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日蓮大聖人・池田大作

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第29巻 「源流」 源流

小説「新・人間革命」

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1  源流(1)
 離陸した搭乗機が雲を突き抜けると、美しい青空が広がり、まばゆい太陽の光を浴びて雲海が白銀に輝いていた。
 山本伸一を団長とする創価学会訪印団一行は、一九七九年(昭和五十四年)の二月三日午前十一時、九州の同志らに見送られて鹿児島空港を発ち、最初の訪問地である香港へと向かった。
 伸一は、窓に目をやりながら、隣に座った妻の峯子に語った。
 「曇りの日には、地上から空を見上げても、太陽は見えない。
 そして、何日も何日も、雨や雪が降り、暗雲に覆われていると、いつまでも、こんな日ばかりが続くような思いがし、心も暗くなってしまいがちだ。
 しかし、雲の上には、いつも太陽が燦々と輝いている。境涯を高め、雲を突き破っていくならば、人生は常に太陽と共にある。
 また、たとえ、嵐のなかを進むような日々であっても、心に太陽をいだいて生きることができるのが信心だ。
 私は、こうして機上で太陽を仰ぐたびに、戸田先生が詠まれた『雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん』との和歌が思い起こされるんだ。
 アジアの民衆は、垂れ込める雲の下で、月の光を見たい、幸せになりたいと渇仰している。
 先生は、その人びとに、平和と幸福の光源である日蓮大聖人の仏法、すなわち太陽の光を送ろうと決意をされた。
 この歌には、先生の東洋広布への熱い情熱と信念と慈愛が感じられ、身の引き締まる思いがするんだよ」
 峯子は、頷きながら笑顔を向けて言った。
 「その戸田先生のお心を少しでも実現できる、今回のインド訪問にしたいですね」
 「そうだね。インドにも広布に進む同志が誕生した。先生は喜んでくださるだろう」
 恩師を思うと、二人の語らいは弾んだ。心は燃えた。勇気が湧いた。
 伸一は、戸田を偲びつつ、本格的な世界広布のために、いよいよ盤石な土台を築かねばならないと、固く心に期していた。
2  源流(2)
 山本伸一たちの乗ったジェット機は安定飛行を続け、台湾上空を過ぎて、香港に近づきつつあった。伸一は、名操縦の機長に感謝の思いを込めて、自著に句を認めて贈った。
 「祈るらむ いざや幸あれ 翼びと」
 その脇に、「お世話になりました 貴兄のご健康とご活躍を祈ります」と書き添えた。
 鹿児島空港から三時間余、現地時間の午後一時二十分に、一行の搭乗機は香港の啓徳空港に到着した。
 空港には、香港中文大学中国文化研究所の陳荊和所長をはじめ、香港のSGI(創価学会インタナショナル)メンバーらが出迎えてくれた。
 伸一の香港訪問は一九七四年(昭和四十九年)以来、五年ぶりである。
 折から旧正月の期間とあって、街には、新年を祝う「恭賀新禧」の文字や赤いランタンが飾られ、行き交う人びとで賑わっていた。
 伸一は、宿舎のホテルに着くと、すぐに九竜塘(カオルントン)にある香港会館に向かった。
 午後三時、会館に到着した彼は、居合わせた三十人ほどのメンバーと、庭で記念のカメラに納まった。
 「皆さんとお会いできて嬉しい!」
 メンバーのなかには、香港中文大学に留学している日本人学生や近隣の人たちがいた。
 「では、一緒に勤行をしましょう」と言って、会館一階の仏間に移動し、勤行が始まった。
 そして、そのまま、懇談となった。
 留学生には、「留学の期間は、あっという間です。
 一日一日を大切にしながら、しっかり勉強に励んでください」と訴えた。
 また、近隣の人たちには、こう語った。
 「真剣な唱題と学会活動の持続、仏法研鑽への弛みない努力が大事になります。
 生まれたばかりの子どもは、一週間や十日では大人にはならない。同様に、十年、二十年と信・行・学の実践を続けるなかで、考えもしなかった幸福境涯が開けるものなんです。
 信心を通し、物心ともに幸せを築いていくことが、仏法の正しさの証明になります。皆さんの幸福即広布であり、実証即勝利です」
3  源流(3)
 山本伸一が香港会館で懇談を終えて外へ出ると、数十人のメンバーが、彼の訪問を知って集まっていた。既に辺りは暮色に染まり始めた。
 伸一は、「わざわざ、ありがとう!」と言って皆と握手を交わし、記念撮影をした。
 そこに、三人の子どもを連れた壮年と婦人が駆け寄ってきた。
 「你好!」(こんにちは)──伸一は、広東語で呼びかけ、大きく腕を広げ、三人の子どもを一緒に抱き締めた。そして一家と、記念のカメラに納まった。
 同行していた通訳の周志英によると、この一家は林さんといい、子どもは十一歳の四女と九歳の五女、六歳の長男である。
 林さん一家は、伸一が香港に来たことを聞くと、なんとしても会いたいと思い、会館の前にある公園で待っていたという。
 伸一は、子どもたちに言った。
 「せっかく来たんだから、今日は公園で一緒に遊ぼうよ。私は、皆さんにお会いしたかったんです。
 世界の子どもたちと、お友達になりたいんです。特に今年は、国連が定めた『国際児童年』ですから」
 彼は、男の子の手を引いて歩きながら、名前を聞いた。宣廣というのが、少年の名であった。
 公園に着くと、まずシーソーで遊んだ。一方には一人で伸一が乗り、もう一方に、子ども三人が一緒に乗った。
 「みんな重いな。じゃあ行くよ! それっ、ギッコン! バッタン!」
 子どもたちは、終始、大きな口を開け、声をあげて笑っていた。
 それからブランコに乗った。伸一は、宣廣のブランコを揺らしながら、語っていった。
 「しっかり勉強するんだよ。そして頑張って、みんな大学に行こうね。
 お父さんやお母さんのためにも偉くなって、しっかり親孝行するんだよ。
 お父さん、お母さんを大切にできる人が、人間として立派な人なんだよ。これは、世界共通です」
4  源流(4)
 林一家は子どもが六人おり、父親は運転手をし、母親は裁縫の仕事をしていた。
 住居は、三十平方メートルにも満たない公営のアパートである。
 山本伸一は、林家の子どもたちとブランコで遊んだあと、両親に視線を向けた。
 「よく頑張っていますね。子どもさんは、一生懸命に働いてくれている親の姿を、じっと見ています。みんな必ず立派に育ちますよ。
 たとえ、貧しくとも、地味であろうとも、脚光を浴びることはなくとも、人びとの幸せを願いながら学会活動に励み、必死に子どもを育てている人は、最も偉大であり、庶民の大英雄です」
 それから彼は、子どもたちに言った。
 「みんなのお父さん、お母さんは、すばらしい方です。最高の誇りにしていってください。
 そして将来、苦しんでいる人たちを守るために力をつけるんだよ。いいね。約束しようよ!」
 彼は、林一家と固い握手を交わして、「では、またお会いしましょう! ありがとう!」と言って、別れを告げた。
 林親子は、この時の伸一の話を忘れなかった。
 父母は、伸一が子どもたちに言った「大学に行こうね」との言葉を、必ず果たそうと強く心に誓った。
 生活は苦しく、子どもを大学に行かせるゆとりなどなかったが、懸命に働いた。
 母親は、深夜一時、二時まで裁縫の仕事をし、朝五時には起きて食事の支度をし、子どもを育てていった。
 やがて、伸一に励まされた三人の子どもたちのうち姉二人は、大学院にまで進んだ。
 また、弟の宣廣は、名門・香港大学を卒業し、歯科医となり、診療所を開設する。
 学会の組織にあっても、香港SGIの医学部長(ドクター部長)などとして活躍していくことになる。
 人は誓いを立て、それに挑戦することによって、自らを高め、成長していくことができる。
 誓うことができるのは人間だけであり、誓いに生きてこそ、真の人間といえよう。
5  源流(5)
 香港会館前の公園で林一家を励ました山本伸一は、午後六時半から行われた、香港の各部代表者会議に出席した。
 会場は、十八年前、伸一が東洋広布の第一歩を印した時に宿舎とした、
 尖沙咀にあるホテルであり、食事を共にしながらの集いとなった。
 あの一九六一年(昭和三十六年)の一月二十八日夜、伸一は、香港島のケネディ・ロードにあるビルの一室で行われた座談会に出席した。
 集ったのは、わずか十数人のメンバーであり、信心を始めて間もない人が、ほとんどであった。
 そして、この席で香港地区が結成されたのである。
 以来、香港は、着実に広宣流布の歩みを重ね、組織は五本部にまで拡大していた。
 伸一は、各部代表者会議の参加者の中に、十八年前の座談会に参加していた、懐かしい何人かの顔を見つけた。
 「草創の皆さんが、お元気なので嬉しい」
 一人の婦人が笑顔で答えた。
 「十八年といっても、あっという間でした。あの日の座談会が、まるで昨日のようです」
 「そう実感できるのは毎日が充実し、歓喜にあふれているからです。広布に生きるとは、充実と歓喜の人生絵巻を描くことなんです。
 草創の歴史を築いてこられた方々が、福運に満ち満ちた姿で、元気に活躍されていること自体が、皆の希望であり、香港創価学会の勝利の姿です」
 それから、彼は力を込めて語っていった。
 「香港は、東洋広布の先駆けであり、未来を照らす灯台です。その香港の広宣流布をますます加速させていくための決め手は何か。
 それは『信義』です。
 人間として、一人ひとりが、どこまでも『信義』を貫き、信頼を勝ち得ていく。
 その信頼の拡大が即広布の拡大であることを知ってください。
 仏法というのは、私たち自身の内にあり、私たちの振る舞いによって顕されていくものなんです。
 すべては人間にかかっています。
 どうか、悠然たる大河の流れにも似た大きな境涯で、人びとを包んでいってください」
6  源流(6)
 香港滞在二日目となる二月四日の午後一時半、山本伸一は、九竜のビクトリア港近くにある九竜会館を初訪問し、香港広布十八周年を祝う記念勤行会に出席した。
 九竜会館は商店街の中にあり、十四階建てのビルの四階(日本の数え方では十五階建ての五階)にあった。
 勤行会には、各部の代表二百五十人ほどが集っていた。
 勤行のあと、女子部の人材育成グループである「明朗グループ」がグループ歌を、男子部の有志が「広布に走れ」を広東語で披露した。
 翌五日にインドへ出発する伸一たちの壮途を祝しての合唱であった。 
 席上、伸一は、宿命転換について述べた。
 「人間は、誰しも幸せになりたいと願っている。
 しかし、人生にあっては、予期せぬ病気や交通事故、自然災害など、自分の意志や努力だけではどうしようもない事態に遭遇することがある。
 そこに、宿命という問題があるんです。
 その不条理とも思える現実に直面した時、どう克服していけばよいのか──題目です。
 御本尊への唱題によって、自身の胸中に具わっている、南無妙法蓮華経という仏の大生命を涌現していく以外にない。
 強い心をもち、生命力にあふれた自分であれば、どんな試練にさらされても、負けることはない。
 何があろうが、悠々と宿命の大波を乗り越えていくことができます。
 日蓮大聖人は佐渡に流された時、法華経のゆえに大難に遭うことで、過去世の罪障を消滅し、宿命を転換することができると述べられている。
 そして、『流人なれども喜悦はかりなし』と感涙された。
 私たちも、この大聖人の御境涯に連なっていくならば、『宿命に泣く人生』から『使命に生きる歓喜の人生』へと転じていくことができる。
 大聖人の仏法は、宿命打開、宿命転換の仏法であることを確信してください」
 戸田城聖の願いは、アジアの民の宿命転換にあった。伸一は、香港の同志に、その先駆けとなってほしかったのである。
7  源流(7)
 九竜会館での記念勤行会が行われた四日の夜、山本伸一は香港本部長会に出席した。
 彼は、参加者の近況や意見を聞きながら、一人ひとりに励ましの言葉を送った。
 「広宣流布といっても、遠くにあるものではなく、身近にあるものなんです。
 まず自分自身を信・行・学で磨くこと。家庭を盤石にすること。そして、地域に貢献できる力をつけていくこと。
 地道に努力を重ね、一つ一つ勝ち取っていくなかに信心があるんです」
 「財物を得て感じる幸せには限りがあります。しかし、信心によって勝ち得る幸せは、満足の深さが違う。それを実感してほしいんです。
 信心を一生涯やり抜いた人は、本当の“人生の勝利者”になることができます」
 また、幹部の在り方について触れ、「メンバーに対しては、わが兄弟、姉妹のように、わが家族のように、親切にしてあげてほしい。
 人間は機械ではありません。人と人との信頼の絆があってこそ、信心の理解も進むんです」と指導した。
 インドへ向かう五日の午後、伸一は、出発を前に、九竜の尖沙咀にある故・周志剛理事長の家を訪ねた。
 途中、大通りを歩いていると、地下鉄工事の現場近くで、同行していた香港の幹部が、一人の青年を見つけ、伸一に紹介した。
 工事の作業員として働いており、ちょうど昼食を取るために、地上に上がってきたのだという。
 彼は、痩せ顔色も優れなかった。持病の喘息で苦しんでいるという。
 「大変だね。私も青年時代に胸を病んだので、呼吸器疾患の苦しさはよくわかります。
 ともかく体を大事にして早く健康になることだよ。医者の言うことをよく聞いて、工夫して休養を取り、しっかりと栄養を取ること。
 そして、根本は生命力を強くするしかありません。
 それには題目です。元気になってみせると決めて、真剣に唱題していくんです。
 必ず健康になるんだよ。約束しよう!」
 全力で励まし、握手を交わした。一瞬の対話が人生の転機になることもあるからだ。
8  源流(8)
 故・周志剛理事長の家は、鉄筋コンクリートのアパートの五階(日本の数え方では六階)にあったが、エレベーターはなかった。
 山本伸一は、創価大学の大学院生で、通訳として香港訪問に同行していた、周家の長男・志英に案内されて階段を上っていった。
 志剛は五年前の一九七四年(昭和四十九年)十一月、心臓病のため、六十一歳で急逝している。
 伸一は、息を弾ませて階段を上りながら、晩年の周にとって、この階段の上り下りは、きつかったにちがいないと思った。
 家では、夫人の徐玉珍や彼女の母親、三人の娘らが喜びを満面にたたえて出迎えてくれた。夫人は、目を潤ませながら語った。
 「感無量です。主人も、敬愛する山本先生に来ていただいて、どれほど喜んでいるでしょう……」
 「今日は、追善の勤行をさせていただきにまいりました」
 伸一は、部屋の壁に飾られていた志剛の写真をじっと見つめ、心で“ありがとう……”
 と語りかけた。そして、夫人に視線を注いだ。
 「ご主人は、香港広布の道を開いてこられた最大の功労者です。お子さんたちも立派に育っている。すばらしいことです。
 ご主人は、ご家族の皆さんの心に生き続け、その幸せを見守ってくれています。
 また、ご主人の偉業は、すべて、残されたご家族の福運となっていくことはまちがいありません。亡きご主人の分まで幸せになってください」
 それから、深い祈りを込め、皆で追善の勤行をした。さらに、家族の近況に耳を傾けた伸一は、一家がますます福徳にあふれ、繁栄するよう念願し、色紙に揮毫して贈った。
 「母子して 諸仏に守らる 金の家」
 志英は、感涙を浮かべて語った。
 「先生は日本人で、ぼくは中国人です。でも、先生は、私たち一人ひとりを、誠心誠意守ってくださる。
 先生の優しい心は、痛いほどわかります。人類は結び合えることを、先生から教えていただきました」
 平和といっても一人との信義から始まる。
9  源流(9)
 インド・デリーは、空いっぱいに星々が瞬き、上弦をやや過ぎた銀の月が、微笑みかけるように、地上に光を投げかけていた。
 香港の啓徳空港を二月五日の夕刻に発った山本伸一の一行が、パラム空港(後のインディラ・ガンジー国際空港)に到着したのは、現地時間で六日の午前零時十五分のことであった。
 タラップを下りると、そこには、招聘元であるインド文化関係評議会(ICCR)のヘレン・マタイ事務局次長が、ブルーのサリーに身を包み、花束を手に迎えてくれた。
 向かった空港のビルには、深夜にもかかわらず、デリー市のR・K・グプタ市長やインディアン・エクスプレス紙のR・N・ゴエンカ会長をはじめ、インドSGIメンバーの代表らが待っていた。
 伸一は、歓迎の言葉に応えて、恐縮しながら、夜遅く、多数の人びとが空港まで足を運んでくれたことに感謝を述べた。
 そして、十五年ぶりのこのインド訪問が、日印の平和と文化の交流のための懸け橋となるよう力を尽くしていきたいと、抱負を語った。
 これで終了かと思った時、地元紙のインド人記者から質問が飛びだした。
 「今回、インドを訪問された第一印象についてお聞かせください」
 伸一は、とっさに答えた。
 「月もきれいでした。星も美しく輝いていました。機上から見た点滅する街の光も、まるで絵のようでした。
 そこに、インドの神秘と未来と夢とを感じました。この感想は、空から見たものです。
 明日からは地上のインドを見させていただきます。それが大事だと思っています。
 人間の中へ入っていきます! 胸襟を開いて語り合っていきます!」
 決意のこもった伸一の回答に、記者は「おおっ!」と声をあげた。爆笑が広がった。
 その言葉通り、伸一は、精力的に動いた。
 対話によって相互理解は深まり、友情が芽生える。語り合うことは平和の架橋作業だ。
10  源流(10)
 山本伸一たち訪印団一行は、ニューデリーのアショーカホテルに宿泊した。
 六日朝、辺りは靄に包まれ、空気はひんやりとしていた。
 緑の木々から流れる鳥のさえずりが、のどかな思いに浸らせた。
 しかし、市街に出ると、人でごった返し、物売りの声が響き、喧騒と熱気が満ちている。
 空港で出迎えてくれたデリー市のグプタ市長が、市の人口は十五年間で二百六十万人から四百五十万人に増加したと語っていたように、民衆の活力があふれていた。
 今回の訪問では、日印の平和友好の更なる流れを開くために、指導者との語らいや、大学訪問などが予定されていた。
 午前中、伸一は、宿舎のホテルで、インドでの諸行事の運営や通訳などを担当してくれる現地の日本人メンバー数人と、打ち合わせを兼ねて懇談した。
 皆、日本で何度か会った青年たちである。
