Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第28巻 「大道」 大道

小説「新・人間革命」

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1  大道(1)
 われらは詠い、われらは歌う!
 広宣流布の天空には、壮大なロマンの、詩と歌の虹が輝く。
 私は、なぜ詠うのか──。
 悲哀に沈む友の心に、希望の火をともし、
 勇気の炎を燃え上がらせるために!
 あの胸に、この胸に、
 人間讃歌の音律を響かせ、
 共に正義の大道を歩み抜くために!
 私は、なにを詠うのか──。
 無限の力を秘めたる人間の可能性だ!
 吹き荒れる試練の嵐に敢然と立ち向かい、
 「苦悩」を「歓喜」に変え、
 人生の凱歌を轟かせる
 庶民のヒーロー、ヒロインの崇高な姿だ!
 泥沼に咲く蓮華のごとく、
 清らかにして、美しく、強き、その魂だ!
 大宇宙をも包み込む
 広大無辺な、その心の豊かさだ!
  
 人間!
 おお、人間!
 なんと尊く、気高きものか!
 私は、合掌する思いで、
 わが友の人間革命の勝利劇を詠い続ける。
 中天に燃える、夏の太陽が眩しかった。
 青き島々を浮かべ、銀波が躍る瀬戸の海を、高速船は滑るように走っていく。
 吹き渡る風が頬に心地よい。
 一九七八年(昭和五十三年)七月二十四日午後一時、山本伸一たち一行は、移動時間を短縮するため、チャーターした高速船「キングロマンス」号で、岡山から香川県・庵治町の四国研修道場へ向かった。
 彼の四国訪問は、この年二度目であった。
 伸一は、峯子に言った。
 「四国から大人材を育てるよ。学会の宝は人だもの。人が育ってこそ広宣流布は進む。
 皆と会い、同じ志の勇者をつくるよ」
2  大道(2)
 山本伸一たちの乗った高速船「キングロマンス」号は、午後二時過ぎに、四国研修道場前の桟橋に接岸された。
 夏の太陽が、ギラギラと照りつけ、気温は三四度を超えていた。
 「先生! ようこそ!」
 酷暑のなか、香川の同志が、汗にまみれながらも、満面の笑みで迎えてくれた。
 「暑いなか、本当にご苦労様です。記念に写真を撮りましょう」
 到着するや、伸一のメンバーへの激励が始まった。
 引き続き研修道場内を視察し、館内で、路上で、また、海岸で、会う人ごとに声をかけては、ねぎらいと励ましを重ねた。
 居合わせた青年たちの思い出になればと、一緒に海に入り、泳ぎもした。
 この日は、岡山から、研修会参加者が集って来ていた。
 午後六時過ぎ、瀬戸の空が、真っ赤な夕焼けに染まり始めたころ、研修道場の庭で野外研修が始まった。
 特設された舞台の後ろには、「歓迎 ようこそ四国研修道場へ!」の文字が躍っていた。
 野外研修では、地元・香川の各部合唱団が、岡山の同志を歓迎しようと、新学会歌「友よ起て」「星は光りて」「人生の旅」を披露。
 さらに、香川の婦人部有志の琴演奏や、徳島の友による「阿波踊り」のあと、新中国の歌「地涌の讃歌」を合唱。そして、新四国の歌「我等の天地」が発表されたのである。
 歌声は、夕焼け空に広がっていく。皆、愛する郷土建設への熱き思いを託し、声を限りに歌った。
 二度、三度と繰り返された。
 伸一は、二番の「喜び勇んで 我等をば 包み護らん 鉄囲山」の箇所が歌われるたびに、心に深く誓うのであった。
 「私は、鉄囲山となって、四国の同志を、地涌の仏子を守り抜く! 負けるな、四国の同志よ! 断じて勝つのだ!」
3  大道(3)
 庵治の浜辺は黄昏を迎えていた。
 歓喜と誓いの合唱が終わると、山本伸一は笑みをたたえながら、マイクに向かった。
 「愛郷心みなぎる、意気盛んな皆さんの熱唱に、四国広布の新たな夜明けの歌を聴きました! 希望の光を見ました!」
 この研修で彼は、広宣流布という大目的に生きる信仰の世界にこそ、最高の歓喜と人生の醍醐味があることを訴え、新しい出発への決意を促した。
 研修が終わると、彼は、真っ先に参加者の輪のなかに飛び込み、握手を交わし、肩を抱きかかえ、励ましていった。同行の副会長や四国の方面幹部、県幹部も彼に続いた。
 伸一の顔にも、体にも、汗が噴き出した。
 思えば、半年前に四国を訪問した折、彼が寒風の中、行く先々で幹部に語り、行動をもって示したのは、「仏を敬うがごとく、会員の皆さんに尽くせ」ということであった。
 会員奉仕こそ幹部の基本姿勢であると叫び抜き、四国の天地に幹部革命の烽火を上げたのだ。
 仏法とは、慈悲の教えである。そして、それが、人間の振る舞いとなって体現されてこそ、現実に価値をもたらす。
 日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せである。
 人びとを敬い、幸せの大道へと導き、励ます振る舞いのなかに、仏法者の生き方があり、そこに仏道修行もあるのだ。
 幹部の意識革命、人格革命がなされ、「慈悲」という生き方が確立されていけば、それは、全会員に波及し、励ましの人の輪は、地域、社会に幾重にも広がっていこう。
 そして、現代にあって分断されつつあった人と人との絆は、復活していくにちがいない。
 広宣流布とは、見方を変えれば、仏法の法理を各人が、自己自身の生き方、哲学として体現し、信頼の絆をもって人びとと結ばれていくことであるといってよい。
 その輪を広げ、人間を尊び、守り合う、生命尊厳の時代、社会を築き上げていくことが、創価の同志の重要な使命となる。
4  大道(4)
 翌七月二十五日午後、四国に草創の支部が結成されて二十二周年を迎えることから、その記念幹部会が四国研修道場で開催された。
 この集いでも、四国の歌「我等の天地」を大合唱し、喜びの波動は広がっていった。
 席上、山本伸一は、「阿仏房御書」(御書1304㌻)を拝して指導した。
 本抄で日蓮大聖人は、「末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。
 もしそうであれば、身分の貴さや賤しさ、立場の上と下は関係なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身が宝塔であり、また、その人自身が多宝如来なのである」(通解)と御断言になっている。
 宝塔とは、法華経に説かれた、金、銀、瑠璃など、七宝をもって飾られた壮大な塔である。
 多宝如来とは、法華経こそ万人成仏の真実の教えであることを証明する仏である。
 現実の世界で日々苦闘する生身の人間が、信心に励むことによって、そのままの姿で妙法の当体、すなわち宝塔として金色燦然と光り輝き、また、多宝如来として真の仏法の偉大さを証明していけるというのだ。
 初代会長・牧口常三郎も随所に線を引き、深く拝していた御書である。
 伸一は、そのあとにある、「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」の一節を引いて訴えた。
 「ここでは、阿仏房を対告衆として、わが身そのままが妙法蓮華経の当体であり、宝塔とは、南無妙法蓮華経と唱える私たちにほかならないことを示されています。
 これこそが、仏法の教えの結論であるといえます。
 したがって『此れより外の才覚無益なり』──「これだけ知っていればいいのですよ」と言われているんです。
 本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。
 ですから、いつ、どこにいようと、自分のいるところが宝塔の住処となり、常寂光土にすることができるんです。なんの心配もありません」
5  大道(5)
 「阿仏房御書」で日蓮大聖人は、「我が身又三身即一の本覚の如来なり」とも仰せである。
 私たち凡夫が、円融円満の、完全無欠の仏であると言われているのだ。
 ここに、創価の人間主義の根幹がある。
 山本伸一が、自ら仏に仕えるように皆に尽くし、また、その実践を幹部に訴えてきたのも、この御文を根底にしてのことである。
 伸一は、心に四国の美しき山々を思い浮かべながら語った。
 「四国は、まさに山紫水明の地です。四国と聞くだけで、私は胸が躍ります。この「我等の天地」を、それぞれの居住の地域を、自身の本有常住の地、使命の舞台と定めて、明るく朗らかに二十一世紀をめざして、四国の広宣流布を進めていってください。
 また、この四国の天地から、数多の人材を輩出していっていただきたい。その意味から『人材になろう』『人材にしよう』を合言葉に前進していってはどうかと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 賛同の大拍手が、会場に響き渡った。
 「皆さんが賛成してくださいましたので、「人材の四国」へ、大前進を開始します。
 五年後、十年後、二十年後が楽しみです」
 四国は、「我等の天地」の大合唱とともに、新時代へと船出したのだ。
 また、この日、「香川未来会」も結成された。伸一は、満腔の期待を込めて祝福した。
 「未来への出発だ。次の世紀を頼むよ!」
 そうした合間を縫うようにして、思索を重ねていたのが、「東京の歌」の歌詞であった。
 首都・東京は、学会本部を擁する本陣である。広宣流布の決定打を放つのも、学会の未来を決するのも東京である。
 東京が強くなった分だけ創価学会は堅固になり、東京が前進した分だけ広宣流布は進むといっても過言ではない。
 それだけに、東京の同志が心から誇りに思えるような、格調の高い、大前進の糧となる学会歌を作詞して贈ろうと思っていたのだ。
6  大道(6)
 四国記念幹部会や婦人部懇談会など、四国研修道場での諸行事を終えた山本伸一は、夜更けて、「東京の歌」の作詞に取り組んだ。
 彼は、歌詞を考えながら、東京が、全国、全世界の広宣流布の本陣として、さらに大きな飛躍を遂げていくためには、何が必要かを考えていった。
 ──東京は、人の層も厚く、多彩な人材が集っている。しかし、それは、ともすると、一人ひとりの責任感、使命感の希薄化を招きかねない面がある。
 つまり、「自分ぐらいいなくても、どうにかなるだろ「う」「誰かがやるだろう」といった感覚に、陥ってしまいがちであるということだ。
 また、東京には、活動経験の豊富な、古くからの幹部も多い。いつ、何が活動として打ち出されるかや、活動の手順も、たいていわかっている。
 そのため、求道心、清新の息吹を失い、惰性化してしまいがちな傾向があることも否定できない。
 伸一は、気づかぬうちに陥りがちな、こうした傾向を各人が打破して、生命を覚醒させる歌を作らなければならないと思った。
 ──その瞬間、彼の脳裏に、「感激」という言葉が浮かんだ。
 「仏法の眼を開けば、すべては感激に満ちている。自分が地涌の菩薩として、広宣流布の大使命をもって、この時に、広布の本陣たる大東京に出現したこと。この地に大宇宙より雲集した同志と奇しくも巡り合い、久遠の誓いを果たそうと、大法戦を起こしたこと。
 日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布の時代の幕を、今、自分たちの手で開こうとしていること……。
 一つ一つが不思議な、大感動の事実であり、感激以外の何ものでもない」
 この「感激」というキーワードが定まると、歌の構想は、次第に固まっていった。
 「私たちの日常の振る舞い一つ一つが、地涌の菩薩の乱舞の姿である。
 そうだ、その一日を歌おう。朝の祈り、中天の燦たる光、夕陽のなかを走る友、満天の星……。歌詞は、四番までにしてもいいだろう」
7  大道(7)
 七月二十六日午後、山本伸一の乗った「キングロマンス」号は、白い飛沫を上げて、四国研修道場から、瀬戸の島々を縫うようにして小豆島をめざしていた。
 彼は、前日、四国の幹部から、小豆島のメンバーの奮闘について報告を受けた。
 小豆島では、二度にわたる豪雨禍で多くの死者、負傷者が出ました。
 学会員は、そのなかから信心で立ち上がり、地域の柱となって復興に取り組んできました。
 また、小豆島会館が開館十周年の佳節を迎えることから、弘教をもって法城を荘厳しようと、勇んで活動に励んでいます」
 それを聞いた伸一は、直ちに提案した。
 「すごいことだ。皆さんとお会いして、励ましたいね。明日、岡山へ帰る時に、小豆島会館を訪問したいのだが、どうだろうか。
 十一年前に、小豆島を初訪問した時、私は、再び訪問することを約束しているんです」
 四国長の久米川誠太郎は、ほおを紅潮させ、満面に笑みを浮かべて言った。
 「ぜひ、お願いいたします!」
 復路も、往路同様、移動時間を短縮するため、高速船「キングロマンス」号をチャーターしていた。
 島へは、四国研修道場からは三十分ほどで行けるという。
 久米川が現地と連絡を取り、翌二十六日の午後三時から、小豆島会館で開館十周年の記念勤行会を開催することになった。
 凜とした声で、伸一が言った。
 「苦労し、辛酸をなめてこられた方々を、私は、力の限り励ましたいんです。最大に讃えたいんです。尊い仏子の方々とお会いするためなら、どこへでも行きます」
 そして、この訪問が実現したのだ。
 自分が足を運び、対話した分だけ、広宣流布の道は開かれ、発心の種子が植えられる。
 伸一の乗った船に向かって、海のあちこちで船上から手を振り、歓声をあげる人たちの姿があった。漁業を営む学会員である。
 伸一たちも、盛んに窓から手を振って応え、青い海原に真心の交歓風景が広がった。
8  大道(8)
 小豆島は、南国情緒を感じさせた。夏空のもと、緑の山々が峰を連ね、ソテツの木々が風にそよいでいた。
 「先生! ようこそ!」
 山本伸一が船を下りると、島の代表が、こぼれるような笑みで、出迎えてくれた。
 「ありがとう! ありがとう! お会いできて嬉しい。お世話になります」
 彼が小豆島を初訪問したのは、一九六七年(昭和四十二年)九月、香川県高松市の体育館で行われた四国本部幹部大会に出席した折のことである。
 島の会館建設計画を具体化するため、島内を視察したのだ。
 そして、会館建設が決定し、翌六八年(同四十三年)六月、小豆島会館が完成し、開館式が行われた
 会館は、緑したたる山にいだかれるように立つ、建築面積二百平方メートルほどの建物である。
 以来十年の間に、小豆島は二度の豪雨災害に見舞われている。
 七四年(同四十九年)七月の集中豪雨では、発生した土石流によって家屋二百四十九戸が全半壊し、死者二十九人が出た。
 さらに、二年後の七六年(同五十一年)九月の台風十七号による豪雨では、山津波もあり、島内の全壊家屋は二百十二戸に上り、死者三十九人、重傷者九十一人という惨事となった。
 これらの災害に対して、学会は、直ちに救援活動を行い、被災者の救援と復興のために全力を注いできた。
 伸一もまた、心を砕き続けてきたのである。
 午後二時過ぎ、会館に到着した伸一は、メンバーに声をかけた。
 「来ましたよ。皆さんの題目に呼び寄せられて。さあ、新しい出発をしましょう」
 会館の大広間は、既に人で埋まっていた。
 彼は、別室で、島の中心者らが語る現況に耳を傾けた。
 二度の豪雨禍の爪跡は、まだ随所に残っており、肉親を亡くすなどの被害を受けた人たちにとっては、心の復興が最も重要な課題であるという。
 心の復興──その力こそが信仰なのだ。
9  大道(9)
 小豆島本部の女子部本部長である大津真美子が、山本伸一に伝えた。
