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日蓮大聖人・池田大作

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第29巻 「常楽」 常楽

小説「新・人間革命」

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1  常楽(1)
 さあ、朗らかに対話をしよう!
 胸に歓喜の太陽をいだいて。
 語り合うことから、
 心の扉は開かれ、
 互いの理解が生まれ、
 友情のスクラムが広がる。
  
 対話とは――
 心に虚栄の甲冑を纏って、
 空疎な美辞麗句を、
 投げかけることではない。
 赤裸々な人間として、
 誠実と信念と忍耐をもってする、
 人格の触発だ。
  
 仏教の智者の言には、
 「声仏事を為す」と。
 諸経の王「法華経」は、
 仏陀と弟子たちとの対話である。
 日蓮大聖人の「立正安国論」も、
 主人と客との対話として認められた。
   
 対話は――
 励ましの力となる。
 希望の光となる。
 勇気の泉となる。
 生命蘇生の新風となる。
  
 さあ、はつらつと対話をしよう!
 心と心に橋を架けよう!
 その地道な架橋作業の彼方、
 人も、世界も一つに結ばれ、
 人間勝利の絢爛たる平和絵巻は広がる。
 一九七八年(昭和五十三年)十月十日の午後、山本伸一は妻の峯子と共に、アメリカの経済学者で、『不確実性の時代』などの著者として知られる、ハーバード大学名誉教授のジョン・K・ガルブレイスとキャサリン夫人の一行を聖教新聞社に迎えた。
 人間のための″確実性の道″を開きたいとの思いで、伸一は会談に臨んだ。
2  常楽(2)
 山本伸一は、聖教新聞社の玄関前で、女子部の代表らと共に、ガルブレイス博士夫妻を出迎えた。長身で銀髪の博士が車を降りると、大きな拍手が湧き起こった。
 博士は、一九〇八年(明治四十一年)生まれで、間もなく七十歳になる。しかし、その瞳には闘志が光り、その表情には青年の活力があふれていた。挑戦への燃える心をもつ人は若々しい。
 伸一は手を差し出しながら、語りかけた。
 「長旅でお疲れのところ、ようこそおいでくださいました。お会いできて光栄です」
 博士は、九月十日にアメリカを発ち、要人との会見や講演を重ねながら、イタリア、フランス、デンマーク、ベルギー、インド、タイを経て、日本へやって来たのだ。しかし、疲れも見せず、満面に笑みを浮かべて語った。
 「私の方こそ、お会いできることを楽しみにしておりました。また、皆さんの温かい歓迎に、旅の疲れなど吹き飛びました」
 その横でキャサリン夫人が、伸一の妻の峯子から贈られた花束を抱えて言った。
 「奥様から花束をいただいたうえに、皆さんからは、庭中を埋め尽くす、美しい笑顔の花を頂戴しました。これで元気にならない人などおりません」この言葉に、さらに微笑の大輪が広がった。
 伸一は、「今日は、大いに語り合いましょう。人類の未来のために!」と言って、一行を案内し、館内に入った。
 ガルブレイスは、カナダで大学を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得。ハーバード大学教授、駐インド大使、アメリカ経済学会会長などを務める一方、フランクリン・ルーズベルト、トルーマン、ケネディ、ジョンソンと、アメリカの歴代大統領を支えてきた。
 著書も、『ゆたかな社会』『新しい産業国家』『経済学と公共目的』など数多い。なかでも、この年の二月に邦訳出版された『不確実性の時代』はベストセラーとなり、彼の名は日本でも広く知られるようになっていた。
3  常楽(3)
 ガルブレイス博士の身長は二メートルを超える。案内する山本伸一の頭は、博士の肩まで届かなかった。会談の会場に到着すると、あらためてあいさつを交わした。
 伸一は博士を見上げ、その頭に手を伸ばしながら、ユーモアを込めて語った。
 「既にご覧になったと思いますが、日本一の山は富士山です。私は、経済学の巨匠・ガルブレイス先生を迎え、その富士を仰ぎ見る思いで、語らいを進めさせていただきます」
 博士が微笑みながら応えた。
 「私は、この背の高さから皆さんが想像するほど、危険な人物ではございませんから」
 大笑いとなった。すかさず伸一は言った。
 「背の高い人は、遥か遠くまで見通すことができます。しかし、地面は背の低い人の方が、細かく、明確に見ることができます。したがって、両者が論議し、意見の合意をみるなかに、全体の確実性を見いだしていけるのではないでしょうか」
 会談には、博士を招いた企業の一つである出版社の社長らも同席していた。二人のやりとりに顔をほころばせ、耳を傾けていた。
 語らいは、伸一と博士が、交互に問題提起し、それに対して意見を交換するかたちで進められた。まず、伸一が尋ねた。
 「現代は、人間の生にばかり光をあて、死というものを切り離して考えているように思います。しかし、生の意味を問い、幸福を追求していくうえでも、また、社会、文明の在り方を考えていくうえでも、死を見つめ、死とは何かを探究し、死生観を確立していくことが極めて重要ではないでしょうか。
 仏法では、生命は永遠であると説きます。つまり、人間の死とは、生命が大宇宙に溶け込むことであり、その生命は連続し、再び縁に触れて生を受ける。そして、生きている時の行動、発言、思考が、『業』として蓄積され、継続するというものです。そこでお伺いしたいのですが、博士は、人間の死後は、どうなるとお考えですか」
 死の解明なくしては、生の解明もない。
4  常楽(4)
 山本伸一の問題提起に、ガルブレイス博士は、一言一言、噛み締めるように、ゆっくりと語り始めた。
 「それは、人生を考えるうえで、極めて重要な、根本的な質問です。しかし、これほど難しく、また神秘的な問題はないと思います。正直なところ、人間の死後がどうなるか、私はわかりません。
 ただし、存在というものには連続性があると、私は信じております。そして、私の場合は、来世があるかないかは、もうすぐ、この目で確かめられるでしょう」
 ここでもユーモアを忘れなかった。笑いは対話の潤滑油である。重要かつ深刻なテーマを語り合うと、どうしても雰囲気は、堅苦しくなりがちである。博士は、皆を和ませたかったのであろう。伸一は、そこに、繊細な気遣いを感じた。
 語らいのテーマは多岐にわたり、読書論、結婚観と進んでいった。
 「いちばん感銘深く読んだ本」が話題になると、二人ともトルストイと答え、博士が「オーッ!」と歓声をあげる一幕もあった。
 そのトルストイは、「よい人との交際は幸福をもたらす」(「カルマ」『トルストイ全集9』所収、中村白葉訳、河出書房新社)と記している。
 話題が人生論に及んだ時、伸一は、「博士のモットーは何か」を聞いてみた。
 「これといった明確なものはありませんが、一つのルールといったものはあります。『今は働こう。しかし、それを完成できるとは思うな』ということです。私は、常に、そう自分に言い聞かせています」
 伸一は、すばらしい生き方であると思った。
 「今は働こう」とは、壮大なる理想をもちつつ、現実を見すえ、今の一瞬一瞬を全力で行動し続けることであろう。そして、「それを完成できるとは思うな」とは、安易に結果を求め、妥協するのではなく、より高い完成を求め、努力し続けることであろう。
 伸一もまた、博士からモットーを問われ、「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」と答えた。
5  常楽(5)
 人生についての語らいのなかで、山本伸一はガルブレイス博士に、「これまでの人生で最も悲しかったことはなんでしたか」と尋ねた。
 「最愛の息子を亡くしたことでした。親の私の目から見ても、知性もあり、賢い子どもでした。それが若くして白血病になり、他界したんです……」
 その言葉から伸一は、かつてトインビー博士と対談した折のことが思い出された。人生行路のなかで遭遇した一番悲しい出来事について尋ねると、トインビー博士は、「私の息子が、自ら命を絶ったことです」と、沈痛な面持ちで語ってくれた。体の前で指を組み、祈るような姿勢のままじっと動かず、目を潤ませる姿が、忘れられなかった。
 どんなに著名な人の人生にも、悲哀の大波がある。人は、宿命の嵐に身悶えながら、戦い、生きている。試練なき人生はない。その苦悩に負けるか。その苦悩のなかで自らを磨き、高め、強くしていくか――そこに人生の幸・不幸のカギがある。
 ガルブレイス博士は、さらに、自分をインド大使に任命したジョン・F・ケネディ大統領が凶弾に倒れた時の苦衷を述懐した。
 そして話題は、米中関係に移り、さらに、中国の故・毛沢東主席、故・周恩来総理、インドの故ジャワハルラル・ネルー首相など、指導者論が展開されていった。
 語らいのなかで伸一が、明年にはインドを訪問する予定であることを告げると、博士は、こうアドバイスした。
 「インド北西部とパキスタンに広がるパンジャブ地方を、ぜひ訪問してください。ここはハラッパーの遺跡など、古代文明の発祥地として有名ですが、大発展を遂げています」
 すかさずキャサリン夫人が、「南西部にあるケララ州の発展も目覚ましいものがあります」と言葉を添えた。博士のインドでの大使生活を支え続けてきた夫人は、驚くほど、現地の事情に精通していた。
 生活者の視点に立つ女性の眼は、最も的確に、その社会の実像をとらえる。
6  常楽(6)
 ガルブレイス博士は、インド赴任中の日々を記した『大使の日記――ケネディ時代に関する私的記録』と題する本を出版している。その「緒言」に、キャサリン夫人の奮闘について、次のように綴った。
 「家政、接待、広範にわたる儀典的な活動、在留アメリカ人に対する配慮、私のインドの友人や外交団の夫人や家族との交際、芸術的な催し、そして私が不在のばあいの機能を引継ぐものとしての大使の代理などは、すべて私の妻の任務であった。彼女は暇をぬすんでヒンディ語の勉強さえして、その言葉で聴衆にわかるスピーチをするほどになった」(ジョン・ケネス・ガルブレイス著『大使の日記』、西野照太郎訳、河出書房新社)
 しかし、当時、博士は、そのことを、ほとんど知らなかったのである。彼がそれを知るのは、夫人の手記が掲載されたアメリカの雑誌『アトランティック・マンスリー』の一九六三年(昭和三十八年)五月号を目にした時であった。彼は「その活動範囲に、一驚を喫したほどである」(同前)と記している。
 邦訳出版された『大使の日記』には、「母は大したことはしない」と題した、夫人のこの手記も、「付録」として収められている。
 そこには、夫人の日々の暮らしが克明に綴られていた。――彼女は、使用人だけでなく、その家族の面倒もみた。「われわれ全員の母親です」と慕われた。その″子ども″の数は、時には五十人にもなった。病気の時は看病し、もめごとを解決し、公平無私にかわいがる。毎日、使用人にはお茶を与え、祭りの時には、奥さんたちに新しいサリーをプレゼントし、クリスマスにも贈り物などをした。
 また、来客の接待、集会、記者会見、晩餐会など、一切を取り仕切る。夫婦での出張もあれば、大使に代わって、急遽、講演しなくてはならないこともあったという。
 夫人は、子育てもしながら、この激務をすべてこなしてきたのである。
 御書には、信念を分かち合う夫と妻のチームワークを「鳥の二つの羽」「車の二つの輪」に譬え、何事も成就できる力だと教えている。
7  常楽(7)
 会談に同席していたティビーエス・ブリタニカの吉田稔社長が、「インドの問題に関連して、私からもお伺いしたいことがあります」と言って、ガルブレイス博士と山本伸一に質問した。同社は『不確実性の時代』など、博士の邦訳出版を手がけてきた会社である。
 吉田社長の質問は、先進工業国と発展途上国の経済水準の格差、すなわち″南北問題″を解決していくために、日本は何をなすべきかということであった。
 博士は、即座に答えた。
 「世界の富める国となった日本には、その富の一部を貧しい国に資本のかたちで供与する道義的義務があると思います。それが、日本が途上国に貢献する第一の方途でしょう。
 第二に、農業による貢献が大事です。特に日本は優れた米作技術をもっているので、米作指導に力を入れてはどうかと考えます。
 アジア諸国の人びとにとっては、同じアジア人である日本人には親近感もあり、米作指導も受け入れやすいのではないでしょうか。これは、極めて現実的な貢献の道です。
 貧しい国々にとって切実な問題は、米、麦などの食糧や水を、どうやって確保するかなんです。まず、その国の人びとが本当に必要としているものは何かを考えることです。
 山本会長のご意見を伺いたい」
 「今、博士が語られたことは、非常に重要です。ただし、経済次元の物質や技術の一方的な援助をし続けていくだけでは、国と国とが単なる利害関係になったり、援助を″する国″と″される国″という上下の関係になったりすることが懸念されます。また、その国の国民のプライドや、自力性を失わせてしまいかねません。
 したがって、相互の信頼関係を築いていくことが不可欠です。そのためには、人間対人間を基調とした教育・文化の恒久的な交流が必要です。それを忍耐強く、十年、二十年、五十年と行う以外に永続的な信頼の道は開けないと思いますし、これまでも私は、そう訴え抜いてまいりました」
8  常楽(8)
 山本伸一の意見に、ガルブレイス博士は、「まさにその通りです。全く異論はありません」と賛同の意を表した。
 会談は佳境に入っていった。
 博士の著書『不確実性の時代』が話題となり、伸一は、現代社会から確実な指導理念が喪失してしまったとの同書での指摘に、強く共感したことを述べた。
 現代は、戦争、核兵器の脅威、公害、資源や人口問題等々、人類の生存をも危うくする重要な問題が山積している。しかし、人びとは、それらの課題に取り組むうえでの指導理念、哲学を見いだせずにいるのだ。
 伸一は、なんとしても、この危機を回避しなければならないと決意していた。なかでも第三次世界大戦は、断じて起こしてはならないと、固く心に誓っていたのである。
 そのための根本的な指導理念こそ、仏法の説く生命尊厳の哲理であり、それを世界の人びとが共有することで、人類の危機の回避も可能となると確信していた。
 しかし、いかに仏法の法理が優れ、自分が絶対の確信をいだいていたとしても、それを社会に開いていくには、その法理の偉大さが学問的にも検証され、共感を得ることが不可欠となる。この努力を欠く時、宗教は独善と教条主義に陥る。ゆえに、伸一は、世界の知性との対話に努めたのである。彼は尋ねた。
 「私は、不確実性の時代のなかで確実性を模索していくうえで、いかなる指導理念が必要になるかを、お伺いしたいと思います」
 博士は答えた。
 ――かつては、アダム・スミスやカール・マルクスの思想も、確実性をもつものとして受け入れられてきたが、時代の経過のなかで誤りが明らかになり、その確実性が揺らいでしまった。基本的には、人間の行う努力は、常に修正されていくべきであり、それによって、私たちの人生は、より安全で、平和で、知的なものとなる。そして、その考え方を受け入れること自体が、究極的には一つの指導理念になるのではないか、と。
9  常楽(9)
 ガルブレイス博士は、人間はイデオロギーにとらわれてしまうと、現実から目をそらし、思考から逃避して、理論の鋳型にはめて物事を判断するようになることを危惧していた。
 山本伸一も、イデオロギーや理論といった、あらかじめ定められた外的な規範に、自らの判断を預けてしまうことには反対であった。それが人間の精神を縛るという本末転倒に陥りかねないからである。
 伸一は語った。
