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日蓮大聖人・池田大作

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第25巻 「薫風」 薫風

小説「新・人間革命」

前後
2  薫風(2)
 山本伸一は、山口訪問を終え、北九州文化会館に到着するや、直ちに、記念植樹、記念碑の除幕式に臨んだのである。
 それから彼は、館内を回った。北九州文化会館は、一月に開館した新法城である。
 伸一は、九州の幹部らに言った。
 「北九州は、先駆の使命を担う九州のなかでも、その先駆となってきた。そこに、立派な文化会館ができた。また、九州各県に次々と新しい文化会館が誕生している。大発展の基盤は着々と整いつつある。この文化会館を活用して、青年をどんどん育成していこう。
 いかなる世界でも、青年を本気になって育てなければ、未来の発展も、勝利もない。すべてを、青年のために注ぎ尽くすんだ」
 ほどなく、三階の和室で、伸一を囲んで懇談会が行われた。参加者は、男子部を中心とした九州方面や福岡県の幹部ら十数人であった。懇談が始まると、福岡県男子部長の安宅清元が、襟を正して語り始めた。
 「本部幹部会の司会では、ご迷惑をおかけし、大変に申し訳ありませんでした!」
 安宅は、四日前の五月十八日に福岡で行われた五月度本部幹部会で、司会を務めた。
 しかし、疲れていたのか、声に張りがなく、元気がなかった。集った人びとも、″晴れの本部幹部会の雰囲気には、そぐわない司会である″との感じをいだいたようだ。
 さまざまな折に、直接、各地の青年たちを育成したいと考えていた伸一は、今、この時が、訓練の絶好の機会だと思った。そして、安宅に、あえて、厳しい口調で言った。
 「そんな声では、みんなが、やる気をなくしてしまうよ。司会交代!」
 何度も司会を経験している、東京から同行してきた青年部の幹部に代わった。
 安宅は、″本部幹部会という重要な行事で、なんという大失態を演じてしまったんだ″と思うと、生きた心地がしなかった。
 しばらくすると、伸一が笑顔で言った。
 「司会復帰! 先輩のやり方を見て、どうすればいいか、学んだね」
3  薫風(3)
 安宅清元は、再び司会として、全身の力を振り絞る思いで、次の登壇者を紹介した。
 山本伸一は、黙って頷きながら、安宅に視線を注いでいた。
 本部幹部会が終わると、安宅は、伸一に手紙を書いた。自分の失態を詫び、「必ず、日本一の司会ができるように、頑張ってまいります」と、決意を認めたのである。
 伸一は、彼の青年らしい、その前向きな心意気が嬉しかった。
 人には、必ず失敗があるものだ。失敗は、恥ではない。そのことで落ち込んでしまい、くよくよして、力を発揮できない弱さこそが恥なのだ。また、同じ失敗を繰り返すことが恥なのだ。失敗があったら、深く反省し、そこから何かを学ぶことだ。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないことだ。さらに、それをバネにして、大きな成長を遂げていくのだ。その時、失敗は財産に変わるのである。
 九州にゆかりの作家・長与善郎は、小説の登場人物に、青年への期待を語らせている。
 「自分の信ずるとおりに大きく歩きぬいて、次のいい時代の先駆者になり、人類の柱になってほしく思う」と。
 それは、伸一の思いでもあった。
 北九州文化会館の懇談で、伸一は、安宅をはじめ、青年たちに言った。
 「今日は、司会について語っておきます。
 司会者は『会の進行を司る人』なんだから、会合を行ううえで、極めて重要な役割を担っているんです。会合の成否は、司会によって決まる部分が大きい。
 したがって、司会者は、″自分が、この会合の一切の責任をもつのだ″″自分の一声で、会場の空気を一変させ、求道と歓喜の、仏法の会座へと転ずるのだ″という決意がなくてはならない。私も、そうしてきました」
 伸一は、青年時代、さまざまな会合の司会を担当してきた。なかでも、彼にとって忘れ得ぬ司会となったのが、一九五五年(昭和三十年)三月十一日、北海道・小樽市公会堂で行われた「小樽問答」であった。
4  薫風(4)
 「小樽問答」は、学会に入会した身延系日蓮宗の檀徒であった夫妻に、日蓮宗の僧が、学会に御本尊を返却するように勧め、脱会を促したことに端を発している。それが、教えの正邪をめぐって、日蓮宗と日蓮正宗との法論対決へと発展していったのだ。しかし、結局は、日蓮正宗の代表として創価学会教学部が、法論を受けて立ったのである。
 法論には、日蓮宗側と学会側が、それぞれ司会を立てることになった。その司会は、自分たちの主張のうえに立って、取り決めにしたがい、問答を進行する役割を担っていた。
 山本伸一を、この法論の司会者に指名したのは、戸田城聖である。戸田は、″今回の法論においては、司会者のいかんが、勝敗を大きく左右する″と考え、こう明言した。
 「司会者は伸一以外に考えられない!」
 そして、日蓮宗と正邪を決する、歴史的な大法論の司会者が、二十七歳の伸一に決定したのである。この戸田の期待に、彼は、見事に応えた。「まことの時」に、師の期待に応えてこそ、真の弟子である。
 伸一は、法論冒頭の司会者あいさつで、全国各地にあって、身延の日蓮宗から、何千、何万の人が学会員となっている事実をあげ、それが、どちらが正しいかを厳然と証明していると、断言したのだ。開口一番、学会の主張を要約し、大確信をもってぶつけたのだ。
 その烈々たる師子吼のごとき気迫に押され、身延側は静まり返った。まさに、「師子の声には一切の獣・声を失ふ」との事態が現出したのである。
 一方、学会側の聴衆からは、万雷の拍手が湧き起こった。登壇者も元気づき、その表情には、闘魂と活気が満ちあふれた。この時、勝利への突破口が開かれたのである。
 身延側は、法論で、しどろもどろになり、最後は、時間がきたことを理由に、法論を切り上げ、早々に退去しようとした。創価学会の大勝利は、誰の目にも明らかであった。
 司会の伸一によって、閉会が告げられた。それは、おのずから勝利宣言となった。
5  薫風(5)
 戸田城聖が出席した最後の大行事となった、一九五八年(昭和三十三年)三月十六日の広宣流布記念の式典で司会を務めたのも、山本伸一であった。
 当初、式典には、戸田の友人である、時の総理大臣も出席する予定であった。集った六千人の参加者は、日本の未来を担う柱である創価青年の心意気を見せようと、張り切っていた。しかし、直前になって、総理の出席はなくなり、名代として、夫人や娘婿らが出席することになったのである。
 戸田は、総理の出欠のいかんにかかわらず、この日の式典を、広宣流布の一切を青年たちに託す儀式にしようと考えていた。
 その戸田の心を知る伸一は、皆の落胆を吹き払い、地涌の菩薩が末法広宣流布を誓う、あの久遠の契りを呼び覚ます思いで、司会の第一声を放ったのである。
 自身の一声で、六千人の心を奮い立たせることができるか――真剣勝負の一瞬だった。
 そして、この日の式典は、師匠・戸田城聖から、広布後継の印綬の旗を譲り受ける、荘厳なる儀式となったのである。
 伸一は、自身の懐かしい思い出の糸を紡ぎながら、九州の青年たちに語っていった。
 「まず、司会者にとって、最も重要なのは、声の響きです。さわやかで、力強く、満々たる生命力に満ちあふれていなければならない。その声で、時には軽やかに、時には厳粛に、皆の心をリードしていくんです。
 さらに、言葉は明瞭で大きく、誰もが、よく聞き取れなければならない。また、顔色にも注意が必要です。疲れ切ったような、青白い顔ではいけません。したがって、司会という大任を受けたならば、前夜は、よく睡眠を取り、当日は、しっかり唱題し、ちゃんと食事をして臨むことです。そして、司会席に着いたならば、姿勢にも気を配らなければならない。背筋は、きちんと伸ばすんです」
 伸一の話は、精神に始まり、具体的な事柄に及んでいった。具体性を欠いた指導は、実践に結び付かずに終わってしまうからだ。
6  薫風(6)
 山本伸一の話を聞いて、安宅清元には、思い当たる節があった。本部幹部会が行われる福岡県の男子部長である彼は、諸準備に多忙を極め、睡眠不足が続いていた。また、前日も、当日も、十分な唱題の時間が取れぬまま、本部幹部会を迎えてしまったのだ。
 司会で失態を演じてしまったあと、安宅は、深く反省した。
 ″ぼくは、忙しかったことは確かだ。しかし、必要な睡眠時間も、唱題の時間も本当に取れないほど、多忙だったのか……。
 一つ一つを冷静に見ていくと、一生懸命に取り組んでいたつもりでも、いつの間にか惰性化し、だらだらと時間を費やしていた面があったように思う。
 また、心のどこかに、先生を迎えての、広宣流布のための行事運営なんだから、すべて守られるだろうという、安易な気持ちがなかったか……″
 いわば″油断″があったのだ。それが著しい睡眠不足、唱題の不足を生み、弱々しい生命力の司会となってしまったのだ。結局は、創価学会の前進の活力源となる本部幹部会の司会を、軽視していたと言わざるを得ない。
 伸一は、安宅を笑顔で包み込むように、話を続けた。
 「また、司会をする際に大事なのは、″間合い″です。間髪を容れずに言葉を発しなければならない場合もあれば、一呼吸置くことが大事な場合もある。そのタイミングを間違えてしまうと、会合の雰囲気を壊してしまうことになりかねない。
 たとえば、『暑い方は、上着をお取りください』と言っておいて、みんなが背広を脱いでいる途中で、次の登壇者を紹介したらどうなるか。拍手したくともできず、ざわざわしたなかで、次の人の話が始まることになる。
 その場合は、脱ぎ終わるのを待って、さらに一呼吸置き、参加者の意識を整えてから、声を出すんです。会合に限らず、演劇も、舞踊も、音楽も、″間″の取り方に、成否のカギがあるんです」
7  薫風(7)
 懇談会の参加者の目は、吸い寄せられるように、山本伸一を凝視していた。司会の在り方について、これほど詳細に話を聞いたのは、皆、初めてであった。
 伸一は、さらに、司会者に求められる要件について語っていった。
 「臨機応変な対応力をつけることも、司会者にとっては、極めて大事です。
 会場の前の方はすいているのに、後ろの方は、ぎっしりと人で埋まり、廊下にまであふれている時には、タイミングを見計らって、前方に詰めてもらわなければなりません。
 会合の開始から長時間たって、皆、腰が痛そうな時には、軽い体操をしてもらった方がいい場合もあります。さらに、暑ければ、上着を脱いでもらうことも必要です」
 また、会合によって、司会者の対応の仕方も異なってくる。セミナーのように、多くの友人が集って行われる催しであれば、参加した方々の緊張を解きほぐし、ゆったりとした気持ちで話を聴けるような、話し方や気配りが大切になろう。 
 「仏法では、『随縁真如の智』を教えています。縁に随って顕現する真実にして常住の智慧が、衆生の一念に収まっているということです。つまり、司会者は、この『随縁真如の智』を最大限に発揮していかなければならない。
 それには、″自分が司会を担当する会合は、必ず大成功させてみせる″という、強い決意のこもった唱題が不可欠なんです。
 学会の会合は、広宣流布のためのものであり、それは、現代における法華経の会座ともいえます。したがって、その司会をするということは、御書に『声仏事を為す』とあるように、仏の聖業に加わるということになるんです。司会者は、常にその自覚を忘れてはなりません」
 青年たちは、伸一の指導に、目の覚める思いがした。自分たちが、司会の重要性を深く理解していなかったことに気づき、恥じ入りながら、伸一の話に耳を傾けていた。
8  薫風(8)
 青年たちは、一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で、山本伸一の話を聞いていた。伸一は、その真摯な姿勢に好感をいだき、少しでも多くのことを語っておこうと思った。
 「司会者は、勤行の副導師を務めることもあるので、今日は、副導師の基本についても話しておきます。
 副導師をする場合には、まず、導師の声をよく聴いて、その声に、合わせていくことです。導師を差し置いて、先に進んでしまってはならないし、遅くなってもいけません。
 そのうえで、白馬が天空を駆けるような、軽快なリズムの勤行にしていくことです。
 また、大人数で勤行をすると、読経も、題目も、だんだんと遅くなりがちです。副導師は、それに引っ張られてしまうのではなく、軽やかなテンポで、みんなをリードしていかなくてはならない。
 さらに、読経の発音は、明瞭であることが大事です。そうするには、日々の勤行の際に、いい加減な発音になっていないか、息継ぎの場所は適切かなど、よく注意し、完璧な勤行をめざして、努力していくことです。
 ともかく、音吐朗々と、さわやかに、力強い勤行を心がけることです。この九州訪問では、副導師の訓練もしていきます」
 それから伸一は、メガネがよく似合う、秀でた額の青年に声をかけた。北九州文化会館がある小倉北区の男子部長で、歯科医師の福富淳之介である。
 「仕事は、うまくいっているの?」
 「はい。昨年の三月に歯科医院を開業しました。すべて順調です」
 伸一は笑いながら言った。
 「それはよかった。嬉しいよ。でも、それならば、今日は、激励するのはやめておきます。すべてうまくいき、幸せそうな人は、励まさなくても大丈夫だもの。
