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日蓮大聖人・池田大作

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第28巻 「革心」 革心

小説「新・人間革命」

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2  革心(2)
 山本伸一は、十年の来し方を振り返った。
 一九六八年(昭和四十三年)九月八日、東京・両国の日大講堂で行われた、第十一回学生部総会の席上、伸一は、日中問題について言及し、問題解決への方途として、三点を訴えたのである。
 第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。
 第二に、中国の国連における正当な地位を回復すること。
 第三に、日中の経済的・文化的な交流を推進すること。
 そして、こう呼びかけた。
 「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。
 この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である──と、私は言いたいのであります」
 この提言に、大反響が広がった。
 日中友好を真摯に願ってきた人たちは、諸手を挙げて賛同したが、同時に、その何倍もの、激しい非難中傷の集中砲火を浴びた。
 学生部総会三日後の日米安全保障会議の席でも、外務省の高官が、強い不満の意を表明している。
 しかし、提言は、すべてを覚悟のうえでのことであった。冷戦下の、不信と憎悪で硬直した時代の岩盤を穿ち、アジアの、世界の未来を開くべきだというのだ。命の危険にさらされて当然であろう。
 命を懸ける覚悟なくして、信念は貫けない。
 伸一は、さらに、翌六九年(同四十四年)の六月、「聖教新聞」に連載していた小説『人間革命』の第五巻で、こう訴えた。
 ──日本は、自ら地球上のあらゆる国々と平和と友好の条約を結ぶべきであり、「まず、中華人民共和国との平和友好条約の締結を最優先すべき」である。
3  革心(3)
 山本伸一が提言した、日中国交正常化、「日中平和友好条約」の締結に、中国の周恩来総理は注目した。
 また、代議士を務め、日中両国の関係改善に生涯を懸けてきた松村謙三は、この提言の実現を願い、伸一が中国を訪問し、周総理と会見することを強く勧めた。
 しかし、伸一は、「国交回復の推進は、基本的には政治の次元の問題である。したがって宗教者の私が、今、訪中すべきではない」と考え、自分が創立した公明党の訪中を提案したのである。
 一九七〇年(昭和四十五年)春、日中覚書貿易の交渉の後見役として訪中した松村は、伸一のこと、また、公明党のことを、周総理に伝えた。
 翌七一年(同四十六年)六月、公明党の訪中が実現し、周総理との会見が行われる。総理は、国交正常化の条
 件を示した。それを盛り込んだ共同声明が、公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との間で作成され、七月二日に調印が行われたのである。
 国交正常化への突破口が開かれたのだ。
 この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となっていった。それから間もない七月半ば、ニクソン米大統領は、テレビ放送で、翌年五月までに訪中する計画があることを発表。
 既に大統領補佐官のキッシンジャーが訪中し、周総理と会見していたことを明らかにした。歴史の流れは、大きく変わり始めていたのだ。
 日中両国の政府間交渉は進み、遂に、七二年(同四十七年)九月二十九日、日本の田中角栄首相、大平正芳外相と、中国の周恩来総理、姫鵬飛外相によって、北京で「日中共同声明」が調印されたのである。
 そこでは、日中国交正常化をはじめ、中国の対日賠償請求の放棄、平和五原則による友好関係の確立などが謳われていた。
 伸一の提言は、現実のものとなったのだ。
 声を発するのだ! 行動を起こすのだ!
 そこから変革への回転が開始する。
4  革心(4)
 「日中共同声明」のなかには、両国の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結に向けて交渉することも記された。
 条約が締結されれば、それは、法的拘束力をもつ。予備交渉は、一九七四年(昭和四十九年)十一月から始まった。
 山本伸一が、周恩来総理と会ったのは、翌十二月の五日であった。総理は病床にあったが、医師の制止を押し切って会見したのだ。
 総理は、「中日友好は私たちの共通の願望です。共に努力していきましょう」と述べたあと、気迫にあふれた声で言った。
 「中日平和友好条約の早期締結を希望します」──その言葉は、遺言のように、伸一の胸に響いた。
 万代にわたる友好への願いを、託された思いがした。
 彼は、一民間人の立場で、「日中平和友好条約」の実現に全力を尽くそうと、深く、固く、強く、心に誓った。
 翌年一月、伸一はアメリカで、キッシンジャー国務長官と会見。「日中平和友好条約」について意見を求め、賛同の意思を確認した。
 そして、訪米中の大平正芳蔵相と日本大使館で会った際に、その旨を伝えた。
 この年四月、伸一は三回目の中国訪問を果たし、鄧小平副総理と会談した。ここでも平和友好条約について、意見を交換した。
 「日中共同声明」には、アジア・太平洋地域において覇権を確立しようとするいかなる国の試みにも反対することが謳われていた。
 日本には、この反覇権条項を、平和友好条約からは除くべきであるとの意見があった。
 覇権を確立しようとする国とはソ連を指し、これを盛り込めば、ソ連を敵視することになり、日ソ関係が険悪化するというのだ。
 平和友好条約は、この問題をめぐって難航し続けていた。事実、ソ連は、反覇権条項は除くよう、強硬に訴えていたのである。
 伸一は、忌憚なく、反覇権条項についての中国の見解を、鄧小平に尋ねた。
 どんなに複雑そうに思える問題も、勇気をもって、胸襟を開いた率直な対話を交わしていくならば、解決の糸口が見いだせるものだ。
5  革心(5)
 鄧小平は、文化大革命では「走資派」(資本主義に進む反革命分子)と批判され、失脚した。軟禁・監禁生活もさせられた。
 しかし、周恩来総理が陰で彼を庇護し、時を待って、政府の中央に引き戻したのだ。
 山本伸一は、一九七四年(昭和四十九年)十二月、復活を果たしたとう鄧副総理と、初めて会見した。
 そして、翌年四月の第三次訪中では、同副総理と二度目の会談を行った。これには、日本の外務省のアジア局長も同席していた。
 伸一の質問に、副総理は語った。
 ──反覇権条項は、既に「日中共同声明」に謳われている。反覇権は、ソ連だけに向けられたものではなく、中国も、日本も、さらには、いかなる国家・集団であれ、この地域で覇権を求めることに反対するものである。
 また、中国とソ連の関係についての質問では、中ソの人民同士は良好な関係を保っているとしたうえで、「ソ連が中国に侵攻してくるという心配はしていない」と述べた。
 伸一は、日本と中国が平和友好条約を結ぶうえで懸案となる点を、さまざまな角度から率直に質問していった。
 これによって、中国の見解が確認されたのである。
 翌七六年(同五十一年)一月、世界に激震が走った。周恩来総理が死去したのだ。
 党を牛耳る江青ら「四人組」は、鄧小平に攻勢をかけ、再び彼は失脚する。
 しかし、同年九月、毛沢東主席が死去すると、「四人組」は逮捕され、文化大革命は収束に向かっていく。
 この文化大革命は、六〇年代半ばから、中国内の階級闘争として始まったが、政治の実権を握る劉少奇、鄧小平らを、資本主義の走狗として追い落とす権力闘争であった。
 文化大革命の急先鋒となったのが、青少年を組織した「紅衛兵」である。旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破を掲げ、攻撃の矛先は知識人等に向けられ、多くの死者も出た。
 教条主義と権力闘争が結びつき、嵐のような災禍の時代が続いたのである。
6  革心(6)
 一九七七年(昭和五十二年)七月、鄧小平は、党副主席、国務院副総理等の要職を担い、活躍していくことになる。
 七八年(同五十三年)を迎えると、中国は、新しい歩みを開始する。
 二月末から開かれた全国人民代表大会(全人代)で、農業、工業、国防、科学技術の「四つの現代化」への本格的な取り組みが確認され、「社会主義強国」をめざすことが最優先目標として発表されたのである。
 それに取り組む指導体制として、華国鋒党主席が国務院総理等を兼務することになった。
 「日中平和友好条約」についても、締結に向け、積極的に取り組みが開始された。
 しかし、両国にとって、その道のりは、決して平坦ではなかった。以前から反覇権条項をめぐって意見が対立しており、調整も難航した。
 また、四月には、中国の国旗を立てた百隻以上の漁船が、尖閣諸島の領海に接近し、その一部が領海内に入る
 という事件が起こった。日本の海上保安庁の巡視船が、領海からの退去を促すが、漁船は、中国の領海であることを主張し、緊張が高まった。
 しかし、漁船は海域から退去し、結果的に、この尖閣諸島問題が、条約の締結に深刻な影響を与えることはなかった。
 そして、八月十二日、遂に「日中平和友好条約」が北京で調印されたのである。
 条約は、前文と五カ条からなり、第一条の第一項では、両国は「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好
 関係を発展させるものとする」と記されていた。
 第二項では、「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」としている。
 平和友好条約といっても、それを実りあるものにするには、信頼という土壌を耕し続けなければならない。条約の締結はゴールではなく、万代の交流へのスタートである。
7  革心(7)
 「日中平和友好条約」を推進するにあたって難航した反覇権条項は、第二条に盛り込まれていた。
 「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」
 中国側は、覇権反対は、「日中共同声明」に謳われていることから、そのまま条文化するように主張してきた。
 一方、日本側は、覇権反対が日中によるソ連への牽制となり、中ソ対立に巻き込まれることを懸念してきた。
 そして、覇権反対は、特定の第三国に対するものではないことを明記するように、強く求めてきたのである。
 最終的に覇権反対は、日中両国の進むべき道を示した一般原則とし、第四条に、「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と記された。
 ソ連への配慮である。
 この「日中平和友好条約」の調印を受けて、十月、国会で批准が承認され、鄧小平副総理、黄華外相らが来日して批准書を交換し、平和友好条約は発効することになる。
 中国首脳が来日するのは、中華人民共和国の建国以来、初めてのことである。
 山本伸一は、かねてから主張してきた「日中平和友好条約」が結ばれることを、心から嬉しく思った。
 この平和友好条約を内実のともなう永遠のものにしていくために、自分は自分の立場で、最大限の努力を払っていくことを、彼は、深く心に誓ったのであった。
 ともあれ、伸一の日中国交正常化提言から満十年にして「日中新時代」を迎えたのだ。
 歴史は変わる。人間と人間が胸襟を開き、真摯に対話を重ねていくならば、不信を信頼に変え、憎悪を友愛に変え、戦争を平和へと転じていくことができる
 ──それが、彼の哲学であり、信念であり、確信であった。
8  革心(8)
 三年五カ月ぶりに四度目の中国訪問を果たした山本伸一は、上海の虹橋国際空港から宿舎の錦江飯店に向かう車中、街路を行き交う人びとを見ていた。
 女性の服装を見ると、紺やカーキ色の単色で、ズボン姿が多かったが、なかには、淡いピンクやシマ模様のブラウスを着ている若い女性もいた。
 また、皆の表情は明るく、伸一たちの車に、笑顔で手を振る人もいた。
 著しく自由を剥奪された文化大革命の時代が終わり、「四つの現代化」へと進み始めた中国の未来に、人びとは希望を感じているのであろう。
 錦江飯店では、中日友好協会の孫平化秘書長らと、交歓のひと時がもたれ、伸一は、訪中団のメンバーを紹介していった。
 一行のなかには、初めて中国を訪問する宗門の僧、創価大学の教員もいた。
 当初、伸一は、日達法主を中国へ案内したいと思っていたが、体調が優れぬために、遠方への旅行は控えることになったのである。
 これまで、日達とは、東南アジア、インドなど南アジア、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパを訪問してきた。
 仏法西還も、一閻浮提広宣流布すなわち世界広布も、御本仏・日蓮大聖人の御遺命であり、断じて成し遂げねばならない門下の使命である。
 また、世界の平和を築き上げ、この世から「悲惨」の二字をなくしていくことこそ、仏法者の大使命にほかならない。
 しばらく国交が途絶えてきたが、中国は仏教伝来の大恩ある国である。日中の平和のためには、そうした歴史も踏まえ、幅広い文化・友好交流が必要であると、彼は考えていた。
 仏法の慈悲や生命の尊厳という法理を、人類の共有財産にしていくには、仏教関係者をはじめ、さまざまな宗教の指導者との対話が不可欠である。
 いや、宗教を否定的にとらえる共産主義国の首脳とも、胸襟を開いた対話をねていく必要がある。
 閉塞化した原理主義は、日蓮仏法の精神を歪め、根本目的を見失わせていく。
9  革心(9)
 今回の中国訪問には、創価学会側の通訳として周志英も参加していた。
 彼は香港生まれで、創価大学の大学院生(博士前期課程)であった。
 一九七四年(昭和四十九年)一月、山本伸一は、香港を訪問した折、香港大学や香港中
 文大学などでの広東語の通訳として、当時、大学一年生の彼を起用した。
 まだ日本語にもたどたどしさがあり、決して上手な通訳とはいえなかった。
 しかし、さまざまな通訳の体験を重ねることで、一流の通訳に育ってほしいと、伸一は願望し、期待していたのだ。
 人類の平和と繁栄を願い、世界の指導者との対話を進めるには、各国語の優れた通訳が必要である。
 ましてや伸一の場合、仏法について論じることが多いため、通訳には、仏法用語等の正しく深い理解が求められる。
 未来を展望する時、それらを習得し、伸一の心を相手に伝えることができる通訳の育成が、極めて重要なテーマであったのである。
 七四年の香港訪問の時、彼は周志英に、今度、中国に行くので、そこでも通訳をするように言った。
