと、神奈川研修道場で打ち合わせを行った。彼が、『人間革命』の連載再開を告げると、編集担当者は驚いた顔をした。そして、ためらいがちに話し始めた。
 「読者は、大喜びすると思います。しかし、宗門の若手僧たちは大騒ぎし、先生が格好の標的になってしまうのでは……」
 こう言って口ごもった。
 すかさず、伸一は強い語調で語り始めた。
 「そんなことはわかっているよ。今、大事なことは、私がどうなるかではない。守るべきは同志です。学会員は、非道な僧や、それに同調する人間たちから、冷酷な仕打ちを受け続けても、じっと堪え、広宣流布のため、学会のために、健気に、一途に、懸命に頑張ってくださっている。
 私の責任は、仏子である、その学会員の皆さんを守ることだ。勇気の光、希望の光、確信の光を送り、皆が自信と誇りをもって、使命の道に邁進していけるようにすることだ。そのために私がいるんです。
 したがって、今だからこそ、『人間革命』を書かなければならない。それが私の戦いなんだよ。いいね。わかるね」
 記者は、大きく頷いた。
 伸一は、笑みを浮かべ、言葉をついだ。
 「できるだけ早く始めたいんだ。挿絵を担当してくださっている画伯とも、至急、連絡を取ってほしい。また、実は今、肩が痛くて腕が上がらないんだよ。すまないが、場合によっては、口述を書き取って連載するようにしてくれないか」
 この一九八〇年(昭和五十五年)の夏、関東地方は長雨で、蒸し暑い日が続いていた。伸一は、前年からの疲労が重なっており、その天候が体にこたえた。しかし、彼は燃えていた。胸には闘志があふれていた。
 「正義は必ず勝つという信念のみが、私たちを鼓舞する」(『マハトマ・ガンジー全集 68巻』インド政府出版局〔英語〕)とは、マハトマ・ガンジーの魂の言葉である。
41  雄飛(41)
 「忘れ得ぬ同志」は、七月二十九日から連載を開始した。
 そして、小説『人間革命』第十一巻が、八月十日から週三回の連載でスタートしたのである。第一章のタイトルは「転機」とした。
 ――一九五六年(昭和三十一年)九月、戸田城聖が一切の事業から身を引き、残された人生の時間を広宣流布に捧げる決意をするとともに、山本伸一に「山口開拓指導」の指揮を託すところから始まっている。
 口述の場所は、神奈川研修道場や静岡研修道場など、山本伸一の行く先々で行われた。その前後には、たいてい全国各地の代表や各部の代表、あるいは地元メンバーとの懇談などが何組も入っていた。また伸一は、わずかな時間を見つけては家庭訪問に回った。
 彼は、『人間革命』の担当記者に言った。
 「私は、戸田先生の弟子だ。だから、どんな状況に追い込まれようが、どんな立場になろうが、広宣流布の戦いをやめるわけにはいかないんだ。命ある限り戦い続けるよ。しっかり、見ておくんだよ」
 しかし、激闘による疲れもたまっていた。
 咳が続き、発熱する日もあった。
 ある日、口述の準備をして、担当記者を待つ間、濡れたタオルで額を冷やしながら、畳の上に横になった。ほどなく、「失礼します!」という声がし、記者が部屋に入って来た。
 伸一は、薄く目を開けると、仰向けになったまま言った。
 「悪いけど、少し寝かせてくれないか」
 記者は、心配そうな顔で横に座った。
 伸一は、時々、咳き込む。目も充血している。“こんな状態で、果たして口述をしていただけるのか……”と記者は思った。
 カチッ、カチッ、カチッと、時計が時を刻んでいく。十分ほどしたころ、伸一は、勢いよく、バンと畳を叩き、体を起こした。
 「さあ、始めよう! 歴史を残そう。みんな、連載を楽しみにしているよ。喜んでくれる顔が、目に浮かぶじゃないか。“同志のために”と思うと、力が出るんだよ」
42  雄飛(42)
 山本伸一の周囲には、小説の舞台となる時代の「聖教新聞」の縮刷版、メモ書きした用紙、参考書籍などが置かれていた。伸一は、メモ用紙を手にすると、記者に言った。
 「では、始めるよ! 準備はいいかい」
 口述が始まった。一声ごとに力がこもっていく。記者は、必死になって鉛筆を走らせる。しかし、伸一が文章を紡ぎ出す方が速く、筆記が追いついていかない。そこで記者の手の動きを見ながら口述していった。
 十五分ほど作業を進めると、伸一は、咳き込み始めた。咳は治まっても、息はゼイゼイしている。
 「少し休ませてもらうよ」
 彼は、また、畳の上に横になった。十分ほどして、記者の清書が終わるころ、呼吸は少し楽になった。また、力を込めて、畳をバンと叩いて身を起こした。
 「さあ、やろう! みんなが待っているんだもの。学会員は、悔しさを堪えながら頑張ってくれている。そう思うだけで、私は胸が熱くなるんだよ。だから、同志には、少しでも元気になってほしいんだ。勇気を奮い起こしてもらいたいんだよ」
 再び口述が始まった。しかし、やはり十分か十五分ほどすると、体を休めなければならなかった。
 こうして原稿を作り、それを何度も推敲する。さらにゲラにも直しを入れて、新聞掲載となるのである。連載は、ひとたび開始されれば、途中で休むわけにはいかない。そこに新聞連載小説の過酷さもある。伸一にとっては、まさに真剣勝負であり、生命を削る思いでの口述であった。
 「ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる」(「北帰行」『アンデルセン小説・紀行文学全集6』所収、鈴木徹郎訳、東京書籍)とは、デンマークの作家アンデルセンの箴言である。伸一も、そうあらねばならないと自らに言い聞かせ、わが同志の魂に響けと、一語一語、考え抜きながら原稿を仕上げていったのである。
 連載に対する反響は大きかった。全会員の心に、蘇生の光を注いだのである。
43  雄飛(43)
 宗門は、混乱の度を深めていった。
 宗門側は、山本伸一の法華講総講頭の辞任、学会の会長辞任をもって、学会攻撃はしないと言明していた。しかし、「正信会」の学会員への仕打ちは、ひどさを増しており、学会は宗門に約束を守るように要請してきた。
