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日蓮大聖人・池田大作

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第29巻 「力走」 力走

小説「新・人間革命」

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1  力走(1)
 爽快な秋晴れであった。
 暗雲を払い、威風も堂々と進む創価の同志の心意気を表すかのように青空が広がった。
 一九七八年(昭和五十三年)十一月十八日午後、創価学会創立四十八周年を記念する本部幹部会が、本部総会の意義をとどめて、東京・荒川文化会館で盛大に開催された。学会が定めた明七九年(同五十四年)「人材育成の年」への助走が、力強く開始されたのだ。
 席上、会長・山本伸一は、学会が七年ごとに前進の節を刻んできた「七つの鐘」が、明年には鳴り終わることを述べ、その翌年の八〇年(同五十五年)から二〇〇〇年まで、五年単位に、二十一世紀への新たな前進の節を刻んでいくことを発表した。
 また、「11・18」を記念して、今や人類的課題となった環境問題を中心に、「地方の時代」などについての提言を行うことを語った。
 そして、翌十九日付の「聖教新聞」に、四・五面見開きで、記念提言が掲載されたのだ。
 提言では、まず、「地方の時代」が叫ばれ始めた背景について論じていった。
 ――日本の近代産業は、中央集権的な政治体制と密接に結びついて、効率の良さを追求し、多大な富をもたらしてきた。しかし、その半面、消費文明化、都市偏重をもたらし、過密・過疎や環境破壊が進むとともに、地方の伝統文化は表面的、画一的な中央文化に従属させられてきた。つまり、各地の個性的な生活様式や、地域に根ざした文化の多様性が切り崩されていったのだ。
 そのなかで、伝統に根ざし、伝統を触発しつつ、みずみずしい生活感覚を発揮していける場を取り戻そうとの、人びとの願いが背景となって、「地方の時代」を志向する流れが生まれたと分析。さらに、庶民の日常生活に即して進められる私どもの運動は、そうした願いを、共に呼吸するなかで進められていかなければならないと訴えたのである。
 仏法即世間であり、学会即社会である。人びとの希求、渇望に応えてこそ、時代の創造という宗教の使命を果たすことができる。
2  力走(2)
 山本伸一は、記念提言で、「地方の時代と創価学会の役割」にも言及していった。
 そして、社会に生きる限り、「私ども一人ひとりも、地域に深く信頼の根を下ろし、人びとの心のひだの奥にまで分け入り、苦楽を共にし合う決意がなくてはならない。そうした地道な精神の開拓作業のなかにしか広布の伸展もないし、また、真実の地域の復興もあり得ない」と訴えたのである。
 また、学会員は、驚くほどの辺地にあっても、喜々として広宣流布への情熱に燃えて活躍していることに触れて、こう述べた。
 「一個の人間を大切にするといっても、具体的には、こうした恵まれない、最も光の当たらない人びとのなかに、率先して入り、対話していくことが、私ども幹部に課せられた、当面、最大の課題といえましょう。このことは、即『地方の時代』の先駆けであり、人間救済の仏法の根本精神からいっても、当然の道なのであります」
 次いで環境問題について論じるにあたり、巨大産業による公害などもさることながら、最も大きな環境破壊をもたらしてきたものは、今も昔も戦争であると語った。
 その戦争が人間の心の中から始まるように、″外なる環境破壊″は、いつの時代にあっても、本源的には人間の内面世界の破壊と不可分の関係であることに論及。ヨーロッパ諸国を中心に発達した近代科学の進歩の根源には、「自然への支配欲や征服欲、すなわち人間のエゴイズムの正当化」があると指摘した。
 もとより伸一は、人間のそうした姿勢が、半面では、刻苦や努力、挑戦などの力となり、また、近代科学が飢餓や疾病の克服に大きく貢献してきたことも、よく認識していた。
 しかし、科学技術に主導された近代文明が、エゴイズムという内面世界の不調和やアンバランス、換言すれば、″内なる環境破壊″に発している限り、そのエネルギーは、歪んだ方向へと向かわざるをえないことを、彼は訴えたのである。
3  力走(3)
 山本伸一は記念提言で、「エゴイズムの正当化」によって科学技術の発達がもたらされたが、そうした人間中心主義は、公害の蔓延等の事実が示すように、既に破綻をきたしていると述べた。そして、東洋の発想である自然中心の共和主義、調和主義へと代わらなければ、環境問題の抜本的な解決は図れないと訴えたのである。
 東洋の英知である仏法では、あらゆる存在に、その固有の尊厳性を認めている。さらに、自然環境を離れては、人間生命が成り立たないことを、「依正不二」として示している。これは、生命活動を営む主体たる正報と、その身がよりどころとする環境である依報とが、「二にして不二」であることを説いた法理である。
 つまり、正報という″内なる一念″の変革が、必然的に依報である自然環境、外部環境への対し方と連動し、そこに変革をもたらしていくという、優れて内外呼応した共和、調和への哲理といえよう。
 伸一は、記している。
 「こうした考え方を根本にしてこそ、今まで支配、服従の一方通行であった人間と自然との回路は、相互に音信を通じ、人間が自然からのメッセージに耳を傾けることも可能となるでありましょう。また、人間と自然とが交流し合う、豊かな感受性をもった文化、精神をつくりだすこともできるはずです。
 この発想を根底にするならば、自然に対する侵略、征服の思想から、共存の思想、さらには一体観の思想への転換も可能であると信じております」
 彼は、戦争をはじめ、核の脅威、自然・環境破壊、貧困、飢餓など、人類の生存さえも脅かす諸問題の一つ一つを、断固として克服しなければならないと決意していた。そのために、仏法という至極の英知を広く世界に伝え抜いていくことを、自らの″闘い″としていた。そして、日々、人類の頭上に広がる破滅の暗雲を感じながら、″急がねばならぬ″と、自分に言い聞かせていたのである。
4  力走(4)
 記念提言は、核心に入っていった。
 山本伸一は、今や世界は一体化しており、なかでも自然・環境破壊は、一国や一地域を越えて、全地球に壊滅的な影響をもたらすと警告を発した。そして、各国の英知を結集して、全地球的規模において人類が生き延びる方策を研究、討議し、具体的な解決策を見いだしていくべきであると主張。そのための話し合いと取り決めの場として、「環境国連」の創設を提唱したのだ。
 また、近代科学の技術を駆使した開発によって経済的繁栄を享受してきた先進諸国と、その恩恵に浴さず、飢餓と貧困にあえぐ開発途上国、つまり「南・北」の問題にも言及。両者の調和、共存共栄を図っていくために、開発途上国の犠牲のうえに繁栄を築いてきた先進国は、とりわけ厳しい試練を自らに課していく道義的責任があると指摘した。
 さらに、環境破壊をもたらした大量消費文明を築き上げてきたのは、人間の欲望のとめどなき拡大であり、その欲望を限定、抑制することこそ、最重要の課題であると訴えた。
 「そのためにも、そうした英知を開発する哲学、なかでも宗教の重要性を訴えたいのであります。
 ″もの″から″こころ″へ、物質至上主義から生命至上主義へ――すなわち、御書に仰せの『蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり』との価値観が、今ほど要請される時代はありません。
 この価値観が、人びとの心に定着していく時、人類のかかえる大きな問題も、いかなる試練があろうと、もつれた糸をほぐすように、解決の方向へ進むと、私は確信しております。″内なる破壊″が″外なる破壊″と緊密に繫がっているとすれば、″内なる調和″が″外なる調和″を呼んでいくことも、また必然であるからであります」
 仏法の視座からの、伸一の叫びであった。
 人類の直面する複雑で困難な問題も、仏法という生命の根源の法に立ち返るならば、必ずや、新たなる創造の道が開かれる。
5  力走(5)
 記念提言の最後に、山本伸一は、十四世紀から十六世紀にヨーロッパで起こったルネサンス運動について論じた。
 ――ルネサンスは、一切に君臨していた絶対神を個人の内面へおろした、画期的な時代の流れであったといってよい。しかし、教会を中心とした中世的な世界観が否定され、人間性の解放が叫ばれながらも、そのあとにきたものは、個人の尊厳とは異なる外側の権威の絶対化であった。進歩信仰、制度信仰、資本信仰、科学信仰、核信仰など、その流れは、数百年にわたったのである。
 だが、今や、そのひずみは際限に達し、これまでの価値観が急速に崩れ、人間の内面、生き方に大きな空白が生じているのだ。
 「私は、これからの理念は、人びとの心の奥に根をおろした宗教から発するものでなければならないと信じております。外なる権威の絶対化から、一個の人間の内なる変革を第一義とすべき時代に入ってきている。それは、地道ではあるが、第二次ルネサンスともいうべき、時代の趨勢とならざるをえないと考えるのであります。
 その主役は、一人ひとりの庶民であり、その戦いは、自己自身の人生の転換から出発すべきであります」
 そして伸一は、それを可能にする道は、日蓮大聖人の仏法にあることを示して、結びとしたのである。
 彼は、二十一世紀のために、仏法の法理を社会へ、世界へと開き、人類の新たな活路を開かなければならないと、固く、強く、決意していた。
 日蓮大聖人は「立正安国論」で「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せである。「四表の静謐」とは社会、世界の平和と繁栄を意味する。
 宗教者が人類的課題に眼を閉ざし、社会に背を向けるならば、宗教の根本的な使命である「救済」の放棄となる。荒れ狂う現実社会に飛び込み、人びとを苦悩から解放するために戦ってこそ、真の仏法者なのだ。
6  力走(6)
 山本伸一は記念提言で、「恵まれない、最も光の当たらない人びとのなかに、率先して入り、対話していく」ことこそ、一個の人間を大切にする具体的実践であり、それが「即『地方の時代』の先駆け」となると訴えた。
 その言の通りに彼も行動を開始したのだ。
 ″広布の新潮流は地方にこそある。これまで、あまり訪問できなかった地域へ行き、会うことのできなかった同志と会おう!″
 キューバの師父ホセ・マルティも、「真の革命は地方で起こっている」(『ホセ・マルティ選集 第2巻』青木康征・柳沼孝一郎訳、日本経済評論社)と語っている。
 記念提言が「聖教新聞」紙上に掲載された二日後の十一月二十一日、彼は、神奈川県の戸塚文化会館で行われた学会創立四十八周年を記念する戸塚幹部会に出席。翌二十二日には同会館で、開館一周年を記念する勤行会が六回にわたって開催された。伸一は、神奈川県の大躍進、大勝利を願い、全精魂を傾けて指導を重ねた。新たな力走の開始であった。
 この二十二日、群馬県では代表幹部会が行われ、伸一が作詞した県歌「広布の鐘」が発表されたのである。
 十日ほど前、群馬の幹部たちから、伸一に、″県の新しい出発のために県歌の作詞を″との要請があった。しかし、彼には、関西指導の予定があり、引き続き、学会創立四十八周年の記念行事が控えていた。群馬の幹部は、″歌詞を作ってもらえるのは、かなり先になるだろう″と思っていたのだ。
 ところが、東京・荒川文化会館で、総会の意義をとどめる記念の本部幹部会が開催された十一月十八日、会場にいた群馬の県長のもとへ、県歌の歌詞が届けられたのである。
 伸一は、関西指導の激闘のなか、わずかな時間を見つけては歌詞を考え、この日、さらに推敲を重ねて完成させたのであった。
 彼は、″同志のために″と必死であった。
 その一念が心を強くし、力を倍増させる。
 群馬の同志は、素早い伸一の対応に感動を覚えた。しかも、学会創立の記念日に歌詞を手にしただけに、その喜びは大きかった。
7  力走(7)
 山本伸一は、群馬の歌「広布の鐘」の歌詞を届けてもらう時、伝言を添えた。
 「作曲も、私の方で依頼しておきます。曲ができたら、すぐに伝えます」
 群馬のメンバーは、一日千秋の思いで、曲の完成を待った。
 十一月二十一日夜、群馬センターでは、県幹部らが集い、十二月度の活動をめぐって協議会が行われていた。
 そこに電話が入った。伸一に同行していた幹部からであった。
 「群馬の歌の曲ができました。これからテープで流しますので聴いてください」
 電話に出た県の幹部が答えた。
 「しばらくお待ちください。それを録音させていただきます」
 受話器から歌声と調べが響いた。希望あふれる、力強い歌となっていた。
 一、我等を守り 見つめたる
   赤城の風は 妙法と
   群馬の天地に 幸薫れ
   さあ肩くみて 友よ起て
 二、あふるる文化の 上毛に
   今再びの 広宣の
   この世の夢か 楽土をば
   さあ築きゆけ 鐘鳴らせ
 三、ロマンの歴史 満々と
   群馬の足跡 朗らかに
   仰げば天に 虹光り
   ああ我等の誓い 忘れまじ
   利根と榛名に 忘れまじ
 それは、二十一世紀への新しき前進を開始する群馬の、旅立ちの曲であった。
 皆の脳裏に、山紫水明の美しき郷土の天地が次々と浮かんだ。その地で戦う自分たちを、じっと見つめる、伸一の心を感じた。
 電話から聞こえてくる歌と曲に耳を傾ける県幹部の目は、涙に潤んでいた。
8  力走(8)
 群馬センターには、練習のために合唱団のメンバーが集っていた。合唱団の関係者が、県歌「広布の鐘」の録音テープを聴いて譜面に起こし、直ちに練習が開始された。
 さらにその後、山本伸一から群馬センターに伝言が届いた。
 「歌は時代を変えていく。群馬の同志が、この歌を声高らかに歌いながら、大きく成長して、新しい時代を築かれることを楽しみにしています」
 翌二十二日、群馬では代表幹部会を開催。歓喜の大合唱が場内を圧した。
 この群馬の歌「広布の鐘」をもって、伸一は、関東のすべての県に、歌を作詞し、贈ったことになる。
 二十三日には、伸一が出席して、東京・信濃町の創価文化会館内の広宣会館で、第一回となる関東支部長会が晴れやかに行われた。
 開会に先立って、各県のメンバーが県の歌を合唱。″歌合戦″の様相を呈した。
 堂々と胸を張って熱唱する支部長。体を左右に揺らし、リズムに乗って軽やかに歌う支部婦人部長。皆が、二十一世紀の峰をめざす決意を託しての合唱であった。
 この日、伸一は、支部長・婦人部長が、多くの仏子を預かる支部の中心者として広宣流布の重責を担い、日々、奮闘してくれていることに心から感謝し、その功労を讃えた。
 「それぞれ、仕事や家庭のことなど、悩みと格闘しながら、同志のため、法のために、献身されている。時には″大変だな、苦しいな″と思うこともあるでしょう。皆さんのご苦労はよくわかっているつもりです。
 私も戸田先生の事業を軌道に乗せようと奔走するなかで、男子部の役職を兼任しながら、地区の責任者や支部幹事、支部長代理を務めた経験があります。会合の時間を捻出することさえ大変な闘いでした。
 しかし、それが、信心の基礎を築き、人生の基盤となり、仏法のリーダーとしての力を養い、無量の福運を積んだと、強く確信しております。苦労こそが財産なんです」
9  力走(9)
 山本伸一は、集った支部長・婦人部長の人生の勝利を祈りながら話を続けた。
 「″自分が生きるのに精いっぱいで、他人のことなど、とてもかまってはいられない″というのが、大多数の人の生き方です。
 そのなかで皆さんは、自らもさまざまな苦悩と闘いながら、多くの同志を励まし、人びとの幸福を願い、広宣流布に邁進されている。人間として最も尊貴な生き方です。
 皆さんが抱えているそれぞれの悩み、苦しみは、必ず勝ち越えていくことができる。それはなぜか――信心をもって苦悩を克服することで、仏法の大功力を証明していくのが、私たち地涌の菩薩の使命であるからです。
 人生は、激浪の日々であるかもしれない。しかし、だからこそ、勇んで戦い抜いた時には、最高の充実がある。爽快な歓喜がある。現実社会のなかで、自分に勝って、広宣流布の歩みを進めることが仏道修行なんです。
 学会草創期の初代の支部長・婦人部長の功績は実に大きく、その実践は、今もって多くの同志の語りぐさとなっている。
 皆さんは、広布第二章の初代の支部長・婦人部長です。どうか皆さんもまた、『あそこまで皆のために真心を尽くすのか!』『あれほど情熱をもって行動し抜くのか!』『あの人から、本当の信心を学んだ!』と、後々までも語り継がれる、見事な自身の歴史を築いていただきたい。
 ひとたび戦いを起こすならば、大情熱を燃やし、敢闘しようではありませんか!
