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日蓮大聖人・池田大作

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第27巻 「求道」 求道

小説「新・人間革命」

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1  求道(1)
 青葉には希望がある。未来に伸びゆく若々しい力がある。
 青葉──それは、限りない可能性を秘めた東北を象徴していよう。
 杜の都・仙台は、美しい青葉の季節であり、街路樹のみずみずしい緑がまばゆかった。
 一九七八年(昭和五十三年)五月二十七日午後二時二十分、仙台空港に到着した山本伸一は、車で、仙台市の錦町に完成した東北平和会館(後の青葉平和会館)へ向かった。
 伸一の車には、長く東北を担当した副会長の関久男と、東北総合長である副会長の青田進が同乗していた。伸一は、語り始めた。
 「東北創価学会は強くなったね。東北の同志の強さは、チリ津波や冷害など、試練に遭遇するたびに、困難をはね返し、ますます広宣流布の勢いを増してきたことにある。
 蓮華が泥沼に咲くように、苦難のなかで広布の使命を自覚して、それぞれが人間としての強さと輝きを発揮し、信仰の力を示してこられた。最悪な状況のなかでも、怯むことなく、自らの生き方を通して、仏法の偉大さを証明してこられた。まさに、その姿こそが、地涌の菩薩です。仏を見る思いがします。
 東北には、何があっても、”負げでたまっか!”という意気込みがある。それこそが、『学会魂』です。だから私は、東北の同志を、心から尊敬しているんです。
 一人ひとりが、その強さにますます磨きをかけていくなかに、自身の一生成仏と東北繁栄への大前進がある。すごい時代が来ます」
 車の助手席に座っていた青田が言った。
 「そのためには、どこまでも組織の第一線で戦う皆さんに照準を合わせ、すべての活動を、そこから組み上げていくことが大切ではないかと思いますが……」
 「そうです。私は、第一線の会員の方々にこそ、最高幹部の指導や体験を聞いて、信心への強い確信をもってもらいたい。ゆえに、副会長や県長などの幹部は、直接、会員の皆さんと会い、語り合う機会を、徹底してつくってほしいんです。いや、断じて、そうしていかなければならない」
2  求道(2)
 山本伸一は、最前線の会員に照準を合わせた活動について、具体的に語っていった。
 「会員の皆さんが、信心の栄養を吸収できる場は、座談会になります。したがって、座談会を、信心の歓喜と確信に満ちあふれたものにするために、幹部であればあるほど、最大の力を注いでいかなくてはならない。
 また、皆がしっかりと教学を研鑽できる場は、御書学習会です。ゆえに、最高幹部から率先して御書学習会を担当し、「仏法とは、こんなにも深いものなのか! よし、頑張ろう!」と、皆が決意できるような、魅力あふれる講義をしていってもらいたい。
 ところが、方面幹部や県幹部は、県で行う支部長会など、幹部の会合が盛会であれば、良しとしてしまう傾向がある。大切なのは、それを受けて行う支部や大ブロック(現在の地区)、ブロックの会合です。そこが、一人ひとりの会員の皆さんに、信心のエネルギーを与えるものになっているかどうかなんです。
 組織が大きくなると、方面や県の幹部の意識が第一線から離れ、本部長や支部長などしか、見えなくなってしまうことがよくあります。そうなると、すべての運動は、上滑りしていってしまう。常に見失ってはならないのが、最前線の会員の皆さんです。
 私は、さまざまな立場の幹部に、『組織の皆さんはお元気ですか』と尋ねます。その時に、誰を”皆さん”として思い浮かべるのか。自分の身近にいる幹部なのか、それとも会員の方たちなのか。
 その時、すぐに”昨日、家庭訪問したあの人””一昨日、個人指導したあの人”というように、会員の方々の顔が浮かんでくるのが、民衆の指導者なんです。
 戸田先生は、時間がある限り、多くの会合で質問を受けられた。それは、どこまでも一会員に焦点を当てられ、幸せになってほしいというお心の表れであり、皆と直接つながっていこうとされたからなんです」
 一人ひとりの会員を最重要視することこそ、創価学会の伝統精神にほかならない。
3  求道(3)
 山本伸一の一行は、午後三時過ぎ、東北平和会館に到着した。この会館は、五月初めにオープンしたばかりであり、外壁は赤茶色のタイル張りで、地上四階、地下一階の堂々たる大法城であった。車から降りた伸一は、出迎えた幹部らに語りかけた。
 「皆さんは、仙台支部が結成してから三十年近く、全力で走り抜いてこられた。この二、三日は、ゆったりした気分で過ごしてください。そして、また新しい心で、新しい未来へ出発しよう。では、皆で記念の写真を撮りましょう」
 笑顔が広がるなか、カメラに納まった。
 仙台支部の結成は、戸田城聖が第二代会長に就任した一九五一年(昭和二十六年)の五月であり、以来二十七周年を迎えた。
 その間、旧習の根深い地にあって、さまざまな偏見や迫害と戦いながら、広宣流布の道を切り開いてきた同志を、伸一は、心からねぎらいたかったのである。
 彼自身は休む間もなく、記念植樹に臨んだ。植えられたのは、二本の桜であった。
 一本は、「広布の母」である婦人部に敬意を表し、もう一本は、東北学生部の発展に尽力した功労の友の遺徳を讃えての植樹である。
 婦人部の桜に土を盛った伸一は、東北婦人部長の斉間恵と、東北書記長で宮城県婦人部長の野崎裕美に視線を注ぎながら言った。
 「この桜は、婦人部の皆さんの手で、大木に育ててください。桜も、人材も、立派に育てるには、常に心を配り、よく手入れしていかなければならない。この木を、東北婦人部の人材育成の象徴にしていってください。
 東北婦人部には、斉間さんと野崎さんという、息の合った最強のコンビが誕生した。
 中心となる人たちが、力を合わせていくことができれば、大発展します。団結は『建設』であり、『善』なんです。しかし、反目は『破壊』であり、『悪』となってしまう。
 組織を実質的に担っているのは、結局は婦人部の皆さんです。婦人部が強ければ、広宣流布の盤石な基盤を築くことができます」
4  求道(4)
 東北婦人部長の斉間恵と書記長の野崎裕美は、同じ年の生まれで、共に女子部時代から、東北広布に青春をかけてきた。
 斉間の入会は一九五四年(昭和二十九年)四月であった。
 高校卒業後、勤めた会社の先輩である学会員から、よく仏法や学会について、話を聞かされた。だが、宗教には興味も関心もなかった。せせら笑いながら聞き流していた。また、その話を、家族に面白おかしく語り、嘲りのタネにしていたのである。
 ところが、ある時、宿命についての話が胸に突き刺さった。斉間の父は、幼少期に父親を亡くして女手一つで育てられた。母は、尋常小学校の時に母親と死別していた。父母の不遇な生い立ちを耳にして育った彼女は、「宿命転換」という言葉に心を動かされた。
 手渡された「聖教新聞」を貪るように読んだ。過酷な宿命を乗り越えて、幸せをつかんだ幾つもの体験に感動を覚えた。そして入会を決意したのだ。それまで、さんざん学会を批判してきただけに気まずくもあったが、意を決して信心を始めた。
 入会して三日目の四月二十四日午後、戸田城聖と青年部の室長であった山本伸一らが、仙台支部総会に出席するために、仙台を訪問した。斉間も、学会の先輩に、「戸田先生をお迎えしよう」と言われ、仙台駅へ行った。
 駅には、たくさんの人が詰めかけていた。染みの付いた割烹着を着た婦人や作業服姿の青年など、皆、身なりは貧しかった。しかし、表情は生き生きとしていた。「こんなに大勢の人が信心しているんだ」と思った。
 そして、戸田と伸一の、堂々たる姿を間近に見た。心強さを覚えた。
 翌二十五日、仙台市公会堂での支部総会は、熱気に満ちあふれていた。「御本尊への唱題以外に幸福になる道はない!」と力説する戸田の言葉を、頬を紅潮させながら聴いた。”一人残らず幸せにしてみせる”という勢いが、ほとばしっていた。
 気迫の強さが、人の魂に激しい衝撃を与え、覚醒をもたらす。
 彼女は、本気で信心してみようと思った。
5  求道(5)
 斉間恵は、弘教への挑戦を開始した。仙台から福島県の郡山まで行き、結核で寝たきりの若い女性に、涙ながらに仏法を語った。だが、理解が得られず、自らの非力を痛感したこともあった。また、ある大雨の日、先輩と一緒に友人の家へ仏法対話に出かけた。長い山道を、破れた傘を差して歩いた。膝から下は泥だらけになっていた。その姿を目にした友人は「ここまでして私のために、仏法の話をしに来てくれたのか」と感動し、入会を決意した。
 学会活動では、悔しい思いをすることもある。しかし、友が発心した時の喜びもまた、限りなく大きい。青年時代の、その体験が、生涯にわたる信仰の堅固な礎となる。
 信心を始めて一年ほどしたころ、母が体調を崩した。病院へ行くと、癌と診断された。「余命一年」と言う。母の実母が亡くなった時と、母は同じ年代であった。宿命を感じた。
 「お母さんも、信心をしようよ。仏法の力で、宿命を乗り越えていこうよ」
 彼女の懸命な訴えに、母は入会した。
 母子で真剣な唱題が始まった。母は、歓喜が込み上げ、生命力がみなぎるのを感じた。やがて、容体は好転し、日ごとに元気になっていった。医師は、病状の変化に首をかしげた。精密検査をすると、癌はなかった。母子で手を取り、感涙にむせんだ。
 最初の診断が誤りであったのか。正しければ、なぜ、健康を回復したのか。なぜ、癌がなかったのか──医学的なことはわからなかった。しかし、ともかく窮地を脱したのだ。これが彼女の実感した初信の功徳であった。
 斎間が山本伸一と身近に接したのは、一九五五年(昭和三十年)九月、東京・世田谷区の日大グラウンドで行われた、第二回青年部体育大会「若人の祭典」でのことである。
 彼女は東北の地から、この体育大会に参加し、競技に出場した。その競技は、ピストルの音を合図に走りだし、途中に置かれた紙を手にし、そこに書かれた指示通りに行動し、ゴールするというものであった。
6  求道(6)
 競技に出場した斉間は、全力疾走して、コースに置かれていた紙を取った。「山本室長に割烹着を着せて、姉さん被りをさせ、ホウキ、ハタキを持たせる」と書かれていた。
 さらに走ると、さまざまな衣服や用具が置かれていた。斉間は、指定された衣服と用具を探し出し、それを持って幹部のいるテントに急いだ。ところが、伸一の姿はなかった。
 ”どうしよう……”
 中央に、会長の戸田城聖が座っていた。
 「あのー、山本室長は、どこにいらっしゃるか、ご存じありませんか!」
 思わず戸田に尋ねていた。
 彼は、柔和な笑いを浮かべて答えた。
 「この後ろにおるよ」
 戸田が指さした紅白幕の後ろに行くと、伸一は役員の青年たちと、賞品を分けていた。
 斉間は、叫ぶように言った。
 「室長。これを着て走ってください! 早く、早く!」
 「わかった。大丈夫だよ」
 落ち着き払った伸一に、焦りを感じながら、割烹着を着せ、姉さん被りをさせた。
 伸一は、「さあ、行くよ!」と、笑みを浮かべて言い、走りだした。快足であった。なんと、一等でゴールしたのだ。賞品をもらうためにテントの前に並ぶと、彼は言った。
 「申し訳ないが、私は戻ります。あなたは、どこからいらしたの? お名前は?」
 斉間が、仙台から来たことを告げ、名前を言うと、「あなたのことは覚えておきます。東北の広宣流布のために、しっかり頑張ってください」と励ましてくれた。
 彼女は、“学会の本流に触れ、何かを吸収しよう”と、翌年の体育大会にも、戸田が「原水爆禁止宣言」を発表した翌々年の体育大会にも、喜び勇んで参加した。
 草木が地中の養分を懸命に吸い上げて生長するように、求道の熱意は信心の大いなる成長を促す。求道あるところに、勝利もある。
 そして斉間は、成長の年輪を刻み、東北女子部の中核へと育っていくのである。
7  求道(7)
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年の一九六一年(昭和三十六年)五月、斉間恵は、女子部東北第一部長の任命を受ける。夜汽車に揺られ、青森県の八戸、岩手県、宮城県など、広大な天地を駆け巡った。
 ”友が自分を待ってくれている!”
