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日蓮大聖人・池田大作

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第28巻 「勝利島」 勝利島

小説「新・人間革命」

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2  勝利島(2)
 山本伸一は、世界平和の確かな潮流をつくるために行動することも、今世の自身の使命であると、強く自覚していた。
 それゆえに、各国の識者、指導者との語らいを重ね続けた。
 九月の中国訪問のあとも、二十七日には、北京大学の周培源学長をはじめとする中国科学院代表団一行と、二十八日には、イギリスのマイケル・ウィルフォード駐日大使夫妻と会談。
 その翌日の二十九日には、西ドイツのボン大学名誉教授のゲルハルト・オルショビー博士と語り合っている。
 また、伸一は、創価大学をはじめ、創価教育各校の創立者として、その諸行事にも、できる限り出席した。
 九月三十日に行われた創価大学の体育祭では、開会式で「英知は太陽のごとく、身体は鉄のごとく」と激励。
 閉会式では「英知を磨き人格形成を」と訴えた。
 また、中国からの留学生と卓球に興じた。
 さらに懇談し、「人の偉さは謙虚な人柄に表れてくる」など、人間としての生き方について語り、励ました。
 そして、翌日の十月一日には、東京創価小学校の第一回運動会に出席している。
 日々、さまざまな行事が、びっしりと詰まっていた。
 しかし、そのなかでなお、伸一は首脳幹部らに尋ねるのである。
 「ほかに、今日は、会合はないのかい。
 また、私がお会いして激励すべき人がいたら、どんどん言うように!」
 伸一の行動は、とどまるところを知らなかった。
 「次は?」「次は?」と、間断なく尋ねては、可能な限り、全力で、激励、指導にあたっていくのである。
 十月五日の全国県長会議で、彼は語った。
 「人間として生まれて、最高の幸せとはなにか──人に法を説けることです。
 多くの人に仏法を語れる人こそが、果報者なんです。
 それに勝る幸福の実感はありません。
 だから私は、その歓喜を胸に、感謝の心で、命ある限り戦い続けます。
 どうか皆さんも、その自信と確信をもっていただきたい」
3  勝利島(3)
 十月五日の全国県長会議で山本伸一は、広宣流布を担う人材の生き方についても言及している。
 「広宣流布の活動の世界、舞台は、あくまでも現実の社会です。
 社会を離れて仏法はありません。
 したがって、私たちは、社会にあって、断固、勝たねばならない。
 そのために、まず皆さん自身が、社会の誰が見ても立派だという、人格の人に育っていただきたいんです。
 誰からもからも慕われ、信頼される人間革命の確たる実証のうえに、広宣流布の確かな前進もある。
 時代は「格の時代」に入ったことを銘記していただきたい。
 信心の深化は、人間性となって結実し、豊かな思いやりにあふれた、具体的な言動となって表れます。
 その人間性こそが、今後の広宣流布の決め手となっていきます」
 仏法の偉大な力は、何によって証明されるか──実証である。
 病苦や経済苦、人間関係の悩み等々を克服した
 功徳の体験も、すばらしい実証である。
 同時に、自分自身が人間として、ここまで変わり、向上したという人格革命があってこそ、仏法の真実を証明しきっていくことができる。
 伸一は、新しい時代を担う、新しい人材の育成に懸命であった。
 全国県長会議のあとも、壮年・婦人部の代表と懇談し、人格の輝きを放つためのリーダーの心構えについて、諄々と諭すように訴えている。
 「細かいようだが、リーダーは約束した時間は、必ず守ることです。
 自分は忙しいのだから、少しぐらい遅れてもいいだろうといった考えは、絶対にあってはなりません。
 それは、慢心であり、甘えです。
 自分の信用を、学会の幹部への信頼を、崩すことになります。
 また、人材育成とは、高みから指導するのではなく、広宣流布の宝たる仏子に、誠心誠意、骨惜しみせずに仕えていくなかにあることを、忘れないでいただきたい。
 そうして人材を育み、伸び伸びと活動に励んでもらい、最後は、自分が一切の責任を持つ──これが、本当の指導者なんです」
4  勝利島(4)
 山本伸一は、各地を訪問した折に、家族のなかで、ただ一人、信心に励んでいるという婦人などと、懇談する機会がよくあった。
 そのなかには、「夫は、今は活動しておりませんが、かつては信心に励んでいた時期もありました」という人もいた。
 なぜ、活動から遠ざかってしまったのかを尋ねると、人間関係に起因しており、こんな答えが返ってきた。
 「男子部のころ、先輩が横柄だったことで、嫌気が差したと言っておりました」
 その先輩は、幹部になったことで自分が偉くなったように勘違いし、後輩を部下のように考えてしまったのかもしれない。
 「高慢や抑圧では、人心を従えることができぬ」(注)と、フランスの哲学者ボルテールは喝破している。
 学会の幹部は、仏子である会員の方々に仕え、皆が幸福へ、一生成仏へと進めるように、応援し、手助けしていく立場である。
 未来にわたって、これが、学会の役職の考え方でなければならない。
 苦労して広宣流布を担う立場であるからこそ、幹部として信心に励む功徳、福運は大きいのである。
 また、学会活動に参加しなくなってしまった娘のことで悩む母親は、こう語った。
 「本人が言うには、なぜ折伏をするのかなど、一つ一つの活動の意味がよくわかっていないのに、やるように言われるのがいやで、やめてしまったとのことです」
 学会活動することの意味が理解できずにいるのに、ただ、やれと言われたのでは、苦痛に感じもしよう。
 そこで大切になるのが、納得の対話である。
 「なぜ折伏を行ずる必要があるのか」「その実践を通して、自分は、どんな体験をつかんだのか」などを語っていくことである。
 そして、相手が納得したら、一緒に活動し、手取り足取り教える思いで、功徳の体験を積めるよう、応援していくことだ。
 信心に励み、功力を実感するなかで、真剣に活動に取り組もうとの思いが湧いてくるのである。
5  勝利島(5)
 広宣流布を推進するリーダーにとって大事なことは、自分の担当した組織のすべてのメンバーに、必ず幸せになってもらおうという強き一念をもつことだ。
 そして、人間対人間として、誠実に交流を図り、深い信頼関係を結んでいくことである。
 その素地があってこそ、励ましも、指導も、強く胸を打ち、共鳴の調べを奏でることができるといえよう。
 それは、学会員に対してだけでなく、すべての人間関係についても同様である。
 日ごろからの交流があってこそ、信頼も芽生え、胸襟を開いた対話もできる。
 リーダーが麗しい人間関係をつくり上げることに最大の努力を払っていくならば、広宣流布は、着実に、ますます大きな広がりを見せていくにちがいない。
 また、一人の人が立ち上がり、真剣に信心に励むようになっていった陰には、必ず、真心の励ましを重ね、面倒をみてくれた学会の先輩や同志がいる。
 「あの人が一生懸命に励ましてくれたからこそ、今日の私がある」「あの人の人柄に共感して、信心してみようと思った」といった声は、どの組織にあっても枚挙にいとまがない。
 本来、創価学会の人間の絆ほど、尊く美しいものはない。
 病に苦しんだり、仕事で行き詰まったりしているメンバーがいれば、励ましの言葉をかけ、相談にものり、克服を願って懸命に祈る。
 そこには、互いの幸せを願う思いやりがあり、同苦の心がある。
 しかも、学会員の人への真心は、会員だけに限らず、近隣の人びとや友人など、自分を取り巻く多くの人びとに向けられている。
 まさに、創価の友によって結ばれた人間の連帯は、かけがえのない社会の宝になりつつあるといってよい。
 それだけに山本伸一は、幹部との人間関係で活動から遠ざかってしまったという話を聞くたびに、激しく胸が痛んだ。
 ゆえに彼は、リーダーの在り方について、さまざまな角度から、指導し続けたのである。
6  勝利島(5)
 広宣流布を推進するリーダーにとって大事なことは、自分の担当した組織のすべてのメンバーに、必ず幸せになってもらおうという強き一念をもつことだ。
 そして、人間対人間として、誠実に交流を図り、深い信頼関係を結んでいくことである。
 その素地があってこそ、励ましも、指導も、強く胸を打ち、共鳴の調べを奏でることができるといえよう。
 それは、学会員に対してだけでなく、すべての人間関係についても同様である。
 日ごろからの交流があってこそ、信頼も芽生え、胸襟を開いた対話もできる。
 リーダーが麗しい人間関係をつくり上げることに最大の努力を払っていくならば、広宣流布は、着実に、ますます大きな広がりを見せていくにちがいない。
 また、一人の人が立ち上がり、真剣に信心に励むようになっていった陰には、必ず、真心の励ましを重ね、面倒をみてくれた学会の先輩や同志がいる。
 「あの人が一生懸命に励ましてくれたからこそ、今日の私がある」「あの人の人柄に共感して、信心してみようと思った」といった声は、どの組織にあっても枚挙にいとまがない。
 本来、創価学会の人間の絆ほど、尊く美しいものはない。
 病に苦しんだり、仕事で行き詰まったりしているメンバーがいれば、励ましの言葉をかけ、相談にものり、克服を願って懸命に祈る。
 そこには、互いの幸せを願う思いやりがあり、同苦の心がある。
 しかも、学会員の人への真心は、会員だけに限らず、近隣の人びとや友人など、自分を取り巻く多くの人びとに向けられている。
 まさに、創価の友によって結ばれた人間の連帯は、かけがえのない社会の宝になりつつあるといってよい。
 それだけに山本伸一は、幹部との人間関係で活動から遠ざかってしまったという話を聞くたびに、激しく胸が痛んだ。
 ゆえに彼は、リーダーの在り方について、さまざまな角度から、指導し続けたのである。
7  勝利島(6)
 雲の切れ間に太陽が輝いた。
 東京・信濃町の学会本部に、人びとが喜々として集って来た。たくましく日焼けし、精悍さが漂う男性も多い。
 ほとんどの人が、学会本部を訪れるのは初めてであった。
 門の前で、陽光を浴びた創価文化会館の大理石の壁を見上げ、微笑みを浮かべる。
 こぼれる白い歯が、まばゆい。
 一九七八年(昭和五十三年)十月七日午後六時から、第一回となる離島本部(後の離島部)の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で開催されるのである。
 北は北海道から、南は沖縄まで、約百二十の島の代表が集っての、待ちに待った離島本部の総会である。
 一番乗りは、瀬戸内海の直島のメンバー二十二人であった。前夜に出発し、フェリーと寝台特急列車に乗り、朝、東京に到着。
 本部周辺を見学するなどして開会を待った。
 北海道の礼文島から参加した二人は、六日の昼前に島を発ち、船で二時間半、稚内に出た。初雪が舞っていた。
 ここで利尻島の三人のメンバーと合流し、午後九時発の急行に乗り、札幌に着いたのは、七日の午前六時であった。
 そして、飛行機で東京へ向かい、正午に信濃町に到着したのである。
 日本最西端の島・沖縄県の与那国島からも婦人が一人参加していた。
 島から台湾への距離は百十一キロだが、沖縄の那覇までは五百十四キロ。
 晴天だと台湾の山々が見える。
 十月も日々、最高気温は二五度以上の夏日である。
 与那国島から東京に向かうには、まず船で六時間かけ、石垣島へ出る。
 船便は四日に一回。海が荒れれば、その船が欠航する。
 そして、石垣島から飛行機で一時間十五分ほどかけて那覇へ。
 そこから飛行機で東京へ行くというのが最も早い方法である。
 各島々の同志は、はるばると海を渡り、求道の心を燃やして、意気軒昂に学会本部へと集って来たのだ。
 大聖人は「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と仰せである。
8  勝利島(7)
 この十月七日、離島本部の総会に先立ち、第一回「沖縄支部長会」が、学会本部の師弟会館で開催されることになっていた。
 沖縄の同志は、会長・山本伸一の訪問を強く願ってきた。
 伸一は、一九七四年(昭和四十九年)二月の沖縄指導では、石垣島、宮古島へも激励に訪れた。
 以来、四年以上、伸一の沖縄訪問はなかった。
 沖縄の首脳幹部は、県長の高見福安を中心に話し合った。
 幹部の一人が言った。
 「山本先生は、会長就任以来、昭和四十九年までに、七回、沖縄に来てくださった。
 当初は、毎年、お出でくださったし、平均してみても、二年に一回の割合で訪問してくださっている。
 この四年間で新しい会員も誕生しているだけに、ぜひ、近々、先生に八度目の訪問をお願いすべきではないでしょうか」
 高見は、腕を組み、頷くと、つぶやくように言った。
 「もちろん、お出でいただきたい。ぜひとも、お出でいただきたい……」
 そして、押し黙った。長い沈黙が続いた。 
 やがて彼は、静かな口調で語り始めた。
 「私は、考えた。”先生にお出でいただきたいと言って、ただ、お待ちしているという姿勢でいいのだろうか”と。
 ”違う!”と思った。先生が、七度も来島されたということは、どこよりも、沖縄を大切にしてくださったからだ。
 しかし、私たちは、いつの間にか、それを、当然のことのように思い、先生に甘えてしまっていたのではないだろうか。
 世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。
 どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。
 アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、十日、二十日と休みをとってやって来る。
 その求道の心こそが、信心ではないだろうか! 弟子の道ではないだろうか!」
9  勝利島(8)
 高見福安の言葉は、語るにつれて熱を帯びていった。
 「私は今、自分の姿勢を振り返って、深く反省しています。
 求道心を失い、先生に甘えていたことに気づき、申し訳ない思いでいっぱいなんです」
 集っていた沖縄の首脳幹部たちは、高見に視線を注ぎながら、大きく頷いた。
 沖縄の婦人部長の上間球子が口を開いた。
 「確かに、その通りですね。私たちの方から、お伺いすべきだと思います。
 せめて代表だけでも、学会本部に集わせていただくように、お願いしてみてはどうでしょうか。
 もちろん、本部に行ったからといって、山本先生のお忙しさを考えると、お会いしていただけるとは限りません。
 でも、最も大切なことは、師匠を求め抜こうとする心ではないでしょうか。
 その一念があってこそ、先生のお心もわかり、あらゆるものを吸収していくことができるのだと思います」
 高見は、「そうだ。そうだね」と繰り返しながら、心に誓っていた。
 ″御書には、「法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり」と仰せだ。
 山本先生は何度となく沖縄に足を運び、命を削って指導してくださった。
 しかし、私たちは、ますます信心に励み、求道心を燃やすのではなく、ただ、先生のお出でを待つだけの信心になってしまっていた。
 この惰性的な生き方を、ぶち破るんだ!″
 彼は、ひときわ大きな声で言った。
 「本部に集わせていただきましょう! そして、沖縄の新しい出発をしましょう!」
 皆の目が光った。
 高見は、学会本部と連絡を取り、十月七日、離島本部総会の前に、広布第二章の支部長・婦人部長、男女青年部の代表による第一回「沖縄支部長会」の開催が決まったのだ。
 山本伸一からも、「無理はなさらないように。皆さんとお会いできることを、心から楽しみにしています」との伝言が届いた。
10  勝利島(9)
 離島本部総会に参加する沖縄の同志は、那覇に集まり、「沖縄支部長会」の参加者と合流し、朝、飛行機で東京へ向かった。
 メンバーのなかには、船で石垣島や宮古島に出て、そこから飛行機で那覇まで来て、一泊した人もいた。
 沖縄の同志は、羽田空港から五台のバスに分乗し、正午過ぎ、学会本部に到着した。
 ボストンバッグを手にしたメンバーが、学会本部の門を入ると、副会長の青田進や山道尚弥をはじめ、多くの幹部が左右に並び、大拍手で一行を歓迎した。
 「こんにちは! お疲れさまです!」
 その励ましの言葉に、疲れは吹き飛んだ。
 沖縄支部長会は、学会本部の師弟会館で開催された。
 皆、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊に、沖縄広布を誓い、厳粛に祈りを捧げた。
 婦人部長の藤矢弓枝、副会長の関久男・秋月英介があいさつに立ち、遠路、学会本部までやって来た労をねぎらい、沖縄の新しい出発を祝福した。
 そのころ山本伸一は、六月にオープンした信濃町の創価婦人会館(後の信濃文化会館)にいた。
 支部長会終了後、沖縄の同志をここに招いて、一緒に記念撮影をしようと、一足先に来て、待っていたのである。
 メンバーは、支部長会を終えると、担当の幹部から、創価婦人会館に移動するように言われた。
 本部から徒歩二、三分のところにある、茶系のタイル壁に緑の屋根瓦の瀟洒な二階建てが、その建物であった。
 館内に入ると、伸一が満面に笑みを浮かべて、姿を現した。
 「遠いところ、ようこそいらっしゃいました! お待ちしていました。
 皆さんは、沖縄の平和のために、広宣流布に立ち上がり、苦労し、苦労し抜いて、戦ってこられた。
 大使命をもった地涌の菩薩であり、広布の大功労者です。
 私は、仏を敬う思いで、迎えさせていただきます。
 それが、人間として、仏法者として当然の道です」
11  勝利島(10)
 山本伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「私は、沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。
 誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。
 そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。
 実は、そこに不幸の要因があるんです。
 仏法は、人を頼むのではなく、″自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!″という自立の哲学なんです。
 自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!
 いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。
 本格的な沖縄の広布第二章が始まったということです。発迹顕本です。
 私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです。おめでとう!
 では、記念に写真を撮りましょう。そのために来ていただいたんです」
 記念撮影は、四グループに分かれて行われた。
 伸一は、先に女性二グループと、続いて男性二グループと記念のカメラに納まった。
 撮影が終わると、彼は尋ねた。
 「皆さんは、全員、今晩の離島本部の総会には、参加されるんですね」
 「はい!」と元気な声が、はね返った。
 「私も、出席させていただきますので、また、お会いしましょう」
 歓声があがり、笑みの花園が広がった。
 伸一は、創価婦人会館を出て歩き始めた。
 本部周辺の道には、離島本部の総会に参加するメンバーが行き交っていた。彼は、会う人ごとに、声をかけ、あいさつを交わした。
 「遠いところ、ご苦労様です」「総会には伺います」「ようこそ。お名前は?」
 ――一瞬の出会いが、一言の励ましが、その人の一生の原点になることがある。
 励ましの声をかけることは、心に光を送ることだ。
12  勝利島(11)
 山本伸一は、離島本部の総会に出席する前に、離島の婦人部の代表らと懇談した。
 日本には、北海道、本州、四国、九州のほか、沖縄本島をはじめ、七千近い島が存在し、そのうち約四百の島が有人島であるといわれている。
 この語らいのなかで、彼は、離島に対する自分の思いを語っていった。
 「日本は多くの島々から成っている。したがって、国の発展や豊かさは、大都市がどれほど栄えているかで測るのではなく、離島に暮らす方々が、どれだけ恵まれた、幸せな日々を送っているかで測るべきなんです。
 政治にせよ、文化・教育にせよ、島の人びとの生活を守り、いかに豊かなものにしていくかが、極めて重要であると、私は考えています」
 戦後、日本は、大都市を中心に目覚ましい発展を遂げてきたが、その流れに大きく取り残されてきたのが、本土から隔絶した離島であった。
 その離島の開発と人びとの生活水準の向上を図るために、一九五三年(昭和二十八年)に「離島振興法」が制定、公布された。
 この法律は十年間の時限立法で、改正、延長を重ね、港湾や道路の整備、学校や診療所、電気や簡易水道の設置等が進められてきた。
 しかし、高度経済成長期に入ると、本土での労働力需要が高まり、島から働き手が失われていった。
 離島の過疎化が進み、農漁業など、生産活動も著しい低下を招き、学校や診療所を建設しても、地元が経済的に負担しきれないケースが続出した。
 港や道路、電気、水道などが整っても、島の産業の抜本的な振興がないのだ。結局、島は公共事業頼みとなる。
 政府の離島振興は、表面的な「本土並み」の生活環境を整えることばかりに目がいき、長期的な展望や、島民の立場からの視点が欠落していたのだ。
 もちろん、インフラの整備は必要不可欠である。
 同時に、その島の特色を生かし、自立するための基幹産業振興の手助けをすることこそ、政府の担う重要な役割といえよう。
13  勝利島(12)
 山本伸一は、懇談の席で、離島の婦人たちの近況に、じっくり耳を傾けた。
 多くの島の暮らしは、決して豊かとはいえない。
 島を出て、大都市に働きに出る人も後を絶たない。
 そのなかで、学会員は、人びとの幸せと島の繁栄を願い、ひたすら信心に励んできたのだ。
 伸一は、力強い声で語り始めた。
 「皆さんが、泣くような思いで広布の道を開き、どれほど苦労されてきたかを、私は、よく知っています。
 さまざまな島の方々から、たくさんのお便りもいただいています。
 また、全国各地を訪問するたびに、離島から来られた方とは、できる限りお会いして、懇談するようにしてきました。
 皆さんは、偶然、それぞれの島に暮らしているのではない。
 日蓮大聖人から、その島の広宣流布を託され、仏の使いとして、地涌の菩薩として、各島々に出現したんです。
 仏から遣わされた仏子が、負けるわけがありません。
 不幸になるわけがありません。
 ですから、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばり、強い心で、大きな心で、勇気をもって、頑張り抜いていただきたい。
 私は、離島にあって、周囲の人たちに信心を反対されながらも、着実に信頼を勝ち取り、広宣流布の道を開いてこられた方々こそが、真正の勇者であり、真実の勝利王であると思っています。
 学会のいかなる幹部よりも、強盛な信心の人であり、創価の大英雄です。
 今日の総会に出席させていただくのも、その皆さんを賞讃するためであり、それが、会長である私の務めであるからです」
 島で広宣流布の戦いを起こすのは、決して、生易しいものではない。
 島には、それぞれの風俗、習慣、伝統があり、それを人びとは、宗教を考えるうえでも尺度としてきた。
 そのなかで学会員が誕生する。
 島民は、初めて、自他共の幸福と社会建設をめざす創価学会という躍動した宗教と出合う。
 当然、それは、これまでの宗教の範疇に収まるものではない。
 それゆえ、誤解、偏見が生じる。
14  勝利島(13)
 島の人びとの心に兆した誤解や偏見は、日蓮仏法、創価学会を、島の風俗、習慣、伝統とは相いれないものとして、排除しようとする動きとなっていく。
 特に、信心を始めた人が、地位も財力もない、弱い立場であればあるほど、周囲の反発、圧力は激しく、弾圧、迫害となってエスカレートしていく。
 時には、人権を脅かす村八分や暴力事件となることもあった。
 島に逃げ場はない。
 あまりの非道な仕打ちに訴え出ようにも、駐在所もなく、警察官がいない島も少なくない。
 また、警察官はいても、島の複雑な力関係のなかでは、法律よりも、島の習わしや無言の掟の方が重く受けとめられてしまうこともある。
 そうしたなかで、同志は、島の繁栄を願って、広宣流布の旗を掲げてきたのである。
 九州北西部の本土から約二キロのところに、人口三千人ほどの島がある。この島で、一九六〇年代に迫害の嵐が吹き荒れた。
 五九年(昭和三十四年)五月、島で最初の学会員夫妻が誕生した。
 近野春好と妻のマツである。
 マツがひどい更年期障害で苦しんでいた時、長崎県佐世保の知人から仏法の話を聞き、″楽になるなら″と入会した。
 信心を始めた直後から、マツは、体にも心にも、まとわりついていたような重さが抜け、病状の好転を実感した。
 これが知人の言っていた「初信の功徳」かと思った。
 歓喜した夫妻は、教えられた通りに、弘教に励んだ。
 精神的にも不安定で、ふさぎ込んでいたマツが元気になり、はつらつと仏法を語る姿に、地域の人たちは驚き、数カ月の内に四世帯が入会した。
 翌年八月、夏季地方指導が行われ、会員世帯は大幅に拡大。当時の学会の最前線組織である「組」ができ、やがて二十二世帯に発展する。
 さらに、六一年(同三十六年)八月の夏季地方指導では、「班」が結成される。すると、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」の文のごとく、障魔の嵐が猛り始めたのである。
15  勝利島(14)
 夏季地方指導の最終日に開かれた座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や鎌を持って道端に群がり、学会員に罵声を浴びせた。
 学会員が次々と誕生していくことを快く思わぬ、地域の有力者の差し金であった。
 学会の幹部を家に連れてきたことで、家主から、家を出るように言われた学会員もいた。
 有力者たちは、さらに学会攻撃の作戦を練った。そして、それまで集落費から出していた神社への寄付金を、各戸から、直接集めることにした。
 それに難色を示した学会員は、集落に非協力的であり、秩序を破壊したとして、除け者にされたのである。
 会員のなかには、集落での一切の付き合いを断たれ、村有地の借地権を奪われた人もいた。
 島の産業は、漁業と農業で、農業のなかでも葉タバコが大きなウエートを占めていた。学会員は、その組合からも除名された。
 近野春好は、農業を営んでいたが、葉タバコ生産の組合から締め出されたために、野菜などの栽培に切り替えた。
 しかし、島では、誰も買ってくれなかった。
 やむなく、他の島に売りに行き、生活を支えた。
 また、学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。
 電報で連絡を受けた支部の男子部幹部や、九州の学会幹部が村長を訪ね、村としての対応を問いただし、事態収拾への協力を要請した。
 さらに、駐在所にも出向き、島民である学会員の人権を守るように求めた。
 それでも、集落での迫害は、いっこうに収まらず、非道な仕打ちは、子どもにも及んだ。
 学会員の家の子は、周囲の子どもたちに、「ソーカ! ソーカ!」と言われて、こづかれ、石をぶつけられることもあった。
 だが、いじめられても、親には、何も言わなかった。
 辛い思いをして頑張っている両親を、これ以上、苦しめたくなかったからだ。
 同志は負けなかった。迫害のたびに、「これで宿命の転換ができるね」と言い合い、「ばいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なか」との御金言を拝しては、決意を固め合った。
16  勝利島(15)
 九州北西部の島で起こった迫害事件に対して、学会員は法的手段も講じ、懸命に励まし合いながら、解決への努力を重ねた。
 島の同志のすばらしさは、精神面でも、生活面でも圧迫が続くなかで、一歩たりとも引かなかったことだ。
 皆、信心を始め、折伏・弘教に取り組むなかで、病や家庭不和を克服するなど、体験をつかんでいたのだ。
 ″弾圧――本望ではないか! 御書に仰せの通りではないか! 私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。
 今こそ、折伏だ!″それが、皆の心意気であった。
 日蓮大聖人の「今は謗ぜし人人も唱へ給うらん」との大確信を胸にいだいて、五キロ、六キロと離れた別の集落にも弘教に歩いた。
 やがて、学会員への村八分を問題視する声が高まり、村長、村会議長、集落の中心者らが集って話し合いがもたれた。
 そして、「一部の有力者の圧力によって、学会員が冷遇されてきたことは遺憾である」と、学会に謝罪したのだ。
 また、「共に集落の発展のために尽くしていきたい」との申し出があったのである。
 学会員への不当な圧迫が始まってから、丸三年が経過していた。島の同志の信心が、人間としての誠実さが、一切をはねのけ、見事に勝利したのである。
 長崎県には、軍艦島の通称で知られる端島など、炭鉱によって栄えた島も少なくない。
 そうした″炭鉱の島″の一つでも、弾圧事件が起こっている。
 それは、一九六二年(昭和三十七年)二月に、島に班が結成され、果敢に折伏が展開されていくなかで始まった事件であった。
 御書には、この娑婆世界は第六天の魔王の領地であるがゆえに、妙法広布の戦いを起こせば、仏の軍勢を討とうと、障魔が競ってくると仰せだ。
 広宣流布の前進は、必ず迫害、弾圧の嵐を呼び起こす。
17  勝利島(16)
 その”炭鉱の島”で一九六二年(昭和三十七年)の六月、炭塵爆発により、六人が死亡、九人が負傷するという事故が起こった。
 この会社では、日々、ノルマを達成するまで、労働時間を延長させていたことなどから、作業員の会社への不満がたまっていた。
 そうしたなかで事故が起こると、「第二組合がつくられる」という話が流れ始めた。
 労働組合はあったが、労働者側よりも会社側に立っていたため、そんな噂が広がったのだ。
 会社側にも作業員への不信感があった。
 採用時に渡す支度金を受け取ると、いなくなってしまう人や、仕事を早退してパチンコにふけったり、酒を飲んで欠勤したりする人もいたからだ。
 欠勤や早退をする時、学会に反発している人たちは、その理由を、しばしば学会のせいにして届けを出した。
 一緒にテレビを見ていただけなのに、「非番の日に、学会員が折伏に来て、十分に休息できなかったため」「夜遅くまで学会の話を聞かされていたので」などと書くのだ。
 炭鉱の住宅は、壁一枚で仕切られた長屋であり、声は隣家に筒抜けだった。
 座談会を開くと、それも利用され、欠勤届に「学会の座談会がうるさくて寝不足」と書かれた。
 学会員は、細心の注意を払って、座談会を開催してきたつもりであった。
 会社側は、学会員を目の敵にするようになった。
 「座談会は、会社の了解を得てやれ」と圧力もかけられた。
 「座談会を開くなら、”炭住”から出ていけ」と言われた人もいた。
 やむなく、周囲に迷惑をかけないようにと、野外で座談会を開くようにもした。
 学会に不当な圧力を加えていた会社側は、第二組合結成の噂を耳にすると、”主導しているのは学会だ。会社への攻撃を開始しようとしているのだ”と思い込み、憎悪を剥き出しにした。
 全くの誤解によるものであった。
 会社側は、学会への対応に後ろめたさがあったことから、疑心暗鬼を募らせていたのだ。
 おのれの影に怯えていたのである。
18  勝利島(17)
 学会が、第二組合をつくろうとしていると誤解した会社側は、学会の勢力を削がなくてはならないと考えた。
 そして、会員宅を訪問しては圧力をかけ、御本尊を取り上げて回ったのである。
 それを知った、この″炭鉱の島″の男子部員たちは立ち上がった。
 男子部班長の田山広介をはじめ、三、四人の代表が、会社の労務担当者らに面会を求め、抗議した。
 「『信教の自由』は、等しく認められた国民の権利ではないですか! 信仰の対象である御本尊を取り上げる権利は、会社といえどもないはずです。
 これは『信教の自由』の侵害です。弾圧ですよ。
 直ちに取り上げた御本尊を、お返しいただきたい!」
 田山の言葉に、労務担当の責任者は、傲然と言い放った。
 「御本尊というのは、仏壇に飾ってあった巻物のことだね。
 私たちは、あくまでも本人の同意を得て、預かったんだよ。
 『信教の自由』というが、『もう、学会はいやだ』という人が、学会をやめるのも、『信教の自由』ではないかね」
 「それでは伺いますが、そもそも、会社が個人の信仰に、なぜ干渉するんですか。
 今では、採用に際しても、創価学会員だと雇わないというではありませんか!