 そのうちの一人に、ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程に学ぶ大河内敬一がいた。
 東京・新宿区の出身で、二十六歳である。
 伸一は、目を細めながら彼に声をかけた。
 「元気そうでよかったよ。いつまでインドにいる予定なの?」
 大河内は、きっぱりと答えた。
 「インドに永住いたします!」
 「そうか! ここを、生涯にわたる使命の天地と定めたんだね。よろしく頼むよ。これからは、舞台は世界だ」
 「先生。私は、高等部の人材育成グループとしてつくっていただいた『鳳雛会』の東京四期です。
 その高等部の時に、インドの広宣流布に生き抜くことが私の使命であると決めました。
 この決意を果たしていこうと思っております」
 伸一は、彼を見詰め、微笑みを浮かべた。
 「立派になった。鳳雛は鳳に育ったね。嬉しいよ。君たちが自在に活躍できるように、インドにもさまざまな道を開いておきます。
 弟子のために戦うのが師であり、弟子は師のために戦い抜く──それが師弟不二です」
11  源流(11)
 大河内敬一が、最初にインドに関心をもったのは、幼いころに、近所の学会員で、世界を舞台に活躍している創作舞踊家夫妻から、「インドはいいところだよ」と聞かされたことだった。
 やがて、インドのニュースなどに、よく耳を傾けるようになった。
 幼少期に母親と共に入会した彼は、学会の庭で育ってきた。
 高校時代には、山本伸一が高等部員に贈った『大白蓮華』の巻頭言「鳳雛よ未来に羽ばたけ」を指針として活動に励んだ。
 そのなかに心躍る一節があった。
 「今こそ、世界平和、すなわち世界広布のため、全力を傾注して、前進せねばならぬ時代なのである。
 私は、今日まで、全魂を尽くして、諸君のために、道を切り拓いてきた。また、これからも、拓いていく決心である」
 高校二年の時、地理の授業で、興味のある国について調べるという宿題が出た。
 仏教発祥の国であり、子どものころから関心をもっていたインドを選んだ。
 インドは、長い間、イギリスの植民地として支配、搾取され、貧困層も多かった。
 当時、人口は五億を超えていた。
 彼は、インドのために何かしたいと考えるようになった。
 大河内は、よく高等部の仲間たちと、広宣流布の未来図を語り合った。「ぼくたちの使命は、日本の広布よりも、むしろ世界広布にあるんじゃないかな」との友人の意見に、彼も同感した。
 そして、世界雄飛への夢が、次第に大きく膨らんでいった。
 ある時、大河内は、友人たちに語った。
 「日蓮大聖人は、インドに始まった仏教が東の日本に渡り、今度は大聖人の仏法が、日本から東洋へ、インドへと帰っていくと、『仏法西還』を確信されている。
 でも、それは、自然にそうなるということじゃないと思う。
 誰かが使命を自覚して、行動を起こさなければ、その実現はない。
 ぼくは、将来、インドに行き、インド広布に一生を捧げたいと思っているんだ」
 決意の種子があってこそ、果実は実る。
12  源流(12)
 大河内敬一は、大学進学にあたって、インドで職業に就くには建築技術を身につけることが必要だと考え、工業大学の建築学科へ進んだ。
 また、インドの公用語となっている英語の習得に力を注いだ。
 さらに、同じ公用語であるヒンディー語を学ぼうと、語学学校の集中講座にも通った。
 本物の決意には、緻密な計画と行動が伴っている。それがない決意というのは、夢物語を口にしているにすぎない。
 大学卒業を間近に控えた一九七五年(昭和五十年)一月、インド政府の奨学金を受けてインドの大学院に留学するための試験を受けた。
 しかし、合格にはいたらず、補欠に終わった。
 卒業後は大学の研究室で教授の手伝いや勉強をしながら、インド留学の道を思案した。
 “自分の使命を果たさせてください!”と懸命に唱題にも励んだ。
 この年の八月二十五日、山本伸一が出席して、鳳雛会の結成九周年を記念する式典が箱根研修所(後の神奈川研修道場)で開催された。
 大河内はアトラクションに出演し、汗まみれでアフリカンダンスを披露した。
 その直後、母親から研修所に電話が入った。
 「インド大使館から連絡があり、すぐに連絡するように」とのことであった。
 彼は、研修所の電話を借りて、連絡を取った。
 「あなたの留学が決定しました。準備が整い次第、インドへ出発してください」
 耳を疑った。合格者の一人が留学を辞退したことから、インド行きが決まったのだ。
 彼は、すぐに、研修所にいた伸一に報告した。
 伸一は、彼の前途を祝して念珠を贈った。
 大河内が東京に戻り、在日インド大使館で留学の手続きなどを済ませ、慌ただしく日本を発ったのは九月二日のことであった。
 彼は、インド北部のウッタル・プラデーシュ州にある名門・ルールキー大学の大学院の修士課程で学ぶことになった。
 懸命な努力、真剣な祈り──そこに困難の壁を打ち破る要諦がある。
13  源流(13)
 大河内敬一が渡印したころ、インドは、干ばつによる食料不足や物価高騰、失業、汚職などから反政府運動が高まり、政情不安の渦中にあった。
 物情騒然とし、多くの外国企業が、インドから引き揚げていった。
 そのなかで、彼の留学生活は始まったのである。
 当然のことながら、英語で授業を受け、英語で試験に臨む。
 努力はしてきたが、語学の壁は高く厚かった。
 十一月の試験では、成績は、ほとんどの教科が最下位であった。
 “これを乗り越えなければ、インドで使命を果たすことはできない。負けてたまるか!”
 大学の寮で、深夜まで猛勉強に励んだ。
 そして、最優秀の成績で修士課程を修了し、さらに、国立ジャワハルラル・ネルー大学の博士課程に進むことができたのである。
 彼は、山本伸一の「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」との指導を噛み締めた。
 伸一は、ニューデリーのホテルにあって、人間的にも大きく成長した大河内を見て、たくましさを感じた。
 手塩にかけた創価の若師子が、いよいよインドの大地を疾駆し始めたことが嬉しくて仕方なかった。
 高等部を、また、鳳雛会を、さらに未来部各部を、未来会等をつくり、広宣流布の人材の大河を開いてきたことが、いかに大きな意味をもつか──それは後世の歴史が証明するにちがいないと、伸一は強く確信していた。
 人は皆、各人各様の個性があり、才能をもっている。誰もが人材である。
 しかし、その個性、能力も開発されることがなければ、埋もれたままで終わってしまう。
 一人ひとりが自分の力を、いかんなく発揮していくには、さまざまな教育の場が必要である。
 その教育の根幹をなすものは、使命の自覚を促すための、魂の触発である。
 伸一は、インド広布に生きるという大河内に、記念の句を詠み、贈った。
 「永遠に 君の名薫れ 霊鷲山」
14  源流(14)
 二月六日の午後三時、山本伸一たち訪印団一行はデリー大学を訪問した。図書一千冊を寄贈する贈呈式に出席するためである。
 同大学は、一九二二年(大正十一年)に創立されたインド最高峰の総合大学の一つで、中国・日本研究学科もあり、日本を研究するための重要な機関となっている。
 知の殿堂には、誇らかに時計台がそびえ立っていた。到着した一行を、R・C・メヘロトラ副総長が温かい笑顔で迎えてくれた。
 メガネをかけた、白髪まじりの風貌は、重厚な知性の輝きを感じさせた。
 図書贈呈式は、構内にあるタゴール記念講堂で、教職員や学生ら百七十人が出席して、厳粛な雰囲気のなかで行われた。
 あいさつに立った副総長は、一行への歓迎の意を表したあと、伸一が創価大学などの教育機関や美術館等を創立し、トインビー博士との対談集など、多数の著作を世に出していることを紹介。
 そして、インドに興った仏陀の教えが東洋に大きな影響をもたらし、その一国である日本が、自国の伝統を生かしつつ、近代技術の大発展を遂げたことを賞讃した。
 伸一は、恐縮しながら話に耳を傾け、科学や経済の発展の陰で、精神性が失われつつある日本への警鐘の言葉ととらえた。
 精神性の喪失は、人間の獣性を解き放ち、物欲に翻弄された社会を生み出してしまう。
 伸一は、精神の大国・インドから、日本は多くを学ぶべきであると考えていた。
 科学技術の進歩や富を手に入れることが、必ずしも心の豊かさにつながるとは限らない。
 モノの豊かさや便利さ、快適さを手にしたことによって、むしろ、日本人は心を貧しくしてきたといっても過言ではない。
 科学技術や経済の発展につれて、家族愛や友情、人への思いやりは増してきたであろうか。
 歓喜や感謝の思い、満足感、充実感が心を満たしているだろうか。道行く人に、どれほど笑顔はあるだろうか。
 人間の幸せは、豊かな精神の土壌に開花する。心を耕してこそ、幸の花園は広がる。
15  源流(15)
 山本伸一は、メヘロトラ副総長のあいさつを聴きながら思った。
 “現在のインドは、まだ発展途上にあるかもしれない。
 しかし、人びとの目は輝き、言葉を交わせば笑みの花が咲く――それは、民衆の心の豊かさを示してはいないか。
 今後、インドも急速に工業化、現代化が進むにちがいない。
 この激流は、発展をもたらす半面、ますます貧富の差を広げ、また、人びとの心の豊かさをも奪い流していくことになりかねない。
 それをいかに回避するかが、これからの大きなテーマとなろう。そして、そのために必要不可欠なものが、仏法という生命の哲理なのだ”
 ここで副総長は、図書贈呈の意義に触れ、贈書を「価値ある贈り物」と表現し、感謝の思いを語ると、一段と声を強めた。
 「しかし、贈書もさることながら、山本先生が、この大学を訪れてくれたという事実そのものに、感謝を覚えるものであります」
 行動にこそ、人間の真実が表れる。
 直接、現地に足を運び、出会いをつくることから、友情は芽生え、その積み重ねのなかで、強い信義の絆が結ばれていく。
 次いで、伸一のあいさつとなった。
 彼は、デリー大学との教育交流は、日本とインドの平和・文化交流の幕を開くために念願していたことであり、今回の贈書が少しでも皆さんのお役に立ち、両国の相互交流と発展に寄与するものになれば、これほどの喜びはないと述べ、自身の信条を訴えた。
 「教育こそ、二十一世紀の平和社会を建設する源泉であります。ゆえに教育・文化の交流には、政治・経済の次元以上に力を注がねばならない――これが私の信念であります。
 私が創立した創価大学のモットーのなかに、『新しき大文化建設の揺籃たれ』『人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ』とあります。
 本日を起点として、デリー大学との交流の深化を図り、日印間に崩れざる“文化と平和の懸け橋”を築いていきたいと申し上げ、あいさつといたします」
16  源流(16)
 デリー大学での図書贈呈式では、山本伸一からメヘロトラ副総長に、寄贈する自然・社会科学、文学、芸術など一千冊の書の一部と図書目録が手渡された。
 最後にA・P・スリバスタバ図書館長が立ち、贈書への深い感謝を述べ、「これは今後の相互理解への根本的な力になるでしょう」と、喜びを満面にたたえて語った。
 さらに、書物についてインドに伝わる、こんなエピソードを紹介した。
 ──昔、中国から一人の高僧がナーランダーの仏教大学に留学する。学問を修め、帰国にあたって本を持って帰ることにした。大学はこの高僧に十人の従者をつけた。
 途中、舟で川を渡るが、本が重すぎたために、舟が沈みそうになる。高僧は、「本を捨てて荷を軽くしよう」と言う。
 すると、インド人の従者は「私は泳いで渡ろう」と川に飛び込む。
 これに五人までも従者が続き、本を無事に中国へ届けることができたという話である。
 そこには、書物に大きな価値を置く、インドの人びとの精神が表されていた。
 書物は、知識の宝庫であり、知恵を育む光である。
 館長は、話を転じて、「創価学会」の「創価」とは、価値を創造するとの意味であることを知り、感銘を覚えたと語った。
 なぜなら、公害の解決、幸福の確立、人間の敵対心を除くことなど、人類の課題は、すべて今日の大学に課せられたテーマであり、そのためには、価値の創造が不可欠であると考えているからだという。
 また、仏陀は既に遠い昔に、これらの問題解決の方途を示しており、その教えのなかに新たな価値創造の泉があると訴えた。
 さらに、創価学会が、この仏教に基づいて活動を展開していることを賞讃し、今後の日印の文化・学術交流に期待を寄せた。
 伸一は、インドの知性の、創価学会への大きな期待を感じ、「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」との御聖訓を噛み締めていた。
17  源流(17)
 山本伸一たち一行は、デリー大学への図書贈呈式に続いて、大学関係者と教育問題などについて意見交換し、再会を約し合ってキャンパスをあとにした。
 時刻は午後四時を回っていた。一行は、デリー大学にほど近い、ニューデリーの中心部にあるローディー庭園へ向かった。
 ここは、十五世紀から十六世紀にかけて栄えたローディー朝の皇帝廟が残され、市民の憩いの場となっている公園である。
 この公園で伸一は、「インド文化研究会」のメンバーと会うことになっていたのだ。
 ──一九七二年(昭和四十七年)六月、大阪を訪れていた伸一は、関西の各大学会の代表三十人ほどと懇談会をもった。
 その折、メンバーの一人がインドへ留学することを報告した。
 語らいは弾み、伸一の提案で、それぞれがインドについて学び、七年後に皆でインドへ行こうということになった。そのグループが「インド文化研究会」である。
 インドに留学する報告をしたのは、大槻明晴という外国語大学でインド・パキスタン語学科に学んだ青年であった。
 彼は、世界の広宣流布に思いを馳せながら、教学を研鑽していくなかで思った。
 “私たちは、羅什三蔵の訳した法華経に基づいて、仏法を研鑽している。
 しかし、インドのサンスクリット語から漢語に訳されるなかで、かなり中国的な解釈がなされてはいないだろうか。
 世界広布を考えるうえでは、サンスクリット語にさかのぼって解釈していくことも必要なのではないか。また、そうすることによって、羅什三蔵の訳のすばらしさも再確認できるのではないか……”
 そして大槻は、インドへの留学を決意したのである。
 伸一は、世界広布に向かい、真剣に考え、行動しようとする彼の心意気が嬉しかった。
 理想や夢を語ることは誰にでもできる。
 大切なことは、それを実現するために、“今、何をするか”“日々、いかなる努力を重ねるか”である。使命感、責任感は行動に表れる。
18  源流(18)
 大槻明晴は、山本伸一と関西の各大学会の代表との懇談が行われた一カ月後の一九七二年(昭和四十七年)七月、インドへ渡り、ベナレス(後のバラナシ)のサンプールナアナンド・サンスクリット大学に入学した。
 二年後に帰国し、貿易会社で二年ほど働き、さらに七六年(同五十一年)三月から再びインドに留学し、ボンベイ大学(後のムンバイ大学)の大学院に学んでいた。
 彼は、「七年後に皆でインドへ」という、伸一との約束の時を、インドの大学院生として迎えたのである。
 「インド文化研究会」のメンバーは、七九年(同五十四年)二月四日、ニューデリーに到着した。
 ガヤ、パトナ、カルカッタ(後のコルカタ)など、インド各地を十日間にわたって訪問し、仏教遺跡をはじめ、社会状況や人びとの生活などを視察するほか、現地メンバーとの交流を行うことになっていた。
 大槻は、懐かしい「インド文化研究会」の友をニューデリーの空港で迎えた。
 六日の午前零時過ぎ、ニューデリーに着いた伸一は、すぐさま彼らに伝言した。
 「今日、私はデリー大学を訪問しますので、そのあとに、お会いしましょう。楽しみにしております」
 そして、このローディー庭園で、メンバーとの再会が実現したのである。
 「先生! こんにちは!」
 青年たちの元気な声が響いた。
 「やあ、元気だったかい。とうとう約束を果たしたね。目標にしてきたインドに集まったんだから、全員で記念撮影をしよう」
 伸一と共に、皆でカメラに納まった。
 それから大槻の案内で園内を散策した。
 伸一は、“広宣流布の決意に燃える青年たちが今、インドの地に集ったことを、戸田先生はどれほどお喜びか!”と思った。
 師から弟子へ、そして、また弟子へ――世界広布は、その誓いと行動の継承があってこそ可能となるのである。
19  源流(19)
 山本伸一が「インド文化研究会」のメンバーと共にローディー庭園を散策していると、少年たち数人が来て、少し離れたところから珍しそうに一行を見ていた。
 伸一は、手招きし、「みんなで写真を撮ろう」と声をかけた。大槻明晴がヒンディー語で通訳した。
 はにかむ少年もいれば、歓声をあげる少年もいた。一緒にカメラに納まった。
 彼は、お土産に持ってきた、創価大学のバッジを子どもたちに渡していった。
 「私たちは、日本から来ました。これは、私が創立した大学のバッジです。大きくなったら、必ず日本に来てください」
 伸一は、それぞれの家族のことなどを聞いていった。
 父親の職業は、多くがドライバーであった。語らいが弾んだ。少年たちは、日本だと中学二年にあたる年代である。
 「みんなは、友だちなの?」
 少年の一人が、白い歯を見せて答えた。
 「いつも一緒にいるんで兄弟みたいです」
 「良い友だちをもつことは、人間としていちばん幸せなことなんだよ。一生の財産になります。
 良い友だちがいれば、日々も楽しい。また、互いに励まし合えるから、辛いことや嫌なことがあっても、負けないで強く生きることができる。
 しかし、独りぼっちだと、寂しいし、心は弱くなっていきます。
 また、悪い友だちと付き合っていれば、いつの間にか、自分も影響され、悪いことをしてしまうようになる。だから、互いに良い友だちでいてください」
 伸一は、こう言いながら、さらに、オレンジやボールペンを彼らに配った。
 小柄な少年が、元気に尋ねた。
 「写真ができたら、もらえますか」
 「わかりました。必ず送ります」
 同行の幹部が、皆の住所と名前を控えた。
 少年たちを見ながら、伸一は確信した。
 “彼らは、将来、日本人といえば、今日のことを思い出すだろう。
 語り合えば、心が響き合う。世界が友情で結ばれるならば、それは、世界平和の確たる基盤となる!”
