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日蓮大聖人・池田大作

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第25巻 「人材城」 人材城

小説「新・人間革命」

前後
2  人材城(2)
 熊本県青年部長の勝山平八郎は、山本伸一に指名され、会館の由来を三行ほど読んだ時、言葉がつかえた。
 「法旗翩翻と」の「翩翻」の読み方が、頭に浮かんで来ないのだ。思い出すまでに、二、三秒かかった。さらに、その数行あとの「聳ゆ」でつまずき、最後の段落の「冀くは」で、また、口ごもってしまったのである。
 読み終わった勝山の額には、汗が噴き出ていた。
 伸一は、勝山に言った。
 「県青年部長が、会館の由来も、朗々と読めないのでは、みっともないよ。県の中心会館となるのが熊本文化会館なんだから、碑文は事前によく読んで、しっかり、頭のなかに刻みつけておくんです。急に言われて、上がってしまったのかもしれないが、そういう努力、勉強が大事なんです。
 戸田先生の、青年に対する訓練は、本当に厳しかった。『勉強しない者は、私の弟子ではない。私と話す資格もない』とさえ言われていた。
 お会いした時には、必ず、『今、なんの本を読んでいるんだ』とお聞きになる。いい加減に、本の名前をあげると、『では、その作品は、どんな内容なんだ。内容を要約して言いなさい』と言われてしまう。ごまかしなんか、一切、通用しませんでした。
 戸田先生が厳愛をもって育んでくださったおかげで、今日の私があるんです。
 青年は、未来のために、どんなに忙しくても、日々、猛勉強するんだよ」
 青年部のメンバーは、全員が創価学会の後継者であり、次代の社会を担うリーダーたちである。ましてや、県青年部長といえば、各県の青年の要である。県の各界の要人と会い、対話する機会も少なくない。
 それだけに伸一は、教養を深く身につけ、一流の人材に育ってほしかった。だから、あえて、厳しく指導したのだ。彼が、熊本に足を延ばした最大の目的も、青年と会い、青年を指導、激励することにあったのである。
3  人材城(3)
 山本伸一は、熊本文化会館で由来の碑の除幕を終え、部屋に入ると、次々に句を詠み、色紙に認めていった。
 そして、ほどなく、県長ら十人ほどのメンバーと懇談会をもった。
 「皆さんに贈るために、句を詠みました。
 『勝城山 広布の万年 築きたり』
 これは、県長の柳節夫さんに贈ります。
 『勝城山』は、熊本文化会館の別名です。勝利、勝利の熊本県にしていってください。
 『妙の華 勝城山に 薫りけり』
 この句は、県婦人部長の福知山昌江さんに贈ります」
 伸一は、さらに、幾つかの句を詠み上げ、色紙を手渡していった。
 「君よ立て 熊本広布に 馬上舞」
 「懐しき わが友光りぬ 勝城山」
 それから、彼は、皆に語った。
 「立派な文化会館が完成しました。いよいよ立派な人材が育っていかねばならない。
 では、学会の人材の要件とは何か――。
 根本的には、生涯、広宣流布のために生き抜く人です。学会と共に、師弟不二の大道を歩み続けていこうと決意し、それを実践している人です。
 しかし、人間の心のなかを見ることはできない。一生懸命に頑張っていたとしても、奥底の一念は、自分が偉くなって権勢を得ようという、野心である場合もあります。
 最悪なケースは、中心幹部が、それを見抜けずに、そういう人たちにおだてられ、乗せられてしまうことです。
 もしも、名聞名利の人や、自分のために組織を利用しようという人物に、学会が牛耳られてしまったら、仏法も、学会の精神も踏みにじられてしまう。これほど、恐ろしいことはありません。
 ゆえに、リーダーは、一人ひとりの奥底の一念を見極めていく眼をもつことです。そして、後輩の根本的な一念が濁ったり、曲がったりしないように、的確に指導し、広宣流布に生き抜く本物の闘士に育てていくんです」
4  人材城(4)
 山本伸一は、熊本の地から、多くの人材が育ってほしかった。それだけに、彼の言葉には、熱がこもっていった。
 「先輩幹部が、後輩の奥底の一念を見極めていくには、自身の生命に濁りがあってはならない。わが生命の鏡が、曇っていたり、歪んでいたりすれば、一人ひとりを正しく見極めていくことはできないからです。結局は、我見になり、自分の好き嫌いで、人を見ていってしまうことになる。
 ゆえに、常に、唱題第一で、わが生命を磨き抜くんです。そして、御本尊に照らし、御書に照らし、広宣流布の師匠の指導に照らして、間違いのない、正しく、清浄無比なる信心を貫いていくんです。
 それでも、人間の奥底の一念は、すぐにはわからないものです。短期間で見極めることは難しいこともある。しかし、一年、二年と、長い時間をかけて見ていればわかります。
 どんなに表面を装っていても、ふとした時に、驚くような傲慢極まりない言動や、怠惰な態度が出てしまうものだからです。
 また、人が見ていない時に、何をしているかに、その人の本質が現れます。
 ともかく、人材の根本要件を、一言でいえば、″労を惜しまず、広宣流布の師弟の道に生き抜く人″ということです」
 人材のとらえ方には、さまざまな角度がある。真面目、誠実、情熱的、忍耐強いなどといった性格的な面からの見方もある。また、弁が立つ、行動力がある、感性が豊か、創造性がある、優れた技能をもっているなど、能力面からの評価もある。さらに、社会的な地位や立場、学歴、経済力等々の観点もある。
 しかし、どんなに優れた能力をもち、社会的に高く評価される立場にあったとしても、信心の一念という根本が揺らいでいたのでは、広宣流布の本当の人材とはなり得ない。
 奥底の一念を、″広宣流布のため″という大目的に定めてこそ、性格も、能力も、地位も、すべてが生かされ、人びとの幸福実現のための大きな力となるのである。
5  人材城(5)
 山本伸一は、皆に視線を注ぎながら、言葉をついだ。
 「しかし、入会した時から、広宣流布のために生きようと決意している人は、ほとんどいないでしょう。皆さんも、最初は、経済苦や病苦などの悩みを解決したくて、信心をしたはずです。つまり、多くの人は、自分のことばかり考えて信心を始めたといえます。
 でも、先輩から、『広宣流布に生き抜くなかに自他共の幸福があり、しかも、そこにこそ、最高の幸福、最高の歓喜の人生がある』と教えられ、一生懸命に信心に励むなかで、それを実感してきたんでしょう。
 同様に、今度は皆さんが、広宣流布の大願に生き抜こうという、決定した信心の人たちを育てていくんです。それが、先輩幹部の使命であり、人材育成なんです。
 そのためには、まず、皆さんが、″広宣流布こそ、わが人生″と定め、その一念を赤々と燃やして、同志を触発していくことです。
 ともあれ、信心大学の優等生こそが、最高の人材であることを忘れないでください」
 彼は、県の幹部らとの懇談会を終えたあと、館内や会館の庭を回った。会館の職員をはじめ、会う人ごとに言葉をかけたり、一緒に記念撮影するなど、激励を重ねた。
 また、ピロティに置かれた熊本県の立体地図の前で、県長の柳節夫から説明を聞くと、伸一は語った。
 「この県中の人びとに、どうやって信心を教え、幸せにしていくのか――幹部は、そのことを常に考え、悩み、祈っていくんです。
 柳さんは、五十代になったと思うが、自分の老後の安泰を第一に考えるのではなく、広宣流布を根本に考えていくことが大切です。
 それが、県の最高責任者の使命なんです。県の人びとの幸福の実現のために、県長として本気になって戦うならば、自分を超え、大きく境涯を開いていくことができます」
 広宣流布に生きるとは、大きく利他の翼を広げることだ。そして、使命の大空に羽ばたく時、自身の境涯の飛躍があるのだ。
6  人材城(6)
 山本伸一は、午後七時半過ぎからは、会館二階の屋上に造られた庭園で、女子部の職員らと懇談会をもった。
 彼は、一人ひとりに、ねぎらいの言葉をかけたあと、結婚について語っていった。
 「結婚の時期というのは、人によって違います。早く結婚する場合もあれば、晩婚の場合もあるでしょう。人それぞれの人生があります。周りの人たちが結婚したからといって、焦る必要はありません。
 女子部時代には、将来、どんなに大変なことがあっても、決して負けない自分自身をつくっておくことが大切なんです。
 若い女性の多くは、恋愛をしている時には、愛する人と結婚さえすれば、幸せになれるように思っているかもしれない。しかし、そんなものではありません。
 結婚してしばらくすれば、一時の恋愛感情も冷め、互いの欠点もよく目につくようになるでしょう。さらに、ご主人が仕事で行き詰まることもある。また、病に倒れたり、不慮の事故に遭遇したりすることもあるかもしれません。自分が、そうなってしまうこともあります。あるいは、生まれてきた子どもさんが、病気ということもあるかもしれない。
 皆、さまざまな宿業をもっていますから、何があるかわからないのが人生なんです。ですから、若い時代に、福運をたくさん積み、宿命の転換に励むとともに、何があっても負けない心の強さを培うことが大事になる。そのための信心なんです」
 伸一は、女子部員は、一人も残らず、幸せになってほしかった。だからこそ、生涯、学会から、信心から離れることがあってはならないと、愛娘を諭すような思いで、訴えたのである。
 「戸田先生は、常に、『女子部は教学で立ちなさい』と言われていた。それは、幸福になっていくためには、生命の法理に立脚した人生の哲学が不可欠だからなんです。また、本当の意味で、女性が人間として自立していく道が、そこにあるからなんです」
7  人材城(7)
 かつて、女性は、幼い時は父母に従い、結婚してからは夫に従い、老いてからは子に従うべきであるとされていた。
 近代の女性たちは、そうした服従の綱を断ち、自立の道を歩もうとしてきた。「女性の世紀」を展望するうえで大事なことは、その自立の道が、真の幸福の道へ直結していくことであろう。
 本当に一つ一つの物事を自分で考え、判断しているだろうか。周囲の意見や、流行、大勢などに従ってはいないか。それが、何をめざし、どこに向かっていくかを深く考えることもなく、ただ、みんなから遅れないように、外れないようにと、必死になって追いかけて、生きてはいないだろうか。
 本当の幸福は、自分で創り上げていくものだ。誰かから与えられるものではない。自分の外に求めた幸福は、時とともに、いつか崩れ去ってしまう、束の間の幸福である。
 幸福になるには、「幸せとは何か」を明らかにした「哲学」が必要になる。「哲学」というのは、生き方の根本となる考え方である。
 日蓮大聖人は、教えてくださっている。
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり
 お金も必要であろう。健康や技能も大事である。しかし、最も大切なのは、心の財、つまり、強く、豊かな心だ。
 また、″なぜ、自分の人生は、苦悩ばかりが続くのだ。あまりにも不公平だ″と、暗雲を仰ぐ思いで宿命を嘆く人もいよう。
 仏法では、生命の因果の理法によって、その原因を明快に説き示している。
 過去世からの自身の言動や心が、宿業を形成する。そして、現在の自身の生き方が、未来を決していく――と。
 さらに、日蓮仏法では、過去の宿業を今生で転換し、絶対的幸福を築く直道を明かしているのだ。しかも、自身のあらゆる「宿命」は、それを転換して幸福の実証を示し、人びとに希望と勇気を与えるための、尊き「使命」となることを教えているのである。
8  人材城(8)
 戸田城聖は、女子部員が、いかなる試練にも負けない自己を築き、本当の幸福を実現していくために、生命の哲学を身につけさせたいと念願して、「女子部は教学で立ちなさい」と訴え続けてきたのである。
 山本伸一は、熊本文化会館の月下の庭園で、女子職員らと語り合いながら、活動の在り方についても、アドバイスしていった。
 「女子部の活動は、明るく、楽しく、賑やかにやっていくんだよ。鎧を着て、まなじりを裂き、決戦に臨むような悲壮な感じでは、誰もついてきません。
 皆さんは、女子部のリーダーなんだから、どうすれば、みんなが生き生きと、積極的に頑張れるかを考えていくんです。組織の第一線で活躍している若いメンバーの意見も、よく聞いてください。十年前、二十年前のやり方を踏襲していく必要はないんです。
 学会の根本精神は、どんなに時代が変化しても、変わってはなりません。その根本精神とは、万人の幸福を実現するために、生涯、何があろうが、学会から離れず、広宣流布の尊き使命を果たし抜いていく心です。
 しかし、活動形態などは、時代とともに、また、世代によって、当然、変化していかなくてはならない。時代も、人の感性も変わってきているんですから」