 これは、宗教による差別です。
 私たちは、基本的人権を守るために、断固、戦います」
 「会社が干渉したというが、それは、学会員が、会社に迷惑をかけたり、不利益をもたらしたりする懸念があるからだよ」
 「なんですって。どこに、そんな証拠があるんです。
 学会では、仕事について、どんな指導をしているか、ご存じなんですか!」
 田山は、「信心は一人前、仕事は三人前」というのが学会の指導であり、山本会長も、常々「職場の第一人者たれ」と訴えていることを、懸命に語っていった。
 話し合うなかで青年たちは、会社側の理不尽な対応の背景に、学会への偏見と誤解があることを知った。
 抗議はおのずから折伏となった。
19  勝利島(18)
 田山広介は、炭鉱会社の労務担当者たちを前に、「学会は、いかなる宗教なのか」「何をめざしているのか」などについて、諄々と話した。
 労務担当者たちの態度も表情も、次第に変わっていくのがわかった。
 頷きながら、話を聴いている人もいた。
 労務担当の責任者が口を開いた。
 「率直に聞くが、学会は第二組合をつくって、会社に対抗するつもりではないのかね」
 「そんなつもりは全くありません。ただし、会社が法律を無視したり、人権を脅かすようなことがあれば、徹底して戦います」
 そして田山は、会社側が御本尊を取り上げた件について問いただした。
 その数は十五世帯で、会員の氏名も明らかにされた。
 また、御本尊は、「保管してある」とのことであった。
 当然のことながら、個人が受持する御本尊を持ち去る権利など、会社にはない。
 御本尊は学会員に返されることになった。
 この話し合いによって、会社側は、学会員には第二組合を結成する意思などなく、学会の指導は、社会性を重んじていることを理解した。
 炭鉱住宅での学会活動も自由にできるようになり、一段と弘教も進んだ。
 マハトマ・ガンジーは叫ぶ。
 「人は自らの信念のために声を発し、立ち上がらなければならない」(注)
 正義を、人間の権利を守るために、勇気を奮い起こして、声をあげるのだ。
 悪の跳梁を許してきたのは、常に沈黙である。
 一九七二年(昭和四十七年)、この島の炭鉱は閉山となる。
 多くの人が職を求め、島を後にした。
 それでも、五十世帯ほどの学会員が島に残ることになった。
 島は、クルマエビの養殖や観光などを産業の柱としていくが、学会員は、島の復興に大きな力を発揮していったのである。
 ここに挙げた九州の二つの島は、本土に近く、隔絶された孤島ではない。それでも島のなかで、学会員への容赦ない迫害があったのである。
 しかし、同志は、忍耐強く、広宣流布の開拓の鍬を振るい続けてきたのだ。
20  勝利島(19)
 北海道の札幌から鉄路二百十五キロ、北海道北部の西海岸にある羽幌に出る。
 かつては炭鉱の町として栄えたところである。
 さらに、そこから西へ海路約三十キロ、日本海に浮かぶ周囲約十二キロの島が、「オロロンの島」として知られる天売島である。
 オロロンとは、オロロン鳥(海烏)のことだ。島への船は、十月から四月の間、一日一往復となる。
 天売島では、毎年三月、オロロン鳥をはじめ、何種類もの海鳥が繁殖のために飛来する。
 四月から八月の繁殖期には、おびただしい数の海鳥が、島の岩棚を埋め尽くす。
 果てしない群青の海。岩に躍る純白の波しぶき。
 空を覆うかのように羽ばたく鳥たちの群れ……。
 その景観は、雄大で美しい。大自然が描いた一幅の名画である。
 港で船を下り、丘の上を見上げると、白壁の二階建ての建物がそびえ立つ。
 学会員の佐田太一が経営するホテルだ。
 客室数三十余室の天売島最大の宿泊施設である。
 島の住人は、約二百六十世帯八百人余(一九七八年現在)。
 その島に、当時、学会の大ブロック(後の地区)があり、六十九歳の佐田が大ブロック長を務めていた。
 彼の人生は、波瀾万丈であった。
 佐田の祖父は現在の青森県出身で、明治初期に天売島に移り住み、開拓を始めた先駆者の一人であった。
 この祖父は漁業で成功し、彼を頼って、青森や秋田から次々と人が集まり、島に住みついていった。
 佐田の家は、祖父も、父も網元をやり、島の実力者として名を馳せてきた。
 ニシン漁の最盛期を迎えたころには、島は漁の根拠地の一つとして栄え、人口が二千人近くにまで膨れ上がったこともある。
 海は豊漁を運んでくる。
 しかし、激しく過酷である。荒海は牙を牙を剥き、時として命をものみ込む。
 豊漁か、命を落とすのか──明日のことはわからない。
 人間の力の及ばぬ大自然を相手に生きるなかで、人の非力を実感する機会も多い。
 それだけに、強い信仰心をもつ人も少なくなかった。
21  勝利島(20)
 網元であった佐田太一の父もまた、信心深い人であった。
 竜神堂を建てたり、地蔵を造らせたりした。
 また、漁師たちにも、何でもいいから信仰をもつように勧めた。
 それが、最高の善行であると信じていたのだ。
 佐田自身も、その父の影響を強く受けて育った。
 「仏教青年団」なるものを組織して、初代の団長になった。
 島の青年を連れ出しては、座禅や托鉢の修行にも励んだ。
 ところが、佐田家は次第に傾き始め、一九一九年(大正八年)に倒産する。
 跡継ぎの彼は、再起を図ろうと、漁船を率いて、千島の最北端やカムャッカ沖まで漁に出かけていった。
 満州(現在の中国東北部)の黒竜江での川魚漁にも従事した。
 しかし、時代の激流に翻弄されるばかりで、佐田家に逆転のチャンスは訪れなかった。
 三九年(昭和十四年)、父親は他界する。
 父は、倒産したとはいえ、三万坪の土地を残してくれた。
 佐田は、戦後も漁業を続けたが、思ったほどの漁獲はなく、そこに、海難事故が重なった。
 気がつけば、莫大な借金を抱えていた。
 父が残してくれた土地のうち、二万坪は売れ、返済にあてたが、大した金額にはならなかった。残りの土地は、買い手もつかない。
 債権者たちは、連日、借金返済の催促に押しかけてくる。
 返済の目途は全くない。借金は雪ダルマ式に増えていく。途方に暮れた。
 夜逃げ――それしかないと思った。
 北海道の留萌市に行き、人目を忍ぶようにして暮らし始めた。
 そこで、十年来、疎遠だった友人に出くわした。
 佐田が、島を逃げ出してきたことを漏らすと、宗教の話をし始めた。
 「佐田さんも、一生懸命に努力し、働いてきたはずだ。
 しかし、漁はうまくいかず、事故にも遭う。
 そして、こうして苦しんでいる。それが宿命なんですよ。
 でも、その宿命を転換できる宗教がある」
 宿命に勝つか、負けるか――人間の幸・不幸のカギは、結局、そこにかかっている。
22  勝利島(21)
 佐田太一は、疑問をいだき続けてきた。
 「自分は、青年時代から、人一倍、強い信仰心をもち、いろいろな信心をしてきた。
 自分ほど真面目に信仰に励んできた者はいないとさえ自負している。
 ところが、災厄が次々と襲い、食うや食わずの生活を送らねばならない。いったい、どうしてなのか!」
 どん底の生活のなかで、彼は「神も仏もあるものか!」と思うようになっていた。
 友人は、佐田の苦しい胸のうちを察するかのように、励ましの言葉をかけながら、宗教の教えに、高低浅深があることを語った。
 「人生は、何を信じるかが大事なんです。
 たとえば、去年の暦を信じて生活したら、どうなるか──すべてが狂い、社会生活は営めなくなる。
 また、天売島を歩くのに、隣の焼尻島の地図を見て歩いたら、どうなるか。
 正しい目的地には行くことができない。
 宗教というのは、幸せになる根本の道を描いた地図みたいなものです。
 正しい宗教を信じて、進んでいけば、必ず幸せになる。
 それが、日蓮大聖人の仏法であり、その教え通りに実践しているのが創価学会なんです。
 佐田さんは、これまで、別の島の地図を見ながら、歩いて来たようなものだ。
 そして、迷路に入り込んでしまった。
 だから、せっかく努力しても、努力しても、おかしな結果になってしまい、抜け出せずにいる。
 それが、宿命ということなのかもしれません。
 しかし、創価学会の信心は、間違いない。
 その宿命を転換することができる信心なんです。
 事実、私もそれを実感しています。
 佐田さん。人生は、まだまだ、これからですよ。頑張って、必ず勝ちましょうよ」
 佐田は、この時、四十六歳であった。
 友人と話しているうちに、希望が湧いてきた。
 よくわからないこともあったが、彼を信じて、学会の信心にかけてみようと思った。
 仏法対話とは、希望を引き出し、勇気を引き出す、生命の触発作業である。
 一九五五年(昭和三十年)五月、彼は、晴れて創価学会に入会した。
23  勝利島(22)
 佐田太一は、妻と共に信心を始めた。
 佐田も、妻も、入会すると、無我夢中で題目を唱えた。苦境を脱しようと必死であった。
 学会の指導通りに、折伏・弘教にも駆け回った。
 すると、妻が苦しんできた心臓弁膜症による胸部の痛みや呼吸困難の症状が、次第に緩和されていったのである。
 二人は、”これが、功徳ということか!”と思った。
 御本尊に心から感謝した。
 入会五カ月後、佐田は、信心への強い確信を胸に、生まれ故郷の天売島に戻る決意をした。
 彼には、相変わらず多額の借金があり、取り巻く環境は、何も変わっていなかった。
 ただし、心は、大きく変わっていた。
 借金苦に堪えかねて、島を出た時とは異なり、胸には、”俺が、天売島の広宣流布をするのだ! 島のみんなを幸せにするのだ!”という、誓いの炎が燃え盛っていた。
 天売島で、佐田は再び漁師を始めた。
 そして、島中を弘教に歩いた。
 島民は、皆、佐田のことをよく知っている。
 代々の網元だったが、借金苦で”行方をくらました男”としてである。
 折伏をすると、あざ笑われ、塩を撒かれもした。
 人びとは、陰で囁きあった。
 「佐田のオヤジは、遂に頭がおかしくなった。
 今度は、わけのわからぬ変な宗教に取り憑かれてしまった。
 惨めなものだ……」
 狭い島のなかである。自分への批判は、すぐに耳に入ってくる。
 悔しかった。地団駄を踏む思いであった。
 島には、相談する幹部も、同志もいない。
 歯を食いしばって耐えた。
 彼は、懸命に唱題しながら、考えた。
 ”まだ、借金も返せぬ貧乏な状態では、何を言おうが、誰も話を聞かなくて当然だ。
 実証だ。実証を示す以外にない。
 御本尊様! どうか、島の広宣流布をしていくために、経済革命させてください”
 実証なき言説は空しい。日蓮大聖人は、「道理証文よりも現証にはすぎず」と、断固として仰せになっている。
24  勝利島(23)
 佐田太一は、″島の広宣流布のためには、まず生活に勝ち、実証を示すことだ″と結論し、祈りに祈った。
 唱題は、生命力、智慧の源泉である。
 ″漁師のほかにも商売ができないものか″と思案を重ね、住まいの一部を改造して、民宿を始めることにした。
 民宿といっても、布団は三組しかない。それでも、五月から九月の間、客は、よく来てくれた。
 天売島は冬季に入ると、島を訪れる人は、ほとんどいなくなる。
 海は荒れ狂い、空は鉛色の雲に覆われ、吹雪は咆哮をあげて襲いかかる。
 船も一日一往復となり、天候によっては何日も欠航が続く。
 佐田は、″今なら、じっくり対話ができる″と思った。
 吹雪のなかを弘教に歩いた。
 折伏をするために字を覚え、『大白蓮華』「聖教新聞」を読み、御書を学んだ。
 島に戻って二年後には、八世帯の弘教が実った。
 民宿も辛抱強く続け、毎年、少しずつ改修を重ね、設備も整えていった。
 一九六一年(昭和三十六年)秋、天売島が脚光を浴びることになった。
 ここを舞台にしたテレビドラマ「オロロンの島」(北海道放送制作)が全国放映されたのである。
 ドラマの主役は、島に住む子どもの姉弟である。
 その弟役には、佐田の息子・一広が起用された。
 この放映によって天売島は、風光明媚なオロロン鳥の繁殖地として、一躍、名を馳せ、多くの観光客が訪れるようになる。
 民宿の業績も順調に伸びた。
 しかし、島には水が少ない。
 六二年(同三十七年)、佐田太一は、客に不自由な思いをさせたくないと思い、裏山の沢から水を引くため、ホースを取り付けに行った。
 三十メートルほどの崖に登って、作業を始めた。
 その刹那、体のバランスを崩し、真っ逆さまに転落した。意識を失った。
 本土の病院へ緊急搬送された。検査の結果は、頭蓋骨陥没である。頸椎もずれていた。
 辛うじて命は取り留めたが、医師は、「命に及ぶ危険があるので手術はできない」と告げた。
25  勝利島(24)
 佐田太一を診察した医師は、家族に、手の施しようがないので退院するように勧めた。
 しかも、「このまま、寝たきりになってしまうこともあります」と言うのだ。
 佐田は、自分に言い聞かせた。
 ”俺が倒れたら、誰が、天売の広宣流布をやるんだ! 必ず全快してみせる! これからが、本当の勝負だ!”
