Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第29巻 「清新」 清新

小説「新・人間革命」

前後
1  清新(1)
 前進の活力は、希望から生まれる。
 希望の虹は、歓喜ある心に広がる。
 山本伸一は、学会が「人材育成の年」と定めた一九七九年(昭和五十四年) 元日付の「聖教新聞」に、「希望の暁鐘」と題する一文を寄稿した。
 「御書にいわく『所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』と。またいわく『歓喜とは善悪共に歓喜なり』。またいわく『歓喜踊躍』と。
 すなわち、苦しみや悲しみさえ、希望と喜びに変えゆくのが、仏法の偉大な功力なのであります。苦楽は所詮一如であり、むしろ苦難の中にこそ希望と歓喜を見いだしていける人が、厳たる人生の勝利者なのであります」
 この一九七九年は、いよいよ「七つの鐘」の総仕上げの年となる。学会は一九三〇年(同五年)の創立を起点に、七年ごとに前進の節を刻んできた。以来四十九年、目標としてきた第七の鐘が鳴り終わり、さらに新しい出発を期す時が来たのだ。
 伸一は、その清新の出発にあたり、強盛なる信心の力によって、無限の「希望」と「歓喜」とを胸中にみなぎらせ、不撓不屈の大前進を開始するよう呼びかけたのである。
 元日、彼は、東京・信濃町の学会本部で行われた新年勤行会に出席した。
 そして、「七つの鐘」終了の本年を、再び広宣流布への偉大なる起点にしたいとし、力を込めて訴えた。
 「長い広宣流布の道程にあっては、幾多の苦渋の嵐を受けるのは、御書に照らして当然の理なのであります。
 しかし、私どもには信心がある。信心とは勇気であります。幾多の大偉業も、すべて、この勇気という一点から実現したことを決して忘れてはならない。
 勇気のなかに真実の信仰があり、無限の希望と成長があり、時代の変革と新世紀への前進があるのであります」
 勇気は、人間を人間たらしめる力である。勇気なくしては、正義も、勝利もない。
2  清新(2)
 この一九七九年(昭和五十四年)も、山本伸一の果敢な執筆活動はとどまることを知らなかった。
 月刊婦人雑誌の一月号では、『婦人倶楽部』(講談社)に「私が出会った素晴らしき女性たち」を、『婦人生活』(婦人生活社)に「若い母へ贈る」を、『主婦の友』(主婦の友社)に「中国印象記」を、『主婦と生活』(主婦と生活社)に「信じ合える親子であるために」を寄稿。また、『週刊東洋経済』(東洋経済新報社)の新春特大号の「新春随想」では、「心の容量」と題して、仏法で説く人間生命の尊さについて言及していった。
 一月九日、伸一の姿は、厳冬の東北・宮城県仙台市の東北平和会館(後の青葉平和会館)にあった。
 この厳寒の季節に、彼が東北へ行くことについては、妻の峯子も、首脳幹部たちも憂慮していた。体調は決して良好とはいえなかったからだ。しかし、寒冷の地には、最も寒い季節に行かなければ、人びとの苦労も、気持ちもわからない。また、宗門の問題で辛い思いをしてきた人たちと、より早く会って、励まさなければならないと、彼は思っていた。
 広宣流布の熾烈な攻防戦においては、体を張って戦わなければならない時もある。
 新年の出発にあたり、一月五日に新人事が発表され、これまで東北総合長を務めてきた副会長の青田進が東海道総合長になった。そして、東北長であった利根角治が東北本部長に、さらに関東長を務めてきた山中暉男が東北長に就任したのである。
 九日、伸一は、東北平和会館で代表との懇親会や宮城県臨時代表幹部会に出席。
 十日には、同県の新年記念幹部会に臨んだ。
 席上、宮城県に「町村地域指導長」制の設置が決定をみた。これは、地域こそが広宣流布の本舞台であるとの認識に立ち、各町村の特色に合わせて、広布の運動を展開していくための態勢である。一人ひとりが生活の場である地域に深く根差してこそ、広宣流布の堅固な基盤をつくり上げることができる。
3  清新(3)
 山本伸一は、この一九七九年(昭和五十四年)の『大白蓮華』二月号に、「『地方の時代』と広宣流布」と題する巻頭言を書いた。
 そのなかで彼は、「国をるべし・国に随つて人の心不定なり……されば法は必ず国をかんがみて弘むべし」の御文や、「桜梅桃李」の原理を紹介し、人それぞれに個性があるように、それぞれの地方にも特色があり、東北には東北の特色があることを述べた。
 そして、法を弘めるうえでは、各地域の生活様式や文化的伝統をふまえて、押しつけではなく、生命を内より薫発していくことが肝要であると強調した。
 さらに、「『地方の時代』といっても、結局は、その地域を支えゆく一人ひとりの人間である」として、皆が主体性と愛着と誇りをもち、郷土の繁栄のために、着実な努力を重ねていくことの大切さを訴えた。
 「町村地域指導長」制は、これらをふまえて、それぞれの地域の広宣流布を推進する布陣であった。
 また伸一は、自らの決意を、次のように綴っている。
 「本年もまた、私は、日本列島の各地方をあまねくまわりたい。また、広くは世界の国々の友の激励にも走りたい」
 そして、年頭から、真っ先に東北へ飛んだのである。
 十日、東北平和会館で伸一は、宮城未来会第一期の結成式に先立ち、メンバーと記念撮影をした。
 彼は、どの地方を訪れた時も、いかに多忙を極めていようが、未来部の代表との出会いをつくり、励ますように心がけてきた。未来は、若い世代に託す以外にないからである。
 中国の英知の言葉には、次のようにある。
 「一年の計は、穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は、木を樹うるに如くは莫く、終身の計は、人を樹うるに如くは莫し」(遠藤哲夫著『新釈漢文大系第42巻 管子(上)』明治書院)
 伸一は、後継の育成に必死であった。わが生命を削り与える思いで激励にあたった。
4  清新(4)
 一月十一日、山本伸一は、岩手県の水沢の地を踏んだ。
 水沢は、北から南に北上川が流れ、江戸時代には伊達氏の家臣・留守(水沢伊達)氏の城下町として栄え、南部鉄器の生産でも知られる。また、江戸末期の蘭学者・高野長英をはじめ、東京市長などを務めた政治家・後藤新平、さらに、首相を務めた斎藤実など、何人もの著名な人びとを育んできた。
 伸一が、水沢を訪れたのは、新しい同志を励まし、新しい岩手の未来を開きたかったからである。水沢訪問は六年半ぶりであった。
 午後三時半過ぎ、彼の乗った車が水沢文化会館に到着した。この会館は、前年の十二月に完成した、鉄筋コンクリート三階建ての白亜のモダンな新法城であった。
 玄関前で、岩手県長の南勝也らが一行を迎えた。
 車を降りるなり、伸一は言った。
 「いい会館だね。いよいよ岩手の時代が来たよ。戦いを起こそうじゃない。
 南が恰幅の良い体から声を絞り出すように、「はい!」と決意を込めて答えた。
 気温は氷点下であったが、冬の東北にしては珍しく雪はなかった。
 伸一は、玄関を入り、ロビーを歩きながら県の幹部らに言った。
 「私は、昨年、日本各地を回りました。
 大阪は“新・大阪の戦い”を開始し、永遠の常勝の都を創ろうと必死だ。兵庫は“二十一世紀の不落の広布城”を築くのだと、皆が燃えに燃えている。頼もしい限りです。
 中部で会った愛知の代表も、闘志満々だった。“堅塁”の気概にあふれている。
 この関西、中部とともに大奮闘しているのが九州であり、その先駆が福岡だ。大変な勢いがある。さらに前進、勝利するだろう。
 そして、いよいよこれからは東北が広宣流布の大舞台に躍り出る時であり、その牽引力となるのが岩手です。新時代の建設は、真面目で忍耐強いといわれる岩手人によってこそ、成し遂げられる事業であると私は思う」
5  清新(5)
 山本伸一は、館内を巡りながら、岩手の県幹部に語り続けた。
 「岩手は、ますます強くなってほしい。断じて勝ってほしい。そのために何が大切か。
 まず、“自分たちは一生懸命にやってきたんだから、これ以上は無理だろう。もう、できないだろう”という、あきらめの心を打ち破っていくことです。いかに困難であるかということばかりに目がゆき、現状に甘んじて良しとしてしまう。それは、戦わずして心の魔に敗れてしまっていることになる。
 背伸びをする必要はありません。焦る必要もありません。しかし、必ず、このように広宣流布の道を切り開いていくという未来図を描き、目標を決めて、成就していくんです。
 時代は変わります。いや、変えることができるんです。最初にお題目を唱えられたのは日蓮大聖人ただお一人だったではありませんか。そこから一切が広がっていった。現代にあっても、敗戦間近の焼け野原に戸田先生が一人立たれたところから、戦後の広宣流布は始まっている。当時は、誰も、今日の学会の姿など、想像さえできなかったはずです。
 “岩手を必ず広宣流布の模範の県にしよう。断じて勝とう”と心を決めるんです。そして祈るんです。必死に祈るんです。智慧を涌現しながら、果敢に行動するんです。動いた分だけ、友情も、同志の連帯も、広宣流布も広がっていきます。そこに勝利がある。
 心を定め、祈って、動く──それを粘り強く、歓喜をもって実践する。単純なことのようだが、これが、活動にあっても、人生にあっても、勝利への不変の方程式なんです」
 皆、真剣な面持ちで話を聴いていた。
 伸一は、二階の大広間に入ると、題目を三唱し、そのまま県の幹部と懇談に入った。
 「岩手での活動の大変さは、よくわかります。県の面積としては日本一広い。交通の便もいいとはいえない。冬は長く寒い。旧習も深い。だから、その岩手が変われば、日本が変わる。“大変”ななかで“大変革”の波を起こすのが、私たちの広宣流布の戦いです」
6  清新(6)
 「今日は、岩手の大飛躍のために、ともすれば幹部が陥りがちな問題について、あえて厳しく語っておきます。
 幹部は、組織を自分のものであるかのように考え、会員の方々を部下のように思っては絶対にならないということです。
 学会の組織は、仏意仏勅の広宣流布のための組織です。“学会員は御本仏からお預かりした仏子である”と決めて仕えていこう、尽くしていこうとの思いで接することです。
 また、いよいよ『地方の時代』に入り、草創期から地域の中心となって頑張り、地域の事情や人間関係に精通した幹部の存在が、ますます大事になってきます。
 しかし、心しなければならないのは、長い間、地域のリーダーを務めていると、気づかぬうちに、そこの“主”のようになってしまうことです。
 かつて、ある地域に、草創からの幹部がおり、その人の考えや、好き嫌いの感情が、組織の運営や人事などにも、強い影響を与えていたということがありました。皆、何かあるたびに、その幹部のところへ、真っ先にあいさつに行かなければならないし、意向に従わなければ、何もできないというんです。
 それでは、平等性を欠き、新しい創造の活力が奪われてしまう。結局は、広宣流布の団体である学会の組織を崩し、前進を阻むことにもなりかねません。
 自分中心から広宣流布中心へと、常に自らを戒め、狭い境涯の殻を破っていくんです。そして、新しい中心者や後輩たちを前面に立てて、徹して守り支えていくんです。
 また、新たにリーダーとなった人たちは、地域に根差した草創からの諸先輩の意見によく耳を傾け、力を借りていくんです。
 土着の力と、新しい力が結合していくことによって、岩手は大発展します」
 詩聖タゴールは記している。
 「力がないところには繁栄がなく、力は結合以外によっては得られない」(「議長あいさつ」『タゴール著作集8』所収、蛯原徳夫訳、第三文明社)
7  清新(7)
 山本伸一は、水沢文化会館の大広間で、白蓮グループ、創価班、学生部の代表、運営役員などと次々に記念のカメラに納まった。
 この日は、美しい夕焼けとなった。
 燃えるような夕映えのなか、新年を記念する岩手県代表幹部会に出席するため、県内各地から続々とメンバーが集ってきた。
 伸一は、午後五時から二十人ほどの代表と懇親会をもち、幹部の姿勢について語った。
 「岩手は明るく、伸び伸びと進んでいくことが大事だよ。気候風土も厳しく、大変ななかで、皆、頑張っているんだもの、温かく包み込んでいくんです。また、リーダーは、同志の幸せのためには、真剣に、誠実に、全力で行動していくことです」
 それから彼は、代表幹部会に臨んだ。
 会場は求道の熱気にあふれていた。
 岩手にも、宗門による迫害の吹雪が荒れ狂い、同志たちは歯を食いしばりながら、苦渋と忍耐の日々を過ごしてきた。
 青森との県境にある二戸から駆けつけてきた、安房由光という「聖教新聞」の販売店を営む青年がいた。
 二戸では、前年十二月初めに宗門の寺院が建ち、これを契機に、学会への攻撃が激しさを増していた。
 息子が他の方面で宗門の寺の住職をしている壮年幹部が、同志を欺き、水面下で学会批判を重ね、純粋な学会員をたぶらかして、檀徒になるように促してきたのだ。
 赴任してきた住職は、この男と共謀し、学会員への陰湿な攻撃を繰り返した。衣の権威を笠に着て、真面目に広宣流布の活動に励んでいる仏子を見下し、苦しめてきたのである。
 年が明けると、伸一の岩手訪問を狙ったかのように、何人かの脱会届が出された。
 安房らは、日々、悔し涙をのみながら攻防戦を続けた。片時でも気を抜けば、大切な会員が魔の軍勢の餌食となった。
 勝利の旭日は、安堵も、瞬時の油断も許さぬ間断なき闘争を制した者の頭上にこそ、燦然と昇り輝くのだ。
8  清新(8)
 安房由光の販売店の配達員からも、宗門僧の圧力に屈して、学会を去る人が出始めた。配達員がいなくなった地域の配達は、安房自身が行わなければならない。彼は“負けるものか!”と、自分を奮い立たせた。
 一月十一日、安房は、県北の二戸から県南の水沢まで、車で三時間ほどかけて、岩手県代表幹部会に駆けつけたのである。途中、吹雪に見舞われた。“これは、広布の道を象徴しているのだ”と思うと、心は燃えた。
 午後六時、代表幹部会の会場に姿を見せた山本伸一は言った。
 「今日は、私も愛する岩手の一員です。したがって会長は別の人にやってもらいます。あなたに『一日会長』をお願いします」
 教育部の壮年を指名し、自分の胸章を彼につけた。
 勤行のあと、県幹部から、この一月十一日を「水沢の日」とすることが発表された。場内は喜びの大拍手に沸き返った。
 幹部の抱負に移ると、伸一は言った。
