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日蓮大聖人・池田大作

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第28巻 「広宣譜」 広宣譜

小説「新・人間革命」

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2  広宣譜(2)
 山本伸一は、新学生部歌の歌詞の原案を見ながら思った。
 「今、学生部は、人事も一新され、二十一世紀への新出発の時を迎えた。師弟共戦の戦いを起こし、魂のバトンを託す時代が来たのだ。
 その祝福と満腔の期待を込めた歌を、私が作って贈るべきではないか…?」
 伸一は、先ほど、歌詞を持ってきた学生部の幹部らに、師弟会館に来てもらった。
 「学生部は大事だから、今回は、私が歌を作って、諸君に贈ります。みんなのために、後世に残る学生部歌を作ってあげたいんだ。
 永遠に歌い継がれる歌を、君たちの時代に残していこうよ。今日中に曲も完成させます。
 私は、諸君のために一切をなげうつ覚悟です。未来は君たちに託すしかないもの。
 では、口述するから、書き留めてください」
 彼は、目を細め、未来を仰ぐかのように彼方を見た。しばらく沈黙が続いた。
 そして、一語一語、言葉を紡ぎ始めた。
 「『広き曠野に 我等は立てり』──この「こうや」は、「荒れ野」ではなく、「広々とした野原」の方だ。
 「こうや」の「こう」の字は、日偏に旧字の「廣」がいい。
 「広い」という同じ漢字が重なるのを避けるとともに、荘厳な感じを出したいんだよ。
 『広き曠野』と表現することで、学生部の未来は、洋々と開け、舞台は限りなく広いことを強調したいんだ。皆、世界にも羽ばたいてもらいたい。
 次は、『万里めざして 白馬も堂々』にしよう。晴れやかな出発だ。これから全地球を、ところ狭しと駆け巡るんだ。
 『いざや征かなん 世紀の勇者』──「ゆかなん」の「ゆく」は、「征服する」などという時に使う「征」の字だ。
 困難に打ち勝ち、成し遂げるという意味を込めているんだよ。
 そして、この『世紀の勇者』とは、二十一世紀を担う大指導者ということなんだよ」
 伸一の心には、言葉が次から次へと、泉のようにあふれてくるのである。
 必死な励ましの一念は、勇気の言葉を、希望と確信の言語を生み出していく。
3  広宣譜(3)
 時刻は、午後四時半を回っていた。
 山本伸一は、五時半からは、妻の峯子と共に、新宿文化会館での婦人部首脳の懇談会に出席することになっていた。
 彼は、出発時刻ぎりぎりまで、新学生部歌の作詞を続けようと思った。
 「さて、四行目だ。ここは、起承転結の結の部分にあたる大事な箇所だ…。
 よし、『我と我が友よ 広布に走れ』としよう。自分だけではなく、悩める友の味方となり、強い友情を結び、同志と共に前進していくんだ。
 『走れ』ということは、″勢いある行動″なんです。青年は、座して瞑想にふけっていてはならない。
 『広布に走れ』を実行していくには、まず″わが人生は、広宣流布とともにあり″と決めることです。
 そして、瞬間瞬間、広布をめざして力の限り、戦い抜いていくんだ。″広布に歩け″ではないんです。全力疾走だ。
 『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』、私たちの精神だもの。
 さらに、青春時代の誓いを、終生、貫き通していくことです。
 日蓮大聖人は『始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん』(同一四四〇㌻)と仰せだ。”持続”なくして勝利はありません。
 皆の人生には、これから先、就職もあれば、結婚もある。さまざまな環境の変化があります。
 職場の上司や同僚、家族や親戚から、信心を反対されたり、自分が病に倒れたり、勤めた会社が倒産したりすることもあるかもしれない。
 その時に、″いよいよ自分の信心が試されているんだ。負けるものか!″と、歯を食いしばって頑張り抜いてほしい。どんなに苦しくとも、信義のため、正義のために、″使命の走者″として、広宣流布の大道を完走してほしいんです。
 そのための魂の歌を、師弟の応援歌を、私は今、作っておきます」
 伸一は、生命の言葉を紡ぐようにして、歌詞を作り上げていった。
4  広宣譜(4)
 学生部の代表は、歌詞を作り上げていく山本伸一の気迫と速さに目を見張った。
 伸一は言った。
 「一番は『曠野』のイメージだから、二番は『旭日』のイメージだ。太陽に向かって進んでいくんだよ。『旭日に燃えたつ 凜々しきひとみ』で始めよう」
 さらに、三番については、こう語った。
 「『大河』のイメージがいい。学生部員は、創価学会丸の船長、乗組員となって、民衆を守り、「大河の時代」を切り開いていくんだよ。では、歌詞を言うよ。
 『今ほとばしる 大河の中に
 語り尽くさなん 銀波をあびて
 歴史を創るは この船たしか……』」
 青年の使命は、過去に安住して生きることではなく、新しき歴史を創ることにある。
 歌詞は、三、四十分ほどで、ほぼ出来上がった。伸一は、それを見ながら言った。
 「四行目は、一番から三番まで、すべて、『我と我が友よ 広布に走れ』にしよう。
 ともかく学生部は、『全員が人材である』『全員が使命の学徒である』『学生部での活動は世紀の指導者に育つための修行である』との自覚で、自身を磨いてほしい。これを、学生部の指針として贈りたい。
 私は、これから、会合に出かけるが、そのあと、さらに推敲し、作曲も終わらせるよ。
 作業をする時には、また、連絡します」こう言うと、彼は師弟会館をあとにした。
 午後九時に帰宅した彼は、さらに歌詞に手を加えた。
 そして、学生部長らに連絡し、創価学園の音楽教師にも来てもらい、作曲に取りかかった。
 「白馬が万里を駆けていくような、軽快なテンポの曲にしよう。こうしたいという意見
 があったら、みんな、どんどん言うんだよ」
 伸一は、自ら歌詞に節をつけて歌い、それを音楽教師が譜面に書き取っていった。
 一節一節、曲ができるたびに、学生部のメンバーに、「どうだい。これでいいかい」と尋ねながら、曲作りを進めた。
5  広宣譜(5)
 ほどなく、新学生部歌の曲も出来上がった。歌のタイトルは、「広布に走れ」に決まった。
 歌は、直ちに、学会本部に来ていた学生部合唱団の有志によって録音され、テープが山本伸一に届けられた。
 伸一は、妻の峯子と一緒に、そのテープを聴くと、歌の感想を尋ねた。
 「若々しい生命が躍動するような、希望あふれる歌になりましたね。
 これが発表されたら、きっと、皆さんは喜ばれますわ。学生部だけでなく、男子部も、女子部も、いえ、壮年も、婦人も歌いたくなるような歌だと思います」
 「そう思うかい。では、二番にある『学徒の誉れ』の箇所を、学生部以外の人たちが歌う時には、『地涌の誉れ』としよう。これで問題解決だ!
 ところで、私は、学生部だけでなく、今こそ、男子部、女子部をはじめ、各部に歌を作って贈ろうと思っているんだよ。
 いや、各部だけではない。全国の方面や県・区、できれば支部にも歌を贈りたいんだ。
 新しい前進には、新しい歌が必要だよ」
 「でも、その時間がつくれますかしら。今年も全国各地を回る予定ですし、九月には第四次訪中もございますでしょ」
 「私は、命を削る覚悟なんだよ。末寺では相変わらず理不尽な学会攻撃が続けられ、多くの学会員が苦しめられている。
 だから、みんなを励ましたいんだ。こういう時こそ、新しい広宣流布のうねりを起こすんだ。
 どんどん歌を作るよ。今が正念場だ。師子奮迅の戦いを起こすんだ。
 大聖人は、『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国』と仰せじゃないか。
 大事なことは、どんな事態になろうとも、広布の使命に生き抜く本当の師子を育てることだ。
 そのために、皆の心を鼓舞できる魂の歌を作りたいんだ。
 どんな時でも、共に希望と歓喜の歌声を響かせ、明るく、朗らかに進んでいくのが学会だもの」
 歌声は、魂の共鳴をももたらす。
6  広宣譜(6)
 学生部結成記念幹部会の六月三十日を迎えた。この日の「聖教新聞」四面に、「教学上の基本問題について」と題する記事が掲載された。
 教学を研鑽していくうえでの、創価学会としての見解を発表したものである。
 実は、六月の十九日に、宗門から学会に、三十数項目にわたる教学上の質問が寄せられた。
 これは、「教義を逸脱している」などと言って学会を攻撃してきた僧(教師)らの質問を、宗門がまとめたものであった。
 「聖教新聞」や『大白蓮華』など、学会の機関紙誌、書籍をはじめ、各地方の有志が制作した紙誌までもチェックし、質問してきたのだ。
 山本伸一の御書講義や講演の内容はもとより、首脳幹部や男女青年部幹部らの発言を取り上げての質問もあった。
 たとえば、伸一は「諸法実相抄」講義で、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり……」について、正法が弘まっていく原理を述べられたものと前置きし、総別の観点から、こう語った。
 「この別してのお一人が、いうまでもなくご在世においては、日蓮大聖人ご自身であります。しかし、それはご在世のみならず『未来も又しかるべし』(同)と仰せであります。
 創価学会は、初代会長・牧口先生が、まずお一人、立ち上がられ、唱えはじめられたところから二人、三人と『唱えつたえ』、約三千人にまでなった。
 戦後は、第二代会長・戸田先生が、東京の焼け野原に立って、一人、唱えはじめられ、そこから、二人、三人、百人と『唱えつたえ』て、現在の一千万人以上にまでなったのであります」
 この箇所について、宗門は、「大聖人がただお一人唱え初められたお題目であるにも関わらず初代会長・二代会長が唱えはじめられたというのは僭越ではないでしょうか」と言うのである。
 伸一が述べたのは、日蓮大聖人の仏法が学会によって日本中、世界中に弘まった広宣流布の厳たる歴史である。
7  広宣譜(7)
 牧口初代会長、戸田第二代会長は一人立つことによって、現代における広宣流布の新たな流れを開いた。
 その事実のうえから、山本伸一は、「諸法実相抄」講義で、慈折広布を実現させゆく師子の精神を訴えたのである。
 ところが宗門は、その文言をもって、あえて、学会では日蓮大聖人と初代、二代の会長を同一視しているとして、極めて歪んだ見方の質問をよこしたのである。
 また、伸一が、戸田は獄中にあって、唱題のなかで、「法華経を色読され、地涌の菩薩の棟梁としての開悟をされた」と語ったことについても、こう尋ねてきた。
 「地涌の菩薩の棟梁とはいうまでもなく上行菩薩であります。すると戸田前会長は上行菩薩として自身を開悟しその行を行じたのですか。そうなると大聖人は必要ないことになりますね」
 伸一が、戸田を、「地涌の菩薩の棟梁」と述べたのは、「在家における折伏弘教のうえの指導者」という意味からであった。
 また、戸田自身が、自らを「地涌の菩薩の棟梁」と言っている。戸田は、その自覚に立って、戦後、広宣流布にただ一人立ち、会員七十五万世帯の弘教の指揮を執ったのである。
 この戸田の戦いについて、法主の堀米日淳は、「その方々を会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。
 即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」(「創価学会第十八回総会御講演」(『日淳上人全集 上巻』所収)日蓮正宗仏書刊行会)と賞讃している。ここに述べられた「その方々」とは、六万恒河沙の大士即ち地涌の菩薩のことである。
 伸一は、それも踏まえ、戸田が戦後日本の混乱した時代にあって、会員七十五万世帯達成という未曾有の正法流布の指揮を執った事実のうえから、「地涌の菩薩の棟梁」と述べたのである。
 現代にあって、さまざまな法難に遭い、不惜身命の覚悟で広布を進めている人こそが「地涌の菩薩」であり、その指導者は「棟梁」ではないのか! そうでなければ、どこに、「地涌の菩薩」の出現があるのか!
