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日蓮大聖人・池田大作

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第27巻 「正義」 正義

小説「新・人間革命」

前後
2  正義(2)
 ロシアの作家・チェーホフは記した。
 「新しい生活のあけぼのが輝いて、正義が凱歌を奏する時が必ず来る」
 一九七八年(昭和五十三年)四月、創価学会は、山本伸一の第三代会長就任十八周年を目前にして、民衆の凱歌の祭典ともいうべき″合唱祭″に力を注いでいた。
 信仰によって、人生の使命を知った喜びと生命の躍動を、友の幸せのために生きる誇りと歓喜を、歌声をもって表現し、希望の春風を、地域に、社会に送ろうとしたのである。
 創価学会は、七二年(同四十七年)の秋、「広布第二章」の新しい船出を開始した。
 伸一は、いよいよ本格的な世界広宣流布の流れを開こうと、着々と準備を整えてきた。
 彼が会長就任以来、世界各地を回り、自ら植え育ててきた仏法の種子は、見事に芽吹いていた。各国・地域に次々に団体も誕生し、それぞれの実情に応じて自主的に活動を推進し、広宣流布の幸の花園を広げてきた。
 そうしたなかで、国境を超えて、団体と団体とが連携を強め、啓発、協力し合っていきたいとの声が起こった。
 その意向に基づき、七三年(同四十八年)五月に「ヨーロッパ会議」が、八月に「パン・アメリカン連盟」が、十二月に「東南アジア仏教者文化会議」が結成された。
 さらに、各国・地域の連帯を世界に広げて交流を図るために、その要となる機関を設けてほしいとの要請も出され、七四年(同四十九年)九月、東京・千駄ケ谷に「国際センター」が誕生。次いで七五年(同五十年)一月二十六日、グアムの地に世界五十一カ国・地域のメンバーの代表が集い、歴史的な第一回「世界平和会議」が開催されたのである。
 創価学会は、一閻浮提広宣流布という日蓮大聖人の御予言を、決して虚妄に終わらせることなく、現実のものとし、新しき時代の朝を開いたのである。
 仏法伝持の人とは、大聖人の仰せのままに戦い抜く「行動の人」なのだ。広宣流布の勝利の旗を打ち立てる「実証の人」なのだ。
3  正義(3)
 第一回「世界平和会議」の席上、国際仏教者連盟(IBL)が発足し、会長に山本伸一が、名誉総裁に日達法主が就いた。
 また、この席で、全参加者の懇請と総意によって創価学会インタナショナル(SGI)が結成され、伸一がSGI会長に就任。世界広宣流布をめざす創価学会の、地球的な規模のスクラムが組まれたのである。
 「世界平和会議」であいさつに立った日達は、「南無妙法蓮華経は世界の宗教」であり、「日蓮大聖人がこの皆様のお姿を御覧になられたならば、どんなにお喜びになられるか」と感慨を込めて語った。
 そして、大聖人は、仏法の流布は″時″によると仰せであり、その″時″は、山本会長の努力によってつくられ、今、世界的な仏法興隆の″時″を迎えたと明言し、「最も御本仏の御讃嘆深かるべきものと確信するものであります」と述べている。
 さらに、戦争は人類に破滅をもたらすことから、山本会長は、世界平和への潮流を起こそうと、率先して働いていると賞讃。ますます異体同心の団結をもって、世界平和の実現をめざすよう訴えて、話を結んだ。
 伸一は、人類の未来を考える時、一日も早く、平和の大潮流を起こしていかなければならないと、痛切に感じていた。
 当時、東西冷戦も続いていた。ソ連と中国も対立の溝を深め、一触即発の状況を呈していた。また、核兵器の保有国も増え、核拡散が懸念され、核の脅威は増大しつつあった。一方、先進国と発展途上国との貧富の差も激しさを増していたし、環境破壊、食糧問題等も深刻化していたのである。
 伸一は、それらの諸問題を解決していくことこそ、仏法者としての重要な課題であり、使命であると考えていたのである。
 「未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」とは、トインビー博士の洞察である。
4  正義(4)
 山本伸一は、世界広宣流布を推進する一方で、世界の指導者たちと本格的な対話を重ねた。特に、SGI結成の前年にあたる一九七四年(昭和四十九年)には、日中、日ソの新たな友好の道を開くとともに、中ソ紛争の解決の道を探るために、世界の指導者との対話を展開していったのである。
 彼は、この年の五月から六月にかけて中国を初訪問し、李先念副総理らと語り合った。九月にはソ連を初訪問してコスイギン首相と会談。さらに、十二月にも再び訪中して、周恩来総理と会見したのである。
 互いに敵対視し、関係は悪化の一途をたどる中ソ両国に、対話の窓を開いてもらいたいとの思いからの行動であった。
 七五年(同五十年)になると、伸一の平和行動には、ますます力がこもっていった。
 一月の六日には、日本を発ってアメリカを訪問。十日、ニューヨークの国連本部にワルトハイム事務総長を訪ねて会談した。
 ここでは、核兵器廃絶、中東問題などについて意見を交換したほか、国連の形骸化や大国のエゴによる国連の私物化を防ぐために、「国連を守る世界市民の会」をつくることを提案した。そして、青年部が集めた「核廃絶一千万署名簿」を手渡したのである。
 十三日には、ワシントンDCでキッシンジャー国務長官と会談した。
 世界の火薬庫といわれる中東の問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などについて語り合った。
 伸一は、平和への対話行を続けて、グアムの「世界平和会議」に臨んだのである。
 日蓮大聖人は、飢饉や疫病等による民衆の苦悩をわが苦とされ、立正安国の旗を掲げ、広宣流布の戦いを起こされた。もし宗教が、人びとの幸福と平和の実現から眼をそらすならば、それは、宗教の存在意義を、自ら捨て去ったといってよい。
 初代会長・牧口常三郎もまた、「人を救ひ世を救ふことを除いて宗教の社会的存立の意義があらうか」と述べている。
5  正義(5)
 日蓮大聖人は仰せである。
 「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ
 ――大悪は、大善が来る前兆である。一閻浮提すなわち全世界がひどく乱れたならば、法華経に説かれている「閻浮提の内に広く流布せしめる」という文が実現することは、よもや疑いようがないであろう。
 山本伸一は、この御聖訓のうえから、″戦争が絶えず、あらゆる危機的な状況が打ち続く今こそ、世界広宣流布の時代が到来したのだ。人類は、日蓮大聖人の仏法を渇望しているのだ″と、ますます強い確信をいだいた。
 仏法には、現代がかかえる諸問題の、根本的な解決の原理と方途が示されている。
 法華経では、万人が仏の生命を具えた尊厳無比なる存在であることが説かれ、他者の幸せを願う「慈悲」という生き方が示されている。その法理を、人間一人ひとりの胸中に打ち立てていってこそ、社会に蔓延する生命軽視の風潮を転換し、戦争の惨禍にピリオドを打つことができるのだ。
 また、自分と環境とが不可分の関係にあるという仏法の「依正不二」の哲理は、環境破壊をもたらした文明の在り方を問い直し、人類繁栄の新たな道を開く哲学となろう。肉体と精神とは密接不可分の関係にあると説く「色心不二」もまた、人間の全体像を見失いがちな現代医学の進むべき道を示す道標となる。
 さらに、人は、一人で生きているのではなく、互いに深い因縁で結ばれ、支え合って存在しているという仏法の「縁起」の思想は、分断した人間と人間を結合させる力となろう。
 生と死を解明し、生命変革の方途を明かし、真実の人間道を示す仏法は、人類の珠玉の叡智であり、至宝である。
 その仏法を、人類の共有財産とし、平和と繁栄を築き上げることこそが広宣流布である。ゆえに伸一は、世界各国・地域を巡り、仏法という大法理を伝え、人びとの心田に、幸福と平和の種子を蒔き続けてきたのだ。
6  正義(6)
 山本伸一が、「広布第二章」の世界広宣流布にあたって、最も力を注いできたのは、教学の深化と展開であった。
 日蓮大聖人が示された永遠不変の妙法の法理を探究し、御本仏の大精神に立ち返り、それを万人にわかりやすく開き示し、世界へ、未来へと伝えていくことこそ、最重要の課題であると、彼は感じていたのだ。
 そして、学会として協議を重ね、一九七七年(昭和五十二年)を「教学の年」とした。伸一は、自ら「諸法実相抄」など、重書の講義を開始し、世界に開く新しい教学運動を推進していった。
 この年の一月十五日に行われた第九回教学部大会でも、仏教史観について記念講演をした。そこでは、仏法は本来、「人間のための宗教」であることや、民衆のなかで広宣流布に戦うことが真の法師であること、寺院の本来の意義等について論じていった。
 さらに、翌七八年(同五十三年)も、「教学の年」第二年とし、学会の仏法研鑽の大潮流が広がっていったのである。
 また伸一は、「広布第二章」を迎えた時から、世界広宣流布の道を開くために、全会員が先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖の精神を継承していかなければならないと強く感じていた。先師、恩師の精神とは、全人類の幸福と平和を実現するために、広宣流布に一身を捧げ抜く決意である。日蓮大聖人の正法正義を貫く、慈悲と勇気の信心である。
 大聖人の仏法は、万人が本来、妙法蓮華経の当体であり、「仏」の生命を具えた尊厳無比なる存在であると説いている。いわば、「生命の尊厳」と「人間の平等」の哲理である。学会は、創価教育学会の時代から、その教えを掲げ、弘教を推進してきたのである。
 それは、「現人神」といった国家神道の考えを、根本から否定するものにほかならなかった。つまり、国家神道を精神の支柱にして思想統一を図り、戦争を遂行する軍部政府と学会は、原理的に対決を余儀なくされていたのだ。そこに、牧口、戸田の戦いがあった。
7  正義(7)
 学会は、万人に「仏」を見る日蓮仏法の正義を叫び続けてきた。それは、戦時下での恒久平和への根源的な思想闘争であった。
 だが、軍部政府の弾圧の嵐が創価教育学会を襲い、会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖らが逮捕されると、迫害を恐れて、多くの退転者が出たのである。
 結局、不惜身命の決意で正法正義を守り抜いたのは、牧口と戸田の師弟だけであった。二人は、取り調べの場にあっても、堂々と仏法を語り説いていった。
 久遠の誓いに結ばれた二人の絆は、殉難のなかで金色の光彩を放ち、永遠なる創価の師弟の大道を照らし出していったのである。
 牧口と戸田の、この死身弘法の大精神が、未来永劫に脈動し続けていってこそ、創価学会の魂は受け継がれ、広宣流布の清流が、大河となって広がっていくのだ――そう山本伸一は痛感していた。
 精神の継承なき宗教は、儀式化、形骸化、権威化して魂を失い、衰退、滅亡していく。
 日蓮大聖人は「ただ心こそ大切なれ」と仰せである。人間の一念、精神にこそ、広布前進の原動力がある。
 ゆえに伸一は、諸会合などで、両会長の闘争と精神を訴え抜くとともに、末法広宣流布のうえで、二人が果たした甚深の意義についても、さまざまな角度から言及していった。そして、両会長の遺徳を宣揚するとともに、その精神と実践を伝え残し、継承していくために、全国の主要会館等に恩師記念室を設置するよう提案し、推進してきた。
 思えば、牧口、戸田の師弟が刻んできた学会の歩み自体が、「宗教のための人間」から、「人間のための宗教」の時代の幕を開く、宗教革命の歴史であった。
 日本の既成仏教は、長い間、政治権力に与してきた。特に江戸時代になると、寺請制度によって大きな力を得た。これは、人びとは各寺院の檀家となり、寺院は寺請証文を発給して、キリシタンなど幕府禁制の宗教や宗派の信徒ではないことを証明する制度であった。
8  正義(8)
 各寺院の発給する寺請証文は、婚姻や旅行、奉公、住居の移転などにも必要であった。いわば、寺院は、戸籍係の役割を担い、徳川幕府のもとで民衆の支配機構として絶大な権力を振るうようになっていった。
 人びとは、個人の意思とは関係なく、先祖代々の寺に所属し、宗旨、寺院を替えることは、原則、できなかったのである。
 さらに寺院は、葬儀などの法事、儀式を執り行うことによって、布施、供養を得て、富を手にしていく。権力と富を保障された僧侶は、真実の仏の教えを探究して切磋琢磨し合う求道の息吹を失い、腐敗、堕落していった。また、檀信徒を下に見る僧侶中心主義に陥り、葬儀や先祖供養などの儀式を重視する葬式仏教へと、仏教そのものを大きく変質させていったのである。
 明治の初めに、寺請制度はなくなったものの、権威の衣をまとって民衆を睥睨する、仏教界の体質は変わらなかった。また、時の政策で僧侶の妻帯が認められると、それを受け入れ、世俗にまみれていったのである。
 苦悩する人びとの、魂の救済に励むこともせず、儀式を執り行う形式・形骸化した宗教が、日本の仏教界の実態であった。
 福沢諭吉は、その姿を「日本国中既に宗教なしと云ふも可なり」と喝破している。
 宗門も、例外ではなかった。
 寺請制度のなかで葬式仏教化し、明治に入って条件付きながら信教の自由が認められても、僧侶が折伏・弘教に奔走する姿は、ほとんど見られなかった。
 広宣流布という日蓮大聖人の御精神は、まさに絶えなんとしていたのである。
 仏法は、常住不変であり、法それ自体が滅することはない。しかし、その正法を継ぐべき者が、大聖人の御遺命である広宣流布を忘れ、死身弘法の大精神を失ってしまえば、それは、事実上の法滅である。
 まさに、その法滅の危機のなか、さっそうと出現し、広宣流布の大願実現に立ち上がったのが、創価の師弟であった。
9  正義(9)
 牧口常三郎は、一九二八年(昭和三年)、日蓮仏法に深く感銘し、日蓮正宗信徒として信仰の歩みを踏み出す。
 しかし、牧口は、既成仏教化した宗門の信心の在り方、つまり″寺信心″に甘んじようとしたのではない。本来の日蓮大聖人の教えに立ち返り、その御精神のままに、真正の日蓮門下の大道を歩もうとしたのである。
 一九三〇年(同五年)十一月十八日、牧口と弟子の戸田城聖によって、創価教育学会が創立される。
 それは当初、仏法を根底とした教育改革を掲げてスタートする。だが、教育に限らず、仏法こそ、「吾々の生活法の総体的根本的のものである」ことから、宗教革命を全面に押し出した活動へと移行していく。
 四一年(同十六年)に創刊された創価教育学会の機関紙「価値創造」第一号には、同会の綱領が掲載されている。そのなかには、次の一文も見られる。
 「『慈なくして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり。彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』といふ法華経の真髄に従ひ、化他によつての自行を励み以て生活革新の実証をなすを会員の信条とす」
 そこには、自行のみならず、化他の仏道修行、すなわち折伏・弘教の実践が明確に示されている。
 信教の自由が脅かされた戦時下で、学会は、折伏・弘教を活動の柱としたのだ。まさに、広宣流布を御遺命とされた日蓮大聖人の大精神の継承であり、途絶えんとしていた信心の命脈の蘇生であった。
 さらに特筆すべきは、その活動の眼目を、「生活革新の実証」に置いたことである。日蓮仏法の実践によって各人が生活を革新し、それぞれがかかえる苦悩を解決して、幸福を築き上げていけることを、実験証明しようとしたのだ。
 人びとの苦悩から目をそらした宗教は、既に死せる宗教である。悩める人びとに寄り添い、共に生きてこそ、真実の宗教なのだ。
10  正義(10)
