Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第26巻 「法旗」 法旗

小説「新・人間革命」

前後
1  法旗(1)
 挑戦あるところに、前進がある。
 挑戦あるところに、希望がある。
 挑戦あるところに、歓喜がある。
 挑戦あるところに、幸福がある。
 挑戦あるところに、勝利がある。
 大宇宙の万物が、挑戦を続ける。
 花は、懸命に深雪を割いて新芽を出し、
 波は、体当たりを重ねて巌を削り、
 太陽は、日々、暁闇を破って躍り出る。
 人が見ようが、見まいが、
 己が使命を果たさんと、
 黙々と、忍耐強く、労作業を繰り返す。
 挑戦! 挑戦! 挑戦!
 それが、″生きる″ということなのだ。
 われらは、挑む!
 あの友、この友に幸福の道を教え、
 人びとの栄えと平和を築くために!
 宿命の嵐猛る大地に決然と立って、
 人間の真実の力を示し切るために!
 「私は、こんなにも幸せだ!」と
 衆生所遊楽の人生を生き抜くために!
 私は、歩む!
 今日の小さな一歩が、
 いつか、必ず大道になるから!
 私は、負けない!
 吹雪の暗夜も、
 明日は必ず、勝利の太陽が昇るから! 
 創価学会は、一九七八年(昭和五十三年)を「教学の年」第二年と定め、御書の研鑽と座談会の充実を活動の機軸にして、晴れやかなスタートを切った。
 元旦、山本伸一は、自宅で家族と共に勤行し、広宣流布の前進と世界の平和を、全会員の健康・長寿と一家の繁栄を、真剣に祈念した。彼の胸には、″今年もまた、命の限り、輝ける広宣流布の新しき道を開き抜こう″との、烈々たる決意が燃え盛っていた。強き一念という因が、大勝利という果を生むのだ。
2  法旗(2)
 自宅で勤行を終えた山本伸一は、妻の峯子が用意した筆を手にし、同志への励ましのために、次々と色紙に揮毫していった。
 伸一にも、峯子にも、元日だからといって休養する時間などなかった。″わが同志を守り、励まそう!″との一念が、彼らを間断なき行動へ、奉仕へと駆り立てていた。
 正午過ぎ、伸一は、学会本部での新年勤行会に出席するため、徒歩で自宅を出発した。
 坂を上り、聖教新聞社の前に来ると、何人もの学会員の姿があった。新年勤行会の参加者であろうか。
 「あっ、先生!」
 一人の婦人が、声をあげた。
 彼は、微笑みながら手を振って応えた。
 「皆さん、おめでとう! せっかくですから、一緒に記念の写真を撮りましょう」
 歓声があがり、周囲にいた人たちが集まり、友の輪は見る見る膨らんでいった。
 七十人ほどの記念撮影となった。
 彼は、皆に語った。
 「日本の経済を見ても、円高不況などと言われ、依然、企業の倒産や人員整理が相次ぎ、暗い材料ばかりです。だからこそ、仏法を語り抜かねばならない。だからこそ、皆さんがいるんです。
 御本尊を受持し、真剣に信心に励む皆さんは、どんなに大風が吹いても、絶対に消えることのない松明を持っているんです。その松明は、希望と勇気の光を放ちます。
 この信心の松明をますます燃え上がらせ、社会を照らし出していく使命が、皆さんにはあるんです。お友だちを励ましてあげてください。皆の心に希望の光を送ってください。勇気の火をともしてあげてください。
 人を励まし、幸せにしていくなかに、自身の幸福もあるんです。
 ″大変だな。苦しいな″と思ったら、″だからこそ、私が立つのだ!″″だからこそ、宿命転換するのだ!″と、自分に言い聞かせてください。合言葉は″だからこそ!″でいきましょう!」
3  法旗(3)
 元日の午後一時半から、学会本部の師弟会館で行われた新年勤行会に出席した山本伸一は、あいさつのなかで、法華経寿量品の「毎自作是念」(毎に自ら是の念を作す)について言及した。
 「『毎自作是念』とは、一言すれば、常に心の奥底にある一念といえます。
 仏の『毎自作是念』は一切衆生の成仏にあります。仏は、すべての人びとを幸福にすることを、常に念じ、考えておられる。
 私どもも、奥底の一念に、常に何があるのか、何を思い、願い、祈っているのかが大事になるんです。そこに、自分の境涯が如実に現れます。御本仏・日蓮大聖人の久遠の弟子である私たちは、大聖人の大願である広宣流布を、全民衆の幸せを、わが一念、わが使命と定めようではありませんか。そして、日々、久遠の誓いに立ち返り、広布を願い、祈り、行動する一人ひとりであってください。
 私も、『毎日が元日である』と決めて、清新の息吹で、本年もまた、わが法友のため、世界の平和のために、力の限り奔走してまいる決意であります!」
 伸一の話は、三、四分であったが、気迫に満ちあふれた指導であった。
 この「教学の年」第二年は、元日付から連載された、伸一の「観心本尊抄」講義で、大教学運動の幕を開けた。
 世界に、仏法の生命尊厳と慈悲の哲理を発信し、人類の平和と繁栄を創造する、新しい人間主義の潮流を創らねばならないと、伸一は、強く決意していたのである。
 また彼は、今年は、全国の各方面を駆け巡り、新しい同志と会い、新しい発心の絆を結ぼうと、固く心に誓っていた。
 伸一は、新年の出発にあたり、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」との御文を、深く生命に刻んでいた。
 末法広宣流布の旅路が、順風満帆の日々であるはずがないからだ。それは、怒濤の海路である。風雪の険路である。ゆえに、不惜身命の覚悟と実践なくして勝利はない。
4  法旗(4)
 元日の夜、山本伸一は、首脳幹部と共に、静岡研修道場へ向かった。
 学会では、前年、各地にある「研修所」の名称を、「研修道場」に改めていった。
 本来、「道場」とは、釈尊が成道した場所を指し、成仏得道のための修行の場所を意味した。学会の研修所は、広宣流布、一生成仏のために、仏法を研鑽する場所であることから、その本来の意味を表す名称にしたのである。
 この一九七八年(昭和五十三年)は、初代会長の牧口常三郎、第二代会長の戸田城聖が軍部政府の弾圧によって、逮捕・投獄されてから三十五年にあたっていた。伸一は、年の初めに、静岡研修道場にある牧口園を訪問し、殉難をも恐れず、敢然と権力の魔性に挑み抜いた、先師、恩師を偲び、一年の勝利を誓い、新しい出発をしたかったのである。
 命を削る激闘に次ぐ激闘のなかで、常に伸一が心に思い描いてきたのは、牧口と戸田の獄中闘争であった。特に牧口は、高齢のうえに、栄養失調に苛まれながらも、取り調べの場で、軍部政府の精神的支柱であった国家神道の誤りを堂々と指摘した。そして、仏法の正義を叫び抜き、獄中に逝いたのである。
 伸一は、いつも自分に言い聞かせてきた。
 ″牧口先生の、あの壮絶な闘争を思えば、私など、まだまだだ! 師子吼のごとき唱題で、無限の力を奮い起こし、勇猛果敢に戦うのだ。もっと、もっと、もっと!″
 翌二日は、伸一の五十歳の誕生日である。
 朝、彼は、牧口園で、真剣に祈りを捧げながら、五十歳という人生の意味を思った。
 ″日蓮大聖人は、数え年五十歳で竜の口の法難に遭い、佐渡に流罪されている。この佐渡にあって、「開目抄」「観心本尊抄」など、相次ぎ重要な御書を認められ、大法門を説き残されていった。私も大聖人の門下なれば、いかなる試練があろうが、勇躍、一閻浮提広宣流布の大道を切り開いていこう!″
 こう決意を固めて、伸一は、新しき年の大闘争を開始したのだ。
5  法旗(5)
 山本伸一には、一時の休息もなかった。彼は、「七つの鐘」が鳴り終わる明一九七九年(昭和五十四年)五月三日までが、二十一世紀の広宣流布の基盤をつくる正念場であると、深く心に決めていたのだ。
 一月六日には、「教学の年」第二年の新春本部幹部会が、創価文化会館内の広宣会館で晴れやかに開催された。この席上、広布第二章の「支部制」の実施が発表されたのである。
 これまでの総ブロックを支部とし、原則として、総ブロック長は支部長に、総ブロック委員は支部婦人部長に、男女青年部の総ブロック長は部長になり、新しい前進を開始していくことになったのである。
 「支部制」については、各部からの要請に基づき、副会長室会議や県長会議で検討を重ねてきた。
 学会草創のタテ線の時代には、支部長・婦人部長が同志の信心の依処となり、皆を励ましながら、弘教の輪を広げてきた。同様に今後は、各地域に深く根を張り、確信と希望あふれる仏法対話の輪を広げ、学会伝統の信心錬磨の組織を築き上げていくことになる。
 総ブロック長、総ブロック委員として活躍してきた新支部長・婦人部長は、この発表に燃えた。決意を新たにした。皆、単なる名称の変更とは、受け止めなかった。
 それは、草創期の支部幹部の、わが身をなげうつような大奮闘を、直接、目にしたり、あるいは伝え聞いてきたからである。
 戸田城聖が第二代会長に就任する直前の一九五一年(昭和二十六年)四月、学会は十二支部の陣容でスタートした。戸田の会長就任時、会員は実質三千人ほどにすぎなかった。それが六年後には、三十三支部の布陣となり、やがて支部員十万世帯を超えるに至った大支部もあったのである。
 つまり、支部長・婦人部長は、法旗を敢然と掲げ、広布拡大の闘将として立ち、日々、月々、年々に組織を大発展させてきたのだ。
 一瞬の気の緩みも、逡巡も、停滞も許されぬ、間断なき闘争あってこそ大前進がある。
6  法旗(6)
 山本伸一も、青年時代には、草創の文京支部長代理として、広宣流布の指揮を執った。
 その時、彼が決意したことは、全支部員を一人も漏れなく幸福にするということであった。そして、そのために、皆がきちんと勤行し、活動の最前線に躍り出て、弘教の大歓喜を実感し、信心への大確信をもってほしいと念願し、活動を続けてきた。
 学会の組織のリーダーになるということは、仏子を仏からお預かりするということである。地球よりも重い、一つ一つの生命を預かることである――と、伸一は考えてきた。
 だから、一人たりとも、不幸に泣く人を、そのままにしておくわけにはいかなかった。
 社会は激流である。強き生命力と、不動な信念と、豊かな智慧なくしては、渡り切っていくことはできない。その源泉は、信心しかないのだ。
 彼は、日々、支部員の幸せを祈り抜いた。自らが弘教の先頭に立って戦い、慈折広布の実践を教え示した。それは、幸福になるための直道を伝えることでもあった。
 日蓮大聖人は、「法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり」と明言なされている。
 自身が幸せになるための、信心であり、弘教であり、広宣流布である。伸一は、何よりも、そのことを、全支部員に知ってほしかった。そして、幸せの実証を示してほしかったのである。
 伸一が支部長代理として指揮を執り始めると、支部の雰囲気は一変した。座談会は、常に明るい笑顔に包まれるようになった。その要因は、幸せの″秘術″こそ学会活動にあることを皆が知り、勇んで弘教に走るなかで、次々と功徳の体験が生まれたことにあった。
 座談会が開かれると、誰もが、先を争うようにして、功徳の体験を語り始める。その体験が、また人びとの共感を呼び、発心を促して、歓喜の実践の波動が広がっていった。
 強靱な組織、無敵の組織とは、功徳の体験の花が、万朶と咲き誇る組織である。
7  法旗(7)
 獄中にあって、地涌の菩薩の使命を自覚した戸田城聖は、会長として広宣流布の指揮を執るにあたり、十二支部の体制を整えた。これが組織の源流となって、創価学会の怒濤の大前進がなされていったのである。
 学会は、広布第二章に入って、全国に立派な会館が次々と建設され、法城は着実に整いつつあった。大事なことは、さらに人材をつくることであると、山本伸一は強く感じていた。建物がいかに立派であっても、人材がいなければ、船長や機関長ら乗組員がいない大船に等しいからだ。
 そこで伸一は、「支部制」に移行し、支部組織を地域に設けることによって、草創の支部のような清新の息吹を巻き起こし、学会の隅々にまで″戦いの魂″を燃え上がらせ、闘将を育てようと決意したのである。
 そのための布石は、既に前年の一九七七年(昭和五十二年)二月から始まっていた。
 伸一は、草創の杉並支部を築いた功労者の追善法要の折、同支部の出身者の代表で、「杉並会」を結成するように提案した。その後、蒲田支部の「蒲田会」など、草創の十二支部の代表からなるグループの結成を推進していったのである。彼は、草創期の活動を知るメンバーが、その精神と実践を後輩たちに示し、不撓不屈の創価の魂を伝え抜いていってほしかったのである。
 七八年(同五十三年)一月十二日の夕刻、伸一は、東京・信濃町で行われた「築地会」の会合に出席した。その席で彼は、次のように訴えている。
 「戸田先生は私どもに、広宣流布の使命を教えてくださり、弘教の法旗である支部旗は、やがて全国各地に翩翻とひるがえっていった。その拡大の精神と実践を後輩たちに伝えていくことこそ、私どもの責任であります。
 この責任を果たしゆくには、自らの行動を通して、身をもって教え示していく以外にない。率先垂範の闘将となってください!」
 一人の勇気と情熱の行動が、波紋となり、万波と広がり、新しい扉を開く。
8  法旗(8)
 山本伸一は、「築地会」で、戸田城聖の指導は、まことに峻厳であったことを語った。
 「それは、私どもがめざす道は、『一生成仏』であり、『広宣流布』であるからであります。その道は、御書、経文に明らかなように、『不惜身命』(身命を惜しまず)であり、『身軽法重』(身は軽く法は重し)です。つまり、決して平坦な道ではなく、大きな困難が待ち受けているであろう、命がけの険路であるからなんです。
