Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第26巻 「奮迅」 奮迅

小説「新・人間革命」

前後
2  奮迅(2)
 方南支部は、杉並区南東部に位置し、方南一・二丁目と、和田一・二丁目の一部を含む、環状七号線沿いの住宅街と商店街からなる。中野区、渋谷区、世田谷区に接し、支部内を善福寺川と神田川が流れている。
 会員世帯数は四百八十余世帯で、大ブロック(現在の地区)が九つある大きな支部であった。皆が広宣流布の拡大の意欲に燃え、前々年の一九七六年(昭和五十一年)には七十二世帯、前年の七七年(同五十二年)には七十五世帯の弘教を達成していた。
 一月十一日のことであった。新宿区内で行われた、東京の代表者会議に出席した山本伸一は、杉並長の三枝木健次の姿を見ると、微笑みながら言った。
 「私は、できれば、東京の支部結成大会に出席したいと思っています。杉並で推薦できるところはありますか」
 三枝木は、即座に答えた。
 「ございます。方南総ブロックといって、会員世帯は五百近い大きな組織です。模範的な活動を推進しております」
 「そうですか。今回は、これまで最大に頑張ってきたところに出て、皆さんを讃え、励ましたいんです。必ず行けるかどうかはわかりませんが、これから日程を検討します」
 三枝木は、降って湧いたような朗報に、小躍りしたい思いにかられた。
 その後、学会本部と連絡を取り合い、開催は一月二十七日の夜に決まった。「この日ならば、山本会長が出席できる可能性が高い」ということであった。
 二十七日の支部結成大会は、全国に先駆けての開催となる。伸一の出席のいかんを問わず、その成否は、全国の支部に大きな影響を与えることになる。何事も初めが大事である。それが、一つの基準となり、目標となって、全体が続いていくことになるからだ。
 「最初の1歩は最後の1歩につながる。最後の1歩も最初の1歩からである」とは、イタリアの登山家ラインホルト・メスナーの言葉である。
3  奮迅(3)
 杉並長の三枝木健次は、方南総ブロックの総ブロック長らの幹部に伝えた。
 「会長の山本先生から、杉並区の支部結成大会に出席してくださるというお話があり、方南総ブロックを推薦しました。それで日程は、一月二十七日の夜ということになりました。先生のご出席は、まだ確定ではありませんが、ほぼ間違いないと思います」
 総ブロック長も、総ブロック委員も、喜びと緊張の入り交じった声で、口々に応えた。
 「本当ですか! 武者震いを覚えます」
 「必ず大成功の支部結成大会にいたします」
 十八日夜、三枝木が出席し、大ブロック幹部の打ち合わせが行われた。
 ここで、この支部結成大会は全国初となることが発表された。会場は杉並文化会館の大広間と決まった。六百人ほど入る大会場である。支部の世帯数を上回る結集ができなければ、寂しい会合になってしまう。
 集った大ブロック幹部は、″よし、大結集して、全国の先駆として恥じない支部結成大会にしよう″と、決意を固めた。
 大会当日まで既に十日を切っている。しかも、二十九日には、任用試験が実施される。大ブロック幹部の多くが、ほぼ連日、受験者と勉強を行うことになっていた。そのなかでの結集である。
 だが、皆が燃えていた。各大ブロックでは幹部が集い、誰がどの人に会って連絡、激励するかなどを詳細に詰めていった。そして、時間をやりくりしてはメンバーと語り合い、支部結成大会の意義を訴え、「題目を唱え抜いて、はつらつとした姿で参加しましょう」と呼びかけていったのである。
 物事を進めるには、大綱が決まったら、一つ一つの事柄に対して、いつ、どこで、誰が、何を行うのかなどを、具体的に検討していくことが肝要である。
 活動の推進にあたって、あいまいさを残しておけば、そこから破綻が生じてしまう。こまやかな漏れのない対応、小事の完璧な積み重ねのなかに、計画の成就があるのだ。
4  奮迅(4)
 一月二十三日、杉並文化会館で本部幹部会の再聴が終わったあと、方南支部結成大会の大成功へ向け、各部の大ブロック長が集って、打ち合わせが行われた。この席で、支部歌を作って、発表することも決まった。
 結成大会は四日後である。有志が、まず作詞に取りかかり、額を合わせて考えた。
 「歌詞には、『方南支部』という名前を入れよう」「座談会の情景も入れたい」など、いろいろと意見が出たが、歌詞となる言葉は、なかなかうまく紡ぎ出せなかった。
 歌詞は、翌日までに完成させなければならない。あれこれ知恵を絞ったが、結局、二番までしかできなかった。
 「時間がない。二番までの歌にしよう」ということになった。″大英断″である。
 次の日の夜、音楽大学を卒業した女子部員が、一晩がかりで作曲し、二十五日の夜から合唱の練習に入った。
 各大ブロックでは、支部結成大会への参加を呼びかける激励も、任用試験受験者の勉強も盛んに続けられていた。さらに、結成大会の大成功を祈念して、唱題の渦が地域に巻き起こっていったのである。
 一月二十七日、山本伸一は、午後四時半に杉並文化会館に到着した。直ちに、支部の代表に贈ろうと、和紙に「友光桜」「友桜」「光桜」などと揮毫していった。
 方南の幹部たちは、早くから文化会館に待機していた。伸一が到着すると、皆、夢を見ているような気がし、自分のほおをつねってみようとさえ思った。
 ″次は、どこまで結集できるかだ!″
 彼らは、心で題目を唱えながら、合唱団などのリハーサルの様子を見て回った。
 皆、全力を出し切ったという実感があった。しかし、″安心して気を緩めてはならない″と、自分に言い聞かせていた。
 安心は油断を生み、油断から失敗が生ずるからだ。断固、勝利しようという一念が強ければ強いほど、人は慎重になるものだ。
5  奮迅(5)
 方南支部結成大会の参加者は、午後五時半前から、続々と会場の杉並文化会館に集って来た。早くも六時には、会場の大広間は人で埋まった。どの人もほおを紅潮させ、瞳を輝かせ、晴れやかな表情であった。
 六時三十分、司会者が元気な声で、式次第、注意事項を発表した。
 その直後、「こんばんは!」という声がして、山本伸一が姿を現した。「ワァー」という歓声とともに、大拍手が湧き起こった。
 「ただ今より、方南支部結成大会を開会いたします!」
 司会の青年が、叫ぶように宣言した。
 伸一の導師で勤行が始まった。
 彼は、懸命に祈った。
 ――方南支部の全同志が功徳と福運に包まれゆくように。地域が繁栄し、大きく発展していくように。そして、全国の各支部が晴れやかな大前進を開始していけるように……。
 勤行が終わると、女子部の代表が、深い感謝の思いを込めて、伸一に花束を贈呈した。
 「ありがとう! 皆様の真心を受け止めました。おめでとう!」
 杉並長の三枝木健次が、祝福のあいさつに立った。感激のためか、声が上ずっていた。
 「山本先生をお迎えし、全国に先駆けて開かれた、希望輝く支部の結成大会、まことにおめでとうございます!
 ここに方南総ブロックは、方南支部として新出発いたしました。この歴史的な意義ある結成大会に集い合えた私どもは、満々たる決意と草創の息吹をもって、全国の模範となる支部を築いてまいろうではありませんか!」
 続いて、副会長の山道尚弥から、方南支部の「支部証」が、支部長に手渡された。大拍手が轟いた。
 伸一は、語りかけた。
 「頼んだよ。″自分は、地域の人びとの幸福責任者だ! 日本一の支部をつくろう!″と、深く心に誓うことが大事なんです」
 ――「誓いとは、前進への秘訣である」とは、マハトマ・ガンジーの珠玉の言葉だ。
6  奮迅(6)
 「支部証」授与のあと、副会長の山道尚弥は、「この方南支部結成大会の模様は、『聖教新聞』にも大きく報道されるのではないかと思いますので、全国の同志のために、どんな支部なのか、説明しておきたい」と前置きして、同支部の概要を語り始めた。
 参加者は、その言葉に、広布第二章の先駆けの支部であるとの、誇りをかみ締めた。
 山道は、方南支部の場所、土地柄、環境、支部の幹部などを紹介していった。
 次いで、支部歌の発表となった。歌うのは「方南桜花合唱団」である。この日が初登場となる、女子部、壮年部、男子部、学生部によって構成された混声合唱団であった。
 ♪歓喜の風に 身も軽く
 悩める友の 道開き……
 支部歌には、一人ひとりの友と同苦し、励まし、地域に功徳の花を咲かせようとする、″方南家族″の気概が満ちあふれていた。また、明るい笑顔が広がる座談会の光景も、生き生きと歌われていた。
 熱唱は、支部結成の皆の喜びを増幅させていった。だが、合唱は二分足らずで終わってしまった。二番までしかないからだ。
 山本伸一は、″みんな忙しいなか、支部歌作りにも挑戦したが、三番まで歌詞を書き上げる時間がなかったのであろう″と思った。
 教学試験の勉強や支部結成大会の結集、さまざまな準備もある。そのなかで支部歌作りに励んだ人たちの苦心が、伸一には手に取るようにわかった。先駆の誇りに燃え、困難をはね返しての挑戦であったにちがいない。
 彼は、合唱が終わるや、立ち上がって拍手を送りながら言った。
 「すばらしい! 簡潔で、すっきりしていていいね。短いから覚えやすいし、歌いやすい。まさに、新時代の先駆の歌です!」
 人の苦労がわかる。人の努力がわかる――それこそが、リーダーとしての、最第一の要件といえよう。
7  奮迅(7)
 式次第は、支部長の抱負へと移った。
 「初代方南支部長の任命を受けました高杉光則です!」
 彼は、支部名である「方南」という地域の由来から説き起こしたあと、声を振り絞るようにして訴えた。
 「この方南の地に、いかなる三障四魔が競い起ころうが、私がいる限り、必ずやその障魔を打ち払ってまいります。そして、妙法の光り輝く寂光土に転換してまいりますので、どうか皆さんは、安心して学会活動に励んでください!」
 すかさず山本伸一は、自分の太ももの辺りを手でポンと叩き、「そうだ! それが支部長だ! 頑張れ!」と言った。
 支部長は、伸一の方を向いて、会釈すると、話を続けた。
 「私たちの支部には、弁護士、国際的な銀行員、プロゴルファー、そして、クリーニング屋さん、豆腐屋さん、ラーメン屋さんなどがおり、まさに多士済々であります」
 ここでまた、「すごいぞ!」という伸一の声がかかった。支部長は、「はい!」と答え、さらに、原稿を読み進めていった。
 「現在、わが支部は約五百世帯の大家族ですが、私は、全家庭の皆さんと対話してきたなかで、次のモットーを掲げて進んでまいりたいと思います。
 それは、『団結』『折伏』『人材』の三モットーであります。各部が互いに、よく理解し合い、特色をいかんなく発揮し、弘教拡大のために団結力を発揮し、杉並の、いや全国の広宣流布の先駆となってまいります。また、力ある人材の育成、輩出に、全力をあげて取り組んでまいります。
 さあ、方南支部の皆さん! 『日本一仲の良い方南創価家族』を合言葉に、歓喜の大前進をしてまいろうではありませんか!」
 伸一は、その言葉通りに、仲良く前進してほしかった。仲の良い組織には、団結があり、励ましがある。笑いがあり、希望がある。そして、勝利がある。
8  奮迅(8)
 方南支部結成大会は、婦人部の代表抱負などに続いて、副会長の秋月英介のあいさつとなった。彼は草創の杉並支部の出身である。
 秋月は、草創の支部の強さは、各人が″一人立つ精神″に貫かれ、勇気ある実践を展開してきたことにあったと述べた。
 「草創の同志たちは、一人立って、友に仏法を教え、その人がまた、次の人へと弘教していった。そして、座談会が開かれるようになり、『組』が生まれ、『班』がつくられ、『地区』に発展して、新しい『支部』が結成されていった。これが、草創期の創価学会の歴史であります」
 組織は、出来上がっていたものではなく、自分たちが必死に動き、汗を流し、涙を拭いながらつくり出していったものだ。そこには、皆に広布開拓の主体者の自覚があった。
 主体者となるのか、受け身の姿勢でいるのか――実は、この見えざる一念のいかんが、広宣流布の一切を決していくのである。
 秋月は、さらに話を続けた。
 「また、当時の会員は、皆、無名の庶民でありました。病気や貧乏に悩み、誰も助けてくれないなかで仏法を教えられ、藁にもすがる思いで信心を始めました。
 先輩たちは、そうした方々を人材に育て上げようと、一生懸命に面倒をみた。その熱意と確信に打たれ、新入会の友は信心に励み、広宣流布の闘士となっていきました。
 そして、自分と同じように、悩み苦しむ人たちを、次々と折伏していった。それらの友が、見事に蘇生していく姿を見て、ますます歓喜し、仏法に対する確信を強め、さらに功徳の実証を示していったのであります。
 この草創の精神を踏まえ、支部長、支部婦人部長をはじめ、幹部の方々は、今まで以上に、支部員一人ひとりをよく知り、親身になって相談にのってあげてください。皆を幸福にし、人材へと育てるために、労苦の汗を流してまいろうではありませんか!」
 皆のことを懸命に願い祈る時、最も成長を遂げ、幸福を獲得するのは自己自身である。
9  奮迅(9)
 いよいよ会長・山本伸一の話である。
 彼は、冒頭、支部歌を合唱したメンバーに視線を注ぎながら言った。
 「私がつけている胸章を、合唱団の方に差し上げたいと思います」
 会場を揺るがさんばかりの大拍手が響いた。伸一の側にいた幹部が、その胸章を手に合唱団のところへ向かった。
 拍手が収まると、彼は、「今日は、一切、拍手はなしで結構です」と述べ、方南支部の結成を祝福した。
 「千里の道も一歩から始まり、大海の水も一滴から始まります。本日の、この支部結成大会も、広宣流布の新しい一歩を印すものであると、私は強く確信いたしております。
 皆さんの一生成仏をめざしての功徳あふれる前進が頼もしく、十年後の姿が、まことに楽しみであります」
 次いで支部組織の意義に言及していった。
 「多くの団体に本部があるし、企業にも、本社や本店があり、それが中枢機能を担っています。そして、いわば、その出先機関として、支社、支店等がある。
 しかし、学会の支部は本部の出先機関ではなく、その地域のために、そこで信心に励む人たちのために、本部と同等の責任と使命を担っていると、私は考えております。組織体という観点では、全国的には学会本部が中心かもしれませんが、自覚のうえでは、支部は地域における学会本部であると決めて、各人が地域に仏法を打ち立て、展開していただきたいと思っております。賛成の方?」
 「はい!」と、皆が手を挙げた。
 「ありがとうございます。でも、無理に、おつきあいで手を挙げる必要はありません」
 笑いが広がった。
 「しかし、じっとしていると、肩が凝ってしまうので、体のためには、たまには手を挙げることもいいんです」
 笑いが弾けた。伸一は、ともすれば緊張しがちな皆の心を、少しでも和ませたかった。小さな配慮が、大きな前進の潤滑油となる。
10  奮迅(10)
 山本伸一は、皆の心が笑いによってほぐれたところで、「御義口伝」の一節を拝した。
 「仏法では、『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり』と説かれております。
 私ども自体が、妙法蓮華経の当体であります。また、『足は経』とありますが、敷衍すれば、それは行動を意味するといえましょう。私たちは、今いる地を、深い因縁で結ばれた本有常住の国土ととらえ、″必ずこの地域を広宣流布するのだ! 幸せの花園にするのだ!″と決めて、勇んで行動を起こしていこうではありませんか。
 その決意と実践がなければ、何十年と、そこに住んでいても、広宣流布は進みません。草創の同志は、学会に対する地域の見方や評価が厳しければ厳しいほど、闘魂を燃え上がらせてきました。迫害にも動ずることなく、何があろうが、体当たりするかのように、必死になって弘教していった。
 だから、広宣流布の道が切り開かれたんです。だから、皆が大きな功徳を受けてきたんです。だから、歓喜と希望に満ちあふれていたんです。
 広布第二章の今、さらに新しい、その心意気を、その気概を、その決意を、燃え上がらせていくための『支部制』なんです。名称や形式の問題ではありません」
 誰もが、決意に燃えた目で、伸一を見ていた。彼の言葉は、皆の心に、深く、深く、染み渡っていった。
 「広宣流布といっても、どこか遠い、別のところにあると思うのは間違いです。自分自身のなかにあるんです。家庭のなかにあるんです。近隣の人びととの絆のなかにあるんです。創価の法友の輪のなかにあるんです。そこに、模範の広布像をつくるんです。
 自身の足元を固めよう――これが、最も強調しておきたいことです。足元を固めなければ、いかに組織が立派そうに見えても、結局、砂上の楼閣となってしまうからです」
11  奮迅(11)
 山本伸一は、この方南支部結成大会の会場から、全国の支部長、支部婦人部長、そして全同志に訴える思いで話を続けた。
 「次に、功徳を受ける信心について話をしておきます。
 一言すれば、真面目な信心の人には、必ず功徳があります。一方、外面は、一生懸命に信心に励んでいるように見せながら、実際には怠惰で、真剣に仏道修行に励もうとしない人には、功徳はありません。他人の目はごまかせたとしても、仏法の因果の理法は、決してごまかすことはできないからです。
 また、恐るべきは、すぐに人を批判したり、ねたんだりする習性です。それは、自分がこつこつと積み上げてきた福運を消すだけでなく、心を暗くし、生命を重くします。さらには、広宣流布の団結を破壊することになっていく。つまり、自分で自分を、不幸の淵へと追い込んでいってしまう。
 反対に、人びとに対して、善意と賞讃と応援の姿勢で臨み、仏道修行に励んでいくならば、感激があり、感謝があり、人生すべてを楽しいものと実感していくことができる。
 実は、そこに人間革命の姿があり、幸福の実像もあるんです。立場や役職のいかんが、幸・不幸を決するのではありません。
 人生の勝負は、一年や二年では決まらないものです。一生です。したがって、決して背伸びをすることもないし、見栄を張る必要もありません。平凡でいいんです。どこまでも自分らしく、″折伏精神″をたぎらせ、地道に、淡々と、わが使命を果たし、所願満足の境涯を築き上げていくことです。
 特に、支部長、支部婦人部長は、指導部の先輩と共に、丹念に一人ひとりと会い、励ましていってください。それが最大の仏道修行と思ってください。人を動かそうなどと考えるのではなく、まず自分が動くことです」
 仏法のため、同志のために、汗を流し、時には共に涙して語り合っていくなかにこそ、最高の歓喜と充実と生命の躍動がある。人生の最大の生きがいと幸福がある。
12  奮迅(12)
 支部長、支部婦人部長の在り方について諄々と語る山本伸一の指導を聴きながら、方南支部のリーダーたちは思った。
 ″私たちは、全国の支部長、支部婦人部長を代表して、山本会長から直接、指導を受けている! こんなに栄誉なことはない!″
 伸一は、支部長を見ながら、笑顔を浮かべて語った。
 「支部の中心者だからといって、偉く見せようなどと考える必要はありません。ありのままでいいんです。支部長、支部婦人部長は、全支部員の良き兄であり、良き姉になることです。また、県・区長や県・区婦人部長は、良き長兄、長女であってください。
 仏法では、和合僧ということが説かれています。これは、出家して仏道修行に励む人びとの集まりのことですが、現代的に言えば、創価家族、仏法兄弟です。
 私どもは、御本尊のもと、信心の血脈に結ばれた久遠の兄弟です。支部長、支部婦人部長は、その大事な仏子である弟、妹の面倒をみて、立派な広宣流布の人材に育て上げていってください。そのなかに、自身の成長も、人間革命も、幸福もあると確信して、師子奮迅の戦いを開始しようではありませんか!