 女子職員の一人が、伸一に尋ねた。
 「二十代前半で女子部の幹部に登用されると、自分より年上の部員さんが多いケースがよくあります。その場合、年長の人に対して、どう指導していけばよいでしょうか」
 伸一は、女子職員の求道心あふれる質問が嬉しかった。
 「女子部の幹部になったからといって、高みから、人に何かを教えようなどと考える必要はありません。むしろ、その考えは間違いです。背伸びなどする必要はありません。
 自分の担当した部員さんとは、お友だちになり、友情の花園を広げていけばいいんです。年長の相手には、妹のように接していけばいいではないですか」
9  人材城(9)
 山本伸一は、女子職員に、かんで含めるように語っていった。若い女性リーダーが、自信をもち、はつらつと活動に励めるように、精いっぱいアドバイスしたかったからだ。
 「同じ女子部員でも、相手が何歳も年長だと、共通の話題もなく、話がかみ合わない場合もあるかもしれない。
 そういう時には、自分の知らないことを、謙虚に教えてもらうんです。相手の人が社会で活躍している人ならば、どうやって努力してきたかを聞いてもいいでしょう。ファッションの感覚に優れた人であれば、センスの磨き方について尋ねることもいいでしょう。
 ところで、皆さんは、『激励』というのは、年長者が、年少の人に対して行うものであるかのように、思い込んでいませんか」
 伸一が言うと、皆が頷いた。
 「それは違います。たとえば、母親が『ママ、頑張ってね』と子どもに言われて、元気を得ることもあります。これも、子どもによる『激励』『励まし』です。
 つまり、『激励』は、決して年長者からの一方通行ではなく、世代、立場を超えて、双方から発信できるんです。若い人が、先輩や年長者を励まし、奮い立たせることもできます。
 人柄や能力、生き方の姿勢など、相手のすばらしさを賞讃することも、大きな励ましになります。
 職場で大事な責任を担い、懸命に働いている相手であれば、『すばらしいですね。私たち女子部の誇りです。私も、そうなれるように頑張りたいと思います』と、率直な尊敬の気持ちを伝えることもいいでしょう。
 人間は、たとえ、自分より年下の人であっても、″いつも自分のことを思ってくれ、一生懸命に励ましてくれる″″信頼し、尊敬してくれている″という人がいれば、嬉しく、力強いものです。
 人間は、人との絆のなかで、勇気を得るし、希望を得ていきます。その麗しい励ましの絆を、社会の隅々にまで広げていくのが、広宣流布ともいえます」
10  人材城(10)
 女子職員たちは、山本伸一の言葉に、一つ一つ大きく頷きながら、耳を傾けていた。
 「女子部の若いリーダーの人も、年長の部員さんから信頼されるようになれば、悩みごとを打ち明けられたりもするでしょう。
 豊富な人生経験がなければ、適切なアドバイスができない問題に出くわすかもしれません。その時には、女子部の先輩幹部や、経験豊かな婦人部の幹部に会わせ、相談にのってもらうことが大事です。
 いろいろと苦労もあるでしょうが、学会活動で、多くの人と会っていくなかで、さまざまなことを学び、体験し、視野を広げていくことができます。自分の世界が広がっていくから、学会活動は楽しいんです」
 伸一は、未来を託す思いで、さらに語った。
 「皆さんは、新時代のリーダーです。したがって、皆さんに、新しい時代の、新しい幹部像をつくっていってほしいんです。
 これまで、幹部というと、″号令をかける人″との印象があったかもしれない。しかし、これからは、そうではありません。活動を発表するだけでなく、″自ら率先垂範で、何をすべきかを示していく人″が、新時代のリーダーです。
 たとえば、みんなに『仏法対話をしましょう』と訴えて終わるのではなく、自分が真っ先に行動を起こして、『こうやって実践しています』と語っていくことが重要なんです。
 失敗も語ってください。結果は実っていなくとも、挑戦の苦闘と喜びを、ありのままに語り、頑張り続けていくという決意をぶつけていくんです。
 そうすれば皆が、″それなら、私にだってできる。私も挑戦しよう″という思いをいだいていきます。一生懸命で、健気な姿勢に、人は、世代を超えて共感するんです。ありのままの自分、等身大の自分でいいんです」
 熊本県の女子職員が、そろって伸一と懇談するのは、初めてであった。伸一は、一人ひとりを知り、未来の大成のために、発心の種子を植えておきたかったのである。
11  人材城(11)
 翌五月二十八日の午後、熊本文化会館の開館記念勤行会が、晴れやかに開催された。
 勤行会のあいさつで山本伸一は、学会活動は、「自身の信心の歓喜と福運を増すための運動」であると述べた。そして、学会活動に対しては、義務的な心ではなく、権利ととらえて、決意と喜びをもって、勇んで取り組んでいくことの大切さを強調した。
 「広宣流布の主体者になることこそが、福運を増す要諦なのであります。ゆえに、″守られる側から、同志を守る側になろう″″受動から能動の姿勢に立とう″とするなかに、大聖人につながる信心の確立があることを、私は訴えておきたいのであります」
 次いで彼は、熊本県創価学会にとって、今後の重要なカギは、「人材の育成」にあるとして、どうすれば、人材を育てることができるかについて言及していった。
 「人材は、自然に育つものではありません。人材を育成しようとする先輩幹部の、誠意あふれた行動によってのみ、後輩たちの、人材たろうとする使命の自覚がなされていきます。人間を育むのは、どこまでも人間です。″ここまで、自分を信頼し、期待してくれているのか!″″ここまで、自分のことを思い、尽くしてくれるのか!″という、熱い真心に触れて、使命に生きようという意志力が燃え上がるんです。
 また、組織を運営する際にも、使命を自覚した一人ひとりの力を、身近なところで最大限に発揮させる配慮を、忘れないでいただきたい。先輩幹部は、″どうすれば人材の活躍の場をつくれるのか″を、常に、一生懸命に悩み考えていくことが大事なんです。
 先輩幹部の真剣と誠実、そして、こまやかな配慮があってこそ、陸続と人材が輩出されていくんです。
 どうか、熊本県の皆さんは、今後は『人材の熊本』を合言葉として、幹部自らが″人材になろう! 人材をつくろう!″と、強い祈りと持続の実践をもって、多くの逸材を育んでいってもらいたいのであります」
12  人材城(12)
 山本伸一は、さらに、「広宣流布は、長途の旅ゆえに、健康に留意し、リズム正しい信心即生活の日々であれ」と訴えた。
 「健康増進のためには、″健康になろう″″健康であろう″と決め、日々、朗々と唱題し、満々たる生命力を涌現させて、勇んで活動に励むんです」
 ロマン・ロランは、小説のなかで、主人公に「奮闘するのが僕の健全な生活です」と語らせている。奮闘が元気を生む。
 皆の健康を願いつつ、伸一は話を続けた。
 「そして、食事、睡眠、運動などに、留意していくことが、健康のためには必要不可欠です。当然、暴飲暴食や深夜の食事は控えるべきですし、必要な睡眠時間を確保するとともに、熟睡できる工夫も大事です。
 また、生活のなかに運動を上手に取り入れて、体を鍛えていくことも必要です」
 初代会長・牧口常三郎は、七十歳を過ぎても、国家権力の弾圧で投獄されるまで、元気に、広宣流布のために奔走してきた。彼は、心身の鍛錬を怠らなかったのである。
 牧口会長の時代、夏には、静岡県の総本山で、「創価教育学会修養会」の名称で研修会が行われてきた。朝は、皆でラジオ体操を行った。研修会期間中、白糸の滝までの遠足もあった。牧口は、数キロの道のりを下駄履きで、先頭に立って歩いた。若者にも負けない、速い歩き方であった。
 彼は、白糸の滝に着くと、衣服を脱ぎ、滝壺の冷水の中に入った。皆も続いたが、冷たくて、足首まで入っただけで出てきた。しかし、牧口は、悠々と首まで漬かっていた。
 彼は、若い時から、歩きに歩き、冷水に体を慣らすなど、日々、体を鍛え続けてきたのである。
 風邪も、ほとんどひいたことがなかった。それも、長い鍛錬の蓄積によるものであろう。
 急に同じことをすれば、体に支障をきたしかねないだけに、不用意にまねるべきではない。しかし、老化の防止のために、自分にあった方法で体を鍛えることは必要である。
13  人材城(13)
 山本伸一は、場内を見渡しながら語った。
 「健康は、基本的には、自分で守り、自分で管理するしかありません。最終的には、自己責任です。自分の体のことを、いちばんよくわかるのは、自分であるともいえます。
 健康を創造することは、自身の人生の価値を創造することにつながります。
 しかし、健康に留意していても、生身の人間ですから、一定の年齢になると、誰でも体のどこかに故障が出てくるものです。そうした場合には、さらに体調管理に努め、よく休養をとりながら、長寿の人生を全うしていただきたい。
 また、″無理をしても、信心しているんだから……″という安易な考えで、非常識な行動をし、生活のリズムを崩し、体を壊すようなことがあっては、絶対になりません」
 最後に、伸一は、「皆さんのご健康、ご長寿を、毎日、妻と共にご祈念申し上げております」と述べ、あいさつを結んだ。
 話のあと、皆のために何曲もピアノを弾いた。ピロティでは、男子部の役員や高齢者、子どもらと、次々に言葉を交わし、記念のカメラに納まっていった。
 全国、全世界、どこへ行っても、伸一の行動は変わらなかった。ただ、ただ、人と会い、人を励ます。力の限り、命の限り、全精魂を注いで励ます。そして、人びとの心に、希望の光を送り、勇気の火をともす――そのために、自分にできることはなんでもした。
 ″皆には、少しでも休んでもらおう。その分、私が働こう。常在戦場のわが人生だ!″というのが伸一の覚悟であった。
 学会歌の指揮も執った。何百人と握手も交わした。手はしびれ、指は感触を失った。山と積まれた色紙や書籍に揮毫もした。腕が疲れ、あがらなくなったこともあった。記念撮影も数知れなかった。フラッシュを浴び続けたためか、目もいためた。
 そうせずしては、全国、全世界に広がった一千万人になんなんとする同志と、心を結び合えるわけがない。
14  人材城(14)
 熊本文化会館の開館記念勤行会が行われた二十八日の午後五時過ぎから、山本伸一は、本部長ら四十人ほどとの懇談会に出席した。会場は、学会員が営む食堂であった。
 最初に、トンカツ定食に舌鼓をうち、それから、伸一を囲んで語らいが始まった。
 一人の婦人が報告した。
 「益城本部の本部長・坂上良江です。
 昭和三十三年(一九五八年)十一月十六日に、山本先生は、初めて熊本県を訪問され、熊本市内の体育館で行われた、熊本支部結成大会に出席してくださいました。
 その時、先生は、長崎県の島原から船に乗られて三角港に着かれ、三角駅から列車で熊本駅に向かわれました。その三角が、わが本部内にあります。先生の熊本県訪問の第一歩が三角であることが、私たちの誇りです」
 伸一は、懐かしそうに笑みを浮かべた。
 「よく覚えています。港には、熊本支部長になった野瀬栄治さんたちが迎えに来てくれていた。列車が出るまでの時間を使って、旅館を営んでいる学会員のお宅を訪問しました。一人でも多く、同志を励ましたかったんです。
 そのころの三角駅は、小学校の校舎のような木造の駅舎でした。私は、駅で、列車を待つ間、″戸田先生なら熊本の同志を、なんと言って励ますか″と、真剣に考え続けていたんです。
 先生は、『熊本に行きたい』と言われていたが、実現できずに、この年の四月に亡くなられた。だから、″戸田先生に代わって、私が熊本へ行こう! そして、皆が、心から歓喜、感動し、決意を新たにする支部結成大会にしよう″と、心に決めていたんです。
 それだけに、必死でした。師をしのぐ戦いができてこそ、本当の弟子なんです。師が指揮を執っていた以上に、広宣流布を前進させてこそ、令法久住なんです。その勝利のなかに、師弟不二があるんです」
 それは、恩師の逝去から、七カ月後のことであった。当時、学会の一切の責任は、事実上、三十歳の伸一の双肩にかかっていたのだ。
15  人材城(15)
 坂上良江は、さらに山本伸一に語った。
 「三角駅などのある地域は、三角総ブロック(現在の支部)になっております。
 メンバーは、先生が三角港に着かれ、熊本県への第一歩を印された十一月十六日を、『三角の日』と決めて、頑張っています。
 毎年、この日には、地域の皆さんに呼びかけ、セミナーなどを開催してまいりました。
 また、先生がご訪問された当時、三角駅にあった長イスを、地元のメンバーがもらい受けて、大切に保存しております」
 この長イスをもらい受けてきたのは、三角総ブロックの総ブロック委員(現在の支部婦人部長)をしている佐々井ユリであった。