 「仏教の極意たる『妙法』が万民必然の生活法則たることを、科学的に実験証明しよう」――それが、牧口常三郎の企図であった。そして、妙法は、「数万の正証反証(幸不幸)の累積によつて、単なる哲学的なる抽象概念としての真理たるに留まらず、生活の実相に表はれる生活力の限りなき源泉」であることを実証したのである。
 つまり、日蓮大聖人の仏法は、「百発百中の生活法則たることが何れにも何人にも証明し得ることゝなつた」のだ。
 「一切は現証には如かず」である。広宣流布実現への力は、百万言の理論よりも、一つの実証にこそある。
 さらに、牧口は、こう述べている。
 「失礼ながら僧侶方の大概は御妙判と称して御書やお経文によつて説明はして下さるが、現証によつて証明して下さらないのを遺憾とする。しかも川向ひの火事を視るが如く真理論でやるが、日常生活に親密の関係の価値論でそれをやらないから無上最大の御法も十分に判らう筈がない」
 実生活において悩み苦しむ人に徹して関わろうとせず、苦悩を乗り越える道が仏法にあることを、大確信をもって訴えられぬ僧侶への、鋭い指摘といってよい。
 また、彼は、仏法の法理の上から、魔が競い起こらぬ宗門の信心の在り方に疑問を投げかけている。本当の信心があれば、魔は怒濤のごとく競い起こるものであるからだ。
 「日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問はねばなるまい。そして魔が起らないで、人を指導してゐるのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。然らば魔が起るか起らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」
 宗門も含め、日本の仏教各派が宗論を回避し、教えの高低浅深を問うことなく、もたれ合っていた時代のなかで牧口は、宗教の検証に着手し、宗教革命の烽火を上げたのである。それは、宗教が人間の幸・不幸を決するとの強い確信からであった。
11  正義(11)
 牧口常三郎の起こした創価教育学会の宗教運動は、長く民衆を支配してきた僧侶によるものではなく、在家、民衆の手による宗教革命であった。
 牧口は、日蓮正宗も、時代の変遷のなかで、儀式主義に陥り、葬式仏教化していたことに、強い危惧をいだいていた。それでは、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就していくことはできないからだ。
 後に牧口は、次のように語っている。
 「私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります」
 「創価教育学会其ものは前に申上た通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります」
 つまり牧口は、日蓮大聖人の仏法に則して、価値論すなわち″なぜ、人生の幸・不幸が決定づけられるか″という問題を明らかにしてきたことに、宗門とは異なる、学会の優れた独自性があるというのである。
 端的に言えば、学会は、人びとの幸福生活を確立することによって、御本尊の力、大聖人の仏法の力を実証し、広宣流布を推進してきたのだ。
 しかし、学会が、宗教の教えには高低浅深があり、人生の根本法則である正法への信・不信が、生活上に価値(功徳)・反価値(罰)、幸・不幸の現証をもたらすことを訴えていくと、宗内からは強い反発が起こった。
 葬式仏教となった他宗派に同化して、折伏精神を失っていた僧たちは、大聖人の仰せ通りに、仏法の王道を突き進むことを恐れていたのである。
 広宣流布を忘れ、その実践を失えば、難が起こることはない。だが、そうなれば、大聖人の御精神を、魂を、捨て去ることになるのだ。
 一九四三年(昭和十八年)六月、それを物語る驚くべき出来事が起こった。いわゆる「神札事件」である。
12  正義(12)
 国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想統制のため、天照大神の神札を祭るよう、総本山に強要してきた。
 一九四三年(昭和十八年)六月末、宗門は、会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖ら学会幹部に登山を命じた。そして、法主・鈴木日恭ら立ち合いのもと、宗門の庶務部長から、「学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか」との話があったのだ。宗門は、既に神札を受けることにしたという。軍部政府の弾圧を恐れ、迎合したのである。
 神札を受けることは、正法正義の根本に関わる大問題である。また、信教の自由を放棄し、軍部政府の思想統制に従うことでもある。
 牧口は、決然と答えた。
 「承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません」
 彼は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との、日興上人の御遺誡のうえから、神札を拒否したのである。
 牧口のこの一言が、正法正義の正道へ、大聖人門下の誉れある死身弘法の大道へと、学会を導いたのだ。
 その場を辞した牧口は、激した感情を抑えながら、愛弟子の戸田に言った。
 「私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ。宗祖大聖人のお悲しみを、私はひたすら恐れるのだ。今こそ、国家諫暁の秋ではないか!」
 弟子は答えた。
 「先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生のお供をさせていただきます」
 創価の師弟とは、生死をかけた広宣流布への魂の結合である。
 それからほどなく、牧口と戸田は、「不敬罪」並びに「治安維持法違反」の容疑で、逮捕、投獄されたのだ。そして、最終的に、二人を含め、幹部二十一人が逮捕されることになるのである。
13  正義(13)
 軍部政府によって会長の牧口常三郎らが逮捕されるや、周章狼狽した宗門は、牧口一門の総本山への登山を禁ずるなど、学会との関わりを断とうとしたのだ。
 日蓮大聖人の仏法の清流は、正法正義を貫いた牧口と戸田城聖の、創価の師弟によって死守されたのである。
 師の牧口は、獄中にあって殉教したが、理事長であった弟子の戸田は、牧口の広宣流布への遺志を受け継ぎ、一九四五年(昭和二十年)七月三日、生きて獄門を出た。敗戦を間近にした焼け野原に一人立った。
 出獄後、戸田は、直ちに学会の再建に着手した。会の名称も「創価教育学会」から、「創価学会」と改めた。教育者を中心に教育改革をめざす団体ではなく、広く民衆を組織した広宣流布の団体であることを、鮮明に打ち出したのである。
 そして、出獄から六年後の五一年(同二十六年)五月三日、第二代会長に就任する。
 その時、彼は、こう訴えた。
 「私の自覚にまかせて言うならば、私は、広宣流布のために、この身を捨てます!
 私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします。願わくは、それまでに宗門におかせられても、七十五万だけやっていただきたいものである」
 また、もし七十五万世帯が達成できなかったら、″遺骸は品川沖に捨てよ″とまで語ったのである。
 「七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします」との言葉には、地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に一人立った戸田の、烈々たる気迫がこもっている。広宣流布の大願は、一人立つ勇者によって成し遂げられるのだ。そして、その師子に続いて、また一人が立ち、二人、三人……と立ち上がる、一人立つ者の総和が、大願を現実化していくのだ。
 自らが立たず、数を頼んでも、それは烏合の衆であり、臆病な羊の群れである。そこには「法華弘通」という大願の成就はない。自らが師子と立つ――それが創価の大道だ。
14  正義(14)
 戸田城聖が学会の再建に踏み出した時、組織は壊滅状態に陥っていた。そのなかから再出発した在家の団体が、戸田の指導のもとに年ごとに力を蓄え、七十五万世帯という未曾有の大折伏を展開しようというのである。
 仏法の眼を開いて見るならば、まさに、創価学会は、法滅の危機を救い、末法広宣流布のために出現した仏意仏勅の団体であり、地涌の菩薩の集いであるという以外にない。
 しかし、在家である創価学会員が、喜々として広宣流布に邁進する姿を快く思わず、学会には御本尊を授与しないという寺さえあったのである。宗門には、信徒を下に見て睥睨する、悪しき体質が温存されていたのだ。
 戸田は、そうした悪僧とは敢然と戦った。
 もし、その悪を見過ごしてしまうならば、それは、やがて広宣流布を破壊する元凶となり、巨悪となっていくからだ。
 「されば御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体たらんと願い、日蓮正宗教団を命がけで守らなくてはならぬ」というのが、戸田の精神であり、弟子への警鐘であった。
 事実、学会は、正法正義を貫き、広宣流布を推進するために、悪侶とは徹して戦い、宗門を守り、発展に尽くしてきたのである。
 その学会にとって、忘れ得ぬ事件がある。
 それは、戸田が第二代会長に就任した翌年の一九五二年(昭和二十七年)四月二十七日、宗旨建立七百年慶祝記念大法会の折の出来事であった。
 戦時中、「神本仏迹論」を唱え、四二年(同十七年)秋に宗門から擯斥処分を受け、僧籍をはく奪されていたはずの謗法の僧・笠原慈行が、総本山大石寺にいるのを、学会員が見つけ出したのである。
 「神本仏迹論」とは、一言すれば、神が本地で、仏は神の垂迹、すなわち仮の姿にすぎないとし、そこに日蓮大聖人の真意もあるとする妄論である。国家神道をもって国論を統一して戦争を遂行する軍部政府に迎合し、大聖人の教えを根本から否定する邪説であった。
15  正義(15)
 笠原慈行は、「神本仏迹論」を唱え、不敬罪で大石寺を告訴した。それによって軍部政府は、果敢に折伏を行っていた学会に目を付け、弾圧を開始するにいたり、牧口常三郎は獄死することになるのだ。
 戸田城聖は、笠原が総本山にいたことを聞くと、直ちに笠原と会って、「神本仏迹論」の誤りを強く正した。しかし、笠原は、認めようとはしなかった。
 学会の青年たちは、笠原の不遜な態度にあきれ返り、獄死した牧口の墓前に彼を連れていった。墓前に行けば、自ら非を認めるだろうと考えたからである。墓前で青年たちに問われた笠原は、遂に、「神本仏迹論」は妄説であるとし、謝罪状を書いた。
 その夜、学会は、宗門の役僧から、笠原が四月五日をもって僧籍復帰していることを告げられたのである。
 役僧の話では、笠原は改悛し、宗門の僧侶として死にたいとの懇請があったために、老齢であることも考慮し、宗旨建立七百年にあたり、特赦復級させたというのだ。
 笠原は、戸田と会った時、「神本仏迹論」の誤りを、全く認めようとはしなかった。その彼が「改悛」しているなど、あり得ないことであった。
 戸田は、出獄以来、笠原の動向に心を配ってきた。戸田の耳に、笠原が宗門に籍を置いているといった話が、しばしば入ってくるようになった。それが本当ならば、断じて看過できぬ由々しき問題である。
 戸田は、彼の会長就任式が行われた一九五一年(昭和二十六年)五月三日、笠原が宗門に籍を置いているとの話は、真実かどうかを、宗門の役僧に確認している。すると、「現在、宗門には、かかる僧侶は絶対におりません。笠原は宗門を追放されております」との返事であった。
 その後、学会には、なんの話もないまま、宗門は、笠原を僧籍復帰させていたのだ。
 僧同士の馴れ合いである。馴れ合いの怖さは、根本精神を歪めてしまうことにある。
16  正義(16)
 笠原慈行は、学会が彼の誤りを正したことを、暴行や傷害事件に仕立て上げて喧伝し、パンフレットまで配布したのだ。
 宗門では、臨時宗会を開いて、笠原に謝罪させたことを取り上げ、信徒が、大法会の最中に″僧侶″を糾弾した″不祥事″として、処分の検討に入ったのである。
 そして、笠原に対する決議は、教義に背反した「神本仏迹論」の異説を放棄したとは認められないとし、「宗制宗規に照し適切な処置を望む」と述べるにとどまった。
 一方、戸田に対しては、「開山以来、未曾有の不祥事」を起こしたとして、「謝罪文の提出」「大講頭罷免」「登山停止」を求める、極めて厳しい決議をしたのである。
 日蓮大聖人は、御書の随所で、「慈無くしていつわり親しむは即ち是れ彼が怨なり」との仏典の一節を引いて、悪と戦うことの大切さを訴えられている。
 戸田は、宗会の決議を知り、宗門の僧たちから、その精神は消え失せてしまっていることを痛感せざるを得なかった。
 彼らに、正法正義を断じて守り抜こうとの心があれば、青年たちが笠原に、「神本仏迹論」の誤りを認めさせたことを大賞讃しよう。宗会は、正法破壊の悪侶を正すことより、滞りなく儀式を挙行することを重要視していたのだ。戸田は、大聖人の教えに違背した大謗法を責め抜こうとせぬ宗門の惰弱さが情けなく、無念でならなかった。
 「破邪」なくして「顕正」はない。いや、「破邪」なきは、結果的に「邪悪」への加担となり、同罪となることを知らねばなるまい。
 この宗会決議に対して、山本伸一をはじめ、学会の青年部は、各地の宗会議員と面談し、礼を尽くして、理路整然と、その理不尽さを語り、抗議した。そして、宗会議員の過半数が、決議の撤回に賛意を表していった。
 当時の日昇法主も、宗会決議を受け入れることなく、儀式を騒がせたことに反省を求めつつも、戸田の護法への功績を評価した裁定となったのである。
17  正義(17)
 学会が、「神本仏迹論」を唱えた笠原慈行の誤りを正したことに対して、宗会は、会長の戸田城聖一人を処分の対象としていた。
 戸田は、そこに、会長の自分と会員とを離間させようという意図を感じた。そして、今後も広宣流布を破壊する魔は、その手法を用いてくるにちがいないと思った。
 異体同心の団結こそ、広布推進の要諦である。なればこそ、会長と会員を、また、会員と会員を分断させようと、魔軍は、そこに狙いを定め、躍起となるにちがいない。
 ともあれ、戸田は、生涯にわたって、総本山の整備や末寺の建立など、宗門に尽くし抜いた。自ら発願主となって大講堂も建立寄進した。とともに、宗門を腐敗させたり、大聖人の御精神に違背する僧とは、戦い抜いていった。いずれも、外護の赤誠の発露である。
 戸田は、悪を正さなければ、大石寺も、身延のように、謗法の魔の山となってしまうことを、憂慮していたのだ。
 身延は、日蓮大聖人が晩年の八年を過ごされ、直筆の御本尊も、重要な遺文なども残っている。しかし、大聖人の正法正義は踏みにじられ、謗法にまみれていった。
 大聖人は、日興上人に、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(編年体御書1729㌻)と御遺言されている。つまり、″謗法の山には、わが魂は住まず!″との、御本仏の御宣言である。
 日興上人は、その御指導にしたがって、身延を離山されたのだ。御本仏の魂なき謗法の山に詣でれば、悪縁に触れて信心を狂わせ、供養すれば、悪因を積むことになる。
 大聖人は、「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」と仰せになっている。そこに集い、守る人びとの信心が、その場所が浄土か穢土かを決していくのだ。
 したがって、地涌の使命に生きる創価の同志が集う、広宣流布誓願の場こそ、最高の霊山浄土となるのである。
18  正義(18)
 宗旨建立七百年慶祝記念大法会が行われた一九五二年(昭和二十七年)、創価学会は、九月八日に独自の宗教法人として発足する。