 「私たちは、役職や肩書に関係なく、みんな平等です。同志であり、友だちです。
 だから、登壇者も堅苦しい話はやめて、原稿は見ないで話すようにしましょう。皆、遠くから来て、疲れているんだから、楽しくね」
 戸惑ったのは、登壇者たちである。途中でしどろもどろになる人もいた。すると、会場から声援が起こり、笑いが弾けた。
 さらに、婦人部合唱団の合唱となった。
 「歌は何がいいですか。リクエストした曲を歌ってもらいましょう」
 伸一が提案すると、「荒城の月」「春が来た」など、次々に声があがった。合唱団は、慌てることなく、はつらつと歌った。 
 「では、もう一曲!」
 「『青い山脈』をお願いします!」
 練習したことのない歌だ。しかし、これも見事に歌い上げた。大きな拍手が轟いた。
 合唱団のメンバーは、何事も、心を定め、体当たりでぶつかっていく時、高い障壁も乗り越えられることを確信したのであった。
9  清新(9)
 代表幹部会は、ほのぼのとした雰囲気に包まれるなか、山本伸一の指導となった。
 彼は、地理的にも、気候的にも厳しい条件のなかで、堅忍不抜の意志をもって、広宣流布に挺身してきた岩手の同志を、心から賛嘆した。そして、「それぞれの地域にあって御本尊の功徳を受け、人間としての実力を培い、地域に根差した“広布の村長さん”になっていただきたい」と呼びかけた。
 さらに、「月月・日日につより給へ」の御文を拝して、着実な広宣流布の前進と信心の向上のために、旺盛な求道心を燃やして、同志と共に仏道修行に励んでいくことの大切さを語った。
 「人間を強くするのは人間の激励であり、触発です。励ましがあってこそ、勇気をもてる。ゆえに組織が必要なんです。
 広宣流布の前進を阻む壁が、どんなに厚かろうとも、異体同心の団結をもって、堅実な信行学の実践を積み重ね、粘り強い前進をお願いしたい。たとえ、一歩でも半歩でもよい。執念をもって、前へ、前へ、前へと進んでいってこそ、道を開くことができるんです。
 広布の道こそ、宿命転換の道です。幸福と勝利の大道です。“何があっても、負けない、挫けない、あきらめない”と心に決めて、題目第一で、私と共に進みましょう!」
 決意のこもった大拍手が鳴り響いた。
 代表幹部会は終わった。しかし、伸一にとっては激闘の開幕であった。彼は、同志への激励の句などを、次々と認めていった。
 そこに、「今、三陸のメンバーが、四時間がかりで到着しました」との報告が入った。
 車で凍てた雪道を走って北上高地を越えるのに手間取り、代表幹部会には間に合わなかったという。
 「すぐにお会いしよう!」
 「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし=法華経677㌻)──法華経の行者を敬うこの姿勢こそ、戦う同志を、求道の人を迎える、創価の永遠の精神である。
10  清新(10)
 山本伸一は、直ちに、三陸から来た数人のメンバーが待つ一階へと下りていった。
 三陸方面でも、同志は、宗門僧による過酷な仕打ちと戦い続けてきたのだ。
 「大変ななか、ようこそ、おいでくださいました。ありがとう!」
 彼は、一人ひとりと握手を交わした。
 皆、口々に「先生!」と言って、頬を紅潮させながら、伸一の手を、ぎゅっと握り締めた。その目には、涙が光っていた。
 「皆さんは、これまで、どれほど辛く、苦しい思いをしながら、懸命に戦ってこられたことか。
 誰が正義なのか。誰が正しいのか──御本尊は、すべてお見通しです。大聖人の仰せ通りに、弘教に励んでこられた皆さんが、不幸になるわけがありません。人生の大勝利者にならないわけがありません。そうでなければ、仏法は嘘になってしまう」
 「んだ! んだ!」
 皆、瞳を輝かせ、何度も頷いた。
 「私たちは、久遠の使命に結ばれた同志です。仏法兄弟です。どんなに遠く離れていても、心は一緒ですよ。まずは二十一世紀をめざして、明るく、はつらつと、共に前進しようではありませんか!」
 「はい!」と決意にあふれた声が響いた。
 メンバーの一人が、自分の家族も伸一と会いたがっていたが、代表幹部会の参加対象にはなっていないので、家で題目を唱えていることを告げた。
 「そうですか。くれぐれもよろしくお伝えください。また、私は明日もここにおりますので、可能ならば、おいでください」
 それから伸一は、同行していた副会長の青田進に言った。
 「明日、自由勤行会を行うことはできませんか。私は何度でも出席させてもらいます」
 メンバーが歓声をあげた。
 「今日は、来てよがった!」
 目の前の一人ひとりが喜び勇んで立ち上がることから、新しい変革の流れが起こる。
11  清新(11)
 山本伸一は、水沢文化会館に残っていた役員の代表たちに、次々と声をかけていった。特に清掃の役員に就いていた婦人など、陰で黙々と作業に当たってくれた人たちには、丁重に御礼を述べながら語り合った。
 それから、書類の決裁などの執務を開始すると、二階のロビーから大勢の人声が響いてきた。行ってみると、女子部の合唱団のメンバーが集まっていた。
 彼女たちは、この日の代表幹部会で合唱するつもりで練習に励んできた。しかし、会場の収容人数などの関係で、婦人部の合唱団だけが歌うことになり、女子部は近くの学会員宅に集って唱題し、成功を祈っていたのだ。
 伸一は、声をかけた。
 「みんな、どうしたの?」
 「はい。代表幹部会には参加できなかったので、先生にお会いしたくてまいりました」
 「そうか。申し訳なかったね。明日、自由勤行会を開催するように頼んでおいたから、来られる方はいらっしゃい。
 お父さん、お母さんも、呼んであげてください。
 女子部は創価の花です。皆さんがいれば、岩手の未来は希望に輝く。二十一世紀には、日本一、世界一の岩手創価学会を築いてください。楽しみにしているよ。何があっても負けないで、三十年後、五十年後をめざして、人生を勝ち進んでいってください」
 伸一は、女子部の合唱団を激励すると、副会長の青田進や東北長の山中暉男、岩手の県幹部らと、明日の自由勤行会の打ち合わせに入った。既に岩手の各組織には、「明十二日の午前と午後、水沢文化会館で山本会長が出席して自由勤行会が開催されます。参加を希望される方は、ご自由にいらしてください」との連絡が流れ始めていた。
 伸一は、青田らに言った。
 「明日は、一度に大勢の皆さんが会館に来られることになるから、万全の対策と準備が必要です。一つ一つ詰めていこう」
 大雑把な計画で良しとすれば遺漏が生じる。成功には具体的な細かい詰めが不可欠だ。
12  清新(12)
 山本伸一が「明日の自由勤行会には、何人ぐらいの方が、お見えになるかね」と尋ねると、山中暉男が「数千人は来ると思います」と答えた。
 「そうか。ほぼ同時刻に大挙して会員の皆さんが訪れた場合、どうすればスムーズに会場の出入りができるかがポイントです。特に混乱するのが玄関だ。
 また、履物の間違いがないように対策を考えよう。学会の会館に喜んでやって来て、自分の靴を間違えて履かれていかれたりしたら、歓喜も一瞬にして冷めてしまいます。
 それと、会館の建物のなかに入りきれない方々の待機場所をどうするかです。
 あと、近隣はもとより、駅にもしかるべき幹部があいさつに行きなさい。普段の何倍もの乗降客になるので、切符だって足りなくなってしまうかもしれないからね」
 伸一は、矢継ぎ早に指示していった。
 「私は、管理者室に待機していて、大広間がいっぱいになったら勤行を始めます。何度でも行います。ともかく、明日の勤行会は大事です。無事故、大成功を祈って、皆で真剣に唱題していこう」
 伸一が陣頭指揮しての準備となった。
 一月十二日の早朝、水沢文化会館には、既に何人もの学会員の姿があった。
 「自由勤行会」という名称を初めて聞いた人が多く、こう話し合ったのだ。
 「山本先生が水沢文化会館で一緒に勤行をしてくださるという話だ。朝の勤行にちがいない。それなら午前六時前には、会館に着いていた方がいいだろう」
 連絡を流した人が、嬉しさのあまり、詳細を伝え忘れてしまったようだ。
 多忙を極める時ほど、慎重で丁寧な物事への対処が求められる。一つの手違いが、大きな混乱につながりかねないからだ。
 ほどなく、帽子、襟巻き、防寒着に身を固めた同志が、寒風のなか、欣喜雀躍しながら、続々と集って来た。伸一は、参加者に温かい飲み物を用意するよう指示した。
13  清新(13)
 十二日、水沢文化会館の開館を記念する自由勤行会は、結局、夕方までに数回にわたって開催された。いずれも山本伸一が導師を務め、あいさつもした。皆の輪の中に入り、握手を交わし、要望に応えてピアノも弾いた。
 彼は、勤行会のたびに、「日ごろ、ご無沙汰していて申し訳なく思っています。私は、日々、岩手の皆さんの健康長寿、無事安穏を願い、真剣に題目を送っています。心はいつも一緒ですよ」と語りかけた。
 そして、そのつど、さまざまな角度から、信心の在り方について訴えていった。
 「師子王とは、勇気の二字を忘れない人です。何があっても、御本尊への強き祈りを根本に、勇敢に前進し、同志を、地域の友を守り抜いてください。それが仏法者です」
 「信心即生活です。常識豊かに、淡々と、平凡であっても、自分らしい福運に満ち満ちた人生を歩むことが、信心の勝利の姿です」
 「今再びの信心を、今再びの人生をとの心意気で、愉快に、生命力をたぎらせ、新しい挑戦を開始していくなかに、永遠の青春の道があります。どうか皆が“地域の柱”に!」
 また、「妙一尼御前御消息」の「たとえば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ちひとえに重きが如し」の一節を拝して指導した。
 「仏の一切衆生への慈悲は平等ですが、そのなかでも、不憫な人のことは、とりわけ心にかかるというのが仏の慈悲です。
 したがって、大変な環境で健気に信心に励んでいる皆さん方には、いや増して御本尊の御加護があり、大慈大悲に浴していくことは絶対に間違いない。大確信をもってください。必ず、大功徳を受けてください。大福運に包まれてください。皆さんが、幸せになり、信心の実証を示していくことが、岩手に大勝利の春を告げることになるんです」
 皆の幸せを願う伸一の必死の呼びかけに、岩手の同志の生命は燃え上がった。真心をもってする真剣な叫びは、魂の共鳴をもたらす。
14  清新(14)
 午前、午後と勤行会を行い、参加者と握手を交わし続けた山本伸一の手は腫れあがり、真っ赤になってしまった。
 管理者室で手を冷やしながら、夜に予定されている岩手県新春記念幹部会に備えた。
 しかし、ほどなく岩手未来会第一期の結成式が始まるとの報告が入った。高・中等部員からなる十数人の人材育成グループである。伸一は、「“未来からの使者”とお会いしにいきます」と言うと、直ちに管理者室を出て、メンバーとの記念撮影に臨んだ。
 そして、新春記念幹部会に出席した。
 勤行に続いて、県長、方面長、副会長のあいさつなどが終わると、伸一は、自ら司会役となった。
 「おばんです! 今日は、楽しくやりましょう。岩手の創価家族の集いですから、形式にこだわらず、ありのままでいいんです。
 最高幹部の話は、もう飽きたでしょ。座談会にしましょう。誰か話してくださいよ。どなたか支部長の方、代表であいさつを!」
 伸一に促されて、一人の支部長が抱負を述べた。続いて、支部副婦人部長、大ブロック(後の地区)幹部、ブロック幹部、学生部のグループ長ら十人ほどが、次々とマイクの前に立った。
 はつらつと決意を語る人もいれば、功徳の体験を発表する人もいた。
 伸一は、大きく頷いたり、身を乗り出して拍手を送ったりしながら、「そうだ! すごい!」と相づちを打つ。時に笑いが起こり、会場は和気あいあいとした雰囲気に包まれ、皆の心は一つに解け合っていった。
 やがて、伸一の指導となった。
 「人間、誰が偉いのか。幹部だから偉いわけではありません。偉い人とは、お題目を唱える人です。人びとの幸せを願って、懸命に折伏・弘教に励んでいる人です。友の激励に駆けずり回っている人です。その人こそが、人間として最も気高く尊い、御本仏の真の弟子なんです。それはまさに、日々、広宣流布のために汗を流しておられる皆さん方です」
15  清新(15)
 山本伸一は、人生は苦悩との闘争であることを述べていった。
 「経文に『三界は安きこと無し 猶火宅の如し』(法華経191㌻)とあるように、現実社会は、常に一寸先は闇といえます。非情であり、残酷です。ゆえに、何があっても負けない自分を築き、わが生命の宮殿を開き、幸福を実現していくために仏法があるんです。
 人生とは、さまざまな悩み、迷いを抱えて、それを乗り越え、乗り越え、生きていくものであるといえるかもしれない。しかし、その苦悩に絶望し、挫折してしまう人もいる。
 御本尊を持った皆さんは、煩悩即菩提、生死即涅槃の法理に則り、いかに絶望の淵に立とうが、敢然と頭を上げて、不死鳥のごとくわが使命に生き抜いていただきたい。悩める友を包み励まし、共々に幸福の道を歩み抜いていっていただきたいのであります」
 最後に、彼は強く訴えた。
 「学会は、人間と人間とが麗しく生き抜いていくためにある。友を励まし、元気づけ、凍てた心の大地に幸せの花を咲かせる人間のスクラムです。この尊い信心の和合の世界が壊されてはならない。広宣流布のため、自他共の幸せのため、社会のために!」
 皆が決意を新たにした。わが使命を自覚した。寒風のなか、胸を張り、はつらつと、地域広布の新しき歩みを踏み出したのだ。
 十一、十二日と、二日間にわたった行事には、久慈、宮古、釜石、大船渡、陸前高田など三陸からも、多数の同志が参加した。
 そのなかの一人に、釜石から駆けつけた二十六歳の男子部大ブロック長の元藤裕司がいた。彼は、幼少期に一家で入会。小学三年の時に父親が他界した。中学を卒業すると建築会社に務め、定時制高校に学んだ。就職して十余年になるが、会社の経営状況は思わしくなく、肉体労働で腰も痛めていた。未来に希望を見いだせず、暗澹としていた。しかし、水沢の勤行会に参加し、自身の使命に目覚めた。心を覆っていた雲が晴れた。
 使命に燃える時、わが胸中に太陽は輝く。
16  清新(16)
 元藤裕司は、釜石の、そして、三陸の広宣流布を心に描いた。そのために“自分に何ができるか”を考え、身近なことから第一歩を踏み出そうと思った。
 “地域の同志のために、「聖教新聞」の配達をやらせてもらおう!”