8  広宣譜(8)
 宗門は、学会が初代会長の牧口常三郎を「先師」と呼んでいることも問題にした。「日興遺誡置文」では、日蓮大聖人を「先師」としているにもかかわらず、牧口のこともそう呼ぶのは、「大聖人と牧口会長は同じ意味になるのですか」と質問してきたのだ。
 学会では、第二代会長の戸田城聖と初代会長の牧口を区別するために、戸田を「恩師」とし、牧口を一般用語としての「先師」と呼んできたにすぎない。
 宗門の、こうした質問の背景には、学会は「会長本仏論」を立てているとの曲解と邪推があったのである。
 この点について、末法の御本仏は日蓮大聖人お一人であり、それは、「末法万年にわたって変わらぬ根本義」であることを再確認した。
 そして、「日蓮大聖人が末法御出現の御本仏であることを、折伏をもって世界に知らしめてきた」のが、半世紀にわたる学会の苦闘の歴史であったことを訴え、こう述べた。
 「日常の自行において、また化他行において、すべて日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、日蓮大聖人の魂をとどめられた御本尊を信心の根本対境とし、日蓮大聖人の仏法の広宣流布を実践の大目的としてきたのが、学会精神の骨髄である。
 故に、学会には本来、会長本仏論などということは絶対にない」
 末法という「時」もわからず、長い間、釈尊を仏とするのが日本人の仏教観であった。
 そのなかで、かくも多くの民衆が日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、御本尊根本に広宣流布に邁進しているのは、牧口、戸田に連なる創価の師弟が、それを叫び抜いてきたからだ。
 この事実をもってしても、会長本仏論なるものが、妄想の産物であり、学会攻撃のための口実であることは明白であろう。
 「悪人はねじけた作り話を言いひろめて、潔よいひとを傷つけ、しかも誓ってそれは本当だと言うだろう」
 これは、古代ギリシャの詩人ヘシオドスの言葉である。
 正義の人を陥れようとする悪人の手口は、今なお一緒である。
9  広宣譜(9)
 宗門からの質問には、男子部の区幹部が、「日蓮大聖人直結の創価学会」と記したことを取り上げて、大聖人直結とはどういう意味かを尋ねるものもあった。
 法主の存在を否定するのかという趣旨を含んだ問いである。
 これは、御本尊に南無し奉り、境智冥合することを述べたものであり、法主の存在自体を否定するものなどではない。
 僧たちは、「教義の逸脱」だとして、学会を攻撃する材料となる文言を、躍起になって探し出そうとしていたのである。
 山本伸一が、「創価仏法」という言葉を使ったことに対しても、「創価仏法とは何ですか。
 日蓮正宗の仏法の外にあるのですか」と尋ねてきた。
 伸一は、折伏・弘教のため、社会に仏法を展開するとともに、実践の教学の意義を込めて、「創価仏法」との表現を用いたのだ。
 また、「創価」すなわち価値創造とは、幸福の創造にほかならない。
 したがって、幸せを築き上げるための仏法という意味で、使ってきたのである。
 さらに、教学部幹部が、「日蓮大聖人の生命哲学」と表現したことに対しても、宗門は、これは「『日蓮大聖人の仏法』というべきであります」と言ってきた。
 仏法の法理を、「生命論」や「生命哲学」として論じていくことで、広く人びとが仏法を理解する素地をつくることができる。
 仏法の展開のためには、時代に対応しながら、さまざまな現代の哲学、科学の成果を踏まえ、わかりやすく論じていくことが不可欠だ。
 仏法を、いかに時代に即して展開していくか──それは、広宣流布を推進するうえで、最重要のテーマといえよう。
 その責任を放棄し、努力を怠れば、広宣流布の道は閉ざされてしまうことになる。
 だからこそ、学会では、そこに最大の力を注いできたのだ。その着実な努力があったからこそ、世界の指導者、識者も、日蓮仏法に刮目し、共感を寄せ、世界宗教へと発展してきたのである。
10  広宣譜(10)
 学会は、宗門の質問について審議を重ね、系統立てて整理しながら、誠心誠意、回答をまとめていった。
 宗門からは、学会の回答が納得できるものであれば、各寺院での学会攻撃を収めることができるとの話もあった。
 学会の首脳たちは、異常な事態に早く終止符を打って、会員を守ることこそ、第一義であると考えていた。
 したがって、以前からの学会の考えを確認したうえで、誤解を招きやすい表現があったならば、宗門の指摘を受け入れようとの姿勢で臨んだ。
 学会は、ただひたすら和合を願い、真摯に対応したのである。
 ほどなく、日達法主からは、学会の回答を了解した旨の連絡があった。
 この回答は「教学上の基本問題について」と題して、「聖教新聞」六月三十日付の四面と、『大白蓮華』八月号に掲載し、全会員に周知徹底を図ることになったのである。
 これで各寺院での理不尽な学会批判は終わるはずであった。
 しかし、この時も、学会攻撃をたきつける讒言が流された。
 宗門を利用して一攫千金を企て、暗躍した反逆者の謀略であった。
 多くの僧が、学会の誠実な回答を逆手に取り、ここぞとばかりに、陰湿な中傷を繰り返した。
 紙面になった「教学上の基本問題について」を使い、誤りが明らかになったとして、責め立ててきたのだ。
 学会攻撃は収まるどころか、暴圧は増していった。彼らは、衣の権威を振りかざして、「学会では成仏できない」などと迫り、檀徒づくりに狂奔していったのである。
 伸一は、仏子である学会員の苦しみを思うと、「なんとしても会員を守り抜かねばならない」と、自らに言い聞かせた。
 また、何よりも大切なことは、広布破壊の謀略に紛動されない、創価の真正の勇者を育むことであると痛感していた。
 「わが同志よ。烈風吹かば、いよいよ、信心の火を、広宣流布に生き抜く創価の闘魂を燃え上がらせるのだ!」
11  広宣譜(11)
 聖教新聞紙上に「教学上の基本問題について」が発表された六月三十日の夜のことである。
 学生部結成二十一周年を祝賀する記念幹部会が、東京・荒川文化会館で盛大に開催された。
 参加者のなかには、学生部が結成された一九五七年(昭和三十二年)に生まれたメンバーも少なくなかった。
 集った学生たちは皆、学生部の誕生は、師の山本伸一が権力の魔性との激しい攻防戦を展開している渦中であったことに、深い意義を見いだしていた。
 人間を抑圧し、支配しようとする、あらゆる権力の魔性との、壮絶なる永遠の闘争──それが広宣流布の道である。
 創価の学徒たちは、伸一の魂を受け継ぎ、民衆を守り、広宣流布の先駆の使命を果たし抜こうとの決意に燃えていた。
 司会が記念幹部会の開会を宣言すると、雷鳴のような大拍手が場内を包んだ。
 学生部書記長の押山和人、女子学生局長の町野優子のあいさつに続いて、学生部長の浅田茂雄が登壇した。
 浅田は、会長の伸一が、全精魂を注いで、新学生部歌「広布に走れ」を作詞作曲してくれたことを述べたあと、歌の完成にいたるまでの経過を語っていった。
 「先月の六月度学生部幹部会で、新学生部歌の制作を発表したところ、全国各地から、多くの歌詞が寄せられました。
 なかには、六十六歳になる婦人が寄せてくださった歌詞もありました。
 そうした皆様方の情熱と真心に支えられ、制作委員会のメンバーが一丸となって歌の案を作り上げました。
 しかし、まだ非常に検討の余地のあるものでした。
 一昨日、この案をお持ちし、山本先生にご覧いただきましたところ、先生は、『私が歌を作って、諸君に贈ります。
 みんなのために、後世に残る学生部歌を作ってあげたいんだ』と言われ、その場で作詞してくださいました。
 そして、何度も推敲され、お忙しい合間を縫って、作曲もしてくださいました!」
 誰もが、伸一の深い思いを感じた。
12  広宣譜(12)
 学生部長の浅田茂雄は、感無量の面持ちで叫んだ。
 「ここで、山本先生に作詞作曲していただきました新学生部歌『広布に走れ』の歌詞を発表させていただきます。
 一、広き曠野に 我等は立てり
   万里めざして 白馬も堂々
   いざや征かなん 世紀の勇者
   我と我が友よ 広布に走れ  
 二、旭日に燃えたつ 凜々しきひとみ
   慈悲と哲理の 学徒の誉れ
   ああ革新の 英知は光る
   我と我が友よ 広布に走れ  
 三、今ほとばしる 大河の中に
   語り尽くさなん 銀波をあびて
   歴史を創るは この船たしか
   我と我が友よ 広布に走れ」
 大拍手が沸騰し続けた。
 さらに浅田は、伸一が、作詞の作業を進めるなかで学生部に示した、「全員が人材である」などの三指針を発表した。
 「私どもは、これからは、この『広布に走れ』と、先生が贈ってくださった指針を、深く胸に刻み、歌声も高らかに、悩める友に勇気と希望を与え、『広布前駆』の使命を、力の限り全うしていこうではありませんか!」
 ここで、オーケストラ、合唱団とともに、全員で「広布に走れ」を大合唱した。″慈悲と哲理の学徒″たちは、広宣流布の万里をめざす誓いを、雄渾に歌い上げたのである。
 続いて、副会長のあいさつ、歴代学生部長ら学生部草創の歴史を築いてきた功労者の表彰等が行われ、山本伸一のスピーチとなった。
 彼は、″無名の庶民の団体″である創価学会のなかから、かくも多くの知勇兼備の英才が育ちつつあることが嬉しかった。
 エリートの最大の要件は、社会の底辺に生きる人びとの心を知り、庶民の守りを最優先する信念と哲学をもつことである。
13  広宣譜(13)
 記念幹部会で山本伸一は、学生部結成二十一周年を心から祝したあと、海苔製造業を営んでいた父が、「これからの時代は、学問を積まなければやっていけないなあ」としみじみと語っていた思い出から、話を始めた。
 そして、時代の変化に対応し、生き抜いていくには、あらゆる分野で学問が不可欠であり、広宣流布を推進していくうえでも、学識と英知を身につけた人材が、重要な役割を担っていくことを述べた。
 さらに、学会の未来を展望しつつ、こう力説した。
 「私どもにとって、最大の未来の節となるのが、二十一世紀であります。この時こそが、諸君の本舞台です。
 現在の勉学も、訓練も、仏道修行も、その本舞台に躍り出ていくためにあることを、決して忘れないでいただきたい。
 ゆえに、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばって努力し、頑張り抜き、自分を磨き上げていただきたい。
 二十一世紀の本舞台に、どれだけ優秀な大勢の指導者を輩出できたかによって、その後の二十二世紀、二十三世紀への流れも決定づけられていってしまう。
 その意味において私は、二十一世紀こそ、われわれの勝負の時であると申し上げておきたいのであります」
 次代を担う主人公となるのは青年だ。
 「世界の変革をはやめるには きみの、またきみの手が不可欠だ」(「連帯性の歌」(『ブレヒト詩集』所収)野村修編訳、飯塚書店)とは、詩人ブレヒトの言葉である。
 伸一の胸中には、恩師・戸田城聖の、「二百年先をめざせよ」という指針が常にあった。
 そのために、まず、十年、二十年というプロセスを見すえ、年々、月々、日々の勝利に、全力を注ぎ尽くしていったのである。
 遠大な未来構想の成就も、″今″を勝つことから始まる。当面する一つ一つの課題に全精魂を傾け、断固として挑み、誇らかな勝利の旗を打ち立てるのだ。
 今日の苦闘は明日の希望となり、未来の栄冠となって、われらの頭上に燦然と輝く。
 今こそ、わが生涯を荘厳する、激闘の珠玉の歴史を創るのだ。
14  広宣譜(14)
 山本伸一の語調に、熱と力がこもった。
 「諸君は、それぞれ、偉大な特質、才能をもっているでありましょう。
 しかし、生涯、信心という一点だけは見失ってはならないし、絶対に退転するようなことがあってはならない。
 人間の宿命、幸福の確立、あるいは生死といった根本問題は、科学や政治、経済などの次元だけでは、解決することはできない。その問題を解決し、事実のうえで崩れざる幸福生活を確立していく道は、宇宙の根本法則を説いた、日蓮大聖人の仏法以外にないからであります。『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』との、大聖人の仰せを深く心に刻み、生涯、広宣流布の大道を歩み抜いていただきたいのであります。
 では、その具体的な実践とは何か──。
 社会において各分野の第一人者となって活躍していくのは当然のこととして、学会という広宣流布の組織のなかで、なんらかのかたちで責任ある立場に就き、懸命に活動を推進していくということです。皆の幸せを願って、広布の責任を担い、組織活動に励んでいる人の祈りは、やはり強い。生命力も旺盛である。また、学会の後輩や地域の人びとの幸福のために献身していくことは、妙法のリズムに乗ることであり、それこそが、大福運を積んでいく仏道修行であります。そのなかに、人間革命があり、自身の宿命転換も加速していくことを知っていただきたい。
 社会に出れば、立場上、存分に学会活動できない時期もあるかもしれない。しかし、その時が大事なんです。「今こそ正念場である」と腹を決め、友と励まし合い、活動に参加しようという努力を忘れないでほしいんです。全員が組織に付き切って、学会のリーダーに育っていってください」
 仏意仏勅の学会の組織なくして広宣流布はない。組織から離れれば、自行化他の信仰の正道を踏み外すことになる。
15  広宣譜(15)
 山本伸一は、学生部員には、全員、人生の勝利者になってほしかった。幸福を満喫した所願満足の人生を歩んでほしかった。
 彼は、叫ぶように訴えた。
 「諸君のなかには、さまざまな苦悩を抱えて悶々としている人もいると思う。そして、いつか、苦悩など何もない、今とは全く異なる、きらびやかな人生が開けることを、欲している人もいるかもしれない。
 しかし、人生は、永遠に苦悩との戦いなんです。悩みは常にあります。要は、それに勝つか、負けるかなんです。何があっても負けない自分自身になる以外に、幸福はない。どんなに激しい苦難が襲い続けたとしても、唱題しながら突き進み、乗り越えていく──そこに、真実の人生の充実と醍醐味があり、幸福もあるんです。それが、本当の信仰の力なんです。その試練に立ち向かう、堅固な生命の骨格をつくり上げるのが、青年時代の今です。学会の世界にあって、進んで訓練を受け、自らの生命を磨き鍛えていく以外にないんです。
 二十一世紀の大指導者となる使命を担った諸君は、苦悩する友人一人ひとりと相対し、徹して励まし、仏法対話し、友を触発する指導力、人間力を、仏法への大確信を培っていってください。
 戸田先生は、青年たちに、常々、『次の学会を頼む』と、最大の期待を込めて言われていた。私は、そのお言葉通りに歩んできたつもりであります。同様に、今度は、諸君の番です。私は、万感の思いを込めて、『二十一世紀を頼む!』と申し上げておきたい。
 妙法の世界一の学徒集団として、人間味あふれる創価家族の、期待の後継者として、どこまでも仲良く、民衆のため、庶民の幸福のために生き抜き、新しき世紀を築いていっていただきたい。諸君の英知と情熱に限りない期待を寄せつつ、重ねて『二十一世紀を頼む!』と申し上げ、私の祝福のあいさつといたします」
16  広宣譜(16)
 満腔の期待が込められたあいさつに、万雷の拍手が沸き起こり、いつまでも、いつまでも鳴りやまなかった。
 ここで、合唱団による「広布に走れ」の合唱となった。
 力強く、さわやかなコーラスが会場にこだました。それは、平和の長征へと旅立つ英知の友への讃歌であった。
 合唱が終わると、伸一は言った。
 「上手だね。もう一回!」
 再び歌声が響いた。そして、さらに、アンコールの拍手が鳴り続いた。
 「では、もう一度だね」
 合唱は、何度も続けられた。
 「最後に、参加者全員で大合唱しよう!」
 伸一が、こう提案した時、場内にいた一人の青年が叫んだ。
 「先生! みんなでスクラムを組んで歌っては、どうでしょうか!」
 すかさず、伸一が皆に諮った。
 「みんな、どう? スクラムを組んで歌うのも、学生らしくていいんじゃない」
 賛同の拍手が起こった。
 「それじゃあ、今、発言したあなたが、歌の指揮を執ってください」
  広き曠野に 我等は立てり
  万里めざして 白馬も堂々……
 若人の情熱のスクラムが、大波のように、右に左に揺れた。それは、滔々たる新時代の潮流を思わせた。
 伸一は、皆の顔を眼に焼きつけるように視線を注ぎ、身を乗り出して、盛んに手拍子を打った。
 学生たちは、誓った。
 使命の曠野に、敢然と挑み立つことを! 世紀の勇者となって、新時代の舞台に躍り出ることを! 革新の英知光る、慈悲と哲理の学徒となることを! 正義の対話を展開し、恒久平和の人類史を創造しゆくことを!
 新しき歌は、新しき世代を鼓舞し、新しき時代を開く力となるのだ。
17  広宣譜(17)
 さあ、歌おう!
 紅燃ゆる  わが魂の歌?を!
 高らかに、 歓びの歌?を!
 誇らかに、 正義の凱歌?を!
 晴れやかに、民衆の讃歌?を!