 「私は、判断を下していく人間自身が、葛藤を繰り返し、瞬間瞬間、心が移ろう、矛盾をはらんだ不確実な存在であると、認識することが大切だと思います。
 したがって、その人間を高め、成長を図っていくことが、常に的確な判断をしていくうえで、極めて大事であると考えます。
 それには、人間を磨き高める、普遍的な生命哲理が必要不可欠であり、私どもはそれを仏法に見いだしています。
 真実の仏法とは、一言すれば、万物、宇宙を貫く永遠不変の根本法則といえます。そして人間の生命には、本来、汲めども尽きぬ英知の泉が具わっており、その泉を掘り当て、汲み上げていく方途を、仏法は教えています。この生命の法則に根差して、自身の可能性を開いていくことを、私どもは人間革命と呼んでいます。
 私は、トインビー博士や行動的知識人として知られたアンドレ・マルロー氏らと、人類の抱える諸問題について話し合いを重ねてきました。そのなかで、仏法を基調にした精神変革、人間革命の運動こそ、二十一世紀を開く大河となる思想運動であるとの賛同を得ております」
 博士からは、率直な反応が返ってきた。
 「仏法については、私の理解は極めて浅いものです。それだけに、示唆に富んだお話であると思います」
 謙虚な言葉であった。偉大な学識の人には、真摯な向学と求道の心がある。
10  常楽(10)
 山本伸一は、さらに、仏法の役割について論じていった。
 「政治も、経済も、科学も、本来、すべてが人間の幸福を追求するものですが、それらは制度や環境的側面など、人間の外側からの幸福の追求です。それに対して、宗教は、人間の内面世界からの幸福の追求に光を当てています。人間の内面の確立と、外側からの追求のうえに、人間の幸福はあるといえます。
 あらゆる学問も、機構・制度も、それを生み出し、つくり上げてきたのは人間です。したがって、社会や環境の改革も、その主体者である人間の内面を改革することが肝要です。そこに高等宗教、なかんずく仏法の役割があると、私は考えております」
 ガルブレイス博士は、長身の体を乗り出すようにして伸一の話に耳を傾けていたが、大きく頷くと、語り始めた。
 「重要な話です。会長が言われたように、すべては、人類の幸福のためにある。そこにもう一つ補足させていただければ、今日、政治、経済、科学等は、それぞれの分野で急速な進歩を遂げましたが、いつの間にか、手段が目的と入れ替わり、幸福の追求という根本目的が忘れられています。私は、そこに、大変に危機的なものを感じています」
 「そうです。おっしゃる通りです!」
 「私は、ものの考え方の体系をかたちづくる目的意識を一つにし、すべてを人間生活の核心である幸福の追求、平和の追求へと立ち返らせなければならないと考えています。
 私は、経済学者として、少しでも人間の幸福に寄与する努力をしていきたいと思っております。また、会長のお話を聞いていて、私も、ぜひ一緒に仏陀の国・インドへ行ってみたくなりました。この話の続きは、いずれ、サールナートででもできれば幸せです」
 サールナートは鹿野苑といわれ、成道した釈尊が最初に説法をした地として知られる。
 約二時間にわたる会談は、多くの意見の一致を見た。誠実な対話のあるところ、魂の共鳴が生まれ、人間の絆がつくられていく。
11  常楽(11)
 ガルブレイス博士は、会談の翌年、総合月刊誌『文藝春秋』の四月号に、「ガルブレイスのニッポン日記」(訳・杉淵玲子)と題する一文を寄せた。そのなかで、山本伸一との会談の内容についても触れていた。
 「中国やソ連の問題、核兵器の管理、貧しい国々に対する援助、この面で日本が果たすべき責任などである。聞かれては、聞き返し、結局、意見はほぼ一致であった」
 そして、伸一が、特に「アメリカと中国の関係」を憂慮していたと記している。
 二人の語らいに関する記述は、こう締めくくられていた。
 「(会長は)心から仏教を信じて、尽きざる生命の本流へ立ち戻り、平穏この上もない悟りの境地へ到達するよう熱心にすすめてくれた。私は信心を誓い、彼がその内、インドへも行くというので、いずれまた、サルナートでこの続きをと、いささか意味深にうなずき合った。見送りにも、会員たちが勢揃いして、出迎え以上に盛んな拍手、ただもう感激の至りだった」
 博士と伸一の再会は、インドでこそ果たせなかったが、一九九〇年(平成二年)の十月、再びガルブレイス夫妻が聖教新聞社を訪れ、語らいが行われたのである。
 この会談では、平和、経済、二十一世紀に向けた新しい国際秩序への展望、各国指導者との交友のエピソードなどを、時のたつのも忘れて語り合った。
 一回一回の対話を大切にして、誠実な語らいを重ね、互いの心が耕されていってこそ、友情という果実は実る。
 九三年(同五年)九月、伸一は、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して、ハーバード大学で二度目となる講演を行った。その折、ガルブレイス博士は、多忙を極めるなか、わざわざ駆けつけて、講評者(コメンテーター)を務めてくれたのである。
 「私たちが希望し、願望している『平和実現への道』を示した講演」であり、仏教の思想に「平和」を展望する魂を感じる――と。
12  常楽(12)
 ハーバード大学での講演の翌日、山本伸一は妻の峯子、長男の正弘らと、同大学の近くの閑静な住宅街にあるガルブレイス博士の自宅を訪問した。レンガ色の壁に、ピンク色の縁取りがなされた瀟洒な家であった。窓の外の木立には、愛らしいリスの姿も見えた。
 この時、博士は、八十五歳になろうとしていたが、熱こもる語らいが展開された。
 博士は、「対話」によって「平和」を生みだそうとしている伸一の信念に共感すると述べ、自身も″絶対に戦争を繰り返してはならない″という、信念と情熱と希望をもって生きてきたと、真情を吐露した。
 会談では、「人間が真に満足し、人生を楽しみきっていける道をいかにして示していくか」などが話題となった。伸一が「大切なのは『自他ともの満足』です」と言うと、博士は、「私はこの世界に、『対話』『利益』、そして『楽しみ』をもたらしたい」と決意を披瀝。さらに、平和への希望を託すかのように、「知的な、そして平和のための対話を、どうか、これからも続けてください」と語るのであった。
 博士は、「平和の問題について、また、人類の未来について、会長と語り合い、後世に残しておきたい」と要望していた。伸一にも同じ思いがあった。
 最初の語らいから二十五年後の二〇〇三年(平成十五年)、総合月刊誌『潮』八月号から、九回にわたって、二人の対談が連載された。それに加筆して、二〇〇五年(同十七年)九月、対談集『人間主義の大世紀を――わが人生を飾れ』が発刊されることになる。
 その「発刊に寄せて」に、博士は綴った。
 山本会長の「世界の人々の幸福を思う貴重な活動に対し、私は深い尊敬の念をもっております」。一方、伸一は、「博士との親交は、わが人生のかけがえのない宝です。含蓄に富んだ英知の言説に、どれほど啓発されたか計り知れません」と記した。
 対話によって平和への思いと思いがつながり、波となり、時代変革の新思潮となる。
13  常楽(13)
 十月十日、ガルブレイス博士との対談を終えた山本伸一は、大阪へ向かった。関西での諸行事に出席し、さらに、静岡へ行き、総本山で営まれる熱原法難七百年記念法要に参列することになっていたのである。
 大阪への空路、伸一は、熱原法難について思索をめぐらした。
 熱原法難は、弘安二年(一二七九年)に、富士郡下方庄の熱原郷(静岡県富士市の一部)で起こった日蓮門下への弾圧事件である。
 その数年前から熱原郷では、日興上人によって天台宗滝泉寺の僧、さらには農民たちにも、弘教の波が広がっていった。滝泉寺は、多くの住僧がいる大寺院であり、その寺で、日秀、日弁らが、次々と正法に帰依していったのである。
 彼らは、日蓮大聖人の教えに歓喜し、勇んで寺内の僧たちへの折伏を進めていった。
 滝泉寺は、乱れ切っていた。
 同寺では平左近入道行智が院主代として権勢を振るっていた。彼は、北条一族であることを笠に着て、寺の財産を私物化したり、金を取って盗人を供僧に取り立てたりもした。また、寺の池に毒を流して殺した鯉や鮒を売るなど、およそ仏門に身を置く者としてあるまじき悪行を重ねてきた。
 また、滝泉寺は、天台宗でありながら、天台が伝えた法華経の教えを捨てて阿弥陀経を唱えていた。信仰の根本から狂いが生じていたのである。
 そうしたなかで、日興上人の教えを受けた日秀、日弁らは、日蓮大聖人の御心を体して、声高らかに唱題に励んだ。そして、念仏等の教えの誤りを鋭く指摘し、法華経の正法正義を訴え抜いていった。
 行智は、勢いを増す法華折伏の広がりを見て、院主代の地位が脅かされることを恐れた。遂に、大聖人門下となった僧たちに対して、脅迫という手段に出た。
 教えの正邪を見極めようともせず、保身のための弾圧が始まったのだ。権威、権力の美酒に酔いしれた者は、改革を畏怖する。
14  常楽(14)
 滝泉寺院主代の行智は、正法に帰依した僧たちに、敵意を露わにして迫った。
 ――法華経は信用できぬ法である。すぐに法華経を読誦することをやめて、ひたすら阿弥陀経を読み、念仏を称えるという起請文(誓詞)を書けば、居る所は保障してやろう!
 この脅しに屈し、退転していく者もいた。難は信心の真偽を試す。
 行智の言に従わなかった日秀、日弁は、滝泉寺にいることができなくなった。しかし、寺内に身をひそめながら、熱原郷をはじめ、他の郷にも弘教にでかけていった。
 彼らの信望は厚く、広宣流布の火は燃え広がり、弘安元年(一二七八年)に、熱原の農民である神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟が信心を始めた。この三兄弟が、熱原の農民信徒の中心になっていったのである。
 唱題の声は、あの家、この家から、熱原の田畑に響き、弘安二年(七九年)のうららかな春が訪れた。法華衆の広がりを苦々しく思っていた行智は、いよいよ農民信徒にも迫害を開始した。
 四月、浅間神社の祭礼が熱原郷内にある分社で行われた。流鏑馬の行事で賑わうなか、雑踏に紛れて、法華信徒の四郎が何者かに襲われ、傷を負ったのである。
 そして八月、今度は門下の弥四郎が殺害されたのだ。″法華経の信仰を続けると、こうなるぞ″という脅しであった。これらは、行智が富士郡下方の政所代と結託しての犯行であり、しかも、その罪を日秀らに被せようとしたのだ。弾圧の凶暴な牙は、農民信徒にとって、大きな恐怖となったにちがいない。
 日蓮大聖人は、「異体同心事」のなかで、熱原の人びとのことに触れて、こう仰せになっている。
 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし
 団結は、皆を勇者に育む。団結があるところには、勝利がある。
15  常楽(15)
 熱原の農民信徒は、互いに励まし合い、決して信心が揺らぐことはなかった。
 行智の一派は、さらに悪質な弾圧の奸計をめぐらした。
 弘安二年(一二七九年)九月二十一日、稲刈りのために農民信徒が集まっていた。そこに、下方政所の役人らが、弓馬をもって大挙して押し寄せ、農具しか持たぬ信徒たちに襲いかかったのである。
 農民たちは、抵抗のすべもなかった。神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟をはじめ、二十人が捕らえられ、下方政所へ引き立てられていった。
 彼らに着せられたのは「刈田狼藉」の咎である。稲を盗み取って、乱暴を働いたというのだ。その訴人となったのは三兄弟の兄で、弟たちの信心を快く思わぬ弥藤次であった。
 親や兄弟など、血を分けた人が憎悪し、迫害の急先鋒になることは、人間の感情として辛く、耐え難い。だから、第六天の魔王は、しばしば近親の身に入って、迫害、弾圧を加える。池上兄弟として知られる宗仲・宗長も、父の康光に信心を反対された。特に兄の宗仲は、二度にわたって勘当されている。
 弥藤次の訴状には、日秀が武装した暴徒を率いて馬に乗り、滝泉寺の院主の坊に乱入し、滝泉寺の田から稲を刈り取って、日秀の住坊に運び込んだとなっていた。
 事実は、全くすり替えられていたのだ。
 捕らえられた農民は、鎌倉に送られた。尋問は、大聖人を迫害した侍所の所司(次官)・平左衛門尉頼綱によって、彼の私邸で行われた。彼は行智と通じていたのだ。訴状を差し置いて、こう迫ったのである。
 「法華の信仰をやめて、念仏を称えよ。そうすれば、罪は許して帰され、安堵することができよう。しかし、もし信仰を改めなければ、きっと重罪に処せられよう」
 農民たちは皆、信心を始めて一年ほどにすぎない。だが、誰一人として動じなかった。
 信心の強さは、歳月の長さによるのではなく、決定した心によってもたらされるのだ。
16  常楽(16)
 「法華経を捨てよ」と迫る平左衛門尉頼綱に対して、熱原の農民信徒は、声も高らかに唱題を響かせた。それは、不惜身命の決意の表明であった。
 激昂した頼綱は、次男である十三歳の飯沼判官資宗に、蟇目の矢で農民たちを射させた。この矢は、桐材を鏃とした鏑矢で、当たれば体内の悪魔が退散するとされていた。音を発して飛び、犬追物などにも使われた。
 その矢が迫ってくる恐怖、打ち当てられた痛みは、いかばかりであったか。農民信徒は、過酷な拷問に耐え抜いた。
 遂に頼綱は、十月十五日、信徒の中心的な存在であった神四郎、弥五郎、弥六郎を斬首した。しかし、それでも農民たちは、一人として信仰を捨てようとはしなかった。毅然として唱題し続けたのだ。彼らの不屈の信仰に、頼綱は狼狽したにちがいない。
 結局、処刑は、三人までで、あきらめざるをえなかった。残った十七人は、追放処分となっている。
 一方、日秀は熱原郷から、一時、下総(千葉県北部など)に移るが、その後も、日興上人と共に弘教に奔走するのである。
 日蓮大聖人の門下は、日昭などの僧、富木常忍や四条金吾などの武士、そして、武士の妻をはじめ家族へと広がってきた。
 しかし、一閻浮提広宣流布を進め、万人成仏の教えを現実のものとしていくには、農民などの民衆が、法華経の教え通りに諸難を乗り越える、不退の信心を確立しなければならない。彼らの多くは、読み書きもできなかったであろう。その民衆が純真な信心で、横暴な権力の迫害にも屈せず、死身弘法の実践を貫き通したのである。つまり、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を受持し、大聖人と共に広宣流布に戦う偉大な民衆が出現したのだ。
 大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せである。
 民衆を単に救済の対象とするのではなく、民衆が人びとを救済する主体者となる。ここにこそ、真実の民衆仏法がある。
17  常楽(17)
 熱原の農民信徒の生き方、振る舞いは、信心の究極を物語っている。
 信心とは、学識や社会的な地位、財力などによって決まるものではない。
 それは、法難という大試練に直面した時、決して怯むことなく、敢然と立ち向かう勇気、決定した心である。そして、今こそ″まことの時″ととらえ、師の言葉を思い起こし、深く心に刻んで、ひとたび決めた道を貫き通す信念である。
 また、私利私欲、保身への執着に縛られることなく、法のために一身をなげうつ覚悟である。さらに、一点の疑いも、迷いもない、仏法の法理への強い確信である。
 反対に、退転していく者の心の姿勢を、日蓮大聖人は、次のように喝破されている。
 「をくびやう臆病物をぼへず・よくふか欲深く・うたがい多き者どもは・れるうるしに水をかけそらりたるやうに候ぞ
