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日蓮大聖人・池田大作

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第27巻 「若芽」 若芽

小説「新・人間革命」

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2  若芽(2)
 東京創価小学校は、創価中学・高校に隣接して建てられていた。春の陽光に照らされた、鉄筋コンクリート造り三階建ての白亜の校舎が、武蔵野の緑の中に、ひときわ輝きを放って見えた。
 校舎三階のバルコニーには、「にゅうがくおめでとう さあ、きぼうのしゅっぱつ!」と書かれた、三十メートルほどの横幕が掲げられていた。
 創価小学校の入学式は、午前十一時から、創価学園の講堂で挙行された。
 児童たちが、幾分、緊張した顔で壇上を見つめるなか、開式が宣言された。
 初めに校長の新木高志が、一年生百二十五人、二年生八十二人、三年生八十四人の入学許可を告げたあと、「明るい子」「思いやりのある子」「ねばり強い子」という低学年のモットーを紹介した。
 このモットーは、創立者の山本伸一が、設立の準備にあたってきた教職員に請われ、決めたものであった。彼は、人間教育を行ううえで重視すべきは、精神の育成であると考え、心、生き方という内面に焦点を当てたモットーにしたのである。
 「明るい子」、すなわち明朗快活な子どもとは、自分を卑下したりすることなく、広く大きな、素直な心で、何事にも前向きに取り組んでいける子どもである。
 「思いやりのある子」とは、他者を大切にする心をもつ子どもである。いかに学業成績が優秀であっても、自分のことしか考えぬ人間になってしまえば、本人も、周囲の人も不幸である。思いやりの心を育んでいくことは、人格をつくるうえで、最も大切な要件となる。
 「ねばり強い子」をめざすのは、忍耐なくしては、物事の成就も、人間としての大成もないからだ。子どもが人生を勝利していくために、身につけておかねばならない必須の力といってよい。
 伸一は、未来に伸びゆく子どもたちの、健全な精神の土台をつくることこそが、児童教育の最大の眼目であると確信していたのだ。
3  若芽(3)
 入学式は、「ちかいのことば」の発表となった。三年生の代表が壇上に上り、演台を前にして立つ校長に向かった。
 場内は静まり返った。会場中の目が、心配そうに児童に注がれた。
 「待ちに待ったぼくたちの入学式……」
 元気な声が響いた。物おじすることなく、堂々としていた。
 「今日からは創価小学校の子。学園のおにいさんやおねえさんに負けないよう、ぼくたちはがんばります。
 まっ白いできたての校舎、すばらしい教室、ランチルーム、みんな、早くおいでとぼくたちを呼んでいるようです。
 こんなりっぱな学校にかよえるのもお父さん、お母さんのおかげです。お父さん、お母さん、ありがとうございます」
 保護者席で、目を潤ませる父母もいた。
 幼いながらも、親への感謝を語る児童代表の言葉には、心の気高さが感じられた。
 「恩を知る心以上に高貴なものはない」とは、哲人セネカの言葉である。
 「ちかいのことば」は続いた。
 「そして、だれよりも喜んでくださっている山本先生、本当にありがとうございました。
 先生は、ぼくたちの未来のために、根っこになろうとおっしゃいました。
 先生! ぼくたちは必ず未来の使者として、二十一世紀に思いっきりがんばります。
 そのためにも、今日からは小学校のモットー、明るい子、思いやりのある子、ねばり強い子になることをちかいます」
 講堂に大きな拍手が起こり、いつまでも鳴り止まなかった。
 ここで学園の理事の一人が、創立者・山本伸一のメッセージを読み上げた。
 このメッセージは、印刷して新入生全員に配られており、漢字には、振り仮名が振ってあった。
 児童たちは、その声を聴きながら、印刷されたメッセージを、一文字一文字、目で追っていった。
4  若芽(4)
 入学式のメッセージで山本伸一は、児童と保護者らに、心からの祝福を述べたあと、『イソップ物語』の「塩を運ぶロバ」の話を紹介した。
 ――塩を背に積んで運んでいたロバが、川を渡る途中で、滑って転んでしまう。塩は水に溶け、背の荷物が軽くなった。喜んだロバは、今度は、綿を運んでいる時に、また身軽になろうと、わざと川で転ぶ。すると、綿に水が染み込んで重くなり、溺れてしまう。
 この話から伸一は、怠けて、楽をしようとすれば、最後には自分が損をしてしまうことを述べ、こう訴えた。
 「皆さん方もこれから、苦しいこと、辛いこと、重荷に思えるようなことがあるかもしれません。先生に叱られたり、勉強が思うように進まなくて悲しくなる時もあります。友だちとケンカして、悔しくて悔しくてしょうがない時も、きっとあるでしょう。
 しかし、それらのことは、全部、皆さんが大きな人間に成長していくための荷物といえましょう。
 冬の次には必ず春がくるように、悲しいことのあとには、必ず楽しいこと、嬉しいことがやってきます。竹は、どんなに大雪がつもっても、決して折れない。じっとしんぼうして、希望の春を待ちます。
 だからといって、なんでも一人でがまんしていなさいというのではありません。両親と話し合うのもよい。先生や仲のよい友だちに相談するのもよいでしょう。
 皆さんは、これから伸びゆく若竹です。心を大きく開いて、体をきたえ、心をきたえ、竹のようにしなやかで、ねばり強い″がんばり″を身につけていっていただきたい」
 児童たちの目は、キラキラと輝いていた。
 伸一は、まず子どもたちに、困難に挑むという、人としての最も大切な生き方を教えておきたかったのである。
 困難を避ける生き方が身についてしまえば、最終的に、子ども自身が不幸になってしまうからだ。
5  若芽(5)
 山本伸一は、さらにメッセージのなかで、「大いに良い本を読もう」と呼びかけた。
 彼は、小学生の時、貧しくて本が買えなかったため、学校や近所の図書館で、『ロビンソン漂流記』や『宝島』などの本を夢中になって読んだ思い出を記し、児童たちにも世界の名作に親しむよう望んだ。
 哲学者デカルトは綴った。
 「あらゆる良書を読むことはいわばその著者たる過去の世紀の最も円満な人人と交るにほかならず」
 少年時代から良書に触れることは、何ものにも勝る心の滋養となる。
 次いで伸一は、学校生活の決まりや交通ルールなど、社会生活のルールを守るとともに、「いってきます」「ただいま」「おはようございます」「さようなら」など、はっきりとした言葉遣いで、すがすがしいあいさつができるようになってほしいと要望した。
 人生の土台となる、良い習慣を身につけることに、初等教育の大きな意義がある。
 結びに、彼は、こう呼びかけた。
 「皆さん方が、こうして元気に入学式を迎えることができたのも、両親のおかげです。お父さん、お母さんを大切にしてください。兄弟を大切にしてください。
 それと同じように、友だちやほかの人たち、特に、恵まれない、かわいそうな人たちを、大切にしていってください。みんなに対する思いやりを忘れない、大きな、広い心をもった少年であってください。
 皆さんがよく学び、よく遊び、立派な小学生に成長してくださるよう、心からお願いし、私のメッセージとさせていただきます」
 講堂に、児童たちの決意の拍手が、そして、保護者たちの感動の拍手が鳴り響いた。
 最後に、創価学園理事長の青田進が登壇した。彼は、″第一期生″である一人ひとりが、立派な児童に育つことが、良き伝統をつくっていくことになると語り、二十一世紀をめざして、伸び伸びと成長していくように期待を寄せ、祝福した。
6  若芽(6)
 入学式を終えた児童たちは、創価学園の講堂を出て東京創価小学校へ移動した。
 途中、玉川上水に架かる栄光橋を渡り、グラウンドに出た。その隣が小学校である。小学校の校庭で、児童たちと創立者・山本伸一との記念撮影が行われることになっていたのである。
 山本伸一は、この記念撮影に参加するため、立川文化会館から創価小学校に向かっていた。車中、彼は、同乗していた学園の関係者に語った。
 「早く会いたいな! 記念撮影には間に合うよね。子どもたちを待たせるわけにはいかないからね」
 伸一は、児童たちと会えると思うと、嬉しくて仕方なかった。
 彼が小学校に着いたのは、午前十一時半前であった。正門から急ぎ足で校庭に向かうと、ちょうど児童たちが、学年ごとに並び終えたばかりであった。
 王子、王女の、まばゆい笑顔が、伸一の目に飛び込んできた。彼は、思わず手を振り、「ようこそ! ようこそ! 創価小学校へ」と叫んでいた。
 児童たちも、大きな声を張り上げた。
 「こんにちは!」
 彼は、児童の側に行き、心に焼き付けるように、皆の顔に視線を注ぎながら言った。
 「入学、おめでとう!」
 そして、手を差し出し、握手を交わし、一人ひとりに言葉をかけ始めた。
 「お会いできて嬉しい!」
 「今日を楽しみにしていたんだよ」
 「君のことは、忘れないよ」
 はにかんだ笑みを浮かべる子もいれば、元気に自分の名前を言う子、「先生、ありがとうございます!」とお礼を言う子もいた。
 一人ひとりに笑顔を向け、声をかける――そこから、心の扉が開かれる。教育の第一歩は、子どもの心を開くことから始まる。心が閉ざされていれば、心田に苗を植えることはできないからだ。
7  若芽(7)
 山本伸一は、東京創価小学校の児童と、学年ごとに記念撮影し、最後に教職員ともカメラに納まった。
 それから正門の近くに移動し、開校を記念する植樹に臨んだ。用意されていた数本の木のなかに、「王子の木」「ひめの木」と毛筆で書かれた立て札のある、ソメイヨシノがあった。
 この木の名は、前日の八日、伸一が小学校を視察した時に、校長の新木高志に頼まれて、命名したものである。
 伸一が見守るなか、「王子の木」には男子児童の代表が、「ひめの木」には女子児童の代表が土をかけた。
 伸一は、植樹された二本の桜を、じっと見つめながら、子どもたちに言った。
 「二本とも、正門を入ると、すぐ目につくね。この木がどんどん大きくなって、見事な大樹になる時、君たちも社会で活躍するようになっているんだね。楽しみだな。君たちも、この木と一緒に大きくなるんだよ」
 植樹は、心に希望を植えることでもある。
 「では、万歳をしよう!」
 伸一の提案を受け、皆で万歳を三唱した。青空に、児童たちの快活な声が舞った。
 伸一は、子どもたちに語り始めた。
 「私は、皆さんと、毎日、お会いするわけにはいきませんが、創立者として、可能な限り学校に来て、そっと皆さんを見守っていきます。実は、昨日も学校に来たんです。その時、新木校長先生から、今、記念植樹した桜の木をはじめ、道や庭など、学校の各所に名前をつけるように言われました。私は、『少しでも皆さんの学校生活が楽しくなるのであれば……』との思いで、喜んで命名させていただきました。
 グラウンド横の通学路は『おとぎの道』です。校庭は『ほがらか庭園』としました」
 「ほがらか庭園」には、どんな時も朗らかに、強く、伸び伸びと学び、育ってほしいとの願いが込められていた。
 名をつければ、そこに、新しい意味が生まれる。夢が大きく膨らんでいく。
8  若芽(8)
 入学式前日の八日、山本伸一は校長の新木高志に案内され、東京創価小学校の校内を視察した。
 新木は、一九一五年(大正四年)、埼玉県の農家に生まれ、県立青年学校教員養成所に学び、満州(現在の中国東北部)の青年学校などで教壇に立った。戦後、埼玉県の公立中学校の教員になり、小・中学校の教頭、小学校の校長を歴任している。
 彼は、児童・生徒の学力を伸ばすだけでなく、価値を創造する教育の実践を心がけ、将来にわたって幸福を築いていける教育の在り方を探究してきた。また、親の子どもへの接し方についても研究を重ね、その適切なアドバイスは、多くの親から高い評価を得ていた。
 校長時代には、児童が学年を超えて一緒に給食を食べ、そこに、校長も教員も加わるようにした。児童と教員の心が通い合う環境づくりをとの工夫であった。こうした成果が認められ、学校給食の優秀校として、文部大臣賞を受賞したこともあった。
 新木は、定年退職後、地元の公民館の館長を務めていたが、その豊かな教員経験を生かしてもらいたいと、東京創価小学校の校長に迎えられたのである。
 伸一は、新木校長と校内を視察しながら、心から御礼を述べた。
 「創価小学校のためにご尽力いただき、本当にありがとうございます。定年後に、ご苦労をおかけすることになり、胸が痛みます。お体には、くれぐれも気をつけてください」
 伸一が言うと、新木は答えた。
 「人生の総仕上げの時代に入って、山本先生が″最後の事業″と考えられている教育事業に参画させていただけるなんて、夢のようです。これほど嬉しいことはありません。最高の大使命を授かりました。心から感謝申し上げます。微力ではありますが、大切な、大切な児童のために、生涯を捧げてまいります」
 感謝の心から歓喜が湧く。歓喜は意欲と活力と創造の源となる。ゆえに、人生の勝利もまた、感謝から生まれるのである。
9  若芽(9)
 山本伸一と校長の新木高志らが、東京創価小学校の正面玄関前に来ると、教頭の木藤優をはじめ、萩野悦正など、十人ほどの教員が出迎えてくれた。木藤も、萩野も、学会の教育部員として、人間教育の実現のために奮闘してきたメンバーであった。
 教員たちの元気な声が響いた。
 「先生! ありがとうございます」
 「こちらこそ、お世話になります」
 伸一は、教員たちと握手を交わした。
 出迎えた人たちのなかに、制服を着た何人かの児童の姿もあった。
 「入学前なのに、どうして来ているの?