 戸田城聖は、前年五月に、第二代会長に就任して以来、学会として宗教法人を設立しなければならないと考えてきた。
 それは、一つには、宗門を外護するためであった。
 御書に照らして、広宣流布が進めば進むほど、大難が競い起こることは明らかである。その時に、学会が宗門の一つの講という存在であれば、宗門自体が、もろに攻撃の対象になってしまう。そうした事態から宗門を守るには、学会が独立した宗教法人となり、矢面に立つ以外にないと考えたのである。
 また、広宣流布の新展開のためには、時代に即応した独創的な運動を自在に推進し、学会が最大に力を発揮していく必要がある。それには、自立した宗教法人として活動していくことが不可欠であったからである。
 戸田は、今後、ますます社会も複雑化し、人びとの生活の在り方や考え方も、多岐にわたる時代になることは間違いないと思った。
 そうした時代を迎えるにあたり、社会経験も乏しい少数の僧侶が、広宣流布の指揮を執り、学会を含めて一切を指導、運営していくことは、不可能にちがいない。
 戸田は熟慮した。
 ″残念なことに、僧たちには広宣流布への覚悟も感じられないし、実践も乏しい。学会が一日に千里を駆ける名馬であっても、その宗門が手綱を取っていれば、本当の力を出すことはできない。それは、結局、広宣流布の好機を逃すことになってしまうだろう。
 大法弘通という大聖人の御遺命を実現するためには、学会が広布の広野を、自在に疾駆できるようにしなくてはならない。
 それには、信者を基礎として宗教団体を構成し、社会の各分野で一人ひとりが活躍できる、新しい組織の在り方が求められている″ こう結論した戸田は、宗教法人設立を決断したのである。
19  正義(19)
 創価学会は、宗教法人設立の準備に着手し、宗教法人法に基づき、一九五一年(昭和二十六年)十一月一日付「聖教新聞」に設立公告を掲載した。十二月半ば、宗門は、戸田城聖に総本山の宗務院へ来るように伝えてきた。
 戸田は、著しく体調を崩していたが、総本山へ出向き、なぜ宗教法人にする必要があるのかを説明した。
 それに対して、後の日達法主である細井精道庶務部長は、「学会が宗教法人となることは、法的な問題であり、なんら指示するような意思はありません」と答えた。
 そのうえで宗務院としての要望を語った。
 「折伏した人は信徒として各寺院に所属させること」「当山の教義を守ること」「三宝(仏・法・僧)を守ること」
 戸田は、宗門の意向を尊重しながら、宗教法人設立に全力を注いだ。
 戦いには時がある。人生の時間にも限りがある。なすべき時に、なすべき事をしなければ、残るのは後悔である。
 学会の宗教法人設立は、規則案の再検討もあり、時間を要した。そして、翌五二年(同二十七年)六月二十日付「聖教新聞」に、再び設立公告を掲載した。
 その六日後の六月二十六日から、宗門は四日間にわたって臨時宗会を開いた。
 この宗会では、宗制・宗規の変更も審議され、「檀徒及び信徒は本宗が包括する宗教法人以外の宗教法人に加入する事が出来ない」との条文が加えられようとしたのだ。
 宗教法人設立は、広宣流布の大きな流れを開き、日蓮大聖人の御遺命を実現していくためのものである。しかし、宗会は、それを阻もうとしたのだ。
 学会は、この条文が、不当な圧力の武器に変化する危険性を感じ、直ちに抗議し、取り消しを求めた。
 広布実現を願い、宗門の外護を考えての一歩一歩の歩みが、烈風との戦いであった。創価学会が宗教法人として発足にいたる道もまた、怒濤が騒ぐ険路であったのである。
20  正義(20)
 創価学会は、一九五二年(昭和二十七年)八月二十七日に都知事の認証を受け、九月八日に登記を終えて宗教法人「創価学会」が発足した。これによって、在家信者による未聞の宗教運動の大道が開かれたのである。
 つまり、創価学会は、独自の責任のもとに自立した宗教法人として広宣流布をめざし、仏法を広く社会に開くとともに、儀式、行事を行っていくという使命と役割が明確化されたのである。
 学会が宗教法人としてスタートすると、広宣流布は目覚ましい伸展を遂げていった。戸田城聖が生涯の願業として掲げた会員七十五万世帯の達成も、山本伸一が第三代会長に就任してからの怒濤の大前進も、学会が独自の宗教法人として、自在に大民衆運動を展開することができたからにほかならない。
 後年、腐敗、堕落した宗門は、「C作戦」(Cはカットの意)なる計画を実行し、一九九一年(平成三年)十一月、学会を″破門″するなどという時代錯誤な暴挙に出た。しかし、いくら一方的に″切る″などと騒いでも、学会は、もとより独立した宗教法人である。なんの社会的な影響力もなかった。
 むしろ、それによって、学会は、邪宗門の呪縛から完全に解き放たれ、魂の独立を果たし、晴れやかに、ますます雄々しく、広宣流布の大空に飛翔していくことになる。
 宗教法人の設立という戸田の英断が、どれほど広宣流布の大発展につながっていったことか。伸一は、未来を見すえた師の慧眼と偉大さに感嘆するとともに、″戸田先生に学会を守っていただいた″との思いを深くするのであった。
 世界にあっても、SGIは、九一年の時点で百十五カ国・地域であったが、二〇〇八年(平成二十年)四月には、百九十二カ国・地域へと大きな広がりを見せている。
 一方、広宣流布の団体の破壊を企てた宗門は、その後、衰亡の坂道を転げ落ちていくことになる。それは、まさに宗門こそが、日蓮大聖人から破門された証明といえよう。
21  正義(21)
 宗門には、牧口常三郎の時代から、学会を正しく理解できず、蔑視したり、敵視したりする僧が少なくなかった。
 しかし、牧口と戸田城聖の、死身弘法の実践と宗門への赤誠を見続けてきた法主たちは、創価の師弟に賞讃を惜しまなかった。
 創価学会常住の御本尊に「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と認めた水谷日昇法主は、広宣流布に邁進する創価学会の姿に感嘆し、一九五二年(昭和二十七年)の十一月、書簡に感謝の意を、こう記している。
 「今や学会の活躍は、宗門史上、未曾有の事で、万一、学会の出現なき時は、宗門はほとんど衰頽の期のところ、御仏の御利益により、戸田氏統率の学会が出現し、広宣流布の大願に邁進、日夜、止暇断眠、折伏の妙行に精進され、為宗(=本宗にとって)同慶の次第です。老生(=私)の時代に戸田氏と学会の活躍もまた妙縁で、名誉のことであります」
 戸田や学会との縁を「名誉」と述べる謙虚な言葉は、「日興遺誡置文」の「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」との御精神によるものであろう。
 宗開両祖の根本精神に照らす時、学会の偉業は厳たる輝きを放つのである。
 日昇の後を継ぎ、五六年(同三十一年)に登座した堀米日淳法主もまた、以前から学会を深く理解し、賞讃し続けてきた。
 四七年(同二十二年)十月の創価学会第二回総会で日淳は、殉教した創価の父・牧口常三郎を、こう讃えている。
 「私は先生が、法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります。そうして先生の姿にいいしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かったのであります。あの荊の道を厳然と戦いぬかれた気魄、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります」
22  正義(22)
 堀米日淳法主は、戸田城聖が、生涯の願業として掲げた会員七十五万世帯を成し遂げて逝去した直後の、一九五八年(昭和三十三年)五月の第十八回本部総会で、戸田について、次のように讃嘆している。
 「御承知の通り法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。
 その方々を会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」
 さらに日淳は、「会長先生は基盤を作った、これからが広布へどんどん進んで行く段階であろう」と、戸田の広宣流布への業績を高く評価している。
 そして、こう語っているのだ。
 「先程来大幹部の方、役員の方々、又皆様方が相い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会儼然未散と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば真の霊山で浄土、仏の一大集りであると私は深く敬意を表する次第であります」
 「霊山一会儼然未散」は、日蓮大聖人が「御義口伝」に仰せの文である。
 釈尊が法華経を説いた霊鷲山の儀式は、今なお厳然として散らずに、続いていることを意味している。
 日淳は、学会の本部総会で、戸田亡きあとも、弟子たちが広宣流布への誓いを新たにしている姿を、「霊山一会儼然未散」と言い、「仏の一大集り」と述べたのである。それは、戸田が獄中で得た確信でもあった。
 日淳法主の心には、仏法の眼から見た創価学会出現の真実の意義が、明確に映し出されていたのであろう。
23  正義(23)
 第三代会長に就任した山本伸一も、師の戸田城聖と同じ心で、宗門に外護の赤誠を尽くしてきた。また、僧俗和合のため、最大に努力を重ねるとともに、言うべきことは言ってきた。もしも宗門が、儀式主義、神秘主義、権威主義に陥ってしまえば、人間のための宗教とは、なり得ないからだ。
 ところが、僧侶の本来あるべき姿を訴えてきたことや、誠心誠意、忠告してきたことに対して、反感をいだく僧も少なくなかった。まさに、「忠言耳に逆らう」のことわり通りであった。彼らは、檀信徒を僧の下に見る、強い意識をもっていたのである。
 「宗教は内的腐敗によってのみ滅ぼされうるのです」とは、ガンジーの鋭い洞察である。すべての宗教者が、常に心しなければならない箴言である。
 「教学の年」を迎え、学会が、日蓮仏法の新展開への本格的なスタートを切った、一九七七年(昭和五十二年)の初めごろのことである。伸一のもとに、「お寺の御講の折に住職が学会を誹謗するので、大変に嫌な思いをしている」との報告が入るようになった。
 「御講」は、毎月十三日の日蓮大聖人の命日に各寺院で行われている行事で、読経・唱題のほか、住職の説法などがあった。
 正宗寺院には、 学会が建立寄進した寺院も多かった。その寺で、集ってきた学会員を前に、住職が学会を攻撃するというのだ。
 学会員は、″寺院を大切にしよう″″信心を深めたい″との思いから、苦しい生活のなかでも供養を持参し、毎月、寺の御講に参加してきた。
 しかし、寺に行くたびに住職から、「学会は謗法だ!」「学会は間違っている!」などと、言われるようになったのである。
 そうした寺のある地域の幹部は、住職に会って話し合いを重ねた。義憤を感じた青年部幹部が、抗議したこともあった。
 しかし、月日を経るごとに、学会への誹謗は激しさを増していったのである。
24  正義(24)
 一九七七年(昭和五十二年)の一月十五日、山本伸一は第九回教学部大会で、「仏教史観を語る」と題して記念講演を行った。
 この講演で彼は、「宗教のための人間」から、「人間のための宗教」への大転回点こそ、仏教の発祥であることを論じた。
 そして、仏教本来の精神に照らして、真実の仏教教団の在り方を探究し、創価学会の運動の意味を明らかにしたのである。
 それは、仏法思想を人類の蘇生の法理として、また、行き詰まった現代文明を転換する人間主義の法理として、世界に発信していくための講演であった。
 釈尊の教えは、民衆の蘇生をめざすものであった。出家、在家の別なく、世間の地位や身分も関係なく、万人が仏道修行によって、自分と同じ仏になれるというものである。
 伸一は、その仏教が、やがて沈滞し、形骸化していった要因の一つは、仏教界全体が″出家仏教″に陥り、民衆をリードする機能を失ったことにあると指摘した。
 そして、衆生を導く、指導者たる″法師″について、本来の意義に立ち返って論及。「今はいかなる時かを凝視しつつ、広宣流布の運動をリードし、能く法を説きつつ、広く民衆の大海に自行化他の実践の波を起こしゆく存在」と述べた。つまり、民衆と共に、仏法のために戦ってこそ、真の法師であると訴えたのである。
 また、出家と在家の本義にも言及し、「現代において創価学会は、在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は、世界にないのであります」と宣言した。
 さらに、寺院の歴史についても論を進め、寺院は、人びとが集って成道をめざし、仏道修行に励み、布教へと向かう拠点であり、その本義の上から、学会の会館、研修所は、「現代における寺院」ともいうべきであると語った。
 この「仏教史観を語る」の講演を、宗門の僧たちは、宗門批判ととらえた。そして、学会攻撃の材料としていったのである。
25  正義(25)
 宗門の僧たちが学会を攻撃する際に、盛んに語っていたのが、「学会は会長本仏論を説いている」ということであった。
 学会では、会長が「本仏」などと言ったことは一切なかった。一部の幹部らの発言に誤解を招く表現があったことなどを槍玉に挙げたり、話を曲解したりしての批判であった。
 そもそも師の戸田城聖が、自分を「生き仏」「教主」などと言う者がいると真っ向から否定し、自分は「立派な凡夫」と語っているのだ。
 山本伸一は、戸田の弟子である。彼は、自分のことを、「大田の貧しい海苔屋の息子です。庶民なんです」と語るのが常であった。
 また、僧たちは、「学会は寺を軽視している」と騒ぎ始めていた。これも、とんでもない話である。学会は宗門の繁栄を願い、懸命に外護してきた。総本山の整備や、末寺の建立に全力を尽くし抜いてきたではないか。
 さらに彼らは、学会員が地域友好のために地域の祭りに参加したことをもって、「謗法を容認している」と言いだしたのである。
 古くからの地域行事には、宗教となんらかの関わりのあるものが多い。しかし、既に地域の慣習的な行事となり、宗教性は希薄化して、親睦を図る社会的、文化的な催しの意味合いが強い。それをことごとく否定すれば、社会生活は成り立つまい。地域行事などを通して友情と信頼の輪を広げてこそ、広宣流布の広がりもあるのだ。
 そもそも日蓮大聖人は、「謗法ほうぼうと申すは違背いはいの義なり」と仰せである。正法に背き、反対することが、謗法の本質的な意味である。大聖人が、「ただ心こそ大切なれ」と言われたように、御本尊に対する信心が揺るがないことこそが重要なのである。
 軍部政府の宗教弾圧に屈して、天照大神の神札を祭るといった行為は、当然、「謗法」と断じなければならない。しかし、広宣流布への固い決意をもって、地域の文化的、社会的な行事に参加することは、決して「謗法」とはいえない。
26  正義(26)
 一九七七年(昭和五十二年)の三月、学会は、これまでの御観念文に、創価学会の興隆祈念、初代会長・牧口常三郎と二代会長・戸田城聖への報恩祈念の記載を加える発表をした。
 かねてから学会本部には、「勤行の際に、学会の興隆祈念、牧口・戸田会長の報恩祈念を、どこで行えばよいか」との質問が、多数寄せられていた。それに答える意味から、宗門と相談して決定したのであった。
 また、三月十九日には、第一回となる学会の「春季彼岸法要勤行会」が、学会本部をはじめ、全国の主要会館で開催された。これも全国の会員からの強い要請に基づいていた。
 「故人は、学会員として広宣流布のために戦い抜いて、霊山に帰っていった。ぜひ、学会の会館で、追善の回向をしてほしい」との声が、各地に起こっていたのだ。
 さらに、学会は独立した宗教法人であり、宗門とは別に、そうした宗教行事を執り行う必要もあった。そこで、会員、同志による会館での彼岸の追善法要が行われたのだ。