 周は恐縮しながら、香港では広東語を使うが、中国は北京語であり、発音が全く異なるので通訳はできないと語った。
 もちろん、伸一は、よくわかっていた。
 「残念だな……。中国では、国家の指導者とも会見することになる。君が通訳をしてくれれば、安心なんだがな。いつかやってよ」
 その言葉が、周の胸を射貫いた。彼は、日本に戻ると、北京語の猛勉強を開始した。
 上達は目覚ましかった。創価大学での初の中国語弁論大会では、「特別賞」に輝いた。
 創価大学が中国政府派遣の留学生を受け入れると、習い覚えた北京語を駆使して、コミュニケーションを図った。
 そして、この第四次訪中には、北京語の通訳として参加し、奮闘していたのだ。
 使命を自覚し、志という種子を胸中にもってこそ、向学心は燃え、才能の芽は急速に育ち、開花する。志のある人は強い。
10  革心(10)
 錦江飯店での交歓の席で、山本伸一は、中国人民対外友好協会上海市分会の責任者である孟波に笑顔を向けた。
 孟波は一昨年、「中国上海京劇団」の副団長として来日していた。
 伸一は、その折、信濃町の聖教新聞社と八王子市の創価大学で、彼と交流する機会があった。
 創価大学では、体育館で行われた京劇団の公演も鑑賞した。
 さらに、同大学のグラウンドでの青年部ら五万人による歓迎大集会にも出席し、青年たちと共に一行を迎えた。
 歓迎大集会で伸一は、京劇団の一人ひとりと握手し、副団長の孟波とも言葉を交わした。
 そして、この大集会のあいさつで、「日中平和友好条約」の早期締結を訴え、日中の「金の橋」を未来永遠に輝かせていくためにも、文化・教育交流に、ますます力を注いでいきたいと語ったのである。
 二年ぶりの再会であった。孟波は言った。
 「一昨年の日本公演の際に、五万人もの青年たちに歓迎していただいたことは、忘れられない思い出です。
 また、何よりも、山本先生が訴えておられた、平和友好条約がいよいよ実現することになりました。感慨無量です」
 伸一は、ニッコリと頷いて、語った。
 「これからが、本格的な友好の流れをつくる時代です。いよいよ、本当の意味での「友誼の時代」が来たんです。
 私のあとには、私と同じ心をもつ、多くの若い世代が続いています。開きましょう、悠久の友好の大河を!」
 孟波は微笑を浮かべた。
 「山本先生は、二年前よりも、お若くなられたような気がします。大変に情熱的です」
 「ありがたいお言葉です。私たちは、永遠の青年でいこうではありませんか!」
 笑いが広がった。語らいは弾んだ。
 会う人の多くが旧知の間柄であり、友人であった。
 伸一は、初訪中の時、同行メンバーが緊張しきった顔で中国入りしたことが、まるで嘘のように思えるのである。
 知り合い、対話し、友好の絆で結ばれるならば、人と人との関係は一変する。友人になることは、心を結び合うことである。
11  革心(11)
 山本伸一の一行は、宿舎の錦江飯店から、上海体育館の見学に向かった。この体育館は、円形のモダンな建物で、最新の設備を備えていた。
 椅子席だけで一万八千人を収容でき、その椅子もボタン一つで自動的にセットすることができた。
 案内してくれたのは、馬風嶺館長である。
 伸一は、館長に尋ねた。
 「すばらしい建物です。建設にあたって、技術の輸入はあったのでしょうか」すぐに答えが、はね返ってきた。
 「いいえ。技術も、設備も、すべて、中国人民の努力と団結によるものです」
 「偉大なる中国人民の努力の姿に、心から敬意を表します。『四つの現代化』をめざす中国の躍進の姿を感じます」
 伸一は、今後、中国は、目覚ましい勢いで発展を遂げていくと思った。
 しかし、短日月のうちに、急速に現代化を進めるとなれば、さまざまな困難がともなうにちがいない。
 また、日本の例に見られるように、急激な発展は、公害問題など、多くの弊害をもたらすおそれがある。
 彼は、八億をはるかに超える人民のために、中国の現代化が成功することを、心から願わずにはいられなかった。
 一行は、上海体育館に続いて、近代中国の父・孫文が晩年を過ごした故居を訪れた。
 プラタナスの街路樹は、大きく枝を伸ばし、「緑のトンネル」をつくっている。
 旧フランス租界時代の建物が並ぶ住宅街の一角に、「孫中山故居」と書かれた洋館があった。「中山」とは、孫文の号(呼び名)である。
 故居には、孫文が使用した机や椅子、書籍が展示され、妻の宋慶齢の写真も飾られていた。書籍等は、当時のままであるという。
 遺品など、由来の品々には、いつ、どこで、どのように使われたかという物語がある。
 ゆえに、それは、故人を偲び、その生き方と行動、思想、精神を学ぶ大事な縁となり、時空を超えた「心の対話」の懸け橋となる。
12  革心(12)
 孫中山の故居に立って山本伸一は、孫文と宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との、友情を思い起こしていた。
 孫文は、一八六六年(慶応二年)に清国広東省・香山県(後の中山市)に生まれた。
 少年期をハワイのホノルルで過ごし、帰国後は、香港西医書院(香港大学医学部の前身)で医学を学ぶとともに、革命思想に傾倒していく。
 ポルトガル領であったマカオで医師として開業するが、彼の目は、疲弊し、病んだ祖国・中国(清国)の、息も絶え絶えな姿に向けられていった。
 清国は、八四年(明治十七年)に起こった、ベトナムの支配権をめぐるフランスとの戦い(清仏戦争)に敗れ、さらに、九四年(同二十七年)に始まった日清戦争にも負け、列強の脅威にさらされていた。
 また、清国内では、満州族による支配が続き、多くの人民の生活は貧しかった。
 孫文は、白衣を脱ぎ捨て、革命のメスを手にした。清朝を打倒し、民主主義国家をつくって祖国を救おうと、九四年、ハワイで秘密政治結社・興中会を結成。
 広州での蜂起を計画するが、失敗し、日本に亡命したのである。
 彼は、日本の明治維新に、中国における革命のあるべき姿を見ていた。
 日本では、宮崎滔天をはじめ、多くの日本人が、彼に協力を惜しまなかった。
 住まいの面倒をみることから、運動の資金や生活費の援助も行っている。
 欧米列強がアジアを次々と侵食していくなかで、新しいアジアをつくろうとする孫文の理想に共感したのである。
 国家、民族を超え、壮大なロマンによって結ばれた、友情と信義の絆であった。
 崇高な志による人間の結合は、新しい時代を創造する新しい力となる。
 宮崎は、孫文と初めて会った時、その風貌に軽さを感じ、失望を覚えた。
 しかし、語り合うなかで、感嘆するのだ。
 そして、自らを反省し、こう記した。
 「いたずらに外貌によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚だ多し」)
13  革心(13)
 宮崎滔天は、孫文という人物を知り、深い尊敬の念をいだく。
 彼は、自らの半生を綴った『三十三年の夢』に、孫文への思いをこう述べている。
 「彼、何ぞその思想の高尚なる、彼、何ぞその識見の卓抜なる、彼、何ぞその抱負の遠大なる、しかして彼、何ぞその情念の切実なる。我が国人士中、彼の如きもの果して幾人かある、誠にこれ東亜の珍宝なり」(宮崎滔天著『三十三年の夢』岩波書店)
 その後、宮崎は、孫文の中国革命を支援して、東アジア各地を駆け回る。そこには、私利私欲など、全くなかった。
 この『三十三年の夢』のなかで彼は、孫文の思想、人物を描き、讃嘆した。この本は、多くの中国人留学生の目に触れ、また、中国語にも翻訳されていった。
 そして、それが清朝を倒し、中華民国を樹立することになる辛亥革命に、大きな影響を与えたといわれる。
 なお、辛亥革命という名は、革命の起きた一九一一年(明治四十四年)が、干支の「辛亥」の年に当たることに由来している。
 宮崎は、「理想は実行すべきものなり、実行すべからざるものは夢想なり」(同前)と、自らの信条を綴った。理想は行動と共にある。
 また、孫文への資金面での支援者に、梅屋庄吉がいる。
 長崎県で貿易と精米業を営む家に育った彼は、少年時代に上海へ行き、租界で、欧米人によって差別され、屈辱を味わう中国人の姿を目の当たりにした。
 その十余年後、香港で写真館を開き、孫文と知り合う。孫文は、情熱を込めて訴えた。
 ──眠れる祖国を目覚めさせ、列強に抗する国をつくり、人民を救済せねばならぬ、と。梅屋の心は燃え上がり、孫文に蜂起を勧め、資金の援助を約束する。
 梅屋は、この約束を破ることはなかった。
 映画事業に着手し、手腕を発揮して財を得ると、惜しまずに孫文の活動資金として提供した。
 孫文は、蜂起を繰り返すが、ことごとく失敗に終わった。
 しかし、次第に、中国各地に革命の機運はみなぎり、遂に、辛亥革命が起こり、共和制国家がスタートしたのだ。
14  革心(14)
 辛亥革命により、一九一二年(明治四十五年)一月、南京に、孫文を臨時大総統とする中華民国政府が誕生した。
 清朝を代表して、この革命政府との講和にあたった内閣総理大臣の袁世凱は、清の宣統帝溥儀を退位させ、孫文に代わって、自分が中華民国の臨時大総統となった。ここに清朝は滅びたのである。
 袁世凱は、孫文らの弾圧に乗りだす。
 正式に大総統に就任した彼は、独裁化の一途をたどり、帝政を復活させ、自ら皇帝となることを目論む。孫文が描いた革命の理想とは、正反対の事態を招いていくのだ。
 文豪ビクトル・ユゴーは叫ぶ。
 「私利私欲から発した動きと、主義主張から生まれた動きとをはっきり区別して、前者と戦い、後者を助ける、これこそ偉大な革命家たちの天分であり、道義なのである」(注=2面)
 人間のもつ利己心の克服、つまり、人間革命あってこそ、真実の革命の成就がある。
 一五年(大正四年)、日本は、権益拡大のために、第一次世界大戦に乗じて山東省におけるドイツの権益の継承や南満州権益期限の延長など、二十一カ条の要求を中国に突き付けた。
 多少の修正はあったものの、袁世凱は、これを受諾。中国人の対日感情は悪化した。
 孫文は日本にいて、強い憤りの日々を送っていた。梅屋庄吉に取り持ってもらい、宋慶齢と結婚したのも、この日本滞在中である。
 翌年四月、彼は、政府打倒を決意し、東京を発つが、六月に袁世凱は病死する。
 一七年(同六年)、孫文は、広州で広東軍政府を樹立。
 しかし、政府内に生じた路線対立によって窮地に立たされ、またしても、日本に亡命する。
 一七年にロシアではロシア革命が起こり、ロマノフ王朝が倒れ、ソ連邦が成立した。世界史上、初の社会主義国家が誕生したのだ。
 一九年(同八年)一月、第一次大戦後のパリ講和会議によって、日本の二十一カ条要求がほぼ認められ、山東省の権益もドイツから日本が受け継ぐことになったのである。
15  革心(15)
 日本の中華民国政府に対する二十一カ条要求がほぼ認められてしまったことは、中国の人びとにとって、最大の恥辱であった。
 反日愛国運動の火は、中国全土に広がっていった。いわゆる「五・四運動」である。
 また、日本は、この前年の一九一八年(大正七年)、米英仏などとともに、ロシア革命への干渉のため、シベリアに出兵。ほかの国々が撤退したあとも駐留し続けていた。
 こうした日本の大陸進出が、中国の不安と脅威を駆り立てたことはいうまでもない。
 一九年(同八年)十月、孫文は、民族主義、民権主義、民生主義の「三民主義」を政綱に掲げて中国国民党を結成し、党首となった。
 民族主義は、国内諸民族の平等と他国の圧迫からの独立をめざすものだ。
 民権主義は、主権在民を説くものであり、民生主義は、経済的な不平等の是正を目的として、社会的平等を実現しようというものであった。
 孫文の理想は遠大であり、どんな困難にも、どんな裏切りにも屈しなかった。
 固く、強い、鉄の信念があったのである。
 彼は、高らかに訴える。
 「わが心が、これは行ないうると信ずれば、山を移し海を埋めるような難事でも、ついには成功の日を迎える。
 わが心が、これは行ないえぬと信ずれば、掌をかえし枝を折るような容易なことでも、成功の時は来ない」(注)
 大望の成就は、自身を信じて、必ず成し遂げると、心を定めることにある。
 二一年(同十年)には、上海で中国共産党が創立される。
 孫文は、ソ連との友好、提携を深めるなかで、二四年(同十三年)、軍閥、帝国主義を打倒するため、中国国民党を再編成して、中国共産党との国共合作に踏み切る。
 そして、この年十一月、北京に向かう途次、日本を訪れ、兵庫の県立神戸高等女学校で講演する。
 ──日本は、西方覇道の手先となるのか、東方王道の守護者となるのか、と。渾身の力を振り絞るようにして、欧米列強の帝国主義に追随する日本を諫めたのだ。
16  革心(16)
 北京に向かった孫文の体は、既に病に侵されていた。
 一九二五年(大正十四年)三月、彼は、北京で五十八歳の生涯を閉じる。
 彼の最期の言葉とされるのが、「現在、革命、なおいまだ成功せず」(注)である。
 悪と戦い続けることが、革命の道である。
 孫文亡きあと、国民党右派の蒋介石は、国民革命軍総司令となるが、共産党との対立姿勢を明らかにし、南京に国民政府を樹立。第一次国共合作は崩れ去ったのである。
 孫文の妻・宋慶齢は、夫の死後、国民党の中央執行委員となった。
 彼女の妹・宋美齢は、蒋介石の妻である。
 しかし、宋慶齢は、ソ連との協力、共産主義の容認という孫文の政策を貫くことを訴え、蒋介石に抗議している。
 三一年(昭和六年)、満州事変が起こる。
 宋慶齢は、国民党と共産党は、互いに協力して抗日戦を展開すべきであると、国共合作を強く主張。
 日中戦争を機に第二次国共合作が成る。
 だが、戦後は両者の争いが激化し、中国は内戦状態になっていった。そして、国民党は共産党に敗れ、蒋介石は台湾に去る。
 宋慶齢は、孫文の志を受け継ぐ道を、共産党に見いだしていた。
 四九年(同二十四年)の中華人民共和国誕生後は、中央人民政府副主席、国家副主席を務めるなど、新生・中国を支えてきた。
 彼女は、山本伸一の第四次訪中の時には、既に八十五歳の高齢であったが、全人代常務委員会副委員長に就いており、国家を代表する存在として活躍していたのである。
 九月十一日夕刻、伸一は、孫中山故居を見学しながら、同行のメンバーに語った。
 「なぜ、国民党は、共産党に敗れたのか。
 さまざまな要素があったと思うが、人民の支持を得られなかったことだ。
 国民党には、幹部が私腹を肥やすなど、腐敗、堕落が横行していた。
 人びとは、そうした姿に失望し、心が離れていった。革命の理想を体現するのは人だ。
 人間の生き方がすべてだよ」
17  革心(17)
 孫中山故居の参観を終えた山本伸一の一行は、中庭に出た。
 そこには、木々が茂り、青々とした芝生が広がっていた。
 一行は芝生に腰を下ろし、しばし懇談の機会をもった。
 山本伸一は、訪中団の青年たちに視線を注ぎながら語り始めた。
 「孫文先生の生き方のなかには、天道という考え方が確立されていた。