 そうか。入学が楽しみで、待ちきれずに、見学に来たんだね。せっかく来たんだから、みんなで一緒に、校舎を見学しようよ」
 伸一は、こう言うと、校長に案内を頼んだ。
 保健室を過ぎ、いちばん手前にあった一年一組の教室に入った。
 「机も、椅子も、黒板も、新しくて気持ちがいいね。これならば勉強も進みそうだね。座ってみようよ」
 彼は、児童用の小さな椅子に腰掛けた。児童も、教師も座った。
 伸一は、周囲を見渡し、メガネの似合う青年教師に声をかけた。西中忠義である。
 「西中先生! 今日は、児童も来ていますから、授業をしてください」
 西中は、創価女子中学・高校(現在の関西創価中学・高校)の社会科の教員として勤務していた。小学校の教員免許も持っており、東京創価小学校新設にあたって、教員として転勤して来たのであった。
 突然、伸一に言われた西中は、黒板の前に立ったものの、戸惑いを隠せなかった。
 生きた人間を相手にするのが教育である。決してマニュアル(手引書)通りにいくものではない。むしろ、予期せぬ事態の連続といってよい。それにどう対処していくかが、教師としての大事な能力といえよう。
 伸一は、教師には、その対応力を身につけてほしかったのである。
10  若芽(10)
 黒板の前で思案顔で立っている西中忠義に、山本伸一は言った。
 「何をしていいか、困っているようだね。それでは、国語の授業をやってください」
 伸一が助け舟を出した。
 西中は、「はい」と言って頷くと、黒板にチョークを走らせた。
 「みらいのししや」
 彼は、「みらいのししゃ」(未来の使者)と書いたつもりであった。
 西中は、児童たちに語りかけた。
 「これは、あなたたちのことなんです。さあ、読める人は大きな声で読んでください」
 子どもたちは、頭をひねっている。
 その時、伸一が声をあげた。
 「西中先生! それでいいんですか?」
 「はあ?」
 西中は、けげんな顔で伸一を見た。
 「ここで間違っちゃいけません。『みらいのししや』と書いてありますよ。それでは、将来、『獅子屋』という名の店を継ぐことになってしまう。好意的にとらえても、関西弁で、『未来の師子や』と言っていることになる。やはり授業は、標準語でお願いしたい」
 教員たちの間から笑いが起こった。
 伸一は、笑みを浮かべて児童に言った。
 「皆さんは、大切な『未来の使者』であると、西中先生は言おうとされたんです。
 しかし、字を書く時には、こういう字を書いてはいけません。『ししゃ』と書くには、『や』の字は小さく書くんです。
 これは間違いであると教えるために、西中先生は書いてくださったんですよ」
 「えーっ」
 児童から声が漏れた。
 また、笑いが広がった。
 入学式前の東京創価小学校の教室には、まだ、なんの花も飾られてはいなかった。しかし、最初の授業には、ほのぼのとした微笑の花々が咲き薫った。
 教育は、緊張を強いることから始まるのではなく、緊張をほぐすことから始まるのだ。
11  若芽(11)
 山本伸一は、教員たちに笑いながら言った。
 「先生に間違ったことを教えられては困るので、今日は、私が授業をします」
 そして、椅子から立って黒板に向かい、チョークを手にした。
 ――「さいた さいた さくらが さいた」
 彼は、こう書き、児童たちに促した。
 「じゃあ、読んでください」
 子どもたちは、元気な声で読み上げた。
 「うん。上手だね。よく読めたね」
 子どもたちを讃えたあと、今度は、教員たちに語った。
 「私が小学校の最初の授業で習った文章です。忘れないものなんです。当時は、平仮名ではなく、片仮名で教わったけどね。
 最初の授業というのは大事なんです。その時に、子どもたちが、″勉強って面白いな″と思えれば、しっかり学んでいくようになるでしょう。反対に、″なんてつまらないのだろう″と感じれば、勉強嫌いになっていきます。何事も始めが肝心なんです」
 語りながら、彼の脳裏に、小学一年生の思い出が蘇った。ある時、初めて作文を書いた。担任の先生は、「とても上手に書けています」と褒めてくれた。嬉しかった。
 さらに、学年で二人だけ選ばれて、その作文を発表することになった。
 それが自信につながり、書くことに楽しさを感じるようになった。伸一が後年、詩や小説などを好んで書くようになった淵源は、この時にあったのかもしれない。
 教育者でもあったフィリピン独立の父ホセ・リサールは、「一度みんなの前でほめられた子どもは、次の日にはその倍も勉強して来ます」と記している。
 伸一は、児童たちに語った。
 「皆さんは、黒板の文をとてもよく読めましたね。それは、よく勉強していたからです。これから読めない字があったとしても、しっかり勉強していけば、必ず読めるようになるということなんです。皆さんは秀才です」
 自信は、成長をもたらす力である。
12  若芽(12)
 山本伸一は、″最初の授業″に参加した児童たちと一緒に、一階の一年一組の教室を出た。二階に移動し、理科室、図書室、家庭科室、マルチパーパスルーム(多目的教室)、音楽室、放送室を見て回った。
 家庭科室では、東京創価小学校の姉妹校である関西の創価女子中学・高校の数人の生徒が、歌の歌詞などを毛筆で書いていた。
 彼女たちは、春休みで関東方面に帰省していた生徒たちであった。
 ″同じ創価学園に小学校が開校し、弟・妹たちが入ってくることになるのだから、自分たちも入学式のお手伝いをしたい″と、応援を申し出たのである。
 伸一は、その話を教員から聞くと、彼女たちに言った。
 「やっぱり、そうだったか。きっと、皆さんが、手伝いに来てくれるのではないかと思っていたんです。ありがとう!
 私は、そうした心をもつ皆さんに育ってくれたことが、嬉しいんです」
 伸一は、彼女たちに、小学校開校を記念して鉛筆を贈った。
 それから、校長の新木高志に語った。
 「創価小学校でも、他人のことを思いやれる、心の真っすぐな子どもを育てていきましょう。人間の心を失った、冷酷なエリートをつくってしまえば、民衆が苦しみます」
 伸一は、教育の再生といっても、その根本は、温かで優しく、豊かな心を育てることにこそあると確信していたのである。
 マルチパーパスルームでは、教員と卓球をした。教師一人ひとりをよく知り、心を通わせ合いたかったのだ。さらに、音楽室では、ピアノも演奏した。
 伸一は、教員たちを、彼の人間主義教育を分かちもち、学校という現場で実践してくれる同志であると考えていた。いわば、伸一の、さらには恩師・戸田城聖の、創価教育の父・牧口常三郎の分身ともいうべき存在である。
 それだけに、固く強い、心のスクラムを組みたかったのである。
13  若芽(13)
 山本伸一たちは、さらに三階に行き、工作室を見たあと、作法室に入った。
 伸一は、児童たちに語った。
 「今日は、創価中学校と高校の入学記念祝賀会に出て、それから校内を回ってきたんです。一緒に、ここで休憩しようよ」
 畳敷きの作法室で、座卓を囲んだ。
 伸一の前に、コップに入ったジュースが置かれた。彼は、それを、子どもたちに勧めた。コップの位置が児童から遠かったため、気を利かせた教員が、手を伸ばし、児童に渡そうとした。
 「必要ありません! 自分ですることが大事なんです。甘やかしてはいけません」
 伸一に言われて、教員は、慌てて手を引っ込めた。
 児童にしてみれば、飲むように勧められても、ジュースは伸一の前にある。身を乗り出して取るには、気後れがする。でも、喉は渇いている。ジュースは飲みたい。
 では、どうすればよいか――伸一は、子ども自身に考えさせ、行動する力を身につけさせたかったのである。
 生きていくには、どうすればよいのかわからないことに、多く出くわすものである。そうした時に、どう対応していくのか――その″困難解決力″ともいうべきものこそ、実は、よりよい人生を生きるうえで、極めて大切な力といえる。
 女子児童の一人が、緊張した顔で手を伸ばしてコップを取り、喉を潤した。その姿を見ながら、伸一は、教員たちに言った。
 「放任はいけないが、過保護であってもいけません。過保護であれば、人間としてなかなか自立できず、臆病で、挑戦心が乏しい子どもになってしまいがちです。
 子どもの将来を考え、一人ひとりが、幸福な人生を生き抜くために、何が大切かを熟慮し、教育にあたっていくんです。皆さんが、この学校で行っていくことは、子どものための教育革命でもあるんです」
 創価小学校への伸一の期待は大きかった。
14  若芽(14)
 山本伸一は、東京創価小学校の制服に身を包んだ児童たちを見ながら、教員たちに、感慨深そうに語った。
 「東京の創価中学・高校の開校から、ちょうど十年になる。この間に創価大学が開学し、大学院もできた。大阪には創価女子中学・高校も開校し、札幌には創価幼稚園も開園した。創価の人間教育が、各地で輝きを放ち始めています。
 そして、東京の小学校開校によって、創価の一貫教育が完成した。いよいよ、″創価教育″建設の第二期を迎えたんです」
 伸一は、小学校の設立を、創価一貫教育完成の、重要な事業と考えてきた。五年前(一九七三年)の四月に、大阪に創価女子中学・高校が開校すると、次は小学校を設立するよう提案。小学校の設立準備委員会が発足したのは、七四年(昭和四十九年)七月であった。
 創価教育の父・牧口常三郎と、その弟子である戸田城聖が、実際に教壇に立ち、最も力を入れて取り組んだのが初等教育であった。
 それだけに伸一も、小学校の設立に、一段と情熱を傾け、力を注いできた。
 大事業は、一代で成し遂げられるものではない。弟子が、さらに、そのまた弟子が、先師の志を受け継ぎ、創業の思いで、全身全霊を注いでこそ、成就されるものである。
 弟子は、師が道を開いてくれたからこそ、大業に連なることができる。師は、弟子が事業を継承してくれるからこそ、大願の成就がある。永遠なる師弟の流れありてこそ、新しき創価の大潮流がつくられていくのである。
 牧口は、自らの教育実践と思索をもとに、創価教育学の体系をつくり上げた。創価の一貫教育の学校をつくることは、牧口の、さらに、弟子である戸田城聖の念願であった。
 戸田は、牧口の創価教育学を、私塾「時習学館」で実践し、その成果を世に示した。しかし、それは、師の教育思想、教育実践の一端を実証したにすぎなかった。今、戸田の弟子・伸一の手で、幼稚園から大学院までの本格的な創価の教育城が完成をみたのである。
15  若芽(15)
 育の道を示さねばならないと痛感してきた。
 創価女子中学・高校が開校した一九七三年(昭和四十八年)の五月、国際教育到達度評価学会(IEA)が主催した「国際理科テスト」の結果が発表されている。日本は、小学校(参加十六カ国)、中学校(同十八カ国)ともに、スウェーデンやアメリカ、イギリスなどを凌ぎ、トップの成績であった。
 しかし、もろ手を挙げて誇れる状況では決してなかった。当時、「知育偏重」「詰め込み教育」などの指摘が繰り返されていたように、人間教育は忘れ去られていたからである。
 学歴偏重から、国立や有名私立大学の付属中学校、中高一貫の有名校への受験が過熱化し、進学塾通いや模擬テストに追われる小学生が少なくなかった。その学習は、ともすれば暗記中心の詰め込み主義となっていた。しかし、学校の授業だけでは志望校への合格は難しいことから、それが歓迎されていたのだ。
 さらに、学校教育でも、学習内容は次第に盛りだくさんになり、一方で、授業についていけない児童も増えていたのである。
 また、都市開発などによって、遊び場は失われ、皆で遊ぶ子どもたちの姿は、ほとんど見られなくなっていた。児童の体格はよくなっているにもかかわらず、体力・運動能力は停滞の傾向にあり、さらに、虫歯や喘息なども増加していたのだ。
 学齢期にあたる小学生は、学校生活や交友関係のなかで、社会への適応力を培っていくとともに、知的興味も増し、思考力も一段と発達する年代である。また、体力的にも基礎をつくる大切な時期といってよい。
 過熱化する受験競争のなかで、知育ばかりが重視され、徳育、体育はなおざりにされていたのだ。それによって教育は、大きな綻びを見せ始めていたのである。
 教育の根本には、人間をいかにとらえるかという、正しい人間観がなければならない。
16  若芽(16)
 児童の多くの親たちは、″有名中学に入ることが、偏差値の高い有名大学に進むことにつながり、それが一流企業など、社会的評価も高く、高収入で安定した職業に就く道である。そして、そこに人生の幸福がある″との考えに立っていたのである。
