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日蓮大聖人・池田大作

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第27巻 「激闘」 激闘

小説「新・人間革命」

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1  激闘(1)
 闘争のなかに前進がある。
 闘争のなかに成長がある。
 闘争のなかに希望がある。
 闘争のなかに歓喜がある。
 ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギーは、信念の言葉を記した。
 「人生は闘争であり、また、いつまでも闘争であるべきである」
 さあ、闘争を続けよう!
 自分自身との闘争を!
 宿命との闘争を!
 大宇宙に遍満する魔性の生命との闘争を! 広宣流布の大闘争を!
 新しき人生の旅が、今、始まるのだ。
 山本伸一の会長就任十八周年となった、一九七八年(昭和五十三年)五月三日、全国各地の会館で、「5・3」を祝賀する記念勤行会が、晴れやかに開催された。
 この日午前、伸一は、東京・立川文化会館での勤行会に出席した。
 「皆様のおかげで、会長就任十八周年を迎えることができ、御礼、感謝申し上げます。
 広宣流布の流れは、「大河」の時代から、「大海」へと向かっております。大海原の航海には、激しい風雨も、怒濤もあることを覚悟しなければなりません。
 しかし、競い起こる諸難は、経文に、御書に照らして、正義の信仰を貫いている証明です。大聖人は、『大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし』と仰せです。強き信心があれば、大難に遭おうとも、むしろ仏法への確信を強くし、歓喜をもたらしていきます。『衆生所遊楽』とは、難がないということではない。何があっても恐れることなく、日々、信心の歓喜を胸に、すべてを悠々と乗り越えていける境涯の確立です。
 私たちは、いよいよ信心強盛に、何ものをも恐れず、満々たる功徳を受けながら、楽しい人生を歩んでいこうではありませんか!」
 簡潔なあいさつであったが、参加した同志の心を強く打つ指導となった。
2  激闘(2)
 山本伸一は、立川文化会館での記念勤行会を終えると、直ちに創価大学へ向かった。「5・3」のメーン行事となる、「創価功労賞」「広布功労賞」の表彰式典等に出席するためであった。草創期から、共に広宣流布に戦い抜いてくれた同志を、彼は、最高に讃え、励ましたかったのである。
 学会の組織は、大きな世代交代の時期を迎えていた。広宣流布の未来を盤石なものにしていくには、続々と若いリーダーが誕生しなければならない。そこに組織の活性化も図られていく。その際、新しいリーダーが、功労者の先輩たちを最高に遇していけるかどうかが、広布伸展の重要なポイントになる。
 具体的には、その組織に、どんな先輩がいるのかを知っていくことから始まる。
 そして、一人ひとりにお会いし、敬意をもって、広宣流布とともに歩んだ体験に耳を傾け、そこから真摯に学んでいくことである。信仰の年輪を重ねた人には、実践を通して培われてきた、確信と智慧の輝きがある。
 「尊敬を欠く人間は果実を実らせることができないだろう」とは、詩人で小説家のリルケの戒めである。
 さらに、どうすれば、その先輩がいかんなく力を発揮し、皆が喜び、地域広布が前進するのかを考えていくことだ。
 学会は、人材の大城である。さまざまな力、実績をもった多くの功労者がいる。その方々に光を当てて、力を借りていくならば、組織は何倍も強くなる。
 広宣流布を決するのは総合力である。総合力とは団結力である。
 伸一が、会長就任十八周年のメーン行事を、功労者への表彰式典としたのも、″草創の勇者″たちの広宣流布への大貢献に感謝するとともに、円熟した人格と豊富な経験を生かして、ますます広布前進の大きな力になっていただきたいとの思いからであった。
 生涯を広宣流布に生き抜いてこそ、真の功労者である。後退は、自身の黄金の歴史を汚すことになる。
3  激闘(3)
 山本伸一が、創価大学の体育館で行われた表彰式典で強く訴えたことは、「生涯、信行学の実践を」ということであった。
 日蓮大聖人の仏法は、「本因妙」の仏法である。それは、私たちの生き方に当てはめていうならば、「生涯求道」「生涯精進」「生涯成長」ということである。
 大聖人は仰せである。
 「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」、「いよいよ法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」、「いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ
 明日へ、未来へと、命ある限り法を求め、自分を磨き、鍛え、挑戦していく。それが、仏法者の生き方である。
 ゆえに、信心の功労者とは、過去の人ではない。未来に向かって、広宣流布のために、新たな挑戦をし続ける人である。
 表彰式典のあと、伸一は、創価大学の白ゆり合宿所で開催された、富士交響楽団の「5・3」記念演奏会に出席した。
 さらに翌四日には、在日ソ連大使館の関係者らと共に、創価大学の体育館での第二東京合唱祭に出席。五日には、同大学のブロンズ像前で、「創価学会後継者の日」を祝して、高等部、中等部、少年・少女部の代表らと相次ぎ記念撮影したあと、グラウンドで行われた音楽隊の全国総会に臨んだ。
 席上、あいさつした伸一は、見事な演奏、演技を心から賞讃し、「世界の恒久平和のために、ひたすら諸君の成長を祈り、待っております。そして、一切を諸君にバトンタッチしたい」と訴えた。
 終了後、伸一は、観客席からグラウンドに降りた。大歓声が起こった。彼は出演者をはじめ、集った青年たちを励ましていった。
 この日は、北は北海道の網走、南は沖縄から、全国三千人の音楽隊員が集っていた。
 そのなかには、方面旗を両手で、終始、支え続けてきたメンバーもいた。また、中等部員の隊員もいた。
4  激闘(4)
 山本伸一は、グラウンドを回りながら、各方面の音楽隊長と握手を交わし、中等部の隊員を見つけると、歩み寄っては、両手を広げて、抱え込みながら語りかけた。
 「すばらしい演技でした。勉強もしっかり頑張って!」
 会場に設置されたバックパネルの足場から、顔をのぞかせている作業服姿の設営メンバーがいた。伸一は、大きく手を振り、頭を下げた。ヘルメットの下の顔がほころんだ。
 伸一は、額にも、首筋にも、汗を滲ませながら、何人もの青年たちと握手を交わしていった。全力で労をねぎらう彼を見つめるメンバーの目には、涙が光っていた。
 このあと伸一は、創価大学の会議室で、テレビ局や新聞各社の記者と懇談会をもった。
 記者の一人が質問した。
 「いつ見ても、学会の青年部は躍動しているという印象があります。また、その青年たちと山本会長とは、深い信頼で結ばれていることを実感します。
 会長は、どのようにして、青年たちとの信頼関係を培ってこられたんでしょうか」
 伸一は、静かに頷くと、語り始めた。
 「ありのままに、お答えします。
 私は、今日も、″ひたすら諸君の成長を祈り、待っている″と言いました。また、″一切をバトンタッチしたい″とも語りました。青年たちに対する、その私の気持ちに、うそがないということなんです。
 私は、青年たちに、『自分は踏み台である。諸君のためには、どんなことでもします』とも言ってきました。事実、青年部を百パーセント信頼し、なんでもする覚悟です。
 また、青年に限らず、皆が喜んでくれるならと、たとえば、去年一年間で、色紙などに一万七百八十四枚の揮毫をしました。
 つまり、私は、本気なんです。だから、その言葉が皆の胸に響くんです。だから、心を開き、私を信頼してくれるんです」
 誠実という豊かな人間性の大地にこそ、信頼の花園は広がるのだ。
5  激闘(5)
 山本伸一は、力を込めて語っていった。
 「また、私が創立した創価学園の生徒について、『私の命よりも大事である』と述べました。私は、自分をなげうっていくつもりで、こう訴えたんです。ありのままの、偽らざる気持ちを、そのままぶつけているんです。
 だから、生徒たちも、若い教員たちも、その心に応えていこうと、思ってくれるのではないでしょうか。そして、そこから、本当の信頼が生まれていくのではないでしょうか。
 口先だけの決意や、美辞麗句は、人間の魂には響きません。また、最初は、その言葉を信じてくれても、うそがあれば、やがて誰も信じなくなります。
 つまり、大事なことは、自分の真情を正直にぶつけ、約束したことは、どんなに小さなことでも、徹底して守っていくことです。これが、指導者の最も大切な要件であると、私は思っております。
 不思議なもので、年を重ねるにつれて、私のなかで、青年への期待度は、ますます高くなってきているんです。私の恩師・戸田先生も、きっと、そうだったと思います。今になって、そのお気持ちがよくわかります。
 戸田先生は、晩年、『頼むよ。頼むよ』とよく口にされた。それは、私をはじめ、青年たちが、″必ず自分の期待に応えてくれるだろう。いや、期待以上の仕事をしてくれるにちがいない″との、確信に裏づけられた言葉であったと思います。
 私の最高の宝は何か――それは、後継の青年たちです。
 私の最高の誇りは何か――それは、立派に青年たちが育っていることです」
 別の記者が尋ねた。
 「山本先生は、今後は、いかなる事業に力を注がれていくおつもりですか」
 伸一は、即座に答えた。
 「これまでも申し上げてきましたが、教育です。特に個人的には、『教育』のなかでも、『教える』ことより、『育てる』ことに、力を注いでいきたいと考えています」
6  激闘(6)
 山本伸一が、「教育」を「教」と「育」に分け、特に「育てる」ことに力を注ごうと考えた背景には、彼の独自の教育観があった。
 彼が知る限り、日本の教育は、知識、技術を教えることに力点が置かれていると言わざるを得なかった。大事なことは、習得した知識や技術を、自身の幸福のため、社会のために生かしていける創造的な能力、つまり独創性を培っていくことである。
 それには、上から、一方的に知識や技術を与え、「教える」ことより、一人ひとりがもっている能力を引き出し、「育てる」ことが、より大切になる。
 そして、そのためには、教師と学生・生徒の、人間対人間の「触発」が不可欠であり、全人格的な関わりが求められる。
 伸一は言った。
 「私は、教育の主軸は、『教』から『育』に移していかなければ、豊かな創造性は培えないと思っています。この『人を育てる』作業にこそ、時代の再生と、未来の建設があると考えています。
 もし、意見があれば、言ってください」
 同じ記者が質問した。
 「確かに私も、教育のなかでも『育てる』ことに力点を置く必要性を感じます。
 ところで、現代は青年たちの価値観が多様化し、指導も一様にはいかないのではないかと思います。会長が青年たちに、特に強く訴えておられるのは、どんなことでしょうか」
 「鋭い質問です。私は、青年には、生き方の根本的な原理といいますか、人生の基本となる考え方を訴えるようにしています。いわば、その原理に則って、各人が、それぞれの具体的な問題について熟慮し、自ら結論を出してもらいたいと思っているからです。
 そのうえで、私が、強調していることの一つは、『苦難を避けるな。苦労しなさい。うんと悩みなさい』ということです」
 文豪ユゴーは、こう綴っている。
 「あらゆる苦悩をだきしめることから信念がほとばしりでる」
7  激闘(7)
 山本伸一は、記者たちに、困難や苦労に立ち向かうことの大切さを語っていった。
 「苦闘は、人間として大成していくうえで、必要不可欠です。それが、いかなる逆境にも負けない雑草のような強さを培っていくからです。ところが近年、青年たちは苦労を避け、悩もうとしない傾向が強くなっています。
 私は、そこに、青年の大成を妨げる、大きな落とし穴があると感じています。
 青年が、自分はどう生きるかを真剣に考え、理想をもって現実に向き合い、人生の一つ一つのテーマを見すえていくならば、さまざまな悩みや葛藤があるものです。仕事一つとっても、向上心や改革の思いが強ければ強いほど、悩みは多いはずです。
 時には、力の限界を感じて、自分を卑下し、絶望することもあるかもしれない。でも、そこから、どう立ち上がって、人生を切り開いていくかが戦いなんです。そのために悩むんです。
 もし、青年が、理想からも、現実からも目を背け、状況に身を委ねて生きるだけなら苦悩は少ないでしょうが、人間としての成長も、精神の錬磨もなくなってしまう。
 結局は無気力、そして刹那主義に陥り、自身の本当の幸福も築けなければ、社会の未来も閉ざされてしまうことになります」
 現代には、地道な努力や苦労を避け、安易によい結果のみを得ようとする風潮が蔓延しつつあることを、伸一は憂慮していた。
 それは、一攫千金を求める生き方へと傾斜していく。その思考は、現世を穢土とあきらめ、現実のなかで粘り強く、努力、挑戦することを放棄し、ただ念仏を称えて、彼方に極楽浄土を求める発想に通じよう。実は、ここに、人間に共通する不幸の″一凶″がある。
 向上、改革の道は、苦悩との格闘である。だが、その日々にこそ、生命の充実と躍動があり、自身の成長という最高の実りがあるのだ。
 ゆえに、ガンジーは訴えている。
 「喜びとは、勝利それ自体にではなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にある」
8  激闘(8)
 苦闘は、精神を鍛え、人間力を培う父である。苦闘は、歓喜を生み出す母である。
 山本伸一は、記者たちに語った。
 「私は、青年たちに、苦闘を厭わぬ信念と哲学をもってほしいんです。苦労するのは辛いことです。しかし、自分の置かれた現実と、そこに横たわる困難を避けずに直視し、真正面からぶつかっていくことが大事なんです。労苦のなかった偉人も、英雄もいません。