 苦しみながら、最悪の状況のなかで、健気に頑張っている人こそ、私は、全力で、生命を注ぐ思いで励ましたいんです。そうしていくのが仏法者であり、学会の心なんです」
9  薫風(9)
 九州の幹部が、山本伸一に言った。
 「北九州には、福富さんのほかに、あと二人、男子部の幹部として活躍している歯科医師がおります」
 「みんな、よく知っています。四年前、北九州で行われた九州青年部総会のあとに、お会いしました。ほかの二人は元気かな」
 福富淳之介が答えた。
 「二人とも、今日は役員として、この会館に来ております」
 「それなら、すぐにお呼びして!」
 ほどなく三人の青年歯科医がそろった。福富と、大内堀義人、三賀正夫であった。
 「懐かしいな。みんな、歯医者さんらしくなったね。歯科医師が男子部の幹部となり、役員として、陰の力に徹し、黙々と頑張っている。その姿が尊いし、私は嬉しい。それが、創価学会の本当の姿です。
 社会的に、それなりの地位や立場を得ると、自分が特別に偉いかのように思い、学会員を見下したり、学会活動を軽んじるようになってしまう人もいます。
 しかし、医師だから、弁護士だからといって、特別に偉いわけではない。どの職業も、社会に必要なんです。優秀な医師でも、おいしいお米を作ることはできないし、有能な弁護士だからといって、家を建てることはできない。職業に貴賤なしです。
 ところが、自分がいちばん偉いのだと勘違いしてしまい、地道な仏道修行を怠り、信心という一生成仏への直道を、踏み外してしまう。これほど、愚かなことはありません。
 自他共の、生涯にわたる絶対的幸福を築くだけでなく、未来永劫の幸福の道を教えているのが仏法です。永遠の平和と人類繁栄の哲理を説いているのが仏法です。
 ゆえに、その仏法を実践し、伝え抜いていった人こそ、いちばん尊貴で偉いんです。
 どうか、皆さんは、社会的な地位や立場に幻惑されるのではなく、どこまでも一途に、真の仏法者として、創価の大道を歩み抜いてください」
10  薫風(10)
 三人の青年歯科医は、山本伸一の指導に、大きく頷いた。
 最初から懇談会に参加していた、小倉北区の男子部長・福富淳之介は、福岡県田川の出身で、入会は一九六八年(昭和四十三年)三月、九州歯科大学の三年生の時であった。
 彼は、人体解剖の実習で、激しい苦悶の表情をした遺体を目にして、衝撃を受けた。以来、″なぜ、死相に大きな違いがあるのか。何が、それを決するのか″という疑問が、頭から離れなかった。
 また、医学の勉強が進めば進むほど、人間の生命の不可思議さに当惑する思いに駆られた。″なぜ、人は死ぬのか″″死後、生命はどうなるのか″ということが、常に、心にのしかかっていた。そして、生きることの、はかなさ、もろさを感じ、″どうすれば、限りある人生の時間を、悔いなく生きることができるのか″と、考える日々が続いた。
 彼の父親は、田川で歯科医院を営んでいた。父には胆のう炎の持病があり、福富は、小倉の漢方医に薬を処方してもらい、それを実家に届けていた。その漢方医から、ある時、仏法の話を聞かされた。
 「歯科医をめざすあなたには、ぜひ、仏法の生命哲学を学んでほしいと思っていたんですよ。創価学会のことを知っていますか」
 「ええ、ある程度は知っています」
 福富は、周囲から聞いていた、学会の風評を思い出し、それを語った。
 すると漢方医は、厳とした口調で言った。
 「拝めば、病気も治り、金も儲かるなどと言って、無知な民衆を騙している宗教というわけですか――とんでもない誤解です。
 仏法は、生命の因果の法則を説いているんです。つまり宇宙の根本法に則って生きることによって、自分を人間革命し、自身に内在する生命力を引き出して、幸福境涯を確立していく道を教えているんですよ」
 ――「真実は、中傷批判に対する最高の弁明である」とは、アメリカの奴隷解放の父・リンカーンの至言である。
11  薫風(11)
 漢方医は福富淳之介に、生命は三世永遠であることや、「色心不二」「依正不二」「一念三千」など、仏法の生命哲理を語っていった。
 福富が、初めて耳にすることばかりであった。彼は、常々、疑問に思っていた生命の不可思議について、次々と質問した。疑問の多くが氷解し、未知の世界が豁然と開かれていく思いに駆られた。自分の探し求めていた答えが、創価学会のなかにあるのかも知れないと思った。
 また、一学生の自分に時間を費やして、懇切丁寧に仏法の法理を語ってくれる漢方医の誠実さと人柄に、好感をいだいた。
 対話が始まってから三時間、福富は、自ら頭を下げて言った。
 「ぼくも信心させてください!」
 入会した福富は、同じ九州歯科大学の四年生で、グループ長の大内堀義人や、福富と同学年の三賀正夫と出会った。
 大内堀は、鹿児島県出身で、入会は、福富より二年ほど早かった。彼も、医学を学ぶにつれて、生命に対して不可思議さを感じた。″生命とは何か″と、思索を重ねていた時、帰省する車中で知り合った学会員から仏法の話を聞いた。それが契機となって、自ら求めて入会したのである。
 また、三賀は、新潟県の出身で、福富より一カ月早い、一九六八年(昭和四十三年)二月の入会であった。
 彼は、大学に入学すると、「無歯科医村研究会」に入った。無医村や無歯科医村をなくす方法を研究したかったのだ。
 国は、国民皆保険制度を敷き、毎月、保険料を徴収しながら、医師不足や医師の都市集中のため、無医村や無歯科医村の人びとは、平等に医師にかかることができない。国が、その解決に有効な手を打たないことに、彼は、強い怒りを覚えていたのだ。
 青年、なかんずく学生が、世の中の矛盾、不合理を看過したり、黙認してしまえば、社会の改革も、自身の成長もない。鋭い批判力は、青年のもつ最大の武器である。
12  薫風(12)
 三賀正夫は、九州歯科大学の二年先輩にあたる学会員の恒光吉彦と、「どうすれば無歯科医村をなくせるか」について、語り合ったことがあった。
 「国の制度を変え、歯科医のいない地域への勤務を義務づけるべきだ」とする三賀の意見に対して、恒光は言った。
 「制度を変えるだけでは、この問題は解決しないだろうね。いやがる人間を強制的に辺地に行かせたとしても、現地の人たちに本当に喜んでもらえる医療ができるだろうか。
 医師が、その仕事に大きな意義を見いだし、自分の使命であると自覚して、本気になって取り組むことが、最も大事な要件じゃないかね。つまり、医師自身が変わらなければ、本当の解決はない。
 もっと言えば、制度の改革だけでは、人間の幸福を実現することはできないということだ。たとえば、現代は、主権在民だし、身分制度はなくなった。しかし、本当に皆が平等かというと、かたちを変えて、さまざまな差別があるじゃないか。また、公害の蔓延が人間を脅かしているが、その本質的な要因は、人間の欲望にある。それに、人間不信や疎外感、孤独感といった苦悩は、むしろ激しさを増してきているじゃないか。
 政治も、経済も、産業も、教育も、すべて人間のもたらした産物だ。したがって、何を改革していくにせよ、根本は、一切の創造の主体者である人間自身の変革がなくてはならない。その人間革命の道を教えているのが日蓮大聖人の仏法であり、それを民衆運動として展開してきたのが創価学会なんだよ」
 人間革命の必要性は、三賀も納得することができた。しかし、″創価学会はいやだ″と思った。彼の父親は、新潟で呉服店を営んでいたが、父の実家は他宗派の寺であった。その父から、「学会は檀家を奪う、とんでもない宗教だ!」と聞かされて育ち、いつの間にか三賀も、そう信じ込んでいたのだ。
 偏見とは、認識なくして評価することだ。その偏見との戦いが、仏法対話なのである。
13  薫風(13)
 三賀正夫は、恒光吉彦に、自分がいだいていた創価学会の印象を語った。
 「創価学会というのは、強引な布教と選挙で勢力を伸ばしてきた新興宗教ではないですか。ぼくは嫌いです。そもそも、創価学会には、宗教としての敬虔な祈りといったものがないでしょう」
 恒光は、思わず笑ってしまった。
 「三賀君は、学会のことを何も知らないで批判しているんだね。
 学会員は、朝晩、真剣に勤行し、最高の経典である法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と題目を唱えているんだよ。また、学会の活動というのは、互いに励まし合い、失意と絶望の淵にいる人たちに、希望と勇気を与え、人生の勝利者へ、社会建設の主体者へと蘇生させていく、一大民衆運動なんだよ。
 何も知らないで批判するというのは、青年として、いや、人間として恥ずべきことではないかと思う。学会を、自分の目で見て、実際に、活動にも参加したうえで、評価すべきではないか」
 三賀は、そう言われると返す言葉もなかった。やむなく、学会の実態を確認するために座談会に参加した。
 そこには、笑いが弾け、感動の涙があり、賞讃と励ましの温かい拍手があった。大病を患ったが、信仰を心の支えに病に打ち勝ったと、喜びの涙にむせびながら、仏法の偉大さを訴える婦人もいた。また、僧侶でもない、″普通のおじさん、おばさん″が、他人の幸福のため、社会のために働く喜びを、力強く語っていた。そうした姿に、彼は驚嘆した。
 当時、東京大学医学部の紛争が次第に激化し、大学紛争が大きなうねりになろうとしていたころである。時代、社会の変革は、多くの学生たちのテーマであり、三賀にとっても、大きな人生の課題であったのである。
 彼は、思った。
 ″学会は、民衆という社会を支える土台から変革している! しかも、人間の精神という内面からの変革を実際に行っている!″
14  薫風(14)
 座談会で感嘆した三賀正夫は、恒光吉彦の強い勧めもあり、″もっと創価学会のことを知ろう″と、入会したのである。
 恒光は、三賀と福富淳之介が入会した翌年には九州歯科大学を卒業し、故郷の宮崎県に帰っていった。
 学内では、大内堀義人、三賀、福富の三人が、学生部の活動の核になっていった。
 彼らの家族は、皆、創価学会に入会したことに、賛同していたわけではなかった。親にどう学会を理解させるかが、共通の悩みであり、テーマであった。
 大内堀の父親は、高校の教師であり、「信心には反対だ!」と言明していた。
 三賀の父親は、信心については静観していた。しかし、三賀が入会後、卒業を待たずに学生結婚してしまったことから、怒って、仕送りを打ち切ってしまった。学会とは、全く関係のないことであったが、父親は、信心と結びつけて考えたようだ。やむなく三賀は、塾の講師などのアルバイトや、奨学金によって、生計を立てた。
 福富の父親は、入会したことについて、福富自身には、何も言わなかった。しかし、福富の母親には、「淳之介は何を考えているのだ!」と語っていた。そして、入会した翌月から、仕送りは激減していった。
 彼も、アルバイトで、牛乳配達や塗装の手伝い、家庭教師などをして働いたのである。
 そんな彼らを、励ましてくれたのが、学生部の先輩たちであった。ある先輩幹部は、こう激励してくれた。
 「日蓮大聖人の門下に、池上兄弟として知られる、兄・宗仲、弟・宗長がいた。父の康光は、極楽寺良観にたぶらかされて、兄弟の信心に反対し、兄の宗仲を二度も勘当する。
 大聖人は、この池上兄弟に、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず』と言われている。大聖人の仏法は、万人を成仏させる最高の教えだからこそ、その信心を阻もうとする魔が競い起こってくるんだよ」
15  薫風(15)
 池上兄弟の父・左衛門大夫康光によって、兄の右衛門大夫宗仲が勘当されたということは、弟の兵衛志宗長にとっては、家督相続のチャンスが巡ってきたことになる。鎌倉時代の武家社会にあって、勘当は、家督相続権を失い、経済的基盤も、社会的な立場も失うことを意味していた。つまり、この勘当には、団結して信心に励む兄弟を、仲たがいさせようという狙いがあったのである。
 弟の宗長に動揺が生まれた。それを感じ取った大聖人は、二度目の勘当に際し、宗長に、「あなたは、今度は退転するでしょう」と言われ、あえて、こう指導されている。
 ――百に一つ、千に一つでも、日蓮の教えを信じようと思うならば、親に向かって、兄と共に、信心を貫くと言い切りなさい。
 また、兄弟に、「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」とも言われている。大聖人の仏法は、自分自身が一生成仏できるだけでなく、親をも成仏させることができる大法である。その正法を親が「捨てよ」と言う時には、親に随わないことが、孝養の根本となるのである。
 また、「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり」との御指導もある。信心に励むこと自体が、最高の親孝行になるのだ。さらに、この御文は、信心をした人は、親孝行を疎かにしてはならないと拝することもできよう。父母への孝養、報恩を尽くすのが仏法者の道なのである。
 大聖人は、出家の目的を「必ず父母を・すくはんがためなり」とお述べになっている。親孝行、親への報恩の最高の道は、一生成仏を約束する妙法を教えることにあるのだ。
 九州歯科大学の三人の学生部員は、親の反対に屈せず、真剣に信心に励んでいった。
 「闘い抜く価値のあるもので、障害のないものがこの世にありうるだろうか」とは、近代医学の父ウィリアム・オスラーの信念の言葉である。
16  薫風(16)