 彼女は、三角の出身であったが、結婚して長崎県の佐世保に移り住み、一九五六年(昭和三十一年)に入会した。
 夫は、六二年(同三十七年)に、四人の子どもを残して他界する。彼女は、やむなく実家のある三角に戻り、会社勤めをしながら、子どもを育てた。自分の宿命を信心で転換しようと、学会活動にも懸命に取り組んだ。
 三角で活動に励むなかで、佐々井は、この地こそ、伸一が熊本県訪問の第一歩を踏みだした場所であることを知った。感激に胸が高鳴るのを覚えた。やがて、彼女は、三角総ブロックの総ブロック委員になる。
 ″わが総ブロックは、いわば、熊本広布の黄金の歴史を刻んだ地なんだ。この自覚と誇りを、三角の全同志の胸中に打ち立て、学会模範の総ブロックをつくろう!″
 そう決意した佐々井は、三角港で伸一を迎えた人たちから話を聞いて、その感動を皆に伝えた。また、伸一の三角訪問の縁となる何かがほしいと思った。
 駅を訪ねてみると、伸一の訪問時に、駅舎で使われていた長イスが廃棄処分されることになり、倉庫に置いてあることがわかった。彼女は、それをもらい受けたのである。
 この長イスは、三角総ブロックの宝となった。皆が、この長イスを見ては、熊本広布への伸一の思いを偲び、互いに鼓舞し合った。
16  人材城(16)
 山本伸一は、本部長の坂上良江から、三角のメンバーの話を聞くと、彼女に言った。
 「三角の同志と私は、お会いできなくとも、心は一緒です。私は、三角のことを忘れません。私の一念に、深く刻まれています。また、皆さんの心には、私がいます。
 私と一緒に、広宣流布への決意を新たにし、頑張ろうとしてくれている。それは、日々、私と、心で対話していることです。
 私と戸田先生もそうです。毎日、常に、心で戸田先生と対話しながら戦っています。私の心には、いつも、先生がいらっしゃる。
 私の基準は、御書であり、それを実際に身で読まれ、実践されてきた戸田先生です。
 ″こういう時、先生ならどうされるか″″自分の今日の行動は、先生のご精神にかなったものであるのか″″先生が今の自分を見たら、喜ばれるか、悲しまれるか″
 そして、″必ず、先生にお喜びいただける勝利の戦いをしよう″と、自分を鼓舞してきたんです。それが、私の勇気の源泉です。常勝の原動力なんです」
 師弟不二とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心に厳として師匠がいることから始まる。いくら″師弟の道″を叫んでいても、自分の心に師匠がいなければ、もはや、仏法ではない。
 師匠を、″自分の心の外にいる存在″ととらえれば、師の振る舞いも、指導も、自身の内面的な規範とはならない。そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の″目″や″評価″が行動の基準となってしまう。
 そうなると、″師匠が厳しく言うから頑張るが、折あらば手を抜こう″という要領主義に堕していくことになりかねない。そこには、自己の信心の深化もなければ、人間革命もない。
 もしも、幹部がそうなってしまえば、仏法の精神は消え失せ、清浄なる信仰の世界も、利害や打算の世法の世界になってしまう。
 己心に、師弟不二の大道を確立するなかにこそ、令法久住がある。
17  人材城(17)
 山本伸一は、三角のメンバーが、十一月十六日を「三角の日」と決めて頑張っていることを聞き、学会の記念日の意義について語っていった。
 「学会としても、さまざまな記念日を定めていますが、大事なことは、その淵源に立ち返り、歴史と精神を子々孫々にまで伝え、毎年、新しい決意で出発していくことです。
 ただ、勤行会などを開けばよいという感覚になり、決意の共有も、感動もなければ、それは、既に形骸化、儀式化し、惰性化しているということになります。
 多くの既成仏教の儀式は、そうなっていますが、私たちは、永遠に、その轍を踏んではならない。
 学会の儀式は、広宣流布への決意を確認し合い、新しい出発を誓い合う、信心、精神の触発の場です。
 そのためには、各記念日の淵源を、しっかり学ぶことも大事でしょう。これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味をもつんです。
 その点からも、私が訪問した日を記念してセミナーを開き、地域広布を大きく推進させようとしている三角の皆さんは、すばらしい。そこに本当の記念日の精神があります」
 伸一は、本部長の坂上良江に言った。
 「三角の皆さんの健闘を讃えて、記念に一文をお贈りしましょう。三角一帯は、なんという地域になりますか」
 「宇土半島です」
 伸一のペンが、用意していた色紙の上を走った。
 「忘れまじ
 秋 十一月十六日
 宇土半島の友どちの
 心と心の絆
 あゝ忘れまじ」
 色紙を受け取った坂上は、涙で目を潤ませた。懇談会の参加者たちは、伸一と三角の同志の、″黄金の絆″を見る思いがした。心は見えない。しかし、心はつながる。
18  人材城(18)
 懇談会で、婦人部の阿蘇本部長の村野ヒロミが、山本伸一に報告した。
 「私は、熊本市内に住んでおりますが、派遣で阿蘇を担当しております。阿蘇にもスズランが咲いています」
 彼女は、主に北海道や中部地方以北の本州に咲くスズランが、九州の阿蘇にも咲いていることを伝えたかったのである。
 しかし、伸一は、スズランのことには触れずに、彼女の自宅から阿蘇の担当地域まで、どのくらいの時間がかかるのかを尋ねた。
 「車で、片道二時間ほどです」
 すると伸一は、車の車種や排気量、性能、そして、車のローンのことなどについて、矢継ぎ早に質問していった。毎日のように通うだけに、足となる車の安全性や、経済的な面について、確認しておきたかったのである。
 人こそが、学会の最高の財産である。ゆえに伸一は、皆が絶対に交通事故などを起こすことがないよう、常に、細心の注意を払っていたのだ。
 伸一は、車についての村野の話を聞くと、笑顔で言った。
 「それなら、大丈夫だね。安心しました。無事故で、使命の天地で頑張ってください」
 さらに、県北に位置する玉名の本部長を務める原谷永太が自己紹介した。
 年齢は四十歳で、建築業を営む、がっしりとした体格の壮年であった。十人きょうだいのうち、六人が総ブロック幹部以上の立場で活躍してきたという。
 伸一は尋ねた。
 「お仕事の方は大丈夫ですか」
 「今は、本当に順調にいっております。
 実は、六年前に、父親が千五百万円を超える借金を残して、夜逃げをいたしました。
 その時は絶望の淵に立たされましたが、信心を根本に、工務店を営んでいる二人の弟と協力して、全額、返済することができました。それによって、仏法に対する絶対の確信をつかみました。今は、むしろ、父親に心から感謝しています」
19  人材城(19)
 一九七一年(昭和四十六年)九月、工務店を経営する原谷永太のもとに、父親の借金の連帯保証人になっていた叔父がやって来た。父親が姿を消したというのである。
 父親も工務店を営んでいたが、瓦生産の事業にも手を出して失敗していた。しかし、長男の永太をはじめ、次男の正太、三男の正輝が、負債の返済のために、経済的な支援をしてきた。二人の弟も工務店を経営していた。
 借金は、完済間近のはずであった。
 叔父は、「親父は、借金が払えんで逃げたんじゃなかか?」と、永太に言った。
 ″そんなことは、絶対にない″と思った。
 永太は、すぐに二人の弟を呼んだ。兄弟で話し合ったが、父親が逃げ出す理由など、全く思い浮かばなかった。
 ところが、父親の失踪を知って、次々と取り立てに来た業者や銀行の担当者に借用書を見せられ、三人は青ざめた。残りの借金は、総額千五百万円を超えていたからだ。
 しかも、叔父だけでなく、父の友人も連帯保証人になっていた。父親が借金を返済しなければ、その人たちに迷惑がかかってしまう。
 結局、わかったことは、月々の支払いに追われ、焦った父親が、赤字の仕事も請け負ったため、借金がふくらみ続けていたということであった。
 父親は、信心に反対してきた。しかし、兄弟三人は、壮年部と男子部の幹部である。彼らは、″あの一家は学会員なのに!″という批判の声が広がることが耐えがたかった。
 「学会の先輩に、指導ば受けに行こう!」
 永太が言った。三人で車に乗り、熊本会館に向かった。皆、黙っていた。言葉はなくとも、互いの胸の内はよくわかった。
 父親は、勝手に事業に手を出した揚げ句、借金を残して逃げてしまった。その父への憤怒を、必死にこらえているのだ。
 ″信心の邪魔ばっかして、今度は、家族ば裏切った! 許せんばい!″
 三兄弟は、同じ気持ちであった。
20  人材城(20)
 原谷の家は貧しかった。子どもは、長男の永太を頭に三男四女で、上三人が男だった。家は掘っ立て小屋同然で、屋根は杉の皮を敷いただけだった。雨が降ると畳を上げ、破れた布団を体に巻いて、壁にもたれて寝た。
 父親は、大工をしていたが、儲けた金のほとんどは酒代に消えた。毎日、外で酒を飲んでは酔いつぶれた。兄弟三人で、酔いつぶれた父親を、リヤカーで家に連れ帰るのが、幼少期からの日課だった。
 三兄弟は、中学生の時から父の仕事を手伝わされた。口答えをしようものなら、げんこつの雨が降る。「大工は、勉強なんか、せんでよか!」というのが、父親の口癖だった。兄弟の進路は建築関係と決められており、永太は中学を出ると、父のもとで働いた。
 彼が十七歳の時、母親が心臓麻痺で他界した。母は喘息で苦しんできた。医師は、「発作を止めるために打っていた注射が、心臓に負担をかけたんだろう」と言った。
 ほどなく永太は、福岡県・八女の工務店に修業に出た。昼は工務店で働き、夜は建築学校の定時制に通った。給料は授業料以外、家への仕送りに充てた。
 母親が亡くなった翌年、父親は再婚した。十人を超す大家族になった。その結婚式のために、父親は永太の工務店の社長に掛け合い、半年分の給料を前借りした。永太は授業料が払えず、結局、建築学校を中退した。
 やがて永太は、父親に言われて、実家に戻り、父が始めた工務店を手伝った。父親は、従業員の紹介で、創価学会に入会していた。
 永太のもとへ、学会の青年が仏法対話に通うようになった。永太も母親同様、子どものころから喘息に苦しみ、発作で何度も死ぬような思いをしてきた。
 青年は、自身の体験を語り、「君の病は、必ず克服できる!」と言い切る。その確信に打たれ、一九五七年(昭和三十二年)三月、永太は入会した。二十歳の時である。
 友の迷いの暗雲を打ち破る力は、体験に裏打ちされた確信の言葉である。
21  人材城(21)
 原谷永太は、仏法で病を克服できるものならと、真剣に信心に励んでみた。入会して半年ほどしたころ、喘息の発作が、起こらなくなっていることに気づいた。
 ″こぎゃんこつがあっとか。信心はすごか″
 その事実と喜びを伝えたくて、親戚、友人に仏法を語っていった。
 歓喜こそ弘教の原動力である。功徳の喜びは、おのずから人に語りたくなる。弘教は正法を持った人の、自然の振る舞いといえる。
 永太に言われ、次男の正太や妹たちも入会した。永太と正太は、学会活動に参加するなかで、自分の小さな世界が、大きく開かれていくのを感じた。
 それまで彼らは、″俺たちの人生は、誰にも気づかれず、道端で、いつの間にか枯れていく、草のようなものだ″と感じていた。およそ、「大志」や「理想」とは、無縁な一生にちがいないとの思いがあった。
 しかし、学会の会合に出ると、先輩たちは、「われわれには、新しき世紀を開き、次代の大指導者になる使命がある!」「自らに秘められた無限の可能性を開くのが仏法だ!」と、声を大にして訴えるのである。
 周囲にいるのは、泥がついた作業服姿の農家の青年や、油の臭いが染みついたジャンパーを着た工場勤めの青年たちである。背広を着て、ネクタイをしている人は少なかった。
 でも、皆が、燃えていた。火傷しそうなぐらいの熱を放ち、目を輝かせ、頬を紅潮させて、「人びとの不幸ば見過ごすわけにはいきまっせん。広宣流布の使命に生き抜いていきます!」と決意を披瀝するのだ。
 また、皆の語る体験は、仏法の偉大さを痛感させた。唱題第一で闘病生活に打ち勝ち、結核を克服したという人もいれば、裸一貫から身を起こし、工場を経営し、地域に大きく貢献している人もいた。原谷兄弟は、「希望」を感じた。「勇気」を覚えた。
 人間は、自分を信ずることができれば、無限の力が湧く。蘇生もできる。そのための生命触発のスクラムが創価学会なのだ。
22  人材城(22)
 一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山本伸一が第三代会長に就任した。
 ″青年会長の誕生だ! 新時代の到来だ!″