 草創期以来、創価の同志の痛快なる人間ドラマは、常に歌とともにあった。広宣流布の伸展も、庶民の朗らかな歌声がこだまするにつれて、勢いを増していった。
 歌は、闇夜を破る勇気の雷となる。そして、荘厳なる旭日をわが胸中に昇らせゆく、希望のファンファーレとなる。
 山本伸一が作詞作曲した、学生部歌「広布に走れ」は、学生部のみならず、瞬く間に日本中の友に愛唱されていった。
 発表翌日の七月一日に行われた、東海道本部長会で、東京支部長会で、大分県総会で、婦人部の人材育成グループの集いで、全国各地で、はつらつと歌い上げられたのである。
 伸一は、「広布に走れ」に引き続いて、直ちに新しい男子部歌の作詞作曲に着手した。
 男子部は、この七月を、「結成二十七周年記念月間」として、「跳べ! 広布丈夫の勇者」をテーマに掲げ、県総会などを企画していた。伸一は、その男子部にも、新しい飛躍の歌を贈りたいと思ったのである。
 このころ、時代の急速な変化のなかで、自己を確立することができず、社会に対して積極的に関わろうとしない若者たちが増加しつつあることを、伸一は憂慮していた。
 大人になりきれず、無気力、無関心、無責任などに陥る「モラトリアム化」現象が、次第に青年層全般に広がりつつあった。
 その解決のためには、自分という存在の根本的意味を知らねばならない。法華経には、その明快な解答が示されている。
 それは、皆が本来、この世から不幸をなくし、万人の幸福と平和を築くために、こいねがって妙法流布の使命を担い、悪世末法に出現した地涌の菩薩であるということだ。
18  広宣譜(18)
 青年には、次代の社会、世界を担い立ち、人びとの幸福と平和を実現する使命がある。
 もしも、青年が自己の小さな殻に閉じこもれば、社会は希望を失う。青年が理想を捨てたならば、未来は闇に包まれる。
 山本伸一は、「創価の青年よ。次代建設のリーダーたれ!」と心で叫び祈りつつ、新男子部歌の作詞作曲にあたってきた。
 一、若き地涌の 丈夫は
   舞いゆけ大空 空翔ぶ鷲と
   民衆を守りて 正義の羽は
   勇み勇みて 友よ起て
 二、見よや彼方に 虹かかり
   いざいざ征かなん 決めたる道を
   地を征く王者と 走りぬ師子は
   朝日夕陽に 友よ起て
 三、広布のロマンを 一筋に
   打てよ鳴らせよ 七つの鐘を
   やがては誉れの 凱歌の世紀
   花に吹雪に 友よ起て
 歌の題名は「友よ起て」とした。
 七月三日付の「聖教新聞」に、この歌の歌詞と楽譜が発表された。
 「7・3」は、恩師・戸田城聖が軍部政府の弾圧と戦い、二年間にわたる獄中闘争の末に出獄した日であり、伸一が選挙違反という無実の容疑で逮捕された日でもある。いわば、学会にとっては、権力の魔性を粉砕し、民衆勝利の時代を築く誓いの日である。
 ゆえに伸一は、七月三日付の新聞に掲載できるように、歌の制作を進めてきたのだ。
 彼は、歌を発表したあとも、多くの人たちに意見も聴き、さらに、曲に手を加えた。そして、六日付の「聖教新聞」に再度、歌詞と楽譜を発表したのである。その歌は、まさに、「広布のロマン」に生きる丈夫たちの、雄壮にして力強い、誓いの歌となった。
 青年とは、広布のロマンに生き抜く人だ。
19  広宣譜(19)
 七月六日付の「聖教新聞」には、男子部歌「友よ起て」と並んで、女子部の人材育成グループである「白蓮グループ」の愛唱歌「星は光りて」の歌詞と楽譜も発表された。
 山本伸一は、八日に同グループの日を迎えることから、新しい出発を祝って、愛唱歌を作詞作曲して贈ったのである。
 「白蓮グループ」は、学会本部をはじめ各地の会館で、会合の受付や整理役員などの任務を担当してきた。
 彼女たちの、さわやかで、はつらつとした凜々しい姿は、多くの学会員の希望であり、誇りとなっていた。
 伸一は、”学会の宝”である、清らかな”白蓮の友”を守り抜こうと、固く心に誓っていた。また、彼女たちを讃え、励まそうと、愛唱歌の作詞作曲を進めてきたのである。
 一、ふじの花手に ひとみ清らか
   心美しく 地涌の友まつ
   優しく強く 人と人との
   とびゆく蝶は けなげに舞わん
 二、白ゆりを胸に 姿りりしく
   疲れたる友に さわやかな声
   星は光りて 月は語りぬ
   ああ この汗に 満ちたるかんばせ
 三、白蓮の華は 幸の香りも
   しずかに流れゆく 城と城をば
   涙の人をも 喜びゆかんと
   晴れの姿を 見おくる姫らは
 「白蓮グループ」は、八日、東京・荒川文化会館で、グループの日を記念して総会を開催。藤色の制服に身を包んだメンバーが、弾ける笑顔で、「星は光りて」を大合唱した。
 歌いながら、皆が”白蓮”の崇高な使命と伸一の思いを噛みみ締めていた。
 そして、彼女たちは、″疲れた友にも、涙の人にも、さわやかな声で、晴れやかに蘇生の風を送ろう″と、深く心に誓うのであった。
20  広宣譜(20)
 東北が生んだ文豪・高山樗牛は叫んだ。
 「君、歌へ、大に歌へ。理想を歌ひ、人道を愛し、進歩を信じ、無窮に進む、是れ詩人たる君が天職也」(注)と。
 七月八日付の「聖教新聞」には、壮年部の新部歌「人生の旅」の歌詞と楽譜が紹介された。
 山本伸一が、八月二十四日の「部の日」をめざして進む壮年部の奮闘を期待し、部歌を作詞作曲して贈ったのである。
 一、彼の峰も あの坂も
   ああ幾山河 妻子と共に
   光求めて 苦楽を越えて
   いざや来たらんや 暁仰げば
 二、あの風も この雪も
   ああ幾歳か たどりたる
   今に厳たり この生命
   ああ鐘は鳴る 幸の城には
 三、彼の人も あの友も
   ああ幾百万 旭日に揃わなん
   元初の炎は 消えるなく
   讃え謳わなん 誉れの門出と
 壮年は、一家の大黒柱である。社会の黄金柱である。
 人生経験が豊富で、社会の信頼を勝ち取ってきた壮年が、地域建設に立ち上がる時、広宣流布は大きく加速していく。
 日蓮大聖人御在世当時を見ても、富木常忍、大田乗明、曾谷教信らの壮年信徒が、門下の中心となり、地域広布を担ってきた。
 壮年が、率先垂範で広宣流布を推進していってこそ、学会の重厚な力が発揮され、社会に深く根差した運動を展開していくことができるのだ。
 たとえば、学会の最前線組織である各ブロックに壮年の精鋭五人が集い、団結のスクラムを築くならば、地域を支える堅固な新しい柱が立つ。その柱が林立すれば、地域社会に、未来を開く創造と励ましのネットワークを広げることができよう。壮年の力で、足下から幸の園を開くのだ。
21  広宣譜(21)
 山本伸一は、二十一世紀を見つめていた。
 日本人の平均寿命は、年々延びている。それにともない、学会員の男性の場合、男子部よりも、壮年部として活動する期間がますます長くなっていく。
 やがては、壮年部歴四十年、五十年という時代も来るにちがいない。
 つまり、人生の半分以上を壮年部員として活動することになるのだ。
 そして、そのなかで、定年後は、多くの人たちにとって、地域が一切の活動の舞台となる。
 伸一は、壮年部が地域に積極的に関わり、活躍する時こそ、地域広布の総仕上げの時代であると考えていた。
 学会にあっては、草創の時代から、地域での活動の推進力は、主に婦人であった。家事や育児などに追われながら、学会活動に励むとともに、隣近所のために心を尽くし、交流を重ね、地域に信頼の基盤を広げてきた。
 しかし、二十一世紀には、いよいよ壮年部が、本格的に地域へ躍り出る時代が到来するのだ。
 壮年の力で、学会の盤石な組織を築き上げ、さらに、地域社会のかかえるさまざまな問題の解決にも真っ向から取り組み、わが地域に人間共和の城を築き上げていくのだ。
 かつては、定年後の生活を「余生」ととらえる人が多かった。
 しかし、これからは、長年培ってきた力をもって、地域に、希望を、活力を与える「与生」であらねばならない。
 仏法即社会であり、地域広布即地域貢献である。
 一人ひとりが、地域のため、人びとのために、何ができるかを考え、果敢に貢献の行動を起こしていくなかに、幸せの拡大があり、広宣流布の建設もあるのだ。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし
 人びとが苦しむ問題があれば、それをわが苦ととらえ、その解決のために奮闘していくのが、仏法者の生き方といえる。
 壮年が、その使命を自覚し、地域建設の中核となり、推進力となっていってこそ、わが地域の建設も、繁栄も、勝利もある。
22  広宣譜(22)
 七月八日の夕刻、山本伸一は、東京・練馬区の北町地域の支部長・婦人部長、区幹部ら十数人を招いて、港区内で懇談会を行った。
 伸一は、集ったメンバーに、温かい視線を注ぎながら語り始めた。
 「いちばん苦労した人を、いちばん讃え、励ましたいというのが、私の真情であり、信念であります。また、最も苦労し、不幸に泣いてきた人が、最も幸せになれるというのが、仏法です。
 私は、そうした思いで、北町の皆さんを見守ってきました」
 北町一帯では、三、四年前に、御本尊に不信をいだいた一部の幹部らが、組織を攪乱するという出来事があった。
 それに翻弄されて、学会を離れていった人もいたのである。
 そのなかでメンバーは、互いに励まし合いながら、試練の嵐を乗り越えてきた。
 そして、この一九七八年(昭和五十三年)一月、広布第二章の支部制発足とともに、希望の大行進を開始したのである。
 伸一は、言葉をついだ。
 「北町の皆さんは、荒れ狂う怒濤に敢然と挑み、障魔を粉砕し、大きな飛躍を遂げられた。弘教も、これまでにないほど、大きく進んでいると伺っております。
 まさに、見事な変毒為薬の姿であり、諸天諸仏も讃嘆されていることは間違いありません。
 そこで、皆さんを賞讃するために、北町の支部歌を作詞作曲させていただきました。
 私が作った、全国で、ただ一つの支部歌です」
 参加者の顔が光り、拍手が起こった。
 カセットデッキのスイッチが入れられ、軽快な調べが流れ始めた。
 一、あの緑 この天地
   私もあなたも 歩く道
   朝日の功徳を 身にあびて
   共に語らん この広場
 伸一は、″子どもからお年寄りまで、自然に皆が口ずさみたくなるような、明るく軽やかなテンポの歌を″と考え、作詞作曲したのだ。
23  広宣譜(23)
 山本伸一は、集った人たちに、歌詞の説明をした。
 「一番は、希望弾む朝を歌っています。
 次の二番が昼。三番が夜です」
 二、あの人も この人も
   幸せの風 青空に
   笑顔と笑顔に 蝶舞いて
   共に学ばん この法を
 三、あの家も この家も
   星に囲まれ 歌声が
   お伽の都と 讃えてる
   共に築かん 北町広布
 歌を聴き終えると、拍手が響いた。
 伸一は、皆に笑顔を向けながら語った。
 「北町には、四つの支部があり、それぞれ、すばらしい支部歌がありますので、それは大切にしてください。
 そのうえで、「この歌もいいな!」と思うなら、北町四支部の共通の支部歌として歌ってください。
 また、ほかの支部の皆さんが、この歌を歌いたいと思った時には、北町広布』のところに、自分たちの支部の名や、地域名を入れてくださればいいでしょう。
 広宣流布というのは、わが町を、そして社会を繁栄させていくことでもあります。仏法即社会であり、社会に立正安国の勝利の旗を打ち立てていくのが、仏法者の使命です。
 この歌は、日本で、いや世界で、ただ一つの山本伸一作詞作曲の支部歌になるでしょう。
 大事なことは、その事実を、皆さんが、どう受けとめてくださるかなんです。
 「よし、それならば、日本一、世界一の模範の支部にしよう! どんなに苦しいことがあっても、断じて勝ってみせる!」と、誓いを新たにしてくだされば、この歌は、最高の意味をもちます。
 しかし、『会長が支部歌を作ったよ』と言って終わってしまえば、なんの価値も生まれません。
 歌に価値をもたらしていくのは、皆さんの決意と実践です」
24  広宣譜(24)
 創価学会の「創価」とは、「価値創造」であり、それは、幸福を築く源である。
 つまり、人生で直面する一つ一つの物事に深い意味を見いだし、そこから、感謝、歓喜を汲み上げ、心を強くし、幸福を生み出していくことが、「創価」の意義といってよい。
 その「価値創造」の眼を開かせるものこそが、仏法である。仏法という視座に立って、すべての事象を深く見すえていくならば、そこには、幸福への原動力となる限りなく深い意味があり、汲めども尽きぬ豊かな精神の泉が広がっている。
 たとえば、日蓮大聖人は、門下が供養した白米を、どうとらえられたか。
 「民のほねをくだける白米」と仰せになっている。白米という物の背後に、米作りに励んだ人の過酷な労働、苦労、そして、何よりも真心を見て取り、最大の感謝を捧げられているのだ。
 別の御書には、「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」ともある。
 人は食によって命を支えられており、大事な食である白米を供養するということは、命を捧げることに等しい功徳があると、その「志」を大賞讃されている。
 また、大聖人は、一門に降りかかった大迫害に対しても、「大悪をこれば大善きたる」と断言される。
 一国が既に大謗法であるということは、大正法が必ず弘まる瑞相であると言われているのだ。
 さらに、御自身が大難を受けることについても、護法の功徳によって、過去の重罪を今生に招き寄せたと明かされている。
 そして、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せになり、大難に遭うことによって、法華経の行者であることが証明されたのであるから、これほどの喜びはないとの御境地を記されている。
 一つの事実から、仏法の法理に照らして無量の意味を見いだし、向上、前進の活力に転じていく。それが仏法者の生き方であり、人生の価値創造の道である。
25  広宣譜(25)
 山本伸一は、練馬の代表との懇談会で、北町の各支部の組織の実情を尋ねたあと、具体的な事例を通して、支部長・婦人部長の在り方について語っていった。
 「退転し、学会から離れていった人も、大きな心で包んでいくことが大事です。
 人と人のつながりを切り捨ててしまうのではなく、『友だちなんだから、困ったことがあったら相談に来なさいね』と言ってあげるぐらいの度量が必要です。
 また、退転した人が出たならば、残った一人ひとりを、焦らずに、一騎当千の人材に育て上げていけばいいんです。
 その方々が、五倍、十倍の力を発揮できるようになれば、支部は、むしろ大発展していきます。
 そのためにも支部長・婦人部長は、全支部員と会って、皆をわが一念に収めて、「一人も漏れなく、広宣流布の勇者に育てよう!」「断じて皆を幸福にしてみせる!」と決めて祈り抜いていくんです。
 そうした分だけ、諸天善神が、自分を守ってくれるんです。
 幹部は、会員の皆さんにご奉公するのだというつもりで、活動していってください。
 私もそうしてきました。
 信心をしていても、皆さんご自身、さまざまな悩み、苦しみがおありだと思います。
 そのうえに、組織の責任を担うことは、全支部員の苦悩を分かちもつということです。
 自分の体の何十倍もあるような悩みの重荷を背負って、急勾配の坂道を上るようなものかもしれません。
 しかし、多くの友の苦悩を、わが苦とすることによって、自身の境涯を大きく開いていくことができる。
 最も大変ななかで、広宣流布に邁進するからこそ、大福運を積み、大功徳を受けていくことができる。
 その仏法の因果の理法を忘れないでいただきたい」
 自らも宿命と闘い、苦悩しながら、友の幸せを願って、悩み、励ます。
 それが、末法出現の地涌の菩薩である。
 そこには、人間として最も尊貴な輝きがあり、その生き方のなかにこそ、仏法の人間主義の光彩がある。
26  広宣譜(26)
 広宣流布の道は、烈風が吹き荒れ、怒濤が猛る険路である。
 山本伸一は、覚悟を促すように語った。
 「学会の前途には、常に嵐が待ち受けています。それは、創価の道は、正義の道だからです。
 一部のマスコミによる誹謗・中傷も繰り返されるでしょう。
 民衆が目覚め、新しい力が台頭し、改革の担い手となることを恐れる、あらゆる勢力が、学会を狙い撃とうと、さまざまな謀略を巡らしてくるでしょう。
 しかし、支部長・婦人部長が、全支部員の皆さんと、強い信頼の絆に結ばれていくならば、学会は盤石です。
 最後は人と人との結びつきです。いかなる悪意の流言飛語も、真実の人間の絆を壊すことはできません。
 支部長・婦人部長が、支部の皆さんから、友人たちから、『あなたのことは信頼できる! 私はあなたを信じる』と言われるようになれば、すべては盤石です。
 つまり、自分のなかに創価学会がある。自分への信頼の輪が、広宣流布の広がりであるとの確信に立ってください」
 懇談会では、「今日、七月八日を『北町広布の日』にしたい」との要望も出た。
 伸一は、この日を原点として、毎年、新しい成長の節を刻んでいこうとする、メンバーの心意気が嬉しかった。
 「大賛成です! 『7・8』という今日の誓いを永遠に心に刻み、支部の模範といったら『北町』と言われるような、日本一の『北町』各支部をつくっていってください。
 私は、歌詞の最後を、『共に築かん 北町広布』としました。