 彼は、意欲的に、仕事、学会活動に取り組んだ。やがて結婚した。勤務していた建築会社の倒産、自身や義父母の入院・手術などが続いたが、常に唱題を根本に、一つ一つ乗り越えていった。空気圧機器の大手企業への就職も勝ち取った。地域貢献になればと、消防団の活動にも参加した。
 元藤は、よく妻の福代と語り合った。
 「私たちは、学会員として、地域の人たちの幸せのために生きよう!」
 福代も、山本伸一が出席した水沢文化会館での行事に参加し、激励を受けていた。
 裕司は、岩手が生んだ詩人・童話作家の宮澤賢治が好きであった。その作品のなかでも、「雨ニモマケズ」の詩に心が引かれた。
 「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ……」(『宮澤賢治全集第十二巻』筑摩書房=現代表記に改めた)
 雨にも、風にも、雪にも、夏の暑さにも負けない体と強い志をもって、淡々と質素に生き、苦悩する人びとと同苦し、寄り添い、献身する心に共感を覚えるのである。
 自分もそんな生き方をしようと心に決め、ひたすら三陸の広宣流布に走ってきた。支部長も務めた。「“地域の柱”に」との伸一の言葉が耳から離れなかった。また、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」との御文を心に刻み、猛然と走り抜いてきた。
 ──二〇一一年(平成二十三年)三月十一日、あの東日本大震災が起こった。三陸は大地震、大津波に襲われた。元藤の住む釜石でも、多くの地域が街ごと流された。マンションの四階まで津波にのまれた。
 この苦難の大波に、彼は、身悶えながらも挑み続けた。信心ある限り、光はある。
17  清新(17)
 大地震、大津波が発生した二〇一一年(平成二十三年)当時、元藤裕司は、学会にあって、大槌、釜石、大船渡、陸前高田など被害の激しかった地域の県長であった。
 その日、彼は内陸部で仕事をしていた。釜石の自宅には、目の不自由な義母、妻、娘、乳飲み子の孫がいる。携帯電話もつながらず、家族や同志の安否が心配でならなかった。
 まず自宅へ向かった。交通は規制され、身動きがとれなかった。翌朝、ようやく、わが家にたどり着いた。家の数メートル前まで津波が押し寄せたが、自宅も、家族も無事であった。御本尊に、ひたすら感謝した。
 しかし、安堵に浸る間もなく、総県婦人部長である妻の福代と共に、会員の安否確認に回るため、家を出た。
 街は一変していた。一面、瓦礫に埋まり、廃墟と化し、市街地に向かう道もなくなっていた。でも、なんとしても同志に会わなければならない。裏山の階段を上り、山中を歩いた。藪が生い茂る獣道を進んだ。前日から降った雪に足を取られながら、倒木や崩れた岩を越え、急斜面を下りると、今度は瓦礫が行く手を阻んだ。それを踏み越え、二時間余りを費やして市の対策本部に着いた。
 そこで、各避難所の収容者の名簿を見て、学会員の名前を確認し、避難所に向かった。瓦礫だらけの道なき道を必死に歩き、この日、五カ所の避難所を訪ねた。何人もの学会員と会うことができた。
 着の身着のままで避難所にたどり着き、一夜を過ごした人たちは、憔悴しきっていた。
 元藤は、過酷すぎる現実に言葉を失った。
 「よかった! よかった……」と、ただ手を握り、共に涙することしかできなかった。
 それでも、皆、喜んでくれた。同志の目に、次第に光が蘇った。
 ともかく会うことから、思いが伝わり、心は結ばれる。行動に勝る雄弁はない。
 被災者でありながら人びとの面倒をみて、忙しく立ち働く学会員もいた。信仰の力を、学会魂の輝きを見た思いがした。
18  清新(18)
 元藤裕司は、避難所を回るなかで、多くの人たちが亡くなっていることを知った。一週間前には共に活動に歩いた先輩も帰らぬ人となっていた。子どもを失った夫婦、親を失った子ども、夫を亡くした妻、妻を亡くした夫……。彼は、皆の苦しみの重さに、自分たち一家が助かったことを申し訳なく感じることもあった。でも、助かった命なのだから、皆のために使おうと誓った。
 避難所を後にした元藤は、地域の消防団の活動に入った。救援物資の運搬など、身を粉にして働いた。
 たくさんの同志が津波で家を流された。だが、そのなかで学会員は、避難所の清掃作業や炊き出しなど、人びとのために勇んで献身していった。人の幸福を願って行動するなかに、自分の幸せもあるという、仏法の共生の哲学が脈動していたのだ。
 こうした同志のなかには、元藤に限らず、一九七九年(昭和五十四年)一月、水沢文化会館で山本伸一と出会いを結んだ人たちが少なくなかったのである。
 「3・11」東日本大震災が発生するや、創価学会では、学会本部をはじめ、各方面・県に、直ちに「災害対策本部」を設置し、全国的な規模での救援・支援活動を開始した。
 宮城県仙台市宮城野区の東北文化会館をはじめ、被災各地の会館は避難場所となり、被災者を受け入れた。元藤の住む釜石市の釜石文化会館にも、近隣の人びとなど、四十人ほどが避難した。
 伸一は、大地震、大津波が発生し、甚大な被害であったことを知ると、胸を痛めながら、被災地の友に伝言した。
 「大切な大切な皆様方に、仏天の加護が厳然と現れるよう、妻と強盛に題目を送り続けております。
 日蓮大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と御断言であります。今こそ不屈の信力、行力を奮い起こし、偉大なる仏力、法力を湧き出しながら、この苦難を、断じて乗り越えていこうではありませんか」
19  清新(19)
 三月十六日の「聖教新聞」には、被災地の同志に送った、山本伸一のメッセージが掲載された。そのなかで彼は、被災者への見舞いと救援・支援に奔走する会員への感謝を述べたあと、この大試練をなんとしても勝ち越えてほしいと、魂を注ぎ込む思いで訴えた。
 「御書には、災害に遭っても『心を壊る能わず(=心は壊せない)』と厳然と示されています。『心の財』だけは絶対に壊されません。いかなる苦難も、永遠に幸福になるための試練であります。すべてを断固と『変毒為薬』できるのが、この仏法であり、信心であります。(中略)断じて負けるな! 勇気を持て! 希望を持て!」
 学会本部からも、最高幹部らが被災地へ行き、友を励ました。また、復興支援のために、青年職員らが派遣された。皆、伸一の意を受けて、全力で献身していった。
 岩手に限らず、宮城、福島など、各被災地での学会員の奮闘、また、阪神・淡路大震災を乗り越えてきた兵庫など関西をはじめ、全国の同志の支援は、人間の強き絆の証明として永遠不滅の光を放つものとなろう。
 東北の青年たちは、各地で「自転車レスQ隊」「片付け隊」「かたし隊」などを結成。被災した高齢者らのために、清掃や後片付け、物資の配達などを買って出た。
 調理師や理容師、美容師などの技術を生かし、ボランティアとして貢献した壮年、婦人もいる。皆、自らも被災者である。
 津波によって瓦礫に覆われた宮城県石巻では、男子部員が、“なんとしても、皆を元気づけたい。生きる勇気を送りたい”と決意した。そして、「がんばろう! 石巻」という縦一・八メートル、横一〇・八メートルの大看板を作った。
 彼は、自分の家も流され、雪の降るなか、松の木にしがみついて一夜を明かして、生き抜いた青年である。この看板は、やがて東北復興のシンボルとなった。
 “負げでたまっか!”──この心意気が学会魂だ! 苦難の嵐が猛れば猛るほど、勇敢に、忍耐強く、挑み戦うのが創価の師子だ!
20  清新(20)
 被害の大きかった岩手県大船渡市にある県立大船渡病院に、一人の臨床研修医がいた。二十七歳の塩田健夫である。
 この震災の日が、二年間にわたる研修の最終日であった。
 彼は、大揺れの直後、高台にある病院の窓から、津波が街をのみ込んでいくのを見た。
 次々と患者が運び込まれてきた。瀕死の重傷を負った人もいる。二十日間、病院に寝泊まりして、診察、治療にあたった。
 ──塩田が七歳の時、弟が生まれた。母親は出産後も、毎日、病院に行ったきりの生活が続いた。弟は「全結腸無神経節症」と診断されていた。大腸や肛門を動かす神経が機能しない病である。一年十カ月で弟は、その生を終えた。初めて病室に入ることが許された。抱きしめた体は、まだ温かかった。命のはかなさが幼い心に染みた。
 塩田は、中学、高校と創価学園に学んだ。高校三年の卒業記念撮影会の折、彼は創立者の山本伸一に語った。
 「必ず医師になります!」
 私立大学の医学部に進んだ。しかし、二年後、父の工務店が倒産した。債権者が、ひっきりなしに自宅に取り立てにやって来る。もう授業料を払える状況ではない。祈った。
 “絶対に医師になる! 約束を果たす!”
 岩手県に医師養成の奨学金制度があることを知る。将来、岩手県内の公立病院で一定期間勤務すれば、返還も免除されるという。この奨学金によって、塩田は窮地を脱した。
 卒業後、大船渡病院に研修医として勤務。そして震災に遭遇したのだ。必死で診療にあたった。疲労は限界に達していた。しかし、自分に言い聞かせた。
 “この時に巡り合わせたことは、決して偶然ではない。このために、ぼくはいる! 今、頑張らずして、どこで頑張るというのだ!”
 人生には、正念場がある。その時に最高の力を発揮できる人こそが勝利者となる。
 彼の奮闘は、患者に勇気を与えもした。
 その後も塩田は、恩返しの思いで岩手県内の病院に勤め、医療に従事することになる。
21  清新(21)
 岩手県陸前高田市で養殖漁業を営んできた村川良彦は、ローンで購入した最新設備の漁船を津波で失った。港も全壊した。失意と落胆のなかで地区部長の彼は、同志の安否確認や集落の復旧作業などに取り組んだ。壊滅的な街を見ると、絶望的な思いに襲われた。
 “前に進まなければ!”──唱題し、学会の指導をむさぼるように読んだ。
 彼には、震災の日の早朝、妻の文と収穫した一トンのワカメがあった。三陸ワカメのなかでも最高級の品で、普段の何倍もの値がつく。生活はつなげる。ところが彼らは、そのワカメを惜しげもなく近隣に配り始めた。
 人は食べれば元気が出る。今、大事なのは、みんなが元気になることだ──と考えての決断だった。喜ぶ人びとの顔。勇気が湧いた。“またワカメをつくろう”と思った。
 「聖教新聞」が被災地を特集し、村川が地区部長を務める広田地区の様子が紹介されると、全国の同志から何百通もの激励の手紙が届いた。「阪神・淡路大震災」で被災した兵庫県西宮市の、同じ「広田」の名を冠する広田太陽地区からも、寄せ書きが送られた。
 しかも、この兵庫県の地区部長は村川と同姓であり、震災で自宅が全壊した体験をもっていた。そして、陸前高田の村川の自宅を訪ね、自身の体験を語ってくれた。「兄弟地区として一緒に頑張りましょう」の言葉が、親しい人たちを失った村川たちの心に響いた。
 “苦闘する友を断じて放ってはおかぬ。自分にできるすべてのことをするのだ!”
 これが仏法兄弟の連帯の心である。
 津波ですべてを失い、漁業の再開を断念した人もいた。しかし、村川は、学会員の自分が、集落の復興の先頭に立とうと決意し、共同での養殖作業を進め、震災の翌々年一月に新しい漁船を購入した。彼は、地域復興の推進力となっていったのだ。
 創価の同志の生き方には、「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」との精神が脈打っている。これこそが地域を建設する力となる。
22  清新(22)
 全国各地から復興支援に駆けつけた本部職員のなかに、九州から来た青年職員がいた。被災地の婦人は彼に、力を込めて訴えた。
 「あなたは、この惨状を目に焼き付けておいてください。そして、このなかで、私たちが何をし、どうやって復興し、五年後、十年後にどうなっていったかを、しっかりと見届け、歴史の証言者になってください」
 自ら歴史を創ろうとする人は、いかなる試練にもたじろぐことはない。苦境を舞台に、人生の壮大なドラマを創り上げていく。
 東日本大震災では、会館への被災者受け入れは、四十二会館約五千人となった。学会の災害対策本部として提供した主な支援物資は、飲料、食料品、医薬品、衣類、寝具など、約六十四万二千点。動員したボランティアは、延べ二万五百人に上った。
 日蓮大聖人は、正嘉元年(一二五七年)八月に起こった大地震、そして、大風、大飢饉、大疫病と打ち続く惨禍に心を痛め、「立正安国論」を執筆され、文応元年(一二六〇年)七月、時の事実上の最高権力者である北条時頼に提出し、諫暁されている。
 「安国論御勘由来」には、「ひとえに国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」と仰せである。現実の世の不幸を目の当たりにして、その苦悩の解決のために、大聖人は一人立たれたのだ。
 立正安国(正を立て国を安んずる)の立正とは、一人ひとりの胸中に正法という生命尊厳の法理を打ち立てることである。安国とは、その帰結として、社会の繁栄、平和が築かれることである。いわば、仏法者の宗教的使命である立正は、安国の実現という社会的使命の成就によって完結するのだ。
 立正なき安国は空転の迷宮に陥り、安国なき立正は、宗教のための宗教となる。われらは、立正安国の大道を力の限り突き進む。
 東北の同志は立正安国の法理に照らし、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」との御文を噛み締め、広宣流布への決意を新たにするのであった。
23  清新(23)
 山本伸一の広布旅は続いた。清新な心で、新しい未来を開くために。
 一九七九年(昭和五十四年)一月十三日の午前中、彼は水沢文化会館の庭で、亡くなった同志を顕彰する記念植樹を行った。また、会館に来ていた子どもと相撲を取り、集って来た人たちと懇談するなど励ましを重ねた。
 そして、「お世話になりました。ありがとう!」と皆をねぎらい、青森へ向かった。
 車で北上駅に出て、十四時二十二分発の東北本線の特急「はつかり3号」に乗車した。
 出発して三十分近くが過ぎ、岩手飯岡駅を通過する時、十数人の人たちがホームで盛んに手を振っているのが見えた。
 伸一は、隣の席にいた、副会長の青田進に言った。
 「学会員だね。寒いのに見送りに来てくれて本当に申し訳ないな。皆さんの真心が胸に染みるね。風邪をひかなければよいが……。可能であれば御礼を伝えてください。
 ところで、今回、水沢には雪がなかったね」
 「はい。今年は珍しく暖冬で、まだ本格的に雪が降っていないそうです」
 「勤行会に集って来る皆さんのことを考えると、雪がなくてよかった。
 もし、雪が降り積もっていたら、私は雪のなかを歩いて、激励に回ろうかと思っていたんだよ。そうしなければ、北国で広宣流布の道を切り開いてくださっている同志の、本当の苦労を実感することはできないからね。
 どんな組織でもそうだが、物事を企画、立案し、指導していく幹部が、最前線で活動する現場の人たちの気持ちや実態がわからなければ、計画は机上の空論となり、現実に即さないものになってしまう。そうなれば、既に官僚主義なんだ。
 だから学会のリーダーは、絶えず第一線に身を置き、皆の現実と、苦闘、努力を肌で感じ、共有していくことだ。
 そして、号令や命令で人を動かすのではなく、自らの率先垂範の行動と対話で、皆を啓発していくんだよ。それが、広宣流布の指導者だ」
24  清新(24)
 山本伸一たちの乗った列車は、盛岡を過ぎて、やがて青森県に入り、八戸、三沢を経たあと、長いトンネルに入った。
 闇を抜けた時、息をのんだ。一面の雪景色であった。
 車窓を粉雪が飛び去っていく。
 伸一は、青田進に語った。
 「青森の冬は、雪との壮絶な戦いなんだね。しかし、この純白の世界は、あまりにも美しい。厳しい風土で戦う人への恩賞だね」
 それから、近くにいた、同行メンバーに呼びかけた。
 「みんなで詩を作ろう。和歌でも俳句でもいいよ。自分が目にした風景から、何を感じ取っていくかが大事なんだ。詩歌を詠むには“発見”が必要だ。つまり、それによって、洞察力を磨いていくこともできる」
 皆、慌てて詩や歌作りに取り組んだ。
 それから三、四十分で青森駅に到着し、車で青森市の青森文化会館へ向かった。
 会館に着いたのは、午後六時前であった。
 高等部員の有志が庭に造った、高さ三メートル余の、大白鳥の雪像が一行を迎えてくれた。雪はやんでいたが、寒気が肌をさす。
 車を降りた伸一が最初に向かったのは、会館の前に立つプレハブの建物であった。そこに役員らしい青年の姿が見えたからだ。
 戸を開けた。
 「ご苦労様!」