 「実は、二年前の豪雨で、両親を亡くした女子部員がおります」
 語り始めると、すぐに伸一は言った。
 「できるなら、その女子部員とお会いしましょう。そうした方こそ、直接会って励ましたい。私は、そのために来たんです」
 大津は、その女子部員を呼んで来た。驚いた顔で伸一を見つめる女子部員に、彼は、力強い声で語り始めた。
 「大変だったね。悲しかったでしょう。辛かったでしょう。しかし、負けてはいけません。
 強くなるんです。あなたが元気に信心に励んで、これからの人生を生き抜き、亡きご両親の分まで幸せになっていくことです。
 それを、ご両親も願っていますし、そうなることが、ご両親への最高の追善になるんです。
 これからは、私をお父さんだと思ってください。あなたのことは忘れません。
 あなたが忘れても、私は題目を送り続けます。何があっても負けないで、頑張り通してください」
 女子部員は、懸命に涙をこらえ、伸一の話に、何度も、何度も、大きく頷いていた。
 それから彼は、大津を見て言った。
 「しっかり、面倒をみてあげてね」
 大津も、姉の思いで、この女子部員を見守り、励ましていこうと心に誓うのであった。
 苦しんでいる人、悩める人のために行動する。激励し抜いていく──創価の同志に
 は、大変な状況のなかで生きている人を目にした時、見過ごすことなどできないという、
 熱い思いが脈打っている。それは利他の心の発露であり、地涌の菩薩の使命に生き
 抜くなかで育まれてきた生き方といってよい。
 個人主義の風潮が強い、現代社会にあっては、人は他者との関わりを避け、自分の殻に閉じこもりがちになる。
 その結果、人間の連帯が断たれて、孤独化が進んできた。
 そうしたなかで、他者の幸福を願い、積極的に関わろうとする学会員の生き方こそ、人間を結び、蘇生させ、社会を潤す力となろう。
10  大道(10)
 午後三時、山本伸一は小豆島会館の開館十周年を祝う記念勤行会の会場に姿を
 現した。場内は人で埋まっていた。参加者のうち百人ほどが、未入会の家族や友人たちであった。
 伸一は、会場に入ると、最前列に座っていた、メガネをかけた老婦人に声をかけた。
 「島の一粒種のおばあちゃん! お元気で嬉しい。十一年前の約束通りに来ましたよ」
 「先生! ようこそ、おいでくださいました。お待ちしておりました。ずっと、ずっと、待っておりました」
 伸一は、手にしていたカーネーションのレイを、彼女の首に掛けた。
 老婦人は道畑ハナノといい、七十八歳になる。一九五三年(昭和二十八年)八月に、島で最初に誕生した学会員であった。
 当時は、旧習も深く、学会のことを正しく理解してくれる人は誰もいなかった。
 仏法対話に行って、水や塩を撒かれることは日常茶飯であった。道を歩けば、「南無妙法蓮華経が歩いている」と嘲られた。
 しかし、彼女は屈しなかった。
 「みんな何もわからないのに信心に反対する。悪口を言う。学会で教わった通りのことが起きている。この信心は本物だ!」
 非難中傷が彼女の確信を強くしていった。
 当初、彼女の所属は、杉並支部であった。
 わからないことにぶつかると、組織の先輩に手紙を書いて質問した。
 月に四通のペースであった。送られてくる答えや励ましを暗記するほど読んでは、弘教に歩いた。
 入会の翌年にあたる五四年(同二十九年)八月に最初の折伏が実った。
 同級生の娘・宅麻千代が入会したのだ。二人は二十数歳の年の開きがあったが、共に弘教に励んだ。
 反対されても、悪口を言われても、彼女たちには、込み上げる歓喜があった。また、同志がいるということが、何よりも心強かった。
 燃える心には、冷たい仕打ちも苦ではない。
 同志が生まれれば、勇気は百倍する。
 それぞれ生活苦などの悩みをかかえてはいたが、明日への希望と確信があった。
11  大道(11)
 道畑ハナノから始まった小豆島の広宣流布は、着実に伸展していった。
 山本伸一の二度目の訪問となる、この一九七八年(昭和五十三年)七月、小豆島の組織は、一本部五支部へと
 大きな発展を遂げていたのである。
 伸一は、六七年(同四十二年)九月、小豆島を初訪問した折、道畑と会い、島の広宣流布が彼女から始まったことを聞くと、言った。
 「ここに会館ができれば、小豆島の広宣流布は、大きく進みます。それにともない、島は、ますます栄えていくでしょう。
 その時に、最初の一人である、あなたの存在は燦然と光り輝いていきます。ここに会館が完成したら、必ず、いつかまた、小豆島にまいります。あなたにお会いしに来ます」
 そして、この日の再会となったのである。
 道畑は、「先生……。嬉しいです」と言いながら、伸一の手を、ギュッとつかんだ。目から涙があふれて止まらなかった。
 「私も嬉しいです。おばあちゃんの十倍嬉しいです」
 「まあ、先生!」
 「私は、おばあちゃんが大好きですよ。おふくろのように思えるんです。お幾つになら
 したか」
 「七十八歳になりました。長生きして本当によかった……」
 「まだ、お若いではないですか。いつまでも、いつまでも、いつまでも、お元気でいて
 ください。そして、またお会いしましょう」
 「はい! これからも、二度、三度と、先生とお会いできることを楽しみに、生き抜いてまいります」
 草創の功労者が、明るく、はつらつと頑張る姿を見れば、後輩は信心への確信をもつ。
 ゆえに草創期を築いた方々には、生涯、信心を貫いていく責任がある。
 また、後輩は、そうした諸先輩を尊敬し、心を配り、最高に遇していかなければならない。
 そこに、世代から世代へと、確かなる広宣流布の流れがつくられていく。
12  大道(12)
 小豆島会館の開館十周年を記念する勤行会では、四国の方面幹部、婦人部の全国幹部、副会長らが次々とあいさつに立った。
 登壇する幹部の話のたびに、朗らかな笑いが弾けた。
 たとえば、婦人部の幹部が、「私は、初めての小豆島訪問です。
 『人よし、自然よし』で、永住したい気持ちです」と語ると、会場中が笑みの花と大喝采に包まれる。皆、嬉しくて嬉しくて仕方がないのである。
 部屋の壁には、この年の春に山本伸一が詠んだ、「忘れまじ 小豆の島の 友どちを 祈りに祈らむ 春の笑顔と」の歌が大書されていた。まさに「笑顔」の勤行会となった。
 このあと、小豆島本部の婦人部、男子部、女子部の合唱団総勢四十三人が登場。
 四国の歌「我等の天地」の合唱が披露された。
 歌は、前々日に、四国研修道場で行われた野外研修の折に発表され、勤行会当日の「聖教新聞」四国版に、歌詞と楽譜が掲載されたばかりであった。
 それを見て、「この歌の合唱で、小豆島の心意気を示そう」ということになった。しかし、満足に練習する時間はなかった。
 ♪地涌の我等が 乱舞せる……
 熱唱であったが、しばしばリズムが狂い、音程も外れた。
 でも、そんなことには頓着せず、堂々と胸を張り、高らかに歌い上げた。
 伸一は、大拍手を送りながら言った。
 「すごい! 『譜面なんか何するものぞ。わが道を征く』だね。いいぞ!
 少し音程が外れたっていいんです。発表されたばかりの歌なんだから。
 それを上手に歌えというのは、昨日、入会したばかりの人に、完璧な勤行を求めるようなものですよ」
 伸一の言葉に、笑いの大波が広がった。
 歓喜からほとばしる笑いは前進の活力だ。創価のスクラムには太陽の明るさがある。
 続いて、伸一の提案で、小豆島の発展への誓いを込め、皆で万歳を三唱した。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 歓喜の大音声が轟き渡った。
13  大道(13)
 万歳三唱のあと、山本伸一の導師で厳粛に勤行が行われた。
 彼は、小豆島の発展と広宣流布を願うとともに、「わが同志に、幸よ、薫れ! 無量の功徳よ、降り注げ!」と、懸命に祈った。
 皆の題目に唱和するかのように、外は蝉時雨に包まれていた。
 勤行が終わると、伸一が小豆島に来る船のなかで詠んだ、「小豆島 天下の福運 今日よりは」等の句が、島の代表に贈られた。
 マイクに向かった伸一は、包み込むような微笑みを浮かべ、十一年ぶりに小豆島を訪問した喜びを語り、懇談的に話を進めた。
 「今日は、わかりやすくお話しさせていただきます。
 釈尊は、さまざまな修行を積み、そして、その結果として仏になられた。
 それを因行果徳といいますが、その功徳、福運は無量無辺です。日蓮大聖人は、『この釈尊の因行果徳は、ことごとく題目に具わっており、題目を受持するならば、自然に、その功徳を譲り受けるのだ』と仰せになっています」
 「観心本尊抄」の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」の御文を、平易に彼は語ったのである。
 「それほど、御本尊、お題目の功徳というものは偉大なんです。そこには、人知をもってしては測ることのできない力がある。
 また、その功徳は、社会的な立場や学会の役職も、一切関係ありません。誰の唱えるお題目の功徳も、すべて平等です。
 たとえば、財布の中にお金が入っている。財布はさまざまに異なっていても、中に入っているお金の価値は一緒です。
 また、ロウソクに火をつける。どんな人が火をつけても、火に変わりはない。
 題目の場合も、これと同じで、万人が等しく、功徳を受けることができるんです」
 誰にでもわかるように仏法を語り説く。その努力があってこそ、真実の民衆仏法となり、そこに広宣流布の広がりがある。
14  大道(14)
 仏法で説く因果の理法は、大宇宙を貫く生命の根本法則であり、誰人も、そこから逃れることはできない。
 しかし、ともすれば目先の現象に心を奪われ、それに気づかないところに、人間の不幸の要因がある。
 山本伸一は、草創期の先輩たちの姿を通して、話を進めていった。
 「因果の理法に照らして、信心に従順か、違背かの結末は、まことに厳しい。われわれ凡夫には測りがたいものですが、二十年、三十年たってみれば、その差は歴然です。
 真面目に、黙々と信心を貫いてきた人は、途中で大変な事態に遭遇したとしても、見事に乗り越え、幸福に満ち満ちた境涯を確立しています。」ゆえに、信心の世界にあっては、要領主義に走ったりするのではなく、仏法の因果の理法を確信して、どこまでも一途に、誠実に、生き抜いてください」
 そして、信心とは何かに言及していった。
 「信心の基本は、『信行学』です。『信』は、御本尊を信じること。『行』は、自行化他であり、唱題とともに、弘教の実践、広宣流布への行動が含まれます。
 『学』は、教学です。したがって、御本尊を信じ、題目を唱え、教学を勉強しているだけでは本当の信心ではありません。
 広宣流布のための活動があってこそ、真の信心が完結するんです。
 「この人に立ち上がってもらいたい」と指導に足を運ぶ。「あの人に幸せになってほしい」と弘教に歩く。
 「地域の広宣流布をしよう」と対話を重ねる。その利他の実践に至ってこそ、真実の仏法なんです。
 私生活でも、さまざまな苦悩をかかえているうえに、広宣流布の行動を起こせば、さらに悩みを背負うことになる。辛いと感じることも、苦しいと感じることもあるでしょう。
 仏法では、娑婆世界とは堪忍の世界と教えている。耐え忍んで、強く生き抜かなくてはならない。
 その生命力の源泉が唱題です。悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、楽しい時も題目です。
 題目こそが、煩悩を菩提へ、苦を楽へと、生命を回転させる力なんです」
15  大道(15)
 日蓮大聖人は、仰せである。
 「いよいよ菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし
 信心は、難との戦いである。
 山本伸一の声は、力強さを増していった。
 「広宣流布をしようと思えば、反対され、何かと苦労も多いことでしょう。
 しかし、その行動は、仏の使いの、地涌の菩薩の行なんです。
 ゆえに、勇んで信心の行動を起こす時、わが生命は歓喜に変わっていきます。それが煩悩即菩提に通じていきます。そこに、崩れざる幸福境涯を築く大道があるんです。
 広布に生き抜いた福運は、現実に自分の人生のうえに現れ、また、子孫をも遍く潤していくことを強く確信してください。そして、明るく、はつらつと、「団結の小豆島」「福運の小豆島」を建設していってほしいんです。
 いかに生きても、一生は一生です。それならば、勇気をもって最高の一生をめざし、共々に、励まし合いながら、
 使命の大道を突き進んでいこうではありませんか!」
 「はい!」
 参加者の決意の声が一つになって響いた。
 彼は、大きく頷きながら言った。
 「これからも私は、小豆島の皆さんに、お題目を送り続けます。
 どうか、皆さんは、うんと長生きして、うんとお題目を唱え、うんと福運を積んでください」
 最後に伸一は、明年、小豆島本部として地域フェスティバルを開催してはどうかと提案。賛同の拍手が湧き起こった。
 終了後も彼は、小豆島の壮年と婦人の本部長である長井岩雄・花夫妻と懇談した。
 「小豆島といえば、小説『二十四の瞳』の作者・壺井栄の故郷として有名です。
 『二十四の瞳』には、平和への祈りが込められています。その平和と、人びとの幸福を実現するために皆さんがいるんです。
 小豆島こそ、皆さんにとっての「我等の天地」です。皆さんの手で、この島を「広布先駆の勝利島」にしてください」
16  大道(16)
 山本伸一は、さらに、長井夫妻に語った。
 「四国の歌もできたので、今度は、島の先駆として、小豆島の歌を作ってはどうでしょうか。私も応援します」
 それから四国長の久米川誠太郎に言った。
 「私は今年、もう一度、四国に来ます。四国が大発展するための、盤石な礎を築きたい。いよいよ四国の時代です」
 伸一が、島の大勢の同志に見送られ、土庄港を発ったのは午後四時五十分であった。滞在時間は、わずか二時間半にすぎなかった。
 しかし、人びとの胸には、小豆島広布に生きる誇りがみなぎり、決意が燃え盛っていた。
 伸一の乗った船が桟橋を離れると、見送りに来た人たちが、口々に叫んだ。
 「先生! また来てください!」
 「頑張ります! 見ていてください!」
 「小豆島を、必ず福運の島にします!」
 その声が、瀬戸の青空に溶けていく。
 伸一も、盛んに手を振って応えた。桟橋が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも手を振り続けた。
 彼は、この年の秋、「小豆島の歌」を作詞して島の同志に贈った。作曲を担当したのは香川県の女子部員であった。
 「オリーブ薫る 小豆島」から始まるこの歌には、幸の花咲く福運島の建設を願う、伸一の思いがあふれていた。
  二、萌ゆる緑の 幸の島
    願う我らの 声澄みて
    見よや爛漫 この島に
    功徳の宝樹 開きけり
  四、朝日も夕日も 絵のごとく
    この海原は 世界まで
    祈る響きは 通わんと
    ああ愛するは 小豆島
 一つの島がどれだけ栄え、人びとが幸せになるか――それこそが、広宣流布の縮図であり、実像である。
 そして、そのモデルが出来上がれば、日本中、世界中に広がっていく。ゆえに伸一は、この小豆島を盤石にしていくために、全精魂を注いだのである。
17  大道(17)
 行こう! 友のもとへ。
 今日も、励ましの対話を交わそう!