 宗門としても、前法主・日達の意向通りに、なんとか僧俗和合させようとしてきたが、彼らは、それを無視して、八月二十四日には日本武道館で全国檀徒大会を開催した。
 大会では、伸一の「法華講名誉総講頭の辞任」等を叫び、さらに、「学会は宗教法人として独立法人の形態を改めて、宗門の傘下に包括されるべきである」などと気勢をあげたのである。
 ここには山脇友政の姿は見られなかったが、原山高夫が参加して学会を批判し、日顕に対しても、「糾弾していかなくてはならない」などと話している。
 山脇の謀略に踊った「正信会」の僧たちの暴走は止まらなくなっていた。日顕との対決姿勢を明らかにし、質問状や、法主は「権限を濫用」しているなどとする「建言」を送付した。
 宗門を根本から揺るがしかねない事態であった。九月二十四日、宗門は責任役員会を開き、「正信会」の僧が「宗内の秩序を乱した」として、教師資格をもつ僧の約三分の一にあたる二百一人の懲戒処分を決定した。
 処分の対象となった僧たちは、抗議集会を開き、「人権無視の暴挙」などと騒ぎ立てた。
 宗門は、彼らを、順次、擯斥処分にしていった。この流れを見て、慌てて態度を変え、法主・宗務院に従う僧たちもいた。
 擯斥され、寺を明け渡すことになった住職らは、法廷で宗門と争っていくことになる。
 九月三十日午後十時、山本伸一は、成田の新東京国際空港(後の成田国際空港)を発って、一路、ホノルルをめざした。アメリカ広布二十周年を記念する諸行事に出席し、世界広宣流布の新しい幕を開くためである。
 世界広布の前進には、一刻の猶予もない。
44  雄飛(44)
 山本伸一は、最初の訪問地であるハワイのホノルルで、ハワイ会館の諸行事に臨み、日本からのハワイ親善交流使節団や南米親善交流使節団のメンバーを激励した。
 十月二日には、ハワイ会館で行われた「世界平和の日」記念勤行会に出席した。
 「世界平和の日」は、二十年前の一九六〇年(昭和三十五年)のこの日、伸一が、初の海外訪問に旅立ったことから、学会として設定した記念日である。
 その平和旅の第一歩を印したのが、ハワイであった。それは、ここが、太平洋戦争の開戦の地であったからである。戦争の惨禍の歴史を刻んだ地から、世界平和の大潮流を起こしていこうと、深く心に決めていたのだ。
 初訪問の折、ハワイでの座談会に集ったのは、三、四十人にすぎなかった。参加者の多くは人生の悲哀に打ちのめされていた。米軍の兵士と結婚してハワイに渡ったものの、経済苦や夫の暴力に怯え、「日本へ帰りたい」と身の不運を嘆く婦人もいた。
 伸一は、真剣に信心に励むならば、幸福になれないわけがないと断言し、一人ひとりが宿命を転換して、自他共の幸福を築いていくために、地涌の使命を担い、ここに集っていることを、力の限り訴えた。
 眼前の苦悩する一人を励まし、勇気づけ、蘇生させることこそが、生命尊厳の社会を実現する確かな第一歩であり、平和建設の原点となる。
 彼は、参加者の心に確信の太陽が燃え輝くのを感じた。メンバーは、希望の青空を仰ぎ、広宣流布の使命に目覚め立っていった。
 この初の海外訪問では、北・南米を回り、アメリカ総支部、ブラジル、ロサンゼルスの二支部、ハワイなど十七地区が誕生したのだ。
 以来二十年、地涌の菩薩の陣列は、世界約九十カ国・地域へと広がった。伸一は、「世界平和の日」記念勤行会で、さらに、二十年後の西暦二〇〇〇年をめざして、民衆の堅固な平和のスクラムをもって、人類を、世界を結ぼうと誓願し、深い祈りを捧げた。
45  雄飛(45)
 山本伸一は、今回のハワイ訪問では、ジョージ・アリヨシ州知事と会談したほか、ハワイ総会に出席するなど、精力的に平和交流とメンバーの激励に奔走した。
 そして、サンフランシスコ、ワシントンDCと回り、十月十日にはシカゴに到着した。
 伸一は、“行く先々で、一人でも多くのメンバーにお目にかかり、全力で励まそう”と固く決意していた。
 各地のアメリカ広布二十周年の記念総会に臨み、会館を訪れ、協議会等にも出席した。少しでも時間があれば家庭訪問もした。
 サンフランシスコでは総会に集った三千五百人の友と交歓。第一回のアメリカ訪問の折に足を運んだ、コロンブス像が立つテレグラフ・ヒルにも行き、メンバーの代表と記念撮影し、アメリカ広布への新出発を誓い合った。
 また、ワシントンDCでの記念総会では、参加した四千人のメンバーを激励。翌日の最高協議会では、法華経に登場する「大王膳」について語り、指導した。
 「『大王膳』とは、法華経の偉大さを山海の珍味に満たされた“王様の食膳”に譬えたものです。不幸に泣いていた私どもが、御本尊に巡り合い、信心に励み、無量の功徳を得た所願満足の大境涯といえます。
 一方、どんなにご馳走があったとしても、反目し合いながらの食膳は『修羅膳』、あさましい、むさぼりの心の食膳は『餓鬼膳』であり、人を陥れようと陰謀を企てながらの食膳は、結局は『地獄膳』となってしまう。
 清らかな心で、世界広布、皆の幸福を願う私どもの食膳――広くとらえれば、日々の活動や会議も、最も豊かで貴い『大王膳』に通じることを確信してください。
 また、法華経には『人華』という言葉がある。妙法の光に照らされ、広宣流布に邁進していく人の美しさを、このように讃えているともいえます。その華は、歓喜に輝き、功徳が薫り、人びとに幸の芳香を放ち、人生の充実という満開の時を迎える。“私は人華である”との誇りをもって進んでいただきたい」
46  雄飛(46)
 ワシントンDCに続いて訪れたシカゴでは、十二日、市内のマダイナ公会堂に五千人のメンバーが喜々として集い、シカゴ文化祭、そして記念総会が行われた。
 二十年前、山本伸一がシカゴを初訪問した時、メンバーは十数人であったことを思うと、隔世の感があった。この文化祭で、ひときわ彼の心をとらえたのは、サチエ・ペリーと、その七人の子どもによる演目であった。