 したがって戸田先生は、それに耐え得る、力ある勇者をつくらねばならないと、厳しく訓練し、鍛え、育もうとされたんです。
 いかに時代は変わろうが、正法正義を貫くことの厳しさは、永遠に変わりません。戸田先生の薫陶を受け、草創の時代を切り開いてこられた皆さんは、今こそ、私と共に、身をもって、その精神を、その実践を、多くの後輩たちに示し抜いていただきたい。
 今、広布第二章の『支部制』がスタートしましたが、それは、これまでの総ブロック長や総ブロック委員が、草創の十二支部時代の支部長、支部婦人部長の自覚に立ち、新しい創価学会の建設に着手するためです。
 それには、草創の開拓者たる皆さんが、後輩たちのために立ち上がることです。自己には厳しく信仰者の範を示し、支部長ら後輩たちに対しては、優しく温かく包容し、期待をもって成長を願い、祈っていける大先輩になっていただきたい。
 その意味からも、自身の信心の歩みを、絶対にとどめてはならない。『月月・日日につより給へ』と、大聖人が仰せのように、どこまでも広宣流布の使命に生き、前進し抜いていくなかに、人生の真実の充実があります。
 そのなかで、無量の誇りと、無量の功徳、無量の生きがいを感得していくことができるのであります」
 人材の育成とは、先輩が見事なる手本を示し、触発することにある。人は、めざすべき模範を見いだした時、大きな成長を遂げる。
9  法旗(9)
 山本伸一は、「支部制」を軌道に乗せ、支部長・婦人部長のもと、全支部員が心を一つにし、活力あふれる前進ができるように、指導部の育成にも力を注いだ。
 当時、総ブロック長や大ブロック長(現在の地区部長)などのライン役職に就いて活躍し、後輩にバトンタッチした年配者は、総ブロック指導委員、大ブロック指導員等、指導部として後輩の激励にあたっていた。
 伸一は、「支部制」が発表される前日の一月五日、この指導部の最高会議に出席した。
 彼は、「支部制」を支えていく最大のカギは、指導部にこそあると考えていたのだ。指導部の使命は、後の「多宝会」などにつながるといえよう。
 若木を大樹に育て上げていくには、添え木の存在が必要である。大地に、しっかり根差す前に、嵐にさらされれば、倒れてしまう。
 団結という総合力が、学会の強さである。
 指導部最高会議で伸一は、御本尊は絶対であり、その御本尊に、「正信」の信心ができるかどうかによって、幸・不幸が決定づけられていくことを述べ、指導部の使命に言及していった。
 「ライン組織の正役職者は、なすべき課題が山積し、多忙を極め、相当の活動量になっています。したがって体力も求められます。そのために、どうしても、若いリーダーが中心にならざるを得ない面があります。
 しかし、あまりにも多忙であるがゆえに、ラインのリーダーによる激励、指導の手は、必ずしも全会員に、十分に届いていない場合があります。
 そこで、信心重厚にして経験豊富な、″広布の宝″ともいうべき指導部の皆さんが、会員一人ひとりに、こまやかな激励、指導の手を差し伸べていただきたいんです。
 指導部の皆さんとライン組織のリーダーが異体同心の団結を図ってこそ、広宣流布の組織は盤石なものとなるのであります」
 励ましは、魂を奮い立たせ、同志のスクラムは、一人ひとりを不屈の勇者へと変える。
10  法旗(10)
 人生には、困難も波乱もある。病に倒れることもあれば、仕事のうえでの行き詰まりもある。職場、地域、家庭での人間関係で悩むこともある。いわば、生きることは戦いであり、人生は戦場である。
 同志は、そのなかで悩みの克服を願い、必死に学会活動に励んでいる。しかし、時には疲れ果て、前へ進む気力さえもなえてしまうこともあろう。苦悩に打ちひしがれ、信心への疑問をいだいてしまう人もいよう。あるいは、御本尊という最高の宝珠を得ながら、そのすばらしさがわからず、嘆きの日々を送っている人もいる。
 また、怨嫉や慢心から、信心の正しい軌道を見失ってしまう人もいる。
 いずれも、苦悩や迷いという病に侵されている状態といえよう。
 山本伸一は、指導部の使命について、声を大にして訴えた。
 「指導部の皆さんは、どうか、″広布の赤十字″となっていただきたい。悩める人、病める人、信心への確信弱き人、疲れた人、我見や愚痴の人などと粘り強く対話し、一人も落とすまいと、信心の励ましの手を差し伸べてください。皆さんの、長年の信仰体験と確信は、そのための最大の力なんです。
 指導部は、各組織、各地域にあって、広宣流布を支える″黄金の信心の柱″です。
 『あの人がいるから大丈夫だ。私たちの誇りである』と言われる、″同志の鑑″に、″安心の依処″になってください。
 そして、後輩の育成に際しては、何よりも信心の基本を、よく指導していっていただきたい。何事も、基本の習得が根本であり、それが確立されてこそ、成長もあるからです。
 組織の役職と、信心の位とは、イコールではありません。懸命に活動し、正しい信心の指導をできる人が、信心の高位の人であり、御本尊の賞讃を受ける人です。
 また、地域にあっては″学会の全権大使″であるとの自覚で、信頼の輪を広げていってください」
11  法旗(11)
 山本伸一は、近年、折あるごとに、草創期を戦い抜いた功労の同志たちに、最後まで広宣流布の使命に生き抜き、見事な人生の総仕上げをするよう訴え続けてきた。
 初代会長・牧口常三郎も、第二代会長・戸田城聖も、命の尽きるまで、正法正義を叫び、信念を貫き通した。民衆の崩れざる幸福を築くために、炎のごとく自身を燃焼し尽くして生涯の幕を閉じた。大切なのは、最後の最後まで戦い続けることだ。この世の使命を果たし抜いていくことだ。
 伸一は、前年の一九七七年(昭和五十二年)十二月、宮崎支部結成十九周年を祝う記念幹部会に出席した折にも、先輩幹部の在り方について、こう語っている。
 「多くの方から、『あの時の激励があったからこそ、境涯革命ができ、こんなに幸せになれました』と言われる人になってください。そのように、たくさんの人から慕われ、尊敬されることこそ、仏法者としての最高の誉れであり、誇りではないですか!」
 弘教、そして、信心指導に勝る聖業はない。生涯、その歩みを止めない人こそが、地涌の菩薩であり、仏であるのだ。
 ともかく、伸一は、「支部制」発足にあたって、新支部長・婦人部長がいかんなく力を発揮できるように、先輩幹部や指導部の活動の課題を明らかにするなど、前年から着々と、新出発の態勢を整えてきたのである。
 「総ブロック」から「支部」への移行は、支部長・婦人部長をはじめ、支部幹部の意識を大きく変え、自覚を変えた。
 組織を活性化させ、地域広布を推進する根本は、人間の一念の転換にこそある。人の心が変わり、″大勇猛心″を奮い起こしていくならば、声も、表情も、行動も、気迫も変わる。そして、一切の状況、環境を転換することができる。それが依正不二の原理である。
 大詩人ホイットマンは訴えている。
 「およそ精神が変化しないかぎり、見かけがどれほど変化しても何の役にも立たないからである」
12  法旗(12)
 山本伸一は、「支部制」への移行を出発点として、二十一世紀への滔々たる広宣流布の大潮流をつくろうと、新年初頭から力強く行動を開始した。また、人類の平和を築くために、世界の指導者との語らいも続けた。
 ″時は帰らぬ。今なすべきことを今なさねば、未来に大きな悔いを残す。自身の歴史を汚してはならぬ!″と、伸一は決意していた。
 一月十二日の午前、伸一は、アメリカのエドワード・M・ケネディ上院議員を東京・信濃町の聖教新聞社に迎え、会談した。
 彼は、ケネディ家の四男である。長男・ジョゼフは大統領をめざしていたが、第二次世界大戦で戦死していた。
 次男のジョンは、長兄の遺志を受け継ぎ、一九六一年(昭和三十六年)一月、四十三歳という若さでアメリカ大統領となった。しかし、六三年(同三十八年)十一月、遊説先のダラスで暗殺されたのである。三男のロバートも、六八年(同四十三年)六月、大統領予備選挙中に凶弾に倒れている。
 エドワードは、ジョンが大統領を務めていた六二年(同三十七年)に三十歳で上院議員となった。ケネディ家の悲劇にたじろぐことなく、亡き兄たちの政治への志を受け継ぎ、信念の松明を掲げ続けてきた。
 エドワードは、精悍さにあふれた堂々たる体くに、闘魂と繊細な感覚を包んだ、若々しいリーダーである。「ケネディ・スマイル」と言われる笑顔には、多くの人をひきつける力があった。
 笑顔は、人の心を和ませ、友好と語らいの扉を開く。そして、それは、高く大きな境涯の峰に咲く花といえよう。
 彼は、中国を訪問したあと日本に寄り、東京滞在は、二泊三日である。そのなかでの会談であった。伸一は力強く語り始めた。
 「兄上のケネディ大統領は、人類の希望の松明と輝き、尊い命を捧げられました。今、あなたは、お兄様の理想を受け継いで、平和のために走っておられる。きっと、故大統領も喜んでおられるでしょう」
13  法旗(13)
 エドワード・M・ケネディ上院議員と山本伸一は、これまで、何度か書簡を交わしてきた。議員は、柔和な笑みを浮かべて語った。
 「私は創価学会の活動を、尊敬の念をもって見ております。今回、会長を表敬する機会がもてましたことを、心から嬉しく思っております」
 議員は、訪問してきたばかりの中国に対する、伸一の見解を尋ねた。宗教団体である創価学会と、宗教否定の共産主義を掲げる中国が、深い友誼と信頼の絆に結ばれていることに、強い関心があったようだ。
 伸一は答えた。
 「創価学会は、あくまでも仏法を基調に、平和と文化を推進する団体として、友好を促進してきました。これまで、私は三回、中国を訪問し、周恩来総理をはじめ、多くの要人と対話しました。そこでは、宗教論議ではなく、文化、教育の次元で話を進め、同じ人間としてどうするのかという観点で、語り合ってまいりました」
 議員は、国家、社会という集団の体制に力点を置いた中国共産党の思想と、個人の救済に力点を置いた仏教思想とは、対立するのではないかという、懸念をいだいていた。
 伸一は言った。
 「仏法は、すべてを包括する法理です。
 第一に、絶対平和主義をめざす思想です。
 第二に、生命尊厳の哲学です。万人が仏であると説いています。
 第三に、慈悲を根本とした生き方を示す、人道の規範です。
 第四に、文化尊重の共存の思想です。
 今、大きく四点にわたって、仏法の特質を述べてみましたが、これは、共産主義思想の立場から見ても、なんら否定すべきものはないはずです。
 そのうえで、あえて言えば、″モノ″の哲学だけでは、人間の心を満たしていくことはできない。したがって、共産主義をめざす国々も、やがて、心の豊かさ、充足を説く宗教に、着目せざるを得ないと確信しています」
14  法旗(14)
 エドワード・M・ケネディ上院議員と、山本伸一の語らいは、国際情勢に移っていった。
 議員は、現代の重要課題の一つは核兵器の問題であり、もう一つが南北問題、すなわち先進国と発展途上国との経済格差による諸問題であるとの認識であった。
 核問題について伸一は、「人類は″核″のために死滅していくか、それとも共存していけるかという、二者択一の時代に入った」として、こう訴えた。
 「この重大な局面を迎えた今、人類の永遠の未来のために、核兵器の絶滅に向かって、全生命をかけて邁進していかなくてはなりません。また、それは、私たちの使命であるだけでなく、全人類的課題として取り組んでいかなくてはならない問題です」
 すると、議員は、イスから身を乗り出すようにして語り始めた。
 「まさに、その通りです。大統領になった兄のジョンが、就任の時に訴えたのが、核実験を禁止する条約の推進でした。この核軍縮の呼びかけがあって以来、核拡散防止への具体的な流れができました。
 私が昨日、広島で講演したのも、核兵器廃絶についてでした。これは、日米が共同して取り組むべき目的であると主張しました。日米共同の目的ということは、人類共同の目的ということでもあります」
 議員の核廃絶への情熱のこもった語り口は、兄のジョン・F・ケネディ大統領を彷彿とさせた。
 伸一は、大統領の要請を受け、一九六三年(昭和三十八年)の二月に、ワシントンで会見することが決まっていた。大統領は、全面核戦争にさえなりかねなかった、一触即発の″キューバ危機″を経験している。その大統領と、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」の精神を実現するために、核問題を中心に徹して話し合うつもりであったのである。
 対話――それは、人間の心の扉を開く魂の打ち合いであり、良心の共鳴音を生み出すことができる生命の音楽である。
15  法旗(15)
 ジョン・F・ケネディ大統領と山本伸一の会見は、直前になって、日本の政権政党の大物といわれる政治家から横槍が入った。
 やむなく伸一は、会見を白紙に戻した。
 彼は、″いつの日か、お会いできることがあれば″と思っていたが、一九六三年(昭和三十八年)十一月、ケネディ大統領は、四十六歳の若さで凶弾に倒れたのである。
 弟のエドワード上院議員の声には、大統領であった兄の理想を、自分が果たそうとの、強い気迫があふれていた。
 議員は、南北問題について語り始めた。
 「富める国は、貧しい国に対して、道義的責任をもつべきです。しかし、それには、富める国のリーダーに、大変な指導力が求められます」
 そして、その指導力の要件は、「道義」にあることを述べていった。