 ここで仰せの「物をぼへず」とは、大聖人が「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と指摘されているように、信念を貫き通すのではなく、師の教えを忘れ、翻意していく弱さ、愚かさを意味する。
 ところで、「三沢抄」には、第六天の魔王が眷属に、「かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ」と命じたとある。熱原法難でも、大聖人門下であった大進房、三位房の僧や、大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱らが退転し、行智一派に与して、迫害する側に回っている。まさに、この原理通りといえよう。
 本来あり得ないと思われる転倒した事態や意表を突く状況を生じさせ、信心を攪乱させる。そこに第六天の魔王の狙いがある。
 ゆえに広宣流布の戦いに、油断があってはならない。戸田城聖は詠んだ。
 「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」と。
18  常楽(18)
 迫害を受けた熱原の農民信徒、なかでも神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟の殉教は、幸福を確立するためという信仰の目的とは、対極にあるように思えるかもしれない。
 生命は尊厳無比であり、守るべき最高の宝である。では、なぜ日蓮大聖人は、「かりにも法華経のゆへに命をすてよ」と仰せになっているのか。
 人は、いつか必ず死を迎える。大聖人御在世当時、多くの人びとが、飢饉、疫病、戦禍等によって他界し、また、蒙古の襲来で命を失うことも覚悟せねばならぬ状況であった。
 命は最高の宝であるが、露のごとくはかない。なればこそ、その命をいかに使うかが大事になる。ゆえに大聖人は、尊い命を「世間の浅き事」のために捨てるのではなく、万人成仏の法、すなわち全人類の幸福を実現する永遠不変の大法である法華経を守り、流布するために捧げよ――と言われたのである。
 それによって、「命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う」と仰せのように、成仏という崩れざる絶対的幸福境涯を確立することができるからだ。
 生命は三世永遠である。正法のために今世で大難に遭い、殉教したとしても、未来の成仏の道が開かれるのである。
 また、「佐渡御書」では、大難に遭うことで過去遠遠劫からの悪業を、今世において、すべて消滅できるとも言われている。
 「不惜身命」「死身弘法」の決意に立った境地とは、決して悲壮なものではない。泰然自若とした悠々たる喜びの境地である。
 大聖人は竜の口で斬首されようとした時、涙する四条金吾に、「これほどの悦びをば・わらへかし」と言われている。
 さらに、極寒の流刑地・佐渡にあって、「未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず」と記されている。
 勇んで広宣流布に生涯を捧げる覚悟を定める時、わが生命は、御本仏である日蓮大聖人に連なり、何ものをも恐れぬ大力が涌現し、仏の大歓喜の生命が脈打つのである。
19  常楽(19)
 初代会長・牧口常三郎は、宗門が軍部政府の弾圧を恐れて神札を祭り、日蓮大聖人の御精神に違背するなかで、正法正義を守り抜いて獄死した。この死身弘法、殉教の歴史こそが、創価学会の精神の原点である。
 師の牧口と共に投獄され、後に第二代会長となる弟子の戸田城聖は、獄中での、″われ地涌の菩薩なり″との悟達を胸に、生きて獄門を出て、広宣流布に生涯を捧げた。
 「なんのために死ぬか」とは、裏返せば、「なんのために生きるか」ということにほかならない。二つは表裏一体である。
 正法正義を守り抜いて殉教した師と、その遺志を受け継いで、生涯を広宣流布に捧げて戦い抜いた弟子――この二人を貫くものは、「死身弘法」の大精神であり、実践である。
 山本伸一は、今、創価学会という大ジェット機は安定飛行を続けているが、広宣流布の旅路には、熱原の農民信徒や牧口初代会長の時代のように、激しき乱気流も待ち受けていることを覚悟していた。
 しかし彼は、会長として、″断じて殉教者を出すような状況をつくってはならない。もしも殉難を余儀なくされるなら、私が一身に受けよう!″と固く心に誓い、必死に操縦桿を握っていたのである。
 だが、広宣流布を推進していくには、それぞれに死身弘法の覚悟が必要である。その決定した一念に立ってこそ、一生成仏も、宿命を転換することもできるのだ。
 死身弘法の覚悟とは、″人生の根本目的は広布にあり″と決めることだ。そして、名聞名利のためではなく、人びとに仏法を教えるために、自らの生活、生き方をもって、御本尊の功力、仏法の真実を証明していくのだ。
 広宣流布のために、″健康になります。健康にしてください″″経済革命します。経済苦を乗り越えさせてください″″和楽の家庭を築きます。築かせてください″と祈りに祈り、学会活動していくのだ。広布誓願の祈りは、仏、地涌の菩薩の祈りであり、それゆえに諸天を、宇宙の一切を動かしていく。
20  常楽(20)
 信心に励むのは、「衆生所遊楽」すなわち、人生を楽しみ、悠々たる幸福境涯を築いていくためである。
 ともすれば人は、富や名声などを得れば幸せになれると考えてしまう。しかし、心の外に幸せを追い求め、欲望に翻弄されていては、本当の生命の充足も、満足も得られない。望んでいたものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、すぐに空しさを感じてしまう。しかも、人間の欲望はますます肥大化し、次に求めるものが得られなければ不満が募り、不安に苛まれることになる。
 ここに、世間的な欲望の充足を求める「欲楽」の限界がある。それに対して仏の悟りを享受する最高絶対の幸福を「法楽」という。
 これは、外から得るものではなく、自らの生命の中から込み上げてくるものである。
 ゆえに、日蓮大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなりと言明されている。
 南無妙法蓮華経の唱題のなかにこそ、「法楽」すなわち真の遊楽があるのだ。なかんずく、大聖人が「我もいたし人をも教化候へ」「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と仰せのように、自行化他にわたる信心の実践のなかにこそ、本当の遊楽がある。
 広宣流布に戦う人は、地涌の菩薩である。地涌の菩薩には「常楽我浄」の仏の四徳が具わっていると、大聖人は述べられている。
 「常」とは、仏及び衆生に具わる仏の生命が、三世永遠に常住することをいう。「楽」とは、苦しみのない安らかな境地である。「我」は、仏の生命こそが真実の我であり、何ものにも壊されない、主体的な強靱さをもっていることだ。「浄」は、清浄で、どんなに濁りきった世にあっても、滾々と湧き出ずる泉のごとく、清らかな生命活動を行えることをいう。
 この「常楽我浄」の境涯の確立があってこそ、真の「衆生所遊楽」があり、それは、死身弘法の決意と実践から生まれるのだ。
21  常楽(21)
 山本伸一は、″学会の発展も、戦後の広宣流布の大伸展も、軍部政府の弾圧と戦って獄死した初代会長・牧口先生の死身弘法の精神を、戸田先生が、そして、同志が受け継いできたからにほかならない″と深く思った。
 彼は、「源に水あれば流かはかず」の御文を嚼み締めるのであった。
 十月十一日夜、伸一は、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で行われた、熱原法難七百年を記念する大阪・城東区の総会に出席した。
 席上、彼は熱原法難に触れながら、現代における殉教の精神に言及していった。
 「広布の前進も大河の時代に入った今日においては、一人の犠牲者もなく、一人も残らず、福運と長寿の人生を勝ち取っていくことが大切です。そして、それが、私の心からの祈りであり、願いであります。
 信心への大確信をもって、何があっても強盛に唱題し抜く。皆に仏法を教え、励まし、広宣流布のために、生きて生きて生き抜いて、幸せの実証を示しきっていく――それが、殉教の精神に通じることを知っていただきたいのであります」
 殉教とは、本来、死を礼讃するヒロイズムなどではない。″広布こそ、わが人生!″と定め、日々、現実社会で格闘しながら、忍耐強く信心に励み、幸福の王者となりゆくなかに、現代における仏法者の大道があるのだ。
 伸一は、大阪、京都と指導旅を続け、静岡へ行き、熱原法難七百年記念の法要に臨んだ。
 十四日夜、塔之原グラウンドで開かれた″熱原法難記念の夕べ″では、創作舞踊「熱原三烈士」が披露された。
 三烈士が示した不屈の信仰姿勢を継承しようとする、創価の同志の心意気がほとばしる迫真の舞台であった。皆、仕事に励み、広宣流布の活動に邁進するなかで、懸命に練習を重ね、この日を迎えたのであろう。
 伸一は、こう心で叫び、喝采していた。
 ″三烈士の大精神は、わが学会にある。学会ある限り、正法正義は滅びはしない!″
22  常楽(22)
 十月二十一日午後、十月度の本部幹部会が東京・板橋文化会館で行われた。
 この日の指導のなかで、山本伸一は、学会歌を制作してきた真情について語り始めた。
 「私は、本年、各方面や県、また各部から強い要望があり、歌を作ってまいりました。同志の皆さんは、来る日も来る日も、苦労に苦労を重ねて学会活動に励んでくださっている。そうした方々に、心からいたわりの言葉をかけ、御礼、感謝申し上げたいというのが、私の思いでありました。
 そこで、歌を贈ることで、皆さんが喜んでくださり、せめてもの励ましとなり、希望になるのであればと、拙い歌ではありますが、一生懸命に作らせていただきました。
 今回も、婦人部並びに茨城県創価学会からの要請があり、新婦人部歌として『母の曲』を、茨城の歌として『凱歌の人生』を作詞いたしましたので、本日、この席で発表させていただきます」
 そして、「母の曲」の歌詞が紹介された。
 一、幼子抱きて 汗流し
   尊き元初の 使いをば
   果たせし日々の 晴れ姿
   誰か讃えむ この母を
 二、名も無き城を 守りつつ
   小さな太陽 変わりなく
   あの人照らせ この人も
   やがて大きな 幸の母
 三、ああ悲しみも いざ越えて
   母の祈りは けなげにも
   嘆きの坂の 彼方には
   城の人々 笑顔あり
 四、母はやさしく また強く
   胸に白ゆり いざ咲きぬ
   老いゆく歳も 忘れ去り
   諸天も護れ この舞を
   誉れの調べ 母の曲
23  常楽(23)
 「母の曲」の歌詞が発表されると、婦人部員の間から歓声と拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかった。ようやく拍手が収まると、山本伸一は言った。
 「婦人部の皆さん方の日夜のご活躍に、心から敬意を表して作らせていただきました」
 さらに大きな拍手が広がった。
 伸一が、「母の曲」の作詞をしたのは、前夜のことであった。この日、創価婦人会館(後の信濃文化会館)で婦人部の方面幹部らと懇談した。
 功徳の体験に沸き返る組織の様子や、宗門の僧が理不尽な学会批判を繰り返すなかで、健気に友の激励に走る婦人の活躍の模様などが、次々と報告された。その時、新しい婦人部歌を発表したいという要望があった。
 婦人部では、この年六月に創価婦人会館が開館した記念に、新婦人部歌を作成しようということになり、一応、婦人部有志による、「母の城」と題した歌詞の案ができていた。
 その案を見せられた伸一は、感想を述べた。
 「この創価婦人会館を『母の城』として詠っているが、『母の城』を、ここだけに限定する表現は、避けた方がいいように思う。
 婦人部は、何百万人もおられる。しかし、これまで婦人会館に来られたのは、六万人ぐらいだと伺っています。まだ大多数の婦人部員が、直接見ていないだけに、ここが『母の城』といわれても実感が湧かないでしょう。
 むしろ、皆さんのご家庭を、『母の城』と、とらえるべきではないでしょうか。日蓮大聖人は『法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなりここを去つてかしこに行くには非ざるなり』と仰せになっている。
 つまり、日々、信心に励んでいる場所こそが、成仏にいたる道場であるというのが、本当の仏法の教えなんです。自分の今いる場所で、崩れることのない幸せを築き、わが家を寂光土へと転じていくんです。婦人部の皆さんには、それぞれのご家庭を『幸の城』『母の城』にしていく使命があるんです」
 幸福の実像は、わが家庭にこそある。
24  常楽(24)
 創価婦人会館での懇談で、婦人部の幹部は山本伸一に、「可能ならば先生に作詞をしていただければ……」と、要請を伝えた。
 伸一は、この意向に添いたかった。
 彼は、この日、午後十時半に帰宅してから、作詞に取りかかったのである。
 「さあ、婦人部の歌を作るよ。言うから書きとめてくれないか」
 妻の峯子が、メモ帳を手にして飛んできた。
 「幼子抱きて 汗流し……」
 すぐに口述が始まり、次々と言葉が紡ぎ出されていった。既に彼の頭の中で、歌のイメージは出来上がっていた。
 一人の婦人の、尊き人生の広布旅をたどるような構成にしたかった。
 峯子は、一番の歌詞を書きとどめながら、草創期に小さな子どもらを背負い、抱きかかえ、手を引きながら、弘教に、同志の激励にと、家々を回る婦人の姿が心に蘇ってきた。
 皆、生活は苦しかった。病の子をもつ人もいた。家族の不和に悩む人もいた。ご主人を亡くした人もいた。そのなかで婦人たちは、広宣流布という久遠の使命に目覚め、必死になって、唱題に、折伏に励んだ。周囲からは嘲笑されもした。水を撒かれ、塩を撒かれもした。罵詈雑言も浴びせられた。
 しかし、創価の母は、負けなかった。
 時に涙を拭いながらも、微笑みを返して皆を大きく包みこみ、さっそうと広布の道を突き進んでいった。胸には、歓喜の太陽が誇らかに燃え、生命は躍動し、希望の大空が果てしなく広がっていた。
 御聖訓には、「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし」と仰せである。
 そして、その母たちによって育てられた娘たちが、後継のバトンを受け継いで、若き婦人部員となり、同じ使命の大道を、幸の調べを奏でながら、朗らかに前進しているのだ。
 伸一は、苦闘を重ねてきた偉大なる創価の母たちに、最大の敬意と賞讃を込めて、歌詞を作っていった。
25  常楽(25)
 山本伸一は、「母の曲」の二番の冒頭を、最初は「名も無き家を 守りつつ」とし、「家」の字を「しろ」と読むようにした。
 しかし、各家庭が、そのまま「母の城」なのだということを伝えるには、「家」ではなく、「城」と書いた方がよいと思った。
 そして、婦人たちを「小さな太陽」と表現した。太陽は、雨の日も、晴れの日も、嵐の日も、必ず昇る。何があろうが、粘り強く、黙々と、わが仕事、わが使命を果たし抜き、温かな光を皆に降り注いでいく。
 大業を成し遂げるものは、忍耐強い、地道な労作業である。
 作詞は、三番に入った。
 「ああ悲しみも いざ越えて……」
 ここでは、人生は過酷なる宿命との戦いであることを詠った。
 現実は、常に疾風怒濤である。順風満帆の人生などない。外から見ていてはわからなくとも、皆、何かしら深刻な悩みをかかえ、時に呻吟しながら生きているものだ。次から次へと、苦悩の怒濤は押し寄せて来る。
 だからこそ、唱題なのだ!
 だからこそ、折伏なのだ! 