 彼女は十四歳の時に広島で被爆していた。一九五二年(昭和二十七年)、米軍の軍人であった夫と結婚し、アメリカに渡った。だが、待ち受けていたのは、夫のアルコール依存症と暴力、経済苦、子どもの非行、言葉の壁、偏見と差別であった。七人の子どもを育てるために、必死に働いた。一家の住む地域は、人種間の対立や争いごとが絶えず、夫から、護身用として銃を持たされた。苦悩にあえぎ、恐怖に怯える毎日であった。
 そんなある日、近所に住む日系の婦人から仏法の話を聞き、信心を始めた。六五年(同四十年)のことである。
 必ず幸せになれるとの励ましに心は燃えた。何よりも宿命を転換したかった。題目を唱えると勇気が湧いた。そして、教学を学ぶなかで、自分には地涌の菩薩として、このアメリカの人たちに妙法を教え、自他共の幸福を実現していく使命があることを知ったのだ。
 人生の真の意義を知る時、生命は蘇る。
 カタコトの英語を駆使して弘教に歩いた。
 宿命は怒濤のごとく、彼女を襲った。末娘は病に苦しみ、手術を繰り返した。夫のアルコール依存症、経済苦も続いた。しかし、“何があっても、断じて負けまい”と、信心を根本に、敢然と立ち向かう自分になっていた。七人の子どもたちも信心に励み、家計を支えるためにバンドを組み、プロとして活躍するようになった。宿命と戦いながらも、希望と歓喜を実感する日々であった。
 彼女は、この体験を、文化祭の舞台で読み上げたのである。一人ひとりの蘇生の体験があってこそ、普遍の法理は証明されていく。
47  雄飛(47)
 シカゴ文化祭でサチエ・ペリーは、山本伸一への手紙として認めた、自身の体験を読み上げていった。
 「親愛なる山本先生! 信心を始めた時、自信も、勇気も、志もなく、ただ生活苦にあえぐ毎日でした。信心で幸せをつかむしかないと思った私は、懸命に弘教に励みました」
 一家の来し方がスライドで映し出される。
 彼女は、感動に声を震わせながら叫んだ。
 「先生! 私は、今、一家和楽を勝ち取り、こんなに幸せになりました。子どもたちも立派に成長しています。私の子どもたちを、いつか先生に見ていただきたいと願ってきました。これが、その子どもたちです!」
 舞台のスポットライトが七人の子どもたちを照らした。歌と演奏が始まった。軽やかなリズムに合わせ、歌い、楽器を奏でる子どもたち。母の目には涙が光っていた。その歌声は、希望の朝を告げるファンファーレであり、その調べは、幸の歓喜の音律であった。
 伸一は、家族の勝利劇の舞台を、ひときわ大きな拍手で賞讃した。
 世界の平和は、一人の人間革命、宿命転換から始まる。平和の実像は、一家の和楽、幸福にこそある。
 彼は、出演者らに、次々と激励の句などを詠んでいった。そして、ペリー一家を代表して、長男に、「母の曲 誇りかがやけ 王者の子」との句を認めて贈ったのである。
 子どもたちは、母の志を受け継ぎ、アメリカ社会と広布のリーダーに育っていく。たとえば、病弱だった末娘のアユミは、経済苦のなか、大学に進んで教育の仕事に携わり、さらに大学院に学び博士号を取得。教育者や企業・団体のリーダー、国連職員などの人材育成プログラムを提供する仕事に従事する。また、アメリカSGIにあって、全米の婦人部長として活躍していくのである。
 アメリカ広布二十周年――万人が等しく仏の生命を具えていることを説き示す日蓮仏法によって、新たなアメリカンドリームが実を結び、多くの幸の人華を咲かせていたのだ。
48  雄飛(48)
 シカゴ文化祭に引き続いて、記念総会が行われた。
 この席でアメリカの理事長が、「明年、シカゴで世界平和文化祭を開催してはどうか」との、山本伸一の提案を発表し、参加者に諮ると、大きな賛同の拍手が広がった。
 総会のあいさつで伸一は、教学の重要性に触れ、どこまでも御書根本に仏道修行に励んでいくべきであることを訴えた。
 それぞれが我見に走れば、団結することはできない。しかし、御書に立ち返れば、心を一つにすることができる。仏法の法理にこそ、私たちの行動の規範がある。
 教学の研鑽を呼びかけた伸一は、シカゴを発つ十三日の朝、代表幹部に「御義口伝」を講義した。さらに空港の待ち時間にも、幹部らに「開目抄」を講義し、仏法者の在り方を指導した。率先垂範の行動こそが、リーダーの不可欠な要件である。
 ロサンゼルスに到着した伸一は、サンタモニカ市へ向かい、世界文化センターでの勤行会やSGI親善代表者会議に出席。そして十七日夜、世界四十八カ国・地域の代表一万五千人が集って開催された、第一回SGI総会に出席した。会場のロサンゼルス市のシュライン公会堂は、アカデミー賞の授賞式などが行われた由緒ある荘厳な建物である。
 総会に対して、国連事務総長、アメリカの上・下院議員、地元カリフォルニア州をはじめ、ニューヨーク州などの各州知事、ロサンゼルス市やデトロイト市などの各市長、ミネソタ大学学長ら各大学関係者等から、祝福のメッセージが寄せられた。
 席上、伸一は、一九五三年(昭和二十八年)七月、恩師・戸田城聖から贈られた和歌「大鵬の 空をぞかける 姿して 千代の命を くらしてぞあれ」を紹介し、その言葉の通りに全世界を駆け巡り、妙法広布に尽くし抜いていきたいとの決意と真情を披瀝した。
 “いよいよ、これからだ!”――彼の眼は、希望の旭日に輝く新世紀を見すえていた。
49  雄飛(49)
 日本では、六月に学会が恐喝事件で山脇友政を告訴すると、追い詰められた山脇は週刊誌やテレビを使って、学会への中傷を繰り返していた。彼は、荒唐無稽な作り話などで、学会には社会的不正があると喧伝する一方、「正信会」に、山本伸一の証人喚問を求める集会やデモ、国会議員への請願等を行うよう働きかけた。それらは実行されたものの、結局は、破綻へと向かっていくのだ。
 また、「正信会」の僧たちと、日顕や宗務院との対立の溝はますます深まり、それは決定的な事態となっていくのである。