 学生部の先輩のなかには、生活が大変な福富淳之介や三賀正夫を心配し、餃子などを持って、下宿を訪ねてくれた人もいた。
 「大聖人は、池上兄弟の奮闘を見て、『未来までの・ものがたり物語』と賞讃されているんだよ。君たちも、その戦いが、将来、みんなに語り伝えられ、広宣流布の歴史に残るような、偉大な、悔いのない生き方をしてもらいたい。
 歯一本は、いちばん大きい歯だって、直径一センチぐらいなものだ。もし、その歯を治療して、金を儲けることしか考えないとしたら、直径一センチの、小さく狭い境涯でしかないと言えるんじゃないかな。しかし、″妙法の歯科医師″となって、広宣流布という人類の幸福と平和をめざして生きるなら、自分の境涯は、世界を包むことになる。
 だから、生涯、信心を貫き、広宣流布の使命に生き抜くんだよ。
 さあ、餃子も、どんどん食べてくれ。仕送りがないからといって、くよくよするんじゃないよ。食べて元気を出せよ」
 先輩は、皆に餃子を勧めたが、自分は、ほとんど、手をつけなかった。三人が餃子をたいらげた時、「ぐぐぐーっ」と、腹の鳴る音がした。その先輩の腹だった。彼は、二部(夜間部)に学ぶ学生であり、生活は、決して楽ではなかったのだ。
 福富たちは、先輩の真心が、五臓六腑に染み渡る思いがした。
 地区の婦人部の、こまやかな心遣いにも、勇気づけられた。地区の拠点に行くと、ふんだんにオニギリや茶菓子などを用意して、励ましの言葉をかけてくれるのだ。
 「親御さんの理解も得られないのに、頑張っているなんて、本当に偉いわ。将来、立派な歯医者さんになるあなたたちが、一生懸命に信心していること自体が、私たちの誇りなんだからね。何があっても頑張り通すのよ」
 剛速球のような信心の指導と、創価家族の真心の励ましと人間性の温もりが、彼らの使命感を孵化させ、育んでいったのである。
17  薫風(17)
 九州歯科大学の福富淳之介、三賀正夫、大内堀義人の三人は、一生懸命に学会活動に取り組んだ。弘教に励むと、生命の躍動感がみなぎり、広宣流布に生きる喜びを実感することができた。彼らは、経済的な逼迫も、苦には感じなかった。よく一緒に即席麺をすすりながら、こう言って笑い合った。
 「社会は大学紛争で、スチューデントパワーの時代といわれている。でも、ぼくらは、スチューデントプア(貧乏学生)だな」
 さらに、教学を学ぶなかで、仏法の生命の法理に感嘆した。また、座談会などに出席するたびに、病苦や生活苦に行き詰まり、死をも考えるような絶望の淵から蘇生した、壮年や婦人の体験を聞いた。
 それらを通して、信心への確信を、より深めていったのである。
 同志との友情と連帯の絆、歓喜の実感、教学の深化、体験の共有――そこに、信心の成長を促し、人材を育てていく要件がある。
 福富たち三人が山本伸一と会い、初めて言葉を交わしたのは、第一回「九州青年部総会」(北九州市・新日鉄大谷体育館)が行われた、一九七三年(昭和四十八年)三月二十一日のことであった。総会終了後、北九州会館で、伸一を囲み、大学会メンバーや女子部の代表らとの懇談会がもたれたのである。
 彼らも、九州歯科大学会のメンバーとして、ここに参加したのだ。三人とも、既に歯科大学での六年間の学生生活を終えていた。
 福富と三賀は、勤務医などをしながら、歯科医院の開業をめざしていた。しかし、大内堀は、開業すべきかどうか、進路に悩んでいたのである。
 懇談会の折、大内堀は、意を決して伸一に尋ねた。彼は、普段から、一見、取っつきにくい印象を与えた。その彼が、緊張して語り始めた。目はぎらりと光り、表情はこわばっていた。
 「先生! 質問があります」
 「なんだい。怖い顔をして……」
18  薫風(18)
 大内堀義人は、山本伸一に語った。
 「私は、現在、母校の九州歯科大学で助手をしております。大学卒業後、炭鉱の病院に勤めておりましたが、炭鉱の閉山にともない、病院も閉院したため、大学に戻りました。
 今後の進路として、このまま母校で研究・教育の道を歩むか、開業して地域に貢献すべきか迷っております」
 伸一は、微笑を浮かべ、ユーモアを交えて答えた。
 「そんなに怖い顔をしていたら、開業しても、患者さんは来ないよ。
 それは冗談だが、君は、一途で、探究心が強そうだから、大学に残って研究を重ねる方が、いいかもしれないね。君は、研究者、教育者に向いているように、私には思える。
 民衆のために頑張ろうという、優秀な歯科医を、たくさん育ててほしいんだよ」
 大内堀は、自分の性格を見抜いたうえでの、伸一のアドバイスであると感じた。彼の心は決まった。
 「ほかにも、九州歯科大学のメンバーがいたね。あとの人たちは、どうするの?」
 すると、福富と三賀が立って、開業医をめざしていることを語った。
 「そうか。大内堀君の大学での研究が、患者さんに役立つように、しっかり連携し合っていくんだよ。
 大学での研究が、ただ、研究のためだけに終わってしまっては、なんにもならない。また、開業医も、日々、進歩している研究の成果を、どう取り入れていくか、真剣に勉強していく必要がある。最新の研究が医療の現場で、患者さんの役に立っていくことが大切なんです。
 歯科医に限らず、医療者にとって大事なことは、患者さんの立場に立って、ものを見ていくことです。私は、名医の第一の条件は、患者さんの気持ちがわかることだと思っています。つまり、同苦の心をもつことです」
 伸一の指導は、三人の歯科医師にとって、人生の指針となったのである。
19  薫風(19)
 山本伸一は、大内堀義人に言った。
 「研究者のなかには、ともすると、独り善がりになり、自分が、いちばん偉いように思ってしまう人がいる。すると、研究面でも、視野が狭くなり、伸びていかなくなってしまうものです。すべての人から学んでいこうという、謙虚な向上心が大事なんです。
 特に、信心の世界にあっては、学会の組織から孤立してしまったり、求道心を失うようなことがあれば、行き詰まってしまいます。
 学会の本流に身を置き、先輩とよく相談しながら、広宣流布に邁進し抜いていってもらいたい。それが重要なんです」
 その語らいから四年ぶりに、伸一は、北九州文化会館で、三人の歯科医師と会ったのだ。皆、決意通りの道を進んでいた。
 福富淳之介は前年三月、三賀正夫は今月、それぞれ北九州市内に、歯科医院を開いたのである。また、学会の組織にあっても、福富は小倉北区の男子部長をしており、三賀は八幡西区の男子部長をしていた。
 二人が北九州にとどまったのは、自分の信心の故郷になった地で、社会貢献することによって、地域への恩返しをしたいとの思いからであった。
 一方、大内堀義人は、九州歯科大学で、助手として研究・教育にいそしみ、学会の組織では、北九州圏の男子部指導部長に就いていた。
 さらに、福富の父親も、大内堀の父親も学会に入会していた。三賀の父親は、入会はしていないものの、学会のよき理解者となって、さまざまな協力を惜しまなかった。
 彼らは、学会活動に励むなかで、戸田城聖が″青年の戦い″として示した「青年訓」の次の一節を、深く心に刻んできたのである。
 「青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」
 そして、親を愛し、その恩に報いる自分になろうと深く心に決め、実践してきたのだ。
20  薫風(20)
 九州歯科大学の学生であった三人の青年たちは、入会後、両親に、幸せになってほしいとの思いを強くしていった。
 彼らは、両親の入会を真剣に祈るとともに、気遣いを大切にしてきた。帰省する時には、感謝の思いを込めて、アルバイトでためたお金で土産を買った。
 近況を知らせる手紙も、よく書くようにした。そこには、常に、御礼の言葉を記した。
 福富淳之介の場合、父親は、当初、学会を中傷する噂話を鵜呑みにし、″学会は反社会的な宗教″であると、頑なに思い込んでいた。そこで、真実の創価学会の指導と姿を知ってもらおうと、山本伸一と海外の識者などとの対談等を報じた機関紙誌を、実家に送るようにしてきた。
 また、歯科医師である父に、仏法の生命哲理を知ってもらいたいと、「一念三千」などの法理を学んだ感動を、手紙に認めもした。
 福富は、仏法への確信が深まるにつれて、両親に仏法を教え、入会させたくてたまらなくなった。折々に、学会の話をしていった。そのなかで、まず、母親が入会した。
 一九七五年(昭和五十年)の秋、父親が腰を痛めて寝込んだ。歯科医師になっていた福富は、飛んで帰って、父に代わって治療に当たりながら、一日も早い回復を祈って懸命に唱題した。ほどなく父親は健康を回復した。そして、その直後に入会したのである。
 「真実というものは、真実の行いによってのみ、人々に伝えることができる」とは、トルストイの箴言である。
 山本伸一は、青年歯科医たちの、一段と成長した姿に目を細めた。
 「嬉しい。本当に嬉しい。歯科医として、しっかり技術を磨くことは当然だが、最も大事なことは、自分の人格を磨き、人間として信頼されていくことです。そして、地域に貢献していってください。さらに、人びとを幸福にするための正道である学会活動の、闘士であり続けてください。そこにしか、本当の人生の幸福も、勝利もないからです」
21  薫風(21)
 翌五月二十三日の午後一時、山本伸一は、北九州創価学会の支部結成十七周年を記念する勤行会に出席した。
 伸一の会長就任式となった、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の本部総会の席上、北九州創価学会の淵源となる、八幡支部と筑豊支部が結成され、十七周年を迎えたのだ。
 勤行会で伸一は、既成仏教が、今日、なにゆえ、葬儀のための宗教のようになり、活力を失い、民衆と遊離していったのかを考察していった。
 「その理由は、端的に言えば、宗教の伝統と権威の下に、民衆が従属させられてきたことにあります。信徒、民衆は、教団の権威に額ずき、何かを捧げなければ功徳がない、とする一方通行的な上下の関係がつくられてしまったことです。
 その結果、民衆の自発、能動に基づく、生き生きとした信仰活動の芽は摘み取られ、宗教の活力もまた、失われてしまったと見ることができましょう。
 それに対して、わが創価学会は、どこまでも民衆が主役であり、御本尊と一人ひとりが直結し、御書を根本に、互いに励まし合いながら、自己の人間完成と幸福、そして、社会の建設をめざすものであります。
 いわば、私どもの広宣流布は、宗教的権威の呪縛から、民衆を覚醒させ、人びとの自発と能動の力を引き出していく運動ともいえます。だからこそ、民衆の活力にあふれた、ダイナミックな活動が展開され、現代社会の新しい宗教運動の潮流を開くことができたのであります」
 伸一は、一人ひとりが御本尊と直結した信仰であってこそ、人間の平等観が確立され、民主的な運営がなされると確信していた。彼は、日蓮仏法が、永遠に生きた宗教として栄えゆく在り方を、考え続けていたのである。
 勤行会のあと、伸一は、市内を視察した。若戸大橋を渡り、高塔山公園などを訪れた帰りに、昨年三月、小倉北区に開業した福富淳之介の歯科医院の前を通ってもらった。
22  薫風(22)
 福富淳之介の歯科医院は、茶色のタイル張りの外壁で、二階建ての建物であった。同行の幹部に山本伸一は言った。
 「立派な造りだね。よかった。
 三賀君の歯科医院には行けないが、よろしく言ってください」
 伸一は、彼らの成長と勝利を、いつまでも見守っていこうと心に誓い、題目を送った。
 翌二十四日は、夕方から、北九州文化会館で福岡県創価学会の功労者追善法要が予定されていた。この日も伸一は、わずかな時間を見つけては、文化会館に来る人たちに声をかけ、一緒に記念のカメラに納まるなど、同志の激励に余念がなかった。
 追善法要では、導師を務め、厳粛に勤行を行い、懇ろに物故者を追善回向した。
 そのあと、マイクに向かった伸一は、誰人も避けて通ることのできない生死の問題を、三世の生命観のうえから、明確に説き明かしているのが、日蓮大聖人の仏法であることを述べ、その法理の一端を語っていった。
 「私どもの生命は永遠であり、今世から来世、来世から、さらに次の世へと生まれていく。それを順次生と言います。そして、今世の所業によって次生以後の果報、すなわち報いが決定されていくと説かれています。つまり、無始無終に連続する生命活動にも、厳然と因果の理法が存するのであります。
 今世において、御本尊を受持し抜き、強盛に信心を貫いた場合には、それが因となって来世の成仏が約束される。反対に、正法を誹謗した場合は、来世に無間地獄に堕ちる因をつくっていると説かれているんです。
 したがって、今世において、人びとの幸福を願い、広宣流布の使命に生き抜いていくならば、どんなに辛く苦しい思いをしようが、たとえば、大弾圧の果てに命を奪われようが、来世の成仏は間違いありません」
 三世の生命という法理を知ることから、正しい価値観も、人生観も、そして、真実のモラルも確立されるのである。
23  薫風(23)
 山本伸一は、さらに、「人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり……」の御文を引き、追善回向について語っていった。
 「親子、家族の絆は強い。成仏のためには、生前の故人の信心が最大の要件であることは当然ですが、残された子どもなど、家族が真剣に題目を送ることによって、故人を成仏に導くことができます。
 他界したあとは、回向される側の成仏・不成仏は、回向する側の信心のいかんにかかってきます。したがって、ご遺族など、回向する方々が、強盛に信心に励んでいくことが、大事になるんです」