 しかし、社会は常に変化を遂げ、企業の永続的な安定を保証するものなど何もない。希望する企業に入ったとしても、必ずしも、希望する仕事に就けるとは限らない。また、長い人生にあっては、人間関係で苦しむこともあれば、病に倒れることもあろう。
 したがって、子どもたちが幸福を築き上げるには、知識だけでなく、どんな事態に遭遇しようが、怯まずに困難を乗り越えていける精神の力や知恵、向上心、挑戦心などを培うことが大切な要件となる。そして、そのための基盤をつくる時代の始まりが学齢期であると、山本伸一は考えていたのである。
 そもそも、牧口常三郎の創価教育学は、教育の目的は、子ども自身の幸福にあるとし、″どうすれば生涯、幸福生活を送らせることができるか″をテーマにしている。
 その幸福生活を牧口は、「価値を遺憾なく獲得し実現した生活」であると定義した。つまり、自身のなかの無限の創造性を開花させて、価値創造の喜びの人生を歩むことが、幸福生活であると考えたのである。
 したがって彼は、知識の切り売りや、暗記中心の「詰め込み教育」に厳しい眼を向け、次のように述べている。
 「教育は知識の伝授が目的ではなく、学習法を指導することだ。研究を会得せしむることだ。知識の切売や注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与へることだ。労せずして他人の見出したる心的財産を横取りさせることでなく、発見発明の過程を踏ませることだ」
 教育は、知識を与えることを目的とするのではなく、自分で考え、自分で得た知識を生かしていく方法を会得するためにあるのだ。
17  若芽(17)
 「詰め込み教育」を見直して、「ゆとり教育」をめざすべきであるという意見は、一九七三年(昭和四十八年)ごろには、次第に大きな声になりつつあった。
 山本伸一は、「ゆとり教育」を検討してみるのもよいが、より重要な問題は、″いかにして、子どもに学習方法をしっかり身につけさせるか″であると考えていた。
 児童が勉強への興味、関心をいだき、自ら学べる素地をつくらなければ、「ゆとり教育」は、結果的に、学力の低下をもたらすだけになりかねないからである。ゆえに彼は、初等教育の新しい道を開こうと、創価教育を実践する小学校の創立を決断したのだ。
 七四年(同四十九年)七月にスタートした東京の創価小学校設立準備委員会は、創価大学・創価学園の理事や教職員、小学校に勤める教育部員などで構成された。
 その二カ月後の九月には、関西にも、創価女子中学・高校の教員を中心に、小学校の設立準備委員会が発足した。創価学園の東西で小学校設立への準備が開始されたのである。
 この年、伸一は、中国とソ連を初訪問している。中国の北京では、新華小学校を訪れ、授業を参観。上海では、小学生の課外活動センターである「少年宮」を訪問し、子どもたちの心温まる歓待を受けた。また、ソ連では、モスクワ六八二小・中学校、課外活動の場である「ピオネール宮殿」も訪れた。世界の初等教育の現場を視察して、子どもたちと交流を図り、さまざまな角度から小学校の在り方を考えてみたかったのである。
 そのなかで彼は、創価小学校は日本一国という視点ではなく、世界の平和に貢献できる、世界市民を育てる学校にしなければならないとの思いを、強くするのであった。
 フィリピン独立の父ホセ・リサールは、自著の小説のなかで、登場人物に、未来には「人間はすべて世界市民になる」と語らせている。伸一は、世界の良心ともいうべき人びとの理想を、実現するための創価教育であると、確信していたのである。
18  若芽(18)
 東京に開校する創価小学校の設立準備委員会では、「二十一世紀を担う人材の育成」を目標の柱と定め、教育の在り方をはじめ、学校の規模や児童数、建設用地などが具体的に話し合われていった。
 一九七六年(昭和五十一年)四月に創価大学の教育学部が開設されることから、当初、東京・八王子市の大学隣接地に小学校を建設することが検討された。
 しかし、交通の便の関係上、児童の通学に時間がかかるため、東京・小平市の創価中学・高校に隣接した、国分寺市北町に建設されることになった。
 設立準備委員会の会議には、山本伸一も創立者として可能な限り出席し、経過報告に耳を傾け、委員たちの労をねぎらった。また、自身の教育にかける決意を語り、皆のいっそうの尽力を念願した。
 七六年四月の設立準備委員会では、「東京創価小学校」を正式名称とすることが決定した。起工式が挙行されたのは、その年の十一月三日であった。創価教育の父・牧口常三郎の三十三回忌となる、十一月十八日を目前にしての起工式である。伸一は、深い感慨を覚え、心で牧口に語りかけていた。
 ″牧口先生! 先生は、国家のための人間をつくろうという教育の在り方に抗して、子ども自身の幸福を実現するために、創価教育を掲げて立たれました。今、その創価一貫教育の学舎が、この小学校の建設をもって、完成を迎えます。
 どうか、新世紀を、五十年先、百年先をご覧ください! 人生の価値を創造する人間主義教育の成果として、数多の創価教育同窓生が燦然と輝き、世界の各界に乱舞していることは間違いありません″
 伸一は、先師・牧口常三郎と、まみえることはなかった。しかし、彼の胸中には、恩師・戸田城聖と共に、常に牧口がいた。戸田を通して牧口を知り、戸田の先師への誓いを、わが誓いとしてきた。誓願の継承こそが、師弟の生命にほかならない。
19  若芽(19)
 それからほどなく、国分寺市教育委員会から、国分寺市北町の建設予定地を史跡指定地とする旨の連絡があった。
 この土地に校舎を建設するには、遺跡調査を行い、出土品等はないことが確認されなければならない。その調査には時間もかかるし、出土品があれば、いつ工事に着手できるかもわからないのだ。そうなれば、七八年四月の開校は難しくなる。
 設立準備委員会のメンバーは困惑した。
 物事は、順調に運ぶとは限らない。いや、何事かを成そうとするなら、必ず予期せぬ困難が生じよう。その時に、活路を見いだそうと、懸命に知恵を絞り、粘り強く努力を重ねていくなかで、より良い、新しい道が開かれていく。それは、仏法で説く「変毒為薬」(毒を変じて薬と為す)にも通じよう。困難や試練に負けず、すべてをバネに、意気盛んに挑戦していってこそ、飛躍と勝利があるのだ。
 また、設立準備委員会の委員たちは、児童の健康のために、教室の窓が南向きになる校舎の建設を希望していた。しかし、国分寺市北町の建設予定地では、敷地の関係から、それが実現できないことが判明した。
 これらの事情を考慮し、創価小学校は、創価学園グラウンド南側の小平市上水新町に変更してはどうかとの意見が出された。この提案は、創価学園理事会に諮られ、検討の結果、決定をみたのである。
 それにともない、全体の設計も大幅に変更された。最終的に、校舎は、鉄筋コンクリート造りの三階建てで、普通教室は十八室。そのほかに音楽室、理科室、工作室、家庭科室、図書室、作法室、保健室、食堂などを備えた、延べ面積約六千二百平方メートルの校舎が造られることになったのである。
 開発の手続きや建築確認申請などを経て、工事が始まったのは、七七年(同五十二年)五月一日であった。
20  若芽(20)
 東京創価小学校の工事が始まった時、開校までの時間は一年を切っていた。山本伸一は、無事に完成することを、日々、懸命に祈った。
 工事は、急ピッチで進められていった。
 一九七七年(昭和五十二年)秋には、教職員も内定し、東京都に申請していた小学校の設置も認可された。
 十一月三日、創立者の山本伸一も出席して、設立準備委員会の最後の会議が、創価大学で開かれた。
 この日、東京創価小学校の校章やモットーが決定した。
 校章は、創価中学・高校の校章である「ペン」と鳳雛を表す「羽」を、「桜の花びら」で囲んだデザインであった。
 また、モットーは、低学年(一年から三年)は、「明るい子」「思いやりのある子」「ねばり強い子」、高学年(四年から六年)は「闊達」「友情」「根性」に決まった。
 明るく大らかな心、周囲の人びとを大切にする優しい心、何があっても頑張り抜く強い心――伸一は、このモットーに、人生を勝利するための指針を示したかった。
 教育は、子どもたちが、より良い人生を生き抜くためにある。ただ知識の習得に終わるのではなく、人間の心を育まねばならないというのが、彼の一貫した考え方であった。
 十一月十九日、創価中学・高校では、創立十周年の記念式典と祝賀会が行われた。
 この祝賀会に出席した伸一は、終了後、創価学園の理事長の青田進、小学校長に就任した新木高志らと、小学校の建設現場に足を運んだ。
 ″工事関係者の方々は、皆、短い工期のなかで作業に全力を注いでくださっている。衷心から、御礼、感謝申し上げねばならない″
 伸一は、建築中の校舎の前で迎えてくれた工事関係者の代表に、深々と頭を下げた。
 「お世話になります。大変にありがとうございます」
 人として忘れてはならぬものは、感謝である。感謝の心をもってこそ信頼が生まれる。
21  若芽(21)
 山本伸一たちは、ヘルメットを被り、工事現場の責任者である鈴木元雄所長の案内で、小学校の校舎を一階から見て回った。所長は、伸一と同世代の、メガネをかけた生真面目そうな壮年であった。
 まだ、天井は張られておらず、何本もの鉄の管がむき出しになっていた。セメントを塗る作業をしている場所もあった。
 この六日後の十一月二十五日からは、創価中学・高校の校舎を使って、小学校の入学選考が行われる。
 開校の日は、次第に迫ってきている。遅くとも三月中旬には、一切の工事が完了しなければならない。″かなりの突貫工事になり、関係者にご苦労をおかけするのではないか″と思うと、伸一の胸は痛んだ。
 伸一たちは、一階、二階と回り、三階に移動し、工作室から外に出た。そこは、音楽室の上であった。創価学園のグラウンドの向こうに、玉川上水に沿って延びる、武蔵野の雑木林が見えた。
 伸一は、作業服に身を包んだ鈴木所長に語りかけた。
 「私は、教育を自身の最後の事業と決めて取り組んできました。東京創価小学校は、未来の社会を担う人材を育む場所です。この学校から、二十一世紀の平和の指導者がたくさん育っていきます。世界にも羽ばたいていきます。校舎は、その成長の舞台です。
 東京創価小学校で学ぶ子どもたちの心には、この校舎とともに、人生の原点が、数々の思い出が、刻まれることでしょう。
 着工が遅かったために、大変にご迷惑をおかけすることになると思いますが、どうか、ご尽力ください。無事故での竣工を、くれぐれもお願いいたします」
 彼は、自分の思いを率直に語り、握手を交わした。鈴木所長の表情が引き締まった。東京創価小学校を建設する意義に、深く感銘してくれたようであった。
 物事の意義を深く理解し、共感することから、ますます大きな活力と闘魂が生まれる。
22  若芽(22)
 所長の鈴木元雄は、作業に追われ、自宅がある神奈川県の鎌倉に帰れぬことも多かった。そんな時は、建設現場に泊まり込んで、陣頭指揮を執った。
 工事途中の教室の床に段ボールを敷き、毛布にくるまって仮眠し、朝を迎えることもあった。
 ″工事は、なんとしても間に合わせる!″
 その鈴木の一念と気迫に打たれ、現場の作業員も懸命に努力してくれた。工事は、ハイペースで進んだ。
 優れたリーダーの要件とは何か。
 それは、まず自らが、絶対に目的を成就すると決めて、率先垂範で物事に取り組むことである。そして、自分と同じ思いで、共に行動してくれる人たちへの、感謝と配慮を忘れぬことである。
 一九七八年(昭和五十三年)の三月十六日、創価高校の第八回卒業式が行われた。この日、山本伸一は、東京創価小学校の近くを車で回った。三階建ての立派な白亜の校舎が姿を現し、完成に向けて、最後の作業が行われていた。
 伸一は、鈴木所長をはじめ、関係者の苦労に深謝しつつ合掌した。
 校舎の竣工引き渡しが行われたのは、三月二十日のことであった。東京創価小学校は、遂に完成をみたのだ。
 伸一は、ここに出席することはできなかったが、創価学園の理事長・青田進から、こう報告があった。
 「鈴木所長も、大きな仕事を成し遂げた満足感を噛み締めるように、感慨無量の表情をされていました」
 「そうですか。鈴木所長には、本当に大奮闘していただいた。所長のお名前と功労を、永遠に残したい。
 たとえば、校内の桜に鈴木所長のお名前をつけて、児童も、教職員も、この木を見るたびに、校舎を建ててくださった方々の苦闘を、末永く偲んでいくようにしてはどうだろうか。私からの提案です」
23  若芽(23)