 家に戻った彼は、首を固定するための装具を着けて、じっと寝ていなければならなかった。
 全身にしびれがある。呼吸をすることさえ、辛く感じられた。
 多くの人たちは、”これで佐田も終わりだ”と思ったようだ。
 彼の耳にも、そんな話が聞こえてきた。祈った。必死に唱題した。
 ”島の広布のために生き抜きたい”という執念が佐田の生命を支えた。
 二年がたち、三年がたった。どうにか歩けるまでに体は回復した。
 広宣流布の使命に生きる人は、地涌の菩薩である。
 ゆえに、その人の全身に大生命力が満ちあふれるのだ。
 もう家に、じっとしてはいられなかった。
 皆のために自分が「聖教新聞」を配ると言いだした。
 首にコルセットをはめたまま、よたよたと歩き、家々を回った。
 さらに、折伏を開始していった。
 コルセット姿の佐田を見て、「まるで宇宙人だ」と噂し合う人もいた。
 彼は、笑い飛ばしながら、こう言った。
 「私は、一命を取り留めた。これが、既に功徳なんだ。
 でも、これからますます元気になるから、今の姿をよく見ておきなさい」
 佐田は、試練に遭うたびに、ますます闘魂を燃え上がらせていったのである。
 そして、自ら宣言した通り、医師もさじを投げた怪我を、完全に克服したのだ。
 この事故から、六年後の一九六八年(昭和四十三年)のことであった。
 ある日、岩海苔を採るために、舟を出し、崖の下に着けた。岩に上がって作業を始めた。
 その時、突然、崖の上から落下してきた、こぶし大の石が、彼の頭を直撃した。
26  勝利島(25)
 落下する石の直撃を受けた佐田太一は意識不明になり、この時も本土の病院へ緊急搬送された。
 頭蓋骨にたくさんのひびが入っていた。
 ところが、不思議なことに、致命傷にはいたらなかった。
 ″信心をしているのに、なぜ、またしても、こんな目に遭うんだ?″という疑問が、頭をよぎった。
 しかし、すぐに「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)という言葉を思い起こした。
 信心によって過去世の重業を転じて、現世で軽くその報いを受けることをいう。
 ″頭の怪我を繰り返すのは、過去世からの悪業にちがいない。
 本来ならば命を落とすところ、信心をしてきたおかげで二度も救われた。命拾いをしたのは、俺には広宣流布をしていく使命があるからだ!″
 御本尊への感謝と歓喜が胸にあふれた。
 彼は、一カ月ほどで、さっさと退院し、ほどなく、以前にも増して元気になった。
 佐田は、民宿の経営に力を注ぎ、宿泊客は、年々、増加の一途をたどった。
 彼が、一つ、また一つと功徳の体験を積むにつれて、信心を始める人も増えていった。
 そして、一九七二年(昭和四十七年)には、民宿を大改築し、客室数三十余室の″天売一″のホテルを誕生させたのである。
 また、佐田に激励された人たちのなかから、島の広宣流布を担う人材も、続々と育っていった。
 天売支部の初代支部長を務め、後年、郷土資料館「天売ふる里館」を開く森崎光三も、その一人である。
 天売島の同志の様子は、山本伸一にも報告されていた。
 彼は、離島本部の幹部に語った。
 「島では、実証を示す以外に、広宣流布の道を開くことはできません。
 学会員が現実にどうなったかがすべてです。
 だから、功徳の体験が大事になる。
 そのうえで、最も重要なのが、学会員が、どれだけ島のため、地域のために尽くし、貢献し、人間として信頼を勝ち取ることができるかです。
 それこそが、広宣流布を総仕上げする決定打です」
27  勝利島(26)
 人の住む島といっても、その規模は、さまざまである。
 佐渡島のように、面積も八百五十平方キロメートルを超え、二万数千世帯もの人が住む島もあれば、面積も小さく、数世帯、数十世帯の島もある。
 愛媛県の宇和島港から西方約二十キロの海上に浮かぶ嘉島は、周囲三キロほどの小さな島である。
 この一九七八年(昭和五十三年)当時、嘉島の人口は七十四世帯二百二十五人であった。
 島には、学校は小学校しかなく、中学校から島を出て寄宿生活になる。
 その島に、二十一世帯の学会員が誕生していたのである。
 地域世帯の三割近くが学会員ということになる。広宣流布が最も進んでいる地域の一つといえよう。
 嘉島広布を支えてきた住民の一人が、大ブロック担当員(後の地区婦人部長)の浜畑マツエであった。
 彼女は六四年(同三十九年)、闘病を契機に、島の学会員の紹介で信心を始めた。
 小さな島では、皆、仲間である。
 ところが、弘教を開始すると、人びとの態度は、急激に変わっていった。
 島の旧習は深かった。誰かが病気で手術をするなどという時には、″お籠もり″といって、社寺に集まって皆で祈ることも行われていた。
 人びとは、入会した浜畑が弘教に励む姿を見て、島の秩序を破壊しているかのように感じたようだ。
 あいさつを返してくれない人が増えた。なかには、ひそかに、「すまんのぉ。
 あんたと話しおったら、あんたらと一緒やと思われるけんのぉ」と告げる人もいた。
 また、仏法の話を聞いて納得はしても、入会には踏み切れず、こう言うのだ。
 「いい教えだと思うけど、ここにおるうちは、信心するわけにはいかんけんのぉ。ここから出たら、信心してもええが」
 島が小さければ小さいほど、人間関係は深く、強い。
 人びとは、すべての面で助け合って生きねばならない。
 そのなかで学会理解を促すには、日々の生活のなかで、信頼を勝ち取ることが必須条件となる。
28  勝利島(24)
 佐田太一を診察した医師は、家族に、手の施しようがないので退院するように勧めた。
 しかも、「このまま、寝たきりになってしまうこともあります」と言うのだ。
 佐田は、自分に言い聞かせた。
 ”俺が倒れたら、誰が、天売の広宣流布をやるんだ! 必ず全快してみせる! これからが、本当の勝負だ!”
 家に戻った彼は、首を固定するための装具を着けて、じっと寝ていなければならなかった。
 全身にしびれがある。呼吸をすることさえ、辛く感じられた。
 多くの人たちは、”これで佐田も終わりだ”と思ったようだ。
 彼の耳にも、そんな話が聞こえてきた。祈った。必死に唱題した。
 ”島の広布のために生き抜きたい”という執念が佐田の生命を支えた。
 二年がたち、三年がたった。どうにか歩けるまでに体は回復した。
 広宣流布の使命に生きる人は、地涌の菩薩である。
 ゆえに、その人の全身に大生命力が満ちあふれるのだ。
 もう家に、じっとしてはいられなかった。
 皆のために自分が「聖教新聞」を配ると言いだした。
 首にコルセットをはめたまま、よたよたと歩き、家々を回った。
 さらに、折伏を開始していった。
 コルセット姿の佐田を見て、「まるで宇宙人だ」と噂し合う人もいた。
 彼は、笑い飛ばしながら、こう言った。
 「私は、一命を取り留めた。これが、既に功徳なんだ。
 でも、これからますます元気になるから、今の姿をよく見ておきなさい」
 佐田は、試練に遭うたびに、ますます闘魂を燃え上がらせていったのである。
 そして、自ら宣言した通り、医師もさじを投げた怪我を、完全に克服したのだ。
 この事故から、六年後の一九六八年(昭和四十三年)のことであった。
 ある日、岩海苔を採るために、舟を出し、崖の下に着けた。岩に上がって作業を始めた。
 その時、突然、崖の上から落下してきた、こぶし大の石が、彼の頭を直撃した。
29  勝利島(25)
 落下する石の直撃を受けた佐田太一は意識不明になり、この時も本土の病院へ緊急搬送された。
 頭蓋骨にたくさんのひびが入っていた。
 ところが、不思議なことに、致命傷にはいたらなかった。
 ″信心をしているのに、なぜ、またしても、こんな目に遭うんだ?″という疑問が、頭をよぎった。
 しかし、すぐに「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)という言葉を思い起こした。
 信心によって過去世の重業を転じて、現世で軽くその報いを受けることをいう。
 ″頭の怪我を繰り返すのは、過去世からの悪業にちがいない。
 本来ならば命を落とすところ、信心をしてきたおかげで二度も救われた。命拾いをしたのは、俺には広宣流布をしていく使命があるからだ!″
 御本尊への感謝と歓喜が胸にあふれた。
 彼は、一カ月ほどで、さっさと退院し、ほどなく、以前にも増して元気になった。
 佐田は、民宿の経営に力を注ぎ、宿泊客は、年々、増加の一途をたどった。
 彼が、一つ、また一つと功徳の体験を積むにつれて、信心を始める人も増えていった。
 そして、一九七二年(昭和四十七年)には、民宿を大改築し、客室数三十余室の″天売一″のホテルを誕生させたのである。
 また、佐田に激励された人たちのなかから、島の広宣流布を担う人材も、続々と育っていった。
 天売支部の初代支部長を務め、後年、郷土資料館「天売ふる里館」を開く森崎光三も、その一人である。
 天売島の同志の様子は、山本伸一にも報告されていた。
 彼は、離島本部の幹部に語った。
 「島では、実証を示す以外に、広宣流布の道を開くことはできません。
 学会員が現実にどうなったかがすべてです。
 だから、功徳の体験が大事になる。
 そのうえで、最も重要なのが、学会員が、どれだけ島のため、地域のために尽くし、貢献し、人間として信頼を勝ち取ることができるかです。
 それこそが、広宣流布を総仕上げする決定打です」
30  勝利島(26)
 人の住む島といっても、その規模は、さまざまである。
 佐渡島のように、面積も八百五十平方キロメートルを超え、二万数千世帯もの人が住む島もあれば、面積も小さく、数世帯、数十世帯の島もある。
 愛媛県の宇和島港から西方約二十キロの海上に浮かぶ嘉島は、周囲三キロほどの小さな島である。
 この一九七八年(昭和五十三年)当時、嘉島の人口は七十四世帯二百二十五人であった。
 島には、学校は小学校しかなく、中学校から島を出て寄宿生活になる。
 その島に、二十一世帯の学会員が誕生していたのである。
 地域世帯の三割近くが学会員ということになる。広宣流布が最も進んでいる地域の一つといえよう。
 嘉島広布を支えてきた住民の一人が、大ブロック担当員(後の地区婦人部長)の浜畑マツエであった。
 彼女は六四年(同三十九年)、闘病を契機に、島の学会員の紹介で信心を始めた。
 小さな島では、皆、仲間である。
 ところが、弘教を開始すると、人びとの態度は、急激に変わっていった。
 島の旧習は深かった。誰かが病気で手術をするなどという時には、″お籠もり″といって、社寺に集まって皆で祈ることも行われていた。
 人びとは、入会した浜畑が弘教に励む姿を見て、島の秩序を破壊しているかのように感じたようだ。
 あいさつを返してくれない人が増えた。なかには、ひそかに、「すまんのぉ。
 あんたと話しおったら、あんたらと一緒やと思われるけんのぉ」と告げる人もいた。
 また、仏法の話を聞いて納得はしても、入会には踏み切れず、こう言うのだ。
 「いい教えだと思うけど、ここにおるうちは、信心するわけにはいかんけんのぉ。ここから出たら、信心してもええが」
 島が小さければ小さいほど、人間関係は深く、強い。
 人びとは、すべての面で助け合って生きねばならない。
 そのなかで学会理解を促すには、日々の生活のなかで、信頼を勝ち取ることが必須条件となる。
31  勝利島(27)
 浜畑マツエは、島で推されて、掃除、洗濯、食事等の世話をする家庭奉仕員として働いていた。
 彼女の心配り、仕事への熱心さは、次第に高く評価されていった。
 やがて、″浜畑さんのやっている宗教なら″と、信心する人が増えていった。
 彼女の周りには、いつも談笑の輪が広がった。
 大ブロック担当員である浜畑の担当範囲には、隣の戸島、日振島も含まれていた。
 このうち日振島に行く船は一日一便で、嘉島発午後二時、日振島着同四時半。帰りの船が出るのは翌日である。
 船はよく揺れる。
 年末、天候の悪化で、船が一週間ほど、欠航になったこともあった。
 大きな会合は、本土の宇和島で行われた。
 船便の関係で、夜の会合に出席するにも、午前中に島を発たなければならない。
 また、会合が終わると、戻りの船はなく、翌日、帰ることになる。
 それだけに彼女は、せっかく宇和島に来たのだから、すべてを吸収して帰ろうと、求道心を燃え上がらせた。
 小さな島では、一人の人の影響が極めて大きい。
 一人の決意、姿、振る舞いが、広宣流布を決定づけていく。
 そして、一つの困難の壁を破れば、一挙に学会理解が進むこともある。
 浜畑の存在は、島の広布の一大推進力となっていったのである。
 わが地域の広宣流布は、わが手で成し遂げるしかない。
 それが、自分の使命である――そう自覚した同志が、次々と誕生したことによって、離島広布は加速度的に進んできたのだ。
 これは、いかなる地域にあっても、永遠不変の原理といってよい。
 また、嘉島には、本土の宇和島からも、よく幹部が激励に通っている。
 使命の自覚といっても、そこには、同志の励ましや指導といった触発が不可欠である。
 種を蒔いても、放っておいたのでは、鳥に食べられたり、朽ち果てたりしていく。
 丹精を込め、こまやかな激励の手を、徹底して差し伸べていくなかで、種は苗となり、一人立つ真正の勇者が育っていくのだ。
32  勝利島(28)
 離島本部の総会には、鹿児島県のトカラ列島からも、メンバーが参加することになっていた。
 トカラ列島は、鹿児島港から約二百キロ南の海上に連なる火山列島である。
 口之島、中之島など、屋久島と奄美大島の間に位置する十二島から成り、これらの島々で鹿児島郡十島村が構成されていた。
 学会では、この十島村と、薩摩半島南南西四十キロにある竹島、硫黄島、黒島等から成る三島村で十島地区を結成。
 一九六四年(昭和三十九年)三月、石切広武が地区部長の任命を受けた。
 以来十四年、彼は鹿児島市内に居住しながら、これらの島々の同志の激励に通い続けてきたのである。
 石切の入会は、五六年(同三十一年)十月、四十一歳の時のことである。
 鹿児島で生まれ育った彼は、水産会社やアイスクリーム製造業などを手がけたが失敗。
 多額の借金を抱えていた時、知人から学会の話を聞いた。
 神秘主義的な教えではなく、生命の原因と結果の法則を説く宗教であることに共感し、信心を始めた。
 入会後、学会活動に意欲的に取り組み、十世帯、二十世帯と仏法対話を実らせていった。
 依然として経済苦は続いていたが、入会の翌年、弘教のため、大阪を訪れた。
 その折、大阪に来ていた青年部の室長の山本伸一と会って、名刺を交換した。
 この年の七月、参議院大阪地方区補欠選挙で支援活動の最高責任者を務めた伸一が、選挙違反という無実の罪で不当逮捕されたことを知った。
 そして、釈放された伸一から葉書が届いたのだ。
 そこには、何があっても決して動揺することなく、広宣流布の使命に生き抜き、悔いなき一生を送るようにとの、烈々たる気迫の言葉が綴られていた。
 石切は感動した。
 ”ご自身が最も大変ななかで、たった一度しか会ったことのない、事業にも失敗した敗残兵のような男のことを心配し、励ましてくださる。
 これが、これが学会の心なのか!”
33  勝利島(29)
 山本伸一から石切広武に届いた葉書には、「上野殿御返事」の一節が認められていた。
 「或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・つばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たい退せず信ずるなり
 石切は、″何があろうが、一喜一憂することなく、黙々と信心に励もう。断じて水の信心を貫いていこう!″と心に誓った。
 やがて彼は、苦境を脱し、食品会社を起こして、全国に販路を広げ、借金も返済し、見事に、信心の実証を示していくことになる。
 一九五八年(昭和三十三年)八月、第二代会長・戸田城聖亡きあと、総務として学会の一切を支えていた伸一が、鹿児島を訪問する。
 石切は、信心に励み、仕事の状況が大きく好転したことを、胸を張って報告した。
 その口調には、必死に生活苦と戦っている健気な同志を、どこか下に見ているかのような響きがあった。
 伸一は、話を聞き終えると、石切の目を見すえ、厳しい声で言った。
 「弘教に励み、事業がうまくいった――それは、ひとえに御本尊の功徳であり、信心の力です。しかし、もしも、慢心を起こし、信心が蝕まれてゆくならば、またすべてが行き詰まってしまう。したがって、自身の心に巣食う傲慢さを倒すことです。
 題目を唱え、折伏をすれば、当然、功徳を受け、経済苦も乗り越えられます。しかし、一生成仏という、絶対的幸福境涯を確立するには、弛まずに、信心を貫き通していかなくてはならない。信心の要諦は持続です。
 ところが、傲慢さが頭をもたげると、信心が破られてしまう。だから大聖人は、『すべからく汝仏にならんと思はば慢のはたほこたをし忿りの杖をすててひとえに一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり』と仰せになっているんです」
34  勝利島(30)
 「つまり、成仏したいと思うなら、ひたすら慢心の幢鉾を倒し、瞋りの杖を捨てて、一仏乗である南無妙法蓮華経を信じていくべきであると言われている。そして、名聞名利は、今生の飾りに過ぎず、我を張り、偏見に執着する心は、後生の成仏の足かせになってしまうと、指摘されているんです。
 私は、たくさんの人を見てきましたが、退転していった人の多くが傲慢でした。慢心があれば、自己中心になり、皆と団結していくことができず、結局は広宣流布の組織を破壊する働きとなる。あなたには、信心の勝利者になってほしいので、あえて言っておきます」
 石切は、自分の本質を、鋭く見抜かれた思いがした。額には、冷や汗が滲んでいた。
 ”よし、断じて慢心を打ち砕こう! 生涯、広宣流布を陰で支え抜く男になろう!”