 地涌の菩薩の、仏の大生命を呼び覚まし、強い心で、大きな心で、豊かな心で、悠々といっさいを乗り越え、勝利していくのだ。
 宿命が、悩みがあるからこそ、それを克服することによって、仏法の功力を、その真実を、偉大さを証明することができる。わが宿命は、わが使命となるのだ。ゆえに、信心で打開できない悩みなど、断じてない。
 叩きつける氷雨の激しさに、心が絶望の暗雲に覆われてしまうこともあるかもしれない。しかし、今日も、明日も、太陽は、燦々と輝き、昇っていることを忘れまい。
 大宇宙を貫く妙法に連なり、自らが太陽となるのだ。栄光と勝利の歓喜の輝きを放ち、幸の光彩をもって、一家を、さらに地域を、未来を照らし出していくのだ。
 伸一は、心の思いを、励ましの叫びを、婦人部の歌に込め、歌詞を口述していった。
26  常楽(26)
 作詞が三番の後半にいたった時、山本伸一は峯子に言った。
 「ここには、ご主人のことも、一言入れておきたいな。壮年部歌の『人生の旅』では、『ああ幾山河 妻子と共に』としたんだから、どこかに『夫』と入れておきたいんだよ」
 「そうですね。でも、婦人部には、ご主人を亡くされ、働きながら懸命にお子さんを育てている方や、結婚なさらずに頑張っている方もおりますから」
 「確かにそうだ。では、夫のこともすべて含め、『城の人々 笑顔あり』としよう」
 さらに、四番に入った。
 「戸田先生は、婦人部を″白ゆり″にたとえられてきたので、最後の四番には、″白ゆり″を使いたいと思っていたんだよ。
 『母はやさしく また強く 胸に白ゆり いざ立ちぬ』ではどうかな。″白ゆり″は、学会婦人部の象徴だ。その誇りを胸にいだき続けてほしいんだ。
 何か意見はないかい。婦人部の歌なんだから、婦人の率直な声を聞きたいんだよ」
 促されて、峯子は微笑みながら語った。
 「″白ゆりの花″ですから、『いざ立ちぬ』より、『いざ咲きぬ』の方がいいように思えますが……」
 「なるほど。その通りだ。そうしよう。
 それから、婦人部といっても、若くして結婚した十八歳ぐらいから、高齢の方までいる。四番には、草創期から頑張ってこられたお年寄りのことを詠いたいな。年を取っても、元気に後輩を支え、守り、激励を重ねてくださっている方も多いからね」
 そして彼は、「老いゆく歳も 忘れ去り 諸天も護れ この舞を 誉れの調べ 母の曲」としたのである。
 一番から四番までの口述にかかった時間は、五分ほどであった。
 伸一は、峯子が清書した歌詞に目を通し、推敲した。特に直すべきところはなかった。
 彼は、歌詞の最後の言葉から、この歌の曲名を、「母の曲」としたのである。
27  常楽(27)
 山本伸一は、本部幹部会で語った。
 「この『母の曲』は、作曲も頼んであります。今日中には、出来上がると思います。楽しみにしていてください」
 発表された「母の曲」の歌詞を聴いた婦人たちの反響は大きかった。ある年配の婦人は、頰を紅潮させながら感想を語った。
 「一番の『幼子抱きて……』は、昔を回想しながら懐かしく聴きました。そして、四番まで進み、『老いゆく歳も 忘れ去り』にいたった時、″ああ、これは、今の私のための歌なんだ。これからも頑張ろう! 見事な人生の総仕上げをしよう″と心に誓いました」
 また、「聖教新聞」に掲載された歌詞を見た、富山県のヤング・ミセスのメンバーは、峯子に、こう思いを伝えてきた。
 「自分では、創価学会の婦人部として、一生懸命にやってきたつもりでした。でも、一番から四番までの歌詞を拝見し、″これだけの苦労をして、これだけの決意で、広宣流布のために生き抜いてこそ、本物の婦人部なのだ″ということが、よくわかりました。
 ″まだまだ私など、創価学会の婦人部とはいえない″と痛感しました。本当の婦人部員として胸を張れるように頑張っていきます」
 作曲を依頼された音楽関係者は、この日、板橋文化会館に駆けつけて、打ち合わせを行い、曲づくりに取り組んでいた。
 伸一は、本部幹部会終了後も、代表と懇談会などをもちながら板橋文化会館に残り、曲の完成を待った。夜、曲と歌が入った録音テープが届けられた。皆でテープを聴いた。
 「いい曲だ。明日は、滋賀研修道場で琵琶湖フェスティバルが行われるんだね。そこでも歌のテープを流して聴いてもらおうよ」
 伸一は、当初、この催しに出席する予定であった。しかし、東京・信濃町で社会部大会や県長会が行われるため、代理として妻の峯子と長男の正弘を向かわせることにした。さらに、どうすれば、参加者が満足し、喜んでくれるのか、考え抜いていたのだ。
 最善を尽くし抜いてこそ、心は結ばれる。
28  常楽(28)
 琵琶湖フェスティバルは、「太陽と共に」をテーマに掲げ、青空のもと、滋賀研修道場のグラウンドで、午前と午後の二回にわたって、晴れやかに、楽しく行われた。
 千二百人の大合唱団による華麗なコーラス、リズムダンス、「熱原の三烈士」の演劇、組み体操、民謡などが相次ぎ披露された。
 午後の部に出席し、あいさつに立った峯子は、会長の山本伸一は東京での重要な行事が重なり、この催しに出席できなくなってしまったことを伝えた。
 「それで、私に『代わりに行って、謝ってほしい』ということになりまして、急遽、来させていただきました」
 彼女は、伸一が、どれほど滋賀の同志と会いたがっていたかを述べ、彼から、「誕生したばかりの婦人部の歌『母の曲』を、最初に滋賀の皆さんに聴いていただこう」と、テープを託されたことを語った。
 歌が流れた。歌詞のなかで伸一は、婦人たちを「小さな太陽」と表現している。このフェスティバルのテーマは「太陽と共に」である。そこに峯子は、伸一と滋賀の同志との、心の一致を感じた。
 彼女は、集った五千人の友に、伸一が歌詞の一節一節に、どんな思いを込めて作っていったのかを、語っていった。
 ――母は強し。母は偉大なり。母たちありての広布である。母よ、諸行無常の雲を眼下に、常楽我浄の青空に、幸せの太陽と輝け!
 それが、伸一の願いであった。
 最後に峯子は、こう話を結んだ。
 「楽しいご家族の城を、地域の城を元気に守り、発展させていただくようお願い申し上げ、ごあいさつに代えさせていただきます」
 そして、出演者を激励するために、グラウンドを回った。吹き渡る風が、砂ぼこりを巻き上げる。彼女は、民謡を踊ったメンバーの前などで立ち止まっては、ハンドマイクを使って声をかけ続けた。
 ″今の自分にできることは何か″を考え、行動することから、使命の歩みは始まる。
29  常楽(29)
 峯子がグラウンドを回っていると、「高島から来ました!」と叫んだ老婦人がいた。
 高島は、琵琶湖の北西側に位置する地域であり、ここでも同志は、宗門の僧や檀徒らによる学会攻撃に苦しんできた。
 寺の御講などでも、学会をやめて寺に付かなければ、葬式にも行かぬというのだ。それに屈して、退転者も出ていた。
 山本伸一や峯子のもとへも、その様子と決意を記した手紙が数多く届いていた。
 峯子は、老婦人に微笑みを返し、彼女の手を、しっかりと握りながら語った。
 「高島の皆さんからは、お手紙もたくさんいただいております。皆さんが、どれほど辛く、悔しい思いをされてきたか、会長もよく存じております。どうか、何があっても頑張り抜いてください。必ず将来、何が正義かは明らかになります。私も、真剣に、お題目を送らせていただきます」
 名もなき母たちが、涙をこらえ、衣の権威の暴虐に耐えながら、名もなき城を必死に守り、幸の名城を築こうと戦っていたのだ。
 伸一は、そうした健気な母たちに、人生の応援歌を贈りたいとの思いで、「母の曲」を作詞したのである。
 山本伸一が、婦人たちによる「母の曲」の合唱を初めて聴いたのは、十月二十三日午後、東京・信濃町の創価文化会館内にある広宣会館で行われた、婦人部代表幹部会でのことであった。明るく、希望に満ち、はつらつとした「白ゆり合唱団」の歌声は、常楽我浄の春風を思わせた。
 彼は、この日、太陽の婦人部をリードする幹部の在り方について指針を示した。
 ――「豊かな人間性と強い確信で後輩をリードしゆく聡明な幹部に」「人生の逆境には勇気をもって立ち向かおう。それは、結局、自分の弱さに打ち勝つことから始まる」「愚痴の人生に成長はない」
 母という太陽がある限り、風雪の暗夜があろうと、希望の夜明けは必ず来る。
30  常楽(30)
 十月二十一日の本部幹部会で、婦人部歌「母の曲」とともに発表された茨城県歌「凱歌の人生」の歌詞には、山本伸一の″すべてに勝利の茨城であれ!″との、強い、強い、期待が込められていた。
 彼は、茨城県は多様性に富み、未来創造の新モデルとなる県であると感じていた。
 多くの県が、県庁所在地などへの一極集中化が見られるなかで、茨城県は多極化し、人口も分散しているという特徴がある。
 県央の水戸市に県庁が置かれ、県北の日立市をはじめ太平洋沿岸では工業化が進み、南東部では鹿島港を中心に臨海工業地帯が広がっている。南部には筑波研究学園都市がつくられ、科学研究の最先端を担い、土浦など、一帯は首都圏の拡大にともない、東京のベッドタウンとなっている。
 その一方で、県西部をはじめ、県のほとんどが関東平野に位置し、農業も盛んである。霞ケ浦など湖沼も多い。また、袋田の滝や水郷など観光資源にも恵まれている。
 多様性に富んだ茨城は、日本一国の縮図でもある。その茨城の各地域で、広宣流布の勝利像、モデル像がつくられていくならば、それはそのまま、二十一世紀の勝利への道しるべを打ち立てることになる。そして、そこに、茨城の担うべき大使命があると、伸一は考えていたのだ。
 その新しき前進のためには、各人が自身の殻を破り、境涯革命していくことが肝要である。心を大きく開き、柔軟に人びとを包み込むとともに、何があっても負けない粘り強さ、忍耐力を培うことである。
 自分の「我」に固執すればするほど、人との溝が深まり、世界は狭くなっていく。地域の繁栄も、広宣流布の伸展も、皆が進取の意気に燃え、広い心で、団結していくなかにこそある。
 広い心もまた、忍耐に裏打ちされている。忍耐は、すべての勝利の道につながる。
 伸一は、茨城の大飛躍のために、「耐え勝つ」ことを命に刻んでほしかった。
31  常楽(31)
 山本伸一は、茨城の勝利の未来図を思い描きつつ、県歌「凱歌の人生」を作詞した。
 一、おお寒風に 梅の香を
   君も友どち 耐え勝ちぬ
   いざや歌わん 茨城の
   凱歌の人生 創らんや
   凱歌の人生 輝けり
 二、真赤な太陽 わが胸に
   苦楽の旅に 諸天舞え
   ああ常楽に 坂あるも
   共に肩くみ 友の列
   共に肩くみ 幸の列
 三、君よ辛くも いつの日か
   広宣流布の 金の風
   歓喜の凱歌の 勝ちどきを
   天空までも 叫ばんや
   ああ茨城は 勇者あり
 この歌にも、すぐに曲がつけられ、喜びの歌声は茨城県下に轟いた。その感動が広がるなか、十五日後の十一月五日には、学会本部に茨城県のブロック幹部が集い、勤行会が行われた。これには、伸一も勇んで出席し、″凱歌の同志″の健闘を讃えた。
 彼は話の最後に、「四条金吾殿御返事」を拝して訴えた。
 「この御書は、『いよいよ強盛の信力をいたし給へ』で結ばれています。信心の世界にあっては、常に″いよいよ″との気概で、向上心、求道心を燃え上がらせて、新しい出発、新しい挑戦を重ねていくことが大事なんです。
 ″自分は、長年、信心してきた。いろいろな活動も経験してきた。だから、もうこれでいいだろう″などと考えたならば、それは信心の惰性化です。幹部に、少しでもそんな思いがあれば、組織は停滞します。勇気をもって、その心を打ち破っていくなかにこそ、″凱歌の人生″があることを知ってください」
32  常楽(32)
 山本伸一は、茨城県歌に引き続き、さらに県歌等の作詞に力を注いだ。連日、会合や懇談等が幾つも重なっているなかでの作業である。彼が次に着手したのは、広宣流布の「関東の雄」として大発展を遂げた、思い出深き埼玉に贈る歌であった。
 伸一は、埼玉を「二十一世紀の王者」と考えていた。広布の流れは、「大河の時代」から「大海の時代」へと入る。埼玉は、その時、創価の長江となって真っ先に大海原に注ぎ、新潮流をつくっていかねばならない。
 ゆえに、一人ひとりが、地涌の使命に立ち返り、師弟の源流を胸に、信心の清流を満々とたたえた勇者となり、同志のスクラムをもって社会を潤してほしかったのである。
 埼玉でも、学会を破壊しようとする僧たちの蠢動が激しかった。伸一は、″われらは創価の大道を誇らかに進もう!″と心で叫び、万感の思いを歌詞にしていった。
 埼玉県歌「広布の旗」の詞が完成し、曲がつけられ、「聖教新聞」埼玉版に掲載されたのは、十月二十七日のことであった。
 一、愛する埼玉 今ここに
   地より涌きたる わが友は
   勇み勇みて 手をつなぎ
   広布の旗に 集いけり
 二、清き埼玉 たくましく
   世界の友よ この地をば
   みつめ讃えよ ロワールと
   文化の香り 幸と咲く
 三、あの峰この河 埼玉は
   恐るるものなし 師子の子は
   友の心も 光りけり
   ああ埼玉の 楽土見む
 この三十二年後(二〇一〇年)の十月、三万六千人の若人が集った埼玉青年部総会を祝して、伸一は、この歌の最後に一節を加筆した。
 「ああ埼玉の 勝利見む」と。
33  常楽(33)
 日本の広宣流布の壮大な未来図を描く時、どうしても重要なのが、大東京の強化と飛躍である。では、新しい時代の東京を象徴し、中核となるべき地域はどこか。
 東京の広宣流布は、主に下町から始まり、今や山の手が、そのカギを握りつつある。
 なかでも世田谷は、人口も急増し、のどかな田園風景に代わり、文化的でハイセンスな住宅街へと大きく変容しつつあった。人びとが居住したい区として人気も高まっていた。その世田谷区で地域に根差した新しい広宣流布の運動が展開され、前進の突破口が開かれていくならば、それは時代を先取りし、牽引していく大きな力となる。まさに、東京の未来を開くものとなろう。
 また、世田谷区には、伸一にとって忘れがたい黄金の思い出があった。一九五四年(昭和二十九年)の十一月七日、「世紀の祭典」と名づけた、青年部主催による初の体育大会が行われたのが、世田谷区内にある日大グラウンドであった。
 この体育大会は、青年たちが愉快に楽しく体を鍛え、団結の大切さなどを学んでいくことも極めて有意義であると考え、伸一が発案し、企画した催しであった。しかし、理事室は、「信心の活動で忙しいのに、そんなことをやる必要があるのか」「宗教団体として適当とは思えない」「それに費やす費用と労力が、価値的であるのか」などと言い、開催を認めようとはしなかった。
 しかし、会長の戸田城聖は、了解してくれた。すべて青年部の責任において実施することになったのである。体育大会の結果は、大成功であった。そこから新しい活力が生まれ、新しい人材が育っていった。さらにそれは、学会の伝統行事となり、後の平和文化祭の源流となっていくのである。
 つまり、世田谷は、学会の新しい文化と運動を創造してきた地といえる。伸一は、″その伝統と精神を受け継ぎ、広布新時代の先駆けとなってほしい。これこそが、世田谷の使命である″と強く確信していたのである。
34  常楽(34)
 山本伸一は、東京の、さらには、日本の広宣流布の未来を開くためにも、世田谷の歌を作詞して贈ろうと思った。彼は、二十四年前の体育大会で、恩師・戸田城聖のもと、皆が広布への心意気を託して応援の旗を振り、熱戦を繰り広げた光景を思い起こしながら、一気に歌詞を書き上げていった。
 一、おお共に振れ この旗を
   元初の地涌の この旗を
   世田谷城の 天高く
   幸と文化の 夜明けなり
 二、おお共に打て この鐘を
   久遠の使命の この鐘を
   世田谷家族の 胸広く
   広宣流布の 模範たり
 三、おお共に見よ あの富士を
   悠久厳たり わが心
   世田谷山も 厳たりき
   嵐に勝利の この我は
 歌のタイトルは「地涌の旗」とした。
 歌詞が完成した時、伸一は、会心の笑みを浮かべて、峯子に語った。
 「世田谷の同志が嵐に立ち向かう勇気をもって、敢然と前進を開始すれば、必ず時代は変わる。大東京に凱歌が轟くよ!」
