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日蓮大聖人・池田大作

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第25巻 「福光」 福光

小説「新・人間革命」

前後
2  福光(2)
 午後二時に上野駅を発った東北本線・特急「ひばり」は、関東平野を驀進していった。
 車窓に広がる風景は、まだ、冬の眠りから覚めず、枯れ草の茂みが風に揺れ、灰褐色の地肌をむき出しにした田畑が広がっていた。
 ″今年は、豊作だろうか……″
 山本伸一は、田植え前の、水のない田んぼを見ながら、心で題目を唱えた。
 前年の一九七六年(昭和五十一年)、日本は、冷夏や台風の影響で、米が戦後五番目の不作となっていた。特に、東北、北海道を中心に、八月から九月にかけて低温の日が続き、収穫量が激減。多くの農家が辛酸をなめたのである。
 十一月、農林省(当時)がまとめた農作物の冷害被害状況によれば、被害総額は四千九十三億円に達し、北海道が八百六十一億円、岩手県三百六十一億円、宮城県三百二十四億円、新潟県三百十三億円、青森県三百九億円、福島県二百八十五億円などとなっていた。
 さらに、十二月から二月にかけて、日本は強い寒波に襲われた。東京でも一月の平均最高気温は七・五度にとどまり、戦後最低を記録。全国の積雪も、「三八豪雪」(昭和三十八年一月の大豪雪)以来といわれ、青森市では、二月八日に戦後最深の積雪百九十五センチとなった。北海道の幌加内町母子里では、零下四〇・八度という、戦後の日本最低気温を記録している。
 この寒波による大雪で、国鉄(現在のJR)では、二万九千本以上が運休となった。
 また、寒波の影響は、農作物にも被害をもたらし、野菜の生育が遅れ、一時期、価格が急上昇した。特にキャベツは、二月には、前年秋の六倍にまで高騰したのだ。東北は、この寒波でも、大きな影響を受けたのである。
 伸一は、思った。
 ″東北は、冷害や旱魃、チリ地震津波など、幾度となく過酷な試練にさらされてきた。だからこそ、その宿命を転換し、どこよりも栄え、どこよりも幸せになっていただきたい。その夜明けを告げる東北訪問にしよう!″
3  福光(3)
 山本伸一が福島文化会館に到着したのは、午後四時半過ぎであった。
 文化会館は、郡山駅の西に位置し、北には安達太良山が、東には阿武隈高地が遠望できた。敷地は広々としており、建物は、茶色いタイル壁で覆われた、鉄筋コンクリート造り三階建てであった。
 一階には事務室や編集室、会議室が、二階には二百八畳の大広間や和室がある。また、三階は記念室などとなっていた。
 伸一が玄関の前で車を降りると、数人の幹部が出迎えてくれた。
 彼は、福島県長の榛葉則男と東北長の利根角治に視線を注ぎながら、気迫のこもった声で語りかけた。
 「来ましたよ! 新しい福島を、東北を創ろう! 今日からは、新章節への出発だよ」
 「はい!」
 二人が、声をそろえて答えた。
 伸一は、文化会館の庭を歩き始めた。
 「立派な会館ができたね。みんな、喜んでいるだろうね。この会館で信心を充電し、大確信と大情熱をもって飛び出し、広宣流布の大旋風を起こしていくんだよ」
 榛葉は、宮城県出身で、全国の副青年部長等を務め、前年十二月に福島県長に就任した、進取の気風と企画力に富む三十五歳の青年であった。
 伸一は、その彼に、広宣流布建設の本当の力とは何かを、語っておこうと思った。
 「榛葉君。新しい福島をつくるためには、目先の変わったプランや、新しい運動方針を打ち出せばいいというものではない。根本は全同志の一念の転換であり、生命の革新だ。わが郷土を愛し、広宣流布に生き抜こうという、本物の闘士をつくっていくことだよ。
 福島創価学会が、ここまで発展してきたのは、草創の同志たちの、真剣勝負の戦いがあったからだ。周囲から罵られ、迫害され、どんな仕打ちを受けても、一歩も引かずに、ひたすら広宣流布のために、一身をなげうってくださったことを絶対に忘れてはならない」
4  福光(4)
 山本伸一は、同行の幹部から、「福島県は三月半ばでも寒い日が多い」と聞かされていたが、この日は、思いのほか、穏やかで暖かかった。誰が用意してくれたのか、庭に置かれた鉢植えの桜もほころんでいた。