 すると、僧たちは、初代会長等への報恩祈念の御観念文や、会館での彼岸法要、教学部大会での″学会の会館等は、現代における寺院であるとの山本伸一の言葉をもって、学会は宗門からの独立を企てているなどと言いだしたのである。
 彼らの攻撃は、「聖教新聞」に四月から六回にわたって連載された、山本伸一の「生死一大事血脈抄」講義にも向けられた。伸一は、そのなかで、「信心の血脈」の大切さを強調し、「御本尊」と「御書」を根本に進むことを訴えていた。それに対しても、歴代法主を否定するものだというのである。
 伸一は、法主の存在も、役割も、否定したことなどなかった。ここでは、信仰実践の立場から見て、血脈相承が、信心のなかに受け継がれることを述べたのである。
 また、御本尊と御書を根本とし、大聖人に直結せずして、正法正義などあろうはずがないではないか。″日蓮と同意″となることこそが、日蓮門下の生き方ではないか。
27  正義(27)
 創価学会は、荒れ狂う社会にあって、現実の大地にしっかりと足をつけ、人びとと同苦し、仏法を生活に即して語りながら、広宣流布の新しき地平を開いてきた。しかし、広布への責任と使命を自覚できない僧には、社会、民衆に仏法を開いていくことの大切さが、わからなかったにちがいない。
 彼らは、広宣流布の誓願に燃えて、自在に活動を推進する学会に対して、幹部らの言葉尻をとらえては批判してきたのだ。
 また、激しさを増す僧たちの学会誹謗と相呼応するかのように、一九七七年(昭和五十二年)の七月下旬から、一部の週刊誌が学会への中傷記事を掲載し始めた。学会が大石寺を″兵糧攻め″にしているとか、大石寺が乗っ取られるなどといった喧伝が繰り返されたのだ。学会を敵対視する住職のなかには、御講の席で御書講義もそっちのけで、そうした週刊誌を手にして学会を誹謗する者もいた。
 「ここに出ていることは本当なんです! 学会に騙されている。学会は謗法です」
 学会を攻撃する寺は、次第に増えていった。
 多くの学会員にとっては、青天の霹靂であった。会員は皆、寺に対して、純真に尽くし抜いてきた。だが、御講に行くたびに、″謗法″呼ばわりされるのである。
 皆、訳がわからなかった。?然とした顔の壮年もいた。悔し涙をこらえる婦人もいた。抗議の声をあげる青年もいた。
 ″こんなことを言われるくらいなら、もう寺には来たくない″と、肩を落とし、悔しさと怒りに震えながら家路をたどるのである。
 悪侶による学会への誹謗は、葬儀の場にも及んだ。学会員ではない親戚や縁者が多数集った通夜の席で、「創価学会の信心では成仏できない」と、僧が言うのである。
 最愛の肉親を亡くした悲しみの傷口に、塩を塗るような非道な仕打ちであった。「哀悼の涙」は、「憤怒の涙」に変わった。
 懸命に広宣流布を進める創価学会を、僧侶が攻撃する。誰もが耳を疑うような、予期せぬかたちで競い起こるのが魔なのである。
28  正義(28)
 学会を誹謗する僧の大半は若手であり、世間の常識に疎く、態度が横柄な者も少なくなかった。それでも学会員は、彼らを守り、寺のために尽力してきた。
 彼らが、学会への憎悪を募らせ、理不尽な誹謗をエスカレートさせていった背景には、学会を裏切っていった″背信の徒″の暗躍もあった。弁護士の山脇友政である。
 学会員であった彼は、弁護士として学会の法的事務などに携わるようになった。すると、次第に自分の法的知識を鼻にかけ、先輩幹部を見下し、誰の言うことも聞かなくなっていった。慢心に毒されていったのだ。
 「人間の精神は慢心へと傾きやすく、慢心は精神を腐敗させる」とは、フランスの作家ジョルジュ・サンドの警句である。
 山脇は、学会の仕事だけでなく、宗門の法的な諸問題にも関与するようになり、宗内に人脈を広げていった。
 その一方で、弁護士の立場を利用して金儲けを企て、会社経営にも手を出していく。学会活動もしなくなり、信心を失い、金銭欲に翻弄され、拝金主義に陥っていったのである。
 しかし、やがて、杜撰な経営によって事業は破綻し、莫大な負債を抱えることになるのだ。行き詰まった彼は、虚言を重ね、さまざまな事件を起こし、遂には、社会的にも厳しく裁かれていくことになる。
 山本伸一は、前々から、山脇のことが心配でならなかった。信仰の正道を歩ませたかった。真剣に信心に励むよう、諄々と諭したこともあった。時には、厳しく指導をしたこともあった。
 だが、慢心に侵された彼は、むしろ伸一を疎ましく思い、指導されるたびに、恨みと憎悪を募らせていったのだ。
 山脇は、信徒団体である学会は、どんなに大きくとも、所詮は、宗門の下にあり、屈服せざるを得ない存在であると考えていた。そこで宗門に取り入り、自分が学会との窓口となり、宗門の権威を利用して、学会を操ろうと画策したのである。
29  正義(29)
 一九七六年(昭和五十一年)の半ばごろから、山脇友政は、法主につながる人脈をもつ若手の僧らに、デマを流していった。
 「学会は、いよいよ宗門と対決する」「宗門を乗っ取って、支配する計画だ」――いずれも?で塗り固めた荒唐無稽な情報であった。
 若手の僧には、住職になれる教師資格をもちながら、赴任する寺のない無任所教師もいた。彼らにとって、その情報は、将来への不安と、学会への不信と憎悪を煽り立てる話であったにちがいない。山脇が、学会の幹部で弁護士であっただけに、その言葉を真に受けたのだ。
 これも後年になって明らかになるが、週刊誌などに、学会を中傷するための情報を流し続けていたのも、山脇であったのだ。
 僧たちの理不尽極まりない学会攻撃に対して、学会の首脳幹部は、宗務院の役僧に抗議もした。山本伸一も、事態の収拾を願い、学会の青年たちが考えた僧俗和合の原則を役僧に渡し、検討を求めたりもした。しかし、学会を敵対視する僧らは、宗務院の指導には、既に耳を傾けなかった。むしろ、役僧たちにも、攻撃の矛先を向ける始末であった。
 彼らの学会員への不当な仕打ちは、各地でますます激しくなっていった。
 宮崎県の二十一歳の男子部員は、最愛の母を亡くし、自宅での葬儀に宗門の僧を呼んだ。母は、女手一つで彼と二人の姉を育てた。その母が大好きだった学会歌を、葬儀で流した。僧は、吐き捨てるように言った。
 「学会歌なんか流すな! 不謹慎だ!」
 愕然とした。悔しさに震えが走った。涙声で「母が、母が、大好きだったんです」と言って、テープをかけ続けた。すると僧は、告別式が終わると、「火葬場には行かん」と言いだして、さっさと帰ってしまった。
 「坊さんは、なぜ、来ないのだ!」
 地域の人びとの声に身の細る思いがした。
 肉親の死に乗じて学会員を虐げる。この宗門事件は、露になった悪侶らの、卑劣な人間性との戦いでもあった。
30  正義(30)
 僧たちの仕打ちは冷酷であった。
 福井県に住む婦人部員の夫が、信心することになった。夫人の念願が叶っての入会である。入信の儀式の″御授戒″を受けるために、その夫妻に同行して、壮年・婦人の幹部も寺へ行った。
 寺には、学会を敵対視する住職の影響を受け、学会批判を繰り返すようになった若者らが集っていた。
 住職は、約束の時刻になっても″御授戒″を行おうとはせず、学会を誹謗し始めた。
 「学会の会館に行っても功徳はない。寺に来てこそ功徳がある。そもそも、生きている時に寺へ来ないで、死んで厄介になろうなどというのは、おかしな話ではないか」
 「そうだ!」と、若者たちが口々に叫ぶ。
 付き添っていた幹部は、信心しようという人の前で、住職らと争う姿を見せたくはなかった。″こんなことを言われて、入会の決意を翻さなければいいが……″と、ハラハラしながら、じっと耐えていた。
 学会への誹謗は、四十分、五十分と、延々と続いた。遂にたまりかねて、壮年の幹部が強い語調で言った。
 「″御授戒″は、どうなっているんですか!」
 「なんや、おまえ!」
 若者たちが、壮年幹部を取り囲んだ。緊張が走った。住職は、″これはまずい″と判断したのか、ようやく″御授戒″を始めた。
 こうした寺が増え、学会員の多くが、寺へ行くたびに悔しさを?み締めてきたのである。
 山本伸一は、学会員の苦渋の訴えに、胸をかきむしられる思いがした。
 ″なぜ、罪もない学会員が、最愛の仏子たちが、こんな目に遭わなくてはならないのだ! もうこれ以上、同志を苦しめたくはない! 学会員は、広宣流布の使命を担って出現した仏子である。なればこそ、その方々を命がけで守るのが会長である私の務めである。断じて、断じて、守り抜かねばならぬ!″
 広宣流布に生きる人を、仏に仕えるがごとく守り抜く。そこに仏法の王道がある。
31  正義(31)
 山本伸一は、固く心に決めていた。
 ″尊き仏子が、悪侶から不当な仕打ちを受け、苦しむような事態だけは、いっときも早く収拾させなければならない。
 広宣流布にかかわる根本問題については、一歩たりとも引くわけにはいかぬが、会員を守れるなら、それ以外のことは、なんでもしよう。ともかく、大切なのは、わが同志だ。
 私が盾となる。矢面に立つ。何があろうが、会員は私が守り抜く!″
 娑婆世界とは忍耐の世界である。正義への確信ゆえに、彼は何ものをも恐れなかった。
 一九七七年(昭和五十二年)十二月四日、伸一は、宮崎県日向市にある日向本山定善寺の本堂新築落慶入仏式に参列した。この宮崎訪問で日達法主と胸襟を開いて話し合いを重ね、学会の外護の赤誠を知ってもらい、学会に反感をいだく僧たちの、会員への非道な仕打ちに、ピリオドを打ちたかったのである。
 伸一は、前日も、宮崎市内で日達法主と、僧俗和合のために忌憚ない対話を交わした。
 そして迎えた定善寺の本堂新築落慶入仏式で、あいさつに立った伸一は、日達法主をはじめ僧侶たちに、今後も学会は、誠心誠意、宗門を厳護していく精神は不動であることを強く訴えた。
 宗門との間に、枝葉末節の問題で意見の食い違いがあったにせよ、広宣流布のために不惜身命で突き進む学会の情熱と宗門外護の心には、いささかも変わりがないことを、わかってほしかったのである。
 彼は、各寺院の儀式にも、さらに力を注ぐことを述べ、謝意を表し、最大の誠を尽くして、あいさつを終えた。
 伸一が一切の行事を終え、宿舎のホテルに戻ると、連絡があった。日達法主が、伸一に歌を詠んだとのことであった。
 「我宿の 松原越の 日向灘
   波静にと 祈りつ眺む」
 伸一もまた、直ちに日達への尊敬と感謝を込めた句を作り、届けてもらったのである。
32  正義(32)
 静寂な夜であった。
 山本伸一は、一九八一年(昭和五十六年)に執り行われる、日蓮大聖人の第七百遠忌法要を思った。彼は、その慶讃委員長であり、この式典を、僧俗一丸となって荘厳し、広宣流布への大前進を期す佳節にしようと、固く決意していた。それだけに、悪侶による僧俗和合の攪乱と広宣流布の破壊が、残念で残念でならなかった。魔軍を喜ばせるだけだからだ。
 彼は、ホテルの机に向かった。
 後世のために、この出来事の真実とわが思いを、書きとどめておきたかった。
 ペンを手にすると、苦しみ抜いてきた同志の顔が浮かんでは消えた。
 「宗門問題起こる。心針に刺されたる如く辛く痛し」――こう書くと、熱湯のごとき憤怒と激情が、彼の胸にほとばしった。
 「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不盡の攻撃をなすのか」
 そして、「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子」に、なぜ、このような迫害が繰り返されるのか、到底、理解しがたいとの真情を綴った。
 「尊くして 愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起れり」
 彼は、さらに、福井、兵庫、千葉などで、健気なる同志を迫害する悪侶が現れた無念を書き記し、第七百遠忌法要の成功を、「血涙をもって祈り奉りしもの也」と認めた。
 ホテルの窓から外を見た。漆黒の空に、星々が美しく瞬いていた。
 ″これで、ひとたびは、事態は沈静化へ向かうであろう。しかし、広宣流布の道は、魔との永遠の闘争である。
 ゆえに魔は、これからも、さまざまな姿を現じて、大法弘通に生きるわれらに襲いかかるであろう……″
 彼は、安堵の情に酔うわけにはいかなかった。事実、既に、この時、学会と宗門を分断する謀略の次の矢が放たれていたのである。
33  正義(33)
 一九七八年(昭和五十三年)の幕が開いた。
 学会は、この年を、「教学の年」第二年とした。
 山本伸一をはじめ創価の同志は、仏法の哲理を、社会、世界に大きく開き、広宣流布への前進を加速させようとの気概に燃えて、晴れ晴れと新年のスタートを切った。
 伸一の満五十歳の誕生日となる一月二日、日達法主は、僧俗一致して日蓮大聖人の第七百遠忌に進む旨の「訓諭」を発表した。
 それにもかかわらず、この一月、学会を敵対視する僧たちは総本山に集い、学会攻撃の続行を確認し合ったのである。
 宗門と学会の和合を恐れる山脇友政は、事態が収束に向かいそうだと見るや、″学会は必ず宗門を攻撃してくる″などといった讒言を重ねていったのだ。
 結局、和合は束の間に過ぎず、宗内にあっては学会を誹謗する僧らが勢いづき、その攻撃は、とどまるところを知らなかった。
 伸一は、事態が紛糾するたびに、宗門と忍耐強く対話を重ねた。そして、また和合へと向かい始めると、決まって悪質な讒言が流され、宗門と学会の仲を引き裂く動きが起こるのであった。 
 宗門は、その讒言に踊ったのである。
 やがて末寺では、学会員を脱会させ、寺につける、檀徒づくりも盛んに行われるようになっていく。
 広宣流布を御遺命とされた日蓮大聖人の末弟たる僧たちが、死身弘法の戦いで広布を推進してきた学会を目の敵にして、悪口罵詈し、迫害を加える。それは、「師子身中の虫」以外の何ものでもなかった。
 御聖訓には「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」と仰せである。
 迫害は、創価の正義の証明である。
 艱難辛苦を乗り越えずして、広宣流布の勝利はない。黄金の旭日を仰ぐには、烈風の暗夜を越えねばならぬ。正義の航路は、猛り立つ怒濤との戦いである。
34  正義(34)
 山本伸一は、僧たちの学会への執拗な誹謗・中傷に、広宣流布を破壊することになりかねない魔の蠢動を感じた。
 彼は、″今こそ会員一人ひとりの胸中に、確固たる信心と、広布の使命に生き抜く創価の師弟の精神を打ち立てねばならない″と強く思った。
 また、″自分が直接、各地の僧と会い、誠意をもって、率直に対話し、学会について正しい認識、理解を促していこう″と決意したのである。
 この一九七八年(昭和五十三年)の春から、全国各地で″合唱祭″が企画されていた。
 四月十五日、伸一は、埼玉県・大宮の小熊公園で行われた埼玉文化合唱祭に出席した。これには、県内にある宗門の寺院から僧侶を招待していた。
 桜花に蝶が舞い、小鳥がさえずる、春うららかな日であった。「理想郷・埼玉に歓喜の歌声」をテーマに掲げた文化合唱祭は、人びとの幸福と社会の繁栄のために、喜々として信仰に励む同志の、晴れやかな希望の出発を飾る舞台となった。
 新女子部歌の「青春桜」をはじめ、「森ケ崎海岸」「母」「厚田村」など″歓喜の歌声″が、春風とともに樹間に響き渡った。
 伸一は、この日のあいさつで、広宣流布と文化について語ろうと思っていた。
 本来、文化・芸術と宗教とは、切り離すことのできない、不可分の関係にある。
 文化・芸術は、宗教という土壌の上に開花してきた。宗教によって人間の生命の大地が耕されてこそ、文化・芸術の大輪が咲く。
 英国の詩人で批評家のT・S・エリオットは、「広く一般に受け容れられている誤りは、文化というものが宗教なくして保存され、伸張され、発展せられることが可能であるという考えであります」と論じている。
 また、フランスの女性哲学者シモーヌ・べーユは、「すべて第一級の芸術は本質からして宗教的なものである」との箴言を残している。
35  正義(35)