 世田谷の歌「地涌の旗」の歌詞に曲がつけられ、「聖教新聞」東京版に発表されたのは十月三十日のことであった。夜には信濃町の創価文化会館五階の広宣会館で、世田谷区″合唱の集い″が開催され、合唱団と共に全参加者が歓喜の歌声を高らかに響かせた。
 そして、十一月一日、伸一が出席して開かれた立川文化会館での東京支部長会では、世田谷区の支部長・婦人部長が、この歌を二度にわたって大合唱したのである。
 一言、力を込めて、伸一は語った。
 「地涌とは、自ら願い、誓って、広宣流布のために躍り出てきた人です」
35  常楽(35)
 世田谷の歌「地涌の旗」が「聖教新聞」の東京版に発表された十月三十日、新潟版には、同じく山本伸一が作詞した新潟の歌「雪山の道」の歌詞と楽譜が掲載された。
 日々、秋の気配が深まり、やがて訪れる厳しい新潟の冬。深い雪のなかでの活動が始まる――伸一は、なんとしてもその前に、新潟県歌を作って贈りたかった。
 彼は、十月の十日にガルブレイス博士との会談を終えると、関西指導へ出発。十一日には、創価女子学園での学園行事や、関西戸田記念講堂での大阪・城東区の総会に出席。翌十二日は、京都にあって、京都文化会館、桂会館、宇治平和会館で勤行会や記念撮影、懇談会などを重ねるなかで、新潟の歌の作詞に取り組んだのである。
 車中も、歩きながらも、伸一は、言葉を紡ぎ出し、一行、二行と歌詞を作る。そして、同志の輪の中に飛び出していっては激励を重ね、また、作詞を続ける。そうした「行動」即「詩作」の連続であった。
 彼は、日蓮大聖人が忍ばれた、冬の新潟の日々を思い、歌詞を練っていった。
 吹雪は猛り、にび色の海は牙を剝く。雪は家々を閉ざし、寒さは身を苛む。しかし、その厳しい日本海の気候が、新潟で幼・少年期を過ごした牧口常三郎初代会長の、鉄のごとく不屈なる意志を育んでいったのだ。また、どこよりも忍耐強いといわれる、新潟の気質を培ってきたのである。
 つまり、新潟は人間錬磨の天地であり、最も苦労した人が、最も幸せになっていく、蘇生のドラマの大舞台といってよい。
 新潟の歌「雪山の道」は、十二日に歌詞ができ、二十五日には曲も完成した。県の中心者は、県歌の誕生を、真っ先に、新潟広布を切り開いてきた草創の先輩たちに、電話で伝えた。苦労に苦労を重ねてきた功労の同志に、最初に喜んでもらいたかったのである。
 幹部に、そうした心遣いがある地域は強い。団結とは、尊敬と感謝の思いが織り成す、美しき人間性の交響曲にほかならない。
36  常楽(36)
 十月三十日、「聖教新聞」に発表された新潟の歌「雪山の道」を見た同志は、「感動に打ち震えた」と語った。あまりにも自分たちの心情を、的確に表現していたからだという。
 一、ああこの吹雪 風雪も
   この世の雪山 わが道と
   燃ゆる元初の 輝きは
   永遠の幸へと 続くなり
   ああ続くなり 新潟は
 二、おお海原は わが心
   正義に燃ゆる わが友と
   大聖偲びて いざや征け
   ああ新潟に 誇りあり
   誇りの天地 新潟に
 三、ああ鐘は鳴る この街に
   祈りと幸と 広宣の
   世紀に響け 君も打て
   ああ新潟は 夜明けなり
   夜明けの凱歌 新潟は
 ″忍耐の夜″を、″凱歌の朝″に転じる力は″勇気″である。勇気ある信心に立ってこそ、″宿命″を″使命″に転じることができるのだ。
 山本伸一は、御本仏・日蓮大聖人が大法門を師子吼された誉れの天地・新潟の同志が、勇猛 精 進の心を取りいだして、敢然と立ち上がることを祈り念じて、「雪山の道」を作詞したのである。
 この歌は、新聞発表前日の二十九日夜、下越圏の大会で合唱団によって披露された。さらに、三十一日夜、新潟市音楽文化会館での支部歌発表大会では、まず混声合唱団が歌い、最後に全員で大合唱した。皆、新章節の新潟広布への誓いを胸に、瞳を輝かせて、はつらつと熱唱。深雪をとかすかのような、地涌の情熱の歌声が広がった。
 それは、新世紀の大海原へ向かう新潟丸の、新しき船出の序曲となった。
37  常楽(37)
 ″次は栃木の歌だ!″
 山本伸一の激闘は間断なく続いていたが、時間をつくり出しては作詞にあたった。
 十一月三日には、11・6「栃木の日」記念総会が足利市民体育館で開催されることになっていた。
 「11・6」は、一九七三年(昭和四十八年)のこの日、伸一が出席して栃木県体育館で行われた県幹部総会を記念し、創価学会として県の日に定めたものである。
 三日の記念総会には、伸一も出席を要請されていた。
 しかし、創価大学での幾つもの重要行事が入っていたために、どうしても参加することができなかった。
 そこで、それまでに「栃木の歌」を作って贈り、共に新しい出発をしたかったのである。
 また、彼は、年内には、栃木の足利に行って、皆を励ましたいと考えていた。
 栃木というと、伸一の脳裏に浮かぶのは、恩師・戸田城聖が、戦後初の地方指導に那須方面へ足を運び、広布開拓の鍬を振るった地だということであった。
 その栃木こそ、地域広布の先駆となってもらいたいというのが、彼の願いであり、心の底からの祈りであった。
 日光の美しき自然や那須の山々、そして山間の道を征く恩師の姿を偲びながら、伸一は作詞を進めていった。
 ″戸田先生は、あの日、栃木の山河に、いつの日か、陸続と地涌の菩薩が出現することを祈り、願いながら、一歩一歩と、道を踏みしめていったにちがいない。
 栃木の同志は、その思いと誇りを、いつまでも受け継ぎ、多くの人材を育んでいってもらいたい。出でよ! 出でよ! 後継の師子たちよ!″
 自分以上の人材を育てることができてこそ、真の指導者である。それには、後輩のために自ら命を削る覚悟と実践が求められる。
 自分のために後輩を利用しようとする人のもとからは、本当の人材は育たない。 
 「人材養成の教育が一切の社会的機構の根柢である」(「創価教育学体系(下)」『牧口常三郎全集6』所収、第三文明社)とは、創価の先師・牧口常三郎初代会長の卓見である。
38  常楽(38)
 山本伸一が作詞した栃木の歌「誓いの友」の作曲も終わり、歌が栃木県の幹部に伝えられたのは、県の日記念総会の前日、十一月二日の夜のことであった。
 翌三日、合唱団のメンバーは、総会の会場である足利市民体育館へ向かうバスの中でも、喜びに目を潤ませながら、練習に励んだ。合唱団の名は「戸田合唱団」である。戸田城聖の戦後初の地方指導に思いを馳せ、この年の三月、伸一が命名したのである。
 記念総会が始まり、歌が披露された。
 一、ああ高原の 郷土に
   立ちて誓わん わが友と
   三世の道は ここにあり
   栃木の凱歌に 幸の河
 二、あの日誓いし 荘厳の
   語りし歴史 つづらんと
   ああ幾山河 凜々しくも
   栃木の勝利に 涙あり
 三、栃木の友は 恐れなし
   広布の歩調は 朗らかに
   いざいざ進まん 慈悲の剣
   栃木の旗に 集い寄れ
   君との誓い 忘れまじ
 栃木の同志は、「誓いの友」という曲名、そして、何度も出てくる「誓」という言葉の意味を嚙み締めていた。
 歌詞に「君との誓い 忘れまじ」とあるように、伸一にとっては、今回、県の歌を贈ったこと自体、皆との共戦の誓いを、断固、果たさんとする決意の証明であった。
 また、栃木の同志は、それぞれが立ててきた、伸一との挑戦の誓いを思い起こし、胸に闘魂を燃え上がらせるのであった。
 われらの誓いとは、広宣流布実現への、地涌の菩薩の誓願である。「在在諸仏土 常与師俱生」(法華経317㌻)とあるように、広布に生きる創価の師弟の誓いである。
39  常楽(39)
 一九七八年(昭和五十三年)十一月七日、「11・18」学会創立四十八周年を記念する代表幹部会が、総本山大石寺の大講堂で行われた。ここには二千人の学会代表幹部のほか、各地の僧も参加した。宗門の日達法主が出席し、これまで続いてきた宗僧の学会攻撃に、終止符が打たれることになっていたのである。
 それは本来、既に終わっていなければならないはずのものであった。この年の四月初め、宗務院からは、毎月十三日に各寺院で行われる御講での学会批判を、厳に慎むように通達が出されていた。しかし、全く守られることはなかった。
 また、学会は、宗門からの、教学の展開などが教義の逸脱ではないかとする質問書にも、和合を願って、誠心誠意、回答した。現代社会で広宣流布を進めるために、仏法の本義を踏まえつつ時代に即して法理を展開したこと等を述べ、法主の了解を得て、その回答を六月三十日付の「聖教新聞」に掲載した。
 この時も、これで学会への誹謗は終わるはずであった。ところが、その後も、執拗に攻撃は続けられた。こうした異常な事態が、いっこうに沈静化しない背景には、宗門を利用して学会を操ろうと画策する、野心に狂った弁護士・山脇友政の悪辣な暗躍があった。以前から宗門に学会への不信感を募らせる捏造情報を流し、さらに攻略計画まで練り、それを伝えていたのだ。
 宗門の僧たちは、これに踊った。
 学会側がいくら外護の立場から、宗門の意向を尊重し、対応しても、かえって彼らは、邪悪な牙を剝き出しにして圧迫してきた。
 学会員は、横暴な宗門僧の言動に苦しめられ続けてきたのである。
 日蓮門下を名乗る僧が、宗祖の御遺命たる広宣流布に、死身弘法の実践をもって取り組んできた創価学会への攻撃を繰り返す。「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」と大聖人が仰せ通りの事態が出来したのだ。
 魔の蠢動は広宣流布の時の到来を物語る。
40  常楽(40)
 学会は、事態収拾のために、攻撃の急先鋒となっていた若手の僧と、青年部幹部の話し合いも進めた。そして、学会と宗門の関係を改善し、一切を収める場として、十一月七日に総本山で学会創立の記念行事が行われることになったのである。
 各登壇者の原稿も、事前に宗門に見せた。学会は事態収拾を第一に考え、僧たちの言い分を全面的に聞き入れたものにしていた。しかし、宗門は、御本尊の謹刻問題についても詫びよと、言いだしたのである。
 彼らの言う謹刻問題とは、学会が日達法主の了解を得たうえで、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊をはじめ、山本伸一が願主となって総本山に正本堂を建立寄進したことを讃え、「賞本門事戒壇正本堂建立」と認められた賞与御本尊など、八体を謹刻したことである。
 伸一は、信心の根本である御本尊を、未来永遠に、大切に伝え残していくために、紙幅の御本尊を板曼荼羅にする必要があると考え、一九七四年(昭和四十九年)一月、謹刻について日達に尋ねている。
 板曼荼羅にするのは、御本尊を大切にするためだからよい――とのことであった。
 さらに、九月二日、宗門との連絡会議では創価学会常住の御本尊謹刻を、あらためて伝え、法主了解のもと、謹刻を進めた。
 そして、翌七五年(同五十年)元日、学会本部での新年勤行会に先立ち、山本伸一の導師で入仏式が行われた。翌日、伸一は、法主の日達に、入仏式について報告している。
 日蓮大聖人は、「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と仰せである。
 創価学会は、初代会長の牧口常三郎以来、御本尊根本の信心を会員に徹底し、皆がその精神を確立することによって、各人が大功徳の実証を示してきた。また、その信心によって、広宣流布の流れが開かれてきたのだ。
41  常楽(41)
 一九七五年(昭和五十年)一月四日付の「聖教新聞」一面では、「学会本部では常住板御本尊の入仏式」と大々的に報じた。
 さらに、七七年(同五十二年)の十一月九日、日達法主が出席して、創価学会創立四十七周年を記念する法要が営まれた。学会本部を訪れた日達法主は、師弟会館の「創価学会常住御本尊」などに読経・唱題し、慶祝の意義をとどめたのである。
 ところが七八年(同五十三年)になって一部の僧らが、学会は勝手に御本尊を謹刻したと騒ぎだしたのだ。日達法主が、七八年六月の教師指導会で次のように指導したというのである。
 「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩しないように」
 学会批判を繰り返す僧たちは、この発言を使って攻撃を始めた。「猊下は『知らなかった』と言われた。学会は偽本尊を作った」などと騒ぎ立てたのだ。
 あまりにも理不尽な話である。
 また、日達法主の教師指導会での発言は、″承認したのだから、つついて喧嘩してはならぬ″という趣旨であることは明白である。ところが彼らは、その指導に反して攻撃に狂奔したのである。
 もともと、紙幅の御本尊を板御本尊にすることは、宗内では数多く行われてきたことであった。副会長の泉田弘も、日達法主から、こう聞いていた。
 「御本尊は、お受けした人の宝物だから、粗末にするならともかく、大切にするためであれば、板御本尊にするのは自由だよ。他人がとやかく言うものではない」
 しかし、宗門僧たちは、衣の権威をかざして、狡猾かつ卑劣に、学会に対して圧迫を加えてきたのである。
 正義なればこそ、学会を陥れようと、障魔は猛り、烈風は常にわれらを襲う。
42  常楽(42)
 学会は、日達法主の了承のもと、御本尊の謹刻を進めた。しかし、宗内で謹刻を誹謗する声が起こったのだ。山本伸一は、宗門の意向を尊重しようと、直接、日達法主に、謹刻した板御本尊は、どうすることがいちばんよいのかを尋ねた。一九七八年(昭和五十三年)九月二日のことだ。
 すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です、とのことであった。それは「聖教新聞」にも報道された。
 ところが、その後、宗内の話として、学会に連絡が入った。
 ――若手の僧たちが騒いでいる。板御本尊は本山に納めてほしい。そうしてくれれば問題はすべて収まる、というのである。
 学会は、これを聞き入れ、創価学会常住の御本尊を除く、七体の板御本尊を総本山に納めた。直後の十月三日、宗務院は院達を出し、板御本尊が総本山に奉納されたことを伝えるとともに、こう徹底した。
 「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。 
 我が宗は、日蓮大聖人の正義を広宣流布するものであることは、既に御承知の通りでありますので、これの妨げとなるような僧侶間の摩擦を排し、僧俗一致して御奉公の誠を尽されるようお願い致します」
 にもかかわらず、僧たちは、十一月七日に行われる創立記念の代表幹部会の原稿に、御本尊謹刻についての謝罪を入れよと言いだしたのだ。
 学会の首脳たちは、院達が出ているのに、とんでもないことだと思った。しかし、学会員を守るための総本山での代表幹部会である。そうすることで宗内が正常化し、宗門僧の非道な攻撃が終わり、皆が安心して信心に励めるものならと、学会側は最大限の譲歩をしたのである。
 広宣流布の航路は、荒れ狂う激浪のなか、忍耐強く、新大陸をめざす戦いといえよう。
43  常楽(43)
 十一月七日午後一時前、総本山の大講堂で、学会創立四十八周年を記念する代表幹部会が行われた。
 男子部長の開会の言葉に続いて、理事長の十条潔、そして、副会長の関久男が、宗門と学会の間に生じた諸問題への今後の対応について語った。その際、関は、やむなく、「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については」との表現を用いた。この件は、仏法の本義のうえでも、また経過からも、何も問題のないことであったが、僧俗和合を願って学会は、宗門の要求に応じたのである。
 次いで、山本伸一があいさつに立った。
 彼は、これまで、学会の宗門への対応に、さまざまな点で行き過ぎがあり、宗内を騒がせ、その収拾にあたって、不本意ながら十分に手を尽くせなかったとして、法華講総講頭の立場から謝意を表した。
 伸一の脳裏には、御講で、葬儀の席で、宗門僧に悪口雑言を浴びせられ、冷酷な仕打ちを受け、悔し涙をこらえてきた、同志の顔が、次々と浮かんだ――彼は、自分が耐え忍ぶことで、最愛の同志を守れるならば、これでよいと思った。ともかく、卑劣な僧の攻撃に、ピリオドを打ちたかった。
 彼は、参加者に呼びかけた。