 語った分だけ、希望の春風を送ることができる。幸福の種子を植えることができる。
 四国指導を終えて岡山文化会館に戻った山本伸一は、翌七月二十七日午後、岡山から新幹線で名古屋へ向かった。
 この日の夜、「中部の日」記念幹部会が開催され、席上、伸一が、中国指導の激務の合間を縫うようにして作詞した「中部の歌」が発表されることになっていたのだ。
 中部の同志は、これまで、関西の歌をはじめ、中国の歌「地涌の讃歌」、四国の歌我等の天地」、九州の歌「火の国の歌」と、各方面の歌が相次ぎ発表されていくなかで、「中部の歌」の誕生を待っていたのである。
 伸一は、そうした同志の心に応えようと、岡山、米子と奔走しながら、歌詞を作り、推敲を重ねてきたのである。
 中部では、二年前の一九七六年(昭和五十一年)に、「広宣流布の新時代にふさわしい中部の歌を作ろう」との機運が高まり、制作委員会を設けて歌詞を募集した。
 しかし、応募作品のなかには、これぞ、と思う歌詞はなく、正式な「中部の歌」は決まらなかった。
 話し合いを重ね、「歌詞は、できれば先生に作っていただこう」ということになった。
 そして、前月の末に、中部の幹部が、その要請を伸一に伝えた。
 「もちろん、私は応援しますが、まず、みんなで歌を作ってみてはどうだろうか」中部の有志で、作詞作曲に取り組んだ。
 七月十九日、関西から岡山入りした伸一のもとへ、出来上がった歌の合唱を録音したカセットテープ、歌詞、楽譜が届いた。
 「手直ししてください」とのことであった。
 伸一は、推敲を始めた。「中国の歌」「四国の歌」などの作詞と並行しながらの作業である。彼は、必死であった。
 「全同志の胸に勇気の火をともすのだ!」との一念が、次々と魂の言葉を生み出していった。力は″懸命″という泉から湧き出す。
18  大道(18)
 「中部の歌」に山本伸一は筆を加えていった。
 「よい歌を!」「永遠に歌い継がれる歌を!」との思いで加筆していくうちに、全く新しい歌詞になってしまった。それを、
 さらに推敲し、作曲も東京で音楽の教師をしている壮年に依頼することにした。
 そして、完成した歌は、直ちに中部の幹部に伝えられ、「中部の日」記念幹部会前日の七月二十六日付「聖教新聞」の、中部の各県版に歌詞と楽譜が掲載されたのである。
 歌の題名は「この道の歌」である。
 「明日の記念幹部会で発表される!」
 中部の同志は胸を躍らせ、幹部会を待った。
 七月二十七日の午後三時半、山本伸一は愛知県の名古屋文化会館に到着した。
 彼は、同会館、さらに中部文化会館の館内を回りながら、中部本部長の田山豊隆、中部長の大田和介に、中部の現況を尋ねていった。
 二人は、幾つかの地域で、宗門の僧が学会員に、脱会して寺につくように、さまざまな圧力を加えたり、学会を悪口雑言していることなどを報告した。
 伸一の瞼に、横暴な悪侶の仕打ちにひたすら耐え、悔し涙を堪える、健気な会員の顔が浮かび、胸が張り裂ける思いがした。
 彼は、静かに口を開いた。
 「宗門の問題に限らず、最も大変ななかで頑張っている地域はどこですか」
 中部長の大田が言った。
 「現在、さまざまな観点から見て、いちばん苦しい状況のなかで、皆が必死に奮闘しているのが岐阜の東濃だと思います。
 ここは圏になっており、多治見市や瑞浪市、土岐市、恵那市、中津川市などで、多治見市には東濃文化会館がございます」
 その圏の中心者は、今日の記念幹部会に来られますか」
 「はい。出席いたします」
 「では、開会の前にお会いしましょう。皆さんが、どんな思いで戦い、どんな状況なのか、直接、お話を聞くことが最も大切なんです。自分で実態をおさえていくんです」
19  大道(19)
 中部文化会館での「中部の日」記念幹部会の前、山本伸一は東濃圏の中心者と会った。
 この圏では、宗門の問題だけでなく、怨嫉問題などもあり、皆が喜んで団結しているとは、言いかねる状態であった。
 伸一は、同席した中部本部長の田山豊隆に視線を向けた。
 「東濃の皆さんは、宗門をはじめ、さまざまな問題に苦しみながら、必死になって攻防戦を続けてくださっている。
 苦労しながら頑張り抜いておられる。
 今は、どんなに辛くとも、仏法という太陽の光を浴びれば、やがて、正邪も、善悪も明らかになっていきます。
 したがって、何があっても一喜一憂するのではなく、創価の師子の信念をもって、御本尊とともに、学会とともに生き抜いていくよう訴えることです。
 明日、私は東濃に行きます。そこで、東濃創価学会の結成十四周年を記念する勤行会を行いましょう。
 急ですが、来られる方は、来てください。皆、仏子の方々です。
 悔しい思い、悲しい思いをしながら、歯を食いしばって、戦ってこられた地涌の菩薩の方々です。
 私は、そうした皆さんに仕える思いで、最大に讃え、励ましたいんです。
 明日二十八日は金曜日で平日ですから、仕事の方も多いでしょう。勤行会は夕刻、皆さんが集まって来られたら開始します。
 仕事を終えて駆けつけて来る方のために、二度でも、三度でも行います。
 地元の皆さんには、『夕方から、会長も出席して勤行会を行います。都合のつく方は東濃文化会館にお越しください。
 ただし、無理をする必要はありません』とお伝えください」
 それから伸一は、強い語調で言った。
 「幹部は、最も皆が苦しんでいるところへ、自ら真っ先に足を運んで激励するんです。
 幹部に、その姿勢がなくなれば、それは、もはや官僚主義であり、組織は崩れていきます」
 記念勤行会開催の連絡は、その夜、電光石火、組織の隅々にまで流れた。
 「山本先生が、東濃に来られる!」
 皆、逸る心を抑え、翌日の勤行会を待った。
20  大道(20)
 七月二十七日夜、中部文化会館での記念幹部会には、中部の支部長・婦人部長らが、中部の歌「この道の歌」の発表に胸を躍らせ、頬を紅潮させながら喜々として集って来た。
 場内前方には、赤、ピンク、黄などの、色とりどりのグラジオラスの花が飾られ、晴れの幹部会に彩りを添えていた。
 午後六時半、開会が宣言され、山本伸一の導師で厳粛に勤行が行われた。
 伸一は祈った。懸命に祈った。
 「堅塁中部は、広宣流布を破壊せんとする迫害や陰謀に屈することなく、堂々と、日蓮大聖人の仰せ通りに生き抜いてほしい。創価の正義の旗を掲げ抜いてほしい」と。
 最初にあいさつに立った中部長の大田和介は、感無量の面持ちで、「中部の日」の淵源について話し始めた。
 「思い起こせば、二年前の七月二十七日、わが中部は、会長・山本先生から中部旗を授与されました。
 それは、私どもの胸中に、堅塁の不屈なる決意の旗が翻った瞬間でありました。
 満場を揺るがす大拍手が轟くなか、込み上げる感涙をこらえた、あの日
 の感動は、生涯、忘れることはありません。
 そして、私たちは、この日を『中部の日』とさせていただき、信心蘇生の原点の日として、毎年、新たな思いで出発していくことを誓い合ってきたのであります」
 記念日を荘厳するものは、誓いと行動だ。
 大田は、感激のため、幾分、声を上ずらせながら、叫ぶように訴えた。
 「私たちは、山本先生から授与された、正義と勇気の旗である中部旗を抱き締めて、仲良く団結し、上げ潮に次ぐ上げ潮の前進を続けてまいりました。
 そして、さらに本日、待望の中部の歌『この道の歌』を発表していただけることになったのであります。
 この歌とともに、私どもは新しき希望の前進を、力強く開始していこう
 ではありませんか!」
 賛同の大拍手が炸裂した。皆が同じ思いであった。場内は、歓喜に沸騰した。
21  大道(21)
 中部長の大田和介の話を受けて、中部本部長の田山豊隆が登壇し、「中部の歌」制作の経過を語っていった。
 「先生のお話を受けて、私たちは原案を作り、手直ししていただこうと、歌詞を提出いたしました。
 しかし、その歌の完成度は極めて低く、ことごとく先生の手を煩わせてしまう結果になってしまいました。
 原案で残っているところといえば、実は『中部』と『この道』ぐらいで、ほとんど跡形もなくなってしまったのであります」
 会場に爆笑が渦巻いた。すかさず山本伸一の声が飛んだ。
 「そりゃあ、中部の歌ですから、『中部』までなくすわけにはいかないでしょ。消してしまったら、それこそ大変ですよ。私はもう、中部に来られなくなってしまう。
 『この道』が残ったというけれど、まさか『あの道』というわけにはいかないでしょ」
 皆、腹を抱えて大笑いした。
 学会活動の活力は、悲壮感から発するものではない。歓喜から発するものだ。ゆえに、そこには、生命の躍動がもたらす朗らかな笑いと歌がある。
 それは、前進の歯車を、勢いよく回転させる潤滑油となる。
 田山は、姿勢を正して、朗々と歌詞を読み上げた。壇上には、その歌が大書されていた。
 一、ああ我等我等の 決めた道
   この道歩まん 朗らかに
   不退の君と 悔いあらじ 悔いあらじ
   ああ中部中部 和楽あれ
 二、ああ走れ語れよ この道で
   苦難の彼方に 瑠璃の城
   これぞ本陣 護れ君 護れ君
   ああ中部中部 歓喜あれ
 三、ああ朝な夕なに この道を
   口笛涼しく 友どちと
   夜空にはずむ 語りべは 語りべは
   ああ中部中部 諸天舞う
22  大道(22)
 この道――それは、三カ月前の一九七八年(昭和五十三年)四月、この中部文化会館で開かれた本部幹部会で、会長の山本伸一が語った言葉であった。
 あの日、伸一は師子吼した。
 「われわれは、ひとたび決めたこの道――すなわち『信心の道』『一生成仏の道』『広宣流布の道』『師弟の道』『同志の道』を、生涯、貫き通して、ともどもに勝利の人生を飾ってまいろうではありませんか!」
 中部の同志は、それを、自身の指針としてとらえ、生涯、わが信念の大道を歩み抜こうと、心を定めてきたのである。
 記念幹部会で、中部本部長の田山豊隆が、「この道の歌」の歌詞を三番まで読み上げると、激しい拍手が鳴りやまなかった。
 伸一が口を開いた。
 「では、ここで、この歌を合唱団の皆さんに歌っていただきましょう」
 はつらつとして調和の取れた、力強い歌声がこだました。その声に皆も唱和した。
 合唱団が歌い終わり、拍手が鳴りやむのを待って、再び伸一が言った。
 「三重の富坂県長に歌ってもらいましょう」
 三重でも、宗門の悪侶によって、多くの学会員が苦しめられてきた。
 どんなに辛かろうが、仏法の眼を開き、堂々と広宣流布のこの道を歩み抜いてほしいとの思いを込め、伸一は三重県長の富坂良史を指名したのである。
 長身で大柄の彼が、胸を張って歌い始めた。その声が辺りを圧した。
 何があろうが、リーダーが微動だにせず、悠々と歌声を響かせ、信念の大道を突き進んでいくならば、創価の大城は盤石である。勝敗の決め手は、リーダーの一念にある。
 富坂の独唱が終わった。
 「上手だね。私は、どの県長が歌がうまいか、よく知っています。
 でも、歌がうまいからといって、成仏できるわけではありません」
 伸一の言葉に笑いが広がった。そこには、悪侶の陰湿な仕打ちも、笑い飛ばして朗らかに進む同志の、″太陽″の明るさがあった。
23  大道(23)
 「中部の日」記念幹部会は、山本伸一の司会・進行によって、笑いと歓喜の集いとなった。彼は、言葉をついだ。
 「次は、参加者の皆さんが、男性陣、女性陣に分かれて、交互に歌ってはどうですか」
 この提案を受けて、男性の参加者が立って、「この道の歌」を力強く歌い上げた。
 続いて、女性の参加者が立って、誇らかに熱唱。記念幹部会は、楽しい歌合戦となった。
 「うーん、どちらも上手だね。両方とも満点です。今日のところは引き分け!」
 彼の「名司会」に会場は沸いた。参加者は「この道の歌」を深く生命に刻んだ。
 伸一は、記念幹部会で、「聖人知三世事」の一節を拝して指導していった。
 「我が弟子仰いで之を見よ此れひとえに日蓮が貴尊なるに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり、身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経をあなずる松高ければ藤長く源深ければ流れ遠し、幸なるかな楽しいかな穢土えどに於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而
 伸一は、いかなる法を信じて生きるかによって、人間の生き方、考え方、生命の力も、すべて決まってしまい、信じる法のいかんが人生を決定づけていくことを訴えた。
 「大聖人は、この御文の前の箇所で、どのような祈祷を行ったとしても、日蓮を用いないならば、日本国は必ず、壱岐・対馬が蒙古に侵略されたように、同じ事態に遭遇
 してしまうであろうと御予言になっております。
 そして、『わが弟子よ! この言を信じて、その時を見なさい』と言われている。
 さらに、『これは、日蓮が尊貴であるのではなく、法華経のお力が殊に優れているこ
 とによるのである』と御断言になっています」
 人の心は、ともすれば揺れてしまうし、混沌とした時代の行方は見えない。
 しかし、偉大な法に立脚するならば、人もまた、偉大な力を発揮していくことができる。
 どこまでも根本は法である。だが、その法を説き、教えてくれる人がいなければ仏法はない。
24  大道(24)
 山本伸一は、諄々と語っていった。
 「日蓮大聖人は『法妙なるが故に人貴し』という原理のうえから、『一閻浮提第一の聖人』であることは明らかです。
 しかし、その御境地をそのまま語り、御自身を宣揚すればどうなるか。
 その結果は、『身を挙ぐれば慢ずと想い』──世間は、大聖人を尊大、高慢であると受け取ってしまうことになる。
 では、御自身を卑下したらどうなるのか。『身を下せば経を蔑る』──人びとが大聖
 人の所持の法である南無妙法蓮華経という大法を侮り、蔑むことになる。
 したがって、非難中傷を恐れず、堂々と、真実を語り抜いて、進むしかないんです。
 次の『松高ければ藤長く』とは、松が高ければ、それを伝って伸びる藤も長いとの意
 味です。
 ここでは、南無妙法蓮華経の御本尊は最高の法、宇宙根源の法であり、その大法を信受した人の功徳、福徳は無限であり、悠々たる境涯となることを述べられている。
 また、『源深ければ流れ遠し』とは、御本尊は久遠元初の妙法の当体であり、その
 源は限りなく深いゆえに、その流れも遠いということです。
 つまり、大聖人の仏法が末法万年まで流布し、個人にあっては、永遠の幸福を確立できる原理が示されています。
 次の『幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已』の御
 文は、濁世末法に生まれ、迫害の人生を送りながらも、法華経の行者として妙法を流
 布する大歓喜を記されています。
 穢土とは、苦しみに満ちた娑婆世界です。
 しかし、大聖人は、流罪の地・佐渡にあってさえも、『流人なれども喜悦はかりなし』と言われている。
 私どもも大聖人と同じ決意に立って、妙法を信受し、広宣流布の戦いを起こすなら
 ば、いかなる状況にあっても、大歓喜の境涯を確立することができるんです。
 ですから、純粋に御本尊を信じ、一心に仏道修行に励んでいくことが大事なんです」
25  大道(25)
 山本伸一は、強い確信を込めて訴えた。
 「日蓮大聖人は、『如説修行』すなわち、仏の説の如く修行せよと叫ばれた。
 私たちは現代にあって、末法の御本仏であられる大聖人の仰せ通りに広宣流布を進めてきました。
 苦悩に打ちひしがれていた私たちが、御本尊に巡り合い、見事に人生を蘇生させ、
 仏の使いとして、最高の聖業にいそしんでいる。
 その姿こそ、地涌の菩薩の出現です。
 『我等の決めた道』『この道』とは、この妙法流布の大道なんです。
 広布誓願の大道であり、久遠の使命の大道なんです。
 この道にこそ、世間の次元では味わうことのできない、信心の醍醐味があり、生命の奥底から湧きいずる喜楽があります。
 その偉大なる所願満足の法理を人にも教え、自他共の幸福の波を広く社会に、万年の未来までも流れ通わせていくことを誓い合い、私のあいさつとさせていただきます」
 そして、最後にまた、「この道の歌」の大合唱となった。記念幹部会は、大歓喜のなかに幕を閉じた。閉会が告げられると、伸一はマイクを取り、会場前方に飾られたグラジオラスの花を見ながら言った。
 「今日は、会場を美しいグラジオラスの花で飾ってくださり、ありがとう。どなたが準備してくださったの?」
 会場から婦人たちの声が響いた。
 「愛知の婦人部です!」
 有志が各家庭で育て、持ち寄ったものだ。グラジオラスの花言葉には「勝利」もあり、なかでも赤いグラジオラスは「堅固」の花言葉をもつことから、堅塁中部を表現しようとしたのである。
 伸一は、花を手に取って言った。