 苦悩は、鉄の精神をつくりあげる溶鉱炉です。人生の一つ一つの苦しみが、自身の向上の力となり、創造の源となっていきます」
 たとえば、病苦も、人間完成への力としていくことができる。御聖訓には「病によりて道心はをこり候なり」と仰せである。病と向き合い、苦悩することから、それを克服しようとの強き信心が、熱き求道の一念が起こり、自己の成長が図れるのだ。
 仏法では、「生死即涅槃」と説く。苦しみ、迷いが、そのまま悟りとなるという法理である。つまり、苦悩があってこそ、悟りがある。大苦あってこそ、大悟があるのだ。
 日蓮大聖人は師子吼された。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし
 ここには、全人類のさまざまな苦悩をわが苦とされ、万人に成仏の道を開かれた御本仏の、大慈大悲の御境涯が述べられている。
 その大聖人の御心を、わが心として立つのが、われら末弟の生き方である。
 自分のことだけを悩み、汲々としているのではなく、周囲の人たちと、あらゆる人びとと同苦し、苦悩を分かち合い、崩れざる幸福の道を示すために、広宣流布に生き抜くのだ。
 あの友の悩みに耳を傾け、懸命に励ましの言葉をかける。この人に、なんとしても幸せになってほしいと、必死に仏法を語り、題目を送る――われらの健気なる日々の実践こそが、大聖人に連なる直道であるのだ。
 その時、自身の偏狭なエゴイズムの殻は破られ、地涌の菩薩の、御本仏の大生命が胸中に脈動し、境涯革命の歯車が回転するのだ。
9  激闘(9)
 山本伸一は、苦悩することの意味に思いをめぐらしながら、記者たちに語っていった。
 「苦労せずしては、人の苦しみはわかりません。もしも、そんな指導者が社会を牛耳るようになれば、民衆が不幸です。だから私は、未来を担う青年たちに、『苦労しなさい』と言い続けています。人びとの苦悩がわかる人になってもらいたいんです。
 そのためには、自ら困難を避けず、勇んで苦労を引き受け、人一倍、悩むことです」
 人間が大成していくうえで、不可欠なものは、悩むということである。それが、自己の精神を鍛え、新しい道を開く創造の源泉ともなっていく。人間のもつさまざまな能力は、悩む力、いわば″悩力″の産物であるといっても過言ではない。したがって、″悩力″を身につけることこそ、人間の道を究めていくうえで、必須の条件といえよう。
 伸一は、次代を見すえるように、彼方を仰ぎながら語った。
 「私は、来年の五月で、会長就任二十年目に入ります。その意味では、この一年は、会長として総仕上げの年であると、心を定めております。後継の青年たちを、全力で育て上げていきます。全国を駆け巡り、会員の激励にも奔走していきます。
 この一年も、私の行動を見守っていただければと思います」
 伸一は、可能な限り、新聞記者など、マスコミ関係者の要望を受け入れ、懇談の機会をもつようにしていた。恩師である戸田城聖も、記者と直接会って、自分自身のことも、学会のことも、忌憚なく、ありのままに語ってきた。
 マスコミによる学会批判のなかには、記者たちが、学会や伸一のことをよくわからないために、誤解や偏見に基づいて書いた記事も少なくなかった。それらの誤解や偏見の多くは、直接会い、真実の姿を知ってもらうことによって、払拭していくことができる。
 彼は、そのために、自ら先頭に立って、語らいの機会をもっていったのである。
10  激闘(10)
 人と会い、誠意をもって対話していくなかで理解が生まれ、やがて、信頼と共感が芽生えていく。ゆえに、広宣流布のためには、粘り強い交流と語らいが大切になるのである。
 しかし、一部のマスコミ関係者が、政治的な意図や悪意をもって、初めから学会を中傷し、攻撃することを目的に、接触してくるケースもあった。誠実に応対しても、善意は踏みにじられ、発言は、ことごとく悪用された。
 それでも山本伸一は、学会の真実を伝えようと、真心を尽くして、マスコミ関係者との語らいに努めてきたのである。
 同志のなかへ、生命のなかへ。今こそ、一人でも多くの法友と会い、広宣流布への新しき誓願と共戦の旅立ちをしよう――山本伸一は走った。
 五月九日には、東京・練馬区に完成した練馬文化会館の開館記念勤行会に出席した。
 伸一の練馬区訪問は、一九七三年(昭和四十八年)一月の記念撮影会以来、五年ぶりであった。
 練馬区は、四七年(同二十二年)八月、東京・板橋区から分離し、都内二十三区のなかで最後に誕生した区である。四七年の八月といえば、伸一の入会と同じ年の同じ月である。東京・信濃町から練馬に向かう車中、彼は、そのことを思うと、一段と練馬に親しみが感じられてならなかった。
 午後二時過ぎ、練馬文化会館に到着した。会館は、鉄筋コンクリート造りの白亜の四階建てであった。会館の前を高速道路が走る一方、会館の後ろには、野菜畑が広がり、のどかな景観が伸一の心を和ませた。
 車を降りた彼は、道を挟んで会館の隣にある、学会員が営む製茶販売店に顔を出した。
 店先に、茶が飲めるようにテーブルと椅子が用意されていた。伸一は、店の人や、居合わせた婦人らに声をかけ、懇談が始まった。
 即席座談会である。一人ひとりの近況に耳を傾け、ねぎらい、励ます。広宣流布の志あるところ、人が集えば座談会となる。
11  激闘(11)
 製茶販売店から練馬文化会館に移動した山本伸一は、記念植樹や婦人部の合唱団との記念撮影に臨み、さらに、三、四十人の幹部との懇談会に出席した。
 草創期に、共に戦った人たちの顔もあった。
 「懐かしいね。お元気そうで嬉しい」
 伸一が声をかけたのは、かつて彼が支部長代理を務めた文京支部で、一緒に活動に励んだ金田都留子であった。
 金田は、満面の笑みで一礼した。
 彼女は、一九五三年(昭和二十八年)の五月、伸一が担当していた座談会に、未入会の姉と共に参加し、彼の話を聞いて、入会を決意したのである。
 金田の夫は、勤めていた会社が倒産し、さらに結核を患った。三人の子どものうち、小学一年になる長男は、結核、喘息、大腸カタルにかかり、げっそりと痩せ細っていた。生活は困窮し、治療費はおろか、食費さえもままならぬ暮らしであった。
 都留子は、何も希望を見いだすことができず、未来は暗澹としたものにしか思えなかった。髪を整える気力も失せ、顔色は青白く、笑顔は絶えて久しかった。″死にたい……″と、ため息交じりに日々を過ごした。
 未来に希望を感じられるかどうか――そこに、幸福を推し量る一つの尺度があるといってよい。未来が闇としか思えぬならば、心は不安に苛まれ、たとえ今、恵まれた環境下にあっても、幸せを感じることはできまい。
 都留子が苦悩の渦中にあった時、姉が知人から学会の座談会に誘われた。姉も戦争で夫を亡くしていたが、妹の方が不幸続きであると不憫に思い、都留子に声をかけたのだ。
 「創価学会という宗教の会合があるそうだから、一緒に行ってみない。話を聞いて、もし良さそうだったら、あなたは、やってみたらどうかしら」
 二人は、描いてもらった地図を頼りに、座談会場である東京・池袋の染物店を訪ねた。会場は五十人ほどの人で埋まり、熱気にあふれていた。
12  激闘(12)
 座談会場では、凜とした気品を漂わせた和服姿の婦人が、宗教の教えには、高低浅深があることを訴えていた。文京支部長の田岡治子であった。
 「人は、信じる対象によって大きな影響を受けます。詐欺師を立派な人だと思い込めば、お金などを騙し取られてしまいます。しかし、本当に優れた友だち思いの人を信じてついていけば、多くのことを学べますし、さまざまなアドバイスも受けられ、自身を向上させていくことができます。
 また、間違った地図を正しいと信じれば、道に迷い、目的地には着けません。でも、正しい地図を持ち、その通りに進めば、目的地に行くことができます。
 ましてや宗教というのは、その人の生き方の根本となる教えです。いわば、幸福をめざす地図です。もし、誤った教えを正しいと信じてしまえば、人生を根本から狂わせてしまうことになりかねません。だから、幸福を築くためには、正しい宗教を信じる必要があるんです。宗教は、皆、同じであるなどということはありません」
 さらに、彼女は、数ある宗教のなかで、なぜ、日蓮大聖人の仏法が最高の教えであるのかを、力を込めて語っていった。
 金田都留子にとっては、初めて聞く話ばかりであったが、納得することができた。
 そして、次に話をしたのが、文京支部長代理の山本伸一であった。彼は、二十五歳の青年であった。
 伸一は、座談会に来た金田姉妹のうち、都留子のやつれた姿が気になって仕方がなかった。力強い彼の声が響いた。
 「多くの人は皆、幸せになろうと、自分なりに必死の努力をしています。しかし、頑張ったからといって、皆が皆、必ずしも幸福になれるとは限らない。では、同じように努力しても、成功し、幸せになれる人と、なれない人がいるのはなぜか。それは、福運によるんです。自分に福運があれば、努力が、そのまま報われ、幸せの果実となっていきます」
13  激闘(13)
 金田都留子は、山本伸一から、「福運」という言葉を聞いた時、亡くなった兄のことを思い起こした。兄は、東京物理学校(現在の東京理科大学)に学び、成績優秀で、家族の期待を一身に担っていた。
 両親は病弱であり、一家の暮らしは貧しかった。この兄を支えようと、姉も都留子も進学をあきらめ、働きに出た。
 ところが、その兄が、卒業直前に結核に倒れた。喀血を繰り返し、五年間の療養生活の末に、二十八歳で他界したのだ。
 死を前にして、兄は母に語っていた。
 「人生って、なんて不公平なんだろう。若くして死ぬなら、生まれてこない方がよかった。でも、そこにも、何か深い意味があるのかもしれない。それを教えてくれる、人生をよりよく生きるための、正しい宗教があるように思う。それを探してほしい」
 伸一は話を終えると、参加者から質問を受けた。
 金田は、兄のことを語り、こう尋ねた。
 「兄の言うような、正しい宗教が本当にあるのでしょうか。私には、人生も社会も不公平だし、正直者が損をするのが、この世の中であるとしか思えません」
 伸一は、大きく頷き、笑顔を向けた。
 「そうですか。お兄さんは、最期まで、この日蓮大聖人の正法を探し求めていたんですよ。ご冥福を祈ってあげてください。南無妙法蓮華経とお題目を唱えれば、全宇宙に、その力は波動していきます。
 あなたも、ご苦労されたんですね。しかし、人間は、幸福になるために生まれてきたんですよ。仏法によって、必ず幸せになれるんです。あきらめてはいけません。
 一緒に信心なさいませんか。人生には、幸福になるための軌道があるんです。それが大聖人の仏法です。正しい人生の軌道に乗ったうえでの苦労は、すべて実を結びます。しかし、根本の軌道が誤っていれば、苦労も実りません。穴が開いた容器で水を汲もうと思って奮闘しても、水が汲めないのと同じです」
14  激闘(14)
 山本伸一は、金田都留子に、人には宿命があり、日蓮大聖人の仏法によって、その宿命を転換し、崩れざる幸福境涯を築けることなどを諄々と語っていった。彼は、多くの辛酸をなめてきたであろう、この婦人に、なんとしても幸せになってほしかった。
 折伏とは、相手の幸福を願う、強き一念の発露である。
 金田は、山本伸一という初対面の青年に、真心と信仰への強い確信を感じた。暗闇に閉ざされていた心に、パッと光が差したような気がした。
 「お願いします。信心をさせてください」
 思わず彼女は、こう口にしていた。
 伸一は、金田に、静かな口調で語った。
 「この信心をすると、必ず周囲の反対に遭います。魔が競い起こってきます。それは、日蓮大聖人が『魔競はずは正法と知るべからず』と仰せのように、大聖人の仏法が正しいからなんです。
 したがって、勇気がなければ、信心を貫いていくことはできません。その覚悟は、おありですか」
 「はい!」
 金田は、″毎日、死にたいと思っているような人生ではないか。それが転換できるのなら、誰に反対されようが、絶対に信心を貫いてみせる!″と、固く心に誓ったのである。
 しかし、彼女を座談会に誘った姉は、入会しようとはしなかった。
 金田は、真剣に信心に励んだ。
 ほどなく、長男の結核の進行が止まった。学校にも通えるようになった。
 彼女は、そこに、仏法の力を感じた。欣喜雀躍して、日々、勇んで学会活動に飛び出していった。
 功徳の体験に勝る力はない。体験は確信を生み、その確信に満ちた実践が、また新たな体験を生み出していく。
 入会して間もなく、彼女は、地区講義で伸一の「立正安国論」講義を聴いた。大きな衝撃を受けた。目の覚める思いがした。
15  激闘(15)
 山本伸一は、「立正安国論」を拝して、日蓮大聖人の仏法を実践するとは、どういうことかを、わかりやすく語っていった。
 「大聖人の仏法は、ただ単に、自分が成仏すればよい、自分だけが幸せになればよいという教えではありません。周囲の人びとも共に幸せになり、社会の繁栄があってこそ、自身の安穏、幸せもあると教えているんです。
 たとえば、災害に遭って周りの人たちが苦しんでいれば、自分は無事でも、幸せを感じることなど、できないではありませんか。
 ゆえに大聖人は、自分だけが題目を唱えていればよいというのではなく、折伏・弘教の実践を、仏道修行の要諦として示されているんです。つまり、エゴイズムに安住するのではなく、人びとの幸福のために正法を弘めるなかに、自身の最高の幸福があるんです。
 言い換えれば、日蓮大聖人の仏法は、折伏・弘教を掲げた広宣流布の宗教であることが、大きな特色といえます。
 では、なんのための広宣流布か。
 それは、″立正安国″のためです。″立正″とは、人びとの胸中に正法を打ち立てることであり、その帰結として、″安国″すなわち、社会の繁栄と平和を実現していくんです。
 したがって、大聖人の仏法を持った私たちには、民衆が心から幸せであると言える社会を、建設していく使命があるんです。
 社会を見てください。あまりにも多くの人びとが、貧乏、病気、家庭不和などに悩み苦しんでいるではありませんか!
 世界を見てください。動乱、戦争が絶えないではありませんか!
