Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第26巻 「勇将」 勇将

小説「新・人間革命」

前後
2  勇将(2)
 治承四年(一一八〇年)、源頼政は後白河法皇の皇子・以仁王の令旨を得て平氏討伐の兵を挙げた。頼政は果敢に戦うが、宇治平等院の戦いに敗れ、自害する。
 しかし、命を懸けた彼の決起によって、伊豆国(静岡県東部)に流されていた源頼朝、頼朝の従弟で信濃国(長野県)木曾にいた源義仲などが、次々と挙兵する。
 平氏の横暴に対して、武士をはじめ、人びとの不満はつのり、討伐の機は熟していたのだ。しかし、源氏の蜂起には、発火点が必要であった。その役割を果たしたのが頼政であった。一人の勇気ある決断が、時代転換の導火線に火をつけ、歴史の流れを変えたのだ。
 翌治承五年(八一年)に平氏の総帥・平清盛が病死する。義仲は、平氏を破り、京の都を手中に収めると、傍若無人の限りを尽くす。やがて征夷大将軍となるが、頼朝の命を受けた義経らによって討たれてしまう。
 源氏には、後白河法皇から平氏追討の院宣が下り、義経は平氏が陣を構える摂津国福原(神戸市兵庫区内)を攻める。そして、寿永三年(一一八四年)の二月、摂津の一ノ谷の合戦で、「鵯越の逆落とし」といわれる奇襲で平氏を破ったのである。
 西国に逃れ、讃岐国(香川県)の屋島に本拠地を置いた平氏は、瀬戸内海を押さえ、大軍をもって海の防備を固めていた。海上での戦いとなれば、義経に勝算はない。そこで彼は、まず四国に渡って、陸路、屋島に迫り、背後から平氏を討とうと考えたのだ。
 勝利への執念は、あらゆる知恵を生み出す。執念あるところ、知恵の泉は枯れ果てることはない。
 暴風が吹き荒れる夜半であった。海は猛り、激浪は白い牙をむいていた。しかし、追い風である。義経は、直ちに、用意した船で四国に渡ろうと決断する。
 「敵は用心を怠る。この好機を逃すな!」
 強風に尻込みする者たちを叱りつけ、わずか五艘の船で荒波に向かった。若き闘将の勇敢な行動が、武士たちの勇気を鼓舞した。
3  勇将(3)
 烈風のなか、源義経の軍は、四国の阿波国(徳島県)方向に船を進めた。激浪にもまれながらの渡海であった。苦しい航路ではあったが、強風が幸いし、六時間ほどで、阿波に着くことができた。だが、そこにも、平氏の赤旗が翻っていた。
 五艘の船に分乗した義経軍の馬は、五十余頭にすぎなかった。しかし、平氏を蹴散らし、陸路、屋島へと向かった。途中、地元の武士も義経軍に加わり、陣容を増していった。
 勢いと団結は、人を魅了し、加勢を引き付ける。
 彼らは、夜間も行軍を続け、阿波と讃岐の国境の大坂峠を越え、屋島南部の対岸に迫った。ここで、辺り一帯に火を放った。
 もうもうと煙が立ち上り、火が燃え上がるのを見て、平氏の武将たちは、″源氏の奇襲だ!″と驚き、慌てた。
 平氏は御所を放棄し、安徳天皇を守りながら船に乗って、蜘蛛の子を散らすように、沖合へ逃げ始めた。
 平氏は、″源氏は瀬戸内海を渡って攻めて来る″と思い込んでいた。船の数も多く、海上での戦いには自信があった。その自信が弱点となった。背後からの攻撃に意表を突かれて、冷静さを欠いてしまったのである。
 戦いには、変化に次ぐ変化が待ち受けている。その時に、慌てふためき、狼狽するところにこそ、敗北の要因がある。
 源氏は、五、六騎から十騎ほどが一団となり、白旗をなびかせ、浅瀬の水を蹴立てて疾駆して来る。平氏の武将たちの目には、大軍の襲来と映った。
 義経が名乗りをあげた。一斉に平氏の船から矢が放たれ、戦いが開始された。
 その間に、義経軍の別の一団は、屋島に上陸し、御所などを焼き払っていった。
 よくよく見れば、源氏の騎馬は、平氏の大軍とは比較にならぬほど少数である。それに気づいた平氏の武将たちは、闇雲に遁走してしまったことが、悔やまれてならなかった。
4  勇将(4)
 船で海上に逃げた平氏と、屋島を押さえた源氏は、海と陸との矢合戦となった。
 平氏は、義経に矢を射かける。義経の重臣たちは、自ら盾となって主君を守ろうとして、奥州の佐藤三郎兵衛継信は、左の肩から右の脇を射貫かれてしまった。
 戦の渦中であったが、義経は継信を陣の後ろに担ぎ入れさせ、自分も馬から下りた。憂いに満ちた顔で、彼の手を取った。
 「三郎兵衛、加減はどうだ」
 継信は、力を振り絞って答えた。
 「何を思い残すことがございましょう。殿が世に出られてご活躍されるのを、見ずに死ぬことだけが無念に思われてなりません。
 弓を取る者として敵の矢に当たって死ぬことは、もとより覚悟のことでございます。
 しかも、『源平のご合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐国の屋島の磯で、主君のお命に代わって討たれた』と、末代までも語られるであろうことは、今生の誉れです。冥途の思い出にございます……」
 継信は義経にとって、奥州から付き従ってきた最愛の臣下である。語りながら次第に衰弱していく継信を見て、彼は涙にむせぶ。
 そして、手厚く弔わせたのである。義経は、この弔ってくれた者に深謝し、鵯越での戦いでも乗った大切な愛馬と、金の装飾を施した鞍とを与えたのである。
 命を懸けて主君を守り、忠義を尽くし抜いた継信。その臣下に、真心の限りをもって報いる義経――武士たちは涙して誓う。
 「この主君のために命を失うことは、露、塵ほども、惜しくはない!」
 義経軍の強さは、実に、この主従の絆の強さにこそあった。それは、単に主君と臣下という立場上の関係から生じたものではない。人間としての信義と情愛、信頼と尊敬によって培われた魂の結合であった。
 さらに、義経に仕えることを誉れとする臣下の勇猛心が、死をも恐れぬ強靱な主従の絆をつくりあげていたのである。心と心が結ばれてこそ、真正の団結が生まれるのだ。
5  勇将(5)
 屋島の戦いで源氏に敗れた平氏は、瀬戸内海に逃れ、西に向かう。そして、元暦二年(一一八五年)三月、壇ノ浦(山口県下関市)での戦いで完敗し、滅ぼされたのである。
 山本伸一は、庵治の四国研修道場で夜の海を見ながら、屋島の戦いを思い描いた。
 ″合戦を前に、避難していった民は、恐れおののきながら、わが家が焼けるのを見ていたにちがいない。平氏、そして源氏は、貴族の世に代わって、武士の世をつくった。しかし、民の世は、まだ遠かった。
 日蓮大聖人の御出現は、壇ノ浦の戦いから三十七年後である……″
 さらに伸一は、大聖人の「立正安国」について思いをめぐらしていった。
 ″大聖人は、民の世をめざされたことは明らかだが、単に制度的な次元での民の世ではない。万民が平和と繁栄を享受し、幸せに暮らすことができる世であった……。
 社会の制度や仕組みは大切である。しかし、より重要なのは、それらを運用していく人間の心である。いかに制度が整っていても、人間のいかんによって、制度は悪用、形骸化されてしまう危険をはらんでいるからだ。
 大事なことは、為政者も民衆も、人間は等しく尊厳無比なる生命をもっているという、生き方の哲学を確立できるか否かである。また、人びとの苦しみに同苦し、他者の苦を取り除こうとする慈悲を、生き方の柱にできるか否かである。さらに、自己のエゴイズム、肥大化する欲望を、いかにして制御し、昇華していくことができるか否かである。 その戦いが「立正安国」の「立正」といえる。そして、そうした生き方、考え方のもとに、社会の進むべき方向性を見いだし、政治のみならず、経済、文化、教育など、あらゆる分野で、人びとの幸福と繁栄と平和を築き上げていくことが「安国」となるのだ。
 「立正」なくしては、真実の「安国」はない。また、「安国」なき「立正」は、宗教の無力を裏づけるものとなろう″
6  勇将(6)
 日蓮大聖人の御生涯を、迫害に次ぐ迫害の人生としていったものは、大聖人が「広宣流布」「立正安国」を掲げられたことにある。
 すなわち、大地震、飢饉、疫病などによって苦悩する人びとの現実を見すえ、その救済に立ち上がられたことにある。
 当時、仏教界は、権力に迎合、癒着し、仏法の根本に立ち返って、教えを検証しようという姿勢も、努力もなくしていた。現実逃避など、人間を無気力にしていく宗教が、横行していたのである。
 大聖人は、人間の生き方の基盤となり、活力の源泉となる宗教について、根本から問い直し、人びとの胸中に正法を打ち立てようと、折伏・弘教の戦いを起こされた。
 その矛先は、国を治める指導者にも向けられていった。「立正安国論」による国主諫暁である。権力を掌中に収めた人が、いかなる考えをもつかが、多くの民衆の生活を大きく左右するからだ。権力者を諫めれば、大反発を招き、迫害に至ることは自明であった。
 しかし、多くの民衆が飢え、病に倒れ、苦悩している姿を目の当たりにして、仏法者として看過できなかったのである。
 まさに、「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり」との大確信と大慈悲をもっての行動であった。
 それが、大聖人の御決意であり、そこに、仏法者の真の生き方の範がある。
 大聖人の果敢な折伏は、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難、佐渡流罪など、激しい弾圧の嵐となるのである。なかでも、竜の口の法難は、命に及ぶ大法難であった。大聖人は「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ」と綴られている。
 ――日蓮という者は、去年(文永八年)の九月十二日の子丑の時(夜半)に頸をはねられたと仰せである。つまり、凡夫の肉身は竜の口において断ち切られ、末法の御本仏としての御境涯を顕されたのだ。発迹顕本である。
7  勇将(7)
 発迹顕本――迹を発いて本を顕す。仏が仮の姿(垂迹)を開き、その真実の姿、本来の境地(本地)を顕すことを意味する。
 日蓮大聖人が、鎌倉・竜の口で、まさに頸を斬られんとした時、江の島の方向から、「月のごとく・ひかりたる物」が現れる。その光は、月夜のように明々と人びとの顔を照らした。大聖人を斬首しようとした兵士は、目がくらみ、倒れ伏し、皆、怖じ恐れて、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのである。
 「近く打ちよれや打ちよれや」と、大聖人が声高に呼んでも、誰も近づこうとはしない。「頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐる見苦しかりなん」と叫んでも、返事もない。結局、頸を刎ねることはできなかったのである。
 諸天は、大聖人を守護し、大宇宙を動かしたのである。法華経には「刀尋段段壊」(刀は尋いで段段に壊れなん)とある。
 それは、一切衆生を救済せんとして戦い続けてこられた大聖人が、凡夫という「迹」の姿を開いて、その身のままで久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の御本仏の本地を顕された瞬間であった。大聖人は門下に対しても、次のように仰せである。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや
 大聖人の仰せのままに、広宣流布に生き抜く創価の同志は、地涌の菩薩であり、その内証は久遠の仏の弟子なのである。
 大聖人の誓願は、敷衍して言えば、御自身が発迹顕本されたように、末法の一切衆生を発迹顕本させることにあったといえよう。すなわち、一人ひとりに地涌の菩薩の使命と実践とを教え、御本仏の弟子として、仏の境涯を顕すことを念願されていたのだ。
 熱原の法難をもって、大聖人が出世の本懐を遂げられたのも、殉難をも恐れぬ、農民信徒の強盛なる信心に、衆生の発迹顕本を御覧になったからであろう。
8  勇将(8)
 熱原の農民信徒のなかでも、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は、命に及ぶ大難のなかで、微動だにすることなく正法正義を貫き、殉教していった。その振る舞い、境涯は、地涌の菩薩であり、御本仏・日蓮大聖人の弟子たる本地を顕した姿といえよう。
 この熱原の三烈士の殉難は、悲愴なドラマではない。法難に立ち向かうなかで、生死の苦しみの縛を離れ、成仏という永遠なる絶対的幸福境涯を確立したのである。
 正法のために、殉教していった人もいる。また、生きて戦い抜いた人もいる。いずれにせよ、広宣流布に一切を捧げ抜くことを深く決意し、果敢な実践を開始していくなかに、発迹顕本があるのだ。
 初代会長・牧口常三郎は、一九四三年(昭和十八年)ごろから、「学会は発迹顕本しなくてはならん」と、口癖のように語っていた。戸田城聖をはじめ、牧口の門下生は、その意味がわからなかった。
 そして、軍部政府による、あの大弾圧が学会を襲ったのだ。牧口は捕らえられるが、むしろ国家諫暁の好機ととらえ、仏法の正義を叫び抜いて、殉難の生涯を閉じた。永遠の創価の師・牧口の発迹顕本といえよう。
 一方、牧口と共に捕らえられた戸田は、獄中での法華経の精読と唱題の末に、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得る。四五年(同二十年)七月、生きて牢獄を出た戸田は、殉教した師・牧口に広宣流布を誓うのである。
 戸田は記している。
 「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」
 その自覚は、戦後、広く会員に浸透していったが、各人の自覚にすぎず、「いまだ学会自体の発迹顕本とはいいえない」状況であった。学会が一丸となっての広宣流布への本格的実践がなかったからだ。
9  勇将(9)
 一九五一年(昭和二十六年)、戸田城聖が第二代会長として立つと、全会員は広宣流布の使命を自覚し、折伏大行進を開始した。その同志について、戸田は、こう述べている。
 「教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとする」
 そして、「これこそ発迹顕本であるまいか」と叫び、牧口会長の遺志をついで、東洋への広宣流布の使いとして、仏法に身命を捧げることを誓っている。
 いわば、私たちにとって、発迹顕本とは、人びとの幸福と平和を実現する広宣流布を、人生の至上の目的、使命と定め、その果敢なる実践を、現実生活のなかで展開していくことにある。御本仏・日蓮大聖人の眷属であることを、行動をもって示し抜いていくのだ。
 山本伸一は、四国研修道場の庭で、夜の海を見ながら、竜の口の頸の座に臨まれた大聖人の御振る舞いを偲び、その大随喜の御境涯を思った。それは、末法の不幸の闇を晴らす太陽が、赫々たる輝きを放ち、大宇宙を黄金に染める瞬間であるように感じられた。
 その時、瀬戸の空に光が走った。流星である。さらに、二つ、三つと、光が流れた。
 伸一の脳裏に、思わず句が浮かんだ。
  流星に
    顕本見えたり
      庵治研修
 伸一は、大聖人の御境地に思いを馳せながら、齢五十にして、広布第二章の「支部制」という新出発の時を迎えた今、わが人生の、さらに、新しい創価学会の発迹顕本といえる戦いを開始せねばならないと、深く、強く、心に誓ったのである。
10  勇将(10)
 一月十九日夜、山本伸一は、四国研修道場で四国長の久米川誠太郎、香川県長の佐木泰造ら地元幹部の代表と懇談会をもった。
 伸一は、皆の意見に耳を傾けながら、「支部制」の出発にあたっての大事なポイントとして、個人指導を強調した。
 「皆が功徳に浴するためにも、人材を育成するうえでも、大切なのは個人指導です。
 戸田先生の時代、先生が最高顧問を務める大東商工が入っていた市ケ谷ビルの一室を借りて、学会本部の分室とされた。その部屋で、先生は、毎日のように、学会員の個人指導にあたられた。
 当時の幹部たちは、そこに通って来て、先生の指導を真剣に見ていた。いわば、見よう見まねで、個人指導という学会活動の基本を覚え、身につけていきました。
 そうして指導力を磨いた幹部が、一人ひとりの会員と対話していった。