 伸一が声をかけると、居合わせた青年たちが、驚いた表情で彼の顔を見つめた。ここは創価班、白蓮グループなど役員の青年たちが、作業場所や控室として使っているようだ。
 「陰で黙々と働いてくださっている、本当の後継者の皆さんに、一番先にお会いしに来ました。みんな、寒いから風邪をひかないようにね。よろしくお願いします!」
 陰で苦労し、奮闘している人を最大に讃え励まそうと、伸一は深く心に決めていた。いや、そこに執念を燃やしていたといってよい。
 創価の人間主義の心を、自らの行動をもって伝え残そうと、彼は必死であったのだ。
25  清新(25)
 山本伸一が、青森市を訪れたのは七年半ぶりである。青森文化会館は前年十二月に落成したばかりの新会館であった。
 ロビーに入ると伸一は、県長の加取伸介に言った。
 「すばらしい会館ができたね。さあ、ここから青森の新しい歴史の幕を開こう!」
 そして、休む間もなく、二階の大広間で草創期からの青森県の功労者、そして秋田県の代表ら百五十人ほどとの懇談会に臨んだ。
 「おばんでございます!」
 東北風の伸一のあいさつに場内は沸いた。
 「皆さんは、苦労され、頑張ってこられたんだから、今日は堅苦しい話は抜きにして、歌でも歌って楽しくやりましょう。さあ、どなたか、歌ってください。ただし学会歌以外にします」
 年配の男性が古い歌謡曲を歌いだした。皆が手拍子を打つ。空気は一気に和んだ。
 次から次へと立ち上がり、「八戸小唄」「黒田節」と歌いだす。青森支部の初代支部長の金木正が、もう一人の壮年と「佐渡おけさ」を歌った。
 「うまいね! アンコール、アンコール」
 伸一の言葉に、金木は直立不動で、「それでは子どもの時代に戻りまして『ハトポッポ』を歌います」と言って、両手を左右に広げ、羽のように動かしながら歌い始めた。
 金木は税理士をしており、謹厳実直で冗談一つ言わぬだけに、皆の驚きは大きかった。
 さらに、東北地方に伝わる数え歌を、箒を手にして踊りながら歌い始めた。
 「カンカラカンとカンマイダ 一羽もしんじょ……」
 皆、腹を抱えて大笑いし、声を合わせる。
 伸一は東北長の山中暉男を呼んで言った。
 「みんなの顔を見てごらん。あの目を見てごらん。本当に嬉しそうじゃないか! この顔を絶対に忘れてはいけないよ。楽しく自由にやれば、みんな生き生きと頑張るんだよ。そうすれば、東北は全国一になる。みんなの喜びを引き出していくのがリーダーだよ」
26  清新(26)
 懇談会では、琴の演奏もあった。
 山本伸一は、最後に皆と勤行し、青森、秋田両県の広宣流布と繁栄を深く祈念した。
 終了後、外に出た。雪はやみ、雲間に丸い月が皓々と輝いていた。
 伸一は、そのあとも、東北の方面幹部や県の首脳と今後の活動について協議を重ねた。
 彼はリーダーの生き方について語った。
 「東北には、東京に本社があり、青森や秋田などの各県に、支社や支店を置く企業が多い。支社・支店長には、本社から派遣される人が、かなりの割合を占める。
 そのなかで優れた実績を残すリーダーに共通しているのは、“この地に骨を埋めよう。地元に貢献しよう”との決意を固めている人であるといいます。
 しかし、冬は雪との戦いになり、寒さが過酷であるため、なかには、早く本社に戻ることばかり考え、一時的に華々しい実績を上げればよいと、その場しのぎの仕事をする人もいる。また、“何年かすれば、異動になるだろう。失敗さえしなければよい”と力を抜き、積極的に物事に取り組もうとしない人もいるといわれています。
 リーダーが、どういう考えなのかは、下で働く社員や周囲の人たちには、手に取るようにわかる。うまく取り繕っていても、その心根は、日々の生き方に現れるからです。
 たとえば、下には権威的になって威張り、上には媚びへつらう。失敗を恐れるあまり、人への不信感が強い。都合のよい報告を本社に上げることにしか関心を示さない。自分は楽ばかりして、何かあると人に責任を押しつけ、決して泥をかぶらない──という行動になる。その結果、みんなの心は離れていく。
 つまり、そうした腰掛け的なリーダーの生き方が破綻の要因になっていくんです。
 それに対して、労を惜しまず会員のために尽くし抜く学会の幹部は、『真実のリーダーはかくあれ!』と、社会に模範のリーダー像を示しているんです。どうか、リーダー革命を推進しているとの誇りをもってください」
27  清新(27)
 山本伸一は、青田進らを見て言った。
 「ところで、青森に来る列車の中で、雪を見て詩歌を作ろうということになったが、それはどうなっているかね」
 皆、ドキッとした。詩を書き始めて、最初の一段落で止まっていたり、和歌を何首か詠んだものの、推敲する余裕がなく、とても公表できるものではなかったからである。
 「すぐに、このあと、清書して、提出させていただきます」と、青田が答えた。
 二十分ほどして、皆が作品を持ってきた。
 伸一は、さっそく目を通した。
 「なかなかいいじゃないか。『聖教新聞』に掲載できないか、相談してみよう」
 皆、“大変なことになった”と思った。
 青田の詩には、「一陽来春」という題名がつけられていた。
 「車窓に開けゆく
  荒涼たる銀世界
  きびしき風雪をついて
  広布に進む
  同志の姿 偲ばる」
 また、東北長の山中暉男は、車中からの雪景色だけでなく、青森文化会館到着後の思いも歌に詠んでいた。
 「青森は 人よし海よし 吹雪よし
     広布の牙城に 冴える月よし」
 さらに、同行していた本部の青年職員は、猛る吹雪に、広宣流布に生きる自身の前途を重ねて詩を作り、「我が人生は決定せり 我は進まん 我は征かなん」と詠んだ。自ら表舞台に立とうとすることなく、陰に徹して、黙々とわが使命を果たすために努力を重ねている青年であった。そして、こう結んでいた。
 「北国の風雪よ
   我を鍛えよ 厳父の如く」
 伸一は、皆の詩歌から、労苦を厭わぬ気概を感じた。頼もしいと思った。
 彼は、皆が詩歌を作ることを通して、風雪のなかで戦い生きる同志の苦闘を、わが苦とする決意を固めてほしかったのである。
28  清新(28)
 一月十四日の日曜日は激しい雪であった。山本伸一は青森文化会館にあって、県の幹部や地元メンバーと共に、朝の勤行を行った。
 勤行が終わって、しばらく懇談した。参加していた一人の婦人が、「先生!」と言って立ち上がった。
 「この青森文化会館の地元・大野支部で支部婦人部長をしている中沢美代子と申します。私たちは、わが支部に先生をお招きしようと、すべてに勝利してまいりました。支部内には、たくさんの人材がおります。ぜひ、支部の皆さんにお会いしていただきたいんです」
 伸一は、即座に答えた。
 「わかりました。今日の予定は、午後一時半に青森・秋田合同の代表幹部会があり、それから秋田県の代表と懇談会、弘前大学会のメンバーとの記念撮影がありますので、そのあと、夕方からなら可能です。皆さんの方は大丈夫ですか。会館に来ることができる方は、全員、おいでください」
 また、大野支部以外の近隣の人たちも、希望者は参加できることにした。
 伸一は、この日も、朝からフル回転の一日となった。昼には、結成された青森未来会の第一期生を激励。引き続き、彼を訪ねて来た下北のメンバー数人と懇談した。
 ──十年前の春のことである。下北半島の大湊で行われた中等部員会に集った三、四十人のメンバーの写真と、代表が綴った決意文が、伸一のもとへ郵送されてきた。
 彼は、本州最北端の下北で、中等部員が大志に燃え、喜々として信心に励んでいることが、たまらなく嬉しかった。
 すぐに、非売品である自身の『若き日の日記』第二巻に、「下北の中等部員の成長と栄光を ぼくはいつも祈ろう。此の写真の友と十年後に必ず会おう」と認めて贈った。
 さらに翌年十一月、吹雪の大地に生きる若き友を思い、自著『私の人生観』に「下北の わが中等部 嵐征け」と書き贈ったのだ。
 その代表の青年たちと、当時の中等部の担当者であった婦人が訪ねて来たのである。
29  清新(29)
 山本伸一は、かつての中等部員らを心から歓迎した。皆、十年後を目標に、誓いを立て、さまざまな苦難に挑みながら、精進を重ねてきたのだ。
 「よく来たね! みんな、必ず成長して集い合おうと、御本尊に誓ったと思う。そして、今日まで、その誓いを忘れずに頑張ってきた。それが大事なんだ。
 御本尊に誓ったこと、約束したことを破ってはいけない。決意することは容易です。しかし、実行しなければ意味はない。自分の立てた誓いを果たすことが尊いんです。そこに人生の勝利を決する道があるんだよ」
 これまでメンバーは、折々に集っては誓いを確認し、切磋琢磨してきた。この日、伸一を訪ねてやって来た青年の一人に木森正志がいた。彼は、創価大学に学び、四月から東京の大手企業に就職することが決まっていた。
 木森の家は貧しく、とても大学に進学できる家庭状況ではなかった。父親は出稼ぎに行き、母親は製材所に勤めながら、四人の子どもたちを育ててくれた。彼も中学時代から牛乳配達や新聞配達をした。氷点下の真冬、雪を吹き上げる寒風のなか、牛乳を配り始めると、指は感覚を失った。
 木森は、伸一から激励を受けて以来、“社会に貢献する人材になって期待に応えよう”と、固く心に決めていた。
 高校二年生になった年に創価大学が開学すると、“ぼくも、山本先生が創立した大学で学びたい”と強く思った。家が経済的に大変なことは、よくわかっていた。でも、意を決して、両親に頼み込んで許しを得た。猛勉強に励み、高校を卒業した翌年に創価大学に入学した。下北地方で初の創大生となった。
 東京で働いていた兄のアパートに転がり込んだ。土木工事等、アルバイトをしながらの学生生活であった。だが、“伸一のもとに集う十年後”をめざして、木森は、歯を食いしばりながら、自身への挑戦を続けてきたのだ。
 勝利者とは、自分に打ち勝つ、忍耐の人である。自らの誓いを果たし抜いた人である。
30  清新(30)
 山本伸一は、下北の青年たちと記念のカメラに納まり、皆に語った。
 「人生の本当の戦いは、いよいよこれからだよ。さらに十年後、いや二十年後、三十年後にどうなるかが勝負だ。今日、来られなかった皆さんに、くれぐれもよろしく!」
 そして、歩き始めてから振り返って言った。
 「どんなに離れていても、みんな、“わが弟子”だよ! 私は、そう信じています!」
 このメンバーは、自分たちを「下北会」と名づけ、その後も折々に集っては励まし合っていった。
 また、メンバーのまとめ役であった木森正志は、創価大学卒業後、大手企業に勤めたあと、故郷のために働きたいとの思いが日ごとに強くなっていった。そして、遂に、地元の教員となることを決断した。
 青森県の教員採用試験を受け、下北の小学校の教員となった。やがて校長も務め、地域に大きく貢献する一方、学会にあっても、県幹部などとして活躍していくことになる。
 メンバーは、それぞれが伸一との誓いを胸に、各地で人生の勝利劇を演じていった。
 始まりは、一葉の写真である。誰かに言われたからではなく、皆が誓いを込めて、あの写真を撮り、自主的に伸一に送った。決して、激励を期待してのことではない。
 もちろん伸一自身は、日々、すべての会員の真心に応えようと、懸命に奮闘していた。
 しかし、仮に伸一からなんの返事も激励もなかったとしても、メンバーは、写真を送ったことで、人生の師と定めた伸一と、心を結び続けてきたにちがいない。既に一葉の写真を送った時から、メンバーは、己心の伸一と共に、勝利の大海原に船出していたのだ。
 師弟とは物理的な触れ合いのなかにあるのではない。心に師をいだき、その師に誓い、それを成就しようとする、必死の精進と闘争のなかにこそある。そこに人生の開花もある。
 「人の目を喜ばせる花や実は、必ず地中に隠れている健全な根の力です」(「生活の隠れたる部分」『羽仁もと子著作集第二巻 思想しつゝ生活しつゝ〈上巻〉』所収、婦人之友社=現代表記に改めた)とは、青森出身の教育者・羽仁もと子の洞察である。
31  清新(31)
 青森・秋田合同の代表幹部会は、一月十四日の午後一時半から青森文化会館で開催された。参加者は、降りしきる雪のなか、頬を紅潮させ、喜々として集って来た。
 山本伸一は、ここでも自ら司会を務めた。青森県長の加取伸介のあいさつに入る前に、伸一は皆に提案した。
 「岩手県でもそうしましたが、登壇する幹部には、原稿を見ないで話をしてもらいましょう。ただ原稿を読み上げたのでは、政治家のお決まりの答弁みたいで、つまらないでしょ。賛成の人?」
 大拍手が広がった。
 彼は、皆の日ごろの苦労が吹き飛び、体が軽くなるような、楽しく、愉快な、人間味あふれる会合にしたかったのである。
 加取も、秋田県長の千藤泰晴も、自分の言葉で今日を迎えた喜びと郷土建設への決意を語った。その素朴な表現が皆の心を打った。
 次いで、副会長の青田進が、青森県に地域本部制が敷かれ、青森、八戸、弘前の三地域本部でスタートすることを発表し、人事を紹介した。一方、秋田県では、秋田圏に新圏長が誕生したことなどを伝えた。
 代表抱負となった。伸一は、「決まった人だと面白くないから、隣にいる新任の方にお願いしましょう」と言った。大変なのは、指名された人であった。抱負を語るはずが、「大任を拝しまして、どうしたらいいのか本当に迷っております。でも、頑張ります!」と、率直に心境を吐露する幹部もいた。
 大爆笑が起こった。
 形式に則ることは、もちろん必要である。しかし、形式だけに寄りかかってしまうと、型通りにやっていればよいという考えに陥ってしまい、工夫も怠り、マンネリ化が始まる。
 生き生きと広宣流布の運動を進めていくには、日々、絶えざる革新が必要である。
 形式に安住して、ともすれば改善の努力を忘れてしまう惰性化した心を、伸一は打ち破っておきたかったのである。創価とは、間断なき価値創造であるからだ。
32  清新(32)
 山本伸一は、この日、「信心」と「実践」の関係について語っていった。
 「正しい仏道修行には、『信』と『行』の両方が、正しく備わっていなければなりません。『信』とは、御本尊を信じ抜いていくことです。『行』とは、自ら唱題に励むとともに、人にも正しい仏法を教えていく、折伏・弘教であり、現代でいえば学会活動です。
 たとえ、御本尊を信受していたとしても、信心の実践、すなわち具体的な修行をおろそかにしては、本物の信心とはいえません。
 青森から東京へ行こうとしても、ただ思っているだけでは、到着することはない。行動を起こし、実践があってこそ、目的を果たすことができる。また、せっかく行動に移し、出発したとしても、途中で止まってしまえば、東京へは着きません。
 同様に、信心も観念的で中途半端なものに終わってはならない。実践がなければ、功徳の体験を積めず、強い確信を育むこともできない。そして、何かあると縁に紛動され、退転してしまうことになりかねません。それに対して、実践の人は、いざという時に強い。
 その実践は、大聖人が『行学は信心よりをこるべく候』と仰せのように、『行』も、『学』すなわち教学の研鑽も、御本尊への強い『信』から出発するものでなければならない。
 『信』なき実践は、一生懸命に動いていても、形式的なものになり、惰性化し、次第に歓喜も失われていってしまいます。
 ともあれ、純粋にして強き信心は、おのずから、果敢にして忍耐強い実践につながっていく。『我もいたし人をも教化候へ』の御聖訓のごとく、自行化他にわたる実践を展開し、この東北の天地から、新しい広布の光を放っていただきたいのであります」
 風雪は、ともすれば人の行動を奪う。しかし、東北の同志は、吹雪にさっそうと胸を張り、広宣流布に戦い抜いてきた。その粘り強い実践を貫き通していくならば、愛する「みちのく」に、必ず陽光輝く清新の春は来る。
33  清新(33)
 山本伸一は、青森・秋田合同の代表幹部会に続いて、秋田県の代表との懇談会や弘前大学会のメンバーとの記念撮影に臨み、さらに、青森文化会館のある地元・大野支部の激励会に出席した。これには、周辺地域の学会員も参加し、約八百人が集った。
 参加者には、家族連れも多く、和気あいあいとした創価家族の集いとなった。
 「ようこそ、ようこそ! 会館を守っていただき、ご尽力に感謝しています」
 伸一が、こう言って広間に現れると、支部長の中沢正太郎と支部婦人部長で彼の妻である美代子が、「先生。ありがとうございます!」と、声をそろえてあいさつした。
 二人は、七年間にわたって、この大野支部の支部長・婦人部長を務めてきた。「日本一明るい功徳あふれる地域建設」をめざして、支部員一人ひとりの幸せを祈り抜くことから戦いは始まった。闘病中の人、事業不振の壮年、夫の入会を願う婦人など、それぞれの悩みを自身の悩みとして必死に祈った。