 「たとえば、アメリカの人種差別問題でも、問われたのは根底のモラルです。そして、差別を撤廃すべきだという人びとの考えが、解決に多大な影響を与えました。また、あのベトナム戦争も、政治の力だけでは、泥沼を脱しきれなくなっていました。しかし、国民が『これは道義的問題だ』と責任を感じて立ち上がり、それが、大きな影響力を及ぼすことになりました。
 『道義』なき政治は無力でした。私が会長にお会いしたかったのも、この『道義の力』への関心からです」
 「道義」とは、人間の進むべき道である。「力の論理」という迷路に陥った政治を、確かなる軌道に引き戻すには、「道義の力」が必要である。そこに宗教の役割もある。
 伸一は、鋭い着眼に、感嘆しつつ語った。
 「光栄です。大事な視点です。
 どの国であれ、『道義』の確立という民衆の精神面の開拓がなければ、その分、政治の圧迫が大きな比重を占めていきます。
 大事なのは、人間の生命は等しく尊厳無比であるとの人間的価値観が、『道義』の根本をなすということです」
16  法旗(16)
 山本伸一の声は、熱を帯びていった。
 「ソ連の首脳も人民も人間です。中国の首脳も人民も人間です。その認識に立ち、『人類は、一つの共同体である』との国際世論を高めていくべきです。そこに、明確な目標を定めて挑戦していただきたいんです。
 国際社会に、多くの課題があることは当然です。しかし、貴国が大変な時はソ連も中国も大変なんです。自国が大変な時は他国も同じなんだと考え、対話を進めてください」
 エドワード・M・ケネディ上院議員は、大きく頷いた。彼は、アメリカと中国の国交正常化に心を砕いていたのである。
 「会長のお話を伺っていて、米中交流の一つの考えが浮かびました。たとえば、アメリカに親戚がいる中国人に米国訪問を許可します。アメリカ人にとって、訪米した中国人を目の当たりにすることは、中国観を変える大きな契機になると思います。アメリカ人も中国人も、家族を大切にすることは同じです」
 「賛成です。地味なようですが、大きな意味をもつことになります。極めて人間的、現実的な発想です」
 議員は、笑みを浮かべて言った。
 「私は思います。″人びとが互いに理解し合い、尊敬し合っていくためには、自らが人間的行動を起こし、精神と精神の触れ合いをつくっていかなければならない″と。私は、会長の思想に賛同します。復帰すべきところは『人間』です。『人間に帰れ』です」
 「そうです。その通りです!」
 さらに議員は、言葉をついだ。
 「アメリカは、軍事的にも、経済的にも大国です。だからこそ、『自己抑制』と『最大の寛容』がなければならないと思っています」
 そして、そのためには、政治の根底に宗教が必要であると語った。
 会見には、魂の共感があった。日米の間にまた一つ、友好の橋が架けられた。
 伸一は、広布第二章の「支部制」を軌道に乗せるための激闘を続けるなかでも、世界を結ぶために、行動し続けていたのである。
17  法旗(17)
 山本伸一は、「支部制」による新しき発展の原動力は、婦人部であると考えていた。
 ″一家の太陽″である婦人部が、明るく、楽しく、はつらつと学会活動に励み、功徳の花を咲かせ、幸せな家庭を築き上げていくなかにこそ、信心の尊き実証があり、広宣流布の前進があるからだ。
 一月十四日、伸一は、東京・立川文化会館で行われた、第二東京本部の婦人部勤行会に勇んで出席した。彼は、常日ごろから、学会の活動の一切を支えてくれている婦人たちの労を、心からねぎらい、励まし、諸仏を仰ぐ思いで讃えたかったのである。
 ちょうど、婦人部では、一月の十日から、各県区の総会がスタートし、今後の活動の機軸の一つとして、小単位の学習・懇談が打ち出されていた。
 伸一は、婦人部の代表と意見交換した折、この小単位での学習・懇談についての報告を聞くと、即座に応えた。
 「大事なことです。そこに、最大の力を注いでいこう!
 何百人、何千人の人が集う大きな会合も、元気が出るし、勢いがついていいでしょう。しかし、本当に大事なのは、小単位での、一人ひとりとの懇談です。それが、一切の根っこになっていくからなんです。各人の根がしっかりしていなければ、大会合がいかに盛り上がっても、少し風が吹けば、皆が倒れていってしまう。
 小さなグループでの語らいは、一方通行ではなく、皆の声に、じっくりと耳を傾けることができる。本当の悩みや疑問を聞き、それに答えることができます。つまり、納得の対話ができる。これが重要なんです。
 また、一個の人間対人間として、強い絆を結ぶことができる。それが心の結合をつくっていきます。
 学会が、初代会長の牧口先生以来、座談会を重視してきたのは、対話を運動の中心にすえてきたからなんです。牧口先生も、戸田先生も、座談会の名人、対話の達人でした」
18  法旗(18)
 大勢の人が集まる会合が大動脈であるとするならば、小単位の学習・懇談、そして、個人指導は、毛細血管といえるかもしれない。
 人体も、大動脈だけでは、体の隅々にまで血液を運ぶことはできない。無数の毛細血管があってこそ、温かく、清らかな血が流れ通い、人は生き生きと活動することができる。
 同様に、学会の組織にあっても、各小グループなどでの懇談や個人指導こそが、信心の血液を一人ひとりに送り届け、広宣流布を支える生命線となっていくのである。
 山本伸一は、婦人部の小単位の学習・懇談に一段と弾みをつけ、皆が歓喜の信心に励めるようにと願い、立川文化会館での第二東京本部の婦人部勤行会に臨んだのである。
 マイクに向かった伸一は、まず、こう語りかけた。
 「われわれは、なんのために、この世に生を受けたのか――」
 一瞬、場内は静まり返った。思案顔の人もいれば、早く伸一の次の言葉を聞きたいと、瞳を輝かせる人もいた。
 「それは、『衆生所遊楽』と御書にもあるように、この人生を″楽しむ″ためであります。そして、苦渋の人生から、遊楽の人生へと転換していくための信心なんです」
 ここで伸一は、遊楽へと転ずる具体的な実践が、御本尊への唱題であると結論を述べたうえで、その原理を明らかにしていった。
 「御本仏の生命の当体である御本尊に、南無妙法蓮華経と題目を唱えていくならば、自身の生命が仏の大生命と境智冥合していきます。それによって、己心に具わっている仏の生命を開いていくことができるんです。
 その生命境涯が『四徳』、すなわち『常楽我浄』であると説かれています。
 『常』とは、常住であり、仏、衆生の心に具わる仏の生命は、三世永遠であることを示しています。『楽』とは、苦しみがなく、安らかなことであり、『我』とは、何ものにも壊されない強靱な生命です。『浄』とは、この上なく清らかな生命をいいます」
19  法旗(19)
 自身の胸中に、「常楽我浄」の生命が滾々と湧き出ているならば、何ものをも恐れず、何があっても、悠々と、歓喜にあふれた日々を送ることができる。
 山本伸一は、仏法で説く「遊楽」とは、財産や地位、名声、技能などがあり、健康であるといった相対的なものではなく、自らの生命の奥底から湧きいずる充実と歓喜であり、絶対的幸福境涯であることを訴えていった。
 「皆さんは、ご主人の月給がもう少し高ければとか、もっと広い家に住みたいとか、子どもの成績がもっと良ければなど、さまざまな思いをいだいているでしょう。
 その望みを叶えようと祈り、努力して、実現させていくことも大切です。しかし、最も大事なことは、どんな大試練に遭遇しても、決して負けたり、挫けたりすることのない、自身の境涯を築いていくことです。
 すべての財産を失ってしまった。大病を患ってしまった。最愛の人を亡くしてしまった――そんな事態に遭遇しても、それを乗り越え、幸福を創造していける力をもってこそ、本当の遊楽なんです。
 日蓮大聖人は、いつ命を奪われるかもしれないような佐渡流罪の渦中にあって、『流人なれども喜悦はかりなし』と言われている。この大境涯の確立こそ、信心の目的なんです。
 したがって、遊楽の境涯には、広宣流布のために、大難にも堂々と立ち向かっていく勇猛心が不可欠なんです。勇猛心なきところには、崩れざる遊楽はありません」
 伸一は、ただ華やかな暮らしを追い求める生き方のなかには、真の遊楽も、幸福もないことを訴えたかったのである。
 「試練に次ぐ試練、涙また涙というのが、現実の社会といえます。そのなかで人生に勝利していくには、唱題しかありません。
 信心強き人とは、何があっても″題目を唱えよう″と、御本尊に向かえる人です。その持続の一念が強ければ強いほど、磁石が鉄を吸い寄せるように福運がついていきます」
20  法旗(20)
 語るにつれて、山本伸一の言葉は、勢いづいていった。
 「次に、御本尊の力を実感していくうえでも、祈念は具体的であることです。また、日々、唱題の目標を決めて、挑戦していくこともいいでしょう。祈りは必ず叶います。すると、それが歓喜となり、確信となり、さらに信心が強まっていきます。
 また、たとえ、すぐに願いは叶わなくとも、冥益となって、時とともに所願満足の境涯になることを確信していただきたい」
 彼は″皆、必ず幸せになってほしい。人生に勝利してほしい″と思うと、次々にアドバイスが口をついて出るのである。
 「幸福を築いていくには、学会の組織のなかで、同志と共に生き抜いていくことです。学会は、現代の和合僧団です。
 一人立つことは大事です。誰かがやってくれるだろうという心では、広宣流布の道は切り開けないからです。しかし、独りぼっちになってはいけません。御書には、『甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ』とあります。信心の成長は、善知識となる先輩、同志とスクラムを組み、互いに触発し合っていく団結の輪のなかにあることを、忘れないでください。
 また、自分を、家庭を大切にしていってください。信心も、広宣流布も、家庭の姿のなかに集約されてしまうものだからです。
 なかには、ご主人や子どもさんが未入会というケースもあるでしょう。しかし、決して焦る必要はありません。良き妻、良き母親として、聡明に家族を守り、温かい、愛情にあふれた家庭をつくっていくことです。そして、真剣に幸福を祈っていくことです。
 その積み重ねのなかで、一家の福運もつき、柿の実が熟していくように、ご主人も、子どもさんも変わっていきます。やがて、いつの日か、ご家族が自ら信仰を欲する時が来ることは間違いありません。わが家は、わが家らしく進んでいけばいいんです」
21  法旗(21)
 第二東京本部の婦人部勤行会で山本伸一は、こう話を結んだ。
 「先行きの見えぬ社会であり、人びとの不安は広がり、何が起こるかわからない時代の様相を呈しています。しかし、強盛な祈りがあれば、何があっても、必ず変毒為薬していくことができる。信仰とは無限の力です。無限の希望です。仏法に行き詰まりはないことを確信して、新しい船出を開始しましょう」
 伸一は、婦人部のために語っておきたいことが、たくさんあった。今後も、最優先して婦人部の諸会合に出席し、未来のためにも、多くの指導を残しておこうと、彼は思っていたのである。
 一月十五日には、全国各地で教学部上級登用筆記試験が行われた。これは「教学の年」第二年の出発となる教学試験であった。
 学会の教学試験は、一九七三年(昭和四十八年)に制度が変更されていた。
 それまでは、任用試験に合格すると教学部員になり、助師となった。そして、助師昇格試験に合格すると講師に、講師昇格試験に合格すると助教授補に、助教授補昇格試験に合格すると助教授に、助教授昇格試験に合格すると教授補に、教授補昇格試験に合格すると教授になった。
 この制度が整理されたのである。教学部員になるための任用試験に合格した人が助師になることは同じであったが、昇格のための試験を、初級、中級、上級としたのである。初級試験の受験資格は、従来の講師と助師であり、合格すると助教授補になった。中級試験の受験資格は、従来の助教授と助教授補であり、合格者は教授補になった。そして、上級試験の受験資格は教授補で、合格すると教授になるのである。
 剣豪の修行を思わせる教学の研鑽は、学会の伝統であり、その根本精神は一歩たりとも後退することがあってはならない。しかし、制度は、常に時代に即応したものに刷新されていかねばならない。時代の変化への迅速な対応を怠る時、組織は硬直化していく。
22  法旗(22)
 「教学の年」第二年となったこの年、山本伸一は、年頭から教学部に最も力を注いできた。一月六日には、新春本部幹部会に先立って行われた教学部師範会議に出席した。
 師範は、一九七一年(昭和四十六年)に設けられたもので、教学力、実践力に優れ、教学の興隆に貢献してきたなどの選考基準を満たす教授のなかから、人選されたメンバーである。
 師範会議で伸一は、この会議が、学会の教義上の最高決議の場であることから、御書の読み方や、とらえ方などについて協議を重ねていった。
 たとえば、「減劫御書」の「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」の「行ず」について、研究した結果、「行ぜず」の意味であり、「行ず」と読むべきであることを報告した。
 「つまり、智者は世間の法よりほかには仏法を行じないのであり、これは仏法即社会を表した文となるのであります」
 また、「日蓮は日本第一の僻人びゃくにんなり」、「日蓮は日本第一のえせものなり」とあることについても、その意味を明らかにした。