 常に皆さんと共にいるとの心を託しました。皆さんのことは忘れません。
 題目を送り続けます。師弟不二です。師弟共戦です。
 皆さんもまた、いつ、いかなる時も、心は私と共にあってください。
 また、『共に築かん』とは、同志の団結です。どこよりも仲良く、楽しく、団結を誇る支部にしてください」
 伸一が贈ったのは、単に支部歌ではなく、永遠に崩れざる″創価の闘魂″であった。
27  広宣譜(27)
 山本伸一は、練馬の友に支部歌「北町広布」を贈ったこの七月八日、さらに学会歌の作成に取り組んでいた。方面歌「関西の歌」である。
 関西広布の歩みは、疾風怒濤と絢爛たる勝利に彩られてきた。
 一九五六年(昭和三十一年)五月には、伸一の指揮のもと、大阪支部一支部で一万一千百十一世帯という弘教を成し遂げ、広宣流布の「不滅の金字塔」を打ち立てた。
 また、同年七月、伸一が支援の責任者となった参院選では、当選は不可能との大方の予想を覆し、一般紙が「『まさか』が実現」と報じるほどの、奇跡的な大勝利を果たしたのである。
 しかし、翌五七年(同三十二年)四月、参議院大阪地方区の補欠選挙では、学会が推薦した候補者が惜しくも敗れた。
 この支援活動では、選挙法の知識に乏しく、熱心さのあまり選挙違反をした会員が
 出てしまった。
 支援の責任者であった伸一は、七月三日、大阪府警の求めに応じて任意出頭し、公職選挙法違反という無実の容疑で捕らえられたのだ。
 逮捕・勾留は十五日間に及んだ。過酷な取り調べが続き、検事は、遂に脅迫まがいのことまで言い始めた。
 伸一が罪を認めないのならば、会長の戸田城聖を逮捕すると言うのである。
 五七年の七月といえば、戸田の逝去の九カ月前であり、衰弱は既に激しく、逮捕は死にもつながりかねなかった。
 伸一はやむなく、ひとたびは一身に罪を被って、法廷で真実を明らかにしようと、心を決めたのだ。
 民衆勢力の台頭を恐れる権力の魔性が、獰猛なる牙を剥いて、学会に襲いかかってきたのである。
 正義は勝つ。いや正義なればこそ、断じて勝たねばならなかった。
 七月十七日正午過ぎ、大阪拘置所から彼は釈放された。
 夕刻、戸田を迎え、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪府警並びに大阪地検に抗議する大阪大会が開催された。
 川の対岸には、大阪地検のある建物が見える。
 諸天の憤怒か、慟哭か、稲妻が雲を引き裂き、雷鳴が轟き、大粒の雨が降りだした。
28  広宣譜(28)
 大阪大会の会場となった大阪市中央公会堂は、場外も参加者であふれていた。
 雷雨のなか、多くの人は傘も差さずに、特設されたスピーカーから流れる声に耳を澄ました。
 場内では、ひときわ大きな拍手が高鳴り、山本伸一が登壇した。
 「皆様、大変にしばらくでございました」
 堂々たる、力強い声であった。
 兄とも慕う伸一が、二週間余にわたって過酷な取り調べに耐え、今、元気に、自分たちの前に姿を現したのだ。
 関西の同志は、感涙を抑えることができなかった。
 また、広宣流布の道は、権力の魔性との熾烈な闘争であることを痛感し、憤怒のなかに、一切の戦いへの勝利を誓った瞬間であった。
 「最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
 伸一の師子吼に、皆、心を震わせながら、大拍手で応えた。
 関西の同志は、深く生命に刻んだ。
 「負けたらあかん! 戦いは、勝たなあかんのや!」──ここに、関西の「不敗の原点」が、燦然と刻印されたのである。
 伸一の法廷闘争は、四年半に及び、一九六二年(昭和三十七年)一月二十五日、無罪判決が出された。
 検察の控訴はなく、遂に無罪が確定した。
 共に戦い、涙し合った関西の同志は、わが事のように喜び、歓喜をバネに破竹の勢いで常勝の躍進を開始したのだ。
 広宣流布の「不滅の金字塔」を打ち立てた、あの大阪の戦いから二十二年を経て、二十一世紀まで、あと二十二年余となった。
 伸一は、まさに新世紀への折り返し点に立った今こそ、関西の同志に、永遠不滅の常勝の城を築き上げてほしかったのである。
 ゆえに彼は、関西の後継の勇者たちが、「関西魂」を永遠に受け継ぎ、新しき飛躍を期す誓いの歌として、「関西の歌」が必要であると考えたのである。
 歌は、魂を鼓舞し、勇気を呼び覚ます。
29  広宣譜(29)
 山本伸一が、「『関西の歌』を作ってはどうか」と提案したのは七月初めであった。
 関西の方面幹部は大喜びし、早速、青年部が中心になって歌の制作を開始した。
 出来上がった案を、関西長の西淵良治らで推敲し、練馬区北町の代表との懇談会が行われた七月八日の午前、伸一のもとに届けられた。
 「友と舞う」との題名がつけられたその歌詞には、皆の苦労が偲ばれたが、残念なことには斬新さに乏しく、関西らしさがあまり感じられなかった。
 関西の首脳にとっても、満足のいくものではなかったようだ。
 そこで伸一は、自分が歌詞を作って関西の友に贈ろうと、この日の午後から、作詞に取りかかった。
 自身の胸中にほとばしり出る思いを、率直に歌詞にし、口述していった。それを妻の峯子がメモしてくれた。
 「今再びの 陣列に……」
 冒頭は、この言葉しかないと思った。
 「私と共に、無名の庶民がスクラムを組み、前人未到の歴史を開き、広布の金字塔を打ち立てた関西である。
 自分と同じ心で、魔性の権力の横暴に憤怒し、血涙を拭って挑み立ち、常勝の大城を築いた関西である。
 関西には黄金燦たる誇り高き原点がある。なれば、常にその原点に立ち返り、いよいよ『日々新生』の決意で立ち上がるのだ。
 また、関西の同志との絆は、決して偶然でもなければ、今世限りのものではない。
 広宣流布を誓願して躍り出た地涌の菩薩として、久遠の使命に結ばれたものだ」
 伸一は、心の底から、こう感じた刹那、「君と我とは 久遠より 誓いの友と 春の曲」との歌詞が口をついて出ていた。
 峯子が、瞳を輝かせて言った。
 「『春の曲』。いい言葉ですね。そこには、幸せも、歓喜も、躍動も、勝利も、すべてが凝縮されていますもの」
 北町の代表との懇談が一段落した午後七時ごろ、伸一は席を外した。
 そして、「関西の歌」に推敲を加えたあと、関西総合長の十和田光一に電話を入れた。
30  広宣譜(30)
 山本伸一は、電話に出た関西総合長の十和田光一に、弾んだ声で言った。
 「できたよ。『関西の歌』を作ったよ」
 そして、歌詞を読み上げていった。
 それを書き取った十和田は、「ありがとうございます」と、感極まった声で応えた。
 伸一は、率直な意見が聞きたかった。
 「もし、ここを直してほしいという箇所があれば、遠慮なく言ってください。
 関西の皆さんの歌だもの、皆さんが心から納得して歌えるものにしたいんです。どうだい?」
 十和田は、申し訳なさそうに口を開いた。
 「二番の一行目に『我等の誇り 金の城』とございますが、この『金の城』を、『錦州城』にしていただけないでしょうか」
 伸一が「金の城」としたのは、皆の目に鮮やかな色彩が浮かぶような歌にしたかったからだ。
 だが、関西の同志にとって、「錦州城」という言葉には、格別な思いが詰まっていた。
 一九五六年(昭和三十一年)二月、大阪の戦いの指揮を執っていた伸一は、大勝利への決意を託した歌を詠んだ。
 そして、戸田城聖の誕生日である十一日に、この歌を贈った。
  関西に 今築きゆく 錦州城
     永遠に崩れぬ 魔軍抑えて
 そこには、大阪城の別名の「錦城」と、中国遼寧省の難攻不落の都城「錦州城」を掛け、関西に金城鉄壁の民衆城を築き上げようとの誓いが込められていた。
 戸田は、即座に返歌を認めてくれた。
  我が弟子が 折伏行で 築きたる
       錦州城を 仰ぐうれしさ
 伸一は、この歌を心に刻み、関西の同志と共に戦い、大勝利した。
 したがって、彼らには、″関西は創価の師弟が築き上げた広布の錦州城だ!″との強い共戦の誇りがあった。
 だから、十和田は、「錦州城」という言葉を入れてほしいと、要請したのである。
31  広宣譜(31)
 関西総合長の十和田光一の要請を聞くと、山本伸一は語った。
 「『金の城』の方が、斬新的だと思うんだが、『錦州城』とすることで、関西の皆さんが喜んでくださるなら、検討します。
 私は、関西の同志が永遠に歌い継いでいける、最高の歌を贈りたいんです。
 まだ推敲を重ねますが、歌詞の基本は変わらないので、早速、作曲が上手な人に曲を作ってもらうようにします。
 歌の正式な発表は、七月十七日の『大阪の日』を記念して行う幹部会にしよう。これには、私も必ず出席します」
 翌九日、神奈川県音楽祭に出席するために神奈川を訪れた伸一は、音楽祭の前に、これまでに学会歌などの作曲を手がけてきた青年に来てもらった。
 そして彼に、「関西の歌」の歌詞を渡し、作曲を依頼した。
 伸一は、その場で曲想を語り、実際に自ら口ずさんでみせた。
 「こんな感じの曲にできないだろうか」
 音楽祭終了後、出来上がった曲を聴いた。
 晴れ晴れとした、力強い感じにはなっていたが、納得しかねる箇所もあった。
 「大変だろうが、まだ工夫してください。私も考えてみます」
 伸一は、翌日から、青年が作った曲を聴き、自分でも曲を練っていった。
 十四日、創価大学での諸行事に出席していた彼は、行事の合間を縫い、作曲を担当する青年に、節をつけて歌ってみせるなどしてアドバイスを重ねた。
 作曲を進めながら、難航したのは、「誓いの友と 春の曲」の箇所であった。
 そこは、苦楽を分かち合った元初の友と幸の調べを奏でる「歓喜」を表現しなければならないところである。
 青年が、メロディーの案を出しても、「ちょっと違うね。明るくしたいね!」と、伸一は首を縦に振らなかった。
 労苦と挑戦あってこそ、新しき創造がある。苦闘は創造の母である。
32  広宣譜(32)
 山本伸一は、青年に作曲のアドバイスをしながら、歌詞にも手を加えていった。
 一番の四行目「愛する関西 この姿」は、「愛する関西 勇み立て」に、二番の一行目は、「我等の誇り 金の城」としていたが、「我等の誉れ 錦州城」とし、二行目の「常勝の道 晴ればれと」を「常勝
 の空 晴ればれと」とした。
 曲作りでは、結びとなる四行目をどうするかで、青年も、伸一も、悩みに悩んだ。
 呻吟の末に、躍動感に満ち、力強い抑揚のある歌に仕上がった。
 笑みを浮かべて、伸一は言った。
 「まず、これを関西に送ろう。
 曲もよくできたと思う。点数をつければ、九十八点だね。あとの二点は、関西の同志の魂なんだよ。歌に、関西の同志の魂が入った時に、百点満点になる」
 手を加えた歌詞は、関西に伝えられた。
 関西からは、大阪で記念の幹部会を行う七月十七日付の方面版に、歌詞と楽譜を発表したいと言ってきた。
 伸一は答えた。
 「記念の幹部会で大合唱するために練習したいだろうから、発表することはかまいません。しかし私は、さらに、推敲に推敲を重ねるつもりです。
 したがって歌詞にも曲にも、手を入れることになるかもしれません」
 「7・17」前日の七月十六日、伸一は、朝から、新しい気持ちで、もう一度、曲について真剣に検討し始めた。
 翌十七日は、午後二時発の便で、空路、大阪へ向かう日であったが、この日も、出発直前まで推敲を続けたのである。そして、同行する幹部に、楽譜と歌詞を手渡して言った。
 「『関西の歌』は、リズムもいいし、このままで直すところはありません。これでいきます。皆が待っているだろうから、その旨、関西に伝えてください」
 中途半端な仕事は、泡のようにはかない。「もう、全生命を絞り尽くした」といえる仕事であってこそ、本当の仕事といえる。
33  広宣譜(33)
 高らかにこだまする歓喜の歌声!
 軽快に鳴り響く躍動の調べ!
 新しき旅立ちの誓いを込めて、全身に情熱をたぎらせ、関西の同志は熱唱した。
 「大阪の日」にあたる七月十七日の夜、関西戸田記念講堂で行われた記念幹部会は、晴れやかな「学会歌の集い」となった。
 幹部会は、会長・山本伸一の導師による厳粛な勤行から始まった。
 万歳三唱、支部幹部への記念品贈呈などのあと、「広布に走れ」の大合唱となった。
 次いで、女子部が、華やかに、はつらつと、「星は光りて」を披露した。
 続いて、男子部が雄壮に「友よ起て」を力唱すると、婦人部が「今日も元気で」の快活なリズムを響かせ、壮年部は荘重に「人生の旅」を歌い上げた。
 どの顔も、皆、紅潮していた。どの瞳も、皆、決意に燃え輝いていた。
 ここで、大阪長の不破城泰敏が登壇した。
 「皆さんも、既にご存じのことと思いますが、このたび山本先生が、私たち関西のために、歌を作ってくださいましたので、発表させていただきます」
 会場を揺るがさんばかりの、大歓声と大拍手が轟いた。不破城は、拍手がやむのを待って、「関西の歌」を読み上げていった。
  一、今再びの 陣列に
    君と我とは 久遠より
    誓いの友と 春の曲
    愛する関西 勇み立て
  二、我等の誉れ 錦州城
    常勝の空 晴ればれと
    凱歌の友の 雄叫びは
    波濤の如く 天に舞え
  三、ああ関西の 行進に
    諸天の旗も 色冴えて
    護りに護らん 我が友を
    いざや前進 恐れなく」
 歌は力である。歌は希望である。
34  広宣譜(34)
 「関西の歌」を発表した大阪長の不破城泰敏は、叫ぶように訴えた。
 「私どもは、山本先生の真心こもるこの歌を、声高らかに繰り返し歌いながら、常勝の空を、さらに晴れがましく翔ていこうではありませんか!」
 怒濤を思わせる賛同の大拍手が、いつまでも、いつまでも鳴りやまなかった。
 「さあ、それでは、全員で元気いっぱい、『関西の歌』を大合唱しましょう!」
 司会が言うと、壇上に、歌詞を記した巨大な幕が下りてきた。
 「おおっ!」
 驚嘆の声が広がった。縦約五メートル、横約二十メートルの幕に、一文字が二十五センチ四方の大きさで歌詞が書かれていたのだ。
 幕の左側には、二十一年前、あの大阪大会が行われた、レンガ造りの中之島・大阪市中央公会堂が大きく描かれている。
 「関西鉄人会」のメンバーによる渾身の力作である。
 力強い調べに合わせ、同志の手拍子が新生の鼓動を奏で、歓喜の大合唱が始まった。
 今再びの 陣列に
 君と我とは 久遠より……
 皆、心に熱い血潮をたぎらせながら、声を限りに歌った。
 ある人は、「君と我とは 久遠より」の一節を歌いながら、感涙に眼を潤ませた。
 ある人は、「愛する関西 勇み立て」との言葉に、胸を揺さぶられる思いがした。
 ある人は、「いざや前進 恐れなく」に、無限の勇気を覚えながら熱唱した。
 壇上には、共に戦い、常勝と不敗の歴史の礎を築いた山本伸一がいた。
 皆、涙に霞む目で、その姿を見つめつつ、再びの出発を誓うのであった。
 伸一もまた、関西の不二の同志に熱い視線を注ぎながら、心で叫び続けていた。
 ″愛する、愛する関西の同志よ! 未来永劫に関西は、正義の旗が高らかに翻る常勝の都であれ! 民衆を守り抜く人間讃歌の都であれ! 関西がある限り、学会は盤石だ!″
35  広宣譜(35)
 関西の記念幹部会は、やがて、山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、懇談的に話を進め、二十一年前に、選挙違反という事実無根の容疑で逮捕・勾留された折、関西の同志が共に悔し涙を流しながら、さまざまな面で真心の応援をしてくれたことに対して、深く感謝の意を表した。
 伸一の着替えや食事に心を砕き、差し入れをしてくれた人もいた。
 かなわぬ面会を願い出て、大阪拘置所に通った人もいた。単身、抗議に出向いた人もいた。
 「私は、皆さんの真心を、終生、忘れません。その健気な姿を思うにつけ、感謝で胸がいっぱいになります。
 そして、庶民を苦しめる権力の魔性とは、永遠に戦い続けることを、愛する関西の皆さんに宣言しておきます!」
 次いで、二十一世紀への展望を語った。
 六月度の本部幹部会で伸一は、明一九七九年(昭和五十四年)に「七つの鐘」を打ち終えたあと、二〇〇一年から、再び二回目の「七つの鐘」を打ち鳴らし、二十一世紀の新たな前進を開始する旨、発表していた。
 彼は、それを再確認し、二十一世紀の「七つの鐘」を鳴らしていくのは、男子部、女子部、学生部、未来部の友であると述べ、後継の人材育成に心血を注いでいくなかに、永遠なる「常勝」の大道があることを力説した。
 また、「一人ひとりが、仏法の正義と力を証明しゆく人に」と呼びかけ、「世界模範の関西であれ!」と訴えて指導としたのである。
 関西は、雄壮なる広布の歌声とともに、二十一世紀の大海原へ雄々しく船出したのだ。
 八月上旬、伸一は、「関西の歌」に、「常勝の空」という題名をつけた。祈りを託して。
 ──″常勝の空″は、晴れやかである。そこには、苦悩の暗雲を突き抜けた、大歓喜の光彩が満ちあふれている。
 勝つのだ! 断じて勝ち続けるのだ! 常勝ありてこそ、崩れざる自他共の幸福があるからだ。常勝ありてこそ、広宣流布があるからだ。
 「常勝の空」は各地で歌われ、歓喜の歌、前進の歌、団結の歌となっていくのである。
36  広宣譜(36)
 人類は、黎明を待ちわびていた。眼を凝らし、固唾をのみ、漆黒の海を見つめる。
 暁闇を破って、黄金の光が走った!