 宗内は騒然たる状況となっていたが、学会の僧俗和合の姿勢は変わることはなかった。
 十一月十八日、創価学会創立五十周年を記念しての慶祝式典が、創価大学中央体育館で晴れやかに挙行された。
 ここには、山本伸一のはつらつとした姿があった。万雷の拍手が轟くなか、彼は、あいさつに立った。
 「創価学会を創立された初代会長・牧口常三郎先生、そして、学会の基盤を築き、今日の大発展をもたらしてくださった第二代会長・戸田城聖先生に、まず、衷心より御礼申し上げます。
 また、五十年にわたる広布の苦楽の尾根を共に歩み抜いてくださった草創の功労者、並びにすべての会員の皆様に、満腔の思いを込めて御礼申し上げる次第です。
 創価学会は、峻厳な信心がある限り、広布をめざす果敢な弘教の実践がある限り、永遠不滅であります。
 妙法を根本に平和と教育の推進に尽くしてきた学会の大民衆運動の第一幕は終了し、いよいよ、ここに第二幕が開いたのであります。
 今日よりは、創立百周年をめざして、世界の平和と文化、広布のために、心新たに大前進してまいろうではありませんか!」
 師子吼は轟いた。御聖訓には「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」と。皆の闘魂が火を噴いた。
50  雄飛(50)
 一九八一年(昭和五十六年)が明けた。
 反転攻勢を決する年である。
 学会は、この年を「青年の年」と定め、同志は新生の出発を期す決意を固め合っていた。
 元日、山本伸一は、恩師・戸田城聖が第二代会長として立った翌五二年(同二十七年)の正月に詠んだ和歌を、生命で噛み締めていた。
 「いざ往かん 月氏の果てまで 妙法を
     拡むる旅に 心勇みて」
 この歌は、伸一が第三代会長に就任した六〇年(同三十五年)五月三日、就任式の会場となった日大講堂に、戸田の遺影とともに掲げられたのである。彼は、歌を眼に焼き付けながら、恩師の遺影に、今世の生涯の大法戦を開始し、不二の弟子として世界広布の旅路を征こうと、深く心に誓ったのであった。
 就任式の朝、伸一は誓いの和歌を詠んだ。
 「負けるなと 断じて指揮とれ 師の声は
     己の生命に 轟き残らむ」
 そして、この八一年の元朝、彼は、いよいよ全世界の同志と共に世界へ打って出て、本格的に広宣流布の指揮を執らねばならないと心を定めていたのである。
 彼は、翌一月二日で五十三歳となる。限りある人生の長さを思えば、世界広布のために、今、なすべきことはあまりにも多い。もはや一刻も、躊躇している時ではなかった。
 宗内は、ますます混乱の様相を呈していた。伸一は、何があろうと自身が矢面に立って、宗門を外護しつつ、新たな道を開く決心であった。
 一月十三日夜、伸一は成田から、アメリカのハワイへ向けて出発した。今回の海外訪問は約二カ月の予定であり、アメリカでは、ハワイ、ロサンゼルス、マイアミなどを回り、さらに、中米のパナマ、メキシコを歴訪することになっていた。
 ハワイでは、十五カ国・地域の代表が集い、第一回世界教学最高会議が行われた。生命尊厳の根幹となる仏法の法理を掘り下げ、世界に人類平和の確固たる哲理を打ち立てていかねばならないと、伸一は痛感していた。
51  雄飛(51)
 前年十月、アメリカで教学の研鑽を呼びかけた山本伸一は、今回の訪問でも自ら率先垂範して御書を拝し、指導していった。
 世界教学最高会議では、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」の御文を通して訴えた。
 「『行』とは、自行化他にわたる実践であり、唱題と折伏のことです。『学』とは教学の研鑽です。『行学』に励む人こそが、真の日蓮大聖人の門下です。そして、この二道の絶えざる実践がなければ、それは、もはや仏法ではないと、大聖人は仰せなんです。
 このお言葉通りに実践し、さまざまな難を受けながら、広宣流布を進めてきたのは学会しかありません。この厳たる事実は、誰人も否定することはできない。
 『行学』の二道は、信心から起こる。『行学』を怠っているということは、信心を失っていることにほかならない。信心とは、いかなる脅し、迫害、誘惑にも絶対に屈せず、不退を貫き、ひたぶるに御本尊を信受し、広宣流布に邁進していくことです。
 『行』と『学』は、信心を機軸にした車の両輪といえます。したがって、いくら知識としての教学に精通していったとしても、『行』という実践がなければ、片方の輪だけで進もうとするようなものであり、正しい信心の軌道から外れていかざるを得ない。
 これまでにも実践なき偏頗な教学に陥り、われ偉しと思い、傲り高ぶって、健気に信心に励む同志から嫌われ、退転していった人もおりました。まことに残念でならない。
 私たちは、いわゆる職業的仏教学者になるために教学を研鑽するのではない。自身の信心を深め、一生成仏をめざすためであり、広宣流布推進のための教学であることを、あらためて確認しておきたいのであります」
 創価教学とは実践の教学であり、自他共の幸福を創造する生命の法理の探究である。
52  雄飛(52)
 ハワイで山本伸一は、太平洋戦争開戦の舞台となったパール・ハーバー(真珠湾)の戦艦アリゾナ記念館を訪れて献花し、平和への深い祈りを捧げた。また、世界十五カ国・地域の代表も参加して、ワイキキシェル野外公会堂で盛大に開かれた第一回日米親善友好大文化祭にも臨んだ。
 さらに彼は、ハワイ方面の各地から集ったリーダーの御書学習会を担当し、「開目抄」を拝して、末法の広宣流布に生きる同志の、尊き使命に言及していった。
 「東西の対立の壁は、世界を分断し、混迷の度は深まっています。私どもは、日蓮大聖人の門下として、全人類の救済をめざして、南無妙法蓮華経という最高の大法を流布しながら、今、再び、人間の生命の奥深く覚醒の光を当て、幸福と平和の暁鐘を打ち鳴らしていこうではありませんか!