 山本伸一は、四月九日、東京創価小学校の入学式終了後、「王子の木」「ひめの木」の記念植樹に参加し、一緒に万歳を三唱した。それから、正門を入って、すぐ右側に植えられた一本の桜の前に立った。
 小学校の校舎建設の責任者を務めた所長の鈴木元雄を顕彰する桜である。
 伸一は、桜を見ながら、児童たちに語っていった。
 「この桜は、小学校の校舎を建ててくださった人たちへの、感謝の思いを込めて植えたものです。建設作業の責任者は、鈴木さんという方でした。
 グラウンドだったところに穴を掘り、鉄やコンクリートで基礎を築き、柱を立て、床や壁をつくって、校舎を建ててくださった。
 作業は、たくさんの人が、雨の日も、強い北風の日も、雪の日も続けてくださった。なかでも鈴木さんは、家にも帰らず、寒い建設中の教室に泊まったりしながら働き続けた。みんながおうちで、テレビを見たり、眠っていた時も、ずっと働いてくださった。そうして、こんなに立派な校舎ができたんです」
 児童たちは、何度も頷きながら、じっと伸一の顔を見つめて、話を聴いていた。
 「みんなの周りには、みんなのために、陰で、いろいろな苦労をして働いてくれている人が、たくさんいるんです。
 学校を建ててくださった方もそうです。お父さんやお母さんもそうです。これからお世話になる学校の先生や職員の方たち、また、通学で利用することになる電車の運転手さんや駅員さんもそうです。みんなのために、朝早くから夜遅くまで頑張ってくださっている。その方々のご恩を忘れない人になってください」
 イタリア・ルネサンスの芸術の巨匠ミケランジェロは、手紙に記している。
 「おまえのために働いてくれた人の恩を忘れぬように気をつけるがいい」
 恩を知ることによって人間の道を知り、恩を返すことから人間の生き方が始まる。
24  若芽(24)
 記念植樹に引き続いて山本伸一は、入学記念の昼食会が行われるランチルーム(現在のおとぎ食堂)に向かった。児童、保護者、来賓などを合わせ、七百人の昼食会である。
 ランチルームには、縄跳びや輪投げに興じる子どもたちの姿が、大きく描かれていた。
 児童は、十二人で一つのテーブルに着いたが、少し興奮したのか、はしゃぎぎみの子もいれば、緊張した顔の子もいた。
 しかし、皆で「いただきます!」と言って、食事が始まると、赤飯や唐揚げなどに舌鼓を打ちながら、おしゃべりが弾んだ。
 伸一は、そんな子どもたちの様子を見ながら、校長の新木高志に言った。
 「食事は楽しく、皆で和やかに語り合ってすることが大事ですね。私たちが小学生のころは、食事中にしゃべると、行儀が悪いとしかられたものです。だから、皆、ただ黙々と食べるだけでした。しかも、早く食べる方が良いとされた。軍隊教育を真似ていたんですね。
 しかし、大人になり、社会に出ると、食事は、親睦を深める場であったり、交渉の場であったりする。特に、世界では、食事の際の語らいが大事です。
 したがって、若い時から、しっかりとした食事のマナーや、何を話題にして、どう語るかなどを、身につけていく必要があります。
 第二代会長の戸田先生は、折々に、青年たちを洋食や中華料理に招き、食事のマナーなどを教えようとされた。私も、そうしてきました。中学生や高校生を、ホテルの中にある一流の店に連れて行ったこともあります。
 将来、一流のレストランで食事をしながら交渉事にあたるようになるかもしれない。その時に、気後れしてしまうようでは、十分な働きができないからです。
 私は、常に若い世代を未来のリーダーと信じ、敬意を表し、誠意をもって育んできました。それが教育の根本姿勢ではないでしょうか。人を育てましょう。皆が逸材です。未来の希望は、教育のなかにしかありません」
 伸一の瞳が、輝きを放った。
25  若芽(25)
 子どもたちの食事が終わりかけたころ、創立者・山本伸一からの図書の寄贈が発表された。子どもたちから、歓声と大きな拍手が起こった。
 続いて、創価女子学園を代表して、高校三年の生徒が、マイクに向かった。
 「東京創価小学校の新入生の皆さん、入学おめでとう。たくさんのかわいい弟や妹ができて、私たちは、とても嬉しいです。
 皆さんのかわいい笑顔を思いながら、みんなで、このマスコット人形を作りました」
 マスコット人形は、子どもの拳ほどの大きさで、リスや魚などの形をしており、毛糸やフェルトで作られていた。彼女たちは、児童全員の分を用意してくれていたのだ。
 児童代表の二年生の男子にマスコット人形が渡されると、再びランチルームは、歓声と拍手に包まれた。
 「嬉しいね。ありがとう!」
 最初にお礼を言ったのは、伸一であった。
 同じ創価の園に学ぶ姉として、後輩にあたる小学生の入学を喜び、人形作りに精を出してくれた真心が、彼は嬉しかったのだ。
 学校教育とは、児童と教師の関係だけで成り立つものではない。児童とクラスメート、先輩と後輩、さらに、姉妹校との交流など、あらゆる関係が教育環境となっていく。その広範な人間の結合に、創価一貫教育の誇るべき特長もあるといえよう。
 これらの贈呈に対して、一年生の女子児童があいさつに立った。
 「たくさんの贈り物、ありがとうございます。お礼に、みんなで歌を歌います」
 そして、「春が来た」の合唱となった。
 かわいらしい、元気な歌声が響いた。
 体全体でリズムを取りながら大声で歌う子もいれば、はにかむように上目遣いで伸一の方を見ながら歌う子もいた。
 歌が終わると、伸一は言った。
 「うまい! 上手だね! 私がこれまでに聴いた歌のなかで、いちばん上手でした!」
 子どもたちの屈託のない笑みが広がった。
26  若芽(26)
 東京創価小学校の児童による「春が来た」の合唱のあとは、親子合唱であった。校歌はまだなかったため、山本伸一作詞の「お月さまの願い」を合唱した。歌詞は、創価女子学園の生徒が大きく書いてくれていた。
 ♪静かな 静かな 大空に
  大きな 心を 持ちなさい
  大きな 笑顔を 持ちなさい
  みんなに 語って 満月が
  静かに 静かに 顔出した
 伸一も、教員たちも唱和した。元気な大合唱が、昼下がりの学舎に響いていった。
 合唱が終わると、伸一は、校長の新木高志に語った。
 「創価小学校にも、校歌がほしいですね」
 「はい。皆で準備を進めておりますが、難航しています……」
 新木は、こう言って、過ちを指摘された小学生のような、困惑した顔で伸一を見た。その表情にも、真剣さ、誠実さが感じられた。
 このあと、校長らのあいさつがあり、伸一のスピーチとなった。
 「今日は、初めての入学式であり、これから五十年、百年と続くであろう東京創価小学校の第一歩の日です。永久に、いっさいの原点となる日です。
 私も、校長先生をはじめ、諸先生方と力を合わせ、必ず立派なお子さんに、立派な人に育て上げる決心でございます。その点は、ご安心していただきたいと思います。
 しかし、大学や高校と違い、小学校の場合は、まだ、ご家庭と連携しながら、ともどもに守り、成長させていかなければ所期の目的は達成できません。その意味において、学校としましても、全力をあげますが、保護者の皆様方も、二十一世紀の偉大な人材を、指導者を育てるために、絶大なるご支援、ご後援を心からお願いいたします」
 学校と家庭――この両輪が円滑に回転してこそ、子どもの前進、成長があるのだ。
27  若芽(27)
 東京創価小学校の入学式が行われた四月九日、山本伸一は、児童、保護者らとの昼食会に引き続いて、創価学園の体育館で行われた創価一貫教育完成の祝賀会に出席した。
 これには、札幌創価幼稚園から創価大学までの教職員や在校生、保護者、卒業生、さらには、教職員の父母、また、さまざまな支援者、協力者などが集っていた。
 伸一は、会場の体育館に向かって歩きながら、行き交う人たちに、「おめでとう! ありがとう!」と声をかけた。彼の周りには、瞬く間に人垣ができた。
 「皆さんのおかげで、遂に、創価一貫教育が完成しました。ご尽力に感謝申し上げます。これからが、創価教育の本領発揮の時代です。ますます力を合わせて、二十一世紀を担う世界のリーダーを育てていきましょう」
 体育館に入ると、オニギリ、いなり寿司、みつ豆、フルーツポンチなどの屋台も並び、茶席もできていた。伸一は、屋台の役員をねぎらい、茶席では、創価中学・高校の生徒らと茶を飲みながら、作法を教えた。
 中学・高校の一期生から在校生で構成されるブラスバンドの演奏もあった。伸一も、ドボルザークの交響曲第九番「新世界より」に耳を澄ました。
 伸一は、先輩と後輩が世代を超えて奏でるハーモニーに、「うまいね。一流の演奏です」と言って、拍手を送った。
 教職員の母親、父親とも会った。
 「お子さんの力で、見事な創価学園をつくることができました。生徒たちをお孫さんと思って、どうか長生きしてください」
 彼は、会う人すべてを全力で励ました。
 ″創価一貫教育が完成するまでに、どれほど多くの人びとのご尽力を賜ったことか″
 そう思うと伸一は、関係者一人ひとりに、深い感謝を捧げずにはいられなかった。また、同窓生にも、同じ心をもってほしかった。
 民衆という大地の養分を吸って若芽は伸びる。ゆえに、大樹に育ったならば、大きく枝を広げ、民衆を守り、報恩の誠に生きるのだ。
28  若芽(28)
 創価一貫教育完成の祝賀会は、参加者全員の万歳三唱をもって終了した。山本伸一は、再び東京創価小学校に戻り、幼稚園から大学までの教員の代表と懇談会をもった。
 彼は、ここでも、創価中学・高校の開校から十年、建設期の苦闘を共に担い、人間教育の土台を築いてくれた教員たちに、心から御礼と感謝の気持ちを伝えた。
 そして、教育にかける自分の真情を語っていった。
 「人類の未来のために、最も大切なものは何か。それは、経済でも政治でもなく、教育であるというのが、私の持論です。
 人類の前途は、希望に満ちているとは言いがたい現実があります。長い目で見た時、今日の繁栄の延長線上に、そのまま二十一世紀という未来があると考えるのは間違いです。社会の在り方、さらには、文明の在り方そのものが問われる大転換期を迎えざるを得ないのではないかと、私は見ています。
 したがって、深い哲学と広い視野をもち、人類のため、世界の平和のために貢献できる人間を、腰をすえて育て上げていく以外に未来はありません。そのための一貫教育です」
 伸一は、教員たちに、一貫教育を行うことの、本当の意味をわかってほしかった。
 教育は、未来を見すえることから始まる。
 「いよいよ創価教育の流れは、二十一世紀を開く人間教育の第二期に入ります。各校を盤石なものにしていくうえで、いちばん大切なことは団結です。団結には、中心となる心棒が必要です。
 どうか校長や学長など、中心者を団結の心棒とし、力を合わせて前進し、発展、向上させていくよう、よろしくお願いします」
 ここで彼は、教職員は、中心者を守り、支えるように望む一方で、中心者には、教職員が、どんなことでも言える、和気あいあいとした場をつくっていくように要望した。
 さらに、平和と文化を推進する二十一世紀の指導者を育てるという、″創立の原点″を忘れないでほしいと、訴えたのである。
29  若芽(29)
 「立派な目標を達成するためには、よいスタートを切ることがおそらく一番重要なことだ」とは、山本伸一と深い親交があった、ローマクラブを創立したペッチェイ博士の言葉である。
 東京創価小学校の教職員も、児童も、創立者の伸一が贈った第一回入学式のメッセージを何度も読み返した。
 メッセージのなかで伸一は、読書を心がけて、世界の名作に親しむことや、決められたルールをきちんと守り、あいさつすることの大切さを強調していた。また、両親、兄弟、姉妹、友だちや、恵まれない環境にいる人たちを大切にすることも訴えていた。
 それらを心に刻んだ児童たちは、読書にも挑戦しようと、よく図書室を利用した。名作といわれる本は引っ張りだこであった。
 また、校長自身が、毎朝、登校時に、元気なあいさつで児童を迎えた。児童の方も、校長に負けじとばかりに、元気な声であいさつを返した。日を重ねるにつれて、子どもたちのあいさつは身についていった。
 学年を超えてグループ編成をした給食の時間には、上級生が食事の準備や後片付けの仕方などを教え、よく下級生の面倒をみた。小さな子どもや、友だちを大切にしようという心も育まれていったのである。
 教員たちは、さまざまな面で工夫を重ねた。児童同士が知り合う機会が広がるようにと、毎月、席替えを試みたクラスもあった。
 児童のためになると思われることについては、なんでも話し合った。