 金波銀波が煌めく彼方に、雄々しく白光を放って、旭日が躍り出る。
 朝だ! 「世界広布新時代」の大空へ、太陽の仏法は昇った。
 光は、刻一刻、一切衆生の無明の闇を払い、万人の生命の「仏」を覚醒し、幸と歓喜の光彩を広げていく。
 日蓮大聖人は、「天変地夭・飢饉疫癘」の蔓延する世に、「立正安国」の旗を掲げて一人立たれた。
 そのバトンを受け継いだ創価の師弟が今、地涌の大行進を開始するのだ。
 人心はすさみ、世界には、不信と憎悪の分断の亀裂が幾重にも走る。戦火は果てず、自然もまた、凶暴な牙を剥き、人びとは、不安と恐怖の濃霧のなかをさすらう。
 急がねばならぬ! 友の胸中に、人間主義の慈悲と正義の旗を打ち立て、世界を結ぶのだ。
 一個の人間の生命を変革し、社会、人類の宿命の転換を成し遂げ、崩れざる平和と繁栄を築くのだ――これが、「立正安国」だ。
 これが、われらの尊き使命だ。
 さあ、心に太陽をいだいて、躍進の第一歩を踏み出そう!
 「躍進」とは、歓喜踊躍の前進だ。
 御聖訓には、「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と。
 私たちは、本来、仏である。
 その仏が、末法の衆生救済を誓願し、あえて悪業を担い、苦悩を背負って、この世に出現したのだ。
 それは、大仏法に巡り合い、宿命転換することをもって、仏法の厳たる功力を証明するためだ。
 ゆえに、打開できない宿命も、苦悩も絶対にない。この最極の真実に目覚め、わが使命を自覚し、自ら勇んで戦いを起こす時、生命は大歓喜に包まれ、悠々と苦悩に打ち勝つ大境涯へ、自身を高めていけるのだ。
 求道あるところに、歓喜はある。
 祈りあるところに、歓喜はある。
 実践あるところに、歓喜はある。
 信仰とは、あふれる歓喜の源泉なのだ。
37  広宣譜(37)
 歓喜は、勇気を呼び覚ます力だ!
 歓喜は、苦悩を突き抜ける力だ!
 歓喜は、生命を蘇生させる力だ!
 歓喜は、共感の調べを奏でる力だ!
 山本伸一は、全国の同志に″励ましの歌″″勇気の歌″を贈ろうと、唱題に唱題を重ねながら、次々と歌の制作に取り組んでいった。
 彼は、「関西の歌」と並行して、「千葉の歌」の作詞も手がけ、関西へ出発する前日の七月十六日には、完成させたのである。
 日蓮大聖人が、真っ先に南無妙法蓮華経の第一声を放たれ、一切衆生を救済しゆく大法門を説かれ、久遠の夜明けを告げられた千葉である。
 そこを、広宣流布の舞台にする同志は、「最も功徳を身に受け、幸せの実証を示してほしい」「弘教の大精神みなぎる、不退の人であってほしい」「日本一仲の良い、創価家族の模範であってほしい」と祈り念じつつ、「千葉の歌」を作り上げたのだ。
 伸一が、千葉県長の竹田博明に、「千葉県が、未来に大きく飛躍していくバネにするため、県歌を作ってはどうか」と提案したのは、七月初旬のことであった。
 伸一は、千葉県創価学会には大きな期待があった。二十一世紀の広宣流布を決する重要な県の一つであると考えていたからである。
 千葉県は、県北西部を中心に、年々、東京のベッドタウン化が進み、東京に近接する地域では、住民の増加が著しかった。
 新しい都市計画のもと、東京湾岸地域の埋め立て、開発は目覚ましい勢いで進み、将来は、新たな文化の発信地になることが予測された。
 また、この年の五月には、成田に「新東京国際空港」(後の成田国際空港)が開港。世界に開かれた「日本の空の玄関口」となったのである。
 その一方で、外房などの美しく雄壮な海岸や緑豊かな山々もあり、風光明媚な景観は、観光地としても大きな可能性を秘めていた。
 「この大飛躍を遂げる千葉県に、広布新時代の模範の学会を!」と、伸一は思った。
38  広宣譜(38)
 転居してくる人たちが多い地域には、それまでになかった問題も生ずる。
 その一つが、古くから地元に住む人たちと転入してきた人たちとが馴染めずに溝が生じ、地域的な連帯が失われてしまいがちなことである。
 隣近所などの住民の相互協力、共同体としての結束は、地域を支える大きな力となる。
 しかし、住民の連帯が失われていけば、人びとの孤立化、孤独化を招き、地域繁栄の基盤を揺るがすことになる。
 住民の暮らしを守り、潤いある社会を築いていくには、行政などの施策の充実だけでなく、それを支えるための、住民相互の協力が不可欠となる。
 特に、将来、単身や夫婦だけで暮らす高齢者世帯が増えれば増えるほど、地域住民の助け合いは、ますます重要になろう。
 創価学会員には、広宣流布、すなわち人びとの幸福と社会の繁栄、平和を築こうという強い目的意識がある。
 そして、多くの学会員が、御聖訓の「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」等の仰せを心肝に染めている。いわば、各人が共存共栄の哲学を確立し、人のために献身することが、仏法者の在り方であると自覚しているのである。
 そうした学会員の考え方、行動が、近隣との交流を促進し、各地域にあって、人と人との連帯を築く、大きな原動力となってきた。
 その人間融合の思想、生き方を、さらに広く地域社会に根づかせていくことが、千葉県に限らず、新しい転入者を迎え、急速に発展しつつある地域の、喫緊の課題であろう。
 文豪トルストイは語った。
 「自らより善くなり、世界をより善くする、これが人間生活の任務である」(注)と。
 隣人、地域の人びとの幸福と繁栄を願い、皆が″家族″であるとの思いで、ねぎらいの言葉をかけ、励まし合う。
 その人間の輪の拡大こそが、未来を開く希望の光であり、それが、創価学会の社会的使命でもある。
39  広宣譜(39)
 山本伸一は、旭日・千葉の同志が、地域に人間共和の都を築き、二十一世紀の「広布のモデル県」をつくり上げていくことを、強く念願していた。
 そのためにも、皆が、新しい使命に目覚め立つ、出発の歌が必要であると思っ
 たのである。
 また、千葉県では、以前から、宗門の僧による学会への攻撃が執拗を極め、とどまるところを知らなかった。
 北総地域の寺では、住職が御講などの席で、「学会は謗法である。学会では成仏できない」と批判し続け、学会員の通夜には行かないと言いだしていた。
 信心していない親戚からは、「学会の信心をやめろ」と言われ、涙ながらに苦しい胸のうちを幹部に訴える人があとを絶たなかった。
 安房地域では、まだ会館がないために、寺を借りて会合を開くことがあった。
 会合では「人間革命の歌」を合唱した。
 その時には、広宣流布誓願の決意を固め合う意味から、皆が立って御本尊に向かい、手拍子を打たずに合唱するようにしていた。
 それを見ていた、寺の住職は、学会の幹部に、こう言い放った。
 「歌詞に『君も立て 我も立つ』とある。御本尊に向かって『君も立て』とは何事か。御本尊に命令することになる。
 『人間革命の歌』を御本尊に向かって歌うのは間違いだ」
 この一節は、広宣流布の使命に生きる同志が、互いに決意を鼓舞し合い、前進していくための呼びかけであることは自明である。
 住職の指摘は、支離滅裂な言いがかり以外の何ものでもなかった。
 皆、強い憤りを覚えた。
 この住職は口を開けば、「学会は謗法だ。謗法がどんなに弘まろうと広宣流布ではない」などと発言していた。
 しかし、住職自身が折伏に邁進し、広宣流布に励む姿を見た人はいなかった。
 つまり自らは修行の根本である折伏もせず、命がけで弘教に挺身してきた学会員を謗法と罵り、広宣流布への誓いを込めて合唱することは間違いだというのだ。
 広布破壊の魔の働きであると見破った同志たちは、「断じて負けまい」と誓い、意気揚々と学会活動に励んできた。
40  広宣譜(40)
 歌うことは、人間の権利である。
 歌うことは、魂の叫びである。
 いかなる権威権力も、人が歌うことを止めることはできない。
 千葉・安房地域の同志たちは、悪侶の理不尽な圧迫をはねのけ、「人間革命の歌」とともに、広宣流布への誓いの前進を続けてきた。
 その苦闘を聞いた山本伸一は、千葉の同志の堂々たる旭日のような心意気を讃えるためにも、県歌が必要であると思った。
 伸一の「県歌を!」との呼びかけに、千葉県では、直ちに歌詞を作った。
 しかし、県長らは、「可能ならば、先生に作詞していただきたい」と要請してきた。
 やむなく伸一は、自ら作詞し、千葉の同志に贈ることにした。
 千葉県では、七月十九日に、日蓮大聖人の立教の地を擁する、房総圏の総会が行われるという。
 伸一は、その会合に間に合うよう、千葉県歌の歌詞を完成させたのである。
 一、ああ ほのぼのと 夜は明けて
   旭日遙かに 煌々と
   安房の森にも 調べあり
   天は晴れたり 我等を包みて
 二、波濤は踊るも 太平の
   世紀の大地に 走りたる
   檜の舞台を 築かんと
   ああスクラムは 千葉には燦たり
 三、ああ忘れまじ 厳然と
   元初の声を 弘めんと
   誓いの花は この世にて
   千葉に爛漫 広布の凱歌と
 「いかなる暗夜にも、必ず太陽は昇る。朝の来ない夜はない。いや、闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。負けるな! 地涌の同志よ!」との思いを託しての作詞であった。
 発表翌月、伸一は、この「千葉の歌」の曲名を、「旭日遙かに」としている。
41  広宣譜(41)
 七月十九日午後二時前、関西指導を終えた山本伸一は、中国指導のために、京都駅から新幹線で岡山駅へ向かった。
 中国の鳥取県で、二十二日に、七月度本部幹部会が開催されることになっていたのだ。
 車中、彼は、「九州の歌」の歌詞の作成に取り組んだ。
 実は、岡山文化会館(後の岡山南文化会館)で九州の代表幹部と会い、そこで、九州総合長の交代など、新しい布陣を敷くための人事の内示を行うことになっていた。
 「広布の突破口を開く、大切な、大切な九州だ! わが闘魂を受け継ぐ師子の九州だ!」
 彼は、その出発にあたり、新しい方面歌を贈ろうと考えていたのである。
 岡山駅まで八十分足らずであったが、火の国・九州の友の顔を思い浮かべながら、生命の言葉を紡ぎ出し、歌詞を口述した。
 隣の席に座った峯子が、それを書き留めていった。
 歌作りは、多忙ななかの限られた時間でも、集中力を研ぎ澄まし、背水の陣の覚悟で挑戦した時に、良いものができることが多い。
 伸一は、岡山駅に着くまでに、一応、歌詞を作り上げた。そして、「まだ推敲するから」と、峯子に告げた。
 彼が岡山文化会館に到着したのは、午後三時半過ぎであった。
 靴を脱ぐや、「『中国の歌』を作るよ!」と言い、そのままロビーで作業を開始した。
 伸一のもとには、事前に、中国方面の有志が作詞した原案が届いていた。
 筆を入れてほしいとの要請であった。 彼は、赤鉛筆を手にして言った。
 「これでは、ちょっと弱いね。作ってくださった方には申し訳ないが、全面的に書き換えることになってしまってもいいかい?」
 傍らにいた中国の幹部が声を揃えて、「お願いします」と答えた。
 中国の同志へのあふれる想いをのせて、赤鉛筆が走った。
 二十分ほどで、歌詞は、ほぼ固まった。原案の紙は真っ赤になっていた。
 「続きは、また後でやろう!」 
 一念を凝縮しての真剣勝負だった。
42  広宣譜(42)
 岡山文化会館に到着するや、「中国の歌」の作詞に取り組んだ山本伸一は、引き続き恩師記念室で「九州の歌」の推敲に入った。
 熟慮を重ね、何カ所か手直しをして完成となった。
 午後五時半から、二階の和室で岡山県の幹部らと懇談会を行い、さらに別室に移り、九州幹部との協議会に出席した。
 伸一は、集った五十人ほどのメンバーに視線を注いだ。峻厳な雰囲気が漂っていた。
 「正式には、二十二日の本部幹部会で発表しますが、九州の人事について、皆さんには事前に申し上げておきます。
 これは、九州が脱皮し、大きく発展していくための中核の人事であり、未来への布石です。
 九州には無限の底力がある。その力が、いかんなく発揮されれば、二十一世紀には”創価の大勝利山”となる。大九州の時代が来ます」
 人事では、新たに吉原力が九州総合長に就任し、方面婦人部長、方面青年部長等も交代することになった。
 「吉原君は、東京生まれの東京育ちで、これまで、第二東京本部の副本部長、多摩川圏の圏長として活躍してきました。
 また、仕事では聖教新聞社の業務局長を務め、職場の柱として皆から慕われています。
 彼は毎日、早朝も昼休みも、無事故で聖教新聞が配達されるように、寸暇を惜しんで真剣に唱題している。
 何事にも一途であり、体当たりでぶつかる、真面目なリーダーです。
 東京では、『吉原君を手放したくない』と言うんですが、大九州のために、やむを得ず彼を抜擢したんです。
 今、九州に必要なのは、地を這うようにして、地道に、懸命に、会員の皆さんのなかに分け入って活動するリーダーです。
 スタンドプレーヤーではありません。
 幹部は、自分が喝采を浴びることより、ひたすら同志を守り励ますことを考え、黙々と働くんです」
 リーダーは、団結の要である。そして、団結は、リーダーへの、″あの人は、私たちのことを、ここまで思ってくれているのか″という、信頼と共感のうえに成り立つのだ。
43  広宣譜(43)
 山本伸一は、九州総合長を交代することになった鮫島源治に、厳しい口調で言った。
 「信心には、ヒロイズムも自己陶酔も必要ありません。
 幹部に″自分が、自分が″という自己中心的な考えがあれば、信心の軌道を踏み外して、勝手なことをしたりする。
 結局は、大勢の会員に迷惑をかけ、広宣流布の組織を攪乱し、破壊する魔の働きとなる。
 私は、君を、そうさせたくはない。
 これを契機に、信心の原点に立ち返って、一兵卒の決意で、本当の仏道修行に励んでほしい。これは、信心の軌道を修正するチャンスです。
 幹部にとって、最も大切なことは、″自分は泥だらけになっても、どんなに屈辱を味わっても、仏の使いである学会員を、絶対に守り抜いてみせる、幸せにしてみせる″という一念と行動なんです。
 格好や見栄ではない。
 もう一度、新しい決意で、一から信心を鍛え直す覚悟で組織を駆け回り、苦労に苦労を重ねて、人間革命していってもらいたい」 