 「福島に春が来たね」
 伸一は、幹部たちにこう言うと、再び福島文化会館を見て、県長の榛葉則男に語った。
 「立派な文化会館だ。福島城だね。まさに会津磐梯号の船出だよ。大事なことは、この文化会館を使って、どう福島の広宣流布を進めていくかだ。会館の落成は、終わりではない。新しい大闘争のスタートだ。
 さまざまな環境が整ってくると、人間は、ともすれば、それに慣れて、良くて当然と思い込んでしまう。そして、草創期の苦労を忘れ、ちょっと厳しい状況に直面すると、文句を言ったり、怠惰になってしまいがちだ。
 吹雪に向かって、胸を張って進む、苦闘の青春こそが、私たちの原点だよ。青年が安逸に慣れてしまうことが、最も怖い。
 広宣流布は、永遠の闘争だ。日蓮大聖人は『然どもいまだこりず候』と師子吼され、迫害に次ぐ迫害をものともせずに、折伏の戦いを続けられた。これこそが、大聖人の御心であり、学会精神だ。
 同志の多くは、病や生活苦、家庭不和など、さまざまな悩みをかかえ、幸せになりたいと、藁にもすがる思いで信心をした。
 それぞれが苦悩を克服し、崩れざる幸福境涯を築き上げていくには、自行化他にわたる信心の実践しかない。大聖人は『我もいたし人をも教化候へ』と仰せだ。自ら仏法を学び、懸命に唱題するとともに、徹して弘教し抜いていくことだ。折伏の炎を燃え上がらせていくことだよ。
 学会は、皆、そうしてきたから、多くの同志が、大功徳を受け、幸福の実証を示し、福島創価学会も、東北創価学会も、大発展することができたんだよ」
 伸一は、思いの丈をぶつけるように、一気に話し続けた。
5  福光(5)
 山本伸一は、福島文化会館の庭にある池の前に立ち、語らいを続けた。
 「過去の歴史が、いかにすばらしくとも、皆が、草創期の闘志を失い、実践がなくなれば、やがて、広宣流布の衰退が始まってしまう。そうなれば、個人の宿命転換もできなければ、立正安国の実現もない。
 いよいよ、これからだよ。私は、今回、草創の同志の皆さんには、生涯、広宣流布の戦いから退いたり、怠惰になったりしては、絶対にならないと、訴えようと思っている。
 戦いをやめてしまえば、元の木阿弥だ。大聖人が、『火をきるに・やすみぬれば火をえず』と仰せのように、一生成仏の大願を果たすことはできない。これまでの血のにじむような努力が水の泡になる。それほど残念で、かわいそうなことはないもの。だから、未来のために、言っておこうと思っているんです。
 『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』というのが、大聖人の御指導ではないですか。誉れある創価の師弟であるならば、命の燃え尽きる瞬間まで、戦って、戦って、戦い抜くんです。牧口先生も、戸田先生も、そうだったじゃないか。
 私も、そうします。戦い続ける人が幸福なんです。その人が、人生の勝利者です。その人が、地涌の菩薩であり、仏なんです。
 したがって、今回は、草創期を切り開いてくださった指導部の方々との、新出発の意義もとどめておきたいんです」
 指導部は、学会の草創期から設けられていたが、一九七四年(昭和四十九年)八月、各県・本部に指導長、指導委員が置かれ、新しいスタートを切った。その後、総ブロック(現在の支部)、大ブロック(現在の地区)、ブロックにも指導部制が敷かれた。
 指導部のメンバーは、信仰体験も豊富な、歴戦の闘士である。その人たちが、信心の模範となり、多宝の生命を輝かせながら、後輩の育成、個人指導に、いかんなく力を発揮していくならば、広宣流布の大推進力となろう。
6  福光(6)
 山本伸一の話は、「世代論」になっていった。
 「福島県もそうだが、今や、三十代の世代が、各県の中心になりつつある。満々と活力をたたえた若い世代が、広宣流布の本舞台に躍り出て来たんだ。
 皆、私が、会長就任後に、大切に育て上げてきた弟子だ。しかし、組織もできあがってから、幹部になってきた世代だけに、本当の苦労をしていない。周囲の人たちから、のけ者にされたり、蔑まれながら、泥まみれになって折伏してきたという経験も乏しい。
 そのためか、広宣流布の開拓力に欠けているという弱点がある。スマートで頭のいい人が多いが、根本的なところで、信心への確信が弱い。また、本当の折伏精神が身についていないというのが、私の実感でもある。