 そう思うと、いつも、各駅停車の遅さに、もどかしさを感じるのだ。
 彼女は、女子部の活動を通して、信仰観ともいうべきものが、大きく変わっていった。入会当初は、母の母親、父の父親の若死にから、一家の宿命を感じ、その転換という功徳を願っての信仰であった。
 しかし、次第に、人びとの幸福の実現を願い、広宣流布に生きること自体が、自身のこの世の使命であり、そのなかに、生命の躍動と歓喜があり、真の幸福があると、実感するようになっていった。それは、自分や家族のみの幸せを願う利己的信仰から、自他共の幸せを願う信仰への昇華であった。また、「なんのために生きるのか」という人生の確たる目的の確立でもあった。女子部時代に学会活動に励むことの大きな意味もそこにある。
 結婚した彼女は、女子部を卒業し、六五年(同四十年)には、タテ線時代の支部婦人部長となる。二歳と三歳の幼子を連れて、日々、学会活動に励んだ。
 彼女の支部は、仙台駅前の繁華街が中心であった。支部の人たちは、皆、さまざまな悩みをかかえていた。夫婦の不和、病気、子どもの非行……。女子部出身で三十歳を超えたばかりの、人生経験の乏しい彼女には、荷が重かった。何を言えばよいのかも、わからなかった。緊張のあまり、的外れなことを口走ってしまったこともあった。
 婦人部員の家庭を訪ねて、個人指導することが怖かった。そんな時、かつて文京支部長をしていた田岡治子が、仙台第一総支部婦人部長に就き、東京から指導に通ってくれた。多い時には月に二十日間も滞在して、こまめに個人指導に歩いた。斉間は、道案内をしながら、激励・指導の基本を学んでいった。
8  求道(8)
 田岡は、個人指導に行く前に、懸命に唱題した。全身に生命力が満ちあふれるまで、仏壇の前を離れぬという気迫のこもった唱題であった。
 彼女は、婦人部員の家庭を訪問すると、満面の笑みで包み込むように語りかけ、相手の悩みを聞き出していった。そして、真剣に耳を傾け、時には深く頷きながら、目に涙さえ浮かべるのであった。
 それから、諄々と、仏法の偉大さを、御本尊の絶対の力を訴えるのである。信心の姿勢に誤りがあれば、明快に、率直に、歯に衣を着せずに指摘した。そこには信心への大確信と、相手を思う慈悲の一念があふれていた。
 最後には、唱題や弘教など、具体的に実践すべきことを示し、再会を約すのである。
 田岡は、個人指導した人の家には、斉間を連れて、再訪問した。すると、実に見事な結果が出ていた。必ずといってよいほど、皆が悩みを克服しているのだ。
 斉間は、最初、田岡と接した人たちが、とても人には言えないような、深刻で複雑な悩みを打ち明けることに、不思議さを感じた。しかし、一緒に激励・指導に回るなかで、田岡の”この人と同苦しよう!”という真心の一念が、相手の心に響いているからであることに気づいた。また、個人指導は、信心の歓喜と確信を呼び覚ます、火花を散らすような生命と生命の打ち合いであり、壮絶な魂の格闘であることを痛感していった。
 先輩と後輩が共に活動するなかで、後輩は、折伏・弘教、個人指導などを習得していく。”共戦”という実践なくして、本当の人材の育成はない。
 斉間も、田岡のようになりたいと強く思った。田岡に教えられたように、唱題に唱題を重ね、体当たりでぶつかる思いで、個人指導に取り組んでいった。
 日々、家庭訪問を自らに義務づけ、実践を積むにつれて、個人指導に対する怖さも、苦手意識も、次第になくなっていった。
9  求道(9)
 伸一は、斉間が東北婦人部のリーダーとして大成していくように心を砕き、折々に激励を重ねてきた。彼女は、その励ましを支えにして、人生の試練に出遭うたびに、信心で乗り越え、仏法への確信を強めてきた。そして、一九七六年(昭和五十一年)六月には、宮城県婦人部長となり、同年十二月に東北婦人部長に就任したのである。
 その斉間とコンビを組む、東北婦人部書記長の野崎裕美は、幼少期を東京で過ごした。
 彼女が四歳の時、戦争で父は不帰の人となった。母一人子一人の生活が始まった。
 東京の空襲が激しくなると、裕美は群馬県へ学童疎開し、母は神奈川県にあった父の実家に身を寄せた。
 戦後、二人は、福島県にある母の実家に移り住んだ。やがて、母は単身、仙台に行き、ソバ屋を始めた。必死に働いて、裕美を、高校、短期大学へと進学させた。
 母は過労もあってか、胃潰瘍になり、ソバ屋の経営も行き詰まり、税金も払えない状況になってしまった。苦悩から逃れたいと宗教を遍歴したが、床に伏している日が続き、生活は、ますます困窮していった。
 短大に進んだ裕美は、栄養士の資格を取り、卒業後は、仙台で母と一緒に暮らした。それが母の希望でもあった。しかし、仙台では、思うような就職先が見つからず、不本意ながら、炭鉱会社に勤め、雑務を担当した。
 母子共に、不安と不満をかかえて日々を過ごしていた。そのなかで、母が知人から仏法の話を聞いて入会したのだ。ほどなく、裕美も信心を始めた。「祈りは必ず叶います」との確信にあふれた言葉に決意を固めたのである。五五年(同三十年)七月のことであった。
 入会を機に母は見る見る元気になり、喜々として洗濯に精を出す姿を目の当たりにした。暗かった未来に、ほのかな明かりが差した。
 信仰とは、心に”勇気の灯”をともし、暗夜に「希望の光」を生み出す力である。
10  求道(10)
 野崎裕美は、入会半年後の一九五六年(昭和三十一年)正月、登山会の折に、仙台から共に参加した数人の女子部員と、初めて第二代会長の戸田城聖と会った。冬の寒い日であった。戸田は、「仙台から来たのか」と言って、売店でソバを振る舞ってくれた。湯気の立ち上るドンブリを、かじかんだ指で持ち、ふうふう言いながらソバをすすった。
 戸田は、一緒にソバを食べながら言った。
 「温かいな。みんなの心も、このソバ汁のように温かくなければいけない。特に青年は、親孝行のできる温かい心、大きな心をもたなければならぬ。親を愛せないようでは、人を救うことなど、できるわけがないよ」
 その言葉は、裕美の胸に響いた。当時、彼女は、仙台で希望する仕事に就けなかったことから、悶々とした日々を送り、絶えず母親とぶつかっていた。
 「仙台に来なければ、もっといい仕事があったのに、母さんが帰って来いなんて言うから、こんなことになったのよ」
 そんな言葉を母に浴びせていたことが、戸田に見透かされてしまった気がした。
 彼女は、女手一つで育ててくれた母への、感謝を忘れていた自分を恥じた。また、自分の思い通りにならないと、人のせいにしてしまう生き方を反省した。
 「人の世に生まれて、すこやかに生い立つまでは、人の恩を受ける事いかばかりぞ」
 これは、山本伸一が交流を結んだ東北出身の作家・野村胡堂の言葉である。
 裕美は、真剣に信心に励んだ。そして、一九五七年(同三十二年)、東北大学医学部付属病院に栄養士として就職することができた。
 翌年、四月二日、戸田城聖が逝去した。深い悲しみに沈んだ。また、念願であった栄養士の仕事に就いたものの、残業の連続で、学会活動との両立が大きな悩みとなったのだ。さらに、母親も胃潰瘍を再発したのである。
 心に暗雲をかかえながら、時間を絞り出すようにして学会活動に参加した。
11  求道(11)
 五八年(昭和三十三年)六月、山本伸一は、新設された総務に就任する。学会でただ一人の総務である。それは、第二代会長・戸田城聖亡きあと、理事長の小西武雄を支えながら、事実上、全学会を担い、一切の指揮を執ることにほかならなかった。
 彼は、総務に就任するや、深い悲しみに沈む全国の同志の激励に回った。北海道へ、関西へ、信越へ、九州へ、中部へ、東海道へ。そして、東北にも励ましの歩みを運んだ。 
 十一月一日から三日にかけて、秋田、青森を訪問。さらに十九日には、福島支部の結成大会へ。翌二十日は、学会が建立寄進した寺の落慶入仏法要や秋田支部山形地区結成大会に出席するため、山形を初訪問した。
 この時、野崎裕美も諸行事の女子部役員として、仙台から応援に駆けつけたのである。
 伸一は、寺の落慶入仏法要が終わると、次々と役員の青年たちに、声をかけていった。
 野崎には、こう励ました。
 「ご苦労様! 何があっても負けないで、これからも、しっかり頑張ってください」
 さらに彼は、青年たちと共に、近くを流れる馬見ケ崎川の河原に立った。既に、夜の帳が下り、空には月天子が輝いていた。
 「みんなで歌を歌おうよ」
 「月の沙漠」などを、声を合わせて歌った。
 伸一は、多くの女子部員がいることから、「人生の並木路」を歌おうと提案した。
 この歌は、三七年(同十二年)に公開された映画「検事とその妹」の主題歌である。両親を亡くした兄妹が互いに支え合い、健気に生きていく姿を描いた作品であり、歌には、妹を思う兄の心情が託されている。
  生きてゆこうよ 希望に燃えて
  愛の口笛 高らかに
  この人生の 並木路  (作詞・佐藤惣之助)
12  求道(12)
 「人生の並木路」の歌声が、月天子の微笑む晩秋の夜空に流れていった。
 野崎は、歌いながら、“自分は一人じゃないんだ!”と感じ、心強さを覚えた。そして、山本伸一という若き闘将と共に、広宣流布に生きる喜びが胸に込み上げ、思わず目頭が熱くなった。
 母の胃潰瘍や、仕事と学会活動の両立などで、押しつぶされそうになっていた自分の心が、蘇っていくような気がした。
 歌は、心を癒やし、希望を呼び覚まし、闘う魂を鼓舞する。歌声には大力がある。
 彼女の苦闘は続いた。しかし、野崎は負けなかった。伸一をはじめ、皆で歌った「人生の並木路」を思い起こし、口ずさみながら活動に励み、女子部のリーダーへと成長していった。
 女子部の部長をしていた一九六一年(昭和三十六年)、東北女子部総会の開催が決まった。彼女は、この時、全女子部員の数だけは、結集しようと決意した。
 懸命に唱題に励むとともに、何カ月も前から、毎朝、出勤前に部員宅を訪問し、総会の意義と女子部の使命を真剣に語っていった。
 “広宣流布の活動のなかで、ひとたび決めた目標は、何があっても必ず達成する!”
 それが、彼女の信条であった。
 また、一人ひとりを、最愛の妹と思って接していくように努めた。自分も、「人生の並木路」を歌って励ましてくれた伸一の心を、心として生きようと、決めていたのだ。
 だから、家庭訪問の折には、それぞれの悩みに耳を傾け、「この活動に挑み勝って、悩みを克服しましょう」と訴えた。信心の勝利は、必ずや人生の勝利となるからだ。
 そして東北女子部総会では、未入会の友を含め、全女子部員数を上回る結集を成し遂げた。場内だけでは参加者を収容することができず、終了後には場外でも指導会がもたれた。
 女子部時代に培った、この勝利への執念が、彼女を強くし、何があっても負けない心を磨き上げていった。祈りの力と粘り強い行動があれば、絶対に事態は開けるとの確信も得た。それが、彼女の信心の素地と幸福の骨格を、形づくっていったといってよい。
13  求道(13)
 野崎が、常に心がけていたことの一つは、求道ということであった。
 東北のメンバーは、地理的な条件もあり、東京などに比べて、どうしても最高幹部との接触の機会が少なかった。彼女は、それによって、学会本部との心の距離も、遠くなってしまうことを憂慮し、どうすべきかを考えた。
 伸一が第三代会長に就任した時、野崎は決意する。
 ”会長の山本先生を広宣流布の師と定め、しっかり呼吸を合わせていこう。そのためには、まず私自身が、最高幹部の方々に体当たりして指導を受け、少しでも先生の心を知ろう。そして、皆に、絶えず清新の息吹を伝えていけるようにしよう”
 彼女は、仙台駅を通る幹部がいると聞けば、駅で待っては指導を求め、それを皆に伝えた。やがて、東北女子部は、「自分たちは、本部と直結しているのだ」という自覚と誇りをもつようになっていった。
 また、野崎は、学会本部にも足しげく通っては、指導を受けた。そのなかで、彼女自身が、大きく成長していった。
 求道心を失った時、信心の向上は止まり、慢心に侵され始める。仏法者とは、永遠の求道者であらねばならない。そこに、人間革命の道があるのだ。
 彼女は、教員の男子部員と結婚し、その後、婦人部に移行する。婦人部でも次第に頭角を現し、一九七六年(昭和五十一年)には、東北婦人部の書記長兼任で、斉間恵の後を継いで宮城県婦人部長に就いたのである。
 斉間と野崎は、結婚後も幾度となく人生の試練にさらされた。しかし、女子部時代から苦労して学会活動に励み、自分を磨き鍛えてきた二人は、決して挫けることはなかった。
 生きるということは、宿命との壮絶な格闘といってよい。それに打ち勝ってこそ、幸せはある。勝つか、負けるか──その避けがたき現実を直視する時、信仰という生命の力の源泉をもち、何ものにも揺るがぬ人間の芯を確立する必要性を、痛感せざるを得ない。
14  求道(14)
 斉間恵は、几帳面で冷静であり、野崎裕美は、朗らかで常に明るさを失わなかった。
 その二人が力を合わせ、東北広布の新しい牽引力になろうとしていたのである。
 七八年(昭和五十三年)五月二十七日の午後――東北平和会館で、婦人部の桜の記念植樹に臨んだ山本伸一は、笑みをたたえて、婦人たちに語った。
 「桜は、長い冬に耐え、春を迎え、美事な美しい花を咲かせます。桜は、『冬は必ず春となる』との御聖訓を、象徴しているといえるかもしれません。
 東北の婦人部の皆さんは、どんなに苦しいことや辛いことがあったとしても、必ず信心で乗り越えて、この桜のように、幸せの花を満開に咲かせていってください」
 伸一は、会館の庭に設置された歴代会長の文字を刻んだ碑の除幕式や、館内の視察などのあと、東北六県の代表幹部との懇談会に出席した。彼は、冒頭、参加者に最大の敬意を表しながら語った。
 「広宣流布の戦いを起こし、『止暇断眠』『不惜身命』の言葉のままに、風雪に耐え、盤石な東北創価学会を築かれた皆さんを、私は心から賞讃いたします。『風雪の幾山河』といいますが、皆さんの戦いは、文字通り、激しい吹雪をついての前進であられた」
 伸一は、東北の同志が、どれほど大変な思いをしながら、地域広布の道を切り開いてきたかを、よく知っていた。
 雪の中を泳ぐようにして、弘教に、同志の激励に歩いた壮年の体験も聞いた。集落中から信心を反対され、村八分同然の扱いを受けながら、笑顔を絶やさず、周囲に信頼の輪を広げ、一人、二人と、弘教を実らせていった婦人の話も耳にした。
 まさしく、御書に仰せの通りに、広宣流布を進めてきた勇者たちである。
 この方々を地涌の菩薩といわずして、どこに、地涌の菩薩の出現があるというのだ。どこに、仏の使いがいるというのだ。
15  求道(15)
 山本伸一は、草創期以来、東北の同志を、じっと見続けてきた。そのなかで実感してきたことは、どんな困難に遭遇しても、決して弱音を吐かないということであった。
 東北の人びとは、冷害をはじめ、チリ津波など、さまざまな災害に苦しんできた。
 しかし、彼らは、「だからこそ、御本尊がある!」「だからこそ、地域中の人たちを元気づけるために、俺たちがいる!」「だからこそ、広宣流布に一人立つのだ!」と、そのたびに、一段と闘魂を燃え上がらせてきた。
 苦難の烈風に叩きつけられ、倒れ伏した大地から、敢然と頭を上げ、立ち上がる姿をもって、学会への理解と共感の輪を広げてきたのが、東北の同志である。
 この宝友たちが示した信仰の最大の実証とは、「蔵の財」を得て、物欲を満たすことではなかった。「人は、ここまで強くなれるのか! ここまで他者を思いやれるのか!」という、人間のもつ、まばゆいばかりの生命の輝きをもって、「心の財」をもって、真実の仏法の力を証明してきたことだ。
 日蓮大聖人は、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せである。仏法という大法は、人間の生き方、行動のなかにこそある。
 伸一は、そうした東北の同志を思うにつけ、東北広布は、やがて一段と加速し、”広布模範のみちのく”が現出することを、強く確信するのであった。
 彼は、懇談会で訴えた。
 「また次の新しい十年をめざして、共に広宣流布の峰を登攀していこうではありませんか。新しき歩みから、希望が生まれます。
 前途には、当然、猛吹雪の日もあるでしょう。大聖人は、『大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし』と言われている。大難に出遭うことは、信心を試されているということなんです。『大難なくば法華経の行者にはあらじ』です。大難と戦うことは、正義の道を征く者の宿命です。決して恐れてはなりません」
16  求道(16)
 懇談会のあと、山本伸一は、東北平和会館の管理者室にも行き、語らいのひと時をもった。さらに、会議室で岩手県から参加した代表とも懇談した。
 彼は、岩手の幹部の報告に耳を傾けたあと、力を込めて訴えていった。
 「岩手県は、面積も広い。旧習も深く、学会への誤解や偏見の壁も厚いかもしれない。何かと苦労が多いことは、よくわかっています。
 だからといって、万が一にも、「広宣流布が進まなくても仕方がない」といった「あきらめ」の心があれば、本当の力は出ません。その一念が、根本的な敗因になっていきます。まず、”あきらめ”という”一凶”を打ち破っていくことから戦いは始まります。
 そのうえで、県の実情、地域の現実に即して、岩手は岩手らしく希望の未来図を描き、明確な目標を定めて進んでいくんです。
 日蓮大聖人は、『其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ』と仰せです。自分が御本仏から、その地域の広宣流布を託されたのだという自覚に立つことです。そうすれば力が出ます。
 岩手県は、実に多彩な人物を輩出している、人材の宝庫です。
 牧口先生とも縁があり、国際連盟事務局次長を務めた教育者で農政学者の新渡戸稲造。政治家では、初の平民宰相として知られる原敬、東京市長も務めた後藤新平、首相の斎藤実、米内光政。文学の世界では、歌人の石川啄木、詩人の宮沢賢治。言語学者の金田一京助もそうです。厳しい岩手の風土が、人材を育てるんです。
 学会にも、無名だが、数多の大人材がいます。同志が誰もいない山村で、周囲の反対のなか、健気に信心に励んでいる人も多い。皆、民衆の勇者です。その人たちの奮闘が、未来を創り、時代を大きく開いていきます。
 したがって幹部の皆さんは、一人ひとりを大切にし、粘り強く励まし、一騎当千の闘将を育ててください。岩手広布は、私の念願です。近々、必ず岩手にお伺いします」
17  求道(17)
 どの県、どの地域にも、繁栄の花を咲かせ、幸せの果実を実らせることが広宣流布である。伸一は、その前進のために、県ごとに、さらには市町村ごとに、細かく光を当て、人材を育もうと、少しでも時間があれば、皆と懇談するように努めていたのである。
 初夏の太陽を浴びながら、風にそよぐ青葉に、希望が躍っていた。
 五月二十八日の午後、伸一は、東北平和会館での宮城県幹部会に出席した。
 彼が、会館の構内を歩いていると、門の外で、「先生!」と呼ぶ声がした。
 そこにいたのは、中津川美恵という大ブロック担当員と、彼女の紹介で入会した壮年、そして、ブロック長、ブロック担当員(後の白ゆり長)であった。
 「どうぞ、どうぞ、中へお入りください」
 伸一に促され、四人は構内に入った。
 中津川は、頬を紅潮させて、壮年の一人を紹介した。
 「先生。こちらは、私と同じ会社にお勤めなんですが、入会を決意され、本日、晴れて御本尊をいただくことができたんです」
 「そうですか。おめでとう!」
 伸一は、その壮年に、「何があっても、しっかり信心に励んで、必ず幸福になってください!」と言い、皆と握手を交わした。
 中津川は、目を潤ませながら報告した。
 「昨年の夏、長男が会館の職員に採用され、広宣流布に生き抜く決意を固めております。亡くなった主人も、きっと大喜びしていると思います。本当にありがとうございました」
 彼女の夫は、一九六四年(昭和三十九年)、病のため、四十四歳で他界した。子どもは、小学六年の長男を頭に、三人いた。
 信心していた夫が、若くして他界したことから、心ない言葉を浴びせる人もいた。
 「先祖代々の宗教を捨てて、学会なんかに入ったからだ!」
 悔しかった。でも、彼女は挫けなかった。人間の強さを引き出す力こそ、仏法である。
18  求道(18)
 夫は、病床で息を引き取る前に、彼女の手を取って言った。
 「大変だろうが、子どもたちを頼む。誰からも後ろ指をさされることのない、立派な子どもに育ててくれよ。頼んだぞ……」
 「わかりました。きっと、誰からも信頼される立派な人に、信心の後継者に育てます」
 夫を送った美恵は、心に誓った。
 ”主人との約束は絶対に果たす。何があっても、強く、強く、生き抜こう。私には御本尊がある。山本先生の、学会の指導通りに信心を貫き、必ず幸せになってみせる!”