 「これは、世間の目からすれば、『日本第一の僻人』『日本第一のえせもの』ということである。まさに経文通り、仏法の鑑に照らして、中傷、非難、迫害を受けて、最大に正法を行じている、との大確信の御発言であられる。正法を行ずるがゆえに、世間から非難されるのは当然であり、大聖人は、厳然と、こう仰せられているのである」
 真摯に御書に取り組み、正確に、厳格に拝していくという教学への姿勢を示す、師範会議となったのである。
 伸一は、八日には、第十回となる教学部大会に出席。教学を広宣流布の推進力とし、学会創立五十周年にあたる八〇年(同五十五年)をめざしたいと訴えた。
 彼の率先垂範の渾身の行動が、この年の教学運動の起爆剤となっていったのである。
23  法旗(23)
 教学研鑽の息吹が、求道の炎が、日本全国、津々浦々を包んでいった。
 一月十五日の上級登用試験の筆記試験に続いて、二十九日には、任用試験が実施された。その結果、十一万五千人が合格し、教学部員に登用されたのである。
 そして、二月五日には、上級登用試験の面接試験が行われ、二万九千人が合格している。さらに、一週間後の十二日には、初級登用試験が実施され、四十七万人が受験して、十六万四千人が合格することになる。
 上級登用試験の受験者の多くは、自ら勉強に励むだけでなく、年末年始も、任用や初級の受験者を激励して歩いた。さらに、今こそ人材育成のチャンスだと、学習会などを行い、膝詰めで教学を教えた。
 ある壮年幹部は、残業続きの任用試験受験者のために、深夜、勉強を教えに通った。教える側も、教わる側も、真剣であった。
 一人ひとりに、教学を信心の柱にしていこうとの気概があった。また、学会には、仏法哲理をもって、新しい時代を開こうとする勢いがあった。
 勢い――。
 それは、″断じて成し遂げよう!″という、強き決意と闘魂から生まれる。
 それは、自ら勇んでなそうとする、自主、自発の行動から生まれる。
 それは、間髪を容れぬ迅速な実践によって生まれる。
 それは、皆が互いに競い合い、触発し合う、切磋琢磨から生まれる。
 そして、戦いは、勢いのある方が勝つ。
 一月十六日午後、山本伸一は、四国は愛媛県松山の地に立った。
 彼は、この一九七八年(昭和五十三年)を「七つの鐘」が鳴り終わる明七九年(同五十四年)への、有終の美を飾る年であるとともに、新時代に飛翔する助走の年ととらえていた。それゆえに、この一年は、可能な限り、全国各地を回る決意を固めていたのである。
24  法旗(24)
 午後四時過ぎ、山本伸一は、副会長の関久男、副会長で四国総合長の森川一正らと愛媛文化会館(現在の松山文化会館)に到着した。
 伸一は、車を降りると、四国長の久米川誠太郎らに言った。
 「今年は四国の年です。どんなに多忙を極めても、何度か、四国に来るようにします。
 二十一世紀に至る、新しい四国の発展の源流をつくりたいんです。私の全精魂を注いで、信心の難攻不落の要塞を築く覚悟です」
 それから伸一は、館内を視察した。
 ロビーには、伸一がこれまでに愛媛を訪問した折の写真や、同志の文集が展示されていた。
 彼は、写真パネルの一点一点に視線を注ぎながら、感慨を込めて語った。
 「懐かしいね。この老婦人は、今はどうされていますか。こちらの少年は、もう大学生ぐらいだね。みんなとお会いしたいな」
 写真の一コマ一コマが、忘れ得ぬ思い出として、伸一の胸に深く焼き付いていた。それは、″もう二度とお会いできないかもしれない。断じて忘れまい!″との心で、一回一回の出会いを、わが生命に刻みつけてきたからである。
 彼は、恩師記念室に入ると、直ちに、激励のため、色紙などに次々と揮毫していった。
 午後六時半からは、館内で、愛媛県の最高協議会を行うことになっていた。
 伸一は、会合などの行事と行事の間の時間こそが勝負であると思っていた。地方などを訪問した場合、幹部との打ち合わせも、個人指導も、決裁書類に目を通すことも、原稿の執筆も、この時間内に行わなければならなかったからである。
 彼にとっては、皆が″空き時間″と思う時間もまた、真剣勝負の激闘であった。
 わずかな時間をも無駄にせず、いかに有効に使うか。いかに見えざる努力をするか――そこに、一切の勝敗の分かれ目がある。
 また、見えないところで、黙々と頑張る人こそが人材なのである。
25  法旗(25)
 山本伸一は、燃えていた。激しく燃えていた。この八日間の愛媛県、香川県の訪問で、なんとしても、新生・四国の大前進のスタートを切ろうと思うと、情熱と闘魂が生命の底から噴き上げてくるのだ。
 彼は、愛媛文化会館の恩師記念室で、四国総合長の森川一正に言った。
 「時が来たよ。新しい時代の幕を開く時が来たよ。立つのは今だ!
 日蓮大聖人は『命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり』と言われている。その貴い一日を、一瞬を、決して無駄にしてはならない。最高の聖業である広宣流布のために、捧げ抜いていくんです」
 森川は、決意のこもった声で、「はい!」と応え、大きく頷いた。
 伸一は、微笑を向けながら言葉をついだ。
 「上昇、発展への流れをつくるには、人間の一念が変わらなければならない。現状が厳しいからとか、人材がいないからとか、停滞の理由を並べ立てていても、事態はいっこうに変わりません。
 現状追随からくる″あきらめ″の一念を、″そうした現状を打開するために私がいるのだ!″という、一人立つ精神へ、挑戦と敢闘の一念へと転じていくんです。
 今、世相は、景気回復の兆しもなく、明るい話題が何一つない時代と言われています。また、どう生きるのかという、人生の根本軌道が見失われています。まさに、濁世の様相を呈しているといってよい。
 そういう時代だからこそ、広宣流布を進めていくんです。使命の炎を燃え上がらせるんです。この世の不幸をなくすために出現したのが、創価学会ではありませんか。
 草創期に各支部は、弘教の法旗を高らかに掲げて、″不幸を討ち取らん!″と、誇らかに民衆の大行進を続けていった。
 広布第二章の『支部制』の魂は、支部長、支部婦人部長はもとより、全同志が、その一念に立ち返ることにあるんです」
26  法旗(26)
 山本伸一は、心躍らせながら、愛媛文化会館内での県最高協議会に出席した。彼は、県幹部育成のために、懸命に指導していった。
 「いかなる社会、団体もそうですが、特に広宣流布を目的とする私たちは、連絡・報告は速やかでなければなりません。
 学会の組織は、人びとを一生成仏へと導く使命をもち、私どもの一人ひとりへの対応が、幸・不幸を決定づけてしまう場合もある。ゆえに、何かあったら、直ちに指導、激励の手を差し伸べるためにも、速やかで正確な、連絡・報告を心がけていただきたい。
 連絡・報告が学会本部に、速やかに行われている方面や県は、本部との呼吸も合っているし、精神的な距離も近いといえます。
 異体同心、団結といっても、それは、この連絡・報告に表れることを知ってください」
 さらに伸一は、連絡・報告や指導等にも、日蓮大聖人が諸御抄で示されている、「広」「略」「要」があることを述べた。
 「詳細に、すべてを広く語ることは『広』です。それに対して、省けるところは省いて、簡単にまとめて語ることは『略』です。さらに要約して、最も肝心要となることを語るのが『要』です。
 連絡や報告も、多くを語っている時間がなければ、的確に『要』を取って語ることです。少し時間があれば、『略』でいいでしょう。また、物事の背景なども含めて、しっかりと全体像を伝え、意見を交換するような場合には、『広』が必要です。
 短時間の会合での指導は、なるべく簡潔に、『要』を得た話をすることです。長い時間を費やして、結局、何を言いたいのかわからないような話では、集って来た人に申し訳ないことになります」
 伸一は、幹部としての基本を、再度、明らかにすることに力を注いだ。基礎を徹して身につけることこそ、勝利の要件となる。
 「塔が高ければ高いほど、基礎は広くなければなりません」とは、詩聖タゴールの鋭い洞察である。
27  法旗(27)
 愛媛県最高協議会での山本伸一の指導は、極めて具体的であった。それは、一見、細かいことのように思えたかもしれないが、抽象的な話では、真意が伝わらないことが多いからだ。指導は具体的であることが大切である。
 協議会のあと、伸一は、愛媛文化会館の二階ロビーで、今治市にある日蓮正宗寺院の住職と面談した。彼は、最愛の学会員を大事にしてくれるよう、心からお願いした。
 引き続き、大広間で、役員、職員らと勤行し、懇談会をもった。また、県青年部長と県男子部長の家族とも会った。県青年部長は酒田法夫、県男子部長は木林周作という青年で、二人とも本部職員である。
 酒田には八歳と六歳と四歳の娘が、木林には生後六カ月の男の子がいた。
 伸一は、彼らの夫人に言った。
 「職員の精神は、会員への奉仕なんです。ご主人は、私と共に、会員を守り、広宣流布に生き抜こうと決意されている。何かと、大変なこともあるでしょうが、しっかりとご主人を支えてあげてください」
 さらに、子どもたちに語りかけた。
 「君たちのお父さんは、みんなの幸せのために頑張っている、偉い人なんです。君たちも、お父さんのような人になろうね。しっかり勉強するんだよ。今日は、皆さんのために、ピアノを弾きます」
 伸一は、「荒城の月」や「さくら」などを弾いていった。
 途中で、木林の六カ月になる子どもが泣き始めた。母親が申し訳なさそうに、子どもを抱いて、廊下へ出ていった。
 演奏を終えた伸一は、館内を点検しながら、四国長の久米川誠太郎に語った。
 「最高幹部は、幹部として頑張ってくださっている方のご家族を、徹して励ましていくんです。将来、子どもが、″うちのパパは、なぜいつも家にいないの?″と疑問をもつこともあるかもしれない。しかし、私が語ったことを思い出せば、父親を誇りに感じるでしょうし、自分も頑張ろうと思うでしょう」
28  法旗(28)
 山本伸一は、管理者室にも顔を出した。
 県男子部長の木林周作の妻が、大声で泣く子どもを、一生懸命にあやしていた。彼女は、伸一を見ると、恐縮して頭を下げた。
 「いいんです。赤ん坊は、泣くのが仕事のようなものですから。元気に育つよ」
 部屋には、県事務長の妻で、会館の管理をしている築地美鈴と小学生の二人の子どもがいた。子どもたちは、伸一の姿を見ると、きちんと正座した。
 「どうぞ、お楽に! 少年部だね。未来が楽しみだな。将来は創価大学においでよ」
 そこに、県婦人部長の田淵良恵をはじめ、婦人部の県幹部が数人、打ち合わせのためにやってきた。ここでまた、伸一を囲んで懇談が始まった。首脳幹部らは、この日の伸一の指導は、これで終わりだと思った。しかし、午後十時半過ぎ、男子部の幹部二人に声をかけ、彼は風呂を借り、一緒に入浴しながら、懇談を重ねた。狭い浴室での語らいである。
 「四国創価学会を強くしていくためには、どうすればいいと思うかい」
 緊張していたのか、二人とも、しどろもどろの答えだった。
 「青年部の幹部は、一切の責任を担う覚悟で、どうすれば学会が前進できるのか、常に考えておくんだよ。また、四国という地域をどう発展させていくかも考えていくんだ。
 では、四国のリーダーに特に必要なものはなんだと思うかい」
 「…………」
 「私は、人情味だと思う。理や筋だけではだめだ。最も情を大切にするのが四国だというのが、私の実感だ。また、四国は、画一的ではうまくいかないだろう。たとえば、人材を育成する場合も、小さな単位でグループをつくり、それぞれの地域の特色を生かしながら、進めていくんだよ」
 彼らは、青年を育てようという伸一の心に感嘆した。湯船の中で感涙をこらえた。
 ″先生は、ここまでされるのか……″
 行動こそ、万言に勝る指導となる。
29  法旗(29)
 愛媛指導の二日目の朝、山本伸一が最初に顔を出したのが、愛媛文化会館の管理者室であった。陰で黙々と会館を支えてくれている人にこそ、何度も会い、最大に讃え、励ましたかったのである。
 昼前には、婦人部の幹部と活動の進め方などについて語り合ったあと、午後には、文化会館の庭で記念植樹などを行い、松山市内の日蓮正宗寺院を訪ねて住職と懇談。学会は宗門を守り、僧俗和合して広宣流布をめざす決意であることを訴えた。彼は、各地の寺院には常に心を配り、大切にしてきたのだ。
 その後、これまで県の中心会館として使用されてきた松山会館を視察した。
 この日の夕刻、愛媛県幹部会が開催されることになっており、そこに出演する婦人部と女子部の合唱団が練習をしていた。
 「こんにちは!」
 伸一の姿を見ると、歓声が起こった。
 「合唱団の皆さんにお会いできて嬉しい。歌は大事なんです。どうか、勇気の歌声を、希望の歌声を、歓喜の歌声を、わが同志に届け、元気づけてあげてください」
 広宣流布の道には、常に学会歌の調べがあった。弘教に走る歓喜の朝も、非難中傷にさらされた涙の夜も、同志は、学会歌を口ずさみ、自らを鼓舞してきた。
 「勇気を失うな。くちびるに歌を持て。心に太陽を持て」とは、作家・山本有三によって広く日本人に知られることになった、ドイツの詩人フライシュレンの詩の一節である。
 広宣流布の使命に生きる地涌の誇りと歓喜こそ、心の太陽だ。声高らかに歌う学会歌は、地涌の師子の雄叫びだ。そこに、汲めども尽きぬ勇気の泉が湧く。
 伸一は言った。
 「今年は、合唱運動も進めていきたいと思っているんです。『支部制』になるんだから各支部で歌を作ることもいいでしょう。明るく、朗らかに、文化の薫りも高いというのが創価の民衆運動なんです」
 そして彼は、皆のためにピアノを演奏した。
30  法旗(30)