 学会中に歓喜の波動は広がり、熊本の地にも及んだ。原谷永太も、正太も、決意を新たにして、弘教に走った。三男の正輝も入会した。三人は、山本伸一の弟子として、社会、地域を担い立つ″信頼の柱″になる自分をつくろうと、懸命に学会活動に励んだ。
 すると、最初に入会した父親が、信心に反対し始めた。
 「信心で飯は食えんけん! 学会活動なんかすんな! 毎日、夜まで働け!」
 父親は、息子たちに、給料は、ほとんど払わず、深夜まで残業させた。
 学会を目の敵にするようになった父のもとで、三兄弟は、互いに助け合いながら、代わる代わる学会活動に参加した。
 六三年(同三十八年)、原谷永太は、北熊本支部の男子部の責任者になり、二人の弟も、地元組織の男子部の中核に育っていった。しかし、父が無理解のため、思うように活動できないことが、何よりも辛かった。出席すべき大事な会合に出られず、悔し涙を流したこともあった。永太は思った。
 ″親父の工務店がどぎゃんなろうが、もう、俺の知ったことじゃなか。家ば出て、独立しよう″
 しかし、学会の先輩に相談すると、その考えの非を正された。
 「今、家を飛び出したら、君の負けだと思う。苦労から逃げ出すだけじゃないか。
 もし、後輩から、『親が信心に反対なんですが、どうすればいいでしょうか』と相談されたら、君はなんと言うんだ。『逃げ出しなさい』と言うのかい。物事には、いろいろな選択肢があるだろう。しかし、絶対に忘れてはならないのは、逆境のなかで戦ってこそ、本物の人材に成長できるということだよ。
 お父さんには、君自身の行動、生き方を通して、信心の力を示していくんだよ。それが君の使命だよ」
23  人材城(23)
 原谷永太は、父親が信心に反対するだけでなく、仕事でも理不尽で身勝手なことが、腹に据えかねていた。毎日が、爆発しそうになる怒りとの闘いであった。
 辛い思いをしているのは、永太だけでなく、弟の正太も、正輝も同じだった。
 しかし、彼らは耐えた。
 「忍耐は能力である」とは、スペインの大建築家ガウディの卓見である。
 原谷三兄弟は、苦しさ、悔しさで、いたたまれない気持ちになると、バイクを駆って、田原坂に行った。
 田原坂は、一八七七年(明治十年)、西南戦争で、政府軍と西郷隆盛が率いる鹿児島士族らとの、激戦が展開された場所である。
 原谷三兄弟は、坂の上にバイクを止め、眼下に広がる緑を眺めながら、「田原坂」の歌を歌った。第二代会長の戸田城聖も、また、会長の山本伸一も、よくこの歌を歌い、舞ったと聞かされていたからだ。
 雨はふるふる 人馬はぬれる
 越すにこされぬ 田原坂
 声を合わせて何度も歌った。歌ううちに、悠々と舞を舞う伸一の雄姿が思い描かれ、暗く沈んだ心が晴れ、勇気が湧くのを覚えた。
 永太は、弟たちに言った。
 「山本先生も、青年時代、戸田先生の事業の再建のために、多忙を極めるなか、苦労に苦労を重ねて学会活動ばされたと伺った。
 しかも、先生は、胸を病んでおられて、連日、発熱と闘い、事業の活路を切り開かれた。
 俺たちも、負けるわけにはいかん。みんなで力を合わせて、地域の広宣流布の礎ば築こう。そして、親父の会社も発展させよう」
 兄と二人の弟は、目と目を見つめ合い、頷き合った。
 彼らは、戦った。一歩も引かなかった。烈風に帆を揚げる船のように、広宣流布の大海原へ、勇んで船出していったのである。
24  人材城(24)
 原谷家の兄弟姉妹は、皆、懸命に信心に励んだ。やがて、長男の永太をはじめ、次男、三男、長女、次女、三女も、男女青年部の支部の責任者として活躍するようになった。
 また、父親の了承を得たうえで、三兄弟は、それぞれ独立し、店をもつようになった。彼らは希望の光に包まれ、学会活動にも一段と力がこもっていった。
 一方、父親は、工務店のほかに、瓦生産の事業にも着手した。
 だが、ほどなく事業は失敗してしまった。三兄弟は、その借金の返済にも、協力を惜しまなかった。
 ″それなのに、親父は……″
 父親の失踪に、彼らは、憤りと情けなさをかみ締めながら、先輩幹部に指導を受けようと、車で熊本会館に向かったのだ。
 熊本会館には、折よく九州方面の壮年幹部が来ていた。原谷三兄弟は、かいつまんで現在の窮状と、そのいきさつを語った。
 「大変だな。それで今、君たちは、どういう一念で祈っているんだい」
 長男の永太が、率直に語った。
 「『もう、親父のことは許さんぞ!』と思いながら、祈っています」
 九州の幹部は、厳しい口調で言った。
 「君たちは、何を考えているんだ! なんのために信心をしているんだ! 信心の眼を開いて考えてみるんだ!
 どんな父親であれ、親父さんがいたからこそ、君たちは、この世に生を受け、大きくなり、御本尊に巡り合うことができたんじゃないか。その恩を感じているのか!
 今、親父さんが、どれだけ辛い思いをしているか、考えたことがあるのか。誰よりも苦しんでいるのは、親父さんだよ。逃げて、身を潜めている暮らしが、幸せなわけがないじゃないか。怯えと不安にさいなまれ、死ぬほど、苦しんでいるはずだ。
 それでも君たちは、『親父を許さん!』と、御本尊に祈るのか!」
 三人とも、返す言葉もなかった。
25  人材城(25)
 九州方面の壮年幹部は、原谷三兄弟の顔をのぞき込むようにして言葉をついだ。
 「この試練を、兄弟三人で乗り越えることができれば、君たちは、信心の面でも、人間的にも、大成長できるよ。御書に、親が子を思うゆえに、修学に励まぬ子どもを、槻の木の弓で打つという話が出てくるだろう」
 ――子どもは、自分を打つ父を恨み、槻の木を憎む。しかし、修学増進し、遂に自分も悟りを得て、人をも教え導くようになる。振り返ってみれば、親が槻の木の弓で自分を打ってくれたから、自分が大成できたことに気づくという話である。(御書1557㌻、趣旨)
 「親父さんは、現象的には、子どもの成長を願うこの父親とは、正反対のように思えるかもしれない。しかし、仏法の眼で見れば、本質的には同じなんだよ。親父さんがいたからこそ、君たち兄弟は″負けまい″として、信心の炎を燃やしてくることができた。
 親父さんは、君たちを大信力の人にし、大成させるために、信心にも反対し、借金をつくって逃げているんだよ。そう考えれば、親父さんは、まさに″仏″と同じじゃないか。
 親父さんを憎んでいるうちは、何も解決できないよ。親父さんへの感謝の題目をあげながら、必死に努力し、活路を開くんだ」
 日蓮大聖人は、「仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや」と述べられている。
 仏法者とは、報恩の人である。そして、報恩感謝に生きる時、人間の心は耕され、豊かな精神の実りの大地が広がっていく。
 壮年幹部の声に力がこもった。
 「大事なことは、″広宣流布のための人生である″と腹を決めることだ。″広布を成し遂げていくために、必ずこの問題を乗り越えさせてください″と祈りに祈り、知恵を絞って、懸命に努力するんだ。
 その時に、不可能も可能になる。諸天の加護もある。人間革命もできる。広宣流布に生きようという人を、御本尊が見捨てるわけがないじゃないか!」
26  人材城(26)
 原谷永太も、弟の正太、正輝も、壮年幹部の顔を食い入るように見つめ、指導を聞いた。
 「父親の借金をどうするかは、三人で話し合って決める問題だ。
 どうするにせよ、同業者も、周囲の人たちも、みんな、君たちの姿を見ている。
 君たちは、山本先生の弟子じゃないか! 師子王の子じゃないか! 今こそ、山本門下生の強さを、信心の実証を示す時なんだよ。
 一つ一つの事柄に対して、誠実に、真剣に、『学会員は、さすがだな!』と言われるように対処していくんだ。
 苦しい戦いになるだろうが、信心の初心に返って、腰を据えて、粘り強く頑張るんだ。君たちは、″肥後もっこす″じゃないか!」
 三兄弟の顔が、決意に光った。
 帰途、車は田原坂の近くに差しかかった。
 三人とも、かつて、この坂の上で、″何があっても広宣流布に生き抜こう″と誓い合った日のことを思い出していた。
 今、まさに彼らの人生は、「越すにこされぬ田原坂」に差しかかっていた。しかし、三兄弟の胸には、雨にも、嵐にも負けぬ、挑戦の闘魂が、赤々と燃え盛っていた。
 人は困難に負けるのではない。闘魂を失うことによって、自らに敗れるのだ。打ち倒され、地に伏しても、闘魂ある限り、人は立ち上がることができる。
 法的には、彼らが父親の負債を肩代わりする理由はない。でも、原谷三兄弟は、力を合わせて、息子である自分たちが、父親の借金を返済しようと心に決めた。
 父親は信心しなくなっただけでなく、反対してきた。しかし、永太たちは、″創価学会の原谷兄弟″で知られている。「借金は父親の問題だ」と言って取り合わなければ、多くの人が泣くことになり、自分たちの信用も、学会への信頼も欠いてしまうことになる。
 彼らは、「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」との御聖訓を思い起こした。″学会に傷などつけてたまるか!″と思った。
27  人材城(27)
 原谷永太は、弟の正太と正輝に言った。
 「俺たちが、ここで負けたら、地域の広宣流布はなかばい。絶対に信心で乗り越えていくばい!」
 ″広宣流布に生きよう! 学会に傷をつけまい″という彼らの使命感、責任感が、勇気を奮い起こさせた。
 人間は窮地に陥った時、根底にいかなる一念があるかによって、弱くもなれば、強くもなる。たとえば、自分の身だけを守ろうとする心は、もろく弱いが、必死になってわが子を守ろうとする母の心は強い。利他の念が、人を強くするのである。
 広宣流布は、最高善、最大利他の実践である。その広布のために、″絶対に学会に傷をつけまい″との一念こそ、人間の力を最大に開花させる原動力といえよう。
 彼らは、逃げも隠れもしなかった。一軒一軒、債権者を訪ね、頭を下げ、実情を語っていった。
 「信心しとって、どういうことだ!」と怒鳴りつける人もいた。原谷兄弟は、忍耐強く、誠心誠意、陳謝し、訴えた。
 「必ず親父に代わって、返しますけん」
 父親の失踪で、永太ら三兄弟の工務店の信用にも傷がついたことは、間違いなかった。
 しかし、父に代わって借金を返済するために、ひたむきに仕事に取り組む兄弟に、周囲の人びとは、関心の目を向け始めた。
 「関心」は、やがて「感心」へと変わり、評判を呼び、賞讃となっていった。そして、再び、信頼を取り戻していったのである。
 いつの間にか、彼らが、それぞれ営んでいた工務店への仕事の注文は、いずれも父親の失踪以前の三倍にもなっていた。当初、返済は十年の計画であったが、なんと、わずか三年で完済できたのである。
 原谷兄弟は、″失踪した父親と会い、一日も早く安心させたい″と懸命に祈った。
 一九七六年(昭和五十一年)、知人から、父親が静岡県の熱海にいるという情報を得た。兄弟で熱海に向かった。
28  人材城(28)
 原谷兄弟の父親は、熱海で、中風で寝たきりになっていた。再婚した義母が、旅館で働きながら、面倒をみてくれていた。
 長男の永太が、「借金は、兄弟で全額返済した」と言っても、父親は信用しなかった。彼らは、やむなく、返済した領収書を持って、再度、熱海を訪れなければならなかった。
 家族で話し合い、父を熊本に連れて帰り、病院に入院させた。病状は、次第に回復に向かい、やがて退院した。そして、父親も、信心に励むようになったのである。
 長い、長い、試練の坂であった。しかし、原谷兄弟は、見事に、″人生の田原坂″を越え、勝利したのだ。
 熊本県出身の作家・徳冨蘆花は、冬の最中には「どこに春がこもっているとも見えぬ。しかし春は来る。必ず来る」と詠った。
 懇談会で、山本伸一は、原谷永太の報告を聞くと、こう語った。
 「そうか。よく頑張ったね。身近な実証、身近な信頼を積み重ねていくなかに、広宣流布の大願の成就があるんです。
 兄弟で仲良く、力を合わせて、地域広布推進の模範の存在になっていってください」
 そして、色紙に句を認めて贈った。
 「火の国の 大兄弟の 馬上行」
 伸一は、さらに、懇談会に出席したメンバーの自己紹介に耳を傾けた。
 人吉本部の婦人部幹部が、家庭の状況を報告すると、県長の柳節夫が口を開いた。
 「『五木の子守唄』で有名な五木も人吉本部のなかにあります。五年前の昭和四十七年(一九七二年)六月五日に五木のことが聖教新聞で紹介された折、先生から激励の伝言をいただきました。五木のメンバーは、それを心の支えにして、現在も頑張っております」
 伸一の顔がほころんだ。
 「嬉しいね。どんなに真心を込めて激励しても、その場限りで終わってしまえば、意味はありません。私の励ましを生かしてくださっている。そこに価値創造があります」
29  人材城(29)
 五木村は、川辺川のダム建設計画によって、やがて、村の世帯の半数近くが、水中に没してしまうことになっていた。