 彼女は、運命の嵐のなかで、敢然と立ち上がった。鉄工所の事務員として働きながら、子どもたちを育てた。
 子ども三人が、皆、学校に行くようになると、生活は苦しさを増した。しかし、歯を食いしばって働き、学会活動にも奔走した。
 ”人一倍努力することは、人間として当然だ。しかし、福運がなければ、その努力も実を結ぶことはない。福運をつける道は、信心以外にはない”
 母親が身を粉にして働いていることを目にしてきた子どもたちは、高校や大学に進学したいとは、なかなか言い出せなかった。しかし、意を決して自分の希望を打ち明けると、「うん、大丈夫よ」との言葉が、笑顔とともに返ってくるのだ。
 苦労はさせたが、長男は大学を卒業した。長女も高校までは行かせることができた。次男は、この一九七八年(昭和五十三年)の五月には大学三年生になっていた。
 中津川は、できることなら伸一に会って、亡くなった夫のことや、子どもたちのことを詳細に報告し、心から御礼を言いたいと思っていた。その千載一遇の機会が、突然、訪れたのだ。しかし、伸一を目の当たりにすると、ひとこと報告するだけで精いっぱいであった。ただ、涙ばかりがあふれてくるのだ。
 涙は、太陽の光に照らされれば、銀の真珠となり、時に黄金の光彩を放つ。信心ある限り、苦闘は、燦然たる人生の栄光となる。
19  求道(19)
 伸一は、中津川を包み込むように笑顔を向けた。 
 「あなたは、ご主人亡きあと、立派に子どもさんを育ててこられたんですね。すごいことです。勝ちましたね。母は偉大です。今日は、この東北平和会館でゆっくりしていってください。皆さんの会館ですから。一緒に幹部会にも参加しましょう」
 すると、中津川は、困惑した顔で答えた。
 「でも、今日の幹部会は、支部婦人部長以上の方が対象だと伺っております。私は大ブロック担ですから、参加することができないんです」
 「大丈夫です。私がお願いし、許可してもらいますから、心配ありません。さあ、一緒に行きましょう」
 幹部会参加者のほとんどは、既に会場に集合していた。
 伸一は、会館のロビーに入ると、女子部の「白蓮グループ」の労をねぎらい、駆けつけてきた男子部の参加者にも声をかけた。
 ”一人でも多くの人と、言葉を交わして励まそう”──それが、彼の決意であった。
 伸一は、いかにして組織に、温かい人間の血を通わせるかに、心を砕いていた。
 物事を効率よく進めるために、組織では、いきおい、合理性の追求が最優先される。すると、すべては画一化され、次第に、その運営も、形式化、官僚化していく。
 人間は百人百様の個性をもち、顔かたちも違えば、性格も全く異なる。その人間を画一的な枠に押し込めようとすれば、人びとの多様な個性は生かされず、組織から人間性の温もりは失われ、無味乾燥な冷たいものになってしまう。しかし、組織が多くの人びとを擁している限り、どうしても、合理的に運営していかざるを得ない面もある。
 そこで大事になるのが、一人ひとりに光を当て、各人を大切にしていく実践である。つまり、個別的な一対一の信頼関係を、組織のなかにつくり上げていくのだ。
20  求道(20)
 創価学会の組織は、広宣流布のためにある。つまり、一人ひとりが信心の向上を図るとともに、人びとに仏法を教え、自他共の幸福を築き上げていくためのものである。
 いわば、人間を、個々人を、守り、育むのが学会の組織であり、その責任を分かちもち、担うために役職がある。したがって、役職は人間の上下の関係ではない。万人が皆、平等であるというのが、仏法の教えである。
 常に、その原点に立ち返り、励ましと信頼によって、人と人とが結ばれていくならば、組織の形式化や官僚化という弊害を打破していくことができよう。
 宮城県幹部会は、勤行のあと、幹部あいさつ、合唱などが続き、伸一の指導となった。
 この日、彼が強く訴えたのは、「学会と、同志と、苦楽を共にせよ」ということであった。
 「苦しい時に励まし合い、苦難を乗り越え、そして、一緒に楽しみを満喫して生きる─そこに、深く、強い人間の絆が生まれます。
 師弟も、師と弟子が苦楽を共にしていくなかで、金剛の絆がつくられていきます。
 日蓮大聖人の御生涯は、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難、佐渡流罪をはじめ、『其の外の大難数をしらず』と言われているように迫害の連続でした。
 その大聖人に常随給仕され、本当に苦楽を共にされたのが日興上人です。また、四条金吾も、竜の口の法難では、「もし、大聖人が頸を刎ねられるならば自分も命を捨てよう」との覚悟で、馬の轡に取りすがり、お供をしています。師弟の結合の強さとは、苦楽を共にしようという、同苦の心の強さであるといっても過言ではありません」
 また、大聖人は、「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし」と仰せになっている。
 大聖人は、一切衆生を大苦から救うために大難に遭われている。”恩を知るなら、大聖人に代わって、二つのうち一つは杖で打たれるべきではないか”と、同苦のなかに真の人間の道があることを教えられているのだ。
21  求道(21)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「師弟だけでなく、同志も、夫婦も、兄弟も、苦楽を共にしていくなかで結合の度を増し、精神の美しき輝きを放っていきます。
 創価学会の同志愛、団結の強さの要因も、そこにあるんです。
 広宣流布の活動では、正念場となるような苦しい激戦もあります。その時に、歯を食いしばりながら、『頑張ろう!』『負けるな!』と、互いに励まし合い、勝利の旗を掲げ続けてきた同志の絆は強い。永遠の友情が培われています。
 また、友のなかには、病苦、経済苦、家庭不和など、さまざまな悩みをかかえ、苦しんでいる人がたくさんいます。家族や親戚からも、見放されてしまった人もいるでしょう。
 私どもには、その友の悩みに耳を傾け、幸せを願い、仏法を教えていく使命があります。事実、私たちは、そうしてきました。時には、共に涙し、共に御書を拝し、共に祈り、粘り強く激励の対話を重ね抜いてきま
 した。そのなかで、多くの方々が信心で立ち上がり、苦悩を克服してきたんです。友を励ましてきた人は、苦悩を分かち合った分だけ、喜びも分かち合い、信心の確信も増し、大きな功徳を実感しています。
 一方、励まされた人にとって、最も苦しかった時に、同苦して自分を激励・指導してくれた同志の存在は、無二の友であり、終生、大恩の人となっています。
 人間にとって今生の最高最大の財産は、どれだけの人と苦労を共にして励まし、信心を奮い立たせてきたかという体験なんです。したがって、何人もの、いや、何十人、何百人もの人から、『私は、一緒に悩み、祈ってくれたあの人のことを、生涯、忘れない』『あの人がいたから、今の私の幸せがある』と言われる人になることです。それに勝る、人間としての栄誉はありません。その人こそ、最も尊貴な人間王者です。
 また、そうした個人指導によって結ばれた人間の輪が、学会の組織なんです」
22  求道(22)
 参加者は、真剣な表情で、伸一に求道の視線を注いでいた。
 彼は、場内を見渡した。青年時代に共に戦った多くの人たちの顔があった。皆、幾筋もの皺が刻まれ、白髪も目立っていた。
 彼は、健康の問題についても、触れておこうと思った。
 「特に壮年部の皆さんに申し上げたいことがあります。それは、くれぐれも体を大切にしていただきたいということなんです。
 壮年になり、しかも、五十代、六十代となった場合には、心はいくら青年でも、体はそうはいきません。したがって、『健康第一』を心がけてください。そして、”広宣流布のために、体を頑健にしてください。また、必ずそうしていきます”と、御本尊に強盛な祈りを捧げていくことです。
 地涌の菩薩である大勢の会員を守り、仏法の偉大さを証明するためにも、皆さんには、健康であり続けていただきたい。自分の体は、よく自分で調整し、人生を楽しみながら、生き抜いてほしいんです。
 ”少し疲れたな”と感じることがあるでしょう。ちょっと早く休めば回復をするのに、”私は信心強盛だから大丈夫だ!”と言わんばかりに無理をしてしまう。それは、心のどこかに見栄があるんです。無理をした結果、ますます疲れがたまり、結局、半年、一年と寝込んでしまうということもあります。
 たとえば、血圧が高いとします。その場合には、『信心で治す。医者には行かん』なんて言っていないで、速やかに医師の診察を受け、指示に従い、健康管理に努めるべきです。
 もちろん、祈りは大事です。祈りを根本にすれば、医師は偉大なる諸天善神の働きをするからです。でも、疲れ切った時には、題目三唱で終わらせることがあってもいいんです。
 早期に休養を取れば、早く体力は回復します。そうなれば家族も苦しまなくてすむし、同志も安心します。最も価値的に、知恵を働かせていくのが、仏法者なんです」
23  求道(23)
 日蓮大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と仰せである。人として生き、広宣流布を進めていくうえでも、必要なのは賢明さである。ましてや「創価」とは、価値創造を意味する。ゆえに、日々、価値的に生きるための、創意、工夫を重ねていくのが、学会員の在り方といえよう。
 ここで、山本伸一は、長年、未入会であった夫が、病を契機に信心を始めたという、ある婦人部幹部一家の話を紹介し、一家和楽の信心について言及していった。
 「信心している人が懸命に祈っていけば、未入会のご家族も、いつか、必ず信心に励むようになります。決して、焦る必要はありません。
 家族みんなが、信心強盛であることが、いちばんいいのは当然ですが、ご主人が、あるいは奥さんが未入会だというケースもあるでしょう。一家のなかで、自分だけが信心し、奮闘されている方もいるでしょう。
 なかには、自分が幹部で、子どもさんが一生懸命に信心していないことから、「幹部として恥ずかしい。皆に申し訳ない」と、何か後ろめたい思いでおられる方もいるかもしれない。また、「幹部なのに……」と厳しい目で見ている人もいるかもしれない。
 しかし、負けてはいけません! 決して恥じることはありません。全部、深い意味があるんです。要は、子どもさんが信心に励み、幸せになれるように、強盛に祈り、日々、真剣に努力し抜いていくことが大事なんです。
 むしろ、子どもさんのことで、確信を失い、元気が出なくなってしまったり、学会活動に対して遠慮がちになってしまったりすることの方が問題です。それこそが、魔に破られてしまっていることだからです。何があろうが、めげたり、萎縮してしまったりすることなく、大生命力をみなぎらせ、堂々と胸を張って、戦うんです。そして、周囲の若い後継の世代を温かく励まして、全力で育成していけばいいではありませんか!」
24  求道(24)
 大航海には、当然、風雨も、波浪もある。人の生涯もまた同じである。
 幹部になったとしても、人生にあっては、さまざまな困難に直面するものだ。病魔と闘い続けねばならぬこともあろう。事業に失敗したり、失業したりすることもあろう。家庭不和で悩むこともあるかもしれない。
 人間が四苦八苦を免れがたい限り、”苦悩との闘争”が生きるということなのだ。だから、さまざまな悩みがあることは、決して恥じるべきことではない。苦悩をかかえた、ありのままの、裸のままの自分でよいのだ。
 大切なことは、どんな時にも、負けない、挫けない、たじろがない強さをもつことである。意気揚々と、宿命の転換をかけて、勇んで広宣流布の大道を進んでいくことだ。
 伸一は、こう話を締めくくった。
 「私の決意は、皆さん方を、断じて守り抜こうということです。皆さん方が、本当に幸福になってくださることこそが、私の念願であり、また、誓いなんです。その思い以外には、何もありません。わが宮城の名支部長、名支部婦人部長のご活躍と、ご一家のご多幸を、心よりお祈り申し上げて、私の話とさせていただきます」
 幹部会は、全男子部員による「新世紀の歌」の合唱となった。凜々しき丈夫の歌声は、やがて、場内全員の大合唱となって広がった。
 「新世紀の歌」は、東北で誕生し、全国に広がった名曲であり、東北の晴れやかな未来を象徴する学会歌である。同志の熱唱に伸一は、みちのくに昇る、希望の旭日を見た。
 幹部会が終了したあと、彼は役員などを招き、感謝の気持ちを託して、「熱原の三烈士」や「荒城の月」などをピアノ演奏した。
 その時、男子部の合唱団員が言った。
 「男子部の合唱団には、まだ名前がありません。ぜひ、名前をつけてください」
 伸一は、即座に答えた。
 「”無名合唱団”にしましょう。”無名無冠の真実の英雄”という意味です」
25  求道(25)
 そして、男子部の合唱団一人ひとりに、じっと視線を注ぎ、言葉をついだ。
 「正式名称は『宮城無名合唱団』でどうだろうか。
 諸君が社会で実証を示し、信頼を勝ち取って、偉くなり、有名になっていくことも大事です。しかし、それ自体が目的ではない。根本目的は、どこまでも広宣流布です。この世から不幸をなくし、三世永遠にわたる、自他共の崩れざる幸福を築いていくことです。
 それには、「名声がなんだ! 社会的な地位や名誉がなんだ! 民衆を守るために、一個の人間として、泥まみれになって働き抜くぞ!」という気概がなくてはならない。
 正義を貫くならば、時に王冠も剥奪され、汚名を着せられることもあります。ゆえなき罪を被せられるかもしれない。しかし、それでも、決して信念を曲げることなく、無名の王者として胸を張り、堂々と勝ち進んでいってほしいんです。それが、真の勇者です」
 続いて、女子部の代表が、伸一に言った。
 「先生。宮城県鼓笛祭の開催をご提案くださり、ありがとうございました!」
 伸一は、「女子部が希望に燃えて前進していけるように、県鼓笛祭を行ってはどうか」と提案し、それが、前日夜の東北最高会議で決定をみたのである。県単位の鼓笛祭は、全国に先駆けての開催となる。
 「日本で最初となる県の鼓笛祭です。日本中、世界中が注目しています。皆が『参加してよかった! こんなにも成長することができた』と喜び合える、大成功の鼓笛祭にしてください。そして、青年が東北広布の推進力となり、先頭に立って道を開いていくんです」
 伸一は、青年たちが、希望にあふれて前進できるように、さまざまな角度から、心を砕き続けていたのである。
 青年が、活力にあふれているところには、金色燦然たる未来が広がる。
 中国の文豪・巴金ぱきんは記している。
 「未来は若者のものであり、青年は人類の希望であり、わが祖国の希望でもある」
26  求道(26)
 まだ、戦える。力ある限り、私は行動し続ける──五月二十八日夕刻、宮城県幹部会を終えた山本伸一と峯子は、仙台市内の東北婦人会館(後の榴ヶ岡文化会舘)を訪問した。婦人部をはじめ、五十人ほどの代表との懇談会に出席するためであった。
 この懇談のなかで伸一は、宮城県創価学会と姉妹交流を結ぶ、メキシコとの親善交流などについて話し合った。彼は、未来へと夢が広がる、晴れやかな希望の語らいにしたかったのである。希望は前進の活力となる。
 懇談会が終わった時には、既に辺りは、夜の帳に包まれていた。
 伸一は、この日、どうしても行っておきたいところがあった。それは、一九五四年(昭和二十九年)の四月二十五日、仙台支部総会が行われた日の朝に、恩師・戸田城聖と共に訪れた青葉城址であった。青葉城は、伊達政宗が、伊達六十二万石の居城として、青葉山に築城した仙台城の別名である。
 伸一は、苔むした石垣に沿って、戸田と談笑しながら、坂道や階段を上っていった。東北の青年たちも六十人ほど、戸田と伸一を囲むようにして、意気揚々と歩みを運んだ。
 戸田は、楽しそうに、弟子に語った。
 「東北は青年が育っているな。青年が伸びている限り、安心だ。未来がどうなるかは、何も論じなくとも、青年を見ればわかる」
 それから、石垣の上を見て言った。
 「どこかを訪れたら、周囲を一望できる、城や丘などに立ってみることだ。すると、全体の地形がよくわかる。それは、そこで暮らしてきた人びとの心を知り、生活を理解する、大事な手がかりになるんだよ。
 牧口先生は『人生地理学』で、自然と人間生活の関係性を観察、分析されている。そして、地理的な環境が、物質的にも、精神的にも、また、諸般の生活にも大きな影響を及ぼすことを明らかにし、その因果関係の法則を解明しようとされた。すごい洞察だ。
 そのための観察の第一歩は、全体の地理を俯瞰して見ることといえるだろう」
27  求道(27)
 青葉城址の階段を上る戸田の息は、次第に荒くなり、歩調が乱れ始めた。伸一は、すぐに戸田の腕を取り、体を支えた。
 師は弟子に身を委ねながらも、上機嫌で、本丸跡をめざした。
 本丸跡は広場になっており、平服を着た伊達政宗のコンクリート像が立っていた。以前、ここには、政宗の三百回忌にあたる一九三五年(昭和十年)に設置された、彼の銅製の騎馬像があった。だが、戦時中、金属類回収令によって、銅像は撤去されてしまった。
 そして、伸一が戸田と共に青葉城址を訪れた、この前年の五三年(同二十八年)に、平服姿で立つ政宗のコンクリート像が建てられたのである。兜を被り、鎧を身につけて、刀を差した騎馬像は、戦闘的であることから、平服の政宗像になったという。