20  源流(20)
 訪印二日目の二月七日──。
 午前十時半、山本伸一たちは、モラルジ・デサイ首相の官邸を訪ねた。ニューデリーのサフダルジャン通りにある、緑に囲まれた白い建物であった。
 首相は、間もなく八十三歳になるという。
 インドの多くの指導者がそうであるように、首相も、マハトマ・ガンジーの不服従運動に加わり、インド国民会議派として独立のために戦ってきた。投獄もされた。その信念の人の目には、若々しい闘魂の輝きがあった。
 伸一は、デサイ首相にどうしても聞いておきたいことがあった。
 インドには中国との国境を巡る問題があり、まだ解決にはいたっていない。今後、この問題にどうやって向き合っていくかということである。
 ネルー帽を被り、メガネをかけた彫りの深い端正な顔に、柔和な微笑を浮かべて、首相は答えた。
 「話し合いによって解決できることが望ましいと思っています。この問題が解決したならば、また友好的な関係になることができるでしょう。
 というのは、インドと中国は歴史的なつながりも深く、私たちは中国を信頼し、兄弟のように思っているからです。
 一九四九年(昭和二十四年)の中国革命以来、インドは中国を支持し、国連においても中国加盟を支持してきました。それなのに国境問題が起きたことは大変に残念です」
 重ねて伸一が、「今後の見通しは明るいと思われますか」と尋ねると、首相は、きっぱりと答えた。
 「私はいつも楽観的でいます。悲観的であったことはありません」
 ガンジーも、「私はどこまでも楽観主義者である」(K・クリパラーニー編『≪ガンジー語録≫抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)と語っているように、楽観主義は、指導者の大切な要件といってよい。
 楽観主義と、努力や準備を怠り、“どうにかなるだろう”という生き方とは全く異なる。
 楽観主義とは、万全の手を尽くすことから生じる、成功、勝利への揺るがざる確信と、自らを信ずる力に裏打ちされている。
21  源流(21)
 山本伸一が、「長い人生で最も嬉しかったこと、そして最も悲しかったことはなんでしょうか」と尋ねた時、デサイ首相の楽観主義という生き方は、さらに鮮明になった。
 「私は、今までに悲しいと思ったことはありません。すべてのことを、嬉しい、楽しいと思っています」
 「なかなかそうはなれません。それでは、嬉しかった思い出のなかでも、いちばん嬉しかったことはなんでしょうか」
 すると首相は、笑みを向けて答えた。
 「一瞬一瞬が幸福であるのに、その一つの瞬間だけを取り出して、幸福であるなどと、どうして説明することができるでしょうか。私は、食べ物があっても嬉しいし、また食べ物がなくても嬉しいのです」
 そう実感できたからこそ、不服従運動という熾烈な闘争に身を投じることができたのであろう。
 首相は、これまでに四回、命がけでハンガーストライキを断行してきた。
 近年では、一九七五年(昭和五十年)四月、治安関係法の適用について中央政府に抗議し、要求が受け入れられるまで一週間の断食を行っている。
 その時、既に七十九歳になっていた。体重は一日に二ポンド(約一キロ)も減っていったという。
 当時の心境を、首相は綴っている。
 「身も心も解き放たれ、幸福で、自分自身に対しても、世界に対しても、平安な境地であった」(Morarji Desai 『THE STORY OF MY LIFE Volume3』 Pergamon Press)
 しかも、その直後、五度目の投獄が待っていた。獄中生活は十九カ月に及んだ。
 だが、首相は言う。
 「それは、私の人生において、最も有益な時であった」「拘留中、私は内省的に生きた。いかにして自身を向上させうるか。
 そのことを常に自らに問いかけていた。自分の欠点とは何か? 心は穏やかか? 誰かに嫌悪感をいだいていないか?――と」(同前)
 使命に生き、自身の向上をめざす人にとっては、逆境の時こそが、実り多き学習の場となり、自分を磨く最高の道場となる。
22  源流(22)
 山本伸一はデサイ首相に、「ぜひ、日本にお迎えしたい」と語った。もし、訪日が実現すれば四度目の訪問となる。
 「日本に行きたいとは思っていますが、具体的な計画はありません。私はむしろ、日本の首相にインドを訪問していただきたい」
 さらに、日本にいちばん期待したいことは何かを尋ねると、即座に答えが返ってきた。
 「フレンドシップ(友情)です。友情の絆さえ強まれば、あとは自然にさまざまなことができるものです。世界平和に貢献していく力ともなります。
 私たちは、日本から多くのことを学びたいと思っています。日本人は非常に規律正しく勤勉であり、愛国心に富んでいます。互いに友人になることこそ、すべての出発点です」
 伸一は嬉しかった。友情の大切さは、彼が主張し続けてきたことであったからだ。
 また、首相は、「真理を追究するという姿勢を政治に取り入れたい。これを政治の最大のテーマとしています」と語った。
 そして未来を仰ぐように目を細め、言葉をついだ。
 「世界は軍縮が実現されるならば、すべての国の人たちが友人になり、仲良くなることができます。さらに、世界政府ができ、すべての国が一致協力してやっていける時代が来ることを、私は念願しているんです」
 約一時間にわたる会談は瞬く間に過ぎた。最後に伸一が真心の応対に深謝すると、首相は一冊の本を贈った。
 『バガバッド・ギーター』(神の詩)を自ら解説した著書『私のギーター観』であった。
 『バガバッド・ギーター』は古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」の一部であり、インドの聖典とされ、ガンジーの思想の支えにもなったといわれる。
 この書の冒頭部分には、「幸福は、心の平和と歓びを得ることにある。
 それは、自分のなすことに充実感をもつことから生まれる」(Morarji Desai 『A View of THE GITA』 S.CHAND & COMPANY LTD)とある。
 深い哲学性にあふれた言葉である。デサイ首相との会談は、“精神の大国・インド”を探訪する旅の幕開けにふさわしい語らいとなった。
23  源流(23)
 山本伸一たち訪印団一行は、午後六時半から、ICCR(インド文化関係評議会)が主催する歓迎レセプションに出席した。
 星空のもと、ICCR本部の前庭で開かれた歓迎レセプションには、クンドゥー外務担当閣外大臣をはじめ、ICCR副会長で仏教学者として知られるロケッシュ・チャンドラ博士、インド外務省アジア局のランガナッタ局長、デリー大学のメヘロトラ副総長ら各界の要人約二百五十人が出席した。
 伸一は、一人ひとりと御礼の言葉を交わしながら、日印間の友好と学術交流などについて意見を交換した。
 このあと、講堂に移動し、ここで伸一があいさつに立った。
 「日本を出発する前、貴国のアビタール・シン駐日大使とお会いした折、大使は、『仏法を弘めている山本会長にとって、仏教発祥の地であるインドは、“わが家”のようなものです』と言ってくださいました。
 まさに、家族さながらの、皆様の深い親愛の情に包まれ、“わが家”に帰ったような心境であります」
 そして、日本とインドの友好の絆を強めるために、できる限り多くの人と会い、教育・文化交流に最大の努力を払っていきたいと決意を披瀝。
 人類は地球という星を“わが家”とする家族であり、日印両国は“永遠の兄弟”として、互いに学び合っていくことの大切さを語り、あいさつを結んだ。
 彼は早速、その決意を実行するかのように、ICCRへの図書贈呈を発表し、目録と記念の品々をクンドゥー閣外大臣に手渡した。
 引き続いて、一行への歓迎の意を表して、インド舞踊などが披露された。真心こもる歓待であった。
 この訪問は、創価学会の会長である伸一をICCRが招聘した公式訪問であり、仏法を基調に平和・文化・教育運動を展開する学会との交流を目的としていた。
 インドは、日蓮仏法を実践する学会に強い関心を寄せていたのだ。まさに仏法西還の一つの証といえよう。
24  源流(24)
 ICCRの歓迎レセプションが終わると、山本伸一は、急いでニューデリーにあるホテルへ向かった。
 インドのメンバーをはじめ、日本から来た「インド文化研究会」一行らとの会食懇談が予定されていたのである。
 会場の入り口でインドのメンバーが、「センセイ! ヨウコソ!」と言って、伸一と妻の峯子に歓迎のレイをかけた。
 二人が会場に入ると、歓声があがり、参加者は立ち上がって大拍手で迎えた。
 伸一たちは、各テーブルを回った。
 インドのメンバーのテーブルで彼は、「お会いできて嬉しい」「あなたのことはよく存じ上げております」と一人ひとりに声をかけ、握手を交わした。
 一九六一年(昭和三十六年)、伸一がインドを初訪問した時、インド人の学会員を目にすることはなかった。
 その六年後の六七年(同四十二年)にようやくメンバーは三人になり、七〇年(同四十五年)にはインド初の地区が結成され、七三年(同四十八年)ごろからニューデリーやボンベイ(後のムンバイ)などで座談会が開かれるようになる。
 七五年(同五十年)には二十人ほどが参加して第一回インド総会が開催された。また、機関紙「ニュースレター」も発行されている。
 そして今、インド広布の決意に燃える約四十人のメンバーが、全インドから、喜び勇んで集って来たのである。
 南部のタミル・ナドゥ州の州都・マドラス(後のチェンナイ)から列車で一日かけてやって来た同志もいれば、同州のセーラムから二日がかりで来た同志もいる。
 また、東部の遠方から四日がかりで集った同志の喜々とした笑顔もあった。
 伸一は、十八年前、インドのブッダガヤを訪れた時、東洋広布を願い、天空に輝く太陽を仰ぎ見ながら、こう心で叫んだことが忘れられなかった。
 “出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ”
 今、十八星霜を経て、その萌芽の時を迎えたのだ。仏教発祥のインドの大地に、地涌の菩薩の先駆けが、さっそうと躍り出たのだ。
25  源流(25)
 山本伸一は懇談会で、一人ひとりに激励の言葉をかけていった。
 メンバーのなかに、全インドの責任者である地区部長を務める女性がいた。
 前日、伸一が図書贈呈したデリー大学で、経済学の講師として教壇に立つラビーナ・ラティである。
 彼女が御本尊を受持したのは、一九七五年(昭和五十年)六月であった。
 信心に励むなかで、難関の就職を勝ち取り、原因不明の頭痛や吐き気、めまいを克服した体験をもっていた。
 また、北インドの責任者を務めるハルディープ・シャンカルという壮年は、中学校の教師であった。
 鬱病で悩んだ末に信心をはじめ、乗り越えることができたという。
 彼は、いかにも生真面目そうな人柄であったが、ともすれば、沈んでしまいそうに感じられた。
 伸一は書籍に、「いかなる時でも 明るく朗らかな 指導者たれ」と、モットーとなる言葉を認め、シャンカルに贈った。
 家族が仏法に無理解のなか、ただ一人、信心に励んでいるアローク・アーリヤという青年もいた。
 伸一は、彼の報告を聞くと、「あなたの苦労、奮闘は、よくわかっています。大変だと思うかもしれないが、今、あなたは人生のドラマを創っているんです」と励まし、念珠をプレゼントした。
 さらに、二カ月前に入会した婦人のスバルナ・パテールは、日蓮大聖人の仏法に巡り合った喜びに燃えて集ってきた。
 彼女は、のちに夫を病で、息子を交通事故で亡くすが、この日の伸一との出会いを胸に、勇気を鼓舞して、苦難を克服していくのである。
 ここに集ったメンバーの多くは、その後、インドSGIの中核に育っていく。
 ラビーナ・ラティは幹事長となり、ハルディープ・シャンカルはインド創価菩提樹園の園長に、アローク・アーリヤは教育部長に、スバルナ・パテールは南インドの中心者となっていったのである。
 渾身の激励は、発心の種子となり、その人のもつ大いなる力を引き出す。
26  源流(26)
 インドのメンバーとの語らいを通して山本伸一が感じたことは、多くの人が宿命の転換を願って信心を始めたということであった。
 インドでは、業(カルマ)という考え方が定着している。
 ──すべての生命は、永遠に生と死を繰り返す。その輪廻のなかで、業、すなわち身(身体)、口(言語)、意(心)による行為で宿業がつくりだされ、その結果として、現在の苦楽があるということである。
 つまり過去世からの悪い行いの積み重ねが悪因となって、今世で悪果の報いを得る。反対に、良い行いをすれば、善果の報いを得られる。また、今世の悪業は、さらに来世の悪果となり、善業は善果となる。
 この生命の因果は、仏教の教えの基調をなすものでもあるが、問題は、悪果に苦しむ現世の宿業をいかにして転換していくかにある。
 こうした考え方に立てば、いかに善業を積み重ねても、今世にあって悪業の罪障を消滅することはできない。苦悩の因となっている悪業は、遠い過去世から積み重ね続けてきたものであるからだ。
 罪障の消滅は、現在はもとより、未来世も永遠に善業を積み続けることによってなされ、今世では、自身の苦悩、不幸に甘んじるしかないのだ。
 この世で苦悩からの解放がなければ、人生は絶望の雲に覆われてしまう。
 しかし、日蓮大聖人の仏法では一生成仏を説き、今世において自身の仏の生命を顕現し、宿業の鉄鎖を打ち砕く道を教えている。
 信心によって人間革命し、何ものにも負けない自分をつくり、一切の苦悩を乗り越えていくことができるのだ。
 私たちは、この苦悩の克服という実証をもって、日蓮仏法の真実を証明し、広宣流布を進めていくのである。いわば苦悩は、正法の功力を示すための不可欠な要件であり、宿命は即使命となっていくのだ。
 信心によって「あきらめ」の人生から「挑戦」の人生へ──インドのメンバー一人ひとりが、それを実感し、歓喜に燃えていたのだ。
27  源流(27)
 山本伸一は、同じテーブルに着いたメンバーや、あいさつに訪れる人たちと語らい、時に相談にものり、激励を重ねた。
 自分は地域の仏法のリーダーだが、信仰体験も指導力も乏しく、指導に際して自信がもてずに困っているという質問もあった。
 「高みから人を引っ張っていこうなどと考える必要はありません。皆の輪の中に入り、一緒に広宣流布をめざしていこうと、進むべき方向を示していくのが指導なんです。
 また、“なぜ勤行をするのか”“なぜ信心をすると周囲から反対されるのか”など、皆の疑問に、なかなかうまく答えられないこともあるでしょう。そうした時には、まず自ら真剣に教学を研鑽していくことです。
 人に教え、納得させなければならないというテーマがある時、研鑽は最もはかどり、自分の理解も深まるものなんです。人を懸命に育てようとする時、いちばん成長しているのは自分なんです。
 ともあれ、行き詰まったら、真剣に唱題し、思索していくことです。仏法では『以信代慧』(信を以って慧に代える)と説いています。強盛に祈れば智慧が湧く。誰よりも御本尊を信じ、自分を信じて、唱題第一に進んでいくんですよ」
 また伸一は、壮年の一人に訴えた。
 「釈尊の成道の地・インドで、今、真実の仏法を人びとに弘めようと、頑張っておられる。これは、決して偶然ではありません。あなたは、いろいろな悩みをかかえ、それを解決したいために信心を始めたと思っているかもしれないが、そんなことは一つの現象にすぎません。
 あなたが、信心をした本当の意味は、地涌の菩薩としてインドの広宣流布をする使命を担っているからなんです。広布の使命に生き抜いていくなかに、最高の幸福境涯があり、人生の崩れざる勝利があるんです」
 壮年は人生の本当の意味を初めて知った思いがした。使命に目覚める時、人生の新たなる価値創造の道が開かれ、世界は一変する。
28  源流(28)
 山本伸一の妻の峯子は、各テーブルを回って女性たちに声をかけていたが、席に戻ると伸一に語った。
 「インドには、たくさんの人材が誕生していて、未来が楽しみですね」
 「そうだね。私は、仏教発祥の地であるこのインドにこそ、世界模範のSGIを創っていってもらいたいんだよ。そのためには、地道に、着実に、まだまだ、たくさんの人材を育てていかなければならない。インドは広大だもの。人びとから信頼され、豊かな見識を身につけ、日蓮大聖人の仏法を誤りなく皆に伝え、弘め、指導していくことのできる、大勢のリーダーが必要になる。
 決して焦ることはないから、まず二、三十年ぐらいかけて、しっかり人を育て、盤石な組織の礎を築いていくことだね。二十一世紀になって、その基盤が完成したら、本格的な広布拡大の流れを開いていくんだ。
 その時に、前面に躍り出るのは、今日、集った人たちの後輩や子どもさんの世代になるだろう。しかし、万年にわたるインド広布の源流を開く大事な使命を担っているのは、ここにいる方々だ。
 だから、皆さんには、一人も漏れなく、生涯、誉れあるインド広布のパイオニアとして信心を貫き通してほしい。どこまでも後輩を育て守り、金剛の団結を誇るインド創価学会を創り上げてほしい。
 世界の模範の組織とは、先輩が後輩を温かく見守り、応援し、最高に仲が良い組織だ。わがままになって、自分中心に物事を考えるのではなく、皆が、広宣流布のために、互いに讃え合い、支え合っていける組織だ。そして、それがそのまま、各人の人間革命の姿であり、世界の平和の縮図となる。インド広布の未来を思うと胸が躍るね」
 懇談会では全員でインド国歌を斉唱した。
 また、「インド文化研究会」の友が、日本語で「春が来た」を披露すれば、インドのメンバーが民謡をヒンディー語で歌うなど、和やかな交歓のひとときとなった。
29  源流(29)
 懇談会で山本伸一は、マイクを取って、あいさつした。
 「本日は、インドの多くの同志とお会いできて本当に嬉しい。なかには、何日もかかって、遠くから来られた方もいらっしゃる。ようこそおいでくださいました。
 十八年前、初めてインドを訪問した折のことが、昨日のように思われます。その時は、誰一人、メンバーであるインドの方とお会いすることはなかった。しかし、私は思いました。強く決意しました。
 “仏教が誕生した意義あるインドに、地涌の菩薩が出現しないわけがない。また、必ず出現させなければならない!”