 聖教新聞では、湖底に消えゆくこの村の学会員の活躍を紹介したのである。
 ――五木村には、一大ブロック五十三世帯の学会員がおり、座談会には、七、八十人が参加。メンバーは意気軒昂で、『築こう 妙法の五木城』を合言葉に、活動に奔走していることが報じられていた。
 その記事を読んだ山本伸一は、五木の同志の奮闘に胸を熱くしながら、励ましの言葉と手元にあった手拭いを、記念に贈ったのである。
 五木村に限らず、ダム建設や炭鉱の閉山などで、故郷や住み慣れた地を後にする人たちは少なくない。その地域を大切にし、深い愛着を感じていればいるほど、離れていかねばならない辛さ、苦しさは、想像を絶するものがあろう。伸一は、そうした同志の胸中を思うと、励まさずにはいられなかったのだ。
 日蓮大聖人は、「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」と仰せである。
 私たちが居住し、信心に励む場所は、どこであっても、すべて常寂光の都となるのである。つまり、どこに行こうが、その場所が、最高の幸福を築く場所であり、広宣流布の使命の舞台となるのだ。
 伸一は、そのことを、愛する土地を離れていく同志に知ってほしかった。
 そして、今いる地を去る瞬間まで、″ここに、模範の広宣流布の理想郷をつくるのだ″との思いで、地域広布に取り組んでほしかった。その地から人は去っても、人びとの心田に下ろされた発心の種子は、必ず、いつか、どこかで、幸と広布の大きな実りをもたらすからだ。
 彼は、その旨を、簡潔に述べた伝言と、激励の手拭いを、柳節夫に託したのである。
 柳が手拭いを持って五木村を訪れたのは、新聞の掲載三日後の六月八日であった。
30  人材城(30)
 柳節夫から、山本伸一の伝言を聞き、手拭いを受け取った五木の同志は、語り合った。
 「山本先生が、私たちの記事を読んでくださり、心を砕いてくださった」
 「五木は、山また山の地域で、学会員も、決して多いわけではない。しかし、先生は、いつも、じっと見守ってくださっている。水没する最後の日まで頑張らにゃいかん」
 彼らが、伸一の五木への思いを、最初に痛感したのは、一九六三年(昭和三十八年)八月、熊本県中南部を襲った集中豪雨の時であった。五木村でも、死者・行方不明者十一人、流失・全壊家屋百四十四戸、半壊家屋四十五戸という甚大な被害に見舞われたのである。
 その時、学会では、直ちに、八代支部の支部幹部を中心に派遣隊を結成し、被災地入りした。そして、五木村の学会員の班長宅に災害対策本部を設け、救援活動にあたった。
 伸一は、この派遣隊メンバーに伝言した。
 「五木の同志のことを心配しています。私も、題目を送り続けます。派遣隊は、私に代わって、しっかり、みんなを激励してください。よろしく頼みます」
 川は随所で氾濫し、家が流され、山津波にのみ込まれた家も続出した。道が土砂で埋もれ、孤立してしまった集落もある。
 五木の同志は、派遣隊への伸一の伝言を聞くと、″山本先生は、ここまで心配してくれていたのか″と、涙が止まらなかった。そして、被災者である彼らの多くが、派遣隊と共に、救援活動に奔走したのだ。
 ″私たちの行動で、学会の心を伝えよう″と、メンバーは決意していたのである。
 五木村は旧習が深く、土俗信仰が盛んな地域であった。一九五五年(昭和三十年)ごろから、村に学会員が誕生し、弘教活動が始まった。すると、学会への無認識と偏見から、反発が起こった。ある集落では、周囲の反対のうえに、会員間の怨嫉問題もあり、十数世帯ほどいた学会員が、一時は、三世帯にまでなってしまったという歴史があった。
 困難とは、発展のための階段である。
31  人材城(31)
 五木村の同志が、弘教に励んだのは、村の人びとに幸せになってほしかったからだ。
 人間は、何を信じるのかによって、生き方、考え方が決まっていく。宗教とは、その生き方の根本となる教えである。
 ゆえに、その教えの高低浅深を考察、検証し、対話していくことは、人間が幸福を勝ち取るうえで、不可欠な問題といえよう。それが、学会の折伏・弘教なのである。
 しかし、自他共の幸せを願っての弘教が、学会員の排斥という結果を招いた。この試練に堂々と挑んだ同志は、語り合った。
 「御書に仰せの通りに魔が競って来た! いよいよ、わしらの信心も本物になった」
 そして、着実に弘教を重ねていったのだ。
 そのなかで起こった、一九六三年(昭和三十八年)八月の集中豪雨であった。
 自衛隊もヘリコプターなどを使い、救援活動を開始したが、当然、それだけでは人手が足りない。学会の派遣隊は、川に掛けられたロープを使って、濁流を越え、孤立した集落に救援物資を運んだ。派遣隊が背負った物資の荷物には、同志のための「聖教新聞」もくくりつけられていた。
 派遣隊は、皆の安否を確認して歩いた。学会員にも、家屋の流失や全壊、半壊の被害が出たが、死者や負傷者はいなかった。同志は、安全な場所に集まり、「わしらには山本先生がついちょる。必ず変毒為薬していこう」と、再起を誓い合った。
 五木村では、集中豪雨での同志の奮闘が、大きく学会理解の輪を広げる結果となった。 「学会の派遣隊の救援活動のおかげで食事ができ、本当に助かった」「学会の人が、自身も被災しながら、派遣隊と一緒に救援活動する姿に、勇気を得た」と語る人もいた。さらに、被災者である学会員が、元気に皆を励まして歩いていることから、「信仰をもつ人の強さを知った」という人も多かった。
 非常事態は、人間のさまざまな虚飾を取り除く。その時、信仰によって培われた人間性の地肌が、輝きを放つのである。
32  人材城(32)
 五木村を流れる川辺川は、一九六三年(昭和三十八年)から六五年(同四十年)まで、連続して大出水を重ねたことから、治水のため、それまでに出ていたダム建設の計画が具体化していったのである。
 五木村の村議会は反対を決議したが、補償問題などについて、国や県との話し合いが行われ、計画は実施の方向で進んでいった。しかし、故郷の集落が、幾つも湖底に沈むとあって、住民の気持ちは複雑であった。
 そのなかで五木の中核メンバーは、″今いる同志に、信心の大確信をもってもらいたい。五木の地で信心の土台を培ったと、胸を張って言える人になってほしい″と、懸命に、激励、指導に回ってきた。
 その活躍の様子を紹介した聖教新聞の記事が、山本伸一の目にとまったのだ。そして、五木の同志は、伸一の激励を受けたのである。
 幾人ものメンバーから、伸一に、御礼と決意の手紙が届いた。そのなかの一人は、村の様子について、こう綴っていた。
 「五木は、山が多く耕作地が乏しいため、林業とお茶、椎茸作りぐらいで、これといった産業もない貧しい村です。たくさんの人が都市に移り、過疎化も進んでいます。
 気候は厳しく、冬には腰まで雪が積もることもあります。五木と言えば、平家の落人伝説や『五木の子守唄』が有名ですが、どちらも運命の悲惨さを感じさせます。
 しかし、五木は、私たちの故郷です。緑豊かな五木が、私は大好きです。
 必ず、五木の宿命を転換し、ここに、幸福の花園を築いていこうと、同志は、明るく、はつらつと頑張っています」
 愛郷の心から、広宣流布の情熱は燃え上がる。郷土を愛するがゆえに、わが同志は、地域の立正安国のために立つのである。
 手紙を読んだ伸一は、妻の峯子に言った。
 「いつか、五木に行きたいね。『五木の子守唄』も、いい歌じゃないか。哀調は帯びているが、ただ弱々しく、めそめそしているだけの歌じゃないんだよ」
33  人材城(33)
 「五木の子守唄」は、母親が子どもを寝かしつけるための、愛に満ちた歌ではない。子守をするために年季奉公などに出された「守子」たちの歌である。その娘たちが、言うに言われぬ、子守の辛さ、悲しさ、やるせなさを込めて歌った、慰めの歌といえる。
 山本伸一が、「五木の子守唄」を初めて聴いたのは、一九五三年(昭和二十八年)に、長男の正弘が生まれたころであった。
 ラジオから流れる「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる」との歌を聴いた時、その哀切な調べが、胸を突いた。
 守子の年季奉公が明ける日を指折り数えて待つ、いたいけな娘の姿が、目に浮かぶような気がしたのである。
 歌には、富裕な人たちの衣服を羨むような言葉もあれば、″自分が死んだら誰が泣いてくれるのか″と嘆く詞もあった。
 守子は、数え年七、八歳から十五歳ぐらいまでの少女であろう。多くは、他郷から守子に出された貧しい家の子であり、学校にも通わせてもらえなかったにちがいない。
 歌には、自分の境遇へのあきらめが漂っているように感じられた。
 しかし、後年、伸一は、五木地方で採集された、七十ほどの子守唄を収めた一冊の本を読んで、守子たちの強かな感情の表出を見た思いがした。こんな歌詞もあった。
 「子どん可愛いけりゃ 守りに餅くわせ 守りがこくれば 子もこくる」
 ――子どもが可愛いのなら、守子に餅を食わせろ。空腹で守子が倒れてしまえば、背負われている子どもも倒れてしまうのだから。
 そこには、自分の置かれた境遇を、ただ嘆きつつ、耐え忍ぶだけの、か弱い乙女の姿とは、別の顔が浮かび上がる。不条理への抗議の心が、あふれ出ていよう。
 それは、虐げられても、なお負けずに生きる、民草(民衆)の根強さにも通底している。人間は誰もが力を秘め、そして、誰にでも、幸せになる権利があるのだ。
34  人材城(34)
 五木地方の子守唄には、″口うるさい老婆は、ガンと殴りつけろ″という、守子たちの激しい憎悪を露にした歌詞さえもある。
 哀切の調べに満ちた子守唄のなかに流れているのは、卑下や疎外感、あきらめだけではない。批判や居直り、怒りがあり、そして、強かな抵抗心や自立の誇りも脈打っている。
 その抵抗の対象は、直接的には口うるさい老婆や雇い主などである。しかし、それにとどまらず、自分を不幸な境遇へと追い込む見えざる何か、いわば″運命″への抵抗ともいうべきものを感じさせる。
 この守子たちは、路上などに集まって子守をした。集まれば、仲間ができる。仲たがいもあれば、告げ口もある。守子は歌う。
 「山でこわいのは イゲばら 木ばら 里でこわいのは 守りの口」。里では、同じ守子の口こそが怖いというのだ。
 守子同士の関係は、うっかりしていると出し抜かれかねない、緊張感をはらんだ面もあったのであろう。
 だからこそ、気の許せる守子同士の結合は強くなる。
 「おれと お前さんな 姉妹なろや お前ゃ姉さま わしゃ 妹」ともある。いわば、″姉妹″の思いをいだくほど、強い絆に結ばれていったのだ。
 また、″自分が死んでも泣いてくれるのは蝉ばかりだろう″という歌とともに、「蝉じゃござらぬ いもつで ござる いもつ泣くなよ 気にかかる」とある。
 ″いもつ″は妹のことである。その妹というのは、どこにいるのであろうか。もしも、ここでいう妹が、姉妹の契りを交わした守子をさしているならば、その絆の強さは、いかばかりであったことか。
 ともあれ、彼女たちの強かさを支えたものの一つは、守子同士の″姉妹的結合″であったことは間違いない。
 孤独感は、心を弱くするが、人との強い絆を自覚するならば、心は鉄の強さをもつ。
35  人材城(35)
 山本伸一は、五木地方に伝わる子守唄の意味や背景を考えると、社会の不条理のしわ寄せは、最終的には、最も弱い者、つまり、庶民に、しかも、小さな子どもたちにくることを、あらためて痛感せざるを得なかった。
 大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。
 五木の守子に限らず、明治、大正、昭和という激動の時代の底辺で、悲惨な境遇のなかで生きることを余儀なくされた子どもたちは少なくない。
 牧口自身も、その幼少期は、不遇であったといってよい。
 牧口は、一八七一年(明治四年)の六月六日(旧暦)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現在の新潟県柏崎市荒浜)に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。
 父親の長松は、長七の幼年期に、北海道へ出稼ぎに行ったまま、音信が途絶えてしまう。
 一八七六年(明治九年)に母・イネは再婚。長七は、父・長松の妹のトリが嫁いでいた牧口善太夫の家に養子として引き取られる。
 日本は、七二年(同五年)に、国民皆学をめざして学制を実施しており、牧口姓となった長七も、七八年(同十一年)に尋常小学に入学した。当時の修学期間は、下等小学四年、上等小学四年であった。
 八二年(同十五年)、牧口長七は下等四年を修了すると、養父のもとで働くことになった。成績優秀であった彼は、周囲から才能を惜しまれ、進学を勧められたが、家庭の事情が、それを許さなかった。