 個人指導によって、先輩幹部と会員の皆さんが結ばれていけば、その絆は強い。大きな会合での指導だけの関係や、組織的な結びつきだけでは、絆は弱い。本当の信頼関係、人間関係はつくれないからです。
 長年、信心をしてきた方が、商売で行き詰まり、苦しんだ末に、指導を受けに行ったのは、タテ線時代の支部長だったという話を聞きました。それは、現在の組織の絆が弱くなっていることを示すものといえます。
 今、幹部の皆さんの、会合での指導と、個人指導の比率は、八対二ぐらいではないかと思う。しかし、二対八を目標にしていけば、もっと人材が育ちます。学会も強くなっていきます。また、何よりも、幹部の皆さんが大きく成長していくことができます。
 通り一遍の指導ではなく、しっかりと人間関係を結びながら、激励に激励を重ねていってこそ、本当の人間の連帯を築いていくことができる。今、社会も、それを求めているんです」
 相手の幸せを願う使命感から、心の絆が生まれ、真実の人間の連帯が築かれていく。
11  勇将(11)
 懇談会では、「学会の組織では世代の交代が進み、私も若くして幹部に登用していただきました。経験豊富な指導部の先輩などに、どういう姿勢で接していけばよいでしょうか」という、婦人部幹部からの質問もあった。
 山本伸一は、微笑みながら語り始めた。
 「組織を担ううえで、大事な質問です。
 まず、何かを決める場合には、『どうでしょうか』と、先輩たちの意見を聞いていくことです。先輩たちが、無視されているように感じ、寂しい思いをいだくようになってしまえば、団結はできません。
 そのうえで、『私は、こう考えておりますが、先輩の目から見て、アドバイスがありましたら教えてください』と、先輩の意見を尊重していくことです。
 さらに、個人的にお会いして、『私について、何かお感じのことがありましたら、遠慮なさらずにご指摘ください』と言っていく謙虚さが大事です。そして、活動でよい結果を出せた時には、『おかげさまで勝利を飾ることができました』と、賞讃していくんです。口先だけでなく、心からです。
 指導部の先輩に限らず、かつて自分の面倒をみてくれた人や、一緒に戦った友人も、たくさんいるでしょう。役職的に、立場が上になったからといって、自分が偉いように思い、そうした方々に対する尊敬の心を失い、横柄な態度をとるようなことがあっては、絶対になりません。
 それでは、自らの愚かさ、人間としての浅薄さを証明しているようなものです。友人も離れていき、孤独になるだけです。
 ″私は、時を得てリーダーに選ばれたが、私以上に実力のある人がたくさんいる″という考えに立つことです。
 要は、自分が接してきた同志を大切にし、好かれる人になることです。実は、それが名リーダーの大切な要件の一つなんです」
 伸一は、どの質問にも真剣に答えた。時には、自分の体験も披瀝した。忌憚ない語らいこそ、前進の原動力である。
12  勇将(12)
 方面・県幹部との懇談会を終えたあと、山本伸一は、翌二十日に彼が出席して開かれる香川県婦人部総会があることから、婦人部幹部と打ち合わせを行った。
 伸一は、一回一回の会合に、漫然とした姿勢で臨むことはなかった。常に真剣勝負であった。したがって、県婦人部総会に対しても、登壇者の一人ひとりが、なんの話を、どういう角度からするのかを、しっかりと打ち合わせておきたかったのである。
 ″皆が同じような、代わり映えのしない話であったり、焦点の定まらないとりとめのない話をするならば、参加者にとっては時間の浪費となる。そんな会合になってしまったら、わざわざ来てくださった方に申し訳ない″と、彼は考えていたのだ。
 伸一は、婦人部幹部との打ち合わせに引き続いて、副会長らと諸活動の検討を行い、さらに勤行した。全同志が発迹顕本し、広宣流布の大誓願に立つことを祈り、懸命に唱題したのである。
 御本尊への真剣な祈りに始まり、祈りに終わる。それが信仰者の生き方である。祈り、題目を忘れて勝利はない。
 四国指導五日目となった二十日の昼過ぎ、伸一は、四国研修道場の講堂で行われた香川県婦人部総会に出席した。この県婦人部総会には、婦人部への敬意を表して、壮年の代表も祝福に駆けつけていた。
 県婦人部長の荻繁美は、顔中に笑みの花を咲かせて、あいさつに立った。彼女は、四国研修道場が香川県にオープンした喜びを述べたあと、「経典には、『貧女の一灯』ということが説かれております」と語った。
 それは、「長者の万灯より貧女の一灯」との言葉で知られる仏教説話である。
 一人の貧女が、諸国の王や長者をはじめ、人びとが釈尊に供養するのを見て、自分もぜひ仏に供養したいと思う。そして、食べる物さえ満足に買えない生活のなかで、仏に捧げようと、灯火の油を買い求めたのである。
13  勇将(13)
 貧女は、祇園精舎にいる釈尊、すなわち仏のもとへ向かった。仏の前には、多くの人びとが供養した灯火があった。貧女も、一つの小さな灯火を供養し、自ら誓願を立てる。
 ″今、私は貧しい身ですが、真心を込めてこの小さな灯を供養いたします。この功徳をもって、来世は智慧の照明を得て、一切衆生の無明の闇を滅することができるようにしてください″
 夜が更け、空が明るみ始めるころには、長者らが供養した灯明は、すべて滅したが、この貧女の一灯だけは、燃え続けた。無理矢理、消そうとしても、決して消えることはなかった。
 仏は言う。
 ――四大海の水を注ぎ、嵐をもって襲おうとも、この灯を消すことはできない。それは、広く一切衆生を救おうという、大心を起こした人が施したものであるからだ。
 大切なのは誠実の心である。信心の心が揺るがなければ、大宇宙をも照らし出す、福運の灯をともすことができるのである。
 香川県婦人部長の荻繁美は訴えた。
 「私たちにとって『貧女の一灯』とは何か。それは『信心』であり、『学会精神』です。大風を受けて、ほかの灯がすべて消えても、ひたぶるな信心の心を捧げた一人の貧しき女性の灯だけは消えなかったと言います。
 これと同じように、『潔い信心』『確固たる信心』『揺るぎない信心』『地道な信心』の一念、すなわち学会精神のある限り、社会がどうあろうが、いかに偏見の中傷、批判があろうが、私たちの一念の大福運を壊すことは、永久にできません。
 今日より、私たちは、大いなる拡大の目標へ、『福運の一灯』『福運の一念』を広げゆく前進を誓い合っていきましょう!」
 共感の拍手が鳴り渡った。
 山本伸一も、「そうだ! 婦人部がいれば盤石だ!」と叫びながら、イスから身を乗り出して、盛んに拍手を送るのであった。
14  勇将(14)
 香川県婦人部総会でスピーチした山本伸一は、親子の断絶、家族の不和という問題について語っていった。
 「親子の断絶、また、家族不和は、決して近年の現象ではなく、遠い昔から、多くの人が悩んできた問題です。信心していても、娘や息子、あるいはお嫁さんとうまくいかない、夫婦仲が悪いなどといった悩みをかかえておられる方もいることと思います。
 この人間関係の亀裂を埋めていくものは、結論から言えば、信心しかありません。信心によって、自分の境涯を開き、生命を変え、人間革命していく以外にないんです。
 親も、夫も、兄弟姉妹も、子どもも、自分の置かれた現実であり、それは、宿縁によって結ばれているんです。その環境から逃げ出すわけにはいきません。
 では、どうすればよいのか。人間関係がうまくいかない理由を、周囲のせいにするのではなく、自分が変わっていくことです。
 たとえば、母親が人間革命し、子どもさんが″うちのお母さんは最高だ!″と、心から思うようになれば、子どもさんの母親への態度も変わり、親孝行するようになります。ご主人だって同じです。
 自分を見つめず、人間革命への努力もなく、ただ″子どもが悪い″″夫が悪い″と思っているうちは、事態を打開していくことはできません。日蓮大聖人は、『浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり』と仰せではないですか。仏法の眼を開くことです。
 わが家が、わが家族の人間関係が、和楽の方向に向かい、浄土になっていくのか、あるいは、険悪の方向に向かい、穢土になっていくのかは、わが一念にかかっているんです。
 自分を磨くために懸命に唱題し、家族を包み込む優しく大きな心、何があっても挫けない強い心、そして、聡明な英知を培っていくことです。最も身近な家庭のなかに、幸せの花を咲かせていくことが、地域の広宣流布の大きな力となっていきます」
15  勇将(15)
 山本伸一の話は、極めて具体的な、婦人部へのアドバイスとなっていった。
 「実は小さなことですが、本日は電話の使用について、一言申し上げたいと思います。
 電話の使い方、かけ方は、当然、本人の自由でありますが、とかく女性は″長電話″であると言われております。ある壮年は、『妻の電話が長くて困っているんです。もう少し話を短く、簡潔にできないものか』と、ぼやいておりました。
 電話で長い話をすれば、通話料も大変でしょうし、家族との団欒の時間を削ることにもなってしまう。したがって、連絡・報告は、できるだけ簡潔に、要を得たものにしていく努力、工夫を心がけるようにしてはどうでしょうか。つまり″通話革命″されることを提案したいと思いますが、いかがでしょうか」
 賛同の拍手が起こった。
 「ありがとうございます! これで、ご主人も、子どもさんも、″わが家も、やっと幸せになれる″と、喜ぶと思います」
 笑いが広がった。
 「また、勤行についても、一つ提案させていただきます。
 夜半に勤行し、長い唱題をされている皆さんも多々いらっしゃることと思います。しかし、長い人生です。健康で、生き生きと広宣流布に生き抜くために、夜は十分な休息を心がけていただきたい。
 その意味から、可能であるならば、夕方のうちに、できるだけ早めに勤行するという習慣を、身につけていくことも必要ではないかと思います。そして夜は、一家の和楽のために、心触れ合う和やかな語らいのひと時をもつなど、有意義に過ごしていただきたい」
 諸般の事情で一様にはいかないまでも、できる限り、夜は早く休んでもらうとともに、家族との交流を大切にしてほしかったのだ。
 信心を根本とした健康的な生活のリズムを確立することから、″家庭革命″の大きな前進が始まる。そして、和楽と幸福の光彩を放つ家庭は、地域社会を照らす灯台となる。
16  勇将(16)
 香川県婦人部総会の結びに、山本伸一は、四国創価学会への期待を語っていった。
 「四国では『教学の年』第二年である本年を、『四国前進の年』と定めたと伺いました。大切な意義づけであると思います。四国は、方面としては小さいかもしれないが、広宣流布の前進の模範が示せれば、それは、全学会に波動していきます。
 前進なきところには、仏法の脈動はない。進歩なきところには、真の生きがいも生まれません。前進しようという意欲こそが、人間性であるともいえます。
 ゆえに皆さん方も、″よし、一遍でも、百遍でも、多く題目を唱えていこう″″毎日、一人の個人指導をやり遂げていこう″など、本年は、それぞれが何か一つ、前進の実りを残していただきたい。
 その蓄積は、一年後、さらには、それを五年、十年と続けていった時には、想像もできないほどの、生命の財産となり、人間革命の歴史となります。一切は自分のためであり、大福運に包まれていくための実践です。
 創価の太陽である婦人部の大発展を、心よりお祈り申し上げ、あいさつといたします」
 このあと、四国の新出発にあたって作られた、四国方面旗、香川・高知・愛媛・徳島の各県旗、四国青年部旗が、理事長から、四国長、各県長、四国青年部長に授与された。
 方面・県旗には、四国の紺碧の海をイメージする紺地に、四国の四県を表す、赤、緑、オレンジ、ブルーの線がS字形に走り、「団結」の文字が染め抜かれていた。旗のデザインは、各県旗とも同じであった。つまり、どの県の旗にも、他の県を表す線が入っていることになる。そこには、四国は一つであるとの、団結の心意気が込められていた。
 伸一は立ち上がって、旗が手渡されるたびに、大きな拍手を送りながら、願い思った。
 ″四国は、この旗を掲げて、団結第一で進んでほしい。学会は、平凡な庶民の団結の力で大発展し、広宣流布は大きく進んだ。団結こそが、学会の命だ!″
17  勇将(17)
 われら創価の団結は、広宣流布という崇高な目的に向かって進もうとする、純粋なる信心の志から生まれる。同志を、互いに仏・菩薩と見る、真実の尊敬の念から始まる。
 強い者に媚びへつらい、弱い人を蔑むような心根や、嫉妬と勝他の炎に胸を焦がす修羅の生命であれば、決して本当に団結することはできない。また、自己中心的で、傲慢、我欲に心が支配されていれば、結局は、異体同心の結合を破る魔の働きとなってしまう。
 団結し、仲が良いという姿に、皆の人格革命があり、人間革命の実証があるのだ。
 香川県婦人部総会が終了すると、山本伸一は、四国研修道場内を視察した。
 石を組み合わせた恩師記念館の壁が、城の石垣のようにそびえ、青い瀬戸の海には、幾つもの島が浮かんでいた。美しい、心安らぐ、名画のような風景であった。
 伸一は、道場の構内を歩きながら、四国の幹部に語った。
 「いいところだね。研修に訪れた人たちは、落ち着いて、ゆっくり研鑽に励み、美しい自然を見て、英気を養うこともできるね。
 合戦の舞台となったこの地に来て、今度は生命の尊厳と平和の生命哲理を学んで、皆が各地に帰って行く。″戦乱の地″が″平和発信の地″になるんだ。見事な蘇生だね。すごいことじゃないか!」
 伸一は、研修道場の隣に立つ、マリンパーク魚類博物館にも足を延ばした。近隣の人びととあいさつを交わし、交流をもちたかったのである。彼は、同行の幹部に言った。
 「人がいたら、こちらから積極的に語りかけ、友人になっていくことだよ。人間は、結び合い、助け合うためにいるんだもの。素知らぬ顔をして、言葉も交わさなければ、互いに孤立してしまうし、学会への理解を深めさせていくこともできない。
 学会の社会的な使命の一つは、人間が分断された時代にあって、人と人の心を結び合わせることにあると、私は思っているんだよ」
18  勇将(18)
 一月二十一日午後、四国研修道場で一月度本部幹部会が盛大に開催された。四国で本部幹部会が行われるのは、初めてのこととあって、集って来た人の顔は、皆、晴れやかで、誇らかであった。
 この本部幹部会は、新支部体制の出発であり、席上、支部長・婦人部長、男女部長の代表に辞令が、また支部長の代表に支部証が手渡された。支部証は、かつての支部旗の代わりとなるもので、中央に大きく支部名が認められていた。
 続いて、支部婦人部長と支部長の代表が力強く抱負を発表した。
 支部婦人部長の代表は、高知県・新街支部の婦人部長・坂藤久美であった。彼女は「ヤング・ミセス」の県委員長も務めていた。
 「ただ今、広布第二章、初代支部婦人部長の任命を受け、新たな決意に燃えています。
 年若く、力のない私ですが、本日より、草創の学会精神に立ち返り、最も大切な会員の皆さんのため、徹底して尽くしていく決意であります。どうか、よろしくお願いします」
 山本伸一の声が飛んだ。
 「そうだよ! 頑張ろう!」
 彼女は、伸一の方を見て会釈すると、メガネの縁に手をかけ、はつらつとした声で、話を続けた。
 「土佐の高知は、男の『いごっそう』、女の『はちきん』で有名です。『いごっそう』というのは″頑固一徹″のことで、『はちきん』というのは″勝ち気″のことです。
 そのせいか、両者がぶつかり合うと、手が付けられず、家庭不和などで悩む人も少なくありません。私たち学会員は、それを広宣流布の個性に転じて、男性は強き信念で創価の旗を掲げ、女性は″男性になど負けるものか!″と、勇んで弘教に駆け巡っています。
 私の父は、先に入会した母が人間革命していく姿を見て、信心をしました。つまり『はちきん』が『いごっそう』に勝ったのです。家庭を幸せの花園に変えていくのは、私たち婦人部のパワーです」
19  勇将(19)
 坂藤久美は、小学二年生の時に、母の弥栄と共に入会している。