 この人びとの苦悩を解決するために、私たちは地涌の菩薩としての大使命をもって、この世に出現してきたんです。私たちの日々の活動が、世界の未来を決していくんです」
 金田都留子は、自分の世界が、大きく広がっていく思いがした。これまで、考えもしなかった壮大な歴史の流れのなかに、自分がいることを感じた。人は、広宣流布の使命を自覚する時、境涯革命の扉が開かれるのだ。
16  激闘(16)
 金田都留子は、自分も広宣流布の大理想を担う一人であると思うと、胸は高鳴り、体が打ち震える思いがした。
 山本伸一は、彼女の心を察したかのように、微笑みを浮かべて語った。
 「仏法を持った私たちの使命は、深く、大きい。広宣流布というのは、世界平和の実現がかかった、人類の命運を決する戦いなんです。
 皆さんは、その壮大にして崇高な戦いを起こそうというのですから、自分の小さな悩みや苦しみに打ちひしがれ、意気消沈しているようなことがあってはなりません。
 『全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ』という言葉があります。すべては、自己自身との戦いです。自分に勝つことが、一切の勝利につながっていくんです」
 彼女は、伸一の講義に、大きな感動を覚えた。その胸に、広宣流布への使命の灯火が、明々とともされたのである。
 以来、金田は、喜々として周囲の人びとに仏法を語っていった。彼女の姉は、日ごとに、はつらつとしていく妹の姿に驚き、信心を始めた。また、都留子の夫も入会した。
 人間革命の実証ほど、仏法の偉大さの証明となる力はない。
 金田は、いつも″死にたい″と思っていた自分が、日々、歓喜に燃えて生きていることを、人に語らずにはいられなかった。
 彼女は、弘教の闘士に育っていった。
 文京支部は、北海道の夕張や、東海道本線の主要駅、東京の八王子などにも戦線を広げ、いくつもの活動拠点が誕生していた。金田は、電車やバスを乗り継ぎ、会員の激励にも奔走するようになっていった。
 ある時、数人の婦人たちと、神奈川方面へ活動に出かけた。帰りの電車で伸一と会った。乗客は少なかった。彼は言った。
 「ご苦労様です。せっかくですから、御書を勉強しましょう。御書はお持ちですか」
 皆、バッグから御書を取り出した。
 「一二六二ページの『日厳尼御前御返事』を開いてください」
17  激闘(17)
 山本伸一は、車中、金田都留子たちに、「日厳尼御前御返事」を講義し始めた。
 「ここで、『叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず』と大聖人が仰せのように、願いが叶うか叶わないかは、ひとえに自身の信心の厚薄にかかっているんです。
 そして、『水すめば月うつる』と言われている。
 澄んで静かな水には、月が美しく映りますが、水が濁って波立っていれば、月は映りません。清らかで強い信心の人は、澄んで静かな水が、くっきりと月を映し出すように、大功徳を受けていくことができます。
 しかし、弱い信心の人は、波立って濁った水のようなものです。月を美しく映すことはできず、功徳に浴することはできません。
 したがって、どこまでも清らかで、潔い信心を貫いていくことが大事なんです。
 これから先、人生にも、学会にも、さまざまな試練の嵐が待ち受けているでしょう。でも、何があろうが、学会から離れず、清らかな信心を貫き通していってください。
 そうすれば、必ず大勝利の人生を生き抜くことができます。『私は、誰よりも幸せだった。最高の人生だった』と、胸を張って言い切れる人生を送れます」
 金田の心には、「清らかな信心」という言葉が、深く刻まれていった。それは、彼女の生涯の指針となっていくのである。
 また、車中で一生懸命に御書を講義する伸一の振る舞いから、彼女は、リーダーの在り方を学んだのである。
 「山本支部長代理は、青年部の室長も兼務されている。激闘を重ねていらっしゃるだけに、車内では、ゆっくりと体を休めたかったにちがいない。しかし、この時を逃すまいとするかのように、私たちのために、ずっと講義をしてくださった。友のために、全精魂を尽くし抜いていくのがリーダーなんだ。
 私も、そうしていこう。それが、ご期待にお応えする道ではないか……」
18  激闘(18)
 金田都留子は、地方指導にも喜々として参加した。山本伸一らと共に、静岡県藤枝方面の指導に行ったこともあった。
 地元の幹部から、闘病中の会員がいることを聞いた伸一は、早速、翌朝には訪問し、激励した。包み込むように、病状などを尋ねたあと、確信をみなぎらせ、朝晩の勤行の大切さなど、信心の基本を語っていった。
 同行した金田は、″御本尊の功徳に浴すことができない同志を、一人として出すまい″とする、伸一の強い慈愛を感じた。
 ″これが指導の心なのだ!″と思った。
 金田だけでなく、伸一と一緒に活動に励んだメンバーは、彼の行動を通して、学会活動の在り方と、そこに込められた魂を体得していったのである。
 金田たち文京支部の同志にとって、支部長代理の伸一と共に戦ったことが、最大の誉れであり、誇りであった。一方、伸一も、健気な文京の友を頼もしく思い、深く敬愛していた。彼らのためには、一切の労苦を惜しむまいと心に誓ってきたのである。
 一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、伸一は第三代会長に就任する。彼の会長就任が決まった時、文京支部員たちは喜びのなか、何をもって新会長誕生を祝賀すべきか考えた。
 メンバーは、かつて伸一から聞いた、彼自身の体験を思い起こした。
 ――それは、戸田城聖が第二代会長に就任することが決まった時、伸一は、″広宣流布の大師匠が誕生するのだ。弟子として、それをお祝い申し上げるには、弘教しかない!″と決意する。そして、仏法対話を実らせ、戸田の会長就任式となった五一年(同二十六年)五月三日に、同じ会場で弘教した知人への御本尊授与が行われたという話である。
 「私たちも、大折伏をもって、山本先生の会長就任を祝福しよう!」
 すべてを弘教の活力にしていく――それが広宣流布の団体である学会の在り方である。
 文京支部は疾駆した。四月度、見事にも弘教第一位の栄冠に輝いたのである。
19  激闘(19)
 山本伸一が、第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の本部総会の席上、大発展を遂げた文京支部は、三支部に分割された。
 この時、金田都留子は、文京支部の常任委員から、新設された新宿支部の婦人部長となったのである。
 当時、金田は東京の板橋区に住んでいた。新宿区内に住む地区部長が、自宅の一室を支部事務所として提供してくれた。彼女は、ここを拠点にして活動に励んだ。そして、夕方には一度、自宅に戻って夕飯の支度をしてから、再度、支部事務所にやって来るのだ。
 また、支部員宅を訪ねての個人指導に力を注いだ。タテ線時代のことであり、支部員は目黒、世田谷をはじめ東京各区や、千葉、神奈川など近県に散在し、長野県にもいた。
 したがって、支部員宅の訪問も、電車やバスを乗り継がねばならず、日に二、三軒を回るのがやっとであった。
 日々の交通費を工面するのも悩みの種であった。生活費は、節約に節約を重ねた。
 彼女の家には電話がないため、連絡、報告も一苦労であった。冬の夜、寒さに震えながら、公衆電話の順番を待つこともあった。
 しかし、指導・激励したメンバーが立ち上がり、功徳の体験を積み、「こんなに幸せになりました!」と報告に来る姿に接すると、すべての苦労は吹き飛んだ。
 金田は、個人指導ノートを作り、会った人たちの状況や指導した内容などを、克明に記していった。そして、一人ひとりが、かかえている悩みを克服できるように、真剣に題目を送るとともに、定期的に連絡を取った。
 彼女は、こう考えていた。
 ″本人が苦悩を乗り越え、見事な信心の実証を示してこそ、個人指導が完結する!″
 支部員の幸せを祈って生きていくなかで、彼女自身がたくさんの功徳を受けた。板橋区から、練馬区にある電話付きの大きな家に転居し、家族も皆、健康になっていた。また、何よりも笑いの絶えない家庭になった。
20  激闘(20)
 金田都留子の個人指導ノートに記載された人の数は、一九七八年(昭和五十三年)春には、優に千人を超えていた。それは、幸せの大輪を咲かせた数でもあった。
 一人ひとりの心に、勇気と確信の火を燃え上がらせ、広宣流布の使命に目覚めさせることこそ、最高の聖業といってよい。
 この個人指導ノートは、彼女の誇らかな宝物となっていたのである。
 友を徹して励まし抜く金田の地道な活動については、山本伸一も耳にしていた。
 七八年五月九日、伸一は、練馬文化会館での懇談会で、金田に語った。
 「努力の人、地道な人、誠実の人は強い。必ず最後には勝つ。それが信心です。
 幹部になっても、組織のなかを、うまく泳ぎ渡っていくような生き方では、境涯革命も、宿命の転換もできません。広宣流布のため、学会のため、友のために、苦労を買って出て、黙々と頑張り抜いていってこそ、崩れざる幸福を築くことができるんです」
 それから伸一は、壮年たちに視線を注いでいった。そして、区次長で、かつて南新宿支部の支部長を務めた林田清夫を見ると、「どうぞ、こちらへ」と声をかけた。
 林田は、五十代半ばで、やや小柄な丸顔の壮年である。
 彼が前に出ていくと、伸一は言った。
 「林田さんでしたね。あなたのことは、練馬を担当している幹部から伺っています。
 よく頑張ってこられた。しかし、いよいよ、これからが本当の戦いです。
 今まで培ってきた経験や実績は、皆のために生かしていかなければ意味はありません。草創期を戦い抜いてきた人たちには、自分が教わったことや、自ら学んできたことを、しっかり後輩に伝えていく責任があるんです。
 また、最後まで戦い抜いてこそ、人生の使命を果たすことができるんです。どうか、挑戦と前進を重ね、永遠の青年であってください。私もそうします!」
21  激闘(21)
 林田清夫の入会は、一九五五年(昭和三十年)のことであった。その一年ほど前に、就職の世話や結婚の仲人をしてくれた同郷の先輩から、日蓮大聖人の仏法の話を聞かされてきた。先輩は学会の地区部長であった。
 五五年の二月、その先輩の夫人が林田の家へ、仏法対話にやって来た。夫人が生き生きと仏法のすばらしさを語ると、林田の妻は信心する決意を固め、入会することになった。 その後、先輩から、「せっかく奥さんが信心を始めたんだから、学会を知るいい機会だ。君も、朝晩は題目を三唱し、一緒に座談会に出てみてはどうか」と誘われた。
 宗教になど興味がなかった彼は、体よく断り続けた。そのうちに断る理由が見つからなくなり、やむなく二度ほど座談会に出席した。
 林田は病弱であり、性格も内向的で、自分に自信がもてなかった。また、国鉄(現在のJR)に勤務し、生活は安定していたが、常に空虚感をいだいていた。自分は大組織のなかの、取るに足らない一つの部品にすぎないように思えるのだ。
 座談会に集った人たちの身なりは質素であった。経済的に豊かそうには見えなかった。しかし、皆、喜々として、信仰体験を語っていった。病を乗り越えたという話、失業していたが好条件で就職できたという話……。
 誰もが明るく、充実感、躍動感にあふれ、はつらつとしていた。そして、″なんのための人生か″という、いわば哲学的な難題に対して明確な答えをもち、″人生をいかに生きるか″ということへの確信があった。
 林田が入会を申し出た。
 すると、幹部は言った。
 「日蓮大聖人の仏法の修行は、ただ自分が祈っていればいいというものではないんです。
 大聖人は、『力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』と御指導されている。これは、自分が題目を唱えるだけでなく、人にも仏法を弘め、折伏していきなさいということです。それが正しい仏道修行なんです。できますか!」
22  激闘(22)
 座談会で言われたことを、林田清夫は、直ちに実行に移した。
 早速、座談会の帰りに、自転車店を営む友人の家を訪ね、こう切り出した。
 「ぼくは、創価学会に入会しようと思っている。君も一緒に信心しないか」
 友人は、怪訝な顔で尋ねた。
 「どんな宗教なんだ」
 「実は、詳しいことは、ぼくもまだわからない。しかし、神や仏によって救われるというより、自分のなかに仏の働きが具わっているという教えのようだ。本当にそうなのかどうかは、やってみなければわからない。君には、行動を起こす勇気があるかね」
 林田は、自分がこれまでに聞いた話を、すべて語った。
 彼に絶大な信頼を寄せていた友人は、しばらく考えていたが、やがて、意を決したように口を開いた。
 「君が、そう言うなら俺もやってみよう」
 林田は、″よかった!″と胸を撫で下ろした。実は、彼は妻が先に信心を始めていたとはいえ、入会することに躊躇があって、友だちを誘ったのである。
 ともかく、入会前に、弘教を実践したことは間違いなかった。
 林田は、自分が入会する日、地区部長との待ち合わせの場所に、新しい入会希望者を連れて姿を現したのである。
 地区のメンバーは、感嘆して語り合った。
 「人材だね。未来が楽しみだ」
 「大切に、しっかりと育てなければ」
 地区部長らは、林田に、信心の基本を徹底して教えた。一緒に活動に歩き、個人指導の在り方や仏法対話の仕方、御書に取り組む姿勢、また、連絡・報告の大切さなども語っていった。生真面目な林田は、乾いた砂が水を吸うように、それらを吸収していった。
 彼は、入会一カ月で組長になり、入会三カ月を迎えた時には班長になった。そして、やがて地区部長としても活躍するようになる。
 使命の自覚は、人を急速に成長させる。
23  激闘(23)
 信心を始めてから林田清夫は、いつの間にか、健康になっていた。また、弘教に挑戦し続けてきたなかで、人前で話すことが苦手だった内向的な性格も、次第に変わっていった。その変化に、林田本人よりも、周囲の人たちの方が最初に気づいていた。
 彼は、職場の上司である係長にも、仏法対話をした。林田をじっと見ていた係長は、彼の勧めにしたがい、入会したのである。
 林田が学会員であることは、職場でも知れ渡っていた。それだけに彼は、常に、こう自分に言い聞かせていた。
 ″私は、職場にあっては学会を背負っているんだ。皆、自分の仕事ぶりや人柄を見て、学会を評価する。だから、仕事で周囲に迷惑をかけるようなことを、絶対にしてはならない。断じて職場の勝利者になるのだ!″
 彼は、率先垂範で、懸命に仕事に励んだ。
 「信心即生活」であり、「信心即仕事」である。また、「信心即人格」である――そう心を定め、真剣勝負で仕事に取り組むなかに信頼が生まれ、広宣流布の広がりもある。
 信頼というのは、一朝一夕に築かれるものではない。日々の行為の、地道な積み重ねのなかで築かれていく。そして、その信頼こそが、人間関係の堅固な礎となるのだ。
 一九六四年(昭和三十九年)十二月、林田は、南新宿支部の支部長に就任する。
 支部旗の授与に際して、会長の山本伸一は、力を込めて彼に言った。
 「頑張ってください! 頼みます!」
 伸一には、″支部長は自分に代わって支部旗を掲げ、会員を守り、広宣流布を進めてくださる分身なのだ″との強い思いがあった。
 林田は、伸一の短い言葉から、その心を全身で感じ取った。身の震える思いがした。
 彼の地を這うような、地道で粘り強い活動が始まった。やがて、総支部長、理事などを歴任していくが、常に会員一人ひとりと会い、黙々と指導、激励を続けていった。
 また、人材の育成については、″一緒に行動する″ことを信条としてきた。
24  激闘(24)
 林田清夫の、広宣流布への使命感、責任感は、人一倍強かった。しかし、自分が偉くなりたいなどという考えは全くなかった。ただ、どうやって皆に尽くし、皆の持ち味を生かしていくかに、心を砕いてきた。
 それこそが、学会のリーダーとして、最も大事な要件である。
 もしリーダーの一念の奥底に、学会を利用して名聞名利を得ようなどという野心があれば、既に魔に蝕まれているのだ。信心とは、そうした自身の心を見すえ、打ち勝っていく、精神の闘争でもある。
 林田は、広宣流布のために、職場でも勝利の実証を示したいとの思いで、懸命に仕事に励んできた。管理局コンピューター室長や、国鉄の教育機関「中央鉄道学園」で教育に当たるなど、職場の第一人者となり、この一九七八年(昭和五十三年)の三月で定年退職し、新たな職場に勤め始めたところであった。
 山本伸一は、林田を見つめて言った。
 「日蓮大聖人は『月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし』と言われています。自分は、もう年だから、学会活動から少し身を引こうなどという心の緩みがあれば、そこから信心の後退が始まっていく。信心には定年はありません。
 いかに幹部を経験したとしても、晩年、学会の組織から離れ、仏道修行を怠るならば、その人生は敗北です。一時は華やかそうに見えても、最後は孤独であり、人生の充実も、生命の歓喜もありません。信心は、晩年が、総仕上げの時が大事なんです。