 子どもたちに楽しい思い出をつくらせたいと、「子どもの日のつどい」(現在の「こいのぼりの集い」)や「七夕のつどい」(現在の「銀河の集い」)も企画された。
 より多くの角度から、児童を讃える機会が必要であるとの考えから、「よい歯の表彰」なども行われた。
 皆が人材である。それぞれの能力を生かすには、たくさんの評価の基準、つまり、褒め讃える多くの尺度をもつことが大事になる。
30  若芽(30)
 山本伸一は、東京創価小学校の校長の新木高志たちから、折々に、児童の様子について、報告を受けることが楽しみでならなかった。そして、そのたびに、小学校を訪問する機会を待ち遠しく思うのであった。
 伸一が、入学式に続いて小学校を訪問できたのは、七月四日であった。
 この日、正面玄関近くの「天使の庭」に設置された、「エンゼル噴水」の通水式が行われることになっており、学校側から出席の要請があったのである。また、三日後の七日に開催される、「七夕のつどい」のリハーサルも行われるとのことであった。
 午後一時前、伸一の乗った車は、小学校に到着した。
 「こんにちは!」
 子どもたちの元気な声が響いた。五十人ほどの三年生が出迎えてくれた。
 噴水の前には紅白のテープが張られ、既に通水式の準備ができていた。
 「おめでとう! さあ、始めてください」
 男子児童と女子児童の代表がテープカットすると、十六本のノズルから、一斉にエンゼルの像が置かれた中央の台座に向かって、勢いよく水が噴き出した。
 子どもたちの歓声があがった。跳び上がって喜ぶ子もいた。伸一は、その児童たちが、可愛くて、可愛くて仕方がなかった。
 ″この子たちの未来のために、断じて平和の大道を開かねばならない……″
 彼は、固く決意しながら、皆に言った。
 「こうやって一つ一つ、創価小学校の歴史を創っていこうね。生きるということは、自分の歴史を創っているということなんだよ。そして、最高の歴史を創るためには、勇んで困難に挑戦していくことが大事です。偉人というのは、困難に挑んだ人なんです。
 今日は、一緒に、楽しく遊ぼう!」
 彼は、教員の代表との打ち合わせをしたあと、マルチパーパスルームに姿を現した。まだ、体育館がないために、全校的な催しは、この部屋を使って行われていたのである。
31  若芽(31)
 マルチパーパスルームでは、「七夕のつどい」のリハーサルが行われようとしていた。
 山本伸一は、会場に入ると、整列していた児童の前に行き、前列の子どもたちと握手を交わしながら、「今日は、ありがとう!」「久しぶりだね」と言葉をかけた。
 伸一が、用意されていた席に着いた。三年生を代表して男子児童が歓迎の言葉を述べたあと、女子児童二人が作文を発表した。
 一年生の代表は、「私の夢」と題して美しい花の世界の感動を語り、二年生代表は、「私の願い」と題して読書の喜びを述べた。そこには、学校生活の楽しさが滲み出ていた。
 「よかった! 学校が好きなんだね」
 伸一は、嬉しかった。学校教育の成否は、子どもに、″学校を好きになってもらえるかどうか″から始まるといってよい。
 何事も、好きになることから、挑戦への意欲が生まれ、勝利へのエネルギーが湧く。
 それから、全校児童による「きらきらぼし」の合奏となった。ピアノ、オルガン、アコーディオン、木琴、ハーモニカ、リコーダー、カスタネット、トライアングルなどを使っての演奏である。
 「うまいなー。すばらしい!」
 伸一は、大きな拍手をしながら、会場の一隅で、一生懸命にトライアングルを演奏していた四人の児童に声をかけた。
 「トライアングルの人、前へいらっしゃい」
 四人が前に来た。彼は、「いい音だったよ。よく響いていた。どうやって打てばいいんだい」と言いながら、児童の持っていたトライアングルを借りて、何度か打った。
 「これでいいのかい。力は、どのぐらい入れるの? トライアングルは、易しいように見えても難しいね。今日は、隅の方で演奏していたけれど、合奏では大事な楽器だよ。だから、オルガンの人や、ほかの楽器の人と比べて、寂しい思いをする必要はないんだよ」
 伸一は、どんな役割であれ、自分の役割の重要性を自覚し、全力を注いでいくことの大切さを、訴えたかったのである。
32  若芽(32)
 全校児童の合奏のあと、「たなばたさま」「お月さまの願い」の合唱が続いた。声もそろい、元気で見事な合唱であった。司会役の女子児童も、よどみなく、堂々としていた。
 開校から、わずか三カ月だが、児童の大きな成長を感じさせた。
 次いで、校長の新木高志の話が終わると、山本伸一は、児童たちに提案した。
 「せっかくの機会だから、全員で、校長先生をはじめ、先生方に、『ありがとうございます』と言おうよ。先生たちは、いつも、みんなが帰ったあとも、後片付けをし、みんなのことを心配してくださっているんだよ」
 司会の女子児童が頷いて、台に上がって音頭を取り、「先生方、ありがとうございます!」と言った。しかし、児童たちからは、あまり声があがらなかった。皆、気恥ずかしそうな顔をしていた。
 「こういう時は、恥ずかしくても元気な声で言うんだよ。あいさつも、お礼の言葉も、口にするには勇気がいるんです。
 しかし、言わなければ、感謝の思いは伝わりません。また、言ってしまえば、恥ずかしさはなくなるよ。では、もう一度!」
 伸一に促されて、子どもたちは、大きな声で言った。
 「先生方、ありがとうございます!」
 「よくできました。立派なものです。
 お父さんやお母さん、また、お世話になった人には、必ずお礼を言うことが大事です。それが人の道なんです」
 創立者自らが、一生懸命に子どもを躾ける姿に、教員たちは感動を覚えた。
 伸一は、児童たちに尋ねた。 
 「このなかで、お母さんが病気の人は?」
 何人かの手があがった。
 「お母さんが病気だと、いろいろお手伝いもしなければならないし、大変でしょう。でも、その時、お母さんが、″うちの子は、しっかりしているな。立派に育っているな″と思い、安心してもらうことができれば、それが、何よりの恩返しになるんです」
33  若芽(33)
 児童は、やがてランチルームに移動した。山本伸一が用意したアイスクリームを食べるためである。
 伸一もランチルームに行き、一緒にアイスクリームを食べながら、次々と子どもたちを自分の隣に呼び、家庭環境や、学校になじめているかなどを尋ねた。
 また、その間に、子どもたちとコップの水を掛け合うしぐさをして、ふざけ合った。
 児童たちは、最初は、緊張しながら伸一と接していたが、このころになると、すっかり″友だち″になっていた。
 さらに彼は、正面玄関の前に立って、下校していく児童と握手をして、見送った。
 「パパ、ママによろしくね」
 「学校を頼むよ」
 「しっかり勉強するんだよ」
 権威を誇示しての教育は、子どもの心を歪める。魂の触れ合いを通して育った信頼こそが、教育の基盤だ。ゆえに伸一は、児童との接触を何よりも大切にしたかったのである。
 伸一は、午後五時過ぎから、作法室で行われた教職員の代表との懇談会に出席した。
 彼は、児童が健やかに成長し、良い伝統がつくられつつあることに感謝を述べ、皆の意見に耳を傾けた。
 校長の新木高志からは、児童の健康増進のために、体を鍛える工夫を重ねていることや、全校遠足の様子などが報告された。
 また、教頭の木藤優からは、モットーの碑を造るので、低学年と高学年のモットーを揮毫してほしいとの要望が出された。
 「私は、字が下手なので、上手な人に書いてもらった方がいいのですが……。でも、皆さんの希望であり、児童が喜んでくれるのならば、書かせていただきます。すぐ墨と筆を用意してください」
 伸一は、最初に、低学年のモットーである「明るい子」「思いやりのある子」「ねばり強い子」と書き、それから高学年のモットーである「闊達」「友情」「根性」と認めた。
34  若芽(34)
 教職員との懇談会の席上、東京創価小学校の校歌作成についても話題に上った。
 山本伸一が、「どうですか。すばらしい校歌はできそうですか」と尋ねると、校長は、困惑した顔で語った。
 「実は、皆で作詞をいたしましたが、″これは″というものがありませんでした。それで、できましたら、山本先生に歌詞を作っていただければと……」
 伸一は、キッパリと答えた。
 「校歌は、皆さん方で作ってください。私は、あらゆる面から全力で応援し、アドバイスはさせていただきますが、中心はあくまでも皆さんです」
 彼は、校長をはじめ、教員たちに、″すべて自分たちが責任をもって、最高のものをつくり上げていくのだ″という決意と自覚をもってほしかったのである。
 物事は、よく相談して進めることが大事である。しかし、人を頼み、人に甘える気持ちがあれば、いつまでたっても、成長も自立もない。″自分が一切の責任をもって立とう″と決めることから、力が生まれるのだ。
 伸一は、言った。
 「ところで、皆さんが作ったのは、どんな歌詞だったんですか」
 教員の一人が歌詞を取りに行き、封筒を伸一に手渡した。中には、歌詞の書かれた紙が何枚か入っていた。
 彼は、それを丹念に見ていった。ある一枚の紙に、視線が止まった。
 その歌詞は、「いつの日か いつの日か」という言葉で始まっていた。
 「これは、なかなかいいかもしれません。誰が作ったものですか」
 傍らにいた教頭の木藤優が、恐縮した様子で答えた。
 「私が作りました」
 「これを推敲してみてはどうですか。
 私は、このあとも、校長先生と打ち合わせがありますので、その間に、仕上げて持ってきてくだされば、検討します」
35  若芽(35)
 教職員との懇談で、山本伸一が最も詳細に聞きたかったのは、児童の現況であった。
 「長欠のお子さんはいますか?」
 「両親共にいないお子さんは?」
 「母子家庭のお宅は?」
 「父子家庭のお宅は?」
 彼は、矢継ぎ早に質問し、教職員の答えに耳を傾けながら、さまざまな配慮をするようアドバイスを重ねた。時には、保護者宛てに伝言を託した。
 彼は、皆の報告を聞いたあと、しみじみとした口調で語った。
 「経済的に大変ななか、苦労に苦労を重ねて、子どもさんを創価小学校に通わせてくださっている、ご一家もあるでしょう。
 ″わが子に、なんとしても創価教育を受けさせたい!″との、強い、強い、思いから、お子さんを入学させた親御さんもいます。私が創立した小学校だから行かせようと思ってくださった方もいます。その気持ちを考えると、ありがたくて涙が出ます。
 それだけ期待も大きい。ご家族が″本当に創価小に通わせてよかった″と、心の底から喜んでいただける教育をしなければ申し訳ない。どうか皆さんも、そのつもりで、日本一、世界一の小学校をめざしてください」
 児童の家庭は、さまざまであった。
 一年生に有竹正義という児童がいた。体は小柄だが、元気に、よく動き回る、明るい子どもであった。
 両親は、彼が五歳の時に離婚し、母親の富美枝が正義を育てた。
 夫と別れた富美枝は、都区内にあった家を処分して、創価学園に近い東大和市に移った。実母と息子の三人での生活である。
 彼女には、″できることならば、子どもは、創価の学舎で学ばせてあげたい″との思いがあった。
 しかし、経済的には苦しかった。家族三人の生活は、自分の細腕にかかっていた。息子を母に頼み、会社に勤めたが、得られる収入では、食べていくのがやっとであった。
36  若芽(36)
 一九七七年(昭和五十二年)十月、有竹富美枝は、「聖教新聞」に掲載された東京創価小学校の募集要項を見た。
 ″できるなら、創価小に行かせたい!″
 そう思ったが、現実の生活を考えると、とても通わせることはできそうになかった。
 婦人部の先輩と、子どもの小学校入学の話になった時、東京創価小学校をめざしてはどうかと、熱心に勧められた。
 募集要項に記載されていた、授業料などの諸経費を見ながら、頭の中で計算し、生活が成り立つかどうか考えた。
 ″生活費をもっと切り詰めれば、なんとかなるかもしれない。でも、そんなことができるのだろうか。もし、家族のうち、誰かが病気にでもなったら、入院することさえ難しくなってしまう……″
 彼女の心は揺れた。
 婦人部の先輩が、わざわざ、東京創価小学校まで、入学願書を取りに行ってくれた。
 願書を目にすると、″絶対に創価小に行かせたい″との思いが込み上げてきた。
 ″創価一貫教育の学舎をつくることは、初代会長の牧口先生、第二代会長の戸田先生が念願とされ、そして、山本先生が、それを実現されたのだ。今、その創価の師弟三代の大願が、東京創価小学校の開校によって完成をみるのだ!