 弥栄の入会の動機は、自身が病弱であり、久美の妹にあたる次女もまた、悪性の中耳炎で苦しんでいたことである。自分の体調の悪さに苛立ち、次女の将来を思っては不安にさいなまれる日々であった。夫の顔を見れば愚痴をこぼし、何かあれば、八つ当たりした。家庭は暗かった。
 だが、入会後、弥栄は健康になり、次女の病も完治した。その体験から、仏法への確信をいだき、喜び勇んで学会活動に参加するようになった。
 仏法を学び、幸・不幸を決する根本要因は、自分自身にあることを知った彼女は、愚痴をこぼすこともなくなった。日々、明るくなる弥栄の姿を見て、夫も入会したのだ。
 弥栄は、一途に、懸命に信心に励んでいった。やがて、草創の土佐支部の婦人部長として活躍することになる。
 坂藤久美は、その母について語った。
 「母は、支部婦人部長として活動に取り組んでまいりました。お弁当を持って、昨日は東、今日は西と、喜び勇んで弘教に走り回る姿を、私は今なお、鮮明に覚えております。
 『お母さんは、不幸な人を救うために頑張っているの。みんなが幸せになれる社会をつくるのよ』と語りかけながら、笑みを浮かべる母に、誇りを感じてきました」
 弥栄は、真冬、膝まで雪に埋もれながら、バスも通わない山間部の集落にも通った。
 また、彼女は、自転車に乗ることができなかったが、学会活動のために自転車を購入した。必死に練習を重ね、ほどなく、元気に地域を走り回るようになった。さらに、幹部になって活動の舞台が広がると、足は、スクーター、そして、軽自動車となった。
 常に挑戦心に燃え、人びとの幸せを願い、はつらつと奔走する母の姿は、娘にとって大きな誇りとなっていった。親が喜々として信心に励み、学会活動の意義を子どもに語っていくなかに、信心継承の要諦がある。
20  勇将(20)
 命してまいります。
 そして、婦人部の前進が、全学会の前進につながることを確信し、本日より、勇んで前進を開始していくことをお誓いし、私の抱負とさせていただきます」
 伸一は、真っ先に大きな拍手を送った。それは、支部婦人部長となった坂藤久美への期待と励ましの拍手であるとともに、母の弥栄への賞讃でもあった。
 親から子へと、信心のバトンが確実に手渡されていってこそ、広宣流布の流れは、永遠のものとなる。
 なかには、子どもが信心に励んでいないケースもあろう。しかし、焦る必要はないし、肩身の狭い思いをする必要もない。勝負は一生である。日々、子どもを思い、その成長と幸せを祈り、対話を重ねていくことだ。
 また、学会の青年や未来部員を、わが子と思い、真心を尽くして、温かく励ましていくことである。その育成の流れが、広宣流布の未来の大河を形成していくのである。
 続いて、支部長の代表抱負となった。登壇したのは、この四国研修道場を擁する香川県・庵治支部の支部長・長野栄太である。
 伸一は、彼のことは、よく知っていた。
 長野は、徳島大学会のメンバーであり、一九六八年(昭和四十三年)十月、四国の五大学会の合同結成式の折、伸一は、彼から相談を受けたことがあった。彼は、徳島大学の医学部を卒業したものの、将来の進路が定まらずに、悩んでいたのである。
21  勇将(21)
 四国の五大学会の合同結成式で、長野栄太は山本伸一に尋ねた。
 「ハンセン病で苦しむ人たちが多い国に渡って、患者を救いたいんです。でも、すぐに行動すべきかどうか、迷っております」
 「妙法の青年医師らしい心意気だね。しかし、決して焦ることはないよ。当面は日本にいて、さらに医学の道を究め、しっかりと基礎を固めることが大事ではないかと思う」
 長野は、この指導を胸に医師としての力を磨いた。そして、高知赤十字病院の皮膚科副部長、愛媛県立中央病院の皮膚科医長を務め、一九七五年(昭和五十年)から、ハンセン病の国立療養所大島青松園に勤務した。
 大島は、香川県・庵治町にある瀬戸内海に浮かぶ島で、四国研修道場の目の前にある。
 長野は、高松市に住み、船で島に通った。
 彼がハンセン病の研究、治療に情熱を注ぐようになった背景には、両親の姿があった。
 一家で最初に信心を始めたのは、母親であった。父親は、かつて満州(現在の中国東北部)で医師をしていたが、戦後、引き揚げて来ると、その医師免許は、日本では通用しなくなった。やむなく、職を転々としたが、暮らしは貧しく、夫婦喧嘩が絶えなかった。
 母は、学会員から、「あなたが変わらなければ、家庭は変わらないわ。その自分を変えるための信心なのよ」と聞かされ、五六年(同三十一年)に入会した。しばらくして父も信心し、夫婦で学会活動に励んだ。班長、班担当員となった両親が担当したなかに、大島青松園で暮らす人たちがいたのである。
 ハンセン病に対しては隔離政策が取られ、罹患した人たちは、人権を奪われたに等しい生活を余儀なくされていた。
 社会には、ハンセン病は治らず、すぐに感染する病であるとの偏見があった。
 無知は偏見を生み、偏見は差別を育てる。
 長野の両親は、「最も苦しんでいる人を救わずして仏法はない!」と、足しげく大島に通った。医師であった父は、ハンセン病の菌は感染力が弱いことをよく知っていたのだ。
22  勇将(22)
 長野栄太は、一九六二年(昭和三十七年)二月、十八歳の時に入会している。
 大学の医学部に進む学資を工面するために、工事現場の資材倉庫を警備するアルバイトをしていた時、その建設会社の人から、仏法の話を聞かされたのだ。工事現場は、建設中の創価学会四国本部であった。
 両親は信心しているが、自分は宗教に頼った生き方はしたくなかったし、「暴力宗教」などといった学会批判を耳にしていただけに、学会に入る気は全くなかった。
 しかし、「青年ならば、実践してから批判すべきではないかね」と言われて、言葉を返せず、やむなく入会したのだ。実践なくしては、仏法を知識として理解することはできても、その真価を実感し、体得することはできない。
 「行動しないで考えることは、眠ることです。それは死の玄関です」とは、ロマン・ロランの指摘である。
 長野は、その年の四月、徳島大学の医学部に入学した。半信半疑ながら、信心に励むようになったのは、それからであった。
 当時、徳島大学には、学生部員は数人しかいなかったが、皆、真剣に、世界の民衆の幸福を考え、熱く語り合っていた。長野も、彼らに触発され、積極的に学会活動に参加するようになり、教学も学んだ。
 両親と共に、ハンセン病の療養所である大島青松園の座談会にも参加した。そこには、病をはね返し、強く生きようとする学会員の、まばゆいばかりの笑顔があった。
 彼は、次第に、ハンセン病に関心をいだき始めていった。
 ハンセン病は、らい菌の感染によって発症する慢性の感染症で、皮膚、粘膜、神経などがおかされていく。らい菌の感染力は弱く、遺伝することもないが、かつては、治癒することはなく、遺伝するかのように誤解されてきた。医学による解明の遅れ、誤認識によって、これほど多くの患者が差別され、不当な苦しみを味わわされた病はない。
23  勇将(23)
 ハンセン病は、日本でも古くから知られていた病であったが、その対応が法律で定められたのは、一九〇七年(明治四十年)のことである。「癩予防ニ関スル件」という法律がつくられ、ハンセン病と診断した場合、医師は行政官庁に届け出るとともに、その家は、消毒や予防を行うことが定められた。
 また、療養の方法がなく、救護者のいない患者は療養所に入れ、救護することもうたわれている。
 この法律は、三一年(昭和六年)に改正され、「癩予防法」となった。そこでは、患者が病毒を伝播させてしまうおそれのある職業に従事することを禁じていた。さらに、患者が使用した古着や古布団、古本等々、病毒に汚染した疑いのあるものは、売買や授受を制限、禁止し、消毒や廃棄を命じている。
 また、病毒伝播のおそれのある人は、療養所に入所させることが盛り込まれ、結果的にすべての患者が強制隔離されたのである。
 確かな医学的根拠のない法改正であり、それが、職業選択の自由も、居住地を選ぶ自由も奪い、発症した人たちへの偏見と差別を固定化させることになるのだ。
 一九三一年といえば、日本の軍国主義の靴音が次第に高まりつつあった時代である。
 国家に従順する、心身ともに健康、頑健な兵士の育成に力が注がれた挙国皆兵の社会にあって、ハンセン病にかかった人は、排斥すべき対象とされたのだ。
 法律は、ひとたび施行されれば、どう猛な牙をむいて襲いかかってくることもある。政治に無関心であることは、虎が街に放たれるのを看過しているに等しい。ゆえに、自分のためにも、社会のためにも、政治を監視することを怠ってはならない。
 ハンセン病に罹患した人や家族への世間の過酷な扱いの事例は、枚挙にいとまがない。石を投げつけられたり、家まで燃やされたという証言もある。また、患者の家族が、買い物に来ても、箸を使って金銭のやり取りをし、その金は蒸して消毒したとの話もある。
24  勇将(24)
 ハンセン病と診断され、「癩予防法」によって療養所に入れられると、社会とは隔絶された生活が続くのである。
 また、一九四〇年(昭和十五年)には「国民優生法」が公布され、国民素質の向上を目的に、遺伝性の病にかかった人は、生殖機能を失わせる手術等を受けられることが定められた。ハンセン病は、遺伝性が確認されていないにもかかわらず、その対象とされ、しかも、事実上、手術等を強制されたのである。
 国家が根本的に何を最高価値とし、何を守ろうとするのか――それによって、病にかかった人や体の不自由な人への対応は、著しく異なってくる。
 優秀な強い兵士を育成し、軍事大国をつくろうという考えのもとでは、人間は国家のための手段でしかない。そこでは、優れた兵士を確保することが大切であり、病にかかった人や体の不自由な人は、世の中の片隅に追いやられてしまう。また、経済の発展を第一義とし、経済大国をめざす国家では、経済的繁栄に寄与する人が大事な人材とされる。結局、利潤追求への貢献を尺度にして、人間が計測され、裁断されていくことを余儀なくされる。
 軍事大国であれ、経済大国であれ、人間を手段化する限り、その国家の目的に貢献できない人は排斥されていくことになる。
 万人が平等に尊重される国家、社会を築くには、決して人間を手段化するのではなく、人びとの生命を最高価値とした国づくりがなされなければならない。生命の尊厳という理念に基づく国家、社会の建設である。
 一九四〇年代に入ると、プロミンなどの特効薬が開発され、ハンセン病は治癒可能な病となった。さらに戦後、日本は民主主義国家としてスタートした。「癩予防法」も「らい予防法」となり、予防とともに福祉の増進に力を注ぐことが定められた。
 しかし、依然として患者は強制隔離され続けるのだ。ハンセン病は伝染力が強く、遺伝もし、治ることのない病であるとの偏見が、根深く浸透していたのである。
25  勇将(25)
 国立療養所大島青松園に赴任した長野栄太は、ハンセン病の治療にあたるだけでなく、″患者のために、生涯を捧げたい″と考えていた。彼には、学生時代、医師を志すうえで、深く心に刻んだ御書の一節があった。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし
 長野は、″自分も仏法者として、患者の苦悩を、共に分かち合っていける医師になろう″と、懸命に信心に励んできた。
 それは、単に″病を治療する医師″から、″人間の幸せを願う医師″へと、彼を脱皮させていった。医師の眼が、人間の幸福から離れるならば、医学は冷酷な凶器となる。
 長野が大島青松園に来る前から、ハンセン病は、治癒可能な病になっていた。
 療養所に在籍する人の多くは、病状が治まった″元患者″である。しかし、後遺症等によって、視力が低下したり、手足が不自由になったりするなど、身体に障がいが起こっており、社会での自立が困難になっている人が少なくなかった。
 なぜ、そうなってしまったのか――。
 療養所の入所者の平均年齢は、既に六十歳近い。その入所者の大半は、″ハンセン病は感染力が強く、しかも遺伝する″とされていた時代に発症しており、治療よりも隔離に重点が置かれてきた。それによって、治療剤の恩恵を受けた時期も遅く、後遺症や合併症に対する適切な治療も行われなかったのである。
 また、社会には、隔離政策などによって、ハンセン病への強い恐怖感が植え付けられてきた。それが、社会に復帰していった元患者の人たちに対する、偏見と理不尽な差別を生み出していたのである。
 そうした現実が、社会復帰できるようになった人びとを阻む、分厚い壁となって立ちはだかっていたのだ。
 ″自分たちは、療養所のなかで、一生を終えていくしかないのか……″
 社会に出ようと、希望をいだいてきた人の多くが、深い絶望感に襲われたにちがいない。
26  勇将(26)
 長野栄太は、″ハンセン病は、病自体の治癒だけでなく、患者が精神的束縛から解き放たれ、心身の健康を取り戻してこそ、病の克服といえる″と考えるようになった。
 それには、″社会的なつながりのなかで、ハンセン病への正しい知識を普及するとともに、患者自身が生きがいある人生を確立していくことが大切だ″と思った。
 そのつながり方とは、″一方通行的な従来の慈善活動にとどまるのではなく、内外双方から一般社会との隔絶を埋めていく交流である″というのが、彼の結論であった。
 大島青松園の学会員のもとへ、学会の壮年や婦人たちは、足繁く激励に訪れた。座談会も開かれていた。
 激励に通う学会員は、ハンセン病がどんな病気かもよく理解していた。また、″この世から不幸をなくすのだ。みんなが幸せになれるのが、この仏法だ!″という、強い確信にあふれ、使命に燃えていた。
 そして、「″仏法の眼″から見れば、長年、病で苦しんできたあなただからこそ、誰よりも幸福になれるんです。さらに、地涌の菩薩として、人びとを幸せにしていく、大きな使命があるんです」と、大情熱をもって訴えるのだ。入所者の学会員は、その励ましと指導に心を打たれ、唱題に励み、教学を学び、仏法対話にも取り組んでいった。
 また、人に会うことを避けてきた人が、園長の許可を得て、何十年かぶりに親族の葬儀などに出かけるようになった。生き生きとした自分の姿を見せ、親戚や知人に安心してもらいたいとの思いからであった。社会との壁を、自ら取り除く挑戦を開始したのだ。
 長野は、そうした入所者の生き方に、希望の″光″を見た思いがした。
 アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キングは訴えている。
 「人生に意味を与えるのは宗教である。宇宙に意味を与えるのも宗教である。よき人生を歩もうと最大限動機づけるのも宗教である」――そこに宗教の意義がある。
27  勇将(27)
 ハンセン病の研究、治療は、その後、さらに進んでいった。それまでの治療薬も効果はあったが、再発などもあった。
 一九八一年(昭和五十六年)に、WHO(世界保健機関)は、新たな治療法として、数種類の薬剤を併用する多剤併用療法を推奨した。その効果は大きく、ハンセン病はほとんど再発などのない、完治する病気となった。
 日本では依然として、「らい予防法」によって隔離政策がとられ、「優生保護法」によって人工中絶なども続けられていた。
 「らい予防法」等が廃止され、隔離政策などが改められたのは、九六年(平成八年)のことである。あまりにも遅い対応といえよう。
 九八年(同十年)七月、元患者らは、国のハンセン病政策は、基本的人権を侵害するものとして国家賠償を求め、熊本地裁に提訴した。そして、二〇〇一年(同十三年)五月、地裁は、国に対して賠償を命じ、原告側の勝訴となった。
 政府内には、控訴を主張する声も強かった。判決には、法律論のうえから、重大な問題があるとの意見もあった。
 しかし、厚生労働大臣の坂口力は、入所者の多くが既に高齢であることから、「法律面では多くの問題があるが、人道面を優先させるべきだ」とし、控訴すべきではないと強く訴えた。結局、小泉純一郎首相は「控訴断念」を決め、談話を発表した。
 「施設入所政策が、多くの患者の人権に対する大きな制限、制約となったこと、また、一般社会において極めて厳しい偏見、差別が存在してきた事実を深刻に受け止め、患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として深く反省し、率直にお詫びを申し上げるとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げる」