 「それでは、この花を、壮年部の皆さんから、婦人部の皆さんへ、感謝の思いを込め
 て差し上げるようにしてはどうでしょうか」
 賛同の大拍手が起こった。
 壮年たちが花を手にして、婦人に渡した。
 「花──それは希望にほかなりません」(注=2面)──ロシアの文豪の言葉であ
 る。
26  大道(26)
 山本伸一は、翌七月二十八日午後一時半、東濃に出発する直前、中部文化会館で、創価大学、東京の創価学園、関西の創価女子学園に学ぶ学生・高等部、卒業生の男女青年部の代表と、記念のカメラに納まった。
 夏季休暇を利用し、帰省していた人たちなどであった。中部訪問中の創立者と会いたいと、集まって来たのである。
 伸一は、多忙を極めていた。しかし、ひと目でもメンバーと会って、励まし、心を結び合いたかったのだ。
 創価大学は、四期までの卒業生を送り出したにすぎず、伝統ある有名校に比べれば、就職も有利とはいえない。
 そのなかで皆が、″自分こそ創立者なのだ″との自覚で、企業などに体当たりするようにして就職の道を開き、職場で実績をあげ、信用を勝ち得つつあった。
 伸一は、そうした卒業生たちに、心から感謝するとともに、後に続く創価同窓の鳳雛たちを、全力で励ましたかったのである。
 「わざわざ集ってくださって、本当にありがとう。お会いできて嬉しい。
 諸君の前途は、必ずしも平坦ではないでしょう。待ち受けているのは、疾風怒濤であるとの覚悟が必要です。
 孤独に感じることもあるかもしれない。絶望的な気持ちになることもあるかもしれない。常に、現実は厳しい。矛盾だらけです。大事なのは忍耐です。
 そして、何があろうが、″今に見よ!″と、強く、強く、生き抜いていくんです。
 たとえ地に倒れることがあったとしても、再び、三たび、四たびと立ち上がり、挑戦し続けるんです。
 負けないことが、勝つことであり、その人が最後の勝利者になります。
 今、北京では、日中平和友好条約の締結交渉が行われています。
 私は、この締結を悲願とし、提言もしてきました。
 また、九月には四度目の中国訪問を予定しています。
 私は、人類の未来のために、諸君が世界の檜舞台で自在に乱舞できるよう、全力で道を開いておきます。君たちのことを思うと、力が湧きます。
 勇気が出るんです。万事、頼むよ!」
27  大道(27)
 山本伸一は、東濃文化会館に向かうため、車に乗ると、すぐに、「この道の歌」の歌詞を取り出し、同乗した峯子に言った。
 「まだ、推敲したいんだよ」
 車が走りだすと、歌を録音したカセットテープをかけてもらった。そして、しばらく考え込んだあと、顔を上げた。
 「やはり直そう。三番の結びである『ああ中部中部 諸天舞う』のところが、ずっと気になっていたんだ。
 『諸天舞う』では、主体である私たちの在り方を示すものではなく、受動的なものになってしまっている。
 大事なことは、私たちの祈りで、一念で、諸天を舞わせていくことであり、動かしていくことだ。
 大聖人は、頭を振れば髪が揺れ、心の働きによって身が動くなどの譬えをあげて、『教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき』と言われている。
 『教主釈尊』すなわち御本尊は、大宇宙の根源の法である妙法の当体だ。その御本尊に祈っていくならば、大宇宙をも動かしていける。だから、『諸天舞う』は、『諸天舞え』にしよう。また、この前の『語りべは』は、『語りべに』にしよう」
 それは、直ちに中部の同志に伝えられた。
 彼は、引き続き、既に手がけていた「東京の歌」の歌詞の推敲を重ねながら、広宣流布の本陣・東京の使命に思いを巡らせた。
 ″日蓮大聖人が、幕府の置かれた鎌倉を戦いの本拠地とされたのも、鎌倉こそが政治や経済の中心地であるとともに、苦悩する民衆があふれ、他宗派の寺が集まる思想闘争の激戦の舞台であったからだ。そこで、正法正義を明らかにしていくなかに、広宣流布の大きな広がりがある。
 学会が首都・東京に本部を置くのも、同じ理由である。
 政治、経済等の中心地にあって戦いを起こせば、それだけ風当たりも強い。
 あらゆる勢力の攻撃の標的になりかねない。
 しかし、そこで勝利の旗を打ち立ててこそ、広布の道は大きく開かれる。本陣・東京は、永遠に創価の大城でなければならない″
28  大道(28)
 山本伸一は、岐阜県多治見市の東濃文化会館に向かう途中、名古屋市守山区内にある、喫茶店に立ち寄った。
 店を切り盛りする学会員と、その家族、そして、地元の支部長らを励ますためであった。
 ”たとえ短時間でも、できることは全力を尽くして、すべてやろう”と、心に決めていたのだ。
 そして、自らに、こう言い聞かせてきた。
 ”機会を逃すな! 一瞬が勝負だ。一度の励ましによって、生涯にわたる発心の種子を蒔くこともできる!”
 伸一を乗せた車は、名古屋市の守山区を抜け、庄内川に沿って走った。道幅は狭く、片側は崖である。
 夏の日差しに、山の深緑が映え、水面には光が躍っていた。庄内川は、岐阜県に入ると、土岐川と名前を変えた。
 伸一が、東濃文化会館に着いたのは、午後三時五十分であった。
 会館には、多くの同志が集っていた。彼は到着するなり、皆のなかへ入っていった。
 「皆さんにお会いしにまいりました!」
 玄関前の広場には、美濃焼で知られる東濃らしく、陶芸コーナーが設けられていた。素焼きの白い大皿や花瓶などが並べてある。
 役員の青年が元気な声で言った。
 「先生! 記念に何かお書きください」
 伸一は、「わかりました。なんでもやらせてもらいますよ」と笑顔を向け、陶芸コーナーの椅子に腰を下ろした。筆を手にし、顔料を含ませ、大皿に「多治見広布」と認めた。
 もう一枚には、「喜楽之譜」と書いた。前日の「中部の日」記念幹部会で拝した、「幸なるかな楽しいかな穢土えどに於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」の御文からとった言葉である。
 東濃の同志は、”何があっても負けずに、喜楽の調べを奏でてほしい”との思いを込めた揮毫であった。
 岐阜出身の思想家・佐藤一斎は、「喜気は猶お春のごとし。心の本領なり」(注=2面)と語った。「喜びは春のようなもので、これは心の本来の姿である」との意味である。
29  大道(29)
 伸一が、記念勤行会の会場となった大広間に姿を現すと、大きな拍手がわき起こった。午後四時前、勤行会が始まった。
 彼は、参加者と厳粛に、勤行・唱題したあと、「四条金吾殿御返事」を拝した。そして、冒頭の「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」の御文を通して、真実の「遊楽」とは何かについて語っていった。
 「私たちは、『遊楽』を満喫するために、この世に生まれてきました。では、どうすれば、『遊楽』を得られるか。この御書には、それが明示されております。
 『遊楽』というと、世間では、ただ、遊びふけって、面白おかしく人生を生きることのように思われがちです。しかし、そこには、生の充実はなく、空しさが残る。なぜなら、それは、自分の欲望を満たす『欲楽』を追い求めることだからです。人の欲望には限りがない。際限なく肥大していきます。その欲望が満たされなければ、苦しみを感じてしまう。
 本当の『遊楽』とは、『法楽』すなわち法を享受して得られる喜びです。唱題に、弘教に励み、いかなる試練にも負けない仏の生命を涌現させ、周囲を寂光土へと転じていく──そこに、自分の内から滾々と湧きいずる大歓喜があります。それが、『自受法楽』です。
 つまり、真実の『遊楽』を得る道は、自行化他にわたる南無妙法蓮華経の実践しかありません。享楽にふけって、遊び暮らすなかには、『遊楽』はないんです。
 仏道修行は苦しく、大変であるように思えるかもしれない。でも、そのなかに、私たちの日々の学会活動のなかに、本当の『遊楽』があるんです。「この友人に弘教しよう!」と題目を唱え、懸命に仏法対話に励んだ時の、あの生命の躍動を、充実感を、歓喜を、思い起こしてください。自ら勇んで戦いを起こすならば、学会活動即歓喜なんです」
30  大道(30)
 山本伸一は、次いで、「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず」について、講義していった。
 「信心をすれば、世間から、怪訝な目で見られ、非難、中傷されることもあるでしょう。
 でも、それは、経文に、御書に説かれた通りではありませんか。したがって、そんな「世間の留難」を恐れ、翻弄されて、一喜一憂してはならないと仰せなんです。
 この御文のすぐあとには、『賢人・聖人も此の事はのがれず』とあります。
 正義を貫けば難がある──これは、道理なんです。
 したがって、何を言われようが、どんな仕打ちを受けようが、「御書に仰せの通りだ。いよいよ難が競い起こってきたな。よし、戦うぞ!」と心を定めて進むんです。
 そして、堂々と、『わが道』を、『この道』を、『創価の正義の大道』を走り抜いてください」
 皆、目を輝かせて、話に耳を傾けていた。
 伸一は、さらに、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ」の箇所について語った。
 「人生には、迫害の嵐、宿命の嵐が吹き荒れ、苦悩に苛まれることもあります。
 『苦』に直面した時には、その現実をありのままに見つめ、逃げたり、退いたりするのではなく、「よし、信心で打開しよう」と、ひたすら唱題に励んでいくことです。
 また、楽しい時、嬉しい時にも、感謝の心をもって御本尊に向かい、題目を唱え、歓喜を、さらなる歓喜の要因としていくんです。
 苦楽ともに唱題し抜く。その弛みなき精進のなかに、持続の信心のなかに、宿命の転換も、人間革命もあるんです。
 「題目を唱えることが、楽しくて、嬉しくてしょうがない」と実感できるようになれば本物です」
 強盛な信心とは、強盛な祈りであり、持続の唱題である。
 「唱題第一の人」は──揺るがない。臆さない。退かない。敗れない。
 胸中に、不屈の闘魂と歓喜の火が、赤々と燃えているからだ。
31  大道(31)
 記念勤行会での山本伸一の指導は、熱のこもる御書講義となった。
 「この『四条金吾殿御返事』は、『いよいよ強盛の信力をいたし給へ』との御指導をもって結ばれている。これが、この御書の結論なんです。
 皆さん、「いよいよ」ですよ。長いこと信心をしてきたから、「ほどほど」でいいなんていうことはないんです。
 「さあ、これからだ!」「また、新しい挑戦をしよう!」「生涯、前進だ!」というのが信心であり、仏法者の生き方なんです。
 そこに、生命の躍動があり、歓喜があり、幸福があるんです。
 いかに年をとろうが、青春の人生があるんです。
 東濃の皆さんは、この御書を深く心に刻んで、いよいよ信心強盛に、功徳に満ちあふれた人生を送っていってください」
 約二十分にわたる、渾身の講義であった。
 場内に入り切れなかった人たちが、外で待機していた。
 メンバーが入れ替わり、午後五時半から二回目の勤行会が行われた。
 伸一は、ここでは、法華経の「普賢菩薩勧発品」を引いて指導していった。
 この品には、法華経を受持する人の大果報とともに、正法を誹謗し、法華経の行者を軽毀する人の、免れることのできない、厳しい因果が記されている。
 そして、経典には、「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし=法華経六七七㌻)とある。これこそ、日蓮大聖人が「御義口伝」で、「最上第一の相伝」とされたところである。
 法華経受持の人、すなわち御本尊を受持して信心に励んでいる人に対しては、立って迎え、仏を敬うように接しなさいと述べられているのだ。ここには、広宣流布に進むわれらの、団結の要諦が示されているといってよい。
 団結の核心は、互いのなかに仏を見る「敬いの心」にある。それには、万人が仏性を具えているとの仏法の法理への確信がなければならない。つまり、信心ありて真の団結は成る。
32  大道(32)
 山本伸一は、法華経「普賢菩薩勧発品」の講義の最後に訴えた。
 「私どもは、互いに同志として尊敬し、仲良く、団結して進んでいくことが大事です。
 団結こそ、広宣流布の力であるからです。
 経文、御書に照らして、広宣流布の団体である創価学会の前進を阻もうと、魔が競い起こることは間違いありません。
 それは、外からの、権威、権力の弾圧や迫害となって起こることもあれば、同志間の怨嫉などの問題となって、内側から現れる場合もあります。
 特に私たちが、用心しなければならないのは、内部から蝕まれていくケースです。
 会員同士が怨嫉し、互いに恨んだり、悪口を言い合ったりするようになってしまえば、信心に励んでいても歓喜はありません。功徳、福運も消していきます。
 ましてや幹部が反目し合って、団結できず、陰で足を引っ張り合ったりすれば、仏意仏勅の組織は攪乱され、引き裂かれ、広宣流布が破壊されていきます。その罪は大きい。
 皆さんが仲良く団結しているということは、皆さんが境涯革命、人間革命をしている証明なんです」
 大聖人は、「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」と、団結を破る大過を戒められている。
 また、外敵は、団結できないところを狙って付け入り、師弟や同志を離間させ、反目させようとする。
 したがって、どこまでも鉄桶の団結をもって、魔に付け入る隙を与えないことが、同志を守り、広宣流布を大きく前進させる力と
 なるのだ。
 二回目の勤行会の終了間際、伸一は、「この道の歌」を皆で歌うことを提案すると、賛同の大拍手がわき起こった。
 集っていた各部合唱団と参加者が一体となっての、はつらつとした大合唱が始まった。
 この時、既に三番の歌詞は、「夜空にはずむ 語りべに……諸天舞え」となっていた。天をも動かす歓喜の歌声がこだました。
33  大道(33)
 東濃文化会館での二回目の記念勤行会を終えた山本伸一は、会館の窓から外を見た。
 土岐川の堤防を会館に向かって、歩いて来る人の列が続いていた。
 彼は、中部の幹部に言った。
 「三回目の勤行会を行いましょう。私は、会館に来てくださった方、全員とお会いし、勤行をします。何度でも行います」
 そして、「聖教新聞」の同行記者に伝えた。
 「今日、開催した勤行会の写真を、すべて明日付の紙面に掲載できないだろうか。東濃の皆さんに喜んでいただきたいんです。工夫してください」
 それから彼は、御書を開き、真剣に眼を注いだ。次の勤行会で講義をするためである。
 何事も、精魂を込めて、周到に準備してこそ成功がある。
 伸一の体調は、中国方面から四国を経て中部に至っても、まだ万全ではなかった。しばしば発熱があった。
 また、連日の猛暑が、彼の体力を消耗させていた。
 熱気に満ちた会場で、全生命力を注ぎ込んで同志を励まし、指導すると、体中にびっしょりと汗をかいた。
 そして、冷房の効いた場所に来ると、汗で濡れたシャツが体の熱を奪い、体調を狂わせた。
 しかし、伸一は、″これが、皆さんとお会いできる、人生でただ一度の機会かもしれない″と思うと、一回一回の勤行会に、全力投球せずにはいられなかった。
 何事にも″時″がある。
 「広布第二章」の前進は加速し、仏法の人間主義の新しき潮流をもって、地域、社会、世界を潤す時代を迎えたのだ。
 そのなかでの、大切な同志との貴重な出会いである。
 第二代会長・戸田城聖は、語っている。
 「時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれてきたかいのあるものであります」(「時にめぐりあう喜び」(『戸田城聖全集4』所収)聖教新聞社)
 伸一は、″今″という時を逃すまいと、固く心に決めていた。真剣勝負とは、一瞬に生命を燃焼し尽くすなかにあるのだ。
34  大道(34)
 三回目の記念勤行会は、午後七時前から行われた。
 激しい疲労が山本伸一を襲い始めていた。
 彼は、ここでは「日厳尼御前御返事」の一節を講義した。
 まず、「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」の御文を通して、語っていった。
 「御本尊の功徳は無量無辺です。
 しかし、私どもの信心が惰弱であったり、形式的であったりすれば、その功徳を引き出していくことはできません。
 たとえば、唱題に励んでいたとしても、心は上の空で、仕方なく、義務的に題目を唱えている
 ──それでは、本当の功徳を受けることはできないし、祈りも叶いません。
 受け身ではなく、御本尊に巡り合い、一生成仏できることへの感謝と歓喜をもって、主体的、能動的に、勇んで信心に取り組んでいくことです。