 たとえば、人間を抑圧することは、天に逆らうことであり、それに抵抗することは、天に従って行動しているとする考え方だ。
 この天道に従うという考えのもとに、革命を組み上げていった。
 だから、そこには、自分を律する力が働き、困難に屈しない力が湧く。
 「法」が根本になければ、結局は、崇高な理想を掲げた運動も欲望に蝕まれ、頓挫してしまう。
 いかなる革命も、人間革命なくしては、本当の意味で成就することはできない」
 孫文は、訴えている。
 「革命事業をなすには、どんなことから始めたらよろしいのか。
 それにはまず、自分の心の中からはじめ、自分がこれまでもっていた良くない思想・習慣や性質、野獣性、罪悪性や一切の不仁不義な性質をすべて取り除かなければなりません」(「陸軍軍官学校開校演説」(『孫文選集 第2巻』所収)庄司荘一訳、社会思想社)
 さらに、こんな言葉も残している。
 「ただ、われらは、中国の改革と発展を、既に自らの責任と定めているのだ。
 何があろうと、生ある限り、その心を断じて死なせない。
 失敗しても落胆せず、困難に遭っても後退してはいけない。
 全身全霊を注いで勇往邁進していく。
 世界の進歩の潮流と合致し、『善は栄え、悪は滅びる』という天の法則に則るならば、最後は必ずや成功を勝ち取ることができる」(〓沢如および南洋国民党員への書簡」〈『孫中山全集 第3巻』所収〉中華書局)
 それはまさに、仏法という生命の法理のもと、世界の平和と人類の幸福の実現、すなわち広宣流布をわが使命として立ち上がった、創価の同志の生き方、確信に通じよう。
 私利私欲、立身出世といった「小物語」を超え、人びとのため、世界のためという「大物語」を編むなかに、人生は真実の輝きを放つ。
18  革心(18)
 孫中山故居から宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一たち一行は、上海市の関係者が主催する歓迎宴に出席した。
 あいさつした伸一は、北京からわざわざ駆けつけてくれた、中日友好協会の孫平化秘書長の労に、深い感謝の意を表するとともに、「日中平和友好条約」の締結という大きな歴史の節に、中国を訪問できた喜びを語り、胸中の決意を披瀝した。
 「今回の訪中を、新段階における日中友好の『金の橋』を、永遠に崩れないものとするための、本格的な第一歩としてまいる所存でございます」
 さらに、一昨年六月に「中国上海京劇団」が訪れた創価大学には、中国の未来を担う留学生も学んでおり、また、周総理を偲ぶ「周桜」も記念植樹されていることを述べ、こう話を続けた。
 「もし、周総理がご健在であれば、どれほどか、『日中平和友好条約』を喜ばれたことでありましょう。その条約は、遂に、調印されました。
 しかし、日中の平和と友好を築き上げるという私たちの目的は、まだ達成されたわけではありません。
 『画餅に帰す』との言葉があります。絵に描いた餅は食べられないことから、考えや計画が失敗に終わることをいいます。
 条約は、調印されたとしても、これまでの諸先生方のご苦労を偲び、その条約の文言に血を通わせていかなくては、条約は一枚の紙と同じことになってしまいます。
 断じて、そうさせてはならない。
 私どもは、日中の友好こそが、アジアの平和、世界平和の大きなカギになることを知っております。
 新しい時代の、新しい出発のために、誠心誠意、力を尽くし、世々代々にわたって、日中友好の永遠の流れを開いてまいります」
 伸一は、文化・教育の交流をもって、人びとの相互理解と信頼を育み、心を結び合わせようとしていた。
 それこそが、万代の平和の礎であると確信していたからである。
19  革心(19)
 中国訪問二日目となる九月十二日、訪中団一行は、宿舎の錦江飯店で、中日友好協会の孫平化秘書長らと共に朝食をとった。
 山本伸一と妻の峯子は、孫平化と円卓を囲んだ。孫の前には、焼いたメザシ、冷や奴、味噌汁などが並んでいた。
 円卓に着いた孫は、驚きの声をあげた。
 「おおっ、これは、メザシですね! そして、冷や奴! 味噌汁ではないですか!」
 峯子が、にこやかに微笑みながら答えた。
 「前回、中国を訪問させていただきました時に、孫先生は、日本に留学されていたお話をされ、メザシや、お豆腐の味が忘れられないと言われていたものですから……」
 伸一が、峯子の話を受けて語り始めた。
 「最初の中国訪問の時から、孫先生には、大変にお世話になってきました。
 私たちの感謝と御礼の気持ちを、どうやって表せばよいか、妻と話し合いました。
 そして、孫先生が、留学時代の日本での食事を、懐かしがっておられたことを思い出したんです。
 『では、日本から、メザシや豆腐などを持参して食事を作り、召し上がっていただこう』ということになったんです。
 これは、妻が作りました」
 「お口に合いますかどうか……」
 伸一と峯子は、そもそも、食材を持ち込むことができるのか、豆腐を崩さずに、どう運ぶかなど、真剣に語り合ったのである。
 「どうぞ、冷めないうちに、お召し上がりください」
 峯子に促され、孫は箸を手にした。好々爺そのものの顔で、メガネの奥の目を細め、嬉しそうにメザシを口に運んだ。
 「懐かしい味です。おいしい! 山本先生と奥様の真心が染み渡ります」
 「孫先生に、そこまでお喜びいただき、本当によかったです」
 伸一が、こう言って相好を崩した。
 それは、伸一と峯子の小さな気遣いであったが、そこには″心″があった。この真心の触れ合いこそ、「友好の魂」といえよう。
20  革心(20)
 孫平化は、一九一七年(大正六年)に中国東北部の奉天省(後の遼寧省)に生まれている。
 その十五年後、日本は、この中国東北部に傀儡国家「満州国」を建国するのである。
 日本の高校にあたる「高級中学」を優秀な成績で卒業した彼は、進学はせずに、「満州国」経済部税務局の関税課に勤めた。
 彼には、早く収入を得て、母に恩返しをしたいとの強い思いがあった。
 しかし、職場で実権を握っているのは日本人である。
 また、大学を出ていない彼の役人としての地位は低く、将来に希望を見いだすことはできなかった。
 暗澹たる思いをいだいていた時、友人に日本への留学を勧められた。
 「だめか」と思った留学生の試験に合格し、日本に渡ったのは、三九年(昭和十四年)、二十一歳の時であった。
 東京工業大学付属予備部に学び、さらに、同大学の応用化学科に進んだ。
 時代は、太平洋戦争に突入していった。四三年(同十八年)夏、彼は、四年半にわたる留学生活の末に帰国し、そのまま大学を辞めてしまった。
 中国共産党に入党し、「満州国」のハルビンで銀行員をしながら、地下活動を続けた。
 やがて戦争が終わると、中国では共産党と国民党の争いが激しさを増した。
 多くの人民は共産党を支持し、四九年(同二十四年)十月、中華人民共和国の成立を迎えるのである。
 日本留学の経験をもつ孫平化には、「対日接待」の仕事が与えられた。
 これが、彼が中日友好に従事するようになるきっかけとなったのである。
 彼は、後年、中日友好協会の会長を務めるが、自身の実感を、こう綴っている。
 「私がいつも思うのは、中日友好でも、日中友好でも一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。お互いに心と心で付き合う友情が大事だと考えている」(注)
 これが、新中国誕生以来、中国と日本の友好に人生を捧げてきた人の信念の言である。心なき友好には、果実は実らない。
21  革心(21)
 十二日、朝食を済ませた山本伸一の一行は、上海の中心部から十五キロほどのところにある、周西人民公社を参観した。
 一行が到着すると、公社の人たちは銅鑼を打ち鳴らし、子どもたちは風船や花を手に持って歓迎してくれた。
 「山本先生が、中日友好に尽力されたことを、皆、知っているんです」
 孫平化が、伸一に言った。
 周西人民公社は、およそ五千戸、一万八千人ほどからなっているという。
 白い綿をつけた畑や青々と穂が育つ水田、野菜畑が広がっていた。
 一行は、水利施設、縫製工場、農業機械工場、病院などの諸施設に案内された。
 現代化に向かい、皆、喜々として働いていた。なかでも若い女性たちの姿が目立った。
 トラクターなど、農業機械の部品を作る工場でも、男性に互して、はつらつと仕事に取り組んでいる。
 公社の関係者によれば、中国では、いたるところに女性が進出し、上海の街を走るトロリーバスの運転手はもとより、空軍のパイロットにも女性がいるという。
 伸一は、未来を展望する時、女性の社会進出は、とどめることのできない時代の趨勢であろうと思った。
 日本にとっても、社会のあらゆる分野で女性の能力を生かしていくことは、極めて重要なテーマとなる。
 そのためには、制度をはじめ、女性が働きやすい環境づくりが求められることはいうまでもない。
 そして、その根本の第一歩こそ、男性の意識改革であろう。
 従来の「女性は家にいて家事をこなし、子育ては女性が行うもの」という発想も、転換が迫られる時代を迎えたといってよい。
 時とともに生活様式など、さまざまな事柄が、大きく変わっていく。変化、変化のなかで人は生きていかざるを得ない。
 ゆえに、自身の観念や、これまでの経験にばかり固執するのではなく、変化への対応能力を磨いていくことが、よりよく生きるための不可欠な要件となる。
22  革心(22)
 人民公社の随所に、白地に赤い文字や、あるいは、赤地に白い文字で、スローガンが大書されていた。
 上海の空港にも、「世界人民大団結万歳」と書かれていたが、人民公社にも、同じスローガンが掲げられていた。
 山本伸一の目を引いたのは、「華国鋒主席と共に新しい長征を始めよう」という意味のスローガンであった。
 中国では、文化大革命にピリオドを打ち、華国鋒主席と共に開始する「四つの現代化」を、「新しい長征」ととらえていたのである。
 伸一は、人民公社で働く青年に尋ねた。
 「あなたにとって、『新しい長征』とは、何をすることですか」
 すかさず答えが返ってきた。
 「この人民公社での仕事を通して、現代化を支えることです。
 人民のために、働き、努力し、工夫し、人びとの暮らしを豊かなものにすることです。
 私たちの世代は、長征に参加することはできませんでした。
 しかし、今、人民に尽くそうと、武器を工具に替えて戦っています。
 そこに、『長征の精神』があると思います」
 清らかな瞳の青年であった。
 「すばらしい決意です。崇高な心です。感嘆しました。未来は、あなたたち青年の双肩にかかっています。健闘を期待します」
 伸一は、こう言うと、訪中団のメンバーに語った。
 「これから中国は、大発展していくよ。青年が真剣だもの。現代化に対する皆の覚悟を感じるもの」
 その国の未来を知りたければ、青年と語ればよい。青年に、人びとのため、社会のために尽くそうという決意はあるか。
 向上しようという情熱はあるか。努力はあるか──それが、未来のすべてを雄弁に語る。
 この十二日の午後には、一行は、上海の楊浦区少年宮を訪問した。
 少年宮は、少年少女のための課外活動の施設で、上海には、各区に、それぞれ少年宮があるという。
23  革心(23)
 「熱烈歓迎!」
 楊浦区少年宮では、半ズボン・スカート姿の少年・少女たちが、ネッカチーフや花を振って、元気に訪中団一行を出迎えてくれた。
 「謝謝!」(ありがとう!)
 山本伸一、峯子をはじめ、一行も盛んに手を振って歓迎に応えた。
 伸一は、「今日は、若いお友だちとお会いできて嬉しい」と言いながら、一人ひとりと握手していった。
 十一歳だという少年と少女が進み出て、伸一と峯子に言った。
 「皆様の来訪を心から歓迎します」
 「今日は、私たちが、ご案内します」
 はきはきとした、ものおじしない、落ち着いた態度である。伸一は少女に語りかけた。
 「どうもありがとう。お父さん、お母さんにも、よろしくお伝えください」
 「はい! 先生のお子さんは、何人いらっしゃいますか」
 伸一は、ユーモアを交えて答えた。
 「三人です。みんな男の子です。男ばかりなので、女の子がほしいんです。あなたを、私の娘だと思っていいですか」
 「はい。かまいません」
 「それでは、お父さん、お母さんにも、ごあいさつに伺わないといけませんね。あなたのご一家は、どこに住んでいるんですか」
 「この近くです」
 「そうですか。でも、今日は、お伺いする時間が取れません。残念です」
 すると、少女は、笑みを浮かべて言った。
 「先生は、また上海においでになりますよね。その時は、ぜひ私の家に来てください」
 「はい。あなたも、将来、きっと日本に来てください。大歓迎します」
 「大きくなったら、必ず日本へ行きます」
 「嬉しいです。待っています!」
 自然な対話、心の触れ合いが、友好を育んでいく。
 伸一は、小さな胸にも、友好の種子を植えようと懸命であった。それは、やがて花を咲かせ、実を結ぶ時が必ず来るからだ。
24  革心(24)
 少年宮の責任者は、訪中団一行に語った。
 「この少年宮では、放課後に、文芸、体育、科学技術、工芸、音楽などの教育を行っています。
 現在、毎日、千人ほどの児童が通って来ております」
 山本伸一たちは、合唱室、バイオリン室、民族楽器室、ハーモニカ室、舞踏室、卓球室などに案内された。
 教師の指導のもと、真剣に練習に励む児童の姿が印象的であった。
 合唱室では、子どもたちが、北海道民謡の「ソーラン節」を日本語で披露してくれた。
  ♪ヤーレン ソーラン ソーラン……
 「ハイハイ」──伸一が合いの手を入れ、手拍子を打つと、訪中団一行が続いた。心は一気に解け合った。
 歌や楽器演奏、舞踊、絵画、スポーツ、料理等々、芸術、芸能、文化は、民族、イデオロギー、国境を超えて、人間が心と心を結び、握手を交わす手となる。
 合唱が終わると、伸一は言った。
 「謝謝! 謝謝! 上手です。日本の私たちへの最高のプレゼントをいただきました」
 一行は、児童たちと卓球にも興じた。子どもたちは、武術も披露してくれた。
 伸一は、訪問の記念に、コマ、けん玉、風船などの遊び道具や、創価の学舎に通う児童、生徒から託された絵画などを贈った。
 子どもたちは、真心と友情のプレゼントに目を輝かせ、こぼれるような笑みを浮かべて、喜びを表現していた。
 少年宮の子どもたちからは、お礼として、切り絵、墨絵、習字、版画が贈られた。
 「今日は、本当にありがとう。日本の子どもたちに、皆さんのことを、必ず伝えます。
 大きくなったら、ぜひ日本へ来てください」
 そして、皆で記念のカメラに納まった。
 友誼の泉は、未来へ、子々孫々へと、大河となって流れなければならない。
 伸一は、一過性の交流に終わらせぬために、ありとあらゆる努力を重ねようとしていたのだ。
25  革心(25)
 九月十二日の夜、山本伸一たち訪中団一行は、雑技団の公演に招待された。