 広宣流布のために、自分の限界に挑み、殻を破っていくなかで、境涯は大きく開かれていきます。それが、広布の新しき拡大になります。自らの限界を破ってこそ成長があり、力は増すんです。反対に、大きな力を秘めていても、それを使い切っていかなければ、力は退化していきます」
 ゲーテは、こう呼びかけている。
 「中途半端にやる習慣を脱し、全体の中に、善いものの中に、美しいものの中に、決然と生きることを心がけよう」(『ゲーテの言葉』高橋健二訳、彌生書房)
10  力走(10)
 山本伸一は、活動を推進していくうえでの幹部の在り方、注意すべき事柄について、具体的に話を進めた。
 「支部にあって、日々の活動のなかで、御書を拝していく伝統を築いていっていただきたい。信心が強盛になればなるほど、皆が教学を求めていきます。信心を深め、持続していくには、教学という裏付けが必要になるからです。
 たとえ、一行でも、二行でもよい。皆で御書を拝読し合っていくことが大事です。
 次に、支部長など、壮年の幹部は、婦人部のご家庭に、最大の配慮と思いやりをもって接していただきたい。小さな子どもさんをおもちの婦人もいるし、高齢のご家族の面倒をみている婦人もいる。それぞれの家庭の事情をよく考え、会合等の時間を早めに切り上げるなどの配慮をお願いしたい。
 そして、支部の運営は、あくまでも協議会を中心に行っていただきたい。支部長が自分一人で、なんでも勝手に決めてしまうようなことがあってはならない。それは、民主主義の精神に反しますし、皆が本当に合意していなければ、力も出せないし、団結もできない。歓喜ある活動もできません。
 支部長が自分の気に入った人たちだけで事を進めてしまったり、その人たちからの報告や連絡だけをうのみにして、物事を判断したりすることも禁物です。
 支部も、地区も、常に協議を最重要視し、どこまでも民主的に、皆が納得して信心に励めるようにしていくことが、活動を推進していくうえでの眼目です。
 また、幹部は、会員の皆さんに負担をかけたりすることがないよう、よく注意を払っていただきたい。たとえば会員の方に車に乗せてもらう場合でも、それを″あたりまえ″と思うようであれば、幹部として失格です。やむを得ず乗せてもらう時には、心から感謝し、御礼を言うべきです。人間として自分自身を厳しく律していくなかに仏道修行があり、人間革命があることを知ってください」
11  力走(11)
 物事は、小事が大事である。大事故の多くは、一つ一つの細かい事柄への注意を怠ったことに起因している。小さな配慮を欠いたことから、皆の信頼を失い、それが組織の停滞を招いた事例も少なくない。
 ゆえに、山本伸一は、関東の支部長・婦人部長の新出発にあたって、細かく、口うるさいように感じられるかもしれないが、注意すべき事柄について、訴えていったのである。
 「誰にもプライバシーがあります。いかに親しい間柄であっても、プライバシーは最大に尊重していかなければならないし、個人についての情報が漏れるようなことがあってはならない。幹部には守秘義務がある。それを、順守していくのは当然です。
 『わざわいは口より出でて身をやぶる』との御聖訓もある。幹部の皆さんは、軽はずみな発言などで、支部員を苦しめるようなことがないように、聡明な対応をお願いしたい。
 さらに、支部員に対して強制的な言動は、厳に慎まなければなりません。支部幹部の役割は、支部員が安心して信心に励み、人生を歩んでいけるように守っていくことです。
 また、大勢のなかには、信心利用、組織利用の人もいるかもしれない。会員を守るために、それを鋭く見破り、よく注意していくようにお願いしたい。真の学会員としての道を歩まず、広宣流布のための仏子の集いである学会の組織を攪乱し、社会に迷惑をかけるような人を、看過してはなりません。
 なお、これまでに何度も徹底してまいりましたが、会合終了の『八・三〇』は厳守していただきたい。無理は続かないものです。特に年配者の方々は疲れを残さないように、十分に休養をとっていただきたい。
 時間に関連して申し上げれば、連絡、報告の電話は簡潔にして、価値的に時間を使っていただきたい。また、幹部は、夜遅くまで会員の家にいるようなことをしてはならない。それぞれの家庭の憩いの時間もあるでしょう。けじめをつけていくことが大切です」
12  力走(12)
 何事も、油断し、基本がおろそかになった時に事故が生じる。広宣流布は魔との攻防戦であり、気のゆるみがあれば、そこに魔が付け入ってくる。したがって、山本伸一は、支部長・婦人部長に、油断を排して、原理原則に徹することを、強く訴えたのである。
 支部は、学会の枢軸となる組織である。その支部の幹部が、いかんなく力を発揮し、はつらつと広宣流布の指揮を執っていくことを願いながら、彼は語っていった。
 「皆さんが活動を推進するうえで、″困っている″ということがあれば、本部長等の幹部に相談してください。また、納得のできない指導をする幹部がいたら、遠慮なく、最高幹部に相談していただきたい。
 重ねて申し上げますが、支部のみんなが縦横無尽に活躍できるように、協議を大切にし、皆の意見を尊重していくことです。そして、支部壮年長、副支部長、支部副婦人部長、青年部等、皆の合意のもとに活動を進めてください。そこに最も安定した持続の前進があります。
 もしも協議が行き詰まり、意見の一致をみない場合には、一緒に唱題することもいいでしょう。御書を拝して、信心の原点に立ち返ることも必要でしょう。大事なことは、″広宣流布のために心を合わせよう! 団結していこう!″という信心の一念なんです。
 ひとことに支部の幹部といっても、年代も異なるし、様々な考え方の人がいます。意見の違いはあって当然です。しかし、それを乗り越え、心を合わせ、団結していくことで、人間共和の模範を、地域に、社会に示していくことができます」
 伸一は最後に、「大切な、大切な支部員の皆さんを、くれぐれもよろしくお願いいたします。私に代わって守ってください。支部長・婦人部長の皆さんに心から感謝申し上げます」と言って、話を結んだ。
 支部長・婦人部長が本気になれば、支部は変わる。支部が変われば、全同志は歓喜と功徳に包まれ、広宣流布の凱歌が轟く。
13  力走(13)
 山本伸一は、十一月二十五日には創価文化会館内の広宣会館で開かれた千葉県支部長会に出席。二十六日は東京・八王子で教学部初級登用試験の受験者、採点官らを激励。二十七、八の両日は、学生部代表と懇談した。
 彼は、これまでに会えなかった人と会おうと、懸命に時間をつくり、行動していった。
 そのなかで学会歌の作詞も続け、静岡県の同志に、「静岡健児の歌」を贈ったのである。
 同県では二十九日夜に県幹部会を開催し、合唱団によって県歌が初披露された。
 一、ああ誉れなり 我が富士を
   朝な夕なに 仰ぎ見む
   地涌の我等も かくあれと
   静岡健児よ いざや立て いざや立て
 二、朝日に輝く この大地
   世界の友は 集いくる
   この地楽土に 勇み立て
   静岡健児よ 今ここに 今ここに
 三、この地の広布が 満々と
   世紀の功徳と 雲と涌く
   烈士に続かん この我は
   静岡健児よ いざや舞え
   静岡健児よ いざや舞え
 歌詞の冒頭、伸一は「富士」を詠んだ。そこには、「富士のごとく、烈風にも微動だにせぬ、堂々たる信念の人たれ!」「富士のごとく、天高くそびえ立つ、気高き人格の人たれ!」「富士のごとく、慈悲の腕を広げ、万人を包み込む大境涯の人たれ!」との、静岡の同志への願いが託されていた。
 それから三十年後の二〇〇八年(平成二十年)十一月、伸一は、新時代・第一回静岡県青年部総会を記念し、この歌に加筆した。二番の「世界の友は」を「正義の同志は」に、三番の「世紀の功徳と」を「師弟の陣列」に、最後の「いざや舞え」を「いざや勝て」とし、静岡健児の新出発を祝福したのである。
14  力走(14)
 静岡県幹部会で「静岡健児の歌」が発表された十一月二十九日夜、山本伸一は、空路、東京から大阪へと向かっていた。
 伊丹空港(大阪国際空港)から大阪・豊中市の関西牧口記念館への車中、同乗した副会長で関西総合長の十和田光一が、意を決したように語り始めた。
 「関西婦人部長の栗山三津子さんのことで、報告があります。実は、先日、癌と診断され、手術をしなければなりません。幸い、早期発見で命に別状はないとのことです」
 伸一は、詳しい病状を尋ねた。
 そして、記念館に到着すると、すぐに栗山に宛てて手紙を書いた。
 「病気のこと、心配しております。私も、強く、御祈念いたします。長い人生と長い法戦のうちにあって、さまざまな障魔があることは当然です。
 断固、病魔を打ち破って、また生き生きと、共に学会の庭で勇み活躍されますように、私たちは待っております。
 ともかく、少し、人生、思索の時間も必要なものです。それを御本尊様が、お与えくださったと思うことです」
 伸一は、手紙を書き終えると、十和田に言った。
 「栗山さんに無理をさせるわけにはいかないので、関西婦人部長の後任人事も検討した方がいいだろう」
 そして、人事の相談にのりながら、病への考え方について語っていった。
 「長い間、頑張り抜いてくれば、疲労がたまったり、病気になったりすることも当然あるよ。そもそも仏法では、生老病死は避けることができないと説いているんだもの。
 だから″病気になったのは信心が弱かったからだ。幹部なのに申し訳ない″などと考える必要はない。そう思わせてもいけません。
 みんなで温かく包み、『これまで走り抜いてきたのだから、ゆっくり療養してください。元気になったら、また一緒に活動しましょう』と、励ましてあげることです」
15  力走(15)
 山本伸一は、十和田光一に訴えた。
 「もちろん、それぞれが、普段から病気にかからないように心がけ、規則正しい生活をし、食生活にも気を配り、健康管理に努めていくことは当然です。しかし、遺伝的な要因などによる病気もある。
 大事なことは、病気に負けないことです。たとえば、病で歩行も困難になってしまったとする。だから不幸かというと、決して、そうではありません。歩けなくとも、幸せを満喫して、はつらつと生きている学会員を、私はたくさん知っています。
 人生には、病に襲われることもあれば、失業や倒産など、多くの苦悩があるが、それ自体が人を不幸にするのではない。その時に、″もう、これで自分の人生は終わりだ″などと思い、希望をなくし、無気力になったり、自暴自棄になったりすることによって、自らを不幸にしてしまうんです。
 つまり、病気などに負けるというのは、その現象に紛動されて、心が敗れてしまうことをいうんです。
 したがって、苦境を勝ち越えていくには、強い心で、″こんなことで負けるものか! 必ず乗り越え、人生の勝利を飾ってみせるぞ!″という、師子のごとき一念で、強盛に祈り抜いていくことです。
 日蓮大聖人は、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』と仰せではないですか。
 また、苦難、悩みがあるからこそ、それを乗り越えることによって、仏法の功力の偉大さを証明することができる。闘病体験もまた、広宣流布を進めていくうえの力となっていきます。人生のすべてを生かしていけるのが仏法なんです。
 だから、病の診断を受けたら、″これでまた一つ、信心の体験が積める! みんなに仏法の力を示す財産が増える!″と考えていくことです。くよくよするのではなく、堂々と勇み立って、病に対していくんです。
 ――栗山さんに、そう伝えてください」
16  力走(16)
 十和田光一は、山本伸一の真心と気迫に圧倒されながら、話を聞いていた。
 「病に打ち勝つ根本は、大生命力を涌現させていくことです。その力は、他者を守るために生き抜こうとする時に、最も強く発揮されるんです。
 戦時下に生きた人びとの記録や、引き揚げ者の証言等を見ても、子どもを守ろうと必死であった母たちは、誰よりも強く、たくましく生き抜いています。
 私たちは、広宣流布という万人の幸福と世界の平和の実現をめざしている。その使命を果たしゆくために、自身の病を克服しようと祈るならば、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が涌現し、あふれてきます。それによって病に打ち勝つことができるんです。
 また、信心をしていても、若くして病で亡くなることもあります。それぞれのもっている罪業というものは、私たち凡夫には計りがたい。しかし、広宣流布に生き抜いた人には、鮮やかな生の燃焼があり、歓喜がある。その生き方、行動は、人間として尊き輝きを放ち、多くの同志に共感をもたらします。
 病床にあって見舞いに訪れる同志を、懸命に励まし続けた人もいます。薄れゆく意識のなかで、息を引き取る間際まで、題目を唱え続けた人もいます。
 それは、地涌の菩薩として人生を完結した姿です。今世において、ことごとく罪障消滅したことは間違いありません。さらに、生命は三世永遠であるがゆえに、来世もまた、地涌の使命に燃えて、地涌の仏子の陣列に生まれてくるんです。
 広宣流布の大河と共に生きるならば、病も死も、なんの不安も心配もいりません。私たちには、三世にわたる金色燦然たる壮大な幸の大海が、腕を広げて待っているんです」
 伸一は、不二の関西の同志には、何ものも恐れぬ勇猛精進の人に育ってほしかった。
 文豪トルストイは訴えている。
 「平安にして強き人でありたいと思ったら、自己の胸に信仰を確立するがよい」(トルストイ著『一日一章人生読本4~6月』原久一郎訳、社会思想社)
17  力走(17)
 関西入りした二十九日、創価学園の創立者である山本伸一は、学園の関係者から、関西創価小学校の建設などについて、深夜まで相談を受けた。さらに、三十日には、大阪府交野市の創価女子学園(後の関西創価学園)に場所を移して、打ち合わせを続けた。
 午後四時前、学園に松下電器産業(後のパナソニック)の相談役となっていた実業家の松下幸之助を迎えた。教育に強い関心をもつ松下翁の希望もあり、学園での語らいとなったのである。
 伸一は、松下翁が三日前に八十四歳の誕生日を迎えたことを祝福しながら、四時間近くにわたって、幅広く意見交換を行った。
 松下翁を見送ったあと、伸一は学園を発って、車で三重研修道場へ移動した。到着したのは午後十時過ぎであった。ここでも、中部の首脳の報告を聞きながら、今後の活動について協議した。
 そして、翌十二月一日の午後三時過ぎ、三重県の名張市へ向かった。名張市は奈良との県境に位置し、研修道場から車で一時間ほどのところにあった。大阪や奈良のベッドタウンとして発展してきた地域である。
 伸一が、三重県のなかで、まだ行っていない地域への訪問を強く希望したことから、名張で地元幹部らと、協議会を開催することが決まったのである。
 この日の朝、彼は、道場内を散策しながら、三重県長の富坂良史に尋ねた。
 「今日、伺うことになっている名張方面で、私が家庭訪問すべきお宅はありませんか」
 価値創造は時間の有効な活用から始まる。
 「ぜひ、先生に激励をお願いしたい方がおります。以前、先生にご指導していただき、失明の危機を見事に乗り越えた、名張本部の本部長をしている高丘秀一郎さんです」
 「ああ、立川文化会館で激励し、今年の春に三重研修道場でお会いした方だね。元気になってよかった。嬉しいね。お訪ねしよう」
 懸命に励ました人が、悩みを克服できた報告を聞くことに勝る喜びはない。
18  力走(18)
 山本伸一が妻の峯子と共に高丘秀一郎の家を訪ねたのは、午後四時過ぎであった。並木通り沿いにある瓦屋根の真新しい二階屋で、道を隔てて高校のグラウンドが広がっていた。
 高丘家には、既に伸一の訪問が伝えられており、主の秀一郎と妻の直子、高校一年になる長男の龍太が一行を迎えてくれた。
 「とうとう名張へ来ましたよ」
 そして伸一は、長男に視線を向けた。
 「お父さんの目が治ってよかったね」
 その声がかすれた。喉に痛みを感じた。
 「申し訳ありませんが、うがいをさせていただけませんか」
 台所に案内された伸一が、うがいをしていると、勝手口から、こちらをのぞいている制服姿の女子高校生が見えた。
 「どうしたの?」
 「表を通りましたら、高丘さんのお宅に母の車があったので、母がいるかと思って、見ていたんです」
 彼女の母親は、高丘直子から、伸一が高丘家を訪問すると聞いて、駆けつけてきたのである。
 「おそらく、お母さんは、部屋の方にいると思いますよ。あなたもいらっしゃい」
 仏間に行くと、近隣の学会員など、七、八人ほどが集っていた。
 伸一は、皆で題目を三唱したあと、「今日は座談会を開きましょう。どなたか、体験を語ってください」と話しかけた。
 口を切ったのは、秀一郎であった。
 丸顔に柔和な笑みを浮かべ、喜びを嚙み締めるように語り始めた。
 「先生。おかげさまで、見事に視力は回復し、十月には、職場復帰を果たせました。
 体は、以前にも増して健康になり、信心への強い確信がもてるようになりました。御本尊の力を生命で感じております。今、仏法対話することが、嬉しくて仕方ないんです」
 功徳を実感するならば、おのずから歓喜が湧き、その体験を語りたくなる。歓喜こそ、広宣流布の原動力である。
19  力走(19)
 高丘秀一郎の右目が、突然、かすみはじめたのは、前年の一九七七年(昭和五十二年)十月、柿の実が赤く色づいていた日であった。翌日には、ほとんど見えなくなった。
 眼科で二週間、治療を受けたが、効果はなく、大学病院の脳神経外科を紹介された。その時には、既に右目から光は失せていた。
 脳神経外科では、視神経炎と診断されたが、原因は不明であるという。
 年が明けた三月、左目にも異変を感じた。大学病院に行くと、すぐに入院するように言われた。四時間おきに注射と飲み薬が投与され、副作用で体全体が腫れあがった。
 毎夜、眠りにつく時、″このまま永遠に暗闇の世界に入ってしまうのではないか″と、不安に苛まれる。朝、目が覚め、光を感じることができると、ほっとする――その繰り返しであった。
 しばらくして、医師は高丘に告げた。
 「率直に申し上げますが、今の医療ではなすすべがありません。悪化はしても、これ以上、良くなることはないと思います」
 彼は、″もはや信心しかない。本気になって信心に励んでみよう″と腹を決めた。
 それまでは、″頑張って信心してきたのに、どうしてこうなるのだ!″という思いがあった。しかし、新たな決意で唱題に励むと、心が変わっていくのを感じた。
 ″俺はこれまで、教学を学んできた。御書に照らして見れば、過去世で、悪業の限りを尽くしてきたにちがいない。それなのに大した信心もしないで、御本尊が悪いかのように考えていた。傲慢だったのだ。
 日蓮大聖人は、「諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし」と仰せになっている。信心によって、今生で罪障消滅できるとの御断言だ。なんとありがたい仏法なんだ!″
 そう思うと、御本尊への深い感謝の念が湧いてくるのだ。
 感謝の心は、歓喜をもたらし、その生命の躍動が、大生命力を涌現させる。
20  力走(20)
 高丘秀一郎は真剣に唱題を続けた。仏壇の前から離れなかった。彼は、もう一度、信心を一からやり直すつもりで、自らの宿命への挑戦を開始していったのである。
 一九七八年(昭和五十三年)四月上旬、高丘は、幹部に指導を受けようと、三重県長の富坂良史に手を引かれ、立川文化会館を訪ねた。そこで山本伸一と、ばったり出会ったのだ。
 「三重の名張から来ました」
 語らいが始まった。事情を聞いた伸一は、大確信を注ぎ込もうとするかのように、力を込めて語った。
 「断じて病魔になど、負けてはいけません。早く、良くなるんです。あなたには、名張の広宣流布を成し遂げていく、尊い使命がある。病気も、それを克服して信心の偉大さを証明していくためのものです。そのために自らつくった宿業なんです。
 したがって、乗り越えられない宿命なんてありません。地涌の菩薩が病魔に敗れるわけがないではありませんか!