 生涯、若々しい闘将であってください。要領主義の幹部など、悠々と見下ろしながら、最後まで、黙々と、堂々と、学会を支えてください。そこに、真実の黄金の人生があります。あなたには、生涯をかけて、そのことを証明していってほしいんです」
 伸一は、草創の同志には、真の信仰者の手本を示してもらいたかった。それが、後継の大河を開く力となっていくからだ。
25  激闘(25)
 一九七八年(昭和五十三年)五月九日、練馬区の代表との懇談会で山本伸一は、参加者の報告に耳を傾けながら、今後の会館整備などについて語り合った。さらに彼は、この日、発足した女子部の「練馬女子生命哲学研究会」の第二期生とも懇談した。
 「広宣流布は長い戦いです。皆さんの人生にも、学会の前途にも、試練が待ち受けているでしょう。しかし、一人も退転することなく、『あの人は最後まで、よく頑張った!』と賞讃される、信心の女王になってください。
 二十一世紀に、皆さんが婦人部の中核となって、さっそうと広宣流布の指揮を執られる日を、楽しみにしています」
 伸一は、わずかな時間も、決して無駄にすることなく、激励に激励を重ね、矢継ぎ早に励ましの句も詠んだ。そして、練馬文化会館の開館記念勤行会に出席したのである。
 「こんばんは! おめでとう!」
 伸一の導師で、厳粛な勤行が始まった。
 勤行を終えると、彼は言った。
 「今日は、創価家族の集まりです。堅苦しい話は抜きにしましょう。私が司会をします。では、区の幹部の皆さんには、原稿なしで、あいさつをしてもらいましょう」
 練馬長の大月敏は、原稿を見ることもできず、マイクに向かった。額に汗が滲んだ。
 「この文化会館は皆様の真心の結晶です。天井の電灯も皆様方の信心の輝きです」
 すかさず″司会″の声が飛ぶ。
 「たいてい電灯は天井に付いているものなんです。当たり前のことです」
 どっと笑いが起こる。
 また、伸一は、会場にいたブロック指導員の高齢の男性に、「何かお話を!」と声をかけた。男性が文化会館完成の喜びと決意を語ると、「その心意気が大事です。今日は、あなたが″一日会長″です」と言って握手を交わし、自分の席に座るように勧めた。
 彼は、学会は権威主義でも形式主義でもなく、皆が共に切磋琢磨し合う人間共和の世界であることを知ってほしかったのである。
26  激闘(26)
 練馬文化会館の開館記念勤行会で山本伸一は、各部合唱団による合唱などのあと、懇談的に話を進めていった。
 そして、イギリス人の性格を表す一つの事例として、「一人でいる時は退屈してしまう。二人になるとスポーツをする。三人になるとわが偉大な祖国を建設しようと決意し、語り合う」と言われていることを紹介した。
 「この話を、私どもの姿に当てはめてみるならば、次のようになるのではないか。
 『一人の時は勤行しよう。二人集まったならば教学の学習をしよう。三人となったならば広宣流布のために語り合い、実践する』
 どうか、この気概で進んでいただきたい」
 また、「薬王品得意抄」を拝して指導し、特に、「法華経は宝の山なり人は富人なり」の一節は、深く心に刻んでほしいと訴えた。
 「法華経は宝の山であり、御本尊は無限の力を具えております。ゆえに、その御本尊を受持した人は、最大に福運ある人であり、すべからく″富める人″なのであります」
 ″富める人″とは、単に経済的、物質的に豊かな人を指すのではない。お金やモノによって得られる豊かさは、それがなくなれば、失われてしまう。
 したがって、より重要なのは、どんな状況や環境下におかれても、高く大きな境涯で、充実と歓喜を満喫しながら生きることができる″心の豊かさ″である。それこそが、幸福を確立するための根本条件といえよう。
 「信心強盛な人こそ、最も″富める人″です。どうか、この確信をもって進んでください。信心とは、確信なんです。
 大確信をもつには、まず小さな体験でよいから、功徳の体験をたくさん積んでいくことです。その体験が集積され、次第に大確信をもてるようになる。それには、日々の祈りは具体的であることが大事です。自分のかかえている一つ一つの悩みや問題の克服を、日々、懸命に祈っていくんです。悩みが解決した分だけ、確信は強まっていきます」
27  激闘(27)
 山本伸一は、次のように話を結んだ。
 「いかなる試練があろうとも、そのなかで苦労を重ね、同志を守り、仏道修行に励み抜いた人は、最後は必ず勝ちます。試練というのは、自分を磨き抜き、大きく飛躍していくためのものなんです。
 皆さんは、何があっても一喜一憂することなく、今に見よ!との一念で、一生成仏の坂道を勇敢に上り抜いていってください」
 伸一が、最後に、こう語ったのは、実は三、四年前に、練馬の北町方面で組織が攪乱されるという出来事があったからである。
 ――御本尊に不信をいだき、陰で学会批判を繰り返す総ブロック(現在の支部)幹部がいた。問題が表面化した時には、信心を惑わされた数世帯の会員が離反。しかも、離反者たちは、人間関係を使って、組織を越え、さらに脱会の誘いをかけていたのだ。
 状況の把握の遅れや、多くの幹部が″何かおかしい″と感じながら、踏み込んだ指導をできずにきたことが、混乱を大きくする一因となった。
 事態を知った学会本部では、副会長の関久男をはじめ、教学部や婦人部の幹部を派遣した。彼らは、徹底して個人指導を重ねるとともに、一致団結して、弘教の大波を起こしていこうと訴えていった。
 その激励・指導に応え、北町方面の各総ブロックは、「今こそ、変毒為薬の時だ!」と、皆が立ち上がり、果敢に弘教を展開した。
 そして、見事に組織は蘇生し、この一九七八年(昭和五十三年)、支部制のスタートとともに、いよいよ誇らかに、希望の前進が開始されたのだ。
 奮闘の一部始終を聞いていた伸一は、この勤行会で、北町方面のメンバーのために、試練の意味について、あえて言及したのである。
 中国の人民の母・鄧穎超は語っている。
 「闘争を乗り越えてこそ、心も、体も鍛えられる。また、悪いことも良いほうに変えていける。だから私は、苦難を受けているあなたに″おめでとう!″と言います」
28  激闘(28)
 五月十三日、山本伸一は九州に飛んだ。
 ″日本全国をくまなく回り、一人でも多くの同志と会って励まさねばならぬ!″
 宗門の悪侶による学会誹謗に、苦しんでいる会員のことを思うと、伸一の胸は激しく痛むのであった。
 鹿児島県の九州研修道場に到着した伸一は、翌十四日、構内を視察しながら、九州の幹部や研修道場の職員らを激励した。
 夜には、春季研修会として開催された、広島県の壮年・婦人の指導部、東京・台東区の各部代表の合同研修会に出席した。
 彼は、勤行の導師を務めたあと、「法華行者逢難事」の「各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ」から、「互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」を拝して指導していった。
 この御書は、文永十一年(一二七四年)の一月十四日に、大聖人が佐渡で認められ、富木常忍、四条金吾をはじめ、弟子一同に与えられている。当時、大聖人に従う者は強く戒める旨の、偽の御教書が出されるなど、迫害は一段と激しさを増していたのである。
 そのなかで大聖人は、たとえ大難を受け、命に及ぶようなことがあったとしても、絶対に退転してはならないと、弟子たちに呼びかけられている。そして、何があっても、皆が信心を貫いていくために、「互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」と指導されたのである。
 伸一は、力を込めて訴えた。
 「人間は、一人になってしまうと弱い。ましてや、迫害のなかでは、恐れを感じ、自分の弱い心に引きずられ、次第に信心を後退させていってしまう。つまり、『臆病』という自分の心が、師匠になってしまうんです。
 ゆえに大聖人は、『心の師とはなるとも心を師とすべからず』との経文をあげて、自分を正しい信心へと導く″心の師″の大切さを述べられています。仏道修行には、師匠が、また、同志が必要なんです」
29  激闘(29)
 学会員は皆、崇高な地涌の使命をもち、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、創価の旗のもとに集った尊き勇者である――なればこそ山本伸一は、いかなる試練が競い起ころうが、一人たりとも、脱落させたくなかった。
 ゆえに彼は、皆が強盛な信心を全うしていくうえで、学会の組織がいかに重要であるかを訴えていったのである。
 「信心を学び、勇気をもって実践していくには、人間対人間の触発、啓発が不可欠です。同志が集い合っては、仏法の教えを語り合い、確認し合っていく。それによって、″よし、頑張るぞ!″と決意し、新しい挑戦の歩みを踏み出すことができる。
 もともと『僧』という言葉自体が、仏になるための修行をする人びとの集団である『僧伽』(サンスクリットのサンガの音訳)の略であり、後に、個々の修行者のことも僧というようになった。つまり、本来、仏道修行は単独で行うものではなかったのであります。
 成仏のためには、善知識といって、仏道へと自分を導き、励ましてくれる人の存在が必要なんです。その切磋琢磨し合う姿を、大聖人は『互につねに・いゐあわせて』と言われているんです。
 この通りに実践しているのが、学会の組織です。その組織のなかにあって、『ひまもなく後世ねがわせ給い候へ』――怠りなく修行に励み、三世永遠の幸福を願い、広宣流布の誓願に生き抜くことが大事なんです」
 日蓮仏法は、自分だけが題目を唱えることをもってよしとするのではない。「我もいたし人をも教化候へ」と仰せのように、自身が信心に励むだけでなく、人にも仏法を教える「自行化他」をもって、仏道修行の基本としている。
 人を教化するならば、信・行・学を教え、励まし、育成する人の連帯、組織がなくてはならない。したがって、日蓮仏法の修行では、和合僧、すなわち信心錬磨の組織が極めて重要な意味をもつのである。
30  激闘(30)
 山本伸一の言葉には、確信と情熱がほとばしっていた。
 「広宣流布の組織のなかで、自行化他の実践を貫き通してこそ、一生成仏も、宿命の転換も可能になるんです。だからこそ、大聖人は『日蓮が一門となりとをし給うべし』と仰せになっているんです。 一門というのは、人と人との連帯です。組織です。そのなかで、共にスクラムを組み、異体同心の団結で進み抜いていきなさいと、大聖人は言われているんです。なぜなら、そこにしか、広宣流布の大前進も、自身の大成長もないからです。
 人間は、ともすれば、″一人の方が自由気ままでいいな″と思いがちです。しかし、広宣流布は、多彩な人材が心を一つにして、互いに切磋琢磨し合っていくことによって、成し遂げることができるんです。スポーツでいえば、野球やサッカーのように、チームプレーが大切な戦いなんです。
 戸田先生は、学会を『仏意仏勅の団体』と言われ、『創価学会仏』とさえ表現された。広宣流布をわが使命とし、異体同心のスクラムを組むなかで、創価学会仏の一員となり、崩れざる幸福を築くことができるんです。
 どうか、皆さんは、この尊い学会から、生涯、離れることなく、人間革命の大道を、誇らかに歩み抜いていってください」
 死身弘法の実践をもって、日蓮大聖人の正法正義を守り抜いてきた創価学会である。大聖人の仰せ通りに、世界広宣流布を推進してきたわれらである。
 その学会を離れて、真実の仏法の実践はない。功徳爛漫の人生も、境涯革命も、一生成仏もない――それが、伸一の断固たる確信であった。
 彼は、春季研修会に参加したメンバーに、こう語って指導を終えた。
 「明日の研修会も、御書を研鑽しましょう。学会は、どこまでも御書根本です。御書に照らし、信心の眼で一切を見ていくならば、何も恐れるものなどありません」
31  激闘(31)
 五月十五日、山本伸一は、九州研修道場にあって、終日、研修会参加者らの激励に時間を費やした。そして、夕刻には、前日に引き続いて、自ら研修会を担当した。
 彼は、「今日は、私どもの信心を妨げる第六天の魔王について、ともどもに思索してまいりたい」と前置きし、「ベン殿尼御前御書」を拝していった。
 「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土どうこえどを・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
 まず、この御文を通解した。
 「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる。そして、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海のなかで、凡夫と聖人が共に住むこの娑婆世界を、『取られまい』『奪おう』と争う。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身となり、大きな戦を起こして二十余年になる。その間、一度も退く心をいだいたことはない――それが、御文の意味です。
 なぜ、第六天の魔王が戦を仕掛けてくるのか。もともと、この娑婆世界は、第六天の魔王の領地であり、魔王が自在に衆生を操っていたんです。そこに法華経の行者が出現し、正法をもって、穢土である現実世界を浄土に変えようとする。それが広宣流布です。
 そこで魔王は、驚き慌てて、法華経の行者に対して戦いを起こす。したがって、広宣流布の道は魔との壮絶な闘争になるんです。
 この第六天の魔王とは何か。人びとの成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。魔王という固有の存在がいるのではなく、人びとの己心に具わった生命の働きです。
 ゆえに、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、わが生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです」
32  激闘(32)
 第六天の魔王は、智慧の命を奪うところから、「奪命」といわれる。また、「他化自在天」ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命である。
 その結果、人びとの生命は萎縮し、閉ざされ、一人ひとりがもっている可能性の芽は摘み取られていくことになる。戦争、核開発、独裁政治、あるいは、いじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようという「他化自在天」の生命であるといってよい。
 それに対して、法華経の行者の実践は、万人が仏性を具えた尊厳無比なる存在であることを教え、一人ひとりの無限の可能性を開こうとするものである。
 つまり、両者は、人間を不幸にする働きと幸福にする働きであり、それが鬩ぎ合い、魔軍と仏の軍との熾烈な戦いとなる。この魔性の制覇は、仏法による以外にないのだ。
 では、魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹の「大智度論」には、「欲」「憂愁」「飢渇」「渇愛」「睡眠」「怖畏」「疑悔」「瞋恚」「利養虚称」「自高蔑人」とある。
 山本伸一は、研修会で、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。
 「第一の『欲』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破られていくことです。
 第二の『憂愁』は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励めない状態です。
 第三の『飢渇』は、飢えと渇きで、食べる物も、飲む物もなくて、何もできないことです。学会活動しようにも、空腹で体を動かす気力もない。交通費もない。だから、やめてしまおうという心理といえるでしょう。
 第四の『渇愛』は、五欲といって、眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して起こる、五つの欲望です。美しいものに心を奪われたり、よい音色、よい香り、美味、肌触りのよい衣服などを欲する心です。それらを得ることに汲々として、信心を捨ててしまうことです」
33  激闘(33)
 山本伸一の十軍についての説明に、研修会参加者は目を輝かせて聴き入っていた。
 「第五の『睡眠』は、睡魔のことです。たとえば″唱題しよう″″御書を学ぼう″とすると、眠気が襲ってくるという方もいると思います。釈尊も、悟りを得るまでのなかで、この睡魔と懸命に戦っています。
 睡魔に襲われないようにするには、規則正しい生活を確立し、十分な睡眠を心がけることです。さらに、熟睡できるように工夫することも大切です。寝不足であれば、眠くなって当然です。また、眠気を感じたら、冷水で顔を洗うなどの工夫も必要でしょう。
 第六の『怖畏』は、恐れることです。
 信心することによって、周囲の人から奇異な目で見られたり、仲間はずれにされるかもしれない。時には、牧口先生のように、迫害され、命に及ぶこともあるかもしれない。