 それから伸一は、吉原力に視線を注いだ。
 「吉原君は、どこまでも誠実に、謙虚に、皆と接していくことです。それによって、信頼を勝ち得ることができるんです。
 信頼こそが強い人間の絆を結ぶ力になっていく」
 吉原の入会は一九五七年(昭和三十二年)十二月、結核で自宅療養していた大学四年生の時である。
 入会はしたものの、本気になって信心に取り組む気のない彼のもとへ、毎日のように勤行の指導や激励に通ってくれたのが、男子部の班長であった。
 それによって吉原は奮起し、病を乗り越え、大学卒業後は建築金物販売会社に就職した。
 また、第一線組織のリーダーである男子部分隊長になった。
 その時、彼は誓った。
 ″私が、信心に奮い立ったのは、班長が通って来て、日々、励ましてくれたからだ。家を訪ねてくれる回数に比例して、私も信心を学び、深めることができた。
44  広宣譜(44)
 吉原力は、こう自分に言い聞かせた。
 「仕事が終わったら、そのまま学会活動に出かけよう。会合のない日は、仏法対話か個人指導に回るんだ」
 当時は、タテ線の時代であり、部員は、都内から東京近県にかけて点在していた。就職したとはいえ、給料は決して高くはない。
 生活費を切り詰め、電車賃を捻出し、一軒一軒、部員の家を訪ねた。
 吉原が山本伸一に初めて個人指導を受けたのは、入会二年後の、一九五九年(昭和三十四年)十二月のことである。
 彼は男子部の班長になっていた。
 しかし、信心が惰性に流され、学会活動に身が入らず、仕事も不調続きであった。そんな状態から脱却したいと学会本部を訪れ、伸一と会ったのである。
 そのころ、伸一は、学会でただ一人の総務として理事長を支え、実質的には全学会の指揮を執り、同志の激励に奔走していた。
 「そんな山本総務に、時間を取らせては申し訳ない」と思いながらも、こう尋ねた。
 「信心が空転している時は、どうすればいいでしょうか」
 伸一は、確信を込めて言った。
 「題目です。題目を唱える以外にないよ。
 祈った人が勝つ──これが仏法です。
 困ったことがあったら、また、私のところへいらっしゃい」
 簡潔な指導であったが、吉原は、温かさを覚え、勇気が湧くのを強く感じた。
 彼は、この指導を無にすまいと思った。
 日蓮大聖人は、「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ」と仰せである。
 南無妙法蓮華経と題目を唱え抜いていくならば、わが身に「元品の法性」が厳然と光り輝き、すべてに打ち勝つ自身の境涯が確立される。
 そして、自分も人びとも幸福へと導く、梵天・帝釈の働きが具現されるのである。
 唱題に励む人は強い。「いま、われわれは凡夫です。
 凡夫であるけれども、ひとたび題目の功力をうければ仏の姿になります」(注)とは、恩師・戸田城聖の魂の叫びである。
45  広宣譜(45)
 吉原力は、一九六二年(昭和三十七年)、本部の職員に採用された。
 以来、山本伸一は、彼が人材として大成していくことを祈りながら、じっと見守り続けてきた。
 伸一はこれまで、多くの人を見てきた。残念なことには、幹部となり、未来を嘱望されながら、広宣流布のために生きるのではなく、自分の野心のために学会を利用しようとする人間もいた。
 そうした人物には、よく見ると、共通の傾向がある。
 それは、仏法で説く生命の因果の理法も、冥の照覧も、確信できずにいることである。
 だから、陰の労苦を避け、要領よく立ち回ろうとする。口で言うことと行動も異なり、裏表がある。
 しかし、そんな生き方が、仏法の世界で通用するわけがない。まやかしがあれば、いつか必ず、露呈するものだ。
 一方、広布を願って行動する人には、陰日なたがない。喜んで皆のために働いていく。
 伸一は、吉原の信心と誠実さに期待を寄せ、九州総合長に大抜擢したのである。
 九州の代表との協議会で伸一は、白い封筒から一枚の事務用箋を取り出した。
 「九州の新しい出発を祝し、『九州の歌』を作りました。車中、皆さんを思いながら作詞し、その後、さらに推敲を重ねたものです」
 彼は、歌詞を読み上げていった。
 「一、ああ広宣に われら起ち
    火の国健児の スクラムは
    今や燃えなん 果しなく
    大九州の 旗高し
  二、ああこの汗で 築きたる
    我と君との この城を
    法花で飾れ この歌と
    先駆の九州 いざ楽し
  三、ああ九州の ある限り
    崩れぬ道は 幾重にも
    世紀の功徳 いやまして
    正義の歴史 綴らなむ」 
 同志の瞳が輝き、顔に歓喜の光が差した。
46  広宣譜(46)
 山本伸一は、「九州の歌」の歌詞を三番まで読み上げると、皆を見て言った。
 「九州には、気取りはいらないよ。そんなものは、一切かなぐり捨てて戦うんです。
 二番の歌詞の四行目を、私は『先駆の九州 いざ楽し』とした。これが大事なんです。
 広宣流布の活動には、生命の歓喜がある。題目を唱えれば唱えるほど、信心に励めば励むほど歓喜増益し、心は弾む。
 もちろん、苦しいことや悔しいことはあるが、信心の世界には、それに何倍も勝る喜びがある。
 楽しくて楽しくて仕方がないというのが学会活動です。決して悲壮感に満ちた世界ではありません。
 また、皆が楽しさを満喫して信心に励んでいくために、善知識である同志の連帯が、創価家族がある。家族ですから、悩みも、弱さも、ありのままの自分をさらけ出していいんです。上下の関係もありません。
 何でも語り合いながら、真心の温もりをもって互いに包み合い、励まし合っていく──それが創価家族なんです。
 人を励ませば、自分が強く、元気になる。人を包み込んでいけば、自分の境涯が、広く、大きくなる。仏道修行、学会活動は、自身を磨き鍛え、人生を楽しく、最高に価値あるものにしていくためにある
 んです」
 励ましは、人を蘇生させ、心と心を結び、社会を活性化させていく草の根の力となる。
 伸一は、さらに歌詞に視線を注いだ。
 「三番に、『崩れぬ道』とあるのは、牧口先生、戸田先生の大精神を受け継ぎ、広宣流布に生きる、われら創価の師弟の道です。
 九州の皆さんが、学会を誹謗する僧たちによって、どんなに辛く、いやな思いをしてきたか、私はよく知っています。
 しかし、日蓮大聖人の正法正義を貫き通してきたのは学会です。
 正義なればこそ、魔は、さまざまな姿を現じて、競い起こって来る。
 したがって、何があろうが、一歩も退いてはならない。ますます意気軒昂に、一緒に創価の『正義の歴史』をつくっていこうよ!」
47  広宣譜(47)
 山本伸一は、作詞した「九州の歌」に、「火の国の歌」という題名をつけた。
 すぐに、この歌詞に九州の友が曲をつけて、七月二十四日に熊本市体育館で行われた熊本支部結成二十周年を記念する県総会で披露されることになる。
 古来、「火の国」と呼ばれてきた熊本から、九州方面歌「火の国の歌」は、九州全土に新たな歓喜の波動を広げていったのである。
 七月十九日、伸一は、岡山文化会館で、九州代表との協議会を終えると、「中国の歌」の推敲に入った。
 午後十時前、歌詞が出来上がった。
 この歌は、二十二日に鳥取県の米子文化会館で開催される本部幹部会で、発表する予定であった。作曲も急がなくてはならない。
 伸一は、中国方面の幹部に伝えた。
 「まだ、細かい部分は手直しをしますが、これで作曲を始めてください」
 彼は、さらにそれから、「中部の歌」の作詞を始めた。この指導行では中部も訪問することになっており、中部長から、「その折に、『中部の歌』を発表していただければ……」との要請があったのである。
 翌二十日午後、伸一は、岡山を発ち、鳥取県の米子に向かった。
 これまで、本州の日本海沿岸部で、本部幹部会が行われたことはなかったが、伸一は、あえて、鳥取での開催を提案したのである。それは、「広布第二章」とは、これまでに、あまり光が当たらなかった新しい地域が、広宣流布の表舞台に登場する時代であると考えていたからだ。
 また、鳥取でも、宗門による迫害の嵐が吹き荒れるなか、同志は、「御書に仰せの通りだ!」との確信に燃えて活動に励んでいた。
 「陰で黙々と頑張り続けている人、苦しんできた人のところへ、真っ先に足を運ぶ!」――それが伸一の信念であった。
 最も大変な思いをしている人たちのなかに飛び込み、力の限り励ます。そこに仏法者の生き方があり、学会の発展の原動力もある。
48  広宣譜(48)
 岡山駅から米子駅までは、特急列車で三時間足らずである。
 山本伸一は、列車が走りだすと、「中国の歌」の歌詞を読み返し、推敲し始めた。
 彼は、この歌を、広宣流布の情熱がほとばしる力強いものにしたかった。
 一番の「ああくれないの あの友と」の箇所では、燃え立つばかりの、はつらつとした中国の同志の姿を描きたかった。
 思索の末に、「ああ紅に 友は燃え」となった。
 二番の二行目は、「友どちの」となっていたが、そこは、「友どちと」とした。四番の最後も、「歴史あり」を、「歴史輝く」に直した。
 車窓には緑したたる山々が迫り、高梁川の清流が白い飛沫を上げながらうねっていた。
 数カ所を手直しした伸一は、「続きはあとにしよう」と言って、歌詞を封筒に入れた。
 同行していた妻の峯子は、ほっとした表情を浮かべた。
 休みも取らずに作詞を続ける伸一が、心配でならなかったのである。数日前から、彼は体調を崩していたのだ。
 だが、決意のこもった声で、彼は言った。
 「これから、『四国の歌』を作ろう!」
 中国に続いて訪問する四国では、「四国の歌」を発表したいと考えていたのだ。
 伸一は、近くの席に座っていた、副会長で四国総合長の森川一正に語りかけた。
 「四国は、今、大発展を遂げようとしている。
 香川と高知には研修道場も誕生し、各県にも、次々と立派な大会館が整いつつある。
 皆、満を持して、新しい船出を待っている。
 かつて四国からは、坂本龍馬や板垣退助らが歴史の大舞台に躍り出て、新しい日本を築く力となっていった。
 広布第二章の新しい担い手も、四国から出ると私は確信している。
 四国の皆さんも、宗門のことで、大変な思いをされてきた。
 しかし、これを乗り越えれば、皆がもっと強くなれる。
 何があっても微動だにせぬ力をつけて、時代を変えていくんだ。
 四国出身の正岡子規は、同郷の友・秋山真之に、『いくさをもいとはぬ君が船路には風ふかばふけ波たゝばたて』(注)との歌を詠み、贈っている。四国は、この心意気でいくんだ」
49  広宣譜(49)
 米子までの車中で、「四国の歌」の歌詞は出来上がった。
 山本伸一の一行が、米子文化会館に到着したのは午後四時半であった。
 伸一は峯子と共に、県幹部の案内で文化会館の構内を視察していった。
 数本の楠の前まで来た時、木にそれぞれ名前をつけてほしいと頼まれた。
 彼は、「右近楠」「左近楠」「牧口楠」「戸田楠」などと命名し、最後の一本の前に立つと、県幹部の顔を見て語った。
 「これは、『無名楠』とします。無名無冠の王者という意味ですが、次の会長が来た時に、名前をつけてもらうためでもあります」
 皆にとって、予期せぬ言葉ではあったが、誰も深くは考えなかった。
 ″会長は、山本先生しかいない″と思っていたし、そうではない学会など、考えられなかったからである。
 伸一には、″広布の未来を展望し、しかるべき人材の流れができたならば、日本の創価学会の会長職は委ねて、自分は世界の広宣流布と平和のために、自由に、全力で走り回りたい″という強い思いがあった。
 伸一の胸には、恩師・戸田城聖が故郷・厚田村の海を見ながら、語った言葉がこだましていた。
 「君は、世界の広宣流布の道を開くんだ。構想だけは、ぼくが、つくっておこう。君が、それをすべて実現していくんだよ」「東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって……」
 御聖訓には、「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」、「日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」とある。
 伸一は、自身のその胸のうちを、何度か学会の首脳に打ち明けてきた。
 自分が会長を退いても、皆で責任を担い、日本の広宣流布の総仕上げをしてほしいとの思いからであった。
 彼は、世界広布の大空へ大きく飛翔する日を心に描きつつ、日本の組織を盤石なものとするために、全精魂を注いで各地を回っていたのである。
50  広宣譜(50)
 米子文化会館で山本伸一は、午後五時半から行われた地元の代表二百人との懇談会に出席した。
 彼が、新しい「中国の歌」を作っていることを告げると、大きな拍手が湧き起こった。
 まだ制作途中ではあったが、中国方面の幹部に、その歌詞を読み上げてもらった。
 「皆さん、どうですか」
 伸一が感想を求めると、一人の婦人が、「ハイカラな歌だと思います」と答えた。
 「ありがとう。ハイカラとは、懐かしい表現ですね。でも、褒めていただいて嬉しい。まだ、推敲しますからね。
 また、一応、曲もできているんです」
 中国の有志が、一晩のうちに曲を作り、歌と一緒に吹き込んだテープを届けてくれたのだ。皆で、そのテープを聴いた。
 伸一は、参加者に尋ねた。
 「少し、歌いにくいところがあるように思うが、どうだろうか」
 皆が頷いた。伸一は、作曲したという壮年に語りかけた。
 「学会歌は、老若男女、誰もが、自然に、スーッと歌えるようにすることが大事なんです。もう少し調整してみていただけますか」
 伸一の間近にいた、メガネのよく似合う丸顔の婦人が、にこやかに頷いていた。県副婦人部長の出井幸子である。
 音楽大学を出て、三十五年間にわたって音楽教師を務め、退職したばかりの婦人であった。
 伸一は、出井に言った。
 「出井さんも一緒に検討してください。最高の歌を作りたいんです。
 女性の意見、センスを反映させていくことが大事ですから。
 歌は、今日中には完成させましょう!」
 強い意気込みがみなぎる言葉であった。
 懇談会で伸一は訴えた。
 「これからは、鳥取や島根など山陰の時代です。ここに、広宣流布の新しいモデルをつくることができれば、日本は変わります!