 十七日の夕方、山本伸一は、愛媛文化会館での県幹部会に出席した。
 幹部会に彩りを添えたのは、婦人部と女子部の合唱団であった。「厚田村」「熱原の三烈士」、そして「愛媛家族の歌」を披露すると、伸一は、盛んに拍手を送りながら言った。
 「すごいね。日本一です!」
 そこには、″愛媛は日本を引っ張ろうという気概を!″との期待も込められていた。
 やがて、伸一の指導となった。
 「私たちが信心に励むのは、人生のあらゆる試練や苦難に打ち勝って、幸せになるためです。それには、何ものにも負けない強さが必要です。では、強さとは何か――。
 よく、『人生の確かな目的をもった人は強い。信念のある人は強い。まことの友人をもった人は強い』と言われますが、その三つの条件は、すべて私たちに、創価学会のなかにそなわっています。
 私たちには、一生成仏、広宣流布という高邁なる目的がある。そして、日蓮大聖人の仏法を持つなかに、自他共の崩れざる幸福があるとの、不動の信念があります。また、心から信じ合える同志がおり、仏法兄弟として励まし合っていける友情のスクラムがある。
 いわば、私どもは、自分を強くしていける最高の条件をそなえており、それを事実のうえに示し、幸せになるための信心なんです」
 次いで伸一は、組織のリーダーには、全会員を幸福にしていく使命と責任があることを訴え、こう念願した。
 「愛媛の創価学会は『一人も残らず教学部員に』『一人も残らず聖教新聞を読んでいただこう』『一人も残らず無事故で』『一人も残らず広宣流布の人材である』との一念で進んでいただきたい。この『一人も残らず』が大切なんです。日蓮大聖人が、『皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』と御断言のように、妙法を受持した人は、一人も残らず地涌の菩薩です。その自覚を促し、ともに幸福になっていくために創価学会の組織があるんです」
31  法旗(31)
 創価学会の原点は、「われ地涌の菩薩なり」との、戸田城聖の獄中の悟達にある。
 地涌の菩薩は、末法濁世の社会のあらゆるところで、それぞれがあるがままの姿で正法を弘め、仏法を行じていく。この地涌の使命を自覚し、自分自身が今いる場所で、広宣流布のための戦いを起こすのだ。その時、何ものにも負けない地涌の生命が、わが胸中に脈打つとともに、諸天諸仏が守護し、無量の功徳に浴することができるのである。
 しかし、その功徳、福運を消し、幸福への軌道を踏み外してしまうことがある。それは同志間の反目、諍いである。
 山本伸一は、厳しい口調で語っていった。
 「『松野殿御返事』には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。
 誹謗とは、″そしる″ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善といって人に対するものです。御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。一言すれば、同志への怨嫉であり、いがみ合いです。
 日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』と、戒められている。怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。
 皆が心から団結できない。どうも、組織がすっきりとまとまらない。皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる――そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」
 なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。
 大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」と御指摘になっている。
 皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。
32  法旗(32)
 妙法を信じ切れないと、世間の法、つまり相対的なものの見方、考え方に陥っていく。
 社会では、高い地位に就いた人や、権力、財力を手にした人が、周囲の人を蔑むことが少なくない。反対に、自分より地位や権力、財力などがある人に対しては、ねたみや恨みをいだくことも多い。仏法の法理を確信できなければ、学会の世界にあっても、同じことが生ずる。
 たとえば、組織的に大きな責任を担うようになったことで、自分が偉くなったと錯覚してしまう場合もある。
 すると、同志を自分より下に見て、横柄で傲慢な態度で接するようになる。特に、力も自信もない人ほど、自分を大きく見せようとして、尊大な態度を取りたがる傾向があるものだ。
 また、相手の社会的な地位や立場によって、おもねったり、蔑んだりすることもあろう。
 あるいは、同志に対して慇懃無礼な態度を取ることもあろう。それは、表面的には皆を敬っているように振る舞っていても、奥底に慢心があり、一人ひとりを仏の使いと信じて、尊敬することができないからだ。
 幹部が、そんな生き方に堕してしまえば、皆が心を合わせていくことはできず、怨嫉を生む土壌がつくられていくことになる。
 また、幹部同士の仲が悪いということは、互いに″自分が、自分が″という自己中心的な感情から脱し切れず、相手を尊敬することができないからである。いかに取り繕おうとも、その生命は、修羅界、勝他の念に支配されているのだ。
 山本伸一が、愛媛県幹部会で十四誹謗の話をしたのは、一人ひとりの境涯革命、人格革命をもって、人間共和の組織を築き上げずしては、民衆の大城たる創価学会の、永遠の繁栄はないからだ。
 大事なことは、各人が仏法者としての生き方を確立することである。
 仏法の法理を確信した人間の振る舞いの手本は、あの不軽菩薩の生き方にある。
33  法旗(33)
 万人に仏性があると確信する不軽菩薩は、迫害を覚悟のうえで二十四文字の法華経を説いた。「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経五五七㌻)と、礼拝・讃歎して歩いたのである。
 しかし、それに対して、衆生は、不軽を杖や木で打ち、石や瓦を投げつけたのだ。
 彼の生き方が示すものは、相手の地位や立場に関係なく、等しく皆に、最大の敬意を表して法を説くということである。
 これが、広宣流布をめざす幹部の、そして、全学会員の姿勢でなければならない。
 不軽菩薩がどんなに激しい迫害を加えられても、但行礼拝し続けることができたのは、万人が仏の生命を具え、自身もその修行によって成仏するとの、仏法への揺るがぬ確信があったからだ。人びとを断じて成仏させねばならぬという使命に燃え、生命の因果の理法を強く確信していたのだ。
 成仏できるかどうかも、幸・不幸も、そのカギは、自己自身にある。そう自覚していくのが仏法である。
 ゆえに、日蓮大聖人は、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せである。己心を貫く生命の大法に従って生きるのが仏法者といえよう。
 人びとに賞讃されれば頑張り、非難中傷されれば仏法を捨ててしまうなど、周囲の状況によって一喜一憂するのは、己心の外に法を求める生き方といえよう。
 幹部は、会員一人ひとりに誠実と誠意をもって接し、讃え、励ましていかなければならない。また、幹部が会員への配慮に欠けていたり、不注意な言動があった場合は、当然、最高幹部がきちんと指導するなど、学会の組織として的確な対応が必要である。
 しかし、一人ひとりが銘記すべきは、どのような幹部がいて、失望、落胆することがあったとしても、自分の信心が一歩でも後退するならば、それは、魔に翻弄され、敗れた姿にほかならないということである。
34  法旗(34)
 山本伸一は、入会以来、さまざまな先輩幹部を見てきた。会合では壮士気取りで大言壮語するものの、酒や金銭等にだらしなく、乱れた生活の人もいた。また、威張り散らし、多くの後輩の心を傷つける人もいた。地道な活動をせず、要領よく立ち回る人もいた。
 だからこそ伸一は、自分の手で、″これが本当の創価学会だ″といえる組織をつくろうと、心に誓ってきたのである。
 悪い先輩幹部を引き合いに出し、自分の信心の後退を正当化したとしても、結局、損をして苦しむのは自分である。相手が悪いから自分が正しいというわけではない。何があっても信心を貫き通すことが、仏法における正義であり、そこにこそ自身の人間革命も、宿命の転換も、幸福境涯の確立もあるのだ。
 ゆえに、大聖人は、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」と仰せなのである。
 すべての幹部は、信心強盛で、人格的にも立派で、社会的にも大きな信頼を勝ち得ていることが望ましい。しかし、多くは、それをめざして懸命に戦っている途上である。
 それゆえに、互いにぶつかり合うこともあろうが、強い心で、広い心で、相手を包み、団結に努め、広宣流布に突き進んでいくのだ。そのなかに自身の成長がある。
 末法の仏道修行の場は、荒れ狂う人間群の中にある。人の一挙手一投足に左右されるのではなく、心に師をいだき、正法を信じて、自身の一生成仏、人間革命をめざして、学会活動に邁進していくのだ。
 「涅槃経」に雪山童子の説話が登場する。――雪山で菩薩道の修行をしていた彼の前に、飢えた羅刹(鬼)が現れ、仏の説いた偈の半分だけ聴かせる。雪山童子は羅刹に、さらに半偈を聴くことを求め、教えてくれれば、わが身を与えると約束する。そして、半偈を聴いた後、木の上から身を投げ出し、羅刹に与える。すると、羅刹は帝釈天の姿に変わって彼を受け止め、その不惜身命の姿を讃えて、未来の成仏を説くのである。
35  法旗(35)
 雪山童子の仏教説話で見落としてはならないのは、童子が身を投げ出した相手が、羅刹(鬼)の姿を現じていたということだ。
 そこには、法を求めるうえで、相手の人格や、社会的な地位や立場などによって、紛動されることがあってはならないとの、戒めの意味が含まれていよう。相手が、羅刹であろうが、誰であろうが、迷うことなく、一心不乱に法を求めて、突き進むなかに、成仏得道があるのである。
 一方、「大智度論」には、乞眼の婆羅門(司祭階級)の説話がある。
 ――舎利弗が菩薩道の修行をし、布施行に励んでいた時、婆羅門が来て舎利弗に眼を布施するように求めた。舎利弗は自分の眼の一つを抜いて与えたが、婆羅門からは、感謝の言葉さえなかった。それどころか、その眼の臭いを嫌って、唾をかけ、地に捨て、しかも、足で踏みにじったのである。
 舎利弗は、愕然とした。″こんな人間を救うことはできない!″と、菩薩道の修行をやめてしまうのである。
 自分の行為や実績に対し、相手や周囲がいかに評価し、賞讃してくれるか――それによって、張り合いをもち、頑張ろうとするのは人情といえよう。また、健気に、懸命に努力している人に光をあて、讃え、励ましていくことは、リーダーの責任でもある。
 しかし、たとえ自分が正しく評価されず、賞讃されることがなかったとしても、リーダーや周囲の人を恨んだり、意欲を失うようなことがあってはならない。自分の功徳、福運を消し、成長を止めてしまうからだ。
 仏道修行は″己心の魔″との戦いであるといえる。″魔″はあらゆる手段を弄して、健気に信心に励もうとする人の意欲を奪い、心を破ろうとする。時には″なんで自分ばかりが、こんなに苦労しなければならないのだ″との思いをいだくこともあるかもしれない。
 だが、御本尊は、すべてご存じである。生命の因果の理法に照らし、仏法のために苦労すればするほど、大福運を積んでいくのだ。
36  法旗(36)
 広布第二章の「支部制」をもって、広宣流布の上げ潮をつくるうえで、それを破壊する元凶となるのが、同志間の怨嫉である。ゆえに山本伸一は、その根本原因を明らかにし、怨嫉の根を絶っておきたかったのである。
 「同志が互いに怨嫉し、憎み合ったり、足を引っ張り合ったりすれば、いくら口では正法正義を叫んだとしても、自分の心は大聖人の御心に弓を引いてしまうことになるんです。その罪は重い。この一点だけは、絶対に忘れないでいただきたい。
 人間は感情の動物だから、″いやだな。自分とは合わないな″と思う人と、一緒に活動しなければならない場合もあるでしょう。その時は、″あの人と団結できる自分にしてください。仲良くなれる自分にしてください。あの人を尊敬できる自分にしてください″と祈り抜いていくんです。
 そうすれば、自分の境涯が革命できます。自分が変われば、どんな人とも団結していくことができるんです。
 大切なのは、仲が良いことです。そこに友情があり、同志愛が生まれます。そこに信心の喜びがあり、勝利があるんです」
 愛媛文化会館に集った県幹部たちは、真剣な面持ちで、伸一の話に耳を傾けていた。
 「話は変わりますが、人生は宿命との戦いといえます。宿命に泣き、宿命に流されて、あきらめてしまう人も多い。しかし、信心ある限り、打開できない宿命はありません。
 自動車は、エンジンを始動させなければ動かない。しかし、エンジンを回転させれば、右にも、左にも走っていける。同様に、信心のエンジンを回転させていけば、困難の坂を越え、過去世からの罪業、宿命も転換し、自分が欲する人生の軌道を、意気揚々と進んでいけるんです。
 戦いましょう! 勝ちましょう!