 一九六三年(昭和三十八年)、彼は、「聖教新聞」の取次所(後の販売店)を営むことになった。
 広宣流布のために、学会のために尽くしたいとの思いから、決断したのである。
 その配達の範囲に、三島村や十島村も入っていた。
 当時、「聖教新聞」は、週三回刊であった。島の購読者には、各戸宛てに郵送するのである。
 翌年の三月、彼は、この十島村と三島村を擁する地区の地区部長に就任した。
 リーダーの活動の眼目は、一人ひとりと会うことだ。それが一切の基本である。
 十島村のメンバーを家庭訪問するには、奄美大島の名瀬に行く船に乗り、口之島、中之島、平島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島と南下していく。
 船は、月に四往復しかない。十島村は南北百六十キロに島々が点在し、その列島の、あの島に三世帯、この島に五世帯といる同志を励ますのだ。
 毎月一度は、十島村、三島村を回った。海が荒れれば、船は欠航する。
 家を出れば、いつ帰れるかわからない。
 自宅で眠れるのは、月に十日足らずということもあった。
 石切は、島の同志のために尽くし抜く覚悟であった。
35  勝利島(31)
 各島々を回る石切広武を、家族は力を合わせ、必死になって支えた。
 島の人びとの暮らしも、学会活動も、本土の都市にいたのでは想像もできない大変さがあった。
 石切が地区部長になったころ、まだ港が整備されていない島が多く、沖で櫓漕ぎの艀に乗り移って、島に向かわなければならなかった。
 頭から足まで、びしょ濡れになる。
 船から荷を降ろして運ぶには、島に艀を操れる人がいなくてはならない。たとえば、十島村の臥蛇島では、島民が数世帯に減少し、その作業をできる人がいなくなってしまったことから、一九七〇年(昭和四十五年)に全住民が島を離れ、無人島となっている。
 トカラ列島の北の玄関口にあたる口之島で二十四時間送電が実現したのは、七八年(同五十三年)七月からである。
 それ以前は、島の自家発電所による給電であり、時間制限があった。また、供給が不安定で、座談会の最中に停電することもあった。
 ある時、石切は皆に学会の映画を見せたいと思い、映写機を担いで学会員宅を訪問。スイッチを入れると、映写機の電球が切れた。
 予備の電球も切れてしまい、上映できなかった。
 自家発電のため、電圧が本土と違っていたのだ。
 次回からは変圧器持参となった。
 島内を回るには、二時間、三時間と、ひたすら歩くしかない。
 真っ暗な夜道を歩いていて、側溝に落ちたこともある。
 石切のバッグには、幾つもの即席麺が入っていた。
 自分の食事のことで、島の同志に迷惑をかけるわけにはいかなかったからだ。
 海が荒れ、船が欠航すれば、何日も島で待たなければならない。
 しかし、その間、一人ひとりと、じっくりと対話ができた。
 島では、一人が本気になれば、広宣流布は大きく開かれるが、一人の退転や離反で、組織が壊滅状態に陥ってしまうこともある。
 ”不撓不屈の決意に立つ、広布の闘士を育てよう。
 それには、俺が不撓不屈の人になることだ。
 師子となってこそ、師子を育てることができる”――彼は自分に言い聞かせた。
36  勝利島(32)
 十島村も三島村も、毎年、台風の通り道となる。
 石切広武は、地区部長に就任した時から、台風の被災が少なくなるように、島の一人ひとりが幸せになるように、島の広宣流布が進むようにと、懸命に祈り続けてきた。
 当時、十島、三島の両村の主な産業は、農業と漁業である。
 島での仕事は限られている。
 若い人の大多数は、中学校を出ると島を離れていく。
 都会生活への強い憧れもある。
 本土に行ったまま、戻らぬ人も多い。
 人口は、減少の一途をたどっていた。
 そのなかで学会員は、強く、明るく、島の繁栄のために頑張り抜いていたのだ。
 周囲の人たちに信心を反対されながらも、笑顔で包み込むように接し、着実に理解者を広げているのである。
 石切は、その姿に、心が洗われる思いがした。
 硫黄岳が噴煙を上げ、″鬼界ケ島″とも呼ばれる三島村の硫黄島にも、島の人たちの幸せを願って信心に励む婦人の姿があった。
 夫が病弱で貧しい暮らしのなか、″必ず信心の実証を示し、広宣流布を進めるのだ!″と、懸命に働き、学会活動に励んでいた。
 竹の切り出し作業や、男性に交じって土木工事にも精を出した。新しい衣服も買えず、着物をワラ縄で縛って労作業に励んだ。
 彼女が仏法の話をしても、皆、蔑み、耳を傾けようとはしなかった。
 しかし、着実に生活革命の実証を示すにつれて、学会への理解が深まっていった。
 そして、硫黄鉱山が閉鎖され、不景気な時代が続くなかで、彼女の一家は、立派な家を新築するのだ。
 同じ三島村にある竹島には、かつて他宗の僧をしていた学会員もいた。
 島で唯一の僧が学会の信心を始めただけに、人びとの戸惑いも、反発も大きかった。
 しかし彼は、″なぜ、僧であった自分が学会に入会したのか″を通して、日蓮大聖人の仏法の正しさ、偉大さを、厳然と訴え抜いていったのだ。
 石切は、今まさに、地涌の菩薩が躍り出ているのだと、心の底から実感するのであった。
 広宣流布の時は、到来しているのだ。
37  勝利島(33)
 広布の潮は、昭和三十年代に入った一九五五年ごろから、各島々に、ひたひたと押し寄せ、年ごとに水かさを増していった。
 奄美群島では、奄美大島、徳之島はもとより、喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、沖永良部島、与論島などにも、次々に同志が誕生し、学会の組織が整備されていった。
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年の六一年(昭和三十六年)には、奄美に支部が結成される。
 奄美大島の南には加計呂麻島があり、さらに、その南方に与路島や請島がある。
 草創期、与路島の同志は、加計呂麻島や請島へは、手漕ぎ舟で弘教に通った。
 また、奄美大島の古仁屋で開かれる会合にも、手漕ぎ舟に乗って出かけた。
 四、五人が同乗し、数時間がかりで海を渡っていくのだ。
 皆、雨合羽を着て乗り込むが、波が高ければ、水しぶきで服は水浸しになる。
 舟を漕ぐ腕は痛み、体は疲れ果てる。
 しかし、「ひと漕ぎするたびに宿命転換が近づく」と、励まし合い、荒波を越えていった。
 自分たちを運ぶために、自分たちで漕ぐことから、”お客なし舟”と言って笑い合った。
 加計呂麻島の同志も意気軒昂であった。
 一日に五キロ、十キロと島内を歩いて友人の家を訪ね、仏法対話に励んだ。
 奄美群島の有人島の五つに、猛毒をもったハブが生息し、加計呂麻島もその一つであった。
 ハブは夜行性で、夜は危険度を増す。
 草むらなどでは、いつ襲ってくるかわからない。
 夜、学会活動に出かける時には、松明や石油ランプで足元を照らしながら、片手に長い柄のついた鎌や棒を持って、道の草を払いながら進むのである。
 雨の降る日、座談会の帰りに林道を歩いていると、傘の上に、ドサッと何かが落ちてきた。
 ハブであった。また、雨宿りをした小屋のムシロの下に、ハブがいたこともあった。
 使命に目覚めた民衆には、あらゆる障害をはね返す力がある。
 友の幸せを願う民衆の不屈の行動で、日蓮仏法は広がっていったのだ。
38  勝利島(34)
 多かれ少なかれ、どの島でも、村八分などの厳しい迫害の歴史があった。そのなかで、学会員は、御本尊を根本に、御書、機関紙誌と、同志の励ましを支えに耐え抜き、試練を勝ち越え、幸の花々を咲かせてきたのだ。
 山本伸一は、島の広布開拓にいそしむ人たちの激励には、ことのほか力を注いできた。
 一九五八年(昭和三十三年)四月、第二代会長・戸田城聖が世を去り、六月末に総務として、事実上、学会の一切を担うことになった伸一は、七月には佐渡島を訪問している。
 恩師亡きあと、悲しみに沈む島の同志を励ましたかったのだ。
 発迹顕本された日蓮大聖人が、御本仏として新しき闘争を起こされた佐渡で戦う勇者と共に、新しき希望の前進を開始しようと、心に決めていたのである。
 六〇年(同三十五年)五月三日、彼は第三代会長に就任すると、七月には、沖縄支部を結成し、琉球諸島の同志を励ますために、沖縄を訪れた。また、世界への平和旅の第一歩を印し、海外初の地区を結成したのは、ハワイ・オアフ島のホノルルであった。
 東洋広布への起点としたのも、香港である。
 国内では、徳之島、奄美大島も訪れた。この時、奄美総支部が結成されたのである。
 各方面を訪問した折には、離島から来た友がいると聞けば、会って懇談し、和歌などを揮毫した書籍を贈るなど、渾身の激励を心がけてきた。
 離島で広宣流布の道を切り開いていくことが、いかに大変であるかを、彼は、よく知っていたからである。
 常に、最も苦闘している人たちの幸せを願い、心を砕き、光を当て、最大の励ましを送る。それが創価のリーダーの生き方であり、そこにこそ仏法の人間主義の実践がある。
 六四年(同三十九年)九月下旬、台風二十号が日本列島を襲い、各地で猛威を振るった。
 なかでも、鹿児島県の種子島、屋久島に甚大な被害をもたらしたのである。
 種子島では、いたるところで家屋が倒壊するなどの事態となった。
 また、屋久島では、最大瞬間風速六八・五メートルを記録している。
39  勝利島(35)
 山本伸一が、台風二十号による種子島、屋久島等の被害状況や、島の学会員の奮闘の様子を聞いたのは、香港の地であった。
 彼は、香港から、鹿児島県の幹部と連絡を取り、直ちに被災地へ激励に行くよう依頼するとともに、伝言を託した。
 家が壊れるなどして、途方に暮れていた同志は、幹部がすぐに来てくれたことに感動した。
 そして、「必ず変毒為薬できるのが仏法です」との伸の伝言に勇気が湧いた。
 奮起したメンバーは、復興の先頭に立った。
 また、自身と地域の宿命転換を願い、果敢に仏法対話を開始した。
 弘教は大きく進んだ。
 十月下旬、東京へ来た鹿児島県の幹部から、その報告を受けた伸一は言った。
 「本当に大変だったね。人生には、台風などの自然災害に遭うこともある。
 ある意味で、苦難や試練が、次々と押し寄せてくるのが人生といえるかもしれない。
 大事なことは、その時に、どうしていくかなんです。
 「もう、終わりだ……」と絶望してしまうのか。
 「こんなことで負けてたまるか! 必ず乗り越えてみせる!」と決意し、立ち上がることができるのか。
 実は、信心することの本当の意味は、どんな苦しみや逆境にも負けない、強い自分をつくっていくことにこそあるんです。
 被災された皆さんは、試練に負けずに敢然と立ち上がり、周囲の人びとに、希望の光、勇気の光を、送り続けてほしいんです」
 さらに伸一は、種子島、屋久島の同志への激励として、袱紗を託したのである。
 鹿児島県の幹部は、それを持って島を訪れた。
 一人ひとりに山本会長の思いを語って励まし、袱紗を手渡していった。
 島の幹部に委ねることもできたが、それでは、最も大事なものが、抜け落ちてしまう気がしたのだ。
 皆の感激は、ひとしおであった。
 島の同志が受け取ったのは、自分たちを思いやる、「伸一の真心」であった。
 心と心が触れ合い、勇気が生まれ、誓いが生まれ、師子が生まれる。
40  勝利島(36)
 一九六五年(昭和四十年)一月十一日には、伊豆大島が大火に見舞われた。
 夜遅く、元町の繁華街から出た火は、強風に煽られて、たちまちのうちに広がった。
 大島支庁、町役場、図書館、郵便局、電話局をはじめ、商店、住宅など、五百八十余棟が全焼し、焼失面積約三万七千五百平方メートルという大火災となった。
 死傷者がいなかったことが、せめてもの幸いであった。被災した人のなかには三十世帯近い学会員もいた。
 山本伸一は、この時も直ちに幹部を派遣した。
 らは、伊豆大島に到着すると、その夜、座談会を開いた。
 会場は、類焼を免れた学会員の家である。
 島は停電のため、電灯も消え、電話も通じていなかった。
 ロウソクがともされ、細々とした明かりのなかでの会合となった。
 ロウソクの火が、心細そうな参加者の顔を照らし出した。
 天井には、皆の不安を映し出すように、黒い影が揺れていた。
 落胆し、意気消沈した同志の様子に、一瞬、幹部は言葉を失った。
 しかし、生命力を振り絞るようにして語り始めた。
 「山本先生は『命が助かってよかった』と言われ、皆さんにご伝言を言付かりました」
 彼は、手帳を取り出し、伝えていった。  
 「皆さんの苦しいお気持ちは、痛いほどわかります。懸命にお題目を送
 っております。
 大聖人は『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』と仰せです。皆さんもまた、大島の柱となり、眼目となり、大船となる大切な方々です。
 その皆さんが、決してめげることなく、強く、明るく、はつらつとしていれば、大島は活気を取り戻していきます。
 どうか、島の方々を支え、励まし、勇気づけ、復興の担い手となってください。
 皆さんは、妙法を持った師子ではありませんか!」
 それは、伸一の魂の叫びであった。必死の一念から発する言葉には、魂の共鳴がある。
41  勝利島(37)
 派遣された幹部が、山本伸一の伝言を語るにつれて、伊豆大島の同志の目は潤み始め、その顔は紅潮していった。
 「先生は、また、こう言われました。
 『伊豆大島に会館を建設したいと思う。
 島の同志の方々が希望に燃えて、元気に頑張っていけば、島は必ず復興し、ますます繁栄していく。
 その原動力となるよう、会館建設を進めていきたい』」 
 話が終わらぬうちに、大きな拍手が起こった。
 参加者は肩を抱き合って喜んだ。
 座談会の空気は一変していた。
 皆、口々に、決意を語り合った。
 「この災難を、大島の大発展のバネにしていこう! 今こそ、仏法を持った者の強さを示していこうじゃないか!」
 「そうだね。島のみんなは、希望をなくしている。
 励まし、元気づけよう! そして、信心をすれば、どんな苦難も必ず克服していけることを、訴え抜いていくんだ」
 「それが大事だと思う。この大火を変毒為薬していく道は折伏だ。
 島中に、弘教の大旋風を巻き起こしていこう!」
 皆の胸に、闘魂が燃え上がった。
 戸外には、月明かりの下、焼け跡が黒々と広がり、吹き渡る風も焦げ臭かった。
 しかし、同志は、清新な建設の息吹を胸に、この夜から喜々として仏法対話に走った。
 焼け出された学会員には、「これから先、どうすればよいのか」という強い不安があった。
 しかし、「友の再起のために、仏法を語ろう」と、弘教を開始すると、いつの間にか、自身の悩みの迷宮から脱していた。
 「必ず乗り越えてみせるぞ!」という固い決意と、「絶対に乗り越えられる!」という強い確信が、胸に込み上げてくるのだ。
 境涯革命の直道は、弘教にこそある。
 大島の同志は、話し合いを重ね、会館が完成するまでに、会員千世帯をめざそうと誓い合った。
 誰もが意気盛んであった。
 元町に建てられた被災者のプレハブ住宅では、同志の唱題に力がこもった。
42  勝利島(38)
 伊豆大島の同志は、目覚ましい勢いで、弘教を加速させていった。
 大火から八カ月後の一九六五年(昭和四十年)九月には、待望の伊豆大島会館の起工式が行われた。
 大火前、島の学会世帯は五百世帯ほどであった。
 しかし、この年の十二月には八百数十世帯となり、翌六六年(同四十一年)一月には、遂に念願の千世帯を達成したのである。
 皆が奮い立つ時、新しい前進が始まる。
 皆が心を合わせる時、新時代が開かれる。
 一月二十一日、晴れて会館の落成式が挙行された。大島空港に近い、小高い丘の上に立つ会館の広間は、歓喜の笑みの花で埋まった。
 会館建設とあわせ、わが家を新築できたという人もいた。新しい街づくりに奔走し、地域に大きく貢献した人もいた。
 皆の最高の喜びは、会館の落成とともに多くの新会員が誕生し、島の随所に妙法の希望の灯がともったことであった。
 この法城は、大火の悲しみのなか、涙を拭って立ち上がった同志にとって、人生と広布の勝利の記念塔となったのである。
 山本伸一は、わが同志の奮闘を心から賞讃し、万感の思いを込めて祝電を打った。
 「伊豆大島会館の落成、まことにおめでとうございます。仲良く、楽しく、ここに集まって、幸せを築いてください」
 その言葉に人びとは、この一年の来し方を思い、目頭を熱くするのであった。
 一人ひとりが幸せに――彼の願いは、それ以外に何もなかった。
 そのための信心であり、学会であり、広宣流布である。迫害も、試練も、修行も、永遠の幸せを築き上げるための鍛錬なのだ。
 さらに二十六日には、伊豆大島支部が新設され、約二千人が集い、支部結成大会が開催されたのである。
 御聖訓には、「わざはひも転じて幸となるべし」とある。