 戸田は、この立像を見上げて言った。
 「鎧兜を脱いだ政宗か……。どうも、イメージが違うな。しかし、政宗は武道だけでなく、優れた知恵をもち、世界に眼を開き、文化への関心も深かった。そう考えると、これも政宗らしいといえるのかもしれぬ」
 後の話になるが、市民の間から、政宗の騎馬像を望む声があがり、六四年(同三十九年)に騎馬の銅像が復元されている。
 青葉城の本丸跡に立つと、朝靄のなかに仙台市街が広がり、眼下には、緑に縁取られた広瀬川が見えた。戸田は、街を指さした。
 「城は街の中心部に建てることが多いが、政宗は、仙台の街づくりにあたって、中心部には商家を、南北の幹線道路沿いには町屋敷を並べ、商売上の特権も与えている。彼は、藩を豊かにするために、商業を活発化させていくことの重要性を痛感していたのだろう。
 ところが、大きな試練が襲いかかる。地震と津波だよ。それも一度だけではない。詳しいことはわからぬが、伊達藩の受けた被害は甚大であったことは間違いない。
 私は、政宗の偉さは、その試練に敢然と立ち向かっていったことにこそあると思う」
 試練は、人間の力を試し、鍛える。
28  求道(28)
 慶長十六年(一六一一年)十月、仙台をはじめ、北日本に地震が起こる。地震の被害は、それほど大きくはなかったが、大津波に襲われたのだ。三陸地方では、津波の高さが二十メートルに達し、仙台平野は、瞬く間に波にのまれていった。『駿府記』によれば、伊達領内での溺死者は五千人とある。塩害によって、農作物にも甚大な被害をもたらした。
 さらに、五年後の元和二年(一六一六年)七月にも大地震が起こり、青葉城の石垣などが崩れる。この時も津波に見舞われている。
 伊達政宗は、慶長十六年の地震・津波のあと、スペイン人の力を借りて、大型の洋式帆船の建造に着手する。この船を使って海外貿易を計画し、支倉常長らを欧州に派遣したのだ。外国との交易によって、地震・津波による窮状から脱しようとしたのであろう。
 なんとしても、仙台を復興させたいとの必死さが、彼の、世界への眼を開かせ、新しき決断を促したにちがいない。だが、幕府がキリスト教の禁教令を出したことなどから、遣欧使節の交渉は失敗に終わっている。
 なお、この遣欧使節については、政宗が、徳川討幕のために、スペインと軍事同盟を結ぶことを目的としていたとの説もある。
 ところで、支倉は、決して高い家柄の武士ではない。能力を見込んでの登用であろう。諸般の事情から、使節の目的は達せられなかったが、ここにも政宗の優れた決断がある。家柄、肩書に目を奪われることなく、人間の力を、真摯に、鋭く見すえて、人を配していく――これは、人事を行ううえで、極めて重要な観点といってよい。
 いかなる団体や社会も、真に実力ある人物を見つけ、登用することに最大の努力を払っていかなければ、激動の時代を乗り越えていくことはできない。繁栄の基は人材にある。
 政宗は、詩歌の才もあり、能や料理にも精通していた。彼は、仙台の伝統となっている七夕も、深く愛でていたといわれる。政宗のそうした素養が基盤となって、文化の薫り高い仙台が創り上げられていったのであろう。
29  求道(29)
 戸田城聖は、本丸跡から仙台市街を望み、山本伸一に語った。
 「伊達政宗は、幼少のころ、右眼を失明し、独眼竜と言われていたが、一方の目で、未来を、世界を見ていたのだ。彼の、この開明性と、家格より手腕を重視して人を取り立てたことが、藩を強化し、栄えさせる要因になったといえるだろう。
 学会も、多くの名将が育ち、力を合わせていくならば、万年先までの繁栄の基礎を築くことができる。まさに『人は城 人は石垣 人は堀』だ。広宣流布という壮大な理想の実現は、ひとえに人材育成にかかっている」
 戸田は、大きく息を吸い込むと、遺言を託すかのように、伸一を見すえて言った。
 「武人は城をもって戦いに臨んだ。今、学会は、人材をもって城となすのだ。人材の城をもって広宣流布に進むのだ!」
 その言葉は、伸一の生命に深く刻印された。
 戸田は、話を続けた。
 「人材を探すんだ。それには、人材の資質を見抜く眼をもたねばならぬ。そのために必要なことは、皆が人材であるという確信だ。
 こちらに人を見る目がなく、度量も小さいと、人の利点、力量、才能を見極めていくことはできない。曇った鏡や歪んだ鏡には、正しい像は映らぬ。同様に、曇った心、歪んだ心には、人のすばらしい才も、個性も、力量も、正しく映し出されることはない。
 だからリーダーは、常に自分を磨き上げ、公正にものを見る目を培い、境涯を大きく開いていく努力を、決して忘れてはならない」
 伸一は、戸田に尋ねた。
 「これから青年たちが、自分のもつ力量や長所をいかんなく発揮し、大人材に育っていくために、心すべきはなんでしょうか」
 「大事な質問だな。君はどう思うのだ」
 戸田は、伸一の質問に、即座に答えるのではなく、初めに伸一の考えを聞くことが多かった。自分で思索に思索を重ね、意見を練り上げることを、戸田は求めていたのだ。それが、彼の人材育成法でもあったのである。
30  求道(30)
 伸一は、戸田城聖に、理路整然と自分の意見を述べていった。
 「人材として大成していくうえで、最も重要なことは、使命に目覚めることではないでしょうか。私たちには、地涌の菩薩として、すべての人を幸福にし、世界の平和を築く、広宣流布という大使命があります。何よりも、その根本的な使命感に立つことが、自分の力を伸ばしていく最大の道であると感じています。その自覚のもと、人生の目標を定めて、月々日々の課題に挑戦していくことだと思います。自分の使命を知るならば、何事に対しても、生命の奥深くから、意欲が、情熱が、力が湧いてきます。
 次に、向上の気概をもつことであると考えます。今のままの自分で良しとし、挑戦をあきらめてしまうのではなく、『もっと自らを高めよう』『もっと前進しよう』という姿勢が大事であると思います。そこから、さまざまな創意工夫も生まれてきます。
 さらに、辛抱強く耐え抜くことの大切さを痛感しております。どんなに才能があっても、力があっても、歳月をかけて修練を積み重ねていかなければ、それが開花することも、実を結ぶこともありません」
 間髪を容れずに、戸田の声が響いた。
 「そうだ! そうなんだよ、伸一!
 第一に『使命の自覚』だ。これがないと、人生の根本目的がわからず、迷いが生じ、本当の力はでない。反対に、使命を自覚した時に、最大の力を発揮していけるものだ。
 第二に『向上心』だ。若芽が大地を突き破って、躍り出てくるように、伸びよう、挑戦しよう、前進しようという一途な心だよ。向上しようという覇気のない者は、十代であろうが、二十代であろうが、青年とはいえない。青年とは、向上心の異名といえる。
 第三に『忍耐』だよ。自分に内在する才能を磨き、輝かせていくには、長い間の修行や努力が必要だ。それまでは、何があっても辛抱強く頑張り抜くことだ」
31  求道(31)
 戸田城聖は、山本伸一の目を見すえ、熱のこもった口調で語った。
 「戦後の青年は、次第に、忍耐力が乏しくなりつつある。その傾向は、これから、ますます強くなるだろう。どんな世界にあっても、大成のためには、修行という『忍耐』の歳月が不可欠だ。その間は、辛いこと、悔しいこと、苦しいこと、悲しいことの繰り返しといってよい。
 しかし、それを乗り越えてこそ、時がくれば、花も咲き、たわわに果実が実る。途中で投げ出してしまえば、どんなに才能があっても、結局は何も実らずに終わってしまう。
 昔から、『石の上にも三年』といわれる。冷たい石でも、三年続けて座れば温まる──この粘り強さがなければ、本物には育たぬ。
 社会では、優秀な青年が、堪え性がないために、ちょっと大変なことにぶつかると、すぐに投げ出してしまうケースがよくある。私は残念でならんのだよ。だからこそ学会の青年たちには、何事からも決して逃げずに、忍耐力を磨き抜いていってほしいのだ。
 伸一。人材を育てようよ。この東北に最強の人材城を築くんだ。いや、必ずできる。忍耐強さは、東北人の特質だからな」
 ──その師弟の語らいから、二十四年の歳月が過ぎていた。一九七八年(昭和五十三年)五月二十八日、山本伸一は、伊達政宗の騎馬像が立つ、夜の青葉城址を散策した。
 仙台の街の灯が、無数の宝石となって煌めき、夜風が肌に心地よかった。
 伸一の耳朶には、「学会は、人材をもって城となす」との恩師の言葉が響いていた。
 仙台にも東北にも、数多の人材が乱舞し、創価城は、堂々たる威容を現しつつある。
 だが、御書に照らして、広宣流布の前途には、想像を絶する障魔との大攻防戦が待ち受けていることは明らかであった。
 彼は、夜景を見ながら、深く心に誓った。
 何があろうが、民衆を守るために、微動だにせぬ創価城を築き上げねばならない
32  求道(32)
 走る。力の限り走る。
 愛する友のために、命の限り、ひた走る。
 五月二十九日午後、山本伸一の活動の舞台は、宮城県から福島県へと移った。
 福島訪問は、前年の三月以来、一年二カ月ぶりである。福島では、県幹部会などの大きな会合はもたず、中核となる幹部とゆっくり懇談して、指導・激励し、未来の流れをつくることに主眼を置いていた。
 午後四時二十分、郡山市の福島文化会館(現在の郡山中央文化会館)に到着した彼は、開館一周年を記念する意義を込めて行われた、本部長ら代表幹部との懇親会に出席した。共に夕食のカレーライスを食べながらの語らいであった。
 この一年、福島の前進は目覚ましいものがあった。若い県長の榛葉則男を皆が団結してもり立て、県総会をはじめ、各種行事もすべて大成功を収めてきた。その一年の歩みは、二十枚の写真パネルにまとめられ、二階ロビーに展示されていた。
 伸一は、懇親会に参加する前、この展示を観賞しながら、榛葉に言った。
 「福島は、すばらしい足跡を残したね。会う人、会う人、皆、表情が明るく、喜びにあふれている。これが大事なんです。信心の世界の勝利というのは、ひとことで言えば、皆が歓喜をもって信心に励んでいるかどうかです。
 弘教の成果や座談会参加者数などのデータも、組織の実態を見ていくうえでは、必要です。活動の計画を練っていくうえでも、それは貴重な資料となります。
 しかし、それだけでは、とらえきれないのが、信心の世界です。
 会員の皆さんとお会いした時に、喜々として信心に励んでいるのか、なんとなく受け身になって義務感で行動しているのかを、よく見極めていくことです。そこに、組織の本当の実態があるからです。皆さんに歓喜と確信をもたらすために、学会の組織がある。また、そのために幹部がいるんです」
33  求道(33)
 伸一は、福島県の代表幹部との懇親会で、県長の榛葉則男らに、指導者論などを語り続けた。
 「若いリーダーは、ともすれば、合理的な思考法のみで、物事を進めていこうとしがちである。合理主義も大切ですが、いかに理にかなった理屈であったとしても、それだけでは、人は動かない。人間は感情の動物だからです。人は心で動くんです。
 思いやり、情愛、誠実をもって心を通わせ合う。そして信頼を勝ち取る。それがあってこそ、人は勇んで行動するようになる。
 したがって、『あの人は優秀だが、心は冷たい』と言われるような人間になってはならない。頭はクールがよい。しかし、心はホットであることだ。凍てた人間の心を、温かく包み、溶かし、蘇生させていくのが、仏法指導者なんです」
 伸一は、懇親会が一段落すると、今度は別室で役員らを激励し、さらに皆で勤行した。その後も、県幹部や各部の幹部などと話し合いを重ね、懇談は、四度、五度となった。
 翌日の午前中は、代表メンバーに贈るために、次々と歌や句を詠み、書籍や色紙に揮毫していった。婦人部の代表とも、語らいの時間をもった。そして、午後二時、次の訪問地である栃木研修道場へ向かった。
 車で福島文化会館を発った伸一と峯子は、栃木へ行く前に、郡山会館を訪れた。長年、この会館の管理者を務め、前年の三月に他界した根本孝俊の追善の勤行を、どうしても行いたかったからである。
 郡山会館は、当初、福島会館として誕生し、伸一が第三代会長に就任した翌月の一九六〇年(昭和三十五年)六月、彼が出席して開館式を行った深い思い出が刻まれた法城であった。今は、根本の妻・スエが管理者として、夫の遺志を受け継ぎ、郡山会館を守っていた。
 到着した伸一は、スエに笑顔で語りかけた。
 「今日は、ご主人の追善法要をさせていただこうと思って、訪問しました」
34  求道(34)
 根本孝俊は、前年の一九七七年(昭和五十二年)三月十七日に永眠していた。
 伸一は、その直前の三月十一日から十四日まで、福島・東北指導のために郡山の福島文化会館に滞在した。彼が出発して三日後に、根本は心不全で息を引き取ったのである。
 伸一は、滞在中、根本と忘れ得ぬ思い出を刻んでいた。夜遅く、伸一が文化会館の館内を点検して回った時、掃除機をかける壮年がいた。
 黙々と労作業に励む尊き姿に、伸一は、感動を覚えた。仏を見る思いがした。そして、合掌する気持ちで、背後から声をかけた。
 「ありがとうございます。お疲れ様です」
 メガネをかけた、その壮年が根本であった。彼は、この時、郡山会館の管理者とともに、福島文化会館の事務職員を兼務していた。
 伸一が、「私も、お手伝いさせていただきます」と言うと、彼は、強い口調で答えた。
 「いえ、とんでもないことです!」
 誰も見ていなくとも、新しい会館を守り、大事にしていこうとする彼の心意気と行動が、伸一は、ありがたかった。
 「そうおっしゃらずに、一緒にやりましょう。二人で、学会の法城を守りましょう」
 伸一は、根本の使っていた掃除機を手にし、清掃を始めた。彼は、「すみません。すみません」と言いながら、コードを持ち、あとに従った。清掃終了後、「最高の思い出です」と、口もとをほころばせた根本の嬉しそうな顔が、伸一の胸に焼きついて離れなかった。
 郡山会館で伸一は、窓の外に目をやった。
 そこには、十坪ほどの美しい日本庭園が造られ、一隅にサツキの花が咲き誇っていた。
 「美事な庭園ですね」
 根本の妻・スエの顔に微笑が浮かんだ。
 「ありがとうございます。主人が、『先生をはじめ、会員の皆さんが会館に来られた時に、少しでも心を和ませていただきたい』と言って造りました。庭造りは、通信教育で勉強しておりました」
35  求道(35)
 「よくできた庭園ですね。ご主人の真心が胸に染み渡ります。ご主人と、この庭を見ながら、ゆっくりと語り合いたかった……。ところで、この庭に名前はありますか」
 根本スエが答えた。
 「ございません」
 「それならば、『根本庭園』としましょう。私は、学会を愛し、会館を守り抜かれたご主人を、顕彰したいんです」
 「ありがとうございます。主人は、『山本先生が、全国各地に会館を建設される陰には、どんなご苦労があることか』と、よく話しておりました。そして、『草創期の先輩たちは、会合一つ開くにも会場がなく、個人のお宅で、隣近所に気を使い、神経をすり減らすようにして活動してきた。それを思うと、今はどんなに恵まれていることか。会館が各地にあることを、決して当然のように思ってはいけない』というのが口癖でした」
 「ありがたいお言葉です。涙が出ます」
 それから伸一は、峯子と共に管理者室にも足を運び、スエへの激励を重ねた。
 「ご主人を亡くされ、なかなか悲しみは拭えないかもしれません。しかし、強い心で生きることです。人は、愛別離苦という苦しみを避けることはできない。でも、あなたの心の中に、ご主人は永遠に生き続けます。
 そして、そのご主人が、どんな自分を見れば喜んでくれるかを、考えてください。
 ――嘆き悲しみ、落胆し、涙を拭い続けている自分なのか。それとも、太陽に向かって顔を上げ、ご主人の分まで、広宣流布に生き抜こうとしている自分なのか。
 あなたがめそめそしていれば、ご主人も悲しみます。しかし、悲しみの淵から立ち上がり、満面に笑みを浮かべ、広布に走る時、ご主人は喜びの涙で眼を潤ませるでしょう。“頑張っているな! 偉いぞ!”と喝采を送るでしょう。それが、ご主人への追善となるんです。強く、強く生きるんですよ」
36  求道(36)
 「信心して亡くなった方は、すぐに、この世に人間として生まれて、広宣流布の使命に生きると、日蓮大聖人は教えられているんです。既に、ご主人は、身近なところに誕生しているかもしれませんよ」
 彼女は、微笑みを浮かべ、頷いた。
 「では、広間で、ご主人への追善の勤行をしましょう」
 広間に行くと、近隣の学会員が集まって来ていた。
 「お会いできてよかった。これから、亡くなられた根本孝俊さんの追善の勤行を行います。皆さんも、ご一緒にどうぞ!」
 厳粛な勤行が始まった。伸一は、根本をはじめ、広宣流布の道半ばに逝いた全福島、全東北の同志の冥福を懸命に祈った。
 大聖人は、「今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ」と仰せである。題目こそが、故人の即身成仏の力となるのだ。
 彼は勤行を終えると、居合わせたメンバー全員と、記念のカメラに納まった。
 山本伸一の一行が、那須にある栃木研修道場に到着したのは、午後三時半であった。