 最後に、皆さんのますますのご多幸を心よりお祈り申し上げ、私の祝福のあいさつとさせていただきます」
 会場は、喜びと決意の大拍手に包まれた。
 伸一は、自分に贈られた花束を持って、参加者のなかに入っていった。歓声が起こり、皆が立ち上がって彼を迎えた。
 伸一は、「ありがとう!」と言いながら、会場を進み、メガネをかけた和服姿の小柄な老婦人に声をかけた。
 「おばあちゃん! よくいらっしゃいました。体を大事にして長生きしてください。ご健康、ご長寿を祈っております」
 伸一は、こう言って、手にしていた花束を老婦人に手渡した。また、歓声が広がった。
 一切の力を振り絞って、一人でも多くの人を励まそう――それがリーダーの心だ。
13  奮迅(13)
 山本伸一から花束を贈られた老婦人は、顔中に笑みを浮かべ、「嬉しい。嬉しい」と、何度も繰り返すのであった。
 彼女の後ろでは、夫と思われるメガネをかけた白髪の老人が、目を潤ませていた。
 「さあ、声高らかに学会歌を歌いながら、広布第二章へ旅立ちましょう。その先頭に立ったのが方南支部です!」
 伸一が、呼びかけると、誰からともなく、「人間革命の歌」の歌声が起こり、次いでピアノの調べが響いた。大合唱となった。
 君も立て 我も立つ
 広布の天地に 一人立て……
 伸一も歌った。″わが方南支部の同志よ、立て!″と叫ぶ思いで、共に合唱した。
 題目三唱のあと、彼は、「皆さん、ありがとう! 寒いから風邪をひかないように。どうか、気をつけてお帰りください」と言って、手を振りながら退場していった。
 外は寒風が吹いていたが、皆の心には、支部建設への闘魂が熱く燃え盛っていた。
 この日から、方南支部は大前進を開始していった。幹部は、ひたすら、一人ひとりの指導、激励に歩いた。ある人は「聖教新聞」に掲載された指導や体験を切り抜いて貼り付けたノートを小脇に抱え、相手に合った記事を引いて、懸命に励ましを重ねた。
 また、ある大ブロックでは、壮年が互いに信心を啓発し合うための試みとして、大ブロック長、ブロック長らがキャップとなって、幾つかのグループをつくった。
 新入会員からなる「ニューパワー・グループ」、建築関係者で構成される「建設グループ」、ヤング壮年を対象とした「若獅子グループ」、草創期に入会した人たちの「草創グループ」、団地居住者の「団地丸グループ」などである。共通の悩みなども忌憚なく話し合え、団結は一段と強まっていった。
 決意は知恵となり、実践となってこそ、前進がある。
14  奮迅(14)
 「中途半端にことを運べば常に失敗する」――これは、山本伸一が青年時代から肝に銘じていたナポレオンの箴言である。
 伸一は、「支部制」を導入したからには、それが本格的に作動し、見事な成果をもたらすまでは、決して手を抜いてはならないと、深く心に決めていた。
 彼は、東京・杉並区の方南支部結成大会に出席したのに続いて、一月三十日には、立川文化会館で行われた第二東京支部長会に臨んだ。これは任命式となる集いで、第二東京の全支部長・婦人部長、青年部の男女部長となる人たちが参加していた。
 彼は、支部幹部の出発に際して、リーダーの在り方などについて、語っておこうと思っていた。
 伸一は、「教学」と「信心」についての話から始めた。
 この前日、彼は立川市内の任用試験会場に、受験者の激励に訪れていた。陰で試験を支えている役員をねぎらったあと、受験者を見守るように、そっと各教室を回った。
 ある青年は、答えに窮して、鉛筆の手を止め、顔を上げた。すると、そこに、微笑む伸一の顔があった。
 伸一は、″大丈夫、大丈夫″と言うように静かに頷き、青年の肩をポンと叩いた。
 青年は、奮起したのか、再び勢い込んで、答案用紙に鉛筆を走らせていた。
 伸一は、試験会場の廊下では、本部幹部だという壮年と言葉を交わした。壮年は語った。
 「私が勉強を教えた人たちも、今回、任用試験を受けています。年末年始も返上し、一緒に勉強してきただけに、合格できるのかと思うと、じっとしていられない心境です」
 それから壮年は、意を決したような表情を浮かべ、こう報告した。
 「先生! 私は、十五日に行われた上級試験を受験したんですが、不合格になってしまいました。不甲斐ない限りです」
 「いいではないですか! 試験は、まだこれからもあるんですから」
15  奮迅(15)
 山本伸一は、教学部上級試験に合格できなかったという壮年に語った。
 「あなたは、任用試験を受ける人たちに対して、一生懸命に勉強を教え、後輩を育てるという、『実践の教学』に取り組んできたではありませんか。すばらしいことです。尊いことです。自分の上級試験の受験勉強をする時間がなかったんでしょう。
 次の機会に受かればいいんです。いや、次の次でも、さらに、そのあとでもいいんです。
 大事なのは、″御書をひもとこう! 仏法を学ぼう! 教学を研鑽しよう!″と決め、勉強を重ねていくことなんです。試験があれば、それを目標に、勉強していくことができるではありませんか」
 そして伸一は、壮年と握手を交わした。
 彼は、第二東京支部長会で、そのことを思い浮かべながら、語っていった。
 「『教学の年』第二年を迎え、上級試験と任用試験が実施されましたが、上級試験では、各県区や本部の幹部で不合格になった方もおります。これまでも、有名な幹部で合格できなかった方が、何人もいるんです。採点は、教学部が厳格に行っておりますので、こればかりは、私もなす術がありません。
 教学に精通した人が幹部であり、幹部の皆さんには、教学試験に合格していただきたいのは、もちろんです。しかし、毎日毎夜、後輩の信・行、そして教学の指導に全力を傾注し、自分の勉強の時間が取れなかった方も多い。それもすべて御本尊はご存じです。
 したがって、不合格を嘆き、自信を失ったりすることはありません。多くの後輩を教学試験に合格させ、育成したことを自らの誉れとして、また、それが偉大なる功徳となることを確信していっていただきたい。
 また、合格した後輩の方々は、自分の面倒をみてくれて、不合格になってしまった先輩を尊敬し、最大に感謝すべきです。そこから強い絆が生まれるし、その心こそ、仏法であり、信心であり、学会の世界の生き方です」
 団結もまた、感謝から生まれるのだ。
16  奮迅(16)
 教学試験は、各人の教学研鑽の努力を評価し、さらに張り合いをもって精進を重ね、信心の深化、成長を図るために実施されるものである。したがって、その機会を、より有効に、広宣流布の前進につなげていくことが、幹部としての大事な使命といえよう。
 後輩を人材に育てるために、全力で応援し、試験に合格した人には、一段と奮起し、成長していけるように、讃え、励ますことである。先輩幹部が、わがことのように手を取って喜び、励ましてくれたならば、どれほど大きな意欲が引き出されるか。
 反対に、先輩が、賞讃も、激励もせず、知らん顔をしていたのでは、後輩が大飛躍できるチャンスをつぶしてしまうことになる。
 それは教学試験に限ったことではない。人材育成グループのメンバーになった人や、表彰を受けた人に対しても同様であろう。
 とともに、いや、それ以上に重要なことは、教学試験に合格できなかった人や、人材育成グループに入ることのできなかった人、実績がありながら表彰されなかった人などへの励ましである。
 組織というのは、何かを行う時、どこかで″線引き″をしなければならない場合がある。大切なのは、該当しなかった方々への心配り、迅速な励ましを、リーダーは決して忘れてはならないということである。
 それを忘れれば、組織主義に安住してしまい、早晩、組織から人間性は失われ、冷ややかな官僚主義に陥ってしまうことになる。山本伸一は、そのことを深く憂慮し、断じてそうはさせまいとの思いで語ったのである。
 「教学試験に合格された幹部の皆さんを、私は心から祝福するとともに、合格のみでは″理″であることを申し上げておきたい。
 日蓮大聖人の仏法は″事″であります。日々月々、広宣流布のために、汗まみれになって実践していってこそ、成仏につながる。
 私どもがめざすべきは、有解有信でありますが、有解無信の人よりも、無解有信の人の方が、はるかに尊いことを知ってください」
17  奮迅(17)
 第二東京支部長会は、支部長ら支部幹部の出発の会合であることから、山本伸一は、リーダーの在り方について語っていった。
 「支部長・婦人部長にとって、支部というのは、依正不二の原理のうえから、自身の投影であるといえます。自分の生命の心音が、そのまま組織に脈動し、反映されていく。
 つまり、わが生命に歓喜があり、勇気の鼓動が力強く鳴り響いていれば、おのずから皆も元気になり、活動も勢いにあふれたものになっていきます。しかし、組織の中心者に歓喜も覇気もなく、弱々しい心音であれば、皆も、その生命に感応し、歓喜は冷め、やる気も失せていってしまう。
 鐘が大音声を放てば、多くのものが振動していきます。同様に支部の発展、衰退は、支部長・婦人部長の一念の心音によって決定づけられていくことを、知っていただきたい。
 また、支部幹部は、皆から好かれる人になっていくことが大事です。その根本要件は、一言するならば、誠実であることです。不誠実な人には、誰もついていきません。
 では、誠実であるためには何が必要か――今日は、二点だけ申し上げておきます。
 それは、まず、人の利点を生かそうとする努力を続けていくことです」
 ″人の利点を常に生かそう″という一念があれば、すべての人の長所、すばらしさが見えるようになり、尊敬の念も生まれる。賞讃や励ましの言葉も出る。
 また、後輩を生かそうと、成長を願っているリーダーの真心は、伝わるものだ。
 「二つ目に、約束は必ず守ることです。
 人間として当然のことですが、幹部として多忙になると、″約束を守れないことがあっても、仕方がない″と、思うようになってしまうことがある。それは間違いです。
 もちろん、さまざまな事情が生じて、どうしても約束を果たせないこともあるでしょう。その時に、どうするかです。相手が″ここまでしてくれるのか″と、何倍も喜ぶような、補って余りあることをしていくんです」
18  奮迅(18)
 「信頼は信頼を呼びます。信頼なしには、実りある協力は不可能でしょう」とは、アインシュタインの言葉である。
 組織といっても、人間と人間の結びつきであり、その結合は、″信頼″によって成り立っている。″誠実″であることは、その″信頼″を育てることなのだ。
 次いで山本伸一は、学会伝統の″一段とび指導″に言及していった。
 「学会の草創期、戸田先生は、組織にあって、″一段とび指導″ということを訴えておられた。当時は、支部―地区―班―組という組織の形態で、支部長は班長の、地区部長は組長の、そして、班長は全組員の指導の責任をもつというものです。
 もちろん、すべての幹部が、全会員の指導、激励を最優先していくのは当然です。そのうえで、活動の軸となるリーダーを育成、強化し、組織を発展させる原則として、″一段とび指導″は、大事な観点といえます。
 つまり、東京の壮年の組織であれば、区・圏長は支部長を、本部長は大ブロック長を、支部長はブロック長を、責任をもって指導、育成し、一流の人材に育てていく。そして、大ブロック長は、会員一人ひとりと直結し、担当の幹部やブロック長と共に会員の面倒をみ、激励していくようにお願いしたい。
 これは、あくまでも原則であり、臨機応変に対応すべき面も多い。今は、各組織に、経験豊富な先輩がスタッフとしていてくださるので、幹部の育成にあたっても、その方々の力を、大いにお借りすべきです。
 ともあれ、誰が責任をもって後輩を指導し、育んでいくかを、明確にすることが大事です。指導、激励の網の目からこぼれてしまう人を出しては絶対になりません」
 さらに、伸一は、男女青年部については、次代の人材を育成するためにも、青年の機動力を発揮するためにも、仏法厳護の精神を学んでいくためにも、本部直結の原則を尊重して、青年部の独自性を優先したうえで、各部一体の活動を推進していくように訴えた。
19  奮迅(19)
 支部という活動推進の大切な要となる組織のリーダーとして、広宣流布を担っている支部長、支部婦人部長の苦労は、並大抵のものではあるまい。
 自身も若くして支部長代理として、個人指導に、座談会にと奔走した山本伸一は、その大変さを、身に染みて感じていた。しかし、一生成仏に至る仏道修行が、容易であろうはずがない。だから、伸一は、訴えずにはいられなかった。
 「皆さんの組織のなかには、愚痴や文句ばかり言う方もいるでしょう。入会しているのに、学会に反感をいだいている方もいるかもしれない。また、なかなか、こちらの誠意が通じない方もいるでしょう。なかには、隣近所や一族からも疎んじられている、孤独な方もいるかもしれない。そのなかで、わが地域に仏法の人間共和の都をつくろうと、広宣流布の指揮を執る皆さんのご苦労を、私はよくわかっているつもりです。
 なんの利害も考えず、自らの大切な時間を使い、命を惜しまずに、涙ぐましいまでに奮闘してくださる。それは、まさしく、仏がなさんとされた『開示悟入』の労作業を、仏に代わって実践している尊き姿です。仏の使いでなければ、日蓮大聖人の本眷属でなければ、決してできない崇高な努力です。
 その方々を、三世十方の諸仏が守護しないわけがない。そうした皆さんが一生成仏できないわけがない。そうでなければ、大聖人の仏法の真実の仏道修行はどこにあるのか!