 雑技は、曲芸などを行うもので、上海の雑技団の高い技術は、よく知られている。
 何本もの棒の先で皿を回したり、額の上に大きな扇を立てたまま踊ったり、難度の高い、華麗な演技に会場は沸き返った。
 伸一は、上海の雑技団も、いつか民音(民主音楽協会の略称)で招聘し、日本で友好のシンボルとして公演できるようにしたいと、強く思った。
 翌十三日午前、伸一は、創価大学の創立者として、復旦大学を訪問した。
 一九七五年(昭和五十年)に引き続き、教育交流の一環として、図書を贈呈するためである。
 伸一の一行が、贈呈式の会場となる物理館の前で車を降りると、学生や教員たちが大拍手で迎えてくれた。
 玄関には、中国の正装である中山服に身を包んだ、小柄な蘇歩青学長の笑みがあった。
 彫りの深い顔に刻まれた幾筋もの皺が、蛍雪の年輪を感じさせた。
 初対面であったが、温かい眼差しに旧知のような親しみを覚えた。
 「ようこそ、復旦大学へおいでくださいました。お待ちしておりました」
 こう言って差し出された学長の手を、伸一は、「お世話になります。お会いできて嬉しいです」と言いながら、強く握り締めた。
 蘇学長は、微分幾何学の世界的な大家であり、一九一九年(大正八年)から十二年間、日本に留学している。
 東京工業高等学校(後の東京工業大学)を卒業後、東北帝国大学(後の東北大学)の理学部数学科に進み、理学博士の学位を取得。現代中国の数学界の基礎を築いた一人である。
 名声ゆえに、文化大革命の時には、「ブルジョア」「反革命」とされて、吊し上げられ
 た。その嵐がようやく収まり、この七八年(昭和五十三年)、学長に就任したのだ。
 「真実はつねに迫害を克服する」(注)とは、フランスの思想家ボルテールの言葉である。
 伸一は、中国の未来に明るい兆しを感じた。
26  革心(26)
 蘇歩青学長は間もなく七十六歳を迎えると、山本伸一は聞いていた。
 しかし、背筋をまっすぐに伸ばした、矍鑠とした姿は、とても、その年齢には見えなかった。
 図書贈呈式は物理館の会議室で行われた。
 復旦大学からは、学長のほか、副学長、図書館長、経済学部・歴史学部の教授ら教職員、学生の代表が出席した。
 贈呈式のあいさつで伸一は、同大学を再び訪問できた喜びを述べ、関係者の歓迎に謝意
 を表した。
 また、今回の第四次訪中は、「日中平和友好条約」の締結の時となり、未来への新たな決意に燃えていると訴えたあと、図書贈呈への心情を語った。
 「私どもの真心として、自然科学関係の専門書等、一千冊を寄贈させていただきたい。
 『四つの現代化』をめざす中国にとって、少しでもお役に立てばとの思いからであります」
 そして、日中交流の歴史を振り返った。
 「両国には、戦争という不幸な時代もありました。しかし、平和の時代の人びとの往来
 は、両国の文化の発展に大きく寄与してきました。
 古くは、日本から遣隋使や遣唐使が貴国の先進的な文化を学びました。
 近くは二十世紀に入ってからも、貴国の偉大な指導者であられた周恩来総理をはじめ、
 多くの方々が日本に留学されました。
 また一九〇四年(明治三十七年)に仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)に学ん
 だ魯迅先生と、解剖学の教授であった藤野先生との心温まる交流は、日中の国境を超えた友誼を象徴するエピソードです。
 蘇歩青学長も仙台の東北大学で学ばれたと伺っております。こうした教育面の交流は、
 両国の文化を豊かにし、明るい未来創造の大きな力になっています」
 友誼の絆を永遠のものにしていくには、大学交流は極めて重要になる。
 政治や外交の世界で、日中関係が揺らぐことがあったとしても、学術・教育の交流があれば、中国の将来を担う若きリーダーたちと相互理解を図り、より強い友情の絆を結ぶことができるからだ。
27  革心(27)
 あいさつで山本伸一は、「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」との願いを込めて創立した創価大学で、中国からの留学生が真剣に勉学に励んでいる様子や、大学構内には、周総理を偲ぶ「周桜」が植樹されていることを報告した。
 さらに、この四月から、新たに二人の中国の女子留学生が創価大学に来ていることを紹介し、こう語った。
 「私は、こうした地道な交流によってこそ、一人ひとりの心のなかに友情と信頼の絆が結ばれていき、それが未来に絢爛たる友誼の花を咲かせていく原因となっていくことを確信しております。
 私は、今は目立たなくとも、コツコツと文化と教育の交流の道を歩んでいく決意です。
 特に教育は、国の未来を決定しゆく、最も大切な分野です。
 お互いに良い面を学び合い、優れた点を取り入れていく
 ――こうした教育交流の広がりは、これから、ますます大事であり、共に力を合わせて進んでまいりたいと念願しております」
 共感の拍手が広がった。
 あいさつを終えた伸一は、蘇歩青学長に、一千冊の贈呈目録と、その本の一部を手渡した。再び、大きな拍手が会場に響いた。
 続いて、学長が、あいさつに立った。
 訪中団一行への歓迎の思いを伝え、感慨無量の面持ちで訴えた。
 「皆さんが、中日両国人民の友誼を守り、発展させるために払われた絶え間なき努力を、高く評価しています。
 とりわけ、山本先生が一貫して中日平和友好条約の締結を支持してきたことに、深い感銘をいだいております」
 「中日平和友好条約の締結」との言葉を口にした時、心なしか、学長の目が潤んだ。
 多感な青年時代に、日本で暮らし、学んだ人である。戦争という国と国との反目、対立を超えて、多くの日本の友との友情に結ばれていたにちがいない。
 真の平和友好とは、人びとの心の大地に、友情の根が、無数に張り巡らされてこそ、成り立つといえよう。
28  革心(29)
 復旦大学での図書贈呈式を終えた山本伸一の一行は、十三日午後、上海から急行列車で蘇州へ向かった。
 当初、一行は、上海から無錫へ、直接行く予定であったが、「天上に天国あり、地上に蘇州、杭州あり」といわれる、江南の景勝地を案内しようとの中国側の配慮で、蘇州に一泊することになったのである。
 車中、三年五カ月ぶりに訪れた上海の印象を語り合った。街では、パーマをかけた女性の姿が目についたことなどが話題になった。
 「中国は変わりつつありますね。女性たちの表情が、生き生きとしています。自由を手に入れた喜びと、新しい時代を担おうとする気概が伝わってきました。中国は、これから急速に発展していくのではないでしょうか」
 それが、婦人部の感想であった。
 また、伸一は、中日友好協会の孫平化秘書長とも、友好の在り方について話し合った。彼とは、四年前に中国を初訪問した折、どのようにして、日中の友好を永遠ならしめていくかについて意見交換したことがあった。その時、孫秘書長が、魯迅の『故郷』の一節を引いて語った言葉が忘れられなかった。
 「『もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』(「故郷」(『魯迅選集 第1巻』所収)竹内好訳、岩波書店)――魯迅先生は、こう言われております。
 私は、友好の道というものも、そうして出来上がると思っています。たくさんの人が、一歩、また一歩と、踏み固め、行き来する。その積み重ねが、平和の大道となっていく。それは、一朝一夕では、決してできません」
 その時、伸一は、こう答えた。
 「全く同感です。私も妻も、これから、何度も中国にまいります。いいえ、私たちだけでなく、多くの若い世代も連れてまいります。日中の平和友好のために、未来のために、共に道を開きましょう」
 この語らいを、孫秘書長もよく覚えていた。
 「先生は、その通りに行動され、立派な道をつくられ続けています。感謝します」
 二人は、あらためて固い握手を交わした。
29  革心(30)
 蘇州に向かう車窓には、のどかな田園風景が果てしなく広がっていた。二期作目なのか、緑の稲が風にそよいでいた。時折、水牛の背に乗った子どもたちの姿も見える。
 縦横に走る水路に、白い帆をかけた小さな舟が、ゆったりと波を立てていた。
 山本伸一たち訪中団一行が、″水の都″と呼ばれる蘇州に着いたのは、午後三時過ぎであった。上海から一時間半ほどの旅である。
 蘇州は、″庭園の都″でもある。「江南の庭園は天下一、蘇州の庭園は江南一」といわれ、かつては二百余りの庭園があったという。
 一行は、中国四大名園の一つとされる拙政園に案内された。この庭園は、十六世紀初め、明の時代に造られたもので、五万平方メートルを超える敷地に大小の池や水路があり、築山や回廊、東屋が、見事に配置されていた。一幅の名画を眺めるようであった。
 さらに、唐時代の詩人・張継が詠んだ詩「楓橋夜泊」で有名な寒山寺を見学。夜には、真心こもる歓迎宴が行われた。
 今回の訪問では、この蘇州見学をはじめ、随所に中国側の配慮が感じられた。
 たとえば、このころ中国は、まだ自動車の数は少なかった。人びとの足は、たいてい自転車であった。そうしたなかで、上海でも、蘇州でも、一行の移動はバスではなく、メンバー一人ないし二人に、乗用車一台が提供されたのである。
 訪中団の一人が、そのことを話題にした時、中日友好協会の孫平化秘書長は、力を込めて語った。
 「それは、山本先生をはじめ、創価学会の皆さんが、どんな思いをされて、中日友好の流れを開かれてきたか、また、それが歴史的にいかに偉大なことであったかを、私たちはよく存じ上げているからです。山本先生がおられたからこそ、中日国交正常化があり、平和友好条約の締結にいたった。その信義と恩義とを、私たちは永遠に忘れません」
 友好と平和の花園をつくる作業は、「信義」を貫き、信頼の土壌を耕すことから始まる。
30  革心(31)
 九月十四日、山本伸一ら訪中団一行は、刺しゅう研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺しゅうができあがる工程を見学した。
 最初に案内された部屋には、高さ二メートルの六面のびょうぶがあった。梅、山茶花、竹に鳥を配した、美事な構図と鮮やかな色彩に、一行は目を奪われた。驚いたことに、びょうぶの裏面も同一の絵柄の刺しゅうになっていた。
 伸一が、精緻な技術に感嘆しながら、作業を見ていると、担当者が語り始めた。
 「蘇州の刺しゅうは、伝統的に家内手芸として伝えられてきました。しかし、中華人民共和国が建国されてからは、研究所をつくって、技術の向上や後継者の育成に力を注いでいくようになりました。
 その結果、糸は千種類を数え、刺繍のさし方も、十八種類から、五十種類に増えました。
 また、文化大革命の時代は、デザインも画一化され、労働の姿を強調する作品が中心でしたが、今は、さまざまなものが描けるようになりました。万里の長城などの景色や、花鳥魚虫の類いにも取り組んでいます」
 文革の時代が終わり、自由の風が吹き始めたことを、心から喜んでいる様子であった。
 自由なくして人間の幸福はない。しかし、自由を手に入れ、幸福を確立するためには、一人ひとりが、自身を律し、向上させていくことが不可欠である。いわば、人間革命の哲学が求められよう。伸一は、それこそが今後の大きなテーマになるであろうと思った。
 刺しゅう研究所に続いて、一行は、蘇州市内の北西部にある景勝地「虎丘」を訪ねた。
 虎丘は、二千五百年前、春秋時代の呉王・闔閭が埋葬されて三日、白い虎が蹲っていたという伝説から、「虎丘」と名づけられたとされる。
 三十メートルほどの丘の頂には、八角七層のレンガ造りの虎丘塔(雲岩寺塔)がそびえ立つ。塔の高さは四十七、八メートルほどあり、完成は西暦九六一年である。塔は、地盤沈下によって約三度傾き、「東洋の斜塔」といわれているとのことであった。
31  革心(32)
 山本伸一たちは、虎丘塔をバックに記念撮影し、塔の下の休憩所で、蘇州市の関係者と懇談のひと時をもった。伸一は言った。
 「皆さんへの御礼の心を込めて、私が作詞した歌を披露いたします。
 この歌は、日本の中国方面の友に贈る歌として作りましたが、今回、歌詞を一部、手直しして、中国語に翻訳してもらいました。また、歌のタイトルを『愛する中国の歌』として皆さんにお贈りし、友情の証とします。
 よろしければ、中国語の歌詞を見ながら皆さんにも、歌っていただければ幸いです」
 中国語の歌詞が配られた。一行が持参してきたカセットデッキから流れる、「愛する中国の歌」の調べに合わせ、訪中団の通訳を務める周志英が歌を披露した。
 次いで、蘇州の人たちが、歌い始めた。しかし、一度、聴いただけとあって、皆の声が詰まった。すると、周志英だけでなく、訪中団メンバー全員が中国語で歌いだし、合唱を応援した。
 そのあと、訪中団が日本語で熱唱した。
  ♪轟く歓喜の 中国に
  平和の船出も にぎやかに
  ああ紅に 友は燃え 友は燃え
  進み跳ばなん 手と手結びて……
 歌い終わると皆が拍手し、互いに讃え合った。蘇州市の関係者が口々に感想を述べた。
 「いい歌詞です。山本先生の中国を思う、お心がよくわかります」
 「歌いやすい曲です。もう覚えましたよ」
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「ありがとうございます。
 私どもは、この歌を歌うたびに、皆さんを思い出すでしょう。蘇州に友情が広がったことは、大きな収穫です。嬉しいです」
 歌は心を結び合う。歌に込められた歓喜や希望、愛、友情、そして、平和を願う心などは、人類共通の思いである。ゆえに歌は、同じ人間としての魂の共鳴をもたらす。
32  革心(33)
 九月十四日の午後三時、山本伸一たち訪中団一行は、蘇州から列車で無錫に移動した。無錫駅には、四、五十分で到着した。
 ここでは、中国の四大湖の一つである太湖を遊覧しながら、無錫市の関係者らと、友誼の語らいが弾んだ。
 翌十五日は、陶器の生産で有名な江蘇省宜興県の「宜興紫砂工芸工場」を訪問。さらに百五十万年前にできたとされる鍾乳洞「善巻洞」にも足を延ばした。
 伸一たちは、行く先々で対話の橋を架け、午後四時前、無錫から列車に乗り、南京へ向かった。やがて美しい夕焼けが車窓を包んだ。
 南京到着の二十分ほど前、日本人の青年がやって来て、伸一に話しかけた。
 「創価学会の山本会長ですね」
 「はい。そうですが……」
 青年は、「私は学会員ではありませんが」と前置きして自己紹介した。彼は、東京で海運会社に勤め、研修に参加するため、中国に来たのだという。
 青年は、意を決したように切り出した。
 「実は、お願いしたいことがあります。私の職場に、熱心に信仰に励んでいる学会の女子部員がいます。その方が、今日、結婚式を挙げられます。山本先生の姿をお見受けしたので、ぜひ記念に祝福の言葉をいただければと思い、お願いにあがりました」
 「そうですか。そのために、私のところへ来てくださったんですか……。ありがとう!