 次いで伸一は、仏法で説く、「逆即是順」(逆即ち是れ順なり)の法理に言及していった。「逆」とは逆縁、すなわち、仏の教えを聞いて正法を誹謗することであり、「順」とは順縁を意味し、仏の教えを聞いて素直に信心することをいう。
 「逆即是順」とは、一切衆生は仏性を具えているがゆえに、たとえ正法を誹謗した人であったとしても、正法に縁したことが因となって、必ず成仏できることを説いたものである。
 「ゆえに、南無妙法蓮華経という大法をもって回向するならば、物故者の生命が悪業をはらんでいたとしても、悪は即善と顕れ、成仏させることができるのであります。しかも、この題目の回向によって、自分自身にも福運と威光勢力が具わっていきます。そこに、私どもの追善の深い意義があります」
 追善法要に続いて、伸一は、小倉南区で行われた、九州各部代表との懇談会に出席した。この懇談会が終了したのは、午後八時過ぎであった。
 彼は、腕時計を見ると、勢いよく立ち上がった。
 「まだ、間に合うな。田部会館に行こう」
 田部会館は、小倉南区の区長である田部忠司が提供している個人会館である。
24  薫風(24)
 田部忠司は、北九州文化会館の「会館守る会」の責任者であった。このグループは、会館の美化や清掃等に携わる有志の集いである。
 前日の二十三日の夜、その任務のため会館に来ていた田部は、山本伸一と言葉を交わす機会があった。その時、田部は、小倉南区で、個人会館を提供してきたことを報告したのである。
 伸一は言った。
 「明日の夜、私は小倉南区に行くことになっている。もし、時間が取れれば、御礼に伺いたいな」
 「はい。ありがとうございます!」 
 田部は、多忙を極める伸一に、そう言ってもらえただけで満足であった。
 二十四日、田部は、夕刻から自宅二階の田部会館に待機し、唱題していた。地元の会員たちも、三々五々、会場に集って来た。
 前年、伸一が九州指導の折、福岡県の博多区や糟屋郡、鹿児島県の鹿屋市にある個人会館を訪問したことから、皆、田部会館にも来てくれるものと確信していたのだ。
 午後八時半ごろ、田部は、全体的には解散とし、一部の幹部に残ってもらい、打ち合わせを行うことにした。
 そこに、「山本会長が、そちらに向かいます」との電話が入った。田部は、帰りかけたメンバーに戻ってもらい、家族で玄関前に迎えに出た。
 伸一は、田部会館に向かう車中、妻の峯子に語った。
 「遅くなってしまったが、おじゃまして大丈夫かね。私は、ともかく会場提供者に心から御礼申し上げ、大切にしたいんだ。
 個人会館は、いわば広宣流布という戦いの出城だ。人びとは、そこで仏法の話を聞いて信心し、奮起し、人間革命、宿命転換の挑戦を開始していく。つまり、『弘教の城』であり、『発心の城』であり、『幸福の城』だ。
 また、そこに集う同志の、常識豊かで楽しそうな姿を見て、周囲の人たちが、学会への理解を深めていく『外交の城』でもある」
25  薫風(25)
 山本伸一の言葉に、峯子は大きく頷いた。峯子の実家も草創の時代から、地域の会場であった。一九五二年(昭和二十七年)の「二月闘争」の際も、蒲田支部の活動の中心拠点となったのである。
 峯子は、笑みを浮かべて語った。
 「個人会館の果たす役割は、本当に大きなものがありますね。
 また、会場を提供してくださる方のご苦労は、並々ならぬものがあります。駐車や駐輪で近隣にご迷惑はかけていないか。会合の声が外に漏れていないか。皆さんの出入りの音がうるさくないか――と、気遣うことも本当に多いですしね。頭が下がります」
 「そうだね。だから皆が、近隣などには、決してご迷惑をおかけしないように、十分に注意を払っていくことが大事だね。
 また、日ごろ、会場を使わせていただいている方々は、清掃をするなど、会場提供者の負担が、少しでも軽減できるように配慮しなければならない。
 会場を提供することの仏法上の意義は、大変に深いものがある。
 仏が法を説き、衆生が仏法の教えを聞くには、人が集まる場所がなければならない。それが会座だ。法を求め、仏子が集う座談会場や個人会館は、現代における仏法の会座であり、また、精舎(寺院)の役割を担っている。
 したがって、個人会館として会場を提供することは、祇園精舎を供養した須達長者の信心に匹敵する。その功徳は、無量無辺だ。大長者の境涯になることは間違いない。
 私は、学会の会長として、可能な限り、個人会館をはじめ、会場提供者の方々を訪ねて回り、心から、御礼を言いたいんだ」
 「感謝即行動」が伸一の信条であった。
 やがて車は、田部会館に着いた。
 田部の家は、鉄筋構造二階建てであった。一階が住居で、二階が会館である。
 車を降りると、伸一は、門の前で出迎えてくれた田部の一家に声をかけた。
 「ありがとう! 立派な個人会館だね」
26  薫風(26)
 空には月が輝いていた。弓張月である。
 田部会館の門から玄関までは、数メートルほどで、右手には庭があった。
 その庭に沿って植えられた菖蒲の花が、建物から漏れる光と月明かりのなかに、ほのかに浮かんで見えた。
 山本伸一は、しばし、足を止め、月下の菖蒲を眺めていた。
 田部忠司が、伸一に言った。
 「この菖蒲は、先生にご覧いただけるかもしれないと、地元の有志が植えてくれました」
 「皆さんの、その真心がありがたいね。
 また、田部さんには、会場を提供していただき、心から御礼申し上げます」
 こう言って伸一は、頭を下げた。田部は、感極まり、目頭が熱くなった。
 田部会館が誕生したのは、前年七月のことであった。田部は、それまで小倉北区に住んでいたが、この小倉南区で、派遣の本部長として活動してきた。
 小倉南区には、皆が集まれる大きな会場がなかった。また、田部のところに指導を求めてやって来る同志の多くも、バスを乗り継ぎ、往復の移動に長い時間を費やさなければならなかった。
 心を痛めた田部は、決意した。
 ″広宣流布のため、同志のために、なんとしても、小倉南区に会場をつくろう″
 そして、小倉北区にあった自宅を売却し、小倉南区に個人会館として使える家を建てたのである。二階の会場部分は、五十畳ほどの広さがあった。
 田部は、花器販売の仕事をしていた。″広宣流布のために個人会館を建てさせてください″と、真剣に唱題を重ねていくと、仕事は予想以上に順調に伸び、土地も好条件で手に入れることができたのである。
 広宣流布という大使命を果たそうとする時、わが身に地涌の菩薩の生命が現じる。そして、依正不二ゆえに、大宇宙をも動かしていくのである。広宣流布に生き抜く生命の大地にこそ、功徳の百花は開く。
27  薫風(27)
 山本伸一は、田部会館に入ると、待機していた同志に語りかけた。
 「こんなにたくさんの人が集まってくれていたんだね。勤行をしても声が漏れないようなら、一緒に勤行をしましょう。大丈夫?」
 「大丈夫です!」と、田部忠司が答えた。
 「では、小さな声で勤行しよう。さまざまなお宅が、会場を提供してくださっていますが、大切なのは近隣への配慮です。声が漏れてうるさいような場合には、皆で勤行をすることや、学会歌の合唱は控えるべきです。
 隣近所のことも考えない非常識な信心は、長続きしないし、地域広布もできません。信心は、どこまでも、淡々と、水の流れるように実践し続けていくことが大事なんです」
 勤行のあと、伸一は、各部に、簡潔に励ましの言葉を贈った。男子部には「勇んで苦労を!」、女子部には「教学で立とう!」、壮年部には「一家を守ってください!」、婦人部には「一家和楽の太陽に!」と――。
 彼は、さらに、魂を込めて訴えた。
 「今日、お会いできなかった方によろしくお伝えください。本当は、全員とお会いしたいが、会長は私一人だから、それはできません。海外の人たちも待っているんだもの。
 だから、日々、皆さんに、懸命にお題目を送っています。皆さんも題目を送ってください。そうすれば、生命が通じ合えるんです。いつも、私たちは一緒ですよ」
 「では、最後に」と、ピアノも弾いた。
 ″広布のため、仏子のための、わが生涯である″というのが、伸一の覚悟であった。
 帰途、彼は、小倉の同志に歌を詠んだ。
  まごころの
    菖蒲に月も
      語りかけ
    小倉の友と
      会えし嬉しさ
 この歌を聞いた同志の胸に、希望の薫風が吹き抜けた。歓喜の花が大きく開いた。
28  薫風(28)
 ダッ、ダッ、ダッ、ダッ……。
 アパートの階段を、勢いよく駆け上がる足音が響いた。一九七七年(昭和五十二年)五月二十五日の夕刻のことである。
 青年が息を弾ませ、部屋のドアを開けた。中には、三人の学生が待機していた。
 「おい、急げ! すごいことになったぞ。佐賀文化会館に着かれた山本先生が、創大生を呼んでくださった」
 呼びに来たのは、この年の三月に創価大学を卒業し、佐賀市内の害虫駆除会社に勤める、男子部班長(現在のニュー・リーダー)の出井静也であった。
 出井は、この部屋に住んでいた。階下は、彼が勤めている会社の営業所になっていたが、人は誰もいなかった。
 部屋にいたのは、佐賀県出身の、創価大学に学ぶ三人の学生部員であった。彼らは、「山本先生が佐賀を訪問される予定である」との連絡を先輩から受け、″何か、お手伝いしたい″と帰省してきたのだ。
 三人は、出井が乗ってきた車で、急いで佐賀文化会館に向かった。そのうちの一人は、慌ててアパートを飛び出したため、靴下も履かず、ネクタイもせずに出てしまった。
 一方、佐賀文化会館では、山本伸一が、創大生たちの到着を待っていた。
 伸一は、この日、午後二時前に北九州文化会館を発ち、新幹線、特急列車を使い、鳥栖駅から車に乗り換えた。そして、午後四時半過ぎ、小雨のなか、佐賀文化会館に到着したのである。佐賀訪問は十年ぶりであった。
 彼は、到着するや、歴代会長の文字を刻んだ石碑の除幕などを行い、休む間もなく、午後六時前から、青年部を中心とした五十人ほどのメンバーと、懇談会をもった。
 ″青年と会おう! 青年を育てよう! 青年こそ、広宣流布のバトンを託す人なれば″
 伸一は、そう深く心に期しながら、真剣勝負の思いで、九州指導を続けていた。
 自らの生命を力の限りぶつけてこそ、青年という金鐘が、共感の大音声を放つのだ。
29  薫風(29)
 佐賀文化会館の和室で行われた懇談会で、山本伸一が最初に声をかけたのは、県の学生部幹部であった。
 伸一は、佐賀県学生部が、学生部の機関紙「大学新報」を糧に、生き生きと仏法対話に励んでいる様子を聞くと、笑顔で語った。
 「すごいね。学生部が頑張っているところには、未来がある。
 学生時代に信心に励んでいるということは、人生城を築くための、立派な礎をつくっているということなんだ。本当の勝負となる建設期は、卒業してからだ。生涯、学会の本流として、組織の第一線に立って、広宣流布に生き抜いていくんだよ。
 仕事が多忙で、音をあげそうになったり、意見の合わない幹部がいて、嫌気が差したりすることもあるでしょう。しかし、決して負けずに、人生の名城を築き上げるんだよ」
 伸一は、県女子部長にも声をかけた。
 「上石美津子さんだね。お仕事は?」
 「はい。父の経営する建築設備の会社を手伝っております。父は、これまでに二度、倒産しましたが、一家で信心根本に頑張り、現在は、仕事も軌道に乗ってきております」
 「そうか。あなたも大変だったんだね。しかし、苦労した分だけ、人の苦しみがわかる人になれるよ。家業の倒産は残念だったけれども、世の中には、倒産は数多くあります。大事なのは、人間が倒産しないことだ。自分に負けないことだ」
 伸一が言うと、「はい!」という男性の声が響いた。上石の父親の輝夫であった。
 「お父さんですね。いい娘さんじゃないですか。お父さんも頑張ってくださいよ。
 倒産の危機は乗り越えても、人間革命し、自分の生命を浄化しなければ、本当の宿命転換はできません。だから、広宣流布のために戦って、戦って、戦い抜いていくんです。生命を磨き抜いてください」
 宿命の転換という大功徳を受けるためには、真剣勝負の精進を重ね抜いていく以外にないのである。
30  薫風(30)
 山本伸一は、婦人部や女子部学生局、男子部、壮年部の代表にも声をかけ、一人ひとりを包み込むように激励していった。
 それから、後ろの方の席に座っていた、痩身の丸顔の青年に視線を注いだ。創価大学を卒業し、二年前に佐賀県に帰り、市役所に勤めている寺津克彦である。
 伸一と目が合うと、寺津が語り始めた。
 「創価大学一期生の寺津克彦です。
 現在、佐賀県で活躍している、創価大学出身の男女青年部員は九人おります。今回、そのうちの代表が、役員をさせていただいております。また、現役創大生の学生部員が三十五人います。本日は、そのうち、三人が佐賀に帰っています」
 「そうか。創大生が、わざわざ帰って来ているのか。お会いしよう。すぐにお呼びしてください。卒業生も、みんないらっしゃい」
 「はい。ありがとうございます」
 寺津は、一階の事務室にいる役員の創大出身者のもとに走り、伸一の言葉を伝えた。そして、寺津と一緒に懇談会に出席していた出井静也が、自分のアパートに待機している現役創大生を呼びに行ったのである。
 伸一は、懇談会の会場で寺津らが出て行くのを見て、佐賀県長の中森富夫に言った。
 「青年たちが、よく育っているね。嬉しいね。本当に嬉しい。二十一世紀の佐賀は強いよ。これからが楽しみです」
 中森は、「はい。そう思います」とメガネの奥の目を細め、品のよい微笑を浮かべた。