 ここにこそ、大聖人の真の弟子として、元初の太陽に照らされ、大福運の輝きを放つ人生の凱歌があることは絶対に間違いないと、私は、強く、強く、断言しておきます」
 参加者は、その大確信に触れ、込み上げる歓喜のなか、新しき法戦への決意を固めた。
 伸一は、一句を詠み、結びとした。
  慈悲の剣
    王者のつるぎ
      師子奮迅
20  奮迅(20)
 各方面や県などで、新出発の支部長会が行われ、さらに支部結成大会が盛大に開催され、広布第二章の「支部制」は、好調なスタートを切っていった。
 二月一日、山本伸一は、宗門との打ち合わせのために、東京・墨田区向島の寺院を訪れた帰途、三月末に落成する、荒川区町屋の荒川文化会館周辺を車で視察した。
 荒川区は、一九五七年(昭和三十二年)八月の夏季ブロック指導で、伸一が最高責任者として指揮を執った思い出の天地である。
 大通り沿いにはビルが建ち、町の景観は大きく変わってはいたが、それでも当時の名残をとどめる建物もあり、車窓を眺めるだけで懐かしさが込み上げてきた。
 荒川文化会館は、白亜の建物であり、既にその威容を現していた。
 「すばらしい文化会館になるね。庶民の町の″庶民の大城″だね」
 伸一が、車窓から建物を仰ぎながら言うと、車に同乗していた幹部が告げた。
 「荒川のメンバーは、『弘教の大勝利をもって、文化会館の落成を祝賀しよう』と言って、喜々として仏法対話に全力を注いでいるとのことです」
 「嬉しいね。一人ひとりの″信心城″″勇気城″″勝利城″の建設があってこそ、″広布城″たる新会館の完成になるんです。個人の人生の勝利なくして、学会の勝利はない。
 学会の会館は、広宣流布の本陣です。御殿ではない。本陣は、戦いのためにある。したがって、本陣の完成を最大に祝賀するものは、戦いの勝利なんです。荒川の同志には、なんとしても民衆の凱歌の調べを轟かせてほしいね。私と共に戦い、私が魂を注いで築き上げた広宣流布の模範の天地だもの」
 同乗していた幹部が、伸一に尋ねた。
 「先生は、昭和三十二年の夏季ブロック指導で荒川区を担当し、わずか一週間で区の会員世帯の一割を超える二百数十世帯の弘教を成し遂げられました。その戦いの原動力は、なんだったんでしょうか」
21  奮迅(21)
 山本伸一は、言下に答えた。
 「みんなに、絶対に幸せになってもらいたいという一念です。あのころ、どの人も貧しく、失業や病、家庭不和など、さまざまな悩みをかかえ、宿命に押しつぶされそうだった。
 それを打ち破り、宿命を転換していく道は、皆が地涌の使命を自覚し、広宣流布の戦いを起こす以外にない――私は、同志と会っては、そのことを叫び抜いたんです。
 皆、期間は短かったが、″この戦いで、弘教を成し遂げ、悩みを乗り越えてみせる″と懸命に唱題した。勇気をもってぶつかり、必死になって戦った。誰かに言われての戦いではなく、自身の生命の内から噴き上がる闘魂の実践になっていったんです。
 幸せになるための信心であり、学会活動ではないですか。全部、自分のためであり、それがそのまま、社会の繁栄を築いていくことにもなるんです。
 この活動のさなかも、その後も、多くの人から、苦悩を克服したという功徳の報告を受けました。
 学会の勝利の歴史といっても、同志が仏法への確信を深め、歓喜と幸せを実感してこその勝利であることを、リーダーは決して忘れてはならない」
 同行の幹部は、自分が忘れていた、いちばん大事なことに、気づかされた思いがした。
 「さらに、私が荒川区で力を出し尽くすことができた最大の理由は、″広宣流布の後事は、すべて大丈夫です″と言える拡大の実証を、戸田先生にご覧いただこうと、決意していたことです」
 伸一は、その時の心情を思い起こした。そして、唇を固く結び、彼方を凝視した。
 それから、心の糸を紡ぐように、ゆっくりと言葉をかみ締めながら語り始めた。
 「あの年(一九五七年)の夏、戸田先生は、夕張炭労事件、大阪事件と心労が重なり、体調を崩しておられた。学会は、六月末には会員約六十万世帯となり、先生が生涯の願業とされた七十五万世帯達成の頂は見え始めていた」
22  奮迅(22)
 山本伸一は、車で荒川文化会館の周辺を巡りながら、話を続けた。
 「会員七十五万世帯の達成は、戸田先生の人生の総仕上げとなる戦いだった。なんとしても、この昭和三十二年(一九五七年)中には、それを成し遂げ、先生にご安心していただきたかった。
 そして、私は、その原動力になろうと思ったんです。それは同時に、未来にわたって、広宣流布の拡大の在り方を示すことにもなる。
 師匠の総仕上げの戦いというのは、弟子の大成を見届けることです。つまり、弟子が、『先生! わが勝利を、ご覧ください!』と、師匠に胸を張って報告できる実証を示すことなんです。それが、師弟不二です。
 私は、そう心を定めたからこそ、力が出せた。勇気と智慧を湧かせることができた。
 ″広宣流布の師匠に応えよう!″と、弟子が燃え立つ時、師匠の師子王の生命が、わが胸中に脈打つんです。つまり、師弟不二の自覚に立てば、師と共に広宣流布の大使命を担う、久遠の自身の生命が脈動する。そこに、最大の力がみなぎるんです」
 家々の屋根の向こうに、荒川文化会館が見え隠れしていた。伸一は、その白亜の建物を眺めながら、感慨を込めて言った。
 「荒川区には、人情がある。庶民の心の温もりがある。しかし、近年、次第に、その心が失われつつあるようだ。道路は整備され、外観は美しくなっても、それがなくなれば、無味乾燥な町になってしまう。
 だから、学会員が、人と人とを結び、温かい人情を通わせ合っていくんです。これが、地域広布ということなんです。
 荒川文化会館が落成したら、私は真っ先に訪問します。楽しみだな」
 こう言うと、彼はメモ用紙に歌を記した。
 「あの道に
    またこの路に
      わが歴史
    荒川城に
      勝鬨轟け」
23  奮迅(23)
 「善と悪のあいだには一瞬の休戦もない」とは、十九世紀のアメリカの思想家ソローの箴言である。
 広宣流布の活動は、仏の軍と魔軍との熾烈な攻防戦である。ひとたび戦いを起こしながら、油断し、手を抜けば、悪の跳梁を許してしまい、待っているのは敗北である。ゆえに、全力で戦い続ける以外にない。
 山本伸一は、二月に入ってからも、広布第二章の「支部制」を軌道に乗せるために、矢継ぎ早に手を打ち続けた。
 学会の草創期を担ってきた先輩幹部たちが、支部長をいかに支えるかに、勝敗の大きなカギがあると考えた彼は、そのメンバーの集いにも、万難を排して出席するようにしていた。
 二月九日には、草創の足立支部出身者の代表からなる「足立会」の初会合に臨んだ。 
 草創の十二支部が一九五一年(昭和二十六年)四月にスタートした時、世帯数や実績に基づき、各支部はA級、B級、C級に分けられた。当時、足立はB級であり、この年の十二月末時点での会員世帯数は五百であった。それに対して、たとえばA級の小岩支部は千世帯を超えている。
 しかし、足立支部は着実に弘教の力をつけ、それから一年半後の五三年(同二十八年)六月には四千二百世帯を超え、大支部に発展していた。さらに、五七年(同三十二年)三月には″弘教日本一″の栄冠に輝くのである。
 ――その栄光の歴史を刻んだ足立支部の、初代支部長・婦人部長が、藤川秀吉・多恵夫妻であった。
 秀吉は、かつてタクシー会社を営んでいたが、戦争の激化とともにガソリンの入手が困難になったために、やむなく会社を整理し、溶接業を始めた。だが、ほどなく、彼に召集令状が届いた。年老いた父母と三人が暮らしていくために、妻の多恵は、夫に代わって溶接業を受け継ぐことになった。といっても、入営直前に、器具の扱いや溶接の仕方を、たった一日、教わっただけであった。
24  奮迅(24)
 藤川多恵は、汗と涙にまみれながら、慣れぬ溶接の仕事を続けた。技術の習得もできていない主婦が、受け継いだ家業である。注文を受け、納品しても、不適格だといって返品されることも多かった。
 心細かった。生きていく自信さえも失いかけていた。そのころ、仏法の話を聞いて、創価教育学会に入会したのだ。一九四二年(昭和十七年)九月、初代会長・牧口常三郎の時代である。
 信心を始めてからは、不思議と周囲の人から守られ、仕事も順調に伸びていった。彼女は、信心の功徳を実感した。
 東京・豊島区目白の牧口の自宅で行われた座談会で、多恵は初めて牧口会長と会った。
 牧口は、彼女の夫が出征していることを聞くと、慈愛のこもった眼差しを向けた。
 「ご主人には、毎日、手紙を出すんですよ。戦地では、それが、どれほど嬉しいか。妻として心を通じ合わせていくことが、折伏になります」
 そして、仏法は生活法であり、人の生き方、振る舞いのなかに仏法があることを、訴えていったのである。
 多恵は、牧口の指導を実践した。最初の手紙に、彼女は記した。
 「南無妙法蓮華経と三度お唱え下さい。一切の病魔、災難は近寄ることができません」
 夫の秀吉は、戦地にあって、欠かさず題目を唱えるようになった。
 彼女は、毎日、手紙を書き続けた。
 また、牧口は、ある時、多恵に、御書を拝して、こう決意を促した。
 「正法を行ずるならば、必ず難が競い起こります。それは、この信心が正しい証明です。その時に、決して恐れてはならないし、一歩も退いてはなりませんぞ。難を乗り越えてこそ、成仏できるんです」
 事実、それから一年もたたぬうちに、会長の牧口をはじめ、理事長の戸田城聖ら幹部が、軍部政府の弾圧によって、次々と捕らえられたのである。
25  奮迅(25)
 牧口常三郎から、必ず難が競い起こると聞かされていた藤川多恵は、牧口らが逮捕された時、″先生のおっしゃった通りになった″と思った。むしろ、仏法への確信を強め、懸命に題目を唱え、信心を貫いた。
 彼女の溶接技術も、次第に向上し、蓄えもできるようになった。
 終戦を迎え、やがて復員した夫の藤川秀吉は、一九四七年(昭和二十二年)八月、正式に学会に入会した。そして、戸田城聖のもとで、純真に、一途に、信心に励んだ。生きて帰れたことに、仏法の力を感じていたのだ。
 足立の藤川宅は、座談会場となり、戸田も何度となく足を運んだ。戸田は、慈愛を注いで、藤川を育んでいった。
 「個人指導や折伏はどうすればよいのか、私の側にいて覚えていきなさい。信心は、実践のなかで学び、身につけていくものです」
 藤川は、その通りに行動した。戸田が蒲田の座談会に出席すると聞けば、自転車で三時間かけ、訪ねて行った。しかも、新来者と一緒に駆けつけたのである。
 また、戸田が仙台に行くといえば、自分も仙台へ向かった。急なことなので、多恵が着物を質に預け、旅費を工面した。
 多恵は、「帰りの汽車賃が足らなければ、歩いて帰っておいでね」と、明るく言って、笑顔で夫を見送った。
 彼は同志の激励にも歩き回った。靴がすぐにすり減るので、安いわらじを履いて歩いた。
 藤川は、戸田がそうしたように、後輩と共に指導や弘教に走り、活動の基本を、行動を通して教えていった。人材育成とは、一緒に動くなかで、学会の精神と活動の在り方を教えていくところから始まる。
 そして、五一年(同二十六年)に、″わらじ履き″の支部長が誕生するのだ。
 藤川夫妻は、ただただ広宣流布に生き抜いた。そこに一点の迷いも、逡巡もなかった。いな、その人生を無上の誉れとし、誇りとしていたのだ。それが、草創の支部長・婦人部長の心意気であった。
26  奮迅(26)
 藤川秀吉が足立支部長に就任して間もないころ、山本伸一は、三分刈りにしている藤川の頭を見て、東京・西神田の学会本部で尋ねたことがあった。
 「藤川さんは、どうしていつも、三分刈りにされているんですか」
 「溶接の仕事をするには、短い三分刈りの方がいいということもありますが、実は親父の遺言でもあるんです。親父に、『半人前のうちは髪を伸ばすな』と言われたんです」
 「藤川さんほどの方が、どうして半人前なんですか」
 「私が支部長を務めている足立支部はB級です。小岩や蒲田などのように、A級の大支部にしなければなりません。それまでは、まだ私は半人前です。足立支部が大支部になったら、皆さんのように髪を長くします」
 彼は、組織を預かる者として、強い責任を感じていたのであろう。
 足立支部が大支部となり、頭角を現してくると、藤川は髪を長く整えるようになった。
 伸一が足立支部長の藤川秀吉の家を初めて訪問したのは、一九五五年(昭和三十年)の春であった。「藤川工業所」の看板が掲げられ、周囲には田んぼが広がっていた。
 支部の中心会場になっていた彼の家には、多くの青年たちが出入りしていた。東京大学に在学する学生をはじめ、若者たちが、喜々として集って来るのである。
 藤川は、伸一に言った。
 「青年を育てなければ、学会の未来はありません。私は、全青年部員のことを、戸田先生の子どもさんであると思っています。その宝のような方々を、お預かりしているんだから、大切に大切に接しています。
 青年のためには、なんでもしようと思っています。もし、何かあれば、私は、命懸けで青年を守る決意でおります」
 その一念があってこそ、青年は育つのだ。
 伸一は青年部の室長として、藤川の思いが嬉しくもあり、ありがたくもあった。彼は、藤川支部長の手を、ぎゅっと握り締めた。
27  奮迅(27)
 初の「足立会」の集いには、初代足立支部長・婦人部長であった藤川秀吉・多恵夫妻の元気な姿もあった。
 席上、あいさつした山本伸一は、参加者に親しみのこもった視線を注ぎながら語った。
 「皆さんは、戸田先生の薫陶を受けて育った″学会の宝″の方々です。その皆さんにお願いしたいことは、戸田先生に自分が育まれたように、後に続く人材をつくっていただきたいということです。
 人材は、一朝一夕には育ちません。多くの時間と労力を必要とします。しかし、人を育てる以外に、広宣流布の永遠の未来を開く道はないし、それに勝る聖業もありません。皆さんが人材育成の範を示して、支部幹部や大ブロック幹部の方々に、その方法、在り方を教えていっていただきたい。
 折伏の仕方も、指導の仕方も、先輩幹部と共に戦うなかで、見よう見まねで覚え、体得していくものです。また、そうした活動のなかに、信心の触発もあるんです。
 この育成の伝統がなくなってしまえば、本当の人材育成の流れは途絶えていきます。
 弘教にせよ、信心の指導にせよ、その方法を、単に頭で覚え、暗記すればできるというものではありません。実際の活動を通して学び、生命で覚え込んでいくものなんです。
 先輩の皆さんは、常に後輩と共に動き、その敢闘の精神と実践とを、伝え抜いていっていただきたいのであります」
 ここで伸一は、戸田城聖が第二代会長に就任した折に、共に立ち上がることができなかった戦前からの会員たちが、後年、「遅参其の意を得ず」との思いを深くし、後悔していた話に触れた。
 「広宣流布の前進には″時″がある。その一つ一つの″時″を逃すことなく、全力で仏道修行に励み抜いてこそ、自身の使命を果たし、一生成仏することができるんです。
 今、学会は、広布第二章の『支部制』が発足し、未来万年の流れを開く″時″を迎えました。今こそ総立ちすべき″朝″なんです」
28  奮迅(28)
 山本伸一の言葉に力がこもった。
 「信心をしていくうえで大事なのは、『現当二世』を見すえていくことです。『現』というのは『現在』『現世』であり、『当』というのは『未来』『来世』を言います。
 過去に縛られるのではなく、今現在を大切にし、未来に向かって生きていくことが大事です。それが仏法者の生き方です。
 したがって、過去の実績を誇り、昔の栄光に酔っているのではなく、『今、どうしているのか』『未来のために何をしているのか』が大事になるんです。
 信心は一生です。人生も一生を見なければわからない。久遠の使命を果たすために、この世に生を受けた私たちです。最後まで広宣流布という、わが使命に生き抜いたといえる、勝利の生涯を送ろうではありませんか!」
 「はい!」という、決意のこもった声が、はね返ってきた。
 伸一は、さらに、強い語調で訴えた。