 だから、運営能力には長けていても、大闘争となると、生命が一歩引いてしまい、すぐに、腰が砕けてしまいがちだ。苦戦のなかで勝利をもぎ取ってくるには、捨て身になって戦う、必死の覚悟がなくてはならない。開拓力、決着力がない指導者のもとからは、折伏の闘将も育ちません。
 ともかく、若いリーダーが、今のままで成長が止まってしまえば、学会は衰退を免れないし、未来はない。
 広宣流布とは、未踏の原野の開墾作業だ。苦労して、苦労し抜くんだ。楽をしようなんて思ってはだめだ。保身、臆病、姑息、手抜き、インチキがあれば大成はできないよ。
 折伏や個人指導をはじめ、一つ一つの課題に、全力で真っ先に取り組み、自ら勝利の結果を示していくんだ。一人ひとりの同志に、誠実に、真剣に、体当たりでぶつかっていくんだ。それが師子王の生き方だよ」
 フランスの女性作家ジョルジュ・サンドは、小説の登場人物に、こう語らせている。
 「人の役に立つ仕事、真剣な献身がわしを鍛え直してくれたのだ」
 自身の生命を磨き、鍛えるのは、広宣流布への「真剣な献身」である。伸一は、その精神を、若き県長に注ぎ込みたかったのだ。
7  福光(7)
 山本伸一は、再び歩き始め、第二代会長・戸田城聖の、歌碑の前に立った。
 そこには、伸一の文字で、「妙法の 広布の旅は 遠けれど 共に励まし とも共に征かなむ」との、戸田の歌が刻まれていた。
 伸一は、その碑を見ながら、県長の榛葉則男に、なおも話し続けた。
 「この戸田先生の歌碑は、明日、正式に除幕式を行うんだね。
 戸田先生は、本当に青年を大切にされた。広布の旅は長征だ。何代もかけて成していく大事業だ。だから青年を育てるしかない。県長は、全力で青年部を育てるんだよ。
 学会が年々歳々、大前進を遂げてきたのは、青年を育成してきたからだ。私も、三十二歳で会長に就任した時から、青年を育てるために、全精魂を注ぎ抜いてきました」
 「先生は、どのようなことを心がけて、青年の育成に当たられたんでしょうか」
 幹部の一人が、伸一に尋ねた。
 「いい質問だね。私は常に、自分の方から青年たちに声をかけ、率直に対話し、励ましてきた。幹部が、つんと澄まして、知らん顔をしているようでは駄目です。胸襟を開いて飛び込んでいくんです。  
 たとえば、座談会の終わりごろに、仕事を終えて駆けつけて来た青年がいたら、『よく来たね。ご苦労様! 大変だっただろう。頑張ったね』と、包み込むように、力の限り励ましていくんです。そうすれば、″次も頑張って参加しよう″と思うものです。
 それを、″遅れて来てなんだ!″というような顔をして、声もかけなければ、″もう、来るのはよそう″と思ってしまう。
 『励ます』ということは、『讃える』ということでもあるんです」
 皆、大きく頷いた。
 「また、私は、青年を包容しながら、大きな責任を託した。実戦こそが最高の学習の場だからです。そして、失敗した時には、最後は、全部、私が責任を取った。大切なのは、その度量だよ」
8  福光(8)
 西の空が、夕日に染まり始めていた。
 山本伸一と、福島、東北の幹部との、屋外での語らいは続いた。
 「学会の後継者として、青年時代に必ず身につけてほしいのは折伏力だ。創価学会は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために出現した折伏の団体だもの。その後継者である青年たちが、弘教の大闘士に育たなければ、学会の未来は開けないからね」
 大聖人は「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」と仰せである。その御心を体して、弘教に生き抜くなかに信仰の大道がある。
 「先輩は、青年たちに、ただ『折伏をやりなさい』と言うだけではなく、『なぜ、折伏をするのか』を、いろいろな角度から、納得のいくように話してあげてほしい」
 折伏は、自身の一生成仏、すなわち絶対的幸福境涯を築く要諦となる仏道修行である。
 御書には、「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」とある。さらに、「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と断言されている。