 「支部長も、婦人部長も、いつ行っても唱題してますね」と評判になった。
 正太郎は、一壮年の再起を願い、半年間、自宅へ、激励に通い続けたこともあった。美代子もまた、家庭訪問を欠かさなかった。
 「何かあると一緒に悩んでくれる」──それが学会の世界である。
 支部のメンバーも、夫妻の個性や性格をよく理解し、力を合わせ、支え合って、支部の建設に取り組んできた。一人を大切にするリーダーの祈りと行動、皆の団結が、模範の支部をつくり上げてきたのだ。
 伸一は、集った同志のためにピアノを弾き、一緒に唱題し、語り合った。
 「苦しい時、辛い時もあるでしょう。そのありのままの思いを、御本尊に訴えて唱題していけばいいんです。“困っています。力をください!”──それでいいんです。御本尊は、なんでも願いを聞いてくださる。そして、この御本尊と共に、広宣流布の使命に生きる決意を固めるんですよ」
34  清新(34)
 大野支部の激励会が行われた日の夜、山本伸一は方面・県幹部との懇談で皆に尋ねた。
 「大野支部の中沢さん夫妻もそうだが、青森の幹部は、夫婦で支部長・婦人部長などとして活躍しているケースが実に多い。これは、地域広布を進めるうえからも、すばらしいことだと思う。こうした流れは、いつごろからつくられたのかね」
 県の幹部が答えた。
 「青森支部の初代支部長の金木正さんからです。たとえば、夫人だけが入会を決意した場合、『ご主人も一緒に信心した方がよい。私が話をしに行きます』と言って、何度もご主人のもとに通われました。『一家和楽の信心なんだから、夫婦そろっての入会が大事なんだ』と、よく語っていました。
 事実、夫婦で信心を始めた方は、退転する人も少なく、夫婦一緒に、組織のリーダーに育っていることが多いのです」
 伸一は、頷きながら言った。
 「みんながみんな、夫妻で信心するわけにはいかないだろうが、紹介者や幹部は、入会した人が、その後、堅実に信心を全うしていけるように、さまざまな応援をしていくべきです。成果に焦った折伏だと、どうしても、その基本がおろそかになり、結果的に新しい人材が育たないことになってしまう。
 それにしても、青森での金木夫妻の功績は大きいね。私は、金木さんが作ってくれた、おにぎりの真心の味が忘れられないんだよ」
 それは、伸一が会長に就任した翌年の一九六一年(昭和三十六年)二月のことであった。彼は、八戸支部の結成大会を終え、十和田支部の結成大会に向かう途次、列車の乗り換えのため、青森駅に降りた。駅には支部長・婦人部長の金木正・キヨ夫妻をはじめ、青森支部のメンバーが待っていた。
 キヨは、伸一たち一行が、“列車の長旅で、おなかをすかせているのではないか”と、わざわざ、おにぎりを届けてくれたのだ。
 相手の立場になって考え、真心を尽くそうとする一念から、最高の配慮が生まれる。
35  清新(35)
 金木夫妻は、自分たちのことよりも、常に同志のことを第一に考える人であった。諸会合の会場として自宅を提供するため、皆が集まりやすいようにと、わざわざ駅の近くに家を構えた。
 青森市内で活動し、夜、列車で帰っていく学会員を見ると、「外は寒いから、列車が来るまで、うちに寄って待っていなさい」と声をかけた。そして温かい味噌汁を振る舞い、おにぎりを持たせることもあった。
 困っている人がいると聞けば、すぐに飛んでいって励ました。支部長の金木正は、よくこう語っていたという。
 「会員の皆さんは、全員が尊い使命をもった仏の使いであり、大事な宝の人たちだ。一人も漏れなく幸せになってもらわなければ、申し訳ない」
 青森の山村では、家庭訪問に行けば、次に訪ねる会員宅まで、一キロ以上も離れていることが珍しくない。夫妻は、積雪さえも払い飛ばす烈風のなかを勇んで歩いた。青森の気質である、“じょっぱり”といわれる強情さをいかんなく発揮し、風雪に、いやまして闘魂を燃え上がらせた。
 “歩いた分だけ、広宣流布の道が広がる。人を励ました数だけ、人材の花が咲く。動いた分だけ、福運となる”と自分に言い聞かせながら、青森の大地に、広布開拓のクワを振るい続けてきたのである。
 山本伸一は、深い感慨を込めて語った。
 「青森支部の誕生から、既に満二十年が過ぎた。その間の青森広布の伸展は目覚ましいものがある。それは、金木夫妻のように、ただただ広宣流布のために、一切をなげうつ思いで、懸命に走り抜いてきた方々がいるからだ。その決意と実践がなければ、広宣流布の前進はない。
 いよいよ学会は、これから広宣流布の総仕上げの時代に入っていく。それは、東北の時代が到来したということだ。地道に、何があっても信念を曲げない、青森の“じょっぱり魂”が光り輝く時代だよ」
36  清新(36)
 一月十五日、青森市内の積雪は五十センチ近かった。この日は「成人の日」で祝日であった。青森文化会館では、午後一時半から新春記念指導会が開催されることになっていた。
 雪がやみ、晴れ間を見せたかと思うと、すぐに小雪が舞い、また、吹雪き始めるという天候のなか、参加者は喜びを満面にたたえて、意気揚々と集って来た。
 山本伸一は、指導会に先立って、晴れの成人式を迎えたメンバーと、祝福の思いを込めて記念のカメラに納まった。
 晴れ着やスーツ姿の初々しい青年たちは、清新の気にあふれていた。なかには、伸一の青森訪問を聞いて、東京から駆けつけた、創価大学に学ぶ学生部員らもいた。
 「おめでとう! よく来たね。嬉しい。
 君たちは私の希望です。学会の希望です。私は、皆さんのために命がけで、道を開いていきます。
 十年後、いや、それでは遅いな。五年後にお会いしよう。忘れずに私に言ってくるんだよ。お元気で! 未来を頼むよ!」
 彼は、青年を見ていて思った。
 “一人ひとりが光り輝いている。皆が、大きな可能性をもっている。この青年たちが育っていけば、青森の未来は大きく開ける。
 苦労し、苦労し抜いて、忍耐力を培ってほしい。苦労なくしては、強くなれない。人の苦しみはわからない。
 そして、広宣流布への大情熱を、さらに、さらに燃え上がらせてほしい。自らに情熱なくしては、友の心を温めることはできない。分厚い困難の根雪をとかすこともできない”
 伸一は、成人式を迎えたメンバーだけでなく、役員の青年たちとも記念撮影した。
 「皆さんのお父さんやお母さんなど、草創の同志は、真剣勝負で戦ってきた。最初は、周囲に誰一人として理解者はなく、村八分同然のなかで、何をされようが、勇敢に折伏に歩いた。広宣流布の道は、常に猛吹雪です。しかし、それを乗り越えて進むしかない。君たちが、その決意と実践を受け継いでこそ、広宣流布の原野を開くことができるんです」
37  清新(37)
 山本伸一は、役員の青年たちと記念のカメラに納まり、近況などを尋ねていった。そして、握手を交わすと、力強く訴えた。
 「青森の青は“青年の青”だ! 青森の森は“人材の森”だ! どうか青森青年部は、広宣流布を担い立つ人材の森に育ってほしい。二十一世紀の学会の柱は、青森の君たちだよ」
 一人の男子部員が、伸一に報告した。
 「先生。先日、友人を入会させることができました!」
 「そうか。おめでとう。その友人によろしく。しっかり面倒をみてあげてください。
 弘教を実らせることほど、すばらしい人生の栄光はありません。慈悲と友情の究極です。崩れざる永遠の幸せの道を教えたんですから。また、それでこそ、学会の後継者です。
 青年に、その慈折広布の精神と実践がある限り、学会の未来は盤石です」
 創価学会の信心は、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の御本尊への絶対の確信から始まる。そして、地涌の菩薩の使命を自覚し、死身弘法の決意に立って、日蓮大聖人の民衆救済の大法を広宣流布していく、仏意仏勅の団体が創価学会である。
 ゆえに、もしも、御本尊への大確信を失うならば、創価の信心の火は消え失せてしまう。また、折伏・弘教の実践がなくなれば、学会の魂は絶え果てる。したがって、この二つを受け継ぐなかにこそ、創価の師弟があり、後継の正道があるのだ。
 あの宗門が、戦時中、権力に迎合する一方で、権威の維持に汲々とし、腐敗堕落していったのも、御本尊への絶対の確信なきゆえであり、宗開両祖の精神である、広宣流布の大願に生きることを忘れたからである。
 大法弘通の闘争がなければ、確信の火は燃えず、歓喜がもたらす生命の躍動もない。
 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を旗印に進む創価の大道には、慈悲と確信と歓喜の対話が弾み、幸の花々が咲き薫る。
 生涯、地涌の誇りを胸に、折伏・弘教の旗を掲げ通す人こそが、真正の創価の勇者である。
38  清新(38)
 役員の青年らの激励を続けた山本伸一は、同行していた副会長の関久男に言った。
 「東北には、立派な青年たちが育っているね。春になれば、根雪を破っていっせいに若芽が顔を出し、やがて新緑の季節が来る。東北の緑は、ことのほか美しい。清新の息吹にあふれている。東北の青年たちを見ていると、その草木の力を感じさせるね。
 今はまだ、風雪の季節だ。しかし、春は、そこまで来ているんだ。この青年たちが、必ず根雪をとかし、二十一世紀には、創価の春を、そして、新緑の季節を開いてくれるよ」
 未来を仰ぐように目を細め、笑みをたたえて語る伸一の声は弾んでいた。
 青森県新春記念指導会は、午後一時半過ぎから開始された。
 勤行に続いて、県長の加取伸介ら県幹部のあいさつとなった。
 加取は「今日は『成人の日』です。いよいよ青森が、広布の若武者として出陣する日です!」と呼びかけた。
 また、婦人部の代表は、はつらつと訴えた。
 「東北、なかでも青森の使命である広宣流布の総仕上げに向かって、私たち婦人部は、唱題第一、実践第一、団結第一で、明るく、粘り強く、新しい挑戦を開始してまいります。
 そのために、まず私自身から、徹底して皆さんとお会いし、心を通わせ合い、すべての活動の先頭を切ってまいります!」
 すると伸一は、大拍手を送りながら、県長の加取ら壮年幹部を見て言った。
 「婦人部が一生懸命に頑張ろうとしているんです。本来ならば、ここで壮年部が、『いいえ、私たちが戦いますから、婦人部の皆さんはお休みになってください』と言うべきじゃないの。やっぱり、最後の総仕上げは、壮年でしょ。違いますか?」
 婦人たちから大拍手が起こった。
 壮年が立ち上がれば、皆が安心できる。
 マハトマ・ガンジーは叫んだ。
 「男らしさとは、戦うことにある」(『マハトマ・ガンジー全集 33巻』インド政府出版局〈英語〉)
39  清新(39)
 青森県新春記念指導会は、会長・山本伸一の指導となった。彼は、無量義経を通して、御本尊に具わった生命変革の功徳力について語っておこうと思った。
 「無量義経は法華経の開経、序分となる教えであり、『無量義とは、一法従り生ず』(法華経25㌻)の文は皆さんも、よくご存じであると思います。
 この『一法』こそが妙法蓮華経であり、さらには、日蓮大聖人様が御図顕になった南無妙法蓮華経の御本尊であります。そして、この『一法』が法華経二十八品へ、八万法蔵へ、一切法へと開かれていく。それは裏返せば、教育、科学、政治、経済等々の諸学問、諸思想も、『一法』である妙法に、すべて包含されていることを意味します」
 こう前置きしたあと、伸一は、無量義経の「善男子よ。第一に是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして、菩提心を発さしむ」(同43㌻)から、「善男子よ。是を是の経の第一の功徳不思議の力と名づく」(同44㌻)までを講義していった。
 「文底の立場からこの文を見れば、人間の生命の変革を可能にする、御本尊の偉大なる力について述べられた箇所といえます。
 まだ発心しない菩薩には仏になる心を起こさせる。哀れむことをしない者には慈しみの心を起こさせ、殺戮を好む者に慈悲心を起こさせ、嫉妬心をいだく者には随喜の心を起こさせ、財宝や名誉などに執着する者には、そのとらわれの心を捨てさせる。
 また、強欲な者には施しの心を、慢心の者には自らを律する心を、人を恨み怒る者には忍耐の心を、怠惰な者には精進の心を、心が乱れている者には平静なる心を、愚痴が多い者には智慧の心を起こさせるというんです。
 現代は、エゴの渦巻く社会です。他を思いやる余裕もなければ、冷酷なほど利己主義が深まっています。家庭には不和、社会には複雑な葛藤、争いが絶え間ない。
 その根本的な解決の道は、信心による生命の変革、つまり、人間革命しかありません」
40  清新(40)
 生命の内奥から込み上げてくる人間の感情や欲望は、道徳や規律、また制裁の強化など、制度の改革をもってしても、根本的に抑制することはできない。一切の根源をなす生命そのものの変革、心の変革こそが、個人の幸福を実現していくうえでも、世界の平和を築いていくうえでも、最重要のテーマとなる。
 「心の錬磨に基礎をおかない限り、知性の開拓が人間を尊貴にすることはできない」(ペスタロッチ箴言集『人間の教育』フィロソフィカル・ライブラリー社〈英語〉)とは、スイスの大教育者ペスタロッチの箴言である。
 山本伸一は、力強く訴えた。
 「わが心を磨き、生命の変革を可能にするのが御本尊の力です。仏法を自分の狭い見識の範囲内で推し量ってはならない。
 そして、御本尊の無限の力を引き出していく具体的な実践が唱題なんです。ゆえに、唱題こそ、人間革命の原動力であることを銘記していただきたい。
 私たちは、不幸に苦しむ人びとのなかに飛び込み、この無量無辺の力ある御本尊のもとへと導き、自他共の幸せを築くため、日夜、法戦を展開してまいりました。それは、仏法の眼から見れば、仏の使いとしての実践であり、末法に出現した地涌の菩薩の振る舞いです。また、社会的に見れば、最も根源的な改革者の行動です。
 その戦う皆さん方を、御本尊が見捨てるわけがありません。すべての宿業を勝ち越えていけることを強く確信していただきたい。
 さらに、やがて人類の歴史は、民衆の手による、この地道な生命変革の運動を、高く評価することは間違いありません」
 青森は旧習も深く、さまざまな土着の信仰がある。しかし、加持祈祷頼みの信仰や“おすがり信仰”であれば、人間の内発的な力を開花させることはできない。
 伸一は、日蓮大聖人の仏法は生命の変革を説く「人間革命の宗教」であり、全人類の宿命を転換し、世界の平和を実現する、人間のための宗教であることを、あらためて確認しておきたかったのである。
41  清新(41)
 山本伸一は、青森県新春記念指導会で、こう話を締めくくった。
 「今はまだ、青森の冬は厳しい。しかし、凍てる雪の下で、既に若芽は萌え出る準備をしているんです。御金言のごとく、冬は必ず春となります。そして、風雪の辛さを知るからこそ、春を迎えた喜びは大きい。
 苦労に苦労を重ねて広宣流布の道を開いてこられた皆さんには、最も幸福になる権利があるんです。皆さんが幸福に満ちあふれた、希望輝く清新の春を迎えることは明らかです。どうか、御本尊の功徳に浴し、立派な人間革命の姿をもって、晴れやかな人生を送られるよう念願し、あいさつといたします」
 大きな、大きな拍手が広がった。皆、歓喜に頬を染め、瞳を輝かせながら、新しい出発の決意を固めたのである。
 伸一は、直ちに、会場の広間に入りきれなかった人たちのもとへ向かった。廊下で、ロビーで、参加者に声をかけ、握手を交わした。時として、体はもみくちゃにされた。しかし彼は、一人ひとりの同志の発心と人生の勝利を願って、全力で励まし続けた。
 さらに、夕刻には、オーバーを着て、毛糸の帽子をかぶり、小雪の舞うなか、会館の周辺を回った。あちこちに、何人もの学会員がいた。路上で激励の対話を重ね、そして、県幹部らとの懇談会に出席したのだ。
 一月十六日、伸一が東京に戻る日だ。雪はやんでいた。見送ってくれた青森の代表のメンバーに、彼は言った。
 「また、必ずまいります。その時には、奥入瀬の研修道場にも行きます。奥入瀬の滝のように、清冽な信心を貫いていこうじゃないですか。広宣流布の総仕上げを頼みます」
 伸一は、車中の人となった。
 窓の外を見ると、会館の庭から、雲に覆われた空に、色鮮やかな武者絵の描かれた大凧が揚がっていた。烈風を受け、悠揚と天に舞う凧は、青森の若師子の心意気を思わせた。
 ──青年よ、試練を友とせよ。どこまでも忍耐強くあれ。「艱難汝を玉にす」ゆえに。
42  清新(42)
 青森文化会館を後にした山本伸一が、三沢会館を初訪問して、空路、東京に戻ったのは午後三時半過ぎであった。