 西欧の文化・芸術は、キリスト教という精神の水脈から創造の活力を得てきた。また、日本にあっても、仏教のもと、絢爛たる白鳳文化が花開いたことは、よく知られている。
 では、なぜ、宗教の土壌の上に、絵画や彫刻、音楽等々、文化・芸術が開花するのか。
 アメリカ・ルネサンスの思想家エマソンは、「最も美しい音楽は、生命からほとばしる慈愛と真実と勇気に満ちた人間の声の中にある」と述べている。
 文化・芸術は人間の生命の発露である。その生命を磨き、潤し、希望と歓喜の泉にしていく力こそ、宗教であるからだ。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか
 釈尊の弟子である迦葉、舎利弗は、法華経で成仏の法を領解し、喜びに舞い踊る。また、地涌の菩薩は、末法の妙法流布の使命を担おうと、喜び勇んで、踊りながら出現しているのである。生命からほとばしる、その大歓喜の表出、表現こそが、文化・芸術の源泉にほかならない。
 また、大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と言われている。自行化他にわたる南無妙法蓮華経の実践は、慈悲の生命を、勇気を、大歓喜を、わが胸中に涌現させる。創価の同志は、日々の学会活動を通して、それを実感してきた。
 その生命の発露として、新しき人間文化を建設し、広く社会に寄与することは、仏法者の社会的使命といってよい。優れた文化・芸術を生み出すことは、仏法の偉大さの証明となる。また、その文化・芸術への共感と賛同は、大きく仏縁を広げていくことになろう。
 ゆえに山本伸一は、「広宣流布とは″妙法の大地に展開する大文化運動″である」と定義してきたのだ。学会の合唱祭や文化祭、芸術祭も、その一環にほかならない。
36  正義(36)
 妙楽大師の言葉に、「礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」とある。
 「礼楽」とは、「礼儀」と「音楽」のことで、中国の伝統的な生活規範である。「礼」は、行いを戒め、社会の秩序を生み出し、「楽」は人心を和らげるものとして尊重された。「礼楽」とは、広い意味では「文化」といってよい。
 中国では、この「礼楽」が流布していたために、人びとが真の道である仏法を理解することができたというのである。
 キリスト教を見ても、それを土壌にして生まれた音楽や美術等々の文化が、キリスト教への関心や共感を促す力となっていった。
 また、文化・芸術には、民族や国家を超えて人間を魅了し、人と人とを結ぶ力がある。優れた音楽が、世界の多くの人びとに愛され、人間の融和、心の結合の力となってきた例は少なくない。
 山本伸一は、埼玉文化合唱祭で、それらを踏まえて、学会の推進する文化運動の意義について言及していったのである。
 「埼玉の皆さんは、全国で開催される″合唱祭″の先駆けとして、見事な歌声を披露してくださった。心より御礼申し上げます。
 信仰によって、わが生命を躍動させ、奏でる楽の音も、合唱の歌声も、万国共通の言葉であり、万人の心を結ぶ″文化の懸け橋″となります。
 これから未来にわたって、日蓮大聖人の仏法を、どのように人びとの心に響かせ、世界に開いていくかという視点に立つならば、こうした運動が、その推進力になることは間違いありません。
 また、出演した方々は、この文化合唱祭に、自身にとっての大きな意義を発見し、信心の跳躍台としてこられたことと思います。
 学会の合唱祭や文化祭の重要な意味は、それを通して一人ひとりが信心を磨き、友情を深め、強い確信に立ち、発心の契機にしていくことにこそあります。自身の成長がなければ、華やかな催しも虚像にすぎません」
37  正義(37)
 山本伸一は、個人に即して、創価学会の合唱運動、″合唱祭″の意義を語っていった。
 「″合唱祭″に出演された皆さんは、歌の練習に取り組むなかで、苦手な課題を克服しようと懸命に努力されてきた。それを通して、挑戦の心を育んでこられた。
 また、合唱というのは、自分が上手ならば、それでいいというものではない。大事なのは全体の調和です。したがって、最高の合唱にしようと努力していくなかで、広宣流布への異体同心の団結も培われていきます。
 さらに、皆さんは、″合唱祭″の大成功をめざして、真剣に唱題してこられた。その題目は、信心向上の力となります。自身の大生命力を涌現させ、幸福境涯を開く偉大なる功徳の源泉となっていきます。
 そして、家事や仕事、学会活動をしたうえで、忙しいなか、合唱の練習に通われた。
 それは、有意義な時間の使い方を身につけ、すべてをやりこなす力を引き出す訓練になったことでしょう。
 私どもは、何があろうが、どんな宿命の試練にさらされようが、″希望の歌″″勇気の歌″″喜びの歌″を、さわやかに、さっそうと口ずさみながら、幸せの航路を、勇躍、進んでまいろうではありませんか!」
 文化合唱祭のあと、伸一は、会場を東大宮会館(現在の南大宮会館)に移して、文化合唱祭に招待した十人ほどの僧侶と懇談した。
 彼は、学会は日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布をめざし、重層的な布石をしながら、一途に折伏・弘教の大波を起こしてきたことを語った。そして、今後も、力の限り宗門を守り、僧俗和合して広宣流布、令法久住のために進んでいきたいと訴えた。
 また、僧侶方には、仏の使いである健気な会員を、慈悲の衣で包み込むように、大切にしていただきたいと念願したのである。
 僧の反応は、さまざまであった。頷く僧もいれば、下を向いて視線を合わせぬ僧などもいた。しかし伸一は、心の扉を開こうとするように、誠意をもって語りかけていった。
38  正義(38)
 四月十六日午後、山本伸一は、埼玉訪問を終えて東京に戻ると、すぐに聖教新聞社で執務を始めた。
 すると、会館管理者のグループである「礎会」の関西・北陸婦人部のメンバーが、研修で学会本部に来ているとの報告が入った。
 「そうか。皆さんとゆっくりお会いし、御礼を言いたいな。陰で苦労して、会館を守り支えてくださっている方々だもの。しかし、今日は、あまり時間がないので、皆さんがよろしければ、一緒に記念撮影をしよう」
 多忙であっても、皆を励まそうという心があれば、激励の方法はいくらでもある。
 午後五時前、伸一は、聖教新聞社の前で、五十人ほどのメンバーと記念のカメラに納まり、励ましの言葉をかけた。
 「遠いところ、ようこそおいでくださいました。皆さんの陰ながらのご苦労は、よくわかっているつもりです。周囲への心配りも大変でしょう。また、近隣のお宅には、学会を誤解し、悪い印象をいだいておられる方もいるかもしれない。
 しかし、″だからこそ、自分がいるんだ。私は、学会の全権大使なんだ″との自覚で、近隣に、地域に、学会理解の輪を広げていってください。
 学会や仏法への理解といっても、それは、人を通してなされるものです。だから大聖人は、『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』とおっしゃっているんです。
 皆さんの日々の振る舞いが、あいさつの一声が、広宣流布を開いていくんです。
 建物の礎というのは、外からは見えにくいものです。しかし、その礎が、建物を支えている。同様に、創価学会を支えてくださっているのは、『礎会』の皆さんです。
 学会の全幹部が、皆さんのように、″私は広宣流布の、創価学会の、会員の皆さんの礎になろう。自分の存在など、誰も気づかなくともよい″との気概をもてば、広宣流布の前進は、今の何倍も加速していきます」
39  正義(39)
 山本伸一は、四月十九日に総本山大石寺を訪れ、日達法主と会談した。そして、翌二十日には、静岡県伊東市に誕生した伊東平和会館を訪問したのである。
 平和会館では、開館記念の勤行会が、昼と夜の二回にわたって行われることになっていた。伸一は、この日、夜の勤行会に出席するため、午後三時半過ぎに平和会館を訪れた。
 陽光を浴びた緑が、すがすがしかった。
 伸一が到着した時、ちょうど昼の部の勤行会が終了するところであった。ここでも彼は、なんとかして皆を励ましたいと思い、共に記念撮影することを提案した。
 予期せぬ朗報に、皆、大喜びであった。
 伸一は、勤行会の会場となった広間で、全参加者と五回に分かれてカメラに納まった。その間にも、皆に声をかけ続けた。
 「お幸せに! 幸せになるんですよ。そのための信心なんですから」「必ず人生の勝利者になってください」「『如蓮華在水』です。濁った、世知辛い現実社会にあっても、自分らしく、幸福を築いていけるのが信心なんです」
 一度の励ましが、勇気の源となり、苦難克服の転機となることもある。
 この一瞬に発心の種子を植え、永遠の大成長の道を開こうと、伸一は懸命であった。
 彼は、さらに、記念植樹や、地元・伊豆圏の代表らとの懇談会に臨んだあと、伊東にある宗門寺院を訪問した。住職と会い、学会を正しく理解し、会員を守ってもらいたいとの思いからであった。
 伸一が住職との語らいを終えて伊東平和会館に戻ったのは、午後七時五十分であった。彼は、休む間もなく、開館記念勤行会の会場に姿を現した。
 日蓮大聖人は、「命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」と仰せになっている。一日、一瞬が、かけがえのない宝である。ゆえに彼は、限りある人生の時間を、片時たりとも無駄にはしたくなかった。常に全力を尽くそうと決意していたのだ。
40  正義(40)
 伊東平和会館の開館記念勤行会で、山本伸一は皆と勤行したあと、懇談的に話をした。
 彼は、日蓮大聖人の伊豆流罪、また、初代会長・牧口常三郎が、伊豆の下田で官憲に出頭を求められて、投獄、獄死した大弾圧に思いを馳せながら語り始めた。
 「日蓮大聖人は、『如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべし』と仰せであります。釈尊は多くの難を受けたが、末法において正法を広宣流布していくならば、それ以上に、怨み嫉まれ、迫害を受けるとの意味であります。
 これまで創価学会は、広宣流布に邁進してきたがゆえに、激しい非難中傷にさらされ、迫害され続けてきました。学会以外に、どの教団が真実の正法を弘め、迫害を受けてきたか――ほかにないではありませんか。
 その事実は、御書に、また、経文に照らして、学会こそが、真実の広宣流布をしてきた証明であると思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 賛同の大拍手が轟いた。さらに伸一は、創価学会の同志の絆について語っていった。
 「学会の同志は、久遠の縁によって結ばれた法友であります。
 学会では、誰かが病などの悩みをかかえて苦しんでいると聞けば、多くの同志が題目を送ってくれます。さらに、同志が他界した折にも、皆が真心の唱題をしてくれます。
 また、先輩の方々は、″少しでも信心を深めてほしい。幸せになってもらいたい″と、足しげく後輩の激励に通う。そして、悩みに耳を傾け、わが事のように心を痛め、涙しながら、懸命に励ましを送る。
 そこには、なんの利害もない。これほど尊く、美しく、清らかな人間愛の世界はありません。学会の組織のなかでつくり上げてきた、この無形の宝を社会に開いていくのが、広布第二章です。不信と猜疑と嫉妬が渦巻く時代だからこそ、わが地域に、この伊豆の地に、麗しい人間共和の模範を築き上げていっていただきたいのであります!」
41  正義(41)
 山本伸一が、この日、法難の地・伊豆で、最も訴えたかったことは、「確信こそ、信仰の根本である」ということであった。
 戸田城聖は、第二代会長に就任して間もない一九五一年(昭和二十六年)夏、「創価学会の歴史と確信」の筆を執った。
 そのなかで戸田は、軍部政府の弾圧と戦い、殉教した初代会長・牧口常三郎について、次のように記している。
 「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌のためには国家諫暁よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである」
 牧口は、日蓮大聖人の仏法への絶対の確信があった。ゆえに、大法難にも微動だにすることなく、正法正義を貫き通したのである。
 牧口と共に捕らえられた戸田は、獄中にあって、法華経の精読と唱題のなかで、自分は師と共に、末法に妙法蓮華経の大法を弘めるために出現した地涌の菩薩であることを自覚する。いわゆる「獄中の悟達」である。
 さらに戸田は、「われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとする」と綴っている。
 そして、故会長の遺志を継ぎ、広宣流布に生涯を捧げる決意を記し、こう述べている。
 「この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」
 全会員が、地涌の菩薩として、大聖人の眷属、末弟子としての大確信をもち、広宣流布に生き抜いている事実をもって、戸田は、創価学会の「発迹顕本」としたのである。
42  正義(42)
 戸田城聖は、「創価学会の歴史と確信」のなかで、学会は発迹顕本したとの確信に立って、大折伏大願成就のための御本尊を、法主・水谷日昇に請願したことを記述している。
 日昇法主は、学会の決意を大賞讃して、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を認めたのである。広宣流布こそ、日蓮大聖人の大誓願にほかならない。そして、地涌の菩薩の使命に燃え、大聖人の眷属、末弟子の自覚に立った戸田の大誓願であり、創価の同志の大誓願であったのだ。
 この御本尊のもと、喜々として弘教に走る会員の姿を、戸田は次のように綴っている。
 「一大決意のうえ、実践運動にとりかかった会員は勇気に満ちみち、一糸乱れざる統帥のもとに、厳たる組織のうえに、足並みそろえて大折伏に行進しだしたのである。創価学会のごとき団体が、過去七百年の間に、どこにあったであろうか。各理事、各部長の勇敢なる闘争心、つづく負けじ魂の各会員、講義に、折伏に、火の玉のごとき状態である」
 大法弘通を、慈折広宣流布を、わが使命と定めた同志は、皆が地涌の菩薩である。仏の使いである。したがって、その自覚に立つ時、自身の境涯革命がなされ、いかなる宿命の嵐をも勝ち越える、大生命力が脈動するのだ。
 戸田は、こう宣言している。
 「時は、まさに来れり。大折伏の時は、まさに来れり。
 一国広宣流布の時は、まさに来れり。いな、いな、東洋への流布の時が来たのである」
 創価学会の確信とは、日蓮大聖人の仏法への、御本尊への大確信である。
 また、その大法を弘める、創価学会員の私たちこそ、地涌の菩薩であり、大聖人の眷属、末弟子であるとの大確信である。
 さらに、断じて広宣流布の勝利の旗を打ち立てんとする大確信である。
 山本伸一は、伊豆の同志に訴えた。
 「信心とは、一言すれば、確信であるといえます。確信は、自身の確固不動な信念となり、それが生き方の骨格をなしていきます」
43  正義(43)
 どうすれば、一人ひとりが、強い確信をもつことができるのか――。
 山本伸一は、さらに語っていった。
 「一つには、信心の力を痛感する、生活のうえでの体験を、どれだけつかんでいくかです。体験ある人は強い。それは、御本尊の力を生命で感じているからです。
 理論的に、仏法を理解していくことも大切ですし、それが精進の力になることも事実です。しかし、それだけでは弱い。頭でわかっていることと、生命の実感とは異なります。
 剣道や柔道にしても、単に試合のルールを覚え、練習の仕方がわかれば、それで強くなれるというものではない。