 大島の宝友は、大火という災いを乗り越え、皆が自身の幸福の基盤を確立していったのである。
43  勝利島(39)
 創価学会の組織は、なんのためにあるのか─
 ─人びとに真実の仏法を弘め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨し合っていくためにある。
 したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、元気づけていかねばならない。
 それぞれの島に住む学会員は多くはないが、大都市にばかり目が向き、各島に光を当てる努力を怠るならば、万人の幸福を築くという、学会の使命を果たしていくことはできない。
 山本伸一は、かねてから、島の同志が、希望に燃え、勇気をもって、はつらつと前進していくための、励ましの組織をつくらねばならないと考えていた。
 学会が「社会の年」とテーマを定めた一九七四年(昭和四十九年)を迎えるにあたり、彼は首脳幹部に自分の意見を伝えた。
 そして検討が重ねられ、七四年の一月十四日に、離島本部の結成が発表されたのである。
 離島本部長に就いたのは、三津島誠司という、学会本部に勤務する熊本県出身の青年であった。
 その十一日後の、一月二十五日のことである。
 鹿児島県の九州総合研修所(後の九州研修道場)に、奄美大島や沖永良部島、徳之島、種子島、与論島など、九州地方の島々から代表五十人が集い、離島本部の第一回代表者会議が開催された。
 研修所に滞在していた伸一は、その前日、学会本部首脳や九州の幹部、離島本部の関係者らと、離島での活動について協議した。
 この席で彼は言った。
 「明後日、私は香港に出発するので、その準備のため、明日の離島の代表者会議には出席できません。
 しかし、出迎え、見送りをさせていただきます。皆、村八分などの迫害を受けながら、苦労し抜いて、各島々の広宣流布をされてきた、尊い仏子の皆さんだもの。
 全員が、まぎれもなく、日蓮大聖人の本眷属たる地涌の菩薩です。奇しき縁のもとに、それぞれの島に出現し、大聖人の命を受け、広宣流布の戦いを起こされた方々です」
44  勝利島(40)
 仏法の世界で偉いのは誰か──御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。
 人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた人である。
 僧侶だから偉いのではない。幹部だから偉いのでもない。
 山本伸一は、話を続けた。
 「学会のリーダーは、自分が偉いように錯覚し、会員の方々に横柄な態度で接したり、慇懃無礼な対応をしたりするようなことがあっては絶対にならない。
 健気に戦ってきた同志を、心から尊敬することができなくなれば、仏法者ではありません。
 もしも幹部が、苦労を避け、自分がいい思いをすることばかり考えるようになったら、それは、広宣流布を破壊する師子身中の虫です。
 そこから学会は崩れていってしまう。そのことを、深く、生命に刻んでいただきたい」
 伸一の眼光は鋭く、声は厳しかった。
 一月二十五日、霧島連山の中腹にある九州総合研修所には、肌を刺すような寒風が吹きつけていた。
 午前十一時前、離島本部の第一回代表者会議に参加するメンバーのバスが到着した。
 バスを降りると、そこに待っていたのは、伸一の笑顔であった。
 「ご苦労様です! よくいらっしゃいました! 広布の大英雄の皆さんを、心から讃嘆し、お迎えいたします」
 伸一は、手を差し出し、握手した。島の同志たちも、強く握り返した。彼らには、伸一の手が限りなく温かく感じられた。
 その目に、見る見る涙が滲んでいった。
 多くは語らずとも、皆、伸一の心を、魂の鼓動を感じた。勇気が湧いた。
 この日の代表者会議では、各島にあって、伝統文化を守り、島の発展に尽くすことを決議した。
 また、島の実情に応じ、社会性を大切にしながら、活動に取り組んでいくという基本方針を確認し合った。
45  勝利島(41)
 離島本部の第一回代表者会議では、奄美大島、喜界島、屋久島に「地域長」が設けられたことが発表され、その人事も紹介された。
 各島の地域長は、その島ならではの特色を生かしながら、それぞれの島の発展、広宣流布の責任を担う中心者である。
 山本伸一は、代表者会議を終えて、帰途に就くメンバーの見送りにも立った。
 バスに乗り込む一人ひとりの魂を揺さぶる思いで、声をかけ、励ましていった。
 「島のことは、皆さんにお願いするしかありません。皆さんが動いた分だけ、語り合った分だけ、広宣流布の前進があります」
 「皆さんのご健康を、ご活躍を、島の繁栄を、懸命に祈ります。朝な夕な、題目を送り続けます。私たちの心は、いつも一緒です。じっと、皆さんを見守っていきます」 
 「島の人びとは、すべて自分が守るのだという思いで、仲良く、常識豊かに、大きな心で進んでいってください。信頼の大樹となって、全島民を包んでいただきたいんです」
 広布の一切は、一人立つことから始まる。この日、離島の同志たちは、広布第二章の新しい扉を開いたのである。
 参加者を見送った伸一は、三津島誠司ら離島本部の幹部に語った。
 「各島々の広布の基盤をつくるまでは、離島本部の幹部は、徹底して離島を回って激励に力を注ごう。私も、そうします。あらゆる機会に離島の方々を励ましていきます」
 その言葉通り、山本伸一は、香港から帰国した翌々日の二月二日には沖縄を訪問。石垣島、宮古島へも足を運んだのである。
 どちらの島でも、一緒に記念のカメラに納まった。地域の友人も参加しての「八重山祭」「宮古伝統文化祭」に出席し、共に踊りもした。「先祖代々追善法要」も、会館の起工式も行った。西表島の中学校、伊良部島の小学校への図書贈呈も行い、皆と懇談を重ねた。
 島民と融合した数々の行事は、まさに「仏法即社会」の在り方を示すモデルケースとなった。一つの範を示せば流れは開かれる。
46  勝利島(42)
 離島本部は、当初、本部長と二人の副本部長でスタートし、次いで九州と沖縄に方面離島長が誕生した。
 彼らが、離島の実態を調べて驚いたのは、約四百ある有人の島の多くに学会員がいるということであった。といっても、一世帯から数世帯しか会員がいない島も少なくなかった。島の同志は、まさに一人立って、創価の松明を掲げ、孤軍奮闘していたのである。
 離島本部の幹部たちは、励ましの手を差し伸べることの必要性を痛感した。
 彼らは、愛媛県の中島をはじめ、熊本県の御所浦島、鹿児島県の奄美群島、東京の伊豆大島、八丈島、三重県の菅島、答志島などを回り、力の限り激励を重ねた。
 島を訪ねる時は、各県の幹部にも同行してもらった。同じ県内であっても、初めて島に渡るという幹部もいた。日帰りができないケースや、海が荒れると、いつ帰れるかわからないこともあるため、島に行く機会を逸していたのである。
 しかし、離島本部の幹部が、島を駆け巡る姿を目の当たりにして、地元の県や本部の幹部の意識にも変化が起こった。厳しい条件のなかで活動している人にこそ光を当て、讃え、励まし、希望と確信を与えていくという幹部の基本姿勢を、再確認する契機となったのだ。そして、積極的に離島を訪れる流れが生まれていったのである。
 離島本部長の三津島誠司らは、山本伸一の沖縄指導があった翌月の三月、完成したばかりの、その記録映画のフィルムを持って、沖縄の久米島、宮古島、池間島、伊良部島、西表島、石垣島を回った。”先生が石垣島や宮古島を訪問された様子を各島々に伝え、歓喜の波動を広げよう!”と意気軒昂であった。
 各島で「映写会」や「講演と映画の夕べ」など、趣向を凝らした催しが行われた。友人も参加しての楽しく有意義なひと時となった。
 時を逃さずに、直ちに行動を起こす。その素早い反応と懸命な実践が、広宣流布の流れを大きく開く好機を創る。
47  勝利島(43)
 離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。
 西表島では、訪問初日、島の東部の大原大ブロックで映写会などを行った。
 山本伸一の沖縄訪問の記録映画が上映された。石垣島で行われた「八重山祭」での「巻き踊り」のシーンとなった。これは、大原大ブロックのメンバーが演じたもので、ハッピ姿で鉢巻きを締めた伸一が、自分たちと手をつないで踊る様子が映し出されると、期せずして歓声と拍手が湧き起こった。
 映写終了後も、涙ぐみながら、あの日の感激と決意を語る人が後を絶たなかった。
 翌日は、島の西部にある西表大ブロックへ移動しなければならない。しかし、道路はつながっておらず、サバニと呼ばれる小舟を借りていくことになった。
 西表島長をしている島盛長英は言った。
 「私たちは、普段は東部の大原港から石垣島に出ます。そこで一泊し、翌日の船で、西部の船浦港へ渡ります。石垣島から船浦港の往復は、一日一便しかありません。今回は、時間を短縮するために舟にしました。少し揺れるかもしれません」
 この日は、海上風警報が出され、風が強く、波が高かった。皆、雨合羽を着て舟に乗り、その上から防水シートを被って、舟べりにしがみついた。
 それでも、激しい波にもまれ、衣服は飛沫で、びしょ濡れになった。しかし、映写機とフィルムだけは濡らすまいと、抱きかかえての一時間であった。船浦港からは、トラックをチャーターして会場に向かった。
 道はでこぼこで、車の揺れは激しく、体が飛び跳ねる。離島本部の幹部は思った。
 ″西表の人たちは、こうしたなかで活動しているのか! 十分も歩けば、大ブロックを通り越してしまう東京都区内とは大違いだ。東京にいて、活動が大変だなんて嘆いていたら、西表の人に笑われてしまう″
 労苦は、仏道修行の最高の道場となる。大変な思いをした分だけ、功徳は大きい。
48  勝利島(44)
 離島本部の幹部は、四月には日本海に浮かぶ島のなかで最北に位置する北海道の礼文島や、利尻島にも足を運んだ。両島で映画「人間革命」の上映を行った。利尻島では百五十人を、礼文島では三百人を超える人びとが集って鑑賞した。
 その折、「聖教新聞」の創刊二十三周年記念事業の一環として、礼文町の礼文小学校に千冊余の図書贈呈が行われたのである。
 さらに五月、離島本部長らは、小笠原諸島の父島を訪問することになった。
 小笠原は、東京の南方千キロの太平洋上にあり、父島をはじめ、母島、硫黄島、南鳥島など、三十余の島々から成る。一九四四年(昭和十九年)、太平洋戦争の激化にともない、島々に住んでいた約七千人の住民が、本土などに強制疎開させられている。その島のなかで、硫黄島は米軍との激戦の舞台となった。守備隊の大多数の約二万二千人が戦死。米軍も七千人近い戦死者と約一万八千人の負傷者を出したといわれる。
 戦後、小笠原はアメリカの施政権下に置かれ、返還されたのは、強制疎開から二十四年後の六八年(同四十三年)六月のことであった。その後、かつての住民たちが帰還し、広宣流布の火がともされていった。そして、七四年(同四十九年)ごろには、弘教も活発に進められていたのである。
 小笠原の島々は、一年中、暖かく、梅雨もない。固有の進化を遂げた生物が多く、「東洋のガラパゴス」と呼ばれている。豊かで美しい自然が残されており、周辺の海には、クジラやイルカの姿も見られる。しかし、当時、小笠原に行くには、東京の竹芝桟橋から出る週一往復の船しかなかった。片道三十八時間、三日がかりの船旅となる。
 離島本部から上がってきた、小笠原指導の報告に対して山本伸一は言った。
 「私に代わって行ってきてください。″会長ならどうするか″と常に考え、大確信をもって激励を頼みます。師弟不二の心で行動してこそ、大いなる力が発揮できるからです」
49  勝利島(45)
 離島本部からの報告では、小笠原諸島には、三十世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。
 山本伸一は、首脳幹部を通して、小笠原を訪問する離島本部の幹部に伝言した。
 「この機会に、小笠原に大ブロックを結成してはどうでしょうか。学会本部ともよく話し合って、人事なども、具体的に検討してください。
 また、島の皆さんに、こう伝えてください。
 『地理的には遠くとも、御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています。私は、日々、皆様の健康とご一家の繁栄を、真剣に祈り続けております』」
 そして、島の同志への記念品を託した。
 離島本部長の三津島誠司らが、小笠原諸島の父島に到着したのは、五月四日朝のことであった。船酔いの苦痛のなか、船を下りると、数人のメンバーが、こぼれるような笑みを浮かべて待っていた。そのなかに、母島から来たという、七十二歳の男性もいた。父島と母島とは、約五十キロ離れている。
 「本部から幹部の方が来られると聞いて、もう待ち遠しくて、二日前から父島へ来て待っとりました。山本先生はお元気ですか」
 彼は本土にいた時、ある会合で伸一が語った、「生涯、私と共に広宣流布に生き抜いてください」との言葉を胸に焼きつけ、母島で一心に信心に励んできたという。
 「師弟の誓い」に生き、「使命」を自覚した同志が、「広布の大道」を切り開いてきたのだ。
 三津島たちは、求道心にあふれた、その純粋な姿に、生命が洗われる思いがした。
 ――小笠原の広布は、一九六八年(昭和四十三年)に小笠原の島々が日本に返還され、本土などに強制疎開させられていた人たちが、父島に戻った時から始まっている。そのなかに佐々本卓也や浅池隆夫らの学会員がいたのである。
 佐々本は、漁業を行うために漁業協同組合をつくって組合長を務め、浅池は、東京都の小笠原の漁業調査船の船長となった。
50  勝利島(46)
 小笠原へ旧島民が帰還してしばらくは、本土と父島を結ぶ船便は、月に一便であった。
 当然、生活物資が届くのも月に一度である。
 島に、住民が移って来るたびに、佐々本卓也や浅池隆夫は、学会員がいないかどうか聞いて回った。
 父島には、旧島民のほかに、新しい住民も増えていった。
 また、アメリカは、終戦の翌年には欧米系の旧住民の帰還を認めており、欧米系の人たちが暮らしていた。
 佐々本や浅池は、その人たちと融和を図りながら、島づくりに励んできた。
 彼らが父島に戻って二年がたった一九七〇年(昭和四十五年)ごろから、座談会も開かれるようになった。
 島での生活は、断水や停電も日常茶飯事であったが、そのなかで同志は、離島広布の先駆になろうと誓い合った。
 漁業調査船の船長である浅池は、海流やプランクトンの分布、魚群の種類の調査等のほか、父島と母島の物資の輸送や急病人への対応、海上遭難者の救出などにも奮闘した。
 地域への貢献を通して、信頼を勝ち取ることが、そのまま広宣流布の前進となった。
 「信心即生活」である。ゆえに学会員一人ひとりの生き方のなかに、仏法が表れる。
 彼は、船長を五年ほど務めたあと、小笠原支庁の職員となった。
 学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。
 島には、次第に観光客も増えていった。
 それにともない、ゴミが無造作に捨てられるなど、自然環境の破壊も進み始めた。
 島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。
 ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。
 また、母島の広宣流布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。
 母島生まれの彼は、二歳の時、家族と共に強制疎開の船に乗る。
 移り住んだ八丈島で一家は入会。
 彼の父親は、母島に帰ることを夢見て生きてきた。
 喜郎は父と、「小笠原が返還されたら一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。
51  勝利島(47)
 一九六八年(昭和四十三年)六月、小笠原諸島は日本に返還される。
 しかし、翌年の春、勝田喜郎の父親は他界した。
 勝田は、大阪で会社勤めをしていたが、”自分だけでも母島に帰って農業をし、父との約束を果たすべきではないか”との思いが、日を追うごとに強くなっていった。
 勝田の先祖は一八七九年(明治十二年)に小笠原の母島に定住した最初期の一家であった。
 彼は、亡き父親が大事に持っていた、勝田家の「総括録」と題した綴りを目にしてきた。
 移住二代目にあたる祖父が記していたものだ。
 そこには、想像を絶する開拓の苦闘と気概が綴られていた。
 自分の体に、その開拓者の血が流れていることに、彼は誇りを感じた。
 ”よし、帰ろう! 先祖が心血を注いで開いた母島の土地を守ろう! そして、島の広宣流布に生き抜こう!”