 子どもの幸福のため、社会の不幸をなくすための創価の人間主義教育とは、どんな教育なんだろう。息子の正義を、ぜひ、この小学校に通わせたい。そして、世界の平和のために挺身する創立者・山本先生の、理想の一端でも担えるような子どもになってほしい″
 彼女は決意する。
 ″お金のことは、なんとかしよう! 親の私が塩をなめてでも、息子を、必ず創価小に行かせよう!″
 彼女が願書を提出したのは、締め切り日の夕刻であった。
 母は強い。母は一途である。母は勇敢である。その母ありて、師子は育つ。
37  若芽(37)
 一九七七年(昭和五十二年)の十一月の下旬、新一年生の入学選考が行われた。
 有竹富美枝は、事前に正義には、「あいさつだけは、しっかりしなさいね。あとは、わからないことは、わからないと言えばいいのよ」と、言い聞かせておいた。
 富美枝は、子どもの正義と一緒に、会場の創価中学・高校へ向かった。
 開校をめざして建設が進む、東京創価小学校を目の当たりにすると、″なんとしても、わが子をこの学校に入れたい″という、強い思いが湧き起こった。
 彼女は思った。
 ″うちは経済的には、決して楽ではない。しかし、子どもは、この創価小学校で学ばせ、立派に育てたい″
 でも、″入学はできないのではないか″という気がしていた。小学生の子をもつ近隣の母親たちから、″私立の小学校は、どこも、家柄のよい、富裕層の子弟しか入学させない″という噂話を、耳にしていたからだ。
 ″それが理由で入学できなかったら……″と思うと、面接の順番を待っている間も、目に熱いものがあふれて仕方がなかった。部屋の片隅で、何度も涙を拭った。
 選考の結果、正義は合格となった。富美枝は、小躍りしたい気持ちであった。貯金をはたいて、入学金や制服代などに充てた。
 大いなる希望と、″本当に生活していけるのだろうか″という不安をかかえながら、正義の入学式に出席した。
 制服に身を包んだ、体の小さなわが子を見た時、彼女は、″これからが私の戦いだ。頑張り抜いてみせる!″と強く心に誓った。
 わが子を思う母親の深き愛は、母親自身の精神の強靱さを培っていく。
 正義が入学してほどなく、知人から、「会計事務所が、事務の人を探している。そこで働いてみないか」という話があった。
 条件もよさそうなので、転職することにした。勤めてみると、仕事量は多いが、給料はそれまでの三倍近くになった。
38  若芽(38)
 有竹富美枝の日々は、激闘であった。
 彼女が勤めた会計事務所は、事務員は二人という小さな事務所であったが、顧客は多かった。
 朝、出勤し、帰ってくるのは、午後十時を回ることも少なくなかった。確定申告の時期が近づくと、さらに仕事は増えた。しかし、その分、家計は楽になり、学費に頭を痛めることはなかった。
 自分がいない間、正義の面倒は母親にみてもらっていた。富美枝は、″どんなに忙しくても、子どもとの触れ合いを大切にしよう″と心に決めていた。学会員である彼女は、仕事で帰宅が深夜になっても、午前六時には正義を起こして一緒に勤行し、言葉を交わし合ってから、学校へ送り出した。
 親が子どもに関わることができる時間は短くとも、心は通じ合える。大切なのは、子への愛情から発する、工夫と行動である。
 山本伸一は、有竹正義の母親が、大変な思いをして、子息を創価小学校に通わせているとの報告を、教員から聞いていた。
 一九八〇年(昭和五十五年)の七月、創価小学校での「銀河のつどい」に出席した伸一は、教員から、有竹を紹介された。
 テーブルを挟んでの語らいであった。
 「そうか、君が有竹君か。いい顔をしているね。握手をしようよ」
 伸一は有竹の手を握り、笑みを浮かべた。
 「そうだ。君に切手をプレゼントしよう」
 四月の第五次中国訪問の折に、お土産として買い求めたものであった。そして、こう言って、もう一つ切手を渡した。
 「こっちは、お母さんの分です。お母さんは、大奮闘されている。生涯、お母さんを大事にするんだよ。立派な人になるんだよ。
 くれぐれもよろしく伝えてください」
 正義は、創立者が、自分の母の苦労を知ってくれていることが嬉しかった。
 苦労を知ってくれる人がいるだけで、勇気を得ることができる。その苦労を讃えられることは、最大の励ましとなる。
39  若芽(39)
 有竹正義は、明るく、のびのびと育っていった。学校が大好きな子になっていた。特に「運動会」や「いもほり大会」の日など、喜び勇んで家を出ていった。
 母親の富美枝は、わが子から、「学校が大好き!」という言葉を聞くたびに、嬉しくて仕方がなかった。″創価小学校に入れてよかった。苦労してきた甲斐があった″と、しみじみと思うのである。
 富美枝は、正義を一、二度、勤務先の会計事務所に連れていったことがあった。正義は、事務所のオフィスコンピューターに数字を打ち込むことに、興味をもった。
 また、母親から、「公認会計士というのは、立派な仕事よ」と、よく聞かされていた。
 一九八四年(昭和五十九年)春、彼は東京創価小学校の第三期生として卒業する。その時、卒業記念アルバムの、「二十一世紀ぼくらの舞台」と題する将来の抱負を記す欄に、「公認会計士」と書いた。公認会計士になって、社会の役に立ちたいとの思いと、母親に楽をさせたいとの強い気持ちがあった。
 中学生になり、公認会計士について話を聞くにつれて、その試験が、いかに難しいものかがわかってきた。しかし、創立者の恩愛に応えるためにも、断じて、自分の抱負を実現しようと、学業に力を注いだ。
 やがて、創価大学の経営学部に進んだ。そして、大学三年の九二年(平成四年)、初挑戦で公認会計士試験に合格したのである。夢が現実となった。長い、長い、母の苦闘も、実を結んだのである。
 逆境とは、自身を光り輝かせるための舞台だ。闇が深ければ深いほど、光はまばゆい。
 教職員との懇談で、山本伸一は、自らの信念を吐露するように語った。
 「創価小学校には、経済的に大変な家庭のお子さんだけでなく、体の不自由なお子さんも入学してくるでしょう。その一人ひとりが、最高の人生を歩めるように、強く、大きな心の子どもに育てていってください。何があっても負けない子どもを育むのが創価教育です」
40  若芽(40)
 一九七九年(昭和五十四年)四月、四年生として公立の小学校から転入学してきた久藤智代は、左足に障がいがあった。
 一歳半の時、踏切で事故に遭い、左脛の中ほどから下を失ったのである。さらに、四歳の時に、母親が他界する。
 父親は、その後、再婚した。新しい″母″は、常に微笑みを絶やさぬ人であった。智代は、継母が大好きになった。
 小学三年生の時、継母は智代に言った。
 「学会の会長の山本先生が創立された、創価小学校というすばらしい学校があるんだけれど、智代ちゃんも受けてみない?」
 それは、父親の希望でもあった。
 東京創価小学校では、開校時、三年生は二クラスでスタートしたが、翌年、新四年生は三クラスにするため、一クラス分四十人の児童を募集したのである。
 久藤智代は、継母の話を聞いているうちに、自分も通ってみたいと思った。
 選考の結果は、合格であった。
 埼玉県の志木に住んでいた彼女は、通学に片道一時間半ほどかかった。志木駅から所沢駅まで、バスで四、五十分ほどかかる。所沢駅から西武新宿線に乗り、一つ目の東村山駅で西武国分寺線に乗り換え、二つ目が創価小学校の最寄り駅となる鷹の台駅である。
 通学は、ラッシュ時と重なり、西武新宿線も、西武国分寺線もかなり混雑している。
 智代は、物心ついた時から義足を使っていた。歩くのに不便を感じたことはなかったが、速く歩くことはできない。ラッシュで押しつぶされそうになりながらの通学は、心身ともに疲れ果てた。
 そんな彼女の疲れを吹き飛ばしてくれたのが、登校時に「おはよう!」と児童を出迎える、校長・新木高志の満面の笑みであった。
 その笑顔に接すると、ほっとするのだ。
 ボリビアの詩人フランツ・タマーヨは詠う。
 「楽しい人生にも不幸な人生にも 最高の支えがある、それは微笑みである」
 微笑は、人の心を和ませ、力を湧かせる。
41  若芽(41)
 東京創価小学校では、担任の若江幸恵が、授業の最初に、久藤智代が義足を使っていることをクラスの皆に説明した。
 ″そのことで、からかわれたりすることのないように″との配慮であった。
 一九七九年(昭和五十四年)秋に、山本伸一が小学校を訪れた時、若江は、久藤を伸一に引き合わせた。
 伸一も、足の不自由な児童がいることを聞いており、会いたいと思っていたのだ。
 久藤には、どこまでも強く生きていってほしかった。人生には、辛いこと、悲しいこと、苦しいことはたくさんある。また、皆が善意の人とは限らない。むしろ、人の心を平気で傷つけたり、蔑んだりする人がいかに多いことか。
 だから、何があっても負けない″強い心″をもつことが、幸せの要件となるのだ。
 伸一は、久藤に語った。
 「足が不自由で、″辛いな″と思うこともあるかもしれないが、それを乗り越えていった時には、誰よりも″強い心″″輝く心″がもてるようになるんだよ。
 あなたは、ヘレン・ケラーという人を知っているかい。目も見えない、耳も聞こえない、話すこともできないという三つの苦しみを乗り越えて、人びとに大きな希望と勇気を与えた女性だよ。
 サリバンという先生の教えを受けて、字を覚え、勉強し、アメリカで最優秀の女子大学で学んだんです。そして、世界各国を回って講演するとともに、体の不自由な人などのために、社会福祉事業に貢献したんだよ。
 ヘレン・ケラーは、自分の運命を、人びとのために尽くしていく力に変えていったんです。そこに彼女のすばらしさがある。
 あなたも、しっかり勉強して、ヘレン・ケラーのような人になるんだよ」
 伸一の言葉は、久藤の胸に深く染みた。
 めざすべき模範と理想がある人は強い。その人の心には、逆境の暗夜にあっても、希望の光が差し、勇気の火が燃えているからだ。
42  若芽(42)
 山本伸一は、久藤智代への接し方について、教師たちに語った。
 「彼女については、こまやかな心配りをしていくことが大切ですが、特別扱いをすべきではありません。ほかの児童と同じように、なんにでも挑戦させるようにしてください。
 そうでないと、社会で自立することができなくなってしまいます。そうなれば、本人がかわいそうです」
 人間として子どもを自立させていくことにこそ、教育の眼目があるのだ。
 また、伸一は、折に触れ、久藤に励ましの言葉をかけた。一緒に記念のカメラに納まったこともあった。
 彼女は、大学卒業後、大手商社勤務を経て結婚する。義母の介護を経験したことが契機となり、やがて福祉の道を志すことになる。
 久藤と同じ学年に本川雅広という児童がいた。彼が五年生になった時、父親の経営する印刷会社が倒産した。
 父親は、しばらく前から、家にも帰らずに働き続けたが、事業の窮地を脱することはできなかった。倒産する前日、人目を忍ぶようにして、家族全員が祖母の家に集まった。
 父親は、雅広の顔を見すえ、意を決して語り始めた。
 「実は会社が倒産する。私は、みんなと離れて暮らすことになる。でも、いつか一緒に住める日がくるから大丈夫だ。また、学校の授業料や生活費は、私が働いて必ず送るから、心配するな。お母さんと妹を頼むぞ!」
 そう言い残して父親は、姿を消した。
 それからほどなく、一家は、ひそかに転居した。移転先は一軒家であったが、古びた、″あばら家″のような家であった。日は当たらず、壁にはカビが生え、風呂も壊れていて使えなかった。家にはテレビもない。
 父親個人にも莫大な借金が残っていた。その取り立ての手がかりをつかむために、子どもの本川雅広の住所などを聞き出そうとする電話が、小学校にもかかってきた。
43  若芽(43)
 「児童の本川雅広に会いたい」と言って、風体のよくない、目の鋭い男が、学校に訪ねてきたこともあった。
 応対に出た教員は、きっぱりと答えた。
 「お父様の負債の件で、児童と会わせることはできません。本来、子どもとは関係のないことです。また、児童の住所、連絡先等も教えられません。お引き取りください」
 それでも、どこかで待ち伏せをして、尾行したりするのではないかと、心配でならなかった。本川は、サッカークラブに入っていたため、下校時刻が遅くなることもあった。そんな時は、教師が鷹の台駅まで、皆を引率していった。駅などに、怪しい人物がいないことを確認して、電車に乗せた。
 本川のことは、山本伸一も教師から報告を受けていた。ある日の放課後、児童たちへのお土産の玩具を持って、小学校を訪れた。
 彼は、下校していく児童に玩具を渡して見送りながら、教員の一人に言った。
 「もし、本川君が残っているようなら、呼んできてください」
 教員に連れられて本川がやって来た。
 「君が本川君か。全部、聞いたよ。大変だね。でも、いちばん苦しんでいるのは、お父さんだよ。今は、″いやだな″″困ったな″と思うこともたくさんあるだろうが、将来、それが自分の宝物になる時がきっとくるよ。偉くなった人は、みんな苦労しているんだよ。
 お父さんに代わって、お母さんや妹さんをしっかり守ってね」
 伸一は、彼に、ロボットアニメの主人公の人形を贈った。父親も、母親を通して、伸一がわが子を励ましてくれたことを聞いた。
 ″本当に申し訳ない″と思った。
 倒産から半年後、父親は決断した。
 ″もう身を潜めて生きることはやめよう。家族と一緒に暮らそう。債権者と会って、誠心誠意、話し合って、借金は、いつまでかかろうが、どんなに苦しかろうが、返済していこう。人間として、子どもたちに胸を張れる生き方をするんだ!″
44  若芽(44)
 本川雅広の一家の生活は、困窮を極めた。