 「信心といっても、観念ではない。法華経にも『諸法実相』とあるように、妙法という実相は、諸法すなわち社会のすべての現象として現れる。つまり、現実のうえで何をしたか、何をするかなんです。
 戸田先生は、創価学会は『仏意仏勅の団体』であると言われた。事実、学会は、日蓮大聖人の仰せのままに、日本中に仏法を説き聞かせ、幾百万の人が信心をしました。また、世界に大聖人の仏法を流布してきました。そして、多くの同志が大功徳に浴し、不幸を乗り越え、歓喜の人生を歩んできました。
 こうした事実は、創価学会が正しく仏法を実践してきた証明であり、私どもの実践が、大聖人の御本意に適った厳然たる証拠であると確信するものであります。
 限りある一生です。どうか皆さんは、今後も、地涌の菩薩として、これだけの人に仏法を伝え、幸福への道を教えたという事実を示し、支部を支えてください。一人の人間として、誉れある草創の勇者として、実際に何をするか、いかなる歴史を残すかなんです」
29  奮迅(29)
 二月十八日、希望の春を呼ぶ二月度本部幹部会が、東京・立川文化会館で晴れやかに開催された。
 「支部制」が敷かれて一カ月――各地で任命式を兼ねた支部長会が開かれ、さらに支部結成大会が活発に行われてきた。
 「支部制」が本格的にスタートして以来、初めての本部幹部会であり、参加者は支部の建設に全力投球し、歓喜をみなぎらせて集って来たのである。
 この幹部会の焦点は、支部長・婦人部長の活動報告であった。なかでも会場を沸かせたのは、支部婦人部長を代表して登壇した、東京・目黒区の向原支部婦人部長・西峯富美の活動報告であった。
 彼女は、夫と共に、仕出し弁当店を切り盛りする勤労婦人である。平日は毎朝、午前五時には起きて勤行し、仕出し弁当の仕込みや準備にあたってきた。弁当の注文が多ければ、起床は、さらに早まる。
 仕込みのあと、朝食をとり、三人の子どもを学校へ送り出す。
 午前九時、パートの人たちが出勤してくると、一緒に、正午過ぎまで弁当詰めなどの作業にあたる。急いで昼食を済ませ、それから学会活動に飛び出す。婦人部員への激励・指導や諸会合に、全力を傾ける。
 午後三時に店に戻り、弁当箱を洗い、清掃し、夕食の支度に取りかかる。
 そして、午後七時前から、再び学会活動に走り回る。
 毎日が、目の回るような忙しさである。しかし、そのなかで西峯は、″支部婦人部長として、支部中の人たちを幸せにするのだ″と、新たな決意で立ち上がったのである。
 創価学会の強さ、尊さは、自らが病苦や経済苦などの悩みをかかえ、時間的にも多忙な人びとが、広宣流布の使命に目覚め、友の幸せのために献身していることにある。
 資産があり、生活に余裕のある有閑階級による救済活動ではない。無名の民衆による同苦と励ましの、心の救済活動である。
30  奮迅(30)
 西峯富美は、福井県に二男五女の六番目として生まれた。家は貧しく、中学校を卒業すると働きに出た。
 一九六二年(昭和三十七年)、知人の紹介で、東京・目黒区で中華料理店を営む夫の功と結婚。その時、学会員であった功に勧められて入会した。しかし、夫に従っただけで、一生懸命に信心に励むわけではなかった。
 やがて夫妻は、中華料理店をやめ、仕出し弁当店を始めた。
 富美が発心した契機は、結婚して五年目に生まれた長男が、生後四カ月で肺炎にかかり、他界したことであった。心は無残に打ちのめされた。宿命の厚い壁を感じた。
 その時、親身になって、優しく、力強く励ましてくれたのが学会員であった。
 「あなたが信心に励んで、幸せになっていくことが、亡くなった坊やへの最大の供養になるのよ。いつまでも悲しんでいては、坊やも悲しむわ。きっと坊やも、″ママ、元気になってね!″って応援していると思うわ」
 その言葉は、彼女の心に熱く染みた。
 ″そうだ。強くならなければ。亡くなったあの子の分まで、信心に励もう″
 富美は、婦人部員として学会活動の第一線に立つようになった。
 六八年(同四十三年)、調理場の油鍋の火が天井に燃え移り、大火災になりかけた。しかし、近所の商店の人たちが消火器で消し止めてくれ、小火ですんだ。消防車が到着する前に鎮火し、放水せずに終わった。
 富美は″守られた!″と思った。以来、夫妻は、火の扱いには人一倍神経を注ぐとともに、商店街の人たちに対して深い感謝の思いで交流を図っていった。すると、地域での信頼も増した。″変毒為薬″を心の底から実感し、仏法の功徳を噛み締めるのであった。
 信心ある限り、人生の不遇も、失敗も、すべて生かし切っていくことができる。ゆえに、仏法者に行き詰まりはない。「ただ唱題」「ただ、ただ広布」――その炎のごとき一念と実践が、暗夜を開いていくのだ。
31  奮迅(31)
 西峯富美は、一九七八年(昭和五十三年)一月、向原支部の婦人部長の任命を受けるにあたって、″一人ひとりを大切にし、功徳に満ちあふれた支部をつくろう″と誓った。そして、″皆が幸せになるためならば、なんでもしよう。どんな苦労も厭うまい″と心に決めたのである。
 功徳を受ける道は、唱題と弘教以外にない――西峯は、そう皆に訴えていった。
 また、電話で済ますことができる用事でも、可能な限り直接会って話すように心がけた。それによって、相手のこともより深く知ることができるし、自分のこともよく知ってもらい、一段と親近感が増すからだ。
 相互理解も、友情も、団結も、すべては、会って語り合うことから始まる。
 そうした語らいを通して、彼女が強く感じたのは、″体験談がどれほど多くの人を勇気づけ、信心を奮い起こす力になるか″ということであった。
 実は、向原支部で大ブロック担当員をしている大藪真利子という婦人の体験が、一月度の座談会用の体験談レコードとして全国に配布され、支部内でも大きな感動を広げていたのである。
 ――同居している姑との不仲。長男の病。会社の経営が行き詰まり、心労のために高血圧が高じて倒れてしまった夫……。それら一つ一つの試練と困難を乗り越え、幸せな和楽の家庭を築き上げた体験である。
 支部のメンバーは、身近な同志の体験に強く共感し、″私も苦難を克服できないわけがない。胸を張って体験発表できるようになろう!″と、唱題に、折伏・弘教に、喜々として取り組み始めた。そして、未入会の夫が信心を始めたり、事業の不振から脱した体験などが、次々と生まれていったのである。
 一つの功徳の体験は、友の心に、勇気と確信の火をともす。それがまた、さらに新しい体験を生み、組織中が功徳の喜びの光に明々と包まれていく――これが、そのまま広宣流布の広がりとなるのだ。
32  奮迅(32)
 西峯富美は、本部幹部会で、支部婦人部長としての、この一カ月の活動を元気に語っていった。
 「私は、支部員さんとお会いするたびに、『何があっても、御本尊にお題目を唱え抜きましょう。一つ一つの学会活動に、自分の悩みや苦しみの解決をかけて、戦い、勝利を収めていきましょう』と訴えてきました。
 そうしたなかで、多くの方々が信心の功徳の体験をもつようになり、歓喜のなかに仏法対話の意欲が大いに湧き起こっています。
 そして、私自身、この二月、仏法対話を実らせることができ、大歓喜しております!」
 賞讃の大拍手が起こった。
 一切の活動において勝利の最大の起爆剤は、リーダーが先陣を切ることにある。率先垂範があってこそ、皆が勇んであとに続くのだ。「勇将の下に弱卒なし」である。
 西峯は、一段と声を弾ませ、話を続けた。
 「私は、この歓喜を、支部の皆さん一人ひとりに漏れなく伝えきるとともに、私の信条である″思いやりと、動いて動き回る実践″をもって、必ずや最高にすばらしい支部を築き上げてまいります」
 山本伸一は、西峯の報告に耳を傾けながら、支部幹部が、自分と同じ一念で、″なんとしても皆を幸せにしよう!″と、広宣流布に邁進してくれていることが嬉しかった。
 「師弟不二の道」とは、師の表面的な姿を真似することでもなければ、指示を待って、言われたことだけを行ってよしとする、受動的な生き方でもない。それは、弟子が師の心を心として、同じ一念に立つことから始まる。そして、師に代わって、広宣流布の全責任を担い立つなかにある。つまり、師の指導を深く思索し、わがものとして、人びとの幸せのため、広宣流布のために、勝利の旗を打ち立てていくなかにこそあるのだ。
 伸一は、支部長・婦人部長が「師弟不二の人」となり、″山本伸一″となって立ち上がり、勝ってほしかった。そうなってこそ、広宣流布の洋々たる未来が開かれるからだ。
33  奮迅(33)
 二月度本部幹部会は、やがて、山本伸一の指導となった。
 彼はまず、「感謝の信心」について語っていった。
 「第二代会長の戸田先生は、よく、こう言われていました。『御本尊に常に感謝の念をもっている人は、いよいよ栄える。福運がいよいよまさる』『感謝を忘れた人は、福運が消えていく』」
 ″自分は信心で守られてきた。御本尊あればこそだ!″との感謝の心から、喜びも、希望も、勇気も生まれます。
 また、感謝は、心を豊かにします。反対に不平や不満をいだいていれば、心を自ら貧しくしていきます。御本尊への感謝をもって、日々の学会活動に取り組んでいくなかに、自身の境涯革命があるんです。
 御本尊、仏への、報恩感謝の行動として供養があります。供養には、飲食や衣服などの財物を供養する『財供養』と、仏を恭敬、讃歎し、礼拝する『法供養』があります。弘教や同志の激励に歩くことは、『法供養』にあたります。
 学会活動に励み、喜々として『法供養』を実践していくなかで、目には見えないが次第に福運が積まれ、やがて大利益を顕現していきます。これが冥益です。それによって、揺るぎない人生の土台が確立され、絶対的幸福境涯が築かれていくんです」
 広宣流布の伸展は、全同志が、会長の伸一と呼吸をあわせて、欣喜雀躍して活動できるかどうかにかかっている。もし、歓喜がなくなり、単に義務感で動いているようになれば、人びとを啓発していくことはできないし、功徳、福運もなかなか積むことはできない。
 大事なことは、御本尊への、その御本尊を教えてくれた創価の師への、学会への感謝の念をもって、喜び勇んで広宣流布の″戦い″を起こしていこうという″心″である。
 ″感謝″ある人には″歓喜″がある。そして、燃え立つ歓喜の生命こそ、挑戦、前進、勝利、幸福の活力源となるのだ。
34  奮迅(34)
 山本伸一は、支部長・婦人部長をはじめ、幹部として学会活動に励んでいる同志の労苦を、誰よりもよく知っていた。だから、その意味を再確認することで、皆を励まし、元気づけたかった。
 「幹部の皆さんは、さまざまな会員の方々とお会いし、指導、激励を重ねておられる。時には″どうして、道理、真心が通じないのか″と、投げ出してしまいたい思いをすることもあるでしょう。しかし、大変であるからこそ仏道修行なんです。
 人びとの幸せのために尽くす姿は、仏の使い以外の何ものでもありません。地涌の菩薩でなければ、決してできない尊い行動です。
 忘れないでいただきたいことは、会員の皆さんがいて、その成長のために心を砕き、献身することによって、自己の向上があるということです。つまり、幹部にとって会員の皆さんは、すべて、人間革命、一生成仏へと導く善知識になると確信していただきたい。
 また、後輩の支部員の方々は、先輩幹部が先に立って、皆が成仏の山頂に登れるように、進むべき方向を示し、叫んでくれていることに、無量の感謝をすべきです。信心を導いてくれるということは、自分のみならず、一切の眷属まで崩れざる幸福に至る道を、教え示してくれることになるからです。したがって、その指導に対しては、謙虚に、求道心をもって従い、実践していくべきであります」
 伸一は、支部長・婦人部長に、満腔の期待を込めて訴えた。
 「よく、『何人、優れた人を生むかによって、その指導者の価値が決まる』と言われます。
 仏は、一切衆生の成仏を使命とされ、喜びとされている。仏子である私たちも、それぞれの立場で、後輩が自分より立派な指導者に育ち、活躍してくれることを祈り、それを望外の喜びとしていきたい。また、そこに、広宣流布のリーダーの生きがいがあります。
 どうか、後輩と共に動くなかで、信心の基本を、一つ一つ教え伝えていってください。″共戦″こそが人材の育成になります」
35  奮迅(35)
 山本伸一は、最後に、「生涯持続」の信心を呼びかけた。
 「信心は一生です。額に汗し、歯を食いしばりながら、広宣流布の一つ一つの峰を乗り越えていくんです。大きな峰を越えると、さらに大きな峰が待ち受けている。しかし、信心の炎を燃やし、それらを登攀し抜いていくのが広宣流布の道であり、その帰結が一生成仏というゴールなんです。
 ″大変だな″″ここまで頑張らなければならないのか″と、思うこともあるでしょう。でも、勇気を奮い起こして、自身の悩みの克服、宿命の転換をかけて、一歩、また一歩と進んでいってください。戦いのたびごとに、功徳の実証を示していくんです。
 信心の炎を燃え上がらせていくならば、いかなる険路も、強い心で、楽しく、勇敢に挑戦していくことができます。
 一生涯、信心を貫き通していった人が、信仰の真髄を会得した人といえます。
 支部長・婦人部長の皆さんは、広宣流布の名リーダーとなって、全支部員の頭上に、功徳の栄冠を輝かせていってください」
 本部幹部会は、歓喜のなかに幕を閉じた。
 伸一は、支部制は着実に軌道に乗りつつあるとの、手応えを感じていた。そして、その支部制を、さらに盤石なものにしていくには、男女青年部の強化に力を注がなければならないと思った。
 戸田城聖は、十二支部の布陣を構え、第二代会長として立った時、直ちに着手したのが、男子部、女子部の結成であった。今、伸一もまた、広宣流布の推進力である青年部を、本格的に育成しようと決意したのである。
 彼はまず、自ら男子部員のなかに飛び込み、指導、激励することにした。それも、東京の男子部ではなく、信越男子部の幹部会に出席することから、その行動を開始したのだ。
 各方面がそれぞれの特色を生かし、先駆となって、広宣流布を牽引していってこそ、「広布第二章」という新時代が開かれると、彼は強く確信していたからである。
36  奮迅(36)
 二月度本部幹部会が行われた翌日の二月十九日、信越から東京・立川文化会館に男子部員が集ってきた。
 佐渡から海を越えてきた人や、長靴姿で雪深い山村から駆けつけてきた人もいる。どの顔も頬は紅潮し、求道と時代建設の息吹に満ちあふれていた。
 立川文化会館の最寄りの駅は西国立駅である。列車で上野駅に到着した人は、山手線で神田駅に出て中央線に乗り換え、さらに、立川駅から南武線に乗る。そして、一つ目が西国立駅である。
 参加者の大多数は、東京には何度も来たことがあったが、西国立駅となると、どこにあるのか、さっぱりわからなかった。それだけに、皆が迷うことなく会場に到着できるように、誘導態勢をつくるなど、方面や県の幹部の気苦労も多かった。
 会場の立川文化会館に勢ぞろいした信越の青年たちは、意気軒昂であった。″師匠を求めて、どこへでも行こう!″″広宣流布の激戦地があれば、勇んで飛んで行こう!″というのが、彼らの心意気であった。それこそが、男子部魂である。
 そもそも、この信越男子部の幹部会自体、「先生のいらっしゃるところに駆けつけます。師匠のもとから、広布の最前線へ、出発させていただきたい」との強い要請があって、開催が決まったのである。
 山本伸一は、その決意が嬉しかった。
 伸一自身、青年時代から、広宣流布の激戦地には、どこであろうと、欣喜雀躍して駆けつけた。
 蒲田へ、文京へ、小樽へ、札幌へ、大阪へ、山口へ、夕張へ、荒川へ、葛飾へ……。
 ″同志が苦闘している――それを知りながら何もしないのは、無慈悲な傍観者である。断じてそんな生き方をしてはならない″
 伸一は、そう自らに言い聞かせてきた。
 皆が常に広宣流布の全体観に立ち、心を合わせ、勇猛果敢に行動していくなかに、真の団結があり、勝利の道がある。
37  奮迅(37)
 二月十九日午後二時半、信越男子部幹部会の会場である立川文化会館に、山本伸一の闘魂に満ちあふれた力強い声が響いた。
 「『さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!