 実際に、練習を重ね、試合も数多く経験していくなかで、″こうやれば勝てる!″″こういう場合には、こうすればよい″ということを体で覚え、生命で感じていくことができる。それで、技が磨かれていくんです。
 信心も同じです。体験は確信を得る直道なんです。人生には、小さなことから、大きなことまで、さまざまな試練や悩みがあるものです。仕事や人間関係、子育てなどに行き詰まることもあれば、不慮の事故に遭遇したり、病で苦しんだりすることもある。
 あるいは、″なかなか弘教が実らずに悩んでいる″という方もいるでしょう。
 そうした一つ一つの悩みや試練を、自身のテーマとして見すえ、懸命に唱題し、学会活動に励んでいくんです。
 そうすれば、悩みは必ず克服できます。一つ、また一つと解決していくこともあれば、大聖人が『地獄の苦みぱつときへて』と仰せのように、一挙に悩みが解決することもあるでしょう。
 また、自分を悩ませていた問題は続いていたとしても、それに翻弄されて苦しんだり、そのことに負けたりしない自分を、確立していくことができるんです。境涯革命することができるからなんです。
 そうした体験の積み重ねが、仏法への確信を深め、強めていくんです」
44  正義(44)
 創価学会は、広宣流布の大使命を担った、地涌の菩薩の集いである。
 日蓮大聖人は、その実践について、「我もいたし人をも教化候へ」と述べられている。
 広宣流布をめざす自行化他の学会活動に励む時、自身の胸中には、大歓喜に満ちあふれた、地涌の菩薩の大生命が脈動する。
 学会草創の時代、創価の同志は、病苦や経済苦、家庭不和などの悩みをかかえながら、喜々として折伏・弘教に歩いた。だが、素直に耳を傾ける人は、いたって少なかった。
 嘲笑され、罵詈雑言を浴びせられ、なかには、村八分にされた人もいた。
 それでも、草創の同志は負けなかった。
 なぜか――難が競い起こったことで、先輩から聞かされてきた、御書、経文の通りであることを実感したからである。それが、歓喜と確信となり、ますます闘魂を燃え上がらせ、弘教の駒を進めてきたのだ。
 勇気ある挑戦は、さらに大歓喜を呼び起こし、確信を強く、不動のものにしていく。その歓喜と確信が大生命力を涌現させ、あらゆる困難をはね返して、勇んで弘教へと突き進む原動力となっていくのだ。
 一言すれば、草創の同志の強さは、ただひたすら、体当たりの思いで、折伏・弘教を実践していったことにある。それによって、地涌の菩薩の大生命が、大聖人の眷属たる大歓喜が、わが胸中に脈動していったのだ。
 ゆえに、何があっても屈することなく、勇猛果敢に戦い続けることができたのである。
 折伏行に勝る力はない。その実践の積み重ねのなかで、強き信心が培われていくのだ。
 山本伸一は、伊豆の同志に訴えた。
 「学会の強さは、全会員が、牧口先生、戸田先生の大確信を継承してきたことにあります。その仏法の正道を歩む私たちに、功徳の陽光が燦々と降り注がぬわけがありません。
 勝負は一生です。また、三世の生命です。今は大変でも、″見ていてください″と、高らかに宣言して進もうではありませんか!」
45  正義(45)
 静岡指導を終えた山本伸一は、四月二十一日午後、中部指導に向かった。
 夕刻、中部入りした伸一は、午後六時前から、愛知、三重、岐阜の代表幹部と懇談会をもった。
 参加者からは、この年一月の支部制発足以来、大きな弘教の波が広がり、支部の皆が功徳を受けているとの報告もあれば、青年の目覚ましい成長ぶりを語る人もいた。
 伸一は、皆の報告を聞くと、自分の思いを語り始めた。
 「学会員の皆さんが、元気はつらつと活動に励み、幸せを?み締めている報告を聞くことほど、嬉しいことはありません。
 しかし、その一方で、信心を反対されて活動に参加できない方や、さまざまな悩みをかかえて、一人で悶々としている方のことを、どうしても考えてしまうんです。
 どうか幹部の皆さんは、私に代わって、そうした方々とお会いし、包み込むようにして励ましていただきたい。手を取り、時には共に泣き、同苦して悲しみを分かち合っていただきたい。そして、真心を、全生命を注いで、粘り強く、力強く、信心のすばらしさを、仏法の偉大さを教えてあげてください。
 そこに、民衆の蘇生があり、学会の使命があるんです。頼みます」
 懇談が一段落したあと、皆で一緒に勤行することになった。
 その時、二人の婦人が、「先生!」と言って、伸一のところへ来た。少しためらいがちに、婦人の一人が口を開いた。二十三日に、県の文化合唱祭を開催する三重の婦人部長・平畑康江である。
 「あのう、文化合唱祭で、婦人部愛唱歌の『今日も元気で』を、どうして歌っては、いけないのでしょうか。
 私たち婦人部員の思いがこもった、みんなが、いちばん好きな学会歌なんです。どうか、歌わせてください!」
 いかにも切羽詰まったという表情であり、声も震えていた。
46  正義(46)
 「今日も元気で」は、婦人部の愛唱歌として皆に親しまれてきた歌である。歌詞には、日々、喜びに燃えて広宣流布に走る婦人部員の、一途な心意気が表現され、曲も明るく軽快なリズムであった。
 あかるい朝の 陽をあびて
 今日も元気に スクラムくんで
 闘うわれらの 心意気
 うれしい時も かなしい時も
 かわす言葉は
 先生 先生 われらの先生
 山本伸一の個人的な思いとしては、気恥ずかしさを感じる部分もあったが、婦人部にとっては、常に師と共に広宣流布に進もうという心を託した″師弟の共戦譜″であった。
 三重県文化合唱祭では、当初、婦人部のメンバーが、「今日も元気で」を合唱することになっており、練習を重ねてきた。しかし、それが中止になったのである。
 この文化合唱祭には、中部布教区の僧侶らも招待していた。当時、学会員が会長の山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧たちもいたのである。
 そこで、そうした僧を刺激してはまずいと考えてか、この歌は歌わない方向に決まったようであった。
 しかし、婦人部は納得できなかった。
 ″なぜ、いけないのだ! 師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!″
 彼女たちには、山本会長の指導通りに信心に励み、さまざまな苦悩を乗り越えて、幸せになれたという強い思いがあった。そして、広宣流布の師弟の道を歩むことに、大きな誇りをいだいていた。
 だから、ただ″歌が一曲、歌えなくなった″という問題ではなかった。自分たちの誇りが、いや、生き方そのものが、否定された思いがしてならなかったのである。
47  正義(47)
 「母親の愛は優しく、穏やかで、温かみがあり、寛容でありますが、また同時に最も厳正であり、強烈であり、防護であり、正義感に富んでいるのです」――これは、二十世紀の中国を代表する女性作家・謝冰心が母について記した言葉である。
 それは、創価の婦人部の特質でもあった。
 三重の婦人たちは、実感していた。
 「どうして、師匠を敬愛する心を隠さなければならないのか! どこかおかしい」
 結局、婦人たちの主張が実り、「今日も元気で」は、三重県文化合唱祭で歌われることになったのである。
 山本伸一は、力強い声で言った。
 「婦人部の合唱を楽しみにしています」
 県婦人部長の平畑康江の顔に、瞬く間に笑みが広がった。その目は涙に潤んでいた。
 彼女は、すぐに総合リハーサルを行っている会場に電話を入れた。婦人部の出演者に、いっときも早く伝えたかったのである。
 リハーサル会場で、「今日も元気で」を合唱できるようになったことが発表されると、大歓声と大拍手が響き渡った。ハンカチで涙を拭う婦人もいた。
 学会の根幹を成すのは、崇高な師弟の精神である。それは、いかに批判されようが、時代がどんなに変わろうが、絶対に変わってはならない「創価の魂」である。広宣流布の大潮流も、この師弟という生命の脈動から生まれるのである。
 戸田城聖は、青年時代から牧口常三郎を師と仰ぎ、いっさいを守り支えてきた。それゆえに、軍部政府の弾圧で、共に逮捕・投獄された。そして、自分だけでなく、一家もまた、近隣から「国賊の家」と罵られた。
 その戸田は、牧口の三回忌法要の席で、感慨を込めて、こう語っている。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」
 これが、広宣流布という大使命に生きる「師弟の絆」である。そこには、大難をも大歓喜へと変えゆく、高貴なる「魂の力」がある。
48  正義(48)
 戸田城聖の弟子である山本伸一も、広宣流布という創価学会の使命を、自身のこの世の使命を果たし抜くために、師弟の道を貫き通してきた。師の事業が暗礁に乗り上げ、戸田が学会の理事長も辞任せざるを得なかった時、伸一は誓いの歌を認めて師に贈った。
  古の
    奇しき縁に
      仕へしを
    人は変れど
      われは変らじ
 伸一は、戸田に再び広宣流布の指揮を執ってもらうために、この歌の通り、病弱な体であることも顧みず、死にものぐるいで、戸田の事業再建へ苦闘を重ねた。まさに、「一念に億劫の辛労」を尽くす日々であった。
 やがて伸一の奮闘は実を結び、戸田は、遂に苦境を乗り越えて、晴れて会長就任の日を迎える。そして、生涯の願業として会員七十五万世帯の弘教を掲げ、それを見事に成就していくのである。
 思えば、誰人も想像さえしなかった、その後の広宣流布の世界的な大伸展も、すべて、初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖という師弟の、死身弘法の戦いが、その源であり、原動力となってきた。そして、それに連なる伸一の、また、弟子たちの不惜身命の実践があってこそ、未曾有の一閻浮提広宣流布の時代を迎えることができたのだ。
 日蓮門下の最重要事は、広宣流布の大誓願の実現である。それを現実に推進してきたのが創価の師弟である。そのこと自体が、創価学会が仏意仏勅の団体であることの、まぎれもない証明といえよう。
 学会の発展があってこそ、宗門を外護することができ、宗門も興隆してきた。これは、厳然たる事実であり、そこに広宣流布の確かな軌道があったのである。伸一は、この事実についても、僧侶たちと、根気強く徹底的に話し合わねばならないと思っていた。
49  正義(49)
 みずみずしい若葉が、中部の新生を感じさせていた。
 四月二十二日午後、会長・山本伸一が出席して、名古屋市の中部文化会館で、四月度本部幹部会が晴れやかに開催された。
 伸一の会長就任十八周年の「5・3」を目前に控えた本部幹部会とあって、祝賀の思いを託し、壇上には花菖蒲が飾られ、この日の集いに彩りを添えていた。
 席上、伸一は、全国の同志の絶大なる尽力と奮闘に衷心より感謝の意を述べ、「皆様方が安心して信心に励み、広宣流布に邁進できるように、常に矢面に立ち、勇んで戦いの指揮を執っていきたい」と抱負を語った。
 そして、御書を拝して、いかなる大難が競い起ころうとも、前進の力へ、向上の力へ、発展の力へと転じていくなかに、真の仏法者の生き方があることを述べた。
 さらに、渾身の力を込めて訴えた。
 「仏法の眼を開いて見るならば、私どもは、宿縁深くして、広宣流布の尊き使命を果たすために、今、末法に出現したのであります。それは、久遠の昔からの、われらの誓願にほかなりません。自らこいねがい、仏に誓ったことなのであります。
 われわれは、ひとたび決めたこの道――すなわち『信心の道』『一生成仏の道』『広宣流布の道』『師弟の道』『同志の道』を、生涯、貫き通して、ともどもに勝利の人生を飾ってまいろうではありませんか!」
 誓いの大拍手が湧き起こった。
 中部の同志が、断固、″この道″を進みゆかんと心を定めた瞬間であった。
 「既に広宣流布の基盤は出来上がっております。いよいよ本格的な地域建設の時代を迎えました。しかし、それだけに、広布を阻もうとする障魔の嵐も激しさを増してくることは間違いありません。ゆえに、『日々発心』であり、『日々精進』であります。
 ″わが人生に悔いなし″と言える前進を、今日から再び開始しようではありませんか!」
 さらに、大拍手が場内に轟いた。
50  正義(50)
 本部幹部会の翌日にあたる四月二十三日、三重研修道場(旧・中部第一総合研修所)の白山公園で、初の「三重文化合唱祭」が、「創価の歌声で開く万葉の天地」をテーマに、はつらつと開催された。この文化合唱祭は、午前、午後の二度にわたって行われたが、山本伸一は、そのいずれにも出席し、出演者、参加者らを励ましたのである。
 文化合唱祭は、勇壮な音楽隊のファンファーレ、華やかな鼓笛隊の演奏で幕を開けた。
 第一部「郷土に輝く共戦譜」では、広布の歩みが語られるなか、「威風堂々の歌」や「同志の歌」「新世紀の歌」など、懐かしい学会歌の合唱が繰り広げられた。
 第二部「我ら三重家族」では、「鯉のぼり」の曲にのって少年・少女部員が登場。「ぼくら師子の子」を元気に合唱したあと、代表が伸一に花束を手渡した。
 「ありがとう! お父さん、お母さんを大切に。しっかり勉強して、立派に育つんだよ。皆さんを、ずっと見守っています」
 伸一は、子どもを抱き締めて励ましながら、三十年後、四十年後に思いを馳せた。
 ″二十一世紀は、この子たちの時代だ。世界広布の本当の朝を開かねばならない!″
 舞台で、少年・少女部員が声を合わせ、「おかーさん!」と呼ぶと、婦人部の合唱団が登場する。そして、子どもたちと肩を組みながら、「お月さまの願い」の合唱が始まる。ほのぼのとした創価家族の温もりが会場を包んでいく。
 また、女子部は、さわやかな「緑の栄冠」のコーラスを披露。男子部は、力強い体操の演技とともに、愛唱歌「原野に挑む」を合唱し、参加者を魅了していった。どの合唱、どの演目にも、信心の喜びがあふれていた。
 学会の世界とは、″歓喜の世界″である。″歓喜のドラマ″″歓喜の思い出″″歓喜の友情″を育んでいくための信仰である。
 「幸運の鍵はわが手中に歓喜のあることである」とは、アメリカの偉大なる思想家・エマソンの名言である。
51  正義(51)
 「三重文化合唱祭」の舞台は、婦人部の合唱「今日も元気で」となった。婦人部員の満面の笑みが開花し、あの限りなく明るく、軽やかな調べが流れた。
 三重の婦人部員にとって、それは″喜びの歌″であり、″勝利の歌″であった。
 皆、はつらつと、誇らかに、胸を張って熱唱していった。嬉し涙に目を潤ませて歌う人もいた。
 ♪真昼の太陽 身に受けて
  汗にまみれて ペダルもかるく
  幸せ求める 幾山河……
 歌に合わせて、参加者の打つ力強い手拍子が広がった。
 空は、雲に覆われていたが、婦人たちの心は、晴れやかであった。仏法という太陽をいだく人の心には、一点の雲もない。
 午後の部には、宗門の支院長や住職ら僧侶と、その家族も招待していた。山本伸一は、演目の合間には、隣の席にいた支院長に何度も礼を言い、歌の説明などもした。
 「それぞれの学会歌には、皆の深い思い出があります。
 ――折伏に行って、誠実に、懸命に仏法を語り説く。しかし、水や塩を撒かれて追い返される。時には終電車に乗り遅れ、一時間、二時間とかけて、歩いて帰らなければならないこともある。その時に、学会歌を歌いながら、自らを鼓舞してきたんです。
 みんなが、そうした体験をもっています。学会員は、ただただ、広宣流布のために、死身弘法の心で生き抜いてきたんです。私は、そこに、現代における如来の使いの姿を見る思いがします。
 どうか、ご僧侶の皆さんも、健気な学会員を、衣の袖で包み込むように、慈愛を注ぎ、温かく励ましていただきたいんです」
 伸一は、ありのままの創価の世界を、本当の学会の心を、真実の同志の姿を、全精魂を注いで、語り、訴えた。
52  正義(52)
 「三重文化合唱祭」の午後の部が始まる前から、糸のような雨が断続的に降っていた。 文化合唱祭の最後に、山本伸一がマイクに向かった。彼は、雨の中での出演者の熱唱と熱演を讃えたあと、出席した地域の来賓や僧侶らに深く感謝の意を表した。そして、各部の友に、一言ずつ指針を贈った。