 この翌月には、ハンセン病の療養所入所者等への補償法が公布されている。
 苦汁をなめさせられ続けてきた人びとに、ようやく人道の光が差した。しかし、国の犯した過ちは、決して償いきれるものではない。
28  勇将(28)
 長野栄太は、医師という立場から、ハンセン病に対する人びとの誤解を解くとともに、入所者の社会復帰を図るために、さまざまな努力を重ねてきた。その一方で、慈悲の医学の実践者として″同苦″の心を培っていこうと、真剣に信心に励んできた。
 彼は、大島青松園に赴任した翌年の一九七六年(昭和五十一年)夏、やがて四国研修道場ができることになる香川県・庵治町に、高松市から転居した。翌年九月に男子部から壮年部に移行し、三十三歳で庵治の総ブロック長になったのである。
 総ブロック長としての出発となる壮年の会合は、大盛況であった。部員数の八割近い壮年が集って来た。ほぼ全員が、自分よりも年上である。長野は、「私は、皆さんに仕えていくつもりで、全力で活動に取り組んでまいります!」と元気にあいさつし、拍手に包まれた。好調なスタートであると思った。
 しかし、次の会合から、参加者は激減した。
 ″あれだけいた人が、どこに消えてしまったのか″――その思いを、年配の大ブロック長(現在の地区部長)に漏らすと、すぐに答えが返ってきた。
 「前の会合に皆が来たんはな、総ブロック長が若いのに代わったと聞いて、どんな男か、顔を見に来ただけやけんの」
 愕然として、大ブロック長に尋ねた。
 「どうすれば、いいんでしょうか」
 「長野さんは、総ブロック長になって、何人の人と会うたんかのー」
 思わず言葉に詰まった。ほとんど、激励に回ってはいなかったからだ。
 「回らんと、人は集まらん。人と会うのが、学会活動の基本やし、仏道修行じゃないんかのー。自分は、十年間かかって、大ブロックで十数人の壮年が集まるようになったけんの。これからは、あんたがどんだけ回って、何人の人と会うて、人材を育てていくかやの」
 その言葉が、胸に突き刺さった。
 ″その通りだ。よし、仏道修行をして、自分を磨こう!″と決意した。
29  勇将(29)
 長野栄太は、総ブロックの壮年一人ひとりと会っていこうと決意はしたものの、職場の当直が月に八回もあった。また、幹部会や座談会など学会の会合もある。回れる日は限られたが、時間を工夫しては、大ブロック長と共に激励に歩いた。
 家を訪ねても、未活動の壮年の場合、信心に励んでいる夫人が、″夫を会わせてよいものか″と、躊躇してしまうこともあった。″夫が機嫌を損ねてしまったり、怒りだしたりしないか″と、心配していたのだ。そんな時には、「ご主人に不快な思いをさせ、怒らせるようなことはしませんから」と、夫人を説得することから始めなければならなかった。
 壮年と会い、懇談を重ねるなかで、会合に参加し、勤行する人が次第に増えていった。
 また、長野が経験したことのない悩み事に出合うこともあった。そのなかには、「思春期に入った子どものことで悩んでいる」という相談もあった。長野の子どもは、上の子がまだ小学一年生である。思春期の子どものことは、よくわからなかった。そうした時には、同様の悩みを克服した体験をもつ人に、会ってもらうようにした。
 彼は、″和楽の家庭を、幸せな一家を築いてもらいたい″との思いで、どこまでも誠実に、足しげく通い、メンバーと会っていった。
 明るい笑顔の、幸せな家庭を築くことは、近隣、地域への、信心の実証となる。それは、地域広布の光となっていく。
 長野自身、仕事でも、さまざまな課題が山積していた。身も心も、へとへとに疲れ果ててしまうこともあった。しかし、″自分が歓喜していなくて、どうして人を燃え上がらせることができるのだ!″と、自らに言い聞かせ、真剣に唱題しては同志の激励に回った。
 その成果が着実に実り始めた一九七七年(昭和五十二年)の年末、彼の総ブロックのなかに、四国研修道場がオープンしたのだ。
 そして、その喜びが冷めやらぬなか、年が明けると、広布第二章の「支部制」が発表されたのである。
30  勇将(30)
 ″総ブロック長が支部長になる!″
 長野栄太は、一月六日の新春本部幹部会で発表された「支部制」の出発を、緊張の思いで聞いた。それからほどなく、会長の山本伸一が出席して、四国研修道場で一月度の本部幹部会が開かれることを知ったのである。
 しかも、その本部幹部会で、新支部長の抱負を発表するように、四国長の久米川誠太郎に言われたのだ。
 彼は、ありのままの状況と決意を、原稿にまとめ、推敲を重ねて、この四国研修道場での本部幹部会に臨んだのである。
 長野は登壇すると、元気な声で語り始めた。
 「全国の支部長を代表して、一言、抱負を述べさせていただきます。
 私は、現在、皮膚科の医長として、地元の国立療養所に勤務しております。
 今、私たちの庵治支部は、四国研修道場をわが地域にもつことができた、喜びと希望にあふれております。さらに、新支部誕生の朗報に沸き返っております。
 昨夜の二つの座談会場でも、合計約百人の同志が集い、功徳の体験が活発に語られるなかで、『さあ、草創期の支部に負けずに頑張ろう』との声が数多く聞かれました!」
 ここで彼は、地域の特色に触れ、庵治は上質な石として世界的に注目される庵治石の産地であり、歴史的には、水軍の基地があった場所であると紹介。「今度は、妙法広宣の基地として戦ってまいる決意であります」と力を込めて訴え、話を続けた。
 「″広布第二章の初代支部長″という大任に就いた以上、支部の皆さん全員とお会いして対話を重ね、″一人の人″をどこまでも守る実践を持続してまいります。
 今、わが支部内では功徳の体験が続々と聞かれます。全支部員が信心の確信と喜びを満喫できるまで、全生命を燃え上がらせ、現場第一主義に徹して、戦い抜いてまいります」
 優秀支部とは功徳満開の支部である。
 伸一は、長野の顔をのぞき込むようにして、大きく頷いた。
31  勇将(31)
 長野栄太は、ほおを紅潮させながら語った。
 「わが支部は、『座談会の庵治支部』をモットーに、『活発』『確信』『体験』『和楽』の民衆のオアシスを現出していきます。この明るく、楽しい、語らいの場を通して、弘教の力強い波動を、わが庵治の地から、全国津々浦々に伝えてまいります」
 そして、ひときわ大きな声で、こう叫んで代表抱負を締めくくった。
 「全国の皆さん! どうか、この庵治支部にご注目ください!」
 万雷の拍手が場内を包んだ。
 副会長、理事長らのあいさつに続いて、会長の山本伸一の指導となった。
 彼はまず、歴史上、多くの宗教が時代の変遷のなかで、宗教本来の使命を忘れ、活力を失っていった原因について考察。その具体的な要因の一つは、宗教が民衆から離れ、聖職者が宗教的権威に寄りかかり、民衆を見下すようになり、過剰なまでの上下の関係がつくられたことにあると指摘した。
 「それに対して、創価学会が未曾有の発展を遂げた理由の一つは、一人ひとりが、御本尊、妙法に直結し、皆が平等であるとの意識を根底に、共に同志としてスクラムを組みながら、行進してきたからであります。
 成仏も、また功徳も、組織のうえでの立場によって決まるものでは決してありません。御本尊に、妙法という大法に直結した、信心の厚薄によって決まります。それを皆に伝えてきたのが創価学会なんです。
 皆の一生成仏、広宣流布に向かって、組織がまとまっていくには、″要″の存在が不可欠です。いかなる組織、機構も、″要″がなければ烏合の衆になってしまう。
 その″要″となるのが″長″であります。壮年でいえば、県長も、本部長も、また、大ブロック長も、ブロック長も″要″です。
 なかでも、今回、新発足した支部長、支部婦人部長の皆さんは、自分たちこそ、学会の最も重要な″要″であるとの決意で、誇らかに前進していただきたいのであります」
32  勇将(32)
 山本伸一は、各支部にあっては、地域広布を担ううえから、具体的な拡大の目標を定めて活動に取り組んでいくことが大事であると強調した。そして、こう話を続けた。
 「支部制の発足により、広宣流布の歩みは加速され、二十一世紀をめざして、学会活動の在り方も多元的になっていくでありましょう。しかし、そうであればあるほど、基本を疎かにしてはならない。
 では、私たちにとっての基本とは何か。
 それは、勤行であります。御本尊への真剣にしてひたぶるな祈りです。また、眼前の一人に幸せの道を教えようと、仏法対話し、弘教することです。さらに、その人が人材として育っていくまでお世話をする――それが、一切の仏道修行の根本であるといえます。
 新支部長・婦人部長をはじめ、幹部の皆さんは、どうか、全同志を自分以上の人材に育てていこうと、心を決めてください。そのためには、一人ひとりを心から尊敬し、大切にし、理解し、守り、讃嘆していくんです。無名の一同志のために尽くし抜くことこそ、最も大事な信心の基本姿勢であることを、夢寐にも忘れないでいただきたい。
 実は、聖職者と民衆が上下の関係になり、権威主義に陥ってきた宗教の歴史を転換していく道も、この実践のなかにこそあります。
 また、これが、ともすれば、すべての組織が陥りかねない、官僚的、形式的な惰性を脱皮していける、ただ一つの道なのであります。
 さらに、それは、大正法を令法久住していくうえでも、絶対の要請であると申し上げておきたい」
 宗教も、国家も、あらゆる運動も、決して人間を手段にしてはならない。どこまでも人間を守ることを目的としなければならない。それが、人間主義である。
 一人の人を大切にする――この平易な言葉のなかに、生命の尊厳を説く仏法の思想と哲学が凝縮されているのである。そして、その実践のなかに、未来を開く、新しき人間の連帯が創られていくのである。
33  勇将(33)
 ここで山本伸一は、組織の中心者や幹部になると、さまざまな報告を受ける機会があるが、その際の心構えについて語った。
 「幹部であることによって、組織上、個人情報、プライバシーについて知り得ることもあるでしょう。しかし、私どもには、当然、守秘義務があります。家族や親しい友人に対しても、それを口外するようなことがあっては絶対にならないということを、まず確認しておきたい。
 また、世間では、自分の保身や偏見、嫉妬のために、讒言によって善人を陥れようとするといった話を、よく耳にします。それが社会の現実であるならば、学会のなかでも、人を陥れるために、偽りの報告をする人が出てこないとも限らない。いや、広宣流布の団結を破壊するために、魔は、そうした組織攪乱の動きとなって現れるともいえます。
 したがってリーダーは、人の報告をうのみにするのではなく、慎重に確認し、聡明に分析して、判断していくことが必要です。
 幹部が、すぐに口車に乗せられ、真面目に頑張っている人を排斥するようなことになれば、心ある同志が、いやな思いをするようになる。広宣流布は破られていきます。仏法の法理に照らして、その罪は重いと申し上げておきます。
 どうか、新支部長・婦人部長をはじめ、幹部の皆さんは、″鋭く真実を見極める英邁なリーダーであってください″″厳正、公平にして、心温かな指導者であってください″と心からお願い申し上げ、私のあいさつとさせていただきます」
 伸一が、幹部の在り方について、微に入り細をうがつように語ったのは、小さなことのように思える一つ一つの問題が、広宣流布の組織を蝕んでいくからだ。
 ウイルスは肉眼では見られぬほど、微小である。しかし、そのウイルスが繁殖し、病を引き起こし、人を死に至らしめることさえある。小事なくして大事はない。小さなことへの真剣な対応が大事故を防いでいくのだ。
34  勇将(34)
 山本伸一は、本部幹部会での指導を終えると、「庵治の支部長! 長野支部長!」と、長野栄太を呼んだ。
 長野が立ち上がり、伸一の前へ来た。
 「長野支部長に、記念として『光桜』と揮毫させていただきましたので、それを、お贈りします」
 揮毫した書が長野に手渡された。
 伸一は、固い握手を交わしながら言った。
 「しっかり頼みます。勇将として立つんです。私も、全国の同志と共に、庵治支部を見ていますよ」
 長野は、決意に眼を光らせて、ぎゅっと伸一の手を握り返した。
 さらに伸一は、用意していたレイを手にすると、「庵治支部の支部婦人部長さんは、いらっしゃいますか」と声をかけた。
 支部婦人部長は、松丘愛という庵治生まれ、庵治育ちの婦人であった。彼女は、会場後方にいたところ、突然、伸一に呼ばれたのである。「はい!」と言って、緊張しながら急いで前へ出て行った。
 「庵治の婦人部長さん。おめでとう! 支部長と力を合わせて頑張ってください」
 伸一は、こう言うと、持っていたピンクのレイを、松丘の首に掛けた。
 「ありがとうございます。頑張ります!」
 松丘は、瞳を潤ませながら答えた。
 伸一は、可能ならば、全国のすべての支部長と握手を交わし、励ましの揮毫をして贈りたかった。また、全支部婦人部長の首にレイを掛け、もろ手を挙げて讃嘆し、新しい出発を祝福したかった。
 この日、支部婦人部長の松丘は、本部幹部会の感動を皆に伝えようと、伸一から贈られたレイを手に、同志の家々を回った。彼女の胸には、新たな決意が燃え、喜びが込み上げ、じっとしてはいられなかったのだ。
 決意即実践である。発心即行動である。
 一人ひとりとの、歓喜と躍動の励ましの対話が、心を結び、信心の血の通った創価の人間組織を創っていくのだ。
35  勇将(35)
 本部幹部会終了後、山本伸一は、副会長らと懇談した。その時、四国長の久米川誠太郎が切り出した。
 「香川のメンバーから、連日、『山本先生にお会いしに四国研修道場に行きたい』との声が届いております。もし、よろしければ、なんらかの会合をもっていただき、先生にお会いしていただければと思いますが……」
 「わかりました。では明日二十二日、集まれる方は集まってください。午前十一時から、勤行指導会という名称で、会合を開きましょう。急な連絡になるので、決して皆さんに無理をさせてはいけません」
 「明日は日曜日なので、多くの方々が集って来るようになると思います」
 「来られる方は、皆、呼んであげてください。全室使えば、入れるでしょう。一度で無理なら、何度でも勤行指導会を行います。
 ″会長が来ても、会えるのは一部の幹部だけではないか″といった、寂しい思いをさせたくないんです。もちろん、会合の会場には定員もありますから、なかなか全員が参加することは無理かもしれませんが、一人でも多くの方とお会いしたいんです。
 会合に出て歓喜し、決意を新たにしておられる方よりも、参加したくとも参加できずにいる方のことが、私は気がかりなんです。なんらかのかたちで励ましたい、声をかけたいというのが、私の気持ちなんです」
 リーダーにとって大事なことは、普段、なかなか会えない人のことを考え、励ましの手を差し伸べていく努力である。
 リーダーが会合中心の考え方に陥ってしまうと、会合の参加対象者だけを見て物事を考え、活動を推進していくようになってしまう。すると、その組織は、全同志の、また、万人の幸せを実現しようとする学会の在り方から、次第に離れ、結果的に組織そのものを弱体化させてしまうことになりかねない。
 光の当たる人より当たらぬ人に、湖面よりも水面下に眼を凝らして、皆を人材に育て上げていくことこそ、リーダーの使命である。
36  勇将(36)
 本部幹部会が行われた日の夕刻、香川全県に「明二十二日の午前十一時から、庵治の四国研修道場で勤行指導会が行われる!」との連絡が、電撃のごとく走った。
 連絡を聞いた会員は、皆、色めき立った。
 ″研修道場には山本先生がおられる。先生が出席されるにちがいない!″
 二十二日は、香川の同志が、朝から続々と研修道場に集って来た。
 「高齢者から子どもさんまで参加しています。講堂は、今、半分ぐらいの人です」
 山本伸一に、刻々と報告が寄せられた。彼は、幹部に、矢継ぎ早に指示していった。
 「講堂が定員に達したら、研修棟もすべて開放してください!