 人びとの心の闇を破らずして世界の平和はありません。生命の尊厳といっても、己心の『仏』を顕在化させ、一人ひとりの人間を輝かせることから始まります。仏法をもって人びとを蘇生させながら、文化をもって人間と人間を結び、永遠なる人類平和の橋を架けることこそが、私たちの社会的使命です」
 ハワイでの八日間にわたる記念行事を終えた伸一は、一月二十日午後二時前(現地時間)、空路、ロサンゼルスへ向かった。
 そして、サンタモニカ市の世界文化センターで平和勤行会や、各国・地域の機関紙誌を発行する世界編集長会議、ロサンゼルス市制二百年を記念してシュライン公会堂で開催された日米親善大文化祭などに出席した。
 一万五千人が集って行われた、この大文化祭は、世界平和を願う日米の友の友情共演や、開拓者魂を歌い上げたミュージカルなどがあり、大喝采を浴びた。来賓として観賞した著名な女優は、頬を紅潮させて語った。
 「何か、熱い人間の魂の輝きを見た思いです。この団体のめざす理想、精神に触れ、そのすばらしさに感動しました」
 文化は心の共鳴をもたらし、人間を結ぶ。
53  雄飛(53)
 日本では、一月二十四日、あの山脇友政が、学会への恐喝及び同未遂の容疑で逮捕された。警視庁は、前年十月に告訴を正式受理し、以来、事情聴取を重ね、慎重に捜査を続けてきた。そして、遂に容疑が固まり、逮捕に踏み切ったのである。
 山脇は、自らを擁護するために一部週刊誌などを使って、さまざまな反学会キャンペーンを展開してきたが、その後の裁判の過程などで、彼がいかに虚偽に満ちた、信憑性のない、悪質な言動を繰り返してきたかが、白日のもとにさらされていくのである。
 山脇が逮捕されると、東京地検から伸一に、事情聴取の要請があった。学会としても、真相を究明し、断じて正邪を明らかにしてほしかった。彼は、この要請に応じるために、急遽、アメリカ指導を中断し、いったん帰国することになった。
 伸一は、アメリカのメンバーに告げた。
 「どうしても帰らなければならなくなってしまいました。また戻ってきます。アメリカは世界広布の要です。しっかり団結して、世界模範の人間共和の組織をつくってください」
 彼は、二十八日に帰国すると、四度にわたって事情聴取に応じた。また、県長会議メンバーとの懇談会等に臨み、二月十五日、再びアメリカへ戻った。
 伸一は、サンタモニカ市の世界文化センターやマリブ研修所で指導、激励を重ね、マイアミ市に移り、十九日にはパナマへ飛んだ。
 パナマは七年ぶりの訪問であり、多くのメンバーが誕生していた。中米七カ国の代表らとの懇談、パナマ国立劇場での日パ親善文化祭への出席、大統領やパナマ市長らとの会談、日本人学校への図書贈呈、パナマ大学の訪問など、彼は、新世紀への布石を打つために、精力的に動きに動いた。
 「時間はだれをも待ってはくれない、ということである。もしそれを建設的に使わないならば、たちまち過ぎ去ってしまうのだ」(マーチン・ルーサー・キング著『黒人の進む道』猿谷要訳、サイマル出版会)とは、アメリカ公民権運動の指導者キング博士の言葉である。
54  雄飛(54)
 二月二十六日、山本伸一は、パナマからメキシコへ向かった。メキシコの正式な訪問は、十六年ぶり二度目である。
 パナマでも、メキシコでも、空港では国営テレビや新聞社の記者会見が待っていた。それは、学会の平和・教育・文化の運動が、世界各地で高く評価されてきたことを裏づけるものであった。
 メキシコ市では、会館を初訪問したほか、メキシコ市郊外にある古代都市テオティワカンの遺跡の視察や、日本・メキシコ親善文化祭などに出席した。
 三月二日には、大統領官邸を表敬訪問し、ホセ・ロペス・ポルチーヨ大統領と会見した。さらに、図書贈呈のためメキシコ国立自治大学を訪れ、総長らとも会談した。
 大学を後にした伸一は、途中、車を降り、同行していた妻の峯子と市街を歩いた。
 広々とした目抜き通りに出ると、陽光を浴びて独立記念塔が、空高くそびえ立っていた。柱の上に設置された、金色に輝く像は、背中の翼を大きく広げ、右手に勝利の象徴である月桂冠を、左手には勝ち取った自由を表す、ちぎれた鎖を持っている。
 伸一が、「ここだったね」と峯子に言うと、彼女も「そうでしたね」と答える。
 実は、このメキシコの光景を、恩師・戸田城聖は、克明に話していたのである。
 それは、彼が世を去る十日ほど前のことであった。伸一が、既に病床に伏していた戸田に呼ばれ、枕元へいくと、にこやかな表情を浮かべて語りかけた。
 「昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ。……待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」
 体は衰弱していても、心は一歩も退くことなく、世界を駆け巡っていたのだ。それが、“広布の闘将”の魂であり、心意気である。
 そして、戸田は、夢のなかで見たという、メキシコ市の中心にそびえ立つ独立記念塔と街の景観を語っていったのである。
55  雄飛(55)
 戸田城聖は、海外を旅したことはなかった。しかし、メキシコに関する本をよく読んでおり、写真などで見た独立記念塔と街並みが、頭に入っていたのであろう。また、父親の仕事のため幼き日をメキシコで過ごした、大阪支部の初代婦人部長の春木文子にも、現地の様子をよく尋ねていた。
 戸田は、山本伸一に、あまりにも克明に情景を語るのであった。
 そして、さらに言葉をついだ。
 「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ……」
 戸田は、まじまじと彼の顔を見ながら、やせ細った手を布団の中から出した。その衰弱した師の手を、弟子は無言で握った。
 「伸一、生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
 ――伸一は、この時の師弟の語らいを、峯子にも詳細に話してきた。
 彼は、十六年前の一九六五年(昭和四十年)八月に初めてメキシコを訪れ、独立記念塔を見た時にも、戸田の言葉が思い起こされ、深い感慨を噛み締めた。
 今再び、陽光に輝く記念塔の前に立った伸一の胸には、「世界に征くんだ」という恩師の魂の言葉が、熱くこだましていた。
 “先生! 私は、世界を駆け巡っております。必ずや、世界広布の堅固な礎を築いてまいります。先生に代わって!”