 以来、インドの地に、数多の同志が誕生することを、日々、真剣に祈ってまいりました。そして、今日ここに、広宣流布の使命に生きようとする約四十人の代表が、喜々として集われた。まさに、大聖人が仰せの『地涌の義』であります。これほど嬉しいことはありません。
 皆さん方は、地涌の同志であり、宿縁深い“兄弟”であり、“姉妹”であるとの自覚で、インドの人びとのために、どこまでも仲良く、共に成長していっていただきたい。
 今や世界の数多くの国に、創価の友がおります。国境、民族、文化の壁を超え、心の絆は固く結ばれています。その世界の同志は、仏教発祥のインドに注目し、貴国の未来に期待を寄せ、心から声援を送っております。
 あの雄大にして悠久なるガンジス川の流れも、一滴の水から始まる。同じように皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です。洋々たる未来を信じて前進していっていただきたい。二十年、三十年、五十年後をめざして、広布のガンジスの流れを開いていこうではありませんか!
 私も、私なりにインドの平和、発展のために尽くし抜いていくことをお約束申し上げ、スピーチとさせていただきます」
 ガンジスの一滴に──それは、インドの同志の誓いとなり、合言葉となっていった。
30  源流(30)
 ガンジス川は、インドで「ガンガー」と呼ばれる。ヒマラヤ山脈のガンゴトリ山にある氷河などに源を発し、インド北部を流れ、幾つもの支流に分かれて、ベンガル湾に注いでいる。その全長は二五一〇キロメートルといわれる。
 仏典にある、六万恒河沙の「恒河」とは、ガンジス川をいう。法華経の従地涌出品第十五の「六万恒河沙」は、ガンジス川の砂粒の六万倍との意味であり、それほど多くの、無数の“地涌の菩薩”が大地から涌出することを説いている。
 ゆえに、このインドにも、数多の地涌の菩薩が出現することは間違いないと、山本伸一は、強く、深く確信していたのである。
 彼は、懇談会であいさつしたあと、インドの同志と記念撮影することにした。
 撮影の際、メンバーは、自分たちの中央に大きな椅子を置いた。伸一のために用意したのである。
 それを見ると、彼は言った。
 「私は、遠くから集ってこられた方など、皆さんの労苦に賞讃と敬意の意味を込めて、脇に立たせていただきます。皆さんを見守っていきたいんです。この椅子には、皆さんたちの中心者に座っていただきましょう」
 インド広布への決意をとどめ、カメラのシャッターが切られた。
 後年、この写真を見ながら、メンバーの一人は語っている。
 「苦しい時もありました。辛いことも、悲しいこともありました。でも、私は、この写真を見詰め、抱きしめて頑張ってきました。この写真のように、山本先生は、いつも私たちと共にいる、そばに立って、私たちを見守ってくださっている──そう確信することができたからです」
 伸一もまた、写真を見ては、インドの同志を思い起こし、題目を送り続けたのである。
 直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う。唱題によってこそ、魂の絆が織り成され、結ばれていくのだ。
31  源流(31)
 ニューデリーは青空に包まれ、街路の菩提樹の緑が陽光に照り映えていた。
 二月八日の午前、山本伸一は、インド外務省に、アタル・ビハーリー・バジパイ外相を表敬訪問した。外相は、今回、訪印団の招聘元となったICCR(インド文化関係評議会)の会長であり、詩人、作家でもある。
 五十代前半で、半白の髪に太い眉、鋭い目が印象的な精悍な顔立ちであった。前日、アフリカ訪問から帰国したばかりだという。幾分、目の縁が黒ずんで見えた。
 伸一は感謝の意を表し、こう述べた。
 「ご自身のためだけでなく、インドの国家にとって大事なお体です。どうか、健康には、十分に気をつけてください」
 外相は、柔和な笑みを浮かべて答えた。
 「インドでは、母と客と教師は神様といわれております。ですから、お客様の意を最大限に尊重するのが、主人の務めです。そこには、人として大切な道があります」
 「教育的なお話ですね。まるで文部大臣のようです」
 このユーモアに外相もユーモアで応じた。
 「健康を気遣ってくださるあなたは、厚生大臣のようですよ」
 二人は大笑いした。雰囲気は打ち解けた。
 伸一は、国境紛争が続いている、インドと中国の関係について尋ねた。これは、デサイ首相にも質問したことであったが、両国の平和友好が、アジアの安定を決するカギとなるからだ。外相は、数日後に、インド閣僚としては十七年ぶりに、中国・北京を訪れることになっていたのである。
 伸一の質問に外相は、ソファの上で両手を組み、しばらく言葉を探しているようであったが、顔を上げると語り始めた。 
 「インドと中国は同じアジアの国であり、隣国です。歴史を忘れても地理を忘れることはできません」──両国は隣り合って生きているという現実を直視しなければならないとの意味であろう。現実に立脚し、粘り強く理想への歩みを運び続けてこそ政治である。
32  源流(32)
 バジパイ外相は、ひときわ確信と情熱のこもった大きな声で言った。
 「インドと中国は、平和五原則を守れば、問題はなんでも解決できるはずです」
 平和五原則は一九五四年(昭和二十九年)に、中国の周恩来総理とインドのネルー首相との共同声明に示された、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存から成る五つの原則である。
 外相は、この平和五原則に立ち戻り、武力を用いることなく、問題を解決していきたいとの意向を明らかにし、「すべての国と友好を結ぶのがインドの考えです」と強調した。
 山本伸一は、日本への要望を尋ねた。
 「日本は日の昇る東の国です。東天に輝いた太陽の光は、あらゆるものを平等に照らします。遠き地よりも近き地に、より暖かな光を注ぐものです」
 文学的で、含蓄に富んだ言葉であった。
 伸一は、日本は関心の眼を、遠いヨーロッパやアメリカだけでなく、近いアジアに注ぐべきである、との要請と受け止めた。
 さらに、外相は、世界屈指の優れた工業生産力をもち、大きな経済発展を遂げた日本は、先進国と発展途上国との差をなくすための力になってほしいと訴えた。
 また、アショーカ大王を心から尊敬しているという外相は、仏教の精神を根底にしたアショーカの治世に言及していった。
 そして、当時は、文化が栄え、貿易も盛んで、死刑も行われず、人びとは幸せな生活を営んでいたことを紹介。獅子、法輪を配したインドの国章は、アショーカの建てた獅子柱頭に由来しているとして、こう語った。
 「インドでは宗教をダルマ(法)ととらえています。これは生活法という意味であり、人生の土台をなすものです。インド社会では宗教が深く生活に根差しています」
 ――「宗教はすべてを成立せしめる根本的立場である」(「歴史的形成作用としての芸術的創作」『西田幾多郎全集第九巻』所収、岩波書店)とは、哲学者・西田幾多郎の卓見である。宗教という基が確立されてこそ、人生の充実もある。
33  源流(33)
 バジパイ外相は雄弁家として知られる。ジェスチャーも大きく、部屋中に響き渡る声で、アショーカの政治を、さらに、民衆と共に戦ったマハトマ・ガンジーの精神を語っていった。
 山本伸一は、ガンジーが民衆のなかに分け入り、対話を重ねたように、外相も、しばしばどこかへ出かけては、人びとと車座になって語り合い、真摯に耳を傾けていると聞いていた。そして、一例をあげれば、パスポートが発給されるまでに長い時間がかかり、人びとが困っていることを知ると、発給システムの改善に取り組んでいる。
 雄弁と饒舌とは異なる。人びとの心をつかむ雄弁は、皆の思いの代弁であり、一人ひとりの意見を忍耐強く聴く努力から始まる、熟慮と信念と情熱をもってする魂の叫びなのだ。
 外相は、詩人だが、観念の人ではなかった。行動の人であった。少年期から社会運動に身を投じ、民衆の啓発に心血を注いできた。
 インドの独立運動では、若くして投獄されもした。また近年も、与党であった勢力によって、獄につながれた。だが、その微笑には、不屈の精神がみなぎっていた。
 ガンジーは「最終的には、遺恨なく、敵をも友に変えられるかどうかが、非暴力の厳しい試金石である」(KRISHNA KRIPALANI 『ALL MEN ARE BROTHERS』 UNESCO)と記している。
 外相は、非暴力運動の精神を生かした政治や外交の在り方を、真剣に模索しているようであった。しかし、その道は、決して容易ではあるまい。インド亜大陸をめぐる大国の複雑な駆け引きもあり、パキスタンとの緊張も高まっている。この激浪のなかでの舵取りは、過酷な現実との格闘となろう。
 だからこそ外相には、アショーカやガンジーの精神を継承・堅持して、対話に徹し、新しい時代を開いてほしかった。
 バジパイ外相は、後に首相となり、長年、対立していた中国との関係を改善している。
 困難のなか、インドの未来を担い立とうとする外相との語らいは、伸一にとって忘れがたいものとなった。
34  源流(34)
 バジパイ外相との対談を終えた山本伸一の一行は、ニューデリー郊外の、ヤムナー川近くにあるラージ・ガートへ向かった。
 ここは、一九四八年(昭和二十三年)に凶弾に倒れたガンジーの遺体を荼毘に付した場所であり、美しい聖地公園になっている。伸一は、インドを初めて訪れた六一年(同三十六年)以来、二度目の訪問である。
 辺りの木々と芝生の緑が陽光に映える、穏やかな午後であった。
 ゆるやかな丘の頂に、高さ数十センチ、四方三メートルほどの黒大理石の碑がある。
 一行は、偉大なる魂の人(マハトマ)・ガンジーへの敬意を表するとともに、その精神の継承を誓い、献花を行うことにしていた。ここは聖地であるため、皆、靴にカバーをかけ、花輪を先頭に、厳粛に歩みを運んだ。
 ガンジーが貫いた非暴力・不服従運動は、人類史に人道と平和の輝きを放つ独立運動、人権運動となった。
 令状なしの逮捕などを可能にするローラット法への抗議。イギリスの支配から経済的、精神的に独立していくため、インドの伝統工芸であったチャルカ(紡ぎ車)を使っての綿製品生産。イギリス植民地政府の不当な塩の専売に抗議して行った塩の行進……。
 彼の運動の前には、常に暴力による抑圧が待ち受けていた。しかし、それに対して、暴力で抗することをせずに戦い続けたのだ。
 ガンジーは言う。
 「非暴力と臆病とは相容れないものである」「真の非暴力は、純粋な勇気を持たずには実践不可能だ」(K・クリパラーニー編『≪ガンジー語録≫抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 彼の非暴力運動は、暴力や武力に対して、精神の力をもってする戦いである。そして、「勇敢であることは、精神性の第一の条件である」(ガンディー著『私にとっての宗教』浦田広朗訳、新評論)と述べているように、“恐れない心”が求められる道といってよい。
 大聖人は「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と仰せである。人間勝利の歴史を開く偉大なる歩みは、すべて勇気の覚醒から始まる。
35  源流(35)
 人類の歴史が明白に示しているように、不当な侵略や支配、略奪、虐殺、戦争等々の暴力、武力がまかり通る弱肉強食の世界が、現実の世の中であった。
 そのなかで、マハトマ・ガンジーが非暴力、不服従を貫くことができたのは、人間への絶対の信頼があったからだ。さらにそこには「サティヤーグラハ」(真理の把握)という、いわば宗教的確信、信念があったからだ。
 ガンジーは、道場(アシュラム)での祈りに「南無妙法蓮華経」の題目を取り入れていたという。
 仏法は、十界互具、一念三千を説き、万人が仏性を具えているという永遠不変の真理を明かした教えである。その宗教的確信に立つ私たちには、ガンジーの非暴力運動を継承しうる、確かな精神的基盤がある。
 山本伸一は、ガンジーの碑に献花し、祈りを捧げながら、深く心に誓った。
 ──非暴力の象徴たる対話の力をもって、人類を結び、世界の平和を築くために、わが生涯を捧げていこう、と。
 さわやかな風が吹き渡り、木々が揺れた。
 献花のあと、一行は、管理者に案内され、園内を視察した。
 太陽の光を浴びて緑の樹木は輝き、色とりどりの花々が咲き乱れていた。
 敷地内の一角に、「七つの罪」と題したガンジーの戒めが、英語とヒンディー語で刻まれた碑があった。
 ──「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき娯楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき祈り」
 いずれも、ガンジーのいう真理に反するものであり、「悪」を生み出し、人間を不幸にしていく要因を、鋭くえぐり出している。
 伸一は、「献身なき祈り」を戒めている点に、ことのほか強い共感を覚えた。行為に結びつかない信仰は、観念の遊戯にすぎない。信仰は人格の革命をもたらし、さらに、人びとの幸福を願う献身の行為になっていくべきものだからだ。
36  源流(36)
 ラージ・ガートを視察した山本伸一は、ガンジーの精神が、この場所とともに永遠であり続けることを願い、案内してくれた管理者に次の一文を認めて贈った。
 「国父ここに眠る
  民衆ここに詣でる
  父子共に永遠に
  幸多かれと祈る
    ラージ・ガートにて  二月八日」
 一行は、ラージ・ガートに続いて、斜め向かいにある国立ガンジー博物館を見学した。
 ガンジーの使用した杖、サンダル、チャルカ(紡ぎ車)、直筆のメモ、彫像、また、彼の青年時代や子どもを抱いて微笑む様子など、常に民衆と共に歩んできた“マハトマ”の数々の写真が、パネルで展示されていた。
 一つ一つの品々から、ただひたすら人びとの幸福のために尽くし抜いた七十八年の尊き一生が、ありありと眼前に迫ってくる。
 なかでも伸一が強く心を打たれたのは、ガンジーが暗殺された一九四八年(昭和二十三年)一月三十日に身につけていた、血痕のついた布地であった。彼の歩みは、まさに命を賭しての変革の戦いであったのだ。
 ガンジーは、祖国インドの独立とともに、インドの大地に根差すヒンズー教徒とイスラム教徒との融和を願って行動してきた。しかし、イギリスの分離統治のもくろみや、政治的利害が絡み合い、宗教間の対立は激しさを増していった。そして四七年(同二十二年)八月、悲願の独立を果たしたものの、ヒンズー教徒が大多数を占めるインドと、主にイスラム教徒からなるパキスタンに分かれての独立となったのである。
 それから五カ月後、イスラム教徒への報復を叫ぶ、過激なヒンズー教徒の青年が放った三発の凶弾が、彼の命を奪ったのだ。
 ガンジーは訴えてきた。「わたしの宗教は地理的な限界をもたない」(マハトマ・ガンディー著『わたしの非暴力1』森本達雄訳、みすず書房)と。
 その言葉は、人間という共通項に立脚した、宗教のあるべき姿を示している。
37  源流(37)
 二月八日の午後八時から、山本伸一主催の答礼宴が、ニューデリーのアショーカホテルで開かれた。
 答礼宴には、ICCR(インド文化関係評議会)のカラン・シン副会長夫妻、デリー市長夫妻をはじめ各界代表約五十人が出席した。
 伸一は、峯子と共に感謝の言葉を述べながら、一人ひとりを迎えた。
 答礼宴での語らいは弾み、なかでもシン副会長とは二時間ほど意見交換した。
 副会長は、長身で、年齢は伸一よりも三歳若く、エネルギッシュであった。
 ジャンム・カシミール州の州知事を経て三十六歳で下院議員となり、当時、インド史上最年少で閣僚となっている。また、ヒンズー教をはじめ、宗教、哲学、科学への造詣も深い知識人である。