 夕刻からは、栃木県の各部首脳が集っての県最高協議会が待っていた。
 協議会は、翌日も引き続き行われた。協議の末に、八月の県青年部総会や、11・6「栃木の日」を記念する県総会の開催などが決定していった。
 また、伸一は、女子部は活動が多忙であっても、絶対無事故を期すために、いかなる会合も午後八時半の終了を厳守することを確認した。幹部の打ち合わせがあっても、午後九時半には解散し、どうしても遅くなる時には、両親、家族に必ず電話を入れるなど、心配をかけないように、強く訴えた。事故が起これば、自分も、周囲の人たちも苦しむ。それを未然に防ぐために智慧を働かせていくのが、仏法者の生き方である。
37  求道(37)
 五月三十一日に東北・栃木指導を終えた山本伸一は、東京などでの諸行事に相次ぎ出席し、六月八日には、北の大地に立っていた。北海道指導の開始である。
 午後四時過ぎに千歳空港に到着した彼は、妻の峯子と共に、直ちに空港近くのレストランへ向かった。そこに、修学旅行で北海道に来ていた創価女子高校(現在の関西創価高校)の生徒たちが集っていたからだ。夜には、札幌で北海道の幹部会が控えていたが、明春、女子学園を巣立っていく乙女たちを、短時間でも励ましたいと、車を走らせたのである。
 二十分ほどであったが、創立者として伸一は、「この修学旅行の良き思い出を胸に学園生活最後の総仕上げを!」と、全力で励ました。
 それから彼は、札幌文化会館へと急ぎ、幹部会に臨み、指導した。
 「日蓮大聖人が、『今生の悦びは夢の中の夢』と仰せのように、名聞名利を求めて得られる喜びは、はかない。広宣流布の実践を通して得られる歓喜こそが、真実の喜びであります。その実践のなかでも、悩める友のもとに走り、指導の手を差し伸べていく作業こそ、今生の最高の思い出となり、黄金の歴史をつくる聖業となるのであります。
 私どもの信心は、それぞれのもつ宿命を転換し、人生を思う存分に楽しみ、幸せを満喫していくためであります。ゆえに、私どもの指導の要諦は、どこまでも、『指導即希望』『指導即確信』であることを銘記し、希望と確信を与えていってください。
 指導を受けた人が、「心から安心できる」「身も心も軽くなる」「希望が湧く」と実感し、喜々として広宣流布へ進んでいけるように、最大の配慮と激励をお願いしたい。
 指導することによって、後輩を追い込んだり、苦しめたりするようなことがあってはならない。それでは学会の指導ではありません。一人ひとりに心から愛情を込め、手取り足取り、抱きかかえるような、慈悲の指導者であっていただきたいんです」
38  求道(38)
 札幌での幹部会をもって、十六日間にわたる山本伸一の北海道指導の幕が開いた。
 彼は、この訪問では、これまでに足を運んだことのない地域も訪れ、陰で学会を支えてきた功労の同志を、草の根を分けるようにして探し、讃え励まそうと、心に決めていた。妻の峯子もまた、その決意であった。
 翌日の六月九日、伸一は、北海道文化会館で首脳幹部と協議を重ねると、午後には、厚田の戸田記念墓地公園に移動し、体当たりを思わせる激励を開始した。各部の代表や各種グループ、役員らと、次々に記念のカメラに納まり、共に勤行し、懇談。食事の時間もすべてメンバーへの指導の時間となった。
 広布に生きる同志のために、自分の時間を割くことは、仏に命を捧げることに通じる。そして、十一日午後には、墓地公園内の戸田記念広場で開催された、北海道青年部の第六回総会に出席した。
 緑の風が吹き渡るなか、集った六千人の青年男女は、瞳を輝かせて開会を待っていた。
 午後零時十分、ファンファーレが高らかに鳴り響き、開会が告げられた。
 開会の辞、北海道女子部長・男子部長らのあいさつのあと、伸一の指導となった。
 北海道は、彼が夏季地方指導や夕張炭労事件など、広布開拓と会員の厳護に心血を注いで走り抜いてきた魂の天地である。また、先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖を育んだ揺籃の地であり、師弟の三代城である。
 その北海道の、しかも恩師の故郷・厚田村に、後継の精鋭六千人が集って来たことを思うと、伸一は、熱い感動を覚えた。そして、戸田と初めて出会った約三十年前のことを、懐かしく思い起こしながら、語り始めた。
 「私は、十九歳の時に、恩師・戸田先生とお会いして以来、早くも三十年余が過ぎました。その間、先生から受けた薫陶を最高の誉れとして、先生とお約束したことは、ことごとく果たし抜いてきたつもりであります」
 師の構想実現を誓うだけでは弟子たり得ない。誓いの成就こそ、真の弟子の証明となる。
39  求道(39)
 伸一は、戸田城聖から託された構想を一つ一つ着実に実現してきた。「会員三百万世帯」の達成。、幼稚園、小学校から大学、大学院にいたる創価教育の城。世界広宣流布の基盤づくり等々……。そのすべてを成就してきた。
 彼は、その誇らかな真情を語っていった。
 「地位も、名誉も、財産もない、一人の無名の青年が、一人の人生の恩師をもったことにより、なんの悔いもない大満足の人生を歩むことができた。それが、私の偽らざる心境です。ここまでこられたのも、全国の同志のご支援の賜物であり、この場をお借りして、心より御礼申し上げたい」
 そして、伸一は声を大にして訴えた。
 「次は、諸君であります! 本日から三十年先をめざし、それぞれが広宣流布を誓い、その実現に生き抜いていただきたい」
 師匠の示した構想を、弟子が、わが誓いとし、わが使命として実現していく。その継承があってこそ、慈折広宣流布大願成就の大道を開くことができる。つまり、師弟不二の永遠の闘争なくして広宣流布はない。
 伸一は、そのために、いかなる生き方が重要になるのかについて、言及していった。
 「それは、地道な実践です。一攫千金を追い求めるような生き方では、人生の勝利も、広宣流布の本当の前進もありません。大事なことは、しっかりと、自身を磨き鍛え、社会に、深く信頼の根を張っていくことです。
 長い目で見た時、時代の流れは、地道さが求められる時代にならざるを得ない。基礎がしっかりと築かれていなければ、時代の変化のなかで、はかなく崩れ去っていきます。人生も広宣流布も持久戦です。
 したがって、地道に精進を重ね、持続の信心、水の流れるような信心を貫いた人が、最後は勝ちます。堅実な戦いの積み重ねが、広宣流布の新しい時代を開いていくんです。
 そして、人生を勝利するための信心の土台、哲学の土台を築き上げていくのは、青年時代しかないことを心に刻み、広布大願に生き抜いていただきたいのであります」
40  求道(40)
 伸一が、青年時代に、恩師・戸田城聖との語らいのなかで、世界広布への雄飛を心に定めた師弟誓願の天地・厚田──今、その厚田に集った若き勇将たちは、三十年後をめざして、新たな旅立ちを開始したのである。
 この六月十一日、伸一は、青年部総会の前後も、北海道の大学会や未来会メンバーを激励し、厚田村の村長らとも語り合っていた。間断ないスケジュールであった。
 妻の峯子もまた、伸一と同じ心で、同志の激励に走った。
 十一日夜、峯子は、墓地公園に近い望来大ブロックの大ブロック担当員宅を訪問した。
 実は、前々日、厚田支部の各大ブロックから、婦人部総会の招待状が届けられていた。さらに、前日の十日には、厚田の婦人部員約百五十人で縫い上げたアツシを、二人の婦人が代表して墓地公園に持参したのである。
 アツシは、オヒョウの樹皮などから作った糸で織った上着である。若き戸田城聖が東京へ旅立つにあたって、母親が縫い上げて持たせ、戸田が生涯の宝とした品である。
 伸一は、アツシを持参してきた代表と語らいのひと時をもった。
 「珍しいものを、作ってくださってありがとう。明日、大学会の総会がありますので、青年たちにも見てもらいます。きっと、みんな喜びます。大志に燃えて旅立った戸田先生を偲ぶ、貴重な品となります。今日は、記念として一緒に写真を撮りましょう」
 そして彼は、メンバーへの土産として、手提げ袋二つ分の菓子を贈った。
 二人の婦人が、伸一と別れて歩き始めると、峯子が足早にやって来た。
 「帰りのお車はございますか。お菓子は、それだけで、皆さんに行き渡るでしょうか」
 「大丈夫です。車で来ておりますので。お菓子も十分です」
 峯子の気遣いに、彼女たちは恐縮した。
 気遣いは、友の心の扉を開き、魂の交流をもたらし、信頼を育む種子である。
41  求道(41)
 厚田支部の各大ブロックから、婦人部総会の招待状をもらった山本伸一は、できることなら、すべての総会に出席したかった。しかし、開催日は、六月の十二日、十七日、二十日であり、既に、行事が組まれていた。
 十日夜、伸一は、峯子に、自分の思いを語った。すると、峯子は言った。
 「十一日の夜ならば、私は、御礼のごあいさつにお伺いすることができます。また、十七日夜は、スケジュールの調整が可能ですので、婦人部総会に出席させていただきます」
 伸一と峯子は、「一心同体」であった。広宣流布の「盟友」であり、「戦友」でもあった。
 そして、翌十一日、峯子は、望来大ブロックの大ブロック担当員宅を、激励のために訪れたのである。訪問を事前に伝えておいたので、十人ほどの婦人が集っていた。
 峯子を囲んで懇談が始まった。
 「会長は『婦人部総会に出席したい』と申しておりましたが、日程の関係で、どうしても難しいために、本日、私が、ごあいさつにまいりました」
 彼女は、こう言うと、皆の名前を尋ねていった。婦人の一人が、自己紹介したあとしみじみとした口調で語った。
 「私は、今日まで信心をしてくることができたのは、周囲の同志の方々が、励ましてくれたおかげだと、実感しております」
 峯子は、大きく頷きながら、話し始めた。
 「どなたも、自分だけでは信心を貫いていくことはできませんし、広宣流布も一人ではできません。会長も、『同志の皆さんのおかげで、ここまでやってこられたんだよ』と、よく言っております。
 親子を縦の線とするなら、同志は横の線といえます。この縦と横の絆を強く、大切にしてこそ、自分の幸せも、成長もあります。したがって、ご両親やお子さんなど、ご家族を大切にしてください。そして、同志を大事にしていってください。その、人と人とのつながりのなかに、幸福と広宣流布の実像があるのだと思います」
42  求道(42)
 望来大ブロックに集っていた婦人の一人を、副大ブロック担当員が峯子に紹介した。
 「こちらの方は、ご主人を亡くされ、五人の子どもさんがいらっしゃるんです」
 「大変ですね。ご自宅は遠いのですか」
 峯子が尋ねると、婦人は答えた。
 「山を迂回しなければなりませんので、歩いて五十分ほどかかります。森を通って近道をすれば、三十分ぐらいなので、今日はそうしました。でも、一人で森の中を歩くのは怖いもので、女子部の娘も連れてきました」
 笑みの花で包むように、峯子は語った。
 「いつも遠くまで歩かれて、学会活動されているんですね。その信心の志は、女人の身で、娘さんの乙御前と、佐渡まで大聖人をお訪ねした、あの日妙聖人のようですね」
 峯子の言葉に、婦人は「まあ、私が!」と、目を丸くした。どっと笑いが起こった。
 峯子は、微笑みながら言葉をついだ。
 「信心の苦労は、必ず功徳の大輪となって花開きます。何があっても決して負けないでください。お子さんたちは、健気なお母さんの姿を手本にして、立派に生きていきますよ」
 さらに、乳飲み子を抱いた婦人に尋ねた。
 「まだ、お子さんが小さいので、目が離せませんね。何カ月になりますか」
 「はい。四カ月です」
 「子育ては、苦労も多いですが、子どもはすぐに大きくなりますよ。一瞬、一瞬を大切にしながら、広宣流布の立派な後継者に育ててください。子育てを通して、子どもから教わることも多いですよ。子どもを育てていくなかで、お母さんは、人間的に大きく成長していくことができるんです。子どもは、時に「先生」でもあるんです」
 「うちの子も先生なんだ!」という声が漏れた。すると、皆の笑いが弾けた。
 峯子は、大ブロック担当員に言った。
 「この大ブロックは明るいですね。明るさに圧倒されそうです。明るいということは、仲が良いことであり、団結していることの証明でもあるんです」
43  求道(43)
 峯子は、望来の大ブロック担当員宅で懇談したあと、皆と記念のカメラに納まり、笑顔で握手を交わした。それから、十二日に行われる、望来大ブロック婦人部総会の会場となる家へと向かった。
 車中、同行してくれた地元の婦人部幹部から、「会場のご主人は未入会ですが、奥さんの信心には協力的です」と聞かされた。
 峯子は、「ぜひとも、ご主人と会い、心から御礼を言いたい」と思った。
 人と会い、交流を結び、学会理解の輪を広げていく──その積み重ねが地域広布の堅固な土壌をつくる。友好なくして広布はない。
 会場提供者の夫妻がそろって、峯子を迎えてくれた。しかも、主人はネクタイをして、スーツ姿で待っていてくれたのである。彼は、会長の夫人が来ると聞き、いたく緊張していたようであった。
 総会の会場となる仏間に通された。峯子は正座し、丁重にあいさつした。
 「いつも、ご尽力をいただき、誠にありがとうございます。また、このたびは、お宅を婦人部総会の会場として使用させていただくことになり、心より御礼申し上げます」
 主人も正座し、「うちでよければ、いつでもお使いください」と言ってくれた。
 部屋には、婦人部総会の式次第が書かれた模造紙が張られていた。峯子が尋ねた。
 「達筆ですね。どなたがお書きくださったのですか」
 「主人です」
 「まあ、そうですか。見事な字ですね」
 彼は、顔を赤らめ、額の汗を拭った。
 「こうしてご主人様が、陰で支えてくださっているからこそ、この地域の学会の発展があるのだと思います。ありがたいことですわ。これからも、ご協力のほど、よろしくお願いいたします」
 峯子は、深く頭を下げた。
 夫妻と共に記念撮影もした。主人も、次第に緊張が解け、笑顔での語らいとなった。
 この二カ月後、彼は入会している。
44  求道(44)
 六月十二日、十三日と札幌での諸行事に出席した山本伸一は、十三日午後四時、道東指導のために、飛行機で釧路へ向かった。道東の訪問は、十一年ぶりである。
 伸一は、道東では開設五周年を迎える別海の北海道研修道場を初訪問し、地域広布の開拓者たちと会うことを楽しみにしていた。
 搭乗機の窓外には、雲海が広がっていた。
 釧路の空港は、霧のために、着陸できないことがよくある。
 伸一は、同行していた、副会長で北海道総合長の田原薫に言った。
 「曇っているけど、大丈夫かね」
 「大丈夫です!」
 田原の確信にあふれた声の響きから、伸一は、思った。
 ”道東の皆さんが無事到着を願って、猛然と唱題に励んでくれているにちがいない。だから彼は、安着を確信しているのだろう”
 釧路上空にさしかかった時である。一瞬、道を開くように雲が割れ、釧路の街が見えた。
 大自然の劇を見るかのようであった。
 「これは、歴史的な瞬間だね」
 田原は、「はい!」と、誇らかに胸を張った。
 午後四時四十五分、釧路に着陸した。
 空港から、北海道研修道場までは、車で百四十キロほどの道のりである。
 伸一は、この道東でも、一人でも多くのメンバーと会い、心から励まし、皆の心に、崩れぬ信心の礎を築こうと決意していた。
 車が釧路市街に入ったところで、伸一の車に向かって、盛んに手を振る数人の人たちの姿を見つけた。学会員であろう。伸一は、車を止めるように頼み、窓を開けた。
 「ご苦労様! 待っていてくれたんですね」
 そして、激励のために用意してきた菓子二箱を贈った。車が走りだした。伸一は、手を振り続けながら、つぶやくように言った。
 「時間がほしいね。大事な仏子の皆さんと、もっと、もっと、語り合い、励ましたい」
 自分の生涯は、広宣流布のため、同志のために使いきる──それが彼の信念であった。
45  求道(45)
 伸一の乗った車は、再びスピードをあげた。彼は、同乗していた田原薫に尋ねた。
 「途中、私が訪問すべきお宅があったら、お訪ねしますので、言ってください。次は、いつ来られるかわからないからね」
 「ありがとうございます」
 田原が最初に案内したのは、釧路市中園町の石沢清之助・ヤス夫妻の家であった。石沢家は、置物などの贈答品店を営んでいた。
 伸一は、自宅の玄関に回って、チャイムを鳴らした。ドアを開けた妻のヤスは、「先生!」と言って、しばらく絶句した。
 「こんにちは! おじゃましますよ」
 「……み、みんなで、祈っていたんです。先生、奥様が、ご無事に到着されるように」
 「ありがとう。雲が急に晴れて、着陸できたんですよ。皆さんのお題目の力です」
 「まあ! ところで先生。主人は、今では本当に元気になり、店も繁盛しております」
 十一年前の一九六七年(昭和四十二年)八月、伸一は釧路会館を訪問し、幹部会に出席した折、石沢夫妻と会い、励ましていた。
 実は、その前年の九月、北釧路支部の支部長をしていた清之助が脳出血で倒れたのだ。右半身が麻痺し、ろれつも回らなくなった。やむなく、高校を卒業して浪人中だった次男の宏也が、進学をあきらめ、家業を担った。
 医師は「トイレに行けるようになれば、幸いだと思ってください」と、夫妻に告げた。
 ”俺は、学会員だ。負けるものか!”