 誓いを新たにする彼に、峯子が言った。
 「今日二日は、戸田先生のご命日ですね」
 「そうなんだよ。その日に、車を降りて歩いていたら、ここに来ていた」
 「きっと、先生が連れてきてくださったんですね」
 二人は頷き合いながら、記念塔を仰いだ。
 伸一たちは、翌日にはメキシコ市の市庁舎等を訪問し、次の訪問地であるメキシコ第二の都市グアダラハラへと向かった。
 ここでは個人会館を訪れ、懇談会などを開いてメンバーを激励。グアダラハラ大学を訪問し、総長との会見や記念講演を行った。
56  雄飛(56)
 「メキシコの詩心に思うこと」――それが、グアダラハラ大学での山本伸一の記念講演のタイトルであった。
 彼は、“太陽と情熱の国”メキシコの人びとの独特な心の豊かさにふれつつ、そこにある詩心や笑顔は、心と心の回路の開放を意味しており、平和の建設、文化の交流においても、この心の回路の開放こそが肝心であることを論じた。また、メキシコの人びとがラテンアメリカ地域の非核化に、強いイニシアチブをとって努力を続けていることに深い敬意を表したのである。
 伸一は、グアダラハラから、アメリカのロサンゼルスに戻り、さらにハワイを訪問。ここでも、懇談会や御書研鑽会で入魂の指導を重ね、三月十二日に帰国した。
 彼は、渾身の力を尽くして、日本の、世界の同志への激励行を続けてきたのである。広布は、次第に上げ潮へと転じ始めていた。
 そして、5・3「創価学会の日」を祝賀する記念行事が、晴れやかに創価大学で開催された。伸一は、五月二日から五日まで、連日、記念勤行会、記念祝賀会等に出席した。
 創価の師弟の陣列は、薫風のなか、さっそうと二十一世紀への行進を開始したのだ。
 “さあ、世界の平和のために、走り続けよう!”――伸一は、五月九日、休む間もなく、ソ連、欧州、北米訪問へと旅立っていった。
 最初の訪問国であるソ連は、世界から非難の集中砲火を浴びていた時であった。一九七九年(昭和五十四年)十二月、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことから、八〇年(同五十五年)夏のモスクワ五輪を、六十を超える国々がボイコットし、ソ連は国際的に厳しい状況に追い込まれていたのである。
 しかし、伸一は、すべてを政治的な問題に集約させ、対話の窓口を閉ざしてはならないと考えていた。そんな時だからこそ、文化・教育を全面的に掲げ、民衆の相互理解を促進する民間交流に、最大の力を注ぐべきであるというのが、彼の信念であった。
57  雄飛(57)
 今回の山本伸一のソ連訪問は、ソ連高等中等専門教育省とモスクワ大学の招聘によるものであった。彼は、日ソ両国の教育・文化交流を推進し、そこから、新たな友好の道の突破口を開こうと決意していた。
 一行は、富士鼓笛隊、創価大学銀嶺合唱団など、総勢約二百五十人という大訪問団となった。そして、モスクワ大学の学生や市民と幅広く交流を図っていったのである。
 伸一は、八日間のソ連滞在中、「子どものためのオペラ劇場」であるモスクワ児童音楽劇場を訪問し、同劇場の創立者であるナターリヤ・サーツ総裁と友誼を結んだのをはじめ、ソ連の要人たちと平和・文化交流をめぐって、次々と語らいを重ねていった。
 P・N・デミチェフ文化相やV・P・エリューチン高等中等専門教育相、ソ連対外友好文化交流団体連合会(対文連)のZ・M・クルグロワ議長、ソ日協会のT・B・グジェンコ会長(海運相)、モスクワ大学のA・A・ログノフ総長、ソ連最高会議のA・P・シチコフ連邦会議議長らと、活発に意見交換したのである。
 その間に、レーニン廟や、故コスイギン前首相の遺骨が納められているクレムリン城壁、無名戦士の墓を訪れて献花した。なかでも前首相の墓参は、今回の訪ソの大切な目的の一つであった。
 コスイギンが死去したのは、前年十二月のことであった。伸一は、前首相とは、二回にわたってクレムリンで会見していた。中ソ紛争が深刻化するなかで初訪ソした一九七四年(昭和四十九年)九月の語らいで、率直に「ソ連は中国を攻めますか」と尋ねた。
 その時、コスイギンは、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」と明言した。伸一は、彼の了承を得て、この年十二月の第二次訪中で、中国首脳にその言葉を伝えた。
 “中ソが戦争に踏み切ることだけは、なんとしても避けてもらいたい”――伸一は、今の自分にできることに、力を尽くした。
 平和の大道も、地道な一歩から開かれる。
58  雄飛(58)
 五月十二日、山本伸一は、創価学会がソ連文化省、モスクワの東洋民族芸術博物館と共催で行った「日本人形展」のオープニングの式典に出席した。さらに、この日午後、コスイギン前首相の息女であるリュドミーラ・グビシャーニが館長を務める、国立外国文学図書館を訪れ、会談したのである。
 ベージュのセーターと青のスーツに身を包み、柔和で理知的な笑みをたたえた彼女の澄んだ瞳に、コスイギンの面影が宿っていた。
 伸一が、墓参の報告をし、弔意を述べると、彼女は、声を詰まらせながら応えた。
 「先生がおいでくださったことに、人間的な心の温かさを感じ、感激で胸がいっぱいです」
 そして、前首相が伸一と初めて会った日のことを、懐かしそうに語り始めた。
 「その日、執務を終えて家に帰ってきた父が、私に、『今日は非凡で、非常に興味深い日本人に会ってきた。複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできて嬉しかった』と言いました。また、『会長からいただいた本を大切に保管しておくように』と、私に委ねたのです」
 それから彼女は、「ぜひとも先生に、何か贈らせていただこうと、家族全員で相談いたしました」と言い、ガラス製の花瓶を差し出した。コスイギンが六十歳の時、「社会主義労働英雄」として表彰された記念品であった。
 さらに、革で装丁された二冊の本が贈られた。前首相の最後の著作であり、他界するまで書斎に置かれていた本である。
 「父の手の温かさが染み込んでおります。父に代わって、私からお渡しいたします」
 伸一は、感謝の意を表しつつ語った。
 「この品々には、大変に深い、永遠の友誼の意義が含まれております。日本の民衆に、そのお心を伝えます。ご家族の方々のご多幸をお祈り申し上げます」
 親から子へ、世代を超えて友情が結ばれていってこそ、平和の確かな流れが創られる。
 別れ際、いつまでも手を振り続ける彼女の姿が、伸一の心に深く刻まれた。
59  雄飛(59)
 十三日午前、山本伸一と峯子は、モスクワ市内のノボデビチ墓地を訪れ、四年前に死去したモスクワ大学のR・V・ホフロフ前総長の追善を行ったあと、ホフロフ宅を訪問した。
 伸一たちは、エレーナ夫人、長男のアレクセイ、次男のドミトリーと、亡き総長を偲びながら、語らいのひとときを過ごした。