 二人は、インドの神々と仏法で説く十界論との関係や、宗教の根本となる本尊について語り合った。この対話は、インドの精神的土壌を理解するうえでも、ヒンズー教を知るうえでも意義ある語らいとなった。
 答礼宴のあいさつで伸一は、ICCRの関係者らに謝意を表し、文化・教育次元での交流こそ、国際的な友好深化を着実に進める道であると強調。人間と人間の触れ合いが、世界を結ぶ不可欠な要件になることを訴えた。
 次いで、シン副会長がマイクに向かった。
 「人類は、歴史の重大な岐路に立っております。良き伝統が失われ、新しい生活様式が取って代わりました。
 また、科学技術の進歩は、人間の幸・不幸の両面をもたらし得るものです。善用すれば、世界の貧困や不幸を除く力となるが、誤用すれば、人間を地上から抹殺する力ともなる。しかも人類は今、核戦争の危機を迎えています。大事なことは、この事態を生んだのは外的な問題だけではなく、人間の内面にこそ、大きな要因があるということです。
 この危機をいかに回避するか――人類は最後の選択に直面しているといえましょう」
 真剣な憂慮が、新しき未来の道を開く。
38  源流(38)
 「だからこそ」──こう言ってカラン・シン副会長は、出席者に視線を巡らし、大きく息を吸い、さらに力を込めて語っていった。
 「人類が将来も生存し続けるために、個々人が結束して、平和と調和をめざして努力しなければなりません。人種、カーストなどで人間を分断する考え方は改めなければならないのです。インドの古い時代に“人類はすべて一つの家族”という考え方がありました。この理念に立ち返るべきであります!」
 山本伸一をはじめ、訪印団一行は、惜しみない拍手を送った。
 シン副会長は、インドには世界に誇る古代文明が興り、偉大な人物が生まれ、優れた思想を創造してきたことに言及。
 「その一人が、あのシッダールタ(釈尊)であります。彼の教えはアジアの国々に伝えられ、大勢の人びとがシッダールタの道を歩もうと努力しています。私は、彼の教えを基調とした創価学会の思想と目的を勉強し、すばらしさに感嘆しました。また、学会が常に平和をめざしてきたことを、心から賞讃したいと思います。しかも、その運動は、世界に広がっております。
 今、私は、創価学会の皆さんをインドに迎えることができ、喜びに堪えません。今日は、西洋式の“乾杯”ではなく、アジア式のサンスクリット語の“祈り”をもって、ご一行を歓迎したい。これは人間の精神のための祈りであります」
 厳かにサンスクリット語で詩を誦していった。最高の礼を尽くしての歓迎であった。
 学会は、この招待の返礼として、翌一九八〇年(昭和五十五年)十月、シン副会長を日本に招き、さらに友情を深めていった。
 来日の折、伸一との語らいで対談集の発刊が合意され、八八年(同六十三年)六月、『内なる世界──インドと日本』が上梓される。
 ヒンズー教と仏教という違いを超えて、両者の底流にあるインドの精神的伝統を浮かび上がらせ、その精神文明が現代の危機を克服する力となることを訴えるものとなった。
39  源流(39)
 山本伸一は、日々、インドの指導者たちと会い、意見交換することが楽しみであった。
 二月九日──空は澄み渡っていた。
 午前十一時には、バサッパ・ダナッパ・ジャッティー副大統領をニューデリーの官邸に訪ねた。官邸は、緑の多い官庁街の一角に立つ、白亜の清楚な建物であった。
 白いインドの民族衣装に身を包んだジャッティー副大統領は、六十六歳で、物静かな哲人政治家といった風貌の紳士であった。
 会談は、アショーカ王、カニシカ王といった仏教に縁の深い古代インドの王の話から始まり、その政治哲学へ、さらにタゴールの崇高な精神、平和主義へと及んだ。
 伸一が、副大統領に人生のモットーを尋ねると、即座に、「人間的であること、精神的であること、道徳的であることの三つです」との答えが返ってきた。さらに、人生を生きるうえでも、政治を行ううえでも、「人格の純粋性」が大切であることを強調した。
 そして、個人の内面、精神の世界に平和が確立されることが根本であり、それを全人類にまで広げていくことによって、現実の世界を、釈尊のいう“浄土”に変えていきたいというのが副大統領の意見であった。
 伸一は、両手を大きく広げ、「全く同感です」と賛同の意を示し、それこそが創価学会がめざす、人間革命を機軸にした平和運動であることを語った。また、この年が「国際児童年」であることから、子どもについてのインドの課題を尋ねた。
 「インドの子どもも、世界の子どもも、第一の問題は健康の増進です。そして、そのために十分な医療、薬品、食糧が不可欠です」
 副大統領は、まず“生きる”ことを確保する必要性を訴えたのだ。
 世界は、先進諸国のように、飽食で医療施設にも恵まれた国ばかりではない。発展途上国には十分に食べることができず、健康を維持できぬ子どもがたくさんいる。
 子どもたちの生命と生活を守ることは、常に世界が急務とすべきテーマである。
40  源流(40)
 ジャッティー副大統領は、しばらく視線を落とした。憂いに満ちた目であった。やがて、その目は、次第に輝きを増していくように感じられた。それは、未来を担う子どもたちのために、インドを発展させようとする決意の光であったのかもしれない。
 今回の訪印中、山本伸一は、子どもたちと努めて言葉を交わし、兄弟、姉妹について尋ねてみた。すると、「十二人いましたが、三人死んで、九人です」などと、亡くなった兄弟、姉妹のことが、よく話題になった。疾病で他界したケースが多かった。零歳児の死亡率もかなり高いようだ。
 人は、まず何よりも生き抜かねばならない──副大統領は、この切実なテーマに向き合い、格闘していたのであろう。
 インドでは、「男の子を産むことは一つの生活防衛になる」という話も耳にした。
 子どもたちは、親が学校に通わせなくとも、働き手となる。社会保障が十分でない状況では、子どもの多い方が、やがて暮らしは楽になるという論理が働く。貧しさゆえの多産、そして人口過剰──大国インドの指導者の苦悩が感じられた。
 副大統領は、言葉をついだ。
 「第二の問題は、子どもの人格形成をいかに図るかです。これには、道徳と精神の道を歩ませなければなりません」
 伸一は、指導者たちが、未来の発展のために、インドの深き精神性を青少年に伝え、教育に力を入れようとしていることを強く感じた。二十一世紀の世界を考えるうえでも、極めて重要な着眼点であると思った。
 物心両面にわたって、子どもを守り育てていくことは、大人の責任であり、義務である。
 「すべての人を尊重せよ。しかし子供の場合は普通の百倍も尊重し、その汚れを知らぬ魂の純粋さを損なわぬよう努めよ」(レフ・トルストイ著『文読む月日(中)』北御門二郎訳、筑摩書房)とは、ロシアの文豪トルストイの箴言である。
 社会の新たな改革は、未来からの使者である子どもたちに、希望と勇気の光を送るところから始まるといってよい。
41  源流(41)
 山本伸一は、ジャッティー副大統領と会談した九日の午後、ニューデリーにあるジャワハルラル・ネルー大学を訪問した。教育交流の一環として、図書を贈呈するためである。
 同大学は、その名が示す通り、故ジャワハルラル・ネルー首相の思想を基調に、新しい学問の創造をめざして創立され、言語学部を除いて大学院課程のみの国立の大学院大学である。当時、学生総数は約二千二百人、教授陣は約五百人であった。
 伸一は、この訪問で、コチェリル・ラーマン・ナラヤナン副総長と語り合えることを、ことのほか楽しみにしていた。インド社会には、「不可触民」と呼ばれ、カースト制度の外に置かれて差別され続けた最下層の人たちがいた。副総長は、その出身だが、国家を担う逸材として期待されていたのである。
 カースト制度は、インドの近代化を推進するうえで、超えねばならない大きな障壁であった。既にカーストによる差別は禁じられていたが、慣習として根強く定着していた。
 「生まれ」によって人間に貴賤のレッテルを貼ることに真っ向から対決し、人間は生まれではなく、行為によって賤しくもなれば貴くもなると説いたのが釈尊であった。
 マハトマ・ガンジーもまた、インドの独立とともに、最も卑しめられてきた最下層の「不可触民」の解放を最大の悲願とし、その人びとを、「ハリジャン」(神の子)と呼んで、最大の敬意を表した。
 カースト制度は、都市部にあっては職業カーストとして細分化され、清掃一つとっても床とトイレとでは、行う人のカーストが異なる。しかし、それによって、人びとの仕事が保障されているという現実もあった。それだけに、この制度の克服は容易ではなかった。
 だが、何よりも大切なことは、偏見と差別をもたらしてきた、人びとの心のなかにあるカースト制度を打破することであろう。
 それには、万人が等しく仏の生命を具えた、尊厳無比なる存在であると説く、法華経の教えに立ち返ることだ。
42  源流(42)
 ナラヤナン副総長は、一九二〇年(大正九年)に、インド南部のケララ州に七人きょうだいの四人目として生まれた。家は貧しかったが、勉強が大好きな少年であった。兄や姉は自分たちが小学校に通うことを断念し、彼を小学校に行かせた。
 彼は長い道のりを歩いて通学した。目に触れる本や新聞は片っ端から読み、メモした。授業料が払えず、教室に入れぬこともあった。
 苦労に苦労を重ね、トラバンコール大学(後のケララ大学)に進み、首席で卒業した。大学のある町は、かつてガンジーが差別撤廃のために戦った人権闘争の舞台であった。
 彼は、大学講師やジャーナリストとして活躍し、奨学金を得て、ロンドン・スクル・オブ・エコノミクスに留学する。ここでも最優秀の成績を収めた。帰国に際して、政治学者である同校のハロルド・ラスキ教授が、ネルー首相に紹介状を書いてくれた。
 ネルーとの出会いが、彼の人生を変える。外務省入りを勧められ、外交官として新しい一歩を踏み出すことになる。
 ビルマ(後のミャンマー)、日本、イギリス等で勤務したあと、タイ、トルコ、中国大使を歴任。この一九七九年(昭和五十四年)、ネルー大学の副総長に就任したのだ。
 彼の存在が、カーストによって差別する偏見を打ち破る先駆の力となった。
 人間の生き方が、社会の変革を促す。
 ネルー大学に到着した山本伸一たちは、副総長室に案内された。そこには、白髪にメガネをかけた、ナラヤナン副総長の穏やかな笑顔が待っていた。
 「ようこそ、わがネルー大学へ!」
 「お忙しいところ、時間をとっていただき、ありがとうございました。民衆の大学者であるナラヤナン副総長とお会いできることを、楽しみにしておりました」
 「私もです。今日は、山本先生を、わが大学の“一日教授”としてお迎えします」
 「とんでもない。“一日学生”です」
 このやりとりに爆笑の渦が広がった。
43  源流(43)
 山本伸一は、ナラヤナン副総長と一緒に、図書贈呈式が行われる会議室へと向かった。
 副総長は、歩きながら大学の概要を説明し、「学生たちには、学べぬインドの民衆のために尽くしてほしいというのが私の願いです」と語った。
 伸一は、全く同感であった。
 “大学とは、大学に行きたくても行けなかった人たちに、尽くすためにある”というのが、彼の信念であったからだ。
 会議室で行われた図書贈呈式であいさつに立った副総長は、平和と国際理解の実現をめざすネルー大学の建学の精神に照らして、世界平和へ献身的に努力する創価学会一行の来訪を、心から歓迎したいと述べた。
 そして、ネルー大学は、特に日本語の教育に重点を置き、日本の経済・社会の発展等の学習・研究にも力を注いでいることを紹介。この贈呈式の出席者は、学部長、教員及び日本語を研究している学生であることを伝えた。
 贈呈式では、日本語を専攻している四人の女子学生が、日本語で「さくら」を合唱した。発音も正確であり、美しい歌声であった。
 一行は大拍手を送った。会場からアンコールの声が起こった。それに応えて、女子学生たちが「春が来た」を披露し、さらに、そのうちの一人が、日本のフォークソング「この広い野原いっぱい」を独唱。皆、引き込まれるように耳を傾けた。
 伸一は女子学生たちに、お礼を言った。
 「まるで日本へ帰ったような気持ちになれました。最高の歓待です。ありがとう!」
 また、教授陣に「すばらしい歌を歌ってくれた学生さんに、最高の成績をつけてあげてください」と語ると、笑いが起こった。
 書物を贈るだけでなく、心と心が通い合い、人と人とが結ばれることに、図書贈呈式の大きな意味があると、伸一は考えていた。
 彼は、日本とインドの精神文化の絆を、さらに強くしていくために、教育・文化交流に最大の努力を払いたいと述べ、日本語と英語の書籍千冊の寄贈目録を副総長に手渡した。
44  源流(44)
 ナラヤナン副総長も、山本伸一と同じく、図書贈呈を単に書物の授受の儀式に終わらせたくはなかったようだ。副総長は伸一に、「ぜひ、語らいの時間をもってください」と言い、教員、学生らに自己紹介するように促した。懇談が始まった。
 一人の男子学生が挙手し、伸一に尋ねた。
 「私は、創価学会を専門的に研究して、博士号を取得しようと思っています。山本先生は仏教について、どのようにお考えですか」
 すかさず副総長が説明した。
 「つまり、彼にとっては、山本先生こそが“研究対象”なんです」
 「はい。なんでも聞いてください。あなたの研究に尽力できることを嬉しく思います」
 伸一は、一つ一つの質問に、丁寧に答えていった。青年を軽んじることは、未来を軽んじることである。ネルーは、「青年は“明日の世界”だ」「明日の世界は諸君の肩にかかっている」(「朝日新聞」1957年10月8日付)と訴えている。
 伸一は、回答のたびに、「おわかりいただけましたか? では、次の質問をどうぞ!」と確認しながら話を進めた。そのやりとりを副総長は、微笑みを浮かべて見ていた。
 語らいの時間は、瞬く間に過ぎていった。
 副総長は言った。
 「今日は、学生の質問に、誠実にお答えいただき、ありがとうございました。質問した学生だけでなく、皆、創価学会を、また、山本先生のお人柄を、よく理解したのではないかと思います」
 恐縮しながら、伸一は答えた。
 「私の方こそ大変にお世話になりました。青年たちと触れ合いの場をもてたことは、最も有意義なひと時でした。ただ副総長と、ゆっくりお話しできなかったことが残念です。またお会いできますよう願っております」
 学生たちは、一列に並び、瞳を輝かせて、一行を見送った。伸一は、学生一人ひとりと握手を交わしていった。
 青年の瞳は未来を映す。そこに輝きがある限り、その国の未来には希望の光がある。
45  源流(45)
 山本伸一は、その後もナラヤナン副総長との友誼を大切にしていった。日本で、インドで、出会いを重ねた。 
 ナラヤナンは一九八四年(昭和五十九年)にケララ州から下院議員選挙に立候補し、当選する。外務担当国務大臣等を経て、九二年(平成四年)、友人の国会議員に強く推されて副大統領選へ。上下両院議員の選挙の結果、なんと賛成七百票、反対一票で副大統領に就任したのである。
 後年、伸一が、直接、その圧倒的な支持の理由を尋ねると、こう答えている。
 「大臣時代の仕事ぶりを認めてくれたのかもしれません。また、数年間、大臣ではなく一般の議員として仕事をしていましたが、その間に、ほとんどの議員と友好関係をもつことができました」
 つまり、日ごろの行動、地道な陰の功労を皆が見ていて評価してくれたというのだ。また、人間対人間の交流を通して培ってきた信頼が、いざという時に花開いたといえよう。
 さらに彼は、インド独立五十周年にあたる九七年(同九年)七月、国会と州議会の議員約四千九百人による選挙で、有効投票数の約九五パーセントを得て大統領に就任。「不可触民」といわれ、差別されてきた最下層の出身者から、初めて大統領が誕生したのだ。
 新しき朝は来た。人間のつくった差別という歴史の闇を破るのは、人間の力である。
 その三カ月後の十月、インドを訪問した伸一は、大統領府を表敬訪問し、ナラヤナン大統領に長編詩「悠久なるインド 新世紀の夜明け」を贈った。