 清之助は、真剣に祈り、懸命にリハビリに励んだ。体は少しずつ回復し、なんとか歩けるようになった。そして、伸一の釧路訪問を聞くと、夫妻で釧路会館に駆けつけたのだ。
 その時に、伸一は、強い確信を込めて、二人に訴えた。
 「”祈りとして叶わざるなし”の御本尊です。必ず治ります。次に私が釧路へ来る時には、元気な姿を見せてください。断固、長生きしてくださいよ」
 確信が確信を呼び覚ます。指導とは、生命の共鳴をもって信心を覚醒させる作業である。
46  求道(46)
 清之助とヤスは、釧路会館で伸一の指導を受けると、決意を新たにした。
 彼らは、一九五八年(昭和三十三年)に入会してからの来し方を思った。そもそも夫妻が信心を始めたのは、次男の宏也の心臓病を治したい一心からであった。入会してほどなく、見事に、その願いは叶った。
 そして、入会一年五カ月後、火事によって、営んでいた製麺業の工場と自宅が全焼してしまった。着の身着のままで焼け出されたが、その時も再起することができた。
 大小、さまざまな試練があった。しかし、御本尊を疑わず、広宣流布に生きようと決め、唱題と弘教に励むことによって、すべてを乗り越え、変毒為薬してきたのである。
 「今度も、健康を取り戻せぬわけがない。次に山本先生が釧路に来られる時には、必ず元気はつらつとした姿でお会いしよう!」
 夫妻は、共に、こう心を定め、伸一との再会をめざして信心に励んできたのだ。
 ヤスは、伸一たちを部屋に案内すると、贈答品の店は繁盛し、次男が結婚して二人の孫にも恵まれたことを、嬉しそうに語った。
 しばらくして、外出していた嫁と孫娘が帰宅し、さらに、主の清之助も孫の手を引いて帰ってきた。しっかりとした足取りである。
 彼は、伸一を見ると、「先生!」と言って正座し、頭を下げた。
 それから背筋を伸ばし、「脳出血で……」と言いかけ、声が途切れた。目に涙があふれ、嗚咽が言葉をさえぎるのだ。
 涙、涙で何も言えない夫に代わって、妻のヤスが語った。
 「脳出血で倒れたことが嘘のように、今では、このように健康になりました」
 伸一は、ぎゅっと清之助の手を握った。
 「よかった。本当によかった。真面目にやってきた人が最後は勝つ──それが仏法です。
 広宣流布を使命とする創価学会とともに生き抜くなかにこそ、信心の正道があります。だから、こうして病に打ち勝てたんです」
47  求道(47)
 伸一は、夫妻の信心の勝利を讃えた。
 学会員の功徳の体験を聞くことこそが、彼の最高の喜びであった。
 そのあと、彼は、石沢の自宅と隣接している店に顔を出し、従業員にも声をかけた。
 見送る一家に、彼は言った。
 「今日は、ありがとう。嬉しい、いい思い出をつくらせてもらいました。あなたたちのことは、一生忘れません。お元気で!」
 翌日、伸一は、ヤスに句を贈っている。
 「讃えなむ 釧路の母の 歴史見む」
 午後六時過ぎ、石沢宅を出た伸一たちが向かったのは、約七十キロ先の別海町の西春別にある個人会館であった。”別海広布”を願う同志の尽力によって、誕生した会館であるという。伸一は、その真心に応えるためにも、ぜひ訪問したいと思った。
 伸一の乗った車は、暮れなずむ緑の根釧原野を疾駆した。やがて、雲のベールに包まれていた太陽が沈むと、夜の漆黒が訪れた。
 個人会館に到着した伸一たちを、地元の代表が満面の笑みで迎えた。
 「とうとう来ましたよ。憧れの別海に来ました。でも、遠いね」
 伸一は、こう言いながら車を降りた。その瞬間、ゾクッと震えが走った。外気が冷たく感じられた。体調を崩していたのだ。
 別海町は、根室市の北に隣接し、面積は、東京二十三区の二倍以上である。主な産業は酪農と漁業で、なだらかな丘陵地には牧場風景が続き、人口の数倍の牛がいる。降雨や降雪は少ない方だが、冬季の最低気温は、マイナス三〇度に達する日もある。
 伸一は、個人会館で、地元のメンバーと懇談した。語らいのテーマは、別海をどのように繁栄させていくかになった。彼は、皆と共に、真剣にその対策を考えていった。
 いかなる地域、いかなる産業も、繁栄のためには、常に、改善と工夫がなされなければならない。現状に安住し、その努力を怠るならば、待っているのは衰退である。
48  求道(48)
 別海町には、乳製品をはじめ、サケ、エビ、アサリ、ホタテなどの産物がある。山本伸一は、その話を聞くと語った。
 「それらの特産を、もっと宣伝していくことも大事でしょう。また、そうした食材を使って、別海の名を冠した製品を開発していってはどうでしょうか。”別海羊羹”とか、”別海ケーキ”とか……。ともかく、懸命に祈り、知恵を絞って、地域が興隆、繁栄していくための道を開いてください。それが、皆さんの使命です」
 さらに、この広大な地域の広宣流布を進めていくうえで、何が大切かも訴えた。
 「学会員同士が仲良く、どこよりも団結していくことです。もし、地域の人たちが、学会のことをわからずに非難・中傷したとしても、決して恨んだりしてはいけません。相手を慈悲で包み込むようにして、粘り強く交流を深め、誠実の行動を通して、学会の理解を勝ち取っていくんです。そこに、仏道修行があるんです」
 烈風の原野に挑み立つ勇気と忍耐なくして、広宣流布の開拓はない。
 そして伸一は、「皆さんが、どんなことがあっても負けずに、地域に貢献し、信心の実証を示していくならば、必ず広宣流布は大きく伸展していきます」と励まし、西春別の個人会館を後にした。
 彼が、別海町尾岱沼の北海道研修道場に到着したのは、午後八時半過ぎであった。
 「やっと着いたね。まず、研修道場の役員の方々にお会いしよう」
 伸一は、マフラーを首に巻き、防寒具を着て、建物のなかを回った。翌日の記念勤行会の準備のために、婦人たちが残っていた。
 「本当にありがとう。今日は、早く休んでください。明日、また、お会いしましょう」
 ”皆、北海の厳しい自然環境に耐えながら頑張り抜き、広宣流布の基盤をつくってくださった尊い方々である……”
 そう思うと、感謝の念が、熱い感動となって込み上げてくるのだった。
49  求道(49)
 翌六月十四日、山本伸一は、北海道研修道場訪問の記念植樹をしたあと、構内を散策した。研修道場は、別海町北部に位置し、標津町との境界になる当幌川下流の右岸にある。
 霧のなかに、緑の森が続き、湿原には白い水芭蕉が微笑んでいた。
 伸一は、湿原の小道を歩きながら、田原薫に言った。
 「すばらしいところだね。研修道場のいたるところに、整備にあたってくださった方々の真心が感じられます。ありがたいことです。冬の作業は、大変だっただろうね」
 すると、同行していた北海道の青年部幹部が、別海の厳しい寒さについて語った。
 ──冬、零下三〇度近くになると、飛来した白鳥の足が川の水に凍りついてしまい、飛べなくなって、もがいている姿を目にすることもあるという。
 さらに彼は、役員をしていた一人の青年を、伸一に紹介した。
 「先生。根室本部の男子部本部長をしている菅山勝司さんです。菅山さんは、研修道場の整備にも献身してくれました」
 「ありがとう! 君のことはよく知っています。別海広布の開拓者だもの。三、四年前、『聖教新聞』に体験が載っていたね。読みましたよ。すばらしい内容でした」
 瞬間、菅山は自分の耳を疑った。感動が胸を貫いた。
 ”先生が、俺のことをご存じだなんて!”
 励ましは、相手を知ることから始まる。
 伸一は、菅山と握手を交わした。小柄で、見るからに純朴で誠実そうな青年であった。
 別海で生まれ育った菅山が入会したのは、一九五七年(昭和三十二年)のことである。
 菅山の家は、二八年(同三年)に祖父が福島県から開拓者として移住。やがて、でん粉工場を始めたが、経営が行き詰まり、酪農に切り替えた。だが、それも軌道に乗らないうえに家族の病気が重なり、生活苦に喘ぐ日々が続く。そのなかで祖父らが入会し、勝司も信心を始めた。十七歳の春である。
50  求道(50)
 菅山が、信心を始めた動機は、”食べるのがやっと”という生活から、抜け出したかったからである。未来には、なんの希望も見いだせなかった。また、もともと内気で、口べたであることに劣等感をいだき、それを克服したいとの、強い思いもあった。
 そんな彼を、男子部の先輩は、確信をもって励ましてくれた。
 「信心して学会活動に励んでいくならば、必ず生命力が強くなり、どこへ出ても恥ずかしくない立派な人材になれる。皆、そうなっているんだよ。それを人間革命というんだ。
 私たち青年の双肩には、日本の未来が、いや、世界の未来がかかっている。君には、この別海の地から、日本を、世界を担い、支えていく使命があるんだよ」
 力強い言葉に、彼は魅了された。自分の世界が、大きく開かれた気がした。
 青年の魂を覚醒させるのは、確信と情熱にあふれた生命の言葉である。
 菅山は、学会活動を始めた。当時、別海には、男子部員が四人しかいなかった。彼らは札幌支部の所属で、道東の活動拠点は釧路であった。経済的にも、時間的にも、釧路に行くことは難しく、四人で、たまに連絡を取り合うことしかできなかった。
 一九六〇年(昭和三十五年)九月、男子部の先輩から、釧路で男子部の会合が行われるという連絡の葉書が届いた。参加するのは無理だと思った。汽車賃がなかったからだ。
 葉書には、第三代会長の山本伸一先生のもと、学会は怒濤の大前進を遂げていることも記され、さらに、こう訴えていた。
 「環境に負けて、いつまでも会合に参加できないと言っていては、成長は望めません。困難を乗り越え、弱い自分に勝って、まず会合に参加することです。さあ、発心しよう。実行に移そう。そして、別海の中心にふさわしい人材に成長するのです……」
 「環境に負けて」という言葉が、深く心に突き刺さった。しかし、会合参加への心は定まらぬまま、当日が近づいていった。
51  求道(51)
 釧路で男子部の会合が開かれる前日、菅山勝司は、牛の餌になる牧草を刈り取りながら、迷い続けていた。
 釧路までは列車で三時間ほどである。この時、彼には、交通費はなかった。
 “来いと言ったって、どうやって行けばいいんだ……”
 空を見上げては、ため息をついた。
 作業着のポケットに入れた、会合開催の葉書を、何度も取り出しては読み返した。
 そのたびに、”行くべきではないか……”という思いが、強くなっていった。
 夕方、家に戻ると、ゴロリと横になった。釧路の先輩たちの顔が、次々と浮かんだ。
 ”待っているよ!””信じているよ!””立ち上がるんだ!”――そう言っているように思えた。彼は、起き上がった。
 ”そうだ! 自転車で行けばいいんだ! 環境に負けていていいわけがない。皆と会い、山本先生のこともお聴きしたい”
 そんな気持ちが、心のなかで頭をもたげた。
 ”今から出れば、間に合うだろう……”
 自転車にまたがると、迷いを振り切るように、思いっきりペダルを踏んだ。舗装されていない道が続く。木の根っこにタイヤを取られないよう、ハンドルを強く握り締める。
 辺りには、街灯も人家の明かりもない。月も、星も、分厚い雲に覆われていた。自転車のライトの明かりだけを頼りに、必死にペダルを漕ぎ続けた。走るにつれて、息が苦しくなっていった。
 しかし、彼は、”俺に期待を寄せ、待ってくれている先輩がいるんだ。負けるものか!”と自分に言い聞かせた。足に力がこもる。額から汗が噴き出す。
 自分を信じてくれている人がいれば、勇気が湧き、力があふれる。その”信”をもって人と人とを結び、互いに育み合っていく人間共和の世界が創価学会である。
 四、五時間、走り続けた。
 ピシャッと、冷たいものが顔に当たった。彼は、漆黒の空を見上げた。雨であった。
52  求道(52)
 雨脚は、次第に激しさを増していく。しばらく行くと、道の傍らに何かが、うずたかく積まれているのがわかった。干し草の山だ。菅山勝司は、自転車を止めて、潜り込んで雨をしのいだ。ほどなく雨はあがった。
 また、自転車を漕ぎ始めた。喉が渇くと、道端に生えていた山ブドウを食べた。
 やがて夜が白々と明け始めた。朝霧のなかに、釧路の街が見えた。
 ”もう少しだ。みんなと会える!”