 寒いので風邪をひいたりすることのないように、参加者を外で待たせず、すぐに館内に案内するんです。
 それから、講堂が埋まったら、昨日の本部幹部会の録音テープを流してください」
 さらに、周りにいた県長らに言った。
 「副会長や、方面・県幹部は、部屋の中で待機しているのではなく、玄関前で、丁重に参加者を歓迎するんです!
 仏を迎えるように、『ようこそ! よくいらっしゃいました。皆さんの家だと思って、ゆっくりしていってください』と言うんです。深々とお辞儀をし、一人ひとりの手を握り、心から敬い、讃えていくんです。
 創価学会は、そういう世界でなくてはならない。そこに、仏法の実践があるんです。
 いくら『皆が仏だ』などと言っていても、寒いなか、同志が来ても知らん顔をしていたのでは、仏法ではありません。
 この立派な研修道場も、会員の皆さんの浄財によって造ることができた。会員の皆さんが主役なんです。幹部は会員に仕えるのだという自覚を、しっかりもつことです」
 伸一は、組織の中心となる幹部の意識変革がなされてこそ、新しい時代に即応した広宣流布の伸展がなされると考えていた。人間の絶えざる変革のなかにこそ発展がある。
37  勇将(37)
 山本伸一の提案による勤行指導会は、前日の本部幹部会の録音テープを聴いたあと、午前十一時から開始された。
 伸一の導師で勤行したあと、副会長、理事長のあいさつがあり、会長指導となった。
 彼は、懇談的に話を進めた。
 「お休みのところ、大変にご苦労様でございます。皆さんとお会いできて嬉しい。今日は、子どもさんも大勢いらっしゃっておりますので、簡潔に話をさせていただき、あとは、研修道場内をゆっくり散策し、英気を養ってお帰りいただければと思います」
 そして、信心だけは純粋に、どこまでも永続していくことが大切であると訴えた。
 「御本尊の功徳には、祈りが直ちに利益となって現れる顕益と、目には見えないが、次第に福運を積み、大利益を顕現していく冥益とがあります。
 小さな子どもも、二十年、三十年とたつと、立派な社会人に成長する。若木もいつか、見事な大樹に育っている。音もなく降っていた雪も、気がつけば一面の銀世界をつくり出している――このように、その時はよくわからなくとも、あとになってみれば、一切が大きく変わり、願いもすべて叶っているというのが、冥益なんです。
 私は、信心して三十年が過ぎました。私の周囲にも、さまざまな悩みを抱え、苦闘しながら、信心に励む同志がたくさんいました。いったい、いつになったら宿命転換ができるのだろうと思ったこともありましたが、今は皆、本当に幸せな境涯になっています。
 そうした例を、私はこれまでに、何万、何十万と見てきました。強盛に信心を貫くならば、なんの心配もありません。どうか、自信をもって、安心して、信心を持続し抜いていただきたいんです」
 さらに彼は、「信心強盛とは、いかなる人か」と参加者に問いかけ、こう語った。
 「信心といっても、すべて豊かな常識のなかにある。したがって、信心強盛な人とは、最も常識豊かな人であります」
38  勇将(38)
 山本伸一は、二十一世紀の広宣流布の伸展は、仏法者の常識豊かな行動を通して、人格への共感、信頼、尊敬を勝ち取っていくなかでなされていくものであると確信していた。「信心即人格」であり、そこに、信仰のすばらしさの証明もある。ゆえに、常識豊かな行動を強調し、次のように語ったのである。
 「信心のことで、絶対に争いなどを起こしてはなりません。誰からも信頼されていくための信心なんです。ですから、仕事には、人一倍、真剣に力を注ぎ、工夫を重ね、社会で見事な実証を示しきってください。唱題を根本にした、その絶えざる向上と前進の姿勢があってこそ、諸天諸仏も守り、功徳を受けていくこともできるんです。
 また、交通事故や火災等は、絶対に起こさないと決意して、安全運転や注意、点検を怠らないでください。
 皆さんの、ますますのご健康と福運増進をご祈念申し上げ、あいさつといたします」
 それから伸一はピアノに向かい、「つたないけれど、記念に演奏させていただきます」と言って、「さくら」などを披露した。
 勤行指導会の会場となった講堂を出た彼は、別の部屋に集っている人たちのところへも足を運んだ。
 伸一は、自分に言い聞かせた。
 ″会員の方々と自由に会うことのできる機会は限られている。この時を逃してはならない。今が勝負だ! 来られた方、全員とお会いし、魂を注ぎ込む思いで励まそう。皆が永遠に忘れることのない出会いにしよう!″
 別室でも皆に声をかけ、握手を交わした。
 「わざわざお越しいただき、ありがとう! 皆さんのことは忘れません。お一人お一人を、瞼に焼き付け、生命に刻んで帰ります。また、お会いしましょう」
 話し続けたせいか、喉が痛かった。
 しかし、声を振り絞るようにして語った。
 「信心をしていくうえで大切なのは、勇気ですよ。勇気が人間を師子に変えます。勇気があってこそ、境涯革命ができるんです」
39  勇将(39)
 山本伸一が参加者に視線を注ぐと、和服を着た一人の老婦人が、「先生!」と言って、イスから立ち上がった。
 伸一は、笑顔を向けた。
 「やあ、しばらくです! お元気そうでよかった!」
 「私のことを、覚えておいでなのですか」
 「もちろんです。お題目を送ってきました」
 「まあ……」
 老婦人は、目を潤ませた。彼女は、一九七二年(昭和四十七年)六月に行われた香川の記念撮影会の折、病床に伏す子息のことで思い悩み、伸一に質問したのである。
 「私の息子が重い腎臓病で入院しており、明日をも知れぬ状態です。息子は、本当に元気になるでしょうか」
 伸一は、確信をもって答えた。
 「大丈夫です。何があっても、幸福になれるのが仏法です。御本尊を信じて、懸命に、ひたぶるに祈り抜いていくんです。私も祈ります。題目を送ります。
 お母さんも、決して負けずに、強盛に信心に励んで、必ず幸せになるんですよ。また、いつか、お会いしましょう」
 そして、この老婦人の手を、強く握り締めたのである。
 以来、五年半の歳月が流れていた。
 老婦人は、ほおを紅潮させて語った。
 「あの日、先生は『大丈夫』とおっしゃってくださいました。先生の激励のおかげで、私は希望をもって立ち上がることができました。息子は人工透析を続けていますが、男子部の大ブロック長(現在の地区リーダー)をしており、今日も一緒に参加しています」
 老婦人が言うと、近くにいた青年と、老紳士が立った。彼女の子息と夫である。
 「それは、よかった。私への最高の贈り物です。私にとっては、皆さんが幸せになることほど、嬉しいものはないんです」
 わが命のある限り、蘇生のための光を送り続けよう――常に伸一は、そう心に決めていた。そこにこそ、最高の歓喜の大道がある。
40  勇将(40)
 正午過ぎ、山本伸一は、四国研修道場を出発し、高松市福岡町の四国婦人会館を訪問した。婦人部の幹部から要請があり、訪問して、記念植樹を行うことになっていたのだ。この会館は、婦人会館になる前は、高松会館といったが、かつては四国本部として、全四国の中心となってきた建物である。会館の広間には、二百人ほどのメンバーが集い、伸一の到着を待っていた。
 「懐かしい会館です。では、一緒にお題目を唱え、それから記念撮影をしましょう」
 三回に分かれて写真撮影した。伸一は、皆を前に出し、自分は後列に立った。
 「先生! 前列の真ん中にいらしてください」という声があがった。
 「いいんです。皆さんを守るのが会長なんですから、後ろから見守っていたいんです」
 撮影のあと、伸一は、子どもたちは前へ来るように言った。幼児から高校生まで、三十人ほどが彼を囲んだ。
 「皆さんにお会いできて嬉しい。私は、後を継いでくださる皆さんがいるから安心なんです。お母さんやお父さんは、わが子の成長が最高の希望であり、最大の喜びなんです。だから、子どものために必死に働く。
 私も同じ思いです。皆さんのために働き、命懸けで道を開きます。最愛の子どもである諸君のためなら、何もいといません。何も惜しみません。何も恐れません」
 スイスの大教育者・ペスタロッチは、子どもたちに呼びかけた。
 「友よ、兄弟よ、私の心は諸君に対する無限の信頼に高鳴っている」と。
 それは、まさに伸一の思いでもあった。
 その子どもたちのために、何をし、何を残すのか――常に彼は、そう自らに問うていた。
 伸一は、一人ひとりに声をかけ、好きな勉強や将来の希望などについて尋ねた。
 「みんなに童話を話してあげたいんだけれど、今日は時間がないんだ。また会おうね」
 このあと桜を植樹し、婦人会館から二百メートルほど離れた四国文化会館に向かった。
41  勇将(41)
 四国文化会館に到着した山本伸一は、事務室や恩師記念室を回り、職員らと懇談した。
 さらに、そこから高松市勅使町に向かい、高松講堂の建設予定地を視察した。
 そこは、川沿いにあり、吹きさらしのなか、数十人の人たちが集まっていた。
 「みんな学会の人だね。寒風のなかで、私を待っていてくれたんだな。車を止めてくれないか」
 当初、建設予定地の周辺を車で回り、それから功労者宅を訪問する予定でいたが、伸一は、ここで車を降りた。
 「みんな、こちらにいらっしゃい!」
 皆、喜々として、伸一の周りに集まって来た。壮年・婦人部もいれば、男女青年部もいた。年配者も、子どももいた。
 「待っていてくれたんですね。寒いのに、本当に申し訳ないね。この真心は、決して忘れません。なんで私が来ると思ったの?」
 「先生は、きっと、講堂の建設予定地に来てくださると確信していました。祈っていたんです」
 「私の動きも、わかってしまうんだね。でも、寒い日に表で待っているようなことをする必要はないんです。来ないかもしれないんだし。ところで、この辺りは、なんという場所ですか」
 「勅使町です」
 「すごい名前だね。天皇の意思を『勅旨』といい、それを伝える特使を『勅使』というんです。おそらくここは、昔、天皇の意向で開墾が進められたところなんでしょう。それだけ、すばらしい場所なんです。そこに高松講堂ができる。そうなれば、ここが四国発展の、精神の発信地になります。
 だから、″川もあって寒いし、殺風景なところだな″なんて思ってはいけませんよ。
 大事なことは、何事にも意義を見いだし、希望に、勇気に、前進の活力にしていくことなんです。そこに、心の豊かさがあり、強さがある。また、価値の創造があるんです。一念の転換で世界を変えるのが仏法なんです」
42  勇将(42)
 高松講堂の建設予定地で、寒風に吹かれながら、山本伸一は地元メンバーへの励ましを続けた。
 「ここに高松講堂ができたあとは、その隣に、さらに新しい四国文化会館を造る計画で進んでいるんです。つまり、ここは、四国創価学会の中心となっていく地なんです。皆さんは、その大法城のある地域を守っていく大事な使命を担っておられる。
 したがって、皆が地域にあって、信心の実証を示し、信頼されるお一人お一人になってください。皆さんが地域で信頼、尊敬される存在になることが、そのまま信心の勝利、広宣流布の勝利になるんです。
 では、ここで万歳をしましょう。体も温かくなるから。皆さんの健康、長寿、地域の発展、高松講堂の完成を願っての万歳です」
 「万歳! 万歳!」という、皆の元気な声が冬空に広がり、拍手が響いた。
 「講堂が完成した記念の催しの時には、地元の皆さんは最前列に、誇らかに座ってください。では、記念撮影をして、すぐに解散しましょう」
 皆が笑顔でカメラに納まった。
 「大事な仏子である皆さんが、風邪をひいてはいけないので、これで終わります」
 皆の輪の中に、何人かの高齢の男性がいた。伸一は、吹きつける寒風は、老齢の身には、こたえるのではないかと思った。
 伸一は、手袋をした手を差し伸べ、彼らの顔を包み込むように覆って温めた。
 「寒いでしょう。わざわざありがとう」
 近くの国道沿いに、たこ焼きの屋台が出ていた。それに気づいた伸一が言った。
 「みんなで、たこ焼きを食べましょう。私がご馳走させていただきます」
 同行の幹部に買いに行ってもらい、寒風に吹かれながら、皆で頬張った。
 どこまでも、ありのままの伸一であった。
 励ましのために身構える必要はない。″幸せになってほしい″との、ほとばしる一念の発露が、自然に励ましとなるのである。
43  勇将(43)
 高松講堂の建設予定地を視察した山本伸一は、高松市円座町にある溝渕義弘・静恵夫妻の自宅を訪問した。竹垣の塀のある立派な家であった。夫は開業医で四国ドクター部長、香川県壮年部長に就いており、妻は婦人部の四国副指導長、香川県総合婦人部長をしていた。
 溝渕の家では、義弘が一九六四年(昭和三十九年)三月、最初に入会した。
 人の良い彼は、友人に頼まれて、裏判を押した手形が不渡りとなり、巨額の負債を背負ってしまった。人間不信に陥り、債権者への応対に悩むなかで、不眠が始まり、強度のノイローゼになってしまったのである。
 医師であるにもかかわらず、自分の不眠症さえ治せないことが、さらに彼を苛んだ。その思いを知人に打ち明けると、仏法の話を聞かされた。知人は学会員であった。翌日には地区部長を紹介された。地区部長は、御書を開き、医師の彼に、仏法に説かれた病の起こる原因について滔々と語った。圧倒された。
 「医学で解決できない病を乗り越える道を説いているのが、この仏法なんです!」
 その確信に打たれ、義弘は入会を決意した。
 御本尊を安置する時、数人の学会員が自宅に来て祝福してくれた。妻の静恵は、どういう人たちなのかも、なぜ夫のところへ来たのかもわからなかったが、その身なりに眉をひそめた。衣服は質素極まりなく、靴も履き古されたものであったからだ。あまり関わりたくないと思い、お茶を出すこともしなかった。
 義弘は、この日、真剣に勤行し、しっかり唱題して床に入った。すぐに深い眠りに就いた。二年ぶりにぐっすりと眠ることができた。爽快な朝を迎えた。
 千の理論より一つの実証である。この体験が、彼を信仰に目覚めさせた。
 静恵は、医院の看護婦長に、「院長先生は、昨日、何かあったんですか。体調が良さそうなんです」と言われた。しかし、静恵には、そのわけは全くわからなかった。別の部屋で寝ているために、夫が熟睡できたことを知らなかったのである。
44  勇将(44)
 溝渕義弘は、妻の静恵に言った。
 「私は、創価学会に入ったよ」
 最初、彼女は、″何か医学を研究する学会なのだろう″と思った。しかし、ほどなく宗教団体であるとわかり、ショックを受けた。
 やがてノイローゼを克服した義弘は、静恵にも入会を勧めた。彼女も″この信心には何かあるのかもしれない″という思いはあったが、実家は他宗の檀家総代であり、世間体も気になった。学会をさんざん批判し、「信仰は自由です!」と、頑なに入会を拒否した。
 だが、義弘に、「何も知らないのに批判するのは感心できないな。人格が問われるぞ」と言われ、活動はしないつもりで入会した。
 すると、婦人部の幹部が激励に訪れた。
 「私は、夫の顔を立てるために入会しただけですから、活動は一切しません」
 「入会の契機はなんであれ、信心に励んでいけば、功徳がありますよ。仏法では、『発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し』と教えているんです」
 「功徳ってなんですか」
 「あなたは、なんだと思いますか」
 「衣食住に恵まれることでしょ」
 「それも功徳には違いないけど、それだけではありません。もっと大事なことがあります。何があっても負けない、強い自分になること。そして、″生きていること自体が、楽しくて、楽しくてしょうがない″という境涯になること。さらに、人の幸せを願い、幸せへの確かな道を教えてあげることができる、歓喜の人生を送ることですよ」
 「強い自分」という言葉が、静恵の心を射た。人の良さから、多額の負債を背負ってしまった夫を見て、″人間は、いつ、不幸の落とし穴に嵌るかわからない。一寸先は闇だ″との、不安をいだいていたのだ。
 「人間の中に光が生ずるや否や、人間の外にも、もはや闇はない」とは、ドイツの文豪シラーの言葉である。一切を決するのは、自分である。だから、その自分を強く光り輝かせていくのだ。そのための信仰である。
45  勇将(45)