 未来の勝敗は、今、どれだけ青年のために力を注ぎ、育んでいるかにかかっている。
 中森は、不動産会社を営む五十歳の壮年である。佐賀県の唐津近郊で、炭鉱と酒屋を営む家の跡取り息子であったが、東京大学に進み、滋賀県の化学繊維会社に勤めた。
 母親は病弱で、彼は父母から、再三にわたって、「早く実家に戻って、家業を継いでほしい」と言われていた。炭鉱にも、酒屋にも興味はなかったが、一九五三年(昭和二十八年)、親孝行のつもりで佐賀県に帰った。
31  薫風(31)
 中森富夫は、佐賀県で所帯をもち、父の経営する炭鉱に勤めた。酒屋は、妻の恵美子が病弱な母と共に切り盛りした。
 母親は、胃腸病で寝たり起きたりの生活を続けていた。
 中森の家は、日蓮正宗の旧信徒であったが、嫁いだ姉の貞枝が夫と共に学会に入会した。そして、胃腸病で悩んでいた夫が、信心に励み、健康を回復するという体験をつかんだ。姉は、その話を、母親にしたのだ。
 「母さん、うちにも御本尊様はあるばってん、ただ、御安置しとるだけじゃいかんよ。お題目ばあげて、人にも仏法ば教えたら、功徳が出るとよ。生命力も涌現さして、病気を治すこともできるとよ。
 大聖人様の言われた通りの信心ば実践し、それば教えてくれるとが学会よ」
 中森の母親は、思った。
 ″信心で治るもんなら、私も学会に入って、本気で信心してみようかね″
 中森も、彼の父親も、学会には、あまり良い印象はもっていなかったが、自分だけ入るなら、いいだろうと、静観することにした。
 入会した母親は、日々、懸命に唱題した。日増しに元気になり、一カ月もするころには、床を上げることができた。そして、喜々として、学会の会合や弘教にも出かけるようになった。
 その姿を見て、一九五七年(昭和三十二年)一月に、中森富夫の妻・恵美子が入会した。彼女は、結婚して三年間、子どもができないことが、悩みであったのである。
 信心を始めてほどなく、彼女は身ごもった。妻は、信心への確信をもった。
 中森は妻から、父は母から、盛んに入会を勧められた。彼らは、二人の現証を目の当たりにしていただけに、拒否する理由も見つからず、その年の五月に入会したのである。
 御聖訓には、「現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」と仰せである。
 ″実証″に勝る説得力はない。
32  薫風(32)
 炭鉱経営に携わる中森富夫と父親が、最も恐れていたのは、炭鉱の事故であった。
 もし、大事故が起これば、取り返しのつかないことになる。しかし、安全管理にどれだけ力を注いでも、いつ大事故が起こるかわからないのが炭鉱である。
 彼らが、入会に踏み切った背景には、事故を防ぎたいとの思いもあった。
 入会した中森は、学会の先輩から、勤行の励行と教学の研鑽、弘教の実践こそ、信心の基本であることを指導された。勤行をすると生命力がみなぎるのを実感した。御書を勉強すると、仏法の法理の深さに感嘆した。教学が大好きになった。
 そして、入会半年後、十数年、闘病生活を送り、人生に絶望していた友人に弘教することができた。友の苦しい胸中を思い、なんとしても幸せになってもらいたいと念じながら、諄々と仏法の偉大さを訴えたのだ。語るうちに、自然に涙があふれた。話し込むこと三時間半、友人夫妻も、泣きながら入会を決意した。折伏の歓喜と感動を知った。
 信仰の最大の醍醐味は、弘教にこそある。
 しかし、中森は、仕事の忙しさに負け、いつしか活動から遠ざかっていった。入会三年半が過ぎた、一九六〇年(昭和三十五年)秋、東京で行われた同窓会の会場のロビーで、突然、男性に声をかけられた。
 「学会の方ですね?」
 中森は、胸に学会のバッジを着けていたのである。声の主は、機関紙誌でよく目にしていた会長の山本伸一であった。
 「あっ、山本先生!」
 伸一の横には、理事長や理事らもいた。
 彼は、驚きのあまり、名乗るのも忘れ、思いがけないことを口走ってしまった。
 「先生。少し、お痩せになったのではありませんか。学会員が心配してしまいますよ」
 伸一は、微笑みながら答えた。
 「私が痩せても、あなたが、しっかりすればいいんです。私に代わって、皆を安心させるんです。その気概をもってください!」
33  薫風(33)
 中森富夫は、山本伸一に、自分は佐賀県に住んでおり、大学の同窓会に出席するために、東京に来たことを伝えた。伸一は言った。
 「明日、横浜にある三ツ沢の競技場で、第九回男子部総会があります。せっかく東京に来たんですから、参加してはどうですか」
 中森が頷くと、伸一は、隣にいた幹部に、入場整理券を手配するように語った。
 翌日、中森は男子部総会に出席。競技場を埋め尽くした、青年たちの気迫に圧倒された。また、日本、東洋、世界の平和の実現を訴える伸一の講演に、目の覚める思いがした。
 ″創価学会はすごい! まさに、平和を築く社会の柱だ!″
 彼は、大いに歓喜したが、地元に戻ると、仕事に忙殺され、活動からは遠ざかったままであった。しかし、ある時、支部の幹部に懇々と指導された。
 「仕事が忙しいのは、わかります。では、いつになったら、本気になって信心するんですか。一生は短い。時は今ですよ。忙しいなかで時間をこじ開け、広宣流布のために懸命に働くなかに成長もあるし、功徳もあるんです。早く決断して行動を起こすんですよ」
 数日後、中森は妻の恵美子と共に、最前線組織のリーダーである組長、組担当員の任命を受けた。彼の腹は決まった。
 彼の組長就任を最も喜んでくれたのは、中森が経営する炭鉱とは別の会社で炭鉱作業員をしている、班長の農島重勝であった。
 「中森さんが立ち上がってくれて、本当によかったばい。この日の来るのを、ずっと祈り続けてきた。こげな嬉しかことはなかばい」
 農島は、生活苦と戦い、周囲に嘲笑されながら、一途に弘教に励んできた壮年である。
 農島は、目を潤ませて、ぎゅっと中森の手を握り締めた。中森は、熱い同志愛に触れた思いがした。彼も泣いた。エリートを自任する、大学時代の仲間たちからは感じたことがなかった、麗しい心の世界であった。
 広宣流布とは、互いの幸せを願う民衆の連帯の広がりである。
34  薫風(34)
 班長の農島重勝は、組長になった中森富夫を連れて、唐津一帯を指導、弘教に歩いた。
 中森は、農島から学会活動の基本を、徹底して教えられた。
 「自分の組の同志には、必ず会うことが大事ばい。電話の連絡だけですまそうなんて考えたらいかん。もっとも、電話があるのは、あんたんところぐらいばってんね。
 人間は、目と目を見合わせ、腹を付き合わせて語らんと、本当のとこはわからんばい。本当のとこがわからんと、本当の激励も、指導もできん。生命ばい。生命の触れ合いがあっての、指導であり、折伏たい」
 農島は、仏法対話も実に上手であった。中森の場合は、一生懸命に話せば話すほど、仏法とは何かという、くどくどとした説明になってしまう。その話に、相手は納得しても、「うん、いい話を聞いた」というぐらいで、信心するとは言わない。農島の言葉を借りれば、「相手の生命に刺さっていない」のだ。
 その点、農島の話は、単純明快であった。
 「正しか暦ば信じるなら、生活は円滑ばい。ばってん、去年の暦ば正しいと信じて生活するなら、失敗ば繰り返すことになる。人間は、必ず信じる対象の影響ば受ける。
 宗教というんは、″おおもとの教え″ばい、生き方の根本たい。だけん、真実の教え通りに生きてこそ、幸せになれるとよ。その真実最高の教えが日蓮大聖人の仏法たい。
 実際、俺も、信心ばしてから、病気やら、幾つも悩みば乗り越えてきたとばい。今は金もなかし、ただの労働者ばってん、俺は必ず幸せになる。絶対になるっちゅう確信のあるけん。あんたも、一緒に信心せんね!」
 大確信をもって、こう語るのだ。すると、中森が仏法の話をしても、入会を渋っていた人が、信心するというのだ。
 中森は、″折伏は、単なる理屈ではない″ことを知った。農島は彼に言った。
 「中森さん、弘教を実らせるのは、まず第一に、絶対に、この人に幸せになってもらいたいという、相手を思う真心の唱題たい」
35  薫風(35)
 農島重勝は、話を続けた。
 「二番目は、弘教はこっちの確信ばい。第三に粘りばい。一度や二度、話ばして、信心せんからって、あきらめたらいかんばい。長い目でみらんと。また、一人や二人に下種ばして、信心せんからって、くさったらいかん。苦しかこつに出おうたら、ますます闘志ば燃え上がらせるとが、学会精神たい」
 農島が、最も真剣に中森に訴え続けたのは、師弟についてであった。
 「大学で学問をするには、その道ば究めた教授が必要やろ? 信心にも師匠が必要なんよ。我見じゃいかんとばい。
 俺は、山本先生が第三代会長に就任されてから、先生を師匠と決めて、その指導通りに実践ばしてきた。聖教新聞に載った先生の指導は、頭ん中に叩き込んできたばい。
 先生のおっしゃる通り、教学ば学んで、懸命に折伏に励んだ。そのおかげで、尋常小学校出の俺が、御書も読めるようになったばい。人ば救うこともできたばい。長屋に住んどっても、幸せを実感しとる。
 あんたも、師匠を見失わんごとせないかんばい。自分の心ん中に、いつ、いかなる時も、先生がおらんといかん!」
 農島は、中森が活動を開始して、四カ月後に、福岡県に転居することになった。その引っ越し前日の夜まで、彼は、中森を連れて弘教に歩いたのである。
 「俺の引っ越しのことなんか、心配せんでよか。俺んとこは、家財も、荷物もなんもなか。着の身着のままやけんね」
 中森は、自分を必死になって育てようとする農島の真心が、胸に染み渡る気がした。
 ″この誠意に応えるためにも、自分は、広宣流布の闘士になろう″と、彼は心に誓ったのだ。
 後輩を育てるために必要なのは、学歴でも、社会的な地位でも、学会の役職でもない。相手の成長を祈り願って、共に行動し、共に苦労しながら、実践のなかで信心を教えていく情熱と忍耐と誠実である。
36  薫風(36)
 中森富夫は、農島重勝が教えてくれたように、山本伸一の指導を貪るように学んでは、学会活動に励んだ。地道に、こつこつと、同志の激励に回った。
 時代は、″石炭″から″石油″へと、エネルギーの転換が図られ、炭鉱経営は、どこも窮地に追い込まれ、閉山が続いていった。
 中森は、必死に頑張り抜いた。坑道で炭塵にまみれて働き、作業服姿で小型トラックに乗って学会活動に駆けつけ、また、仕事に戻ることも、たびたびであった。
 そのなかで、班長、地区部長、支部長として戦っていった。広宣流布のための戦いは、一歩も引くことはなかった。
 一九六六年(昭和四十一年)、彼の炭鉱も閉鎖を余儀なくされた。時代の試練に立ち向かいながら、土木工事、不動産業へと、事業の舵を取っていった。
 一九七七年(昭和五十二年)五月二十五日、佐賀県入りした山本伸一は、鳥栖駅に迎えに来てくれた中森と車に同乗し、彼の来し方について話を聞いた。伸一は、中森に言った。
 「すると、あなたは、農島さんに育てられたんですね。いい話だ。その方は、偉大な庶民の指導者です。学会には、自分は高い教育は受けていなくとも、思いやり、誠実さ、真剣さをもって、多くの人材を育んでこられた方が、たくさんいらっしゃる。
 人間を育てるのは、結局は、人間性の温もりなんです。先輩が、格好ばかりつけているうちは、後輩は育たないということです。
 ところで、中森さんは、これまでの人生で、いちばん嬉しかったことはなんですか」
 伸一が尋ねると、即座に、中森が答えた。
 「本日、先生を、こうして佐賀にお迎えできたことです」
 日ごろ、感情を露にしない、温厚な中森らしからぬ、勢い込んだ声であった。
 「あなたの喜びに応えるためにも、佐賀の未来を考え、私は全力で働きます。ありとあらゆる発展の布石をしていきます」
37  薫風(37)
 佐賀文化会館での懇談会で中森富夫は、山本伸一に、佐賀県の広宣流布の伸展状況について、種々、報告した。
 その時、寺津克彦と出井静也が呼びに行った、創価大学の現役学生と卒業生がやって来た。合わせて七人が、顔をそろえた。
 「よく来たね。待っていたんだよ。さあ、こっちへいらっしゃい」
 伸一は、満面に笑みを浮かべた。
 「みんなのことは、よく知っているよ」
 そして、三年生の尾崎一利に声をかけた。
 「元気そうでよかった。一年生の時より、大きくなったね」
 尾崎は、伸一と、直接、言葉を交わすのは初めてである。
 ″なぜ、先生は自分のことをご存知なのか″
 尾崎は、不思議でならなかった。
 しかし、伸一の方は、ずっと、彼のことを気にかけていたのだ。
 ――尾崎が創価大学に入った年の入学式で、創立者の伸一は、式場の中央体育館の壇上から、新入生一人ひとりに視線を注いだ。皆のことを、心に焼き付けておきたかったのである。彼の視線が、前方左の、銀縁のメガネをかけた男子学生で止まった。痩せて弱々しい印象の学生であった。
 ″環境の変化から体調を崩しているのか。四年間、元気に頑張れるだろうか……″
 伸一は、この学生のことが心にかかり、雄々しく成長していけるように、祈り念じてきたのだ。それが、尾崎であった。
 尾崎は、入学式で伸一が、自分を、じっと見つめていたことを思い起こした。驚きに身がすくむ気がした。
 ″山本先生は、創大生一人ひとりを、本当に大事に思ってくださっているんだ!″
 七人のメンバーのなかに、伸一と会った緊張のためか、硬い表情をしている現役創大生がいた。彼を見ると、伸一は笑みを向けた。