 わが人生の勝利の歴史を、共々に創っていこうではありませんか!」
 伸一は、全国に誕生する、すべての支部幹部に語りかける思いで、訴えたのである。
37  法旗(37)
 愛媛滞在三日目となる一月十八日のメーン行事は、夜に行われる松山支部結成十八周年を祝賀する記念勤行会であった。
 この日の昼過ぎ、山本伸一は四国長の久米川誠太郎や愛媛県の婦人部の代表ら数人で、市内のスーパーマーケットに出かけた。
 スーパーを見れば、人びとの暮らしの一端を知ることができるからだ。何がよく売れているかで、地域の人びとの好みや、景気の良し悪しもわかる。また、同じ物でも、地域によって価格が違う商品もあることから、松山の物価を知っておきたかったのである。
 伸一が車を降りて、スーパーに向かうと、出入り口の脇に台を出し、塩辛や昆布などを売っている老婦人がいた。真冬のことであり、首に布を巻き、頬かぶりしていたが、いかにも寒そうであった。
 伸一は、真っすぐに、この老婦人の″店″に向かった。
 「おばあちゃん。寒いでしょう」
 老婦人はキョトンとした顔で伸一を見た。
 彼は、「買わせていただきますよ」と言って、並べてあった幾つかの塩辛と昆布を購入した。
 商品を手にしながら、彼女は、目を輝かせ、笑みを浮かべた。
 品物を受け取る時、「ありがとう!」と言ったのは伸一であった。彼は、お辞儀をする老婦人に、「風邪をひかないようにね。お体を大切に! いつまでも元気でいてください」と語り、スーパーへ入っていった。
 たとえ見知らぬ人であっても、言葉を交わせば、心の距離は、ずっと縮まる。
 伸一は、学会員であろうがなかろうが、寒さに震えながら働く人を見れば、自然にねぎらいの言葉が出た。奮闘している人と出会えば、励ましが口をついて出た。
 人間主義とは、何か特別な生き方をすることではない。奮闘している人や苦労している人がいたら、声をかけ、励ます。喜んでいる人がいたら、共に手を取って喜び合う――その、人間の心の共有のなかにこそあるのだ。
38  法旗(38)
 スーパーマーケットを視察した山本伸一は、その足で、松山市郊外の土居町にある、初代松山長を務めた羽生直一の家を訪れた。
 羽生は、妻のみさ子と共に、松山広布の中核として活躍し、多くの人材を育んできた。市街で営んでいる家業の呉服店も繁盛し、地域での信頼も厚かった。土居町の自宅は、学会の諸会合の会場として使われており、城を思わせる和風造りの大きな家である。
 伸一は、羽生夫妻の功労を讃えようと、自宅を表敬訪問したのだ。
 羽生直一は、謹厳な性格そのままの、眉の太い、がっしりとした体躯の壮年であった。年齢は五十八歳である。終戦を満州(現在の中国東北部)で迎え、命からがら日本に引き揚げ、裸一貫から衣料雑貨店を起こした。
 朝六時から夜十時過ぎまで仕事をした。自転車で衣料品を売りに行くこともあった。働きに働いた。信念と努力――それが、人間のすべてであると信じて生き抜いてきた。
 彼は、常に完璧を求めた。履物がきちんとそろえられていなかったり、玄関や家の中に塵が一つでも落ちていたりすると、家族を頭から怒鳴りつけた。
 だから、妻も三人の子どもたちも、いつも緊張を強いられ、ビクビクしていた。明るい家庭とは言いがたかった。
 一九六二年(昭和三十七年)、妻のみさ子が、姉から仏法の話を聞かされた。入会を希望する妻に、彼は言った。
 「信仰にすがるのは弱い人間の生き方だ。宗教はアヘンだ。お前たちを食べさせているのは俺ではないか! 拝むなら俺を拝め!」
 それでも妻は、信心をしたいと言う。これまで、何も自ら主張したことがなかった彼女が、必死になって頼み込む姿に気圧された。
 人間が発揮し得る最大の説得力は、真剣さである。必死の言葉には、立ちはだかる岩をも打ち砕く力がある。
 羽生は、妻が創価学会のどこに引かれたのか、観察して見ようとの思いもあり、自分も一緒に入会したのである。
39  法旗(39)
 羽生直一は、入会はしたものの、ほとんど勤行もしなかった。入会から数カ月が過ぎた冬のある日、小雪の舞うなか、集金のために山間部を車で走っていた。
 車がすれ違うには、細心の注意を払い、徐行しなければならない狭い道であった。急がなければと、アクセルを踏んだ。その時、前方のカーブから大型バスが飛び出してきた。ブレーキを踏んだ。車体が半回転し、そのまま、凍結した路面を滑った。止まらない。下は深い谷である。
 「ワァー、南無妙法蓮華経……」
 とっさに題目が口をついて出た。
 ″落ちた!″と思った。
 ハンドルにしがみついた。なんと、車は、ぎりぎりのところで止まった。だが、腰が抜けて、体が動かなかった。しばらくして、恐る恐るドアを開け、外に転がり出た。
 ″助かった! 題目で守られたのか……。
 俺は、信じるに足るものは自分だけだと思って生きてきた。しかし、今の瞬間、俺は、なす術がなかった……″
 この予期せぬ出来事に、人生は、信念と努力だけではどうしようもない″何か″があることを、羽生は体で感じた気がした。
 信念と努力が報われるには、正しい人生の軌道を知らねばならない。幸福を欲して、ひたすら努力しながら、不幸に泣く人のいかに多いことか。生命の法理に則してこそ、信念は輝き、努力は実を結ぶのである。
 ″題目を唱えた。命を救われた――偶然の産物かもしれないが、この事実は、そう簡単に否定することはできない″と、羽生は考えた。半信半疑ではあったが、信心に打ち込んでみようと思った。
 もともと頑固一徹な性格の彼は、唱題にも、学会活動にも、徹して取り組んだ。
 ほどなく羽生は、仕事を衣料雑貨商から呉服商に切り替えた。日々、懸命に信心と仕事に励んだ。店は、着実に軌道に乗っていった。祈りと弘教の結果が、そのまま商売に現れると、彼は感じた。
40  法旗(40)
 一九六三年(昭和三十八年)十一月、愛媛県初の会館として松山会館が完成し、会長・山本伸一が出席して、落成入仏式が行われた折のことである。
 その席で伸一は、学会の会館は、「人材をつくる城」であり、「民衆救済の城」であり、「慈悲の城」であると力説。「どうか、皆さんは、″一切の民衆を救うのだ! この松山の広宣流布をするのだ!″との決意で立ち上がってください」と、訴えたのである。
 そして、帰り際には、参加者と握手を交わした。そのなかに、入会一年の羽生直一もいた。伸一は、羽生の手を、強く握り締め、じっと目を見つめて言った。
 「松山を頼みます!」
 羽生は、ぎゅっと握り返しながら、無我夢中でこたえていた。
 「はい! 頑張ります」
 彼は、強く心に誓った。
 ″俺は、山本先生に誓った。人間と人間の約束をしたんだ。あの言葉を、その場限りのものとして終わらせては、絶対にならない。松山の広宣流布の責任をもつのだ!″
 それを、わが信念とし、努力に努力を重ねた。妻のみさ子と共に、草創の地区部長、地区担当員や支部長、支部婦人部長などを歴任していった。彼らは自分たちのことより、「広宣流布第一」「松山第一」と決めていた。広布こそ、わが人生と決めた時、人生は開花する。
 地域に会場がなくて、皆が困っていることに気づくと、当時、呉服店の二階にあった自宅を会場に提供した。会合に集ってくる人は、呉服店の玄関を使うことになる。
 ある時、店に税務署員が調査に来た。ひっきりなしに客が出入りしていると聞き、″申告している以上の、莫大な儲けがあるのではないか″と思ったようだ。
 羽生直一が帳簿を見せようとすると、税務署員は、「いや、結構です」と言って帰っていった。人の出入りは激しいが、皆、二階に上がり、帰る時も荷物が増えていない。訪問者は、会合参加者とわかったのだ。
41  法旗(41)
 羽生直一は、仕事では″お客様へのきめ細かな対応″を心がけてきた。学会活動でも、それを実践した。
 たとえば、日々の活動が忙しいと、病魔と闘っている人などへの激励は、後回しになりがちになっていると感じた彼は、そうした同志への激励の日を設けることにした。その日は、重点的に、入院中の人や自宅療養中の人を見舞ったり、高齢で体が不自由な人などを励ますことにしたのである。
 羽生のもとで、人材もたくさん育った。新入会者には、「行学の二道」の大切さを訴え、丹念な勤行指導を行うとともに、一緒に動いて、仏法対話の実践を教えてきたのである。
 羽生夫妻が地区部長、地区担当員をしていた時、地区の大多数の人が一級の闘士となった。彼らが所属する愛媛支部には、十余りの地区があったが、支部の弘教の半分以上を、彼らの地区で占めてしまったこともあった。
 羽生直一は、山本伸一から「松山を頼みます!」と言われて十年後の一九七三年(昭和四十八年)十一月、松山長の任命を受けた。名実ともに、松山の広宣流布の責任を託されたのである。以来彼は、ますます情熱を燃やし、大前進の牽引力となってきた。
 そして、伸一が羽生の自宅を訪れた、この七八年(同五十三年)一月には、直一は松山市を含む中予圏の指導長として、みさ子は本部指導長として活躍していたのである。
 羽生の家には、広々とした立派な和風庭園もあった。それは、諸会合に訪れるお年寄りをはじめ、人びとの幸せのために奔走する学会員に、少しでも心を和ませてもらいたいとの思いから、造ったものであるという。
 伸一が、地元の同志に代わって、丁重に御礼を言うと、羽生は語った。
 「とんでもないことです。頑なでお世辞一つ言えない私ですが、商売も軌道に乗っております。たくさんの功徳をいただきました。広宣流布のため、同志のために尽くせば、必ず守られることを実感しています。御礼、感謝申し上げるのは私でございます」
42  法旗(42)
 山本伸一は、羽生直一の言葉に、「喜捨」の心を感じた。羽生は、法のため、学会のため、同志のために、多くの私財と労力を、喜び勇んで投じてきたのであろう。
 行為は同じでも、大切なのは心である。
 ″広宣流布のためならば、なんでもやらせていただこう! 喜んで尽くそう!″と、自ら進んで行動し、さらに、そうできることに感謝していくことである。そこに、功徳の大輪を咲かせ、無量無辺の福運を積んでいく直道がある。
 伸一は、語った。
 「あなたのような、清らかな心根の同志が、愛媛に百人誕生したら、広宣流布は盤石になります。また、愛媛は功徳の花園になるでしょう。同じ志をもった多くの後輩を育ててください」
 夕刻、羽生の自宅から愛媛文化会館に戻った伸一は、松山支部結成十八周年の記念勤行会の参加者を、会館の玄関前で出迎えた。
 「ようこそ、おいでくださいました!」
 彼は、貸し切りバスから降りてくる人たちと握手を交わしていった。
 驚いたのは、参加者たちであった。手を差し出されて、伸一と気づき、歓声をあげて両手で強く握り締める人もいれば、半信半疑な顔で握手をする人もいる。
 出迎えを終え、館内に入った伸一は、四国長をはじめ、県幹部の代表や職員に言った。
 「幹部も、職員も、会員の皆さんのためにいることを忘れてはならない。したがって、皆に尽くし、皆を守ることが根本精神です。
 どうすれば、皆が活動しやすくなるのか。どうすれば、張り合いをもてるのか。どうすれば、明るく頑張れるのか――と、常に心を砕き続けていくんです。その精神を全幹部が、全職員が、本気になって受け継いでいくならば、学会は盤石になる。
 しかし、自分のために、学会をうまく利用しようなどというリーダーに牛耳られてしまえば、創価の未来も、広宣流布の未来もない。そのことを生命に刻んでおくんです」
43  法旗(43)
 松山支部結成十八周年の記念勤行会が始まった。勤行、幹部指導のあと、司会者が、「松山支部の草創の功労者に、花束の贈呈があります」と告げた。
 山本伸一は、自ら花束を手にした。最初に贈られたのは、初代の支部婦人部長を務めた岩田サワであった。ふくよかな優しい顔立ちのなかに、毅然とした強さを秘めている女性であった。
 松山支部の結成は、伸一が第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の本部総会の席上である。伸一は、東京・両国の日大講堂の壇上で、松山支部の大前進と、支部長・婦人部長になった武田勇蔵と岩田の人生の勝利を願いながら、祝福の拍手を送ったことが忘れられなかった。
 かつて岩田は、″自分の人生は不幸を絵に描いたようだ″と思っていた。結婚して一女をもうけたが、夫は戦病死した。以前、看護婦(現在の看護師)をしていた彼女は、幼子を実家に預け、松山の医院に勤めた。
 戦後、数年して多少の蓄えもでき、娘の紀美子と松山で一緒に暮らすことにした。家は、知り合いが住んでいた家を、ただ同然の家賃で借りることができた。
 洋裁の技術もあった彼女は、家で洋裁の仕事を始めた。娘と一緒にいるために、自宅でできる仕事を選んだのである。しかし、母子二人が食べていくことは容易ではなかった。早朝から深夜まで、働きづめであった。
 五三年(同二十八年)の年末、岩田の体に異変が起こった。咳、高熱が続いた。病院へ行くと、重度の粟粒結核症と診断された。当時、結核は治療の難しい病といわれていた。
 入院治療が必要とされたが、結核病棟はいっぱいであった。また、入院すれば、金銭的にも大きな負担がかかる。さらに、娘の側にいなければとの強い思いもあり、結局、自宅療養することになった。
 人生は、容赦なく襲って来る宿命の嵐との戦いといえる。その嵐に勝ち抜く精神の強さを培ってこそ、幸福がある。
44  法旗(44)
 粟粒結核症で自宅療養を続ける岩田サワの蓄えは、次第に底を突き始めた。
 ″これから、どうなってしまうのか……″
 病の床にあって、″不安″の闇に怯えながら、身の不運を呪った。″不安″は、やがて、″絶望″の淵へと彼女を追いやっていった。
 ″死んだ方がましだ……″
 病院に薬をもらいに行った帰り道、線路の上に立った。やがて、彼方に列車が見えた。