 「ご結婚され、子どもさんのいらっしゃる婦人部の方々は、家庭にあっては、良き母であっていただきたい。また、良き妻であり、明るく快活で賢明な主婦であっていただきたい。自分の立場、自分の世界で、太陽のごとく、温かく皆を包みゆく人になっていくことが、信仰の実証になります。
 また、壮年部の方々は、社会人として力ある存在になっていただきたい。周囲から『さすがに信心している人は立派である』と言われ、信頼を勝ち取っていくことが、広宣流布なんです。
 女子部の皆さんは、体を大事にし、聡明にして、花のごとく美しい人間性の輝きを放つ人であってください。一輪の花が、人びとの心に希望の光を投げかけるように、『女子部員が一人いれば、皆が明るくなる』と言われる存在となるように祈っております。
 男子部、そして、そのあとに続く学生部の諸君は、社会の各分野を担う名士に育っていただきたい。君たちが社会で実力をつけた分だけ、学会の前進があるんです。
 少年・少女部、中等部、高等部の諸君は、しっかり勉強してもらいたい。『今に必ず立派な人になって親孝行してみせます』と、両親を安心させるようでなくてはいけない。諸君は、未来の人です。学会の後継者です。私は、君たちのために道を開きます。何ものも恐れません。創価のバトンを託します」
 愛する法友の崩れざる幸せと、三重の広宣流布を願い、伸一は訴えた。一言一言に、万感の思いがこもっていた。
 彼の胸中には、″何があろうが、わが同志は、断じて私が守り抜く″との決意の火が、赤々と燃え盛っていた。
53  正義(53)
 山本伸一は、文化合唱祭のあと、出席した僧侶と懇談会をもった。
 彼は、″学会は、どこまでも広宣流布のために、死身弘法の誠を尽くしながら、宗門を守り抜く決意であり、さらに連携を取り合い、前進していきたい″との思いを語った。
 そのあとも、出演者や運営に携わったメンバーの代表と懇談し、労をねぎらった。
 翌四月二十四日、伸一は、わずかな時間を見つけては、妻の峯子と共に三重研修道場周辺の理容店や日用品店に足を運び、日ごろの学会への尽力に対して、御礼を述べた。地域への貢献といっても、近隣の方々と交流し、大切にしていくことから始まる。
 それから伸一たちは、研修道場を擁する三重県・白山町の、三沢カツ子の家に向かった。
 彼女は、この地域の婦人部本部長をしており、研修道場で大きな行事がある時には、三沢の家が婦人部のさまざまな準備の会場として使われてきた。今回の文化合唱祭でも、準備のための拠点となってきたことを、伸一は聞いていたのだ。そこで、″ご家族の方々にも、御礼に伺わなければ申し訳ない″と考えていたのである。
 また、三沢の母親・波多光子は、この地域の学会の草創期を切り開いた一人であった。伸一が、地元の会員に、「あなたは、どなたから仏法の話を聞いたんですか」「誰の激励で立ち上がったんですか」と尋ねると、たいてい波多光子の名が出るのだ。伸一は、波多にも会って、ぜひ、広布開拓の苦闘を聞き、その功績を賞讃したかったのである。
 一人ひとりと会って対話し、心を結び合っていく。そして、友情のスクラムを組み、広宣流布へ、崩れざる幸せの城へと、共に歩みを運んでいく――それが創価学会である。
 組織という機構、制度に、温かな人間の血を送り、信心の鼓動を伝えるのは、人と人との信頼の絆である。ゆえに、個人と個人の語らいなくして、創価の人間組織はない。
 伸一と峯子が、三沢の家に着いたのは、午後一時前であった。
54  正義(54)
 三沢カツ子の家は、伊勢と関西を結ぶ街道沿いにあり、かつて一帯は宿場で、三沢家も旅館を営んでいたという。
 彼女は、午前中、「もし、よろしければ、お宅におじゃまさせていただきます」との山本伸一からの伝言を受けていた。
 三沢の家の中には、文化合唱祭で使用した備品があふれていた。急いで大きな荷物だけは片付けたところへ、伸一たちが到着した。
 玄関で出迎えたカツ子と夫の光也は、少し緊張しているようであった。
 伸一は、夫妻に笑みを向け、光也と握手を交わした。
 「今日は、御礼に伺いました。いつも婦人部がお世話になっております。ありがとうございます」
 伸一たちは、仏間に案内された。部屋には、鴨居の上に、羽織姿の遺影が飾られていた。光也の亡くなった父親であるという。
 それを聞くと、伸一は言った。
 「では、お父様の追善の勤行をしましょう」
 厳かに勤行が始まった。
 彼の訪問を聞いた近隣の学会員も、次々と集まってきた。仏間の隣の部屋は、人で埋まっていった。
 勤行を終えた伸一は、皆に語った。
 「せっかく皆さんがおいでくださったんですから、今日は座談会にしましょう」
 皆が歓声をあげた。
 光也は、追善の勤行のお礼を述べたあと、近所に住む、カツ子の母親の波多光子を紹介した。
 「実は、私たち夫婦が信心するようになったのも、この義母のおかげなんです」
 「初めまして、山本です。あなたが、地域広布にどれほど尽力されてきたかは、よく伺っています。お会いできて光栄です」
 一家一族に、地域の人びとに、仏法を弘め抜いてきた功労者である。伸一は、立って仏を迎える思いで、深く頭を下げた。
 弘教の実践者に最大の敬意を表するのが、仏法者の生き方である。
55  正義(55)
 波多光子は、七十六歳であった。
 山本伸一は、彼女が入会にいたった経緯や、広宣流布の苦闘の幾山河について、次々と尋ねていった。波多の体験を通して、集ってきた同志と共に、″本当の信心とは何か″を確認しておきたかったからである。
 彼女は、伸一の質問に対して、「あのな、私はな」と、柔和な笑顔を輝かせながら語っていった。
 戦争が終わり、平和と希望の時代が訪れることを期待していた時、杖とも柱とも頼む夫が、九人の子どもを残して他界する。一番下の子は、まだ一歳であった。
 波多は必死に生きた。貧しさのなかで、もがくような毎日であった。さまざまな信仰にもすがった。水垢離もした。しかし、なんの希望も見いだせぬ、暗澹たる日々が続いた。
 そんなころ、近所の人から、仏法についての話を聞いたのである。一九五六年(昭和三十一年)の夏のことであった。七十五万世帯の達成をめざす、広宣流布の弘教の潮は、三重の山村にも、滔々と広がっていたのだ。
 波多に仏法の話をしたのは、露崎アキという婦人であった。彼女は結婚して大阪で暮らしていたが、夫を亡くし、実家のあるこの白山町に帰ってきたのだ。魚の行商をしながら、女手一つで三人の娘を育てる苦労人であった。露崎は、入会間もなかったが、「絶対に、幸福になれる信心やに」と、確信をもって訴えるのである。
 波多は思った。
 ″この人は、私と同じような境遇なのに、なんでこんなに、明るいんやろう。学会の信心の力なんやろうか……″
 露崎の確信と、生き生きとした姿に魅了され、波多は入会を決意したのである。
 経済的な豊かさを手に入れることも、信心の実証にはちがいない。しかし、最重要の実証とは、何があっても負けることのない、人間としての強さと、人を思いやる心をもち、はつらつとした生き方を確立することだ。生命の輝き、人格の輝きを発することだ。
56  正義(56)
 入会した波多光子に、露崎アキは、勤行とともに弘教に励むことの大切さを力説した。
 「日蓮大聖人の仏法は、自行化他にわたる信心や。自分も、周りも、共に幸せにならんと、本当の幸せはないやろ。たとえば、周りの人が飢え死にしとるなかで、自分だけうまいもん食べて幸せになれると思う? なれんやろう。自分だけ極楽に行くために祈っとる宗教なんて、本当の宗教やあらへんに。
 大聖人の仏法は、自分が今世で仏さんになる信心なんやに。それを成仏いうんやに。自分の幸せしか考えない仏さんなんておらへんに。一人でも多くの人に仏法を教え、幸せにしていくことで、仏さんになれるんやに」
 その言葉に、波多は感心した。その通りだと思い、仏法対話に歩いた。すると、周囲の人たちから、猛反発が起こった。
 まず怒りだしたのが他宗の僧であった。それに煽られ、周囲の人たちも、「頭がおかしいんと違うか!」と罵り、仏法対話に行けば、水や塩を撒き、石を投げつけるのだ。
 ″なぜ、こんな目に遭うんやろう″
 水垢離などをする他の信仰をしていた時には、全くなかったことである。
 波多は露崎と一緒に、所属組織である大阪の堺支部の幹部と会い、指導を受けた。
 「日蓮大聖人は、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし』と仰せになっているんです。末法という、衆生の生命が濁り切り、人びとは悪法が正しいと信じている時代に正法を説くのだから、反対されたり、弾圧に遭うのは当然ではないですか。
 また、大聖人は御書の随所で、『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る』との、天台大師の言葉を引かれ、本気になって信心していれば、それを妨げようとする障魔が競い起こると断言されているんです」
 仏道修行に励めば魔が競い起こると、覚悟を定めることこそ、信心の第一歩である。
 新入会者に、弘教の実践とともに、それを徹底して教えてきたことによって、広宣流布の組織の盤石な基盤がつくられたのだ。
57  正義(57)
 堺支部の幹部は、さらに話を続けた。
 「経文に、御書に照らして、魔も、難も起こらない正法なんてありません。難を避けるうまい方法はないかなどと考えてはだめです。覚悟を決めることですよ。
 実は、魔にも、難にも、大きな意味があるんです。大聖人が、『魔競はずは正法と知るべからず』と言われているように、魔が競い起こるか否かによって、その教えが正しいかどうか、自分の信心が本物かどうかを、見極めることができるんです。
 また、正法を流布して法難に遭うことによって、過去世からの悪業を今世で消して、一生成仏することができる。だから、難を呼び起こしていく信心が大事なんです。
 もちろん、配慮を欠く非常識な言動で、無用な摩擦を生むようなことは、厳に慎まなければなりません。しかし、どんなに慎重に誠心誠意、対応しても、正法を弘めるならば、必ず難は起こります。その理由は、この世界は第六天の魔王の所領であり、そこに、妙法受持の人が現れ、浄土に変えようというのだから、難が競い起こるのは当然なんです」
 法難を回避することはできない。ゆえに大聖人は、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と叫ばれたのだ。
 しかし、大聖人の門下のなかにも、正義ゆえに大難が競い起こることを、受けとめられぬ者がいた。師である大聖人が、竜の口の法難、佐渡流罪と、命に及ぶ大難に遭うと、恐れと、師への不信をいだいたのだ。
 彼らは、「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし」と言いだしたのだ。
 経文の随所に、法難が起こることは間違いないと記されているにもかかわらず、大聖人の折伏が剛直すぎるからだと、法華経の行者である師を批判したのだ。
 退転の本質は、臆病であり、保身にある。しかし、自己を正当化するために、問題を方法論などにすり替えて、正義の人を攻撃するのが、退転の徒の常套手段である。
58  正義(58)
 いかに時代は変わろうが、信心ある人には、広宣流布の前進あるところには、必ず魔が競い、難が襲う。
 波多光子は、周囲のいかなる仕打ちにも、迫害にも挫けまいとの決意を固めた。入会した友を、その決意に立たせてこそ、本当の折伏である。それが、広宣流布の大いなる拡大の原動力になるのだ。
 彼女が信心に励めば励むほど、家族は激しく反対するようになり、「おかしな宗教に凝って!」と、学会を目の敵にした。
 しかし、波多は負けなかった。野良作業に出る時、しんぐり籠(竹籠)に外出用の服を入れ、作業が終わると、さっさと着替え、露崎アキと一緒に学会活動に出かけた。
 ″この信心で、必ずわが家の宿命を転換してみせる! 子どもたちにも信心を教え、幸せにしてみせる!″
 彼女は燃えていた。貧困に喘ぎ、汲々として生きてきた自分が、人びとを幸福にするために情熱を燃やしていること自体、不思議な気がするのである。経済状態は依然として厳しかったが、何かが変わっていった。いかに周囲が反対しようが、強い確信があり、あふれんばかりの歓喜と希望があるのだ。
 「楽して、楽してかなわんわ」
 それが、彼女の口癖であった。
 子どもたちが育ち、働くようになると、暮らしは楽になっていった。また、苦労に耐えながらも、明るく、はつらつとした健気な母親の生き方を見て、やがて、子どもたちも、全員、信心に励むようになった。さらに、家も新築することができたのである。
 ――その話を聞くと、山本伸一は、娘である本部長のカツ子に言った。
 「あなたも、お母さんの信心に反対したんですか」
 「はい。後悔しております」
 「それなら、お母さんに感謝し、大事に、優しく接していくことですよ。お母さんは、晩年の今、すべてに勝った。人生の晩年に勝利してこそ、人生全体の勝利なんです」
59  正義(59)
 三重研修道場周辺の地域に住む人たちの多くが、波多光子と露崎アキの弘教である。
 三沢光也の父も、波多の勧めで入会したという。肝臓と胆嚢(たんのう)を病み、″もう長くはない″と周囲の人たちが噂し合っているなかで、信心を始めたのだ。そして、法華経に説かれた「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の実証を示し、十年も元気に生き抜いたのである。
 そうした一つ一つが、波多の信心の支えとなり、確信となった。
 何を言われようが、どんな目に遭おうが、自分が弘教した人が、功徳を受け、幸せになっていくことに勝る喜びはなかった。
 「折伏ほど、楽しいもんはない。今生最高の思い出や」
 たとえ身なりは貧しくとも、喜々として弘教に歩く人には、尊き菩薩の歓喜の生命が脈打ち、金色の仏の輝きがある。
 山本伸一は、波多に尋ねた。
 「信心をしてきて、いちばん辛かったこと、悔しかったことはなんですか」
 彼女は、少し口ごもりながら答えた。
 「葬式に、正宗の坊さんが来てくれんだことですわ……」
 波多と露崎が弘教した夫妻の夫が、不慮の事故で他界した。当時、三重県には宗門の寺院はなかったため、波多は、自分の所属支部がある大阪の寺院に電話し、僧侶に葬儀に来てほしいと頼んだ。しかし、「三重は遠いので、とても行けません」と、そっけなく断られてしまった。何度、懇願してもだめだった。
 やむなく、露崎と二人で、葬儀を行うことになった。旧習の深い地域である。
 「坊さんは来えへんのやて」
 「学会の女二人が坊さんをするんやげな」
 隣近所の人たちが、興味津々といった顔で集まってきた。
 嘲笑の眼差しを浴びながら、二人は、生命力を振り絞るようにして、朗々と勤行した。緊張のあまり、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。野辺送りを済ますと、全身から力が抜けていくような気がした。
60  正義(60)
 波多光子は、自分としては、露崎アキと二人で一生懸命に葬儀を執り行ったつもりであった。しかし、それでも歳月を経るごとに、″本当にあんなんで、よかったんやろうか。故人の一家に惨めな思いをさせたのではないか″という気持ちが、心の底に、澱のようにたまっていったのである。
 山本伸一は、彼女の話を聴き終わると、大きく頷いた。
 「おばあちゃんは偉い! 最も清らかで、尊い、真心の葬儀です。それが本当の葬儀です。故人も、最高に喜んでいるでしょう。あなたは、広宣流布の大功労者です」
 そして、同行の幹部らに語った。
 「君たちは、大学を出て、若くして幹部になったことで、自分は偉いかのように思ったりしてはいけません。そんな考えが微塵でもあるなら、既に生命が慢心に毒されている証拠です。君たちには、地域広布に命をかけてきた、このおばあちゃんのような戦いはできていないではありませんか!