 では、句をお贈りしましょう」
 青年は、自分の手帳を差し出した。
 すぐに伸一は、一句を認めた。
 ――「中国で ふたりの幸を 祈る旅」
 わがことのように喜ぶ青年を見て、その女子部員が、職場で大きな信頼を勝ち取っていることが感じられ、嬉しかった。信頼の輪の広がりこそ、広宣流布の広がりとなっていく。
 「どうか、結婚するお友だちに、くれぐれもよろしくお伝えください」
 伸一は、新郎新婦の末永い幸福と健勝を願って、心で題目を送った。
33  革心(34)
 午後六時半過ぎ、山本伸一たちが乗った列車は、南京に到着した。
 南京駅では、何人もの江蘇省の関係者が、温かい笑顔で迎えてくれた。
 南京は、江蘇省の省都で、古代から都となり、中華民国が成立した時には、臨時政府が置かれ、国民政府の首都にもなった。
 一九三七年(昭和十二年)には、日中戦争で日本軍が侵攻し、大きな惨禍を刻む歴史の舞台となったのである。
 伸一は、ここで多くの尊い命が奪われたことを思うと、激しく胸が痛んだ。
 この夜、南京飯店で行われた歓迎宴で、彼は、日中戦争の時代に、ここ南京は大きな被害を受け、たくさんの中国人民が犠牲になったことを述べたあと、こう語っていった。
 「創価学会は、平和と文化の推進を目的とする民衆の団体であり、暴虐なる軍国主義権力の弾圧によって、牧口初代会長は獄死し、二代の戸田前会長も二年間、獄に囚われ、迫害を受けてきました。
 軍国主義は、貴国の人民に多大な犠牲をもたらすとともに、われわれも、その横暴なる力によって弾圧されてきた歴史をもっています。
 私は、だからこそ、「二度と、こうした軍国主義の蹂躙を許してはならない。人類の永遠の平和を築くのだ」との信念から、日中の平和と友好のために挺身してきました。
 私どもは、日中戦争の犠牲者に、心から哀悼を捧げるとともに、悲惨のなかから立ち上
 がって、すばらしい都市建設を成し遂げた南京の姿を、日本に伝えてまいります」
 彼は、「日中平和友好条約」が結ばれる今、中国を訪問し、日中戦争の最も悲惨な歴史が刻印された南京の地に立ったことに、深い意義を感じていた。
 「これから、日中の平和の行進が始まる。南京を、その新出発の起点とするのだ。
 戦争の凄惨な歴史を刻んだ地なればこそ、平和と友好の一大拠点としていかねばならな
 い。過去を直視し、未来建設の力としていく──そこに、今を生きる人間の使命がある」
34  革心(35)
 南京に到着した翌日の九月十六日は、朝から美しい青空が広がっていた。
 山本伸一をはじめとする訪中団一行は、午前十時過ぎ、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。
 雨花台には、こんな言い伝えがある。
 ─六世紀初頭、この丘で法師が経を読誦したところ、天から花が雨のように降ってきたことから、雨花台と呼ばれるようになったというのである。
 燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びた、木々の緑がまばゆかった。
 雨花台という、美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。
 陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。
 「一九四九年(昭和二十四年)の新中国建国までに、処刑されていった烈士は、十万人以上になります。
 さらに三七年(同十二年)には、日本軍が南京に侵攻し、たくさんの犠牲者を出すという、凄惨な出来事が起こりました。街も焼かれました。
 中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった、忘れ得ぬ地なんです。
 しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。
 また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。
 中日両国の間には、戦争という不幸な時期がありましたが、中日二千年の文化交流の歴史から見ると、それは、短い一瞬の期間にすぎません。
 両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」
 彼は、淡々とした口調で語った。
 伸一は、心深く思った。
 「こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。
 それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である」
35  革心(36)
 雨花台烈士陵園で山本伸一の一行は、殉難の記念碑に献花を行った。
 赤やピンクのバラの花で飾られた花輪を持った二人の訪中団メンバーを先頭に、伸一たちは、記念碑に向かって石畳の上を歩いていった。
 碑には毛沢東による、「死難烈士万歳」の文字が刻まれていた。花輪が供えられた。
 一行は、尊い命を散らせた烈士たちをはじめ、日中戦争で犠牲になったすべての人びとの冥福を祈って、唱題した。
 南京の大地に、晴れ渡った空に、音吐朗々と、題目の声が響いていった。
 唱題する一行を、ここを訪れていた人びとが、遠巻きにするように見ていた。
 唱題が終わると、伸一は、その人たちに歩み寄って、「你好!」(こんにちは!)と声をかけ、笑顔を向けた。
 すると、ニコニコしながら瞳を輝かせ、口々に「你好!」と応える。
 日本人が南京を訪れ、烈士の碑の前で合掌し、唱題する姿に、深く感銘したようだ。
 伸一たちが、手を差し出すと、大人も、子どもも、笑みを浮かべて握手を交わす。
 亡くなった人を悼み、冥福を祈る心に国境はない。祈りの心は、人間を結ぶ。
 一行を案内してくれた江蘇省の関係者が、「創価学会の山本会長を団長とする、訪中団の皆さんですよ。
 山本先生は、中日友好の橋を架けられた方です」と紹介した。
 和やかな懇談の輪が広がった。
 伸一は言った。
 「私たちは、烈士の方々をはじめ、戦争で犠牲になったすべての方々の冥福を祈らせていただきました。
 また、南京の皆さんが永遠に幸せであってほしいと祈りました。
 皆さんのなかには、戦争で、ご家族、ご親戚を亡くされた方もいらっしゃるでしょう。
 私も、大好きな長兄を失いました。
 戦争は悲惨です。残酷です。戦争など、絶対に起こしてはならない。そのために、私は、日中の平和と友好に、命を懸ける決意でおります」
36  革心(37)
 山本伸一の平和建設への覚悟を聞いて、雨花台烈士陵園で出会った人たちは、大きく頷いていた。
 伸一は、さらに言葉をついだ。
 「私は、母親が、戦争で長兄が死んだことを知って悲嘆に暮れ、肩を震わせて泣きじゃくる姿を、今でも忘れることはできません。
 同じ思いをされたであろう皆さんの、苦しみも、悲しみも、よくわかります。
 だから、私は、平和のために生きようと心を決めました。日本と中国の間に、友好の崩れぬ橋を架けようと誓ったんです。
 今回、南京を訪れて、皆さんとお会いすることで、新しい友人ができました。
 友好の橋は、ますます広がりました。共に、永遠なる平和の虹の橋を架けていきましょう」
 居合わせた人びとは、それぞれが中国語で、「そうだ。その通りだ」と言いながら、感極まった顔で、再び伸一に握手を求めた。
 烈士陵園をあとにした一行は、南京市の北西部に位置する南京長江大橋を視察した。
 長江とは揚子江のことであり、長江大橋は中国東部を南北に結ぶ大動脈である。
 現地に着くと、一行は、三百分の一の模型を前に、担当者から詳しく説明を受けた。担当者は二十歳前後の女性であった。
 「長江大橋の建設には、一九六〇年(昭和三十五年)から六八年(同四十三年)まで、足かけ九年の歳月を要しました。橋の上部が道路用、下部が鉄道用の二層構造です。
 鉄道橋の全長は六千七百七十二メートル。道路橋の全長は四千五百八十九メートル、幅は一九・五メートルです。この橋は、中国人民の手で設計し、中国人民の技術で築いたものです」
 中ソ間の対立で、当初、予定されたソ連の援助が受けられなくなったが、「自力更生」の精神で、困難な状況を跳ね返し、見事に完成させたという。
 伸一は、はつらつと胸を張って語る彼女の姿に、未来への希望を感じた。
 国も、団体も、青年が自信と誇りにあふれ、喜々として前進しているところは、栄え、発展していくからだ。
37  革心(38)
 十六日の午後、訪中団一行は、梅園新村記念館を訪れた。
 ここは、一九四六年(昭和二十一年)五月から翌年三月まで、中国の国民党と共産党の和平交渉が行われた折、周恩来らが事務所、宿舎とした場所である。
 中国では、三七年(同十二年)に第二次国共合作が成り、抗日民族統一戦線をつくって日本と戦った。
 四五年(同二十年)、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し、中国は勝利を収めたのである。
 しかし、国共両党の対立は激しさを増していった。
 アメリカは、内戦を避け、中国に連合政府を樹立させようと、両党の仲介をした。
 八月末に、共産党の毛沢東、周恩来らが、国民党の政府が置かれた重慶へ行き、蒋介石と和解の話し合いを開始した。
 その結果、停戦協定が成立し、政治協商会議がもたれ、和平への流れが開かれたかに見えた。
 だが、その後、事態は紛糾していく。
 四六年(同二十一年)五月、国民党は政府を重慶から南京へ移す。それにともない、共産党は、南京の総統府に近い、この梅園新村に事務所を設け、周恩来が国民党との折衝にあたったのである。
 妻の鄧穎超も、ここに住み、和平の道を開こうと懸命に努めた。
 彼女は、この時、政治協商会議の中国共産党代表七人のうち、唯一の女性であった。
 記念館には、机やソファ、ベッド、書籍などが、当時のまま保管されていた。
 展示品のなかに、赤い数個の石があった。それは、雨花台で犠牲になった、殉難者たちの、血潮に染まったものであるという。
 夫妻が、何度となく、激務の間を縫うようにして雨花台に足を運び、拾って持ち帰ったのだ。
 同志たちに、その石を見せ、尊い命を散らした先人の魂を受け継ぎ、新しい中国を築いていくように訴えてきたのである。
 殉難を恐れぬ敢闘の精神と行動があってこそ、改革は成就する。平和建設の道においても同じだ。
 いくら高邁な理想を口にしても、それを成し遂げる強靱な意志と具体的な実践なくしては、平和を勝ち取ることはできない。
38  革心(39)
 梅園新村記念館を参観しながら、山本伸一は、峯子に言った。
 「周恩来総理は、本当に偉大な指導者であられた。今回は、北京で奥様の鄧穎超先生とお会いできるんだね。楽しみだな。
 とう先生は、周総理と共に、新中国建設に人生を捧げてこられた。
 「人民の母」として誰からも慕われ、愛され、今も、周総理の遺志を受け継ぎ、人民の幸福のために、奮闘し続けておられる……」
 彼女の生涯は、まさに、疾風怒濤であった。艱難辛苦であった。
 鄧穎超は、一九〇四年(明治三十七年)に中国の広西省南寧で生まれた。父親の鄧庭忠は地方の役人をしていたが、新疆へ流罪され、彼女が幼少期に他界。
 中国医学を学んだ母親の楊振徳が、広州、上海、天津などを転々としながら、女手一つで娘を育てた。
 成績優秀な鄧穎超は、わずか十二歳で天津の直隷第一女子師範学校の本科に進学した。
 そして、一九年(大正八年)、十五歳の時に、あの「五・四運動」に参加したのである。
 それは、山東省でのドイツの権益などが、中国に返還されるのではなく、日本に譲渡されることに対する、日本をはじめ西欧列強、北京政府への、学生たちの怒りのデモから始まった反帝・反封建運動である。
 鄧穎超は、天津にあって、北京の学生たちへの支援を呼びかけ、天津女界愛国同志会に加わり、講演隊長を務めた。
 中国人民を差別し、虐げる、列強の理不尽さを見過ごすわけにはいかなかったのである。
 このころ、日本留学から帰国した周恩来と出会う。彼は男子学生の天津学生連合会に入り、運動に情熱を注いでいたのだ。
 そして、天津学生連合会と天津女界愛国同志会が合流し、中核メンバーで結成されたのが「覚悟社」であった。
 ここでいう「覚悟」とは、「悟って、覚醒する」の意味である。
 若き日をいかに生きるかが、一生を決定づける──人びとの幸福の実現という、崇高な目的に生きる時、青春は最も高貴な光を放つ。
39  革心(40)
 「覚悟社」の結成にあたって、周恩来が起草したのが「覚悟社宣言」である。
 そこには、「革心」と「革新」の精神を根本にして、運動を進めていくことが述べられている。
 社会の「革新」のためには「革心」すなわち、心を革めることが不可欠である――そのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。
 日蓮大聖人は、「ただ心こそ大切なれ」と仰せになっている。心は、一切の根本をなす。
 ゆえに、その心を常に磨き抜いていくことが肝要となるのだ。
 社会改革がなされ、いかに優れた制度をつくり上げたとしても、それを運用していくのは人間である。
 したがって、人間の心の改革がなければ、制度は形骸化され、悪用されるという事態も起こりかねない。
 そうなれば、より良き社会を築くことも、人びとが幸せを享受することもできない。
 改革の理想は、藻屑のごとく、権力を得た者の欲望の海にのみ込まれ、消え去ってしまう。
 自身を見つめ、正すこと、すなわち「革心」なくしては、真の社会改革もない。
 「覚悟社」の青年たちは、自らの改革を怠らず、先駆的な識者などを招いて講演会を行い、懸命に、貪欲に学び、さまざまなテーマを設けて研究にも努めた。
 鄧穎超は、家庭の改造の研究に取り組んだ。
 「覚悟社」では、会報『覚悟』を創刊する。政府が監視の目を光らせているなかでの出版である。
 メンバーは、危険を避けるために、番号をもとにした仮名を使うことにした。
 鄧穎超は、会報には「壱」というペンネームで、「なぜ……?」と題する一文を寄せ、学生の思想、生き方に、鋭い問いを発した。
 「なぜ、人を軽蔑するのか?」「なぜ、人を嫉妬するのか?」「なぜ、悪い習慣に染まるのか?」「なぜ、無益な本や雑誌を見る必要があるのか?」など、学生たちの高邁な主張と、現実の考え方や振る舞いとの乖離、矛盾を突いていったのである。
 ■参考文献
 西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社 『人民の母――鄧穎超』高橋強・水上弘子・周恩来 鄧穎超研究会編著、白帝社 ハン・スーイン著『長兄――周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
40  革心(41)
 天津では、男女学生が中心となって、帝国主義国家への抗議の声が大きく広がっていった。十万人の国民大会やデモ行進も行われた。
 軍隊、警察の弾圧は激しくなった。同志が不当逮捕されるという事件も起こった。その抗議に行った周恩来も逮捕された。
 学生たちは、警察の責任者の厳重処分を要求するとともに、授業をボイコットして抵抗した。
 周恩来たちは、獄中にあっても、ハンストを行うなど、闘争を続けた。
 鄧穎超は、二十数人の学生と共に、布団を持って警察に行き、座り込んだ。勾留されている同志を即時釈放し、私たちを代わりに捕らえよ──というのだ。
 警察は、その要求を聞き入れることはなかったが、世論は、勇敢な彼女たちの抗議を支持した。やがて、周恩来らは釈放される。
 自分が身代わりとなって釈放を求めた鄧穎超らの行動は、同志の信頼を確固不動のものにしていく。
 エゴに走れば、相互不信を煽るが、同志のためにという勇敢な戦いは、団結の絆を、太く、強くする。
 一九二〇年(大正九年)夏、鄧穎超は女子師範学校を卒業し、北京の小学校に教師として赴任した。まだ十六歳の教師の誕生である。
 また、周恩来は、「覚悟社」の二人のメンバーと共にフランスに留学することになる。
 留学といっても、「勤工倹学」(働きながら、節約を重ねて学ぶこと)であり、広く近代的な知識を身につけて、新社会建設に生かすためであった。
 働きながら学ぶとはいえ、渡航費用などがまず必要である。
 周恩来は、南開学校の創立者らの支援を得て、留学が実現したのだ。ほかの二人は、経済的な心配はなかった。
 鄧穎超にも、「留学し、世界を自らの目で見て勉強したい」という強い希望はあったが、もとより、そんな余裕はなかった。
 周恩来は、鄧穎超に、必ず手紙を書くことを約束する。別離にあたって彼女は、彼にセーターを編んで贈っている。
 裏に、「あなたに温もりを」と小さく刺繍して。
41  革心(42)
 鄧穎超は、北京から戻り、天津の女学校で教壇に立つことになった。
 天津にあって、彼女が最も情熱を注いだのは、中国の封建的な思想、習慣、制度のなかで、自由も、尊厳も奪われ、「奴隷」のように生きなければならなかった多くの女性たちの解放であった。
 一九二三年(大正十二年)、抑圧から女性を救う運動を展開していくため、彼女は、同志と共に、「女星社」を組織した。
 そして、旬刊誌『女星』を創刊。翌年には、女性新聞「婦女日報」も発刊した。
 女性の苦しみを解決するには、社会そのものを変革するしかない。では、女性が解放され、自立していくには何が必要か──
 鄧穎超は、考え、悩む。
 「人びとは、無知であるがゆえに騙され、支配され、人間としての権利をも剥奪されている。教育の門戸を開こう。
 教育こそ、人民を支え、育む力である」と、彼女は結論する。
 直ちに貧しい主婦たちのために、「女星日曜義務補習学校」を設立。教師は「女星社」のメンバーで、学費は無料である。
 さらに、彼女は、ほかの団体とも協力して、「直隷省平民教育促進会」を誕生させ、理事として活動を推進していった。
 その結果、天津には、百を超える平民学校がつくられたといわれる。