 その時に、御本尊の大功徳を享受していくことができるんです。今、この時に人間として生まれ、御本尊を受持したこと自体、大変なことなんですよ」
 そして伸一は、この御書を最後まで拝したあと、一段と力を込めて訴えていった。
 「私たちには、等しく仏性が具わっています。この仏の生命を涌現して、一生成仏していくことが、人生究極の目的です。
 それを可能にするのが、御本尊の功徳力なんです。
 その大力を引き出し、功徳を享受していくには、「わが人生は広布とともに」と覚悟を定め、『勇気ある信心』『潔い信心』を貫いていくしかありません。
 人間は一人では弱い。人の心は移ろいやすいものです。
 燃え立つような決意や誓いも、歳月とともに忘れがちなのが人間の性です。
 だからこそ、同志が、学会の組織が大事なんです。皆が団結し、互いに同志を思いやり、「一人も落とすまい」「自らも落ちまい」と心を決め、励まし合っていくことです。
 どうか、東濃の皆さんは、仲良く、朗らかに、心を合わせて、幸の花咲く広宣流布の大道を、福運の人生を歩んでいってください」
35  大道(35)
 四回目の記念勤行会は、午後七時四十五分から始まった。伸一は、ピアノを弾いて参加者を励ましたあと、「妙一尼御前御返事」を講義した。
 「法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」の御文では、″信″を入れて祈ることの重要性を指導した。
 「祈りは、ひたすら御本尊に思いの丈をぶつけていけばいいんです。その際、”信”を入れること、つまり、どこまでも御本尊を信じ抜き、無量無辺の功徳力を確信して、魂のこもった祈りを捧げることです。
 自身の宿命転換、人間革命、一生成仏のためには、”広宣流布に生き抜きます”という誓願の祈りが大事になります。そこに、わが生命を地涌の菩薩の大生命、大境涯へと転ずる回転軸があるからです。具体的にいえば、″あの人に、この人に、幸せになってほしい。仏法を教えたい″という必死な利他の祈りです。学会活動の目標達成を祈り、行動を起こしていくことです。それが、大功徳、大福運を積む直道です。
 したがって、自身の悩み、苦しみの克服や、種々の願いの成就を祈る時にも、”広宣流布のために、この問題を乗り越え、信心の見事な実証を示させてください。必ず、そうしていきます”と祈っていくんです。祈りの根本に、広宣流布への誓願があることが大事なんです。
 どうか、御本仏の、この大誓願、大目的に連なった信心で、師子王のごとき勇気あふれる境涯で、人生を闊歩していってください」
 参加者の熱気は、蒸し暑い夏の夜の室温を上昇させていた。伸一の顔にも、皆の顔にも、汗がにじんでいた。しかし、集った同志は、汗を拭うのも忘れ、瞳を輝かせ、晴れやかな微笑を浮かべ、発心を誓うのであった。
 勤行会は、午後八時十五分に終了した。
 外には、まだ入れなかった人たちが待機していた。急いで入れ替えが行われた。
36  大道(36)
 記念勤行会は、遂に五回目となった。既に時計の針は、八時四十五分を指していた。
 伸一は、皆の帰宅が遅くならないように、短時間で終わらせようと思った。
 彼は、参加者をねぎらい、ユーモアを交えて呼びかけた。
 「東濃は、五、六十人ぐらいの方が出席してくださればいいと思ってまいりましたが、なんのなんの、大盛況でびっくりいたしました。これはどうなっているんでしょうか!」
 会場に爆笑の渦が巻き起こった。
 ここで伸一は、信心の究極は、「無疑曰信」にあることを語っていった。
 「『無疑曰信』とは、『疑い無きを信と曰う』と読み、何があろうが紛動されることなく、どこまでも御本尊を信じて疑わぬ信心です。
 その信心に立った時、三世十方の仏・菩薩が必ず守るであろうことは、御聖訓に照らして間違いありません。
 一方、『有解無信』、つまり、教えを理解していても、心では信じていないという生き方もあります。
 それでは、どんなに教学に精通し、どれほど才能に恵まれていたとしても、一生成仏することはできません。
 『行学の二道をはげみ候べし』ですから、もちろん教学は大事ですが、絶対の信心に立つための教学なんです。
 信心によって、絶対的幸福境涯を築けるんです。
 広宣流布は魔との戦いです。権威権力の迫害をはじめ、予期せぬことが起こり、不信を煽りたてることもあるでしょう。
 どうか、何があろうが、『信』の一字を、深く、深く、胸に刻んで、広宣流布の大道を歩み通し、断じて幸せになってください。
 『信』によって結ばれた、地涌の固いスクラムは、いかなる力も、決して破ることはできません。
 どうか、東濃の皆さんは、信心第一に、誇らかに民衆の王者として、所願満足の人生を進んでいってください」
 生命を振り絞り、魂をとどめての指導であった。
 彼は、大拍手を聞きながら、目まいを覚えていた。勤行会は、すべて終了した。
37  大道(37)
 東濃の同志に見送られ、車で東濃文化会館を出発した山本伸一は、深くシートに体を沈めた。
 隣に同乗していた峯子が、伸一の顔に心配そうに視線を注いだ。
 「大丈夫だよ。心配ないさ。まだまだ、力はあふれている。名古屋の名東区に、レストランを経営されている学会員がいたね。
 そこにおじゃましよう。少し遅くなったが、皆で夕食を食べながら、夫妻を激励しよう」
 ここでも、伸一の励ましは続いた。
 「妙法を持って、懸命に広宣流布に戦っている人は、仕事の面でも、成功することは間違いありません。
 どんなに忙しくとも、信心だけは、『真面目に! 真面目に! 真
 面目に!』――これでいくんです。これしかありません。
 長い目で見た時には、適当に手を抜いてきた人と、真面目に戦い抜いてきた人との差は、怖いほど明らかです」
 レストランでの激励を終え、中部文化会館に到着したのは、午後十一時過ぎであった。
 名古屋滞在最終日の二十九日、伸一は、午前中、同志に贈る励ましの揮毫をしたあと、「東京の歌」の推敲に取りかかった。
 午後には、中部の代表幹部と勤行し、懇談しながら、指導、激励を重ねた。
 「今が正念場だよ。今こそ、仏意仏勅の誉れある創価の大道を、師弟の大道を貫き通していくんです。
 広宣流布の攻防戦は、常に熾烈です。過酷です。大変かもしれないが、私は戦います。
 わが愛する同志を守り抜きます。そのためには体も張ります。命も懸けます。それが会長です。また、それが幹部ですよ」
 伸一の真情であった。
 その後、会館周辺に居合わせた同志を次々と激励。さらに、午後六時過ぎ、東京に戻る直前に、「中部文化会館で、北名古屋圏の合唱祭が開催されます」と聞いた彼は、急遽、立ち寄り、開幕前のひと時、共に唱題して、マイクに向かった。
 「『潔い信心』と『美しい友愛と団結』をモットーに前進していこうではないですか!」
 戦いとは、生命を燃やし尽くすことだ。
38  大道(38)
 山本伸一が「激闘」と「力走」の歴史を刻んだ「青年の月」七月は終わり、「錬磨の月」八月が幕を開けた。
 一日の夕刻、伸一は、駐日アメリカ大使のマイケル・マンスフィールド夫妻らと、東京・信濃町の聖教新聞社で会談した。
 席上、この年五月に、伸一が初の国連軍縮特別総会を前に、国連事務総長、国連総会議長に書簡で送った、核軍縮及び核廃絶への提唱が話題に上った。
 提唱は、次の十項目から成っていた。
 1.全世界各国の最高責任者が一堂に会する「全世界首脳会議」の開催。
 2.核エネルギーの国連による管理化。
 3.すべての国に核兵器不使用を義務づける協定の締結。
 4.「非核平和ゾーン」の設置と、その領域拡大の推進。
 5.国連の仲介による「核軍縮首脳会議」の具体化。
 6.勇新型兵器開発の停止。
 7.「国連軍縮機関」(仮称)の設置。
 8.全面完全軍縮へ向けての民間レベルでの研究、討議、広報、出版活動の推進。
 9.国連に「平和のための資料館」(または仮称「国連平和館」)の開設。
 10.国連内に仮称「軍縮のための経済転換計画委員会」を組織化。
 さらに、伸一は、こうした国連の機能強化を可能にする前提として、国連の経済的基盤を強化するとともに、事務総長らは「完全なる政治的非同盟宣言」などを行い、政治的不偏性を確立すべきであると提言していた。
 マンスフィールド大使との会談では、これらの提唱をめぐっても意見が交わされ、平和への思いを確認し合う語らいとなった。
 伸一は、会員を守るために、宗門の問題に神経をすり減らしていた。
 しかし彼の眼は、人類の幸福と平和の実現から、決してそれることはなかった。
 戦争を、人びとの不幸を、この世からなくすために日蓮仏法はある。それこそが、本来、宗教の原点であるはずだ。
39  大道(39)
 八月二日夜、東京・荒川文化会館に、さわやかで、力強い歌声が響いた。
 東京支部長会の席上、東京の歌「ああ感激の同志あり」が発表されたのである。歌の披露に先立って、山本伸一が見守るなか、第二東京本部長で副会長の山道尚弥が登壇した。
 「皆さんは、『東京の歌』は、いったい、いつ発表されるのかと、気をもんでおられたのではないかと思います。
 ところが、昨日の『聖教新聞』に掲載された、東京の歌『ああ感激の同志あり』の歌詞と楽譜を見て、山本先生が作詞してくださったことを知り、大喜びされたのではないでしょうか。
 大変におめでとうございます!
 それでは、ここで、私たちが待ちに待っていた、山本伸一作詞、東京の歌『ああ感激の同志あり』の歌詞を発表いたします。
  一、おお東天に 祈りあり
    元初の生命の 曙は
    春の桜の 匂うごと
    喜び勝たなん 力あり
  二、おお中天に 燦々と
    日天我等を 護らんと
    いざや戦士に 栄あれ
    汝の勝利は 確かなり
  三、夕陽をあびて 尊くも
    地涌の友等は 走りゆく
    彼方の法戦 満々と
    ああ感激の 同志あり
  四、夜空に満天の 星座あり
    満たせる胸は 高鳴りて
    仏の使いに 誇りあり
    ほまれの東京 光あれ」
 「感激の同志」という言葉が、皆の心をとらえた。新鮮味を感じた。
 感激──それは、人と人との触れ合いのなかにある。勇んで行動するなかに生まれる。そして、感激こそが、前進の活力となる。
40  大道(40)
 東京の歌「ああ感激の同志あり」の歌詞が紹介されたあと、壮年部の「地涌合唱団」、婦人部の「白ゆり合唱団」、男子部の「しなの合唱団」、女子部の「富士合唱団」による合唱となった。
 歌の初披露である。
 指揮を執ったのは、この歌の作曲をした青年であった。
 彼は、小学校の音楽教諭で、混声「創価合唱団」でピアノを担当していた。
 長身の彼の指揮に合わせ、荘重でありながら明るく、力強い歌声が場内に響いた。
 皆、歌を聴きながら、「これまでの学会歌にはない、新しい感覚の歌だ」と思った。
 歌詞の意味を噛み締め、感動しているうちに合唱は終わった。
 山本伸一が言った。
 「もう一度、今度は全員で歌おう!」
 東京の幹部が指揮を執ることになり、扇を手にした。すると、伸一の声がした。
 「扇子というのは、いかにも日本的ですね。タクトにしませんか!歌に国境はないんですから。タクトの方が、世界的でしょ」
 拍手が起こった。
 その幹部は、タクトで指揮を執ったことなどないために、いささかぎごちなかったが、それでも、はつらつとした大合唱が始まった。
 ♪おお東天に 祈りあり
 元初の生命の 曙は……  
 歌いながら、皆が決意を新たにしていた。
 "「汝の勝利は 確かなり」とあるように、必ず宿命を転換し、幸福という勝利の実証を示すことができるのだ。確信の火を燃やし続けていくのだ2と、自分に言い聞かせる婦人部もいた。
 "三代の会長が一人立ち、死身弘法の実践をもって、広宣流布の大道を開いてきた本陣・東京だ。その東京で活動できるということは最高の誉れだ"と、感激を深くしながら、勝利への誓いを込めて熱唱する壮年部もいた。
 学会歌は決意と共にある。ゆえに、その歌声の轟くところに、勝利の太陽が昇るのだ。
41  大道(41)
 山本伸一は、「ああ感激の同志あり」の合唱が終わると、歌詞を解説していった。
 「この歌は、四国で制作を進め、中部の地で仕上げました。
 曲名にも入っていますが、『感激』ということが歌の主題です。
 信心に励んでいくうえでも、幸福を確立していくうえでも、それが最も大事だからです。
 『感激』できる人は、何事にも感謝していける、清新で謙虚な、豊かな生命の人です。
 反対に、傲慢で、人が何かしてくれて当然であると考えている人には、『感激』はない。
 日々、『感激』をもって生きている人は幸せです。
 その『感激』を生み出す根本は、清らかな久遠の生命に立ち返ることです。それは、朝の朗々とした勤行から始まります。
 一番の『おお東天に 祈りあり 元初の生命の 曙は』というのは、そのことを示しています。
 満々たる生命力をたたえた朝の太陽を浴びながら、すがすがしい心で、力強く、一日の行動を開始していくんです。
 そのころには、『聖教新聞』の配達員さんは、既に新聞を配ってくださっているでしょう。
 また、『感激』は、受け身になり、義務的に信心に取り組んでいたのでは生まれません。率先して行動を起こし、真剣勝負でぶつかっていく、その実践のなかにあるんです。
 二番の『おお中天に 燦々と』は、昼間です。婦人の皆さんが、さっそうと自転車を漕いで、頑張ってくださっている。
 婦人部は、本当に健気で清らかであり、学会の宝です。
 三番の『夕陽をあびて 尊くも』というのは、それぞれの仕事を終え、夕陽に照らされて、一生懸命に会合等に駆けつけてくださる尊い姿です。
 皆、地涌の使命の人です。
 疲れもあるだろうが、学会活動は、すべてが充実感に変わり、明日への活力になっていきます。
 そして四番の『夜空に満天の 星座あり』は、星空を仰ぎ、あの友、この友を思いながら、歓喜を胸に家路に就く様子です。互いの幸せを願い、祈り、誠心誠意、励まし合う──こんな世界は、学会しかありません。
 だから、『ああ感激の同志あり』なんです」
42  大道(42)
 東京の歌「ああ感激の同志あり」についての山本伸一の解説に、皆、大きく頷きながら耳を澄ましていた。
 そして、新しい決意を込めて、区長の代表の指揮で、また大合唱した。
 この日、スピーチした伸一は、連日の猛暑のなかで活躍する全支部長・婦人部長に、心から感謝の意を表したあと、秋に開催される第一回支部総会の大成功に期待を寄せ、学会活動に取り組む姿勢について語った。
 「第一に、地道な個人指導を重ね、一人ひとりの支部員を、立派な人材に育てていこうと、深く心を定めていくことが肝要です。
 学会の財産は何か──それは「人」です。人を育てることが、広宣流布を進めることにつながる。個人指導こそが、その人材育成の王道なんです」
 広宣流布の道には、越えなければならない幾つもの活動の峰がある。それを勝ち越えるには、一人ひとりが深い自覚と決意をもって、勇んで「戦い」を起こすことが大切である。
 世界の平和と人びとの幸福をめざす広宣流布の意義に共感し、活動に参加する人もいよう。自身の病苦や経済苦などの宿命を転換する突破口にしようと決意し、活動に取り組む人もいよう。強い信心の確信をつかみたいと、活動を始める人もいるにちがいない。
 個人指導の大事な目的の一つは、その人にとって、なんのための信心であり、活動であるかを明らかにしていくことにある。そして、意欲的に、希望に燃えて、仏道修行に、学会活動に励めるようにすることにある。
 「ひとたび、人が目的を明確にもてば、その人には歓喜が漲り、行動がともなうのである」(注)とは、南米・アルゼンチンの作家エドゥアルド・マジェアの言葉だ。
 大きな会合は、時間的な制約もあり、運動の打ち出しが中心となるが、その運動が軌道に乗るには、支部員との納得の対話によって、活動に取り組む自覚を促すことが必要不可欠であるこの労作業を怠れば、広宣流布の聖業は、空転を余儀なくされる。
43  大道(43)
 伸一は、さらに訴えた。
 「第二に、支部の皆さんのために尽くすことは、広宣流布のためであり、その功徳は無量です。ゆえに、人材育成の労苦は、すべて自分のためであることを確信してください。
 第三に、一生成仏への最も尊い仏道修行をさせていただいているのだという感謝と喜びをもって、強盛な信心を貫いてください。
 第四に、支部の皆さん全員が、功徳を受けきっていくように、日々、深き祈りを捧げる、慈悲のリーダーであっていただきたい」
 彼は、支部総会の開催を前にして、支部長・婦人部長としての最も根本的な心得を語っておきたかったのである。
 そして、伸一は、こう話を結んだ。
 「日々の生活も、広宣流布の道も、決して順風満帆な時ばかりではありません。辛い時も、苦しい時もあるでしょう。しかし、行き詰まったらお題目です。私たちには、御本尊があるではありませんか!