 「怒ったような顔をしないで、楽しそうな顔をしようよ。最も信頼し合える、創立者と学生、師匠と弟子の語らいじゃないか」
38  薫風(38)
 山本伸一に声をかけられた創大生は、緊張をほぐすように深呼吸し、伸一に報告した。
 「先生。佐賀県出身の創価大学に学ぶ学生部員で、県人会をつくっています。その団結は、日本一だと思います」
 「そうか。同郷の学生部員が、互いに励まし合っているんだね。いいことだね。
 私の創った大学に来てくださった皆さんは、私の理想を共に実現していってくれる、本当の師弟であると思っています」
 それから伸一は、卒業生たちを見ながら言った。
 「創大出身者は、どんどん世界に羽ばたいて行ってもらいたいが、君たちのように、郷土の発展のために黙々と働き、尽力してくれる人の存在も、極めて重要なんです。自分を育んでくれた両親や家族、そして、故郷の人びとの恩に報いていってください。
 これから先、どんなことがあろうが、創大生の誇りを胸に、社会に貢献し、人びとの幸せのため、地域の繁栄のために、粘り強く頑張り抜いていくんですよ。期待しています」
 伸一は、県長の中森富夫に語りかけた。
 「創大をはじめ、県外の大学に進学し、学生部員として信心を磨いてきた青年が、佐賀県に帰って来てくれると、心強いね。そうなれば、佐賀県創価学会は強くなりますよ。
 また、佐賀県は、学会のなかで何か一つ、これは″日本一″であるというものをもってほしい。弘教でも、機関紙の購読推進でも、教学でもよい。何かで一つ、勝利し続けていけば、それが、伝統となり、自信となり、誇りとなっていく。すると、そこから、すべての勝利の道が開かれていきます」
 伸一は、再び創大の卒業生に語りかけた。
 「みんな、仕事は、何をしているんだい」
 寺津克彦は市役所に勤め、この日、運営役員をしていた同じ一期生の杉瀬茂は、小学校の事務職員をしていた。また、もう一人の一期生は、父親が経営する登記測量事務所で働いていた。皆、故郷で就職先を見つけることが、最も難しかったと言う。
39  薫風(39)
 佐賀県に限らず、大手企業などの少ない県も多い。そのような地域では、就職先も限られるため、役所や学校など、地方公務員の採用試験も、極めて難関となる。
 そうしたなかにあって、故郷に帰って来た創価大学の学生部出身者たちは、懸命に努力し、県内で就職を勝ち取ったのである。
 そのメンバーに共通しているのは、地域に貢献し、両親や地元の同志に、喜んでもらいたいとの、強い一念であった。
 彼らは、東京の創価大学に行かせてもらったことに、両親をはじめ、家族に、深い感謝の思いをいだいていた。彼らの家庭の多くが、経済的には裕福とはいえなかった。
 たとえば、寺津克彦の父は、彼の幼少期には、銀行に勤めていたが、職場で起きた不祥事の巻き添えをくい、自ら退職の道を選んだ。生真面目な父親にとっては、心外な出来事であった。人生に失望し、荒れた生活を重ねた末に、学会に入会したのである。
 その後、さまざまな職に就いたが、父の収入だけでは、子ども四人がいる一家を支えることは難しかった。母が小学校の教員を続け、共働きで、子どもを育てた。
 克彦は長男で、中学生のころから、真剣に信心に励み、学会の庭で育ってきた。両親は、彼の「山本先生の創られた大学で学びたい」という願いを聞き入れ、生活費を切り詰め、入学金等を用意してくれたのである。
 三人の妹たちの進学もあり、克彦を東京の大学に行かせることは、容易ではなかったはずである。しかし、創価大学に合格すると、父も、母も大喜びし、「山本先生のもとで、しっかり頑張ってこんね!」と言って、笑顔で送り出してくれたのだ。
 また、学会の会合でも、彼の創大合格が伝えられ、温かい祝福の拍手を浴びた。
 ある婦人部員は、目を潤ませながら、「あなたは、佐賀の誇りやけん。何があっても頑張らんね!」と言って励ましてくれた。
 家族の、そして、同志の真心を、胸にいだいての東京行きであった。
40  薫風(40)
 杉瀬茂の家は父親が病弱で、母親が野菜の行商をして四人の子どもを育てた。杉瀬も高等部時代から″山本先生が創立される創価大学へ絶対に行こう″と決意していた。
 母の仕事は、少しずつ軌道に乗り、やがて小さな店をもち、野菜や果物を大きな病院にも納めるようになっていった。
 それでも、東京の大学に息子を行かせるのは、並大抵のことではない。しかし、母は、彼が創価大学に合格すると、金銭のことは、何も言わずに、喜んで送り出してくれた。
 大学に行くことができなかった、青年部のある先輩は、杉瀬をこう励ました。
 「君には、大きな使命があるんだ。創価大学で、ぼくらの分まで勉強してきてほしい。また、山本先生がいらっしゃる学会の本陣・東京で、しっかり、信心を磨くんだ。そして、何か困った問題があったら、必ず連絡するんだよ。すぐに飛んで行くから」
 寺津克彦も、杉瀬も、入学後は、勉学、学生部の活動のほか、アルバイトをして懸命に働いた。杉瀬の場合、家庭教師をはじめ、マーケティングリサーチ(市場調査)、テレビドラマのエキストラ、印刷会社、建築工事現場の手伝いなど、なんでもした。
 体が、へとへとになることも少なくなかった。それでも、″山本先生が創立した創価大学で、一期生として学べるんだ″という誇りと喜びが、向学心を燃え立たせた。
 東京での暮らしを心配し、しばしば、激励の手紙をくれる先輩もいた。杉瀬の母親は、″ご飯は、満足に食べているだろうか″と心を砕き、大量の野菜を送ってくれた。
 ″自分は、一人じゃないんだ。みんなが応援してくれているんだ″と思うと、元気が出た。精神の孤立は人間を弱くする。だが、魂の連帯は、人間の無限の活力を引き出す。
 寺津と杉瀬は、よく、「あとに続く佐賀の後輩たちの、模範となるような生き方ばしよう!」と語り合ってきた。
 やがて、創価大学の三春秋が瞬く間に過ぎ、就職活動の季節が訪れた。
41  薫風(41)
 寺津克彦は、創価大学卒業後は、故郷の佐賀県に帰って、地域の繁栄のために生きたいと決意し、市役所の採用試験を受け、合格を勝ち取った。
 一方、杉瀬茂は、東京の企業への就職が内定した。しかし、寺津と話すなかで、自分も郷里の佐賀県のために力になりたいとの思いが、日ごとに強くなっていった。
 ″ぼくも佐賀県で仕事を探そう。自分を育ててくれた人たちに恩返しをしたい″
 結局、杉瀬も、卒業後、郷里に戻り、小学校の事務職員となったのである。
 ――「偉大なる心は常に感恩の情に満つ」とは、教育者で農政学者の新渡戸稲造の言葉である。
 山本伸一は、懇談会の席で、創価大学の卒業生と現役創大生のメンバーに語った。
 「私は、創立者として、父の思いで、諸君の未来を、じっと見守っていきます。
 創価大学は、誕生して間もない、新しい大学です。卒業生も、ようやく三期生まで送り出したにすぎない。大学の社会的な評価も、まだ、定まっていません。大学の存在さえ知らない人も、たくさんいます。
 だからこそ諸君が、創立者の自覚で、パイオニアとなって、道を開いてほしいんです。
 それには、一人ひとりが、″創大生というのは、これほど力があるのか! これほど勉強しているのか! これほど崇高な志をもっているのか! ここまで誠実で、真剣なのか! ここまで、地域、国家、人類のことを考えているのか!″と、人びとから、賞讃、尊敬されるようになっていくことです。
 諸君が輝くことによって、大学の名も輝いていきます。
 三十年後、五十年後をめざして、私と一緒に、わが創大の、勝利と栄光の歴史を創っていこうよ」
 ″創大生よ。皆が創立者たれ! 皆が永遠の開拓者たれ!″と、伸一は、心で叫びながら、メンバーに訴えるのであった。
42  薫風(42)
 懇談会で山本伸一は、壮年たちに視線を向けながら語った。
 「みんなのあとには、若い力が育っているから安心だね。青年だよ。青年を励ますことに、全力を注ごうよ」
 すると、脊振本部の壮年の本部長をしている酒田英吉が、伸一に言った。
 「本当に青年の激励が大事だと痛感いたします。実は、私自身、青年時代から、先生に、何度も激励していただき、信心を貫くことができました。二十年前の山口開拓指導の折には、徳山の旅館で、種々、ご指導いただき、月見うどんまでご馳走になりました。ありがとうございました!」
 「よく覚えています。二十年前は、もっと額が狭かったのに、広くなりましたね」
 笑いが渦巻いた。
 酒田英吉は、一九五四年(昭和二十九年)の九月、二十四歳で入会した。
 履物の卸店で、一日中、汗まみれになって働いても、給料は安く、未来には、なんの希望も見いだせなかった。
 ″俺は、このまま、何もできずに、年を重ねていくのか″と思うと、居ても立ってもいられない気持ちがした。しかし、入会し、学会活動に参加すると、自分にも成すべき大事なことがあるように思え、次第に元気が出始めた。
 翌五五年(同三十年)五月、静岡にいる戸田城聖のもとに、男子部一万人が集った、豪雨のなかでの集会に参加した。
 その席上、青年部の室長の伸一は、「私たちは、戸田先生の弟子であり、弟子には、弟子の道がある」と力説。日本、世界の民衆を救うため、広宣流布の闘士となって、永遠の勝利を打ち立てていこうと叫んだ。
 酒田は、伸一の気迫に圧倒された。未来に希望が見えず、ひっそりと埋もれていくように思っていた、自分のいじけたような人生観が砕け散り、使命に目覚めた瞬間であった。
 青年を覚醒させるものは、青年の気迫と情熱である。炎のごとき、魂の叫びである。
43  薫風(43)
 酒田英吉は、山本伸一の指導を胸に刻み、佐賀県の広宣流布に勇み、走った。
 一九五五年(昭和三十年)の秋、彼は男子部の班長の任命を受けるため、東京・豊島公会堂での男子部幹部会に出席した。あとの生活のことなど、何も考えず、苦労して旅費を工面して、躍る心で東京に来たのだ。
 幹部会終了後、彼は、思いがけず伸一に会うことができた。酒田は、組織の近況を報告した。伸一は、彼の話を頷きながら聞いていたが、最後に、こう尋ねた。
 「旅費は、大丈夫だったのかい。帰ってからの生活費はあるのかい」
 酒田は、口ごもって、頭をかいた。
 伸一は、無謀ともいうべき酒田の行動に苦笑しつつも、彼の、その一途さを大切にしたかった。
 「片道の燃料だけで出撃する、特攻隊みたいじゃないか。しょうがないな。
 よし、帰りの汽車賃は、ぼくがなんとかしてあげよう」
 伸一も、決して余裕のある暮らしをしているわけではない。しかし、求道心に燃えて、わざわざ九州から来た青年を、なんとしても応援したかったのである。放っておけなくなってしまうのが、彼の性分であった。
 その夜、酒田は、感動に胸が高鳴り、なかなか寝付けなかった。
 ″山本室長は、こんな自分のことを心配し、身銭を切って、旅費を負担してくださった。本当に申し訳ない……。自分に大きな期待をかけてくださっているんだ。頑張ろう。頑張り抜いて、室長の期待にお応えしよう″
 伸一の慈愛に、熱い涙があふれた。
 酒田は、片道の旅費を出してくれた伸一の行為の奥にある、後輩を思う真心に感動を覚えたのだ。彼は、奮い立った。そして、強く心に誓った。
 ″自分も、後輩たちを、深い真心で包める、山本室長のようなリーダーに育とう″
 人に発心を促すのは、権威ではない。心に染み入る、誠実の振る舞いなのだ。
44  薫風(44)
 一九五六年(昭和三十一年)十月から、山本伸一は、山口開拓指導を開始した。
 当時、酒田英吉は、山口県の玖珂町(現在の岩国市内)に泊まり込んで、看板製作の仕事をしていた。
 十一月のある日、知り合いになった近所の学会員から、「山本室長が、今晩、徳山に行かれる」との話を聞いた。
 ″ぜひ、お会いしたい!″
 酒田は、仕事が終わると、居ても立ってもいられず、バイクを駆った。伸一が宿舎にしている徳山の旅館までは、四十キロほどの道のりであった。彼が旅館に到着すると、座談会が行われていた。伸一は、酒田に優しい眼差しを向けて、頷いた。酒田は、じゃまにならないように、会場の端に座った。
 幾つかの信仰体験が語られたあと、目の不自由な一人の婦人が手をあげて質問した。
 ――子どもの時に失明し、入会して信心に励むようになって一カ月ぐらいしたころ、少し視力が回復した。しかし、このごろになって、また、元に戻ってしまった。果たして、目は治るのかという質問である。
 ″室長は、なんと答えるのか……″
 酒田は、固唾をのんで見ていた。
 伸一は、その婦人の近くに歩み寄って、婦人の顔をじっと見つめた。そして、彼女の苦悩が自分の苦悩であるかのように、愁いを含んだ声で言った。
 「辛いでしょう。本当に苦しいでしょう」
 彼は、婦人の手を取って、部屋に安置してあった御本尊の前に進んだ。
 「一緒に、お題目を三唱しましょう」
 伸一の唱題の声が響いた。全生命力を絞り出すような、力強い、気迫のこもった、朗々たる声であった。婦人も唱和した。
 それから、伸一は、諄々と語っていった。
 「どこまでも御本尊を信じ抜いて、祈りきっていくことです。心が揺れ、不信をいだきながらの信心では、願いも叶わないし、宿命の転換もできません。御本尊の力は絶対です。万人が幸福になるための仏法なんです!」
45  薫風(45)
 山本伸一は、さらに力を込めて、目の不自由な婦人に訴えていった。
 「あなたは、自分も幸せになり、人びとも幸せにしていく使命をもって生まれた地涌の菩薩なんです。仏なんです。一切の苦悩は、それを乗り越えて、仏法の真実を証明していくために、あえて背負ってきたものなんです。仏が、地涌の菩薩が、不幸のまま、人生が終わるわけがないではありませんか!