 また、二〇〇四年(同十六年)十月、伸一は二年前に大統領の任期を終えていたナラヤナンと、聖教新聞社で七年ぶり四度目の会談を行った。この日本滞在中、創価大学から名誉博士号が贈られている。
 「民主主義の本質は、民衆の幸福に尽くすことである」(『マハトマ・ガンジー全集 90巻』インド政府出版局)──これは、ナラヤナンが大統領の任期を終えるにあたって議会で語った、ガンジーの不滅の言葉である。
46  源流(46)
 山本伸一ら訪印団一行は、ネルー大学に引き続いて、ニューデリーの中心街ティーン・ムルティにあるネルー記念館を訪問した。
 記念館の建物は、バルコニーが張り出した重厚な石造りの二階建てであった。かつてはイギリス軍の最高司令官が使用していたが、インド独立後、ネルー首相の住居となった。彼は、一九六四年(昭和三十九年)に世を去るまでの十六年間、ここでインド民衆のために平和と繁栄への舵を取り続けてきた。
 そして、ネルー逝去から半年後、彼の事績と精神を伝え残すために記念館となった。
 一行は、S・R・マハジャン館長の案内で館内を見学した。ネルー首相の生い立ちを示す写真の数々。在りし日のままに保存された執務室、応接室、寝室。また、親交のあった多くの人びとの写真……。
 伸一には、インド国民会議派のガンジーの指導のもと、独立運動に身を投じ、念願の日を勝ち得たネルーの姿が偲ばれた。
 一九四七年(同二十二年)八月十五日午前零時──それは、長い長い漆黒の闇を破り、インドの大地に、「独立」と「自由」の金色の光が走った瞬間であった。インドが独立を勝ち取ったことは、搾取され、虐げられ続けてきた民衆の勝利にほかならない。
 詩聖タゴールが「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている」(「迷える小鳥」『タゴール著作集1』所収、藤原定訳、第三文明社)と述べた悲願の時が、遂に訪れたのだ。その新生の時を前にして、初代首相ネルーは制憲会議の全議員と共に誓った。
 インドのため、民衆のために貢献しよう。平和のため、人間の幸福のために寄与しよう──八月十四日、独立前夜の誓願である。
 なんと、この日は、十九歳の伸一が恩師・戸田城聖と初めて会い、平和と人道に生き抜く覚悟を定めた、運命の日でもあったのだ。
 その後、ネルーは、東西冷戦によって引き裂かれた世界の傷を癒やし、アジアとアフリカの心を結ぶ第三世界の期待の星となった。
 “民衆のために”という強き一念と闘魂は、時代を建設する不屈の力となる。
47  源流(47)
 二月九日の午後八時から、インディアン・エクスプレス社のR・N・ゴエンカ会長が主催する訪印団一行の歓迎宴が、ニューデリーのホテルで行われた。「インディアン・エクスプレス」は、インド屈指の日刊紙である。
 歓迎宴には、訪中を前にしたバジパイ外相、L・K・アドバニー情報・放送相をはじめ、多数の識者らが参加し、真心に包まれた語らいの一夜となった。
 ゴエンカ会長は豪放磊落で精悍な新聞人であった。七十代半ばとは思えないほど、快活で、哄笑が絶えず、エネルギッシュな話し方には不屈の闘志があふれていた。インドに到着した折も、真夜中にもかかわらず、空港まで出迎えに来てくれた。
 彼は、一九〇四年(明治三十七年)四月に、インド東部のビハール州に生まれた。青年時代に、イギリスからのインド独立を勝ち取ろうと、ガンジーの運動に加わった。
 自身の発行する「インディアン・エクスプレス」を武器に、イギリスが行っている数々の偽りを暴き、戦い抜いた。
 インドが独立したあとも、政府による新聞への激しい圧迫の時代があった。しかし彼は、それに屈することなく、言論人としての主義主張を貫いていった。
 伸一は、その苦境を突き破ったバネは何かを尋ねた。ゴエンカ会長は胸を張った。
 「人びとに対する義務です! 新聞は私個人に属するのではなく、人びとのためにあります。私は、単に人びとの委託、信任を受けた、いわば代理人です。ゆえに、人びとに応えるために、私は支配者に屈服、服従することはできませんでした」
 言論人の使命は、民衆の声を汲み上げ、その見えざる心に応え、戦うことにある。
 精神の自由を?奪しようとする権力は、まず表現・言論の自由を奪おうとする。それを手放すことは、人間の魂を捨てることだ。
 また、人生の処世訓を問うと、こう答えた。
 「決して破壊してはいけない。建設的であれ。これが、私の人生の主義です」
48  源流(48)
 訪印団一行の歓迎宴が一段落したころ、ゴエンカ会長はいたく恐縮した表情で、山本伸一に伝えた。
 「誠に申し訳ありませんが、孫娘の結婚披露宴にまいりますので、一足お先に失礼させていただきます」
 明日が愛する孫娘の結婚披露宴であり、夜行列車で式典会場に向かったのである。人づてに聞いた話では、インドの結婚式は盛大で、披露宴の一週間ほど前から祝いの催しが始まるという。そのなかを、披露宴前日の夜まで時間をとって歓迎してくれたのだ。
 伸一は、会長の“人間”に触れた思いがした。信義には信義で応えたいと強く思った。
 インドには、悠久の歴史がある。
 十日午後、伸一たちは、ニューデリーのジャンパット通りにあるインド国立博物館を訪問した。
 石器時代に始まり、インダス文明の都市遺跡であるハラッパーとモヘンジョダロの発掘物、マウリヤ朝のアショーカ王やクシャン朝のカニシカ王、グプタ朝などの各時代の文化遺産が展示されていた。彫刻、絵画、コイン、武具、織物、宝石、伝統芸術作品など、どれも貴重な品々である。
 館内を見学した伸一は、館長のM・R・バナルジ博士と会談した。長年、考古学の研究に携わり、多くの文化遺跡の発掘作業を行ってきた館長は、目を細めて語った。
 「発掘をしていて最も嬉しかったことは、過去にインドで鉄器が製造されていたことがわかり、インドの鉄器時代が明らかになったことです」
 発掘作業は、根気と忍耐の作業である。しかし、この作業を通して人類の歴史が一つ一つ解明されていく。
 戸田城聖は、よく「人材を発掘せよ」と語った。それもまた、家庭訪問を重ね、対話を積み重ねていく、まことに地道な忍耐の作業である。だが、人材という宝の発掘こそが、広宣流布の未来を開く黄金の光となる。
49  源流(49)
 二月十一日──恩師・戸田城聖の生誕の日である。戸田が存命ならば七十九歳になる。
 山本伸一は今、その師に代わって平和旅を続け、師が最も広宣流布を願った仏教発祥の地・インドで、紺青の空を仰いでいることに、深い感慨を覚えた。
 伸一は、“戸田先生には、長生きをしていただきたかった……”と、しみじみと思う。
 しかし、命には限りがある。“だから、先生は不二の弟子として私を残されたのだ。先生に代わって、生きて生きて生き抜いて、東洋広布を、世界広布を進めるのだ!”と、彼は、何度も自分に言い聞かせてきた。
 伸一は、弟子の道に徹し抜いてきたことへの強い自負があった。この晴れ渡る空のように、心には一点の後悔もなかった。師子の闘魂が、太陽のごとく燃え輝いていた。
 この日の朝、伸一たち訪印団一行は、ニューデリーから、空路、ビハール州の州都・パトナへと向かった。
 彼方に、白雪をいだき、光り輝くヒマラヤの峰々を眺めながらの旅であった。午前十一時過ぎ、パトナの空港に到着した一行を、パトナのR・N・シンハ行政長官をはじめ、先に来ていた「インド文化研究会」の友らが出迎えた。
 そのなかに、長身のインド人青年の姿があった。彼はメンバーで、この日の朝、地元の新聞を見て、伸一のパトナ訪問を知った。そして、自宅の庭に生えていたバラで花束を作り、空港に駆けつけてきたのである。
 青年が花束を差し出すと、伸一は、「ありがとう! 感謝します」と言って固い握手を交わし、しばらく語り合った。彼は、家族のなかで、自分だけが入会しているという。
 伸一は、同行していたインド駐在の日本人会員に面倒をみるように頼み、青年に言った。
 「最初は、すべて一人から始まります。あなたには信心に励んで、幸せになり、パトナに仏法を弘めていく使命があるんです」
 眼前の一人に魂を注いで励ます。そこから、広宣流布の道が開かれる。
50  源流(50)
 パトナは、その昔、「花の都」(パータリプトラ)と讃えられた街である。
 緑が多く、道を行くと、車に交じって、鈴の音を響かせながら闊歩する牛車の姿も見られ、のどかな風景が広がっていた。
 午後四時前、山本伸一は、ジャイプラカシ・ナラヤンの自宅を訪ねた。ナラヤンは、マハトマ・ガンジーの弟子であり、“インドの良心”として、民衆から敬愛されているインドの精神的指導者である。
 土壁の家が立ち並ぶ路地裏の入り組んだ道を車で進み、白い石造りの家に着いた。思いのほか質素な建物であった。
 ナラヤンは、銀縁のメガネの奥に柔和な眼差しを浮かべ、初対面の伸一を歓迎し、黄色い花のレイを、手ずから首にかけてくれた。
 彼の茶色のガウンからマフラーが覗いていた。体を冷やさぬよう気遣っているのであろう。既に七十六歳の高齢であり、健康が優れぬため、週に何度か病院に通い、自宅で静養していると聞いていた。それにもかかわらず、丁重に出迎え、会談の時間を取ってくれた真心に、伸一は深い感動を覚えた。
 ナラヤンは、高校時代に国民革命の理想に燃え、非暴力・不服従運動に参加する。やがてアメリカに渡り、そこで、マルクスの革命思想に傾斜していく。急進的な社会改革に心を動かされ、ガンジーの非暴力の闘争を否定し、武力革命を肯定した時代もあった。
 しかし、ガンジーの高弟・ビノバ・バーベに触発され、再び非暴力革命の道をめざすようになる。紆余曲折を経て、ガンジーの懐に帰ってきたのだ。“良心”の大地ともいうべきガンジーの思想は、ナラヤンの“良心”の樹木を蘇生させていったのである。
 ガンジー亡きあと、彼は、師の思想を受け継ぎ、すべての階層の人びとの向上をめざす「サルボダヤ運動」を展開していった。
 どんなに豊かそうに見えても、その陰で虐げられ、飢え、苦しむ人のいる社会の繁栄は虚構にすぎない。皆が等しく幸せを享受してこそ、本当の繁栄といえよう。
51  源流(51)
 山本伸一は、「人類の平和のために、ナラヤン先生の思想をお聞きし、世界に紹介したいと思ってやってまいりました」と会見の趣旨を伝えた。
 「私の思想など、決してそのような大それたものではありません。私が信じているのは永遠にわたる真理を説いた釈尊の思想です」この言葉には、インドに脈打つ精神の源流とは何かが、明確に示されていた。
 ナラヤンは、彼が師と仰ぐマハトマ・ガンジーとは「亡くなった妻を通して知り合いました」と言う。
 「この建物は、その妻が建てたもので、ここを使って、女性が社会福祉のために貢献できるように教育を行っております。また、子どもの育成のために、幼稚園としても使っています。できる限り、妻の遺志を継ぐように努力しているんです」
 会談場所を仕切るカーテンも粗末なものであった。まさに可能な限り、すべてを民衆に、社会に捧げているのだ。
 信念が本物かどうかは、身近なところに、私生活にこそ、如実に表れるものだ。
 彼は、何度となく獄中生活を過ごしている。伸一は、今日が自分の恩師である戸田城聖の誕生日にあたることを伝え、創価学会の初代会長・牧口常三郎は軍部政府の弾圧によって獄死し、第二代会長の戸田も、二年間、投獄されたことを述べた。そしてナラヤンに、獄中で得たものは何かを尋ねた。
 彼は、じっと伸一を見詰め、口を開いた。
 「私は、あなたが、そういう目に遭わないことを望みます」
 「ありがたいお言葉です。私も短期間でしたが、無実の罪で投獄されました」
 氏は頷き、机の上に置いてあった本を手にした。本のタイトルは『獄中記』。氏が獄中体験を綴った手記だ。初版は秘密出版され、後に日の目を見た本である。そこに署名し、インド人の著名なジャーナリストが書いたという自身の伝記とともに伸一に贈った。そのなかに質問の回答があるのであろう。
52  源流(52)
 ナラヤンは、静かな口調で山本伸一に語り始めた。
 「獄中では独房に入れられ、拷問に近い責めを受けたこともあります。家族とも会えず、手紙のやりとりも許されない。手紙は外の世界とのコミュニケーションの手段として重要なのに、それが許されないのは辛かった」
 その苦境が鋼のような不屈の意志を鍛え上げたのだ。日蓮大聖人は「くろがねは炎打てば剣となる」と仰せである。
 老闘士は、こまやかな気配りの人であった。途中、何度も菓子を勧める。
 「インドのお菓子です。わが家の手製です。召し上がってください。甘いですよ」
 伸一が礼を述べて、語らいを続けようとすると、ナラヤンは、「あなたは、先ほどから、全然、召し上がっていませんよ」と“抗議”する。「いや、今はお話が大事なので。探究、学習の最中ですから」と応えると、“不屈の人”のにこやかな微笑が伸一を包んだ。
 強い心の人だから、人に優しくできる。
 伸一は、信条について尋ねた。
 「時代のなかで変わっていきましたが、今は、ガンジーの思想が私の信条です。それは釈尊の教えにも通じます。その思想とは、ズボンは膝までの半ズボンで、上は何も着ない、半裸のガンジーの姿に象徴されるように、“裸の思想”ともいうべきものです」
 “裸の思想”──その意味するところは深いと伸一は思った。イデオロギーで武装し、人間を締めつける甲冑のような思想ではない。人間の現実を離れた観念の理論の衣でもない。ありのままの人間を見すえ、現実の貧しさ、不幸から、いかにして民衆を解放するかに悩みながら、民衆と共に歩み、同苦するなかで培われた思想といえよう。
 その思想の眼から、ナラヤンは、インド社会が直面する主要な問題は「カースト制度」の弊害であると指摘する。そして人間と人間を生まれで差別し、疎外し合うこの制度が、仏陀の国に、いまだ根強く残っているのは悲しいことであると、憂えの色をにじませた。
53  源流(53)
 ナラヤンは、すべての階層の人びとの向上をめざして運動を展開し、社会、経済、政治、文化、思想等の総体革命(トータル・レボリューション)を主張してきた。山本伸一も、総体革命を提唱・推進してきた者として、その革命の機軸はどこに定めるべきかを訴えた。
 「私は、結局は一人ひとりの人間革命がその基本になり、そこから教育・文化など、各分野への発展、変革へと広がっていくと思っています。いかなる社会にせよ、それをつくり上げてきたのは人間です。つまり一切の根源となる人間の革命を機軸にしてこそ、総体革命もあるのではないでしょうか」
 「全く同感です!」と力強い声が響いた。
 二人は、死刑制度の是非などについて論じ合い、多くの点で意見の一致をみた。
 対談を終えた伸一は、夕刻、ガンジス川のほとりに立った。インド初訪問以来、十八年ぶりである。対岸は遥か遠くかすみ、日没前の天空に、既に丸い月天子が白く輝いていた。空は刻一刻と闇に覆われ、月は金色に変わり、川面に光の帯を広げていく。
 伸一は、戸田城聖の生誕の日に、恩師が広布旅を夢見たインドの、ガンジス河畔に立っていることが不思議な気がした。戸田と並んで月を仰いでいるように感じられた。また、広宣流布の険路をひたすら歩み続けた一つの到達点に、今、立ったようにも思えるのだ。
 戸田の後を継いで第三代会長に就任してからの十九年、さまざまな事態に遭遇してきた。いかにして難局を乗り越え、新しい創価の大道を開くか、悩みに悩み、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。疲労困憊し、身を起こしていることさえ辛いこともあった。そんな時も、いつも戸田は彼の心にいた。そして、厳愛の叱咤を響かせた。
 “大難は怒濤のごとく押し寄せてくる。それが広宣流布の道だ。恐れるな。戸田の弟子ではないか! 地涌の菩薩ではないか! おまえが広布の旗を掲げずして誰が掲げるのか! 立て! 師子ならば立て! 人間勝利の歴史を、広布の大ドラマを創るのだ!”