 題目です。ともかく見事な実証を示させてくださいと、祈り抜くんです。私も題目を送ります。今度は、三重でお会いしましょう。必ず、元気な姿を見せてください!」
 高丘は、伸一の言葉を聞いて、胸に一条の光が差し込む思いがした。勇気がほとばしった。希望が芽吹いた。強い確信と祈りを込めて、真剣勝負の唱題がさらに続いた。
 ″先生に心配をかけて申し訳ない。必ず、治してみせる!″
 懸命に唱題を重ねるうちに、医師も匙を投げた病状が回復し始めた。右目に光は戻らなかったが、左目の視力は次第に良くなり、御本尊の文字が、しっかり見えるようになったのである。
 彼は、「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひ満干ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」との御聖訓を嚙み締めるのであった。
21  力走(21)
 四月二十二日、山本伸一は、翌日に行われる「三重文化合唱祭」に出席するため、三重研修道場を訪問した。伸一は、研修道場に来ていた高丘秀一郎に声をかけた。
 「その後、目の調子は、どうですか」
 高丘は、満面の笑みで答えた。
 「はい。先生にご指導を受けてから、真剣に唱題に励みましたところ、十日ほどで『聖教新聞』の文字が読めるようになり、今は御書の文字が読めます。日ごとに、視力は回復しつつあります」
 「それはすごいね。病を治す根本の力は、自身の生命力なんです。その手助けとなるのが医学の力です。信心根本に、どこまでも生命を磨き、鍛えていくことが大事なんです」
 伸一は、合唱祭の次の日も高丘と会った。
 「今こそ、唱題し抜いて、病を見事に乗り越え、信心への大確信をつかむ時です。そして、仏法の偉大さを証明するんです。それがあなたの使命です。
 信心は、どれだけ困難を乗り越え、功徳の体験を積んできたかが大切です。それが確信につながっていくからです。
 今度、お会いする時には、もっと、もっと元気になってください」
 三重研修道場での語らいから七カ月余が過ぎていた。
 伸一を自宅に迎えた高丘は、頰を紅潮させながら報告した。
 「左の目の方は、題目が五十万遍になった時に視力は〇・五になり、七十万遍で〇・七に、百万遍になったら一・〇になっていたんです。右目は見えませんが、生活をするうえでは、ほとんど不自由は感じません。仏法の力を、心の底から感じています」
 「すばらしいことです。釈尊から仏法を聞いて、歓喜踊躍した弟子たちによって、仏法は広まっていった。あなたも今、仏法の功力を生命で感じ、歓喜している。その喜びを人びとに語り、歓喜を共有していくことが広宣流布の戦いなんです」
22  力走(22)
 山本伸一を囲んで、高丘宅での語らいは弾んだ。話が「名張」の地名に及ぶと、伸一は言った。
 「『名張』というのは、いい名前ではないですか。『名を張る』――堂々と『創価』の名を掲げ、社会にあって、信頼と勝利を勝ち取っていくという気概を感じる地名です。
 全中部、全国に、″三重に名張あり″と、その名を轟かせる、広宣流布の模範の地となってください」
 また、高等部員にも声をかけた。
 「頑張って、創価大学に来てね。二十一世紀のリーダーを育てるために創立した大学です。世界の未来は、君たちに託すしかない。
 皆さんは、大切な使命の人です。だから、しっかり勉強して、社会的にも存分に力を発揮できる人になってください。
 若い時には、うんと苦労して、努力することが大事です。それが、生き方の土台になる。青春時代に苦労を避けていれば、しっかりとした土台は築けず、堅牢な人生の建物を造ることはできないよ」
 そこに、高校三年生になる高丘の長女の寿子が、学校から帰ってきた。
 峯子が、微笑みながら声をかけた。
 「お帰りなさい!」
 既に就職が決まったという寿子に、伸一は「立派な女子部のリーダーに」と励ました。
 それから、色紙に「高丘桜」「母桜」などと揮毫して、集っていたメンバーに贈った。
 伸一が帰ろうとすると、小さな子どもを背負った婦人と玄関で顔を合わせた。彼が高丘宅にいると聞いて、駆けつけてきたのだ。
 「では、一緒に写真を撮りましょう」
 さらに、一人ひとりと握手を交わした。瞬間、瞬間、出会った友のために何ができるかを考え、全力で行動した。
 人間は、励ましによって育っていく。そして、人を励ます作業とは、生命を、知恵を、力を振り絞って、相手の心の扉を開き、深く分け入り、発心のための養分を注ぎ込む真剣勝負の対話といえよう。
23  力走(23)
 山本伸一たちは、高丘の家から、名張の代表らとの協議会の会場となるドライブインへ向かった。このドライブインは、高丘秀一郎の弟の生郎が営む店で、車で五分ほどのところにあった。
 協議会には、地元の代表のほか、方面・県の幹部も参加することになっていた。
 夕食時であり、最初に皆で食事をした。そして、今後の活動などについて協議したあと、伸一は、懇談的に話し始めた。
 「中部は今、愛知、三重、岐阜の三県が団結し、大きな飛躍を遂げている。特に愛知は、東京、大阪と並んで、大きな柱となった。大前進に心から期待を寄せています。
 今日は、皆が和気あいあいと広宣流布を進め、功徳を受けきっていくうえで、大きな障害となる怨嫉という問題について、未来のために語っておきたい。
 信心をしていても、同志を嫉妬し、恨んだり、憎んだりするような心があれば、功徳も、福運も積めないし、喜びも、感激も、生命の躍動もありません。そうなれば、表面的に、いくら取り繕っていたとしても、その人の実像は不幸です。
 そんな事態にならないために、何が大事か。
 学会の世界は、信心の世界です。信心から出発し、信心で終わる。すべてを信心の眼でとらえていくことが肝要なんです。
 では、信心とは何か。
 万物の一切が、わが生命に、己心に収まっており、自分自身が妙法蓮華経の当体であり、仏であるとの絶対の確信に立つことです。大聖人は『すべて一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず』と仰せです。
 ″自分の胸中に仏の大生命が具わっていることを信じて、ひたすら唱題し、自分を磨いていきなさい。それ以外に人生の苦しみ、迷いから離れることはできない″というのが、大聖人の教えなんです。皆さんが、本来、仏なんですよ。その自分を信じ抜くんです。他人と比べ、一喜一憂する必要はありません」
24  力走(24)
 山本伸一は、さらに「一生成仏抄」の「仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんはたとえば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」の御文に即しながら話を進めた。
 「自分の生命を磨き、わが胸中の仏性を涌現する以外に、崩れることのない絶対的幸福境涯を確立する道はないんです。
 しかし、自らが妙法蓮華経の当体であると信じられなければ、本当の意味での自信がもてず、自分の心の外に幸せになる道を求めてしまう。すると、どうなるか。
 周囲の評価や状況に振り回されて、一喜一憂してしまう。たとえば、社会的な地位や立場、経済力、性格、容姿など、すべて、人と比べるようになる。そして、わずかでも自分の方が勝っていると思うと優越感をいだき、自己を客観視することなく、過剰に高いプライドをもつ。ところが、自分が劣っていると思うと、落胆し、卑屈になったり、無気力になってしまったりする。
 さらに、人の評価を強く意識するあまり、周りのささいな言動で、いたく傷つき、″こんなに酷いことを言われた″″あの人は私を認めていない″″全く慈悲がない″などと憎み、恨むことになる。また、策に走って歓心を買うことに躍起となる人もいる。
 実は、怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、わが身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに、魔が付け込むんです。
 皆さん一人ひとりが、燦然たる最高の仏です。かけがえのない大使命の人です。人と比べるのではなく、自分を大事にし、ありのままの自分を磨いていけばいいんです。
 また、自分が仏であるように、周囲の人もかけがえのない仏です。だから、同志を最高に敬い、大事にするんです。それが、創価学会の団結の極意なんです」
25  力走(25)
 日蓮大聖人は、「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」と仰せである。
 さらに、同志の怨嫉は、破和合僧となり、仏意仏勅の団体である創価学会の組織に亀裂を生じさせ、広宣流布を内部から破壊する魔の働きとなる。
 山本伸一は、愛する同志を、決して不幸になどさせたくなかった。ゆえに、厳しく怨嫉を戒めておきたかったのである。
 「学会のリーダーは、人格、見識、指導力等々も優れ、誰からも尊敬、信頼される人になるべきであり、皆、そのために努力するのは当然です。
 しかし、互いに凡夫であり、人間革命途上であるがゆえに、丁寧さに欠けるものの言い方をする人や、配慮不足の幹部もいるでしょう。いやな思いをさせられることもあるかもしれない。そうであっても、恨んだり、憎んだりするならば、怨嫉になってしまう。
 ″どう見ても、これはおかしい″と思うことがあれば、率直に意見を言うべきですし、最高幹部にも相談してください。もし、幹部に不正等の問題があれば、学会として厳格に対処していきます。
 また、リーダーの短所が災いして、皆が団結できず、活動が停滞しているような場合には、その事態を打開するために、自分に何ができるのかを考えていくんです。他人事のように思ったり、リーダーを批判したりするのではなく、応援していくんです。それが『己心の内』に法を求める仏法者の生き方です。
 末法という濁世にあって、未完成な人間同士が広宣流布を進めていくんですから、意見の対立による感情のぶつかり合いもあるでしょう。でも、人間の海で荒波に揉まれてこそ、人間革命できる。人間関係で悩む時こそ、自分を成長させる好機ととらえ、真剣に唱題し、すべてを前進の燃料に変えていってください。何があっても、滝のごとく清らかな、勢いのある信心を貫いていくんです」
26  力走(26)
 集ったメンバーは、頷きながら、真剣な面持ちで山本伸一の話に耳を傾けていた。
 さらに言葉をついだ。
 「人間というのは、なかなか自分を見つめようとはしないものです。
 皆が団結できず、地域の広宣流布が遅々として進まない組織がある。何人かの幹部に″どこに原因があるのか″を聞いてみると、たいてい『あの人が悪い』『この人が悪い』等々、たくさん理由をあげる。確かに、そう指摘される人には問題があるかもしれませんが、そこには、自分はどうなのだという視座が欠落している。他の人が悪いからといって、自分が正しいとは限りません。
 ところが、″自分に責任があるのだ。私が悪い″とは考えない。つまり、『己心の外』にばかり目がいってしまい、大聖人の御聖訓も、学会の指導も、他人を測り、批判するための尺度になってしまっているんです。
 本来、仏法の教えというものは、自分の生き方の尺度とすべきものです。ここを間違えると、信心の道を大きく踏み外してしまうことになります。だから、皆さんには、幸せになるために、自分自身に生き抜き、本当の信心を貫いてほしいんです。
 仏法者というのは『自己挑戦』の人、『自己対決』の人です。我即宇宙ですから、自身を征する人は一切に勝つことができます。
 ともかく、題目を唱えていけば、自分が変わります。自分が変われば、環境も変わる。したがって、いかに多忙であっても、勤行・唱題という根本の実践は、決しておろそかにしてはならない。その根本がいい加減になれば、すべてが空転してしまい、価値を創造していくことはできないからです。
 どうか、一日一日、一瞬一瞬を大切にし、わが生命を輝かせながら、大勝利の所願満足の人生を生き抜いてください」
 伸一は、情熱を込めて語り抜いた。
 指導には、一つ一つの事柄を徹して掘り下げ、皆が心から納得するまで、嚙み砕いて話していく粘り強さ、誠実さが必要である。
27  力走(27)
 十二月二日、山本伸一は三重研修道場で行われた、岐阜、兵庫、福岡の三県合同代表幹部会に出席した。ここには、関西の幹部も参加していた。席上、本部人事委員会で検討、決定した関西婦人部の人事が発表された。
 これまで関西婦人部長を務めてきた栗山三津子は、関西の総合婦人部長になり、後任には箕山益恵が就いた。また、岐阜、兵庫、福岡の人事も発表された。
 伸一は、皆の奮闘に大きな期待を寄せながら、幹部として活動することの意義について再確認した。
 「組織の幹部に就いた場合、任命されてから最初の三カ月が勝負であると言われてきた。なぜか――このスタートの活動が、一切の基準となっていくからです。
 ゆえに、今こそ境涯革命のチャンスととらえて、自身の新たな実践目標を定め、全力疾走のスタートをお願いしたい。
 その姿を見て、後輩たちも、″幹部というのは、これほど動き、これほど真剣に、誠実に戦うものなのか″ということを、改めて感じ取り、学んでいく。それによって、組織は活性化していきます。しかし、新任の幹部が懸命に動こうとしなければ、むしろ、それでいいかのように皆が錯覚し、広宣流布を停滞させてしまうことになる。
 皆さん自身も、仕事の問題などで悩み、苦闘されているうえに、組織のリーダーとしての責任を担うのは、どれほど大変なことか。そのご苦労は、よくわかります。
 しかし、広宣流布は日蓮大聖人の御遺命です。その広布を推進する唯一の聖業であり、人びとを最も根源的な次元から覚醒させ、絶対的幸福へと導く作業が学会活動です。
 したがって、幹部となって、学会活動に励むことは、仏法のうえから見れば、社会のいかなる地位、名誉よりも尊い、人類社会への貢献であり、民衆指導者として最重要の使命に生きることといえます。その功徳、福運は、子々孫々まで、あまねく幸の光をもって照らすことは間違いありません」
28  力走(28)
 いかなる団体、組織も、発展のいかんは、中軸となる幹部によって決まってしまう。
 学会は、翌一九七九年(昭和五十四年)に「第七の鐘」が鳴り終わり、二十一世紀への新たな飛翔を開始する、重要な時を迎えようとしていた。だからこそ山本伸一は、幹部への指導、育成に、全精魂を注ごうと決意していたのだ。
 彼は、岐阜、兵庫、福岡の三県合同代表幹部会に引き続いて、三重県の津市内で、草創の同志らと懇談会を開いた。ここでも、幹部の活動の在り方に言及していった。
 「今日は、厳しい話になるかもしれないが、幹部として心しなければならないことを語っておきます。
 幹部は、組織の上の方で号令をかけているだけであっては絶対にならない。何よりもまず、徹底して会員の方々とお会いすることです。どれだけ多くの人と会い、励まし、指導したかが、幹部としての実績です。
 会えば会うほど、後輩は立ち上がる――これは、厳然たる事実なんです。
 人と会うことは、一切の基本です。会って語り合い、心と心が通じ、共感し合ってこそ、団結も生まれます。人と人との触れ合い、結合のない組織は、死んだ組織も同然です。心が通い合うなかで、温かい人間主義の組織へと蘇生していくんです。
 沖縄の、ある婦人部の幹部は、『足が鉄板になるほど歩くのだ』と言って、家庭訪問に徹しきり、理想的な広布の組織をつくりあげてきました。