 長男は、モスクワ大学の物理学者であり、次男も大学院で物理学を学んでいた。
 遺族は、伸一たちの訪問を心から喜び、代表して長男が、感謝の思いを語り始めた。
 「父に敬意を表して、わざわざおいでいただき、ありがとうございます。今回の先生のソ連訪問は、天候にも恵まれ、天も祝福しているかのようです。今、モスクワは、長い冬が去り、緑が萌え、自然がみずみずしい生命を回復する時を迎えています」
 すかさず伸一が言った。
 「ご一家も今、同じような時期に入りました。悲しみの冬を越え、希望が萌え、生命の回復の時がきました。あとに残ったご家族が元気であることを、亡き総長も願望していることでしょう。特にご子息は、学びに学び、お父様をしのぐような大学者になり、社会に貢献するとともに、幸せになってください」
 アレクセイが頷きながら語った。
 「父は、いつも先生のことを話していました。直接、お目にかかれて嬉しい限りです」
 「お父様のことを偲びながら、これから、何回でもお会いしましょう。いつか日本にも、創価大学にも来てください」
 夫人が、しみじみとした口調で言った。
 「先生とは、ずっと一緒にいたような親しさを感じます」
 心は響き合い、語らいは弾んだ。
 ホフロフ家から、遺稿を収めた論文集と、山で写した故総長の写真が贈られた。「山登りが好きな人でした」と夫人が目を細めた。
 一家との交流は、その後も重ねられていった。地中深く根が張り巡らされ、草木が繁茂するように、民衆の大地深く友情の絆が張り巡らされてこそ、平和の緑野は広がる。
60  雄飛(60)
 山本伸一は、正午にはモスクワ大学を訪問し、ログノフ総長と対談した。総長は、ソ連科学アカデミー正会員であり、著名な理論物理学者でもある。
 実は、この年の四月に総長が来日し、会談した折、日ソの友好と人類の平和のために、教育交流の重要性を語り合う対談を行っていきたいとの要請があったのである。
 伸一は、未来に平和の思想と哲学を残すために、対談を行うことに合意し、この訪ソまでに、総長への多岐にわたる質問を用意して会談に臨んだのである。
 そして、「現代科学をめぐる諸問題」「宗教と文学」「戦争と平和と民族」「文化交流への課題」など、対談の骨子について語ると、総長も大いに賛同した。
 会談に先立って、ログノフ総長に、創価大学名誉教授の称号が贈られた。その際、総長は、人類の平和を守る大学の使命に触れ、核兵器の問題について、次のように語った。
 「もし、今、核兵器が使用されたならば、人類は完全に滅亡してしまう。したがって、知恵ではなく、力で平和が守られるという考えを捨てるべきです。そうでないと核戦争を認めることになってしまう」
 語らいは、モスクワ大学付属アジア・アフリカ諸国大学の主任講師であるL・A・ストリジャックの通訳で進められた。
 「核戦争は断じて回避しなければならないし、人類存続の道は文化交流による平和の建設しかない」というのが二人の強い確信であり、共鳴音を奏でながら意見交換が続いた。
 二人の語らいは十三回に及び、その間に、一九八七年(昭和六十二年)六月には、対談集『第三の虹の橋――人間と平和の探求』を出版。続いて九四年(平成六年)五月には『科学と宗教』が発刊されている。
 世界の平和は、心の結合から始まる。そして、「人間」「平和」という原点に立てば、社会体制やイデオロギーの壁を超えて、人と人は理解し合い、共感し合い、心を結び合える――それを伸一は、世界に示したかった。
61  雄飛(61)
 モスクワ大学を訪問した十三日の夕刻には、「日ソ学生友好の夕べ」が開催された。
 大学正面広場で行われた、平和の天使・富士鼓笛隊の華麗なパレードで幕を開け、その後、同大学の文化宮殿に会場を移して、友情と平和の祭典が繰り広げられたのである。
 創価大学銀嶺合唱団や壮年・婦人代表団らが、「黒田節」「母」などを披露し、「カチューシャ」を歌った時には、手拍子が鳴り響き、場内は一体となった。モスクワ大学側も、ピアノや室内楽団の演奏、民族衣装に身を包んでのロシア民謡の合唱や踊りなど、熱演を重ねた。やがて、両大学の合唱団によって、「四季の歌」が日本語で、「友好のワルツ」がロシア語で歌われた。日ソの人びとの心と心が、見事にとけ合っていった。
 会場の文化宮殿は、六年前(一九七五年)の五月、山本伸一が、「東西文化交流の新しい道」と題して講演した、思い出深い場所である。その時、彼は、文化交流によって、“精神のシルクロード”を開き、世界を縦横に結ぶことができると力説した。
 今、眼前で、日ソの青年らによる文化と友情の交流が行われ、確かに“精神のシルクロード”が結ばれようとしていることを、伸一は感じていた。一つ一つの演目が終わると、身を乗り出すようにして大きな拍手を送った。
 翌十四日午後、伸一たちは、クレムリンを訪れ、ニコライ・A・チーホノフ首相と会見した。この日が首相の七十六歳の誕生日にあたることから、彼は、会見の冒頭、花束を贈呈した。
 そして伸一が、「自分は政治家でも、経済人、外交官でもありませんが、平和を愛する一市民として率直に進言させていただきたい」と述べれば、首相が「喜んで!」と応じるなど、和気あいあいとした会談となった。
 人間は本来、等しく平和を希求している。その心を紡ぎ出すのは、美辞麗句や虚飾の言ではない。胸襟を開いた、誠実な人間性の発露としての、率直な対話である。
62  雄飛(62)
 山本伸一は、チーホノフ首相に語った。
 「全人類の願望は戦争の阻止にあります。その意味から、貴国のブレジネフ書記長、チーホノフ首相には、モスクワを離れて、スイスなどよき地を選んで、アメリカ大統領、そして中国首脳、日本の首脳と徹底した話し合いを行ってくだされば、世界中の人びとが、どれほど安堵できるでしょうか。世界平和のために、ぜひとも首脳会議を呼びかけ、戦争には絶対反対するための話し合いを続け、安心感を全人類に与えていくことが大事です」
 伸一は、日ソ関係にも言及していった。
 「“条約”うんぬんの前に、日本人の心を知り、相互の信頼を育むための文化交流が必要です。さらに、過去の大前提にとらわれず、あくまでも進歩的に、両国民が納得できるようなトップ会談を重ねていくべきです」
 チーホノフ首相は、両国間の経済問題や貿易問題に触れながら、「文化交流は一歩遅れているかもしれません。あなたの主張は大事なことです」と所感を述べ、今後、平和・文化の交流を続けていく意向を明らかにした。
 また、伸一は、ブレジネフ書記長に宛てた、ソ連招聘の御礼の親書を首相に手渡した。
 彼は、米ソ首脳会談について、一九八三年(昭和五十八年)と八五年(同六十年)の1・26「SGIの日」記念提言でも訴えている。米ソ間で厳しい対立が続いていることを、多くの人びとが危惧していたからである。