 溝渕義弘と静恵は、真剣に信仰に励むようになった。すると、医師仲間や親戚などが、信心に反対し始めた。まだ、学会への誤解と偏見が根強い時代である。
 なかでも静恵の母親は、「恥ずかしくて外も歩けないから、やめてちょうだい」と、涙ながらに訴えるのである。
 しかし、夫の義弘が、日ごとに元気になっていく姿を目の当たりにした静恵の信心は、揺らぐことはなかった。
 山本伸一が、最初に義弘と会ったのは、一九六六年(昭和四十一年)一月に、四国本部で行われた地区幹部らとの記念撮影の折であった。義弘は、救護班として着任していたのである。ノイローゼは克服したものの、まだ痩せて、顔色も優れなかった。
 伸一は、救護の労を讃え、こう励ました。
 「人の命を預かる、大切な責任を担っているのが医師です。それだけに、医師であるあなたは、絶対に健康になってください。
 健康のためには、強い生命力が必要です。その生命力は、深い祈りから生まれます。また、御書を拝して、広宣流布に生きる自らの深き使命を自覚していくことです」
 伸一の言葉に、義弘は奮起した。
 彼は、真剣に御書を拝した。
 そのなかで、大聖人が病床にあった南条時光を励まされた「法華証明抄」の一節を目にした時、全身に震えが走った。
 「鬼神らめ」と怒りをもって呼びかけ、「この人の病をすぐに治して、むしろ法華経を行じる人を守るべきではないか!」と、時光を悩ませる病魔を、しっ責されている箇所である。
 弟子の病を撃退せんとする大聖人の、烈々たる気迫と確信、大生命力に触れた思いがした。これこそが、医師の魂だと感じた。命を守るためには、強くあらねばならない。あらためて伸一の指導の意味をかみ締めたのだ。
 入会から七年で、彼は巨額の負債も返済した。また、その間に、心臓も病んだが、それも見事に乗り越えたのである。
46  勇将(46)
 溝渕義弘の経営する医院は、深夜でも急患を受け入れる態勢を整えた。地域の人びとの命を守りたいとの思いからであった。
 その激務のなかで彼は、四国ドクター部長、香川県壮年部長として、学会活動にも全力を注いできた。彼の「健康セミナー」は定評があり、どこでも絶讃された。
 一方、妻の静恵も、香川県婦人部長、四国婦人部長などを歴任してきたのである。
 溝渕の家は、医院の奥にあった。
 山本伸一は、溝渕家の仏間で、夫妻と懇談し、四国広布に挺身してきた二人の努力を、心から讃えた。
 義弘は、見るからに温厚で、顔つきにも人柄の良さがにじみ出ており、静恵は、明るく率直な、表裏のない性格であった。
 夫妻に一家の近況を聞くと、三人の子息も、医師や薬剤師をめざしているという。
 伸一は、仕事が多忙ななか、懸命に学会活動に取り組む義弘に、ねぎらいの言葉をかけた。
 「本当に、よく頑張ってこられた。仕事も重責を担っておられるだけに、学会活動との両立では、ご苦労されているでしょう」
 義弘は、笑みを浮かべて語った。
 「常に、″学会活動に出ている時に、急患があったらどうするか。入院患者の容体変化があったらどうするか″など、さまざま対応を考えています。確かに、気の休まる時間はないかもしれません。
 しかし、学会活動は仏道修行ですから、悩んで当然です。″気楽な仏道修行など、あろうはずがない。一歩も引くまい。断じて投げ出すまい。仕事の責任も重く、多忙ななかで戦ってこそ、壮年のリーダーだ!″と、いつも、自分に言い聞かせています」
 伸一は、大きく頷いた。
 「立派です。壮年が純粋な信心で、本気になって立ち上がり、行動を起こさなければ、広宣流布の拡大は、なかなか進みません。
 香川から、いや四国から、″壮年学会″の時代を創っていってください。私も壮年部です。共に戦おうではありませんか!」
47  勇将(47)
 近年、全国各地で医師である学会員の活躍が目立っていた。山本伸一は、二十一世紀を「生命の世紀」とするために、人間の生命に直接関わる医師など医療関係者の育成に、ことのほか力を注いできたのだ。
 医学の進歩は急速であり、日進月歩の勢いである。しかし、それによって、必ずしも人間が幸福になるとは限らない。進歩発展した医学を、真に人類の幸福実現の力にしていくためには、医療従事者が、″人間とは何か″″生命とは何か″を説き明かした、生命尊厳の思想と哲理をもたねばならない。
 人間を″モノ″としか見なければ、その医療は、人びとの幸福とは、著しくかけ離れたものとなろう。
 ゆえに伸一は、医師のメンバーに大きな期待をかけ、力の限り、励ましを送り続けてきた。それが次第に実を結びつつあったのだ。
 彼は、溝渕義弘に尋ねた。
 「医師として、患者さんに接するうえで、心がけていることはありますか」
 「はい。患部や病だけでなく、人間を見るようにしています。一個の人間として患者さんと向き合い、どうすれば、苦を取り除き、幸せになるお手伝いができるかを考えています。ですから、話をする場合も、カルテや検査の数値ばかりを見るのではなく、患者さんの目をしっかり見て、人間対人間として対話するように心がけています。
 私は、患者さんから実に多くのことを学ばせてもらっています。自分の説得力のなさや力不足、生命を見つめる眼の大切さなど、すべて患者さんと接触するなかで気づかされ、教えられました。
 患者さんこそ師匠であり、患者さんが医師としての私を育ててくれたんです。患者さんを、心のどこかで見下し、″自分が診てあげるのだ″などと思ったら、それは慢心です。いい医師にはなれません」
 伸一は、その言葉に感動を覚えた。溝渕には、信念があり、謙虚さがあり、感謝があった。それが成長の大事な要因といえよう。
48  勇将(48)
 二十二日の夕刻、山本伸一は、会館に勤務する職員と面談したあと、四国研修道場で方面・県幹部との懇談会をもった。
 「聞きたいことは、なんでも聞いてください。私は、四国が大発展するための、あらゆる布石をしておきたいんです。今回も、可能ならば、全会員の方々とお会いしたかった」
 伸一は、十九日の夕刻に、香川入りして以来、この二十二日の夜までに、延べ八千人ほどと会ったことになる。
 彼は、必死だった。すべてに、時間的制約がある。そのなかで何事かを成そうとするなら、一刻も無駄にすることなく、効率よく、一つ一つの事柄に全精魂を注いで臨む以外にない。無計画な、漫然とした歩みでは、本当の仕事を成し遂げることはできない。
 伸一は、香川滞在中、多くのメンバーと語り合ったなかで、会合が多いとの声があったことに言及していった。
 「活動を推進していくためには、当然、さまざまな会合を開催していく必要がありますが、打ち出し等の会合は、できる限り少なくして、すべての幹部が、活動の現場に入れる時間を多くもてるように工夫すべきです。
 会合の趣旨、参加対象者が同じなのに、県で会合を開き、さらに、圏や本部でも会合を開くのは、効率的ではありません。
 たとえば、新しい方針などを発表する際にも、県として支部幹部の会合を開き、そのあとは、各支部ごとで会合をもって徹底していくという方法もあります。あるいは、県で圏幹部の打ち合わせをしっかり行い、次は、圏ごとに大ブロック幹部の会合を開くという方法もあるでしょう。実情に合わせ、効率のよい会合のもち方を考えていくことです。
 また、方面や県で活動のスケジュールを立てる際には、大ブロックやブロックなど、活動の第一線、活動の現場に焦点を合わせて組み立てていくことです。打ち出した活動が、いつ、どのようにして、最前線に伝わるかが、勝敗を決する最大のポイントだからです」
 第一線を支え、守るための組織である。
49  勇将(49)
 活動の進め方についての山本伸一の話は、極めて基本的な事柄であった。その基本があいまいになることから、活動は空転していく。だからこそ彼は、基本を徹底して確認しておこうと思ったのである。
 「各大ブロックでは、全幹部が集っての協議会と、全会員が参加しての座談会が行われています。さまざまな運動を進めるうえで、会合としては、そこに照準を合わせていくべきです。さらに、会合に参加できない人には、会って伝え、励ましていく――これが最も大切なんです。
 県としては支部長会等をもって、活動を発表したつもりでも、大ブロック幹部などの段階で止まっていれば、実際の運動は進んでいません。水面だけが波立っているのを見て、全体が動いていると錯覚しているようなものです。組織の最前線の一人ひとりが自覚を新たにして、行動を起こしてこそ、本当の広宣流布の前進があるんです。
 また、活動を推進していくための会合では、何を打ち出すのかという、テーマを明確にしていくことが大切です。参加者が、″いろいろな話があったけど、何をすればいいのかわからない″と思うようでは失敗です。
 たとえば、″弘教拡大″と″機関紙の購読推進″を打ち出すとするなら、『これから行うことは、この二つです』と、明快に言うことです。あれもやろう、これもやろうと並べ立て、十も二十にもなってしまえば、結果的に、何も示さなかったのと変わりありません。的を絞ることです。活動報告なども、テーマに即したものにすることです。
 また、幹部が同じ話にならないように、ある人は体験を通し、ある人は御書を拝して、″なんのための活動か″″なぜ、そうするのか″を訴えていくんです。幹部は、納得と感動を与えていくことです。
 それには、自分が活動の意味をよく理解し、″さあ、やるぞ! 率先垂範だ″という気迫に満ちていなければなりません。それが会合革命の原動力になるんです」
50  勇将(50)
 山本伸一と方面・県幹部との懇談が終わった時には、午後十時を回っていた。
 伸一は、皆に提案した。
 「壮年部と男子部の方面幹部、県幹部の方と追善の勤行をしましょう。源平の屋島の戦いで亡くなった人たちを追善したいんです。平家も、源氏も、亡くなったすべての方々に回向の題目を送り、さらに、この地域の繁栄を祈りたいんです。
 悲惨な戦が行われた地だからこそ、ここから平和の哲学を発信し、人間共和の幸の花園を築かねばならない。その誓願の勤行です」
 厳粛な追善の勤行が始まった。真剣な祈りであった。
 勤行を終えた伸一は言った。
 「みんなも、どこにいようが、″自分がいる限り、この地域を平和と繁栄の都に転換してみせる。そのために私がいるんだ!″という決意で進んでいくんです。
 ″私の住んでいる地域は、旧習が深いから、広宣流布は難しい″などと考えてはいけません。その考え自体が、敗北の要因なんです。大聖人は、お一人から末法広宣流布の戦いを起こされたではありませんか。私たちは、その大聖人の弟子ではないですか」
 底冷えのする冬の深夜であった。しかし、四国の最高幹部たちの頬は紅潮し、その胸には、地域広布への闘志がたぎっていた。
 伸一は、皆の顔に視線を注ぎながら、四国の同志への熱い思いを語った。
 「私は、四国に強くなってほしい。広宣流布の日本のモデルになってほしい――どうか、その志の種を心に植えてください。
 それには、まず、″必ずそうなろう! 勝とう!″と決めることです。そして、強盛に祈るところから、力が生まれるんです。
 四国出身の正岡子規は、『一すぢに勝たんと思ふ角力かな』という句を詠んでいる。相撲も、勝とうという一心でぶつからなくては勝てない。勝利への一念が大事なんです」
 四国訪問の最後の夜は、勝利への誓いを固め合う、師弟の語らいとなった。
51  勇将(51)
 一月二十三日午後、山本伸一は八日間にわたる四国指導を終え、関西に向かった。
 彼は、四国研修道場を出発する間際まで、愛媛から研修会に参加していた壮年・婦人や、役員として諸行事の運営を支えてくれた青年たちと、記念のカメラに納まるなどして、激励を続けた。
 関西入りした彼は、大阪府交野市の創価女子中学・高校(現在の関西創価中学・高校)を訪ねた。翌二十四日には開校五周年を祝う昼食会に出席し、奈良県へと急いだ。二十五日に橿原市の明日香文化会館で行われる、奈良支部結成十七周年を記念する幹部会等に出席するためであった。この幹部会が、県としての「支部制」出発の集いとなるのである。
 明日香文化会館は、橿原市石川町にある奈良本部の隣接地に、前年暮れに完成したばかりの会館であった。しばらくは、ここが奈良県の中心会館として、広宣流布の心臓部の役割を果たしていくことになる。
 山本伸一が明日香文化会館に到着したのは、午後四時半前である。小ぬか雨が、乾いた空気をほどよく湿らせていた。
 会館は高台にあった。鉄筋コンクリート造りの白亜の二階建てで、優雅で重厚感のある建物である。
 南には石川池(剣池)と孝元天皇陵があり、北東から北、北西に、香具山、耳成山、畝傍山の大和三山が見える。また、東には蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があったといわれる甘樫丘がある。橿原市一帯は、古代文化発祥の地といわれるだけに、遺跡も多く、緑豊かで、歴史のロマンにあふれていた。
 車を降りた伸一は、出迎えた県の幹部らに言った。
 「すばらしい文化会館ができたね! 勝ったね。皆さんの奮闘が実を結んだんです。
 仏教文化が栄えた奈良に、日蓮大聖人の太陽の仏法が大興隆していく象徴が、この明日香文化会館です。皆がそう確信し、決意を新たにしていくことが、実は重要なんです。大事なのは人間の心です」
52  勇将(52)
 山本伸一は、明日香文化会館の設計段階から何度も報告を受け、相談にものってきた。
 彼は、日本を代表する仏教建築も多く、他教団の本部等もある奈良県の中心会館は、学会員が「これが私たちの法城です!」と、誇らかに胸を張れるものにしなければならないと考えてきた。だから、近代的でありながらも、風格のある建物にするよう、さまざまなアドバイスを重ねてきたのである。
 伸一は、館内に入った。ドアの取っ手は「勾玉」の形をしており、大広間の襖は銅板で、天井も美しい格子模様である。また、柱にもゆるやかな膨らみがあり、手の込んだ造りになっていた。
 彼の奈良訪問は、二年ぶりであった。
 午後六時前から二階の広間で代表幹部と懇談したあと、文化会館の各部屋や庭を回り、役員らに言葉をかけていった。
 さらに、奈良県の新出発となる明日の県幹部会を記念して、支部長らに贈るために、句などを認めた。
 「ついに見る 朝日の支部を 祝賀せむ」
 「真剣の 二字を心に 慈悲の指揮」
 翌二十五日、伸一は、明日香村など周辺地域を視察した。
 聖徳太子誕生の地に建立されたという橘寺を経て、石舞台古墳や、蘇我馬子によって創建された最初の本格的寺院といわれる飛鳥寺を通り、高松塚古墳などを回った。
 彼は、車中、窓外に目を向け、地域の繁栄を願い、大地に、草木の一本一本に、題目を染み込ませる思いで、唱題を続けた。
 蘇我氏、聖徳太子らによって、仏教がこの地に興隆し、仏教文化が開花してから、千三百年余の歳月が流れた。今、その仏教は、いにしえの繁栄を伝える遺跡や伽藍はあっても、生き生きとした精神は失われて久しい。
 伸一は、深く思った。
 ″奈良県創価学会には、この地に真実の仏法の力をもって新しい人間文化を創造し、社会の融和と繁栄を築き上げる使命がある。仏法興隆の新時代の幕を開くのだ!″
53  勇将(53)
 一月二十五日の夕刻、明日香文化会館一階の大広間には、奈良県各地から代表幹部が集って来た。真冬であるが、場内は熱気にあふれていた。
 会場後ろのドアが開いた。
 「皆さん、こんばんは!」
 山本伸一が姿を現すと、会場を揺るがさんばかりの大拍手が轟いた。
 伸一は真ん中の通路を通り、参加者に、「ご苦労様!」「久しぶりだね」と声をかけながら前方に進んだ。
 司会の声が響いた。
 「ただ今より、奈良支部結成十七周年記念幹部会を開会いたします!」
 伸一の導師で勤行が始まった。真剣に祈りを捧げた彼は、振り向くと皆に言った。
 「楽しくやろうよ。家族の集まりだもの」
 この言葉で、参加者の緊張がほぐれた。
 県長の沖本徳光があいさつに立った。就任五カ月の、三十五歳の県長である。
 「本日は、広布第二章の初代支部長・婦人部長の任命式を兼ねた幹部会であります。
 奈良支部結成十七周年の佳き日に、わが県は、新たに九十七支部で広布第二章の出陣ができることは最大の喜びであります。今日よりは支部長を中心に各部一体となって、日本における仏教淵源の地となったわが郷土・奈良を、世界一の仏国土につくり上げてまいろうではありませんか!