54  源流(54)
 ガンジスの河畔には、点々と炎が上がり、その周囲に幾人もの人影が見える。故人を荼毘に付しているのだ。
 灰となって“聖なるガンジス”に還る──永遠なる別離の厳粛な儀式である。
 生と死と──永劫に生死流転する無常なる生命。しかし、その深奥に常住不変の大法を覚知した一人の聖者がいた。釈尊である。菩提樹の下、暁の明星がきらめくなか、生命の真理を開悟した彼は、苦悩する民衆の救済に決然と立ち上がった。
 その胸中の泉からほとばしる清冽なる智水は、仏法の源流となってインドの大地を潤していった。釈尊の教えは、月光のごとく心の暗夜を照らして東南アジア各地へと広がり、北は中央アジアからシルクロードを通って、中国、韓・朝鮮半島を経て日本へと達した。
 彼の教えの精髄は法華経として示されるが、末法の五濁の闇に釈尊の仏法が滅せんとする時、日本に日蓮大聖人が出現。法華経に説かれた、宇宙と生命に内在する根本の法こそ、南無妙法蓮華経であることを明らかにされた。そして、その大法を、御本仏の大生命を、末法の一切衆生のために、御本尊として御図顕されたのである。
 「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし
 また、「ここに日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹りゅうじゅ天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」と。
 大聖人は、濁世末法にあって、地涌の菩薩の先駆けとして、ただ一人、妙法流布の戦いを起こされ、世界広宣流布を末弟に託されている。以来七百年、創価学会が出現し、広布の大法戦が始まったのである。
 それは、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せのように、現代における地涌の菩薩の出現であった。
55  源流(55)
 日蓮大聖人は、「観心本尊抄」において、地涌の菩薩は、「末法の初に出で給わざる可きか」と明言され、その出現の具体的な様相について、「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し」と述べられている。
 地涌の菩薩が末法において「折伏」を行ずる時には、「賢王」すなわち在家の賢明なる指導者となって、荒れ狂う激動の社会に出現するのだ。
 「愚王を誡責」するとは、社会に君臨し、民衆を不幸にしている権威、権力の誤りを正していくことである。主権在民の今日では、各界の指導者をはじめ、全民衆の胸中に正法を打ち立て、仏法の生命尊厳の哲理、慈悲の精神を根底にした社会の改革、建設に取り組むことを意味していよう。
 つまり、立正安国の実現である。弘教という広宣流布の活動は、立正安国をもって完結する。個人の内面の変革に始まり、現実の苦悩から人びとを解放し、幸福社会を築き上げていくことに折伏の目的もある。
 しかし、それは困難極まりない労作業といえよう。山本伸一は、末法の仏法流布を実現しゆく創価学会の重大な使命を、深く、強く、自覚していた。
 初代会長・牧口常三郎は、軍部政府が国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行していくなかで、その誤りを破折し、神札を祭ることを敢然と拒否して逮捕された。取り調べの場にあっても、日蓮仏法の正義を語り説いた。
 まさに「愚王を誡責」して獄死し、殉教の生涯を閉じたのである。また、共に軍部政府と戦い、獄中闘争を展開した第二代会長・戸田城聖は、会員七十五万世帯の大折伏を敢行し、広宣流布の基盤をつくり、民衆による社会変革の運動を進め、立正安国への第一歩を踏み出したのである。
 戸田は、学会を「創価学会仏」と表現した。そこには、濁世末法に出現し、現実の社会にあって、広宣流布即立正安国の戦いを勝ち開いていく学会の尊き大使命が示されている。
56  源流(56)
 山本伸一は、ガンジスのほとりに立って空を仰いだ。既に夜の帳につつまれ、月天子は皓々と輝きを増していた。
 一陣の風が、川面に吹き渡った。
 伸一の眼に、東洋広布を願い続けた恩師・戸田城聖の顔が浮かび、月の姿と重なった。
 彼は、心で叫んでいた。
 “先生! 伸一は征きます。先生がおっしゃった、わが舞台である世界の広宣流布の大道を開き続けてまいります! 弟子の敢闘をご覧ください”
 月が微笑んだ。
 その夜、宿舎のホテルで伸一は、妻の峯子と共に、戸田の遺影に向かい、新しき広布の大闘争を誓ったのである。
 翌十二日、伸一たち訪印団一行はナーランダーの仏教遺跡をめざした。パトナから車で二時間余りをかけ、この壮大な遺跡に立ったのは、午後二時過ぎであった。
 鮮やかな芝生の緑の中に、歴史の堆積されたレンガ造りの遺跡が続いていた。回廊が延び、階段があり、水をたたえた井戸がある。学僧が居住し、学んだ僧房が並ぶ。
 紀元五世紀、グプタ朝の時代にクマーラグプタ一世によって僧院として創建され、次々に増築拡大されていったという。そして、ハルシャ朝、パーラ朝と、十二世紀末まで七百年の長きにわたって繁栄を続け、仏教研学の大学となってきたのだ。
 案内者の話では、ナーランダーの「ナーラン」は知識の象徴である「蓮」を、「ダー」は「授ける」を意味するという。
 ここには、インドのみならず、アジアの各地から学僧が訪れ、最盛時には一万人の学僧と千人もの教授がいて、仏法の研鑽が行われていた。計算上では教授一人に対して学僧は十人となり、小人数での授業が行われていたことが推察できる。
 師弟間の対話を通して、一人ひとりと魂の触発を図る――そこにこそ、人間教育の原点がある。また、それによって、仏法の法理は世界に広がっていったのだ。
57  源流(57)
 ナーランダー遺跡の案内者が説明した。
 「僧院では、入学一年目の学僧は、個室をもち、寝具、机が与えられます。しかし、研学が進むにつれて共同での使用となり、卒業時には、真理にのみ生きる人間として巣立っていったといいます」
 つまり、精神の鍛錬がなされ、モノなどに惑わされることなく、一心に法を求め抜く人格が確立されていったということである。
 人格の錬磨がなされなければ、いかに知識を身につけても、真に教育を受けたとはいえない。
 戸田城聖は、創価学会を「校舎なき総合大学」と表現した。仏法の法理を学び、人間の道を探究する学会の組織は、幸福と平和を創造する民衆大学といえよう。山本伸一は、この「校舎なき総合大学」は、人間教育の園として、時とともに、ますます大きな輝きを放っていくにちがいないと確信していた。
 ナーランダーの仏教遺跡を見学した一行は、パトナへの帰途、休憩所に立ち寄った。腕時計を見ると、午後五時半である。
 口ヒゲをはやした休憩所の主が、どこから来たのかと尋ねた。年は四十前後だろうか。
 伸一が、日本からであると伝えると、主は両手を広げて驚きの仕草をした。
 「それなら、ぜひ、わが家に寄っていってください。この目の前です」
 「ご厚意はありがたいのですが、夕食の時間も迫っているので、ご家族の皆さんにご迷惑をかけてしまいます」
 「いいえ、家族も大歓迎します。インドでは、お客さんと教師と母親は神様といわれているんです。ですから、こうして歓迎することは、神様を敬うことにつながるんです」
 バジパイ外相を訪ねた折にも、聞かされた話である。こうした考え方がなければ、初対面の人を自宅に招いたりはしないだろうし、あえて関わろうとはしないにちがいない。
 伸一は、宗教が人びとの精神、生活に、深く根付いていることを実感した。宗教をもつことは、生き方の哲学をもつことである。
58  源流(58)
 休憩所の主に請われて、山本伸一たちは、好意に甘え、自宅に伺うことにした。
 家は石造りであった。主は、庭を案内し、井戸の使い方も丹念に説明してくれた。
 中庭で懇談が始まった。一行が最初に紹介されたのは主の母であった。インドの家庭では、年長者への尊敬心が厚いようだ。
 家族総出で、紅茶と菓子を振る舞ってくれた。一行のために、今、木の実の料理も作っているという。
 伸一は、ぶしつけなお願いとは思ったが、その様子を見せてほしいと頼んだ。人びとの暮らしを知っておきたかったのである。快く台所に案内してくれた。
 二人の娘が、土間の片隅にしゃがみ込んで、七輪のようなコンロで、ミルクや湯を沸かしたり、木の実を炒めたりしていた。
 水道も、ガスも、立派な調理台もあるわけではない。しかし、土間にはきれいに水が打たれ、清潔な感じがした。
 出された菓子は、すべて自家製である。また、クッションなどのカバーや子どもの服など、多くが手作りであった。モノは、決して豊富とはいえないが、一つ一つの品に愛着があふれ、人間的な温かさ、心の豊かさが感じられた。日本など、先進諸国が失いつつあるものが、ここにはあった。
 紅茶をすすりながら、語らいは弾んだ。
 伸一は、「家族は何人ですか」と尋ねた。
 主は「七人、いや八人です」と言うと、にこにこして、一匹の大きな犬を抱えてきた。
 「この犬も、家族の一員ですから」
 主の表情には、“家族”であるとの思いがあふれていた。単なるペットではなく、仕事の役割も担う共同生活者なのであろう。
 三十分ほどの訪問であったが、伸一たちと家族は、すっかり打ち解けた。帰りがけに伸一が記念の品を渡すと、主は、「必ず、また来てください」と言って、何度も彼の手を握り締めた。出会いを大切にし、対話を交わすことから、心は触れ合い、人間の絆が育まれていく。国境も、民族の壁をも超えて。
59  源流(59)
 インド滞在も八日目を迎えた。パトナからカルカッタ(後のコルカタ)へ移る十三日の午前中、山本伸一のホテルにビハール州パトナ区のG・S・グレワル長官が訪ねてきた。ターバンとヒゲがよく似合う長官は、区の裁判所長官でもある。
 「表敬訪問させていただきました。本来ならば、皆さんを、いろいろな場所にご案内したかったのですが、公務繁多のために実行できず、申し訳ありません……」
 一行のパトナ来訪を心から喜び、丁重に謝意まで表する長官の誠意に彼は恐縮した。
 伸一は、このインド訪問で友好と平和のための有意義な交流が図れたことを伝えるとともに、「すばらしいパトナの様子と黄金の思い出を日本に紹介していきたい」と語った。
 会見を終えた伸一は、パトナ博物館を見学。午後三時前、空路、インド最後の訪問地となるカルカッタへ向かったのである。
 翌十四日午前、彼は、カルカッタを擁する西ベンガル州のトリブバン・ナラヤン・シン知事の公邸を表敬訪問した。
 知事は、この機会を待ちわびていたかのように、あいさつも早々に、こう切り出した。
 「ぜひ会長に伺いたい。世界の平和と友好を実現していくための方法について、具体的な考えをお聞かせいただきたいのです」
 抽象的な話や単なる言葉ではなく、平和のために実際に何をしたのか、何をするのかを、問いたかったのであろう。
 伸一は、具体的な取り組みとして、「核兵器の廃絶」「軍縮の推進」「文化交流」「教育交流」「民衆間の交流」などを示した。そして、項目ごとに、これまでに行ってきたことと、その意義と広がりを説明した。
 「つまり私どもは、現実に行動できる身近なことから着手してきました。小さな一滴であっても、やがては大河となり、大海に通じます。千里の道も一歩からです。まず踏み出すことです。動かなければ何も進みません」
 希望の未来は、待っていては来ない。自らが勇気をもって歩みを開始することだ。
60  源流(60)
 山本伸一は、さらに話を続けた。
 「私たちが展開している平和運動は、人間の心のなかに“平和の砦”を築くことを基調としており、その歩みはカタツムリのような速度かもしれない。しかし、粘り強く行動し続けてきました。波が岩に突進する。岩は微動だにしない。だが、何十年、何百年とたてば、岩は姿を変えていきます。それが、民衆による非暴力の革命ではないでしょうか。それが、創価学会の平和運動なんです」
 シン知事は、釈尊有縁の地・ベナレスの生まれである。仏教への造詣は深い。新聞の編集者を経て下院議員となり、工業大臣、鉄鋼鉱山大臣等を歴任し、一九七七年(昭和五十二年)から西ベンガル州の知事を務めている。七十四歳と高齢であったが、その言葉には活力があふれていた。
 西ベンガル州は、人口約四千六百万人(当時)で、インドで最も多くの人が住む都市カルカッタを含む大きな州である。貧しい人も少なくない。雇用や食糧問題、貧困による犯罪など、課題も山積している。
 シン知事は、その現実の荒海のなかで、ベンガルの人びとの暮らしと命を守るために、苦悩し、格闘していた。それだけに、観念的な、うたい文句だけの「平和」主義には、懐疑的であったのであろう。そして、生活者を組織し、現実の大地に根を張りながら、仏法を基調に平和運動を展開する創価学会に大きな関心を寄せていたようだ。
 知事公邸は、英国統治時代にカルカッタがインドの首都であった時の総督の官邸である。部屋の壁には、上半身裸のガンジーの写真が飾られている。知事は、ガンジーと共に戦ったことを大きな誇りとしていた。
 話が平和運動の根底となる理念に移ると、知事は、自身の信念を力強く語った。
 「私が信じていることは、“人類は一つ”であるということであり、それこそが、このインドで釈尊が説いた教えの本質です」
 万人が「仏」の生命を具えていると説く仏法の法理は、人類統合の基である。
61  源流(61)
 シン知事は、残念そうに語っていった。
 「本来、一つであるべき人類が、国家や民族、身分など、さまざまな壁によって分断されています。本当に崩れない平和を築いていくのなら、人間が創ってしまった人と人とを隔てる壁を壊すことです」
 「そうです。おっしゃる通りです!」
 山本伸一は、思わず身を乗り出していた。そして、「インドの繁栄と平和のために献身されてきて、いちばん悲しかったことはなんでしょうか」と知事に尋ねた。
 「イギリスの支配が終わって、インドが独立してわずか数年で、多くの人びとが、釈尊やガンジーなど、偉大なインドの思想家の教えや宗教を忘れてしまったことです。とりわけ宗教は人類にとって極めて重要であり、人類史に誇るインドの大きな遺産でした。しかし世界も、精神の国であるインドも、それを忘れ去って、物質文明化してしまった。
 これは、人類の歴史のうえでも、インドの精神文明のうえでも、最も悲しいことです」
 精神を支える宗教性を失う時、人は欲望の従者となり、獣性の暴走を招いていく。
 知事は、言葉をついだ。
 「ガンジーは、私に教えてくれました。
 第一に、『政治に宗教が必要である』ということです」
 政治には慈悲などの理念がなければならない。また、政治は権力を伴うゆえに、政治に携わる人間は自身の心を制御する術を磨かねばならぬ。ゆえに宗教性が不可欠となる。
 「第二に、『人びとのなかに入っていけ!』『人びとに近づけ!』という実践規範を示してくれました」
 民衆から離れて政治はない。民衆との粘り強い対話こそが、時代を変える力となる。
 「第三に、『謙虚であれ』ということです」
 謙虚か傲慢か──この一念の姿勢が、人生の成否、幸・不幸を決する。傲慢は、自身の欲望、邪心を解放し、人の道を誤らせる。仏法とは、傲慢を砕く自己制御の力である。
 精神の共鳴し合う思い出の対話となった。
62  源流(62)