 『竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し』の原理です」
51  広宣譜(51)
 広宣流布をいかに進めるかは、各地域によって異なってこよう。たとえば、人口過密な大都市と、過疎の山村や離島とでは、人びとの生活や人間関係等にも違いがある。
 その実情に即して、仏法理解の進め方、学会活動の在り方を、考えていかねばならない。
 日蓮大聖人は、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と仰せである。
 そこに暮らす人びとが、わが地域の広宣流布の責任をもつのだ。
 地域に応じて、活動の進め方は異なっても、広布を推進する根本原理に変わりはない。
 第一に大切なことは、なんとしても、この地域を広宣流布していこうという「決意」である。
 自分が広布に一人立って、わが手で、この地域を幸福の園にしようという一念と行動がなければ、何年、何十年たとうが、何一つ現状を変えることはできない。
 第二に、学会員が地域で「信頼」を勝ち得ていくことだ。信頼という土壌が耕されてこそ対話も実る。信頼は人間関係の基である。
 第三には、各人が信仰の「実証」を示し切っていくことである。
 経済革命や病の克服、和楽の家庭の建設などは、当然、大事な実証となる。
 また、さまざまな人生の試練に出遭っても、それに負けない強い心を培い、人格を磨き、誰からも好かれ、尊敬される人になっていくことは、黄金の輝きを放つ実証といってよい。
 この「決意」「信頼」「実証」をもって前進するなかに、地域広布の大道が開かれるのだ。
 山本伸一は、懇談会で語った。
 「今回の訪問で、私は鳥取広布の新時代を開きます。真剣勝負で戦います。
 明日は、県内の会員の皆さんと一緒に、地域広布を祈願する勤行会を行いたいと思います。
 参加できる方は、全員、いらしてください。すべての会員の方々とお会いしたいんです。
 どうか、皆さんの手で、日本一団結の強い、功徳にあふれた鳥取をつくってください」
 懇談会は終わった。しかし、それは、更なる懇談の始まりであった。
52  広宣譜(52)
 中国の方面幹部が、「以上で懇談会は終了いたします」と、閉会を告げた。
 しかし、参加者は、近況などを報告しようと、山本伸一の周囲に集まって来た。
 皆が、次々と語りかけた。
 「先生、二十年前、大病を患っていましたが、信心してこんなに元気になりました」
 「家を新築し、座談会場として提供させていただいております。ぜひ一度、わが家にお寄りください」
 「そうですか。よかったね。本当によかった。嬉しいです。皆さんのお宅にも、可能な限りおじゃましますよ」
 彼は、一人ひとりの報告に耳を傾け、励まし、対話を続けた。
 皆の魂に、生涯の思い出を刻めるか。生涯の決意を促せるのか――必死だった。
 瞬間瞬間に、一声一声に、魂を込め、全力を注いだ。そうしてこそ、励ましなのだ。
 懇談を終えた伸一は、別室に移動し、代表に贈るため、激励の言葉を色紙や書籍に揮毫していった。作業に休みはなかった。
 決裁書類に目を通しながら、峯子に語った。
 「『中国の歌』の曲が調整できたら、もう一度、歌詞も検討しよう。最高の歌を完成させたいね!」
 彼の心は躍っていた。
 午後九時過ぎ、伸一は、米子文化会館の庭に出た。
 星々の煌めく空に、満月が皓々と輝き、大山のシルエットが、くっきりと浮かび上がっていた。
 彼は、月天子を仰いだ。心に詩興が湧くのを覚えた。
 その時、庭の片隅から幾筋もの光が踊った。蛍である。
 ほのかな光が千々に乱れ飛び、幻想的な美しい絵巻が描き出された。
 彼は、蛍の舞に目を凝らし、つぶやくように、傍らにいた幹部に言った。
 「鳥取の皆さんの真心を、映し出しているかのような、清らかな光だ。今宵は、星か、蛍か、満月か……。すばらしいね。お伽の世界にいるようだ」
53  広宣譜(53)
 山本伸一が蛍の舞を眺めていると、「中国の歌」の作曲を担当した壮年たちが、「曲が出来上がりました」と言って、カセットテープとデッキを持ってやって来た。
 「待っていたんだよ」
 伸一は、蛍が輝く庭で、そのテープを聴いた。そして、歌詞の書かれた原稿用紙を広げた。
 彼の周りにいた人が、懐中電灯で歌詞を照らしてくれた。
 彼は、曲に合わせて歌を口ずさみながら、赤鉛筆を手にし、歌詞を推敲し始めた。
 「一番の最後は、『進みゆかなん 手をば結びて』ではなく、『進み跳ばなん 手と手結びて』にしよう。
 中国の皆さんの躍動する心を、表現しておきたいんです」
 二、三カ所、手を加え、再度、歌詞を読み返すと、力強い声で言った。
 「よし、これで決定だ!」
 歌詞の書かれた紙に、赤鉛筆で「決」と認めた。
 作曲をした壮年が、伸一に言った。
 「先生! 『友は燃え』など、三行目の終わりは、繰り返した方が、音楽的に安定するのですが、そうしてもよろしいでしょうか」
 「かまいません。お任せします。
 昨日から、作曲で苦労されたでしょう。しかし、その分、曲が練り上げられ、すばらしい曲になってきていますよ。名曲です。ありがとう! あなたの名前も、この歌と共に永遠に残ります。おめでとう!」
 学会のリーダーに不可欠なものは、一つ一つの物事の背後にある、人の苦労を知っていくことである。そこから励ましも生まれる。
 翌七月二十一日、米子文化会館の前には、早朝から車の列ができていた。
 前夜、勤行会が開催されるという知らせが鳥取県内を駆け巡り、全県下から訪れた会員が、開門を待っていたのである。
 その様子を見た伸一は、近隣の迷惑になってはならないと思い、皆に会館へ入ってもらうように県幹部に指示した。
54  広宣譜(54)
 鳥取の同志は、米子文化会館に次々と詰めかけ、勤行会の会場となる大広間は、瞬く間にいっぱいになっていった。
 子ども連れの婦人や、お年寄りも多かった。大広間以外の部屋も、人で埋まっていく。
 勤行会は、とても一度では終わりそうになかった。
 山本伸一は、毅然として言った。
 「皆さんが来られる限り、勤行会は、何度でも行います!」
 午前十時半、一回目の鳥取支部結成十八周年記念勤行会が開催された。
 伸一は鳥取の広宣流布と、全同志の一家の繁栄と幸せを祈念したあと、懇談的に話し始めた。
 「皆さんも、よくご存じのことと思いますが、日寛上人は『この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり』(注)と仰せです。
 御本尊の、この偉大なる功力に、万人が平等に浴することができる。
 しかし、それには、『勇気ある信心』が必要なんです。
 勤行をするにせよ、仏法対話をするにせよ、何かをなそうとするならば、常に勇気が求められます。
 日蓮大聖人の仰せのままに、正しい信心を貫こうとすれば、魔が競い起こり、当然、意地悪もされます。弾圧もあります。
 ゆえに大聖人は、『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と厳しく指導されているんです。
 また、この信心を貫き、必ず幸せになってみせるという『確信ある祈り』が大事です。
 仏法対話も確信で決まります。確信という魂があってこそ、理論も、体験も、より説得力をもつんです。
 「勇気」と「確信」で、わが人生を開き、広布を開き、すべてを勝ち越えていってください」
 伸一は、勤行会が終わるや、大広間に入りきれなかった人たちが待機している別室へ向かった。
 力の限り、同志を励まし抜く──その繰り返しのなかから、広宣流布の大波が起こる。
55  広宣譜(55)
 山本伸一は、勤行会参加者が集っている各部屋を回り、全力で、皆を励ましていった。
 「ご苦労様です。お会いできて嬉しい。
 皆さんのなかには、お寺に行くたびに理不尽な文句を言われ、悔しく、辛い思いをされている方もいらっしゃるでしょう。
 何を言われようが、日蓮大聖人の仰せのままに広宣流布を推進している仏意仏勅の団体は、創価学会しかありません。
 学会の実践のなかに、地涌の菩薩の実像があり、崩れることのない幸福境涯を確立する直道があります。
 どうか、生涯、学会から離れず、地涌の使命に生き抜き、幸せになってください。皆さんとは、なかなかお会いできませんが、ご一家の繁栄と幸せを、日々、祈っております」
 集った人たちの、ほぼ全員が初めて伸一と会う人たちであった。
 彼は懸命に訴えた。
 「皆さんが、私に代わり、ブロックの方々を守ってください。
 皆さんは、地域の創価学会の代表者、責任者であり、会長です。
 学会は、皆が、その思いで立ち上がり、その心で結ばれているから強いんです。
 信心の世界には、本質的には、役職の上下も、権威も権力もありません。
 皆が同じ仏子です。皆が地涌の菩薩です。皆が同志です。皆が創価家族です。私たちの手で、鳥取に幸せの花園をつくろうではありませんか!」
 大拍手が響いた。目に涙を浮かべ、「頑張ります!」と叫ぶ人もいた。
 正午過ぎから、二回目の勤行会が行われた。
 伸一は、参加者に視線を注ぎながら語った。
 「このなかには、ご高齢のため、自宅でお孫さんの面倒をみて、留守を預かってくださっている方もいらっしゃるでしょう。
 家に柱や屋根、土台があり、それぞれの役目が異なるように、家族の役割も違います。
 しかし、心を合わせて広宣流布を担ってくださっている功徳は平等です。
 皆が、広布の、大事な、大事な担い手です。
 本日は、その方々に、心から御礼申し上げます。
 ″ここに、わが使命あり″と決めて信心に励み、共に幸福の大道を歩み抜きましょう」
56  広宣譜(56)
 山本伸一は、米子文化会館での勤行会を終えると、鳥取県の幹部に言った。
 「勤行会の次は、私の方から出向いて激励します。みんなが総立ちしてこそ、鳥取の大前進がある。そのためなら、なんでもします」
 そして、直ちに米子会館へ向かい、居合わせた人たちを励ましたあと、市内の個人会館である松木会館を訪問した。
 伸一は会場提供者の松木勇・晃恵夫妻から、前日夜の懇談会で「ぜひ、わが会館へ」と請われ、訪問の約束をしていたのである。
 松木の家は、魚の卸売店であった。伸一は、到着した時刻が午後二時であることから、仕事のじゃまにならぬよう、あいさつだけして帰ろうと思った。
 作業場の戸を開けると、主の勇が長靴を履き、ホースで水を撒いていた。彼は四十代半ばで、温厚な人柄の壮年である。
 勇は、「こんにちは!」という声に振り返った。伸一の笑顔があった。
 思わず絶句した。そこに、妻の晃恵が飛んできて、「先生! おいでくださってありがとうございます」と元気に言い、二階の応接間に案内した。
 伸一が仕事の様子を尋ねると、夫妻は、浮かぬ顔で、商売が思わしくないため、魚の卸売りをやめて、魚の加工業を始めようと考えていることを語った。
 伸一は、転業は焦るのではなく、しっかり準備を重ね、時機を見極めていくことが大切であるとアドバイスし、こう励ました。
 「現実の社会は泥沼のようなものです。いつ足をすくわれるかもわからない。競争も激しい。
 過酷です。そのなかで懸命に信心に励み、戦い、智慧を絞り、勝ち抜き、その実証をもって広宣流布していくんです。
 それが地涌の菩薩の使命なんです。
 『仏法は勝負』だ。したがって、断じて、社会にあって勝っていかねばならない――そう決意して祈り抜いていくことですよ」
 そして、伸一は、夫妻が所属する住吉支部の同志に、句を詠んで贈った。
 「住吉の 蓮華の花の 笑顔かな」
57  広宣譜(57)
 松木会館では、この日の夜、住吉支部の座談会が行われることになっていた。仏間は、その準備のために来ていた人や、山本伸一の来訪を聞きつけて集って来た人たちで埋まっていった。
 なかには、琴を持っている人もいた。座談会で演奏するのであろう。
 伸一は、仏間に入ると、琴を見て言った。
 「私がピアノを弾きます。合奏しましょう」
 「さくら」などの調べが流れた。さわやかな涼風のような励ましとなった。
 伸一は、この七月二十一日の夕刻、島根県の代表との懇談会をもった。県の活動の模様や参加者の近況報告に耳を傾けながら、島根広布の未来展望を語り合った。
 関西を訪問する前から、彼の体調は芳しくなかった。
 発熱し、首が腫れ、激しい疲労感に苛まれた。医師にも来てもらっていた。
 しかし、”今こそ、鳥取、島根の同志と、強く、固く、心を結び合い、どんなに嵐が吹き荒れようが、微動だにしない、難攻不落の創価城を築き上げるのだ!”と決意していた。
 人を強くするものは、自らが心に定めた信義である。
 戸田城聖が、敗戦間近の焼け野原に一人立って、広宣流布の大誓願に生きたのはなぜか――
 もちろん、その底流にあるのは、戸田が獄中での唱題の末に会得した”われ地涌の菩薩なり”との大確信であったことはいうまでもない。
 そのうえで、彼が地涌の使命に生きる力となったものは、軍部政府の弾圧によって殉教した、師である牧口常三郎の遺志を受け継ごうとする、弟子の信義にほかならない。
 伸一もまた、戸田の精神を継承し、師の広宣流布の構想を断じて実現しようとの信義が、精進の力となり、日々の発心の源泉となってきた。
 己心に師をいだき、師との誓いを果たそうとするなかに、信念の”芯”がつくられるといってよい。
 伸一は、それゆえに、一人ひとりと会い、共に広宣流布に生きる地涌の菩薩として、不二の同志として、心を通わせ合い、信義と信義の絆を結ぼうと必死であったのである。
58  広宣譜(58)
 伯耆富士・大山の秀峰が陽光に映えていた。
 一九七八年(昭和五十三年)七月二十二日午後零時半、鳥取県の米子文化会館で、七月度本部幹部会が晴れやかに開催された。
 会場前方を華やかに彩った太陽の花・ひまわりが、希望と情熱の光彩を放っていた。
 本州の日本海沿岸では、初の本部幹部会の開催とあって、集って来た鳥取の同志の顔は、誇らかであった。
 この席上、中国の歌「地涌の讃歌」が発表されたのである。
 一、轟く歓喜の 中国に
   広布の船出も にぎやかに
   ああ紅に 友は燃え 友は燃え
   進み跳ばなん 手と手結びて
 二、この地愛さん 中国の
   幸の花咲く 友どちと
   笑顔も嬉しや 爛漫と 爛漫と
   指揮とる顔 光燦たれ  
 三、陽出ずる中国 人の城
   地涌の讃歌の 歌声も
   勝利の空へ こだません こだません
   ああ虹かかる 生命晴れたり  
 四、いざや中国 万年の
   甘露の雨に そそがれて
   この道確かと 走りゆけ 走りゆけ
   ここに広布の 歴史輝く
 全参加者の歓喜の大合唱が響いた。
 まさに同志の心は紅に燃え、顔は輝き、創価の大道を走りゆく決意がみなぎっていた。
 山本伸一も歌った。
 大きく手拍子を打ち、「この歌とともに、中国の同志が、はつらつと前進を開始してほしい。
 幸せの花を咲かせてほしい。人生の勝利を飾ってほしい」と願いながら。
 「平和・希望・確信・勇気に満ちた学会歌は『私の心の歌』です」(一九九六年五月三日の5・3「創価学会の日」記念式典でのビエイラ氏のあいさつ(「聖教新聞」同年五月四日付))――後年、伸一と深い親交を結ぶブラジルの作曲家・ピアニストのアマラウ・ビエイラは語っている。