 ″楽になれる……″。しかし、その刹那、娘の紀美子の顔が頭をよぎった。
 ″あの子は、どうなるの……″
 線路を飛び出した。死ねなかった。脇道にしゃがみ込んだ。その傍らを、ガタゴトと列車が通り過ぎて行った。咳き込み、泣きながら、よろけるようにして家に着いた。
 希望を失うことは、人生の光を失うことだ。信仰とは、心に、その希望の灯をともし、歓喜の炎へと燃え上がらせていくことである。
 岩田が粟粒結核症と診断された翌一九五四年(昭和二十九年)の春、紀美子は中学校に入った。制服を買うこともできず、サワが自分で縫った。しかし、セーラー服に入る線は皆とは違う布地になった。家には、同じ布がなかったからである。
 米など買えないため、紀美子の弁当は、主食も、おかずも、ジャガイモだった。紀美子は、友だちに、弁当を見られるのがいやだった。「いつもイモだね」と言われる前に先手を打った。「私は、おイモが大好きなの」と言って、明るく笑うようにした。
 赤貧――その言葉は、自分たちのためにあるように、岩田サワには感じられた。
 この年の六月、彼女の看護婦養成所時代の友人が大阪から訪ねて来た。この友人は、かつては病弱で、暗い感じであったが、見違えるように元気になり、はつらつとしていた。
 友人は学会員であった。自分が健康になれた根本的な力は、信心にあると言うのだ。
 岩田も、彼女も、同じ看護の道を歩いていた仲間である。その友人が、医学ではなく、宗教を力説することに驚きを覚えた。
45  法旗(45)
 学会員の友人は、病を克服するための根源の力は、人間の生命力にあると言い、それを引き出す方法を示しているのが仏法であると訴えた。さらに話は、宿命に及んだ。
 岩田サワは、ハッとした。いちばん疑問に感じていたことであったからだ。
 「自分が自覚していようが、いまいが、人は過去世からの宿命を背負っているのよ。岩田さんが、ご主人を亡くしたことも、病に倒れたことも、宿命だわ。でも、すべての人が、今世で、その宿命を転換し、必ず幸せになれる道があるの。それを説いているのが、日蓮大聖人の仏法なのよ」
 友人の声には、確信があふれていた。岩田は、圧倒されそうになりながら、彼女の話に耳を傾けた。
 友人は、三日間、岩田の家に滞在した。その間に、時には体験を通し、また、御書を開いて、仏法がいかにすばらしいかを述べた。
 そして、「決して、人生をあきらめては駄目よ。あなたには、本当に幸せになってほしいの。いいえ、絶対になれるのよ」と、涙を浮かべて語るのである。岩田の胸に、友人の真心が熱く染み渡った。
 友の幸福を願う至誠の帰結は、おのずから弘教となる。折伏とは、慈悲の発露にほかならない。
 岩田は、友人の熱意に打たれて、信心しようと心に決めた。″私の結核は、治らなくてもともと。治ればもうけものだ″と思った。
 しかし、御本尊を受けるには大阪まで行かねばならないという。彼女は、医師に、大阪に行かせてほしいと頼んだ。最初、「とんでもない! 絶対安静です」と言われたが、懸命に頼み込むと許可してくれた。″回復の見込みがないのだから、今のうちに、好きなことをさせてもいいのではないか″と、考えたようだ。
 岩田は、友人と船で大阪に向かった。そこで座談会にも出席した。結核などの病を克服した体験も聞かされた。でも、彼女は、そのまま信じる気にはなれなかった。
46  法旗(46)
 岩田サワは、仏法は信じられなかったが、自分に信心を教えてくれた友人の真心と熱心さには、感動を覚えた。″この人を信じてついていこう!″と決めて、大阪から松山に帰って来たのである。
 信心の根本は、どこまでも妙法への確信にある。しかし、人は、人によって目覚め、人について来るのである。
 日蓮大聖人は、「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せになっている。
 ゆえに、法を弘める人の人格、振る舞いが大事になってくるのである。
 岩田に弘教した友人は、毎月二回は、大阪から、指導、激励に通い、勤行や教学を教えてくれた。また、その友人は、松山に知り合いも多く、来るたびに弘教に歩き、入会する人も出始めた。
 ほどなく岩田の娘の紀美子も信心し、岩田が知る松山の同志は、十一世帯になっていた。皆で集まって、大阪から送られてきた「聖教新聞」や、先輩幹部からの励ましの手紙などを読み合う座談会も開かれ始めた。
 そのころ、岩田の病状は、既に回復に向かい、外出も許可されていたが、午後になると決まって高熱が出た。
 入会した翌年の一九五五年(昭和三十年)の夏季地方指導で、東京と大阪から数人の幹部が松山に来た。そして、岩田の家にも激励に訪れたのである。
 東京から来た婦人の幹部は、岩田が病に苦しんでいることを聞くと、「一緒に勤行しましょう」と言って、真剣に、朗々と、読経・唱題した。それから、諄々と語り始めた。
 「大事なのは確信です。″信心によって、絶対に病を乗り越えてみせる!″と誓い、師子が吼えるような題目を唱えるんです。大聖人は『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』と仰せになっています。信心で勝つんです。その確信があれば、服用した薬も最大の効果を発揮しますよ」
47  法旗(47)
 東京から来た婦人の幹部は、さらに力を込めて、岩田サワに訴えた。
 「岩田さん。宿命を打開する直道は折伏ですよ。人の幸せを願い、法を説くならば、自分に、仏・菩薩の大生命が涌現します。その生命力で、宿命も転換し、病も乗り越えていくことができるんです。あなたも一緒に、折伏・弘教に励みましょうよ」
 岩田は、確信にあふれた、この婦人の話を聞くうちに、″よし、それならば、この信心にかけてみよう″と決意した。
 翌日は、朝から弘教に歩いた。午後になった。″発熱する″と思った。しかし、熱は出なかった。翌日も、そのまた翌日も、発熱はなく、以来、熱は出なくなった。病院の医師も、「何か別の薬を飲んだのかね」と尋ねるほどだった。
 それが岩田の感じた初信の功徳であった。確信が湧いた。″信心を根本にしていくならば、必ず病気は乗り越えられる″と思った。
 また、友の幸せを願って仏法を語ると、こんなにも歓喜し、生命が躍動するのかという実感をもった。自分が病身であることさえ忘れ、活動に励んだ。実際に、発熱だけでなく、咳や痰などの症状もなくなっていった。
 一九五六年(昭和三十一年)五月のことだ。第二代会長・戸田城聖が高知に来ると聞いて、岩田は訪ねて行った。
 戸田は、「松山から、よく来たな」と言って、じっと、彼女に視線を注ぎ、言葉をついだ。
 「私たちは、なんのために生まれてきたのか。それは、幸せになるためだ。あなたも、きっと幸せになるんだよ。いや、必ずなれる! 御本尊から、学会から、生涯、離れてはいけないよ」
 岩田は、自分の幸せを願ってくれる戸田の慈愛に、胸が熱くなった。″頑張ろう! 絶対に幸せになろう!″と、自分に言い聞かせながら、家路を急いだ。
 苦悩し、呻吟する庶民の心に、誰が希望の光を注ぐのか。誰が勇気の火をともすのか――その使命を担ってきたのが創価学会である。
48  法旗(48)
 岩田サワが戸田城聖と会った三カ月後の一九五六年(昭和三十一年)の八月、大阪支部松山地区が結成された。岩田は地区担当員の任命を受けた。
 このころ、彼女は、医師から粟粒結核症が全快したと告げられた。その喜びは、広宣流布への新たな活力となった。
 岩田は、洋裁の収入では生活が思うに任せないことから、市内の繁華街に店舗を借りて、ウドン屋を始めた。地の利もあり、努力の甲斐があって、味もよく、店は繁盛した。
 ところが、早朝六時から深夜の十二時まで働かねばならず、学会活動の時間が思うように取れなくなってしまった。
 地区員は、愛媛県全域に散在している。どう激励の手を差し伸べるか、悩んだ。人を雇うなどしながら、工夫に工夫を重ねた。彼女が心に決めていたことは、″仕事がどんなに忙しくなろうが、学会活動からは、一歩も引くまい″ということであった。
 大事なことは、広宣流布に生き抜く決意である。心を定めることである。そこから、さまざまな創意工夫が生まれ、不可能と思えたことを可能にしていく道が開かれるのだ。
 彼女は、遠くに居住し、なかなか会いに行くことができない人には、こまめに手紙を書いた。店がいくらか暇になるのを待って、活動に飛び出し、また戻って来るという毎日であった。朝から晩まで、自由に学会活動に飛び回れる人がうらやましかった。
 五七年(同三十二年)十月、彼女は、地区担当員兼任で大阪支部の常任委員の任命を受けた。支部のある大阪に通う頻度も高くなった。多忙さは増した。
 そこに、また新しい悩みがもち上がった。家主から、「土地の売却が決まったので、立ち退いてほしい」と言われたのだ。
 彼女は、困惑した。今の家は、家賃はただ同然であり、しかも間数も多く、庭も広かった。座談会等の会場としても提供してきた。この家があったからこそ、地域の広宣流布も進んできたといってよい。
49  法旗(49)
 立ち退きの件で困り果てた岩田サワは、関西総支部長の春木征一郎に指導を求めた。
 「そうか。しかし、考えてみれば、今の家に、これまで住まわせてもらっただけでも、感謝すべきではないかね」
 岩田も、それはよくわかっていた。だが、問題は、これからどうするかなのだ。
 春木は、笑みを浮かべた。
 「大丈夫だよ。祈り抜けば、必ず道は開ける。悩みは、乗り越える直前が、最も苦しいものなんだ。山登りだって、八合目、九合目がいちばん大変じゃないか。腹を決めて、祈り、戦い抜くんだ。頂上はすごいぞ!」
 山本伸一が、初めて岩田と会ったのは、その直後のことであった。関西本部にいた伸一に、春木が岩田を紹介し、病苦や経済苦をかかえながら、女手一つで娘を育て、″広布の母″として活躍していることを告げた。
 伸一は、包み込むように、彼女に語った。
 「あなたには、幸せになる権利があるんです。宿命に泣いてきた人だからです。また、あなたには、幸せになる使命があるんです。地涌の菩薩だからです。
 これまでの一切の苦労は、すべて仏法の力を証明していくためにあったんですよ。
 泥沼が深ければ深いほど、蓮の花や実は大きいといわれる。悩みや苦しみが大きければ大きいほど、幸せも大きい。信心をしていくならば、苦悩は心の宝石になるんです。変毒為薬の仏法なんです。それを必ず、心の底から実感する時が来ますよ。
 今は、まだ、″大変だな。苦しいな″と思うことが多いでしょうが、あなたは、既に幸せの大道を歩き始めているんですよ。人びとの幸福を真剣に願って、学会活動に励んでいること自体がそうなんです。
 以前は、自分の幸せしか考えなかったでしょう。しかし、今は、人の幸せを考え、広宣流布の使命に生きる喜びと充実をかみ締めている。そのことが、境涯革命している証拠ではないですか」
 岩田は、心に光が差した思いがした。
50  法旗(50)
 山本伸一の激励を受けてほどなく、岩田サワに立ち退き料が支払われることになった。思いのほか高額であった。彼女は、唱題の力を実感した。
 ウドン屋が繁盛したおかげで貯金もできていた。それと立ち退き料を合わせて、中古の家を購入し、さらに、融資を受け、その家に二階建てのアパートを建て増しした。
 また、繁華街にあったウドン屋をたたみ、自宅の一角に移した。店を任せることのできる人も見つかり、彼女は念願叶って、日々、学会活動に奔走できるようになった。
 やがて、岩田の娘の紀美子も高校を卒業し、証券会社に勤務するようになり、経済苦から完全に脱却できたのである。
 娘が社会人になった一九六〇年(昭和三十五年)、岩田は松山支部の初代婦人部長となり、二年後には、四国第三総支部婦人部長となった。
 彼女は決意した。
 ″自分が健康になり、経済的にもゆとりができたのは、広宣流布のために働くためだ。こんなにも幸せになった自分の体験を語り、人びとを幸福にするためだ。だから、仏法のためには、なんでもさせていただこう″
 県南の村まで、列車やバスを乗り継ぎ、さらに徒歩で、往復七時間がかりで通い続けたこともあった。仏法を語るために、汗を流すことに、無上の幸せを感じていた。
 彼女は、よく皆に、「私はたくさんの宝を持っているのよ」と語った。
 伸一が言ったように、若くして夫を亡くしたことや、病苦、経済苦、子育ての苦労など、すべての体験が、歓喜をもって人びとに語り得る″宝石″であると、岩田は、心の底から感じていたのだ。そして、多くの後輩たちに、こう訴えてきたという。
 「今、自分が病苦で悩んでいるからこそ、病で苦しんでいる人を救えるようになるのよ。経済苦の人は、経済苦の人を救えるようになるわ。地涌の使命に目覚めれば、すべてを生かすことができるわ」
51  法旗(51)
 山本伸一は、第三代会長に就任して二年後の秋、岩田サワに一冊の真新しいアルバムを贈った。その扉には、「幸福の綴」と認められていた。苦労に苦労を重ねてきた人ゆえに、さらに幸せの花を咲かし続け、その記録を、ここにとどめてほしかったのである。
 事実、彼女は、その後、″幸福の女王″として、信心の実証を示し抜いてきたのである。
 伸一は、今、松山支部結成十八周年を祝賀する記念勤行会で、岩田に花束を手渡しながら、語りかけた。
 「あなたは″愛媛の母″です。一途な戦いの心を、草創の精神を、次の世代に伝えていってください。それが、母の役目です。特に、新しい支部制のスタートにあたっては、その精神を伝え抜いていくことが大事なんです」
 岩田の顔が決意に輝いた。
 さらに花束は、松山支部の初代支部長を務めた武田勇蔵にも贈られた。
 伸一は、彼の年齢を尋ね、六十歳だと聞くと、即座に言った。