 鄧穎超は、まだ二十歳であった。しかし、既に教育者としての名声は高かった。
 この間、周恩来と文通を続けた。
 彼は、ヨーロッパへの途次、中国人に対する侮蔑も体験した。フランスでは、低賃金で労働に励まなければならぬ中国人留学生の現実を目の当たりにした。
 周恩来は、イギリスの大学への留学を考え、エジンバラ大学から入学を許可された。
 しかし、奨学金が得られず、大学進学を断念し、フランスに戻っている。
 ロシアでは、一七年(同六年)のロシア革命でソ連邦が誕生していた。周恩来も、その強い影響を受け、共産党員となった。祖国改革の道として、共産主義を選んだのである。
42  革心(43)
 共産主義に自らの進路を見いだした周恩来は、それを鄧穎超に手紙で知らせた。
 彼女も、中国の改革を可能にする道を模索し続けていた。
 そして、「あなたの考え、思想に完全に賛同します。
 私はあなたたちと同じ道をともに進みたいと思います」(西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社)と、伝えてきたのである。
 一九二三年(大正十二年)の春、周恩来は葉書で、婉曲的に彼女にプロポーズした。
 「自由な春に向かってとび出そう! すべての束縛を打ち破って! 勇敢にとぼう、とび出そう!」(同前)
 彼は、かつて独身主義であると表明していた。中国の改革を、どこまでも最優先するためである。
 鄧穎超は返信で、その考えを変えたのか、と尋ねる。
 周恩来は、率直に、独身主義を改めたことを伝えてきた。恋愛と革命は対立しないことが、わかったからであるという。
 そして、自分が求めているのは、「一生ともに歩むことのできる、すべてを革命のため捧げることのできる強い意志を持った女性です」「君とならすべての困難に打ち勝ち、ともに革命の道を邁進することができると思うのです」(同前)と綴っている。
 彼の心情に、鄧穎超は胸を打たれる。心は結ばれた。改革の同志は、生涯の伴侶となっていくのである。
 鄧穎超は、「本当の恋愛」について、自身の考えを、『女星』に記している。
 「純潔な友愛、美的感情が高まり、深化し、個性の接近、相互理解、思想の融合、人生観の一致が基礎となっていなければならないと思います。
 そしてお互いが共通した学習と事業を持つことによって常に愛情が維持され、深化されなければなりません」(同前)
 二人には、中国の改革、人民の繁栄と幸福という崇高な共通の目的があった。確たる信念の大地に根差した愛であった。
 一時的な感情に流されていく浮草のごとき愛では、風雪の歳月に耐えて、人生の美しき勝利の花を咲かせることはできない。
43  革心(44)
 鄧穎超は、中国の改革に生涯を捧げようと、共産主義の運動に加わる。
 国民党と共産党は、協力して軍閥と戦うために、国共合作に踏み切った。
 天津で彼女は、共産党と国民党の若き女性リーダーとなった。
 一九二五年(大正十四年)三月、中国統一をめざした「国民革命」の指導者・孫文が死去するが、彼女は、黙々と、自身の定めた信念の道を突き進んでいった。
 人民の中へ――鄧穎超は、工場や農村を回った。蔑まれ、虐げられ、地を這うようにして働く女性たちに、社会の改革を訴えて歩いた。
 また、孫文夫人の宋慶齢をはじめ、指導層の夫人と交流を深め、彼女たちが前面に躍り出て活動できるようにお膳立てし、自分は陰の力に徹した。
 日英の帝国主義打倒や、租界の撤廃も叫んでいった。
 列強の息のかかった軍閥は、鄧穎超を「最危険分子」と見なした。
 母とも別れ、天津を離れるしかなかった。
 髪型を変えて、ズボンをはき、目立たぬ衣服で天津を脱出した。上海から船で向かった先は、国民政府があり、周恩来のいる広州であった。
 彼は、一年前に帰国していたが、”最愛の人”に会いに行くことより、改革の使命の遂行を第一義とし、直ちに任務に就いた。
 広州で周恩来は、国民革命軍のリーダー育成のための黄埔軍官学校政治部主任や、共産党の広東区委員会委員長等を兼ね、激務をこなしていた。
 鄧穎超が港に到着した時も、迎えに行くことさえできなかった。
 しかし、彼の質素な部屋には、彼女が大好きな花が飾られていた。この日、彼は家に帰れなかった。
 二人が五年ぶりに再会したのは、翌日である。洋食店で食事をした。互いの胸には無量の感慨が詰まっていたにちがいない。
 だが、見つめ合うばかりの、言葉少ない語らいであったという。これが二人の結婚式となった。周恩来二十七歳、鄧穎超二十一歳であった。
 建設は死闘である。私生活のすべてを、いや、命をも、人民のために捧げた多くの人たちがいて、新中国は築かれたのだ。
44  革心(45)
 孫文亡きあと、国民党に亀裂が走る。共産党を敵視する右派によって、孫文の遺志を継いで国共合作を推進してきた、国民党左派の中心であった廖仲愷が暗殺された。
 彼は、中日友好協会の会長となる廖承志の父親である。
 鄧穎超は、廖仲愷の夫人・何香凝を支え続け、夫人が推進してきた女性解放運動を大きく発展させていった。
 当時の中国には、南の広州に国民政府があり、北の北京に軍閥の政府があった。国民革命軍は北伐を開始した。
 周恩来は列強支配の中心地・上海に潜み、共産党の地下組織を指揮し、労働者を蜂起させる。制圧した上海に、蒋介石率いる国民革命軍が到着する。
 この上海で、国民党右派の蒋介石らは、反共クーデターを起こす。共産党員を次々と捕らえ、殺害していった。
 また、北伐の伸展にともない、国民党左派の主導で移された武漢政府に対して、蒋介石は南京に政府を樹立。国共合作にピリオドが打たれた。
 共産党への弾圧は激しさを増し、周恩来には、多額の懸賞金が懸けられた。広州にいた鄧穎超の身も危険にさらされた。
 彼女は、母の楊振徳と共に変装して広州を脱出し、周恩来が身を潜めている上海へ向かった。
 上海で夫妻は再会できたものの、周恩来は、共産党の再建に奔走し、ほとんど一緒に過ごすことはなかった。
 一九二七年(昭和二年)八月、共産党は、周恩来の指揮のもと、南昌で蜂起する。だが、何倍もの力をもつ蒋介石軍の激しい追撃を受け、広東へ南下していった。
 周恩来は、この時、マラリアによる高熱で苦しみ、三日間も昏睡状態に陥っている。
 ようやく一命を取り留めて上海に戻るが、夫妻は、五年間にわたって地下活動を展開しなければならなかった。
 その間、多くの同志が殺されていった。裏切りにもあった。それでも、二人は、闘争を続けた。
 苦渋の忍耐の日々にあっても、一歩も引かず、赤々と闘魂を燃やし続ける人こそが勝利者であり、そこに、目的の成就もある。
 ■主な参考文献
 西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社
 『人民の母――鄧穎超』高橋強・水上弘子・周恩来鄧穎超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄――周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著『蒋介石秘録』サンケイ出版
45  革心(46)
 一九三一年(昭和六年)、中国共産党は、中央根拠地を江西省の瑞金に置き、中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立する。
 だが、国民党軍は、大軍をもって、この中央根拠地を包囲したのだ。
 周恩来も、鄧穎超も、瑞金にあって苦闘を続けた。
 鄧穎超は、髪を切り、共産党の革命軍である紅軍の帽子、軍服に身を固めた。
 食糧も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。
 しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。
 なぜ、彼女は、あれほど明るいのか――皆は不思議でならなかった。
 鄧穎超は、周恩来に、こう語っている。
 「私は根が楽天的なのよ。それに私たちが暗い顔をしていたら、みんなに伝染してしまうでしょう。
 今は苦しいけど、私たちの革命は先々光明に満ちているということを態度で示さなければいけないと思うの。
 みんなに勝利に対する確信を持ってもらいたいの」(注1)
 理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。
 国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。鄧穎超は、砲弾のなか、物資の運搬や傷病兵らの看護に奔走し、皆を激励し続けた。
 彼女も、彼女に励まされた女性たちも、自分の着ている衣服を脱いで傷病兵を包み、配給されたわずかな食糧を戦死した兵士の子どもたちに与えた。
 鄧穎超の体は、日ごとにやせ細り、遂に大量に血を吐いて倒れ、高熱に浮かされた。
 立つこともできなかった。肺結核であった。
 当時は、「不治の病」とされていた。
 党は、中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。
 母の楊振徳は、動けない傷病兵の看護のために残り、鄧穎超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に参加する。
 母は告げた。「最後まで生きなさい、革命はあなたを必要としている」「命あるかぎり戦いなさい」(注2)と。
 娘は、数歩歩いては倒れ、よろめきながら「長征」を開始する。
46  革心(47)
 「長征」――それは、一九三四年(昭和九年)十月、蒋介石の国民党軍に、江西省瑞金の中央根拠地を包囲、猛攻撃された中国共産党軍が、陝西省北部へと移動していく大行軍をいう。大西遷ともいわれている。
 行程は、広西、湖南、貴州、雲南、四川などの各省を経て、約一万二千五百キロメートルにわたった。
 しかも、国民党軍と戦闘を続けながらの行軍である。
 毛沢東、朱徳、そして周恩来らの第一方面軍は、党職員や、その家族など合わせて八万六千余人であり、女性も、老人も、傷病者もいた。
 鄧穎超は、病に侵されながら、この長征に加わった。担架で運ばれての行軍であった。
 敵の攻撃を避けるために、移動は主に夜間に行われた。微熱、咳、血痰と、彼女の結核は癒えなかった。
 しかし、担架を持ってくれている青年たちのためにも、断固、生き抜き、人民の時代を築かねばならぬと固く決意した。
 彼女は、必死に考える。
 ″今私にできることはないだろうか。私がすべきことは何だろう。
 そうだ、今最も大事なのは、精神的に負けないことだ、勇気を奮い起こすことだ、みんなを励まして、団結を固めることだ″(西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社)
 鄧穎超は、病と闘いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した″初心″を確認し合い、同志の心を鼓舞した。
 彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。
 病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。
 彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、″状況が好転したら、何かしよう″という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。
 いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。
 そこに、人生を勝利する要諦もある。
47  革心(48)
 長征は肉体の限界を超えた行軍であった。
 食糧もほとんどなく、野草、木の根も食べた。
 ベルト等の革製品を煮てスープにした。
 敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。
 吹雪の大雪山も越えた。
 無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。
 「奮闘すれば活路が生まれる」(『周恩来選集 1949年〜1975年』中共中央ML著作編訳局訳、外文出版社)――それが周恩来の信条であった。
 そして、第一方面軍は、一九三五年(昭和十年)十月、陝西省保安で陝北根拠地の紅軍と合流。遂に、「長征」に勝利したのだ。
 しかし、総勢八万六千余人のうち、残ったのは、七、八千人とも、四千人ともいわれる。
 やがて鄧穎超は、瑞金で別れた母の楊振徳が国民党に捕らえられ、「反省院」に入れられたことを知る。「反省院」といっても、思想犯が入れられる牢獄にほかならない。
 楊振徳が鄧穎超の母であり、周恩来の岳母であることは知れ渡っている。
 拷問も受けているにちがいない。
 鄧穎超は、胸が張り裂けそうになるのを堪えながら、闘争を続けた。
 自分も、家族も、いつ命を奪われるかわからない――それが、革命の道であった。
 三七年(同十二年)七月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。
 鄧穎超が母の楊振徳と再会したのは、三八年(同十三年)の冬であった。
 母子は、瑞金で別れて以来、四年ぶりに、武漢で対面したのである。
 「反省院」での過酷な歳月は、彼女をいたく老けさせていた。
 しかし、気丈な魂が光を失うことはなかった。
 ある時、「反省院」で彼女は、娘の鄧穎超と娘婿の周恩来に、革命をやめるように手紙を書けと迫られた。
 だが、毅然と胸を張り、こう言い放ったという。
 「私は革命をやっている娘を誇りに思っている。殺すなら殺しなさい」(西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社)
 鄧穎超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。
48  革心(49)
 鄧穎超の母・楊振徳は、一九四〇年(昭和十五年)十一月、病のため、六十五歳で世を去る。
 身なりも質素で、清貧に甘んじ、雑草のごとく強く、いかなる迫害にも屈することのない、気高き信念の生涯であった。
 彼女は、娘にこう語ってきた。
 「人は周夫人と言ってきっと大事にしてくれるわ」「でもあなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、鄧穎超として尊敬される人になりなさい」(西園寺一晃著『鄧穎超』潮出版社)
 独立した人間であれ――それが、母の教えであった。
 鄧穎超が悲しみの淵に突き落とされた時にも、泣いても何も変わらないのだから、歯を食いしばってでも頑張るようにと、励ました。
 母親は、人生で最初の教師であり、娘にとっては、生き方の範を示す先輩である。
 フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。
 「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」(アンドレ・モロワ著『結婚・友情・幸福』河盛好蔵訳、岩波書店)
 第二次国共合作のあとも、国民党には反共的な考えが根強く、共産党との対立が続いていた。
 周恩来、鄧穎超にも、常に監視の目が光り、脅迫なども日常茶飯事であった。
 安徽省では、国民党軍が共産党軍を襲撃する事件も起こった。
 しかし、周恩来たちは、いきり立つ同志に、今は団結して抗日の戦いを進めることを懸命に説いた。
 四五年(同二十年)、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。
 周恩来と鄧穎超は、梅園新村を事務所、宿舎として、国民党との和平交渉を行った。
 だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。
 そして、共産党が国民党を制圧し、四九年(同二十四年)十月、中華人民共和国が成立するのである。
 一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。
49  革心(50)
 山本伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。
 「中国の改革のために奔走された周総理と鄧穎超先生が、一緒に過ごされた時間は、世間一般の夫婦と比べれば、決して長くはなかったはずだ。
 しかし、互いに、深い愛情と尊敬、信頼で結ばれていたといわれている。
 それは、お二人が″夫婦″というだけでなく、″同志″の絆に結ばれていたからだろうね」
 ″夫婦″も、相手を見つめ合うだけの関係であれば、その世界は狭く、互いの向上も、前進も乏しい。
 しかし、二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく″同志″の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。
 夫婦愛、そして同志愛に結ばれた夫婦の絆ほど、強く、美しいものはない。
 周恩来・鄧穎超夫妻の間には、「八互原則」があったという。
 一、互愛(互いに愛し合う)
 二、互敬(互いに尊敬し合う)
 三、互勉(互いに励まし合う)
 四、互慰(互いに慰め合う)
 五、互譲(互いに譲り合う)
 六、互諒(互いに諒解し合う)
 七、互助(互いに助け合う)
 八、互学(互いに学び合う)
 夫妻は、常に、この精神に立ち返って、愛と信頼の絆を、より強く結び合いながら、新中国の建設をめざしてきたのであろう。
 峯子は、伸一を見て言った。
 「鄧穎超先生にお会いしたら、お伺いしたいことが、たくさんありますね」