 私たちは、勇んで唱題と折伏に励むことによって、仏に連なり、仏の使いの働きをなし、地涌の菩薩となり得るのだ。つまり、自行化他にわたる信心の実践によって、仏の力が涌現し、地涌の菩薩の大生命が脈動する。救世の闘魂と大歓喜が胸中にみなぎり、わが生命の変革がなされていくのである。
 そして、それによって、自身の人間革命、宿命の転換が成し遂げられ、絶対的幸福境涯を築くことができるのだ。
 また、人びとの苦悩を根本から解決し、崩れざる幸福の道を教える折伏は、最高の慈悲の行である。人間として最も崇高な利他行であり、極善の行為である。そこに、真実の友情が、永遠の家族愛の絆が結ばれるのだ。
9  福光(9)
 青年が育ってこそ、未来は黄金の輝きを放つ。ゆえに山本伸一は、県長らに、青年育成の在り方を詳細に語っていった。
 「弘教に限らず、あらゆる活動を進めるうえで大事なのは、″なんのためか″を明らかにし、確認し合っていくことです。それによって皆が、軌道を外れることなく前進することができるし、力を発揮することができる。
 でも、全く弘教をしたことがない青年に、折伏の意義を教え、『頑張ってください』といえば、実践できるかというと、そうではありません。それだけでは、多くの人が、″自分にはできない″と思うでしょう。
 したがって、実際に、どう語っていけばよいのかを、教えていかなければならない。
 そのために、先輩である壮年や婦人は、自分はこうして折伏してきたという、ありのままの体験を語っていくことです。
 また、青年と共に仏法対話し、実践のなかで、具体的にどうすればよいか、手本を示しながら教えていくことも必要です。つまり、青年たちが、″そうか。こうすればいいのか。これならば私にもできる。よし、やってみよう!″と思えるかどうかなんです。
 人は、″とても自分には無理だ″と思えば、行動をためらってしまう。しかし、″できそうだ″と思えば、行動することができる」
 大聖人は、「人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬりてまわり・ふねを水にうかべてきやすきやうにをしへ候なり」と仰せである。行動をためらわせているものは何かを見極め、それを取り除き、勇気を奮い立たせることが、激励であり、指導である。
 「そして、青年たちが弘教に挑戦しようとしたなら、精いっぱい支えて、その健闘が実を結ぶように応援していくことです。また、たとえ、その時は実らなくとも、種を蒔いたことを讃えていけば、大きな自信になる。自信は、成長の原動力になります」
 青年は、養分を吸収すれば、成長は早い。若竹のように、すくすくと育っていく。
10  福光(10)
 到着早々、福島県長や東北長らに全力で指導する山本伸一の勢いに、同行の幹部たちは圧倒された。
 それを見抜いたように、伸一は言った。
 「私は、福島、そして東北の同志が、どんな困難もはねのけて、大発展していく力をつけてもらいたいんだ。東北は、冷害などの自然災害に、何度となく苦しんできた。都からも遠く、中央政府の恩恵にも、あまり浴することがなかった。その東北の人びとに、本当に幸せになってほしいんだよ。
 それには、強盛な、何があっても決して壊れることのない、金剛不壊の信心を確立するしかない。一人ひとりが師子になるんだ。そのために私は、ここに魂魄をとどめる思いで、この三日間、みんなの生命を覚醒したいと決意しているんです」
 福島、東北を思う伸一の心を知り、幹部たちは、目頭を熱くするのであった。
 十一日午後六時過ぎ、伸一は、福島文化会館の開館記念勤行会に出席した。
 彼の福島県訪問は、一九六九年(昭和四十四年)以来、八年ぶりである。
 「こんばんは! 皆さんにお会いしに来ましたよ。福島文化会館の完成、おめでとう」
 伸一が会館の大広間に姿を現すと、歓喜の大拍手が轟音のように響いた。
 記念勤行会では、勤行に続いて、県長や副会長があいさつし、伸一の指導となった。
 彼は、満面に笑みをたたえ、皆を包み込むように話し始めた。
 「この福島文化会館は、わが創価学会の会津磐梯号ともいうべき不沈艦であり、今日は、その船出ともいえましょう。