 八五年(同六十年)、ソ連にゴルバチョフ書記長が誕生すると、冷戦の終結へ舵が切られた。同年十一月、スイスのジュネーブで、レーガン米大統領との米ソ首脳会談が実現し、東西の対話は加速していった。
 八九年(平成元年)十二月には、ゴルバチョフとブッシュ米大統領がマルタで会談。冷戦を終結させ、両国が協調して新しい世界秩序づくりへ踏み出す宣言をしたのである。
 翌九〇年(同二年)、伸一は、ソ連の初代大統領となったゴルバチョフと初会見した。二人は、その後も親交を結び、対談集『二十世紀の精神の教訓』を発刊している。
63  雄飛(63)
 チーホノフ首相と会見した十四日夜、山本伸一は、宿舎のホテルで、お世話になった関係者をはじめ、各界の来賓を招いて、答礼宴を開いた。
 そして翌日、モスクワ市内にあるトルストイの家と資料館を訪れた。
 十九世紀に建てられたまま保存されている文豪の住まいは、木造二階建てで、床はギシギシと軋んで、往時を偲ばせた。彼は晩年の十九年間を、この質素な家で過ごした。書斎には、テーブル、イス、ペン立て、インク壺などが、当時のままの状態で置かれていた。彼は、ペチカ(暖炉)の薪割りも自分でした。その時に使った前掛けも展示されている。
 この家で、最後の大作である『復活』や、数々の名作が誕生したのだ。
 さらに一行は、資料館に足を運んだ。天井の高い、重厚な歴史を感じさせる建物には、トルストイの小学生時代の作文や、終生、書き続けた日記、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の原稿、彼の彫像や肖像画などが展示されていた。
 なかでも伸一の目を引いたのが、検閲された原稿の隣に置かれた、緑色のガラス製の文鎮であった。そこには多くの署名とともに、トルストイを絶讃する言葉が焼き付けられていた。ガラス工場の労働者が贈ったものだ。
 ――「あなたは時代の先駆者である多くの偉人達とその運命を同じになさいました」「ロシアの人民はあなたを自分らの尊く慕わしい偉人と数えて、永遠にこれを誇りとするでございましょう」(ビリューコフ著『大トルストイIII』原久一郎訳、勁草書房)
 トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。それゆえに、彼の著作は厳しい検閲を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。
 目覚めた民衆が聖職者の欺瞞を見破り、真に民衆のため、人間のための宗教を求めたのだ。民衆の英知は、宗教を淘汰していく。
64  雄飛(64)
 トルストイは、真実の宗教とは何か、真の信仰とは何かを見すえ続け、探究していった。
 彼は、人間のなかに「神」を見いだしていったのである。それは、教会で説く「神」ではなく、人間精神の最高峰であり、良心の結晶としての「神」であった。そして、世界の平和と人びとの幸福のために、人間の道徳的回生と暴力の否定、「無抵抗」をもってする悪への抵抗を説いた。その主張は、国家権力と癒着した当時のロシア正教会の教えとは相反するものであった。
 ゆえに、彼の著作は、『復活』に限らず、『わが信仰はいずれにありや』『神の王国は汝らのうちにあり』などの宗教論も、国内での出版は難しく、地下出版や国外での発刊を余儀なくされたのである。
 「罵詈の声は後世から光栄の響きとして受け取られます」(『ユーゴー全集第10巻』神津道一訳、ユーゴー全集刊行会=現代表記に改めた。)とは、彼に大きな影響を及ぼしたビクトル・ユゴーの言葉である。
 政府や教会が、躍起になってトルストイを抑え込もうとするなかで、彼を支持したのは民衆であった。それによって、さらに世界の賞讃と信望を集めたのだ。あのマハトマ・ガンジーも、彼に共鳴した一人である。
 教会による「破門」も、全くの逆効果となった。世界が味方するトルストイに、政府も教会も、迂闊に手を出すことはできなかった。
 弾圧の矛先は、彼の弟子たちに向けられ、チェルトコフは国外追放された。また、ビリューコフは八年にわたって辺地に追放されたが、決して屈することなく、後に、師の真実と偉大なる歩みを残そうと、伝記『大トルストイ』を完成させている。
 トルストイを支持する民衆も弾圧にさらされ、発禁になった彼の本を持っているだけで逮捕された。しかし、民衆の支持は揺るがなかった。人びとは彼の誠実を痛感し、彼のめざす宗教の在り方に共感していた。
 宗教の価値は、人間に何をもたらすかにある。勇気を、希望を、智慧をもたらし、心を強くし、あらゆる苦悩の鉄鎖からの解放を可能にしてこそ、人間のための宗教なのだ。
65  雄飛(65)
 トルストイの家と資料館を見学した山本伸一は、大文豪の生き方に勇気を得た思いがした。伸一は、トルストイが、最後の日記に残した言葉を噛み締めていた。
 ――「なすべきことをなせ、何があろうとも……」(『トルストイ全集58』フドージェストヴェンナヤ・リチェラトゥーラ(ロシア語))
 伸一は、「世界平和」即「世界広宣流布」という、生涯をかけて挑み抜かねばならない使命を深く感じていた。
 一行は、さらに国民経済達成博覧会の宇宙館も視察した。人工衛星などの展示に、あらためて宇宙開発にかけるソ連の意気込みを感じた。案内者に、伸一は感想を語った。
 「すばらしい技術力です。この優れた科学技術の力を、人類の平和と繁栄のために活用してください。世界中の人びとが、それを望み、期待しているでしょう」
 十六日は、八日間にわたるソ連訪問を終えてヨーロッパ入りし、西ドイツのフランクフルトに向かう日である。
 出発前、伸一たちは、エリューチン高等中等専門教育相夫妻に招かれ、モスクワ川とボルガ川を結ぶ運河を周航しながら懇談した。教育交流をめぐっての語らいに熱がこもった。船窓から見る岸辺には、美しい緑の景観が広がっていた。この運河によってモスクワは、白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海、黒海の五海洋につながる内陸水路の要衝となり、いわば“港町”になったという。
 伸一は、教育交流は運河を建設することに似ていると思った。それは、国家やイデオロギー、民族等に分かたれた人間と人間とを、未来に向かって結び合い、平和の大海に至る友情の“港町”を創る作業であるからだ。
 伸一の一行は、午後七時、モスクワ大学のログノフ総長らの見送りを受け、モスクワのシェレメチェボ空港を飛び立った。サマータイムの北の都モスクワでは、まだ太陽は、まぶしいばかりに輝いていた。降り注ぐ光のなか、搭乗機は大空高く飛翔していった。
 “欧州では、大勢の同志が待っている!” 伸一の胸は躍った。

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