 彼は安堵した。すると、途端に全身から力が抜け、どっと疲労に襲われた。自転車を止め、道端の草むらに横になり、背筋を伸ばした。そのまま眠り込んでしまった。
 太陽のまぶしさで目を覚ました。二、三時間、眠っていたようだ。疲れは取れていた。
 再び、勢いよく自転車のペダルを踏んだ。市街に入ったのは、午前八時ごろであった。
 一晩がかりの、百キロを大幅に上回る走行であった。菅山の顔は、汗と埃にまみれていたが、心は軽やかであった。自らの弱い心を制覇した”求道の王者”の入城であった。
 男子部の会合では、全参加者が、この”別海の勇者”を、大拍手と大歓声で讃えた。
 彼らは、菅山の姿に、男子部魂を知った。北海の原野に赫々と昇る、太陽のごとき闘魂を見た。感動が青年たちの胸を貫いた。
 この会合で菅山は、当時、男子部の最前線組織のリーダーであった「分隊長」に任命されたのである。
 その夜、彼は、別海に向かって、再び自転車を走らせた。体は軽く、足には力がこもった。頬は、感動と決意で紅潮していた。
 別海の天地で、一人の青年が、久遠の使命を自覚し、立ち上がったのだ。地域で、家庭で、職場で、最初の一人が立ち、そして、万朶と咲き薫る花のごとく、陣列を広げていく。それが、広宣流布の不変の原理だ。
 酪農の仕事には、時間的な制約が多い。しかし、菅山は「断じて環境に負けまい」と、真剣に題目を唱え、仕事を手際良くこなし、学会活動の時間をつくった。
53  求道(53)
 酪農家の朝は早い。午前五時には、牛舎を掃除し、牛に配合飼料を食べさせ、搾乳して牧草を与える。搾乳は日に二回。その間、季節ごとに、牧草地に肥料をまいたり、牧草を収穫したりするなどの作業がある。それ以外にも、自給のための畑仕事などもあり、するべきことは山ほどある。
 菅山は、経済的にも苦闘を強いられていた。郵便配達や板金工場などのアルバイトをし、必死になって働きながら、学会活動に励んだ。五分、十分が貴重だった。
 一九六一年(昭和三十六年)、彼は、学会の組織にあって、男子部の「班長」を経て、地区の男子部の責任者である「隊長」の任命を受けた。別海の男子部は百二十人になっていた。
 菅山の活動の足も、自転車からオートバイへと変わっていた。百キロ、二百キロと走る日も珍しくなかった。”この人を育てようと思ったら、何日でも通い続ける”というのが、彼の信条であった。
 六四年(同三十九年)、学生部員であった青年が教員となり、中標津の小学校に赴任してきた。広大な地域と厳しい自然は、彼の学会活動への意欲を萎えさせた。
 菅山は、その彼のもとにも、七十キロの道のりを、毎日、バイクで通い続けた。
 語らいを続けて一週間目。会合を終えて、彼の家に駆けつけた。戸を叩いても返事はない。”せっかく来たのだから待ってみよう”と、玄関の前に腰を下ろし、御書を開いた。季節は四月である。周囲には雪が残り、外気はまだ、肌を刺すように冷たい。
 教員の青年は、既に就寝していたのだ。数時間が経過した。青年は目を覚まし、窓から玄関を見た。白い息を吐きながら座っている人影があった。ドキリとした。菅山だった。
 ”寒気のなか、待ってくれていたのだ!”
 「菅山さん!」
 思わず、叫んだ。その目に、涙があふれた。
 二人は語り合った。菅山の思いやりと真剣さに打たれ、青年は立ち上がった。凍てた友の心を溶かすものは、炎の情熱だ。
54  求道(54)
 菅山は、六五年(同四十年)、男子部の支部の責任者である「部隊長」となり、九月二日、学会本部で山本伸一から部隊旗を受けた。闘魂が燃え上がった。
 彼が担当したのは、別海をはじめ、中標津、標津、羅臼、弟子屈まで広がる広大な地域であり、免責は福岡県に匹敵した。
 ここを”戦野”に走りに走った。三百数十人で出発した陣容は、一年後、四百七十人へと拡大する。彼の地道で粘り強い行動と精神は、後輩たちに脈々と受け継がれていった。
 「別海」の名が、一躍、全国に轟いたのは、一九七〇年(昭和四十五年)十二月、「開拓」をテーマに行われた第十九回男子部総会であった。
 席上、酪農家を志し、東京から新天地・別海に移住した杉高優が、苦節八年で得た勝利の歩みを、体験発表したのである。
 ──彼は、希望あふれて入植し、結婚する。入会していたが、真面目に信心に励もうという決意は全くなかった、当初、酪農は順調だった。しかし、三年続いた冷害で牧草などの飼料が不足し、十頭いた牛のうち五頭を失う。大自然の非情な力を呪った。また、二歳の長男も事故で他界したのだ。
 絶望のなかで、”信心だけは忘れてはいけないよ”との、母親の言葉を思い起こす。
 その杉高のもとへ、学会の先輩が、厳寒のなか、往復約百キロの道のりを、バイクで激励に通い続けた。中標津で小学校の教員をしている、あの青年であった。杉高は、真心と情熱に打たれ、信心で立とうと心を定める。
 経営を立て直すために、祈りに祈り、努力と工夫を重ねた。農場は約四十三ヘクタール(四十三平方メートル)に増え、生まれた牛は、皆、高値のつくメンタ(雌牛)で、乳牛は三十頭にもなった。また、男子部大ブロック長となった杉高は、先輩が自分にしてくれたように、地道に訪問指導を続けた。メンバーは、一人、二人と立ち上がり、二十三人の部員全員が座談会に出席するまでになったのだ。
 入魂の個人指導が伝統として継承されてこそ、地域広布の未来は燦然と輝く。
55  求道(55)
 第十九回男子部総会で大きな感動を呼んだ杉高優の体験談をもとに、学会本部では映画を製作した。タイトルは「開拓者」である。
 作品を観賞した山本伸一は言った。
 「別海から、こうしたすばらしい体験が生まれる背景には、皆を励まし、指導してきた”信心の開拓者”が、必ずいるはずだ」
 伸一の眼は、陰で黙々と友を支えるリーダーに向けられていた。その”信心の開拓者”こそ菅山勝司であった。伸一は、万感の思いを込めて、試練の道を開き進んできた菅山の敢闘を讃える一文を、書籍に記して贈った。
 伸一の励ましに、菅山は泣いた。
 「”こんな俺のことまで、気にかけてくださり、賞讃し、励ましてくださる! 先生にお応えしたい。地域に、もっと信心の実証を示したい。地域にあって模範となるような、充実した酪農経営をしよう”
 そう決意はしたが、諸設備を充実させる資金は、いたって乏しかった。借金をすれば、自分の首を絞めることになる。離農者の多くは、過剰投資による借金苦が原因であった。
 彼は、少ない自己資金を最大限に活用するために、牛舎も、サイロも、すべて自分の手で造ることにした。祖父が植林していた原木の伐採から始め、製材や加工、建築などを独力で学びながら、作業を開始した。周囲の人びとは、奇異な目で菅山を見ていた。
 大気も凍る厳寒の原野を、友の激励のために、バイクで駆け巡ってきた菅山には、その建設作業が苦労とは感じられなかった。
 真実の信仰をもって、生命の鍛錬を重ねた人は、人生の、また、社会の、あらゆる局面で、驚くほど大きな力を発揮していく。
 「人生は強さにおける、また強さを求めての訓練である」とは、北海道で青春を過ごした新渡戸稲造の信念の言葉である。
 建設の槌音が小気味よいリズムを奏で、希望の鼓動となって、別海の天地に響いた。
 家族の応援も得て、一九七三年(昭和四十八年)に、三年がかりで約四百平方メートルの牛舎が出来上がった。
56  求道(56)
 菅山は、牛舎に次いで、サイロ、二階建てのブロック造りの住居を完成させた。
 農機具も中古を購入し、自分で修理をしながら使った。飼料も自給に努め、牧草を研究し、栄養価の高い草を育てた。
 見事な黒字経営となった。人びとの奇異の目は、感嘆と敬意の目へと変わった。
 開墾も進め、六十ヘクタールの牧草地をもつようになり、当初、数頭にすぎなかった牛が、搾乳牛五十頭、育成牛二十頭にまでになった。牛乳の衛生管理にも努力を重ね、優秀賞も受けるにいたったのである。
 別海の北海道研修道場で、山本伸一は、菅山に尋ねた。
 「地域が広いから、活動も大変でしょう」
 「走行距離は計算していませんが、オートバイ六台、車は五台を、乗りつぶしました。別海の幹部は、皆、そのぐらい走っていると思います。メンバーと会うためでしたら、零下二〇度ぐらいは、なんでもありません」
 活動の帰りに吹雪になり、土管の中で一夜を過ごした人や、部員宅を訪問し、吹雪のために三日も帰れなかった人もいるという。
 別海での活動は、大自然との闘いなのだ。
 「私は、『人間革命の歌』の『吹雪に胸はり いざや征け』の一節が、大好きなんです」
 菅山は、こう言って微笑んだ。
 「まさに、その通りの実践だね」
 それから伸一は、同行の幹部に語った。
 「誰が広宣流布を進めてきたのか。誰が学会を支えてきたのか──彼らだよ。健気で、一途で、清らかな、菅山君たちのような”無名無冠の王者”であり、”庶民の女王”だ。
 ある人は貧しく、ある人は病身で、辛く、厳しい環境のなかで、時に悔し涙を流し、時に慟哭しながら、御本尊を抱き締め、私と共に広宣流布に立ち上がってくださった。自ら宿命の猛吹雪に敢然と挑みながら、友を励まし、弘教を重ねてこられた。その方々が、広宣流布の主役です。末法出現の地涌の菩薩です。学会の最高の宝なんです」
57  求道(57)
 伸一は、六月十四日夕刻には、北海道研修道場開設五周年を記念する勤行会に出席した。開会前、彼は、屋外で参加者を出迎え、集って来た、根室、厚岸の二本部のメンバー一人ひとりに声をかけた。
 「ようこそ! お会いできて嬉しい」
 「本当にご苦労様です」
 「お達者で! ご長寿をお祈りします」
 肩を抱き、握手を交わし、そして、共に記念のカメラに納まる。「今しかない!」と、必死の思いで、伸一は、皆を激励し続けた。
 開会となった勤行会で、彼は訴えた。
 「一人の人を、心から慈しみ育てようとする慈愛の精神に立った行動によってのみ、自身の信心の功徳を無量に開花させていくことができるんです。大切なことは、自行化他にわたる実践です。その行動を、勇んで起こされた皆様方にこそ、日蓮大聖人の大精神が脈打っていると、断言しておきます」
 この勤行会終了後、伸一は、峯子と共に、標津町を訪れた。学会員が経営する食堂で、地元の功労者らと懇談するためであった。
 体調不良に悩む支部長には、健康管理の基本を語るとともに、信心の在り方について懇々と語っていった。
 「まず、題目を唱え抜いていくことです。広宣流布という最も崇高な大目的を心にいだき、わが使命を果たし、走り抜くために、”健康な体にしてください”と祈ることです。そこに大生命力が涌現するんです。
 学会のすべての役職には、広宣流布推進のための重責がある。その役職を全うしていくことは大変かもしれない。しかし、あえて労苦を担っていくなかに、より大きな功徳があり、宿命の転換もあるんです。役職を疎かに考えてはなりません。幸福への、わが使命の大道ととらえ、勇気と情熱をもって活動していくことです」
 伸一は、真剣だった。烈風に一人立ち、妙法の旗を掲げて、懸命に戦う同志である。一瞬に全生命を注ぐ思いで、彼は指導した。
58  求道(58)
 懇談会には、経済苦と格闘している大ブロック長もいた。彼の経営していた水産加工の工場は、前年、アメリカとソ連が自国の漁業専管水域を二百カイリとし、実施に踏み切ったことから大きな打撃を受けた。経営は不振となり、やむなく工場を畳み、山菜を採って塩漬けにしたものなどを販売し、生計を立てていた。
 子どもは六人で、息子二人が創価大学に在学しており、末の娘は、まだ小学校の三年であった。彼は、「この子も、やがて創価の学舎で学ばせたい」と、歯を食いしばり、奮闘していたのである。
 山本伸一は、大ブロック長に語った。
 「ここから、子どもさんを創価大学に送り出してくださったんですね。ありがとう。
 親御さんのその真心は、必ずお子さんに通じます。皆、立派に育ちますよ。苦労したご一家から、偉大な民衆の指導者が出るんです。息子さんとは、遠く離れていても、お題目を送ってあげれば、生命はつながります。
 また、商売は、工夫・研究しながら、地道に頑張っていくことです。どうにかなるだろうなどと、甘く考えてはいけません。信用と信頼を、着実に勝ち得ていくことが大事です」
 皆が過酷な状況のなかで、懸命に信心に励み、勝利の実証を勝ち取る。その積み重ねが難攻不落の創価の大城を築いてきたのだ。
 伸一は、なんとしても、この一家を応援したかった。個人的に、一斗缶に入った山菜の塩漬け二十缶を購入した。
 「製品ができた時に、少しずつ送ってくだされば結構です。急ぐ必要はありません。ともかく、何があっても、絶対に、信心の道を見失ってはなりませんよ」
 ”一人の人が、この一家が立ち上がれば、標津まで来た意味はある”
 伸一は、真剣勝負の激励を続けた。学会員が営む喫茶店にも足を運び、対話を重ねた。
 彼の背筋に悪寒が走った。体が震えた。
 研修道場に戻って体温を測ると、三八度五分であった。
59  求道(59)
 別海滞在三日目の十五日、山本伸一の熱は、いくらか下がっていた。
 この日は、午後一時前から、釧路圏と道東圏の支部長・婦人部長らが参加し、北海道幹部会が開催された。
 幹部会では、出来上がったばかりの、支部長・婦人部長バッジの授与式が行われた。全国で初めてとなる授与である。このバッジは、支部制発足の際に製作が発表されたもので、桜の花びらのなかに八葉の蓮華がかたどられていた。
 伸一は、全支部長・婦人部長待望のバッジを、風雪に耐えながら、求道の炎を燃やしてきた、日本本土の最東端の地で戦う凜々しきリーダーたちに、まず授与しようと、首脳幹部に提案。決定をみたものである。
 授与式の折、彼は自ら、代表の背広の襟にバッジをつけた。大拍手が起こった。
 伸一は、この極寒の地方で妙法を唱え、弘め、懸命に激励に走るわが同志に、地涌の菩薩の出現を実感していた。その瞳に、濁世を照らす尊貴なる仏の慈光を見る思いがした。
 伸一は、別海訪問初日、愛する友に、万感の思いを込めて歌を贈っている。
  別海の
   天地を走る
     友ありき
   幸の風をば
     共々おくらむ
 幹部会のあいさつで彼は、「我等が居住の山谷曠野せんごくこうやみな皆常寂光かいじょうじゃっこうの宝処なり」の御文を拝して訴えた。
 「どこであろうが、私たちが御本尊を持って、広宣流布のために活躍するところは、即常寂光の宝処であり、仏国土となるのであります。したがって環境がどうあれ、自分が今いるところこそ、人間革命、宿命転換の場所であり、仏道修行の道場なのであります。
 そして、そこが、幸福の実証を示していく舞台なんです。どうか、今いる場所で勝ってください。信頼の大樹に育ってください。それが、大仏法の正義の証明となるからです」
60  求道(60)
 幹部会に引き続いて、北海道研修道場の広場で、「燎原友好の集い」が行われた。空は晴れ、鮮やかな緑の光彩が目に染みた。
 合唱あり、勇壮な空手の演武あり、民謡踊りあり、和太鼓の演奏あり、野点ありの、楽しいひと時となった。
 山本伸一は、終始、皆の輪の中に入り、対話を重ねた。婦人部の合唱団の名前をつけてほしいと頼まれれば、「白夜合唱団」と命名。さらに、皆が喜んでくれるならと、自らピアノを演奏した。また、参加者が釧路から貸切バスを連ねて来たことを知ると、運転手の労をねぎらい、野点の席に招くのであった。
 伸一は、多くの参加者と、直接、語り合い、握手し、共にカメラに納まった。
 ”全員に、忘れ得ぬ思い出をつくってもらいたい。発心の原点としてもらいたい”と、一期一会の思いで奮闘したのである。
 そして、峯子と一緒に、バスを見送った。
 「ご苦労様! お元気で! 必ずまた、別海にまいります」
 参加者は、「先生! 先生!」と、口々に叫びながら、腕もちぎれんばかりに手を振るのであった。伸一たちもまた、最後のバスが見えなくなるまで、盛んに手を振り続けた。
 この夜、伸一は、標津町の学会員が営む食堂に足を運び、地元のメンバーと懇談した。
 その折、一人の壮年が、懸命に訴えた。
 「先生、お願いがあります! 私は、こうして先生にお目にかかることができましたが、まだまだ、お会いできない人が、たくさんおります。どうか、そういう人たちが、お会いできる機会を設けてください」
 「わかりました。それは、私の望みでもあります。明日、札幌に戻りますので、出発前に勤行会を行うことにしましょう。正午に研修道場へ来ることができる方は、全員、お呼びください」
61  求道(61)
 別海指導最終日の十六日、昼前には、青空が広がった。気温も二二度を超えた。
 北海道研修道場には、前夜に開催が決まった勤行会に参加するため、別海、中標津、標津、羅臼の友が、喜び勇んで集って来た。