 そうなることを恐れ、学会から離れたり、信心を後退させてしまうことが、これにあたります。結局、臆病なんです。
 大聖人は『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と仰せです。信心を磨き、一生成仏していくための要諦は、勇気をもつことなんです。入会するにも勇気です。折伏するにも勇気です。宿命に立ち向かうにも勇気です。信心とは、勇気なんです」
 彼は、参加者一人ひとりに視線を注いだ。どの顔にも決意が光っていた。
 「第七の『疑悔』は、疑いや後悔です。せっかく信心することができたのに、御本尊を疑い、学会を疑い、難が競い起これば、″信心などしなければよかった″と悔やむ。その暗い、じめじめとした心を打ち破るには、すっきりと腹を決めることです。そこに、歓喜が、大功徳があるんです。
 第八の『瞋恚』は、怒りの心です。『折伏をしましょう』と指導されると、″よけいなお世話だ″と憤り、怨嫉してしまう。また、学会の先輩が、本人のためを思い、御書に照らして信心の誤りを指摘すると、腹を立て、恨む。そうした心の作用です」
34  激闘(34)
 山本伸一の指導は、具体的であった。
 研修会メンバーは、わが身にあてはめ、時に大きく頷き、時に苦笑しながら、伸一の話に耳を傾けていた。
 「怒りの心は、それ自体が悪いというのではありません。悪事に対して怒りを感じることは必要です。邪悪への怒りがなくなれば、正義もなくなってしまいます。怒り、腹を立てた結果、信心を後退させてしまうことが問題なんです。
 たとえば、いい加減で、周囲に迷惑をかけてばかりいる、問題の多い先輩幹部がいたとします。その姿を見て憤りを感じる。それは当然です。しかし、ともすると、″だから、私は学会活動をやらない。会合にも出ない″ということになってしまう。それが、『瞋恚』という魔に敗れた姿なんです。
 自分が、人間革命を、一生成仏をめざして仏道修行していくことと、先輩幹部がだらしないこととは、本来、別の問題です。それを一緒にして、自分の信心の後退を正当化しようとする心こそ、克服すべき対象なんです」
 現実に即した伸一の展開であった。
 「第九の『利養虚称』ですが、『利養』は、利を貪ることです。『虚称』は、虚名にとらわれることをいいます。つまり、名聞名利を追い求め、信心を軽んじ、成仏への道を踏み外してしまう生き方です。
 利欲に翻弄されればされるほど、心は貧しくなり、すさんでいきます。また、組織で金銭の問題を起こしたりするケースは、この『利養』に蝕まれた結果といえます。
 さらに、『虚称』を求めても、名誉や地位は、永遠の生命観から見れば、うたかたの夢のようなものです。それに心を奪われて、信心を忘れるのは愚かです。
 学会の人事でも、正役職から副役職になった時など、自分が軽視されたように思い込んで、新しく幹部に登用された人を嫉妬し、学会活動への意欲をなくしてしまう人がいます。それは『虚称』の心によるものです。その心を打ち破っていく戦いが信心なんです」
35  激闘(35)
 十軍に関する山本伸一の講義は、いよいよ、第十の「自高蔑人」となった。
 「これは、自ら驕り高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。慢心になると、誰の言うことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。また、周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。
 社会的に高い地位を得た人ほど、この魔にたぶらかされてしまいがちなんです。
 『自高蔑人』の心をもつと、みんなが褒め讃えてくれれば、学会活動にも参加するが、機嫌を取ってくれる人がいないと、仏道修行を怠ってしまう。したがって、宿命転換も、境涯革命もできず、福運も尽きていきます。そして、結局は、誰からも相手にされなくなってしまう。最後は惨めです。
 信心の世界、仏道修行の世界は、一流企業の社長であろうが、高級官僚であろうが、大学教授であろうが、あるいは、学会の最高幹部であろうが、皆、平等なんです。地位も、名誉も、関係ありません。
 信心の実証を示すために、社会で成功を収めていくことは大事です。しかし、それが、名聞名利のためであれば、信心のうえでは、なんの意味もありません。地位や名誉は、絶対的幸福の条件でもなければ、成仏を決するものでもありません。
 信心の世界では、一生懸命にお題目を唱え、たくさんの人を折伏し、誰よりも個人指導に励み、多くの人材を育ててきた方が偉いんです。広宣流布のため、仏子のために、黙々と汗を流してきた方が尊いんです。
 信心の王者こそ、人間王者なんです。最高最大に御本仏から賞讃される大福運、大勝利の人であることを確信してください」
 熱のこもった講義であった。一人として魔に敗れ、退転していく人など出すまいとする、伸一の魂の叫びであった。
 研修は、まだ終わらなかった。
 「では、『富木殿御返事』、御書の九六二ページを開いてください」
36  激闘(36)
 山本伸一は、朗々と、「富木殿御返事」の一節を拝していった。
 「『但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり
 戸田先生が第二代会長に就任された二十七年前、学会の会員は、実質三千人ほどにすぎなかった。それが、今では、世界に広がり、約一千万人の同志が誕生したんです。会館も立派な大文化会館が、全国各地に陸続と誕生しました。皆が歓喜に燃えて、弘教に走っています。
 これだけ広宣流布が進んだんですから、第六天の魔王が憤怒に燃えて、競い起こってくるのは当然です。予想もしなかった大難もあるでしょう。大事なことは、敢然と、それを受けて立つ覚悟です」
 哲学者キルケゴールは記している。
 「信仰の強さは、その信仰のために苦難をうける覚悟がじゅうぶんにあるかどうかによって証明される」
 伸一の声は、力強さを増した。
 「大聖人は、『但生涯本より思い切て候』と言われた。題目を唱え始めた時から、大難の人生であることを覚悟されていたんです。そして、その覚悟は『今に飜返ること無く』と仰せのように、竜の口の法難、そして佐渡流罪という最大の難局に際しても、決して揺らぐことはなかった。
 覚悟は、生涯、持続されてこそ、本当の覚悟なんです。その場限りの、勢いまかせの決意など、法螺を吹いているにすぎません。
 そして、『遺恨無し』と明言されている。大聖人は、『世間の失一分もなし』と仰せのように、本来、社会的にはなんの罪も犯していない。それなのに弾圧され、迫害されることは不当であり、普通ならば、恨みをもつのが当たり前です。
 しかし、『遺恨無し』と言われるのは、正法を流布したがゆえに、経文に照らし、仏法の法理通りに、起こるべくして起こった難だからです。むしろ喜びとされているんです」
37  激闘(37)
 情熱を込めて、山本伸一は訴えた。
 「次の『諸の悪人は又善知識なり』の御文も、非常に大事です。
 善知識というのは、仏道修行を支え、助けてくれる存在です。しかし、日蓮大聖人は、諸の悪人、すなわち仏法者を迫害し、信心を妨げる働きをなす悪知識を、御自身にとって、善知識であると言われている。
 なぜか――。諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があってこそ、風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。
 難が競い起これば起こるほど、強盛に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善知識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。
 反対に、学会の先輩が成長を願って、誤りを指摘してくれたにもかかわらず、恨みをいだき、退転していく人もいます。その人にとっては善知識となるべきものが、結果的に悪知識と同じ働きをしてしまうことになる。
 善知識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。ゆえに、弾圧、迫害も、信心の大飛躍のバネにすることができる。つまり、どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。
 どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!」
 伸一は、集った人たちの魂を揺さぶる思いで、語り抜いた。叫び抜いた。訴え抜いた。全生命を振り絞っての指導であった。
 彼は、広布第二章の大飛躍を期すために、全会員が、真の信仰に立ち返り、いかなる障魔の嵐にも翻弄されることなく、信心の正道を歩み抜いてほしかったのである。
38  激闘(38)
 五月十六日、山本伸一は、鹿児島から、空路、福岡に移動する予定であった。しかし、強風のため飛行機が欠航したので、もう一日、鹿児島に滞在することにした。
 この日の午後、彼は、鹿児島の県長である利安真吉と共に、車で鹿児島市内の鹿児島会館等を訪れることにした。少しでも多くのメンバーを励ましておきたかったのである。
 同乗した利安は、二十三年間にわたって小・中学校の教員をした経歴をもつ、誠実な人柄の壮年である。小柄で温厚だが、メガネの奥の目には、広宣流布への熱い闘魂が光る薩摩隼人であった。
 車中、伸一は、利安に鹿児島県創価学会の現況などについて、詳しく尋ねていった。
 利安の話では、奄美の広宣流布が大きく伸展し、広布模範の地域になりつつあるということであった。
 「村によっては、大多数の方が学会を深く理解して、学会の催しがあれば、全力で応援してくださるところもあります」
 奄美大島では、一九六七年(昭和四十二年)に、地域の有力者らが中心になって学会員を村八分にし、「学会撲滅」のデモを行うなどの、激しい弾圧事件が起こった村もあった。
 学会員というだけで仕事を奪われ、食糧品さえ売ってもらえず、脅しも続いた。御本尊を持っていかれ、燃やされた人もいた。
 「その奄美が広宣流布の模範の地域になったことは、本当にすばらしいね」
 伸一が讃えると、利安は語った。
 「はい。奄美の皆さんは、あれだけの弾圧がありながらも、一歩も引かずに、折伏をし抜いてまいりました。仏法は生命の原因と結果の法則であり、信心の結果は、必ず現証となって現れると、言い切ってきました。
 事実、信心を貫き通した人は大きな功徳の実証を示し、反対に、弾圧した人の多くが行き詰まりを感じたようです。まさに現証を通して仏法の力が明らかになり、皆、学会員の言葉に耳を傾けるようになりました。これが奄美広布伸展の第一の要因であると思います」
39  激闘(39)
 山本伸一は、利安真吉の話に、頷いた。
 「そうですか。ともかく、何があったとしても、決して臆することなく、勇気をもって仏法を語り抜いていくことが、地域広布の根本です。その精神を忘れて、策や方法ばかり考えても、何一つ実ることはありません」
 「はい。おっしゃる通りだと思います。
 そのうえで奄美の同志は、学会として打ち出した運動は、中途半端に終わらせず、徹底して行ってきました。たとえば、映写運動をするとなれば、町中、村中の人に、その映画を見せようと、フィルムが擦り切れるぐらいまで、根気強く実施してきたんです。
 鹿児島県でも、都市部ですと、一つの運動を打ち出して五、六カ月もすると、いつの間にか立ち消えてしまうことがよくあります。しかし、奄美は、一つ一つの運動に全力を注いで、地道に成し遂げてきました。その積み重ねが、今日、実を結んだんだと思います」
 「鋭い視点です。一つ一つのテーマに対して、どれだけ真剣に取り組んでいくか――ここにすべてが凝縮されています。それを、いい加減に終わらせ、前に進んでいくということは、しっかりと鉄筋を組まずに、ビルを建てようとしているようなものです。
 ほかには、どんなことが奄美の発展の力になってきたと思いますか」
 利安は、少し考えて、言葉をついだ。
 「学会員一人ひとりが、大きく地域に貢献してきたことではないでしょうか。
 地域のために何もしなければ、口でどんなに立派なことを言っても、誰も信用してくれません。そこで学会員は、先生のご指導の通りに、積極的に地域の人びとのために身を粉にして働いてきました。
 地域広布が進んでいる支部などに行くと、ほとんどの方が、集落の区長や、農業委員、民生委員、PTA、消防団、老人クラブ、婦人会などの役員として活躍しております」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「『仏法即社会』です。これからは、『広宣流布即地域貢献』と考えるべきでしょう」
40  激闘(40)
 山本伸一は、奄美に思いを馳せながら言葉をつぎ、利安真吉に語った。
 「学会員が、本腰を入れて地域貢献に尽くしていくならば、地域の皆さんにとっては大きな力になるでしょう。
 私たちは、学会にあって、一人の人を大切にすることや、自他共の幸せを創造する生き方を学んできました。それを糧に、地域のために働いていくんです。いつも学会員だけで集まって、何かしているというのでは、社会での信頼を勝ち取ることはできません。
 その意味で、奄美から、鹿児島県から、地域建設の新しい潮流を起こしてください」
 伸一は、さらに、利安に尋ねた。
 「鹿児島では、現在、県総会などは企画していますか」
 「いいえ、今のところは、まだ考えてはおりません」
 「活動というのは、常に、皆が希望を感じる目標を掲げて、喜々として進んでいけるようにすることが大事なんです。
 目標がないと、前進の流れは滞りがちになってしまう。すると、どうしても、組織は淀んでいくんです。特に青年には、そうした目標が必要です。
 道を行くにも、平坦で、真っすぐなだけでは、単調で、飽きてしまいます。山もあり、谷もあり、野もある道を、『さあ、頑張ろう』と、一つ一つ踏破していくから、新しい挑戦の喜びが生まれ、心も引き締まるんです。
 鹿児島県には、広大な九州研修道場があるんですから、そこを有効に活用して、県総会を開いてはどうでしょうか。
 研修道場も、会館も、広宣流布のために最大に活用していかなければ、意味がありません。すべては、広布のためのものであり、会員の皆さんのためにあるんです」
 「では、ぜひ、九州研修道場で県総会を開催したいと思います」
 「わかりました。今日、鹿児島会館では、県の最高会議があるんですね。そこでも、よく協議してみてください」
41  激闘(41)
 九州研修道場から鹿児島会館までは、車で一時間半ほどの距離である。車中での山本伸一と利安真吉の語らいは弾んだ。
 伸一は、広宣流布のリーダーの在り方について語り始めた。
 「組織の中心者が常に心していかなければならないことは、皆が楽しく、生き生きと活動に励めるように、創意工夫を重ねていくことです。テレビや洗濯機、冷蔵庫など、電化製品を見ても、毎年、さまざまな改良が加えられ、進化しているではありませんか。
 いつも同じことだけをやって、良しとしていたのでは、その組織は、時代遅れの白黒テレビのようなものです。
 座談会などの日常的な伝統行事が重要であることはいうまでもありません。そのうえで、希望が膨らむ大きな行事を考えていけば、皆が楽しく、いかんなく力を発揮し、組織の総合力も強まっていくんです。
 たとえば、合唱祭や文化祭には、斬新さがあります。そして、行うとなれば、多彩な人材が必要になります。
 そこで、各部の幹部は、多くの人を個人指導し、その催しに参加する意義を訴えるとともに、広宣流布の主体者の自覚を促していかねばならない。つまり、それを機に、人材を掘り起こし、一歩踏み出した活動を展開していくことができる。これが大事なんです。
 また、出演者たちは、当日までに、弘教を実らせることなどを誓い合い、練習に取り組んでいくでしょう。さらに、その日をめざして、自分のかかえている悩みを克服しようと、決意する人もいるでしょう。皆が、唱題にも真剣に励み、新たな挑戦を開始することができる。
 学会の活動というのは、一人ひとりの信心の活性化につながるものであるし、また、そうさせていかなければなりません。各人が、自身の成長と境涯革命、また、功徳を実感していくための催しなんです」
 移動の車中は、伸一にとって格好の個人指導の場であった。
42  激闘(42)
 利安真吉は、真剣な目で、何度も頷きながら、山本伸一の話を聴いていた。
 伸一は言った。
 「それで、鹿児島県総会はいつにしますか」
 利安は、口ごもりながら答えた。
 「はあ、総会ですから……、年内ですと、秋ごろでしょうか」
 すかさず、伸一は言った。
 「日程は、具体的に決めていくことが大事なんです。あいまいなままだと、実現せずに終わってしまうことが多いんです。
 よく学生時代の友人などと、『今度、ゆっくり会いましょう。連絡しますよ』と口約束しても、そのまま何年もたってしまうことがあるでしょう。しかし、その場で、日程を決めておけば、実現できるものなんです。