 強盛な信心、強盛な祈りこそが、一切を開き、決定づけていきます。唱題第一に、悠々たる境涯を開いてください。泥沼のような現実の世界で苦闘を重ね、幸福と勝利の白蓮のごとき大輪を咲かせ、大実証を示していくのが地涌の菩薩なんです。
 皆さんは、誉れの東京の「晴れの支部長」であり、「花の支部婦人部長」です。
 自信と確信に満ち満ちた一歩前進の指揮を頼みます。
 最後に、『大東京、万歳!』と申し上げて、私のあいさつとさせていただきます」
 感激のうちに、歴史的な東京支部長会は幕を閉じた。
 伸一は、この「ああ感激の同志あり」の歌詞を毛筆で認めた。その冒頭に、東京を舞台に広布に走り戦う八十万の地涌の友が、無事、安穏の日々であるよう、ひたすら祈りながら、一詩を詠んだことを記した。
 そして、大東京が永遠なる勝利の都であること
 を願い、万感の思いを込めて、こう綴っている。
 「ここに再び 大切にして 尊き佛子の 慧光照無量 寿命無数劫 を祈り贈る」
44  大道(44)
 荒川文化会館での東京支部長会に引き続き、山本伸一は東京の代表幹部と懇談した。
 彼は、皆の報告に耳を傾けながら、会館の整備など、東京の未来構想について語っていった。皆の胸に、希望が大きく広がった。
 懇談が終わりに近づいたころ、伸一は、東京の首脳に視線を注いで言った。
 「学会本部のある東京は、広宣流布の電源の地です。東京は、今の何倍も強くなってほしいし、十分にその力をもっています。
 しかし、今のままでは、力は発揮されずに終わってしまう。そうならないために、私は、あえて言っておきます。
 東京には、幹部の数が実に多い。そのせいか、幹部同士に遠慮があり、自ら先頭に立って戦おうとするのではなく、皆が他人任せになっている傾向がある。
 『私が一切の責任をもちます』という気概が感じられません。
 強い組織というのは、すべての幹部が責任者の自覚で戦っています。
 そして、緻密に連携し合いながら、中心者をもり立てている。
 東京を見ていると、中心者をもり立てようとするのではなく、『我関せず』といった態度の人が多い。つまり団結できずにいる。
 その克服が最大のテーマです。
 また、東京は、大きな組織だけに、当然、各区・圏が、それぞれ責任をもって、活動を進めていかなければならない。
 と同時に、皆が″東京は一つである″との自覚で、何かあれば、飛んで行って守り、協力、応援し合っていくことが重要です。
 関西創価学会の場合、大阪、京都、滋賀、福井、兵庫、奈良、和歌山と、二府五県に及ぶ広大な地域です。
 しかし、関西の友には、自分たちは″栄誉ある常勝関西の同志である″との、強い誇りがある。
 たとえば、私が滋賀に行っても、他府県の同志が、『会長が関西に来た!』と言って、喜んでくださる。だから関西は強いんです」
 「われわれの偉大な力は数にあるのではなく、団結にある」とは、アメリカ独立革命の思想家トマス・ペインの叫びである。
45  大道(45)
 東京の代表幹部たちは、真剣な眼差しで、会長・山本伸一の話に耳を傾けていた。
 「先日、東京から九州に赴任した幹部が、率直な感想として、こんな話をしていました。
 『東京の人は、何か新しい活動が打ち出されると、″ああだ、こうだ″と議論はするが、なかなか行動を起こさない。
 動きだした時には、活動の期間は終わりかけている。
 そして、皆が力をもっているのに、出し切ろうとしない。
 たいていの人が、ほどほどのところでやめてしまっているように思う。
 しかし、九州の人は、すぐに衆議一決し、パッと全力で走りだす。瞬発力が違う。
 また、都市部でも、山間部でも、島部でも、皆に″自分がこの地域の広宣流布を担うのだ″という、強い使命感、気概がある。
 だから一人ひとりが、どんどん力をつけ、一騎当千の闘将に育っている。
 九州が、東京を大きく凌ぐ時代が必ずくると思います』
 東京は、本来、力を出せば無敵です。
 だから、『汝の勝利は 確かなり』なんです」
 さらに、伸一は、中国指導の折に、鳥取の幹部が語っていた話を紹介した。
 「その幹部は、こう言っていました。
 『鳥取は、人口の少ない、小さな県です。
 東京の人は、鳥取のことなど、意識さえしていないかもしれませんが、私たちは、広宣流布のモデルをめざし、皆が着実に、地域で信頼を広げています。
 既に学会世帯が、二割に達する集落、地域もあります。十年後、二十年後を見てください』
 すごいことです! 二割といえば、東京だと、二百万世帯を超えることになる。
 堅実な″小広布″があっての″大広布″です。組織が″巨大″であることに安住して、しっかり足元を固めなければ、″虚大″組織と化してしまう。
 ″大東京″の前進は、わが町、わが地域という″小東京″の勝利のうえにある。
 私と一緒に、不敗の東京をつくろう!
 世界の同志が仰ぎ見る、永遠不滅の、栄光の大広布城を築こうよ!」
 大東京の闘将たちの眼が光った。
46  大道(46)
 広島に原爆が投下されて三十三年となる一九七八年(昭和五十三年)八月六日は、日曜日であった。
 東京の空は、青く晴れ渡り、雲一つなかった。
 山本伸一は、自宅で妻の峯子と共に、広島の原爆犠牲者を追善し、平和社会建設への誓いを込めて、勤行・唱題を行った。
 気温は午前九時には、三〇度に迫っていた。
 彼は、「今日も暑くなりそうだな。東北の女子部員は大丈夫だろうか」と思った。
 実は、午後から、信濃町の創価女子会館で、東北女子部の勤行会が開催されることになっていたのだ。
 この会館は、前年十二月末に、伸一も出席して開館記念勤行会
 が行われた、女子部の宝城である。館内には女子部愛唱歌「緑の栄冠」の歌碑も設置されていた。
 東北各県の女子部が、ここに一堂に集うのは初めてのことであり、メンバーは夜行列車などで、胸を躍らせて、東京にやって来ているにちがいない。
 「同世代の女性が、ゆっくりと休んだり、遊んでいる日曜日に、求道心を燃やして、女子会館に集って来る。なんと健気で、尊いことか。長旅の疲れを吹き飛ばすような、感動と歓喜をもって、帰ってもらおう……」
 伸一は、この勤行会で、「東北の歌」を発表しようと思い、歌の制作に取り組んだ。
 関西、中国、四国、九州、中部、東京に次ぐ、方面の歌である。
 「東北の歌」は、数日前から歌詞を作り始め、曲もある程度、出来上がっていたが、まだまだ納得のいくものではなかった。
 全精魂を注いで歌詞を練り続けた。
 彼は、「東北」というと、五四年(同二十九年)四月二十五日、仙台を訪れた戸田城聖と共に、青葉城址に立った日のことが忘れられなかった。
 市街を一望しながら、戸田は語った。
 「学会は、人材をもって城となすのだ!」
 それは、伸一をはじめ、東北の同志の、「必ず不滅の人材城を築き、広布推進の力になってまいります」との永遠の誓いとなった。
47  大道(47)
 第三代会長となった山本伸一は、戸田城聖と仙台の青葉城址に立った日から七年後の一九六一年(昭和三十六年)十一月二十一日、再び、この地を訪問し、一首を詠んだ。
 「人材の 城を築けと 決意ます 恩師の去りし 青葉に立つれば」
 この時、東北の同志は、人材城建設の誓いを新たにしたのである。
 また、伸一は、東北の青森の同志に、青森の「青」とは「青年」を意味し、「森」とは「人材の森」を意味すると訴えてきた。
 人材とは、いかなる人物をいうのか──。
 社会的に立派な地位や肩書、技能、財力などがあれば人材かというと、決して、そうではない。
 どんなに高い地位や優れた能力等があっても、それが、他人を見下したり、利己的な欲望を満たしたりするためのものであれば、人びとの幸福のために寄与する力とはならないからだ。
 人材とは、どこまでも広宣流布の誓願に生き抜く、信心の人である。
 広宣流布に生きるとは、自他共の幸福のため、社会の繁栄と平和のために生きるということである。
 この人生の根本目的が確立されることによって、自身のもっている知識も、才能も生かされ、大きく開花していくのである。
 人間の一切の力、可能性を引き出していくカギは、ひとえに信心にある。
 「信心」の二字には、すべてが納まっているのだ。
 ゆえに、人材の根本要件は、一言すれば、強盛な信心に立つことに尽きるのである。
 伸一は、東北の全同志が、広宣流布の大誓願に生き抜いてほしいとの思いを託して、「東北の歌」の制作に取り組んでいった。
 時刻は、既に正午を回っていた。
 彼は、とりあえず、東北女子部の勤行会を担当する女子部の幹部に伝言を託した。
 「皆さんに、次のように伝えてください。
 ──私は今、『東北の歌』を作っています。最初に、女子部の皆さんに聴いていただくために、会合が終了するまでに完成させます」
48  大道(48)
 午後一時、創価女子会館の広間は、東北の女子部員の晴れやかな笑顔で埋まっていた。
 女子部長の藤谷幸栄の導師で勤行が始まった。白馬が天空を駆けるような、軽快で、はつらつとした読経・唱題の声が響いた。
 勤行が終わるや、女子部長が語り始めた。
 「皆さん! 大変に嬉しいお知らせがあります。ただ今、山本先生が『東北の歌』を作ってくださっております!」
 伸一の伝言が発表されると、拍手が轟いた。
 勤行会は、このあと、東北各県の代表による活動報告が始まった。しばらくすると、清書された歌詞の入った封筒が届けられた。
 女子部長が、喜々として言った。
 「今、山本先生が、『東北の歌』の一番の歌詞を作ってくださいました。ここで発表させていただきます!」
 再び、拍手が湧き起こった。
 「歌のタイトルは、『青葉の誓い』です」
 またまた大拍手に包まれた。
 東北の青年たちは、かつて、あの青葉城址で、恩師・戸田城聖の伸一への話を聴きながら、「自らが人材に育つとともに、数多の人材を育て、東北に難攻不落の人材城を必ずつくろう」と、誓い合ってきた。
 当時の青年たちは、皆、壮年となり、婦人となっていた。しかし、「人材の城をつくろう」との誓いは、青年から青年へと受け継がれ、東北の伝統精神となってきた。
 それだけに、「青葉の誓い」というタイトルを聞いただけで、誰もが大きな喜びを覚えたのだ。
 次の世代を偉大な後継者にするために残すべき財産について、近代中国の女性指導者・宋慶齢は、こう述べている。
 「物質的財産のみでなく、もっとも大切なのは、われわれの伝統的な革命精神です」(注)と。
 「青葉の誓い」の歌詞が読み上げられた。
 一、青葉の森に 誓いたる
   我等の誇り 忘れまじ
   いかに護らん 果たさなん
   同志の城に 月冴えて
   ああ東北の 功徳の山々よ」
49  大道(49)
 東北の歌「青葉の誓い」の一番の歌詞が発表されると、創価女子会館に、大歓声があがり、拍手が鳴りやまなかった。
 参加者が、この歌を地元に持ち帰って伝えるために、再度、歌詞が読み上げられた。
 皆、それを、懸命に書き取っていった。
 その時、二番の歌詞が届き、発表された。
  二、風雪越えし 我等こそ
    地涌の正義の 旗頭
    今堂々の 陣列は
    使命の旗を 高らかに
    ああ東北の 歓喜の友々よ」
 そして、二番の歌詞を書き取っているうちに、今度は、三番の歌詞が届いたのだ。
  三、おお新生の 道広く
    王者の鼓動は 雄渾に
    三世の光と ひらかなん
    これぞ元初の 太陽と
    ああ東北の 凱歌の人々よ」
 さらに、ほどなく譜面が届いた。
 東北女子部長の大池憲枝は、立ち上がると、感無量の面持ちで呼びかけた。
 「山本先生は、『東北の歌』の歌詞も曲も作ってくださいました。私たちは、今日、この『青葉の誓い』を、しっかりと練習して覚え、各県に戻っていきましょう!」
 創価女子会館でピアノ演奏に合わせ、練習を行い、引き続き、創価文化会館内の広宣会館に場所を移して、何度も皆で合唱した。
 はつらつとした歌声が響いた。
 山本伸一が、あえて東北女子部の勤行会に間に合うように、東北の歌「青葉の誓い」を作ったのは、女子部から新しい広宣流布の波動を起こしてほしかったからである。
 若い女性たちは、流行にも敏感であり、社会の最も新しい空気を呼吸している。
 その彼女たちの感覚が、次代をつくっていく。つまり、現在の女子部の姿は、そのまま未来の創価学会を映し出しているといってよい。
 したがって、女子部が自信をもって先頭に立ち、誇りをもって創価学会を語れる、新しい時代の流れを開きたかったのである。
50  大道(50)
 東北の女子部員たちは、「青葉の誓い」を、何度も、何度も、合唱しながら、歌に込められた山本伸一の思いを噛み締めていた。
  ♪風雪越えし 我等こそ  地涌の正義の 旗頭……
 ──東北の歴史は、荒れ狂う風雪の道であった。冷害もあった。地震も、チリ津波もあった。貧困に苦しむ人も少なくなかった。
 そのなかで、創価の同志は決然と立ち上がり、偏見、非難、中傷にさらされながらも、弘教に歩いた。
 一軒、また一軒と、悲哀に沈む人びとの胸に、勇気の光を送り、使命の種子を植えていった。
 そして、あの町で、あの里で、希望の若芽が顔を出し、幸の花々は咲き薫った。
 激しく、辛い、吹雪に耐え、深い苦悩を知る人たちだからこそ、信仰の偉大なる力がわかる。揺るがざる確信がある。
 湧きいずる歓喜がある。だから、誰よりも真剣である。
 誰よりも誠実である。それゆえに東北は、地涌の正義の旗頭たりえるのだ。
 東北女子部の多くは、父や母の粘り強い忍苦を、心に真っ赤に燃える広宣流布の闘魂を、肌で感じながら育った後継の人である。
 伸一は、彼女たちにもまた、地涌の正義の旗頭に育ってほしかった。
 「人生には、常に苦難はある。生きるということは、苦闘することであるといっても過言ではない。そのなかで、人間の強さを、輝きを示し抜き、幸せの花を咲かせるのだ!君たちこそ、いつの時代も、未来永遠に、地涌の正義の旗頭なのだ!」
 伸一は、東北の女子部員に、限りない期待を託して歌を仕上げたのである。
 この日、彼女たちは、何度も練習した。歌うにつれて、伸一の心がびんびん響いてくる。
 歌声に、決意が、誓いがこもった。
  ♪使命の旗を 高らかに ああ東北の 歓喜の友々よ
51  大道(51)
 山本伸一は、この八月六日の午後、東京・信濃町の聖教新聞社で原稿を書いたあと、カメラを持って外に出た。
 前庭で何枚か写真を撮っていると、創価女子会館での勤行会に参加した、三十人ほどの東北の女子部と出くわした。
 新聞社の見学に来たようだ。
 「みんな、どこから来たの?」