 荒浜村の七四年(同七年)度の就学率は、約一七パーセントにすぎない。牧口の入学は、その四年後である。尋常小学に入学できた彼は、教育の面では、恵まれていたといえるのかもしれない。
 子どもがいかに扱われているか――そこに、その国の文化、本当の豊かさを見極める重要な尺度があるといってよい。
36  人材城(36)
 牧口長七が北海道に渡ったのは、十三歳ごろであったようだ。″音信不通になったままの実父を捜したい″という思いもあったのかもしれない。
 彼は、小樽警察署で給仕をしながら、寸暇を見つけては読書と勉強に励んだ。その熱心な勉強ぶりから、つけられたニックネームが″勉強給仕″であった。
 やがて、牧口は、北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)に、第一種生として入学する。公教育に尽力する有能な人材として、郡区長から推薦されての入学である。
 師範学校は、全寮制で、授業料も、生活費も官費で賄われ、卒業後は、一定期間、教職に就くことが義務づけられていた。牧口にとっては、それが学校で学ぶための、唯一の道であったのであろう。
 「学問は米を搗きながらも出来るものなり」とは、福沢諭吉の箴言である。
 福沢や牧口の青年期と比べ、今や時代は、大きく変わった。学ぼうという強い志さえあれば、学びの道は随所にある。
 牧口は、一八九三年(明治二十六年)に北海道尋常師範学校を卒業すると、同校の附属小学校の訓導(教員)として、教員生活のスタートを切った。さらに、母校の師範学校でも、地理科の担当として教壇に立つ。
 彼は、附属小学校では単級教室を担当した。単級とは、全学年の児童で編成された一つの学級である。
 牧口は、雪の降る日などは、登校してくる児童を出迎えた。下校時には、小さな子どもを背負い、大きな子どもの手を引いて、送っていった。また、学校では、湯を沸かして、アカギレだらけの子どもの手を洗ってやった。
 このこまやかな気遣いの行動は、児童の幸せを願う牧口の思いの、現れといえよう。気遣いは、真心の結晶である。
 教員としての新生活が始まった、九三年の一月、牧口は「長七」の名を「常三郎」に改めた。二十一歳のことである。
37  人材城(37)
 牧口常三郎は、一八九九年(明治三十二年)七月、北海道師範学校の附属小学校で主事事務取扱(校長代理)となり、さらに、翌年一月、師範学校の舎監となる。二十八歳の時である。
 しかも牧口は、地理学の研究を重ね、原稿も書きためてきた。この原稿を携え、東京に渡った。一九〇三年(同三十六年)十月、彼は『人生地理学』を出版する。それは、「地理学は地と人生との関係を説明する科学なり」との観点から、風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探究した書であった。
 学者としては無名の牧口の著作であったが、後に京都帝国大学教授となる地理学者の小川琢治は、高く評価した。
 社会学者・田辺寿利も、「この書の出現によってわが国の地理学がその外貌を一変した」と感嘆している。
 牧口は『人生地理学』出版の直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院(後に宏文学院)の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。
 日本は日清戦争に勝利していたことから、蔑視の眼で中国人を見る日本人もいた。
 牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。
 また、牧口は、高等女学校に進みたくとも、経済的な事情などから進学することができない子女の教育の場として、通信教育を行う大日本高等女学会を創立している。
 人間が円満な社会生活を送っていくためには、教育は不可欠である。ゆえに、″学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい″というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。
 彼の胸中に燃え盛っていたのは、眼前の一人の児童、生徒、学生に、″なんとしても幸福な人生を生き抜いてもらいたい″と願う、慈愛の情熱の炎であった。
38  人材城(38)
 牧口常三郎は、一九一三年(大正二年)に赴任した東盛尋常小学校をはじめ、大正尋常小学校、西町尋常小学校、三笠尋常小学校、白金尋常小学校、麻布新堀尋常小学校で、校長を歴任することになる。
 牧口が最初に校長として赴任した、東盛尋常小学校は、東京市北部に位置する下谷区の龍泉寺町にあり、貧しい家庭が多く、文房具を持っていない児童も多かった。彼は、文房具を一括購入し、市価より安価で配布するなど、心を配らねばならなかった。
 牧口は、東盛、大正、三笠、麻布新堀の各校では夜学校の校長も兼任していくことになる。夜学校は、昼間、労働しなければならない貧困家庭の児童が通えるように、尋常小学校に併設された学校である。
 彼は、すべての子どもに愛情を注いだが、貧しい子ども、悩める子どもには、特に心を砕いた。また、権力に迎合し、身の安泰を得るような生き方を嫌った。
 東盛尋常小学校で大きな教育実績を残した牧口は、隣町に新設された大正尋常小学校の校長となり、その夜学校の校長も兼務する。ここも、貧困家庭が多く、読み書きができない親もいた。就学率は低かった。牧口は、自ら児童の家を家庭訪問し、「学校なんか、行かないで働け!」という親を、説得して歩かねばならなかった。
 この大正小で、ある時、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、校長の牧口に頼みに来た。断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥を要請する。
 牧口には、″教育にかかわりのない者が権力にものをいわせて教育に口を出すべきではない″という、一貫した強い信念があった。大物政治家は、前々から、それが面白くなかったようだ。そこで、地元有力者の意向を聞き入れ、牧口を左遷する。
 権力におもねらず、信念を貫こうとすれば、迫害という嵐が競い起こる。それに負けぬ強さをもつことこそ、改革者の条件である。
39  人材城(39)
 大正尋常小学校の教員、保護者は、権力者の不当な圧力で牧口常三郎が、同じ下谷区の西町尋常小学校に転勤させられるという話を耳にする。誰もが強い憤りを覚えた。
 牧口の転任の撤回を求めて、教員は辞表を提出し、保護者は子どもを学校にやらないと、″同盟休校″に踏み切った。
 だが、辞令を撤回することはできず、牧口は西町小の校長に異動となる。この西町小奉職中に、北海道から東京に出てきた、若き日の戸田城聖と出会うのである。牧口は、この赴任に際しても、「どの校長も一番に伺候する家」と言われていた、あの大物政治家のところへ、あいさつに行くことはなかった。
 大物政治家の怒りはますます燃え上がり、東京市の教育課長や区長を動かし、再び牧口の排斥に乗り出す。そして、赴任わずか三カ月で、東京市東部の本所区三笠町にある三笠尋常小学校への転任の話がもちあがるのだ。
 同校は、貧困家庭の子どもたちのために設けられた東京市の「特殊小学校」のうちの一校であった。授業料は徴収せず、学用品を提供し、児童のための、入浴、理髪の施設もあり、校医が疾病の治療にもあたるようになっていた。
 三笠小への人事異動は、教師の間では「辞めさせることが狙いだ」と囁かれ、同校は″首切り場所″などと言われていたのだ。
 この転任に対して、西町小でも、教員らによる牧口の留任運動が起こった。牧口の尽力で同校の臨時代用教員になっていた戸田も、運動の先頭に立った。だが、留任はかなわず、牧口は三笠小へ転任となったのである。
 戸田は、既に牧口を、人生の師と定めていた。その牧口と行動を共にしようと、後を追うようにして三笠小に移る。そして、同校の訓導となり、師弟共に、最も貧しい子どもたちの教育に、全精魂を傾けるのである。
 師匠が最大の窮地に立った時に、弟子が何をするのか――それこそが、本当の弟子か、口先だけの、あわよくば師を利用しようとする弟子かを見極める、試金石といえよう。
40  人材城(40)
 一九二〇年(大正九年)六月、三笠尋常小学校、同夜学校の校長に就任した牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。
 彼には、名門校の校長になりたいなどという願望は、全くなかった。最も不幸な、大変な生活環境のなかに生きる児童に、教育の光を送ることこそ、教育者の使命であると考えていたからである。
 三笠小は、壊れた窓ガラスを厚紙で塞ぎ、風の侵入を防いでいるような、施設の補修も十分にできない恵まれぬ小学校であった。
 しかし、牧口は、満身に情熱をたぎらせ、児童のために心血を注いだ。当時の三笠小は、「十五学級約八百人の児童が三部に分かれて教授を受けている。即ち四年以下が午前と午後とに、五、六年は全部夜間にということになっていて、授業時間は二十一時乃至二十四時である」とある。
 授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに二十四時間、児童のために尽くそうと覚悟していたからだ。
 また、保護者についても、次のように記述されている。
 「父兄は悉く労働者階級というのだから、教育よりも食うことという念慮が強い。したがって児童の大部分はそれ相応の労働に従事せねばならない。そして多少の賃銭を得て活計を助けているのである。こういう状態だから出席歩合なども、平均七五・三五という低率である。彼等のうち、六ケ年も学校に出すというのはいい部類だ。中には全然之を避けようとする、若しくは避けなければならぬ余儀ない事情の者もある」
 牧口は、ここでも児童の家を訪ね、子どもを学校に通わせるように、親を説得して回った。児童の将来のために、学ぶことの大切さを力説した。聞く耳をもたない親たちも、牧口の慈愛に満ちた真剣な訴えに、遂には登校させることを約束するのだ。真心を込めた情熱の対話こそ、事態を打開する直道である。
41  人材城(41)
 腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子どものために、牧口常三郎は豆餅などを用意し、自由に食べられるようにした。当初、その費用は、すべて牧口が出していた。
 やがて、給食の協力をしてくれる篤志家も現れた。「読売新聞」の一九二一年(大正十年)十二月八日付に、こんな見出しが躍っている。
 「小学校で貧しい児童に
  無料で昼食給与
   本所の三笠小学校の試み
   夜学児童にも給与の計画
     =パンと汁を二椀」
 記事には、「本所三笠小学校では最近同校生徒中の気の毒な境遇にあるもの約百名ばかりを選んで昼食を給与することに決定し、経費と設備の都合上当分三十五匁(約一三〇グラム=編集部注)のパン一個と豆腐や野菜を材料にした汁二杯とを無料で給与し」とある。
 さらに、工場から自宅に帰らないで、直接、学校に来る夜学の生徒にも、食事の給与を検討中であることが報じられている。
 校長である牧口の談話もある。「顔の色が蒼白でいかにも繊弱らしく見える」生徒は、「いずれも絶食の結果で、しかもたまたま昼食を食べても碌な物を食わぬから全く栄養不良に陥っているのさえある」と述べている。
 また、牧口は、工場から自宅に帰れずに学校へ来る夜学生への、食事の給与も考えていると語ったうえで、「満腹する程与えてないのに『お前は学校で食べて来たろう』と言って宅で食を与えぬようなことが起りはせぬかとそれを心配してる」とも語っている。
 彼は、どこまでも子どもの置かれた現実に立って物事を考え、悩み、そして不屈の闘魂をたぎらせて改善を進めていった。
 哲人エマソンは、貧しい一女性の言葉に強く感銘し、その言葉を書き残している。
 ――「困難が増せば増すほど獅子のような勇猛心をふるいおこす――これが私の主義です」
 それは、まさに牧口の信念でもあった。
42  人材城(42)
 牧口常三郎の教育目的は、明快である。
 「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」――教育思想家としての彼の眼差しは、早くから、子どもの幸福の実現という一点を見すえていた。
 それは、苦学の少年期、そして、北海道の教員経験、さらに、東京・三笠尋常小学校などで、貧しい最下層の児童の現実を直視してきたことと深く関係していよう。