 私は、若いだけでなんの取り柄もありませんが、奈良の会員一人ひとりのために、祈りに祈り、動きに動き、この身を生涯、皆さんの幸せのために捧げてまいります」
 すがすがしい決意であった。
 奈良支部の誕生は、一九六一年(昭和三十六年)三月のことであった。支部長・婦人部長は、有田幸二郎・信子夫妻である。
 二人は、この日、県指導委員、県指導長として元気な姿で、満面に笑みを浮かべていた。
 草創の功労者が、戦い続けている組織は強い。そこには、学会魂の継承があり、それが信心の堅固な土台となっていくからである。
54  勇将(54)
 式次第は、表彰に移った。山本伸一が見守るなか、奈良支部の初代支部長・婦人部長の有田幸二郎・信子夫妻に、それぞれ、感謝の花束が贈られた。
 賞讃の大拍手が夫妻を包んだ。二人は、感激に目を潤ませた。
 有田夫妻は、一九五五年(昭和三十年)八月の入会以来、他宗派の古刹が甍を連ねる奈良にあって、ひたぶるに広布開拓に走り続けてきた。
 夫の幸二郎は、奈良市内で燃料店を営んでいた。かつては遊興にふけり、夜ごと、浴びるように酒を飲んだ。入会の数年ほど前から、慢性の胃潰瘍と神経痛に苦しむようになった。胃潰瘍の薬は医師から処方してもらっていたが好転せず、神経痛は原因不明で、腹の右横に激しい痛みが起こるのだ。
 なんとか商売は続けていたものの、げっそりと痩せ細り、長身の彼は、物干し竿のような印象を与えた。それでも、過度の飲酒を重ね、儲けた分は、酒代、遊興費に消えていった。治るあてのない病に、半ば自暴自棄になっていたのだ。
 妻の信子は、先行きの不安から逃れるために、信仰にのめり込んでいった。さまざまな宗教を遍歴するが、不安はますます募るばかりであった。
 そんな折、信子は、隣家の婦人から学会の話を聞いて座談会に参加した。そこで、宗教には高低浅深があることを教えられ、彼女は入会を決意した。その話を夫の幸二郎にすると、「一緒に信心してみよう」と言いだしたのである。
 勤行に励むようになって三日目、お粥しか口にできなかった幸二郎が、漬物とお茶漬けを食べた。以来、少しずつ、かたいものが食べられるようになっていったのである。
 夫妻は、その現証に小躍りした。
 ″この信心は間違いない!″――信子は、ようやく″本物″の宗教に出合ったと思った。
 実証に勝る説得力はない。一つの体験は、百万の言葉よりも重い。
55  勇将(55)
 有田幸二郎は、普通の食事ができるようになった――その功徳の実感を、本人も、妻の信子も、人に語らずにはいられなかった。
 難しい理屈は何もわからなかった。ただ、「この南無妙法蓮華経の御本尊さん、拝まなあきまへんで!」と言って歩いた。
 弘教の闘士が誕生したのだ。
 功徳の体験から生まれる歓喜こそ、広宣流布の無限の活力となる。
 二人は、家に来る人や近所の人に、日蓮大聖人の仏法の力を訴えていった。バスに乗っても、友人や知人の姿を見ると、すぐに仏法対話になった。入会五日目には、六世帯の人が題目を唱え始めた。
 ほどなく二人は班長と班担当員の任命を受けた。幸二郎の胃潰瘍は克服できたが、まだ神経痛は治ってはいない。医師もサジを投げた原因不明の病である。しかし、夫妻には、これも完治できるという確信があった。
 有田夫妻の班員は、奈良県の全域に散在していた。彼らが班長・班担当員になった年の暮れ、宇陀郡の榛原で座談会が開かれることになった。この日、雪がちらつき、幸二郎は神経痛で起き上がることもできなかった。座談会には、たくさんの友人が出席を約束しているという。彼は決めた。
 ″班長の自分が行かなければ、座談会は始まらない! 這ってでも行こう!″
 断じて使命に生き抜こうとする一念が、人間を強くする。他者のために、何かをなそうとする時、生命の底から、滾々と力が湧き出るのだ。
 幸二郎は、妻の信子と学会員の壮年に支えてもらい、雪の中を歩き始めた。一歩足を踏み出すたびに、苦痛で顔が歪み、額に脂汗が滲んだ。汽車、そして電車を乗り継ぎ、歯を食いしばりながら座談会場をめざした。
 ようやく榛原の会場にたどり着いた。学会員数人と、二十四、五人の友人で、部屋はいっぱいだった。健気な同志たちは、雪の中、有田夫妻が来てくれたことに対して、涙を流さんばかりに喜び、拍手で迎えてくれた。
56  勇将(56)
 座談会場に到着しても、班長の有田幸二郎の神経痛は続いていた。顔面は蒼白であった。彼は、トイレに入って休み、なかなか出てこなかった。痛みに呻く声が聞こえた。
 班担当員の信子は、″こうなったら、私が頑張ろう!″と腹をくくった。
 トイレにいる夫に言った。
 「あんた、出てきなはれ。出てきて、私の横で寝てなはれ」
 信子は、座談会場に置かれた座卓を前にして座り、夫の幸二郎を隣に寝かせた。そして、静かに、落ち着いた口調で語り始めた。
 「ここにいるのは、私の夫です。私たちは四カ月前に、日蓮大聖人の仏法と巡り合い、信心しました。それまで夫は、何年間も慢性の胃潰瘍に苦しみ、お粥しか食べることはできませんでした。ところが、勤行を始めてから、漬物やお茶漬けが食べられるようになり、普通の食事ができるようになりました。
 しかし、夫には、もう一つ、大変な病があります。それが、この神経痛です。医者は、原因がわからないと言います。でも、必ず、これも信心で乗り越えてみせます。皆さん、夫の今の様子を見ておいてください。
 日蓮大聖人の仏法には、人間のもつ大生命力を涌現させる力があります。だから夫は、医者がサジを投げた病を、信心を根本に克服しようと決意し、痛くとも、笑われても、こうして座談会に出席しているんです。懸命に学会活動に参加しているんです。私たちは、この信仰で、必ず幸せになってみせます。その絶対の確信があるんです。
 信心したからといって、今すぐに、何もかも良くなるとは限りません。宿業の軽重、信心の厚薄によります。でも、一生懸命に信心に励んでいけば、夫は必ず全快します」
 烈々たる確信であった。学会員に誘われて座談会に出席した友人たちは、信子の気迫にのまれたように、真剣な顔で話に耳を傾けていた。
 ほとばしる確信こそが、信仰の核である。それは、幸福創造の最大の源となるのだ。
57  勇将(57)
 有田幸二郎は、座談会場で横たわり、妻の信子の話を聞いていた。
 ″本来ならば、班長として、自分が先頭に立って訴えなければならないのだ″と思うと、不甲斐なかった。歯ぎしりする思いであった。彼は、深く心に誓った。
 ″きっと、この病を治し、長生きしてみせる。その時、誰もが仏法の力に驚くだろう。それが、私の折伏だ!″
 信子は、座談会に集った友人たちに、力強く語っていった。
 「仏法では、病がある人は仏になれると説いているんです。日蓮大聖人が『病によりて道心はをこり候なり』と仰せのように、病を契機として、真剣に信心に励もうとするからです。
 病気に限らず、経済苦や家庭不和など、すべてを乗り越えて、幸せになれると約束しているのが、大聖人の仏法なんです。
 皆さんも、一緒に信心をしましょうよ!」
 彼女の、率直な、ありのままの訴えは、参加者の胸に強く響いた。結局、二十四、五人の友人のうち、五、六人が入会の決意を固めたのである。
 有田夫妻は、弘教に行き詰まると、大阪の関西本部まで行き、幹部に指導を受けた。信心は、我見で推し量るのではなく、どこまでも真っすぐに、純粋に貫こうと、決意していたのだ。
 入会翌年の一九五六年(昭和三十一年)一月から、大阪で会長・戸田城聖の「方便品・寿量品」講義や御書講義、指導会などが開催されるようになると、二人は、喜び勇んで大阪に通った。さらに、青年部の室長である山本伸一が指揮を執った″大阪の戦い″の時には、定期券を購入して、毎日のように関西本部を訪れた。いつか、幸二郎の神経痛も起こらなくなっていた。
 求道の人には、歓喜がある。歓喜ある人には、苦悩を克服する勢いがある。
 五六年(同)八月、奈良地区が誕生した。地区部長、地区担当員は、有田夫妻であった。
58  勇将(58)
 有田幸二郎・信子夫妻は、まさに二人三脚で、広宣流布の険路を突き進んでいった。
 何時間も、電車やバスに揺られ、同志の指導、激励に行くことも珍しくなかった。奈良県南部の十津川や、下北山にも足を運んだ。
 帰途、山道が土砂で閉ざされ、バスが運行できなくなったために、夜を徹して、歩いて山を越えたこともある。
 夫妻は、当初、″宿命転換のために、信心に励もう!″と、必死に頑張った。やがて、教学を学ぶなかで、広宣流布に生きる使命を自覚し、喜びと誇りを感じていった。
 ″私たちは、地涌の菩薩なんだ! 日蓮大聖人との、久遠の誓いを果たすために、私たちは今、この時に、この地に生まれてきたのだ! わが手で、断じて奈良の広宣流布をするのだ!″
 そう思うと、力が湧いた。
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年の一九六一年(昭和三十六年)三月には、奈良支部が誕生し、有田夫妻は、支部長、支部婦人部長に任命された。
 東京・台東体育館の壇上で、有田幸二郎は、山本会長から支部旗を受けた。
 「しっかり頼みます!」
 「はい!」
 その時の支部旗の、ずっしりと重い感触がいつまでも両腕に残った。
 それは、奈良の広宣流布を担い、全支部員を幸せにする責任の重さのように、彼には思えた。
 「奈良広布に私たちの人生を懸けよう!」
 有田夫妻は、心の底から誓い合った。怒濤のごとく、弘教の大波は広がった。
 御聖訓には「此の法門を申すには必ず魔出来すべし」と。支部発足から二カ月後、有田の家の塀に、彼らを罵倒する言葉が、白いペンキで大書された。
 「有田よ恥を知れ」――学会を憎む何者かによる、卑劣な仕打ちであった。
 ″これが広宣流布の道だ! 学会が正義であることの証明だ。負けるものか!″
59  勇将(59)
 有田幸二郎から、自宅の塀に罵倒する落書きをされたという報告を受けた山本伸一は、即座に励ましの手紙を書いた。
 「このたびは、三障四魔の嵐、東京で心配している。御金言通りなれば、今更、驚くことはない。あくまで世間の事に、ことよせて、難があるのです。悠々と、頑張ってくれ。
 御書に曰く『各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず』と云々。又曰く『其の外の大難・風の前の塵なるべし』との御金言なり。これくらいで退転するような人があれば、それでよいではないか。われらは、唯々、慈悲をもって戦っているのだから。人数の多くなる、少なくなる、これは全て御仏智なれば。
 願わくは、今こそ大信力をいだし、大御本尊様に願い、大勝利を期せられよ。大将軍らしく、悠然と全支部員の同志を励まし、指揮をとっていただきたい」
 伸一は、結びに、全幹部が団結し、勝つことを、心の底から祈っている旨を記した。
 有田夫妻は奮い立った。幸二郎は、皆に力を込めて訴えた。
 「日蓮大聖人の御書には、信心し、広宣流布の戦いを起こせば、必ず法難が競い起こると、随所にあるではありませんか!