 贅沢な食事など、いっさい口にすることはなかった。彼は、「焼き肉」といえば、″たくさんのモヤシを焼いて食べるもの″と思っていた。また、衣服のほとんどは、親戚などからのもらい物で過ごした。
 本川の両親は、懸命に働き、家計を極限まで切り詰めて、中学、高校、大学と、彼に創価一貫教育を受けさせた。雅広より二歳下の妹も、高校と大学は、創価の学舎に通わせた。″どんなに貧しくても、山本先生の創立した学校で、創価の人間教育を受けさせたい″との思いからであった。
 雅広は、大学時代、ラテンアメリカ研究会に入り、スペイン語を猛勉強し、アルゼンチンのブエノスアイレス大学に留学した。
 卒業後は、大手翻訳会社に勤務したあと、自ら翻訳会社を設立。世界平和を願い、文化の交流に寄与していくことになる。
 山本伸一は、東京創価小学校の開校以来、逆境に立たされた児童がいると、自分の生命を削る思いで励ましてきた。最も苦しんでいる子どもの力にならずして、教育の道はない。人間の道はない。
 開校から七年余りが過ぎた一九八五年(昭和六十年)七月十七日、伸一は創価学園の栄光祭に出席した。その折、小学校三年の林田新華と、弟で一年の弘高を呼び、語らいの機会をもった。前日、母親の林田千栄子が他界したことを聞いたからだ。母親は、かつて、学会本部の健保組合健康管理相談室の看護婦(現在の看護師)をしており、伸一も、よく知っていた。父親の林田一徳は、公認会計士として社会の第一線で活躍していた。
 母親は、前年の暮れ、直腸に癌が発見された。一カ月後、手術をしたが、周辺にも浸潤が見られ、病巣を取り切ることはできなかった。医師は「余命三カ月」と告げた。
 母親は退院し、術後六カ月を経た時、再び入院した。幼い子どもたちにとっても、過酷な宿命の嵐であった。しかし、それに負けない強さをもたずして幸福はない。
45  若芽(45)
 一九八五年(昭和六十年)七月十六日朝、林田新華と弘高の姉弟は、創価小学校に登校する前、母親の千栄子が入院する病院を訪れた。母は、優しい笑みを浮かべて、子どもの手を握り、学校へ送り出した。
 その午後、母親は、笑っているような顔で、安らかに息を引き取ったのだ。
 山本伸一は、訃報を聞きながら、幼い二人を残して他界した母親に安心してもらうためにも、生涯、子どもたちを見守り続けていこうと思った。そして、翌十七日、彼は、栄光祭の折に、登校していた子どもの新華と弘高に会ったのである。
 「お母さんは、ずっと生きているよ。心の中に生きているから、大丈夫だよ。私の奥さんをお母さんと思えばいい。私をお父さんと思って。二人のお父さんがいるんだ。何も、心配はいらないよ」
 その言葉に、新華と弘高は目を潤ませた。
 伸一は、二人を抱き寄せた。
 「泣いちゃいけない! 師子の子だから。負けちゃいけない。強くなければいけない。勇気が大事だよ」
 二人は、泣くまいとするが、その目から、ぽろぽろと涙があふれた。
 伸一は、母親が入院中であった、この年の三月に行われた卒業式記念会食会にも新華を呼び、隣の席に座らせ、こう励ましている。
 「お母さんが入院していて大変だろうが、頑張るんだよ。勇気をもって、負けない子になるんだよ」
 また、母の千栄子の葬儀には、伸一に代わって妻の峯子が参列し、新華に励ましの言葉を贈った。
 「お母さんのように立派な人になってね」
 真心の声が、勇気を呼び覚ます。
 林田新華・弘高の姉弟は、″師子のように強く、勇気をもって生きよう″と、深く心に誓ったのである。
 後に姉の新華は、母親と同じ道を歩もうと看護師となり、また、弟の弘高は、聖教新聞社の記者となる。
46  若芽(46)
 一九七八年(昭和五十三年)七月四日、東京創価小学校の作法室で、創立者・山本伸一と教職員の懇談会は続いていた。
 伸一は語った。
 「教育の成果は、十年後、二十年後、いや三十年後、五十年後、百年後に出る。長い目で見ていくことが大事です。
 教師という仕事は、なぜ尊いのか――それは、世界の未来を担う仕事だからです。次代の一切が、皆さんの双肩にかかっているからです。どうか、教師として、その誇りをもって、教育技術の習得に励んでください」
 教師が、教育への情熱を燃やすことは、教師として必須の条件である。そして、その情熱を有効に生かしていくには、教育技術の習得への、不断の努力が必要である。情熱と、技術の向上があってこそ、教育の進歩はある。
 「教育は最優最良の人材にあらざれば成功することの出来ぬ人生最高至難の技術であり芸術である」とは、創価教育の父・牧口常三郎の言葉である。
 懇談会は、午後六時半に終わった。
 伸一は、このあとも小学校に残って、校長らと打ち合わせを行った。
 その間に、教頭の木藤優は、校歌の歌詞を完成させようと努めた。しかし、歌詞を仕上げることはできなかった。午後八時半、小学校から帰る伸一を見送りに出たが、玄関の隅の方で小さくなっていた。
 すると、伸一の方から、木藤に声をかけた。
 「校歌は、焦らずに、ゆっくり作ればいいですよ。重く考えるのではなく、軽やかな心で作ってください。児童に寄せる皆さんの心を、そのまま率直に歌詞にしてください。それが、私の心でもあります。こう言えるのは、皆さんの心が、私と一体だからです。そこに創価小学校の強さがあるんです。
 また、歌詞の案に、『創価小学校』とありましたが、ここは、特に軽やかに、舞い飛ぶようなイメージの調べにしてはどうでしょうか。
 教員の皆さんは、全員が創立者です。私と同じ心で進んでください。頼みます」
47  若芽(47)
 教頭の木藤優は、夏休みに入っても、日々、呻吟しながら、東京創価小学校の校歌の作詞に余念がなかった。何度となく推敲を重ねたが、なかなか納得できるものにはならなかった。ようやく山本伸一に歌詞を提出したのは、八月末であった。
 一、いつの日か いつの日か
  ともに誓った この日の出会い
  小鳥がうたう 武蔵野原に
  明るくつどう このまなびやは
  われらの創価 創価小学校
 二、いつの日も いつの日も
  はげみ学ぼう 大樹をめざし
  くぬぎ林に 北風吹くも
  未来をつくる このまなびやは
  われらの創価 創価小学校
 三、いつまでも いつまでも
  大空あおぎ 手をとりあって
  心にひめる ぼくらの誓い
  富士も見つめる このまなびやは
  われらの創価 創価小学校
 一番には、遠い過去からの誓いのもとに、この小学校に集い合った喜びが歌われていた。
 人間と人間が出会い、共に学ぶのは偶然ではない。過去世からの深い縁がある。そこに眼を向け、人の絆を大切にしていこうとする心が、強い友情を育む。
 二番には、大樹をめざし、日々、努力を重ねて、困難を乗り越えていこうとする気概があふれていた。そして、三番には、大志を胸に、互いに励まし合い、人生の誓いを果たそうとする決意が脈動していた。
 また、一番は「明るい子」、二番は「ねばり強い子」、三番は「思いやりのある子」という、低学年のモットーがイメージされていた。
 伸一は、歌詞の案を見て、やさしい言葉のなかに、東京創価小学校のめざすものが端的に表現された詞であると思った。
48  若芽(48)
 山本伸一は、木藤優が作詞した校歌の案を見ると、「これで作曲を進めてはどうか」と伝えた。この校歌は、東京創価小学校の音楽教師である本杭克也が作曲し、十月に発表されることになる。
 伸一は、創価小学校の児童らと、会いたくて会いたくて仕方なかった。小学校に行ける日が待ち遠しかった。
 子どもが大好きになる――それが、教育者に求められる最も大切な資質といえよう。
 伸一の小学校訪問の機会は、なかなか訪れなかった。彼のスケジュールはぎっしりと埋まり、二学期に入った九月の十一日には、第四次となる中国訪問に出発した。二十日に帰国すると、本部幹部会など、学会の諸行事をはじめ、北京大学の学長や駐日イギリス大使らとの会見が続いていた。
 伸一が、ようやく児童と会うことができたのは、十月一日に行われた第一回運動会であった。午前十一時半、運動会が行われている創価学園のグラウンドに彼が姿を現すと、子どもたちの大歓声が舞った。
 握手を求めて手を差し出す子もいれば、体にまとわりついてくる子もいた。
 「皆さんと会いたかったよ。今日は、お土産にタイ焼きを持ってきたからね」
 彼は、児童が差し出す手を握り、皆のなかに飛び込んでいった。
 午後、伸一は、教職員と同じ運動着に着替えて、競技の応援をした。
 綱引きやリレーのあと、来賓参加競技「手をとり合って」になった。大人と児童が向き合って手を取り、おなかにビーチボールを挟んで、ゴールに向かうという競技である。
 「よし、ぼくもやろう!」
 伸一は、自らグラウンドに出た。教師たちは、創立者に参加してほしかったが、言い出しかねていたのである。
 リーダーは、企画を成功させ、皆に喜んでもらうために、なんでも率先して行っていくことだ。権威も、見栄も、さっさと脱ぎ捨てる覚悟なくしては、信頼は生まれない。
49  若芽(49)
 創立者の山本伸一が来賓参加競技に出場しようとグラウンドへ出て行くと、学園の理事や創価大学の中国人留学生らも後に続いた。
 競技が始まった。伸一は、児童とおなかでビーチボールを挟み、「ソレッ!」と掛け声をかけて走り始めた。二人は息が合っていた。どんどんスピードを上げ、他の組を大きく引き離して、トップでのゴールインとなった。
 しかも、ゴールしたあとも勢いを落とさずに、そのまま保護者席まで走った。父母たちは歓声をあげた。
 伸一は、保護者席で言葉を交わした。
 「お父さんも、お母さんも、参加できるものには、どんどん参加してください。それが子どもの思い出になっていきます」
 競技やゲームに、両親が子どもと一緒に夢中になることができれば、親子の距離は、ぐっと縮まる。
 親は、自分でも気づかないうちに、「父の顔」「母の顔」のみで子どもと接してしまう。しかし、家族といっても、その基本になくてはならないのは、ありのままの人間対人間としての信頼関係である。
 子どもは、両親が童心に帰って自分をさらけ出し、競技やゲームに熱中する姿を見ることによって、親も自分と同じ存在であることを知る。そして、自分をそのまま表現し、ありのままに生きることを肯定できる考えが培われていく。
 保護者席にいた山本伸一の周りに、いつの間にか、子どもたちが集まってきた。三、四歳の子から小学校の高学年ぐらいまでの子ども二、三十人である。創小生の兄弟や姉妹、近隣の人たちの子弟などであろう。
 「よーし、みんなで行進だ!」
 伸一は、こう言うと、その子どもたちを引き連れ、一緒にグラウンドを歩き始めた。グラウンドは、競技の合間で誰もいなかった。
 皆、他校の子どもたちであるが、どの顔も楽しそうに、笑みの花を咲かせている。
 「行進は、掛け声が大事だよ。さあ、元気に声を出して! イチ、ニ、イチ、ニ……」
50  若芽(50)
 山本伸一は、皆で声を合わせて行進しながら、見学に来ていた子どもたちに、次々と言葉をかけていった。
 「みんなも、おいでよ」
 一緒に歩く子どもの数は増え、四、五十人に膨らんだ。伸一と他校の子どもたちの行進に、創価小学校の児童から拍手が起こった。
 伸一は頷いた。
 ″これが大事だ″と思った。
 他校の児童のなかには、創価小学校に入学したかったが、選考でもれてしまった子どももいるかもしれない。あるいは、創小生になった弟や妹を、羨望の思いで見ている子どももいるにちがいない。
 ″創小生は、そうした人たちの心を汲み、その人たちの分まで頑張れる人になってもらいたい″というのが、伸一の願いでもあった。
 彼は、一緒に歩いている子どもたちに、声をかけた。
 「親孝行して、勉強もしっかり頑張って、人間として、偉い人になるんだよ」
 また、幼児には、「みんな、この学校においでよ。待っているよ」と語りかけた。
 運動会はフィナーレとなり、全校児童による演技「開校のよろこび」が始まった。
 学校建設の歩みを語るナレーションに合わせ、グラウンドいっぱいにマスゲームが繰り広げられた。
 伸一は、演技を見ながら、子どもたちの成長に目を細め、教師に言った。
 「立派です。しかし、少し出来すぎのようにも思います。子どもたちが一生懸命に頑張るのはすばらしいことですが、型にはめて高い完成度を求める必要はありません。
 のびのびと、自由な雰囲気のなかで育てることです。もっと肩の力を抜き、力みすぎないようにすることも大事なんです。
 育むべき根本は、自主的、主体的な意欲です。美しい盆栽を育てるのではなく、大自然のなかで大地に深く根を張り、天に伸びる、堂々たる大樹を育てようではありませんか」
51  若芽(51)
 運動会は、やがて閉会式に移った。
 新木校長、来賓のあいさつのあと、山本伸一が演壇に立った。
 「今日は、ちょっと難しい話をします。児童の皆さんよりも、むしろ、保護者の方にお話し申し上げたいと思います。
 昨日、私は、筍を育てる名人と会いました。その方が、こう語っていたことが、深く印象に残っております。
 『多くの方は、″筍というのは、毎年、五月ごろになって初めて生長し、立派に大きくなる″と思っているようですが、それは間違いなんです。
 実は、収穫する年ではなく、前年の七月、八月ごろに、地下茎に小さな芽ができる。これで勝負が決まってしまうんです。四月とか、五月というのは、一つの結果としての姿を見るにすぎません』
 この話を聞いて、私は感銘しました。
 というのは、人間も同じだからです。小学校時代の教育が、将来の大成を決める、大事な時期になるからです。
 その意味において、私は、今日の運動会を見て、皆さん方のお子さんがすくすくと成長している姿に、大成の芽が育っているとの確信をもち、本当に安心いたしました。