 決められた決勝点は取り消すことができないのだ』
 これは、ホイットマンの詩集『草の葉』にある、有名な一節であります」
 集った青年たちは、伸一の指導の一切を吸収するのだとばかりに、眼を輝かせて、耳を澄ましていた。
 このホイットマンの言葉は、伸一が若き日から深く心に刻み、暗唱してきた詩であり、これまでに何度となく、多くの青年たちに伝えもしてきた。
 「さあ、出発しよう――とは、過去にとらわれるのではなく、晴れやかに、未来をめざして生きる青年の姿です。″いよいよ、これからだ″という日々前進の心意気です。間断なき挑戦の気概です。
 信心は持続が大切ですが、持続とは、単に、昨日と同じことをしていればよいという意味ではありません。それでは惰性です。″さあ、出発しよう″と、日々、新たな決意で、自分を鼓舞して戦いを起こし続けていくのが、本当の持続の信心なんです。
 毎日、毎日が、新しい出発であり、勝利の日々であってこそ、人間革命も、人生の大勝利もあることを知ってください。
 悪戦苦闘――これは、広宣流布のため、自身の人生の勝利を飾るために、必ず経なければならない道程なんです。苦労しなかった偉人はいません。偉業を成した人は、皆が、迫害、非難、中傷にさらされ、ありとあらゆる苦難と戦っています。
 創価の大道を開いてくださった初代会長の牧口先生も、第二代会長の戸田先生も、軍部政府の弾圧と命を懸けて戦われています。私たちは、その師子の子どもです。勇んで悪戦苦闘のなかに身を置き、それを突き抜けていくなかに、自身の人間革命があるんです」
38  奮迅(38)
 人生は波瀾万丈であり、悪戦苦闘しながら進んでいかなければならない日々もある。
 しかし、その試練に挑み立つ時、自らが磨かれ、鍛えられ、強く、大きく、成長していくのである。
 山本伸一は、一段と強い語調で語った。
 「悪戦苦闘は、われらにとって、避けがたき宿命的なものです。しかし、決められた決勝点、すなわち、われらの目的である広宣流布、また、一生成仏、人間完成、福運に満ちた勝利の実証を示すという、人生の決勝点は取り消すことはできない。
 たとえば、ひとたび飛行機が飛び立ったならば、飛び続けなければ次の目的地に着くことはできません。その途中には、強風もある。雷雲も発生するかもしれない。ましてや、われわれは、地涌の菩薩の聖業であり、人生の最極の目的である広宣流布のための戦いを起こした。悪戦苦闘を覚悟するのは当然です。
 私は、皆さんが苦闘を誇りとして、信心の確信と歓喜を胸に、凜々しく進んでいかれることを、日々、真剣に祈っております」
 悪戦を経た数だけが、自身の経験の輝きとなる。苦闘の数だけが力の蓄積となる。苦労し、苦労し抜いてこそ、真実の指導者に育つことができるのだ。
 伸一は、さらに、戸田城聖の「男は、それなりにトップに生きよ」との指導を引いて、それぞれの今いる分野にあって、トップをめざすことの大切さを訴えた。
 次いで、学会の草創期、伸一ら数人の青年が核となって、広宣流布の火ぶたが切られたことを述べ、その活動は、文字通り、不眠不休の激闘の歳月であったことを語った。
 「時代は刻々と移り変わっていきます。しかし、広宣流布という人間の生命の根底から変革していく宗教革命は、生命を賭する覚悟がなくては決して成就できるものではない。つまり、何があろうが、信心の火だけは、盛んに燃え上がらせていくことです。
 そのうえで、民衆の信頼と理解を勝ち得ていくことが、必要不可欠なのであります」
39  奮迅(39)
 山本伸一は、ここで、創価学会の運動の意義に言及していった。
 「事実上、学会は日本一の大教団となり、職業も年齢も異なる、まことに多種多様な人びとが集っております。
 そのなかには、すぐに感情的になってしまう人や、非常識な人もいるかもしれない。
 すべての人を包容し、最も悩み苦しんでいる人たちに根底から光を当てて救済し、幸福を実現してきたのが創価学会です」
 かつて、信心を始めた会員の多くは、それぞれが深刻な問題をかかえていた。その個々人の問題が、あたかも学会全体の問題であるかのようにすり替えられ、非難中傷を浴びせられたこともあった。
 それは、学会が、社会の底辺にあって苦悩する人びとに救済の手を差し伸べ、宗教の使命を果たし抜いてきた証明ともいえよう。
 「私どもが担ってきたことは、最高に尊い、仏の使いでなければでき得ぬ労作業でありました。仏の聖業を、仏に代わって行ってきた。だからこそ、経文に照らして、容赦のない嵐が競い起こるのは、必然なんです。
 広宣流布は激浪の海を行かねばならない。その覚悟を定めなければ、何かあれば、すぐに揺らいでしまう。この根底の一念というものを、どうか堅固に確立していただきたい。
 そのうえで、もし、非があれば、非として認め、反省し、前進していくことです。決して、独善的であってはならない。揺るがざる信念と理不尽とを混同してはなりません」
 不屈の信念をもって、常識豊かに、忍耐強く、社会の信頼を勝ち得ながら前進していくなかにこそ、広宣流布の広がりはある。
 伸一は、凜とした声で訴えた。
 「広宣流布の前進ある限り、今後も、さまざまな問題が生ずるかもしれない。その一切の責任は、私にあります。戸田先生も、学会に起こった諸問題に対して、『罪深き私のゆえ』と、よく言われていた。私も、全く同じ思いであります。諸君は、安心して、伸び伸びと、後継の大道を歩んでいってください」
40  奮迅(40)
 山本伸一は、信越男子部幹部会に集ったメンバーに、期待と信頼の眼差しを注ぎながら、言葉をついだ。
 「皆、さまざまな境遇で、苦労し、呻吟しながら生きている。それが、現実です。絵に描いたような華やかな人生なんてありません。そんなものは幻想です。
 そのなかで、現実に根を張って、着実に自身を開花させていくんです。時には、″自分なんか駄目だ!″と卑下したり、″なんで自分には光があたらないのだ″と、絶望的な思いをいだくこともあるかもしれない。
 しかし、諸君の人生は長い。決して焦ってはならない。焦って、地道な努力を怠れば、必ず、どこかで行き詰まってしまう。
 人生の勝負は、五年や十年で決まるものではありません。一生で判断すべきです。さらに、三世の生命という根源的な尺度で、ものを見ていくことです。特に、行き詰まった時には、もう一度、この次元から自分を見直し、勇気を奮い起こしていただきたい。
 人生の勝利は、持続の信心のなかにこそある。そして、当面の課題、戦いに、全力でぶつかり、今を勝つことです。それによって、自分の苦悩を一つ一つ乗り越え、自身の境涯を開いていくことができる。すべての広宣流布の活動は、自分が幸福になり、人生に勝利するためにある。苦労した分は、すべて自分の功徳、福運となっていくんです。
 いいですか! 今、何をするかですよ。時は決して待ってはくれない。今、立つんです。
 最後に、もう一度、あのホイットマンの詩の一節を読み上げたい。
 『さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 
 決められた決勝点は取り消すことができないのだ』」
 爆発的な大拍手をもって、信越男子部幹部会は終了した。
 以来、「さあ、出発しよう!」は、信越の男子部員だけでなく、全学会青年部の日々の決意となり、合言葉となっていった。
41  奮迅(41)
 いかにして、広布第二章の「支部制」を軌道に乗せるか――山本伸一は、来る日も来る日も、そのことを考え続けていた。広宣流布の戦いにおいて、ひとたび事を起こしたならば、失敗は許されないからである。
 支部を強化していくうえでは、幾つかの支部をまとめていく本部長の存在も大事になる。そこで彼は、二月の二十五日には、東京・立川文化会館で行われた、関東・東海道合同本部長会に出席した。
 席上、伸一は、皆が事故などを起こすことのないように、幹部は細心の注意を払って、会員を守っていってほしいと訴えた。
 また、それぞれが広宣流布に生きる心境を和歌にし、広布万葉の″和歌集″を発刊してはどうかと提案した。歓声があがった。
 法のため、社会のために尽くす、広宣流布の激闘と歓喜と幸福の境地を詠んだ″和歌集″は、そのまま仏法の偉大さの証明となろう。
 三月の一日には、東京支部長会が立川文化会館で開かれたが、伸一には、別の予定が入っていた。それでも、なんとかして皆に会おうと会場に駆けつけた時には、既に支部長会は終わっていた。だが、幸いにも、参加者は退場前であった。
 ″今、自分に何ができるか……″
 彼は皆のために、「荒城の月」「熱原の三烈士」など、真心を込め、ピアノを演奏した。そして、叫ぶように語った。
 「皆さん! 頼みます。私に代わって一切の指揮を執ってください。同志を励ましながら、仏法の真実を訴えてください。智慧を絞り、心を尽くし、動きに動いてください!