 また、東京・下町のある区長は、毎日、『聖教新聞』の配達員さんと、区内の学会員のお宅を回った。体の具合が悪い方、大変ななかで奮闘してくださっている方のお宅には、激励のメモを郵便受けに入れた。そして後日、今度は、ゆっくり語り合える時間に、個人指導に訪れた。それを続けるなかで大きな信頼を勝ち得ています」
 人間は機械ではない。心が結ばれた時に力が生まれ、広宣流布の車輪は大きく回転する。
29  力走(29)
 「幹部」というのは、本来、木の幹であり、中心をなすものである。「幹部」が腐ったり、弱かったりすれば、樹木そのものが危殆に瀕する。ゆえに山本伸一は、学会の幹部の在り方について、あえて詳細に語っていったのである。
 「幹部は、皆に信心の養分を送り続けていく存在であり、そのためには、自らが信心強盛な先輩を求めて切磋琢磨し、常に成長し続けていくことが大事です。そうするなかで充実感も、希望も湧き、大きな生きがいも感じていくことができる。
 なかには、一応は先輩幹部であっても、広宣流布への使命感も、情熱も乏しく、ともすれば組織の批判ばかりする人もいます。もし、そうした人との交わりを深め、同調して、不平や不満を並べていると、自分も清新な信心の息吹を失い、堕落していってしまう。
 残念なことに、これまで、そういう事例を、幾つも見てきました。
 次に、幹部の反社会的な行為や組織利用は絶対に許されないということを、深く心にとどめていただきたい。幹部に、そうした行為があれば、大勢の学会員を苦しめ、広宣流布の大きな遅れにもつながってしまう。
 仮に、そういう幹部と親しい関係にあったとしても、決して擁護する必要はありません。学会は、悪は悪であると鋭く見抜き、的確に対処できる健全な組織でなければならない」
 仏法の説く生命の因果の法則は、人間の規範、モラルの根本となるものである。不正、悪事を行い、人の目をごまかすことはできたとしても、仏法の因果の理法を逃れることはできない。どんなに小さな悪事も、また、善事も、すべては報いとなって自分自身に返ってくる。日蓮大聖人は、「悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず」と仰せである。
 この法則を、生き方の基としているのが仏法者である。ゆえに、われらは、最もモラルを重んじ、正義を貫く、高潔なる人格の人でなければならない。
30  力走(30)
 十二月三日、三重研修道場では全国県長会議が行われ、「人材育成の年」となる明年の具体的な活動について協議が行われた。
 山本伸一は、関西総合婦人部長になった栗山三津子のことが、気がかりで仕方がなかった。これまで手紙などを通して励ましを重ねてきたが、さらに元気づけたかった。
 この夜、伸一は、妻の峯子に語った。
 「栗山さんは、入院して、癌の手術を受けるとのことだが、きっと寂しい思いをしているにちがいない。
 彼女は、女子部時代から関西の中心として頑張り、ずっと、関西広布に走り続けてきた人だ。必ず乗り越えることができるよ。まず『闘い抜いたあなたを、御本尊が、諸天善神が、守らないわけがない。しっかり治療に専念することです』と伝えてほしい。
 しかし、栗山さんのことだから、きっと、″みんなが必死で活動しているのに、自分だけ病院で寝ているなんて、申し訳ない″と考えてしまうだろう。
 だから、さらに、こう伝えてもらいたい。
 『各県の婦人部長は、皆、忙しくて、ゆっくり唱題する時間がないので、あなたが皆の分まで題目を送ってください。それが使命です。早く元気になって帰って来てください。私たち夫婦は、あなたに題目を送ります』」
 翌四日は、伸一たちが三重を発ち、高知へ向かう日であった。彼は、県長会議の参加メンバーや、地元・白山の学会員と記念撮影をするなど、皆の激励に余念がなかった。
 栗山が、峯子のところへあいさつに来た。
 「今日、大阪に戻って入院いたします」
 峯子は、伸一の言葉を伝え、「絶対に大丈夫ですよ」と励まし、固い握手を交わした。
 栗山は、伸一が案じていた通り、大事な時に、広宣流布の陣列を離れなければならない自分が許せず、わびしい思いをいだいていた。しかし、「皆の分まで題目を」との言葉に救われた気がした。勇気が湧いた。
 励ましとは、相手の身になって考え抜き、苦悩を探り当て、希望の光を送る作業だ。
31  力走(31)
 栗山三津子の手術は、大成功に終わった。
 そして、年末に退院し、年が明けると、何事もなかったかのように、元気に活動を開始し、これまで以上に、強い確信をもって、多くの同志を励ましていくことになる。
 十二月四日、山本伸一は峯子と共に、三重研修道場から、車や列車を乗り継いで大阪へ行き、伊丹空港から、空路、高知へと向かうことになっていた。
 この日、三重は曇天であったが、大阪に入ると、雨が降り始めた。高知も雨だという。
 飛行機は、少し遅れて伊丹空港を飛び立った。高知空港は雨のため視界が悪く、しばらく上空を旋回していた。もし、着陸できなければ伊丹空港に引き返すことが、機内アナウンスで伝えられた。
 伸一の一行を出迎えるために、高知空港に来ていた県長の島寺義憲たちは、灰色の雨空をにらみつけながら、心で懸命に唱題した。
 伸一が四国を訪問するのは、一月、七月に続いて、この年三度目である。しかし、高知入りは六年半ぶりであった。それだけに島寺は、″何が何でも山本先生に高知の地を踏んでいただくのだ″と必死であった。
 一行の搭乗機は、高知上空を旋回し続けていたが、遂に午後四時半、空港に着陸した。予定時刻より、一時間近く遅れての到着であったが、乗客は皆、大喜びであった。
 伸一は、機長への感謝を込め、和歌を詠み贈った。
 「悪天に 飛びゆく操縦 みごとなる
   機長の技を 客等はたたえむ」
 彼は、その見事な奮闘への賞讃の思いを、伝えずにはいられなかったのである。
 皆が感謝の思いを口にし、表現していくならば、世の中は、いかに温かさにあふれ、潤いのあるものになっていくか。
 空港のゲートに伸一の姿が現れた。
 「先生!」と、島寺は思わず叫んでいた。
 伸一は、微笑み、手をあげて応えた。
 「新しい高知の歴史をつくろう!」
32  力走(32)
 本部職員の島寺義憲が、高知県長として派遣されたのは、二年前の十二月であった。彼は、東京の日本橋で生まれ育ち、三十五歳にして初めて暮らす異郷の地が高知であった。
 県長の任命を受けた時、彼は、なんの逡巡も迷いもなかった。″広宣流布のためなら、どこへでも行こう! わが生涯を、山本先生と共に広布にかけよう!″と、心を定めていたからである。
 島寺に限らず、当時、各県の県長等に就いた青年幹部の多くが、同じ気持ちでいた。皆、青年部員として、会長・山本伸一の薫陶を受け、″わが人生は広布にあり″″わが生涯は学会と共に″と決め、力を磨き蓄えていたのである。だから、突然、どこへ行くように言われても、動揺も、不安も、不満もなかった。二つ返事で、そこをわが使命の舞台と決め、若鷲のごとく、あの地、この地へと、喜び勇んで飛んでいったのだ。
 もちろん、それぞれが個人の事情をかかえていたはずである。しかし、皆、日ごろから、後継の青年部として広宣流布の一切の責任を担っていこうと覚悟を定めていたのだ。その精神があったからこそ、「広布第二章」の建設があったといえよう。広宣流布のバトンを受け継ぐ青年たちは、いかなる時代になっても、この心意気を忘れてはなるまい。
 すべてに、自分の都合ばかりを主張し、エゴイズムに埋没してしまうならば、皆との調和も、自身の境涯の向上もない。また、広宣流布を加速させることも、社会に貢献することもできなくなってしまう。大きな理想に生きようとしてこそ、自己の殻を打ち破り、境涯を開いていくことができるのだ。
 戦前の「創価教育学会綱領」には、次のようにある。
 「本会は他を顧み得ぬ近視眼的世界観に基づく個人主義の利己的集合にあらず、自己を忘れて空観する遠視眼的世界観に基づく虚偽なる全体主義の集合にもあらず」(「価値創造」補注(『牧口常三郎全集10』所収)第三文明社)
 広布をめざすなかに個人の幸福もあり、自他共の幸福のために、広布に走るのである。
33  力走(33)
 高知は近代日本へ歴史回天の大波を起こした人材の天地である。
 また、広宣流布の歴史にあっても、高知には、根深い旧習のなか、来る日も来る日も、折伏・弘教に歩き、茨の道を切り開いてきた、″魁光る″民衆革命の軌跡がある。
 島寺義憲は、学生時代に高知を訪れて以来、この県に強い憧れをいだいていた。
 荒波躍る雄大な太平洋。清流をたたえた美しき四万十川、そそり立つ緑の山々。そして、坂本龍馬、板垣退助ら近代日本の夜明けを開いた逸材たち。また、「いごっそう」といわれる、信念を曲げない高知県人の気質――すべてに魅力を感じた。
 島寺が高知県長の任命を受けた時、山本伸一は言った。
 「若い幹部が、見ず知らずの地に県長として行くんだから、″俺は県長だ″などと偉そうな態度をとってはいけないよ。高知の幹部の人たちは、何十年も地元に暮らしているし、年齢的にも先輩なんだ。″教えてください″という姿勢で、謙虚に臨むことです。
 それを、はき違えて、役職、肩書があるから自分が偉いかのように錯覚し、威張ってしまえば、誰もついてきません。心の底から皆を尊敬し、周囲の人が、あの県長を応援しようと思ってくれるリーダーになるんだよ。
 もう一つ大事なことは、一人ひとりとつながっていくことです。皆さんのお宅を、一軒一軒、徹して回って、友人になるんだ。
 また、青年や若手の壮年を育成し、人材の次の流れをつくっていくことです。
 将来の中核となるメンバーを十人か二十人ぐらい集めて、御書の講義や研修会を行ってもいいだろう。ともかく、後に続く人たちには、信心の基本、幹部のあり方の基本を、しっかり教えるとともに、創価の心、学会の精神を、きちんと伝え抜いていくんです」
 いかなる団体であれ、″基本″と″精神″の継承は、永続と発展の生命線である。そのうえに、時代に即応した知恵が発揮され続けていってこそ、永遠の栄えがある。
34  力走(34)
 島寺義憲の高知県長就任と同時に、県婦人部長にも、三十代の斉木藤子が就いた。
 若い中心者二人が、高知広布の車軸となって前進していくことになったのである。
 島寺は、地道に県内を回った。
 村八分のなかで、敢然と信心を貫き、地域の大多数の人びとを学会の理解者にしていった、多くの草創の同志がいた。
 幾つもの病苦や経済苦を信心で勝ち越えて、大きな信頼を勝ち取ったという″実証の人″も随所にいた。皆、大確信にあふれ、創価学会員であることに最高の誇りをいだき、一途に広宣流布に生きようとしていた。
 島寺は、心から感動を覚えた。頭が下がった。
 かつて高知では、草創期の中心幹部が、不祥事を起こした末に、退転、反逆していくという事件があった。
 そのためか、なかには、「幹部には頼らん。自分の組織は、自分で守る」と言う草創からの幹部もいた。
 島寺がその地域の会員宅を家庭訪問することについても、「勝手なことをされては困る」と言い出す始末であった。
 彼は、言葉を失った。
 幹部への信頼が、ひとたび崩れてしまったならば、それを取り戻すのは容易ではないことを、肌で感じた。
 ″よし、大誠実をもって、皆のために粘り強く、尽くし抜いていこう!″
 高知で育った物理学者で随筆家の寺田寅彦は言った。「実例の力はあらゆる言詞より強い」(『寺田寅彦全随筆二』岩波書店=現代表記に改めた。)と。
 山本伸一は、島寺のことを気にかけ、県長会などで彼と顔を合わせるたびに、さまざまなアドバイスを重ねた。
 「話は、活動の打ち出しだけではなく、信心の歓喜と確信を与えることが大事だよ」
 「副役職者を大切にしなさい。その力が本当に発揮されれば、広宣流布は加速度的に進みます。
 副役職の人には、中心者の方から積極的に声をかけ、信義と友情の絆を結んでいくんです。
 強い組織というのは、副役職者が喜々として活躍している組織なんです」
 島寺は、伸一の指導通りに実践した。
35  力走(35)
 一九七七年(昭和五十二年)七月、高知の同志の念願であった高知文化会館(後の高知平和会館)が高知市内に完成した。
 さらに、同年十二月には、高知研修 道場(後の土佐清水会館)が土佐清水市にオープンした。
 このころには、高知県創価学会は大きな前進の足跡を刻み始めていた。
 そして、島寺からは、再三にわたって山本伸一に、高知訪問の要請が寄せられていた。
 伸一は、新しい県長・婦人部長を支え、共に戦ってくれた功労の同志に、御礼を言いたかった。
 高知でも、会員を学会から離反させて、寺の檀徒にするため、宗門僧らによる学会への陰湿な誹謗・中傷が繰り返されてきた。
 そうしたなかで、歯を食いしばって創価の正義を叫び抜き、学会員を守り抜いてきた人たちを讃え、励ましたかったのである。
 伸一の一行が高知文化会館に着いたのは午後五時半で、辺りは夜の帳に包まれていた。
 文化会館は、高知市の中心部を流れる鏡川に面して立つ、鉄筋コンクリート四階建ての堂々たる会館であった。
 この夜、伸一が真っ先に出席したのは、草創からの功労者の代表百五十人との懇談会であった。懐かしい多くの顔があった。
 風雪に耐えて、広宣流布の険路を勝ち越えてきた勇者たちの頭髪は、既に薄くなり、また白いものが目立ち、額には幾重にも皺が刻まれていた。
 しかし、その瞳は、歓喜と求道と闘魂に燃え輝いていた。
 「わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り」(『牧野富太郎自叙伝』講談社)とは、高知が生んだ日本植物学の父・牧野富太郎の言葉である。
 伸一は、高知を訪問できた喜びを語り、皆を抱きかかえる思いで訴えた。
 「″戸籍の年齢″と″生命の年齢″とは違います。気持ちが若ければ、″生命の年齢″は青年です。永遠なる楽しき広布旅です。
 高知県創価学会を日本一にするために、私と共にもう一度、頑張ろうじゃないですか!」
36  力走(36)
 懇談会で山本伸一は、参加者の近況に耳を傾け、ピアノを弾いて励まし、記念のカメラに納まった。
 その夜、彼は、高知の県幹部らに語った。
 「私は全力で働きます。一人でも多くの高知の同志にお会いするつもりです」
 翌十二月五日は、前日とは打って変わり、南国土佐らしい快晴となった。
 この日、高知文化会館で、昼には高知支部結成二十二周年の記念幹部会が、夜には同会館の開館一周年記念幹部会が行われることになっていた。
 参加者は、午前中から文化会館に集って来た。伸一は、正午過ぎには二階ロビーに出て参加者の激励にあたった。会館の窓から外を見ると、人びとの列は絶えなかった。記念幹部会の参加者だけでなく、伸一の訪問を聞き、ひと目でも会えればと、やって来た人たちも多かった。
 彼は、高知文化会館を出て、会館前を流れる鏡川の土手を歩きながら、集って来る人たちに次々と声をかけ、握手を交わし、一緒に記念撮影を重ねた。会館周辺の、学会員が経営している喫茶店や雑貨店にも立ち寄った。
 会館での記念行事を祝賀し、餅つきをしているメンバーのもとへも足を運び、労をねぎらい、励ましの言葉をかけた。
 伸一は、固く心に決めていた。
 ″波瀾、激動の末法にあって、誰が広宣流布を進めるのか。この方々しかいない。
 学会員は、自らの宿業と悪戦苦闘しつつ、人びとの幸福のために全力で駆け回ってくださっている。まさに、大使命をもって出現した地涌の菩薩であり、尊き仏子なのだ。
 私は、瞬時も無駄にすることなく、目に映る一人ひとりに魂を注ぎ、合掌する思いで、激励の限りを尽くし抜こう。決して、障魔に敗れ、倒れたりする人を出してはならない!″
 御聖訓には、「木をうえ候には大風吹き候へどもつよけをかひぬれば・たうれず」と。
 励ましは、勇気となり、力を生む。