 伸一も、笑顔で、大きく頷いた。
 続いて訪中団一行が訪れたのは、南京東部郊外の紫金山であった。
 ここは、孫文の墓所「中山陵」があることで有名だが、まず伸一たちが訪れたのは、中日友好協会の廖承志会長の両親であり、孫文や周恩来らと共に新しい中国の建設のために戦った、廖仲愷・何香凝夫妻の墓所「廖陵」であった。
50  革心(51)
 廖仲愷が国民党の右派によって暗殺された時、子息の廖承志は十六歳であった。
 仲愷の妻・何香凝は、自宅の門に「精神不死」(肉体は殺せても、精神を殺すことはできない)との横幕を掲げて抗議し、毅然として新中国の建設のために戦い抜いた。
 その彼女の闘争を、若き鄧穎超は支え続けてきた。
 廖承志は、父の遺志を受け継ぎ、社会改革の道を歩み、長征にも加わった。しかし、なんと味方である紅軍からもスパイの嫌疑をかけられ、手枷をつけて行軍させられたこともあった。
 また、文化大革命では、理不尽な攻撃にさらされ、四年間の軟禁生活を送った。
 中国の要人たちの誰もが、激動の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。
 革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。
 貧しさにあえぐ人民に幸せな生活を送らせたいというのが、廖仲愷、何香凝を活動に駆り立てた願いであったにちがいない。
 忘れてはならないのが、その革命の原点である。
 山本伸一たち訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。
 伸一は、空を仰ぎながら、皆に語った。
 「ご両親の追善をさせていただいたことを聞けば、廖承志先生も、きっと喜んでくださるでしょう。
 私が、日中友好に全力を注ぐのは、こうした平和と人民の幸福を願った方々の志を無にしたくないからです。
 そのためには、経済的な利害や、政治的な駆け引きに翻弄されることのない、友誼と信頼の堅固な基盤を築かなくてはならないからです。
 どうか、その私の心を、永遠に忘れないでほしい。特に青年部、頼むよ」
 一行は、孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花をし、冥福を祈り、題目を三唱した。
 そして、夕方には、空路、南京から最終訪問地の北京へ向かったのである。
51  革心(52)
 山本伸一たち訪中団一行が、南京から北京空港に到着したのは、午後七時四十分(現地時間)であった。
 秋冷えのするなか、空港では、中日友好協会の張香山・趙樸初副会長、廖承志会長の夫人である経普椿理事をはじめ、多数の「友人」が出迎えてくれた。
 既に四度目となる宿舎の北京飯店に着くと、外は雷雨となった。
 翌十七日も、激しい雨が降り続いていた。 
 「天が大地を清めてくれているんだ。すばらしいじゃないか! 雨に感謝だよ」
 宿舎を出発する時、伸一は、皆にこう言って、笑いの花を咲かせた。
 一行が向かったのは、前年九月、天安門広場の南側に完成した毛主席記念堂であった。
 車を降りた時には、雨はあがっていた。
 記念堂には、毛主席の遺体が納められている。
 一行は献花して追悼の祈りを捧げた。
 その後、北京の北西約五十キロにある明の十三陵の一つである定陵を見学した。
 定陵を巡りながら、伸一と趙樸初副会長の語らいが弾んだ。
 趙副会長は、中国仏教協会の責任者でもあり、これまでにも、何度か仏教談議を重ねてきた。この年の四月にも、中国仏教協会訪日友好代表団の団長として来日し、聖教新聞社で語り合っていた。
 定陵で二人は、「一大事因縁」「五味」「開示悟入」などについて意見を交換したあと、法華経を漢訳した鳩摩羅什をめぐって、翻訳論が話題となった。
 趙樸初が言った。
 「仏法の翻訳という作業においては、言葉を言葉として伝えるだけの翻訳では『理』であると考えています。
 自身の生き方、行動を通して、身をもって示し伝えてこそ、『事』の翻訳といえるのではないでしょうか。
 また、大切なことは、仏法の教えの心を知り、それを正しく伝えることです。
 翻訳者が言葉の表層しかとらえられなければ、仏法の法理を誤って伝えてしまうことにもなりかねません。崇高な教えも、翻訳のいかんで、薬にもなれば、毒にもなってしまいます」
52  革心(53)
 趙樸初副会長の話に、山本伸一は頷いた。
 「おっしゃる通りです。仏の真意は何かを正しく知らなければ、混乱を招きます」
 趙樸初は、ニッコリして言った。
 「その点、創価学会の皆さん方は、仏法を正しく理解しています。
 それは、民衆のなかに、仏法を展開し、人びとの生き方に、その教えを根付かせていることに表れています。
 私は、四月に聖教新聞社を訪れた折、一九六七年(昭和四十二年)に行われた東京文化祭の記録映画を拝見しました。
 仏法を生き方の基調とした、活気あふれる、躍動した民衆の姿に感動を覚えました。
 本来、仏陀の教えは、民衆と結びついたものです。
 したがって、民衆、衆生のなかに、その教えを弘め、それが、人びとの人格を磨き、生活、社会を繁栄させるものになっていかなくてはいけません。
 そのことを、皆さんは、実践されてきた。この事実は、皆さんが仏法を正しく理解されていることの証明です。敬意を表します」
 趙樸初は、仏教が単に学問研究の対象にすぎなくなってしまったり、儀式化し、慣習にすぎないものとなったりしていることを、深く憂慮していた。
 それだけに、民衆のエネルギーが満ちあふれた創価学会の運動に、真実の生きた仏法の存在を感じていたようだ。
 新しき時代・社会を建設し、革新していくには、その担い手である人間自身の精神の改革が不可欠である。
 人間の精神が活性化していってこそ、社会も活性化し、蘇生していくからだ。宗教は、その人間の精神のバックボーン(背骨)である。
 定陵から訪中団メンバーは、万里の長城に向かったが、伸一と峯子は宿舎の北京飯店に戻った。
 彼には、新聞や雑誌など、さまざまな原稿の依頼があり、わずかな時間でも、その執筆にあてたかったのである。
 人生の大闘争といっても、一瞬一瞬の時間を有効に使い、日々、なすべきことを着々と成し遂げていくことから始まる。
53  革心(54)
 「山本先生! 嬉しいです。お会いできる日を、指折り数えて待っていました!」
 九月十七日夜、訪中団一行の歓迎宴が行われる人民大会堂の会場入り口で、中日友好協会の廖承志会長は、こう言って大きく両手を広げ、山本伸一を迎えた。
 「廖先生! 『日中平和友好条約』の締結、大変におめでとうございます。遂に、廖先生の長年の苦労が報われましたね」
 伸一も、廖承志も、共に平和友好条約の締結を悲願として、苦労を重ね、行動し続けてきた。
 だからこそ、二人とも、その実現には、ひとかたならぬ喜びがあった。
 同じ目的に進み、互いの思いと労苦を知るからこそ、感動もまた分かち合える。
 立場は異なっても、それが「同志」といえよう。
 廖承志は、隣にいた、柔和な笑みをたたえた老婦人を紹介した。
 質素な濃紺の服に身を包んだ、この小柄な女性こそ、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきた鄧穎超その人であった。
 伸一は、彼女の差し出した手を、ぎゅっと握りながら言った。
 「初めまして山本伸一です。お会いできて光栄です。この日を楽しみにしておりました。
 周総理のご厚情に、深く感謝申し上げるとともに、亡き総理に、心から哀悼の意を捧げさせていただきます。
 鄧穎超先生におかれましては、中国人民のために、お体を大切になさり、いつまでもご健康でいてください」
 「ありがとうございます。私も、お会いできて嬉しく思っております」
 歓迎宴に先立って懇談が行われた。
 鄧穎超は、もの静かに語り始めた。
 「山本会長を団長とする皆様の、このたびの中国訪問を熱烈に歓迎いたします。
 中国と日本の平和友好条約の調印は、山本会長、また、公明党の方々などの多大なご尽力と切り離すことはできません。
 私は、皆さん方をお迎えして、嬉しいだけでなく、感謝の気持ちでいっぱいなんです」
54  革心(55)
 歓迎宴が始まった。
 主催者である中日友好協会の廖承志会長があいさつに立った。
 彼は、中国と日本の平和友好条約締結の佳節に訪中団を迎えた喜びを伝えたあと、両国の友好関係は新しいスタートラインに立ったとして、感慨を込めて語った。
 「この時にあたり、私は、私たちの敬愛する周恩来総理が中日国交樹立の時に言われた、『水を飲む時に、井戸を掘った人を忘れてはならない』という言葉の深い意味を、ひしひしと感じております。
 山本先生は、以前から、中日国交正常化のために尽力され、また、中日平和友好条約の早期締結のために、多くの努力を払われ、貴重な貢献をされてきました。
 私たちは、このことを、永遠に忘れることはありません」
 そして、「両国人民は、この友好の大橋を渡って、中日友好事業を絶えず発展させていきたい」と述べ、乾杯に移った。
 答礼のあいさつに立った山本伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。
 「総理は、亡くなる一年前にお会いしてくださり、日中の平和友好条約の早期締結を訴えておられたことが、昨日のことのように鮮明に思い出されます。
 総理がご健在であれば、どれほど喜ばれたことか……。
 今後、条約に盛られた平和を守る精神をどのように構築していくか──これこそが、この条約の意義を真実に総仕上げしていく、最も重要な課題であります。
 私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。
 その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。
 その軸となる根本は、『信義』の二字であると申し上げたいのであります!」
 信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。
55  革心(56)
 歓迎宴は、和気あいあいとした雰囲気のなか、各テーブルで語らいが始まった。
 山本伸一は、鄧穎超に尋ねた。
 「『日中平和友好条約』の批准書交換のために、廖承志先生が、副総理の鄧小平閣下と共に来日されると伺っています。大変に嬉しいことです。
 鄧穎超先生も、日本にいらっしゃいませんか」
 「ええ、日本へは、ぜひ行きたいと思います。日本の多くの友人の方々にお礼を申し上げるために、訪問したいと考えています」
 テーブルの同席者から大きな拍手が響いた。全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周恩来の夫人である鄧穎超が、訪日の意向を明らかにしたのだ。
 伸一は、「嬉しいです! いつごろお出でくださいますか」と重ねて尋ねた。
 「鄧小平副総理は、十月に日本へ行きますが、私がその団に参加すると、高齢でもありますので、皆様に迷惑をかけかねません。
 それで、周恩来も桜が好きでしたので、桜の一番美しい、満開の時に行きたいと思います。山本先生は、賛成されますでしょうか」
 「もちろん、大賛成です!
 創価大学には、周総理を讃える『周桜』が植樹されております。来日の折には、ぜひ、ご覧いただきたい。
 できれば、周総理と恋愛をされていた時のような気持ちで、日本を訪問していただければと思い
 ます」
 「まあ……。でも、恩来同志が日本にいた時は、まだ知り合っていませんでしたよ」
 笑いが広がった。鄧穎超は、伸一と峯子を見て、「今回は、日本の友人と友情を深めるためにまいります」と言って微笑んだ。
 さらに彼女は、この日閉幕した中国婦女全国代表大会で、宋慶齢らと共に、全国婦女連合会の名誉主席に就任したことを伝え、女性の幸せのために人生を捧げたいと語った。
 鄧穎超は七十代半ばであったが、人民に奉仕し抜こうとの気概は、いささかも後退することはなかった。
 思想、信念が本物であるかどうかは、晩年の生き方が証明するといえよう。
56  革心(57)
 鄧穎超は、自分のことだけでなく、中日友好協会の林麗韞理事も、全国婦女連合会の執行委員に就いたことを語った。
 林麗韞は、周恩来総理と山本伸一が会見した際、通訳を務めた女性である。
 歓談の半ば、伸一と同じテーブルに着いていた孫平化秘書長が、二人の青年を手招きした。近づいてくる二人を見て、伸一は、懐かしさに、思わず両手を広げた。
 一九七五年(昭和五十年)に、新中国からの最初の国費留学生として創価大学に入学し、別科日本語研修課程を修了して帰国した、滕安軍と李冬萍の二人であった。
 滕安軍は外交部(外務省)に勤務し、「日中平和友好条約」調印のレセプションでは、黄華外相の通訳を務めたという。李冬萍は中日友好協会のスタッフとして活躍していた。
 また、一緒に留学した他の四人も、それぞれ中国と日本の友好を担う第一線で仕事をしているという。伸一は創立者として、留学生の健闘が嬉しかった。
 「みんな、頑張っているんだね。嬉しいです。皆さんは創価大学の、私の誇りです。日中友好の体現者です。私は皆さんを見守り続けます。ますますのご活躍を祈ります」
 彼は、二人と祝福の固い握手を交わした。その光景を、鄧穎超も、廖承志も、笑みをたたえて見つめていた。友好交流の種子は、ここでも大きく育っていたのだ。
 種は小さい。しかし、その種を丹念に育んでいくならば、やがて芽を出し、良き苗となり、いつか大樹へと育っていく。
 伸一は、未来のために、これからも友好のあらゆる種子を蒔き続けていくことを、あらためて心に誓うのであった。
 翌十八日は快晴であった。
 午前十時、伸一は、前日の歓迎宴の御礼に、中日友好協会を表敬訪問し、張香山副会長らと中国の現状を取り巻く諸問題や今後の教育・文化交流について語り合った。
 午後には、趙樸初副会長を訪ね、中国の宗教事情をテーマに懇談した。
57  革心(58)
 十八日の午後四時過ぎ、山本伸一は、創価大学の創立者として北京大学を訪問した。
 四年前の訪中で、日中の文化交流のために、同大学へ五千冊の日本語書籍を贈呈したのに続いて、今回は、自然科学の専門書など千二百冊を寄贈することになっていた。
 周培源学長は日本訪問中で不在であったが、季羨林副学長、沈克キ副学長をはじめ、教授、学生の代表が盛大に歓迎してくれた。
 季副学長は、中国を代表する知識人であり、仏教学、言語学、インド学の碩学である。
 しかし、文化大革命では、「走資派」のレッテルを貼られ、残酷な暴行や拷問を受けた。
 石を投げられ、唾を吐きかけられ、筆舌に尽くせぬ迫害と屈辱にさらされた。
 学者として働き盛りの五十五歳から十年間、強制労働させられ、雑用にも酷使された。
 そんな逆境のなかでも、学問への情熱を失うことなく、四年の歳月をかけて、古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」の翻訳を完成させている。
 サンスクリットの詩句を中国語の散文に翻訳し、紙切れに書きなぐっていった。
 それをポケットにしのばせて、労働の合間に、推敲作業を続けたのだ。
 人類の精神遺産を、人びとに、後世に伝え残すため、過酷な状況のなかでも全身全霊を注ぐ──そこにこそ、「学問の心」がある。
 後年、伸一は、季羨林と、彼の教え子で法華経研究の権威・蒋忠新と共に、文明鼎談『東洋の智慧を語る』を発刊することになる。
 伸一は、北京大学を訪れるたびに、日本語を学ぶ学生たちと交流を重ねてきたが、この図書贈呈式の会場で、嬉しい再会があった。
 終了後、一人の女性が語りかけてきた。
 「先生。私は今、日本語の教師をしています。
 先生は、四年前に来学された折に、クイズのようにして質問を出され、日本語を教えてくださいました。
 それが忘れられません」
 「そう、教師になったの! すごいことです。本当に嬉しい。日中間の友好往来の懸け橋になってください」
 青年には、限りない希望の未来がある。
58  革心(59)
 図書贈呈式に続いて、山本伸一たちは北京大学構内にある「臨湖軒」に招かれ、交歓のひと時をもった。
 日本語科の学生らが、沖縄民謡の「安里屋ユンタ」や、「故郷」を日本語で披露。教職員らの歓迎演奏もあった。
 その夜、宿舎の北京飯店に、四人の青年が訪ねて来た。
 八月に日本で交流を結んだ「中国青年代表団」の団長らであった。
 伸一は、団長を抱き、満面の笑みで迎えた。
 「ありがとう。再会できて本当に嬉しい。
 未来を考える時、いちばん大切なのが、青年との交流です。青年は最高の宝です。
 やがて新しい時代が来ます。
 二十年先、皆さんが立派になる姿が、はっきりと目に映ります」
 ──「青年よ! もしも美しき世界を実現したいなら、何よりも君自身を創造するのだ!」(注=2面)とは、文豪・巴金の励ましである。
 団長を務めた青年が、申し訳なさそうに口を開いた。
 「一カ月前に、私たちが創価学会本部や聖教新聞社を訪れた折には、思い出に残る、真心こもる大歓迎をしていただきました。
 それに対して、今回、多数の学会の代表団が来られたのに、私たちの歓迎は、あまりにもささやかです。お詫びしなくてはなりません」
 すかさず、伸一の声が響いた。
 「何をおっしゃいますか。歓迎というのは人数や形式ではありません。真心です。
 友情の炎がどれほど大きいかです。
 皆さんが、ここに、こうして来てくださったこと、また、そのお気持ち、お心遣いこそが、最高の真心であり、最大の歓迎です。
 今日は、美しい一幅の、友情の名画を頂戴した思いです。私は皆さんのことを、永遠に忘れません」
 青年は、心なしか目を潤ませて言った。
 「ありがとうございます。これからも多くの中国の青年が、創価学会を訪問することになると思います。
 先生が架けられた友好の橋を、さらに立派なものにしていきます」