 彼には、二月初めから十八日間にわたる香港・インド訪問が控えていた。その準備とともに、新年の出発となる本部幹部会や全国県長会議、本部職員の会合、東京支部長会など、定例の諸行事も間断なく組まれている。また、その間に、国際宗教社会学会の会長を務めたオックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授との会談や、アビタール・シン駐日インド大使との会談も予定されていた。
 広宣流布、世界平和の実現をわが使命と定め、その潮流を起こしていくには、なさねばならぬことはあまりにも多かった。まさに体が幾つあっても足りない状況である。しかし伸一は、常にそれを着実にこなしていった。
 時として人は、一度に幾つもの大きな課題を抱え込むと、気ばかりが焦り、結局は、何も手につかなくなり、ギブアップしてしまうことがある。
 人間が、一時にできるのは一つのことだ。ゆえに、さまざまな課題や仕事が一挙に降りかかってきた場合には、行う順番を決め、綿密なスケジュールを組んで、一瞬一瞬、一つ一つの事柄に全精魂を傾け、完璧に仕上げていくことである。
 それには、大いなる生命力が必要となる。そのために、真剣な唱題が大事になる。
 伸一の日々は、多忙を極めていたが、傍目には、いつも悠々としているように見えた。青年時代から戸田城聖のもとで激務をこなし、億劫の辛労を尽くすなかで、困難な幾つもの課題を成し遂げていく力を培ってきたからだ。まさに師の訓練の賜物であった。労苦なくして人間を磨くことはできない。
 「時は生命だ」(『魯迅全集8』今村与志雄訳、学習研究社)とは、文豪・魯迅の言葉である。
 時間をいかに使うか──それは、人生で何ができるかにつながっていく。時を最も有効に活用できる人こそが人生の勝利者となる。
43  清新(43)
 一月十九日には、神奈川県の川崎文化会館で、清新の気みなぎる一月度本部幹部会が、晴れやかに行われた。
 席上、「七つの鐘」総仕上げの年の意義を込めて、本部長をはじめ、合唱団、音楽隊などの代表に表彰状が贈られた。
 山本伸一は、この佳節の年を迎えた感慨を胸に、恩師・戸田城聖への思いを語った。
 「私は、日々、戸田先生の指導を思い起こし、心で先生と対話しながら、広宣流布の指揮を執ってまいりました。
 戸田先生が、豊島公会堂で一般講義をされたことは、あまりにも有名であり、皆さんもよくご存じであると思います。
 ある時、『曾谷殿御返事』の講義をしてくださった。『此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候』の箇所にいたった時、先生は、『これだよ。“いまだこりず候”だよ』と強調され、こう語られたことがあります。
 『私どもは、もったいなくも日蓮大聖人の仏子である。地涌の菩薩である。なれば、わが創価学会の精神もここにある。不肖私も広宣流布のためには、“いまだこりず候”である。大聖人の御遺命を果たしゆくのだから、大難の連続であることは、当然、覚悟しなければならない! 勇気と忍耐をもつのだ』
 その言葉は、今でも私の胸に、鮮烈に残っております。
 人生には、大なり小なり、苦難はつきものです。ましてや広宣流布の大願に生きるならば、どんな大難が待ち受けているかわかりません。予想だにしない、過酷な試練があって当然です。しかし、私どもは、この“いまだこりず候”の精神で、自ら決めた使命の道を勇敢に邁進してまいりたい。
 もとより私も、その決心でおります。親愛なる同志の皆様方も、どうか、この御金言を生涯の指針として健闘し抜いてください」
 学会は大前進を続けてきた。だからこそ伸一は、大難の襲来を予感していたのだ。
44  清新(44)
 一月二十日夕刻、山本伸一は、来日中のオックスフォード大学のウィルソン社会学教授と、東京・渋谷の国際友好会館(後の東京国際友好会館)で会談した。
 教授とは、前年十二月二十五日の聖教新聞社での語らいに続いて二度目の会談である。
 最初の会談の折、いかにして人材を育て上げていくかが話題となった。
 教授は、オックスフォード大学ではマスプロ教育を排して、学生への一対一の個人教育・指導を主眼とするチューター制度を導入していることを紹介。それによって、個人差のある学生たちを向上させ、素質を開花させていくように努めていると語った。
 伸一は、学生個々人に光を当てていこうとする精神に共感するとともに、創価学会は草創期以来、伝統的に、一人ひとりの向上に焦点を合わせて、個人指導を一切の活動の機軸としてきたことを述べた。
 また、信仰と組織の関係についても話題にのぼった。信仰が個人の内面の自由に基づいているのに対して、組織は、ともすれば人間を外側から拘束するものになりかねない。
 伸一は、組織のもたらす問題点を考慮したうえで、各人の信仰を深化するための手段として、組織は必要であるとの立場を明らかにし、教授の見解を尋ねた。
 ウィルソン教授は、まさに、それこそが宗教社会学のポイントとなるテーマであり、意見が分かれるところであるとしたうえで、概要、次のように答えた。
 ──多くの教団は、所期の目的を達成してしまうと、内部的な矛盾が露呈してくるものである。その弊害に陥らないためには、常に目的意識の高揚と、誠意と真心で結ばれた人間関係が不可欠になる。
 つまり、組織は人間のためにあるという原点を常に見失うことなく、誠意と真心という人間性の絆が強靱であることが、組織主義の弊害を克服する力になるというのだ。
 この時の語らいは、実に四時間にも及び、二人は、再会を約し合ったのである。
45  清新(45)
 ウィルソン教授は、日本滞在中に、国際宗教社会学会東京会議に出席したのをはじめ、創価学会の各地の文化会館や研修道場等も見学した。また、創価大学や創価学園も視察し、創価大学では、「文化と宗教──社会学的見地から見た西洋と東洋の宗教」と題して記念講演も行った。
 そして、この一月二十日、帰国のあいさつのため、渋谷の国際友好会館に山本伸一を訪ねたのである。
 教授は、今回の滞在中に、多くの学会員に接し、創価学会が生きた宗教団体として、真剣に文化、平和に貢献している一端をうかがい知ることができたとの所感を語った。
 伸一は、二十一世紀にあって、宗教は今以上に、社会に必要な存在となっていくかどうかを尋ねた。
 すると教授は、主に欧米における宗教事情を研究している立場から分析すると、社会的にも、個人という面でも、宗教を必要とする人は少なくなっていくのではないかとの見解を述べた。つまり、宗教離れが進んでいくというのである。しかし、憂慮の表情を浮かべて、「本来、宗教は人間にとって必要不可欠なものです」と付け加えた。
 伸一も、人びとの心が宗教から離れつつあることを強く危惧していた。近代インドの思想家ビベーカーナンダが「宗教を人間社会から取り去ったら何が残るか。獣類のすむ森にすぎない」(『スワミ・ヴィヴェーカーナンダ その生涯と語録』ヴィヴェーカーナンダ研究会編、アポロン社)と喝破したように、宗教を失った社会も、人間も不安の濃霧のなかで、欲望という荒波に翻弄され、漂流を余儀なくされる。そして、人類がたどり着いた先が、科学信仰、コンピューター信仰、核信仰、拝金主義等々であった。
 だが、際限なく肥大化した欲望の産物ともいうべき、それらの“信仰”は、精神の荒廃や空洞化をもたらし、人間不信を助長し、公害や人間疎外を引き起こしていった。
 科学技術も金銭も、それを人間の幸福、平和のために使っていくには、人間自身の変革が不可欠であり、そこに宗教の役割もある。
46  清新(46)
 文豪トルストイが述べた“人間が宗教なしでは生きられない理由”を、弟子のビリューコフは、次の六つにまとめている。(ビリューコフ著『大トルストイI』原久一郎訳、勁草書房)
 「第一に、宗教のみが善悪の決定を与えるからである」
 「第二に、宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを知ることが決してできないからである」
 「第三に、ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである」
 「第四に、宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである」
 「第五に、宗教のみが人間に生の意義を与えるからである」
 「第六に、宗教のみが人間の平等を樹立するからである」
 ──それは、人間の幸福、世界の平和を実現するうえで、宗教の存在が不可欠であることを示すものといえよう。
 ウィルソン教授と山本伸一との会談では、今後、宗教が担うべき使命などについて、意見の交換が行われた。そのなかで伸一は、こう要望した。
 「ウィルソン先生にお願いしたいことは、第三者の立場から、客観的に見て創価学会へのご意見があれば、忌憚なく言っていただきたいということです。二十一世紀に向かう人類のための宗教として、学会が健全に発展していくために、私は謙虚に耳を傾けたいと思っております」
 教授は、目を輝かせながら語った。
 「会長の、そうした発言自体が、宗教者として実に進歩的なものであり、極めて大事な姿勢です」
 宗教は、過去に寄りかかり、原理主義、教条主義に陥り、時代を活性化していく活力を失ってしまうのが常であるからだという。
 教授は、「今後とも、会長とは率直に意見交換していくことを希望します」と述べた。
 そして、近い将来、さらに会談を重ね、それを対談集として出版していきたいということで、二人は意見の一致をみたのである。
47  清新(47)
 山本伸一は、ウィルソン教授との会談は極めて有意義であったと感じた。多くの意見に賛同することができた。
 特に、教授が、宗教が原理主義、教条主義に陥ってしまうのを憂慮し、警鐘を発していたことに、大きな共感を覚えた。
 人間も、また宗教も、社会、時代と共に生きている。そして、宗教の創始者も、その社会、その時代のなかで教えを説いてきた。
 したがって、教えには、不変の法理とともに、国や地域の文化・習慣等の違い、また時代の変化によって、柔軟な対応が求められる可変的な部分とがある。
 仏法は、「随方毘尼」という考え方に立っている。仏法の本義に違わない限り、各地域の文化、風俗、習慣や、時代の風習に随うべきだというものである。
 それは、社会、時代の違い、変化に対応することの大切さを示すだけでなく、文化などの差異を、むしろ積極的に尊重していくことを教えているといえよう。
 この「随方毘尼」という視座の欠落が、原理主義、教条主義といってよい。自分たちの宗教の教えをはじめ、文化、風俗、習慣などを、ことごとく「絶対善」であるとし、多様性や変化を受け入れようとしない在り方である。それは、結局、自分たちと異なるものを、一方的に「悪」と断じて、差別、排斥していくことになる。
 「人間は宗教的信念(Conscience)をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない」(森島恒雄著『魔女狩り』岩波書店)とは、フランスの哲学・数学・物理学者のパスカルの鋭い洞察である。つまり、宗教は、諸刃の剣となるという認識を忘れてはなるまい。
 本来、宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和のためにこそある。宗教の復権とは、宗教がその本来の使命を果たすことであり、それには、宗教の在り方を問い続けていく作業が必要となる。
 自らの不断の改革、向上があってこそ、宗教は社会改革の偉大な力となるからだ。
48  清新(48)
 宗教者が、自ら信奉する教えに対して強い確信をいだくのは当然であり、それなくしては、布教もできないし、その教えを精神の揺るがぬ柱としていくこともできない。
 大切なことは、その主張に確たる裏付けがあり、検証に耐えうるかどうかということである。確かな裏付けのない確信は、盲信であり、独善にすぎない。
 日蓮大聖人は「法華経最第一」とし、その法華経の肝要こそが南無妙法蓮華経であると宣言された。そして、確かな根拠を示さずに法華経を否定する諸宗の誤りを、鋭く指摘していった。それをもって大聖人を、独善的、非寛容、排他的などという批判がある。
 しかし、全く的外れな見方といえる。大聖人は、比叡山など各地で諸宗諸経の修学に励み、文証、理証、現証のうえから、それぞれの教えを客観的に比較研究して精査し、結論されたのだ。つまり精緻な検証を踏まえての確信である。
 また、仏教の真実の教えとは何かについて、広く論議し、語り合うことを、諸宗の僧らに呼びかけ続けてきた。
 そして「智者に我義やぶられずば用いじとなり」と、かりに自分以上の智者がより正しく深い教えを示すのであれば、それに従おうと明言されているのだ。
 そこには、宗教こそ人間の生き方、幸・不幸を決する根本の教えであるがゆえに、徹して独善を排して真実を究明し、公にしていかなければならないという、真摯な探究、求道の姿勢がある。同時に、破られることなど絶対にないとの、大確信に基づいた御言葉であることはいうまでもない。
 堅固な宗教的信念をもって、開かれた議論をしていくことと、排他性、非寛容とは全く異なる。理性的な宗教批判は、宗教の教えを検証し、また向上させるうえで、むしろ不可欠な要件といえる。
 一貫して公的な場での法論を主張する大聖人に対して、諸宗の僧らは、それを拒み、幕府の権力者と結託し、迫害、弾圧を加えた。
49  清新(49)
 日蓮大聖人は、建長五年(一二五三年)四月二十八日、清澄寺で立宗宣言された折の最初の説法から、既に念仏の教えの誤りを指摘されている。当時、念仏信仰は、民衆の易行として諸宗が認めていたことに加え、専修念仏を説く法然の門下によって弘められ、大流行していたのである。
 易行は、難行に対する語で、易しい修行を意味する。また、専修念仏とは、ただひたすら念仏を称えることによって、死して後に、西方極楽浄土に行けるという教えである。
 世間には飢饉、疫病などが広がり、末法思想に基づく厭世主義が蔓延していた。この世を「穢土」とし、西方十万億土という他土での往生のみに救いがあるという念仏信仰に、人びとの心は傾斜していった。
 しかし、その教えは、人びとを現実から逃避させ、他力のみにすがらせ、無気力にさせる。つまり、幸福に向かって自ら努力することを放棄させ、社会の向上、発展への意欲を奪い取っていった。まさに、人間を弱くする働きをなしたのである。
 しかも、法然は、法華経を含め、念仏以外の一切の教えを「捨閉閣抛」、すなわち「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いていた。文証、理証、現証のいずれをも無視した、この独善的で排他的な主張を、法然門下の弟子たちは盛んに繰り返してきたのである。
 法華経は、皆が等しく仏の生命を具えていることを説き明かした万人成仏の教えである。法華経以外の教えが、生命の部分観にすぎないのに対して、生命を余すところなく説き明かした円教の教えである。
 このころ、法然の弟子である念仏僧は、幕府の権力者に取り入って、念仏は、ますます隆盛を誇りつつあった。それを放置しておけば、正法が踏みにじられ、民衆の苦悩は、ますます深刻化していく。
 ゆえに大聖人は、「立正安国論」を幕府の実権を握っていた北条時頼に提出し、そのなかで、世の混乱と不幸の元凶が念仏にあることを説き、諫めたのである。
50  清新(50)
 日蓮大聖人が「立正安国論」を認められた当時の鎌倉は、大地震が頻発し、飢饉が打ち続き、疫病が蔓延していた。
 時代を問わず、人は最悪な事態が続くと、自分のいる環境、社会に絶望し、“もう、何をしてもだめだ”との思いをいだき、“この苦しい現実からなんとか逃れたい”と考えてしまいがちなものだ。
 そして、今いる場所で、努力、工夫を重ねて現状を打破していくのではなく、投げやりになったり、受動的に物事を受けとめるだけになったりしてしまう。その結果、不幸の連鎖を引き起こしていくことになる。
 それは、鎌倉時代における、「西方浄土」を求める現実逃避、「他力本願」という自己努力の放棄などと、軌を一にするとはいえまいか。いわば、念仏思想とは、人間が困難に追い込まれ、苦悩に沈んだ時に陥りがちな、生命傾向の象徴的な類型でもある。
 つまり、人は、念仏的志向を生命の働きとしてもっているからこそ、念仏に同調していくのである。大聖人は、念仏破折をもって、あきらめ、現実逃避、無気力といった、人間の生命に内在し、結果的に人を不幸にしていく“弱さ”の根を絶とうとされたのである。