 新しい発展のためには、その活動の中心となる拠点が必要です。この福島文化会館を、福島創価学会全体の中心拠点として、新しい心、新しい決意で仏道修行に励み、幸せの大前進をお願いしたいのであります」
 そして彼は、福島県下の各会館も、さらに整備し、充実させていくことを発表した。
11  福光(11)
 ここで山本伸一は、八年前にあたる一九六九年(昭和四十四年)の十月、福島総合本部幹部会で示した、「希望に燃えて前進する福島」「生活闘争に勝利の福島」「生命力豊かな信仰の福島」との三指針を確認した。
 「第一に『希望に燃えて前進する福島』と申し上げたのは、信心とは、希望を育む力であるからです。
 人生には、いろいろな試練があります。各人が、さまざまな宿命ももっています。さらに、信心に励めば、難もあります。順風満帆な人生などありません。しかし、どんなに深い絶望の闇のなかでも、心に希望の火をともしていけるのが信心なんです。
 大聖人は『一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経』と仰せです。大打撃を受け、何もかも行き詰まったとしても、必ず一切を乗り越え、崩れざる幸福を確立していけるのが妙法なんです。
 御本尊を信じ、題目を唱えに唱え、弘教に走り抜いていくんです。そうすれば、絶対に道は開けます。人間として強くなり、幸せになる使命をもって、この世に出現した私たちではないですか!」
 次いで伸一は、″生活闘争に勝利″することの意味について述べていった。
 「生活闘争の大きな課題は、経済力になりますが、一攫千金を夢見るような生き方ではなく、真面目に、堅実に、また、聡明に、価値創造の人生を生き抜いていっていただきたい。仏法を持った私たちは、社会の勝利者となるために、人一倍、努力し、工夫し、働き抜いていかねばならない。
 さらに、一切の繁栄の根っことなるのが信心です。御書に『根ふかきときんば枝葉かれず』とあるように、妙法の大地にしっかりと根を張り、福運の養分を吸い上げていってこそ、あらゆる面で栄えていくことができるんです。
 どうか、生活闘争の勝利の実証をもって、この『福島』を、その名の通り、必ずや、『福運の島』『幸福の島』にしてください」
12  福光(12)
 山本伸一は、第三の「生命力豊かな信仰の福島」について語っていった。
 「人生を勝利するための勇気も、智慧も、忍耐も、強さも、その原動力は生命力です。
 生命力が弱ければ、心は、悲哀や感傷、絶望、あきらめに覆われ、愚痴も多くなり、表情も、声も、暗くなる。そうなると、人もついてはきません。元気のある、明るい人を、みんなは求めているんです。
 生命力を満々とたたえ、自らが燃えていてこそ、人びとに希望の光を送る太陽の存在になれる。また、生命力にあふれていれば、すべてを前向きにとらえ、困難が大きければ大きいほど、闘志が燃え上がります。
 本来、私たちには、仏の大生命が、地涌の菩薩の大生命が具わっている。日蓮大聖人が『法華の題目は獅子の吼ゆるが如く』と仰せのように、師子王の大生命力を涌現していく力が題目なんです。
 唱題によって、大生命力が、わが身に満ちあふれるならば、何があっても負けずに、どんな事態をも、悠々と乗り越えていくことができる。したがって、われら創価の同志には、克服できない苦境など絶対にないと、私は、断言しておきたいんです」
 最後に伸一は、福島文化会館の三階に、恩師記念会館を設け、先師である牧口常三郎初代会長、恩師・戸田城聖第二代会長の魂を継承していく誓いの場としたいことを述べ、話を結んだ。
 指導を終えた伸一は、大広間に置かれたピアノに向かった。
 「今日は、福島の皆さんの新出発をお祝いし、拙くて申し訳ありませんが、ピアノ演奏をお贈りします」
 歓びのどよめきと、拍手が広がった。
 最初に流れたのは、「厚田村」の調べであった。そして、「さくら」の曲が響いた。
 ″福島に、東北に、幸せの春よ来い!″との祈りを託しての、真心の演奏であった。
 調べに合わせて、小さく首を振る参加者の顔には、笑みの花が満開であった。
13  福光(13)
 午後八時から、山本伸一は、福島文化会館の二階和室で、県・圏の代表ら二十人ほどと、懇談会をもった。福島県を担うリーダーたちを、よく知っておきたかったのである。