 私は、創立者として、この小学校の児童から、絶対に、人生の落伍者を出すことなく、全員が立派な社会のリーダーに育っていくよう、最大の力を注いでまいる決心です。これからも応援をよろしくお願い申し上げます」
 伸一の深い決意に、保護者も教職員も、胸を熱くした。
 詩聖タゴールは、さまざまな困難を乗り越えて創立した学校を、自身と″不二″であると宣言し、「この学校の成長は私の人生の成長」と語った。
 伸一も、東京創価小学校をはじめ、創価一貫教育のすべての学校と自分とは、″不二″であると思っていた。
 そして、児童の成長、卒業生の社会での活躍を、最高の生きがいとしていたのである。
52  若芽(52)
 運動会のあと、山本伸一は、東京創価小学校の作法室で、教員たちと懇談した。これには、関西の創価女子中学・高校などの教員も出席した。
 伸一は語った。
 「今日、私は、他校の小学生らと一緒にグラウンドを回りました。それは、運動会に茶々を入れたかったからではありません。
 創価小学校の児童は大事です。しかし、創価小学校に入れなかった子どもも、私にとっては、大事な人たちなんです。それを知ってもらいたかったからです。
 また、児童にも、自分たちだけが特別であるかのように考えるのではなく、″みんな一緒なんだ。平等なんだ″という意識をもってほしかったからです。
 これは、先生方にも、お願いしたいことなんです。教員が特権意識をもてば、児童もその影響を受けます。創価学園は、民衆から遊離したエリートを育てることが目的ではありません。民衆に奉仕する英才を育てるための学園です。
 また、教育の場にあっては、形を整えることより、実質が大事です。もちろん形式も必要でしょうが、実質のない形式であっては意味がありません。
 たとえば、運動会でマスゲームをやる。きちんとそろった、一糸乱れぬ演技をめざすことはいいでしょう。しかし、それは、一つの目標にすぎない。
 この目標に向かっていくなかで、児童の体力の向上を図り、協調性を培うことなどが獲得すべき課題です。さらに、児童が、「どうすれば皆が団結できるのか」「テンポが遅れてしまう友だちがいたら、どうやって皆で応援すればよいか」などを、自分たちで考え、何かをつかんでいくことが大切なんです。
 子どもたちの人間的な成長を離れて、教育はありません。しかし、体裁ばかり考え、立派な演技をさせることが先行してしまうと、形式を追い求め、その実質が、ないがしろにされてしまう。それが怖いんです」
53  若芽(53)
 山本伸一は、教育にとって大事なことは、安易に結果を求めるのではなく、物事のプロセスを習得させることにあると思っていた。
 たとえば、言葉の意味を知ることは、教育の大切な目標であるが、単に意味を教えることだけに終わってはならない。児童が、自分で辞書を引けるようになり、調べることの面白さを知ることができてこそ、教育であると、伸一は考えていたのだ。
 また、理科の実験を行った場合、必ずしも教科書通りの結果が出るとは限らない。むしろ、なぜ、教科書と異なる結果が出たのかを探求していくなかにこそ、教育はある。
 児童を結果のみで評価しようとすれば、その評価の基準は、極めて限られ、画一化されたものになってしまう。しかし、プロセスを評価しようという目をもつならば、より多くの可能性を見いだすことができよう。
 伸一は、東京創価小学校をはじめ、創価学園の教師たちは、形式主義を排して、人間を育てるという実質に着目した教育を、実践してほしかったのである。
 伸一の、次の東京創価小学校訪問は、運動会から約一カ月後の十一月二日であった。
 彼は、この日、創価中学・高校の「鳳友祭」に出席する予定であった。その前に、小学校に立ち寄ったのである。
 伸一は、創立者として、一人ひとりの成長への責任を感じていた。いや。子どもたちの人生への責任を感じていたといってよい。その責任感は、″少しでも児童の様子を知りたい″との強い思いとなり、間隙を縫うようにしての訪問となったのだ。
 強き責任感は、即行動となって現れる。行動のともなわぬ一念はない。
 午後一時前、伸一が小学校西側の通用門付近で校長らと話していると、彼の姿を見つけた児童が、「先生!」と言って、外に飛び出してきた。そして、大勢の子どもたちが、次々に「こんにちは!」と、元気な声であいさつしながら集まってきた。
54  若芽(54)
 山本伸一は、校長の新木高志や児童らとグラウンドへ向かった。
 伸一の周りに集まった児童たちは、歓声をあげて彼にしがみついてきた。
 「わかった、わかった! みんな、私を待っていてくれたんだね。では、相撲を取ろう」
 「ワァー」と、声があがった。
 伸一は、一年生の児童と相撲を取った。すると、皆が突進してくる。彼の新しい背広が、もみくちゃになってしまった。
 「降参、降参! 今日は、みんなで記念撮影をして終わりにしよう」
 新木校長が、恐縮しながら言った。
 「先生。子どもたちが非礼な振る舞いをして、申し訳ありません」
 「いいんです。まず、元気で率直であることが大事です。自分の思いを体で表現し、ぶつかってくる。子どもらしいではないですか。ましてや、私は創立者です。みんなの父親であると思っています。私と創小生との間には、垣根も、敷居もないんです。
 率直に、のびのびと、自由に自己表現できるようにしたうえで、礼儀を教えていけばいいではありませんか。人前に出ると緊張し、借りてきた猫のようになってしまうのでは、堂々たるリーダーには育ちません」
 全校児童がグラウンドに集まり、伸一と一緒に記念のカメラに納まった。
 「みんなが元気で嬉しい。また、お会いしましょう」
 こう言って伸一は、校舎に入り、保健室をのぞいた。休んでいる児童は誰もいなかった。
 彼は、校長らに語った。
 「保健室に来た子どもには、こまやかな注意を払ってください。たとえば、頭痛を訴える児童がいたとします。風邪や睡眠不足などによることもあれば、精神的なストレスによる場合もあります。また、大きな病の初期症状ということもあるでしょう。先入観で″大したことはないだろう″と考えるのではなく、さまざまな事態を考慮しての対応が大事です。それが、児童を守ることにつながります」
55  若芽(55)
 保健室で山本伸一は、さらに話を続けた。
 「近年の傾向として、家庭や学校生活で悩み事があり、それが過度の緊張やストレスとなって、体調を崩す児童が増えていると聞いています。したがって、子どもが保健室に来たら、何か悩み事はないかも、よく聞き、精神的な面にも注意を払ってください。
 保健室には、教室で見せる児童の顔とは違う顔があります。そこで話を聞くなかで、さまざまな問題が発見できることもあります。子どもの訴える体の不調は、心のSOSの発信である場合も多いんです。
 ともかく、児童が訴える症状の背後にあるものを、また、児童の内面を、しっかりと見すえていくことです。
 そして、保護者ともよく連絡を取り、先生同士でも話し合いを重ねて、的確に対応していってください」
 伸一は、その後も創価小学校を訪れた折には、しばしば保健室に足を運んだ。擦りむいた児童の足を消毒し、励ましたこともある。
 彼は、校長をはじめ教職員に全幅の信頼を寄せ、小学校の運営や教育は、すべて任せていた。しかし、皆の目の届かぬところがあれば、自分が補い、支えようと心に決めていたのだ。檜舞台に立つより、陰で黙々と舞台を支える裏方に徹する――それが創立者であるというのが、彼の信念であった。
 年が明けて一九七九年(昭和五十四年)の三月三日、山本伸一は、創価学園講堂で行われた東京創価小学校の第一回「児童祭」に出席した。
 このころ、私利私欲にむしばまれた反逆者らが、宗門の僧と手を組み、学会の支配をもくろむ謀略が進められていたのである。
 それは、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を実現しようとする創価の師弟に、襲いかかった試練であった。
 そのなかで伸一は、人類の、世界の、未来を見すえ、創価小学生ら次代を担う子らの励ましに、生命を燃やしていたのである。
56  若芽(56)
 「児童祭」では、一年生のオペレッタ(歌劇)、二年生のリズムダンス、三年生の演劇などが披露された。山本伸一は、児童の熱演と成長に目を細め、心から拍手を送った。
 あいさつに立った彼は、こう語り始めた。
 「創価小学校で学んだ人のなかから、人類を救っていくであろう指導者がたくさん出ると、私は信じております。その意味から、今は、わかっても、わからなくてもいいので、人の生き方について、お話しします」
 彼は、『イソップ物語』に出てくる「ロバを担いだ親子」の話をした。
 ――市場にロバを売りに行くため、親子がロバを引いて歩いていると、村の娘たちが、「ロバに乗っていけばいいのに」と笑った。
 それを聞いて、父親は、子どもをロバに乗せて歩き始める。すると、やって来た父親の友だちに、「子どもを甘やかしてはいけない」と注意される。父親は子どもを歩かせ、自分がロバに乗る。しばらく行くと、若い女性から、「自分は楽をして、小さい子どもを歩かせるなんて、ひどい父親だ」と非難される。親子は、二人でロバに乗る。
 さらに、教会の前で牧師から、「ひどい親子だ。ロバが疲れて弱っているじゃないか」と言われる。紛動されやすい親子は、どうしていいかわからない。牧師が「ロバを担いであげなさい」と言うので、ロバの足を棒にくくりつけ、担いで歩き始める。しかし、橋を渡る途中、逆さにつるされたロバは苦しくて暴れだし、川に落ちて流されてしまうのだ。
 伸一は、周囲の無責任な声に振り回されることの、愚かさを伝えたかったのである。
 民衆の幸福のために立ち上がれば、誤解や嫉妬から、非難や中傷を浴びるものだ。その時に、紛動されることなく、信念に生き抜いてこそ、人間の正義は貫かれることを知ってほしかった。
 日蓮大聖人は、信念に生きる至高の人間の生き方を、こう表現されている。
 「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし
57  若芽(57)
 東京創価小学校の開校一年目は、創立者の山本伸一と、さまざまな黄金の思い出を刻みながら、堅固な建設の礎を築くことができた。
 開校二年目となる一九七九年(昭和五十四年)四月、希望に胸を膨らませて、新入生が″創小″に集ってきた。
 伸一は、この四月の二十四日、創価学会第三代会長を辞任する。彼の胸には、自身が最後の事業と定めた、人類の平和を実現しゆく創価教育に、ますます力を注ぎ、生涯を捧げていこうとの決意が燃え盛っていた。
 会長辞任を前にした四月九日の第二回入学式へのメッセージに、伸一は、こう記した。
 「何があっても負けない子になってください。どんなにつらくとも泣き虫ではなく、心に太陽をもって進んでいく子であってほしいのです」
 ひとたびは華やかな勝者としてスポットライトを浴びても、打ち続く人生の試練に打ちのめされてしまえば、結局は敗者となる。負けない強い心をもった人こそ、真の勝者だ。
 ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセは綴った。
 「人間の本性は、逆境に陥ったときにはじめてはっきりと現れてくる」
 東京創価小学校から最初の卒業生が巣立っていったのは、一九八二年(昭和五十七年)三月であった。卒業式で伸一は、訴えた。
 「『平和』の二字だけは生涯忘れてはならない」「『平和』というものをいつも念頭において、一生懸命、力をつけてもらいたい、これが私のお願いです」
 教育も、文化も、宗教も、すべては、人間の幸福のためにあり、平和のためにある。
 創価教育の使命もまた、人びとの幸せのために、社会に貢献し、世界の平和を創造していける人材を育むことにある。
 創価教育の父・牧口常三郎は、その平和への道筋は、軍事的競争、政治的競争、経済的競争を経て、人道的競争の時代にいたることを予見している。それを担う、人類益的視野に立った人材の育成を、伸一はテーマとし、願業としていたのである。
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 東京創価小学校の校長・新木高志から、巣立っていく卒業生の同窓会に名前をつけてほしいと要請された山本伸一は、「創栄会」と命名した。そこには、創価教育の栄光を担って立つ逸材の集いとの意義が込められていた。
 第一期卒業生の中学進学の年となった一九八二年(昭和五十七年)四月、創価中学・高校は、男子校から男女共学となって、新しい出発を期した。
 一方、関西には、この年、大阪府枚方市に関西創価小学校が開校している。
 また、交野市の創価女子中学・高校も、関西創価中学・高校と校名を変更するとともに、男女生徒を受け入れることになった。
 創価一貫教育は、万全な体制を整え、二十一世紀に向かって、大きく翼を広げたのだ。
 羽ばたけ!
 創価の学舎に集いし鳳雛たちよ!
 君らこそ、わが命なり。わが希望なり。
 君たちの故郷は「地球」。
 国籍は「世界」。民族は「人間」だ。
 天空を突き抜ける
 気高き「志」をいだき、
 眼前の課題に
 忍耐強く、情熱を燃え上がらせ、
 喜々として挑む、負けじ魂の君たちよ!
 努力なくして大成はない。
 苦闘なくして勝利はない。
 未来は君の腕にある。
 猜疑と憎悪に分断された人の心を結び、
 笑みの花咲く平和の沃野を、
 断じて、断じて、開きゆくのだ。
 私は嬉しい。
 君たちがいるから。
 私は楽しい。
 君たちがいるから。
 私は幸せである。
 君たちがいるから。

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