 総会は、もっと早い時期に開催してはどうでしょうか。そうですね、たとえば六月とか」
 「今日は、五月の十六日ですから、せめて七月でないと……」
 「それでは、七月がいいでしょう。
 指導者には、慎重に熟慮を重ねる面と、即断即決と両方がなければなりません。全体を引っ張って、脱皮を図るには、まず、県長が決断して、それを皆に諮り、細かく検討していくということも、時には必要なんです」
 伸一が第三代会長に就任して以来十八年で、日本の広宣流布の盤石な基盤が整い、学会は世界へと飛翔した。また、人間主義を基調とした平和・文化運動の潮流も大きく広がった。それを可能にしたのは、伸一の柔軟にして迅速な決断と、電光石火の行動であったといえよう。
 近代日本の道を開いた薩摩の指導者・島津斉彬は、「勇断ナキ人ハ事ヲ為スコト能ハザルナリ」と語っている。
 鹿児島県総会の件は、同日夕刻の県最高会議で協議され、七月上旬の開催が決定。翌五月十七日付の「聖教新聞」一面に大きく掲載された。県総会の報道に、鹿児島県の同志は沸いた。「青年の月」七月に向かい、新たな希望の前進が開始されたのである。
43  激闘(43)
 山本伸一が出席して鹿児島会館落成の式典が開かれたのは、一九六三年(昭和三十八年)十一月二十三日午前のことであった。
 会館は、眼前に錦江湾が広がり、噴煙を上げる桜島を望む風光明媚な地にあった。約七百平方メートルの敷地に立つ、延べ面積約四百五十平方メートルの鉄筋コンクリート二階建ての重厚な造りで、九州本土では福岡の九州本部に次いで完成した会館であった。
 二階の大広間は六十五畳である。後年、各地に誕生する文化会館や講堂から見れば、小さな建物にすぎなかったが、当時としては大会館の落成であった。この会館が鹿児島の会員にとっては、大きな誇りとなっていった。
 この日の朝、伸一は、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が、二十二日午後零時半(日本時間二十三日午前三時半)に、テキサス州ダラスで銃弾に倒れたことを知った。
 伸一は、ケネディとの会談を予定していたことがあった。直前になって日本の政治家の横槍が入り、会談は実現しなかったが、彼はケネディに大きな期待を寄せていた。世界の平和への強い意志を感じていたからである。それだけに、彼の死が残念でならなかった。
 この時、伸一は、人類の平和実現への誓いを、一段と深く心に刻んだのである。
 鹿児島会館の落成の式典は、地域広布への一途な情熱と喜びがあふれる集いとなった。
 あいさつに立った彼は、「仏法即社会」であるがゆえに、常識豊かな行動が大切であることを訴えた。
 「いかに真剣であったとしても、悲壮感に満ちて、ピリピリし、また、突飛な行動に走るような信心は、かえって、社会の信頼を失い、法を下げてしまいます。非常識な振る舞いは、本来の信仰者の在り方とは対極にあることを知っていただきたいのであります。
 周囲の人から見て、『あの人は、本当に、日々楽しそうに生きている』『あの人のところへ行くと、なんとなく信心をしたくなってしまう』と言われる人生を歩むことこそ、仏法が真実であることの証明なんです」
44  激闘(44)
 山本伸一は、日蓮大聖人の仏法に基づく考え方、生き方は、普遍であり、時代、社会をリードする規範となることを語っていった。
 「私が、かつて、牧口先生を知る先輩方から伺った一つに、こんな話がありました。
 戦時中、入営や出征することになった人に対して、牧口先生は、『必ず、生きて帰っていらっしゃい』と言われたというのです。
 また、当時は、盛んに『滅私奉公』が叫ばれていましたが、先生は、断固として、こう言われ続けたと聞きました。
 『道理に合わない滅私奉公などできないし、またすべきではない。自己をむなしくせよというのは、とんでもない誤りだ。国も国民も、共に栄えるのでなければならない』
 それが、仏法を根底にした理念です。
 大聖人の仏法のなかにも、『死身弘法』『不自惜身命』とあります。しかし、それは、決して、死ぬことを礼讃するものではありません。私たちの実践でいえば、生涯、御本尊を離さず、題目を唱えに唱え、喜々として広宣流布に生き抜いていくことです」
 伸一は、鹿児島人の、また、九州人の一途な情熱に敬意を表していた。最大の期待も寄せていた。だからこそ、その力を、一瞬の花火のように終わらせてしまうのではなく、永続的な広宣流布の推進力にしていってほしかったのである。
 彼は、会館落成の式典が終わると、館内に入りきれず、外で待機していた人のもとに走った。そして、励ましの言葉をかけ、自ら、「鹿児島健児の歌」の指揮を執った。
 その日から十四年半の歳月が流れていた。
 伸一が、県長の利安真吉と共に、鹿児島会館に到着したのは、午後四時であった。
 会館には、県幹部の代表らが集っていた。
 「皆さんにお会いしに来ましたよ。
 私は、この鹿児島会館が大好きなんです。
 雄壮な桜島、そして、闘魂あふれる鹿児島の同志を見ると、勇気が湧きます。皆さんのために、私は走ります。戦います」
45  激闘(45)
 山本伸一は、懐かしさを覚えながら、鹿児島会館の館内を視察した。そのあと、県の幹部らと勤行し、指導会をもった。
 「九州は、日本列島四大島の南にあり、鹿児島県は、さらにその南端にあります。ゆえに鹿児島の皆さんは、「広宣流布の新潮流は、常にわが地域から起こし、日本中をつつんでいこう!」との、決意と誇りをもって進んでいただきたい。
 広宣流布の「日本一」をめざそうという一念をもち、懸命に学会活動に励んでいくならば、それが因となって、生活の面でも、日本一の功徳、福運につつまれていくことは間違いありません。それが仏法の法理なんです。また、そこそこに信心していればよいという生き方であれば、そこそこの功徳しか受けることはできません。
 「仏法は体」「世間は影」であり、信心の一念、実践は、そのまま自身の生活に投影されていくんです。ゆえに、皆さんは、どこまでも信心を根本に、広宣流布に生き抜いていただきたいんです」
 そして、仏法者として、社会にあって勝利の実証を打ち立てていくことが大切であり、そこから、広宣流布の新しい道が開かれていくことを語った。
 伸一は、帰り際には、会館の管理者や、集ってきた創価大学出身の七人のメンバーと、玄関前で記念撮影を行った。
 それから彼が向かったのは、鹿児島県婦人部長の宮中直子の家であった。この日の朝、九州研修道場に来ていた宮中と会った伸一は、家庭訪問の約束をしていたのだ。
 宮中の家は、石塀が巡らされ、瓦屋根に漆喰の白壁が映える、純和風の二階建てであった。伸一と峯子が到着すると、宮中栄蔵・直子夫妻、直子の両親、三人の子どもたちが、玄関で迎えてくれた。
 伸一は、主の栄蔵に言った。
 「奥様には、県婦人部長としてご尽力いただき、大変にありがとうございます。本日は、ご家族の皆様へ、御礼に伺いました」
46  激闘(46)
 宮中家を訪問した山本伸一と峯子は、仏間になっている和室に通された。
 伸一は、家族の一人ひとりに声をかけ、報告に耳を傾けていった。
 主の宮中栄蔵は、この家は檜造りであり、木を切り出すところから、綿密に計画して建てたことを伝えた。
 「そうですか。すばらしいお宅です」
 伸一が言うと、栄蔵は、誇らかな笑みを浮かべた。伸一は、さらに言葉をついだ。
 「私は、全国に会館を建てることを計画して、そこに情熱を傾けてきました。今、全国各地に、堂々たる文化会館が誕生し、会員の皆さんは、本当に喜んでくださっている。それらの文化会館を中心に、広宣流布は飛躍的な伸展を遂げております。それが、私の最高の喜びであり、誇りなんです」
 それを聞いた栄蔵は、ハッとした。そして、にわかに、恥じらいを覚えた。
 ″山本先生は、広宣流布のために全国の会館建設を念願し、実現されてきた。それに比べ、私は、少し凝った自分の家を建て、会場としても使ってもらっているだけで満足している。もっと、広宣流布に尽力しなければ……″
 人びとの幸福のために尽くす人は、自分の幸福のためだけに生きる人より、はるかに幸せを実感することができる。また、人びとのために献身することに勝る美しい行為はない。
 伸一は、栄蔵に、ねぎらいの言葉をかけた。
 「ご主人が、こうして立派な家を建て、奥様を全面的にバックアップしてくださっているから、奥様は縦横無尽に活躍することができるんです。心から感謝申し上げます」
 「いいえ、とんでもないことです。妻は信心に目覚めることによって、人間革命できたんです。ひとえに学会のおかげです」
 ――栄蔵の妻・直子は、何不自由ない家庭に育ち、一九五三年(昭和二十八年)に、彼と結婚した。夫の実家は、大島紬を専門に扱う呉服問屋であり、栄蔵は、そこの専務取締役であった。結婚後も、暮らしは豊かであり、長男、長女と子宝にも恵まれた。
47  激闘(47)
 宮中直子が入会したのは、一九六二年(昭和三十七年)のことであった。信心によって事業の倒産の危機を乗り越えた自分の両親から、学会の話を聞かされたのだ。
 彼女は、信心をする気など全くなかった。
 母親は、「人生には福運が大事よ。その福運を積むには、この仏法しかないわ。まだ、福運が残っているうちに、早く信心をしなさい」と、盛んに入会を勧めるのだ。
 直子は、母親の熱心さに、娘を思う真心を感じて、入会に踏み切ったのである。
 しかし、夫の栄蔵は信心には反対だった。「騙されているんだ!」と、頭から決めてかかった。彼の耳に入ってくる創価学会についての話は、偏見に満ちた流言飛語の類いばかりであったからである。
 デマを打ち破るには、勇気をもって真実を語り抜くことである。その挑戦を怠れば、デマに真実の座を譲り渡すことになる。
 彼女は、信心を始めたものの、御本尊を安置することもできなかった。しかし、入会したからには、真面目に信心をしなければと、夫が出勤したあとに、タンスから御本尊を出して勤行した。学会活動にも参加した。
 会合に参加し、教学を学び、人びとの幸福を願って仏法を語っていくと、自分の生命が弾むように感じた。次第に、学会活動が楽しくて仕方なくなっていった。
 夫の栄蔵は、頭を抱えた。彼は、結婚当初から、″やっかいな嫁さんをもらった″と、悩んでいたのだ。というのは、直子は一人娘で、わがまま放題に育ったために、結婚してからも、掃除や裁縫など、家事は、ほとんどしなかったのである。
 結婚式を挙げた日の夜、夫から家計簿を渡されたが、つけたことは一度もなかった。料理くらいは、自分も食べなくてはならないので作りはしたが、寝坊をして朝食を作らないことも、しばしばあった。そのくせ買い物が大好きで、デパートへは足しげく通い、おしゃれな服をたくさん買い込んでくるのだ。
 そこに、今度は信心を始めたのである。
48  激闘(48)
 宮中直子は、悩んでいた。
 「主人は、学会のことは何も知らないのに、信心をするなと言うんです。困ったものです」
 よく婦人部の先輩幹部に、そう愚痴をこぼした。すると、先輩は、「ご主人のせいにしてはだめよ。悩みの本当の原因は、すべて自分にあるのよ」と指導してくれた。
 しかし、直子は、納得しかねた。「悪いのは主人だ!」と思い続けてきた。
 ある時、彼女は、机の上に開かれたままになっていた夫・栄蔵の日記を、たまたま目にしてしまった。愕然とした。
 そこには、妻の直子について、「離婚するか、信心をやめさせるしかない」と書いてあった。その文字には、怒りが滲んでいた。しかも、離婚した時の慰謝料まで、詳細に計算し、書き記していたのだ。
 衝撃だった。初めて事の重大さに気づいた。
 「私は、とんでもない妻だったんだ……」 一つ一つ、自分の言動を振り返ってみた。 確かに、夫が憤るように、主婦としても、妻としても、母としても、ことごとく自分は失格であったことに気づいた。
 「学会では、信心即生活と指導している。しかし、私は、信心と生活は、全く別のもののように考え、主婦業さえ怠ってきた。これでは、夫が信心に理解を示すわけがない」
 深く反省せざるを得なかった。
 「夫が信心をしないのは、誰のせいでもない。私が悪かったからだ。私が自分に甘え、夫に甘え、本当の学会の指導、真実の仏法者の生き方を、実践していなかったからだ!」
 文豪ロマン・ロランは記している。
 「行動なしには、完全な、生きた、真の思想は決してありません!」
 直子は、自身の人間革命を御本尊に誓い、真剣に唱題し始めた。
 「自分の振る舞い、生き方を改めなくては信心しているとはいえない。必ず、良い主婦になろう。良い妻になろう。良い母になろう。私が変われば、きっと、夫も変わるはずだ。それが依正不二の原理ではないか!」
49  激闘(49)
 宮中直子は、根は純粋であった。彼女は、学会の指導を実践し、良き主婦、良き妻、良き母をめざした。その目覚ましい変化に、夫の栄蔵も目を見張った。そして彼は、信心への態度を改め、反対も次第に収まっていったのである。
 また、利安真吉も、栄蔵のもとへ、仏法対話に通った。利安の真面目で誠実な人柄に、栄蔵も信頼を寄せ、そして、一年後には、信心を始めたのである。
 直子の入会から十六年、宮中夫妻は真面目に信心に励み、功徳爛漫の春を迎えていた。
 山本伸一は、二人の話を聞くと、純粋な信心を貫くことの大切さを語っていった。
 「宮中さんご夫妻を見ていて思うことは、清らかな生命で信心を貫いていくならば、その分、必ず大きな功徳、福運となって花開くということです。
 反対に、一応、信心に励んでいるように見えても、慢心になって求道心もなくし、陰で先輩幹部や同志を批判したり、怨嫉したりする人もいます。
 また、自意識が強く、自分が中心でないとやる気を失い、組織の第一線で地道に活動することを避けようとする人もいます。でも、それは、わがままなんです。結局、自らの手で、功徳、福運を消してしまうことになってしまう。
 お二人は、いつまでも、純粋な信心を、鹿児島の全同志に伝えていってください」
 宮中一家との語らいが一段落した時、同行の幹部が伸一に告げた。
 「創価大学出身の青年部員が十数人、先生にお会いしたいと言って、鹿児島会館に集まって来ているそうです」
 伸一は、宮中夫妻に、「その青年たちを、ここに招いてよろしいですか」と尋ねた。
 栄蔵が、弾む声で答えた。
 「どうぞ、お使いください」
 ほどなく、創大の出身者たちが到着した。
 「よく来たね。さあ、懇談しよう」
 伸一は、満面に笑みを浮かべて言った。
50  激闘(50)
 山本伸一のもとに集って来た創価大学出身の青年部員は、一期生から、この年の春に卒業したばかりの四期生であった。
 伸一は、皆の近況などを尋ねていった。メンバーは、新聞社や自動車販売会社、市役所等に勤務し、鹿児島県繁栄の力になろうとの、強い思いをもっていた。しかし、一期生でも、まだ就職して三年で、いわば下積み時代である。仕事と学会活動を、どう両立させるかなどで悩んでいた。
 伸一は言った。
 「今は、ともかく職場で実証を示し、なくてはならない人になることが大事です。
 同時に、創価学会の組織こそ、自分が根を張る大地であると、心を定めることです。人間的成長を図り、幸福境涯を築いていくための養分は、学会という大地から吸い上げていく以外にありません。
 したがって、何があっても、学会の組織から離れないことが肝要です。
 もちろん、″会合に出たい。学会活動したい″と思っても、仕事が多忙なために、十分に動けない時期もあるでしょう。しかし、″忙しいから仕方がない″と、心の中で、信心、学会活動を切り捨ててはならない。まして、それほど忙しくもないのに、活動に出ようとしないのは、わがままであり、敗北です。
 どこまでも学会と共に生き、広宣流布をわが生涯の目的と定め、弘教し抜いていくというのが、学会員としての生き方の原点です。
 仕事が忙しく、会合に出られない時こそ、″必ず、活動に参加できるようになろう″と、心に決めるんです。その一念が成長につながっていくし、やがて事態を変えていく力になっていきます。
 そして、一生懸命に、御書をはじめ、『聖教新聞』などを読み、学会活動できるように真剣に唱題するんです。また、少しでも時間を見つけては、同志と会い、広宣流布への決意を新たにしていくことが大切です」
 孤立は、勇気、活力を奪っていく。同志の連帯が、生命の燃焼をもたらすのだ。
51  激闘(51)
 山本伸一は、集って来た青年たちが、信心のことで、職場の先輩や同僚たちから、批判されることもあるのではないかと思った。
 「もしも、信仰について、とやかく言われることがあっても、『信教の自由は憲法で保障されているではありませんか。激流の社会で生き抜いていくには、確かな哲学が必要です。仏法というのは、その哲学の根本なんです』と、胸を張っていくんです。
 草創期の学会員の多くが、信心をしているということから、職場で意地悪をされたり、仲間外れにされたりしてきた。でも、そのなかで堂々と信心を貫き、職場で勝利の実証を積み重ね、信頼と尊敬を勝ち取ってきたんです。諸君も、そうなってください」
 メンバーの一人は、鹿児島に帰ってきたが、就職先が見つからないことを報告した。
 「そうか。大変だな。仕事は、生きるために不可欠なものだから、必ずしも、自分が希望する職場ではなくとも、我慢することも必要です。多少、給料が安くとも、あるいは、大きな企業ではなくとも、まず就職して生活という足元を固めることです。