37  力走(37)
 高知支部結成二十二周年記念幹部会は、午後一時半過ぎから始まった。
 山本伸一は、高知県創価学会の興隆と同志の幸福を祈念して厳粛に勤行したあと、皆で万歳を三唱しようと提案した。宗門の僧らによる卑劣な仕打ちに耐え抜いた大切な同志の敢闘を、心から讃えたかったのである。
 そのあと、伸一と峯子の高知訪問を記念して、二人に花束が贈られた。伸一たちは、その真心に深く感謝し、皆の了承を得たうえで、それを壮年部、婦人部の高齢者の代表に贈った。このうち、婦人部の代表は、高知県東端の徳島との県境にある安芸郡東洋町から、車で三時間かけてやって来た人であった。
 参加者の多くは伸一と初対面であり、皆、どことなく緊張している様子であった。彼は、その緊張をほぐそうと、自ら司会を買って出て、県の幹部らにあいさつをするよう、次々と指名した。予期せぬ事態に、絶句したり、慌てたりする様子が爆笑を呼び、硬い雰囲気は一気にほどけた。
 各部の合唱団による晴れやかな合唱、記念品の贈呈のあと、マイクに向かった伸一は、六年半ぶりの訪問ではあるが、日々、高知の友を思い、夫婦で題目を送り続けてきたことを語った。そして、力強く訴えた。
 「広宣流布は、現実社会のなかを、一歩一歩、切り開いて進む、長い、長い遠征です。その前途には、不況など、生活を圧迫する、さまざまな大波もあります。
 したがって、生活においても明確な長期の展望を立てるとともに、特に足元の経済的な基盤を固めていくことが大切になっていきます。″信心をしているから、どうにかなるだろう″という考えは誤りです。
 仏法は道理です。展望なき生き方は、長続きしません。また、生活設計がいい加減で、日常生活のリズムも乱れていれば、厳しい現実を乗り越えていくことはできません。
 すべて『信心即生活』です。身近な一歩を大切にしながら、生活の安定と向上をめざし、強盛な信心を貫いていただきたい」
38  力走(38)
 山本伸一は、さらに、法華経の「普賢菩薩勧発品」の、「普賢よ。若し後の世に於いて是の経典を受持・読誦せば、是の人は復衣服・臥具・飲食・資生の物に貪著せじ。願う所は虚しからじ。亦現世に於いて、其の福報を得ん」(法華経676㌻)の文を引いて指導していった。
 「この経文は、末法にあって、御本尊を受持し、信心を貫いていった人は、物欲に振り回されるような生き方を脱して、所願満足の境涯に入っていくことを述べられています。
 信心を貫いていくうえで必要なのは、勇気です。勇気とは、本来、外に向けられるものではありません。弱い自分、苦労を回避しようとする自分、新しい挑戦を尻込みしてしまう自分、嫌なことがあると他人のせいにして人を恨んでしまう自分など、自己の迷いや殻を打ち破っていく心であり、それが幸福を確立していくうえで、最も大切な力なんです。
 高知の皆さんは、自分に打ち勝つ、勇気ある信心の人であってください」
 高知支部結成二十二周年を記念する幹部会は、喜びの弾けるなか、幕を閉じた。
 彼は、休む間もなく激励に館内を回り、屋上で開かれた茶会にも、参加者の労をねぎらうために顔を出した。そこで歯科医師で県副婦人部長をしている樫木幸子と、その母親、男子部の長男、女子部の長女と懇談した。
 幸子は、一九五八年(昭和三十三年)の一月、学会に入会。勤行は始めたものの、学会活動には消極的であった。その翌年、夫を交通事故で亡くした。息子は九歳、娘は五歳であった。途方に暮れた。自分の宿業を思い知らされた気がした。
 ″私が強くならなければ、試練の荒波に負けない自分にならなければ……。また、人生には福運が大事だ。この信心に励めば、自分を変えられるし、宿命も転換でき、福運をつけることもできるという。よし、本格的に信心をしてみよう!″
 彼女は決意した。歯科医院を営みながら子どもを育て、懸命に学会活動に励んだ。
39  力走(39)
 樫木幸子は、自宅を会場として提供した。彼女の家がある高知県西部の窪川町(後の四万十町の一部)は、高知と、土佐清水、宿毛のほぼ中間に位置し、比較的、皆が集いやすい場所であった。といっても、土佐清水からでも、列車を乗り継いで四時間ほどかかる。
 草創期のことであり、車を持っている人など、誰もいなかった。終列車に間に合わず、樫木宅に泊めてもらい、翌朝、帰っていく人も少なくなかった。彼女は、そうした人たちを大切にした。樫木の家は、皆から″樫木ホテル″と呼ばれるようになった。
 歯科医師として働き、学会活動に取り組む幸子を陰で支えてくれたのは、母親の藤であった。藤もまた弘教に情熱を燃やし、学会員のバイクの後ろに乗せてもらっては、あの地へ、この地へと友のために走った。
 山本伸一は、高知文化会館の屋上での茶会で、幸子に言った。
 「よく頑張ってきましたね。あなたのことを、地域の同志は誇りに思っていますよ。
 あなたが頑張ってこられたのは、お母さんが守り、支えてくださっているからです。どうか、お母さんを大事にしてください。人間は、一人では生きていけません。常に誰かの力を借りているものなんです。そのことを忘れずに、周囲の人に感謝の思いをもって接していくのが、仏法者の生き方です。
 同様に、会員の皆さんを激励する際にも、その方を応援し、協力してくれているご家族に、御礼、感謝の言葉をかけるんです」
 それから、和服姿の藤に視線を向けた。
 「おばあちゃん、ありがとう。着物がよくお似合いですよ。
 ご一家でいちばん偉いのは、娘さんやお孫さんを守り、窪川の発展を支えてこられた、おばあちゃんです。まさに樫木家の会長です。うんと長生きしてください」
 伸一は、樫木家の繁栄を祈りつつ、家族と一緒に記念のカメラに納まった。
 人への感謝と配慮は、心の結合をもたらし、それが新しい前進の活力となっていく。
40  力走(40)
 山本伸一は、引き続き午後四時から、高知市内の学会員が営む喫茶店で、女子部の本部長ら二十数人と懇談し、午後六時過ぎからは、高知文化会館の開館一周年記念勤行会に出席した。
 翌六日は、土佐清水市にある高知研修道場に向かう予定であったが、彼は、勤行会に出てから出発することにした。
 「私は、すべての勤行会に出席します。できれば、全会員の皆さんとお会いしたい」
 高知県長の島寺義憲は、涙が出るほど嬉しかった。しかし、″先生は、全力疾走のような激励行を続けている。むしろ、休んでいただくべきではないか″との思いが、彼の心を苛んだ。
 勤行会は午後二時から開始された。伸一は、経文、御書を拝して、御本尊の無量無辺の功徳力について語った。
 末法の御本仏である日蓮大聖人が、一切衆生のために、宇宙、生命の根本法である南無妙法蓮華経を曼荼羅に具現されたのが御本尊である。大聖人は、文永十年(一二七三年)四月、佐渡流罪中に認められた「観心本尊抄」のなかで「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」と宣言されている。
 創価学会は、その御本尊への絶対の確信を原動力として、広宣流布を推進してきた。
 伸一は、訴えた。
 「広大無辺の功力を具えた御本尊に南無しゆく強き信力、行力によって、御本尊に具わった仏力、法力が引き出され、大功徳に浴すことができる。また、人生の大福運を積んでいくことができるんです。
 したがって皆さんは、勇気をもって自行化他にわたる信心を貫き、日々の生活のなかで幾つもの功徳の体験を積んでいただきたい。それが、さらに御本尊への確信を強くし、信心の歓喜を呼び起こしていきます。また、その功徳の姿を社会に示していくことによって、広宣流布は一段と加速度を増します」
 功徳あふれるところに、歓喜と確信がみなぎり、弘教の波は広がる。
41  力走(41)
 勤行会で、功徳を受けていくことの大切さを語った山本伸一は、最後に呼びかけた。
 「″水の信心″と″団結の高知″、さらに″功徳の高知″として、見事な楽土を築き上げていかれますよう心よりお祈り申し上げ、本日の指導とさせていただきます」
 ″水の信心″と″団結の高知″――これは、一九七二年(昭和四十七年)六月二十日、高知での記念撮影会の折に、彼が示した指針であった。
 高知県人は、「熱しやすく冷めやすい」といわれる。それは、短期決戦においては、長所となるが、一生成仏をめざして信心を貫くうえでは、短所になりかねない。そこで伸一は、一時的に燃え上がり、すぐに消えてしまうような″火の信心″ではなく、生涯、求道の姿勢を持続し、川の水が流れ続けるような″水の信心″を貫くことの大切さを語ったのであった。
 また、高知県の男性は、「いごっそう」との言葉が示すように、気骨があり、革新的で反権力的な傾向が強い。一方、女性は、「はちきん」といわれ、きっぷがよく、勝ち気であるといわれる。つまり、男女共に、容易に自説を曲げない気質があり、それは半面、団結しにくい要素にもなる。
 高知広布を推進していくカギは、「いごっそう」も「はちきん」も、皆が力を合わせ、異体同心の信心に徹していくことにある。ゆえに彼は、″団結の高知″をめざすように訴えたのだ。
 そして、今回、この二つの指針に、″功徳の高知″を加えたのである。
 水の信心を貫き、団結して広宣流布に邁進していくのは、それぞれが功徳の花を咲かせて、幸せを満喫するためである。皆が、共に功徳を受けようとの思いで信心に励んでいる組織には、喜びがあり、ほのぼのとした人間性の温もりがある。また、功徳の体験は、金剛不壊の信心を築き上げる骨格となる。
 これらの指針は、高知県の永遠の三指針として、同志の心に刻まれていくことになる。
42  力走(42)
 山本伸一は、午後三時過ぎ、高知駅から急行列車に乗り、土佐清水市の高知研修道場へと向かった。
 車窓には、小高い山々が連なっていた。暦のうえでは、既に冬だというのに、美しい深緑の山並みが輝き、南国土佐を感じさせた。
 列車が須崎を過ぎると、目の前に太平洋の青い海原が開けた。しかし、ほどなく再び山間部に入った。短いトンネルを幾つもくぐって、午後五時前、土讃本線の終点・窪川駅に停車した。列車は、そのまま中村線に乗り入れ、さらに四十分ほどして終点の中村駅に到着した時には、夜の帳に包まれていた。
 ここから先は、車での移動である。まだ一時間半ほどはかかるという。
 車のヘッドライトが、夜道の両側に生い茂る木々を照らしていた。伸一は、同乗した副会長で四国総合長の森川一正に尋ねた。
 「山また山だね。草創期の同志たちは、どうやって学会活動をしてきたんだろうか」
 「はい。昭和三十年代の半ば、中村の辺りから、愛媛との県境にある西土佐村の口屋内や奥屋内まで、いつも自転車で通ったという地区部長もおります。訪問したお宅から帰る途中で、夜明けを迎えることも、たびたびあったそうです。しかし、行けば喜んでくれる同志の顔が忘れられず、懸命にペダルを漕いだと、嬉しそうに語っておりました。それが誇らかな思い出になっているそうです」
 伸一は、感嘆しながら言った。
 「信心の世界というのは不思議なもので、苦労すればするほど、それが、最高の思い出になる。苦労は、すべて報われるからです。
 真心をもって友の激励に通い、発心することを祈り続ければ、どんな状態にある人も、いつか、必ず立ち上がる時がくるものです。
 また、仮に、そうならなかったとしても、相手のために尽くした分は、すべて自身の功徳、福運となって返ってくる。それを実感できるのが信心の世界なんです」
 インドの英雄マハトマ・ガンジーは「努力そのものが勝利なのだ」(『マハトマ・ガンジー全集31巻』インド政府出版局)と語っている。
43  力走(43)
 高知研修道場では、地元の幹部らが山本伸一たちの到着を待っていた。
 ″こんな遠くまで、本当に山本先生が来てくださるのだろうか……″
 彼らは、伸一が中村駅から車に乗り、研修道場へ向かったという連絡を受けても、まだ、信じられない思いがするのだ。
 研修道場がある土佐清水市をはじめとする幡多地域でも、多くの会員が宗門僧の非道な仕打ちに耐えてきた。そのなかで同志たちは、伸一の研修道場訪問を目標に、互いに励まし合いながら進んできたのである。
 午後七時を回ったころ、ヘッドライトの光が走り、数台の車が研修道場に到着した。
 「いやー、さすがに遠いね。とうとう来ましたよ。お世話になります!」
 伸一の声が響いた。
 「先生! ありがとうございます……」
 「もう、大丈夫だよ。私が来たんだから、安心してください。一緒に、新しい出発をしようよ」
 その言葉を聞くと、地元幹部は、喜びに胸が熱くなり、言葉が途切れた。
 玄関の横には、ピンク色の花を咲かせた山茶花の木々が植えられていた。伸一は、その木を見ると、こう提案した。
 「きれいに咲いているね。庭の手入れをしてくださっている方の真心が胸に染みます。ここを『山茶花庭園』としてはどうですか。
 また、せっかく木を植えたんだから、高齢の功労者から十人を選んで、その方々の名前を、それぞれの木につけませんか。そして、木の横に名前を書いて、功労を讃えていくんです。悔し涙をこらえながら、懸命に広布の道を開いてこられた勇者たちだもの」
 それから、森川一正や島寺義憲ら四国、高知の幹部に言った。
 「幹部は、励ましに徹することです。
 どうすれば、広宣流布のために苦労し、頑張ってこられた方々が喜んでくださるのか。その功労に報いることができるのか――と、常に考え続けていくんです」
44  力走(44)
 高知研修道場に到着するや、山本伸一の師子奮迅の陣頭指揮が始まった。
 この夜は、方面や高知県の幹部らと懇談。研修道場周辺の状況などを尋ねた彼は、県長の島寺義憲らに語った。
 「明日から行う研修道場での勤行会には、高知県西部だけでなく、愛媛県から南予の代表も参加することになっていたね。
 たくさんの人が来るので道路も混み、何かと周辺に迷惑をかけることも考えられる。
 事前に、消防署や消防団、駐在所、漁業協同組合などへ、ごあいさつにお伺いしておくことです。
 研修道場にせよ、会館にせよ、使用していくうえでは、近隣や周辺の方々に、ご理解、ご協力をいただかなければならない。
 それには、常日頃から交流を図っていくとともに、何か大きな行事を開催するような時には、必ずごあいさつに行くことです。
 事前に何を行うかお知らせし、ひとことお断りしておけば、安心していただけるものです。
 近隣の方々に、″学会の会館ができ、大勢の人が集まっているが、何をしているか全くわからない。
 不安である″といった思いをさせてはいけません。
 仏法即社会なんですから、周囲の方々が、″学会の会館ができてよかった。
 地域も発展するし、安心できる″と思っていただくように努力していくことです」
 また伸一は、幡多地域にある宗門寺院に、「研修道場に来ております。いつも、お世話になり、ありがとうございます」との伝言とともに、土産の品を届けてほしいと頼んだ。
 懇談した幹部たちは、皆、間断なく奮闘する伸一を目の当たりにして、彼の体調を気遣っていた。
 皆の心を察したように、伸一は語った。
 「私は真剣勝負なんです。先のことはわからない。もう二度と、ここへは来られないかもしれない。
 だから、悔いのないように、幡多地域の、そして高知の未来のために、一切の布石をしておきたい。結局、戦いも、人生も今しかない。今、何をやるかなんです」
45  力走(45)
 十二月七日、山本伸一は、高知研修道場で黎明の海を見た。静寂のなか、暁闇を破って光が走り、太平洋にのびる足摺半島の稜線が浮かび上がる。海原には、無数の金波が躍り、赫々たる太陽が昇る。足摺の日の出は、大自然の荘厳なるドラマであった。後に伸一は、この時の感動を詩に詠んだ。
 転瞬――
 満を持したる 光彩の爆発だ
 無数の黄金の矢を放ちつつ