 彼には、農業の経験は全くなかった。
 しかし、”信心で、どんな苦労も乗り越えてみせるぞ!”という意気込みがあった。
 勝田は、一年間、横浜で農業研修を受け、一九七一年(昭和四十六年)秋、農業移住者六世帯のうちの一人として母島に渡った。
 一般の人たちの本格的な母島帰還よりも、二年ほど早かった。
 二十七年間、無人島状態であった母島は、島全体がジャングルさながらであった。
 勝田は父島で材木を調達し、自分で家を建てることから始めた。
 出来上がった家は、六畳一間で、ランプ生活である。
 畑作りのため、開墾作業に励んだ。慣れぬ労作業に体は悲鳴をあげた。
 しかし、飢えに苛まれ、密林を切り開いてきた先祖の、厳しい開拓生活を思い起こしながら唱題した。
 ”これを乗り越えてこそ、母島広布の道が一歩開かれる! 負けるものか!”
 勇気が湧いた。
 広宣流布の使命に立つ時、わが生命の大地から無限の力が湧き起こる。
 地涌の菩薩の大生命がほとばしるのだ。
52  勝利島(48)
 やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。
 そのなかに学会員もいた。
 勝田喜郎は、″この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ″と考えた。
 本土から大工を呼んで、家を新築することにした。
 ここを拠点に、母島広布は進んでいくことになる。
 青く澄み渡る珊瑚礁の海が光る。
 も吸い込まれそうなほど青い。
 生い茂る椰子やパパイヤ、バナナの葉が風に揺れる……。
 一九七四年(昭和四十九年)五月四日――初めて小笠原の父島を訪れた離島本部の幹部らは、その南国情緒豊かな美しい景観に目を奪われた。
 とても、ここが日本の、しかも、東京都であるとは思えなかった。
 到着後、彼らは、島の主なメンバーと打ち合わせをし、夜には指導会を行った。
 会場は、浅池隆夫の家である。父島を中心に二十人余の参加者が集って来た。
 この指導会の席上、離島本部長の三津島誠司から、小笠原大ブロックの結成が発表された。
 大拍手が轟いた。大ブロック長・担当員には、浅池隆夫と妻の栄美が就いた。
 また、三津島から、会長・山本伸一の伝言が紹介された。
 「御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています」との、伸一の言葉を聞くと、参加者の目は涙に潤み、決意が光った。
 三津島は訴えた。
 「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。
 皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。
 先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。
 どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」
53  勝利島(49)
 小笠原の同志の活躍は、東京に戻った離島本部の幹部から、詳細に、会長の山本伸一に伝えられた。
 伸一は、その様子を深く心に刻み、小笠原をはじめ、離島で奮闘する同志のために、ひたすら題目を送り続けた。
 大ブロック結成の翌一九七五年(昭和五十年)夏、伸一の三男で高校生の弘高が、星の観察などのために、友人と一緒に小笠原を訪れた。
 彼は、父島の学会員と交流し、以来、数年にわたって、小笠原へ足を運んだ。
 伸一は、弘高に言った。
 「小笠原は遠く離れているが、そこにも広宣流布のために必死になって活動している学会員がいる。
 尊いことだ。島の方々に、『くれぐれもよろしく』と、お伝えしてほしい」
 弘高は、伸一から託された記念の色紙などを携えて海を渡り、島の同志に届けたこともあった。
 大ブロック長・担当員の浅池隆夫・栄美夫妻の家で行われた座談会にも出席した。
 小笠原には、第一回離島本部総会直前の七八年(同五十三年)八月、支部が誕生する。
 また、後年、小笠原を含めた「伊豆諸島兄弟会」(当初は伊豆七島兄弟会)が結成される。
 弘高は、その名誉委員長として各島々の同志を励まし続けていくことになる。
 一九七四年(昭和四十九年)の離島本部の結成後、各島の学会員は、島の繁栄と人びとの幸福を願って広布の活動に励むとともに、地域貢献に一段と力を注いだ。
 伸一は、島での活動の在り方について、常々、こう訴えてきた。
 「学会員は、島の人びとと、どこまでも仲良く協力し合って進んでいくんです。また、島にとって何が必要かを考え、率先して島のために行動していくことが大事です。
 それぞれの島で、皆さんが人びとに心から信頼され、尊敬されていくことが、そのまま広宣流布の広がりになるんです」
 ″わが島に広布のモデルを″″この島こそ常寂光土なり″と、同志は誓い合った。
54  勝利島(50)
 各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。
 長崎県・五島列島の福江島をはじめ、対馬や壱岐、鹿児島県の沖永良部島などでは、学会員が中心となって、島ぐるみのフェスティバル等が開催されていった。メンバーは、島に受け継がれてきた郷土の歌や踊り、伝統文化の保存、継承にも力を注いだ。
 また、学会員の多くが、島や集落のさまざまな仕事を積極的に引き受け、責任を担いながら、島民のために献身した。
 学会員が島に貢献する姿を通して、島民は創価学会の実像を知り、学会への理解を深めていったのである。
 法を体現するのは人であり、人の振る舞いが広布伸展のカギとなる。
 学会への偏見や誤解から、迫害の嵐が吹き荒れた地域でも、学会員への信頼は不動のものとなり、「非難」は「賞讃」へと変わっていった。
 各島の同志は、広宣流布への決意を、いよいよ燃え上がらせたのである。
 かつて学会員が村八分にされ、車やオートバイを連ねて「学会撲滅」を叫ぶデモが行われた奄美大島でも、学会理解は大きく進んでいた。
 一九七六年(昭和五十一年)六月二十一日、山本伸一のもとへ、「奄美広布決議」と題する一文が届けられた。
 奄美群島の同志は、伸一が奄美総支部結成大会に出席した六三年(同三十八年)六月二十二日を記念して、6・22を「奄美の日」とした。
 決議は、その新出発の総ブロック(後の支部)総会等を開催するにあたり、採択したものであるという。
 「一、奄美創価学会は、どこまでも異体同心にして朗々たる勤行と唱題を実践し、宿命的惰弱な生命を打ち破り、奄美の島々から苦悩の二字を抹消していく。
 一、奄美創価学会は、利他の実践に全魂を傾け、慈悲の雄弁をもって、力強く運動を展開する。
 一、奄美創価学会は、会長の数々の指針を胸奥にきざみ、御書運動と人間革命運動をもって、師弟共戦の戦いを固く誓う」
55  勝利島(51)
 奄美の同志は、さまざまな圧迫に押しつぶされそうになりながらも、自らを鼓舞し、人びとの幸福と島の繁栄を願って広宣流布に生き抜いてきた。
 山本伸一は、その姿に仏を見る思いがしていた。
 その生き方のなかにこそ、現代における不軽菩薩の実践もあると、彼は強く確信していた。
 奄美からは、有志で制作したという「奄美広布の歌」のカセットテープと譜面も届けられていた。
 すぐに歌を聴いた。
 久遠の誓いを胸に、島の広布に生きる力強さがみなぎる歌であった。
 伸一の脳裏には、奄美の人びとの歓喜の笑みが、決意に燃える瞳が、精悍な顔が浮かんだ。
 また、奄美群島の徳之島では、「奄美の日」記念行事の一環として、創価学会青年部主催の文化祭が盛大に開催され、地域に大きな反響を広げたとの報告も届いていた。
 伸一は、すぐにペンを執った。
 「奄美の日、おめでとうございます。
 皆さんの『奄美広布決議』を拝見しました。
 二十日には徳之島での文化祭も見事な成果を収めたとのこと。
 はつらつとした皆さんの躍動の姿を嬉しく思います。
 決議文は御本尊様にお供えしました。それに対する私の気持ちを申し上げます。
 『ああ 雄々しき哉 奄美創価学会の友
 ああ 逞しき哉 奄美共戦の地涌の友
 ああ 奄美の同志の決議を 宝前に捧げ
 我もまた 君らと共に
 君らを守りながら 戦うを誓う』
 大切な、かわいい奄美のお友達のご健康と幸せを心から祈念して、私のメッセージといたします」
 彼は、同志の決意を大切にしていた。「意を決める」ことから、行動が生まれ、努力が生まれ、忍耐が生まれ、勝利が生まれる。
 決意は、大願成就への種子であるからだ。
 ゆえに彼は、皆の決意には、最大の真心と誠実をもって応えていったのである。
 師弟共戦がもたらす歓喜の発光は、広宣流布を阻む、いかなる暗雲をも打ち破る。
56  勝利島(52)
 一九七八年(昭和五十三年)一月、「広布第二章」の支部制が発足し、離島にあっても清新の息吹で新たな前進が開始された。
 山本伸一は、各島々の飛躍のために、ますます力を尽くそうと心に決め、島にあって広宣流布を支え、推進してくれた同志を、讃え、励ますことから始めた。
 彼は、それぞれの島に生き、戦う、勇者たちの英姿を思い浮かべ、祈りを込め、代表に激励の和歌や言葉を、次々と贈っていった。
 「奥尻の 友はいかにと 今日も又 幸の風吹け 祈る日々かな」
 「大聖に 南無し護らむ 佐渡の地で 広布の友の いくさ讃えむ」
 「いつの日か 渡り語らむ 隠岐の島 わが友思はば 心はずみて」
 「ふたたびの 友と会いたし 徳の島 幸の唱題 おくる嬉しさ」
 「はるかなる 宮古の島に 君立ちて 広布の楽土を 祈る日日かな」
 東京・伊豆大島の同志にも詠んだ。
 「いついかん 椿の花の その下で 広布に舞いゆく 君らいかにと」
 沖縄・久米島の同志には、こう記した。
 「どんなに辛くとも 団結第一で楽しい人生を 題目と共に 生きぬいて下さい」
 この励ましに、同志は燃えた。
 吹雪の暗夜を歩み続けてきた人には、一言の激励が勇気の火となり、温もりとなる。
 苦闘し抜いた人ほど、人の真心を感じ取る。
 山本伸一は、どこへ行っても、離島から来たメンバーがいると聞けば、全精魂を注いで励ましていった。
 三月三十一日、彼は、東京・大田区に新たに完成した大森文化会館を視察した。
 会館の和室で地元のメンバーと懇談していると、区の幹部が、八丈島から来たという数人の会員を連れてきた。
 伸一は、立ち上がって、皆を部屋に招き入れながら語った。
 「八丈島! 八丈島からですか! 遠いところ、ようこそおいでくださいました」
57  勝利島(53)
 八丈島は、伊豆七島の一つで、東京の南方海上約二百九十キロに位置している。
 学会の大田区の組織に伊豆七島本部があったことから、八丈島の同志は、大田区の会館に立ち寄ることが多かった。
 この日、大森文化会館に来たのは、草創の八丈支部の支部婦人部長を務めた菊田フジ子、そして、同じ姓の菊田秀幸・淳子夫妻と、その娘たちであった。
 高校二年、中学一年、小学五年生になる三姉妹である。
 菊田秀幸は、中学校の教員をしていた。
 山本伸一は、彼の娘たちに、パンを渡し、ジュースを勧めながら、今日は、どこに宿泊するのかを尋ねた。
 「おばちゃんの家です」
 末娘が答えると、母親の淳子が、「主人の姉の家です」と説明した。
 伸一は、末娘に聞いた。
 「おばちゃんに、お土産は?」
 娘は首を横に振った。伸一は、「それでは、これをおばちゃんに」と言って、会員への激励のために用意していた菓子折を渡した。
 秀幸は、宿泊場所や宿泊先への土産まで気遣ってくれる伸一の真心に、胸が熱くなった。
 伸一は、菊田フジ子に言った。
 「あなたが苦労して戦われてきたことは、よく知っています。
 八丈島は、今、三支部に発展した。見事な拡大です。
 鼓笛隊も誕生しましたね。本当にすごいことです」
 伸一は、機関紙誌に離島が取り上げられると、克明に目を通し、島の様子を心に刻んできた。
 八丈島についても、『聖教グラフ』三月一日号に掲載されたルポルタージュを見て、島の同志を励ましたいと思っていたのだ。
 彼の言葉に力がこもった。
 「組織が発展し、皆が功徳を受けていくならば、それは、草創期に道を切り開いてきた人に、全部、福運となって回向されます。
 大聖人は『功徳身にあつまらせ給うべし』と仰せです。
 苦労を重ねて広布の大地を開墾し、妙法の種を蒔いた人を、諸天は永遠に大絶讃してくださるんです」
58  勝利島(54)
 山本伸一は、八丈島のメンバーに語った。
 「皆さんご自身が、本来、仏であり、皆さんは、自分の今いる場所を常寂光土としていくために出現したんです。
 どうか、力を合わせ、八丈島を広布模範の島にしてください。広布第二章の大潮流を八丈島から起こしてください。
 私は、じっと見守っています」
 また、彼は、八丈島の同志を代表して、菊田秀幸に歌を贈った。
 八丈に わが友君が ありつれば  妙の薫風 幸とかおらむ
 伸一の激励は、菊田一家にとどまらず、島全体に大きく感動を広げていくことになる。
 この一九七八年(昭和五十三年)十一月、八丈本部が誕生するが、後年、菊田秀幸は本部長として活躍することになる。
 また、八丈島では、「聖教新聞」の購読推進に力を注ぎ、学会への理解を深め、二十一世紀へのスタートを切ろうと話し合った。そして、皆が友好の輪を着実に広げ、地域貢献に努めていくなか、島の購読世帯が三五パーセントを超える結果をもって、二〇〇一年(平成十三年)五月三日を飾ることになる。
 一九七八年(昭和五十三年)八月十三日、伸一は九州研修道場で行われた、佐賀、長崎、鹿児島の三県合同幹部会に出席した。
 その翌日、彼は、奄美へ帰る十数人のメンバーと会って懇談のひと時をもった。
 伸一は、皆の顔を見ると、笑みを浮かべた。
 「どうも、遠くからご苦労さまでした。一緒に、記念の写真を撮りましょう」
 懇談が始まった。参加者の一人が言った。
 「先生! 『龍郷支部歌』のテープを持参してきましたので、お聴きください」
 伸一の目が光った。
 「龍郷! 大変な迫害を勝ち越えてきた、あの龍郷ですね。聴かせていただきます」
 伸一は、最も苦闘してきた人たちのことを生命に焼きつけ、題目を送り続けてきたのだ。
59  勝利島(55)
 カセットデッキから、「龍郷支部歌」が流れた。勇壮で力強い調べであった。
 臥龍(がりょう)が時を待って、天空高く昇りゆく姿に、同志の心意気を託した歌となっていた。
 山本伸一は、調べに合わせて、拳を振りながら、歌を聴いていた。
 聴き終わると、彼は言った。
 「いい曲だね。龍郷の新しい出発だね。
 支部の皆さんは、元気かな」
 すぐに、奄美の婦人の幹部が答えた。
 「はい。今は、地域の人たちも、心から学会を理解してくれています。
 また、多くの同志が、各集落の信頼の柱になっています」
 「それは、よかった。何よりも嬉しいね。日蓮大聖人の仏法というのは、最も苦しんできた人が、最も幸せになれるという教えなんです。
 また、最も激しい迫害が起こったところこそ、学会員が信頼の根を張り、広宣流布の模範の地域にしていく使命があるんです。
 大聖人は、一生のうちに自身の一切の謗法を消滅できるのは、法華経のゆえに数々の大難に遭ったからであると言われている。
 そして、『願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せです。