 誰が、本当に広宣流布を推進してくださっているのか、創価学会を支えてくださっているのか――私は、じっと見ています。
 もしも、要領主義がまかり通り、捨て身になって戦いもせず、人の努力を自分の手柄のように報告だけしている者がリーダーになって君臨していけば、真面目な会員がかわいそうです。そんな創価学会にしてはならない」
 厳しい口調であった。
 それから伸一は、包み込むような笑みを、波多に向けて言った。
 「おばあちゃん、ほかに何かありますか」
 瞬間、彼女の表情が曇った。
 「先生。実はな、私を折伏してくれた露崎アキさんが、心臓病で入院しとりますんや。あの人はな、私なんどより、もっともっと信心強盛でな。『先生に会いたい、会いたい』と、いつも言うとりました。元気なら、今日、一緒に、先生とお会いできましたのにな」
 同志を思う謙虚な言葉であった。謙虚さは境涯の高さ、大きさの表れといえよう。
61  正義(61)
 山本伸一は、露崎アキと聞いて、二年前に三重研修道場が中部第一総合研修所としてオープンした折の、彼女との出会いを思い起こした。伸一が役員のメンバーなどを励ますために構内を回っていた時、凜とした声であいさつをした老婦人がいた。
 「先生! 露崎アキと申します。よろしくお願いいたします」
 その時、三重の幹部から、彼女は地元の白山町の草分けとして、地域広布の開拓の鍬を振るい続けてきたと聞かされたのだ。
 伸一は、明治生まれの、この老婦人の手を取りながら言った。
 「本当に、ご苦労様です。あなたの今日までの苦闘が、研修所の完成として実を結んだんです。勝ちましたね」
 すると露崎は、苦節の来し方を思い起こしたのか、目を潤ませた。
 「尊い、″広布のお母さん″です。これまでに折伏はどのぐらいされたんですか」
 伸一が尋ねると、彼女は誇らかに答えた。
 「信心をした方は、百世帯は超えています。それ以上は、ちょっと数えきれません」
 「そうですか! 偉大な功績です。敬意を表します。あなたのことは、一生、忘れません。永遠の同志です。人びとの幸せのため、広宣流布のために流してこられた苦闘の汗は、すべて福運となります。子孫末代までも繁栄していきます。それが、仏法なんです。御本尊は、一切をご存じですよ」
 伸一の言葉を聞くと、露崎の目から、涙があふれた。
 ――その露崎が入院中であることを、三沢宅で波多光子から聞いた伸一は、入院先の病院や病状について詳しく尋ねた。そして、直ちに、伝言と見舞いの品を幹部に託した。
 ″瞬時″を逃さぬ、迅速な対応であった。
 一つ一つの報告や情報に対して、いかに素早く、いかに的確な手を打っていくか――そこに新しい価値の創造があり、一切を勝利へと導く力がある。そして、その迅速さと的確さは、真剣さから生まれるのである。
62  正義(62)
 露崎アキは、山本伸一からの伝言と見舞いの品に、跳び上がらんばかりに驚き、喜んだ。
 ″こんな病魔になんか、負けとれん! 一日も早う元気になって広宣流布のために、そこら中、歩き回らな! 山本先生にお応えせなあかん!″
 彼女の病状は、健康に向かっていった。そして、ほどなく退院し、伸一の激励から九日後の五月三日には、津市の三重文化会館(現在の津文化会館)で波多光子と共に、第二回「広布功労賞」を受賞している。
 伸一は、三沢宅に集った一人ひとりに視線を注いだ。
 彼は、皆が「学会の宝」であり、御本仏から、この世に召し出された「使命の人」であると、しみじみと思った。
 「皆さんの奮闘があってこその、広宣流布です。広布の使命をもって生まれてきた皆さんは、もともと仏の子であり、地涌の菩薩なんです。
 だから、これから先、どんな試練が待ち受けていようが、勝てないわけがありません。幸福になれないわけがありません。何があっても、この確信だけは忘れないでください。
 私たちは、広宣流布に生き抜こうと心を定め、自行化他にわたる信心を実践していくなかで、仏の生命を、地涌の菩薩の生命を涌現させていくことができるんです。そして、それによってわが生命が変革され、宿命の嵐に敢然と挑み勝つ力が湧き、毒を薬となし、苦を楽と開いていくことができるんです。
 大聖人から、わが地域の広宣流布を託された皆さんです。皆さんが語った分だけ、仏縁が、仏法への理解が広がっていきます。皆さんが歩いた分だけ、広宣流布の道を開くことができます。皆さんが汗を、涙を流し、弘教の旗を打ち立てた分だけ、幸福の宝城が築かれます。
 どうか、この白山町の、三重県の広宣流布を、よろしくお願いします」
 彼は、仏を敬うように、深く頭を垂れた。
63  正義(63)
 山本伸一を囲んでの″座談会″は、一時間ほどに及んだ。彼は、三沢光也・カツ子夫妻に見送られ、三沢宅をあとにした。
 伸一は、この日の夜は、津市にある三重文化会館で、県の代表との懇談会に続いて、三重支部結成十八周年記念幹部会に出席することになっていた。
 津に向かって、車が走り始めると、彼は、同乗していた三重県の幹部に言った。
 「研修道場のある地域の、支部婦人部長のお宅は、わかりますか。もし、ご迷惑でなかったら、短時間でも、御礼のごあいさつに伺いたいんです」
 県の幹部は、腕時計を見ながら答えた。
 「三重文化会館での懇談会もございますので、時間はあまりございませんが……」
 「五分でも、十分でもいいんです。相手のご都合もおありでしょうから、玄関先のあいさつでも、一緒にお題目を三唱するだけでもかまいません。今日を逃せば、訪問の機会はなくなってしまうかもしれない。できる時にできることを、全力でやりたいんです。
 失敗や敗北の、すべてに共通している要因は、できる時に、できることをやらなかったという点にあります」
 劇作家シェークスピアは記している。
 「いたずらに好機を逸するのは、その人間の怠慢だ」
 伸一も、まさに、そう感じていた。
 同行していた県の幹部は言った。
 「支部婦人部長さんは、多喜川睦さんといいまして、お宅は、この国道沿いにあり、すぐ近くです。長年、自宅を会場として提供してくださっています。その自宅を、最近、新築されたんです。先生に訪問していただければ、大喜びすると思います」
 伸一たちが、多喜川宅を訪れると、睦の義母と小学生の娘が、留守番をしていた。
 義母は、「まあ、先生!」と、満面の笑みで伸一たちを迎え、仏間に通した。
 「では、新築記念の勤行をしましょう」
 伸一の導師で勤行が始まった。
64  正義(64)
 支部婦人部長の多喜川睦は、さきほどまで山本伸一が訪れていた三沢宅にいた。彼女も三沢宅での″座談会″に参加しており、終了後も、皆で伸一の指導を確認し合い、決意を語り合っていた。
 そこに、一本の電話が入った。伸一に同行していた県の幹部からであった。
 「多喜川さんの家に、山本先生がいらしています。すぐに戻ってください!」
 多喜川は、驚きのあまり、受話器を持つ手が震えた。
 彼女が自宅に到着したのは、義母と娘が、伸一と一緒に勤行している最中であった。
 勤行が終わるや、多喜川は伸一に言った。
 「今日は、わざわざおいでいただき、ありがとうございました」
 「すばらしい家ですね。近代的で、時代の先端を行く流行作家の家のようですね。
 今日は、突然ですが、一言、支部婦人部長さんに御礼を言おうと思っておじゃまし、新築記念の勤行をさせていただきました。
 これから、すぐに三重文化会館へ向かうので、ゆっくりお話しすることはできませんが、いつも、お題目を送り続けます。どうか、くれぐれもお体を大切にしてください」
 多喜川の家をあとにした伸一は、車中、県の幹部に語った。
 「幹部は、寸暇を惜しんで、皆の激励に回ることです。″もう一軒、もう一軒″と、力を振り絞るようにして、黙々と個人指導を重ねていくんです。
 それが、幸せの花を咲かせ、組織を強化し、盤石な創価城を築くことになります。ほかに何か、特別な方法があるのではないかと考えるのは間違いです。
 作物をつくるには、鍬や鋤で丹念に土地を耕さなければならない。同様に、何度も何度も、粘り強く、個人指導を重ねてこそ、人材の大地が耕されていくんです」
 皆が広布の主役である。ゆえに、一人ひとりにスポットライトを当てるのだ。友の心を鼓舞する、励ましの対話を重ねていくのだ。
65  正義(65)
 二十四日の午後二時半、三重文化会館に到着した山本伸一は、居合わせた近隣の会員と記念撮影し、皆で一緒に勤行をした。
 さらに、県の代表幹部との懇談会に臨み、意見に耳を傾け、質問に真心を尽くして答えた。また、移動の車中で作った歌などを、参加者に贈った。
 そして、三重支部結成十八周年の記念幹部会に出席したのである。彼は、この席でも、個人指導の重要性について訴えた。
 「日蓮大聖人は、四条金吾や南条時光をはじめ、多くの弟子たちに御手紙を与えられた。その数は、御書に収録されているものだけでも、実に膨大であります。
 それは、何を意味するのか。一言すれば、広宣流布に生きる一人ひとりの弟子に対して、″何があろうが、断じて一生成仏の大道を歩み抜いてほしい。そのために、最大の激励をせねばならない″という、御本仏の大慈大悲の発露といえます。
 一人でいたのでは、信心の触発や同志の激励がないため、大成長を遂げることも、試練を乗り越えていくことも極めて難しい。
 私どもが、個人指導を最重要視して、対話による励ましの運動を続けているゆえんも、そこにあるんです。
 また、聖教新聞などの機関紙誌を読み、学ぶことも、信仰の啓発のためであり、信心の正道に生き抜いていくためです。
 自分一人の信仰では、進歩も向上も乏しい。我見に陥り、空転の信心になりやすい。ゆえに広宣流布のための和合の組織が必要不可欠であることを、私は強く訴えておきたい」
 伸一にとっては、一回一回の会合が、一人ひとりの同志との出会いが、生命触発の″戦場″であった。真剣勝負であった。広布破壊の悪侶らは次第に数を増し、牙を剥き、愛する同志を虎視眈々と狙っていたからである。
 伸一は、翌二十五日には、舞台を関西に移し、ここでも同志の激励に全生命を注いだ。
 魔の執拗な攻撃を打ち破るには、正義の師子吼を発し続けるしかない。
66  正義(66)
 山本伸一は、関西では、創立者として創価女子学園を訪問したほか、関西牧口記念館、兵庫文化会館などを次々と訪れた。
 行く先々で同志と記念のカメラに納まり、懇談会等をもち、入魂の励ましに徹した。
 四月二十八日には、関西センターでの立宗記念勤行会に出席。創価の風雪の歴史は、法華経に説かれた「猶多怨嫉。況滅度後」(猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや)の通りであり、学会こそ如説修行の教団であると力説した。
 また、二十九日は、関西戸田記念講堂での大阪女子部の合唱祭に臨んだあと、招待した南近畿布教区の僧侶たちと懇談した。
 この日の夜、東京に戻った伸一は、翌三十日、「’78千葉文化祭」を観賞した。ここでも文化祭に招待した県内の僧侶と語らいをもった。彼は、僧侶たちに、讒言に惑わされることなく、宗門を外護して一心に広宣流布をめざす学会の心を理解してほしかった。仏子である会員を大切にしてほしかった。
 会長就任十八周年となる五月三日をめざして、伸一は懸命に走り続けた。烈風が、怒濤が襲いかかるなか、自ら盾となって同志を守り、敢然と「正義」の旗を掲げ続けた。
 学会は、戦時中、軍部政府による大法難にさらされた。戦後も、夕張炭鉱労働組合や、大阪府警・地検による不当な弾圧と戦った。
 そして、牧口、戸田の両会長が日蓮仏法に帰依して満五十年を迎えようとする今、本来ならば、最も創価学会を賞讃すべき僧のなかから、死身弘法の決意で広宣流布を進める学会を悪口し、その仏意仏勅の組織を攪乱しようとする悪侶たちが出たのだ。
 伸一は、時の不思議さを感じた。そして、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」との御文を、噛み締めるのであった。
 ″すべては、経文に、大聖人の御書に、仰せの通りではないか!
 長い嵐の夜は続くかもしれない。しかし、その向こうには、旭日が輝く、飛翔の朝が待っているはずだ!

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