 福島県は、都道府県のうち、北海道、岩手県に次ぐ広大な面積を有している。阿武隈高地と奥羽山脈という二つの山系が南北に走り、気候も異なる三つの地域から成っている。
 太平洋沿いから阿武隈高地にかけての、いわき市を中心とする「浜通り」は、比較的温暖な地域で、漁業が盛んである。
 阿武隈高地と奥羽山脈の間に位置する「中通り」は、内陸性気候である。県庁所在地の福島市や、郡山市もあり、政治、経済の中心となっている。
 奥羽山脈西側の「会津」は、雪も多く、日本海側気候に近い。この地域の中心となる会津若松市には、歴史と文化の薫りが漂う。
 伸一は、参加者一人ひとりの名前などを聞きながら、懇談的に話を進めた。
 「どうか、榛葉県長と一本松県婦人部長を支え、応援し、しっかり団結して、仲良く前進していってください」
 それから、榛葉に向かって、厳しい口調で言った。
 「榛葉君は、県長になったからといって、自分に力があるなどと思ったり、偉くなったような気になってはいけないよ。少しでも、そういう思いがあったとしたならば、それは、役職に幻惑された姿であり、傲慢であるということです。
 若くして中心者になったということは、未来を期待されてのことであり、必ずしも、力や実績が評価されたからではありません。
 年配の同志のなかには、折伏の数にしても、個人指導して立ち上がらせた人の数にしても、君よりも圧倒的に多い方がたくさんいます。君の何倍も、苦労して、苦労して、苦労し抜いて、今日の創価学会を築いてくださった方は数知れません。
 そうした方々を守り、また、仕え、尽くしていくのが幹部なんです」
14  福光(14)
 山本伸一は、幹部の心得について、微に入り細をうがつように語っていった。
 「言葉遣いにしても、横柄であったり、ぞんざいであったり、変になれなれしく、礼を欠くようなことがあってはならない。言葉遣いには、人格が表れます。
 年長者に対してはもとより、後輩に対しても、敬語を使うべきです。
 また、会員の方々とお会いした時には、すぐに自分の方から、あいさつするんです。その場合も、ポケットに手を突っ込んだまま、『おうっ』なんて言うようなことをしては、絶対にいけません。青年部出身の幹部は、特に注意すべきです。きちんと礼を尽くし、真心を込めて、あいさつするのが基本です。
 さらに、人と接する時は、笑顔を忘れないことです。いつも眉間に皺を寄せ、ぶすっとした、機嫌が悪そうな顔や、怒っているような顔をしていたのでは、みんなが不愉快になります。相談もしなくなります。そうなれば、団結はできません。幹部は、さわやかな笑顔で、皆を包み込んでいくんです。
 そして、会員の皆さんへの感謝が大切です。特に、苦労して頑張ってくださっている方や、何かで尽力してくださった方がいたら、機会を逃さず、丁重に『ありがとうございます』と、御礼を言うことです。
 組織といっても人間の世界です。感謝の言葉もなく、やって当然というような態度であれば、皆の心は離れていってしまう。
 もう一つ重要なことは、迅速な行動です。本部から会員の皆さんにお届けする物が来ているのに、何日もそのままにしてある。あるいは、会員の皆さんから何か頼まれても、なかなか行動しない。そういう幹部は、信頼を失います。連絡、報告もスピードが勝負です」
 皆、自分自身に当てはめて考えてみると、粛然として襟を正さざるを得なかった。
 「私は、青年時代から、常に『迅速第一』を心掛けてきました。戸田先生も、『伸一は、すべて電光石火だな。まるで隼のようだ』と感嘆されていた。それは、私の誇りです」
15  福光(15)
 福島県の代表たちは、緊張した顔で山本伸一の次の言葉を待った。
 「リーダーは、自分が一人立つことは当然ですが、組織の全同志が、自分と同じ決意に立って、喜び勇んで、戦えるようにしなくてはならない。
 よく、こういう組織があります。
 ――県長をはじめ、総ブロック長も、大ブロック長も、必死になって頑張っている。しかし、結果的に、はかばかしい前進がない。
 それは、本当に張り切って、駆け回っているのは、ライン幹部だけで、必勝の息吹が、組織全体に波及していないからなんです。
 この状況を打開するには、全幹部が結束していくことです。特に、すべての副役職者が、いかんなく力を発揮していくことがポイントです。そうなった時に、組織全体が回転していくんです。