 真剣に勝る力はありません。新しい時代を開くのは、今なんです。戦いましょう!」
 時は瞬く間に過ぎ去っていく。一分一秒が万鈞の重みをもっている。一瞬たりとも時間を無駄にしてはならない――伸一は、そう自分自身に言い聞かせ続けてきた。彼の迅速な行動も、過密なスケジュールも、時間を大切にするがゆえであった。一瞬の時も、使い方次第で、限りない可能性を発揮するのだ。
42  奮迅(42)
 青年が伸び伸びと元気に活躍している組織には活力がある。前進がある。未来がある。
 三月四日、山本伸一は、立川文化会館で行われた、東京青年部の男女部長会に出席した。
 彼は、″自分の生命を削ってでも、青年を育成しなければならぬ″と決意していた。
 この日の指導で伸一は、戸田城聖が学会の後事の一切を青年に託した、3・16「広宣流布記念の日」の模様などを述べるとともに、「能忍」について語った。「能忍」とは仏のことで、悪世の娑婆世界に出現して、よく耐え忍び、慈悲をほどこすことをいう。
 「諸君は若い。長い人生にあっては、これからも、苦しいこと、嫌なこと、辛いこと、悲しいことが、たくさんあるでしょう。
 私たちは悪世末法に生き、広宣流布していこうというんです。苦難があって当然です。
 日蓮大聖人が、『山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし』と仰せのように、苦難の連続が広宣流布の道であり、また、人生であるといっても過言ではない。そのなかで戦い、勝利していくことによって、煩悩即菩提、生死即涅槃の原理を証明し、大聖人の仏法の正法正義を示していくことができるんです。
 人の一生は、波瀾万丈です。勤めている会社が倒産したり、病に倒れたり、愛する家族を亡くしたりすることもあるかもしれない。
 しかし、たとえ、苦難に打ちのめされ、社会での戦いに、ひとたびは負けることがあったとしても、信心が破られなければ、必ず再起できます。最後は勝ちます。わが人生を勝利していくための力の源泉が信心なんです。
 そして、それには『能忍』、よく耐え忍ぶことが大事なんです」
 人間を無力にしてしまうものは、″もう駄目だ!″というあきらめにある。それは、自らの手で、自分に秘められた可能性の扉を閉ざし、精神を閉じ込めてしまうことにほかならない。あきらめこそが、敗北の因である。
 信仰とは、絶望の闇を破り、わが胸中に、生命の旭日を昇らせゆく力である。
43  奮迅(43)
 広宣流布は、新しき挑戦の旅路である。
 挑戦には忍耐が必要である。
 フランスの文豪バルザックは、「偉大な仕事を生み出す根源の力である忍耐」と記している。
 山本伸一は、創価学会の後継者たる青年部員には、労苦に耐え、自身を磨き抜く、「能忍」の人に、真実の勇者に育ってほしかったのである。
 もし、青年たちが、本当の苦労を知らぬまま、指導者になってしまえば、民衆の心から離れた創価学会になってしまう。そうなれば学会は行き詰まり、民衆の救済という広宣流布の使命を果たしていくことはできない。ゆえに、″創価の後継者″として立つためには、勇んで苦労を引き受け、耐え忍んでいくことが大切になるのだ。
 ″苦労を避けよう。少しでも楽をしよう″という考え、行動が習性化してしまうと、挑戦への勇気が失われ、前進も、向上も、成長もなくなってしまう。そこから発するのは、保身の腐臭である。すると、周囲の信頼も、尊敬も失われ、人は離れていく。
 青年時代に皆の大きな期待を担いながら、大成せずに終わった人を、伸一は何人も見てきた。そうした人たちに共通しているのは、自分は汗を流さずに人にやらせるなど、苦労を避けて通ろうという姿勢であった。
 また、青年たちのなかには、健康で、経済面などにも恵まれ、整った環境で、苦労を知らずに育った人もいよう。
 そうであるならば、学会活動の世界で、自ら率先して厳しい課題に挑戦し、苦労を重ねながら、自分を磨いていくことである。
 特に、折伏・弘教、指導・激励に心血を注ぎ、友のために涙し、懸命に戦いの歴史をつくることが大事である。
 たとえば、病苦の友に信心を教え、励まし抜き、病克服の体験を目の当たりにすれば、自らが病を乗り越えたに等しい喜びと、信心への確信を得ることができる。人間関係や経済的な悩みをもつ友についても同様である。
44  奮迅(44)
 山本伸一は、「支部制」を広宣流布の新しい跳躍台にしていくため、すべての人たちが支部建設の大きな力となるよう、あらゆる手を打っていった。
 中心となる支部長・婦人部長をはじめ、支部の守り手となる指導部などの草創の幹部、支部をまとめる本部長、さらに、活動の推進力となる男女青年部の部長と、間断なく激励・指導の手を差し伸べていった。
 また、各支部が文化会館などを使って盛大に支部結成大会を行い、支部活動のスタートを切るようにするなど、さまざまな観点からアドバイスを重ね、自ら先頭に立って、行動の範を示してきた。
 「支部制」が軌道に乗り始めた今、伸一が次に力を注ごうとしていたのが、最前線組織であるブロックの充実であった。
 支部といっても、その基盤はブロックである。支部の強化とは、各大ブロックの強化であり、さらに言えば、各ブロックの強化にほかならないからだ。
 大創価学会といっても、その実相は、ブロックにこそある。わがブロックで、″何人の人が歓喜に燃えて活動に取り組んでいるのか″″何人の人が功徳の体験をもち、信心への絶対の確信をもっているのか″″何人の人が喜々として座談会に集って来るのか″――それがそのまま、創価学会の縮図となる。
 「九層の台も累土より起こり、千里の行も足下より始まる」とは、『老子』の箴言である。ブロックという足元の組織の強化がなされなければ、支部をはじめ、学会の組織は、砂上の楼閣となってしまう。
 最前線組織であるブロックを堅固にしてこそ、広宣流布は盤石なものとなり、大創価学会の飛躍があるのだ。
 そのためには、全幹部が徹してブロックに入り、一人ひとりと対話し、人材を育むことだ。そして、ブロック長、ブロック担当員(現在の白ゆり長)を中心に、皆が和気あいあいと、一人ももれなく、喜び勇んで信心に励める″人間共和″の連帯を築き上げることだ。
45  奮迅(45)
 ブロック強化の流れをつくるにあたり、山本伸一は東京ではなく、埼玉から始めようと思った。埼玉のもつ限りない未来性に、大きな期待を寄せていたからである。
 首都圏においては、東京の多摩地域をはじめ、埼玉、神奈川、千葉などが、ベッドタウンとして開発が進み、人口も急増していた。今後、その流れは、ますます進み、二十一世紀には、東京都区部周辺に、いくつもの新しい都市が誕生することは明らかであった。
 それは、創価学会にとっても、新しい時代を築く舞台が開かれることを意味する。そして、そうした地域に、創価の人間主義の大連帯をつくり上げることができるかどうかが、広宣流布の未来を決することになる。
 伸一は、そのための本格的な取り組みを、まず埼玉の地から着手し、組織の最前線のリーダーであるブロック幹部のなかに、自ら飛び込んでいこうと決めたのである。
 伸一が出席することになった埼玉県婦人部のブロック担当員会を翌日に控えた三月六日のことである。彼は、この日の夕刻、学会の首脳幹部と懇談した。その折、埼玉の志木支部川越地区に、伸一が御書講義に通ったことが話題になり、幹部の一人が伸一に尋ねた。
 「先生の川越での講義を受講された方々は、『今なお、魂が打ち震えるような感動が蘇ってきます』『堂々とした、師子吼のような講義でした』と語っています。先生は、どういうご一念で、講義をされたんでしょうか」
 言下に、答えが返ってきた。
 「周囲から見れば、堂々と、余裕綽々であるかのように見えたかもしれない。しかし、私は、背水の陣の思いで、真剣勝負で講義に臨んだんです。
 当時、志木支部というのは、小さな支部であり、東京の各支部と比べ、活動も大きな遅れをとっていた。戸田先生は、そのなかの一地区をもり立て、埼玉から広宣流布の新たな旋風を起こそうと、私を、先生の『名代』として御書講義の担当者に任命し、派遣された。その時、私は二十三歳でした」
46  奮迅(46)
 山本伸一が、御書講義の講師として川越地区に派遣されたのは、戸田城聖が第二代会長に就任して約五カ月後の、一九五一年(昭和二十六年)九月二十五日のことであった。
 以来、約一年五カ月にわたって、伸一は川越に通う。その間に、「治病大小権実違目」「佐渡御書」「日厳尼御前御返事」「聖人御難事」「如説修行抄」「松野殿御返事」「生死一大事血脈抄」「三大秘法禀承事」「阿仏房尼御前御返事」「日女御前御返事」などの講義を行っている。
 伸一は、懐かしそうに語っていった。
 「戸田先生は、会長就任の席で、生涯の願業として、会員七十五万世帯の達成を発表された。また、大教学運動の要となる講義部員も任命され、私も、その一人となった。
 当時、幹部は、先生が会長になられたことで歓喜し、折伏・弘教に力を注ぎはしたものの、本気になって先生の願業を成就し、なんとしても、師と共に広宣流布の礎を築こうという自覚は乏しかった。
 先生は、この年の八月末、私に言われた。
 『このままでは、七十五万世帯の達成には、何十年、何百年とかかってしまうことになりかねん。特に埼玉方面は低迷している。そこで、志木支部の川越地区の講義を担当し、御書を根本に広宣流布の使命を自覚させ、立ち上がらせてほしい。支部の建設といっても、地区を強くすることから始まる』」
 五一年(同二十六年)当時、各支部は数地区から十数地区で構成され、地区が最前線組織であった。大きな地区の場合は、地区に幾つかの班を設けて活動していたが、学会として正式に、支部―地区―班―組という組織の布陣が整うのは、翌五二年(同二十七年)の一月からである。
 そして、戸田は伸一に、こう語った。
 「地区という小さな単位ではあっても、そこから、学会全体へと信心の炎は燃え広がっていく。都心から離れた埼玉の川越に、模範の地区をつくることができれば、東京も大きな触発を受け、大奮起するだろう」
47  奮迅(47)
 戸田城聖は、山本伸一を凝視して語った。
 「君には、川越地区のこと以外にも、さまざまな活動の重責を担ってもらおうと思っている。これから何かと忙しくなるだろうが、埼玉は大事だ。だから、本腰を入れて、川越地区の建設に取り組んでくれ給え。
 御書を通して、深く信心を打ち込み、人を育てるんだ。組織を強化するには、人材の育成しかない。
 これは、地味だが、七十五万世帯達成のカギを握る大切な作業になる。できるか!」
 伸一は、間髪を容れずに応えた。
 「はい! 全力で川越地区の建設にあたってまいります」
 戸田は目を細めて、嬉しそうに頷いた。
 伸一は、師の構想を実現するうえで、極めて重大な責任が、自分の双肩にかかっていることを感じた。
 ″この御書講義は、師の願業を実現するための、突破口を開く戦いの一つなのだ! もし、これが成功しなければ、先生の広宣流布の構想は、緒戦からつまずいてしまうことになる。弟子として、そんなことは、絶対に許されない!″
 伸一は、仕事と学会活動の合間を縫い、講義する御書を研鑽した。何十回と拝読し、わからない箇所は徹底して調べ、思索に思索を重ねた。
 ″戸田先生の「名代」として講義に行くのだ″と思うと、緊張が走り、研鑽にも、唱題にも力がこもった。
 一九五一年(昭和二十六年)の九月二十五日、第一回となる川越地区御書講義の日を迎えた。夕刻、大東商工の事務所で、川越へ向かう伸一に、戸田は言った。
 「講義の一回一回が勝負だぞ。″これでもう、川越には来られないかもしれない″という、一期一会のつもりで臨みなさい。
 講義は、真剣で情熱にあふれ、理路整然としていなければならぬ。そして、仏法に巡り合い、広宣流布に生きることができる歓喜を、呼び覚ませるかどうかが勝負だ」
48  奮迅(48)
 戸田城聖は、短時間だが、御書講義の要諦を山本伸一に語った。
 「御書講義にあたっては、深い講義をすることだ。深い講義というのは、難しい言葉を並べ立て、理屈っぽい講義をすることではない。むしろ、わかりやすく、聴いた人が″なるほど、そうなのか! 目が覚めるようだ。それほど重要な意味があったのか。確信がもてた″と言うような講義だ。
 つまり、受講者が理解を深め、広宣流布の使命に目覚めることができる講義こそが、本当に深い講義といえる。
 一、二年したころには、川越地区を、今の支部並みの組織にするんだよ」
 戸田の指導を胸に、伸一は小雨のなか、勇んで川越地区の講義に出かけていった。
 職場である大東商工のあった市ケ谷から池袋に出て、東武東上線で川越に向かった。成増駅を過ぎると、ほどなく埼玉県である。
 既に夜の帳が下りた車窓に、田園が広がっているのが、うっすらと見えた。
 伸一は、″大埼玉の天地に出でよ。数多の地涌の菩薩よ!″と、題目を大地に染み込ませる思いで、盛んに心で唱題し続けていた。
 池袋駅から五十分ほどで川越駅に着いた。「小江戸」と呼ばれ、城下町として栄えた川越には、落ち着いた風情が漂っていた。講義会場の家は、徒歩で一、二分のところにあった。
 午後七時前、伸一は元気な声で、「こんばんは!」と言って会場に姿を現した。
 八、九人の受講者が集っていたが、一人が小声で「こんばんは」と応えただけで、皆、怪訝そうな視線を伸一に向けた。ほとんどの人は、伸一のことを知らなかったし、彼があまりにも若かったために、担当の講師とは思わなかったのである。
 しかし、確信に満ちあふれた、音吐朗々たる題目三唱に、皆、全身からほとばしる気迫を感じ、思わず姿勢を正した。
 「戦場はここだ。戦うのはここだ。わたしはあくまでここで勝つ気だ!」――劇作家イプセンが戯曲に記した言葉である。
49  奮迅(49)
 講義開始の午後七時になった。
 山本伸一は、自己紹介から始めた。
 「私は、このたび、戸田先生の『名代』として川越地区の御書講義を担当させていただくことになりました山本伸一と申します。
 全精魂を注いで御書講義をさせていただくとともに、御書を身で拝され、広宣流布の指揮を執られている戸田先生の大精神を、皆様にお伝えしてまいりたいと思います。
 なお、この御書講義につきましては、戸田先生より、受講者の皆さんへ、各御抄の修了証書を賜ることになっております。
 若輩ではございますが、教学をもって、皆さんと共に、川越地区大発展の礎を築いてまいる決意ですので、どうか、よろしくお願い申し上げます」
 彼は、こう言って、深く頭を下げた。
 「講義は、時間の関係もありますので、重要な箇所を抜粋して講義させていただきます。
 また、終了後には、時間の許す限り質問をお受けいたしますので、わからないことがございましたら、なんでもお聞きください」
 まだ、創価学会による御書全集の刊行前であり、研鑽する御抄は、それまでの『大白蓮華』に掲載されたものである。ところが、何カ月も前に掲載された御抄もあり、教材を持っていない人もいた。
 受講者は選ばれた人であったが、御文を拝読してもらっても、途中で詰まってしまう人が多かった。伸一の方から、語句の意味などを質問してみると、基礎的な教学の知識も乏しく、その回答からは、弘教への意欲も感じられなかった。大多数の人は、ただ、「題目を唱えれば功徳がある」と聞かされ、入会に踏み切ったと言うのだ。
 皆、経済苦や病などの苦悩と格闘していた。高邁な理想よりも、今日、食べる米をいかに確保するかが最大の関心事であるという人が、ほとんどであった。その庶民が立ち上がり、生活という現実と戦いながら、広宣流布の大理想をめざしてきたのが創価学会なのだ。そこに、民衆に根差した学会の強さがある。
50  奮迅(50)
 山本伸一による川越地区の第一回講義では「佐渡御書」や「聖人御難事」など、御書四編を研鑽した。
 「佐渡御書」の「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」のところでは、こう訴えた。
 「取るに足らない世間のことで大事な命を失う人は多いが、仏法のために、命を捨てようという人はいない。したがって仏になる人もいないのである――と仰せになっているんです。つまり、尊い命をなんのために使うのかが大切であり、大聖人は、″仏法のため、広宣流布のために、その命を使いなさい、捧げなさい″と言われている。
 仏法のために命を捧げるといっても、単に、死を意味しているわけではありません。
 わが人生の目的は広宣流布にあると決め、生涯、仏法のために働き、生き抜いていくことが、仏法に命を捧げることになるんです。それによって自身の境涯革命、人間革命、一生成仏がなされ、最高に充実した、歓喜に満ちた、幸福な人生を生きることができるんです。
 したがって、法華経に『不自惜身命』とありますが、その境地は、決して悲壮感に満ちたものではありません。