 無限のエネルギーをはらみつつ
 火球の躍り出ずるかのように
 日輪は
 みるみる 大海を
 金と銀の色に染めたり
 なべての大空間を
 燃えるがごとき光沢で
 宝石と 飾りぬ
  
 おお
 大自然の壮大なる演出
 いかに 人工の巧みを尽くそうとも
 とうてい比肩しえぬ
 大いなる バイタリティーのドラマ
 高知研修道場より望見せし
 かの足摺の日の出が
 私は 私は大好きだ
 日本一の
 ″午前八時の太陽″だ
 伸一は、昇りゆく足摺の旭日が、広宣流布の天空に躍り出た創価学会の姿を、象徴しているように感じられてならなかった。
 学会に偏見をいだき、その実像を見ようとしない人びとから、そして、信徒支配をもくろむ宗門の僧から、学会は、どれほど攻撃を受けたことか。しかし、われらは威風も堂々と、今日も、わが使命の軌道を悠然と進む。
 哲人セネカは言う。「空も暗くなるほど放った矢が一本でも太陽を射止めただろうか」(セネカ著『わが死生観』草柳大蔵訳、三笠書房)
46  力走(46)
 七日、高知研修道場の開所一周年を祝う第一回の記念勤行会が、午後一時から行われた。山本伸一は、御書を拝して、仏法は死の問題を解明した大哲理であることや、唱題の大切さを、大確信を込めて訴えた。
 終了後には、参加者をねぎらおうと、ピアノも弾いた。また、役員として運営にあたる男女青年部の代表らには、「立大」や「光友」等と揮毫した色紙を贈った。
 伸一が帰途に就く参加者のバスを見送り、何人かのメンバーと記念撮影していると、県長の島寺義憲が、ダブルの礼服に身を包んだ白髪の男性を紹介した。
 「黒山芳次さんです。研修道場の整備に尽力され、しだれ梅や椿、桜の木などを寄贈してくださいました」
 伸一は、黒山の手を握りしめて言った。
 「ありがとうございます」
 黒山は、目を潤ませて語った。
 「先生! ずっと、お会いしたいと願い続けておりました。嬉しいです」
 「私の方こそ、お会いできて嬉しい。今日は、奥さんはご一緒ではないのですか」
 「家におります」
 「奥さんも一緒に来られたらよかったのに。今度、お宅へ、御礼にお伺いします」
 「めっそうもない。わしの家は、イノシシ小屋のようなものですから」
 「でも、イノシシ小屋でも、御本尊様は、御安置してありますよね」
 「はい……」
 「それならば、お宅は常寂光土であり、大宮殿です」
 「そうですね」
 明るい笑いが広がった。
 黒山が寄贈してくれた樹木の植えられた場所は彼の名を冠し、「黒山庭園」と名づけられた。翌年、伸一は、自著『忘れ得ぬ出会い』が発刊されると、句を書いて贈った。
 「いのししの 小屋を忘れじ 不二の旅」
 同志の心遣いに、最大の真心で応えるなかに、創価の魂の連帯が築かれてきたのだ。
47  力走(47)
 山本伸一は、夕刻には高知研修道場周辺の視察に出かけ、足摺海洋館を訪問した。
 一九七〇年(昭和四十五年)に、日本で初めて海中公園(後の海域公園)に指定されたこの辺りは、海の透明度も高く、波や風に浸食されてきた砂岩や泥岩は、ユニークな形に姿を変え、地質の博物館ともいわれていた。
 足摺海洋館には、大きな水槽が設置され、土佐の海や黒潮のなかで生きる魚類などの生態を、観察することができた。
 研修道場に戻ると、ほどなく第二回の勤行会が始まろうとしていた。
 伸一は、四国長の久米川誠太郎に尋ねた。
 「今日一日で、何人ぐらいの同志にお会いすることになるかね」
 「だいたい二千人だと思います」
 「そうか。私の気持ちとしては、高知の全同志とお会いしたいんだ。来られる方は、一人でも多く参加できるように工夫してほしい。私と会員の皆さんの間には、壁なんかないんだ。また、絶対に、そんなものをつくってはいけないよ。権威、権力になってしまったら、既に日蓮大聖人の仏法ではないもの」
 伸一は、この勤行会でも、あいさつだけでなく、万歳三唱を提案したり、自らピアノを弾いたりするなどして、参加者の激励に心を砕き、力を注いだ。
 翌八日も、午後一時過ぎから勤行会が開かれた。これには、地元の高知県だけでなく、愛媛県からも南予の代表が参加した。
 ここでは、高知が指針の一つとしている、「水の信心」について言及していった。
 「水の流れるように信心を実践していくには、十年、二十年、三十年と、長期の視点に立ち、粘り強く精進を重ねていくことです。そして、生活を確立し、家庭を盤石にして、足もとを固めることが大事なんです。
 さらに、学会の組織、同志から離れないことです。また、信心の基本となる教学を、しっかり身につけていくんです。たとえば、御書全編を拝読する気概で、真剣に教学に取り組んでください」
48  力走(48)
 この八日の勤行会でも、山本伸一は、あいさつのあとにピアノを演奏し、終了後には、参加者のバスを見送った。乗車を待つ同志の列の中に入り、声をかけ、さらに、乗車した人たちとも、窓越しに握手を交わした。
 同行の幹部らは、満足な休息もとらずに動き続ける伸一の体が、心配でならなかった。
 幹部の一人が、遠慮がちに、「少しはお休みになってください」と伝えたが、彼は、全力で激励を続けた。
 ″激風の吹き荒れる今、私が同志を励まさずして、誰が励ますのか! 今しかないではないか! 励ます側にすれば、何百人対一人であっても、同志にとっては一対一なのだ。激励には、手抜きなどあってなるものか!″
 彼の心は、激しく燃え盛っていた。
 女子部の幹部が、「研修道場の庭で、女子部の有志が野点を行います。ぜひお越しください」と伝えてきた。すぐに向かった。
 庭の一角を紅白の幕で仕切り、畳を敷き、琴の音が流れるなか、着物姿の女子部員たちが茶を点ててくれた。眼前に、太平洋の青い海原が広がり、一艘の船が白い航跡を残して沖に向かっていた。
 「最高の景色だね。みんなが休めと言うものですから、ゆっくりさせていただきます」
 伸一は、婦人部の有志の手作りだという和菓子を口にし、茶を飲んだ。
 「お菓子も、お茶もおいしいね! 結構なお服加減です。皆さんの着物も、よくお似合いです。″かぐや姫″のようですよ。
 これから、日本は、ますます国際化していくでしょう。当然、語学を身につけることは大事ですが、同時に、お茶、お花、着物、お琴、日本舞踊など、『これが日本文化です』と紹介できるものを習得していくことも大切です。国際化というのは、無国籍化することではないんです。日本らしさ、さらには、高知らしさを守り、身につけていくことは、国際人の一つの要件です」
 結局は、激励に終始した。
 ここは、後年、「希望の庭」と命名された。
49  力走(49)
 高知研修道場の広場では、勤行会参加者のために、タコ焼きや豚汁などの模擬店が開かれていた。山本伸一は、そこにも足を運び、茅葺きの東屋で、皆の様子を見守りながら、高知の県幹部らと懇談した。
 県長の島寺義憲が、研修道場の整備作業の中心となってきた壮年を紹介した。
 「天宮四郎さんです」
 伸一は、丁重にあいさつした。
 「多大なご尽力をいただき、大変にありがとうございます。四郎さんとおっしゃるんですね。いいお名前です。熱原の三烈士の神四郎を思わせます。昭和の神四郎となって、地域の同志を守り抜いてください」
 天宮は、瞳を輝かせて「はい!」と答え、伸一が差し出した手を握り締めた。小柄ではあるが、気骨を感じさせる壮年であった。
 彼は、研修道場のある土佐清水市の隣・幡多郡大月町で建築業を営んでいた。
 十四歳で大工の道に入った。やがて太平洋戦争が始まると、特攻隊を志願した。しかし、出撃となった時、乗り込んだ戦闘機のエンジンが不良のため、延期となった。同じことが三度も続いて、終戦を迎えた。
 戦後は、再び大工の修業を始め、やがて結婚。故郷の大月町で工務店を開いた。夢は大きく膨らみ、営業にも力を注いだ。
 努力の末に、仕事が軌道に乗ると、夜のつきあいも連日のようになり、酒量も増した。
 腹部に痛みを感じるようになった。それでも我慢しては、つきあい酒を重ねた。遂に、我慢も限界に達し、病院に駆け込んだ。腎臓病と診断された。″いよいよ、これから″という時である。描いていたバラ色の未来が、一転して暗黒に変わった。続く腹部の痛み、募る苛立ち……。それを忘れるために、さらに酒を飲んでは、妻の繁美にあたった。
 見かねた繁美の姉から入会を勧められ、藁にも縋る思いで、夫妻は信心を始めた。一九六二年(昭和三十七年)十月のことである。
 信心とは、人生のいかなる暗夜にも黎明をもたらす、希望の光源である。
50  力走(50)
 天宮四郎は、土佐の「いごっそう」を自負していた。ひとたび信心を始めたからには、徹しきってみようと腹を括った。学会の指導通りに朝晩の勤行を励行し、真剣に唱題を重ねた。苛立ちは失せ、酒を飲んで妻にあたることがなくなった。そして、腹部の痛みが消えた。健康は次第に回復していった。
 ″すごいぞ! この信心は本物や!″
 その喜びが、夫妻を弘教へと駆り立てた。
 しかし、知人も、親戚も、皆、信心には、反対するのだ。学会を目の敵にする建設関係者も多く、仕事を回してもらえなくなった。やむなく、小さな河川の修復工事などをして食いつなぐありさまだった。
 しかし、信心によって、心身ともに窮地を脱し、こうして汗水たらして働けるようになったという体験が、彼らを支えた。
 天宮は、不思議でならなかった。
 ″これまで、ほかの宗教には反対せんかった人が、創価学会いうたら、途端に血相を変えて、感情的になって非難し始める。ところが、いろいろ言うわりには、学会が、どんな教えかも全く知らん。入会したことがあるわけでもない。それやのに、とんでもないもんと、頭から決めてかかっちょう。学会の人が、正しい教えやからこそ皆に反対されると、語っていた通りだ″
 彼は、いよいよ確信を強くした。
 ″俺は戦争で死ぬはずの人間やった。しかし、生き残って信心に巡りおうた。広宣流布のために生きちょうようなもんよ! 幡多の、大月町の広布に生涯をかけるんじゃ!″
 こう決意した彼は、地域で信頼を勝ち取るために、仕事にも誠実を尽くした。彼の手がけた仕事は、顧客の誰もが喜んでくれた。また、どんなに忙しかろうが、徹夜を重ねても納期を守った。天宮を見る周囲の目は、次第に信頼と尊敬の眼へと変わっていった。
 仏法即社会である。広宣流布のためという生き方の芯が確立されれば、社会生活への取り組み方や振る舞いも、おのずから変わっていく。信心の勝利は、生活の勝利となる。
51  力走(51)
 天宮四郎・繁美は、夫妻で地域広布の草創の歴史を拓き、さらに、広布第二章の今も、支部長・婦人部長として、地域のため、社会のために力走を続けていたのである。
 天宮は、よく皆に、こう訴えてきた。
 「心のなかに迷いがあったら、本気で信心に取り組むことはできんし、力を出すこともできん。日蓮大聖人も、『一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし』と言われちょう。
 要は、腹を決めることよ。潔い信心に立ってこそ、自分の最大の力が出るし、大きな功徳を受けることもできる」
 彼は、常に″潔い信心″を心に誓い、全力で活動に励んできたのである。
 山本伸一は、研修道場で天宮に言った。
 「あなたのように、必死になって戦い抜いてきた方が、今日の広宣流布の流れを開いてきたんです。『いごっそう、万歳!』です。
 私がお願いしたいのは、さらに大きな心で皆を包み込んでいただきたいということです。一徹な人は、ともすれば、人の意見を聞かず、自分の考えを人に押しつける傾向があるといわれています。しかし、広宣流布は、団結の力によってなされる。皆が心を合わせ、伸び伸びと前進していくには、リーダーの包容力、寛容さが必要なんです。
 また、あなたの強盛な信心を、お子さんたちにも伝えていってください。二十一世紀が、広宣流布の本当の勝負になります」
 天宮は決意を確認するように深く頷いた。
 伸一は、天宮を顕彰していくため、この広場の名称を、彼の名を冠したものにしてはどうかと、方面や県の幹部らに提案した。
 社会では、顕彰されるのは権力者や著名人がほとんどである。しかし、伸一は、黙々と人びとの幸福のために奮闘してきた、無名の民衆リーダーたちの名を、樹木や庭などの名称に冠することによって、末永く顕彰するように努めていた。そこにこそ、万人の平等を説く仏法の眼があり、民衆を王とする、真の民主があるからだ。
52  力走(52)
 山本伸一は、愛媛県の南予から来たメンバーや、模擬店の役員とも記念撮影をした。
 その後、地元メンバーの勧めで、近くにある足摺海底館などを訪れた。
 夕刻、高知研修道場に戻った伸一は、地元の幡多地域本部の代表らと懇談した。
 さらに、研修道場の大浴場で、役員の男子部員らと一緒に入浴し、懇談を続けた。湯につかりながら、皆の仕事のこと、家庭生活のこと、学会活動のことなどを尋ねた。
 伸一は、幡多地域本部の面積が、ほぼ香川県と同じぐらいであることを聞くと、地域本部男子部長の宮西益男に語った。
 「広大な地域だね。山も多く、移動するにも時間がかかる。大都会である東京とは、皆の仕事や、生活のリズムなど、多くの面で異なっている。したがって、何から何まで、東京と同じことをする必要はありません。ここは、ここらしく、皆が楽しく活動していけるリズムをつくっていくことです。
 大事なことは、青年である君たちが、この地域の広布は自分たちの手で担おう、全責任をもとうと、決意していくことです。人を頼んではいけない。自分たちでやるのだと、心を決めるんです。勝負を決するのは二十一世紀だ。そこをめざして何を創るかです。
 青年が、今、広げた友情のスクラムが、そのまま未来の学会の広がりになる。頼むよ!」
 伸一から「何か要望は?」と尋ねられた宮西は、「事務の効率をよくするために、研修道場の事務所にコピー機を設置していただけないでしょうか」と答えた。コピー機がないために、行事日程や連絡事項など、ガリ版で作成し、配布していたのである。
 「私から、本部にお願いしてみます」
 伸一は、全面的に応援したかった。すぐに、東京から同行してきた幹部に、コピー設置の経費などを調べてもらった。
 そして伸一は、宮西に言った。
 「では、君を″コピー長″に任命します。コピー用紙一枚も、全部、学会員の浄財なんだから、大切に使うんだよ」
53  力走(53)
 山本伸一は、研修道場で役員のメンバーと入浴し、皆でロビーに出た。すると、人目を忍ぶようにして、帰途に就こうとしている若い女性の姿が見えた。
 「あの方は?」
 伸一は、県長の島寺義憲に尋ねた。
 「地元の女子部の大ブロック長(後の地区リーダー)で金山智美さんといいます。研修道場の事務所を手伝ってくれております」
 実は、彼女は膠原病を患い、薬の副作用による肌荒れや目の充血があった。そのなかで裏方として、準備にあたってきたという。
 伸一は、金山に声をかけた。そして、「ありがとう!」と感謝を述べると、力を込めて励ましていった。
 「信心をしているのだから、必ず宿命転換はできます。絶対に病は治すと決めて、題目を唱え抜いていくんだよ。二百万遍、三百万遍と、真剣に祈り抜いていくんです。何よりも、″病になんか負けるものか!″という、強い一念をもつことです。いいですね」
 「はい……」
 緊張していたのか、か細い声であった。
 伸一は、諭すように言った。
 「小さな声だね。そんな弱々しい声では、病魔を打ち破っていくことはできないよ。はつらつと生命力をみなぎらせていくんです。″私は、必ず元気になってみせる! 断じて乗り越えてみせる!″という、師子の気迫が大事なんだ。もう一度、言ってみようね」
 「はい!」
 決意のこもった明るい声が帰ってきた。
 「そうだ! その意気だよ!