 何があっても、負けてはいけません。勝つんですよ。勝って、幸せになるんですよ」
 誰もが、伸一のほとばしる慈愛を感じた。
 婦人の目には、涙があふれ、悲愴だった顔が明るく輝いていた。
 酒田英吉は、指導、激励の″魂″を見た思いがした。″指導というのは、慈悲なんだ。同苦する心なんだ。確信なんだ。その生命が相手の心を揺り動かし、勇気を呼び覚ましていくんだ!″
 座談会が終わり、皆が帰り始めると、伸一の方から、酒田英吉に声をかけた。
 酒田は、東京で帰りの交通費をもらった御礼を言いたくて、仕事で来ていた玖珂町から、バイクで駆けつけてきたことを語った。
 伸一は、笑みを浮かべて、彼を見た。
 「元気で頑張っているんだね。今日は、遅いから、ここに泊まって、明日の朝、帰るようにしてはどうかね。ところで、お腹は空いていないかい。ぼくは、夕食が、まだなんだ。一緒に、月見うどんを食べようよ」
 酒田は、嬉しそうに、「はい」と答えた。
 伸一は、「でも、今日は、割り勘だよ」と言うと、自ら、うどんを手配した。
 伸一は、佐賀県のことを深く知ろうと、県民性について尋ねた。酒田は、答えた。
 「佐賀県人の気質を示す、『ふうけもん』という言葉があります。頑固すぎて融通がきかないという意味です。でも、働き者で几帳面であると言われています」
 「そうか。すばらしいじゃないか。それは強い信念と真面目な行動ということだ。広宣流布のためには、最も大事な資質だよ」
46  薫風(46)
 山本伸一は、遠路、自分を訪ねて来た酒田英吉に、″信心に励むうえで、最も大切なものは何か″を語っておこうと思った。
 「酒田君。信心の極意は、『師弟不二』にあるんだよ。戸田先生は、不世出の、希有の大指導者だ。先生の一念は、広宣流布に貫かれている。その先生を人生の師と定め、先生の仰せ通りに、先生と共に、また、先生に代わって広宣流布の戦いを起こしていくんだ。
 その時に、自分の大いなる力を発揮することができるし、自身の人間革命もある。さらに、幸福境涯を築くことができる。
 事実、私はそうしてきた。それで、今日の私がある。『立正安国論』に『蒼蠅そうよう驥尾に附して万里を渡り』という一節があるだろう。一匹のハエでも、名馬の尾についていれば、万里を走ることができる。
 同じように、広宣流布の大師匠につききっていけば、自分では想像もしなかったような、すばらしい境涯になれる。君も、自ら戸田先生の弟子であると決めて、師弟の道を、まっしぐらに突き進んでいくんだよ」
 「はい!」
 やがて、月見うどんが届いた。
 伸一は、二人分の代金を払うと、「わざわざ来てくれたんだから、ご馳走するよ」と言って笑いを浮かべた。
 その夜も、酒田は、床に入っても、なかなか寝付けなかった。伸一の真心を思うと、ありがたく、嬉しく、感謝と歓喜が、胸中を駆け巡るのだ。彼は、決意した。
 ″山本室長がおっしゃるように、自分も、生涯、師弟の大道を進もう!″
 師匠が大地ならば、弟子は草木といえよう。草木は、大地に深く根を下ろし、一体となってこそ、その養分を吸い上げ、大きく育つことができるのである。
 ――以来、二十年余が過ぎていた。しかし、酒田は、今、佐賀文化会館で伸一を目の当たりにすると、すべてが昨日のことのように思い起こされ、月見うどんの味さえ蘇ってくるのだ。
47  薫風(47)
 佐賀文化会館の懇談会で、山本伸一は、皆に言った。
 「みんな、本当によく頑張ってくれたね。
 さあ、また、新しい旅立ちだ。一緒に、広宣流布の歴史を創っていこうよ。
 二十年後に、佐賀県創価学会が大勝利しているならば、今日、ここに集まったことが、二十年後の語りぐさになる。広宣流布の思い出とは、苦労と前進と勝利の幾山河のなかに、輝いていくものなんだよ」
 翌二十六日、伸一は、早朝から、同志の激励のために、色紙などに句や歌を、次々と揮毫していった。午後一時過ぎ、彼は、佐賀文化会館の開館記念勤行会に出席した。
 午前中の雨もあがり、空は希望の光に包まれ、吹き渡る風がさわやかであった。
 勤行のあと、県長の中森富夫があいさつに立った。彼は、十年ぶりに山本会長を佐賀県に迎えることができた喜びを語り始めた。
 伸一の前で話すことに、中森は、激しく緊張していた。そのためか、声は上ずり、話し方もぎごちなかった。彼のその緊張が、参加者にも伝わり、皆の表情も硬かった。
 佐賀県の新出発となる勤行会である。伸一は、明るく、晴れやかなものにするために、皆の余計な緊張を吹き飛ばしたかった。
 中森が、「山本先生は、昨日来、私たち佐賀の同志に対して、全力で激励してくださり……」と語った時、伸一は口を挟んだ。
 「私のことは、いいんですよ。今日は、もっと楽しくやりましょう。ここは文化会館ですから、文化的に、県長が、さわやかに歌でも歌ったらどうですか。
 そうすれば、皆さんも、″あの県長も、変わったな。固いだけだと思っていたけど、人間革命できたんだ。信心はすごいな″って、感心するじゃないですか」
 笑いが起こった。
 リーダーは、人心の機微を知り、重い空気に包まれているような場合には、それを一新する機転を働かせていくことが大切である。
48  薫風(48)
 県長の中森富夫は、しばらく困惑した顔でいたが、意を決したように言った。
 「では、山本先生をお迎えした喜びを託して、『春が来た』を歌います。
 春が来た 春が来た どこに来た……」
 中森は、直立不動で熱唱し始めた。
 歌い方にも、生真面目さ、一途さがあふれていた。彼が、一節、一節、歌い進むにつれて、自然に皆が唱和し始め、全員の喜びの大合唱になっていた。
 花がさく 花がさく どこにさく
 山にさく 里にさく 野にもさく
 伸一は、身を乗り出して拍手を送った。
 「県長の歌に合わせて、自然にみんなが合唱する――佐賀県の団結の姿を見た思いがしました。佐賀は、常に、このように、仲良く心を合わせて、前進していってください」
 次いで、九州担当の副会長から、本部人事委員会等で検討され、決定をみた佐賀県の人事が発表された。これまで県の婦人部長を務めてきた永井福子が県指導部長になり、酒田一枝が、県婦人部長に就いた。三十代半ばの新しい婦人リーダーの誕生であった。
 酒田一枝は、酒田英吉の妻であり、佐賀県創価学会の草創期から、養父の信心への理解が得られないなか、女子部員として健気に活動に励んできた。
 彼女には、心の支えとしてきた″宝″があった。一九六一年(昭和三十六年)の六月、会員二百万世帯達成を記念して、伸一から贈られた色紙である。そこには、戸田城聖が詠んだ、「妙法の 大和なでしこ 光あり あずまの国に 幸ぞあたえん」との歌とともに、彼女の名前が、毛筆で記されていた。
 彼女は、この色紙を抱きかかえる思いで、佐賀県の広宣流布のために駆け回ってきた。
 伸一の励ましによって、一人ひとりの心が彼と結ばれ、創価学会という連帯の絆が創り出されていったのである。さらに、その励ましこそが、皆の勇気の源泉となってきたのだ。
49  薫風(49)
 温厚で生真面目な性格である県長の中森富夫を中心に、佐賀県創価学会は、和気あいあいと、広宣流布の堅実な前進を続けてきた。
 山本伸一は、佐賀県がさらに大飛躍を遂げていくためには、若い人材を登用し、新しい原動力としていく必要があると考えていた。彼のその意見をもとに、本部人事委員会等で検討され、この一九七七年(昭和五十二年)一月に、県の青年部長である武原成次が、兼任のまま副県長に任命されたのである。
 記念勤行会のスピーチで伸一は、県長の中森と副県長の武原の人柄を紹介した。
 「中森県長は五十歳で、東大出身のいわゆるエリートであり、温厚な知性派です。それに対して、武原副県長は三十五歳で、活力にあふれた行動派であります。いわば、″静″と″動″の絶妙なコンビです。
 完璧な人というのはいません。皆、それぞれ、短所をもっています。しかし、団結があるならば、互いに補い合い、一個の組織体として十全の力を発揮していくことができる。ところが、互いに足を引っ張り合っているならば、補い合うどころか、傷口を広げ合っていくようなものです。
 しかし、佐賀県は団結しています。県としては小さくとも、団結があるということは、最高の財産をもっていることになります。
 今度、新たに、酒田県婦人部長が誕生しましたが、壮年と婦人も、良いコンビを組み、最高の佐賀県を築き上げてください」
 創価学会は、仏意仏勅の組織であり、人類の幸福と平和を実現する「創価学会仏」ともいうべき存在である。その学会にあって、団結できずに、反目し、非難し合うことは、組織という一つの統合体を引き裂く行為に等しい。それは、「破和合僧」であり、恐るべき仏法上の重罪となるのである。
 伸一は、さらに、何事にも「根本」があり、宇宙の根本、生命の根本は御本尊であることを語った。そして、その御本尊への信心のなかに、崩れざる幸福の大道があることを力説したのである。
50  薫風(50)
 佐賀文化会館の開館記念勤行会のあと、山本伸一は庭に出た。開館を記念して楠の記念植樹などを行うためである。皆が真心を込めて作った、満開の造花の桜が微笑んでいた。
 伸一は、外にいた人たちに声をかけながら庭を一巡し、師子の像の前で足を止めた。
 「本当にすばらしい像だね。佐賀県の青年の心意気が感じられるね」
 横一メートル八十センチ、高さ九十センチほどの、咆哮する百獣の王・師子のブロンズ像である。前日、ロビーに置かれていたのを伸一が見て、広々とした庭に出してはどうかと伝えたのだ。
 伸一は、楠の植樹に向かった。
 楠の前には、精悍な顔立ちの、役員の青年が立っていた。徳永明である。彼は師子の像の寄贈者で、佐賀市内で精肉店を営む男子部員であった。
 ――前年の夏、徳永は、九州の輸送班(現在の創価班)の総会と野外研修に参加するため、鹿児島県の九州総合研修所にいた。
 研修の一環として、研修所内につくったテントで、全員が宿泊することになっていた。ところが、その日の午後、激しい雨に見舞われたのである。研修棟などに避難できる態勢がつくられていたが、佐賀県の輸送班は、テントで頑張り続けた。
 「自分たちが豪雨にさらされても、会員の方々を守るのが輸送班だ。その精神を学び、訓練を受けるための研修なんだから、ぼくらは、最後までテントにいようじゃないか」
 彼らは、ずぶ濡れになり、学会歌を歌いながら、テントにとどまっていたのである。
 この夜、伸一はテント村を回った。既に雨はあがっていたが、メンバーはどうしているか、心配でならなかったのである。
 皆の安全のために、自ら行動し、常に心を砕いていくのが指導者である。その実践があってこそ、人びとは信頼を寄せるのだ。
 伸一は、男子部の幹部から、雨のなか、テントで頑張り通した輸送班がいることを聞くと、どこの県のメンバーかを尋ねた。
51  薫風(51)
 山本伸一の質問に男子部の幹部が答えた。
 「テントに残り続けていたのは、佐賀県の輸送班です!」
 「そうか。意気盛んだな。しかし、少しでも危険な状況になったら、無理をしないで、すぐに避難することも大事だよ。研修、訓練といっても、絶対無事故が鉄則です。
 佐賀県の輸送班が元気なことはよくわかったが、みんなのご家族は、お元気なのかな。もし、ご家族で病気の方がいらしたら、名前を書いて出すように伝えてください」
 伸一の思考は、眼前の一人ひとりから、家族にまで広がっていくのが常であった。
 徳永明は、この野外研修に、佐賀県輸送班の副責任者として参加していた。
 彼の妻の竹代は、二カ月ほど前から、不眠に苦しみ、食欲もなく、日ごとに痩せ細っていった。医師からは、重い自律神経失調症であると診断された。
 徳永は、眠ることもできない妻の苦しみを思うと、身を切られるように辛かった。妻のために、深夜の唱題も重ねていた。
 彼は、かつて精肉店に勤めていたが、四年前に独立して、店をもつことができた。子どものミルク代にも事欠くような状態のなかから、開店にこぎ着けたのだ。自分の努力もさることながら、信心による功徳、福運であると、心の底から感じていた。しかし、今度は最愛の妻が、病に苦しむようになったのだ。
 その渦中で、輸送班の野外研修に参加したのである。彼は、自分の名前と、妻の病名、病状をメモに書いて、伸一に提出した。
 それを目にした伸一は、手元にあった書籍に、「益々の大福運の人生であれと祈りつつ 徳永明兄」と揮毫して贈った。
 伸一は、徳永に、″仏法に巡り合ったこと自体が大福運の人生であり、絶対に負けることなどない″との確信をもって、堂々と、人生の障壁を乗り越えてほしいと祈りながら、こう書き贈ったのである。
 徳永は、この書籍を抱き締め、感激と決意の涙に目を潤ませた。
52  薫風(52)
 輸送班のメンバーが九州総合研修所から帰って行ったあと、山本伸一と峯子は、勤行の折に、徳永明の妻・竹代の平癒を祈った。
 日蓮大聖人は、「病によりて道心はをこり候なり」と仰せである。″さらに、強盛な信心を奮い起こし、見事に病を乗り越えてほしい″と真剣に祈念した。
 それから伸一は、宝前に供えた果物を、徳永竹代に届けてほしいと、研修所にいた佐賀県男子部長の飯坂貞吉に頼んだ。峯子も「回復をお祈りしております」と伝言を託した。
 飯坂は、翌日の早朝、徳永の家を訪れた。
 彼は、果物を手渡し、峯子の言葉を伝え、なぜ、早朝の訪問になったかを語った。
 「当初、私は、今朝、研修所を出発しようと思っていました。ところが、昨夜、先生は、私をご覧になると、『今日、戻るんじゃなかったのか。早く佐賀に帰る人を探して頼んだんだよ』と言われたんです。それならば急ごうと思い、昨夜遅く、研修所を発ち、徳永さんが仕事にかかる前にお渡ししようと、こんな時間におじゃましてしまいました」
 徳永夫妻は、″先生は、佐賀の一会員のことを、ここまで気遣ってくれているのか″と思うと、涙があふれて止まらなかった。
 竹代は、暗夜のような苦悩に沈んだ心に、温かい慈愛の太陽が差し込んだ思いがした。
 励ましは、勇気の火をともす。励ましは、希望の種子を芽吹かせる。
 この日を境に、彼女の病状は、少しずつ快方に向かっていった。何日かした時、徳永は、寝息をたてて熟睡する妻の姿を見た。跳び上がらんばかりの喜びを覚えた。
 伸一の佐賀訪問が伝えられた時には、竹代は健康を回復していた。二人は語り合った。
 「竹代は、先生、奥様の激励で良うなった。佐賀文化会館も完成し、先生も訪問される。感謝と御礼の思いで、会館に何か寄贈したいな」
 「そがんね。なんがよかろうかね」
 「先生は、師子王じゃけんのう。師子王を迎えるにふさわしいもんがよかばい」
53  薫風(53)
 山本伸一の佐賀県訪問の三日前、外出から戻ってきた徳永竹代は、息を弾ませながら、夫の明に告げた。
 「よかもん、あったよ! 贈答品販売店の店頭に、師子の像があったよ!」
 翌日、徳永明は、その店を訪ね、店員に、師子の像を購入したいと語った。