 それは、いかなる困難も恐れず、勇気と挑戦の息吹にあふれ、生きていること自体が、楽しくて楽しくてしょうがないという境涯です。エゴイズムに支配された″小我″ともいうべき自己の殻を破り、仏法という大法に則った″大我″の自分へと蘇生し、最高の自分というものを確立していく大道なんです。
 世間でも『死を先んずる者は必ず生ず』と言われるように、死を覚悟した人は強い。同様に、広宣流布に一身を捧げようと心を定めるなかにこそ、自分を生かし、本当の自己の輝きを放っていく方途があるんです。
 もともと、私たちは、広宣流布の使命を果たすために生まれてきた地涌の菩薩です。ゆえに、勇んで弘教に邁進していくなかで、私たちの本領を発揮することができるんです」
51  奮迅(51)
 山本伸一は「聖人御難事」では、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」について語った。
 「広宣流布の道にあって、最も大切なものは勇気なんです。後輩の激励に行くにも、人びとに仏法を語っていくにも、法難に立ち向かっていくにも、根本の力は勇気です。いわば、勇気こそが、境涯を開き、宿命を転換するカギなんです。そして、その勇気の源泉が『師子王の心』です。
 『師子王の心』とは何か。日蓮大聖人の大精神であり、末法の一切衆生を救済していこうという御心です。そして、その仰せのままに、広宣流布に立たれた、牧口先生、戸田先生のご精神でもあります。
 また、師子王の『師子』とは、師匠と弟子であり、師弟を意味しています。つまり、弟子が師匠と呼吸を合わせ、同じ決意に立ってこそ、何ものをも恐れぬ、勇敢な『師子王の心』を取り出していくことができるんです。
 私は、毎日、″弟子ならば、戸田先生のご期待にお応えするんだ!″″先生に、お喜びいただける広宣流布の歴史を残そう!″と、自分に言い聞かせています。すると、どんな苦難に直面しても、″へこたれてなるものか!″という勇気が湧いてきます。
 また、わが胸中に師匠をいだき、いつも師と共に生きている人は、人生の軌道、幸福の軌道を踏み外すことはありません。その己心の師匠が、自分の臆病や怠惰を戒め、勇気と挑戦を促し、慢心を打ち砕いてくれるからです。人の目はごまかせても、己心の師匠は、じっと一切を見ています。
 私たちには、戸田先生という偉大な広宣流布の師匠がいます。その先生が、いつ、どこにあっても、自身の胸中にいる人が、真の弟子なんです。それが、師弟不二の第一歩なんです。戸田門下生となれたわれらは、先生と共に、いや、先生に代わって、慈折広布の戦いを起こしていこうではありませんか!」
52  奮迅(52)
 山本伸一の御書講義は、語るにつれて、ますます熱がこもっていった。
 「最初に私は、戸田先生の『名代』として地区講義を担当することになったと申し上げましたが、同様に皆さんもまた、先生の『名代』の自覚をもっていただきたい。
 戸田先生は、初代会長の牧口先生亡きあと、先師の遺志を受け継いで、ただ一人、広宣流布に立たれた。今度は、私ども弟子が、恩師・戸田先生の心を心として、『名代』の決意で師弟不二の道を進んでこそ、大願の成就があります。
 したがって、常に、″戸田先生なら、こういう場合にはなんと言われるか。どう行動されるか″を考え抜いていくことが大事です。
 少人数であっても、ここにいらっしゃる皆さんが、先生の『名代』であるとの自覚に立てば、川越地区も、志木支部も、埼玉も大発展します。大勝利します。百獣の王たる師子王の戦いを、起こそうではありませんか!」
 受講者は、伸一の話に固唾をのみながら、真剣に耳を傾けていた。
 さらに伸一は、「聖人御難事」の「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」の箇所を取り上げ、「日々発心」の信心の大切さを訴えていった。
 「広宣流布とは、魔との壮絶な戦いなんです。昨日まで、どんなに懸命に頑張り抜いてきても、少しでも前進の歩みが止まれば、魔に付け入る隙を与えてしまうことになる。
 とかく人間は、困難の壁が厚いと、″これでは、とてもだめだ″と投げ出し、戦いの気概を失ってしまう。反対に、困難を克服できそうになると、″もう大丈夫だ。なんとかなる″と思って油断し、手を抜いてしまう。
 どちらも、魔に食い破られた姿です。魔の狙いは、ともかく精進を忘れさせて、広宣流布の流れを停滞させ、破壊することにある。
 それに勝つには、日々前進、日々挑戦、日々向上していくしかない。自転車は止まれば倒れる。一生成仏の戦いも同じです」
53  奮迅(53)
 御書講義の最後に、山本伸一は言った。
 「私には、川越地区、志木支部、そして埼玉に対して、戸田先生がどれほど大きな期待をいだかれているか、痛いほどわかります。
 先生は、十年後、三十年後、さらには二十一世紀の未来をお考えになって、埼玉に難攻不落の広布城を築こうとされているんです。
 時代によって、広宣流布の本舞台も変わっていきます。今は東京が先駆し、本舞台となっていますが、数十年後も同じ状況とは限りません。今、皆さんは、″埼玉は一支部であり、東京には十支部もある。それに大支部も多い。埼玉が東京を凌げるわけがない″と思っているでしょう。
 しかし、二十一世紀になれば、次第に東京を凌駕していくようになるでしょう。また、必ずそういう時代を創らなければならない。歴史は動いていくんです。
 そのために何をするのか。日々、足元を固めていくことです。大聖人も『一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか』と仰せのように、今の眼前の課題に全力で取り組み、一つ一つ着実に勝ち進んでいく以外にありません。
 今日やるべきことは、必ず、今日やるんです。今なすべきことに全精魂を注ぎ込んでいくんです。すると、そこから新しい道が開かれていくものです」
 「今」という一瞬は、無限の未来をはらんでいる。歴史を動かすのも、瞬時の判断であり、行動である。その「時」を逃さぬためには、瞬間瞬間を全力で事に当たるのだ。
 勝利を決する好機は、常にある。その好機を生かすことのできる人は、いつ好機が訪れようが、それを最大に活用できるように、絶え間なく努力、奮闘してきた人である。
 御書講義を終えた伸一は、質問を受けるために会場に残った。教学の質問より、それ以外の問題が多かった。
 真っ先に尋ねたのは、青年だった。
 「私は町工場で働いていますが、学会活動の時間が取れずに悩んでいます」
54  奮迅(54)
 山本伸一は、質問した青年を見つめ、微笑みながら答えた。
 「私もそうです。どうやって学会活動の時間をつくりだそうかと、悩み抜いています。格闘しています。私の場合は、夕方、学会活動に出て、また、職場に戻り、深夜まで仕事をすることもあります。日々、呻吟しています。日々挑戦です。日々工夫です。
 青年時代に職場の第一人者をめざして懸命に働いていれば、忙しいに決まっています。定時に退社し、夜は自由に飛び回ることができ、日曜や祝日は必ず休めるという人の方が、むしろ少ないかもしれません。
 多忙ななかで、いかに時間をつくり出すかが既に戦いなんです。少しでも早く、見事に仕事を仕上げて活動に出ようと、必死に努力することから、仏道修行は始まっています。自分の生命が鍛えられているんです。この挑戦を重ねていけば、凝縮された時間の使い方、生き方ができるようになります。
 平日は、どうしても動けないのなら、日曜などに、一週間分、一カ月分に相当するような充実した活動をするという方法もあります。
 たとえ会合に出られないことがあっても、広宣流布に生き抜こうという信心を、求道心を、一歩たりとも後退させてはなりません。
 『極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず』との御文がありますが、大変な状況のなかで、信心に励むからこそ、それだけ功徳も大きいんです。
 戸田先生は、よく『青年は苦労せよ。苦労せよ』『悩みなさい。うんと悩みなさい』とおっしゃいます。また、『苦労して、悩んでこそ、人の気持ちもわかるようになり、偉大な指導者に育つことができる』とも言われている。私も、その先生のご指導を生命に刻んで、歯を食いしばりながら挑戦しています。
 君には、今の大変な状況のなかで、『こうやって学会活動をやり抜いた』『こうやって職場の大勝利者になった』という実証を示して、多くの男子部員に、その体験を語れるようになってほしいんです」
55  奮迅(55)
 質問した青年は、山本伸一の指導に、笑顔で頷いた。
 伸一が青年の質問に答えていた時、会場に入って来た、背広姿の恰幅のよい壮年がいた。この壮年は、繊維を取引する会社の社長をしており、「暇がないから」と言って、学会の役職に就くことを避けてきた。
 伸一は、質問した青年に、さらに語った。
 「とかく仕事が忙しいと、″いつか暇になったら、学会活動に励もう″と考えてしまいがちです。しかし、それは間違いです。どんなに多忙であっても、自分のできることを精いっぱいやっていくんです。
 というのは、信心が後退すれば、仕事の面でも、行き詰まりが生じてしまうからです。
 日蓮大聖人は、『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』と仰せになっています。
 体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも、順調に進んでいくんです。また、たとえ、仕事等で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力が出るんです。
 戸田先生は、ご自身の事業が行き詰まってしまった要因の一つは、自分が第二代会長になるのを避けてきたことにあると、私に語ってくださいました」
 その時、戸田は、こう言ったのである。
 「私は、牧口先生の遺志を受け、会長として立って、広宣流布の指揮を執らねばならぬことは、よくわかっていた。しかし、会長職の責任の重さを考えると、ためらわざるを得なかった。とても、あの牧口先生のようにはできぬと思ったからだ。しかし、それは、仏意仏勅に反することであった。
 自分が躊躇していた分だけ、広宣流布を遅らせ、民衆は不幸に喘ぎ続けた。私は、自分の事業が完全に行き詰まって、初めて目が覚め、そのことに気づいたんだよ。
 私たちには、広宣流布という久遠の誓いを果たす使命がある。学会の役職は、そのための責任職だ。疎かに考えてはならん」
56  奮迅(56)
 山本伸一は、学会の役職について、戸田城聖が語っていたことを、かいつまんで話した。
 質問した青年は、「わかりました。頑張ります」と言って、笑顔で頷いた。
 途中から話を聴いていた壮年が、前に来て、頭をかきながら言った。
 「いやー、耳が痛い話です」
 伸一は、この壮年にも懇々と語っていった。
 「学会の役職というのは、広宣流布のためのものです。会社の役職や世間のさまざまな肩書と同じように考えてはならないと思います。そして、学会の役職を受けるにあたっては、″仏意仏勅によって賜った″と受けとめ、全身全霊で責任を果たしていくべきであるというのが、戸田先生のご指導なんです。
 したがって、いろいろと大変であっても、学会の役職は勇んで受けていこうという姿勢が大事ではないでしょうか。多忙でも、幹部として仏法のため、同志のために尽くしていく。そのなかで、自分が磨かれ、境涯革命、人間革命がなされ、功徳、福運を積んでいくことができるんです」
 伸一は、その後も、折々に、この壮年と語り合い、激励を重ねていった。やがて壮年は、学会の役職にも就き、幹部として張り切って活動に励むようになった。
 ところが、しばらくすると、また、「仕事が忙しいから」と言って、学会活動をなおざりにするようになった。
 ほどなく株価の大暴落が起こった。彼は、あれこれ手を尽くしたが、乗り切ることができず、会社は倒産してしまった。
 壮年は、再び反省、奮起し、信心に励むと、業界で押されて新しい会社を任された。だが、資金繰りに追われる日が続き、また、活動から遠ざかっていった。その会社も、わずか八カ月で破綻したのである。
 後年、この壮年は、「『体曲れば影ななめなり』との御聖訓に絶対間違いはありません。信心という根本を忘れて、二度も地獄を見た私が言うのですから、間違いありません」と、伸一に述懐している。
57  奮迅(57)
 川越地区の御書講義のあと、残った人たちから質問や相談を受けた山本伸一が、会場を出たのは午後十時近かった。池袋行の終電車に乗った。車内には、数人の乗客がいるだけであった。赤い顔をして、座席にもたれかかり、大いびきをかいている人もいる。
 伸一は、微笑みを浮かべ、鞄から葉書の束を取り出すと、万年筆を走らせた。
 このころ彼は、男子部の班長と、蒲田支部大森地区の地区委員(現在の地区部長)を兼務していた。さらに、地区講義の担当は、川越地区だけでなく、神奈川県の鶴見支部市場地区にもついており、九月七日には、初の講義に訪れていた。
 まさに彼は、戸田の心を体して、未来のために、埼玉と神奈川の、広宣流布の土台づくりに、真剣勝負で取り組んでいたのである。
 また、職場では、大東商工の営業部長であり、会社が軌道に乗るかどうかは、ひとえに彼の双肩にかかっていた。
 毎日が多忙極まりなかった。それだけに、地区員や男子部の班員と会って語り合う十分な時間が、なかなかもてなかったのである。 だから、寸暇を惜しんで、激励の葉書や手紙を書くことを自らに義務づけていたのだ。
 池袋までの車中、次々と葉書を書いた。
 ″断じてやり遂げよう″という強い一念があれば、工夫はいくらでも生まれる。反対にあきらめの心があれば、工夫の芽を自ら摘み取ってしまうことになる。
 伸一が、池袋駅に着いたのは、午後十一時前であった。夕食をとることができなかった彼は、屋台でラーメンをすすった。
 大田区大森のアパート「青葉荘」に着いた時には、既に午前零時を回っていた。それから御本尊に深い祈りを捧げた。
 伸一には、成すべき課題が山積していた。しかし、今、この瞬間にやれることは一つである。たくさんの課題を、時間という縦軸に置き換え、一瞬一瞬、自身を完全燃焼させて、全力でぶつかっていく以外にない。未来は「今」にある。勝利は「今」にある。
58  奮迅(58)
 男子部班長の山本伸一は、埼玉の志木支部川越地区、神奈川の鶴見支部市場地区での講義を続けながら、一九五二年(昭和二十七年)一月には、蒲田支部の支部幹事となり、あの二月闘争の指揮を執った。
 そして、布陣が整ったばかりの、支部―地区―班―組のうち、最前線組織である組に光を当て、当時としては未曾有の、一支部で月に二百一世帯という弘教を成し遂げたのだ。
 しかし、どこで、いかなる活動をしていようが、伸一の心からは、地区講義を担当している埼玉や神奈川のことが離れなかった。
 この五二年(同)の十二月九日、川越地区の御書講義が行われたが、あいにく午後から雪になった。初雪である。伸一は、″電車が止まったりしなければよいが……″と思いながら川越に向かった。この日の講義は、午後八時に切り上げた。雪で足元も悪いため、皆の帰宅が遅れたり、事故を起こしたりしないようにとの配慮からであった。
 講義のあと、伸一は、壮年の幹部と二十分ほど懇談した。その壮年は、伸一に言った。
 「今年二月の蒲田支部の戦いには、本当に驚きました。山本さんが指揮を執られて、折伏が二百世帯を超えたんですね。いつか、お伺いしようと思っていたんですが、どうすれば、あんな戦いができるんですか」
 「私は、戸田先生が会長に就任された今こそ、千載一遇の広宣流布の好機であると思っています。この数年で、どこまで拡大の波を広げ、人材を育成できるかが勝負です。仏法史上、これほど重要な″時″はありません。
 だから″弟子ならば立とう! 不惜身命の実践をしよう!″と腹を決めたんです。特に二月は、折伏の総帥たる戸田先生が誕生された月です。そこで、『折伏・弘教をもって、先生のお誕生の月を飾ろう』と決意するとともに、皆にも訴えました。その呼びかけに、蒲田の同志は応えてくれました。
 ″先生のために戦うのだ″と思うと、勇気が、歓喜が、込み上げてくるんです。それを蒲田の同志に伝えたかったんです」
59  奮迅(59)
 山本伸一は、力強い声で壮年に語った。
 「もう一つ、私が叫び抜いたのは、『宿命転換、境涯革命のための戦いを起こそう!』ということでした。同志は皆、深刻な経済苦や病苦などをかかえ、苦しんでいました。
 その宿命を転換し、幸福になるための信心であり、唱題であり、弘教です。学会活動は、すべて自分のためなんです。題目と折伏をもってして、解決できない悩みなどありません。そのことを戸田先生は、命を懸けて力説されています。