 山本伸一が今回のインド訪問で会談したインドの指導者は、マハトマ・ガンジーの思想、精神を継承し、大インドを担っていた。
 ガンジーは凶弾に倒れたが、その同志であり、また弟子である彼らは、等しく心にガンジーをいだいていた。この精神の水脈がインドの大地を潤す限り、この国は精神の大国であり続けるにちがいないと、伸一は思った。
 シン知事の笑顔に送られ、知事公邸を後にした伸一の一行は、ビクトリア記念堂を見学した。インド皇帝を兼務していたイギリスのビクトリア女王を記念し、二十世紀の初めに造営された、白大理石の美しい建物である。
 館内の見学を終えて外に出ると、小学四、五年生くらいの子どもが教師に引率されて見学に来ていた。ここでも子どもたちが伸一の周りに集まり、語らいの花が咲いた。
 そこから一行が車で向かったのは、シン知事が総長を務めるラビンドラ・バラティ大学であった。図書贈呈のためである。同大学は詩聖タゴールの生家の敷地に建つ、彼の思想、精神を継承する教育の城である。
 タゴールは、詩歌をはじめ、小説や戯曲、音楽、絵画などにも類いまれな才能を発揮した芸術家であり、思想家、教育者である。
 アジア人初のノーベル文学賞の栄誉にも輝いている偉大なベンガル人であり、東洋と西洋の融合を求めた「世界市民」でもあった。
 彼は、圧政にあえぐインドの民の声なき声を汲み上げ、人間性の勝利と平和を詠い続けた。四十代で愛する妻を、さらに子どもたちを亡くすが、悲哀の涙の乾かぬなかで、イギリスによる故郷ベンガルの分割に対する反対運動に挺身し、苦難の嵐の中を突き進む。
 悲哀なき人生はない。それを乗り越えて歓喜をつかむことが、生きるということなのだ──これが詩聖の魂の叫びであろう。
 彼の詩は、万人の生命を包み、励ます。
 インド国歌がタゴールの作詞・作曲であることは有名だが、パキスタンから分離独立したバングラデシュの国歌「我が黄金のベンガルよ」も、彼が作詞・作曲した歌である。
63  源流(63)
 ガンジーを「マハトマ」(偉大なる魂)と呼んだのはタゴールである。そして、ガンジーはタゴールを「グルデブ」(神聖な師匠)と呼んだ。二人は、意見が異なることもあったが、平和、非暴力、真理の探究という信念によって結ばれた「真の友」であった。
 ここに近代インドの夜明けを開いた精神の光源があるといえよう。
 午後三時半、ラビンドラ・バラティ大学に到着した山本伸一を、プラトゥール・チャンドラ・グプタ副総長の柔和な微笑が出迎えた。
 大学の構内には、レンガ造りの風格ある瀟洒なタゴールの生家も現存し、文化と芸術の芳香を放っていた。
 図書贈呈式には、多数の教職員、学生が参加した。グプタ副総長があいさつに立ち、少し高い声で流れるように語り始めた。
 「タゴールは、一九一六年(大正五年)に日本を訪れた時、短い期間でしたが、日本文化に深い感銘を受けたようです」
 副総長は、タゴールは日本の絵画に触れ、「私たちの新しきベンガルの絵画法にもう少し力と勇気と高邁さが必要であるということを私は繰り返し思ったのだ」(「書簡集」『タゴール著作集11』所収、我妻和男訳、第三文明社)と手紙に記していることを紹介した。
 交流は、魂を触発し、眼を開かせる。異文化との交わりのなかにこそ発展がある。
 そして、こう述べて話を結んだ。
 「タゴールへの日本文化の影響は、近代における日印文化交流の第一歩と意義づけられるのではないかと思います。歴史を見ても、政治的な連帯は決して長続きしません。しかし、文化の連帯には永続性があります」
 文化は、人間の精神を触発し、心を結び合う。ゆえに学会は、文化の大道を開き進む。
 そのあと、“ウットリオ”と呼ばれるストールに似た細長い華麗な布が、大学関係者から訪印団の首にかけられた。これは、タゴールによって始められたとされる、最高の賓客を迎える際の儀式であるという。
 また、タゴールの肖像写真や直筆の詩の写真など、真心の記念品も一行に贈られた。
64  源流(64)
 グプタ副総長のあいさつを受けて、山本伸一は、今回のささやかな図書贈呈を起点に、滔々たる大河のごとき教育・学術交流の流れを開いていきたいとの決意を述べた。そして、寄贈図書の一部と百冊の贈書目録、記念品を副総長に手渡した。
 このあと、講堂で、一行を歓迎する民族舞踊などの公演が行われた。学生と教員が一体となって準備にあたったものだ。
 ──自然を祝福するタゴールの詩が流れる。彼が創作した優雅な「タゴールダンス」や古典楽器シタールの演奏もあった。勇敢なる狩人の劇では、宇宙に内在する悪との激闘を表現するかのように、力強く青年が踊る……。
 タゴールの詩は、インド民衆の魂の芸術的表出でもあった。人びとの喜怒哀楽の声は彼の知性の光を得て、普遍的な芸術へと昇華し、“永遠なるもの”と融合していく。詩聖の、苦悩する一人の人間への徹した愛は、ベンガルへの、全インドへの、さらに全人類への愛の光となって世界を照らした。
 この舞台は、時に笑いもあり、涙もある、偉大なる“文化の巨人”の後を継ぐ大学にふさわしい、美事な総合芸術であった。熱演に温かい眼差しを注ぐ副総長、老教授たちの姿が、ほのぼのとした人間愛を感じさせた。
 伸一は、感動の余韻さめやらぬなか、教員、学生らに深謝し、黄金の夕日に包まれたラビンドラ・バラティ大学に別れを告げた。
 創価大学の創立者でもある伸一のこの訪問によって、創価大学と同大学との交流の道が開かれることになる。伸一は、友好の苗木を丹念に、大切に、根気強く育てていった。
 訪問から四半世紀後の二〇〇四年(平成十六年)二月、同大学から伸一に、名誉文学博士号が贈られるのである。
 また、この授与のために来日したバラティ・ムカジー副総長とは、その後、対談集『新たな地球文明の詩を──タゴールと世界市民を語る』を出版している。
 たゆむことなき一歩一歩の交流の蓄積が、信頼と友情の花を咲かせる。
65  源流(65)
 「さあ、今日も道を開こう! 友好の橋を架けよう!」
 二月十五日、こう言って山本伸一は、宿舎のホテルからカルカッタ郊外のナレンドラプールにある全寮制の学園ラマクリシュナ・ミッションへ向かった。小学生から大学生まで一貫教育を行う、男子だけの学校である。
 校内には、豊かな緑に囲まれるようにして、校舎、グラウンド、各種農場、養鶏場、技能訓練所、寄宿舎などがあった。案内してくれた人の話では、知識だけでなく、実用的な技術の習得も取り入れ、“調和”のとれた人間教育をめざしているという。
 一行は、キャンパスを視察したあと、小学部の授業を参観した。一クラス二十五人で、ベンガル語の授業が行われていた。
 伸一は、教師に「少し、児童の皆さんのお話を聞かせていただいてよろしいですか」と許可を求め、教室中央の空いている席に座って語り合った。
 「将来、何になりたいですか」と尋ねると、目を輝かせて、医師や教師になりたいと答える。その言葉には、人のため、社会のために生きたいという純粋な思いがあふれている。
 エゴの殻を破り、人びとの力になろうとの自覚と使命感を育むことに、人間教育の重要な眼目がある。
 伸一は、子どもたちに言った。
 「未来は、皆さんの腕の中にあります。よく学び、体を鍛え、インドを担う立派な人になってください」
 引き続いて会議室で行われた教員、児童・生徒との懇談に臨んだ。その席で彼は語った。
 「私どもの初代会長・牧口常三郎先生は、教育者でした。学校が実生活から遊離し、学習に偏重していることを憂慮し、今から七十年以上も前に、改革案として『半日学校制度』を提唱しています。それは、貴学園のめざすものと、軌を一にするものです」
 教師たちは、その先見性に驚嘆の表情を浮かべた。創価教育は世界という舞台でこそ、真価が明らかになっていくにちがいない。
66  源流(66)
 ラマクリシュナ・ミッション学園を視察した山本伸一たちは、視覚に障がいがある人を支援する付属の学校も訪問した。自身も目が不自由な校長が、柔和な笑みを浮かべ、伸一と握手を交わし、実技訓練所へ案内してくれた。生徒たちは、手探りでボルトとナットの組み立て作業などに励んでいた。
 伸一は、その様子を見ながら、生徒に語りかけた。
 「こうして挑戦していること自体、すごいことなんです。皆さんが技術を習得し、社会で活躍できるようになれば、目の不自由な多くの人に希望の光を送ることになります」
 見学を終えると、校長、教員と共に、生徒の代表が見送りに出てきた。伸一は、その生徒の一人を抱きかかえながら言った。
 「不自由な目で生き抜いていくことは、人一倍、努力も必要であり、苦労も多いことでしょう。しかし、だからこそ、その人生は最も崇高なんです。誇りをもって、さらに、さらに、偉大なわが人生を進んでください。
 人間は、皆、平等です。実は、誰もが、さまざまな試練や困難と戦っています。そのなかで、自分自身でどう希望をつくり、雄々しく生き抜いていくかです。これをやり抜いた人が真実の人生の勝利者なんです」
 生徒は、伸一に顔を向け、通訳が伝える言葉に頷きながら、耳を澄ましていた。
 「負けてはいけません。断じて勝ってください。勝つんですよ。人は、自分の心に敗れることで、不幸になってしまう。私は、あなたたちの勝利を祈っています」
 彼は、なんとしても、生徒たちの心に赤々とした勇気の火をともしたかったのである。
 さらに、校長の手を固く握り締めながら、力を込めて訴えた。
 「この方々は、世界の宝です。インドの希望の星となります。人生の勝利の栄冠を頂く人に育み、世に送り出してください」
 「どうか、また来てください!」
 こう言って盛んに手を振る生徒たちの目には、涙があふれていた。
67  源流(67)
 十五日の午後三時半、訪印団一行は、カルカッタにあるインド博物館を訪問した。
 館内では、紀元前三世紀、マウリヤ朝のアショーカ王によって建立された石柱頭である四頭獅子像が目を引いた。
 獅子像の台座の部分には、車輪のかたちをした模様が描かれている。これは「法輪」といい、釈尊の説いた教え、すなわち教法が、悪を砕き、人から人へと次々に伝わることを意味している。それを、自ら前進して外敵を破り四方を制するという転輪聖王の輪宝に譬え、図案化したものである。仏教の真理と正義に基づいて世を治めるアショーカを象徴しており、後に「法輪」はインドの国旗に用いられることになる。
 展示は、先史文明から始まり、インドの豊かな諸文明を、壮大な規模で紹介していた。
 見学のあと一行は、同博物館の事務所へ案内された。一般には非公開の紀元前四世紀ごろの仏舎利の壺を、特別に見せてもらった。仏舎利が入っていることを表す古代インドの文字が刻まれた唯一の壺であるという。
 博物館の展示品を鑑賞した山本伸一は、仏教盛衰の歴史を思った。
 “釈尊の説いた永遠なる生命の法は、アショーカ王の治世に安らかな月光を投げかけ、慈悲を根底とした社会の園を開いた。しかし、時は過ぎ、末法濁世の暗雲に月は没した。
 その時、日本に日蓮仏法の太陽出でて、末法の闇を払う黎明の光を放った。そして今、創価の同志の奮闘によって、「七つの鐘」は高らかに鳴り渡り、東天に日輪は赫々と躍り出たのだ。世界広宣流布の新生の朝だ! 立正安国を世界に実現し、人類のあらゆる危機を乗り越え、恒久の平和と繁栄の道を築く仏法新時代が到来したのだ!”
 伸一は、その出発のために、さらに世界各地に新しき広布の源流を開かねばならぬと決意していた。今回の訪問では、仏教発祥の地であるインドに一筋の流れをつくることができた。その宝の一滴一滴を大切にし、全力で守り抜こうと、彼は深く心に誓っていた。
68  源流(68)
 インドを出発する十六日、山本伸一はカルカッタから日本へ電報を打った。離島の沖縄県・久米島や長崎県・五島列島、愛媛県・中島、広島県・厳島をはじめ、各地で苦闘し、広布の道を切り開いてきた同志に対してである。
 「アジアの広布の道は開かれた。島の皆さまによろしく。カルカッタ。山本伸一」
 広宣流布の舞台は、世界に広がった。しかし、それは、地球のどこかに、広布の理想郷を追い求めることではない。皆が、わが町、わが村、わが島、わが集落で、地道に仏法対話を重ね、信頼を広げ、広布を拡大していってこその世界広宣流布なのである。
 日々、人びとの幸せと地域の繁栄を願い、激励に、弘教に、黙々と奮闘している人こそが、世界広布の先駆者である。伸一は、そうした同志を心から励ましたかったのだ。
 この日午後四時、訪印団一行は帰国の途に就くため、ICCRの関係者らに見送られ、カルカッタの空港を発ち、香港へ向かった。
 飛び立った搭乗機から外を見ると、ガンジスの支流が悠揚と緑の大地を潤しながら、ベンガル湾に注いでいた。
 一滴一滴の水が集まり、源流となってほとばしり、それが悠久の大河を創る。
 伸一は、インドの同志が、新しい世界広宣流布の大源流となっていくことを祈り、懸命に心で題目を送り続けた。
 その後、インド創価学会(BSG)は、一九八六年(昭和六十一年)に法人登録された。八九年(平成元年)にはインド文化会館がオープン。九三年(同五年)には創価菩提樹園が開園し、仏法西還の深い意義をとどめた。
 伸一も、九二年(同四年)と九七年(同九年)にインドを訪問し、激励を重ねた。
 そのなかでメンバーは、一貫して、発展の盤石な礎を築くことに力を注いできた。一人ひとりが信心の勇者となり、社会の信頼の柱になるとともに、模範の人間共和の組織をつくりながら、二十一世紀をめざしていった。
 堅固な基盤の建設なくしては、永遠なる創価の大城を築くことはできないからだ。
69  源流(69)
 インド創価学会が念願のメンバー一万人に達し、盤石な広布の礎を築き上げたのは、二十一世紀の新しい行進を開始した二〇〇二年(平成十四年)八月のことであった。以来、破竹の勢いで広宣流布は進み始めた。十二年後の一四年(同二十六年)三月には、メンバーは七倍の七万人を突破したのである。
 広宣流布をわが使命とし、自ら弘教に取り組んできた同志の胸中には、汲めども尽きぬ喜びがあふれ、生命は躍動し、師子の闘魂が燃え盛っていた。全インドのどの地区にも、歓喜の大波がうねり、功徳の体験が万朶と咲き薫った。
 それは、さらに新たな広布への挑戦の始まりであった。メンバー十万人の達成を掲げ、怒濤の大前進を開始したのだ。弘教は弘教を広げ、歓喜は歓喜を呼び、翌一五年(同二十七年)の八月一日、見事に十万の地涌の菩薩が仏教発祥の国に誕生したのである。地涌の大行進はとどまるところを知らなかった。三カ月半後、創価学会創立八十五周年の記念日である十一月十八日には、十一万千百十一人という金字塔を打ち立てたのだ。
 そして、十万人達成から一年後の今年八月一日、なんと十五万人の陣列が整う。しかも、その約半数が、次代のリーダーたる青年部と未来部である。
 この八月、代表二百人が日本を訪れ、信濃町の広宣流布大誓堂に集った。世界広布を誓願する唱題の声が高らかに響いた。インドの地から、世界広布新時代の大源流が、凱歌を轟かせながら、ほとばしり流れたのだ。
 いや、アジアの各地で、アフリカで、北米、南米で、ヨーロッパで、オセアニアで、新しき源流が生まれ、躍動のしぶきをあげて谷を削り、一瀉千里に走り始めた。われら創価の同志は、日蓮大聖人が仰せの「地涌の義」を証明したのだ。
 流れの彼方、世界広布の大河は広がり、枯渇した人類の大地は幸の花薫る平和の沃野となり、民衆の歓喜の交響楽は天に舞い、友情のスクラムは揺れる。

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