 大聖人は叫ばれている。
 「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなりここを去つてかしこに行くには非ざるなり」と。
 南無妙法蓮華経と唱え、信心に励むところが、成仏へと至る仏道修行の場所となるのだ。自分の今いるところを去って、どこかにいくのではない。この荒れ狂う現実のなかで、生命力をたぎらせ、幸福を築き上げていく道を教えているのが日蓮大聖人の仏法である。
 ところで、大聖人は、念仏をはじめ、禅、律、真言の教えを厳格に検証し、批判していったが、法華経以外の諸経の意味を認めていなかったわけではない。
 それは、御書の随所で、さまざまな経典を引き、信心の在り方などを示していることからも明らかである。
51  清新(51)
 第二代会長・戸田城聖は、青年たちへの指針のなかで、「われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。(中略)その実態を科学的に調査している」(「青年よ国士たれ」(『戸田城聖全集1』所収)聖教新聞社)と記している。
 この言葉に明らかなように、創価学会もまた、日蓮大聖人の御精神を受け継いで、常に宗教への検証作業を行ってきた。
 そして、調査、研究を重ね、検証を経て、日蓮仏法こそ、全人類を救済し、世界の平和を実現しうる最高の宗教であるとの確信に立ったのである。
 自分が揺るがざる幸福への道を知ったとの確信があるならば、人びとにも教え伝え、共有していくことこそ、人間の道といえよう。
 ゆえに学会は、布教に励むとともに、座談会という対話の場を重視し、他宗派や異なる考え方の人びとと語り合い、意見交換することに努めてきた。それは、納得と共感によって、真実、最高の教えを人びとに伝えようとしてきたからである。
 宗教は、対話の窓を閉ざせば、独善主義、教条主義、権威主義の迷宮に陥ってしまう。
 対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける。
 座談会などでの仏法対話によって、共に信心をしてみようと入会を希望する人は多い。また、信心はしなくとも、語らいのなかで学会への誤解等は解消され、日蓮仏法への認識と理解を深めている。
 そして、相手の幸せを願っての真剣な語らいが進むにつれて、私たちの真心が伝わり、人間としての信頼と友情が育まれている。
 日蓮大聖人の仏法は、人間が苦悩を乗り越え、幸せを築き上げるための宗教である。
 大聖人御自身が、「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と仰せのように、仏法の目的は、人間の苦悩からの解放にある。
 宗教が人間の救済を掲げるならば、決して人間を手段にしてはならない。
52  清新(52)
 一九七九年(昭和五十四年)当時、世界は東西冷戦の暗雲に覆われていた。そして、その雲の下には、大国の圧力によって封じ込められてはいたが、民族、宗教の対立の火種があった。東西の対立は終わらせねばならない。だが、そのあとに、民族・宗教間の対立が一挙に火を噴き、人類の前途に立ちふさがる、平和への新たな難問となりかねないことを、山本伸一は憂慮していた。
 その解決のためには、民族・宗教・文明間に、国家・政治レベルだけでなく、幾重にも対話の橋を架けることだと、彼は思った。
 戸田城聖が第二代会長であった五六年(同三十一年)、ハンガリーにソ連が軍事介入し、親ソ政権を打ち立てたハンガリー事件が起こった。東西両陣営の緊張を背景にした事件である。この時、戸田は、一日も早く、地上からこうした悲惨事のない世界をつくりたいと念願し、筆を執った。
 「民主主義にもせよ、共産主義にもせよ、相争うために考えられたものではないと吾人は断言する。しかるに、この二つの思想が、地球において、政治に、経済に、相争うものをつくりつつあることは、悲しむべき事実である」(「仏法で民衆を救済」『戸田城聖全集3』所収、聖教新聞社)
 人間の幸せのために生まれた思想と思想とが、なぜ争いを生むのか──その矛盾に、戸田は真っ向から切り込んでいった。
 「ここに、釈迦の存在とキリストの存在とマホメット(ムハンマド)の存在とを考えてみるとき、またこれ、相争うべきものではないはずである。もし、これらの聖者が一堂に会するとすれば、またその会見に、マルクスも、あるいはリカードもともに加わったとするならば、いや、カントも天台大師も加わって大会議を開いたとすれば、けっしてこんなまちがった協議をしないであろう」(同前)
 彼は、相争う現実を生んだ要因について、思想・宗教の創始者という「大先輩の意見を正しく受け入れられないために、利己心と嫉妬と、怒りにかられつつ、大衆をまちがわせているのではなかろうか」(同前)と述べる。
53  清新(53)
 人間は──誰もが等しく、尊厳なる、かけがえのない存在である。誰もが等しく、幸福になる権利がある。誰もが等しく、平和に暮らす権利がある。本来、いかなる者も、人の幸福と平和を奪うことなどできない。
 これは、一切衆生が仏の生命を具えていることを説く、仏法の法理から導き出された帰結であるが、人間の救済をめざす一切の思想・宗教の立脚点にほかなるまい。
 戸田城聖が語ったように、キリストやムハンマドなど、世の賢聖たちは、宗教的・思想的信条の違いはあっても、人間の幸福こそ根本目的であるということには瞬時に合意しよう。そして、ここを起点として対話を重ね、複雑に絡み合った偏見、差別、反目、憎悪の歴史の糸をほぐし、共存共栄の平和図を描き上げていくにちがいない。
 人類の幸福と平和のために宗教者に求められることは、教えの違いはあっても、それぞれの出発点となった“救済”の心に対して、互いに敬意を払い、人類のかかえる諸問題への取り組みを開始することであろう。
 ましてや、日蓮仏法が基盤とする法華経は、万人が仏の生命を具えた、尊厳無比なる存在であると説く。ゆえに、いかなる宗教の人をも、尊敬をもって接していくのが、その教えを奉ずる私たちの生き方である。
 この地球上には、思想・宗教、国家、民族等々、さまざまな面で異なる人間同士が住んでいる。その差異にこだわって、人を分断、差別、排斥していく思想、生き方こそが、争いを生み、平和を破壊し、人類を不幸にする元凶であり、まさに魔性の発想といえよう。
 戸田が提唱した、人間は同じ地球民族であるとの「地球民族主義」の主張は、その魔性に抗する、人類結合の思想にほかならない。
 宗教者が返るべきは、あらゆる差異を払った「人間」「生命」という原点であり、この普遍の共通項に立脚した対話こそ、迂遠のようであるが、相互不信から相互理解へ、分断から結合へ、反目から友情へと大きく舵を切る平和創造の力となる。
54  清新(54)
 人類は、往々にして紛糾する事態の解決策を武力に求めてきた。それが最も手っ取り早く有効な方法と考えられてきたからだ。しかし、武力の行使は、事態をますます泥沼化させ、怨念と憎悪を募らせたにすぎず、なんら問題の解決にはなり得なかった。
 一方、対話による戦争状態の打開や差別の撤廃は、人間の心を感化していく内的な生命変革の作業である。したがって、それは漸進的であり、忍耐、根気強さが求められる。
 ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道を開いていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。
 実は、そこに平和への最大の関門がある。
 仏法の眼から見た時、その絶望の深淵に横たわっているのは、人間に宿る仏性を信じ切ることのできない根本的な生命の迷い、すなわち元品の無明にほかならない。世界の恒久平和の実現とは、見方を変えれば、人間の無明との対決である。つまり、究極的には人間を信じられるかどうかにかかっており、「信」か「不信」かの生命の対決といってよい。
 そこに、私たち仏法者の、平和建設への大きな使命があることを知らねばならない。
 山本伸一は、中ソ紛争や東西冷戦の時も、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理、アメリカのキッシンジャー国務長官など各国首脳と、平和を願う仏法者として積極的に会談を重ねてきた。
 また、宗教間対話、文明間対話に力を注ぎ、二十一世紀の今日にいたるまでに、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、さらに社会主義国等の、指導者や学識者らと率直に対話し、意見を交換してきた。
 そのなかで強く実感したことは、宗教、イデオロギー、国家、民族は違っても、皆が等しく平和を希求しているという事実であり、同じ人間であるとの座標軸が定まれば、平和という図表を描くことは、決して不可能ではないということだ。
55  清新(55)
 時代が変動していくなかで、宗教には、人びとの精神に、平和と幸福を創造する智慧の光を送り続ける使命と責任がある。
 そのために宗教者には、共に最高の真理を探究し続け、教えを自ら比較、検証し、切磋琢磨していく向上への努力が不可欠となる。それを欠いた宗教は、社会から遊離したものになりかねない。
 では、宗教を比較、検証するうえで求められる尺度とは何であろうか。平易に表現すれば、「人間を強くするのか、弱くするのか」「善くするのか、悪くするのか」「賢くするのか、愚かにするのか」に要約されよう。
 また、宗教同士は、人類のためにどれだけ貢献できるかを競い合っていくことだ。つまり、初代会長・牧口常三郎が提唱しているように、「人道的競争」に力を注いでいくのだ。武力などで相手を威服させるのではなく、自他共の幸福のために何をし、世界平和のためにどれだけ有為な人材を送り出したかなどをもって、共感、感服を勝ち取っていくのである。
 さらに、人類の平和、幸福のために必要な場合には、宗教の違いを超えて協力し合い、連帯していくことも大事である。
 山本伸一は、本年、「七つの鐘」が鳴り終わることを思うと、未来へ、未来へと思索は広がり、二十一世紀へ向かって、人類の平和のために学会が、宗教が、進むべき道について考えざるをえなかった。そして、宗教の在り方などをめぐっての、ウィルソン教授との意見交換を大切にしていきたいと思った。
 伸一と教授は、その後、ヨーロッパで、日本で対談を重ね、また書簡をもって意見交換し、一九八四年(昭和五十九年)秋、英語版の対談集『社会と宗教』をイギリスのマクドナルド社から発刊する。翌年には、日本語版を講談社から刊行。それは、多くの言語に翻訳、出版されていった。
 西洋と日本、宗教社会学者と宗教指導者という、立場の異なる両者の対話であったが、人類の未来を展望しての精神の共鳴音は、鮮やかな響きを奏でたのである。
56  清新(56)
 霧島連山は冬の雲に覆われ、薄日が差したかと思うと、雪がちらつくといった、安定しない天気であった。
 一九七九年(昭和五十四年)二月一日、山本伸一は鹿児島県の九州研修道場にいた。三日には鹿児島を発ち、香港を経てインドを公式訪問することになっていたのである。
 伸一は、五年前の七四年(同四十九年)の二月と十月に、シルベンガダ・タン駐日インド大使と会談し、日印の友好・文化交流について語り合った。その二度の会談で、大使からインド訪問の要請があったのである。
 そして、翌七五年(同五十年)二月、在日インド大使館を通じて、インド文化関係評議会(ICCR)から正式に招待したい旨の書簡が届いた。さらに十二月、タン大使の後任であるエリック・ゴンザルベス大使と伸一が会談した際にも、あらためてインドへの公式訪問を求められたのである。
 伸一は、インド側の友情と誠意に応えようと準備を進めてきた。そして、この年二月の訪問が実現の運びとなったのであった。
 インドは、中国と並んで巨大な人口を擁する大国であり、宗教も、八割を占めるヒンズー教のほか、イスラム教、キリスト教、シーク教、ジャイナ教、仏教などがある。また、多民族、多言語で、インドの憲法では、十四言語(当時)を地方公用語として認めている。
 その多様性に富んだ、“世界連邦”ともいうべきインドの興隆は、人類の平和の縮図となり、象徴になると伸一は考えていた。また、何よりもインドは仏教発祥の国である。そこに彼は、大恩を感じていたのである。
 ゆえに、民間人の立場から、日印の文化交流を強力に推進する道を開き、インドの発展に貢献しようと決意していたのだ。
 インドの生んだ詩聖タゴールは訴えた。
 「人類が為し得る最高のものは路の建設者になることであります。しかしその路は私益や権力の為の路ではなくて、人々の心が異なれる国々の兄弟達の心に通うことの出来る路なのであります」(タゴール講演集『古の道』北昤吉訳、プラトン社=現代表記に改めた)
57  清新(57)
 山本伸一の三度目となる今回のインド訪問は、「七つの鐘」の掉尾を飾るとともに、二十一世紀への新しい旅立ちとなる、ひときわ深い意義をもつ世界旅であった。
 彼は、その記念すべき訪問の出発地を、どこにすべきかを考えた時、即座に九州しかないと思った。九州は、日蓮大聖人の御遺命である「仏法西還」を誓願した恩師・戸田城聖が、東洋広布を託した天地であるからだ。
 戸田は亡くなる前年の一九五七年(昭和三十二年)十月十三日、福岡市内にある大学のラグビー場で行われた九州総支部結成大会に出席し、集った三万人余の同志に、生命の力を振り絞るようにして叫んだ。
 「願わくは、今日の意気と覇気とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたい!」
 そして、万感の思いを込めて、特に男子青年に対して、「九州男児、よろしく頼む!」と、東洋広布を託したのである。
 伸一は、「七つの鐘」が鳴り終わる年を迎えた今、二十一世紀への世界広布の新出発もまた、「先駆」を掲げる九州の同志と共に開始したかったのである。
 彼が九州研修道場に到着したのは、前日の一月三十一日午後六時のことであった。
 九州の代表幹部らと懇談し、勤行したあと、彼は一人で思索のひとときを過ごした。
 外は、しとしとと冷たい雨が降り、それが、かえって静寂を募らせていた。
 彼は、「七つの鐘」終了後の、学会と広宣流布の未来へ、思いを巡らしていった。
 “今年は、会長就任から二十年目を迎え、日本の創価学会建設の基盤は、ほぼ完成をみたといえる。国内の広宣流布の礎は盤石となり、未来を託すべき人材も着々と育ってきている。また、学会は、仏法を根底にした平和・文化・教育の団体として、人間主義運動の翼を大きく広げつつある……”
 そう考えると、今後、自分が最も力を注ぐべきは世界広布であり、人類の平和の大道を切り開くことではないかと、伸一は思った。
58  清新(58)
 山本伸一は、自身の人生の最大テーマは、「世界広布の基盤完成」にあると心に決めていた。世界は、あまりにも広く大きい。早くその事業に専念しなければ、世界広宣流布の時を逸してしまいかねないとの強い思いが、彼の胸には渦巻いていた。
 「七つの鐘」が鳴り終わる今こそ、まさに、その決断の時ではないのかとも思えた。
 二月一日、九州研修道場では、伸一が出席して、「伝統の二月」のスタートを切る九州記念幹部会が開催されることになっていた。
 幹部会の開会前、彼は、研修道場内の移動の便宜を図るために設けられた橋の、テープカットに臨んだ。
 小雪が舞い、霧島の山々は、うっすらと雪化粧をしていた。皆が見守るなか、木製の橋の入り口に張り渡されたテープを、女子部の代表がカットした。
 伸一は、集まっていた人たちに尋ねた。
 「この橋の名前は?」
 皆が口々に答えた。
 「まだ、ありません!」
 「先生、名前をつけてください!」
 彼は、即座に、こう提案した。
 「日印橋でどうですか? 日本とインドに友好の橋を架けるという意義と決意を込めて、つけさせていただければと思います」
 歓声と拍手が起こった。
 それから伸一は、先頭に立って橋を渡った。同行の幹部は、雪が薄く積もった橋を革靴で渡る伸一が転びはしないかと、はらはらしながら見詰めていた。彼は、橋を渡ることで、準備にあたってくれた同志の真心に、真心をもって応えたかったのである。
 その小さな行動のなかにも、世界を結ぼうとする伸一の、哲学と信念があった。
 ──誠実と誠実が響き合い、心が共鳴する時、永遠なる友情の橋が架かる。利害と打算の結合は、状況のいかんで、淡雪のごとく、はかなく消え去ってしまう。友情の橋こそが、人間の絆となり、さらには、恒久平和を築く礎になる!