 私も題目を送ります。一人じゃないよ。すべての諸天善神が、あなたを守ってくれます。必ず元気になって、またお会いしよう」
 金山の頰に赤みが差し、瞳は誓いに輝いていた。伸一も愁眉を開いた。束の間の出会いであったが、彼女は奮い立った。
 その後、金山は、見事に病を乗り越えている。そして結婚し、家庭を築き、夫妻で土佐清水の広布に駆け巡ることになるのである。
54  力走(54)
 十二月九日、山本伸一は、三泊四日にわたる高知研修道場での指導を終えて、高知市に戻ることになっていた。伸一は、正午過ぎから、研修道場に集って来た、四、五十人ほどの人たちと勤行して、出発することにした。
 勤行が終わり、皆の方を向くと、「先生!」と声をかける人がいた。補聴器をつけた、高齢の男性であった。土佐清水市の中心部から二十数キロ離れた集落で、最初に入会した芝山太三郎である。その集落は、タヌキやウサギが生息する、山間にあった。
 彼の悩みは、妻が病弱なことであった。近くには病院もない。一九五八年(昭和三十三年)、″妻が元気になるなら″と信心を始めた。
 芝山は、学会の指導通りに弘教に歩いた。すると、周囲から「いよいよ、頭がおかしゅうなってしもうた!」と陰口をたたかれた。
 だが、彼は微動だにしなかった。芝山もまた「いごっそう」であった。こうと決めたら、どこまでも突き進んでいった。
 半年後、妻が健康を回復した。
 ″この御本尊はすごい! どんな願いも、必ず叶えてくれる!″
 その確信が、ますます弘教の闘志を燃え上がらせていった。
 広宣流布の原動力とは、御本尊への絶対の確信であり、功徳から発する歓喜である。体験を通して、それを実感し、そして、大法弘通の使命を自覚することによって、広布の流れは起こってきたのだ。
 芝山は、この日、地域広布の伸展を伸一に報告しようと、妻と息子の三人で、勇んで研修道場に駆けつけてきたのである。彼は、あらん限りの力を振り絞るようにして語った。
 「先生。わが集落は、もう一歩です。入会二十年、半分ほどの人たちが学会員となりました。なんとしても広宣流布します! それまでは、わしゃ、死ねんと思いよります」
 「ありがとう!」
 伸一は、この男性のもとに歩み寄り、抱きかかえるようにして、手を握り締めた。
 「信念の勝利です。敬服いたします!」
55  力走(55)
 山本伸一は、高齢の芝山太三郎の手を、ぎゅっと握ったまま語っていった。
 「お会いできてよかった。同志もいない山間の集落で、病弱な奥さんと共に、あなたは敢然と広宣流布に立ち上がった。苦労したでしょう。辛い思いもしたでしょう。何度も悔し涙を流したことでしょう。
 でも、歯を食いしばり、御本尊を抱きかかえるようにして、日蓮大聖人の仏法の正義を叫び抜いてきた。まさに、地涌の菩薩の使命を果たしてこられた大功労者です。
 口先で広宣流布を語ることはたやすい。大切なのは、実際に何をしてきたかです。
 日々、心を砕いて、身近な人びとに仏法を教え伝えていく――その地道な実践のなかに、世界広布もあるんです。
 私は、健気な庶民の王者であるあなたを、見守り続けていきます。毎日、題目を送ります。どうかあなたは、私に代わって、地域の同志を、集落のすべての人びとを守ってください。よろしくお願いします」
 芝山は、決意に燃えた目で大きく頷いた。
 それから伸一は、四国総合長の森川一正たちに視線を注ぎながら語った。
 「この方が、集落の広宣流布を決意して戦ってきたように、目標を決めて信心に励むことが大切なんです。自分の住んでいる集落でも、自治会の範囲でも、向こう三軒両隣でもよい。あるいは、親戚、一門でもいいでしょう。そこを必ず広宣流布しようと決めて、年ごとに、具体的な前進の目標を立てて挑戦していくことです。目標がなければ、どうしても惰性化していってしまいがちです」
 伸一は、後日、芝山に杖を贈った。
 その杖を彼は誇りとし、八十歳近くになってからも、杖を手に、こう言って弘教に飛び出していった。
 「今夜は、月が明るいけん。折伏に行かなあいかん。山本先生と約束しちょうけん。噓をついたらいかん」
 広宣流布の誓いに生き抜き、行動する人こそが、真の師弟であり、同志である。
56  力走(56)
 山本伸一の激励は、高知研修道場を出発する間際まで続いた。ロビーでも、愛媛県の南予から来た婦人に声をかけ、南予訪問を約束し、悪僧の仕打ちに泣かされてきた同志へ、励ましの言葉を託した。
 研修道場の玄関を出た伸一は、雄大な景色を生命に刻みつけるように、しばらく周囲をゆっくりと歩いた。見送る同志に、大きく手を振って、車上の人となった。
 彼は、それから足摺岬へ向かった。そこでレストランや土産物店などを営む何人かの学会員を、励ましたかったのである。
 ″同志がいるならば、どこまでも行こう!″と、心に決めていたのだ。
 車は、坂道を下って、国道を足摺岬に向かって進んだ。右手に青い大海原が広がっていた。土佐清水市の中心街を通って、足摺スカイラインを走り、足摺岬灯台の手前にある、学会員が経営するレストランを訪れた。このお宅は、座談会などの会場になっているという。そこに、多くの会員が集っていた。
 伸一は、皆と勤行したあと、外へ出て、一緒に焼きイカを頰張りながら語り合った。
 「ここは交通は不便かもしれませんが、空気もきれいで、美しく雄大な自然がある。そのなかで学会活動に励めるなんて、最高に幸せではないですか。私も住みたいぐらいです。
 自分のいる場所こそが、使命の舞台です。大都会の方がいいと思うこともあるかもしれないが、大都会は自然もないし、人間関係も希薄です。東京などに憧れて出ていった人たちが、懐かしく心に思い描くのは、結局、ふるさとの美しさ、温かさなんです。
 彼方に幸せを求めるのではなく、自分のいるこの場所を、すべての面で、最高の地に、常寂光土にしていってください。自分の一念を変えることによって、それができるのが仏法なんです」
 さらに伸一は、「私たちは、御本尊を通し、いつも心はつながることができます。皆さんの健康と、ご活躍を祈っています」と言って、皆に別れを告げた。
57  力走(57)
 レストランで同志を励ました山本伸一は、車で足摺岬灯台をめざした。
 一キロほど走り、駐車場で車を降りると、灯台へ続く入り口広場に立つ、和服姿の銅像が見えた。台座を含め、像の高さは、六、七メートルであろうか。
 島寺義憲が、すぐに説明を始めた。
 「先生。あれは中浜万次郎、つまりジョン万次郎の銅像です」
 一行は、万次郎像の前まで行き、像を見上げた。そして、語らいが始まった。
 「ジョン万次郎」という名が日本中に広く知られるようになったのは、作家・井伏鱒二の小説『ジョン萬次郎漂流記』(『井伏鱒二全集第二巻』所収、筑摩書房)によるところが大きい。伸一も、少年時代に胸を躍らせながら読んだ、懐かしい思い出がある。
 中浜万次郎は、文政十年(一八二七年)の元日、現在の土佐清水市中浜に、半農半漁の家の次男として生まれた。(中浜明著『中浜万次郎の生涯』冨山房、中浜博著『私のジョン万次郎』小学館、中濱武彦著『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』講談社を参照)
 少年期に父が他界し、母を助け、体の弱い兄に代わって懸命に働いた。
 天保十二年(一八四一年)一月、十四歳になった彼は、漁を手伝って、暴風雨に遭い、四人の仲間と共に漂流したのである。
 数日後、たどり着いたのは、伊豆諸島にある無人島の鳥島であった。渡り鳥を捕まえて食べ、飲み水を探し回らねばならなかった。
 島での生活は、百四十三日も続いた。ようやくアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出された彼らは、ハワイのオアフ島に送り届けられる。日本は鎖国をしており、日本に送ることはできなかったのである。
 仲間四人は、ハワイにとどまることになったが、万次郎は、そのまま捕鯨船に残り、航海を続けることを希望した。
 彼は、家が貧しかったために、寺子屋に通って、読み書きを学ぶこともできなかった。しかし、聡明であった。世界地図の見方や英語などを船員たちから学び、瞬く間に吸収していった。
 強き向上、向学の一念があれば、人生のいかなる逆境も、最高の学びの場となる。
58  力走(58)
 万次郎は、皆から「ジョン・マン」と呼ばれた。それは、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の船名にちなんだ愛称であった。
 彼はよく働き、捕鯨船の乗組員たちから愛されていた。なかでも、船長ホイットフィールドは、向学心旺盛で聡明な彼を、息子のようにいとおしく思い、アメリカで教育を受けさせたいと考える。
 万次郎は、ホイットフィールド船長と共にアメリカ本土へ渡り、マサチューセッツ州のフェアヘイブンで学校に入る。英語、数学、測量、航海術等を学んだ。農業などを手伝いながら、猛勉強に励んだ。船長の恩に報いようと必死だった。成績は首席であった。
 卒業後は捕鯨船で働き、航海士となるが、やがて帰国を決意する。日本にいる母のことも、心配で仕方なかったにちがいない。また、次第に険悪化していく日米関係を危惧し、開港を訴えなければならないとの強い思いがあったとする見方もある。
 万次郎は、帰国資金を作るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへと向かう。遭難から九年、既に二十三歳になっていた。金鉱で採掘に取り組み、資金を得た彼は、サンフランシスコから商船でハワイに渡り、ホノルルにとどまった仲間と再会し、日本へ戻る計画を練った。
 いまだ鎖国は続いている。結果的にその禁を破ったのだから、死罪も覚悟しなくてはならない。彼は、琉球をめざすことにした。琉球は薩摩藩の支配下にあるが、独立した王国であったからだ。上陸用のボートを購入し、上海に行く船に乗せてもらった。琉球の沖合で、ボートに乗り換えた。
 彼が、琉球、鹿児島、長崎、土佐で取り調べを受け、故郷に帰ったのは、嘉永五年(一八五二年)、二十五歳のことであった。
 万次郎は、常に希望を捨てなかった。行く先々で、その時に自分ができることにベストを尽くした。だから活路が開かれたのだ。
 「希望は、嵐の夜の中に暁の光を差し入れるのだ!」(「プロゼルピーナ」『ゲーテ全集4』所収、高橋英夫訳、潮出版社)とは、詩人ゲーテの叫びだ。
59  力走(59)
 時代の激流は、万次郎を歴史の表舞台に押し上げていった。時代が彼の力を必要としていたのだ。
 土佐で万次郎は士分を与えられ、藩校「教授館」で教えることになった。岩崎弥太郎や後藤象二郎も、彼に影響を受けている。さらに、江戸に呼ばれ、軍艦教授所の教授を務める一方、翻訳なども行っている。
 だが、そんな万次郎に、嫉妬する者も後を絶たなかった。彼が、自分たちにはない優れた能力、技量をもっていることは、皆、わかっていた。それでも、武士ではない、半農半漁の貧しい家の子が重用されていったことへの、感情的な反発があったのであろう。
 自分に力もなく、立身出世や保身に執着する者ほど、胸中で妬みの炎を燃やす。大業を成そうとする英傑は、嫉妬の礫を覚悟しなければならない。
 人間は、ひとたび嫉妬に心が冒されると、憎悪が燃え上がり、全体の目的や理想を成就することを忘れ、その人物を攻撃、排斥することが目的となってしまう。そして、さまざまな理由を探し、奸策を用いて、追い落としに躍起となる。
 国に限らず、いかなる組織、団体にあっても、前進、発展を阻むものは、人間の心に巣くう、この嫉妬の心である。
 万次郎は、スパイ疑惑をかけられたりもしたが、日米和親条約の締結にも尽力した。日米修好通商条約の批准書交換に際しては、遣米使節団の一員となり、咸臨丸で渡米し、通訳などとして活躍する。明治に入ると、政府から開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命されている。
 山本伸一は、万次郎の生涯に思いを馳せながら、同行の幹部に語った。
 「万次郎は周囲の嫉妬に苦心したが、信心の世界にあっても同様だよ。魔は、広宣流布を阻むために、外からだけでなく、学会の中でも、互いの嫉妬心を駆り立て、団結させまいとする。大事なことは、その心を超克する、人間革命の戦いだ」
60  力走(60)
 島寺義憲が中浜万次郎像の顔を指さしながら、山本伸一に説明した。
 「先生。この像は、ホイットフィールド船長が住んでいたアメリカのフェアヘイブンの方角を向いているということです」
 伸一は、「そうか」と頷き、言葉をついだ。
 「万次郎は、普仏戦争が起こると、視察団としてヨーロッパに派遣される。その途次、アメリカのフェアへイブンを二十年ぶりに訪れている。親代わりであり、師でもあったホイットフィールド船長に会うためだよ。大恩人に、なんとしても、感謝の思いを伝えたかったんだろうね。
 報恩は人道の礎だ。私も、片時たりとも、戸田先生への報恩感謝を忘れたことはない」
 古代ローマの政治家キケロは、「いかなる義務も恩を返すより重大なものはない」(キケロー著『義務について』泉井久之助訳、岩波書店)との箴言を残している。報恩は、古今東西を問わず、普遍的な人間の規範といえよう。
 万次郎像から二百メートルほど歩いて、白い灯台の下に立った。眼下には白波が躍り、彼方には青々とした大海原が広がっていた。
 同行していた地元のメンバーが言った。
 「ここでは、自殺者も出ております」
 「可哀想だな……」
 追い詰められて、人生の断崖に立ち、自ら命を絶った人たちを思うと、伸一の胸は痛んだ。皆で冥福を祈り、題目を三唱した。
 それから、学会員が経営しているという土産物店に激励に立ち寄ったあと、中村市(後の四万十市の一部)にある幡多会館へと向かった。車が土佐清水市の中心街に入ると、道路脇に三人、五人と立って、路上を行く車を見ている人たちがいた。
 「見送ろうとしてくれている学会員だね」
 伸一は、そうした人たちに出会うたびに、車を止めてもらい、窓を開けて声をかけた。
 一度の激励が、人生の転機となることもある。一回の出会いを生涯の思い出として、広宣流布に生き抜く人もいる――そう考えると、励まさずにはいられなかったのである。
 彼は、自らを鼓舞し、使命の力走を続けた。
61  力走(61)
 山本伸一たちが幡多会館に到着したのは、午後六時過ぎであり、辺りは、すっかり暗くなっていた。
 出迎えてくれた管理者をねぎらい、伸一の到着を待っていた幡多地域のメンバーと、時間の許す限り懇談した。時を最大に生かしてこそ、命は輝く。
 彼は、四、五十分後には幡多会館を出発し、高知市へ戻るため、中村駅から列車に乗った。
 帰りの車中でも、途中から乗車してきた学会員の一家と語らいを続けた。
 高知文化会館に着いたのは、午後十時近かった。
 翌十二月十日、「教学の年」の掉尾を飾る教学部任用試験が、午後一時から全国の会場で一斉に行われた。
 伸一は、午前中、高知文化会館周辺の商店などを訪問して、あいさつをするとともに、居合わせた学会員を激励した。
 午後には、会館で任用試験の受験者を励ましたあと、同じく試験会場になっている学会員が営む保育園を訪れ、ここでも受験者に語りかけた。