 社会の歪みの影響をもろに受け、満足に学ぶこともできずに労働を強いられて、ぼろ切れのような人生を歩むことを余儀なくされた子どもたち。その子らに、幸福になっていくための力をつけさせたい――そこに、牧口の思いが、理想が、戦いがあったのである。
 彼は、教育現場にあって、児童の就学率の上昇、教育環境の整備、学力の向上など、多くの実績を残した。また、半日学校制度や小学校長登用試験制度などを提唱し、教育制度の改革にも力を尽くしていった。
 子どもの幸福を実現するための教育をめざした牧口にとって、「幸福とは何か」ということは、最大のテーマであった。彼は、それは「価値の獲得」にあるとした。では、価値とは何か――思索は、掘り下げられていく。
 牧口は、新カント派の哲学者が確立した「真・善・美」という価値の分類に対して、「美・利・善」という尺度を示した。
 「真」すなわち「真理」の探究は、よりよい生活を送るために知識を得るという手段的なものであり、それ自体は目的とはなり得ないとして、価値から外したのだ。
 そして、「真」に代わって、「利」すなわち「利益」を加えた。生活苦に喘ぐ庶民の子らに接してきた牧口は、自身の経験のうえから、「利」の価値の大切さを痛感していたのであろう。彼は、「美醜・利害・善悪」を、価値判定の尺度としたのだ。画期的な、新たな価値論の提唱である。
 牧口は「美」と「利」を個人的価値とし、社会的価値(公益)を「善」とし、個人と全体の調和、自他共の共栄を説いたのである。
43  人材城(43)
 昭和に入ると、時代は、軍国主義化の度を深め、「滅私奉公」が声高に叫ばれていった。そのなかで、個人主義にも、全体主義にも偏ることのない牧口常三郎の教育思想は、軍部政府の政策とは、相反する原理であった。
 また、日蓮仏法と出合った牧口は、その教えを価値論の画竜点睛とした。
 彼は、社会的価値である「善」には、人びとに金品を施すことなど、さまざまあるが、現世限りの相対的な「善」ではなく、「大善」に生きることを訴えた。
 牧口のいう「大善」とは、三世永遠にわたる生命の因果の法則に基づく生き方である。つまり、法華経の精髄たる日蓮仏法を奉持し、その教えを実践し、弘めゆくなかに「大善」があり、そこに自他ともの真実の幸福があるというのが、牧口の結論であった。
 彼は述べている。
 「吾等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生活力発動の機関として出現している宇宙の森羅万象――これによって生活する吾吾人類も――に具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本体であらせられる」
 そして、その妙法を根本とした生活法を、「大善生活法」と名づけた。この大善生活法を人びとに伝え、幸福の実験証明を行うことに、彼は、生涯を捧げたのである。
 いわば、広宣流布という菩薩の行に生き抜くなかに、自己の幸福が、そして、社会の平和と繁栄があると、牧口は訴えたのである。
 子どもの幸福を願う彼の一途な求道は、広宣流布という極善の峰へ到達したのだ。
 牧口が、獄死の約一カ月前に家族に送った葉書には、こう記されている。
 「百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」
44  人材城(44)
 熊本県の代表メンバーとの懇談会で、県長の柳節夫から、五木の同志の報告を聞いた山本伸一は語った。
 「五木に伝わる子守唄の守子のような境遇の子どもたちを、なんとしても幸せにしたいというのが、牧口先生の思いであり、創価教育の原点です。また、それが学会の心です。
 断じて不幸をなくそうという、牧口先生の、この心を知ってほしいんです。
 五木の皆さんには、こうお伝えください。
 『やがて、村の多くの集落が湖底に沈んでしまう日が来るにせよ、一日一日、力の限り、広宣流布に走り続けてください。地域の人びとの胸に、妙法の種子を植え続けてください。集落は湖底に消えても、妙法の種子は、幸せの花を咲かせ続けていきます』と」
 「はい!」
 答えたのは、五木を擁する人吉本部の、婦人部の幹部であった。彼女は、伸一に、五木の現況を語った。
 「五年前に、先生の激励の手拭いを届けていただいた六月八日を、『五木の日』とし、毎年、この日にはセミナーを開き、地域広布の活動を推進しています」
 「ありがとう。すごいことです。一つ一つの思い出を大切にし、それを未来の前進の糧にしていく。そこから、勝利の力が生まれていきます。
 五木に行きたいな。ここから五木までは、どのぐらいかかりますか」
 「車で三時間ほどです」
 「三時間ですか。それなら、今回は行けないな。本当は、皆さんのお宅を、一軒一軒回って、激励したいんです。
 五木の皆さんとは、私は、直接、お会いして語り合ったことはないが、一念はつながっています。まだ見ぬ皆さんの顔が、私の胸にありありと浮かんできます。これが真の同志なんです。これが師弟なんです」
 そして、伸一は、「五木の同志に、句を贈ります」と言って、色紙にペンを走らせた。
 「忘れまじ 六月八日の 花の顔」
45  人材城(45)
 山本伸一との懇談会に出席した、代表メンバーの報告は続いた。
 熊本県北部の山鹿や、西部の天草、中南部の八代、南端の水俣など、一人ひとりの話に、伸一は、じっくりと耳を傾けていった。
 前年、妻を癌で亡くしたという男子部の本部長の報告もあった。「妻の分まで、一生涯、信心に励み抜いてまいります」との決意を聞くと、伸一は言った。
 「その決意が大事だよ。亡くなった奥さんもそれを一番、喜ばれます。私も追善します。
 順風満帆の人生は、それはそれでいいかもしれないが、そんな人生は、ほとんどありません。皆、多かれ少なかれ、なんらかの試練に直面しながら、生きているものなんです。
 何もない人生であれば、ささいな障害にも不幸を感じ、打ちひしがれてしまう。人間が弱くなります。鍛えられません。
 しかし、君のように、若くして最愛の奥さんを亡くしたという人は、強くなります。また、人の苦しみがわかる人になれます。したがって、誰よりも慈愛にあふれたリーダーに育つことができるんです」
 フランスの女性作家ジョルジュ・サンドも、「他人に最も働きかける力があるのは、最も試練にあった人である」と記している。
 伸一は、力を込めて言葉をついだ。
 「試練は、自分を磨き、強くしていくための財産だ。心から、そうとらえていくことができれば、大成長できる。しかし、悲しみに負けて、感傷的になれば、足を踏み外し、自堕落になってしまうこともあり得る。今が、人生の正念場だよ。
 君は、一人じゃないんだ。学会があるじゃないか! 同志がいるじゃないか! みんなとスクラムを組んで、強く生きるんだよ。
 奥さんは、君の胸の中にいる。奥さんの分まで信心に励み、奥さんの分まで幸せになっていくんだ。成長を待っているよ」
 強い響きの、温かい声であった。
 青年の目は、生き生きと輝いていった。
46  人材城(46)
 山本伸一は、懇談会に参加していた、学生部の代表に視線を移した。
 グレーのスーツを着て、メガネを掛けた、痩身の青年が立った。
 「熊本大学の医学部五年の乃木辰志です。学生部の部長をしております。これまでに医学部の学友などと仏法対話を重ね、四人が入会いたしました」
 「そうか、すごいな。みんなの将来が楽しみです。北九州でも歯科医の青年たちとお会いしたし、九州の創価学会は、お医者さんが多いのかね。
 ところで、君のご両親は?」
 「健在です。母は信心していますが、父は反対しています。それが悩みです」
 「青年には、両親が信心していないことで悩んでいる人が多いが、急いで入会させようと、焦る必要はありません。
 特に、君の場合は、お父さんがおられるからこそ、医学部で学ぶことができるんだから、人一倍、感謝の心がなければいけません。それが、仏法者です。
 お父さんとお会いしたら、『お父さんのおかげで、大学に行かせていただいております。ありがとうございます』と、心から御礼を言うことだよ。できるかい」
 「はい!」
 「それなら、今、ここに、お父さんがいると思って、言ってみてごらん。ここで言えなかったら、面と向かった時には、もっと言えなくなるよ」
 乃木は、「はい」と言って、深呼吸を一つすると、緊張した声で言い始めた。
 「お父さんのおかげで、大学に行かせていただいております。ありがとうございます。さらに、医学と仏法を極めていきます」
 すかさず、伸一の言葉が返ってきた。
 「そこで、『仏法』を出すからいけないんだ。そんな必要はないんです。君自身が『仏法』であり、君自身が『御本尊』なんです。御書にも、そう書かれているじゃないか。大事なのは、親を思う子としての振る舞いです」
47  人材城(47)
 山本伸一と熊本県の代表メンバーとの懇談会は、既に二時間近くが経過し、午後七時を回っていた。
 伸一は、もっと皆と語り合いたかったが、懇談会を終了することにした。参加者は、県内各地から集って来ているため、遠い人は、帰宅するのに三時間ほどかかってしまう。しかも、女子部や婦人部もいたからである。
 懇談会のあとも伸一は、二十一世紀のリーダーとなる、乃木辰志ら学生部のメンバーと、さらに語らいを重ねた。彼らは、比較的、住まいも近かった。
 伸一は、乃木に言った。
 「お父さんについては、あなたが題目を送ってあげればいいんです。そして、立派な医師になることです。それが折伏なんです。
 ところで、君とお母さんは、どちらが先に信心をしたの?」
 「母です。母の熱意に負けて、四年前、大学に入る時に、実家のある東京で入会しました。今では、母に感謝しています」
 乃木の母は、一九五九年(昭和三十四年)に入会した。また、父は台湾出身で、飲食店等を経営していた。両親は夫婦喧嘩が絶えなかった。それを見かねた隣人の学会員から、仏法の話を聞かされたのである。
 しかし、母が信心を始めると、父は、「日本の宗教に凝るなど、とんでもない!」と、憎悪を露にした。一家和楽を願い、入会したにもかかわらず、夫婦喧嘩は、かえって激しくなってしまった。
 辰志は、思春期を迎えたころには、″両親の仲が悪いのは、母さんが創価学会に入ったせいだ″と思うようになっていた。だから母親から、一緒に信心するように言われても、耳を貸さなかった。
 しかし、″母は、あれほど反対されながら、なぜ、信心をやめないのか″という疑問が、次第に膨らんでいった。
 辰志は、″この信心には、何かある!″と感じ始めた。仏法の正義を最も雄弁に語るのは、屈することなき信念の輝きである。
48  人材城(48)
 乃木辰志は、二浪の末に、熊本大学の医学部に合格した。
 母親は、息子の辰志が信心し、慈悲の哲学をもった妙法の医師になってほしいと、懸命に祈り続けてきた。辰志が、受験勉強に明け暮れるなかで、自己中心的な考えに陥ってしまっている気がしてならなかったからだ。
 文豪ゲーテの家庭医も務めた名医フーフェラントは、「自分のためでなく、他の人のために生きること、これが医師という職業の使命であります」と語っている。
 母親は、″辰志には、本当に患者を思いやる、立派な医師になってほしい″と思った。そして、真剣に入会を勧めた。
 「医学の知識を身につければ、立派な医師になれるわけではないわ。お金儲けや、自分の名誉のことしか考えないとしたら、医師としても、人間的にも尊敬できないでしょ。本当に立派な医師になるには、人間としての思想や信念、生命の哲学が必要なのよ」
 母親は、息子の大成を願い、日蓮仏法の必要性を懇々と訴えた。その言葉は、辰志の胸に深く刺さった。
 彼は、積極的に信心に励む気にはなれなかったが、一応、入会して、熊本に向かった。
 大学の入学式から数日後、母親が様子を見に熊本へ来た。彼女は″辰志を、しっかりと学会の組織につけなければ!″と思い、必死に祈って、熊本に来たのである。
 辰志は、まず大学を案内し、それから、大学近くのスーパーに行った。すると母親は、鮮魚を売っていた壮年に声をかけた。
 「この辺りに、創価学会の人はいませんでしょうか。ご存じありませんか」
 学会員であることを知られたくないと思っていた辰志は、恥ずかしくて汗が噴き出た。
 壮年は、こともなげに答えた。
 「おう、いるよ。すぐそこに、学会の学生部の拠点があるよ」
 壮年はブロック長をしているという。
 子を思う母の祈りは、事態を次々に開いていく。祈りは、宇宙をも動かす。
49  人材城(49)
 乃木辰志の母親は、辰志と共に、熊本大学の学生部員らが集っているという下宿を訪ねた。そこで、辰志を学生部のメンバーに紹介し、「くれぐれも息子をよろしくお願いします」と頼み込んだのである。
 やがて乃木は、母親が語っていた仏法の「生命の哲学」に興味をもつようになり、山本伸一の著作なども読み始めた。