 その原理のうえから、弾圧の嵐が吹き荒れた地で戦ってこられた奄美の皆さんは、地域広布の先駆となって、人びとを幸せにしていってほしいんです。
 龍郷をはじめ、奄美の皆さんは勝った! 仏法は勝負です。十年、二十年、三十年、いや五十年とたった時に、すべては、ますます明らかになる。
 勝負は一生です。
 より根本的には、三世という尺度で見なければならない場合もありますが、最後の大勝利を確信し、不退の勇者として生き抜いてください。
 それには、心が強くなければならない。
 臆病では信心を全うすることはできません。
 大試練に耐えるとともに、自分の慢心や名聞名利への執着などに打ち勝つ強さが必要です。
 学会を離れれば、最後は後悔します。孤独です。
 広宣流布の陣列から離れることなく、はつらつと歓喜の大行進を続けてください」
60  勝利島(56)
 山本伸一は、「龍郷支部歌」をもう一度聴いた。
 それから、「では、今度は、ぼくの作った歌を聴いてよ」と言って、東京、関西などの方面歌のテープをかけた。
 その音楽の流れるなか、伸一は奄美の同志に贈るために、激励の色紙を書いた。
 「友よ起て 此の世の歴史と 龍郷城」
 「勝ちいくさ さらに上潮 たのむらん
 因果の理法 強く信じて」
 伸一は、最後に、「皆さんに、くれぐれもよろしく!」と言って参加者を送った。
 この九州研修道場滞在中、伸一は、離島本部の幹部から相談を受けた。
 「可能ならば、学会本部で離島の代表者会議を行いたいと思っております。
 実は、各島々を回らせていただいて感じましたのは、島と島とのつながりが、あまりないということでした。
 一部の方面では、各島の代表が集って懇談会などを行ってきたところもありますが、全体的に見ますと、孤立したなかで必死に信心に励み、健闘しているというのが実情です。
 したがって、全国の代表が一堂に会し、それぞれの島の同志が”広布のモデル”をめざして、奮闘している模様を語り合えれば、皆が元気になり、学会活動の勢いも出るのではないかと思います」
 一人立つことから、広宣流布の闘争は始まる。
 そして、一人立つ勇者の連帯がつくられる時、幸と希望の大潮流が広がる。
 伸一は、即座に言った。
 「大賛成です。各島々の同志は、孤軍奮闘している。
 それだけに、ほかの島の人たちも懸命に戦っている様子を知れば、勇気が湧くでしょう。
 しかし、どうせやるなら、極めて限られた代表が集う会議でなく、全国から大勢の人が参加できる総会にしてはどうだろうか。私が応援します。
 いつにするかは、よく検討し、一番良い季節を考えてください」
 早速、離島本部で協議し、総会の開催は、十月七日の土曜日と決まったのである。
61  勝利島(57)
 一九七八年(昭和五十三年)十月七日、山本伸一は、離島の婦人部の代表らと懇談したあと、第一回離島本部総会の会場である創価文化会館五階の広宣会館へ向かった。
 会場は、全国百二十の島々から集った代表で埋まり、求道の熱気に包まれていた。
 皆、固唾をのんで開会を待った。
 午後六時前、会場横の扉が開いた。皆の目が一斉に注がれた。
 伸一の姿があった。参加者の大拍手と大歓声が轟いた。
 広島の江田島、能美島、倉橋島の同志が立ち上がり、島をアピールする五メートルほどの横幕を広げ、喜びを表現した。
 「ようこそ! ようこそ!」
 伸一は、こう言いながら、参加者の中を進み、後方へ向かった。
 旧習の深い島々で戦い抜いてきた同志を、少しでも間近で激励したかったのである。
 声をかけ、握手を交わし、場内を進んだ。
 「遠いところありがとう! よくいらっしゃいました。お会いしたかった」
 黒潮に磨かれた精悍な顔、風雪に鍛え抜かれ、深い年輪を刻んだ顔、笑みを浮かべた柔和な顔――どの顔も、見る見る歓喜に紅潮していった。
 伸一と初めて会う人が、ほとんどであった。立ち上がり、手を振る人もいる。
 労苦の波浪を乗り越えてきた勇者の心意気と、仏子を讃え励まそうとする伸一の思いが熱く解け合い、会場は感動の坩堝となった。
 彼は、場内を一巡し、前方に来ると、マイクを手にした。
 「離島本部の第一回総会、おめでとう! 日々、苦闘を重ね、勝利の旗を打ち立ててこられた皆さんと、お会いできて本当に嬉しい。
 学会本部は、皆さんの家です。
 今日は、信心のわが家に帰って来たんです。堅苦しいことは抜きにしましょう。
 ゆっくりして英気を養い、″ああ、本部に来てよかったな″と心から満足して、若返って、お帰りになっていただきたい。
 それが、私の思いのすべてなんです。戦い抜いてこられた皆さんですもの」
62  勝利島(58)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「広宣流布の旅路が、険難であるのは当然です。しかし、何があろうが、紛動されないで、退転しないで、どこまでも、私と一緒に、使命の大道を歩み通してください!
 では、全員で万歳を三唱しましょう。
 離島本部の万歳であり、各島々の万歳であり、皆さんご自身の万歳です」
 はつらつとした「万歳!」の声が、怒濤のように轟いた。
 それから、伸一の導師で、厳粛に勤行が始まった。皆の声が一つになり、歓喜に弾む軽快な読経・唱題が響いた。
 副会長ら幹部のあいさつなどに続いて、伸一のスピーチとなった。
 「もっと近くにおいでください。形式的になる必要は一切ありません。久遠の昔からの仏法家族が語り合うんですから」
 促されて、皆が伸一を囲むように座った。
 「今日は、どの島から来られているの?」
 彼の言葉を受けて、離島本部の幹部が、それぞれの島の名を読み上げていった。
 メンバーは自分の島が呼ばれると、誇らしげに返事をし、立ち上がった。
 沖縄の西表島で介輔として医療に従事し、島民の生命を守ってきた島盛長英もいた。
 香川の小豆島で最初に信心を始め、地道に島の広布を推進してきた道畑ハナノの姿もあった。
 伊豆大島や新島、三宅島、八丈島の初代支部長たちもいた。
 瀬戸内海に浮かぶ直島の友も元気に立ち上がった。直島にも支部があった。
 伸一は、この年三月、皆の活躍を聞き、歌を贈った。
 「直島の 友の幸をば 祈りつつ
   地図を開げて いづこの島かと」
 皆、″先生が、地図を見て探してくれたのか!″と喜び、奮い立った。弘教も、座談会等の結集も、圏を牽引する支部になった。
 多くの島々に、伸一の人知れぬ励ましの手が差し伸べられていた。
 それが、同志の信心の命脈をつなぐ力となってきたのだ。
 激励を通して、強き人間の絆が結ばれる。
63  勝利島(59)
 山本伸一は、離島の同志に寄せる自らの思いを語っていった。
 「皆さん方の愛する島へ、勇んで馳せ参じ、共に島の発展のために、福運の歴史を築きたい
 ――それが、かねてからの私の願いであり、その気持ちは、今なお、いささかたりとも変わっていないことを知っていただきたいのであります」
 伸一の言葉に、皆、感動で胸が詰まった。
 「”すべての人々とともに、そしてすべての人々のために”
 ――これが私の生涯の指針である」(「セラフィン・ベージョ氏宛て」(『ホセ・マルティ書簡集2 1888年―1891年』所収)マルティ研究所)とは、キューバ独立の英雄ホセ・マルティの言葉である。
 それは、伸一の真情でもあった。
 彼は、話を続けた。
 「本日の力強い第一回総会を起点として、気候的にも恵まれたこの十月ごろに、来年は第二回総会を、再来年には第三回総会を開催し、これを離島本部の楽しい伝統にしてはどうかと提案申し上げたい。賛成の方?」
 全員が賛同の挙手をした。
 「それでは、正式に決定させていただきます。当面は、この総会をめざして、前進の節を刻んでいきましょう!」
 喜びの拍手が高鳴った。
 「皆さん方は、第一期の島の広宣流布を推進し、見事な勝利を収められた。その実証が本日の晴れがましい姿です。
 そこで、本日の第一回総会をもって、いよいよ第二期の各島の広宣流布をめざし、勇躍、出発していっていただきたい!」
 ここに、離島の新章節の幕が開いたのだ。
 伸一は、未来のために、島の広布推進の要諦を語ろうと思った。
 「一つの島というのは、見方によれば、国と同じであるといえます。
 したがって皆さんは、一国を支えるような大きな心をもって、自分が、この島の柱となり、眼目となり、大船となるのだとの決意に立つことが大切です。
 そして、常に島の繁栄を願って、島民のために活躍していっていただきたいのであります」
64  勝利島(60)
 参加者は皆、真剣な表情で、山本伸一の話に耳をそばだてていた。
 「太陽は一つであっても、ひとたび天空に躍り出れば、すべて明々と照らし出されていきます。
 同様に、信心強盛な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。
 どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたいのであります。
 どこまでも信心は強盛に、強い確信をもってください。
 そして、決して焦らず、あくまでも堅実に、広宣流布の歩みを運んでいってください。
 島というのは狭い社会であり、昔からの慣習等も息づいている。
 そのなかで信頼を勝ち得ていくには、賢明な日常の振る舞いが大事になります。
 誰人に対しても、仲良く協調し、義理を重んじ、大きく包容しながら、人間性豊かに進んでいかれるよう、願ってやみません。
 島のなかで、ささいなことで人びとと争ったり、反目し合ったり、排他的になるようなことがあっては絶対にならないし、孤立してしまうようなことがあってもなりません。
 仏法即社会です。世間の目から見ても、”立派だ。さすがだ!”と言われるような、聡明な活躍をお願いしたい。
 それが、広宣流布への第一歩であると確信し、身近なところから、着実に信心の根を張っていっていただきたいのであります」
 伸一は、長旅で疲れているであろう離島の同志の体調を思い、話は短時間で切り上げようと思った。
 最後に、「ただ一つ心肝に染めてほしい御文があります」と強調し、日蓮大聖人が佐渡で認められた「開目抄」の一節を拝読していった。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
65  勝利島(61)
 「開目抄」の一節を拝した山本伸一は、力を込めて語った。
 「どうか、この御文を、直接、御本仏・日蓮大聖人から自分に賜ったものと受けとめていただきたい。
 どんな大難があったとしても、疑ったり、嘆いたりすることなく信心を貫いていけば、必ず成仏できることを断言された御文です。
 たとえ、島の同志の数は少なくとも、励ましてくれる幹部はいなくとも、″私は立つ!″と決めて、広宣流布という久遠のわが使命を果たし抜いていただきたい。
 そして、今再び、この信心の極理を説かれた一節を深く生命に刻み、一家一族が、未来永遠に栄えゆくための福運の根っことなって活躍されるよう、念願しております。
 島の皆さんに、くれぐれもよろしくお伝えください。お体を大切に!」
 伸一の話が終わると、万雷の拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
 感激の怒濤が、同志の胸中に激しくうねった。
 誰もが、伸一の思いをかみ締めていた。誰もが、決意を新たにしていた。
 大感動のなか、歴史的な第一回離島本部総会は幕を閉じたのである。
 伸一の離島本部総会参加者への激励は、翌八日も続いた。
 この日、彼は聖教新聞社前で、島へ帰るメンバー約百七十人と、三グループに分かれ、記念撮影をした。
 皆に次々と声をかけていった。
 「よく眠れましたか。東京は島と気候も違うし、騒がしいでしょう」
 「風邪をひいたりしませんでしたか」
 すると、一人の壮年が弾んだ声で言った。
 「先生は、私たちのことを最高に気遣ってくださいました。
 人間性の輝きというのは、人への気遣いに表れることを知りました。
 私も島にあって、周囲の人たちを心から気遣える自分になろうと思います」
 伸一の力強い声が響いた。
 「ありがとう! すばらしいことです。皆さんの手で勝利島を築いてください」
66  勝利島(62)
 初の離島本部総会に集った人びとは、第二回の総会を目標に、意気軒昂に各島々へ帰っていった。
 第二回総会は、一九七九年(昭和五十四年)十月、前回を上回る百三十五島から八百人の代表が喜々として東京戸田記念講堂に集い、盛大に開催された。
 しかし、会場に山本伸一の姿はなかった。
 彼は、同年四月に会長を辞任し、名誉会長となっていたのである。
 創価の師弟を離間させようとした第一次宗門事件によって、伸一は会合に参加することもままならぬ状況にあった。
 彼は、個人的に離島のメンバーを励ましながら、総会の成功を見守るのであった。
 島の同志は、決然と戦いを開始した。
 ″今こそ、弟子が立ち上がる時だ! 学会の真実と、山本先生の正義を叫び抜こう!″
 伸一のもとには、各島から、「先生、わが島は揺らぎません。
 いよいよ″まことの時″が来たと、決意も新たに頑張ってまいります」等の手紙が、多数寄せられた。
 離島本部の総会は、回を重ねるごとに、充実の度を増していった。
 地域に友好の輪を広げ、信心の実証を示し、戦い切った姿で集い合うことが、皆の目標となっていった。
 ハワイで総会が行われたこともあった。
 八八年(同六十三年)までに十回の総会を開き、翌年からは、全国離島青年部総会を六年連続で開催している。
 九九年(平成十一年)七月、地域社会に信頼と友情を広げる創価の民衆運動の柱として「地域本部」が設置される。
 離島本部は「離島部」となり、地域部、団地部、農村部(後の農漁光部)とともに、地域本部四本柱の一つとして輝きを放っていくのである。
 離島――創価の同志にとって、それは離れ島などではなく、久遠の使命を果たす天地であり、幸福島であり、勝利島となった。
 「宗教は、われわれが、この巨大で不確かな宇宙の中で孤独なのではないという確信を与える」(M・L・キング著『汝の敵を愛せよ』蓮見博昭訳、新教出版社)とは、アメリカの公民権運動の指導者キング博士の言葉である。
67  勝利島(63)
 紅染まる 海原に
 船出の銅鑼は 轟きぬ
 波浪を越えて いざや征け
 世界広布の 先駆けと 
   
 海鳥の島 椰子の島
 燃える火の島 巌島
 いずこも使命の 天地なり
 常寂光の 都なり
    
 無情仕打ちの 烈風猛る
 悔し涙の 日々ありき
 われは祈らむ ひたすらに
 嵐に向かい 師子立てと
    
 開拓の鍬 銀の汗
 慈悲の種蒔き 幾歳か
 地涌の誇りを 胸に抱き
 微笑み包む 対話行
  
 同志は勝ちたり 勝ちにけり
 ああ満天の 星清か
 座談の園に 歓喜燃え
 人生凱歌の 笑顔皺
  
 海は母なり 恵みあり
 海は父なり 鍛えあり
 見よ後継の 若鷲は
 勇み羽ばたき 父子の舞
   
 君よ叡智の 光たれ
 信頼厚き 柱たれ
 一家和楽の 模範たれ
 幸の航路の 灯台たれ
    
 百花繚乱 この道に
 仰ぐ功徳樹 虹懸かる
 響け希望の 交響曲
 栄光燦たれ 勝利島
 敬愛する離島の同志の、師子奮迅の敢闘と大勝利を讃えつつ。

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