 伸一が尋ねると、皆が口々に答えた。
 「秋田です!」
 「そうか! 秋田からか。よく来たね」
 女子部の一人が言った。
 「先生! 東北の方面歌『青葉の誓い』を作ってくださり、ありがとうございました」
 「皆さんのことを思いながら作りました。秋田は、宗門の問題でも苦労しているね。大変だろうが、何があっても負けてはいけないよ。私たちは、大聖人の仰せ通りに信心に励んでいる。その広宣流布の火を消すわけには、絶対にいかないもの。
 女性には、悪の本質を鋭く見抜く信心がある。それが、民衆を守る力となる。皆さんは『東北の凱歌の人々』の先駆けだ。清らかに、聡明に、正義の旗を握り締めて、幸せの王女として生き抜いてください。記念だから、今日は、私が皆さんの写真を撮って差し上げましょう」
 歓声があがった。
 聖教新聞社前庭の植え込みをバックに、メンバーが並んだ。伸一は、カメラのシャッターを切った。
 「では、またお会いしよう。秋田にも、必ず、お伺いします!」
 夕刻、彼は、創価女子会館で行われた、アメリカのメンバーの研修会に出席した。指導を終えた伸一のもとに、東北女子部長の大池憲枝らが、歌の御礼にやって来た。
 「皆、大喜びで、『青葉の誓い』を覚え、東北各地に戻っていきました」
 「女子部の会合で発表したことに意味があるんです。女子部の皆さんに『新生・東北』の光となってほしいからです。女子部の歌声と笑顔は、創価の希望であり、力なんです」
52  大道(52)
 山本伸一は、東北女子部長の大池憲枝に語っていった。
 「皆、地元に帰れば、厳しい状況のなかで頑張らなければならないことでしょう。
 周囲に学会員は少ないかもしれない。孤軍奮闘するしかなく、寂しい思いをしたり、挫けそうになったりすることもあるかもしれない。
 その時に、『青葉の誓い』を歌って、自らを鼓舞していってほしいんです。
 初代会長の牧口先生は、『羊千匹よりも獅子一匹』と言われている。一人立つ勇気の人が大事なんです。
 勇気を奮い起こせば、力が湧き、心に希望の太陽が昇る。
 『青葉の誓い』を、これからは、一人立つ誓いの歌にしていってください」
 「はい! 先生。今日、山形の米沢では、『置賜ふるさと祭典』を行っております」
 大池が言うと、伸一は、大きく頷いた。
 「知っています。置賜の同志が、宗門の寺から苛められ、苦労に苦労を重ねていることも、全部、知っています」
 置賜は、山形県の南部に位置する、米沢市、南陽市、長井市などを擁する地域である。
 伸一は、言葉をついだ。
 「今日、私が、東北の歌として、『青葉の誓い』を作ったことも、祭典に出席している東北総合長の青田君を通して伝えてあります。置賜の同志は、どこまでも地域を大切にして、何があっても、粘り強く頑張り抜いてほしい。宗門の一部の僧が、学会にどんな罵詈雑言を浴びせようが、どちらが正義であるかは、既に明白なんです。
 正義というのは、日蓮大聖人の仰せ通りに広宣流布をすることです。現実に、その難事業を進め、戦っていることです。
 口先では、なんとでも言えます。二十年、三十年とたった時に、今、学会を中傷している僧が、どれだけ広宣流布を進めたかです。悪鬼入其身となった僧たちには、永遠に広宣流布はできません」
 正義か否かは、歴史が審判を下す。滔々たる広布の流れを開いた人こそが正義である。
53  大道(53)
 山形県の置賜地域では、宗門の僧による学会への中傷の嵐が吹き荒れていた。
 この一九七八年(昭和五十三年)が明けた一月の御講から、住職による学会批判が始まり、月を経るごとに激しさを増していった。
 一方的に、「学会は、とんでもない謗法を犯している」などと声高に叫び、学会をやめて檀徒になれと言うのだ。
 学会員が腹に据えかね、途中で席を立とうとすると、「誰だ! 立つのは! 最後まで話を聞きなさい!」と怒鳴り、反論も許さず、誹謗し続けるのだ。
 住職の話に動揺し、「学会をやめたい」と言いだした壮年がいた。
 心配した地元の幹部が、話を聞きに行った。壮年は、ただ、「学会は間違っている」と繰り返すばかりであった。
 「どこが、どう間違っているんですか」
 幹部の問いに、「俺じゃあ、わからないから、住職に聞いてくれ」と言って、寺に電話を入れた。
 しばらくして、やって来た住職は、自信満々に語った。
 「間違っている証拠は、ここにある!」
 鬼の首でも取ったように、開けた鞄から出てきたのは、ほとんどが週刊誌であった。
 正邪判別の根本は、御書ではなく、学会に嫉妬する輩が悪意で流す、デマ情報の週刊誌の記事であったのである。
 学会の幹部は、あきれ返り、失笑してしまった。
 また、「脱会しなければ葬儀にも、法事にも行かない。
 納骨の受け付けもしない」と言われ、泣く泣く退会手続きを取った老婦人もいた。
 それを耳にした同志は、直ちに激励に訪れ、「私たちに信心を教えてくれたのは、学会ではないですか!」と懸命に訴え、再起を促すのであった。
 毎日が苦闘であった。しかし、同志は挫けなかった。
 「今こそ、自分が立つのだ!」と闘魂を燃え上がらせた。烈風なくして上昇はない。苦難が自分を磨き、鍛える。
 「一つの苦闘は一つの勝利でありました」とは、ヘレン・ケラーの魂の叫びである。
54  大道(54)
 山形県・置賜地域の様子を聞いた山本伸一は、置賜で各部の中心となって奮闘しているメンバーに、次々と歌や句を詠んで贈った。
 「吹雪にも 胸はり進む 君ありて 山形大地は 功徳と香らむ」
 「生涯の 幸を決めるは 今なりと 笑顔を忘れず いざや戦え」
 伸一から贈られた歌は十三首にも及んだ。
 「置賜の同志よ! 悔し涙を拭い、頭を上げて、朗らかに正義の大行進を頼む!」との叫びと、祈りを込めての励ましであった。
 置賜の学会員たちは、その激励に応え、異体同心の団結をもって、決然と立ち上がった。
 新しき希望の波を起こそうと協議を重ね、八月六日に、地域文化の復興をめざし、民謡などを披露し合う、「置賜ふるさと祭典」を開催することになったのである。
 伸一も招待されていたが、来日中のアメリカのメンバーとの研修会が予定されており、東京を離れるわけにはいかなかった。
 代わりに、理事長や副会長らが派遣された。
 伸一は、この日、「青葉の誓い」が完成すると、置賜へ行っている東北総合長の青田進に、すぐに知らせるように頼んだ。
 昼の部の公演の終了直後、学会本部から、米沢の会場にいた青田のもとに、「青葉の誓い」完成の連絡が入ったのである。
 青田は、感涙を浮かべた。
 「先生から置賜への最高の激励だ!」
 役員たちと話し合い、祭典の夜の部では、この歌を披露しようということになった。
 だが、どうすれば、夜までに、皆が歌を覚えることができるのか──。
 中学校の音楽教師で、この祭典の合唱指導を担当している男子部の宮尾一志は、祭典会場から、米沢文化会館へ向かった。
 学会本部から、カセットテープに録音された歌を、電話機で流してもらい、会館にあるカセットデッキのマイクを、受話器に近づけて録音した。
 当時、ファクシミリは、まだ完備されていなかった。必死の一念が、すべてを可能にしていった。
55  大道(55)
 合唱指導を担当していた宮尾一志は、電話機を使って録音した「青葉の誓い」のテープを聴きながら、譜面に起こした。
 聴き取りにくいところは、何度も巻き戻して再生した。
 やっとの思いで、出来上がった譜面を複写し、男女青年部の合唱団二十人ほどに、米沢文化会館へ来てもらい、練習した。夜の部の開演時刻は、刻々と迫ってくる。
 まさに、時間との戦いであった。
 学会の強さは、このスピードにあった。何事も素早く手を打つ、迅速な行動で勝ってきたのである。
 メンバーの胸には、″先生が作詞だけでなく、作曲までしてくださった!″という思いが、歓喜となってほとばしっていた。
 夜の部の公演のフィナーレのあと、あいさつに立った東北総合長の青田進は、顔中に喜びをたたえて語った。
 「本日、山本先生の作詞作曲による、東北の歌が完成しました! 曲名は『青葉の
 誓い』です。それでは、発表いたします!」
 場内に歓喜の拍手が爆発した。
 合唱団が歌を披露したあと、皆で練習し、全参加者による大合唱となった。「青葉の誓い」が、初めて東北の天地に響き渡った。
  ♪青葉の森に 誓いたる
  我等の誇り 忘れまじ……
 東北に、新生の歌声が轟いた。それは、人間讃歌の歌声であった。
 東北の歌「青葉の誓い」は、八月八日付の「聖教新聞」に歌詞と楽譜が掲載された。
 この日の昼、仙台では、婦人部、女子部の合唱団が青葉城址に集まり、歌の練習を開始した。
 歌声は、希望の調べとなって、苔むした城の石垣に、生い茂る木々にこだまし、青空に広がっていった。
 この「青葉の誓い」は、嬉しい時には、喜びの歌となり、悲しい時には、自らを鼓舞する勇気の歌となって、東北の同志の心に響き続けていくのである。
56  大道(56)
 東北の歌「青葉の誓い」を完成させた二日後の八月八日、創価文化会館内の広宣会館で県長会議が行われた。
 山本伸一は、会場に姿を現し、席に着くと、前列にいた北陸婦人部の代表に視線を注ぎながら言った。
 「『北陸の歌』を作詞しましたよ!
 歌詞には、コスモスの花のことも入っています。覚えているかな。私は、あの時の、皆さんの真心が忘れられないんです」
 前日、信濃町の創価婦人会館(後の信濃文化会館)で、伸一が出席して婦人部代表との懇談会が行われた。
 その折、富山県婦人部長の滝村智紗は、意を決して手をあげ、伸一に訴えた。
 「先生! 北陸にも、歌を作っていただけないでしょうか」
 「自分たちで作ってみましたか」
 「はい……。でも、皆が心から納得できる歌ではないんです。先生に作っていただく
 ことで、北陸に魂を吹き込みたいんです」
 「皆さんで歌を作ることも大事ですよ」
 この時、別の方面の婦人部が活動の模様を報告し始め、北陸の方面歌についての話は、これで終わった。
 しかし、伸一は、懇談会終了後、「北陸の歌」の作詞に取りかかり、完成させたのである。
 「コスモスの花のこと」と聞いて、北陸婦人部の顔に光が差した。
 前年の夏、彼女たちは、東京から来た婦人部の幹部に、立山連峰の麓に咲いていたコスモスにススキをあしらった花束を、山本会長に届けてもらった。
 「激闘を重ねる会長が、コスモスの花を見ることによって、束の間の安らぎを得られれば……」との思いからであった。
 それは、決して、華やかな花束ではなかったが、立山連峰の風情
 を感じさせた。
 伸一は、その花束を宝前に供え、花を摘んでくれた北陸の友の顔を思い描きながら、唱題した。
 そして、彼女たちの健気で清らかな心を、何かの折に讃えたいと思った。
 真心と真心が響き合う創価の世界には、美しき精神の結合がある。
57  大道(57)
 県長会議で、山本伸一から、「北陸の歌」を作詞したことを聞かされた、石川県と富山県の北陸のメンバーは、歓声をあげた。
 昨日の懇談会で、歌を作ってほしいと要望した婦人が、目を潤ませて言った。
 「先生! ありがとうございます。昨日、お願いしたばかりなのに……」
 「皆さんが、喜んでくださるなら、なんでもします。それが、私の誓いなんです。
 それから、神奈川はいますか?」
 「はい!」と言って、神奈川のメンバーが手をあげた。
 「神奈川県の歌の歌詞も作りました! これから神奈川は、ますます大事になります。
 来年には、横浜に神奈川文化会館も完成する。いよいよ神奈川の時代です。
 戸田先生を会長に推戴する弟子の赤誠として、大弘教の火蓋を切ったのは神奈川の鶴見支部です。
 聖教新聞創刊号を飾った『聖火鶴見に炎上』の見出しを、私は永遠
 に忘れません。
 神奈川の皆さんの胸中に、あの闘魂が赤々と燃え盛っている限り、どんな苦難の闇も打ち破っていけます。
 幸せの最大の要件とは何か──広宣流布への闘魂です。炎のごとき弘教の一念で
 す。格好や見栄に振り回されていては、幸せはない。
 一滴の露は、はかなく消えてしまう。しかし、大海に連なるならば、地球をも包む。広宣流布に身を投じるとは、大海にわが身を置くことであり、そこから大境涯が開かれていきます。
 また、戸田先生が『原水爆禁止宣言』を行ったのも神奈川です。神奈川は、創価の平和運動の源流なんです。
 『広宣流布』即『立正安国』です。正法の広がりは、社会の繁栄と平和をもたらすものでなければならない。
 思えば、日蓮大聖人が『立正安国論』を認められたのも、神奈川の地ではありませんか。
 一人ひとりが、勇気をもって、自分の周りから、対話のうねりを起こして、仏法を社会に開いていくんです。
 対話の先駆であるとの誇りをもって進んでください」
58  大道(58)
 県長会議では、これまでに山本伸一が作り、贈った各方面歌のテープを聴いた。
 このあと、神奈川の歌「ああ陽は昇る」の歌詞が紹介されたのである。
 一、世紀の海に こだまする
   清き祈りは 舞い舞いて
   神奈川天地に 慈雨の羽
   生きとし生きる 歓喜あり
   ああ陽は昇る 我等の胸にも
 二、尊き歴史の 我が舞台
   無限の光は 消えまじき
   その松明を 地涌こそ
   かかげん弘めん 久遠まで
   ああ陽は昇る 我等の城にも
 三、この世悔いなく 暁鐘を
   広布の友は 雲と涌く
   このリズムをば 誰人も
   讃え仰がん 限りなく
   ああ陽は昇る 我等の同志にも
 伸一は語った。
 「『ああ陽は昇る』──ここに私は、万感の思いを込めました。神奈川の皆さんは、常に、何があろうが、わが胸に生命の太陽を輝かせ続けていただきたい。
 ある意味で、生きるということは、宿命の嵐が襲う闇夜を、手探りで進むようなものである。
 苦悩と戦いながら、必死に活路を開いていかねばならない。
 しかし、太陽が昇れば、すべては明瞭に映し出される。凍てた大地も蘇り、花が咲き、蝶が舞う。
 『太陽』とは、わが己心の仏の生命です。
 そして、家庭、地域、職場にあって、皆さんご自身が、『太陽』の存在であっていただきたい。
 友の悲しみの窓辺を照らし、周囲の人びとに、歓喜の光を、勇気の光を、希望の光を送り続ける、励まし人であってください。
 日蓮仏法は太陽の法門です。ゆえに、私たちも太陽の存在であらねばならない」
59  大道(59)
 神奈川の歌に引き続いて、北陸の歌「ああ誓願の歌」の歌詞が発表された。
 一、ああ誇りなり コスモスと
   レンゲの薫る 故郷に
   ああ常楽の 北陸は
   いざや謳わん 幸の広布を
 二、平和の陣列 田園に