 そして、そこで、三年間はしっかり根を張り、それを足がかりにして、次の職場に移るという方法もあります。
 初めから、いい条件の職場というのは、なかなかありません。太閤秀吉だって、最初は草履取りだったではありませんか。そのなかで一つ一つ信頼を勝ち取っていった。千里の道も一歩からです。
 かつて、ある著名な評論家と会談しました。その人は、『今は、自分の作品が売れているが、もし売れなくなったら、人力車を引いてでも、女房、子どもは食わせていく』と語っていた。その心意気が大事です。
 ともかく、″広宣流布の使命を果たしていくために仕事を与えてください。道を開いてください″と、しっかり祈っていくんです。
 広宣流布につながる祈りは、仏・菩薩の祈りであり、その真剣な唱題が大宇宙をも動かしていきます」
52  激闘(52)
 自動車販売会社に勤務する青年が、山本伸一に報告した。
 「私は四期生で、今春から社会人になりました。実は、就職試験の面接で、社長が、『一度、学会本部に行ったことがあるが、受付の女子職員の応対が実にすばらしかった。日本一だ!』と語っておりました」
 すかさず、伸一が言った。
 「君も、そう言われる存在になることです。
 もし、その社長さんにお会いする機会があったら、私が、『学会本部においでいただき、誠にありがとうございました』と深謝していた旨、丁重に伝えてください」
 伸一は、一人ひとりに視線を注いだ。
 「みんな、頼もしいな。鹿児島を頼むよ。九州を頼むよ」
 「はい!」
 決意のこもった、さわやかな声が響いた。
 翌日の五月十七日、伸一は午後一時前に九州研修道場を発って、空路、福岡に向かった。福岡では、博多区の九州平和会館(現在の博多平和会館)を視察したあと、同区内の九州文化会館(現在の福岡中央文化会館)で行われた九州最高会議に出席した。
 最高会議での協議の結果、福岡県男子部の第三回総会を七月上旬に、福岡支部結成二十二周年を祝う福岡県総会を九月に開催することなどが、決定したのである。
 また、席上、伸一は、個人指導の在り方について語っていった。
 彼はこれまで、全会員が誤りなく幸福の大道を歩んでいくためにも、組織を強化して広宣流布を伸展させていくためにも、個人指導の重要性を強調してきた。そして、全幹部が個人指導に励もうとする機運が、学会内にみなぎり始めていたのである。
 人はそれぞれ、置かれた環境も異なれば、性格も、悩みも、千差万別である。ゆえに、仏法の普遍的な法理を踏まえたうえで、一人ひとりに光を当て、胸襟を開いた語らいが、個人指導が、大事になるのだ。
53  激闘(53)
 山本伸一は、「本日は、懇談的に、少し話をさせていただきます」と前置きし、個人指導の基本姿勢について述べていった。
 「第一に、決して、感情的になってはならないということであります。
 会員の方でも、信心をしていこうという自覚が乏しく、学会に対して批判的な発言をすることもあるでしょう。しかし、その時に、感情的になり、声を荒らげるようなことがあってはならない。
 指導する側が感情的になれば、相手は、心を開こうとはしなくなります。そうなれば、指導も、激励も成り立ちません。
 第二に、個人指導は、どこまでも信心の確信が根本であるということです。
 こちらの大確信をもって、相手の魂を揺り動かし、触発していくことが個人指導の根本です。それがあってこそ、理路整然とした説明も生きてくるんです。したがって、個人指導を行う際には、しっかり唱題し、強い生命力を涌現させていくことが大事です。また、確信を伝えるうえで、自分の体験や、多くの同志の体験を語っていくことも必要です。
 第三に、相談を受けた内容を他言しては、絶対にならないということを銘記していただきたい。
 特に、宗教者には守秘義務があります。万が一にも、相談を受けた話が漏れるようなことがあれば、それは、学会全体への不信となり、仏法のうえから見ても、結果的に、広宣流布を破壊する重罪となります。
 第四に、粘り強く、包容力豊かに、指導の任に徹していくべきであります。
 たとえば、自分の担当する組織で、活動に参加していない方のお宅におじゃまし、個人指導したとします。しかし、それで、すぐに発心することは、むしろ、まれです。
 折を見て、また、お伺いしては、根気強く、励まし続けていく。そのなかで、こちらの真心が通じ、信頼が生まれ、″頑張ろう″という思いをいだいていくものです。個人指導に求められるのは、持続力なんです」
54  激闘(54)
 山本伸一の声は次第に熱を帯びていった。
 「個人指導によって、相手の方が奮起した場合でも、″その後、どうなったのか″″悩みは克服できたのか″と心を砕き、電話でも、手紙でもよいから、連絡を取って、激励していくことです。幹部になった。張り切って会員宅を訪れ、個人指導した。しかし、一度だけで終わりというのでは、途中で放り出してしまったようなものです。
 第五に、抜苦与楽の精神こそ、個人指導の大目的であることを忘れないでください。
 皆、さまざまな悩みをかかえて、苦しんだ末に、指導を受ける。したがって、指導する限りは、その悩み、苦しみが、少なくなるように励ましていくことが肝要です。
 一例をあげれば、ご主人が信心しないことで悩んでいる夫人がいたとします。その時には、まず、こう言うことです。
 『大丈夫ですよ。長い人生なんですから、焦ることはありません。ご主人も、尊い使命をもって生まれているんです。夫を思う妻の祈りは必ず通じますよ』
 そうすれば、安心できます。それから具体的な対応について語っていけばいいんです」
 個人指導には、人を大事にする心、相手への深い思いやりが不可欠である。その心が、さまざまな気遣いとなり、配慮と励ましの言葉となって表れるのである。
 伸一は、青年時代、よく自分のアパートに男子部員を招いて、激励した。時には、食事を振る舞ったり、共にベートーベンなどのレコードを聴いて、励ましたこともあった。さらに、文京支部はもとより、札幌、大阪、山口、夕張など、どこへ行っても、徹して個人指導に努めた。
 父親のつくった借金を返済しながら、両親と小さな弟、妹の生活を支える青年もいた。本人も妻も病身で、乳飲み子を抱え、失業中の壮年もいた。皆、過酷な現実と向き合い、必死に生きようとしていた。そうした同志に、希望の光を注ぎ、仏として輝かせていくための聖業が個人指導である。
55  激闘(55)
 山本伸一は、個人指導についての、自分の実感を語っていった。
 「私が多くの幹部を見てきて感じることは、個人指導を徹底してやり抜いてきた方は、退転していないということなんです。
 個人指導は、地味で目立たない永続的な忍耐の労作業であり、それを実践していくなかで、本当の信心の深化が図れるからです。さらに、個人指導を重ねていくなかで、自分自身を見つめ、指導することができるようになるんです。だから退転しないんです。
 もちろん折伏も大事です。ただし、折伏しただけで、入会後の指導をしっかりしていかないと、一時的な戦いに終わってしまう面があります。また、折伏の成果は、すぐに目に見えるかたちで表れるので、周囲の同志から賞讃もされます。それによって慢心になり、信心が崩れていってしまった人もいました。
 したがって、折伏とともに、個人指導に全力を傾けていくことが、自分の信心を鍛え、境涯を高めていく必須条件なんです。
 折伏、個人指導は、対話をもって行う精神の開拓作業です。開拓には、困難に挑む勇気と忍耐が必要です。しかし、その労作業が、人びとの生命を耕し、幸福という実りをもたらすんです。どうか皆さんは、誠実に対話を重ね、友の生命開拓の鍬を振るい続けていってください。
 個人指導は、組織に温かい人間の血を通わせ、組織を強化していく道でもあるんです」
 皆、決意に燃えた目で、伸一を見ていた。 彼は、笑みを浮かべ、言葉をついだ。
 「創価学会の世界では、個人指導は、当然のことのように、日常的に行われています。
 それは、苦悩を克服するための励ましのネットワークであり、現代社会にあって分断されてきた、人間と人間の絆の再生作業でもあるんです。この私どもの行動のなかに、学会のみならず、社会の重要な無形の財産があると確信しております。
 やがて、その事実に、社会が、世界が、刮目する時が、きっと、来るでしょう」
56  激闘(56)
 山本伸一は、九州最高会議に続いて、視察のために、福岡市西区(現在の早良区)の九州記念館(現在の福岡平和会館)に立ち寄った。時刻は、既に午後八時であった。彼は、同行の幹部から、福岡圏・別府支部の体験談大会が行われていることを聞いた。
 「体験談大会ですか。大事だね。仏法のすばらしさを示すうえで、体験に勝るものはありませんから。
 体験と聞くと、信心によって、赤字だった会社の収益が何倍にもなったとか、病気を克服したという話を思い浮かべがちですが、それだけではないんです。
 ご主人が病に倒れていても、奥さんが強い心で奮闘し、明るく頑張っているということも、見事な体験です。八十代になって腰も曲がり、耳も遠くなっているが、日々、生き生きと、楽しく学会活動に励んでいるということも、すごい体験ではありませんか。
 仏法の偉大さは、それぞれの生き方、考え方、人生観、死生観などにも表れます。それをそのまま語ることが、実は、仏法の証明になるんです。
 せっかく記念館におじゃましたんだから、皆さんにお会いしていこう!」
 伸一は、疲れを覚えていた。しかし、皆に会わずに帰ることを、自らが許さなかった。
 彼は、体験発表が一段落するのを待って、会場に姿を現した。思いがけない山本会長の登場に、大拍手と大歓声が起こった。
 「本日は、大変におめでとうございます。
 皆さん方が体験談大会をされているので、ご迷惑にならないように、そっと帰ろうと思っていたんです。しかし、やはり、ごあいさつに伺うべきではないかと思って、おじゃました次第です。
 時間があまりないものですから、ピアノを弾いて、御礼とさせていただきます」
 こう言うと、彼はピアノに向かい、「月の沙漠」や「さくら」などを演奏していった。
 その音律から、参加者は、伸一の真心を、真剣な励ましの思いを感じ取っていった。
57  激闘(57)
 ピアノ演奏を終えた山本伸一は、マイクを取って皆に言った。
 「全員、幸せになってください。私は、皆さんの会長として、何があっても、皆さんを守っていきます。皆さんは、安心して、勇気をもって、信心を貫いてください」
 山本伸一が、体験談大会の会場を出ようとした時、「先生!」と言って、彼を追いかけてきた、一人の壮年がいた。
 「先生、かつて、ビルマ(現在のミャンマー)でお会いした絹谷清次です」
 「あっ、あの時の……。懐かしいなー」
 絹谷は、十七年前の一九六一年(昭和三十六年)二月七日、伸一がビルマを訪問した折に、ラングーン(現在のヤンゴン)の空港で一行を出迎えてくれた一人であった。当時、彼は漁業会社に勤め、ビルマで漁業技術の指導に当たっていたのである。
 その翌日も、彼は一行と行動を共にし、日本人墓地で行われた、伸一の長兄・喜久夫をはじめ、戦没者への追善法要にも参列していた。
 ビルマは、伸一が訪問した翌年の六二年(同三十七年)、クーデターによって軍事政権が誕生し、鎖国的な社会主義政策がとられてきた。七四年(同四十九年)には、国名を「ビルマ連邦社会主義共和国」と改称。深刻な経済危機をどう乗り越えるかが、国としての大きな課題となっていた。
 伸一は、絹谷と握手を交わしながら言った。
 「今、ビルマは、大変な状況に置かれています。しかし、あなたと一緒に蒔いた妙法の種子は深く根差して、いつか芽を出し、花を咲かせ、実を結んでいくことは間違いありません。私は、ビルマの繁栄と平和と人びとの幸福を真剣に祈っています」
 そして、絹谷に歌を贈ったのである。
  懐かしき
    あの日 あの時
      ラングーン
    君の面影
      忘れじ嬉しく
58  激闘(58)
 広宣流布は、激闘に次ぐ激闘によってのみ切り開かれる、飽くなき挑戦の旅である。
 御聖訓には、「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず」と仰せである。
 山本伸一は、広布大願に生きる誉れある創価のリーダーとして、間断なき闘争を自己自身に命じていた。
 彼は、この九州滞在中、寸暇を惜しんで、百近い句や歌を詠み、色紙や書籍などに揮毫して代表に贈った。″奮起してほしい!″″大成長を遂げてほしい!″″幸せになってほしい!″といった、一人ひとりへの思いが、句や歌となって泉のごとく湧き出るのである。
 五月十八日、伸一の活動の舞台は、福岡から山口に移っていた。
 山口は一泊二日の滞在であったが、山口文化会館での「人間革命の歌」の碑の除幕式や最高協議会、各部代表らとの懇談、記念撮影などを行った。十八日夜には、山口市内の支部座談会に出席した。会場は、山口文化会館から車で七、八分のところにある、支部長をしている堀山年春の家であった。
 午後七時過ぎ、伸一が会場に到着した時には、既に二百人ほどの人が集っており、玄関は靴で埋まっていた。
 彼は、縁側に回って、参加者に声をかけた。
 「皆さん、こんばんは!」
 参加者は一斉に声のした方を見た。誰もが一瞬、わが目、わが耳を疑った。会長・山本伸一の姿があったからだ。歓声があがった。
 「突然、おじゃましてすみません」
 伸一は、座敷に上がり、題目を三唱すると、支部長に支部名を確認した。
 「大歳支部です。『大』の字に、年齢を表す『歳』と書いて、『大歳』と読みます」
 緊張のためか、支部長の表情は硬かった。伸一は、皆に語りかけた。
 「いい名前じゃないですか。『大歳』ですから、皆さんは全員、長生きしなければいけません。百歳、いや五百歳、千歳まで、はつらつと、ますます元気に活躍してください」
59  激闘(59)
 山本伸一は、会場の雰囲気を解きほぐそうと、「今日は、皆さんは緊張しているようなので、私が司会をさせていただきたいと思いますが、いいですか」と参加者に尋ねた。
 大拍手が起こった。
 「会場がいっぱいであるために、後ろにいらっしゃる方の顔を見ることができなくなってしまうので、椅子に座らせていただきます。しかし、本当は、皆さんの真ん中に入って、和気あいあいと語らいをしたいというのが、私の気持ちなんです。
 今日は、最初に、座談会について語らせてもらって、よろしいですか」
 また、拍手が広がった。
 「今、全国津々浦々で開催されている座談会は、牧口初代会長の時代から行われてきた学会の誇るべき伝統行事です。学会といえば座談会、座談会といえば学会です。
 それは、人間と人間の触れ合いの場が失われ、殺伐とした現代社会にあって、人間共和のオアシスの役割を担っています」
 伸一は、その座談会の在り方について、この山口の地から、全国に向けて、発信しようと考えていたのである。
 「まず、最初に申し上げたいことは、御本尊のもとでは皆が平等であり、その縮図が学会の座談会であるということです。したがって、どこまでも全員参加をめざしていただきたいと思います。
 学会には、さまざまな社会的立場の方がおります。職業も、年齢も異なっています。その方々が、平等に、全員が主体者となって語り合いがなされていくのが座談会です。
 今日は、大勢の方が参加されておりますので、全員が話すことはできませんが、本来は、皆が信仰の喜びや決意を述べ、わからないことがあれば、忌憚なく質問できるのが座談会なんです。そして、全参加者が、歓喜に燃えて、信心の向上と地域の発展のために尽くすことを決意し合い、晴れ晴れとした思いで帰っていける、楽しく、有意義な集いにしていただきたいのであります」
60  激闘(60)
 座談会は、学会の生命線である。
 座談会が活気と歓喜にあふれ、大いなる生命の共感と触発がある限り、人びとの心に希望と勇気の火をともし、幸の調べを広げ続けていくにちがいない。そして、広宣流布の歩みは、ますます勢いを増していこう。
 山本伸一は、座談会を構成する柱について言及していった。
 「座談会で重要なものは、なんといっても功徳の体験です。そして、信心の確信に満ち満ちた指導です。それは、皆の信心の、また生活の、活力源となっていきます。
 したがって、幹部の方々は、座談会で、すばらしい功徳の体験が披露できるように、体験発表をする方とは、事前によく打ち合わせをし、準備にあたってください。さらに、日ごろから、皆が功徳を受けられるように、丹念に、激励、指導の手を差し伸べていくことです。
 活動の真実の成果というのは、単に弘教などの数ではなく、何人の方が、功徳の体験をもち、どれだけ信心への確信を深めていったかなんです。
 また、幹部は、自身がたくさんの功徳の体験を積み、歓喜と躍動の生命で、激励と指導にあたっていただきたいんです。
 指導は、皆が関心をもつような話題性も必要ですが、ただ、面白そうな話を並べればいいというものではありません。根本は、信心の大確信であり、それが参加者に伝わって、皆が″よーし、頑張るぞ!″と、決意できてこそ、本当の指導なんです。
 次に、幹部は、参加者の信心と努力の結晶である、それぞれの貴い発言を、どこまでも尊重していくべきであると、申し上げておきたい。