 店員の答えは、「あれは売り物ではございません」と、にべもなかった。必死に頼み込んだが、「ご冗談を」と言って、取り合おうとはしない。それを見ていた社長が、徳永を奥に招き入れて言った。
 「あれは、店のシンボルとして置いているので、お売りできませんが、三カ月あれば、同じ像を、名古屋の工場で作らせますよ」
 「そがん待たれんとです。五月の二十四日には搬入したかとです」
 社長は、なぜ、それほど、この像がほしいのか、理由を尋ねた。
 徳永は、創価学会の佐賀文化会館が落成したので、そこに寄贈し、尊敬する師匠である、会長の山本先生を迎えたいと語った。
 社長は、「そうですか。山本会長は立派な方と聞いています」と言って頷いた。
 そして、「最近、ある方から、これと同じ像の注文があって、それは、既に出来上がって倉庫にあります。早急に必要なら、その注文主の方と話し合って、先方が了承すれば、それを回せます」と言ってくれたのだ。
 社長は、その場で先方に電話し、徳永に代わった。徳永は事情を話し、「ぜひ、師子の像を譲ってください」と懸命に頼んだ。
 「わかりました。そういう事情でしたら、喜んでお譲りします」と快諾を得た。
 徳永は″万歳!″と叫んで、小躍りしたい気持ちであった。
 師子の像は、二十四日に、無事に佐賀文化会館に搬入され、ロビーに置かれた。
 一人立つ、威風堂々とした師子からは、正義の咆哮が轟くようであった。それは、徳永の「師子」の誓い、すなわち「師匠」と「弟子」の、生涯共戦を誓う証であった。
54  薫風(54)
 徳永明は、二十六日、佐賀文化会館の開館記念勤行会終了後に行われる、記念植樹の役員に就いた。彼は、文化会館の庭にある楠の前で、植樹用のシャベルを手に立っていた。
 そこに山本伸一が姿を現した。
 「どうもご苦労様! さあ、植樹をしよう」
 徳永は、″先生と奥様のおかげで、私たちは、人生の試練を乗り越えることができました!″と語りかけたい気持ちを必死で抑えながら、伸一にシャベルを差し出した。
 文化会館の玄関の前には、勤行会に参加した、徳永の妻の竹代と、小学校一年の長女、五歳の長男が立ち、楠の方を見ていた。
 伸一がシャベルを持って、木に土をかけようとした時、徳永の長男が、ちょこちょこと、伸一に歩み寄って行った。そして、下から覗き込むようにして言った。
 「せんせー、何ばしよっとね?」
 徳永は、慌てて長男を抱き寄せた。全身から冷や汗が噴き出るのを感じた。
 植樹を終えた伸一は、長男にニッコリと笑いかけた。徳永は、「すみません、すみません」と繰り返しながら、長男を玄関の前にいる妻のところに連れていった。
 伸一も、玄関に向かった。期せずして徳永一家が、彼を迎えるかたちになってしまった。伸一を案内していた県長の中森富夫が、「師子の像を寄贈してくださった徳永さんです」と徳永一家を紹介した。
 「知っています。奥さんも元気になってよかった。勝ったね。あなたたちは勝ったんだよ」
 徳永は、伸一に、子どもの非礼のお詫びと、自分たち夫婦への激励の御礼を言おうと思ったが、胸に熱いものが込み上げ、声にならなかった。妻の竹代も、「ありがとうございました」とだけ言うのが精いっぱいで、言葉は、涙に変わってしまった。
 伸一は、子どもたちの手を握り、微笑みながら夫妻に語った。
 「苦労が、全部、生きてくるのが信心なんです。苦しみ抜いた分だけ、幸せになれる。信心ある限り、希望の火は消えません」
55  薫風(55)
 山本伸一は、徳永明と妻の竹代に、力を込めて訴えた。
 「大聖人は、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』と断言されている。
 何があっても、悠々と題目を唱え抜き、信心の炎を燃やし続けていくならば、どんな病にも、負けることは絶対にない。必ず幸せになれるんです! 師子吼のごとく、仏法、学会の正義を叫び、戦い抜いてください」
 彼らは、目を輝かせて、生涯、広宣流布に生き抜くことを誓ったのである。
 徳永夫妻が寄贈した師子の像は、「佐賀師子」と呼ばれて皆から親しまれ、後年、佐賀県創価学会の重宝となるのである。
 伸一は、佐賀文化会館の庭で、会う人ごとに言葉をかけ、激励を続けた。
 車イスに乗った女子部員を見ると、近づいていって、「よく来たね。広宣流布の法城に駆けつけようという心が立派です。苦労したんだね」と声をかけた。車イスを押していた母親には、「唱題し抜いていくならば、何があっても大丈夫ですよ」と訴えた。
 伸一は、庭のベンチの前に来ると、昨日、懇談した創価大学の学生部員らに語りかけ、一緒に記念撮影した。さらに、近くにいた数人の男子高等部員とも、カメラに納まった。
 もし、伸一の生涯を貫くものを一言で表現するなら、「広宣流布」であることは言うまでもない。さらに、彼を貫く行動を一言するなら、「励まし」にほかなるまい。
 出会った一人ひとりに、全精魂を注ぎ、満腔の期待と祈りを込めて激励し、生命を覚醒させていく――地味と言えば、これほど地味で目立たぬ作業はない。しかし、広宣流布は、一人ひとりへの励ましによる、生命の開拓作業から始まるのだ。
 だから、伸一は、必死であった。華やかな檜舞台に立つことなど、彼の眼中にはなかった。ただ、眼前の一人に、すべてを注ぎ尽くし、発心の光を送ろうと懸命であった。
56  薫風(56)
 五月二十六日の午後五時過ぎからは、佐賀県創価学会の広布功労者追善法要が、山本伸一の導師で、厳粛に営まれた。
 引き続き彼は、県幹部ら十人ほどとの懇談会に出席した。佐賀市内の学会員が経営する食事処で、夕食を共にしながらの語らいであった。
 伸一は、メガネをかけた婦人に笑みを向けた。県婦人部長になった酒田一枝である。
 「新しい婦人部長が誕生し、佐賀の未来が楽しみです。新しい時代を開いてください。
 まだ戸惑いもあるでしょうが、学会の人事は、すべて広宣流布のためです。
 人事を進める側としては、個人の事情を考慮し、あらゆる角度から、慎重に検討していかなければなりません。でも、人事を受ける側の心構えとしては、仏意仏勅であるととらえて、なんでも引き受けていこうという姿勢が大事なんです。
 戸田先生は、学会の会長がいかに重責であるかを痛感しておられた。それゆえに、会長に就任することを逡巡され続けた。先生は、ご自身の事業が、行き詰まった時、″立つべき時に立たなかったからだ″と猛反省されているんです。覚悟を決めて、広宣流布に走るんです。大変であっても、そこに、宿命の転換と真実の幸福の大道があるんです」
 そして、婦人部の県指導部長になった永井福子に言った。
 「永井さんも、よく頑張ってくれた。しかし、本当に大事なのはこれからなんです。
 後任の幹部が、存分に力を発揮していけるかどうかは、前任者の責任です。どれだけ、後任の人を守り、応援できるかです。
 そして、佐賀県創価学会が大前進できたら、皆に、『酒田婦人部長が立派だからです』と言って、讃え抜いていくんです。
 あなたに、その度量があれば、佐賀は大発展します。誰も見ていなくとも御本尊は、すべてご存じです。私も、じっと見ています。
 陰の力として頑張り抜き、勝利した功徳、福運は無量無辺です。それが仏法です」
57  薫風(57)
 山本伸一は、この県幹部との懇談会でも、盛んに青年との対話に努めた。
 彼は、テーブルの隅に座っていた、県男子部長の飯坂貞吉に声をかけた。そして、飯坂から、若くして両親を亡くしていることや、経済的な事情から大学進学を断念せざるを得なかったことなどを聞くと、伸一は言った。
 「君は努力で勝利した人だね。学会は、実力主義であり、信心の世界ですから、学歴は関係ありません。しかし、学力は必要です。忙しくとも読書に励み、あらゆることを勉強し抜いていくんです。
 社会の一流の人たちが、″学会のリーダーはさすがだ″と感服するぐらい、教養をつけて、智慧を発揮していかなければならない。
 大学に行けず、苦労して、努力で成功を収めてきた人は立派です。しかし、高学歴者を否定的に見たり、自分を過信して傲慢になったり、虚勢を張ったりしてしまいがちな面もある。そうなると、人間としての成長が止まり、場合によっては、道を踏み外してしまうこともある。初心を忘れず、自分をわきまえ、謙虚に、生涯、『求道』『向上』の息吹を燃やし続けていくことです」
 シェークスピアは、「慢心は人間の最大の敵なのだ」(※注)との警句を発している。
 また、飯坂の隣にいた県青年部長で副県長の武原成次には、こう語った。
 「県長を、本当に支えていこうと思うならば、自分が県長の自覚で、一切の責任、苦労を担っていくんです。それができてこそ、本当の指導者に育つ。私は、青年部の室長の時も、総務の時も、そうしてきました。だから、三十二歳の若さで会長になっても、悠々と全学会の指揮を執ることができたんです。
 今こそ、自分の真価が問われていると思って、陰の力に徹して、黙々と働くんです」
 陰の労苦が、人間を鍛え、力を培う。
 伸一は、皆に大成してほしかった。光り輝く、宝石のような人材に育ってほしかった。最高の人生を生き抜いてほしかった。それゆえに、歯に衣着せぬ指導をしたのである。
58  薫風(58)
 懇談会のあと、山本伸一が向かったのは、学会員が営む緒高理容店であった。彼は、店主の夫人である緒高紗智子との約束を果たそうと、訪れたのである。
 ――三日前、緒高紗智子は、北九州市に下宿して大学に通う長男と、北九州文化会館の見学に行った。その時、会館の庭で、会員の激励にあたる伸一と出会ったのである。
 彼女が、佐賀で理容店をしていることを告げると、伸一は言った。
 「北九州の次は佐賀に行く予定なんです」
 彼女は、とっさに、こう言ってしまった。
 「その時には、うちで散髪してください」
 伸一は、笑みを浮かべて答えた。
 「時間が取れたら、お伺いします」
 妻の紗智子から、その話を聞いた、夫の武士は、″俺は、学会員として大した活躍もしないでいる。そんな俺の店に、本当に山本先生は来られるのか……″と半信半疑であった。
 それだけに、伸一が姿を現し、「こんばんは! ご主人ですか」と、握手を求めて手を差し出すと、武士は、現実とは思えず、頭の中が真っ白になった。思わず両手を合わせ、合掌のポーズをとってしまった。
 すると、伸一も微笑んで合掌し、それから再び握手を求めた。
 散髪が始まった。武士が、チョキチョキと軽快なリズムで、髪を整えていった。彼は、腕には自信があった。髪の毛を触ると、その人の体調も、ほぼ察しがついた。
 伸一の髪を整えながら、武士は思った。
 ″髪の毛にコシがない! 長年にわたって、心身を酷使し抜いてきた疲れが、たまっているにちがいない″
 伸一は、広宣流布という未聞の道を切り開くには、会長である自分が、捨て身になって戦わなければならないと心に決め、動きに動き、語りに語り、書きに書き、祈りに祈ってきた。会長就任から十七年、毎日、毎日が、死身弘法の敢闘であった。
 それがあってこそ、末法広宣流布という茨の道を、開き続けることができたのである。
59  薫風(59)
 山本伸一の散髪をしている緒高武士の傍らには、妻の紗智子が立っていた。
 彼女は、次々と、伸一に報告していった。
 ――以前は病に苦しみ、二度も大手術をしたが、一九五九年(昭和三十四年)に入会して以来、次第に健康を回復していったこと。主人は、戦時中、ビルマ(現在のミャンマー)で負傷し、耳が不自由だが、仕事は順調で、店も広げることができたこと。自分は今、ブロック担当員(現在の白ゆり長)として元気に活動に励んでいること……。
 紗智子は、目に涙を浮かべて言った。
 「信心して、本当に幸せになれました。学会のおかげです! 先生のおかげです!」
 その言葉を聞くと、伸一は目を細めた。
 「『学会員になって、幸せになった』という話を聞くのが、私は、いちばん嬉しいんです。そのために、私は戦っているんです。本当に、みんなに幸せになってもらいたい。私自身の幸せなど、考えたことはありません」
 夫の武士が、感極まった顔で伸一を見た。
 ″先生は、やはり、そうした思いで、どんなに疲れ果てても、戦ってこられたんだ!″
 緒高の店を継ぐことになっている養女の智恵と、その夫の春雄も、同行幹部の整髪をしながら、伸一の話を聞いていた。二人は、紗智子から、信心の話を聞かされ、学会を理解してはいたが、入会には至っていなかった。
 伸一は、整髪が終わり、支払いをすますと、緒高夫妻に礼を述べながら、再び武士と固い握手を交わした。
 それから、春雄とも握手し、「あなたも頑張りましょう」と声をかけた。すると、春雄は、「はい。私も信心します」と決意を披瀝したのだ。智恵も一緒に、笑顔で頷いた。
 二人は一カ月後に入会する。また、主の緒高武士は、この日を境に、猛然と信心に励み始め、やがて、ブロック長として活躍するようになるのである。
 薫風に吹かれて、木々の葉が、みずみずしく光り、躍るように、伸一の行くところ、蘇生と歓喜の人間ドラマが広がった。
60  薫風(60)
 佐賀から熊本に向かう五月二十七日も、山本伸一は、朝から激励のため、色紙などに筆を走らせた。そして、早めに昼食をすますと、佐賀文化会館のロビーに出た。県長の中森富夫の両親や、県指導部長になった永井福子の母親らと、会うことにしていたのである。
 一人のリーダーが、自在に活動していくには、家族の協力、応援が必要である。ゆえに伸一は、可能な限り、幹部として活躍している人たちの家族と会い、日ごろの協力に、御礼とねぎらいの言葉をかけるようにしていたのだ。
 陰で支えてくださる方々への配慮、気遣いを忘れない人こそ、本当の指導者である。
 伸一は、中森の両親に、礼を尽くしてあいさつした。
 「息子さんは、佐賀県の歴史に残る人です。ご両親も、それを誇りにして長生きしてください。ご一家の繁栄を心より祈っております」
 また、永井の母親には、こう語った。
 「立派な文化会館もでき、すばらしい佐賀県創価学会になりました。娘さんの奮闘の結果です。ご家族の応援のおかげです。お孫さん、曾孫さんの成長を見届けるため、二十一世紀まで生き抜いてください」
 さらに、佐賀文化会館に集って来た二百人ほどの同志と、共に唱題し、出発間際まで、何曲もピアノを弾いて激励を重ねた。
 薫風が舞い、美しい青空が広がっていた。
 午後一時半前、伸一は、「お世話になりました。どこにいても、″栄えの国″である佐賀県の皆さんに題目を送ります。お元気で!」と言って手を振り、車中の人となった。
 伸一が出発して二十分ほどしたころ、佐賀文化会館の電話が鳴った。伸一に同行していた幹部の弾んだ声が、受話器から響いた。
 「車中、佐賀の県境に架かる諸富橋で、先生が皆さんに句を詠まれました」
  五月晴れ
    佐賀の天地に
      功徳満つ

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