 難を恐れたら、信心ではありません。功徳も、宿命転換も、一生成仏もありません。難に立ち向かい、挑み、戦う覚悟を、私たちは、絶対に忘れてはなりません。今こそ、勇気を奮い起こして、さらに、勇猛果敢に折伏に邁進していこうではありませんか!」
 法難が勇将をつくりだす。
 男子部の有志は、「自分たちで塀の落書きを消します」と言ってくれた。
 だが、有田は「このままにしておくよ。戦いを起こした誉れの記念碑だからね!」と答え、そのままにしておいた。
 有田夫妻は、この落書きを見ては、伸一の励ましに応えようと、広宣流布への闘志を燃やしてきたのである。
60  勇将(60)
 子どものいない有田幸二郎・信子夫妻は、男女青年部員や支部の子どもたちを、わが子と思って接してきた。
 有田の家は、支部のさまざまな活動の拠点になっていた。彼らは、青年たちに言うのであった。
 「ここを、わが家だと思って、自由に使いなさい」
 また、苦学生をはじめ、青年たちがきちんと食事をしているかどうかも気遣った。青年たちも、有田夫妻を父や母のように慕った。
 夫妻のもとで活動に励んだ青年たちのなかから、後年、副会長ら幹部をはじめ、学術界など、社会の各分野で活躍する多くの人材が誕生している。奈良県長の沖本徳光も、その一人である。
 人を育むものは、人の絆である。先輩幹部の一人ひとりへの真心、思いやりが発する、心の温もりのなかで、信心の滋養を吸収し、人材は育っていくのである。
 奈良支部結成十七周年の記念幹部会で、花束を受けた有田夫妻に、山本伸一は言った。
 「これからも、後輩の模範、希望であり続けてください。また、広宣流布に懸けた精神を伝え残していってください」
 目を輝かせて、大きく頷く、夫妻の姿が凜々しかった。
 幹部会は、新支部長への支部証の授与等のあと、支部婦人部長代表の抱負となった。
 登壇したのは、奈良県北東部の宇陀郡榛原町を活動の舞台とする、榛原支部の婦人部長・丸沢邦代であった。若々しい、明るい女性である。彼女は、高い声で、ゆったりとした口調で話し始めた。
 「私たち榛原支部の地域は、標高八百メートル級の山々がそびえる山里です。縄文時代の遺跡や、古墳も多い、由緒ある土地柄です。山々に囲まれ、一山越えてはあの大ブロックへ、また、一山越えてはこの大ブロックへと、支部員さんの各家々を回るには、何日もかかるほど広大な地域です」
61  勇将(61)
 丸沢邦代は生き生きとした表情で語った。
 「私は、山紫水明のこの山里が大好きです。わが地域に功徳の花が爛漫と咲き薫るよう、はつらつと単車に乗って駆け巡っています」
 山本伸一は、拍手を送りながら言った。
 「交通事故を起こさないようにね」
 彼女は、チラリと伸一に視線を向け、元気な声で、「はい!」と応え、言葉をついだ。
 「私は、十年前に入会し、その直後から、『聖教新聞』の配達も続けております。現在は、三十軒ほどのお宅に配らせていただいておりますが、雪が凍りつく冬の朝は、単車にも、自転車にも乗れません。凍った道を徒歩で配ると、二時間以上もかかります。
 しかし、こうして同志のため、地域の友のために、″広布のお手紙″を運べることが、私の最高の誇りです。一歩一歩の歩みが、すべて福運となり、無量の生命の財産になっていると、強く確信しております」
 「すごいね。ありがとう!」
 すぐに、伸一の声が響いた。
 彼女はにこやかに一礼し、話を続けた。
 「榛原には、草創期の支部婦人部長として活躍された、私が心から尊敬する木谷節さんという先輩がおられます。みんなから、″宇陀のかあちゃん″と呼ばれて慕われている方です。
 その木谷さんが、さりげなくおっしゃった言葉に、胸を打たれました。
 『私は、組織のなかで、支部員の皆さんに何かあったら、何をさておいても、その人のところへ飛んで行って、一緒に悩み、唱題して、すべて信心で解決してきたんですよ。そうすることで、その人も成長し、結果的に支部も強くなりました。ともかく、無我夢中で一人ひとりを守り、戦ってきたんです』
 この話を聞いて、″これが学会の強さであり、草創の精神だ″と思いました。
 私も及ばずながら、この精神で、粘り強く励ましを続け、皆に慕われ、頼りにされる、太陽のように明るく、朗らかな、支部婦人部長になりたいと決意しております」
62  勇将(62)
 支部婦人部長を代表しての丸沢邦代の抱負に、大きな共感の拍手が鳴り響いた。
 山本伸一は、草創の支部幹部の精神は、広布第二章を担い立つ勇将に、確かに受け継がれようとしていることが感じられ、嬉しくてならなかった。
 彼は、丸沢に、祝福の記念の品を贈りたかった。しかし、あいにく、用意してきた書籍なども使い果たしてしまった。
 彼は、御宝前に桜の花籠が供えてあるのを見ると、「この花を差し上げていいでしょ!」と、県長らに尋ねた。湧き起こる大拍手のなか、それを手に取り、丸沢に贈った。
 続いて、支部長代表の抱負となった。
 天理市の川原城支部の支部長・西坂勝雄が登壇した。彼は、四十過ぎの小柄な壮年であった。その体から、強い気迫をほとばしらせ、大きな声で語り始めた。緊張のためか、やや早口であった。
 「山本会長を迎え、広布第二章の船出にあたり、創価学会こそ、世界最高の宗教であることを証明をするため、わが川原城支部は燃えに燃えて、戦いを開始いたしました。
 私自身も、支部員のために御本尊に祈り、いかなる三障四魔の烈風にも臆せず、生涯、破邪顕正の旗を振り続けてまいる決意であります!」
 「すごいぞ! 頑張れ!」と、伸一の合いの手が入った。西坂は勢いづいた。
 彼は、かつては貧乏や病気で悩んでいた支部員の一人ひとりに、功徳の実証が現れ、その体験が座談会で楽しく語り合われている様子を報告。そして、新たなスタートに際し、支部で掲げたモットーを発表した。
 「一、悩んだら指導を受けよう。
 一、グチをいうより題目だ。
 一、クヨクヨするより実践だ。
 このモットーを合言葉に、徹底して全支部員への激励と仏法対話を進めてまいります」
 伸一は、各支部が、いかんなく個性を発揮し、意欲的に、明るく活動を進めてほしかった。それが、飛躍の活力となるからだ。
63  勇将(63)
 支部長の西坂勝雄は、最後に、ひときわ力を込めて訴えた。
 「一昨年、山本先生は、『恐るるな 功徳したたる 妙法の 法旗高らか 奈良は厳たり』との和歌を、奈良の同志に贈ってくださいました。私は、この和歌のごとく、力の限り前進してまいります!」
 真剣であった。懸命であった。
 山本伸一は、新支部長の、その心意気が嬉しかった。彼は、西坂にも、激励に記念の品を贈りたかった。しかし、何もない。
 御宝前に供えられた直径五十センチほどの鏡餅を見ると、彼は県長らに言った。
 「これを差し上げようよ」
 拍手が起こった。伸一は、鏡餅を台ごと一人で持ち上げようとした。重さは二十キロ以上もある。県長の沖本徳光は、運ぶのを手伝おうと、手を差し出した。しかし、伸一は、一人で抱えるようにして、西坂支部長のところまで運んだ。餅についていた粉で、スーツは白くなっていた。だが、そんなことは、全く気にも留めず、「頼むよ!」と言って渡した。受け取った西坂の足がふらついた。
 沖本は、伸一の行動から、リーダーの在り方を語る、師の声を聞いた思いがした。
 ″人を頼るな! 自分が汚れることを厭うな! 同志を大切にし、励ますのだ。それが、学会の幹部じゃないか!″
 沖本の五体に電撃のような感動が走った。
 しばらくして、伸一の指導となった。
 彼は、一月の十五日に行われた、若草山の山焼きのことから話を進めた。
 「毎年一回、山焼きが行われますが、必ずまた、春とともに、若草が萌え出る。それは、草は焼かれても、根っこがあるゆえに、草の灰を肥料として吸収し、みずみずしい草を茂らせるのであります。
 人生も同じです。根がある人は、何があっても必ず栄える。根とは信心です。その根をより太く、強くしていくことによって、福運を吸い上げ、自分のみならず、一家一族をも、永遠に繁栄させていくことができる」
64  勇将(64)
 山本伸一は、参加者一人ひとりに視線を注ぎながら話を続けた。
 「各地域にあっても、異体同心の組織が築かれ、″信心の根″が深く張り巡らされていくならば、三障四魔という炎に焼かれることがあっても、また必ず、若草山のように、青々と蘇生していくことは間違いありません。
 人生には、さまざまな試練が待ち受けているものです。しかし、″根がある限り、たとえ、すべてを焼き尽くされても、必ず蘇生できるのだ!″と強く確信し、自信をもって、焦らずに、わが生命に信心の根を、地域に広宣流布の根を、張り巡らしていってください」
 次いで彼は、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」等の御文をあげ、折伏・弘教にこそ創価学会の使命と精神があることを訴えた。
 彼は、広布第二章の「支部制」にあたり、″折伏精神″を、学会の隅々にまで燃え上がらせなければならないと思っていた。
 ″折伏精神″とは、友人、知人に、自分に連なるすべての人びとに、あらゆる苦悩に打ち勝つ道を、崩れざる幸福の道を教える慈悲の心である。何ものをも恐れず、仏法の正義を貫く勇気である。わが生命を磨き鍛え、一生成仏、人間革命をめざす求道、向上の情熱である。
 学会活動は、弘教をはじめ、座談会、教学の研鑽、機関紙誌の購読推進等々、多岐にわたる。しかし、いずれの活動の目的も広宣流布にあり、その原動力は、どこまでも″折伏精神″である。この精神を失えば、活動は惰性化し、空転を余儀なくされる。
 周囲の人びとに真実の仏法を教え、必ず幸せになってもらおうという一念を燃え上がらせてこそ、すべての活動に魂が込められ、歓喜が湧く。そして、人との触れ合いは、そのまま、仏縁の拡大となるのである。
 一切の学会活動は、広宣流布、立正安国をめざすものであり、それは、仏の使いとしての菩薩の行である。ゆえに、地涌の菩薩の魂である″折伏精神″を燃え上がらせるのだ。
65  勇将(65)
 山本伸一は、広宣流布の勇将である、支部長、支部婦人部長、そして、青年部の各部部長には、常に自分と同じ心で、″折伏精神″をたぎらせ、あらゆる活動の先陣を切ってほしかったのである。
 彼は、期待と慈愛を込めて、話を続けた。
 「さきほど、支部婦人部長さんが、山間の地域で、長年、『聖教新聞』を配達してくださっているとのお話を伺い、感謝の思いでいっぱいです。豪雪地帯などで新聞を配ってくださっている方をはじめ、すべての配達員の皆さんに、心から御礼申し上げます」
 三日前の二十二日、日本列島は発達した低気圧に襲われた。北海道の帯広では、降り始めからの新雪が八十八センチという、測候所設置以来の大雪の記録を更新。北日本を中心に大荒れの天気となった。
 この日、伸一は、香川の四国研修道場にあって、″配達員の皆さんが、どれほど大変な思いをしているか″と、心を痛めながら、真剣に、御本尊に無事故を祈ったのである。
 奈良の幹部会で彼は、「聖教新聞」の使命についても言及していった。
 「『聖教新聞』には、仏法哲理がわかりやすく説かれ、広宣流布の指標、信心の指導、教学の解説等が、掲載されております。それは、人生観、生命観、宇宙観を究め、仏法の法理を人生・生活に具現していくための、まことに重要な手引となる機関紙です。
 また、日蓮大聖人の法門を実践しゆく規範であり、大切な人生行路の指針といえます。
 その機関紙を、朝早く、寒風の日も、雪の日も、黙々と配達してくださる″無冠の友″に、私は最大の敬意と感謝の念をもって讃嘆したいのであります」
 大きな拍手が湧き起こった。
 彼は、確信に満ちた、強い声で語った。
 「広宣流布のために人一倍苦労されている方々が、幸せになれないわけがありません。必ず、大福運の人、大長者となります。長い目で見てください。仏法の因果の理法には、断じて?などありません!」
66  勇将(66)
 真の仏法者とは、自らが本来、仏であると確信している人である。一切衆生が仏であると信じる人である。仏法で説く、生命の因果の法則を、わが信念としている人である。
 それゆえに何ものをも恐れず、それゆえに人を敬い、それゆえに喜々として労苦を担い、信心は即人格となって輝きを放つ。
 山本伸一は、さらに「聖教新聞」の配達員への、深い感謝の思いを語った。
 「新聞を届けてくださる配達員の皆さんのご苦労は、大変なものがあります。何人ものお子さんをもつ主婦もいれば、勤めに行く前に配ってくださるサラリーマンもいる。
 また、なかには、一流会社の重役であったり、博士の夫人という方もいらっしゃる。まさに、多士済々です。
 心から広宣流布のために尽くし、法友のために奉仕してくださる、こうした数多の老若男女の方々を、私どもは、どこまでも尊敬してまいりたい」
 伸一は、彼の周りにいた、副会長や県長らに厳しい視線を向けて言った。
 「幹部は、そういう方たちの無事故と健康を、懸命に祈り抜いていくんです。深く感謝し、偉大なる同志として、仏を敬うように大切にしていくんです。そうでないと幹部は慢心の徒になってしまう。皆がやってくれて当然であるなどと思ってはいけません。
 奈良から仏教が起こったが、結局、僧侶が権威化していき、仏教本来の精神が失われていってしまった。絶対に、同じ轍を踏んではならない。私は、学会が民衆仏法の団体として永遠に発展していくために、あえて言っておきます」
 創価学会は、民衆のなかに生まれ、民衆を組織し、民衆勝利の絵巻を織り成してきた。
 国家に庇護され、国家の僕となった宗教ではない。民衆のための宗教であり、人類のための宗教である。権威、権力に屈服、隷属せず、人間自身に至高の価値を見いだす人間主義の宗教であるからこそ、世界宗教として広がりをもつのである。
67  勇将(67)
 山本伸一は、参加者に笑顔を向けると、快活に呼びかけた。
 「勝ちましょう! 勇気を奮い起こして自分自身に挑み勝つんです。それが、人生の、ご家庭の、広宣流布の勝利になります。
 前進しましょう! 私と一緒に、誇らかな勝利のドラマをつくりましょう!
 幸せになるために、広宣流布のために生まれてきた私たちではないですか! この世の使命を勇んで果たしゆくなかに、幸福の直道があるんです。歓喜があるんです。生命の躍動があるんです。境涯革命があるんです。
 奈良県創価学会のますますの発展と同志のご多幸を心よりお祈り申し上げ、私の話とさせていただきます。
 では、皆で万歳をしましょう!
 皆さんご自身の健康と長寿と勝利、ご家族の繁栄、そして、創価学会の大発展を祝しての万歳です」
 県長の沖本徳光がマイクに向かい、力のこもった声で音頭をとった。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 唱和する皆の声が、明日香文化会館にこだました。それは、人生と広布の勝利を誓う、勇将の雄叫びであった。
 伸一は、ピアノを弾いて参加者を励ましたあと、さらに、二階の広間に向かった。一階の大広間に入りきれなかった人が、スピーカーから流れる音声を聴いていたのだ。
 「ご苦労様! お会いしに来ましたよ。
 明日香文化会館は見事に完成しました。立派な会館です。しかし、建物はモノにすぎない。魂はありません。皆さんが、わが生命に″信心の王城″を、″広布の師弟城″を築き上げることによって、会館に魂を打ち込むことができるんです。つまり、″私は、こう戦い、勝ちました! 広宣流布の栄光の道を開きました!″と、堂々と語ることができる、自身の勝利の歴史を打ち立てることです。
 立ちましょう! 師子じゃないですか!」
 伸一の師子吼は、厳冬の明日香に、勇将たちの闘魂を芽吹かせた。

1
2