 「信心の基本は信行学にあります。教学を研鑽し、こうして試験に取り組んでいること自体が、人間としても、仏法者としても、尊い求道の姿です。
 また、それは、福運と功徳を積む源泉となっていくことを確信してください。皆さんは、一人も漏れなく信心の勝利者となるよう、お願いします」
 受験会場から廊下に出て運動場を見ると、二百人ほどの人たちが待機していた。受験者の付き添いで来た人たちである。
 ″この方々は、受験者の家を訪れ、任用試験に挑戦するように説得し、日々、励ましながら、教学を教えてきたにちがいない。
 誠実さ、真剣さ、粘り強さが求められる労作業であったであろう。そこにこそ、人材育成の王道があり、歓喜と充実がある。そして、創価の広宣流布運動の本流があるのだ!″
 伸一は、感動と感謝の思いを込めて言った。
 「皆さん、本当にありがとう!」
 そして、記念撮影を提案し、三回に分かれてカメラに納まり、出会いをとどめた。
62  力走(62)
 山本伸一は、任用試験の会場を提供してくれた、保育園の園長である高原嘉美の自宅も訪問した。試験会場を提供してもらったことに心から感謝を述べ、用意していた色紙に、「光福」などと揮毫して贈った。
 高原は、自分の四十余年の人生を振り返りながら、その歩みを語っていった。
 彼女は、結婚後、貧乏と家庭不和に悩みながら幼子を育て、半身不随の舅の面倒をみた。釣瓶で水を汲み、薪でご飯を炊き、家族の朝食の世話をする。自分は残り物を口に入れると、農作業に飛び出す毎日であった。
 身も心も、へとへとに疲れ果て、なんの希望も感じられなかった。その時、実家の母の勧めで入会した。義父母からは「嫁が先祖代々の宗旨を変えるとはもってのほかだ」と叱られた。近所からは「あそこの嫁がナンミョーに入った」と嘲笑され、村八分にもあった。
 ″信心をやめよう″と思い悩む日が続いた。しかし、学会の先輩が足繁く訪ねて来ては、「この信心は正しく、力があるから、魔が競ってくる。あなたが変われば、必ず環境も変わる」と確信をもって指導してくれた。
 励ましによって、人は師子となる。
 ″よし! どんなに苦しくとも頑張ろう。この信心で、宿命を転換していくんだ!″
 高原は、信心で、逆境を一つ一つ乗り越えていった。そのたびに確信が増した。
 ある時、持っていた土地が高く売れた。それを資金にして、家の周りの土地を購入し、保育園をつくろうと思った。地域の人たちの要請であった。保育園の開園は、順調に進んだ。献身的な職員にも恵まれた。地域の人びとも、さまざまに尽力し、守ってくれた。
 高原は、喜びを嚙み締めながら語った。
 「山本先生! 入会前には、思ってもいなかった幸せな境涯になれました」
 「断固として信心を貫いてきたからです。だから、周囲の方たちも協力してくれるんです。信心こそ、一切に勝利する力なんです」
 妙楽大師は「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」と。
63  力走(63)
 任用試験の受験者を激励した山本伸一は、高知文化会館に戻ると、四国の大学会メンバーと記念撮影した。
 午後四時からは、開館一周年記念のブロック長、ブロック担当員(後の白ゆり長)の勤行会に出席し、指導した。
 彼は、最前線組織のリーダーと会えることが、何よりも嬉しかった。ブロック組織こそが、広宣流布の現場である。ここに創価学会の実像がある。わがブロックが学会なのだ。そこを離れて、どこかに特別な学会があるわけではない。ゆえに、自分のブロックの建設に最大の力を注ぎ、強化し、理想の組織を創り上げていく以外に広宣流布の伸展はない。
 伸一は、渾身の力を込めて訴えていった。
 「悔いなき人生のため、悔いなき信心を」
 「信心即生活である。現実の社会で勝利していくために、揺るぎない生活の確立を」
 そして、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「皆さんが、敢然と創価の旗を掲げて勇み立ってくださるならば、地域広布の勝利は間違いありません。どうか皆さんは、『私の姿、生き方を見てください。ここに仏法の力の証明があります』と、胸を張れる一人ひとりであってください。わが兄弟、姉妹として、私に代わって地域広布の指揮を頼みます」
 ″広布のいごっそう、創価のはちきんに大勝利あれ!″と念じての指導であった。
 さらに、夜には、第一回「高知県男子部幹部総会」に喜び勇んで臨んだ。高知入りした伸一が提案し、開催されることになった総会であった。彼は、近代日本の黎明を開く逸材を育んだ高知の地に、次代の盤石な柱を打ち立てておきたかったのである。
 伸一は、″学会の後継者として、崇高な信念の人たれ!″との願いを託し、語った。
 「高山の頂には、常に烈風が吹き荒れている。古今東西、大偉業を成し遂げた人は皆、激しい中傷や批判にさらされてきた。同様に、世界最高の大仏法を流布する、わが創価学会に、激しい非難中傷の嵐が吹き荒れるのは、むしろ当然のことなのであります!」
64  力走(64)
 高知の男子部に、山本伸一は訴えた。
 「私たちは、青年部の時代、兄弟以上に同志の結合を固めながら、ありとあらゆる闘争をしてきました。皆、権力もない。財力もない。ただ学会精神一つで、今日の世界的な平和と文化の大推進団体を創り上げてきました。
 今度は諸君が、それをすべて受け継ぎ、さらに発展させていく番です。自分の世代の広宣流布は、自分たちが開き築いていくんです。
 長い広布旅の人生には、一家の問題、職場の問題、自身の性格の問題等、多くの悩みと直面するでしょう。私たちもそうでした。
 しかし、肝に銘じてもらいたいことは、ともかく御本尊から離れないこと、創価学会の組織から離れないことです。
 しがみつくようにしてついてくる。どんなに苦しくても、いやであってもついてくる――その人が最後の勝利者になります。
 また、一人ひとりが、なんらかのかたちで社会に貢献してほしい。何かでトップになっていただきたい。それが、未来の広宣流布を決する力となっていきます。
 ともあれ、諸君は、既に創価学会という世界で青春を生きてきた。自分の信念、信条として、その人生を選んだのだから、″誰がなんと言おうと、この仏法を一生涯貫き通して死んでいく。もしも、皆が倒れても、その屍を乗り越えて、広布の峰を登攀してみせる″という、決意で進んでいただきたい」
 黒潮躍る高知の男子部に、伸一は、広布の精神のバトンを託したのである。
 翌十一日は、高知の滞在最終日である。
 この日、午前十一時半から、高知文化会館開館一周年記念の近隣勤行会が行われた。近隣としてはいたが、「来られる方は、皆、来てください」と全県に連絡が流れていたので、会館の大広間は参加者でいっぱいになり、ほかの部屋も次々と人であふれた。
 勤行会で伸一は、「『教学を深め、法を弘める』すなわち″深学弘法″を私どもの精神として、晴れやかに信心強盛な日々を送っていただきたい」と念願し、あいさつとした。
65  力走(65)
 高知文化会館には、まだ、たくさんの人が詰めかけていた。山本伸一は、もう一回、勤行会を行った。ここでは、創価の同志の絆を強め、不退の信心を貫くよう、情熱を込めて呼びかけた。彼は、一人たりとも、一生成仏の軌道から外れてほしくはなかった。
 帰り支度をして、会館の一階に下りた伸一は、運営に使われていた部屋に顔を出した。
 彼の姿を見ると、合唱団のピアノ演奏を担当した女子部員が、伸一に報告した。
 「先生、私は平尾光子と申します。今回、高知で先生の出られた勤行会に、すべて合唱団として参加することができました。
 実は、家族のなかで、父だけが未入会なんですが、私は感激のあまり、毎日、先生のお話を父に伝えておりました。父も、熱心に話に耳を傾け、一緒に喜んでいました。
 それで、こんな句を詠んでくれたんです」
 彼女は、短冊を差し出した。
 「大いなる 冬日の如き 為人」
 「曰はく 一語一語の 暖かし」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「いいお父さんだね。あなたは本当に愛されているんです。娘さんが、冬の太陽のように周囲を照らし出し、慕われる人に育ったことを、心から喜んでいる心情が伝わってくる句です。また、あなたの姿を通して、私のことを知り、共感してくださっているんだね。
 娘としてのあなたの誠実な振る舞いが、お父さんの心に響いたんです。大勝利です。
 私も、お父さんに句をお贈りしたいな」
 しかし、出発間際であり、筆もなかった。
 「では、お父さんに、『近日中に句をお贈りさせていただきます』とお伝えください」
 それから一週間ほどして、伸一から彼女のもとへ、父親あてにトインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』が届けられた。
 そこには、一句が認められていた。
 「父の恩 娘の幸せ 祈る日々」
 ほどなく父親は、自ら入会した。そして、自宅を会場に提供するなど、学会を守る頼もしい壮年部となっていったのである。
66  力走(66)
 高知文化会館を発った山本伸一は、十一日の午後六時前、香川県・庵治町の四国研修道場に到着した。彼は、移動の疲れも全く感じさせず、元気に香川県の最高会議に臨んだ。この席で、香川県は二圏一地域本部の布陣で新出発することが決まった。
 翌十二日午後は、徳島県から代表二千八百人が集い、第一回の県幹部総会が行われた。
 伸一は、開会前、二十人ほどの青年たちと記念のカメラに納まった。一九六九年(昭和四十四年)の十月、香川県立体育館で行われた四国幹部会で合唱を披露した、「香川少年少女合唱団」のメンバーである。
 彼は、この四国幹部会終了後、幼い合唱団員と一緒に写真を撮り、こう語った。
 「今日は、全国、全世界の少年・少女部の代表という意味で記念撮影しました。
 みんなのなかから大人材が育っていくと、私は強く確信しています。十年後に、また会おう。みんな、立派な人になるんだよ」
 ″十年後″――この言葉が、皆の目標となった。それから十年目に入った今、メンバーは伸一の四国訪問を聞き、互いに連絡を取り合って、喜び勇んで駆けつけてきたのだ。
 かつての小学生は、凜々しく、はつらつとした青年に育っていた。伸一は嬉しかった。
 「よく来たね! 本当に大きくなったなー」
 彼は、感慨を嚙み締めながら目を細め、声をかけ、一緒にカメラに納まった。皆、この日をめざして、立派な創価の後継者に育とうと決意し、受験や就職、また学会活動に奮闘してきたにちがいない。
 決意は大成の種子である。しかし、決意を成就するには、日々の着実な挑戦と努力が必要である。勝利の実証が尊いのは、その粘り強い精進の蓄積であるからだ。
 彼は、二十一世紀を託す思いで語った。
 「負けないことだよ。真っすぐに伸びるんだ。真っすぐ伸びて、大樹になるんだよ」
 青年たちの力強い返事が響いた。そして、あの日歌った「チキ・チキ・バン・バン」と、″大楠公″の歌を、新たな誓いを込めて合唱した。
67  力走(67)
 徳島県の幹部総会では、県の組織が一圏三地域本部としてスタートすることが発表されるなど、明「人材育成の年」への、晴れやかな助走の総会となった。
 山本伸一は、あいさつのなかで、「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」の御聖訓を拝して指導した。
 「ここでは、私どもの信心の在り方を示されております。すなわち、断じて退転することなく、偽りのない強盛な信心を貫き、一切を御本尊様にお任せしきって、仏の言葉通りに仏道修行に励んでいきなさい。そうしていくならば、後生はもちろんのこと、今生においても、安穏な長寿の人生を飾り、すばらしい大功徳を受け、広宣流布の大願も成就していくことができるとの仰せなんです。
 つまり、生涯を信心に生き抜こうと心を定める″覚悟″こそが、一切の勝利の原動力であることを知っていただきたい。
 どうか、徳島の皆さんは、清流のように清らかな、たゆむことのない信心を貫き、明年もまた、悠々と師子のごとき一年を送ってください。お元気で!」
 その後も伸一は、県の代表幹部と懇談し、希望あふれる徳島の未来図を語り合った。
 四国指導最終日の十三日もまた、四国研修道場を出発する間際まで、役員らと共に勤行するなど、激励に終始した。
 この日、伸一が学会本部のある東京・信濃町に戻ったのは、午後八時近くであった。幹部からの報告や、多くの決裁書類などが彼を待っていた。間断なく奮闘は続いた。
 トインビー博士は『回想録』に記している。
 「常に仕事をしていること、しかも全力を出して仕事をしていること、これが私の良心が義務として私に課したことであった」(A・J・トインビー著『回想録I』山口光朔・増田英夫訳、社会思想社)
 伸一もまた、同じ信念をもって一瞬一瞬を過ごした。自身の人生と民衆の勝利のために。
68  力走(68)
 四国から帰った翌十四日からも、山本伸一のスケジュールはびっしりと詰まっていた。
 教育部の記念勤行会や本部幹部会、ソ連の対外友好文化交流団体連合会(対文連)の議長らとの会談や、東京・八王子圏の代表幹部会、東京支部長会、千葉県支部長会、茨城県支部長会、イギリス・オックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授との会談など、片時の休みもなかった。
 ″今、戦わずして、いつ戦うのだ! 時は今だ! この一瞬こそが、黄金の時だ!″
 こう自分に言い聞かせての敢闘であった。
 そして、十二月の二十六日には、関東指導に出発したのだ。栃木県の足利会館を初訪問し、勤行会に出席。二十七日には、群馬県高崎市の群馬センターを訪れ、勤行会等に臨み、翌二十八日もまた、同センターで大ブロック幹部を対象に勤行会を開催した。さらに、約十年ぶりに高崎会館を訪問し、この日午後九時前、学会本部に戻った。
 彼は大晦日まで、創価大学や創価学園の教員らとの懇談会や、聖教新聞社での原稿の執筆など、全力で行動を続けた。
 嵐吹き荒れる激動の一年であった。創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年であった。新しき歴史を築いた建設の一年であった。
 この一年間で訪問したのは、北は北海道、南は九州まで十方面、一道二府二十五県となり、海外では第四次訪中も果たした。
 会談した主な識者や指導者は、国内外で二十数人を数えた。
 また、作詞した各部や各地の学会歌は、実に三十曲ほどになっていた。
 大晦日の夜、帰宅して、門前に立った伸一は、空を仰いだ。星辰の瞬きが諸天の微笑みのように思えた。激戦、激闘を重ねた、必死の舵取りの一年が終わろうとしていた。彼の胸中には、微塵の後悔もなかった。ただただ師子の闘魂が、熱く熱くほとばしっていた。
 ″風よ吹け、波よ立て。われは征くなり″
 心燃え立つ伸一の頰には、冬の外気が心地よかった。

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