 伸一の著作を読んでいくうちに、仏法で説く生命論の深さに感嘆するとともに、医師としての、人間革命、境涯革命の重要性を痛感していった。また、学会には、確固たる人生哲学があり、人間性豊かな触れ合いがあり、学会の組織は、人格形成の鍛錬の場であることを感じた。
 夏休みが明けたころには、乃木は、創価学会のなかで、積極的に自らを磨いていこうとの決意を固めていた。学会の先輩に勤行を教えてもらい、会合にも参加するようになった。弘教にも挑戦した。人の幸せを願って、真剣に対話している自分を感じた。
 ある時、東京で、高校時代のクラス会が開かれた。その時、旧友の一人が言った。
 「おまえ、変わったな。今まで、自分のテストの点数しか考えない、エゴイストだと思っていたんだよ。そのおまえが医者になったら、どうなってしまうのか、実のところ、心配だった。でも、今日、話してみて、今のおまえなら心配いらないと思ったよ」
 日蓮仏法は、自他共の幸福を願う、自行化他の仏法である。広宣流布という菩薩道に生きる信仰である。乃木は、学会活動を通して、それを実践していくなかで、気づかぬうちに自らの人格を磨き、人間革命の大道を歩み始めていたのだ。友人の話で、それを知った彼の驚きは大きかった。
 後年、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長となるフェリックス・ウンガー博士は、医師について伸一に、「私のいう『医師』とは、人間性豊かな医者です。全体観に立った人格の光る医師です」と語っている。人格の光彩こそ、医師の必須条件であろう。
50  人材城(50)
 山本伸一は、乃木辰志の母親の近況について尋ねた。
 「母は、東京に住んでおりますが、たまたま今日は、私のところに来ております」
 「せっかくだからお会いしたいね。明日の昼、熊本文化会館に来ていただけるだろうか」
 「はい。大丈夫です」
 熊本に到着してからの伸一の行動を見てきた、県長の柳節夫は思った。
 ″先生は、一人ひとりの話に耳を傾け、真剣勝負で激励され続けてきた。懸命に、人材を見つけ、育てようとされているんだ。この励ましこそ、創価学会の生命線なんだ。
 私は、同志への地道な激励、指導とは、かけ離れたどこかに、広宣流布の大闘争があるように思っていた。しかし、それは違う。先生が、熊本で示してくださっていることは、ただただ、眼前の一人に、全力を、魂魄を、熱誠を注いで、励ますことだった。
 その一人が希望に燃え、勇気をもって立ち上がることから、一家和楽も、地域広布も、世界平和も可能となる。広宣流布の直道は、一対一の対話、励ましにこそあるんだ!″
 学生部員との語らいを終えた山本伸一は、熊本市内を視察して、午後八時半に熊本文化会館に到着した。それから、休む間もなく、代表幹部と共に勤行し、さらに、県の今後の課題などについて語り合った。
 伸一は言った。
 「熊本県創価学会には、今の何倍も、何十倍も、多彩な人材が必要だ。人材というと、表に立って指揮を執る人のように考えてしまいがちだが、裏で黙々と頑張る人も大切なんです。いや、そうした人を、見つけ、育てなければ、難攻不落の創価城は築けません。
 熊本城もそうだが、堅牢な城の石垣は、表の大きな石の裏側に、『裏込』といって、砕いた小石が、たくさん組み込まれているんです。この『裏込』が、石垣内部の排水を円滑にし、大雨から石垣を守る。表から見えないが、その役割は重要なんです」
51  人材城(51)
 山本伸一は、人材育成について、さらに掘り下げて語っていった。
 「学会の組織にあっても、陰で頑張ってくださっている方々は、城でいえば『裏込』にあたります。組織の表舞台に立つリーダーは、そうした方々を心から尊敬し、大切にしていくことです。その方たちが″うちのリーダーは、自分のことをわかってくれている。心から、讃え、励ましてくれる。ありがたいな″と思ってくださってこそ、力を発揮してもらえるんです。
 たとえば、県幹部の皆さんが、座談会を担当したとします。座談会のために、会場を提供してくださった方や、ポスターなどの展示物を作ってくださった方、あるいは、下足を整理してくださる方もいるかもしれない。また、聖教新聞の配達員さん、書籍や民音などを担当し、奮闘してくださっている方もいます。
 そうした方々に、心から御礼を言い、励ましていくことが大事なんです。幹部は、同志の献身に、鋭く反応していくことです」
 何かで尽力してくださっている同志への御礼と賞讃こそ、人材を育む第一歩となるのである。
 伸一は、話を続けた。
 「よく、城の石垣というのは、異なる形の石を組んでつくっているから堅固であるといわれる。学会の組織も同じです。さまざまな個性、異なる能力をもった人材が育ち、団結していってこそ、難攻不落の創価城ができるんです。野球だって、優秀なピッチャーばかり九人集めても、決して強いチームにはなりません。
 団結を示す『一心同体』という言葉があるが、日蓮大聖人は『異体同心』と言われた。それは、仏法の、また、学会の団結は、一人ひとりを鋳型にはめるのではなく、異体、すなわち、各人の個性、特質を、最大限に尊重し、生かしていくことを意味しています。
 人材城というのは、多彩な人材の集まりということなんです」
52  人材城(52)
 熊本の県幹部は、目を輝かせながら、山本伸一の話に聞き入っていた。
 「問題は、多種多様な個性をもつ人材が集まると、ともすれば、個性と個性がぶつかり合い、団結できなくなりがちだということです。では、どうすればよいのか。
 そこで、『異体同心』の『同心』ということが大事になるんです。『同心』とは、同じ目的に生きようとする心です。私たちの立場でいえば、広宣流布という崇高な大目的に生き抜く心です。
 大聖人は、『浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり』の文を引かれている。深きに就くことが大切なんです。
 皆が、自分の面目や、名聞名利など、小さな『我』に執着する心を打ち破り、広宣流布の大願に立つならば、最強の団結が生まれます。それによって、自分のもつ最強の力を発揮できるんです。一滴の水では、木の葉も穿つことはできない。しかし、海に連なれば、大波となって寄せ返し、岩をも削ることができるではありませんか。
 学会の組織にあって、″広宣流布のために団結しよう″″団結できる自分になろう″と懸命に唱題し、努力を重ねていくなかに、自身の人間革命もあるんです。
 反対に、互いに怨嫉し合い、足を引っ張り合うようなことがあれば、それは広宣流布を破壊する魔の働きになってしまう」
 伸一の声に、力がこもった。
 「また、リーダーは、皆が伸び伸びと力を発揮していけるように、大きく包み込んでいってください。
 力がないリーダーというのは、自分の意向に添わない人がいると、すぐに『あの人は駄目だ』とレッテルを貼ってしまう傾向がある。それでは、人材は育ちません。自らの成長があってこそ、人材は育つんです。
 教えるべきことは、忍耐強く教え、意思の疎通を図りながら、仲良く前進していくことです。仲が良いということが、人材が育っていく土壌なんです」
53  人材城(53)
 五月二十九日、熊本文化会館の周辺には、朝から大勢の学会員が待機していた。山本伸一に一目会いたいと、熊本県の各地から来た人たちである。
 文化会館の窓から、そうした人たちの姿を見た伸一は、県長の柳節夫に言った。
 「私は、今日の午後には、東京に戻らなければならない。この機会を逃すと、しばらくお会いできないだろうから、来られている方々のために、勤行会を開きたいと思う。全員、会館のなかに入ってもらってください」
 アメリカの哲人・ソローは記した。
 「今こそ好機逸すべからず」
 ホイットマンは叫ぶ。
 「大事なこと、それは今、ここにある人生であり、ここにいる人々だ」
 伸一も、「今」の重みを痛感していた。
 午前十時過ぎから、伸一の導師で勤行が始まった。突然の勤行会開催に、集って来た人たちは皆、大喜びであった。
 勤行終了後、九州担当の副会長が話をしている時、伸一は、熊本の幹部に尋ねた。
 「ここから、阿蘇にできる講堂まで行くには、時間は、どのぐらいかかるの?」 
 「一時間以上かかると思います」
 「そうか。じゃあ、今回は無理だな」
 阿蘇には、七月、女子部の会館として白菊講堂が、オープンする予定であった。
 マイクに向かった伸一は言った。 
 「今度、白菊講堂ができましたら、私も必ず伺います。熊本は、本当に、いいところです。すばらしい人材が光っています。また、おじゃまします」
 彼は、可能ならば、日本全国の、いや全世界のすべての会館を訪問し、その地域で広宣流布のために奮闘する同志と会い、共に語らい、励ましたかった。自分の体が一つしかないことに、口惜しさを覚えることもあった。
 伸一は、訪問できない地域の同志には、ひたすら題目を送った。″心は、常に一緒ですよ。私に代わって地域広布を頼みます″と叫ぶ思いで、唱題に唱題を重ねてきたのだ。
54  人材城(54)
 勤行会のあと、山本伸一は、急いで仕事に取りかかった。どこにいても、さまざまな報告の書類や、会長として決裁しなければならない事項が山積していた。
 執務の合間を縫うように、慌ただしく食事をし、また、執務を始めた。しばらくすると、同行の幹部から、「先生にお会いしたいと、さらに、多くの皆さんが詰めかけております」との報告があった。
 「わかりました。出発前に、また、勤行会をしましょう」
 午後一時半過ぎ、伸一は、熊本文化会館のロビーに顔を出した。そこで、前日、約束していた乃木辰志の母親に会った。母親は、清楚で小柄な婦人であった。
 「昨日、息子さんから、お母さんのことを伺いました。子どもさんは、全部で何人いらっしゃるんですか」
 「はい。辰志の下に弟がおります。弟も歯医者をめざして、大学の歯学部で学んでおります」
 「そうですか。二人の子どもさんを、広布後継の立派な医師に育ててください。
 ところで、ご主人のお仕事は、うまくいってますか」
 「不景気ですので、必ずしもうまくいってはおりません」
 「そういう時こそ、ご主人に、優しく接していくことが大事ですよ。『信心していないから行き詰まるのよ』などと言って、追い込むようなことをしてはいけません。ご主人も心の底では、″信心するしかないかな″と思っているんです。でも、格好がつかないんです。その心をよく理解して、聡明に、ご主人を応援し、一家の幸せを築いていくんです」
 妻が夫の入会を真剣に願うのは、一家の幸福を願う心の、自然の発露であろう。
 しかし、信仰をめぐって争い、仲たがいすることは愚かである。夫に幸せになってほしいという原点に立ち返ることだ。その愛情と思いやりに富んだ言葉、行為をもって、夫を包んでいくのだ。そこに仏法がある。
55  人材城(55)
 午後二時前、熊本文化会館の大広間に姿を現した山本伸一は、「さあ、皆で万歳を三唱しましょう」と提案した。
 喜びに満ちあふれた参加者の「万歳!」の声が、雷鳴のように轟いた。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「今日の私の話は、簡単なんです。
 まず、『勤行はきちんとしましょう』ということです。それが、信心の基本ですから。
 そして、太平洋のような大きな心で信心に励んでください。信心していても、いやな人と出会うこともあれば、大変なこと、辛いことも、たくさんあるでしょう。しかし、そんなことに一喜一憂するのではなく、大きな心で生きていくんです。仏の使いですもの。
 悩みは、誰にでもあります。それに心を奪われて、希望をなくし、歓喜をなくしてしまってはなりません。
 怒濤をも包み込む大海の境涯で、悠々と、また堂々と、広宣流布という人類史の大ドラマを演じていこうではありませんか!」
 それから彼は、ピアノに向かい、「荒城の月」「厚田村」などを、次々と演奏していった。さらに、小さな子どもたちがいることから、「春が来た」や「夕焼小焼」などの童謡も弾いた。
 「では、これから勤行をしましょう」
 朗々たる伸一の読経が響き、皆の声が一つになった。
 伸一は祈った。ひたぶるに祈った。
 ″立ち上がれ! わが師子よ!
 君も、君も、あなたも、あなたも……新しい戦いの幕を開くのだ。困難を恐れるな! 波浪に屈するな! 私と共に、力の限り、生命の限り、広宣流布の使命に生きよう。そこに人生の勝利と幸福の大道があるからだ″
 伸一は、出発時刻ぎりぎりまで、熊本の同志を励ました。出会いを紡ぎ、心を結び、魂を注ぎ込んだ。
 彼は、愛する同志のために、一身を投げ出す覚悟で激励行を続けたのである。

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