 「広宣流布は、万年への遠征であります。これからが、二十一世紀へ向けての本舞台と展望いたします。どうか同志の皆さんは、美しき信心と信心のスクラムを組んで、広々とした大海のような境涯で進んでいっていただきたいのであります。
 そして、現実に人生の四苦に悩める人を、常楽我浄の幸福の道へと転換するために、今日も、明日も、粘り強く、民衆のなかに入り、人間のために、社会のために、そして、広くは世界のために、一閻浮提の正法の光を、燦然と輝かせていく新たなる前進を開始しようではありませんか!」
 伸一は、大切な同志が、希望に燃えて、堂々と胸を張り、はつらつと広宣流布の歩みを開始してほしかったのである。
44  常楽(44)
 最後に、宗門側から日達法主が登壇し、宗門と学会の間に生じた不協和音は世間の物笑いになり、宗団を破壊しかねないと憂慮してきたことを述べ、こう宣言した。
 「ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということのうえで、これまでのさわぎについてはすべてここに終止符をつけて、相手の悪口、中傷を言い合うことなく、理想的な僧俗一致の実現めざしてがんばっていただきたいのであります」(「全国教師総会」(『日達上人全集 第二輯第七巻』所収)日達上人全集編纂委員会)
 重ねて日達は、過去のことに、いつまでもこだわるのではなく、真の僧俗の和合を実現して、宗門を守っていただきたいと念願し、話を結んだ。
 学会創立四十八周年を記念する代表幹部会は終了した。これで宗僧による学会への誹謗は、いっさい終わるはずであった。もともと、そのために行った行事である。
 しかし、ここからまた、金銭欲に溺れ、退転・反逆していった弁護士の山脇友政と、宗門の悪僧らとが結託し、謀略が、さらに進められていくのである。
 そのなかにあっても、学会は、僧俗和合のために総力をあげて、一つ一つの事柄に、誠実に取り組んでいった。
 この代表幹部会から十一日後に迎えた十一月十八日、本部総会の意義をとどめて、十一月度本部幹部会が、東京・荒川文化会館で、盛大に開催された。
 席上、山本伸一は、明一九七九年(昭和五十四年)は、「七つの鐘」の総仕上げの年となることから、次の大いなる目標として、学会創立七十周年にあたる二〇〇〇年をめざし、五年ごとに節を刻みながら、新しい前進を開始していくことを発表したのである。
 それは、世界広宣流布への本格的な船出であり、一大平和勢力を構築していく新世紀への旅立ちの号砲であった。
 波浪は、猛っていた。しかし、創価の同志の胸には、大きな希望が広がった。限りない勇気がみなぎっていった。使命に生きる人の心には、常に晴れやかな虹がある。
45  常楽(45)
 山本伸一のスケジュールは、十一月もぎっしりと詰まり、多忙を極めていたが、学会歌の作詞は、とどまることなく続けられた。
 十一月九日付の「聖教新聞」には、当時の指導部の歌「永遠の青春」が誕生したことが発表され、翌十日付には、歌詞と楽譜が掲載されている。指導部は、組織の幹部として経験を積んできた年配者によって構成されていた部で、その使命は、後の多宝会(東京は宝寿会、関西は錦宝会)に受け継がれていく。
 一、ああ幾歳か 草枕
   冴えたる月に 口ずさむ
   広布の歌の 尊けれ
   三世の道と 胸はれり
   ああ悔いなきや この旅路
 二、ああ春秋の 坂道を
   涙と情けで のぼりけり
   わが子も友も 一念に
   如来の使いと のぼりけり
   ああ誰か知る 天高し
 三、ああはるかなる あの地にも
   我はとびゆき 抱きたり
   わたしは歩みて 共に泣く
   この世の思い出 幾度か
   ああ法戦に 我勝てり
 四、ああ疲れにも いざ立ちて
   永遠の青春 再びと
   見渡す彼方は 天に華
   翼に乗りて 今日もとぶ
   ああ美しき この指揮は
 創価学会が大発展してきたのは、地道な個人指導、励ましの力によるところが大きい。学会を人体にたとえるならば、組織は骨格であり、全身に温かい血を送る血管の役割を担っているのが、個人指導であり、励ましである。それによって学会は、皆が元気に、心豊かに前進してきたのである。
46  常楽(46)
 組織といっても、人と人のつながりであり、互いに尊敬と信頼の絆で結ばれてこそ、その結合の力は強まっていく。
 しかし、大ブロック長(後の地区部長)や支部長など、ライン組織の正役職者の場合、出席すべき会合をはじめ、組織運営のためになすべき事柄も多く、個人指導に十分な時間が取れないことも事実である。
 それだけに、長年、組織の責任をもって活動し、信心の体験も、人生経験も豊富な年配者たちが、各組織のリーダーをバックアップし、個人指導に力を注いでいくならば、どれほど多くの人びとが信心に奮い立ち、広布の人材に育っていくことか。
 いわば、そうした先輩たちの存在は、一人ひとりの会員にとっては″信心の命綱″であり、学会にとっては、広宣流布を支えてくださる大切な根っこといってよい。
 ゆえに、山本伸一は、かつて指導部を、「広布の赤十字」と表現したのだ。
 すべての学会員が、喜々として信心に励み、幸せになっていくためには、皆に漏れなく励ましの手を差し伸べていくネットワークが必要になる。この主軸となる存在こそが、先輩たちである。
 さらに、その激励によって、社会貢献の使命に目覚めた学会員が核となり、地域の隅々にまで、真心と友情のネットワークを張り巡らしていくならば、それは、人びとの心を守る、社会の新たなセーフティーネット(安全網)となろう。
 いわば、指導部の同志が、日々行う個人指導の歩みは、人間の孤立化、分断という現代社会のかかえる問題を解決する、一つの大きな力となっていくにちがいない。
 伸一は、そのメンバーの尊き活躍の様子と心意気を、「ああはるかなる あの地にも 我はとびゆき 抱きたり わたしは歩みて 共に泣く」と表現したのである。
 同苦と励まし――そこに、人間性の輝きがある。その時、友の胸中に勇気の泉が湧く。そして、人間と人間とが結ばれていく。
47  常楽(47)
 山本伸一は、指導部の同志には、仏法者として、人間として、人生の見事な総仕上げをしてほしかった。牧口常三郎初代会長のように、命ある限り、広宣流布への闘魂を燃やし続けてほしかった。
 いかに晩年を生きたかが、一生の総決算となる。青年時代から悪戦苦闘を乗り越え、懸命に学会活動に励んできたとしても、高年になって、広布への一念を後退させてしまうならば、人生の大勝利を飾ることはできない。
 日蓮大聖人は、「始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」と仰せである。
 多くの人は、年を取れば、組織の正役職を若い世代に譲ることになる。それは、組織を活性化させるうえでも大切なことである。
 しかし、役職を交代したからといって、″あとは若い世代が頑張ればよい″と考え、学会活動に情熱を燃やせなくなってしまうならば、それは己心の魔に負けている姿であろう。
 いかなる立場になろうが、組織の中心者と心を合わせ、広宣流布のために、自分のなすべきことを見つけ、創造し、そして行動していくのだ。「さあ、これからが本番だ!」と、″いよいよ″の決意で、新しき挑戦を重ねていくのだ。それが″創価の心″である。
 年齢とともに時間的なゆとりも生じよう。個人指導や仏法対話、地域友好・貢献にも、より多くの時間を費やすことができる。
 また、失敗も含め、積み重ねてきた豊かな人生経験は、人びとを励ますうえでも、仏法を語るうえでも、大きな力となる。人生のすべてが生かせるのが信心なのである。
 たとえ足腰の自由が利かなくなったとしても、電話や手紙などで人を励ますことはできる。さらに、皆の幸せを願って唱題することもできる。決して無理をする必要はない。大事なことは、戦う心を忘れないことだ。
 人生も社会も、諸行無常である。しかし、生涯、誓いを胸に、同志と共に広宣流布に生き抜くなかに、生命の大法に立脚した常楽我浄の人生があるのだ。
48  常楽(48)
 「永遠の青春」の四番、「ああ疲れにも いざ立ちて 永遠の青春 再びと」の歌詞には、山本伸一の、″指導部は永遠に広宣流布の勇者たれ!″との思いが託されていた。
 また、次の「見渡す彼方は 天に華 翼に乗りて 今日もとぶ」の歌詞には、″三世にわたる仏法の法理を強く確信し、若々しく、歓喜あふれる日々を送ってほしい″との祈りが込められていた。
 日蓮大聖人は、「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」と仰せになっている。自行化他の信心に励み、人びとの幸せを願い、仏法を教え、友を励ましていく。それこそが、今生人界の思い出となると言われているのだ。
 人間として生まれ、正法に巡り合えたからこそ、広宣流布の大偉業に連なり、人びとに仏法を語って、地涌の菩薩の使命を果たしゆくことができる。そう自覚するならば、学会活動に参加できることに、無上の喜びを感じざるを得まい。
 そして、どれだけの人に法を説き、発心を促し、人材を育てていくか――そこに人生の最高の充実があり、それは、そのまま永遠不滅の光を放つ生命の財宝となるのだ。
 「あの人が通ってくれたから、今の幸せがある」「あの時の指導と激励で、私は奮起した」と感謝される人生こそが、広宣流布の勇者の誉れなのである。
 伸一の指導部への期待は大きかった。
 日本の未来を思い描く時、未曾有の高齢社会が訪れる。人びとが幸せな晩年を送っていくためには、年金や就労、介護などの問題とともに、各人が、いかなる人生観、死生観をもって、生き生きと創造的に日々を過ごしていくかが、重要なテーマとなる。つまり、人間の心の在り方が問われるのだ。
 仏法という生命の法理を人生の哲学として、友のため、地域のために、はつらつと汗を流す信心の先輩たちの姿は、老後の生き方の模範を示すものとなろう。
49  常楽(49)
 山本伸一は、人生の年輪を刻んできた同志に、信心の見事な実証を示してほしかった。
 晩年における最高最大の信心の実証とは何か――財力や地位、名誉等ではない。ありのままの人間としての人格の輝きにある。
 皆を包み込む温かさ、人を思いやる心、大いなる理想への不屈の信念、飽くなき向上心――それらが育む精神の光彩こそが、人格の輝きといってよい。
 それは、紅葉の美に似ているかもしれない。木々は、深雪に耐えて芽を出し、天高く伸びよう伸びようと枝を張り、葉をつけ、灼熱の太陽に自らを鍛える。やがて、その帰結が炎の紅葉となる。そして、葉が落ちる瞬間まで、自身を赤々と燃やす。見る人に幸せを送ろうとするかのように。
 紅葉は人生の晩年の象徴であり、生の完全燃焼がもたらす、鮮やかな彩りの美といえよう。その円熟した美しさは、青葉の青春に勝るとも劣らない。
 信心の先輩たちが、人格の光彩を増し、人びとから慕われ、信頼、尊敬されていくならば、それがそのまま、広宣流布の広がりとなっていく。そうした方々の存在こそ、全同志の誇りであり、創価の無上の宝である。
 指導部の歌「永遠の青春」の歌詞と楽譜が「聖教新聞」に掲載された十一月十日、同紙の山梨版には、やはり山本伸一が作詞した山梨の歌「文化と薫れ」が発表された。
 この歌は、当初、地元の有志が歌詞の制作に取り組み、仕上がった案を伸一のもとに届けた。しかし、山梨の県長自身も満足できないらしく、「山本先生に歌詞を作っていただければ……」とのことであった。
 伸一は、届けられた歌詞を参考に、″皆の要請ならば、精いっぱい応えよう″と、作詞に取りかかったのである。
 「創価文化の日」の記念行事が行われた十一月三日、歌詞を完成させ、山梨の同志に伝えた。ただちに、作曲担当者が曲作りに取りかかり、歌の誕生をみたのである。
50  常楽(50)
 山梨の歌「文化と薫れ」は、十一月九日、山梨本部での山梨県支部長会で発表された。
 一、見よや厳然 富士光り
   我と歴史を 語りなむ
   この地尊き 山梨は
   いついつ讃えむ 勇みなむ
 二、若葉は露に 楽園の
   広布の幕は この地より
   いざいざ立ちなむ 山梨は
   文化の華と 咲き薫れ
 三、この河あの河 幾歳か
   地涌の瞳は 走りゆく
   今 今 勝ちなむ 山梨の
   君と我との 不落城
   ああ この城は 金の城
 富士光る山梨は、山本伸一にとって師と共に青春の思い出を刻んだ天地であった。
 一九五五年(昭和三十年)の六月十一、十二の両日、戸田城聖にとって最後となった「水滸会」野外研修が、山梨県の河口湖畔と山中湖畔で実施された。青年たちは、師に見守られるなか、相撲にも汗を流した。
 十一日夜、戸田を囲んで懇談が行われた折、″故郷に錦を飾るとは、私たちの立場から、どうとらえるべきか″との質問が出た。
 「戸田の弟子となって、広宣流布に戦っている姿が、最高にして永遠の錦じゃないか! この錦こそ、最高にして不変の錦なんです!」
 真実の錦とは、世間の栄誉や地位、名声ではなく、広布に生き抜く姿にあることを、彼は、若き生命に打ち込んでおきたかったのだ。
 青年たちは、創価の師子として、広宣流布という地涌の使命に生きるなかに、永遠不変の最高の栄誉があることを知り、決意を新たにした。そして、各地に散り、恩師の誓願である会員七十五万世帯の成就へ大進撃を開始していったのだ。その歴史を伸一は、「広布の幕は この地より」と詠ったのである。
51  常楽(51)
 「水滸会」の青年たちが決起した地である山梨に集う同志たちこそ、広布第二章の先駆けとして立ち上がってほしいと、山本伸一は強く念願していた。
 また、「文化の華と 咲き薫れ」の一節には、山梨への彼の大きな期待があった。
 文化とは「文をもって化す」ことであり、人間の心を耕す作業といってよい。暴力や権力、金力といった人間を脅かす外からの力に抗して、人間性の勝利をもたらす力である。
 人間生命の改革を基盤に、野蛮を平和へと転じて、社会の繁栄をめざす広宣流布の運動こそ、文化の最先端を行くものにほかならない。伸一は、この詩情豊かな山梨の地に、地域広布の大城を築き、人間文化の大輪を育んでいってほしかったのである。
 そのためにも、人材の育成に力を注ぎ、数多の逸材を育てることが大切になる。
 『甲陽軍鑑』(品第三十九)には、甲斐を根拠地にした戦国武将・武田信玄の言葉として、「人は城 人は石垣 人は堀」とある。一人ひとりが適材適所を得て、力を発揮すれば、人が堅固な城となり、石垣となり、堀となって、鉄壁の守りを固めていけるのだ。
 では、人材育成の要諦とは何か。
 それは、リーダーが成長し続けていることだ。人は触発があってこそ奮起する。触発をもたらすには、日々、自分が成長していなければならない。ゆえに、リーダー自身が心に師をいだき、求道心を燃やし、新しい挑戦を重ね、自分を錬磨していくことが大事になる。厳に戒めるべきは慢心と油断である。
 また、一人ひとりの成長と幸福を願い、共に行動しながら、信心の基本を教えていくことだ。人は放っていたのでは育たない。山梨の大地を彩る果樹のように、手塩にかけて、真心を注いだ分だけ成長していく。
 そして、広宣流布に生きるリーダーの信念は、そびえ立つ富士のごとく、揺るぎなきものでなくてはならない。
 伸一の眼には、二十一世紀の大空にそびえ立つ山梨の人材城が、燦然と輝いていた。
52  常楽(52)
 一九七八年(昭和五十三年)の十一月九日夜、山本伸一は、空路、大阪へ向かった。この年、六度目の関西指導のためである。
 今回は、大阪・泉佐野市に完成した泉州文化会館の開館を祝う記念勤行会などへの出席が予定されていた。
 関西の同志と共に、弘教の金字塔を打ち立てた、あの五六年(同三十一年)の大阪の戦いから、既に二十二年がたつ。
 伸一は、関西が永遠に「常勝」の大城であり続けるために、今再び新しき前進のための布石をしておきたかったのである。
 大阪到着後、直ちに彼は、豊中市の関西牧口記念館へ向かい、関西最高会議に出席した。中心となる幹部への指導から、彼の戦いは始まった。
 「指導者として大切な要件はたくさんあるが、今日は次の諸点を確認しておきます。
 広宣流布のリーダーにとって、強盛な信心に立つことが最も大事であるのは当然ですが、そのうえで、広く、深く″教養″を身につけていかねばならない。