 山本伸一と会うのは、初めてという人がほとんどである。役職がないために、幹部会等には参加したことのない壮年や青年、日ごろは留守を守っている年配者、幼子を連れた若い母親……。どの顔にも笑みが光っていた。なかには、未入会の友人の姿もあった。
 当初、予定していた研修道場での主要行事は、前日で終了していたため、ほんの一部の運営役員しか残っていなかった。そこで、最高幹部が、受付や場内の整理を担当することになった。伸一は言った。
 「さあ、合掌する思いで、仏子である皆さんをお迎えしよう。それが本来の姿だもの」
 やがて、勤行会が始まった。勤行、幹部あいさつなどのあと、伸一は語った。
 年配者には「長寿と悔いない充実した人生を」と念願。若い婦人部には「未来の宝である子どもさんを忍耐強く、立派に育てていってもらいたい」と望んだ。青年部には「毎日、少しでも御書を読む習慣をつけ、強い信心と求道心をもち、地域の立派なリーダーに」と指導。壮年部には「地域社会の柱である自覚を忘れず、御本尊とともに生き抜き、信仰と生活力、強い生命力で、一家を守りきっていただきたい」と訴えた。
 最後に、皆が研修道場を守り、尽力してくれていることに深謝し、共々に、一段と成長した姿での再会を約した。
 伸一は、あいさつのあとも、さらに参加者の中に入り、励ましの言葉をかけていった。
 連日の指導・激励で、彼の体は著しく疲労していた。しかし、それを、はね返す活力がみなぎっていた。人を懸命に励ます利他の実践によって、自らの魂が鼓舞され、勇気が、歓喜が、湧き上がるのである。
 北海道縁の思想家・内村鑑三は言明する。
 「自己に勝つの法は人を助くるにあり」
62  求道(62)
 勤行会を終えた山本伸一は、直ちに車で北海道研修道場を出発した。
 札幌に戻るため、再び百四十キロの道のりを、釧路空港へと走った。海岸沿いの国道に出ると、北方四島の一つである国後島が見えた。沖縄本島よりも大きな島で、標津から二十四キロほどの距離にある。
 伸一は、島影を見つめながら、日ソの平和条約の締結と領土問題の解決のため、一民間人として尽力していこうと決意しつつ、心で唱題した。
 海岸沿いを北上した車は、標津町で左折し、国道二七二号線に入った。道の左右には、広々とした牧草地帯が続いていた。車は、緩やかなアップダウンを繰り返しながら、緑の大地を貫く国道を快走していった。釧路に行くには、中標津町を抜け、再び、別海町に入ることになる。
 伸一たちは、往路に立ち寄った西春別の個人会館を再び訪問することにしていた。近隣の会員たちが集まると聞いたからだ。
 車が、西春別に隣接する上春別へ入った時、同乗していた田原薫が言った。
 「この国道沿いに、雑貨店とドライブインを営む、谷沢徳敬さんという壮年とお母さんがおります。雑貨店の二階を、会場に提供してくださっています。
 母親の千秋さんは、七十代後半ですが、大変にお元気で、ドライブインの方を、すべて切り盛りされているんです。草創期から、地道に地域広布の開拓に取り組まれてきた、強い求道心をおもちの方です。
 このお母さんは、『山本先生をわが家にお呼びしたい。それが私の夢です』と言われ、ずっと祈ってこられたそうです」
 伸一の胸に、感謝の思いがあふれた。
 「ありがたいことです。御礼のごあいさつに伺いましょう。申し訳ないもの……」
 誠実は、即行動となって表れる。
 どんなに疲れていようが、機会を逃さず、全力で友を励ます──彼の、そのひたぶるな生き方が、創価の絆をつくり上げてきたのだ。
63  求道(63)
 谷沢千秋の子息・徳敬は、四十代半ばの壮年であった。初夏の太陽が照りつける国道を見ながら、ワイシャツ姿で雑貨店の店番をしていた。すると、乗用車が止まった。一人の男性が息を弾ませて駆けてきた。顔見知りの北海道長の高野孝作であった。
 「谷沢さん! 山本先生が来られたよ」
 徳敬は、高野の言っていることの意味が、のみ込めなかった。
 「はあ?」と、聞き返した時、伸一の「おじゃましますよ」と言う声がした。
 「よ、ようこそ、おいでくださいました」
 口ごもりながら、彼は答えた。
 「徳敬さんですね。いつも、お世話になっています。お母さんの千秋さんは、いらっしゃいますか」
 「それが、この先の個人会館に行っております。あそこで、山本先生をお迎えするのだと言って、喜んで出ていきました」
 「そうですか。では、このあとで、お会いできますね。ところで、お仕事は順調ですか」
 「……頑張っております」
 徳敬は、母の千秋と共に、この雑貨店とドライブインを経営していたが、どこか、力を注ぎ切れぬものがあった。
 もともと彼は、雑貨店を継ぐつもりなど全くなかった。獣医を志し、十勝にある農業高校の畜産科に学んでいたが、胸膜炎にかかってしまった。進路の変更を余儀なくされ、教員の免許を取り、小学校の教壇に立った。だが、雑貨店を営む父が腎臓病で倒れた。不本意ながら、自分が店を継ぐしかなかった。獣医への夢が破れた悔しさと悲哀を、夜ごと酒で紛らせた。アルコール依存症になり、入退院を繰り返した。
 経済的な困窮はなくとも、精神が満たされなければ、魂は飢餓にさいなまれる。心を豊かに、強くするなかに、人生の幸福はある。
 そのころ彼は、帯広にいた兄の勧めで、藁にもすがる思いで入会した。
 父も、母も、続いて信心を始めた。一九六〇年(昭和三十五年)のことであった。
64  求道(64)
 創価学会に入会した母親の谷沢千秋は、息子の徳敬以上に、真剣に信心に励んだ。
 彼女は、秋田県の生まれで、幼少期に両親と共に北海道へ渡った。小樽、函館、札幌などを転々とした。十三歳の時に両親と生き別れになり、北見の親戚の家に身を寄せた。愛情、温かい家庭とは、無縁な青春時代であったといってよい。
 十八歳で結婚したものの、夫は病弱であった。肝臓、腎臓、心臓……と病み、入退院の連続であった。生活費の大半は、医療費に消えた。家計は、いつも火の車であった。
 ”自分の人生は、なぜ、不幸にまつわりつかれているのか……”
 そんな疑問が頭をよぎった。草原の上に広がる果てしない大空を見ながら、「翼があれば、何もかも捨てて、どこかに飛んでいってしまいたい」と思うこともあった。
 そのうえ、柱と頼む息子の徳敬が、アルコール依存症になってしまったのだ。千秋の心は、来る日も、来る日も、暗雲に閉ざされていた。
 そのなかで、日蓮大聖人の仏法と巡り合ったのである。「必ず宿命は転換できる」「誰もが幸福になるために生まれてきた。それを実現できるのが仏法である」──その話に、彼女は、信心にかけてみようと決意した。
 懸命に唱題した。「聖教新聞」に掲載されている山本伸一の指導を貪るように読み、弘教にも挑戦した。六時間、七時間と歩いて、仏法対話や同志の激励に出かけた。
 信心を始めると、家業の雑貨店の客が減っていった。学会への偏見に基づく流言飛語を真に受けた人たちが、店に来なくなってしまったのである。
 難だ! 御書に仰せの通りだ!”
 むしろ、闘志が燃え盛った。
 彼女は、日々、心で伸一に語りかけた。
 「先生! 私は負けません。必ず幸せになってみせます。どうか、ご安心ください!」
 師弟の道は、わが胸中にある。
65  求道(65)
 千秋の弘教は、やがて、五十世帯を超えることになる。また、彼女は、学会員に会うと、常にこう言って励ましてきた。
 「どんなに厳しい冬でも、必ず春が来るではありませんか! 苦しい日が、いつまでも続くわけがありません」
 一九七一年(昭和四十六年)、谷沢一家の営む雑貨店の前の道が整備され、標津から釧路に至る国道二七二号線として全面開通した。交通量が増加し、店の利用客も増えた。翌年、雑貨店から二百メートルほど離れた国道沿いにドライブインを開いた。その店の一切を、千秋が担うことになった。
 彼女の夫は、七六年(同五十一年)に、安らかに世を去った。子どもは末子の徳敬のほかに三人おり、それぞれ道東で、教育界や建築業界などで活躍していた。
 千秋と徳敬は、二つの店の収入で、生活に窮することはなかった。しかし、徳敬は、過疎のこの地で、このまま、この商売を続けていいのか、迷っていた。店を継ぐ決意自体が、固まってはいなかったのである。
 雑貨店の谷沢商店を訪れた山本伸一は、徳敬の心を見通したかのように語っていった。
 「人口も少ない別海の地で、商店を経営していくことは難しいかもしれません。
 でも、人間の知恵は、力は無限なんです。それを引き出していく根源の力が信心です。広宣流布のためのわが人生であると心を定め、唱題し、創意工夫を重ねていくならば、必ず道は開けます」
 そして、伸一は、徳敬の手を、ぎゅっと握り締めて言った。
 「どうか、この上春別の、別海の、大長者になってください」
 「はい!」
 徳敬は、決意のこもった声で答えた。この時、彼は、心にわだかまっていた迷いが、霧が晴れるように消えた思いがした。
 伸一は、谷沢一家には、別海の同志のためにも、必ず活路を開き、地域に勝利の実証を示してほしかったのである。
66  求道(66)
 徳敬は、意を決したように、伸一に告げた。
 「母は、山本先生をわが家にお迎えするのだと言って、前々から準備し、祈り続けておりました。二階にお上がりください」
 座談会などの会場として提供している二階へ案内した。仏壇の前には、真新しい紫色の座布団が置かれていた。
 「母が、『先生に使っていただくのだ』と言って、縫ったものです」
 老いた母親が、真心を込め、目をしばたたかせながら、一針一針縫い上げてくれたのであろう。伸一は胸が熱くなった。彼は、徳敬に言った。
 「では、一緒にお題目を三唱しましょう。真心にお応えするために、この座布団を使わせていただきます」
 伸一は、感謝の思いを込め、谷沢一家の繁栄を願い、題目を唱えた。
 千秋は、伸一を迎えることを思い描いて、部屋の畳替えもし、湯飲み茶碗等も用意していたという。
 彼女は、伸一とは、会ったこともない。しかし、心のなかには、常に、信心の師としての伸一がいた。よく、「もっと、もっと、山本先生のお心を知る自分になりたい」と語り、日々、真剣に唱題を重ねてきた。そして、”今日も弟子らしく戦い抜きました”と、心の師に、胸を張って報告できる自分であろうとしてきた。
 日蓮大聖人は、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せである。師もまた、厳として己心にいてこそ仏法である。師弟の絆の強さは、物理的な距離によって決まるのではない。己心に師が常住していてこそ、最強の絆で結ばれた弟子であり、そこに師弟不二の大道があるのだ。
 伸一は、谷沢千秋の真心を実感しながら、「ありがたいね。本当にありがたいね」と、何度も口にした。
 徳敬は、二階の窓を開け、指をさした。
 「あそこの建物が、ドライブインです。すべて母が、元気に取り仕切っています」
67  求道(67)
 「すばらしいお母さんですね。あなたは、最高の母親をもったんです。お母さんとは、あとで記念撮影をしますので、ここでは、あなたと二人で写真を撮りましょう」
 「いや、あの……。すみません」
 徳敬がためらったのは、伸一が背広にネクタイを締めているのに、自分がネクタイもしていないことを申し訳なく思ったからだ。
 二人が並ぶと、同行していた「聖教新聞」のカメラマンがシャッターを押した。
 「お元気で。また、お会いしましょう」
 伸一は、急いで、谷沢千秋らの待つ、西春別の個人会館へ向かった。徳敬は、夢を見ているような思いにかられた。
 個人会館に到着するや伸一は、「谷沢のおばあちゃんは、いらしていますか」と尋ねた。
 和服姿の凜とした老婦人が手をあげた。
 「はい、私です。長旅、お疲れでございましょう。私は、先生とお会いできるこの時を、心から、心から待っておりました……」
 老婦人の目が、見る見る潤んでいった。
 伸一は、握手を交わしながら語った。
 「今、お宅に、おじゃましてきました。おばあちゃんが縫ってくださった座布団にも、座らせていただきました。そして、お題目を唱えてきました。湯飲み茶碗もありがとう」
 「願いが、遂に叶いました。こんなに嬉しいことはありません……」
 「私もです。おばあちゃんは、お幾つ?」
 「七十七歳です」
 「まだまだ、お若い。うんと、長生きしてください。いつまでも、若々しく、ドライブインの『看板娘』でいてください」
 「まあ!」と言って、千秋は、弾けるように笑った。清らかな求道心によって潤された肥沃な生命に、美しき笑みの花は咲き、幸の果実はたわわに実る。
 伸一は、原稿用紙に一句を認めて贈った。
 「いざ祈り 上春別の 長者たれ」
 谷沢一家に、地域で信仰の実証を示してもらいたいという、伸一の熱願の句であった。
68  求道(68)
 伸一は、深い感謝の思いをもって、谷沢千秋と記念のカメラに納まった。
 それから、居合わせた人たちと唱題し、出発前にも、皆で一緒に記念撮影をした。
 その時、伸一は、「谷沢のおばあちゃん、どうぞ」と、千秋を隣に招いた。
 彼女は、自分の来し方を振り返るように目を細め、感慨を込めて言った。
 「信心のおかげで、学会と山本先生のご指導のおかげで、今は、もったいないぐらい、幸せなんです。感謝、感謝です」
 感謝の心は、歓喜を呼び覚まし、幸福境涯へと自らを高めゆく原動力となる。
 谷沢家では、その夜、千秋と息子の徳敬、そして徳敬の妻が、伸一から贈られた句を見て、決意を噛み締めていた。
 「長者たれ」との言葉が、徳敬の心に、深く刻まれた。
 ”必ず長者になる! 先生のご期待にお応えするんだ。それには、自分の店だけでなく、地域全体を活性化させなくては……”
 彼は誓った。働きに働いた。懸命に祈り、知恵を絞り、オリジナルの土産品の試作に取り組んだ。「別海牛餅」「別海牛乳煎餅」「別海牛煎餅」と、何十品目もの新商品を、次々と開発していった。そのなかから幾つもの商品がヒットし、飛ぶように売れていった。地域のスーパーやホテル、空港、デパートなどへも、販路が広がった。
 また、ドライブインの建物も十二坪から二百十坪に増築した。さらに、二百五十台収容の駐車場、土産品製造工場、二百五十人収容の食堂も造った。文字通り、上春別の、別海の、長者となったのである。
 谷沢千秋は、亡くなる少し前まで、店で接客を続けた。伸一との約束通り、「看板娘」であり続けた。そして一九九一年(平成三年)、大満足のなかに、八十九歳十一カ月の生涯の幕を閉じたのである。
 誓い、決意こそ、願いを成就する種子である。励ましとは、心の大地を耕し、心田に、その種子を植える作業である。
69  求道(69)
 西春別の個人会館を出発した山本伸一は、車で一時間ほど走り、午後四時過ぎ、十一年ぶりに釧路会館を訪問した。飛行機に間に合うぎりぎりの時刻まで、釧路の同志と唱題し、語らい、励ましたのである。
 夜、札幌の北海道文化会館に戻った伸一は、翌十七日には、再び厚田の戸田記念墓地公園に向かった。
 この厚田滞在中、第一回北海道合唱祭に出席したほか、北海道女子部教学大学校生との記念撮影などにも臨んだ。さらに、わずかな時間を見つけては、会員の家庭訪問に力を注いだ。厚田村の望来や石狩町の会員宅にも足を運び、懇談し、指導を重ねた。
 一方、峯子は、十七日には、戸田城聖と同級生であったという老婦人の激励や、厚田第一大ブロック、厚田第三大ブロックの婦人部総会へと走った。
 二十日、二人は、札幌創価幼稚園を訪問したあと、活動の舞台を函館に移した。
 函館文化会館での開館五周年記念勤行会や函館広布二十五周年の記念勤行会、函館研修道場での諸行事に出席し、寸暇を惜しんで会員宅の訪問や懇談を行った。
 強行スケジュールの長旅を終え、伸一たちが東京の土を踏んだのは、六月二十三日夕刻のことであった。この北海道指導は、道内を東西に横断する、十六日間に及ぶ渾身の激励行であった。共に記念撮影した人の数は約五千人、延べ二万人を超える会員と会い、励ましたのである。
 このころ、宗門は、若手の僧らが急先鋒となって、衣の権威を振りかざし、各寺院で常軌を逸した学会批判を繰り返していた。大聖人の御遺命である広宣流布の大願に生きる仏子を、“大聖人の末弟”と名乗る僧がいじめ抜く。伸一は、悪逆非道の濁世なれば、全同志の胸中に、何ものをも恐れぬ真の信仰の炎をともそうと、わが身を燃やして戦った。
 烈風が猛れば猛るほど、創価の正義の闘魂が、赤々と、強く、激しく燃え盛る──それが広布誓願の勇者だ。

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