 「頼みます。学会の青年は、誠心誠意、最大の真心をもって皆さんを歓迎します」
 若き魂と魂の結合が、未来を開く力となる。
59  革心(60)
 帰国前日の九月十九日、山本伸一は、午前九時半から人民大会堂で、副総理でもある李先念党副主席と会見した。
 副主席とは初訪中の折、二時間余にわたって語り合っている。
 伸一は、激務の日々を送る副主席の健康を気遣い、こう語り始めた。
 「私は政治家ではありませんから、閣下も今日は、ゆっくりと、くつろぐようなお気持ちでいてください」
 そして伸一が、副主席の来日を希望し、その予定について尋ねると、今のところ、予定はないが、「私としては一度は行きたいと思っています」との答えが返ってきた。
 会見の会場に大拍手が響き渡った。
 さらに、文化大革命についての質問に副主席は、こう答えた。
 「社会主義の建設が階級闘争である限り、激動はあり得ます。
 しかし、今は、党も団結しています。
 闘争はやめてはならないが、今後は、こうしたかたちは取らないでしょう」
 また、現在、中国が進めている農業、工業、国防、科学技術の「四つの現代化」の柱は何かを尋ねた。
 「まず農業です。第二に工業です。この二つの現代化が、先進的な科学技術の基礎の上に築かれなければなりません。
 人間は、ご飯を食べなければ生きていけない。
 中国では、ご飯を食べる口が八億をはるかに上回ります。
 そのためにも、まず、農業の生産高を高めることが必要です。
 農業は国民経済の基礎であり、工業は国民経済の導き手です。工業がなければ農業も十分に発展しない。
 それには先進的な科学技術を必要とします。すべて、これを基礎にしないと現代的とはいえません」
 そして、日本から科学技術などを学びたいとして、こう語った。
 「留学生や研修生を貴国に送るとともに、こちらで講義をしていただくために、日本からも来ていただきたい」
 教育は、国家建設の礎である。教育の交流は、共に未来を築く共同作業である。
60  革心(61)
 山本伸一は、李先念副主席の話に、思わず身を乗り出していた。
 「大事なご意見です。それで、留学生の数は、何人ぐらいをお考えでしょうか」
 「留学生は数百にとどまらず数千、いや、一万人ほどになるかもしれません」
 「それは、日本だけの数でしょうか」
 「そうです。日本が受け入れてくださるのであれば、送りたいと思っています」
 「大賛成です。尽力させていただきます」
 文化大革命の間、知識人や学生は地方に追いやられ、十分な高等教育がなされなかった。
 十年余にわたる「文革」の嵐は、ようやく収まりはしたが、「四つの現代化」に取り組むにあたって、深刻な人材不足に直面していた。
 伸一は、今こそ日本は、中国からの留学生を全面的に支援し、教育交流を実施する大事な時を迎えていると思った。
 ──日中の留学生交流の歴史は遠く、遥か千四百年前にさかのぼる。
 日本は、遣隋使、遣唐使として大陸に使節を派遣し、国際情勢や文化を学んだ。
 また、清朝末期から中華民国の時代にあたる、明治の後期から日中戦争の開戦まで、今度は、日本が、中国から多くの留学生を受け入れた。
 多い時には、一万人近い留学生が来日したという。
 終戦、そして、中華人民共和国の成立を経て、再び日本が正式に中国の留学生を迎えたのは、一九七五年(昭和五十年)のことであった。
 創価大学が、国交正常化後、初となる六人の留学生を受け入れたのである。 
 もし、李先念副主席の言葉が実現すれば、史上三度目の日中留学生交流の高潮期を迎えることになる。
 日本への留学は、中国の国家建設に役立つだけではない。
 青年たちが信頼に結ばれれば、政治や経済が困難な局面を迎えても、時流に流されない友情を育む、万代の友誼の土台となるにちがいない。
 そのためには、留学の制度を整えることはもとより、受け入れる日本人も、また、留学生も、さまざまな違いを超えて、「友」として接していこうとする心をもつことである。
61  革心(62)
 李先念副主席との会見で山本伸一は、中国と米国の関係についても、率直に質問した。
 「国交正常化を前提として、中米条約のようなものを結ぶ考えは、おもちでしょうか」
 中米の国交については、一九七二年(昭和四十七年)二月に、ニクソン大統領が訪中。
 それまでの敵対関係に終止符が打たれ、国交正常化へ向けて、関係の緊密化に努めることになった。
 相互に連絡事務所を設置し、大使級の所長を置くなど、前進がみられた。
 七五年(同五十年)十二月にはフォード大統領が訪中し、両国は国交正常化に努力する意思を再確認している。
 七七年(同五十二年)一月、カーター大統領が誕生し、中米の国交樹立へ動きだすが、交渉は難航。先行きは不透明であるといえた。
 伸一は、日中の平和友好条約が調印された今こそ、膠着状態にある中米関係が正常化することを、強く願っていたのだ。
 伸一の問いに、李副主席は端的に語った。
 「国交正常化を前提とした中米条約を結ぶ用意はあります。
 これは相手のあることで、カーター大統領の胸三寸にかかっています」
 伸一は、両国の関係正常化を確信した。
 さらに彼は、「中国は、ジュネーブの軍縮委員会に参加するか」「社会主義民主化の基礎である法律整備について」「『四つの現代化』に呼応しての宗教政策」「核兵器廃絶への方途」など次々と質問し、意見交換した。
 会見の最後に、伸一は尋ねた。
 「日本に最も期待することはなんですか」
 「両国が仲良くすることです。われわれの世代だけでなく、子々孫々まで仲良くしていくことです。両国は戦争をしてはならない」
 語らいは一時間十分に及んだ。会見の模様は、「一万人の留学生派遣」(朝日)、「中米条約結ぶ用意」(読売)等の見出しで、新聞各紙が大々的に報じた。
 この直後、カーター大統領はワシントン駐在の中国連絡事務所長と接触。両国が国交樹立を電撃的に発表したのは、その三カ月後、十二月十六日(日本時間)のことであった。
62  革心(63)
 李先念副主席との会見が行われた十九日の午後六時半、中国側の関係者を招待して、山本伸一主催の答礼宴が開かれた。
 会場は、故宮博物院の北西に位置する北海公園の瓊華島にあるレストラン「ホウ膳飯荘」であった。
 北海公園は、現存する中国最古の宮廷庭園とされ、十世紀に建造されている。
 約七十ヘクタールといわれる公園の半分以上が人造の湖からなっており、蓮池もある。
 千年にわたって歴代王朝の御苑となってきたが、清朝滅亡後、一般に公開されるようになった。
 しかし、文化大革命の時には閉鎖され、この年の春から、再び開放されたという。
 一行がホウ膳飯荘に到着した時には、夕日が空と湖面をオレンジ色に染め上げていた。伸一は、その美しさに目を見張った。
 彼には、『日中の未来よ、かく輝け! 美しき友情で染め上げよ』と、天が語りかけているように思えた。
 伸一と峯子は、レストランの入り口で、一人ひとりを出迎え、滞在中、お世話になった
 感謝を込めて、固い握手を交わした。
 答礼宴には、中日友好協会の廖承志会長や夫人の経普椿理事、張香山・趙樸初副会長、林麗韞理事、孫平化秘書長、北京大学の季羨林副学長、通訳や車両の運転担当者など、多くの人たちが参加してくれた。
 また、周恩来総理の夫人であり、全国人民代表大会常務委員会副委員長の鄧穎超が招待に応じ、歓迎宴に続いて、再び出席してくれたのだ。
 国家的な指導者との会見は、滞在中に一度という慣例を破っての出席であった。
 席に着く時、伸一は、中央の席を鄧穎超に勧めた。すると、彼女は固辞した。
 「それは、いけません。今日は、あなたがホスト役ではありませんか。私は、あなたに心からの祝福を申し上げるために、出席させていただいたのですから」
 その謙虚さ、気遣いに、彼は恐縮した。
 謙虚さは、高潔な人格の証である。それは、人への敬い、広い心、揺るがざる信念の芯があってこそ、成り立つものであるからだ。
63  革心(64)
 答礼宴のあいさつで、山本伸一は、関係者の厚情に包まれ、実り多き九日間を送れたことに謝意を表し、話を続けた。
 「今回、私どもは、多くの人民の生き生きとした姿のなかに、『四つの現代化』へのたくましい前進と、それが見事に結実していく様子を見ることができました。
 また、北京大学、復旦大学、上海の少年宮を訪れ、未来の世代が、すくすくと成長している様子も拝見することができました。
 日本に帰りましたら、こうした心に映じたすべての事柄を、できる限り、多くの人びとに伝えてまいります。
 そして、日中間の『金剛の道』『金の橋』を、人民と人民の友情と連携を、地道に、着実に、強く積み重ねて構築していきたいと思っております。
 日中友好の『第二章』ともいうべき新しき歴史を、信義と友誼を貫き通して、ともどもに綴っていきたいと念願する次第です。
 洋々たる未来へ、友好の手と手を携え、晴れ晴れと前進しようではありませんか」
 伸一は、最後に、列席者のますますの健康を祈念し、乾杯を提唱した。
 続いて、中日友好協会の廖承志会長があいさつに立った。
 彼は、伸一への感謝の思いを語ったあと、中日両国に平和友好条約は結ばれたが、真の友好関係の発展は、これからであると強調。
 両国の友好と友情が、年ごとに発展することを願っていると述べ、訪中団の帰路の安全を祈り、話を結んだ。
 平和友好の道もまた「長征」である。風雨の吹き荒れる時も、未来に向かって、信義の歩みを運び続けてこそ、栄光の踏破がある。
 食事が始まると、鄧穎超は言った。
 「食事がとてもおいしいですね。人民大会堂では、いつも同じ物が多いので、別の料理も食べたいと思っていたところなんですよ。願いが通じました。
 山本先生に感謝いたします。特に、今日のメニューは、西太后の晩年の食事を真似たもので、おばあさんに食べやすいように、柔らかく調理されています。私に、ぴったりの食事ですよ」
 飾らず、ユーモアあふれる言葉であった。
64  革心(65)
 食事の途中、廖承志会長の夫人・経普椿が、そっと夫に薬を渡した。鄧穎超は、その様子を温かい目で見つめた。 
 「廖承志は、良い″看護婦″がついていて幸せですね」
 すると、経普椿が言った。
 「実は、いつも、ちゃんと薬を渡しているのに、帰って来たあとにポケットを見ると、そのまま入っていることが多いんです」
 「それでは、廖承志に、少し自主性を持つように、指導しないといけませんね」
 この言葉に、さすがの廖会長も、頬を赤らめた。姉にたしなめられた弟のように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
 そのやりとりを見て、伸一は、鄧穎超が、「鄧大姐(鄧大姉さん)」と多くの人たちから慕われ、敬愛されている理由がわかる気がした。
 こまやかな気遣いと深い配慮があり、素朴で、ユーモアにあふれ、人を包み込む温かさ、明るさがある。
 それは、人民の解放のために、新中国建設に身を投じ、社会の不正や差別、そして、何よりも自己自身と戦い続けるなかで、磨き鍛え抜かれた、人格の放つ輝きといえよう。
 その美しさは、着飾り、外見を取り繕うことによる、時とともに失せていく美しさではない。
 人生の年輪を重ねれば重ねるほど、ますます輝きを放つものだ。
 人間の真実の美しさとは、魂の美である。それは、われらのめざす人間革命の道と、軌を一にする。
 鄧穎超は、今回、伸一の通訳として同行した、周志英にも気遣いの目を向けた。
 人民大会堂では、主に中国側の通訳によって語らいが行われたので、彼は、この時、初めて、鄧穎超と伸一の本格的な通訳を担当した。
 彼女は、周志英の使う中国語(北京語)を聞くや、すぐに尋ねた。
 「あなたは、香港の出身ですね」
 「はい。そうです」
 微妙な発音の違いから、北京語の通訳に不慣れなことや、出身地まで洞察していたのだ。
65  革心(66)
 鄧穎超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。
 周恩来と結婚したあと、広東省で活動した経験をもつ彼女は、広東語も堪能であったのだ。
 母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使えることで、どれほど気持ちが軽くなったか。生き生きとした表情で通訳を続けた。
 鄧穎超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。
 皆、広東語がよくわからないために、周が訳す日本語を聞くまで、鄧穎超が何を話しているのか理解できないのである。
 鄧穎超は、山本伸一に言った。
 「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事なことです。
 どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りません。
 十年、二十年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開けません。楽しみですね」
 孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。そして、しばしば、周に発音などのアドバイスをしてくれた。
 彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。
 山本会長は、どうして彼を通訳に使っているのだろう″と、疑問にも思っていたようだ。
 周志英も、実際に中国に来て、通訳としての力不足を思い知らされ、自信を失いかけていた。
 しかし、鄧穎超の話に、伸一の深い思いを再確認し、勇気が湧くのを覚えた。
 また、孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を知り、強く共感したという。
 孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれるようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。
66  革心(67)
 答礼宴の最後に、訪中団が、心からの感謝の気持ちを込めて、日本語で「愛する中国の歌」と、中国語で「春が来た」を合唱した。
 歌のあとで山本伸一は、鄧穎超に言った。
 「明春、桜の満開のころ、鄧穎超先生が日本に来られることをお待ちしています」
 大きな拍手が起こった。
 続いて、伸一は、周志英を促した。
 「あの歌を歌おうよ!」
 「あの歌」とは、「敬愛する周総理」という、北京大学での交歓の折に、周志英が披露した中国の歌であった。
 伸一は、鄧穎超への御礼として、ぜひ、聴いてほしかったのである。
 よく通る中国語の歌声が響いた。
 ♪敬愛する周総理
 私たちはあなたを偲びます
 数十の春秋の風と雨を
 あなたは人民とともに
 真心は紅旗に映じ
 輝きは大地を照らす
 あなたは大河とともに永久にあり
 あなたは泰山のようにそびえ立つ
 鄧穎超は、テーブルの上の一点を、じっと見つめるようにして聴き入っていた。
 視線を上方に向けている廖承志の目には、うっすらと光るものがあった。
 夫人の経普椿も、あふれる涙をナプキンで拭った。
 料理を運んでいた人たちも、立ち止まって耳を傾けていた。
 偉大な指導者への敬慕の念
 が、皆、自然にあふれ出てくるのであろう。
 伸一が今回の旅で、ただ一つ残念で寂しかったことは、既に周総理がいないことであった。
 彼は、日中友好の永遠なる金の橋を築き、総理との信義に生き抜こうと、強く心に誓いながら、目を閉じて静かに聴き入っていた。
 歌が終わった。万雷の拍手が起こった。
 席に戻ってきた周志英に、鄧穎超は、「ありがとう!」と言って、ことのほか嬉しそうに手を差し伸べるのであった。
 歌は魂の発露であり、心をつなぐ懸け橋となる。
67  革心(68)
 答礼宴は、感動のなかに幕を閉じた。
 山本伸一は、帰途に就く一人ひとりと握手し、再会を約した。峯子も隣で、満面の笑みで御礼の言葉を述べ、見送っていた。
 鄧穎超は、その峯子の手を、何度も強く握り、じっと目を見つめながら語った。
 「今日は本当にありがとうございました。心に残る一夜でした。山本先生のご健康と、お仕事の成就を祈ります」
 「こちらこそ、わざわざお出でいただき、本当にありがとうございました」
 ――続けて峯子は、「どうか、ご無理をなさらず、ご静養なさってください」と言おうとして言葉をのんだ。鄧穎超の小さな体から、″私は安穏など欲しない。命ある限り、人民のために働く!″という、無言の気迫が感じられたからだ。
 峯子が、「四月のご来日をお待ちしております」と言うと、柔和な笑みと、「私も楽しみにしていますよ」との言葉が返ってきた。
 翌二十日は帰国の日である。伸一たちは午後一時過ぎ、北京の空港に到着した。見送りに来てくれた人たちと対話が弾んだ。
 廖会長夫人の経普椿との語らいにも花が咲いた。鄧穎超のことに話が及ぶと、彼女は言った。
 「周総理が亡くなられて、どれほど寂しかったことかと思います。しかし、亡くなられた時も、涙はこぼされませんでした。
 夫人の泣いたのを見たことがありません。″自分が泣いたら、皆を、さらに悲しませてしまう″と、ご自身と闘い、感情を押し殺していたんです。強い人です。人民の母です。
 最愛の人を失った悲しみさえも、中国建設の力にされているように思います」
 鄧穎超は、まさに″革心の人″であった。
 常に自らの心と闘い、信念を貫き通してこそ、人間も、人生も、不滅の輝きを放つ。
 彼女は、「恩来戦友」と書いて、夫の周恩来を追悼した。
 そこには、生涯、革命精神を貫くとの万感の決意が込められていた。
 眩い陽光のなか、友誼の握手を交わし、一行は機上の人となった。
 新しい日中友好の希望の大空へ、機は飛び立った。 (この章終わり)

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