 学歴や知識が、そのまま教養になるわけではありません。学んだものが、知性、見識となって発揮され、人格の輝きとなってこそ、真実の教養です。それには、多くの書を読んで、学び考え、自らを高めていく努力を、日々、続けていくことです。
 第二には、広宣流布という遠征のために、″健康″でなければなりません。健康を守るのは、基本的には自分自身です。
 暴飲暴食を慎み、食事の取り方を考える。疲れがたまったなと思ったら、工夫して早く休むようにする。毎日、体操を続ける。また、手洗い、うがいを励行し、定期的に健康診断を受けるなど、基本的なことを怠らずに行っていくことが大事なんです。
 仏法は道理です。信心をしているから、不摂生な生活をしていても、大丈夫だなどと考えるのは間違いです。″健康になるぞ!″と深く決意し、唱題に励み、聡明に、規則正しい生活を送っていく。それが信仰者の姿です」
53  常楽(53)
 山本伸一は、さらに訴えていった。
 「信心の世界にあっては、一つ一つの課題に対して、常に真剣に取り組んでいかなくてはならない。
 学会活動は、現代における最高の仏道修行です。仏道修行というのは、己との対決であり、自分の限界を打ち破って、心を強く、大きくし、境涯を開いていくためのものです。
 したがって、人の目を意識し、格好だけ取り繕っても、根底にいい加減さがあれば、人間革命はできません。しかし、真剣であり、一途な人、誠実な人は、必ず、大きく成長していきます。
 信心が惰性化していくと、この根底の真剣さが萎えてしまい、一生懸命やっているように見せかけて終わってしまう。そうなれば、どんな幹部であろうと、信心の歓喜はなくなり、人を触発することもできません。
 二十二年前の、あの″大阪の戦い″で大勝利を収めることができたのは、皆が真剣であったからです。だから歓喜があり、功徳があり、確信が湧き、感動のなかに凱歌を響かせることができた。
 新しい『常勝関西』の建設のために、中心となる幹部の皆さん方は、このことを忘れないでいただきたい」
 こう語る彼の口調には、関西の大飛躍を願う、強い思いがあふれていた。
 翌十日、山本伸一は、二年十カ月ぶりに、大阪市の南に隣接する堺市の、堺文化会館(後の堺平和会館)を訪問した。
 草創期、大阪支部に続いて関西に誕生したのが堺支部であった。当初、規模の小さな支部であったが、その奮闘が、大阪支部に奮起を促し、関西の牽引力となっていった。
 また堺は、古くから対明・対南蛮貿易などで栄え、豪商による自治都市がつくられた。町人文化も盛んで、自主と進取の精神が脈打つ地域であった。その誇り高い気風を受け継ぐ堺から、関西に広布の新風を起こしたいと、伸一は考えていたのだ。
54  常楽(54)
 堺支部の誕生は、一九五三年(昭和二十八年)十一月である。山本伸一の堺訪問は、支部結成二十五周年にあたっていた。彼は、堺文化会館で、集っていた代表幹部と共に、その佳節を祝う勤行を行った。
 支部結成前年の八月十四日、伸一は、堺への第一歩を印し、座談会に出席している。この日は、彼が戸田城聖と出会ってから、ちょうど五年となる記念の日であり、胸には、師弟共戦の決意が燃え盛っていた。
 さらに、一九五六、七年(同三十一、二年)と、″大阪の戦い″の指揮を執った折にも、何度となく堺に足を運んだ思い出がある。
 堺文化会館で勤行を終えて、彼が席に着くと、堺支部の初代支部長を務めた浅田宏の、メガネをかけた温和な顔があった。
 伸一は、懐かしそうに語りかけた。
 「久しぶりにお会いできて嬉しい。草創期を戦った先輩方が、いつまでも元気で活躍していることが、後輩たちの希望になるんです。
 仏法の真実、創価学会の信仰の正義は、一生を通じて、一個の人間の生き方を通して証明していくべきものなんです。
 七十代、八十代、九十代となっても、青年時代の信念をいささかも曲げずに、喜々として広宣流布に生き抜いている。その姿を見れば、後輩たちは、″この信心は本物なんだ。生涯をかけて悔いない信仰なんだ″と、安心して信心を貫いていくことができる。
 反対に、昔は、華々しく幹部として頑張っていたが、いつの間にか、活動にも参加しなくなってしまったという人もいる。それを見た後輩たちは、どれほど、わびしい思いをするか。先輩の責任は重いんです。
 ゆえに、信心は、生涯、全うしていかなければならない。よろしく頼みます」
 「はい! 頑張ります」
 浅田は、既に七十六歳であったが、その声には、若々しい闘志があふれていた。
 「嬉しいね。まるで青年のようではないですか。幾つになろうが、この心意気が学会精神なんです。″永遠の青春″ですよ」
55  常楽(55)
 山本伸一は、懇談的に話を続けた。
 「皆さんの奮闘のおかげで、創価学会は大発展し、社会的にも大きな責任を担う存在になりました。それにともない、当然、学会の運動も大きく変化していきます。それが、人間とともに、時代とともに生きる宗教であることの証明ともいえます。
 草創期の学会を、モーターボートにたとえるならば、今の学会は、大型のタンカーのようなものです。タンカーが湾のなかを、猛スピードで進めば、大波が立ち、周囲の小舟も大きく揺れてしまう。ゆえに、静かに、細心の注意を払って、周りを気遣いながら進んでいく必要がある。これが道理です。
 急いで進もうとして、社会性を軽視するようなことがあっては絶対にならない。いかなる団体よりも、社会性を尊重する学会であり、皆さん方であってください。
 これは、今後の、恒久的な学会の在り方を考えるうえでの基本です。
 また、そのためにも、家庭を盤石にし、しっかりと足元を固め、地域に信頼の根を深く張っていくことが、ますます大事になります」
 社会は、家庭の集合体である。家族が仲良く、はつらつとして明るく、温もりに満ちた家庭は、それ自体が仏法の実証となる。そして、幸の航路を照らす″地域の灯台″となる。
 伸一は、堺文化会館での勤行、指導のあと、泉佐野市の泉州文化会館へと急いだ。
 大阪には何度となく来ていたが、なかなか泉州を訪れることはできなかった。それだけに今回は、大阪の南の要衝たる泉州方面の激励に力を注ぎたかったのである。
 明年には、「七つの鐘」が鳴り終わり、新出発の時を迎える。ゆえに、今こそ、あまり訪問できなかった地へ行き、一人でも多くの同志と会って励まそうと、固く心に決めていたのだ。
 新しい一歩を踏み出し、新しい人と会う。その行動のなかに広宣流布の広がりがある。
 一人の同志が使命に燃え立つならば、その火は、次々と人びとの心に移り広がり、燎原の火となって燃え輝く。
56  常楽(56)
 泉州文化会館は、この一九七八年(昭和五十三年)の、十一月五日に落成したばかりの会館である。
 泉州は、タマネギなどの野菜栽培や、タオルなどの繊維工業が盛んである一方、ベッドタウン化が進んでいた。また、泉州沖には関西新空港(関西国際空港)を建設する計画があり、日本の新たな玄関口となる可能性の高い、未来性に富んだ地域でもあった。
 午後四時前、山本伸一は、二十一年ぶりに泉州の地を訪れた。会館に到着し、車を降りると、出迎えてくれたメンバーに言った。
 「すばらしい会館だ。泉州は勝ったね!」
 会館の玄関にも、庭にも、黄・白・紫などの色をした菊の大輪や懸崖作りが、所狭しと飾られ、夕日に映えていた。
 「美事な菊だね。真心が胸に染みます」
 菊は、千二百六十五鉢あるという。各大ブロック(後の地区)の有志が丹精込めて育てたものだ。
 菊の花言葉は、「清浄」「高潔」である。それは、そのまま、泉州の同志の信心、生き方を表現しているように思えた。
 彼は、泉州文化会館の初訪問を記念して、楠や桜などを植樹し、集って来た同志らと、記念のカメラに納まっていった。
 伸一の目に、見覚えのある幾つもの顔が飛び込んできた。あの″大阪の戦い″で共に汗を流し、苦楽を分かち合った同志たちである。
 「久しぶりです!」
 彼は足早に歩み寄って、握手を交わした。
 当時、青年部の室長であった伸一が、泉大津市で活動の指揮を執った折、一緒に食事をしながら懇談した、二十数人の人たちであった。その日は皆、大奮闘し、指導会が 終了した時には、誰もが空腹を覚えていた。そこで伸一は、会場の別室で、皆と食事をしながら、懇談することにした。
 彼は、一人ひとりと言葉を交わし、生涯、不退の信心に励むよう訴えていった。この時の「頑張りまっせ!」との誓いを、皆、忘れなかった。誓いは幸福への種子となる。
57  常楽(57)
 二十二年前に山本伸一と食事をしながら懇談した人たちは、その時に出し合った食事代が百円であったことから、「百円会」という名をつけ、以来、共に広布の誓いに生きようと励まし合いながら、前進してきたのだ。
 人生には、さまざまな思い出や、転機となる出会いがある。それを大切にし、心の宝物としている人は強い。負けない。何かあった時に、返るべき発心の原点があるからだ。
 このメンバーは、伸一との誓いを深く胸に刻み、友の激励に、弘教にと奔走し、人生の凱歌を轟かせてきたのだ。
 今、頰を紅潮させて、奮闘の来し方を報告する同志の姿は、たくましく、尊かった。
 「皆さんは、本当によく頑張ってくださった。私は、それが嬉しいんです。一人ひとりが庶民の大英雄です。
 ところで、『百円会』という名前ですが、新しい名称にして再出発しませんか。『百円会』は、開けっぴろげで、いかにも大阪らしいのですが、もう少しセンスがある名前の方がいいんじゃないですか」
 朗らかな笑いが広がった。
 「こんなに美しい菊のなかで再会したんですから、『菊花会』としてはどうでしょうか」
 賛同の拍手が沸き起こった。
 さらに彼は、句を詠み、贈った。
 「なつかしや 遂にあいたり 菊花会」
 泉州文化会館の開館記念勤行会は午後六時前から開始され、伸一の導師で厳粛に勤行・唱題した。地元幹部のあいさつ、表彰に続いて、婦人部と女子部の合唱団が、「母の曲」、関西の歌「常勝の空」、さらに、皆が初めて聴く新曲をはつらつと歌い上げていった。
  〽堂々と 王者の城か 泉州の
  友らがつくりし 人材の石垣
 伸一が、二年半ほど前に、泉州の友に贈った和歌に曲をつけ、「王者の城」と題して披露したのだ。彼は、皆の気持ちが嬉しく、″ありがとう!″と心で叫んでいた。
58  常楽(58)
 泉州文化会館の開館記念勤行会は、山本伸一のあいさつとなった。
 そのなかで彼は、「信心の基本とは何か」に言及していった。
 「それは、究極的には″御本尊根本″ということに帰着します。では、″御本尊根本″とは、いかなる生き方をいうのか――。
 人生は、何が起こるかわかりません。順風満帆とはいかず、浮き沈みもある。生きるということは戦いであり、ある意味で苦難の連続であるといえるかもしれない。病や不慮の事故、経済的な問題、人間関係の悩み、あるいは、子どものことで苦しむ場合もある。
 しかし、仏法では、『煩悩即菩提』『生死即涅槃』と教えている。いかなる迷い、苦悩に直面しても、この原理を忘れてはならない。
 日蓮大聖人は、私たちが、煩悩を菩提へ、生死を涅槃へ、四苦八苦に苦しむ身を常楽我浄の生命へと転換し、人生の幸せを満喫して生きていくために御本尊を顕された。
 いわば、迷い、苦悩の生命を転換していくための回転軸こそが御本尊であり、その回転の力となるのが唱題なんです。ところが、窮地に陥ると、″もう駄目だ″と絶望的になったり、信心が揺らいだりしてしまう。それは、縁に紛動され、根本の一念が御本尊から離れてしまっているからなんです。
 生命が御本尊と合致していれば、どんな苦難も、必ず乗り越えていくことができる。信心の極意は、何があっても御本尊に向かい、題目を唱え抜いていくことしかありません。
 苦しい時も、悲しい時も、嬉しい時も、この姿勢を貫き通していくことが、″御本尊根本″の信心であり、それが正信なんです。
 そうすれば、御本尊が助けてくれないわけがない。困難を乗り越える大生命力が、智慧が、湧かないわけがありません。常に、根底の一念を御本尊に定め、その信心を持続することが、現世安穏・後生善処の人生につながっていくことを知っていただきたい。
 また、よく″信心の根を張る″というが、それは、持続の信心ということなんです」
59  常楽(59)
 勤行会終了後、山本伸一は泉州文化会館の館内を回り、会う人ごとに励ましの言葉をかけた。また、代表との懇談会を行ったほか、数人の婦人部幹部とも語り合った。
 彼は、この語らいの折、泉州地域から成る第七大阪本部の婦人部長・井草香に、微笑みながら話しかけた。
 「私は、あなたの一生懸命な姿が、忘れられないんです。昭和三十一年(一九五六年)の大阪の戦いの時に、道案内をしてくれましたね」
 伸一が、泉州で会場となっている会員宅を激励に回った時、案内役を務めてくれたのが井草であった。
 その日、彼は、朝から大阪各地を駆け巡り、泉州では、二会場を回る予定であった。訪れた先々で、生命を削る思いで激励を続けてきただけに、伸一の疲労は、ピークに達していた。泉州の二軒目となるお宅に向かいながら、彼は言った。
 「さあ、あと一会場だね。今日は、これで二十四カ所目なんですよ」
 井草は、一瞬、躊躇した。二会場の予定が、どうしても訪問してもらいたい家があり、三会場にしてしまっていたのだ。
 意を決して、もう一カ所、増えたことを伝え、伸一にわびた。
 「お疲れのところ、申し訳ありません」
 「いいえ。喜んで伺わせてもらいます。私は広布のため、同志のために一身を捧げる覚悟です。それが幹部ではないですか」
 伸一は、当時を思い起こしながら語った。
 「私は、一緒に戦い、共戦の歴史を綴った同志のことは、深く心に刻んでいます」
 井草は、目を潤ませた。
 さらに彼は、隣にいた泉州圏婦人部の指導長である永井明子を見た。
 「あなたも頑張ってきたね」
 「ありがとうございます! 今年は夫の十三回忌となります」
 「その間の苦闘は、ご一家にとって最高の財産になりますよ。それが信心の世界です」
60  常楽(60)
 永井明子の一家は、一九五九年(昭和三十四年)二月に入会した。信心を始めて六年半、タイル施工業を営む夫の忠が交通事故に遭遇した。九死に一生を得たものの、高熱と極度の頭痛に苦しみ、入院生活が続いた。
 忠は、自分が社会復帰できなかった時のために、病床で明子に、商売の基本を徹底して教えた。十カ月後、彼は退院し、仕事を始めたが、その後も入退院を繰り返した。
 明子は、夫の仕事を手伝うために、車の免許を取り、作業現場にも顔を出した。また、支部婦人部長としても奔走した。
 しかし、宿命の嵐は、容赦なかった。
 六六年(同四十一年)師走、忠は他界した。中学三年の長男を頭に三人の子を残して。
 明子は、途方に暮れた。でも、負けなかった。敢然と頭を上げた。
 ″勝たなあかん! 子どもたちのためにも、仏法の偉大さを証明するためにも。学会に、絶対に泥を塗ってはならんのや″
 明子は、夫の会社を受け継いだ。
 タイル施工業は、圧倒的に男性中心の社会であった。周囲は「やめるんとちゃうんか」とささやき合った。従業員が数人の小さな会社ではあったが、彼女は社長として、必死に切り盛りした。女性が生き抜くには、生易しい世界ではなかった。懸命に唱題を重ね、一日一日を乗り越えていった。
 必死の祈りは勇気となり、知恵となる。
 夫が他界した翌年の春、広宣流布の途上で亡くなった同志の春季合同慰霊祭が、東京・八王子で執り行われた。
 明子は、この慰霊祭に出席した。
 その折、山本伸一は、彼女と言葉を交わし、力を込めて励ました。
 「ご主人を亡くして、お子さんを抱え、さぞ辛いでしょう。苦しいでしょう。
 でも、あなたが悲しめば、ご主人も悲しみます。反対に、あなたが元気に、はつらつと学会活動に励み、歓喜しているならば、その生命は、ご主人にも伝わっていきます。それが仏法の原理なんです」
61  常楽(61)
 永井明子は、春季合同慰霊祭での山本伸一の激励を、決して忘れなかった。
 挫けそうになるたびに、その時の言葉を思い起こしては、自分を鼓舞して唱題し、学会活動に励んだ。懸命に、誠心誠意、仕事に取り組む彼女を、次第に周囲の人たちも応援してくれるようになった。
 夫・忠の他界から十二年、会社は順調に業績を上げていたのである。
 伸一は、忠の十三回忌が間近に迫っていることを聞くと、彼女に言った。
 「明日もまた、泉州文化会館の開館記念勤行会を開催しますので、その時に、あわせてご主人の法要を行いましょう。よろしかったら、お子さんたちも一緒においでください。