 「いよいよ、これからです。牧口先生は七十歳にして、よく『われわれ青年は』と語られたといいます。平均寿命も延びてきていますから、今の年から、マイナス三十歳があなたの年です。青年同士、戦いましょう!」
 こう言って伸一は握手を交わした。
 副会長の関久男のあいさつに続いて、伸一の指導となった。
 彼は、この席では、強盛なる祈りの大切さについて訴えておこうと思った。
 信心の世界は、すべてが御本尊への祈りから始まるからである。祈りなき信仰はない。祈りなき幸福もない。祈りなき広宣流布の勇者もない。
 「私どもが幸福になるために、肝要なものは、日蓮大聖人が『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり』と仰せのように、強盛な信心です。強い祈りです。叶わぬ願いは断じてないとの確信です」
52  法旗(52)
 信仰とは、不信、すなわち揺らぐ心との精神の闘争である。″自分など、幸せになれないのではないか。何もできやしないのだ″といった心の迷い、弱さを打ち破り、胸中の妙法を涌現させ、絶対的確信を打ち立てる戦いであるといってよい。
 山本伸一は訴えた。
 「不況の時代です。それだからこそ、強盛な信心を奮い起こし、いかなる苦境のなかにあっても、生活のうえで、職場や地域で、確たる信心の実証を示してください。
 御書に『一切の法は皆是仏法なり』とあります。ゆえに私たち仏法者は、正法を信じ、行ずる功徳を、社会にあって、開き示していく使命があるんです。
 そのために、信心を根本に、それぞれの分野において、人一倍、研究、努力、工夫を重ねていっていただきたい。
 また、人間として自らを鍛錬し、人格を磨き、皆から信用、信頼される人間関係をつくり上げていくことが大事です。
 人間は、人間についていくんです。誰が見ても、感じのいい人、誠実な人、人格高潔な人、温かい人には、人はついていきます。そういう人であれば、商売もうまくいくでしょうし、仏法の話にも、皆が耳を傾けるでしょう。
 しかし、感じの悪い人、不親切な人、利己主義な人、冷酷な人には、人はついてきません。そんな人柄では、法を弘めるどころか、かえって法を下げてしまうことにもなります。
 したがって、仕事の面でも、広宣流布においても、一切のカギを握るのは、自身の人間革命であり、人格革命であることを、訴えておきたいのであります」
 仏道修行を通して積まれた「心の財」は、境涯、人柄となって輝きを放つ。それこそが、広宣流布を総仕上げしていくうえで、最大の力となるのである。
 ホイットマンはうたっている。
 「改革が必要であればあるだけ、それを成就するための『人格』が必要になる」
53  法旗(53)
 山本伸一が夕食をとることができたのは、松山支部結成十八周年記念勤行会を終えた、午後八時過ぎであった。管理者室に顔を出し、そこで食事を済ませると、四国婦人部長の佐木昭枝や県婦人部長の田渕良恵らが集まってきた。
 この時、婦人部幹部の一人が言った。
 「昨日の県幹部会、また、今日の松山支部結成の記念勤行会で、愛媛のたくさんの同志とお会いしていただきました。みんな大喜びでした。大変にありがとうございました。
 でも、愛媛には、先生にお会いしていただきたい方が、まだたくさんおります。そういう方々をお呼びして、明日、先生のお見送りをさせていただいてもよろしいでしょうか」
 明十九日は、伸一が愛媛から、香川に移動する日である。
 伸一は、尋ねた。
 「明日のことなのに、これから連絡を流して間に合うの?」
 「はい。大丈夫です」
 彼は頷き、側にいた四国総合長の森川一正に明日の松山発は何時の列車かを尋ねた。「二時二十三分発です」との答えが返ってきた。
 「それなら、皆さんがよろしければ、正午から婦人部の勤行会を開催しましょう」
 婦人たちの顔が、ほころんだ。
 伸一のスケジュールは、ぎっしりと詰まっていた。昼食の時間を勤行会にあてたのだ。
 彼は、言葉をついだ。
 「婦人以外の方でも、来たい方は自由に来てくださってかまいません。しかし、明日は木曜日ですので、多くの人は仕事があるでしょう。仕事を休んで参加するように呼びかけたりしてはいけませんよ。
 私は、できることならば、全同志とお会いしたい。皆さんの会長ですもの、皆さんに仕えるのが当然であると思っています。それが幹部なんです。会員の皆さんがいるから幹部がいる。幹部のために会員がいるんじゃありません。もしも、それを幹部が勘違いしたら、学会は滅んでいきます」
54  法旗(54)
 創価学会は、不軽菩薩の実践を現代に移した、地涌の菩薩の集いである。したがって、学会の根本精神は、人を敬うことにある。人の幸福を願い、実現していくことにある。人に尽くしていくことにある。
 現代社会にあっては、他者への無関心が進む一方、利害や力関係によるつながりが優先され、″人間性″が追いやられてきた。だからこそ、尊敬と信頼と励ましの、人間の温もりにあふれた社会を築き上げていくのだ。
 そこに創価学会の使命があり、その先頭に立つのが、幹部である。ゆえに、幹部の境涯革命、人格革命こそが、広宣流布の最大の推進力となろう。
 一月十九日、山本伸一は、早朝から、山のように積まれた書籍や色紙に、次々と励ましの揮毫をした。そして正午前、愛媛文化会館のロビーで、社会の各界で活躍するメンバーや、その家族と会って激励したあと、婦人部勤行会に姿を現した。
 会場には、婦人部員だけでなく、壮年部、男子部の代表や、子どもを連れた近隣の人たちも参加していた。
 「ようこそ! ようこそ! お忙しいなか、よくぞおいでくださいました」
 彼は、満面の笑みで、歓迎の意を表した。
 この勤行会でのあいさつで、伸一は、「火の信心」と「水の信心」について述べた。
 「『火の信心』というのは、火が一時的に激しく燃え上がるように、感激した時には真剣に唱題や弘教に励みはするが、永続性のない信心です。それに対して『水の信心』は、派手で目立った行動はなくとも、心堅固に、常に水が流れるように、不撓の決意と使命感をもって、生涯、信・行・学を持続し抜いていく人の信心です。私どもは、『水の信心』を貫いていかなければならない。
 では、そのために何が必要不可欠か――。
 それは、組織です。人間というものは、また、凡夫というものは、どうしても一人だけになると弱くなり、我見に走ったり、精進を怠ってしまいがちだからです」
55  法旗(55)
 組織がなければ、自由でいいように思うこともあるかもしれない。しかし、善知識の同志が、互いに激励・触発し合い、切磋琢磨していくなかにこそ、信心の成長があるのだ。
 さらに山本伸一は、清らかな「水の信心」を貫いていくための大切な場として、学会の諸会合があることを訴えた。
 それから、幹部の姿勢について語っていった。全参加者に幹部のあるべき姿を明らかにすることによって、愛媛に、模範の組織を築いてほしかったからである。
 「会員の皆さんは、学会の会合に遅れることのないように努力しています。しかし、仕事などが多忙なために、どうしても、定刻に間に合わない場合もあります。
 幹部は、そうした方々の事情も考慮せず、厳しく注意したり、感情的に叱ったりするようなことがあってはなりません。むしろ、遅れても、会合に駆けつけて来た、その真剣な行為と信心の姿を、最大に讃え、包容していくべきであります」
 さらに伸一は、幹部が注意すべき事柄として、公私の立て分けについて語った。
 「幹部の皆さんは、同志だからといって、後輩の私的なことにまで深入りして、生活上の問題などに関与することのないように留意し、信心の指導に徹していただきたい。
 また、幹部という立場を利用して、後輩を個人的な用事で使うようなことがあってはなりません。そういう風潮があれば、本来、伸びるべき大切な人材が不信を起こし、成長の芽をつぶしてしまうことになるからです」
 広布第二章の「支部制」という新しいスタートの時である。彼は、皆が未来に向かい、すっきりと、すがすがしい出発ができるように、疑問に思っているであろうことについて、すべて語っておきたかったのである。
 「ところで、皆さんのなかには、地区や支部で協議を行うと、さまざまな意見が出て、対立することがよくあるが、どうすればいいかと思っている方もおられるでしょう」
 皆が大きく頷いた。
56  法旗(56)
 山本伸一は、「たくさんの人が集まれば、意見が異なるのは当然ではないですか」と言って微笑みを浮かべ、話を続けた。
 「学会は、多種多様な人びとが集まって、人間共和を形成しているんです。老若男女がおり、世代も違う。職業も違う。生い立ちも違う。出身地だって違います。それなのに皆が全く同じ意見であったら、むしろ不気味ではありませんか!」
 笑いが起こった。
 「でも、信心を根本にして、広宣流布のためという大目的に立ち返っていけば、心は一つになれます。そうなれば、活動の進め方をめぐって、多少の意見の違いがあったとしても、互いに相手を尊重し、包容していくことができます。
 よく社会の組織では、方法論についての意見の違いから、憎み合ったり、分裂したりするケースがあります。しかし、私たちは、信心を根本にすれば、それを乗り越えていくことができます。ここに、学会の異体同心の団結の強さがあるんです。
 意見の違いから、互いに感情的になったり、憎み合ったりするならば、それは、生命が魔に破られた姿なんです。私たちは、何かあったら、すぐに、御本尊という信心の原点に返ろうではありませんか!」
 伸一は、会場を見回した。彼の視線が、前日、懇談した婦人部員の一人をとらえた。彼女が、『私が弘教し、入会させたメンバーが退転してしまい、深く悔やんでいます』と語っていたことを思い起こした。その問題についても、ぜひ、語っておこうと思った。
 「学会には実に多くの人がおります。なかには、退転していく人もいるでしょう。末法にあって正法を信受し抜いていくことは、極めて難しいことだからです。大聖人は『修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし』と言われている。また、竜の口の法難から佐渡流罪の時には、『千が九百九十九人は堕ちて候』と仰せのように、多くの門下が退転しています」
57  法旗(57)
 自分が弘教した人を、人材に育てようと、懸命に努力し、面倒をみていても、思うに任せぬこともあるだろう。
 山本伸一は、一人の人を一人前の信仰者に育て上げることがいかに大変かを、熟知していた。それだけに、弘教した相手が退転したからといって、自分を責め、苦しむことのないように、励ましたかったのである。
 「こちらは、精いっぱい手をかけ、真心を尽くした。しかし、それでも、退転してしまうケースもあります。それは決して、弘教した紹介者の責任ではありません。
 たとえば、一生懸命に橋を造った人がいる。この橋を渡れば、幸福に至ると教えているのに、渡りかけて、途中で引き返してしまう。それは、渡ろうとしない人が悪いんです。本人自身の問題といえます。
 したがって皆さんは、そうしたことで落胆する必要はありません。仏の使いとしての使命を果たそうと、苦労して折伏をしたという事実は、永遠に生命に刻まれ、功徳の花を咲かせます。自身の幸せへの軌道は、間違いなく開かれているんです。どうか、そのことを強く確信して、新しい気持ちで、晴れ晴れと、勇んで弘教に邁進していってください」
 広宣流布をめざし健気に活動する友の、心の重荷を取り除き、楽しく乱舞できるようにするために、励ましがあるのだ。
 「最後に、愛する、大切な愛媛の皆さんを讃え、歌を贈り、私のあいさつといたします。
  成仏の
    幸の道あり
      妙法の
    千里の山も
      功徳といざ征け」
 伸一は、このあと、「皆さんが喜んでくださるなら」と言って、何曲かのピアノ演奏を行った。
 さらに、役員らと庭に出て記念撮影をし、出発間際まで同志を励まし、午後一時五十分、愛媛文化会館を後にしたのである。
58  法旗(58)
 松山駅から午後二時二十三分発の予讃本線(現在の予讃線)・特急「しおかぜ2号」に乗車した山本伸一は、香川県の高松に向かった。
 車窓には、曇り空の下に、穏やかな瀬戸の海が広がっていた。深い緑に染まった大小の島々が浮かび、一幅の名画のようであった。
 ″さあ、次は香川だ!″
 胸を躍らせながら、伸一は思った。
 ″人生とは、一冊のノートに似ている。日々、ページをめくると、真っ白な新しい空白が広がっている。そこに、力の限り、大叙事詩を書き綴っていくのだ。
 昨日も、今日も、明日も、あの人、この人に、励ましの声をかける。肩を叩き、抱きかかえ、その胸に生命の共鳴音を響かせる。幸福の道を示し、共に歩みを開始する。それが広宣流布だ! それがわが人生だ!″
 同時に伸一は、広布第二章の「支部制」の発足というこの時を契機に、全同志が心を新たにして、自身の人生ノートに、共に勝利の大叙事詩を書き綴ってほしかった。
 彼は、思わず、すべての愛する法友たちに、心で語りかけていた。
 ″私は、見ている。見守っているよ。
 弱ければ、強くなればよい。臆病なら、勇敢になればよい。裸のままの、ありのままの自分でよい。その人が、法旗を手に敢然と立ち上がるからこそ、何よりも尊く、大いなる共感が広がる。困難はドラマの始まりだ。逡巡は挑戦へのステップだ。苦闘は感動を生み出すためにある。胸を張り、腕を振り、勇気の一歩を踏み出すのだ。時は今だ!″
 伸一の瞼に、使命の法旗を翻し、広布第二章の決戦に馳せる師子たちの勇姿が浮かんだ。
 彼は、逸る心で、かつて戸田城聖が詠んだ歌を思い起こしていた。
  旗もちて
    先がけせよと
      教えしを
    事ある秋に
      夢な忘れそ

1
1