 座談会で発言をしても、話を上手にまとめられない方もいるでしょう。ひとこと話すのに緊張し、生命力を振り絞って、話をしてくださる方もいます。そうした方々を、共に同志として心から讃え、励ましていただきたい。それが、創価家族の連帯の世界です」
61  激闘(61)
 山本伸一は、さらに、座談会のもつ、現代的な意義について語っていった。
 「座談会は、仏法を現代に展開していく学会の伝統行事といえます。
 座談会では、御書をはじめ、仏法のさまざまな法理も学びます。そして、その法理を、それぞれが自身の生活の場で実践して、体験をもって正しさを証明してきました。さらに、その体験を座談会で語り合い、仏法への確信を再確認し合ってきました。
 仏法の法理を生活の場で実験証明した結果が、生き生きと語り合われる座談会には、仏法を社会に開く実践的展開があります。
 ゆえに、広宣流布の前進は、座談会に始まり、座談会に終わることを、深く銘記していただきたいのであります」
 ここで伸一は、″司会″に戻り、「それでは、用意していた体験を聞かせてください」と、参加者に笑顔を向けた。
 壮年と婦人の代表が、体験を語った。それぞれが自己の宿命と戦い、苦境の壁を乗り越え、見事に信心で勝利を打ち立てた体験であった。
 伸一は、「元気がいいね。実感がこもっています」「すばらしい体験です」と、賞讃を惜しまなかった。
 次いで、この日、同行していた、副会長の森川一正があいさつしたあと、伸一は、要約して信心の基本姿勢について語った。
 「南無妙法蓮華経とは、宇宙の根本法則であり、それを曼荼羅として顕したのが、御本尊であります。その御本尊に対しては、何があっても決して疑うことなく、純粋な信心を貫いていくことが肝要なんです。
 私たちには、過去世からのさまざまな宿業があります。悪業ももっています。したがって、信心を始めたからといって、すぐに宿命の転換ができるわけではありません。一生成仏といっても、それなりの時間が必要です。
 ″なぜ、自分だけが、こんな目に遭うのか″と思うようなこともあるでしょう。しかし、必ず宿命を転換していくことができるんです」
62  激闘(62)
 山本伸一は、話を続けた。
 「第二代会長の戸田城聖先生は、仏法の法理を万人にわかりやすく伝えるために、本当に絶妙な譬えを引かれて指導してくださった。宿命の転換についても、よく、こんな譬え話をされていました。
 『長年、放置して汚れたホースに、きれいな水道の水を流す。しかし、最初は、泥だらけの濁った水が出てくる。それでも、水を流し続ければ、次第に、きれいな水が流れるようになる。
 それと同じで、信心をすれば、過去世からの悪業が出てきて、しばらくは大変な思いばかりすることもある。だが、幸せになるためには、その悪業を流し出してしまう必要がある。そして、すべて流しきれば、きれいな水が流れるように、崩れざる幸せを得ることができる。したがって、決して御本尊を疑わず、信心を持続していくことが大事である』
 皆さんも、信心をして、何か大変な事態に遭遇したならば、こう自覚していくことです。
 ″いよいよ悪業が出始めたな。よし、変毒為薬していこう。これを乗り越えれば、大きく境涯を開いていけるぞ!″
 どうか、苦難に遭うごとに確信を強め、勇んで仏道修行に励んでいってください。
 さて、今日は質問会にしますので、日ごろ悩んでいることや疑問に思っていることがありましたら、遠慮なく質問してください。会長が答えられないと思うことでも結構ですよ。
 信心をしていくうえで、何か疑問があれば、率直にぶつけ、指導を受ける。そして、心から納得して、すがすがしい、新しい決意で進んでいくことです。一人で悶々とする必要はありません。
 また、座談会で質問できない場合は、終了後にでも、質問してください。皆さんの疑問に答えるために幹部がいるんです。 では、どうぞ!」
 すると、すぐに婦人が手をあげた。
 「性格は、信心しても変わらないと聞きましたが、本当にそうなんでしょうか」
63  激闘(63)
 質問した婦人は、おそらく、自分の性格のことで悩んでいたにちがいない。
 山本伸一は大きく頷くと、包み込むような笑みを浮かべて語り始めた。
 「性格について、仏法では″後世まで変わらないのが性分である″ととらえています。
 つまり、その人のもって生まれた性格自体は、変わらないということです。
 たとえば、細かいことを気にする人がいます。そういう性格の人は、人に何かひとこと言われただけで、不安になったり、傷ついたりしてしまいがちです。また、他人の小さな欠点が気になって仕方がない。そして、結局、日々、悶々としながら過ごすことになってしまう。
 では、その人が信心に励み、人間革命していくと、どうなるのか。
 細心であるという性格は変わりません。しかし、人に言われたひとことを真摯に受けとめ、自分を向上させる糧にしていくようになります。また、他人の小さな欠点に気づくことは同じですが、その欠点を自分はどうやって補ってあげられるかという心配りができるようになる。さらに、他人の長所にも気づくようになります。
 細かいことが気になる人は、こまやかな気遣い、配慮ができるということです。その能力が最大に発揮されることになるんです。
 よく戸田先生は、こんな譬えを引かれていました。
 ――川がある。川幅や流れの形は、基本的には変わらない。これが性格である。しかし、泥水が流れ、飲むこともできなかった川の水を、清浄極まりない水に変えることができる。これが信心の力であり、人間革命ということである。
 自分の性格というのは、いわば個性です。そこに自分らしさもある。その自分のまま、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として、それぞれが自分の個性を最大に生かしながら、最高の人生を歩んでいけるのが、日蓮大聖人の仏法なんです」
64  激闘(64)
 山本伸一は、質問した婦人に視線を注ぎながら、「おわかりになりますね」と、確認した。婦人が頷くのを見て、言葉をついだ。
 「自分の性格は、大事な自分の個性ですから、人と比べて卑下したり、羨ましがったりする必要はないんです。
 梅は桜になることはできないし、桜も梅になることはできません。大切なことは、自分は自分らしく、光り輝いていくことです。信心を貫き通していくならば、人が真似ることのできない、自分らしい最高の魅力を発揮していくことができるんです」
 「はい。わかりました!」
 婦人は、明るく、元気な声で答えた。
 次々と質問の手があがった。
 大学を卒業したが、就職が決まらずに悩んでいるとの男子部員の質問もあった。聡明な女性とは、どういう女性かとの、女子部員の質問もあった。二年前に交通事故で三歳の子どもを亡くし、苦しみが癒えないと訴える壮年もいた。
 伸一は、その一つ一つの質問に対して、真心を尽くし、大確信をもって答えていった。
 座談会こそ、励ましの花園である。何ものにも負けぬ強き生命を触発する、真剣勝負の道場である。そして、一人ひとりの発心を促す旅立ちの舞台である。
 彼は、山口の幹部に、いや、全国の幹部たちに、本当の座談会の姿を学んでほしいとの思いから、自ら手本を示したのである。
 山本伸一は、五月十九日の午後、この日が学会として定めた「山口の日」にあたることから、県の日を記念する勤行会に出席した。
 そして、午後二時過ぎに山口文化会館を発った。山口でも、滞在中に二十余人の代表に、句や歌を詠み、贈っている。
 ある草創の功労者には、「苦楽をば 夫婦で分かたむ 広布旅」と。また、ある男子部の幹部には、「丈夫は 今や立ちゆけ ふたたびの 妙法維新の 旗をかかげて」と、満腔の期待を込めて励ましの歌を認めた。
65  激闘(65)
 師子は征く。師子は走る。師子は戦う。
 山本伸一は、山口文化会館を発って二時間後の午後四時過ぎ、広島文化会館に到着した。
 彼は、直ちに、日ごろから会員奉仕に徹してくれている職員への感謝の思いを込め、共に記念のカメラに納まった。それから、聖教新聞社中国総支局や、文化会館の倉庫などを視察した。倉庫内では、自ら物品の整理にあたり、合理的な整理整頓の仕方などを職員らに語った。
 さらに、午後五時半からは、方面・県の幹部、功労者の代表らと、カレーライスを食べながら懇談会を行った。この懇談会の前には、参加者を丁重に迎え、長年の奮闘を心からねぎらうのであった。
 懇談会の終了したあとには、徒歩で近隣を回り、立ち寄った喫茶店でも、女子職員や婦人部の方面幹部らと懇談を重ねた。
 その後、広島文化会館に戻ってからも、理事長、副会長らと、今後の活動について、深夜まで協議したのである。
 伸一は、集っていた最高幹部に言った。
 「広宣流布の大闘争といっても、特別なことなど何もないんです。日々、月々、同じことの繰り返しといってよい。私は、全国各地を回っていますが、どこへ行っても、私のやっていることは、ほとんど同じです。
 勤行会や幹部会などに出席し、全力で励ます。懇談会などで皆の意見に耳を傾け、どうすれば皆が喜んで、元気に活動できるかを考えて手を打つ。また、一人でも多くの方々とお会いし、徹して激励する。家庭訪問して語り合う――日本国中、いや、世界各国、どこへ行こうが同じです。
 その一つ一つに全生命を注ぎ込む思いで、真剣に取り組むんです。″もう一歩深く、心の中へ入ろう!″″もっと強く、魂を揺さぶる思いで励まそう!″と、いつも自分に言い聞かせながら、戦い挑んでいます。
 どんなに高い峰も、登攀するには、一歩、また一歩と、着実に、力強く、足を踏み出し続けていくしかない。地道即大前進なんです」
66  激闘(66)
 山本伸一は、最高幹部との協議で、翌日に行われる本部幹部会についても語った。
 「明日の本部幹部会は、広島での初めての開催だね。今や学会は、各方面や各県で堂々とした本部幹部会が開けるようになった。私は、各地方が力をつけて、東京をリードしていく時代を、早くつくりたいんです。
 いつまでも東京という一極に集中していては、広宣流布は壁に突き当たってしまう。
 それぞれの地によって、気候風土も、文化も、産業も、社会的な慣習も、人の気質も異なります。したがって、その地域の実情に即した広宣流布の在り方を、そこにいる人たちが、真剣に考えていかなくてはならない。
 中央の幹部は、そのための応援、手助けをしていくことです。中央のための地方ではないし、地方の上に中央があるのでもない。むしろ、地方のために中央があるんです。それを、はき違えると、各方面や各県区の発展の芽を摘んでしまうことになります。
 日本の政治がそうです。地方と東京との経済格差や、地方の文化的環境整備の遅れなどは、東京中心の構造がつくられてきたからといえます。
 私は今、学会にあって、各方面が大発展していく流れをつくっているんです。また、中国方面のなかでも、鳥取や島根といった、いわゆる山陰地方の、あまり光が当たらなかった地方を強くしていきたいんです。必ず、そうしていきます」
 そよ風に青葉が揺れる五月二十日午後、広島文化会館で五月度本部幹部会が開催された。場内には、赤、白、ピンクなど、美しいバラの花が、所狭しと飾られ、″バラの幹部会″の様相を呈していた。
 このバラは、″ばらのまち″として知られる広島県福山市の婦人部員が、各家庭でバラを栽培し、持ち寄ったものであった。
 本部幹部会では、学生部長や高等部長などの新人事も発表され、希望あふれる新出発の幹部会となった。
67  激闘(67)
 本部幹部会で山本伸一は訴えていった。
 「日蓮大聖人は、『本迹の相違は水火天地の違目なり』と仰せになっております。迹門と本門とは、大きな違いがあることを述べられている御文です」
 迹門の「迹」とは影、跡のことで、本門の「本」とは本体を意味する。たとえば、天空の月を「本」とすれば、池に映った月は「迹」である。また、「門」とは法門のことである。
 この「本」と「迹」をもって、法華経二十八品を立て分けると、前半十四品は「迹門」となり、後半十四品は「本門」となる。
 それは、法華経の前半は、初めて菩提樹の下で成道した釈尊の所説を記した経文であるからだ。その釈尊は、仏が衆生を救うために顕した仮の姿、迹仏にすぎないのだ。
 一方、法華経の後半が「本門」となるのは、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に成仏していたという、仏の本地、真実が明かされた法門であるからだ。久遠以来、仏は、この娑婆世界で永遠に戦い続けている――これが本門の教えである。
 伸一は力説した。
 「日蓮大聖人の法華経文底から見れば、南無妙法蓮華経が『本』であり、文上の法華経は、迹門、本門ともに『迹』となるのであります。それは、南無妙法蓮華経こそが、末法流布の大法であるからです。
 大聖人の仏法を広宣流布していく私どもの立場から、この『本』と『迹』について考えるならば、次のようにとらえることができます。
 広宣流布を口にしても、本当の実践がなく、ただ単に、観念的な理論を振り回しているだけであれば、それは『迹』にすぎません。
 それに対して、現実のうえでの実践、振る舞いこそが『本』となります。広宣流布を推進するために、実際に諸活動に参加する。功徳の実証を示し、信仰体験をもって、仏法対話を展開していく――そうした事実上の行動こそが、最も重要な『本』なんです。
 つまり、いちばん大事なことは、″現実に広宣流布のために何をしたか″ということです」
68  激闘(68)
 貧しさに耐え、病に苦しみ、蔑まれ、諍いに疲れ、生きる気力さえ失った友を励まし、その心に、妙法という勇気と希望と蘇生の火をともし続けてきたのは誰か!
 社会の底辺に追いやられてきた民衆を、社会建設の主体者として立ち上がらせ、立正安国の道を切り開いてきたのは誰か!
 冷笑、非難、中傷、罵詈、罵倒……の飛礫にさらされても、友のために、不幸に泣く人のために、汗を流し、足を棒にして、来る日も、来る日も、広宣流布に走り抜いてきたのは誰か!
 上品ぶった偽善家は眉をひそめて見て見ぬ振りをし、保身の批評家が背を向けた、苦悩する人びとのなかに、創価の同志は飛び込み、事実の上に、民衆勝利の旗を打ち立ててきたのだ。
 本部幹部会で、山本伸一は力強く訴えた。
 「広宣流布を現実に推進している創価学会の活動こそ、社会の一大変革運動であります。そして、それは、地涌の菩薩の行の実践であり、日蓮大聖人の『本門』の教えの実践にほかなりません。私どもは、『本門』の大道を進む誇りを胸に、勇躍、新たな前進を開始していこうではありませんか!」
 賛同の大拍手が起こった。
 ″単なる決意に終わってはならない。勇気ある行動だ! 果敢なる実践だ!″
 参加者はほおを紅潮させながら、広宣流布を誓願し、平和原点の地・広島から、新しい挑戦への第一歩を踏み出したのである。
 五月二十一日、伸一は、首脳幹部との協議の合間を縫い、会館に集ってきた人びとを個人指導するなど、激励に次ぐ激励を重ねた。さらに、メンバーと勤行もした。
 そして、午後一時半過ぎ、広島文化会館を発って岡山へ向かった。岡山県女子部の第一回合唱祭に出席するためである。
 伸一の体調は、決して思わしくなかった。疲労が蓄積していた。しかし、「岡山へ行こう。女子部が待っているんだもの。励ましたいんだ」と、車に乗り込むのであった。
69  激闘(69)
 岡山県女子部の合唱祭は、五月二十一日午後四時前から、岡山文化会館(現在の岡山南文化会館)で開催された。
 ♪ああ新世紀 時来たる
  今ひらけゆく 金の道
  春の曙 創価山 創価山
  私の あなたの 青春桜
 合唱祭のフィナーレは、七百五十人の出演者による女子部歌「青春桜」の大合唱であった。この歌は、二カ月前の三月十六日に行われた青年部総会を記念して発表されたものだ。
 山本伸一が女子部長らに、「歌詞を見てください」と頼まれ、筆を加えた歌である。彼は、全生命を注ぐ思いで、新時代を開く″魂の歌″にしようと、詞を練り上げていった。手直しした箇所があまりにも多く、出来上がった歌詞は、ほとんど原形をとどめていなかった。
 女子部員は、伸一の心をかみ締め、この歌とともに、新世紀へのスタートを切ったのだ。
 合唱祭は美事であった。伸一は、はつらつとした歌声に未来への希望の光を見た。
 中国広布は、草創の時代、岡山を中心に進んできた。その後、広島が中国方面の事務機構の中心となった。しかし、岡山は″中国の雄″との誇りと気概をもち続けてくれていた。合唱祭には、その心意気からほとばしる、歓喜と躍動の音律が弾んでいた。伸一は嬉しかった。
 あいさつに立った彼は、宣言した。
 「広宣流布の大情熱を、信心の結晶を、私は見ました! 岡山は、まことに健在であることを天下に証明しました! 勝利しました」
 既にこの年、伸一は、東京を除いて、四国、関西、関東、東海道、中部、九州、中国の七方面、十六府県を訪問していた。
 ″命ある限り、私は戦う。仏子には指一本も差させぬ。魔軍よ、嵐よ、われに競え!″
 闘魂が、無限の大生命力を涌現させる。
 彼は、二十二日に東京に戻ると、二十七日には東北へ飛んだ。

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