 したがって私は、『この二月の闘争で、各人が悩みを乗り越える突破口を開き、功徳の実証を、宿命転換の実証を、断じて示していこう』と訴えたんです。私は、支部の方々全員に、なんとしても幸せになってほしかった。いや、支部幹事として、絶対にそうしなければならない責任があるんです。
 皆も、″必ず宿命を転換してみせる!″という決意を固め、闘魂を燃え上がらせて、戦いを開始してくれました。そして、自ら進んで、唱題と折伏に挑戦したんです。日々、すさまじい勢いで弘教が進みました。
 すると、病気を克服できたとか、失業していたが仕事が決まったなどという体験が、次々に生まれていきました。座談会を開けば、毎回、いくつもの新しい功徳の体験が発表されます。それに触発され、″よし、自分も折伏をしよう!″と立ち上がる人や、入会を希望する人が、ますます増えていきました。
 功徳の連鎖、歓喜の連鎖が起こった時に、活動の歩みは飛躍的に前進します。
 ともかく、苦悩、宿命への挑戦・転換のために学会活動があることを、常に皆で確認し合っていくようにしました。これが、一人ひとりの活動の原動力になったんです。
 つまり、皆が、″師に応えよう″との一念で、宿命の転換を懸け、勇んで戦うことによって、蒲田支部は大前進することができた。志木支部も、埼玉も、皆が同じ決意で戦いを起こしていくならば、必ず大勝利できます。″埼玉の時代″を開いてください!」
60  奮迅(60)
 川越地区の御書講義を雪のため早めに切り上げた山本伸一は、戸田城聖の自宅に向かった。地区の様子を報告しておきたかったのだ。
 伸一は、日々の行動は、すべて戸田に報告していた。師匠に自分の戦いを知ってもらえることが嬉しかった。そして、″弟子として、先生に胸を張って語れぬような、だらしない戦いなど、断じてすまい!″と、いつも自分に言い聞かせて、活動に励んできたのだ。
 師の心を体して弟子が戦う――この師弟不二の精神こそが、伸一を常勝将軍たらしめていく原動力となっていったのである。
 川越地区の御書講義翌日の十二月十日、伸一は、神奈川県川崎市木月で行われた、蒲田支部多摩川地区の班座談会に出席した。
 神奈川県には鶴見支部があった。鶴見支部は、戸田が第二代会長に就任する直前の一九五一年(昭和二十六年)の春、「弘教の拡大をもって戸田先生を会長に迎えよう」と、皆が新たな挑戦を開始した。その敢闘は目覚ましく、この年の四月二十日に創刊された「聖教新聞」の第一号に、「聖火鶴見に炎上」との見出しで、活動の模様が紹介されている。
 広宣流布を推進していくうえで、政治、経済、文化等の中心である首都・東京は重要である。では、その東京を牽引していくのはどこか――戸田は、それが東京を囲む首都圏の各県であり、まずは、志木支部、鶴見支部という支部組織のある埼玉、神奈川であると考えていた。だから、志木支部川越地区、鶴見支部市場地区の御書講義に、伸一を派遣したのである。
 木月の座談会は、熱気があった。友人も数多く参加していた。伸一は、この日、御本尊の偉大なる力を述べるとともに、「仏法は勝負」であることを訴えた。
 正義は、一つ一つ、勝利の実証を示すなかで明らかになる。ゆえに、勝つことを宿命づけられているのが、広宣流布の道である。そのなかで、不敗の闘魂を燃え上がらせる時、自身の人生に王者の栄冠が輝く。
61  奮迅(61)
 川越地区での山本伸一の最後の地区講義は、一九五三年(昭和二十八年)の二月十日であった。このころには、受講者は五十人ほどになり、多くの人材が育ってきた。
 また、折伏・弘教の力も増していった。伸一が講義を担当する前月の、五一年(同二十六年)八月の弘教は、志木支部全体で二十五世帯にすぎなかったが、この五三年(同二十八年)二月には、川越地区一地区で三十五世帯の弘教を成し遂げている。一年半にして、人材の層も、皆の確信、決意、意欲も、全く一変していたのである。
 伸一という一青年の必死の講義に、皆が魂を燃え上がらせ、力を発揮し、拡大の突破口を開いたのだ。志木支部も上昇を続け、五四年(同二十九年)十一月には、四千世帯を超える大支部となるのだ。
 「あらゆるものには輝くダイヤが隠されている。磨けば光る」とは、発明王エジソンの言葉である。全員がダイヤモンドのごとく、尊い人材なのである。
 川越地区の地区講義から、既に四半世紀の歳月が経過していた。伸一は、首脳幹部と懇談を続けながら、深い感慨を込めて語った。
 「埼玉県創価学会は大発展した。強くなった。私は、埼玉に期待している。
 埼玉には、戸田先生が苦境の時代、先生と一緒に金策に行き、人の無情さ、悔しさを噛み締めたこともあった。でも、その時、私は深く心で誓ったんだ。
 ″いつか、この埼玉にも、何万、何十万の同志を誕生させ、創価の民衆城を創ります。先生の偉大さと、学会の正義を、わが生涯をかけて証明し抜いてまいります″と。
 その埼玉が、いよいよ広宣流布の″関東の雄″として、さらに、″広布の王者″として日本中、世界中に大師子吼を轟かせる時代が来たんだ。嬉しい。本当に嬉しいんだ。
 私は戦うよ。埼玉の第一線の同志と共に総決起するよ。その出発が、明日の埼玉県のブロック担当員の集いだ」
62  奮迅(62)
 山本伸一の言葉を聞くと、首脳幹部の一人が尋ねた。
 「先生は、埼玉の新出発のために、なぜ婦人部の、それもブロック担当員の集いに出席されようと考えられたのでしょうか」
 伸一は、頷いた。
 「確かに、壮年の本部長会や支部長会、あるいは、各部合同の支部幹部会でスタートするという考えもある。しかし、広宣流布の最大の原動力は婦人です。だから私は、まず婦人部に光を当てようと思ったんです。
 あの英雄ナポレオンには、一つの大きな後悔があった。彼は晩年、語っている。
 『私は、女性と十分に対話できなかったことを後悔している。女性からは、男たちがあえて私に語ろうとしない多くのことを、学ぶことができる。女性には、まったく特別な独立性があるのだ』
 ナポレオンは、女性のもつ知恵や力に学び、生かすことができなかった。だが、民衆の時代を創る広宣流布という平和革命には、女性の知恵と力が必須なんです。
 また、私が、ブロック担当員さんという第一線の方々の集いに、出席することにしたのは、ブロックにこそ本当の戦いがあるからです。皆が必死になって、日々、壮絶な闘争を展開している。その時に、指導者が城にこもっていれば、戦いは負けます。
 『兵士でなければならない、次に兵士でなければならない、そして更に兵士でなければならない』――これも、ナポレオンの有名な言葉です。王侯貴族などという権威は、戦いの場にあっては滑稽なだけです。
 だから私は、常に広宣流布の、最も激しい主戦場を走り、戦い、勝ってきました。
 戸田先生は、私を谷底に突き落とすように、不可能と思える戦いを私に託された。そして、どんなに苦労し抜いて勝利を収めても、ほとんど褒めてはくださらなかった。勝って当然という顔をされていた。それが、弟子を真実の指導者に育て上げようとする、厳しくも深い、師の慈愛だったんです」
63  奮迅(63)
 山本伸一は、話をついだ。
 「私は、埼玉を″妙法のロワール″と呼びました。フランスのロワール地方は、工業も発展していますが、緑が豊かで、美しい古城の多いところです。
 ナポレオンもロワール地方に注目し、執政政府時代、外務大臣のタレーランに、ロワールの城のなかでも、とりわけ美しいバランセ城を購入するように勧めています。そして、ここに各国の要人を招いて、外交の舞台にします。いわば、洗練された文化の力をもって、ロワールで外交戦を展開させたんです。
 私が、『埼玉は、妙法のロワールたれ!』と訴えたのは、″外交で勝利し、世界のどの地域よりも、学会理解の輪を広げてほしい″との意味が託されているんです」
 埼玉には、伸一は渉外部長としても、足を運んだことがあった。彼は、常に勇気をもって、誠実に誠実を尽くして、どんな相手にもぶつかっていった。
 ある時、戸田は、伸一に言った。
 「外へ出れば、学会全体を代表しているのである。個人ではない。学会の代表という自覚に立つことを忘れてはならない」
 また、学会員が不当な迫害を受け、その対応のため、現地に出向いた青年幹部がいた。彼は、抗議もできず、言うべきことも言わずに帰って来た。すると戸田は、烈火のごとく怒り、指導した。
 「会員を守れぬような臆病者は去れ! 意気地なしは学会から去れ! 学会と生死を共にする者だけが真実の同志だ」
 勇気のない青年に、勇気を奮い起こそうとしない人間に、戸田は厳しかった。
 勇気がなければ――最愛の会員を守れないからだ。広宣流布の勝利はないからだ。自分自身をも不幸にしてしまうからだ。
 仏・菩薩の生命を具えているがゆえに、勇気は本来、万人がもっているのだ。要は、それを奮い起こそうとするかどうかだ。学会活動の場で培った勇気こそが、人生の困難の障壁に体当たりしていく闘魂となるのだ。
64  奮迅(64)
 東京・信濃町の創価文化会館内にある広宣会館を、婦人たちのまばゆい笑顔が埋めた。
 「ようこそ! お会いできて嬉しい!」
 三月七日の午後二時過ぎ、埼玉県のブロック担当員の集いに、山本伸一が姿を現した。大拍手と歓声が起こった。
 「では、一緒にお題目を唱えましょう。埼玉の広宣流布と、皆さんのご健康、ご一家の繁栄を願っての唱題です」
 伸一は祈った。懸命に祈った。愛する埼玉の同志の大勝利を!
 唱題のあと、彼はマイクに向かった。
 「信心はなんのためにするのか。それは、成仏のためである。広宣流布のためである。
 成仏について大聖人は、『きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり』と仰せであり、″生の成仏″と″死の成仏″を説かれている。
 つまり、成仏は、死後の世界のことだけではありません。今、生きているそのままの姿で、仏の生命を開き、幸福境涯を確立することができるんです。真剣に唱題し、仏の生命を顕していくならば、そこには、人間革命があり、幸福境涯の確立があります。
 御本仏・日蓮大聖人は、平等大慧であられ、一切衆生の成仏のために戦われた。したがって、その大聖人の末弟であるならば、この偉大なる妙法を、人びとに教えていくべき責任をもっております。
 もし、自分だけの幸せのみを願ってよしとする生き方であれば、それは、あまりにも無慈悲であり、仏法上、慳貪の罪となってしまう。また、それでは、道理のうえからも、エゴ的な生き方といわざるを得ません。
 自分のみならず、周囲の人びとも、共に幸せにならなければ、自身の本当の幸せはない。ゆえに、自行化他にわたる実践のなかにこそ自身の真実の幸せがある。そこに私どもが、広宣流布に、さらには立正安国に生きるゆえんがあるんです」
 宗教が、他者の苦悩に、社会に背を向けてしまえば、それは宗教の使命の放棄である。
65  奮迅(65)
 集った婦人たちのなかには、夫が失業中の人もいれば、子どもが病床に伏しているという人もいた。それぞれが、さまざまな悩みをかかえていたが、皆の顔は明るく、決意と喜びに輝いていた。
 広宣流布に戦う人は、いかなる大苦があろうが、根本的には、既にその苦悩を乗り越えているのだ。胸中には、仏・菩薩の大生命の旭日が昇っているからだ。
 宿命の暗夜など、何も恐れることはない。わが生命を燃え輝かせ、闇を照らし、蘇生の朝を告げていくのだ。
 山本伸一は、生老病死の四苦を人間は免れることはできないが、常住不変の生命の覚知によって、この人生の根本問題を解決していく道を示しているのが仏法である、と力説した。
 「人生の旅路には、辛い時もあるでしょう。悲しい時もあるでしょう。絶望的な気持ちになることもあるかもしれない。しかし、御本尊に題目を唱えていけば、力が出る。限りない生命力が湧いてくる。そして、唱題と弘教の実践を続けるなかで、宿命は転換され、大福運がついていきます。まさに、自行化他にわたる題目こそ、この荒れ狂う社会を生き抜いていくための原動力であります。
 ともかく、信心の世界にあっては、法のため、広宣流布のために、悩み、苦しんだことは、すべて偉大な功徳、福運となります。いな、最も苦しんだ人こそが、最も幸せになれるんです。それが真実の仏法なんです」
 わが宿命は、自ら担った尊き使命でもある。「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「変毒為薬」等々の原理が示すように、信心という確固たる生命の軸があれば、人生に襲いかかる一切の不幸は、逆転の大ドラマとなるのだ。
 そして、広宣流布のために流した悔し涙は、感涙と変わり、浴びせられた中傷は、賞讃となり、苦闘は、栄光の王冠と輝く。
 法のため、友のため、社会のために、勇んで今日も汗を流すのだ。苦労を重ねた分だけ、勝利の喜びは大きい。
66  奮迅(66)
 信濃町で行われた埼玉県のブロック担当員の集いに出席した山本伸一は、それから立川文化会館へ向かった。第二東京女子部のブロック長会に出席するためである。
 ″次代の学会を担う女子部の、最前線のリーダーを全力で激励したい″との強い思いが、伸一を立川へと向かわせたのである。
 伸一は訴えた。
 ――人生は、決して平坦ではない。若い時代の幸せが、永遠に続くとは限らない。結婚してから、夫の仕事の問題や病、家庭不和、あるいは、子育てなどで、悩み苦しむこともある。それに打ち勝つ強さを培い、未来にわたる福運を積んでいくための信心である。女子部の時代は、一生涯にわたる幸福の基盤を確立する仏道修行の時代であると決めて、自分を磨き抜いてほしい。
 そして、懇々と諭すように語った。
 「皆さんが担当しているブロックの部員さんのなかには、仏法はすごいと感じていても、″人に信心していると言うのが恥ずかしい″と思っている方もいるかもしれない。
 しかし、勇気をもって、その弱さを打ち破っていくことが大事なんです。幸福の王女という主役を演じるのに、恥ずかしがって舞台の袖にいたのでは何も始まりません。
 強く生き抜いていくうえで必要なのは勇気です。人生のあらゆる局面を左右するのは、勇気があるかどうかであると言っても過言ではありません。その勇気の心を磨いていくのが、信仰なんです。学会活動なんです。
 御書に『随力弘通』『随力演説』とありますが、各人の力に随って、仏法への率直な思いを、自分らしく、自分の言葉で、周囲の人に語っていけばいいんです。自身の崩れざる幸福のために、女子部の皆さんは勇気を奮い起こしてください。
 広宣流布の未来は、皆さんたち青年部に託す以外にない。女子部がいるだけで、組織は花園になります。希望の光に包まれます。女子部、頼むよ。皆さんを見守っていきます」
 父の祈りにも似た言葉であった。
67  奮迅(67)
 新しい峰へ。希望の旅へ――。
 民衆詩人ホイットマンは高らかに歌った。
 「さあ、もはやここにはとどまるまい、いざ錨を上げて船出をしよう」
 戦う人生は美しい。戦う日々には、生命の燃焼と充実と歓喜がある。
 一九七八年(昭和五十三年)一月の初めに発表された広布第二章の「支部制」は、山本伸一の奮闘によって魂が打ち込まれ、組織の隅々まで新生の息吹にあふれていった。全国各地の各支部が、各部が、轟音を響かせ、広宣流布の新章節に、雄々しく飛翔していったのである。
 伸一は、三月の半ば、首脳幹部に語った。
 「ようやく支部制も軌道に乗りました。一つのことを決め、スタートさせたならば、本格的に軌道に乗るまでは、あらゆる角度から考え、さまざまな手を打ち続けていくんです。
 人間は、物事が軌道に乗ると、すぐに安心してしまう。すると、油断が生じ、組織の活動も惰性に陥り、マンネリ化していきます。それを、日々、打ち破っていってこそ、みずみずしい息吹で前進することができる。したがって、これからも『日々挑戦』なんです。
 広宣流布の道は険路です。平穏であるはずがない。必ず大難が競い起こるでしょう。ゆえに、全会員が決して堕ちることなく、幸せになるように、一人ひとりの胸中深く、創価の『師子王の魂』を打ち込む時なんです。それは、広宣流布に生き抜く『師弟の精神』です。『一人立つ心』です。私は、そのために生命を削ります。皆にもその決意がなければ、魔に翻弄されていきます!」
 学会は、この時、猛り立つ波浪のなかを突き進んでいた。宗門の悪侶らによる誹謗中傷が、日ごとに激しさを増していたのである。
 伸一は、今こそ、不撓にして不屈なる創価の「師弟の精神」が脈動した組織を、つくり上げなくてはならないと痛感していた。彼は、広宣流布を破壊せんとする魔軍の跳梁をひしひしと感じながら、雄々しき二十一世紀の広布の峰を仰いだ。

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