59  広宣譜(59)
 鳥取県での本部幹部会では、「地涌の讃歌」の発表に先立ち、会長の山本伸一から、中国各県に県の旗が授与された。
 また、九州の人事のほか、地元・鳥取の人事も発表され、県の婦人部長に、出井幸子が就任するなど、新しい広宣流布の布陣が整えられたのである。
 席上、伸一は、鳥取、島根をはじめとして、全国各地で弘教が着々と進み、地域広布の盤石な基盤が整いつつあることを述べ、同志の奮闘を心から賞讃した。
 そして、日蓮大聖人の仰せ通りに、「如説修行」の信心に励み抜いていくことの大切さを力説し、こう話を結んだ。
 「大聖人の御精神、御指導は、どこまでも広宣流布の成就にあります。百万言の理論よりも、一人への弘教を実らせることです。
 勇気ある実践の第一歩を踏み出すことです。
 どうか、この一点を忘れず、海原のような広々とした心で、すべてを包容しながら仲良く前進していっていただきたい」
 本部幹部会を終えると、伸一は別室に向かった。鳥取未来会と島根未来会の第一期生の集いが、開かれていると聞いたからだ。
 部屋では、二十人余りの未来部員が、元気に学会歌を合唱していた。
 伸一は、皆に笑顔を向けた。
 「暑いなか、ご苦労様! 皆さんには、二十一世紀を担う、新時代の人材に大成してもらいたい。それが、私の最大の願いなんです。
 お父さん、お母さんも、それを念願し、周囲から非難中傷を浴びながら、懸命に信心を貫き通してこられた」
 彼は、前日、鳥取の女子高等部員が作成した文集「我が家の広布史」を目にしていた。
 そこには、経済苦や病苦、周囲の信心への無理解という状況のなかで、広布に生き抜いてきた尊き父母の姿が描かれていた。
 高等部員の文章の行間に、彼は”立派な信心の後継者に育て”との、父母の深い祈りを感じた。
 伸一は、訴えた。
 「皆さんは私の命です。君たちの両親と共に君たちの成長を、ずっと見守っています」
60  広宣譜(60)
 未来会の集いのあと、山本伸一は米子文化会館の館内を回り、本部幹部会の役員や合唱団のメンバーらを激励した。
 彼が二階ロビーにいると、未来会のメンバーが集まって来た。
 「さっき、会ったばかりだもの、特別な話はありません」
 伸一は、こう言ったが、皆、瞳を輝かせ、彼の言葉を待っていた。
 ″それならば、これだけは語っておこう″と思い、伸一は口を開いた。
 「未来会の皆さんは、両親をはじめ、多くの学会員の希望であり、誇りです。
 また、皆さんは、未来会の結成に際して、いろいろな決意をされたと伺っています。
 人間として最も大事なことは、皆さんに期待を寄せてくれている両親を、未来を君たちに託そうとしている学会員を、自分自身を、決して裏切らないことです。
 裏切りは、最大の不知恩です。
 それには、青春時代の誓いを、終生、果たし抜いていくことです。
 私は、諸君が、その誓いを本当に果たし、決意を実践していくのか、じっと見ています。
 口先では、なんとでも言えます。大切なのは、行動です。結果です。
 君たちが見事な実証を自ら示すまで、私は励ますことも、讃えることも、褒めることもしません。厳しく見ています。
 おだてられ、甘やかされて育てば、人間は強くなれません。力もつきません。
 ちょっと辛いことや困難に出くわせば、人のせいにして恨み、愚痴や文句を言って逃げ出すような弱い人間には、なってほしくないんです。
 強く大きな心のリーダーに育ってほしいんです」
 心が弱ければ、困難や苦しみを恐れて、恩義を踏みにじり、裏切りさえも犯しかねない。
 正義の人とは、心強き人だ。
 伸一は、未来会のメンバーを生命に焼きつけるように、じっと視線を注いだ。
 「私は、君たちに大成してほしい。新世紀の大リーダーに育っていってほしい。
 だから厳しくしていきます。それが慈悲なんです」
 彼は、未来を担い立つ王者を、本当の後継の師子をつくりたかった。
61  広宣譜(61)
 山本伸一は、本部幹部会が行われた七月二十二日も、訪問指導に出かけていった。彼の調は優れなかった
 が、自分を待っている人たちがいると思うと、ゆっくりと休むことなどできなかった。
 この日は、県北西部の境港市まで足を運び、個人会館を訪問。夕刻には米子市内で職員の代表と懇談し、さらに同市の個人会館を訪れたのである。
 鳥取は、日本一、人口の少ない県である。その鳥取に幸せの沃野を拓き、ここから、広宣流布の新しい波動を起こしていきたかったのである。一つの県、地域が、模範の宝土となれば、全国を変えていくことができる。
 「一」は、一切の始まりである。
 伸一は、鳥取県を発つ二十三日にも、午後零時半から勤行会をもった。県幹部の「まだ、先生にお会いしていない方がおります。
 最後に、もう一度、勤行会を行ってください」との要請を受けて開催したものである。
 会館には、千人ほどの人が集って来た。
 彼は、出発の予定時刻を過ぎても、あと一分、あと三十秒と、額に汗を滲ませ、ぎりぎりまで励ましを重ね、岡山へ戻っていった。
 列車の中で、伸一の胸には、既に新しい歌詞が次々とあふれ、こだましていた。
 彼が手がけようとしていたのは、新高等部歌である。
 鳥取に向かう前、高等部長の奥田義雄と女子高等部長の大崎美代子が、新しい高等部歌を作成したいと言って、岡山文化会館にやって来たのである。
 伸一は、未来を担う高等部員のために、歌を作詞して贈ろうと思った。
 午後五時前、彼が岡山文化会館に到着すると、岡山の県幹部らと共に、十数人の高等部員と中等部員が出迎えてくれた。
 岡山未来会の第一期生であるという。
 会館のロビーでは、四国長の久米川誠太郎らが出迎えた。
 「先生、四国の歌の曲ができました!」
 三日前、岡山から米子に向かう車中で、四国の歌「我等の天地」を作詞した伸一は、直ちに作曲に入るように伝えていたのである。
62  広宣譜(62)
 四国長の久米川誠太郎が、四国の歌「我等の天地」を録音したカセットテープを差し出すと、山本伸一は笑顔で言った。
 「今、ここで聴かせてもらいます」
 久米川は、用意していたカセットデッキにテープを入れた。
 明るく、力強く、伸びやかなメロディーにのって合唱が流れた。
 一、遙かな峰も 我が峰と
   四国の天地は 我が天地
   地涌の我等が 乱舞せる
   故郷嬉しや この山河
 二、緑したたる あの山も
   喜び勇んで 我等をば
   包み護らん 鉄囲山
   おお誉れあれ この法戦
 三、友よ負けるな 妙法の
   祈りの功徳は 天空に
   四国の民衆に そそがなん
   おお前進だ 鐘は鳴る
 「いい曲だ。明るくて心強い!」
 伸一は、カセットデッキから流れる歌声に合わせて、歌詞を口ずさみ始めた。
 曲が終わると、彼は、久米川と、作曲にあたった男子部員に視線を注いだ。
 「すばらしい曲だね。ありがとう。この歌を携えて、四国へ行こう!」
 久米川たちの顔がほころび、瞳が輝いた。
 伸一は、翌二十四日から四国を訪問することになっていたのである。
 彼は、力を込めて語った。
 「『四国の天地は 我が天地』と、皆が本当に自覚することが大事です。自分が今いる場所が、地涌の菩薩として広宣流布の使命を担った天地なんです。
 そこを常寂光土にしていくために自分がいる。東京や大阪を意識する必要はありません。
 わが誉れの天地で、自分らしく、広宣流布を進めていこうとの決意に皆が立つ時、新しい四国の時代が来る!」
63  広宣譜(63)
 山本伸一は、岡山文化会館で高等部歌の作詞に取りかかった。
 「高等部員は、全員が創価の大切な後継者である! 私の最高の宝ともいうべき愛弟子である! 二十一世紀の広宣流布のバトンを託す正義の走者である!」
 伸一の高等部員への万感の思いは、瞬く間に歌詞となってあふれ出た。
 そして、その言葉を、練りに練り上げていった。
 一、我れ今あとを 継がんとて
   心凜々しく 時待たん
   この身の彼方は 新世紀
   躍る舞台と 今強く
   学べ尽くさん 正義の道をば(注)
 一番ができた。彼は、後継の若き勇者の、前途に思いを馳せた。の道には、山もあれば、谷もあろう。雨も、風も、嵐も、猛暑の夏も、吹雪の冬もあろう──それが、広宣流布の誓願に生き抜く使命の人の人生なのだ。
 伸一の脳裏に、太宰治の、あの名著『走れメロス』(太宰治著『富嶽百景 走れメロス他八編』岩波書店)が浮かんだ。
 ──暴虐な王に激怒した青年・メロスは、王城に乗り込むが、捕縛されてしまう。
 王の心は、人間への不信に覆われていた。王は、彼を磔にすると言う。
 メロスは、たった一人の身内である妹の挙式を済ませて、帰って来るまでの猶予がほしいと、王に頼む。
 彼は、王に、無二の友人・セリヌンティウスを身代わりとして預け、三日目の日没までには戻ることを約束する。
 戻らなければ、代わりに親友の命が奪われる。しかし、自分は、自由の身となるのだ。
 メロスは、その夜、妹の住む故郷の村へ、一睡もせずに走った。
 急いで結婚式を挙げさせると、今度は、王城をめざして走った。
 濁流となった川を泳ぎ切り、襲ってきた山賊を打ち破るが、疲労困憊し、地に体を投げ出す。
 正義、信実、愛を証明しようと、死ぬために走ることが、くだらなく感じられる。
 正義の道は、自身の心との戦いの道である。
64  広宣譜(64)
 メロスは負けなかった。肉体の疲労の回復とともに、信頼に報いようとの心が蘇る。
 彼は走る。友のため、信実と愛のために。口から血を吐きながらも走る。
 残光が消え、親友・セリヌンティウスが命を奪われようとした刹那、メロスは刑場に走り込む。
 縄を解かれた友に向かって彼は叫ぶ。
 「私を殴れ」──途中で一度、友を見捨てようとの思いをいだいたことを告げる。
 セリヌンティウスは、メロスを力いっぱい殴打すると、「メロス、私を殴れ」と言い、一度だけ疑いの心をもったことを明かす。
 メロスも彼を殴打し、二人は、抱き合う。
 その光景を見ていた王は言う。
 「おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。
 どうか、わしも仲間に入れてくれまいか」
 「猜疑」に「信実」が勝ったのである。
 山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)秋、『走れメロス』を題材にした詩「メロスの真実」を書いた。偽りと惑わしに充ちた人の世を、最も高尚にして美しく、潔癖な、確かなる希有の実在に転換したメロスの強い真実は、何処にあったのかを詠んだものだ。
 それは、「汝自身の胸中の制覇にあったのだ」と、伸一は結論した。
 そして、転向者には「一歩淋しく後退した時 さらに己れを後退させる あの自己正当化の論理がある」と指摘し、「友を捨てた安逸には 悔恨の痛苦が 終生離れぬだろう」と記す。
 詩は、こう結ばれている。
 「私は銘記したい 真の雄大な勇気の走破のみが 猜疑と策略の妄執を砕き 人間真実の 究竟の開花をもたらすにちがいない と」
 伸一は、今、新高等部歌を作るにあたり、″高等部員は、世界の平和と人びとの幸福の実現をわが使命と自覚し、人間の信義を、生涯貫くメロスであってほしい″と思った。
 ″人生のあらゆる誘惑に惑わされるな! 己の怠惰に負けるな! 見事に、自ら定めた誓いの道、使命の道を走り抜いてほしい″
 彼は、心で祈りつつ、作詞を続けた。
65  広宣譜(65)
 二、君も負けるな いつの日か
   共々誓いし この道を
   嵐も吹雪も いざや征け
   これぞメロスの 誉れなり
   ああ万感の 時待たんと
 友との広宣流布の誓い──それは、自分自身に誓うことでもあり、わが使命に一人立つことから始まる。
 仮に、友が道半ばに倒れたり、誓いを捨て去ったりすることがあったとしても、自分は、ひとたび決めた信念の道を走り通していくことだ。
 たとえば、メロスは、もしも、セリヌンティウスが自分に不信をいだき、刑場で恨み言を発し続けていたとしても、彼を救うために走り続けたはずだ。
 セリヌンティウスも、メロスが戻るのをやめて逃げ出したとしても、「きっとメロスは、王にどこかで殺された」と考え、友に喝采を送ったにちがいない。
 相手が信義を守るから自分も守るというのではない。自らの信念としての行動である。
 作者の太宰治は、メロスは「わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った」と記している。「大きな力」とは、人間の普遍の信実であり、不変の正義といえよう。
 友との誓いを契機として、決然と一人立ち、わが信念に生き抜く。
 互いにそうした時に、最も美しい友情のドラマが花開くのである。
 伸一は、引き続き三番の作詞に入った。最後の言葉は既に決まっていた。
 それは、「ああ柱たれ 我等の時代の」である。
 皆が自分の世代の広宣流布に責任をもち、信頼の柱となり、友情を広げていくなかに、仏法の人間主義の着実な広がりがある。
 三番では、「常に、地涌の使命を忘れないでくれたまえ」との、魂の叫びを歌にした。
 三、この世の誇りと 使命をば
   紅燃ゆる 君もまた
   七つの鐘の 走者なり
   花の輪広げん 走者なり
   ああ柱たれ 我等の時代の
66  広宣譜(66)
 山本伸一は、浴衣に着替え、新高等部歌の歌詞を書いた紙を持って、岡山文化会館の屋上へ向かった。
 岡山未来会の第一期生と、会うことになっていたのである。
 屋上に出た伸一は、高等部長の奥田義雄と、女子高等部長の大崎美代子に言った。
 「できたよ! 新しい高等部歌の歌詞を作ったよ。今、完成したばかりだ」
 そして、歌詞が書かれた紙を手渡した。
 「ありがとうございます!」
 二人の顔が輝き、満面に笑みが浮かんだ。
 空は、美しい夕焼けに包まれていた。
 未来会のメンバーは、用意してあった縁台や椅子などに、伸一を囲むように座った。
 彼は、一人ひとりを見すえながら語り始めた。厳しい口調であった。
 「皆さんは、未来会として広布後継の誓いを固めて集われた。学会の未来は、皆さんの双肩にかかっています。
 だから、あえて厳しく言っておきます。
 生涯、誓いを破ってはいけない。甘えてはいけない。
 艱難を自ら求め、乗り越えていく『正義の人』になれ──これを守れる人は?」
 皆が手を挙げた。
 「ありがとう。私は、君たちを信じます。
 そして、これから、どのように成長していくのか、見続けていきます。
 次の学会を頼むよ! 君たちは私の宝だ」
 空は刻々と表情を変え、紫紺に染まり、宵の明星が瞬き始めた。
 鳳雛たちの瞳は決意に燃え、頬は紅潮してた。
 懇談終了後、伸一は、「短時間でも、敬愛する男子部の諸君を励ましたい」と、ポロシャツに着替え直し、会館内で行われていた県男子部総会に出席した。
 会場に姿を現した彼を、参加者は、喜びの大拍手で迎えた。
 伸一は、皆の大成長を祈りつつ、「同志の誓いを永遠に忘れることなく、限りなき広布のロマンの大道を」と呼びかけた。
 さらに、そのあと、男子部の大ブロック長(後の地区リーダー)宅を家庭訪問したのである。
 命を削って動いてこそ、人は魂を動かす。

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