59  清新(59)
 九州記念幹部会は、午後一時過ぎに始まった。会場の大広間には、「先生、インドの旅お元気で行ってらっしゃい」と書かれた横幕が掲げられていた。集った同志は、山本伸一が意義あるインド訪問へ、九州の地から出発することに、喜びと誇りを感じていた。
 前方から会場に入った伸一は、皆の温かい拍手に迎えられ、参加者の中央を進んでいった。そして、大広間のいちばん後ろまでいくと、窓際に腰を下ろした。
 「今日は、ここで皆さんの話をお伺いします。“先駆の九州”の皆さんが団結し、意気盛んに、はつらつと前進する姿を心に焼きつけて、インドへ旅立ちたいんです」
 鹿児島の県長や九州の方面幹部、副会長の話と、式次第は進んでいった。
 伸一は、会場後方にあって、自分の近くに座っている人たちに視線を注いだ。そこに、見覚えのある懐かしい顔があった。宮崎県の藤根ユキである。
 彼女は、草創期から宮崎の地にあって、地区担当員(後の地区婦人部長)などを務め、近年は婦人部本部長として、真面目に、ひたぶるに信心に励んできた女性であった。伸一も、何度か出会いを重ねてきた。
 藤根は、一九七四年(昭和四十九年)に、苦楽を分かち合ってきた夫を亡くした。夫は、彼女をいちばん理解し、何でも話し合えた人生の伴侶であり、また、共に地域広布を切り開いてきた同志でもあった。心にぽっかりと大きな空洞ができ、すっかり元気をなくしてしまった。
 翌年の十二月、彼女は九州研修道場で伸一と会い、言葉を交わす機会があった。
 藤根は最愛の夫が他界したことを告げた。伸一は、こう言って彼女を励ました。
 「悲しいでしょうが、その悲しみに負けてはいけません。一人になっても、永遠の幸福のために戦っていくんです。ご主人の分まで頑張るんです。戦うあなたの心のなかに、ご主人は生き続けているんですから」
 その言葉に、藤根は奮い立った。
60  清新(60)
 山本伸一が藤根ユキを励ましてから、三年余がたっていた。伸一は今、ふくよかで明るい表情の彼女を見て言った。
 「藤根さん。元気になってよかったね」
 「はい! 実は、昨年、指導部になり、今は本部の指導長をしております」
 「そう。無理をしないで、体を大事にしながら、余裕をもって活動に励んでください」
 「それが、本部長をしていた時よりも忙しくなってしまいました。毎日、個人指導で予定はぎっしり詰まっています。でも、頼りにされていると思うと、嬉しくって……」
 「すごいことです。年配になって、ライン役職を離れても忙しいということは、その組織が団結し、仲が良いという証拠なんです。それが私の理想なんです。嬉しいことだ。
 また、あなたが“広宣流布のために、なんでもやらせてもらおう”との思いで、後輩を守り、積極的に活動に取り組んでいるからです。あなたの人柄ですよ。
 いつも文句ばかり言って動こうとしない先輩であれば、誰も相手にしなくなります。つまり、ラインの正役職を外れたあとの姿こそが大事なんです。誰からも頼りにされず、声もかけられないのでは寂しいものです。
 組織の立場は、みんな変わっていきます。しかし、広宣流布のために働こうという信心の姿勢は、変わってはいけません」
 藤根は、大きく頷きながら尋ねた。
 「でも、山本先生は、ずっと学会の会長でいてくださいますよね」
 「いや、私は、会長を辞めようかとも考えている。今や、学会本部には、世界中から大勢の同志が来る。海外の要人との対応も大事になっています。だから、会長は譲って、世界のために働こうと思っているんです」
 藤根は顔色を変えた。耳を疑った。
 「先生、困ります。本当に困ります」
 会合中であることも忘れ、必死に訴えた。
 伸一は、「わかったよ」と、微笑を浮かべた。三カ月後、この言葉が現実のものになるとは、藤根は想像さえできなかった。
61  清新(61)
 九州記念幹部会は、会場後方から山本伸一が見守るなか、本部長の代表抱負へと移った。皆、この「伝統の二月」を大勝利で飾ろうと、意気軒昂に決意を披瀝していった。
 婦人部代表の熊本県・熊本南本部の成増敬子が、明るく淡々と抱負を語り始めた。
 「私の本部は、熊本駅を中心に、夏目漱石の『草枕』で有名な金峰山から南は有明海までの広大な地域です。日々、愛車“広布号”に乗って、元気に駆け巡っています。
 個人指導に回っていると、婦人部員から、『どこに行きなはっとですか?』(どこへ行くのですか?)、『寄っていってはいよ』(寄っていってください)と、気さくに声がかかる人情味豊かな地域が、わが本部です。
 本年初頭、私は、自分が先頭に立って、一人ひとりと徹底して対話し、粘り強く励ましていこう、個人指導を推進していこうと決意し、実践してきました。この『伝統の二月』に、何人の友と会えるか楽しみです」
 伸一は思わず、「そうだ! それしかない」と声援を送っていた。恩師・戸田城聖が生涯の願業として掲げた会員七十五万世帯達成の突破口を開き、「伝統の二月」の淵源となった一九五二年(昭和二十七年)二月の蒲田支部での活動──その勝利の眼目は、まさに徹底した個人指導にあったのだ。
 伸一は、最前線組織であった組単位の活動を推進するために、各組を回っては、メンバーの激励に徹した。折伏の仕方がわからないという人には、自ら一緒に仏法対話した。
 会員のなかには、夫が病床に伏しているため、自分が働いて何人もの子どもを育てている婦人もいた。失業中の壮年もいた。資金繰りが行き詰まり、蒼白な顔で「もうおしまいです」と肩を落とす町工場の主もいた。
 皆が苦悩にあえいでいた。伸一は、その人たちの言葉に真剣に耳を傾け、時に目を潤ませながら、力強く、こう訴えた。
 「だからこそ信心で立つんです。御本尊の力を実感していくチャンスではないですか! 宿命転換のための戦いなんです」
62  清新(62)
 山本伸一に励まされた蒲田支部の同志は、一騎当千の闘士となって二月闘争に走った。
 皆が、途方に暮れるしかないほど深刻な悩みをかかえていた。しかし、そのなかで“私は信心で勝つ! 負けるものか!”と、広宣流布の使命に奮い立っていったのである。
 悩める人が、悩めるままの姿で決然と立ち上がり、友を励まし、広宣流布を進める──そこにこそ真実の共感が生まれ、人びとは、最高の勇気、最大の力を得ることができる。そこにこそ地涌の菩薩の実像がある。
 その戦いの帰結が、一支部で一カ月に二百一世帯という当時としては未曾有の弘教を実らせたのだ。そして、より重要なことは、勇んで二月闘争を展開した同志は、功徳の体験を積み、歓喜と確信に燃え、苦悩を乗り越えていったという厳たる事実である。
 どんなに大きな苦悩をかかえていても、友の幸せを願い、勇気をもって仏法を語り、励ます時、わが胸中に地涌の菩薩の大生命が脈打つ。その生命が自身の苦悩を打ち破り、汲々とした境涯を大きく開いていくのだ。
 創価学会とは励ましの世界である。励ましは慈悲の発露であり、この実践のなかに仏法がある。広宣流布とは、励ましのスクラムを地域へ、世界へと広げゆく聖業なのだ。
 伸一は今、熊本の婦人部本部長・成増敬子の抱負を聞きながら、二年前の一九七七年(昭和五十二年)五月の熊本訪問で、代表の幹部と懇談したことが懐かしく思い出された。
 その折、成増が、「義母が四歳と二歳の子どもの面倒をよくみてくれているので助かっています」と、心から感謝している姿が忘れられなかった。また、益城本部の婦人部本部長は、伸一が本部内を訪問した歴史を誇りとし、皆が喜々として活動に励んでいる模様を報告した。阿蘇の婦人部本部長は、地域を幸せの園にしたいとの決意を込め、阿蘇にもスズランが咲くことを伝えた。
 伸一は、熊本の同志が一人も漏れなく、強く生き抜いて、人生勝利の花を咲かせるように、日々、祈り続けてきたのである。
63  清新(63)
 九州記念幹部会で山本伸一は、成増敬子の抱負を聞きながら思った。
 “熊本も、また大分も、宗門の問題では本当に苦しめられている地域だ。しかし、それをはね返し、ますます広布の炎を燃え上がらせている。すごいことだ。いつか、必ずその地域を回って、耐え抜きながら信心を貫いてこられた皆さんを心から励まし、賞讃しよう”
 彼は会合終了後、「七つの鐘総仕上げの年を記念し」と認めた御書を、成増へ贈った。
 幹部会でマイクに向かった伸一は、仏法者の生き方について語っていった。
 「日蓮大聖人の智慧は平等大慧であり、一切衆生を平等に利益される。その大聖人の御生命である御本尊を信受する仏子たる私どもの人生は、全人類の幸せを願い、行動する日々であらねばならないと思っています。
 私たちが、日本の広宣流布に、さらには世界広布に走り抜くのも、そのためです。
 私は人間が好きです。また、いかなる国の人であれ、いかなる民族の人であれ、いかなる境遇の人であれ、好きであると言える自分でありたい。そうでなくては日蓮大聖人の教えを弘める、仏の使いとしての使命を果たすことはできないと思うからです。
 皆様方も、誰人であろうが、広々とした心で包容し、また、全会員の方々の、信心の面倒をみて差し上げていただきたい。私どもが平等大慧の仏の智慧を涌現させ、実践していくところに、世界平和への大道があります。
 そして、リーダーの皆さんは、物わかりのよい、柔軟な考え方ができる指導者であっていただきたい。硬直化した考え方に陥ってしまえば、時代、社会の変化に対応していくことができず、結局は、広宣流布の流れを閉ざしてしまうことになりかねません」
 国連人権委員会委員長を務めたエレノア・ルーズベルトは指摘している。
 「あらゆる偉大な文明が滅びた理由は、ある意味で、それが固定化し、新しい状況、新しい方法、そして、新しい考え方に柔軟に適応できなくなったからです」(エレノア・ルーズベルト著『TOMORROW IS NOW』ハーパー・アンド・ロウ社)
64  清新(64)
 山本伸一は、集った九州の同志に、広宣流布に生き抜いていくためにも健康と長寿の人生であってほしいと念願し、それ自体が仏法の真実を証明することにもなると力説した。
 さらに、リーダーは、「皆が使命の人である」との認識に立って、人材の育成にあたってもらいたいと要望し、こう話を結んだ。
 「どこまでも信心第一で仲良く前進していることが、和合の縮図です。仲の良い組織は人びとを元気にします。皆に力を湧かせる源泉となります。世間は、嫉妬や憎悪、不信が渦巻いています。だからこそ私たちは、和気あいあいとした、信頼と尊敬と励ましの人間組織を創り、その麗しい連帯を社会に広げていこうではありませんか!
 この二月も、また、この一年も、苦楽をともにしながら、私と一緒に、新しい歴史を刻んでいきましょう!」
 大きな拍手が轟いた。外は雪が降り続いていた。しかし、会場は新出発の息吹が燃え盛り、熱気で窓は曇った。
 ここで、「東洋広布の歌」の大合唱となった。九州の同志は、いや、全学会員が、「東洋広布は 我等の手で」と、この歌を高らかに歌いながら広宣流布に邁進してきたのだ。
 東洋広布を担おうと、アジアに雄飛していった人もいたが、大多数の同志の活躍の舞台は、わが町、わが村、わが集落であった。
 地を這うようにして、ここを東洋広布の先駆けと模範の天地にしようと、一軒一軒、友の家々を訪ねては、仏法対話を交わし、幸せの案内人となってきた。
 創価の同志は、地域に根を張りながら、東洋の民の安穏を祈り、世界の平和を祈り、その一念は地球をも包んできたのだ。
 そして、伸一が海外を訪問するたびに、大成功を祈って唱題を重ねた。一方、伸一は、皆の祈りを生命に感じながら、“全同志を代表して平和の道を開くのだ!”との思いで全精魂を注ぎ、走り抜いてきたのである。
 この師弟不二の心意気が、東洋、世界への広宣流布の未聞の流れを開いてきたのだ。
65  清新(65)
 「東洋広布の歌」に続いて、インド訪問団の壮途を祝して、インド国歌「ジャナ・ガナ・マナ」(インドの朝)が合唱団によって披露された。
 この歌は、詩聖タゴールが作詞・作曲し、イギリスによる植民地支配の闇を破り、独立の新しい朝を迎えた、インドの不屈なる魂の勝利を歌ったものだ。独立後の一九五〇年(昭和二十五年)に、インド共和国の国歌として採用されている。
 合唱が始まった。荘重な歌であった。
 きみこそ インドの運命担う 心の支配者。
 きみの名は 眠れる国の 心をめざます。
 ヒマラヤの 山にこだまし ガンジス川は歌う。
 きみのさち祝い きみをたたえて歌う 救えよ わが国。(中略)
 きみに 勝利、勝利、勝利、勝利、勝利、きみに。(高田三九三訳詞)
 山本伸一は言った。
 「いい歌だね。私たちも、この心意気でいこうよ! 『きみこそ 学会の運命担う 心の支配者』だよ。私たちは人類の柱であり、眼目であり、大船じゃないか。まさに、『眠れる世界の心をめざます』使命がある。
 『きみに 勝利、勝利、勝利……』だ!
 何があろうが、勇敢に、堂々と、わが正義の道を、わが信念の道を、魂の自由の道を、人類平和の道を進もうじゃないか!」
66  清新(66)
 「インド独立の父」「マハトマ」(偉大な魂)と仰がれ、慕われたガンジーは、インド国歌が制定される二年前の一九四八年(昭和二十三年)一月三十日に暗殺され、世を去っている。しかし、大国の横暴と圧政に抗して、非暴力、不服従を貫き、独立を勝ち取った魂は、国歌とともに、インドの人びとの心に脈打ち続けるにちがいない。
 インド初代首相のネルーは、ガンジーの希望は「あらゆる人の目からいっさいの涙をぬぐい去ることであった」(坂本徳松著『ガンジー』旺文社)と語っている。
 それは、この世から悲惨の二字をなくすと宣言した、恩師・戸田城聖の心でもあり、また、山本伸一の決意でもあった。
 伸一は、戸田が逝去直前、病床にあって語った言葉が忘れられなかった。
 「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ」「生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
 この遺言を心に刻み、彼は第三代会長として立った。会長就任式が行われた六〇年(同三十五年)五月三日、会場となった日大講堂には戸田の遺影が掲げられ、向かって右側には、戸田の和歌が墨痕鮮やかに大書されていた。
 「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を
    拡むる旅に 心勇みて」
 会員七十五万世帯の達成へ本格的な弘教の火ぶたを切った五二年(同二十七年)正月の歌である。伸一は、広宣流布への師の一念を生命に刻印する思いで遺影に誓った。
 “生死を超えて、月氏の果てまで、世界広布の旅路を征きます”
 今、その会長就任から二十年目となる五月三日が近づきつつあった。恩師が詠んだ、あの月氏の大地にも、多くの若き地涌の菩薩が誕生している。
 伸一は、インドに思いを馳せた。
 ──悠久なるガンジスの川面に、「七つの鐘」が鳴り響き、新しき時の到来を告げる清新の風が吹き渡ってゆく。そして、燦然と燃え輝く仏法西還の勝利の太陽が、彼の瞼いっぱいに広がった。

1
1