   友と友との 握手あり
   ああ遊楽の 北陸は
   起ちゆく君の 晴れ姿
 三、白雪踏みし 行進は
   心も軽く 飛び舞いて
   ああ同心の 北陸は
   冬の吹雪に 気高くも
 四、妙法勇者の 足跡は
   護らん諸天も 勇み立つ
   ああ誓願の 北陸は
   功徳の調べと 友の曲
 山本伸一は、北陸の同志に語りかけた。
 「歌詞は、四番までありますが、それぞれ三行目が大事です。
 『常楽の北陸』とは、満々たる生命力をたたえ、どんな苦難に遭遇しようが、常に人生を楽しみきっていける境涯です。
 『遊楽の北陸』も、自由自在の満足しきった境地です。
 幸せになるための信仰なんですから、楽しく、弾む生命で、学会活動にいそしんでいくことが肝要です。
 それには、信心は義務ではなく、権利であることを心に刻むことです。
 受け身ではなく、自ら積極的に、戦いを起こしていくなかに、歓喜が生まれます。
 人に言われて、ようやく重い腰を上げるのと、自分から、「よし、こうしよう!」と決めて活動するのとでは、勢いも、喜びも違います。
 日々の学会活動が、楽しくて楽しくてしょうがないという人は、自ら勇んで行動を起こした人です。それが信心なんです」
60  大道(60)
 山本伸一は、北陸のメンバーに視線を注ぎながら語っていった。
 「三番は『同心の北陸』としました。
 団結こそが、信心の要諦であり、広宣流布推進の大原則だからです。
 もしも、幹部同士が仲が悪く、心を結び合うことができないとしたならば、既に魔に翻弄されているのだとの認識に立たねばならない。
 なぜならば、それは、破和合僧、すなわち広宣流布の団結を破壊し、学会の組織を攪乱する萌芽となっていくからです。
 そして、団結をしていくうえでも、必要なのは勇気なんです。
 勇気がないと、苦手だと思う人に、自分の考えを率直にぶつけたり、直接、連絡を取り合ったりすることを避けてしまう。
 そこから誤解も生じていきます。
 「どうも、自分との関係がすっきりいっていないな」などと感じる人がいたならば、役職や立場の上下に関係なく、勇気をもって、自ら連絡を取り、対話していくことです。
 なぜ学会は、広宣流布の仏意仏勅の団体として、その使命を果たし抜いてくることができたのか。
 それは、広宣流布を推進しようという同心、すなわち団結があったからです。
 また、広宣流布のために団結しようとしていくなかに、自身の人間革命があり、境涯革命があるんです」
 人間は、ともすれば自分の考えや感情に執着するあまり、「小我」の世界に閉じこもってしまう。
 広宣流布の大使命を自覚し、そのために同志と団結していく時、「小我」の殻は破られ、「大我」が開かれる。」その時、自己の個性もまた、大きく輝かせることができる。
 広宣流布のために、同志と心を合わせ、協調することは、小さな自分を脱皮し、大境涯を築いていく、跳躍台となるのだ。
 人びとの考えや意見に、違いがあるのは当然である。
 そのうえで、より根源に、根本目的に立ち返って一致点を見いだし、同心をめざすなかで、相互理解をもたらし、団結を図っていくこともできるのである。
 そして、そこに、平和社会実現への原理もある。
61  大道(61)
 団結──その言葉を口にする時、山本伸一の目は厳しい輝きを放った。
 戸田城聖は、「学会は、人材をもって城となすのだ!」と語ったが、団結がなければ創価城の人材の石垣も崩れてしまうからだ。
 伸一は、さらに訴えた。
 「『北陸の歌』の四番の三行目は、『誓願の北陸』としました。
 広宣流布の大誓願に生きる時に、歓喜あふれる地涌の菩薩の大生命がみなぎる。
 何ものをも恐れず、いかなる困難も乗り越えていける、無限の勇気と智慧と力が脈動します。
 大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです。
 北陸は、「広布の誓願」に生き抜かれた戸田先生の、ご生誕の地です。どうか、恩師の、その精神を受け継ぐ闘将の皆さんであってください」
 彼は、北海道の代表に視線を注いだ。
 「これから北海道の歌も作っていきます。どんどん各地の歌を作ります。
 方面ではなく、千葉や神奈川のように、県の歌を作って、お贈りすることもあります。
 今年は、新しい支部制がスタートした。その新しい前進を歌い上げていきたいんです。 
 戸田先生は、牢から出られて、学会再建に立ち上がられた時、獄中で自ら作詞した歌を歌われながら戦いを開始された。
 そして、『学会は、何があっても、堂々と歌を歌いながら、広宣流布を進めるんだ!』と言われた。
 私たちは、威風堂々と、歓喜の歌声を響かせ、前進していこうではありませんか!」
 県長会議のこの日、神奈川の歌「ああ陽は昇る」と北陸の歌「ああ誓願の歌」に曲がつけられた。
 作曲を担当したのは、いずれも、「東京の歌」を手がけた小学校の音
 楽教諭の青年である。
 作業は、創価文化会館内の金舞会館にあるピアノを使って行われた。
 伸一は、県長会議終了後、神奈川、北陸のメンバーと金舞会館に足を運び、曲のイメージを語り、アドバイスを重ねた。
 二日後の十日、この二曲の歌詞と楽譜が「聖教新聞」に発表された。感動が走った。
62  大道(62)
 県長会議が行われた翌日の八月九日、山本伸一は、九州は宮崎の天地に立っていた。
 九日間にわたる九州指導の開始であった。
 九州でも、宗門の僧による学会攻撃が激しく、特に大分では、多くの学会員が迫害され、悔し涙を拭いながらも、創価の正義を叫び抜いていたのだ。
 九州の同志には、逆境をはね返す″負けじ魂″がある。″師弟の魂″が燃えている。
 伸一は、九州での激闘のなか、「北海道の歌」の作詞に取りかかった。
 北海道でも、名寄などで、師子身中の虫となった悪侶が、学会への中傷を重ねて組織を切り崩し、寺の檀徒にしようという動きが激化していた。
 広布破壊の暴挙に、学会員は歯ぎしりしながら戦い抜いた。
 学会を辞めると言いだした人を、朝、激励し、決意の声を聞き、握手を交わしても、昼には悪侶らにたぶらかされ、翻意しているのだ。
 一瞬の油断も許されない攻防戦であった。それが悪との闘争なのだ。
 伸一にも、その報告が寄せられていた。
 「誰が正義か──御書に照らせば明快である。何が真実か──歴史がすべてを証明しよう。
 われらは、使命の旗を烈風に高らかに掲げ、広布新時代へ晴れやかに前進するのだ!」
 伸一は、創価桜が咲き誇る勝利の春を思いつつ、「北海道の歌」を作詞した。
 十五日、彼は、鹿児島の九州研修道場にいた。諸行事の担当で来ていた、副会長で北海道総合長の田原薫を呼ぶと、笑顔で語った。
 「北海道は大奮闘してくださっている。嬉しいね。北海道の皆さんの歌を作ったよ」
 田原は、満面に笑みをたたえ、歌詞を見た。
 歌の題名は、「ああ共戦の歌」であった。
 「万里の長城 妙法の 恩師と共に 厳たりき」の文字が飛び込んできた。
 伸一は、自分の胸のうちを語り始めた。
 「『師匠が見ておられる。勝利を待ってくださっている』というのが、私の力の源泉だった。
 師弟共戦とは、弟子が戦い、勝って、師に勝利を報告することだと、私は決めてきた。今も、その思いで戦っています」
63  大道(63)
 北海道の歌「ああ共戦の歌」は、北海道音楽隊のメンバーが作曲を担当し、山本伸一の入会記念日にあたる八月二十四日の「聖教新聞」に、歌詞と楽譜が発表された。
 二〇〇六年(平成十八年)四月、二十一世紀の行進にふさわしいものにと、新たな曲が作られた。
 歌の誕生から三十周年を迎えた〇八年(同二十年)九月、伸一が加筆し、歌の題名も「三代城の歌」となったのである。
 北海道は、初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖が育ち、巣立っていった飛翔の舞台である。
 また、第三代会長の伸一が青年時代に、小樽で、札幌で、夕張で、勝利の旗を打ち立てた広布開拓の新天地である。
 広布の歩みには、どれ一つとして楽な戦いなどなかった。
 いかに最悪な状況でも、最後の最後まで、闘魂を燃え上がらせ、大地に身をなげうつ思いで、粘りと執念で勝ち開いてきた必死の闘争であった。
 しかし、苦闘の果てには、燦然たる栄光が待っている。
 北海道は、永遠に師の魂を受け継ぐ、師弟共戦の大地であらねばならぬ──「三代城の歌」は、伸一の、その祈りの結晶であった。
 一、ああ北海に 聳え立つ
   万里の長城 広宣の
   恩師と共に 厳たりき
   春夏調べの 大行進
   ああ共戦の 花武者と
 二、ああ雄大な 曠野あり
   銀の世界は 大雪山
   我等健児は いざ起たむ
   秋冬誇りの 前進は
   歓喜に躍る 花の旅
 三、ああ大河あり 滔々と
   広宣流布は 我が使命
   世紀の海を 乗り越えて
   三世に光る この世をば
   祈り舞わんと 花吹雪
   師弟共戦の 三代城
64  大道(64)
 山本伸一は、一九七八年(昭和五十三年)八月二十二日午後、列車で長野県松本市に向かっていた。
 車中、彼は、「長野の歌」の作詞に余念がなかった。
 翌二十三日に、松本平和会館で開催される長野広布二十周年の記念幹部会で、長野県創価学会の新しい出発を祝し、県歌を発表したかったのである。
 午後五時、松本平和会館に到着した伸一は、直ちに、居合わせた同志と激励の語らいを開始した。
 また、記念行事のために、会館の一隅に設置されたテントの救護室にも足を運び、役員一人ひとりに声をかけ、労をねぎらった。
 さらに、六時半からは、功労者らとの懇談会に臨み、引き続き、駆けつけてきた新潟の代表とも懇談した。
 彼は、多くの同志と、記念のカメラに納まった。ピアノを弾いて励ましもした。
 その間隙を縫うようにして、「長野の歌」の作詞を続けたのである。
 夜更けて、一応、歌詞は出来上がった。
 作曲を担当してくれることになっている、小学校の音楽教諭の青年に、それを渡してもらい、その後も、推敲を重ねた。
 伸一は、妥協したくはなかった。「もう、これでよい」と思った瞬間に、最高のものを残そうとする向上心は消え失せる。
 「まだ、なすべきことはある! 断じて妥協などすまい! ここに、全精魂を注ぎ尽くすのだ!」
 ──その内なる精神の闘争があってこそ、新しい歴史が創られていく。
 翌朝、彼は、何カ所かの歌詞の直しを作曲担当者に伝えた。曲も出来上がった。
 「信濃混声合唱団」のメンバーが集まって、夕刻から行われる記念幹部会での発表に向けて、練習が始まった。
 伸一は、午前中、会館を出て、個人指導に回り、午後は、会館を訪れた人たちと、懇談をもった。
 相手の話に耳を傾け、心を射貫く納得と蘇生の言葉を紡いでの語らいで
 ある。
 人間は「臨終只今にあり」との一念に立つ時、最高の勇気を、最大の力を発揮していくことができるのだ。
65  大道(65)
 峨々としてそびえる信濃の山々に、大勝利の歓喜の歌声が響いた。
 八月二十三日午後五時、松本平和会館で、長野広布二十周年を記念する県幹部会が晴れやかに行われた。
 席上、長野県歌「信濃の歌」を、「信濃混声合唱団」が高らかに歌い上げたのである。
 一、ああ荘厳に この城で
   幾日幾夜 語りたる
   地涌の旅人 いざや征け
   われらが信州 この法戦
   おお民衆に 力あり
 二、そよ風吹雪の 故郷は
   われらの魂魄 信濃路に
   これぞ思い出 忘れまじ
   ここに功徳が 満開と
   ああ情熱と 英知あり
 三、広布の行進 堂々と
   老いも若きも 美しく
   アルプス仰ぐ 君が顔
   われらの雄叫び 合唱は
   信濃の天地に 舞い舞えり
 万雷の大拍手が鳴り響くなか、山本伸一は、「信濃の歌」を作詞した心情を語っていった。
 「この県幹部会の大成功と、皆さんの大奮闘、大勝利に、心から、『おめでとう! ありがとう!』と申し上げたい。
 日夜のご苦労に対し、せめてもの励ましになればと、県の歌を一生懸命に作らせていただきました。
 勝利は痛快です。あふれる喜びがある。信心への確信も増す。それが広宣流布の醍醐味です。
 ゆえに、常に新しき挑戦を重ね、必ず勝ち続けていくことが大事なんです」
 伸一の言葉に、皆、胸を熱くした。
 長野には、そよ風光る美しき春がある。吹雪猛る冬がある。
 吹雪との格闘の季節を勝ち越えた人こそが、春のそよ風の温もりに、喜びを感じる。広宣流布の苦闘ありてこそ、大歓喜の幸福境涯を築くことができるのだ。
66  大道(66)
 長野県の記念幹部会の最後に、山本伸一は、力を込めて訴えた。
 「御仏意のままに進む信心の世界には、いっさい、無駄というものはない。
 いかなることも、不屈なる闘魂と歓喜の信心がある限り、すべて、新しい価値創造の源泉となり、大福運となることを確信していただきたい。
 私は、『”新生・長野”万歳!』と、声を大にして叫びたいのであります」
 幹部会が終わると、彼は県の幹部に言った。
 「今日の幹部会に参加できなかった方のために、明日二十四日に記念勤行会を開きましょう。
 希望者が多ければ、何度でも行います。皆さんを励ましたいんです」
 八月二十四日は、伸一の入会三十一周年の記念日である。
 記念勤行会は、午後二時から行われた。会場の松本平和会館は、次々と集って来る参加者であふれた。
 この席で彼は、入会の日を回想しながら、自身の心境を語った。
 「あの日以来、広宣流布に一人立たれた戸田先生に仕え、自らも未曾有の大願に生きることを定めた激闘の人生でした。
 元来、病弱であった私は、八月二十四日がめぐり来るたびに、”今年も、よくぞ生き抜いてこれたな”との実感をいだいていました。
 その私が、こうして元気に広宣流布の指揮を執ることができる。広布に生きるならば、己心の仏の大生命を開くことができるんです。
 これが、仏法の、御本尊の力なんです!」
 午後四時には、二回目の勤行会が開催され、ここにも、多くの同志が詰めかけた。
 伸一は、その後、近隣の学会員の激励などに回り、午後八時過ぎに松本平和会館に戻ると、また、たくさんの同志が待っていた。
 三回目の勤行会で、彼は呼びかけた。
 「どうか、自分を大切に、家族を大切に――そして、和楽の家庭を築いてください。私は、皆さんを守るために走り続けます!」
 この日、彼は万感の思いを句に詠んだ。
 「忘れ得ぬ この日は信濃で 指揮とれり」

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