 お母さんと共に、苦労を分かち合ってこられた立派なお子さんたちです。私も、ぜひお会いして、讃え、励まして差し上げたい」
 人間は、必ず、誰かに支えられて生きている。一人の人を本当に励まし、元気づけるには、その人を支えてくれている人をも讃え、励ましていくことが大事である。
 翌十一日昼、伸一が周辺の視察を終え、泉州文化会館に戻ると、玄関の前で永井一家が待っていた。
 「先生! 大変にありがとうございます。本日は、家族で来させていただきました」
 明子は、子どもたちを紹介していった。
 「こちらが長男の勝也で、二十六歳です。そして、次男の皓平、二十二歳です。それから長女の聡美です。二十歳になりました」
 長男は、高校を卒業し、タイル関係の会社に勤めた後、家業を継いでいた。また、次男は、この年の春に大学を卒業して建築資材関係の企業に就職。長女は、歯科衛生士をめざして専門学校に学んでいた。
 伸一は、子どもたちと握手を交わした。
 「立派に育ったね。亡くなられたお父さんも、喝采を送っているでしょう。お母さんを大切にね。しっかり親孝行するんだよ。苦労して、みんなを育ててくれた、日本一のお母さんだもの」
62  常楽(62)
 山本伸一は、さらに、永井明子の子どもたちに語っていった。
 「あなたたちのお母さんは、著名人のように脚光を浴びることはないかもしれないけど、世の、いかなる女性指導者よりも、尊く、偉大な女性です。庶民の王者として、幸福博士として、最高の勲章を差し上げたい方です。
 このお母さんを、無上の誇りとしてください。その崇高な志を受け継いでください。それが、お父さんの願いでもあるでしょう。
 今日は、これから、お父さんの追善法要を兼ねて、開館記念勤行会を行います。一緒に勤行をしましょう」
 伸一は、嬉しかった。宿命の嵐に敢然と立ち向かい、立派に三人の子どもを育て上げた″広布の母″を、心から讃嘆したかった。
 人生には、さまざまな試練が待ち受けている。その時に、信心を奮い起こして、苦難に挑み、悩み、戦うなかで、自らを磨き鍛えていくことができる。そこに、人間革命がある。
 この日、伸一は、永井明子に句を贈った。
 「美しき 心で勝ちたり 泉州戦」
 泉州滞在二日目となる十一月十一日、伸一は、昼と夜の二回にわたって行われた泉州文化会館の開館記念勤行会に出席した。
 昼の勤行会で彼は、一家和楽を築く要諦について言及していった。
 「一家で一人、立派な信心をしていけば、家族全員を救うことができる。信心のことで争うようなことがあってはなりません。
 たとえば、子どもさんが信心していない場合もあるでしょう。たまには、毅然と言うことがあってもよいが、それは、深い愛情からの言動でなければならない。信心を勧めるのは、ご家族の幸せのためです。ところが、信心をめぐって諍いが起きたという人の話をよく聞いてみると、自分のために信心させようとして、感情的になってしまっている。
 子を思う真心は、いつか必ず通じます。子は親の思いを汲み取り、信心してみようかと考える時が来ます。焦る必要はありません」
63  常楽(63)
 山本伸一は、家族への婦人部の接し方について、具体的に語っていった。
 「お母さんは、子どもに、『明日、試験でしょ。お題目は唱えたの? やらないから成績がよくならないのよ!』などと、ガミガミ、短絡的、攻撃的に言う傾向がある。これは慈悲とはほど遠い。誰だって反発しますよ」
 どっと笑いが起こった。
 「人間は感情の動物ですから、追及や命令ではなく、思いやりにあふれた、賢い言い方が大事です。たとえば、こう言うんです。
 『あなたが、どう人生を歩んでいくかは自由です。でも、何があるかわからないのが人生よ。その人生を生きるうえで、私には、ただ一つ教えてあげることができる最高の宝がある。それが信心なの。どんなことがあっても、負けない力を引き出していくことができるわ。何かあったら、お題目をあげるのよ。そうすれば、必ず乗り越えられる。これだけは覚えておいてね』――こう語れば、子どもさんも″そうだな″と思うものです。
 ご主人が未入会の場合も、『私は、あなたと共に、永遠に幸せになり、愛し合って生きていきたいんです。だから、信心に励んでいるし、あなたにも勧めるのよ』と言ってみてはどうですか」
 自分が幹部でも、家族が信心していないケースもあろう。しかし、そのことで、学会のなかで、肩身の狭い思いをする必要はないし、確信を失い、元気をなくしてしまうようなことがあってはならない。一人が強盛な信心に立てば、一家、一族を、幸福の方向へと必ず導いていけるのが、偉大な妙法の力用であるからだ。
 家族が未入会であれば、家族みんなの幸せを願い、「一家和楽の信心」をめざして、真剣に題目を唱えていけばよい。挑戦すべき課題があるからこそ、信心に励む張り合いも出てくる。悩みのない人生などないのだ。
 地涌の菩薩とは、苦悩と戦いながら、それに負けずに、広宣流布の使命に生き抜く、不屈なる″歓喜の人″である。
64  常楽(64)
 山本伸一は、勤行会であいさつを終えると、メーン会場に入れず、別室でスピーカーから流れる音声を聴いていた人のもとへと急いだ。そして励ましの言葉をかけたあと、ピアノに向かった。
 「私は、ピアノは上手ではありません。しかし、皆さんが喜んでくれるなら、弾かせてもらいます。できることは、なんでもやらせていただこうというのが、私の思いなんです。
 皆さんは、健気に、一生懸命に、広宣流布に邁進してくださった。そのために、さんざん悪口を言われ、ひどい仕打ちを受け、苦しんでこられた。それを聞くたびに、身が切られる思いをしてきました。今日は、最愛の同志を讃え、労をねぎらう意味で、弾かせてもらいます」
 「うれしいひなまつり」、続いて「夕焼小焼」の軽やかな調べが流れた。
 弾き終わると、「次は何がいいの?」と皆に尋ねた。すかさず、「熱原の三烈士」という声があがる。
 彼は、″勇気の人に! 正義の人に! 幸福の人に!″と祈り念じながら、鍵盤に指を走らせた。さらに、一曲、二曲と演奏するうちに、皆の心は一つに解け合っていった。
 「これでいいね。さあ一緒に出発しよう!」
 それから伸一は、役員の青年に言った。
 「もう、ほかには、お会いしていない人はいないね。いたら必ず言うんだよ。せっかく来てくださったのに、申し訳ないもの。事故を起こさないための備えは万全でなければならないが、威圧的、権威的で冷たい対応になってはいけないよ。人間性を否定する宗教の権威主義、権力主義と戦ってきたのが、創価学会なんだから。知恵を絞り、来た方に喜んでもらえる対応をしていくんです」
 十一日夜の勤行会でも、伸一は、徹して皆を励まし抜いた。
 また、懇談や個人指導にも余念がなかった。
 ″もうこれで、この地には来られないかもしれない″との思いで、激励に次ぐ激励を重ねた。
 すると、不思議なことに疲れは消え、力が湧いてくるのである。
65  常楽(65)
 十一月十二日の午前中、山本伸一は岸和田市の泉州会館を視察した。一九六四年(昭和三十九年)秋に設けられた、二階建ての小さな会館である。泉佐野市に泉州文化会館が完成するまでは、ここが泉州方面の活動の中心となっていた。
 人びとの関心は、新しいものに集まる。しかし、″これまで使われてきた場所はどうなっているのか″″今後は、どう活用していくことが望ましいのか″などを考え、直接、足を運び、手を尽くしていくのが、リーダーの大事な在り方である。建物に限らず、何事においても、皆の気づかぬところに目を配る努力を怠ってはなるまい。
 車中、岸和田城が見えた。この城は、伝承によれば、和泉国守護となった楠木正成の一族・和田高家が、建武元年(一三三四年)に築いたといわれる。天守閣は、江戸時代後期に落雷で焼失し、戦後、再建されたものだ。
 春には、青空にそびえる天守と苔むした石垣、桜の景観が美しいという。
 伸一は、泉州の同志に、新しき常勝の時代の幕開けとして、「泉州の歌」を作詞して贈りたいと思い、歌詞を作り始めた。
 車窓の岸和田城と創価の新法城・泉州文化会館が、脳裏で二重写しになった。そして、文化会館の庭を埋め尽くした真心の菊や、会館から見た美しき月天子、歓喜に満ちた同志の笑顔が次々と浮かんだ。
 彼は、わが魂を、この地に永遠にとどめる思いで作詞を続けた。
 泉州文化会館に戻った時には、既に歌詞は出来上がっていた。
 この日は、午後一時から、「女子部の日」を祝う泉州の女子部総会が行われた。
 この総会にも、伸一は勇んで出席した。
 席上、副会長の森川一正が語った。
 「本日、山本先生は泉州会館を視察し、車の中で、『泉州の歌』を作詞してくださいました。先生から『この歌は、まず女子部の皆さんに聴いてもらおう』とのお話がありましたので、発表させていただきます」
66  常楽(66)
 森川一正は、「泉州の歌」の歌詞を、朗々と読み上げていった。
 一、桜と朝日の泉州は
   満つる功徳に笑顔あり
   あの人この人元初より
   不離の同志か兄弟か
 二、ああ平和なりこの大地
   幾百万の雄叫びは
   歓喜のスクラム道拓く
   勇み歌えや我友よ
 三、天に月あり地には菊
   香れる人材泉州に
   広布の旗はついに起つ
   ああ泉州の城光れ
 大拍手と歓びの笑みが広がった。
 山本伸一のあいさつとなった。彼は、女子部員の幸せを願いつつ、語り始めた。
 「若々しい生命の放つ輝きほど、美しいものはない。皆さんは気づかないかもしれないが、青春そのものが最高の美なんです。
 青春には、若さもあれば希望もある。それ自体が強さであり、特権です。ましてや皆さんは、自己の内面を磨き鍛え、最高に個性を輝かせていける信心という絶対的な法則を知り、実践している。ゆえに、他者に依存して幸福を求めるのではなく、自分に自信をもって、毅然と生き抜いていただきたい。
 女子部の年代は、生涯にわたる幸せの軌道を建設する時代といえます。その軌道をつくる力が信心であり、教学なんです。
 生きることは、宿命との戦いです。宿命の問題を解決していく道は、生命の大法である仏法による以外にない。その意味からも、教学を学び、幸福への人生哲学を、しっかりと身につけていただきたい。また、自行化他にわたる信心で、友の幸せのために行動し、境涯を広げ、何があっても負けない生命の強さを培い、福運を積んでいってください」
67  常楽(67)
 山本伸一は、泉州の女子部総会に続いて行われた、各部合同勤行会にも出席した。この参加者は、泉州文化会館を菊の花で荘厳するために、丹精込めて菊を育てた各大ブロックの有志たちであった。
 二日前、咲き薫る菊の花を見た伸一は、関西の幹部に、「この花を育ててくれた方たちは、勤行会には集って来られますか」と尋ねた。メンバーが、参加対象にはなっていないことを聞くと、こう提案した。
 「勤行会の開催回数を増やして、菊を育ててくださった方々をお招きできませんか。私は、何回でも出席させていただきます。陰で苦労し、真心を尽くしてくださった人を、最も大事にするのが学会です。私は、直接お会いして、心から御礼申し上げたいんです」
 そして、十二日午後の各部合同勤行会が決まったのである。人びとを思う、一つ一つの配慮のなかにこそ、人間主義の輝きがある。
 勤行会で伸一は、「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」の御聖訓を拝して、広布の道は苦闘の連続であると覚悟し、諸難を乗り越え、人生の勝利と幸福を築いてほしいと訴えた。
 また、菊作りの労作業に感謝し、賞賛と励ましの句を、次々と贈ったのである。
 「天に月 地に菊薫る 広布かな」
 「菊作り 喜ぶ人みて 陰で泣く」
 「目もさめる 此の世の絵巻か 菊の庭」
 「菊見つつ 信のこころが 見ゆるかな」
 「霊山も かくの如きか 菊の波」
 勤行会での指導を終えた彼は、会場の片隅にいた数人の老婦人のもとへ歩みを運んだ。苦労して広宣流布の道を切り開いてこられた草創の功労者であろう。広布の幾山河を歩み抜いてきた苦闘と栄光が偲ばれた。仏を仰ぐ思いで、老婦人の肩に手をかけて言った。
 「よくいらっしゃいましたね。偉大なるお母さん方にお会いできて嬉しい。お疲れ様です。皆さんを見ていると、私のおふくろのように思えるんです。うんと長生きしてください。それが私の願いです」
68  常楽(68)
 山本伸一は、泉州文化会館での各部合同勤行会を終え、南大阪文化会館(後の羽曳野文化会館)へと向かった。スケジュールにはなかったが、大ブロック長会があると聞き、急遽、激励に訪れたのである。
 一瞬たりとも無駄にしたくなかった。わずかでも時間があれば、同志のため、広宣流布のために使いたかった。その日々の実践が、不惜身命、死身弘法に通じよう。
 彼は、全精魂を振り絞る思いで訴えた。
 「人生は山あり、谷ありです。一面から見れば、すべては諸行無常です。愛し合ってきた夫婦も、どちらかが先に他界していく。愛別離苦も避けがたい。しかし、その無常なる現象の奥に、妙法という永遠の法理がある。この法理に立脚し、自身の境涯を革命していくならば、苦悩の波が打ち続こうとも、それに負けることなく、悠々と乗り越えていくことができるんです。
 そのために日蓮大聖人は、題目を教えられ、御本尊を顕された。諸行無常の世にあって、常楽我浄の人生を謳歌し、遊楽を満喫する方途を示してくださったんです」
 そして、翌十三日には、兵庫県の加古川文化会館を訪問し、加古川支部結成十七周年を祝う記念勤行会に出席した。
 当初、伸一の加古川訪問は、日程の調整がつかなかった。しかし、″これまでにお会いできなかった方々を、なんとしても励ましたい″との、彼の強い思いから、訪問が決行されたのである。
 彼は、関西の幹部に言った。
 「これからは兵庫県が大事だ。兵庫が強くなれば、それに啓発されて大阪も強くなる。両者が切磋琢磨し合っていくならば、それが関西の牽引力となり、日本、世界の一大牽引力となる。また、兵庫県を強くするには、これまで、あまり光の当たらなかった加古川などを強化していくことだ。それが、永遠なる常勝の王者・関西を築くポイントです。
 だから私は行く。新しいところへ、幹部が率先して足を運ぶんです」
69  常楽(69)
 加古川文化会館の勤行会で、山本伸一は、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」との御文を拝して指導。生活、仕事、商売等、人生のすべては、信心によって勝利していけることを述べ、「大確信の信心を!」と力説した。
 また、加古川では、播磨圏の代表幹部との懇談など、語らいに次ぐ語らいを重ねた。
 翌十四日には、兵庫県芦屋市にある関西戸田記念館で近隣の会員と、正午過ぎから懇親会を行った。さらに、姫路文化会館で開催される姫路支部結成十八周年記念勤行会に出席するため、夕刻には姫路へと走った。姫路は十一年ぶりの訪問となる。
 「あの姫路城のごとく、堂々たる信念の仏法者であってください!」
 伸一は大勝利城・兵庫を胸に描いて呼びかけた。同志は歓呼の声で応え、奮い立った。
 さらに、姫路圏の代表幹部との語らいでも、全精魂を注ぎ尽くした。蓄積する疲労を跳ね返して、「臨終只今にあり」との思いでの行動であった。
 十五日には、関西戸田記念館で、神戸、西宮方面の支部長・婦人部長と懇談し、近隣のメンバーと記念撮影をした。
 そして、大阪府豊中市の関西牧口記念館を訪問。地元幹部と勤行・唱題し、東京に戻る直前まで、激励と指導を続けたのである。
 創価の航路には、いまだ暗雲が垂れ込め、さらに激しい嵐の予兆を感じさせた。
 同志は皆、さまざまな苦悩をかかえ、悶え、あがきながらも、今世のわが使命を果たそうと、必死に戦い、生きている。まさに、泥中に咲く蓮華のごとく、健気にして崇高なる、仏の使いの人びとである。
 伸一は、讃え、励まさずにはいられなかった。一人として負けることなく、皆が人生の凱歌を声高らかに響かせてほしかった。その赤裸々な姿のなかに、尊き地涌の菩薩の実像があるからだ。″師子よ、負けるな!″との祈りを込め、彼は師子吼を放ち続けた。
 (この章終わり)

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