 学会の組織は、次第に重層的になってきているので、副役職の人は、これからますます増えていきます。世代交代のための人事もあるので、副役職者の方が、正役職者より活動経験も豊富で、力もあり、年齢も上というケースも多くなっていくでしょう。
 それだけに、正役職者は、″俺が中心だ″などという顔をするのではなく、″副役職の方々の力をお借りするのだ″という姿勢で接し、尊敬していくことが大事です。
 連絡なども、むしろ、正役職者の方から積極的に取って、意見や応援を求めていくんです。人間は、″自分は期待もされていないし、軽んじられている″と思えば、力を出そうとはしません。
 また、副役職者の役割分担や責任を明確にしていくことも必要でしょう。
 ともあれ、副役職者が、中心者と呼吸を合わせ、はつらつと活躍している組織は、大きな力を発揮しています」
 荒野に一本の木が立っているだけでは、風は防げない。多くの木々が茂り、森をつくってこそ、風も防ぐことができるし、さまざまな森の恵みも、もたらすのである。
16  福光(16)
 山本伸一は、情熱を込めて訴えていった。
 「ともかく中心者は、大きな心で、皆を包みながら、仏法のため、同志のために、陰で黙々と汗を流していくんです。
 しかし、学会を破壊し、攪乱する動きに対しては、毅然として、阿修羅のごとく戦うんです。そうでなければ、仏子を守ることはできない。みんなを不幸にしてしまいます。その炎のごとき闘争心、覇気、勇気がなければ、広宣流布の指導者ではありません」
 強いからこそ、優しくなれる。人を不幸にしてしまう″優しさ″は、偽善である。
 伸一は、言葉をついだ。
 「どんなに時代が変わっても、広宣流布の責任を担うという、幹部としての根本の使命は変わりません。しかし、時代とともに、幹部に求められるものは、変化してきています。たとえば、かつては″威厳がある″ということが、幹部の大事な要件の一つであったが、今は″気さくさ″や″親しみやすさ″の方が大切です。
 ところが、幹部自身に成長がなく、慢心があると、その変化に気がつかなくなってしまう。旧態依然とした自分のやり方でよいと思い、結局、時代に逆行し、広宣流布を遅らせてしまう結果になる。これが怖いんです」
 それから、皆に視線を巡らした。
 「ともかく団結だよ。学会に団結がなくなれば、仏法の流れは途絶えてしまう。堅固な、ビクともしない、団結の石垣をもつ、難攻不落の信心の民衆城を築くんだよ」
 そして、団結の要件について語り始めた。
 「団結するということは、自分の人間革命をしていくということでもある。自己中心性やエゴイズムを乗り越えなければ、団結はできないからです。
 学会の世界にあって、団結するための第一の要件は何か。それは、皆が、広宣流布の師弟という堅固な岩盤の上に、しっかり立つことです。それが創価の団結の礎です。まずは師匠と呼吸を合わせ、師弟の魂の結合を図ることこそが、異体同心の一切の根本です」
17  福光(17)
 山本伸一の口調は、厳しくなっていった。
 「本気になって団結しようと思うならば、陰で同志を批判し合ったり、悪口を言ったりしては、絶対にならない。それが、魔の付け入る隙を与え、組織に亀裂を生み、仏法を破壊することになっていくからです。
 戸田先生は、よく、こう言われていた。
 『この戸田の命よりも大切なのが、学会の組織だ。世界で、いや、大宇宙で、ただ一つの、広宣流布を成就する仏意仏勅の組織なんだからな。だから、断じて守り抜くんだ』
 当然、幹部同士で、意見の異なる場合もあるでしょう。また、互いに、要望したいこともあるでしょう。その場合には、率直に、本人に伝えることです。もちろん、言い方には注意が必要です。感情的になったりしないように、配慮もしなければなりません。
 ただ、何があろうと、幹部同士が、陰で反発し合い、足を引っ張り合ったり、派閥をつくったりするようなことがあっては、決してならない。皆が心を一つにし、団結の歯車が、しっかりと、かみ合ってこそ、広宣流布のモーターは大回転を開始するんです」
 陰で同志を批判し、悪口を言うことは、無自覚ではあっても、謗法となるのだ。十四種の法華経誹謗である十四誹謗のうち、最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善、すなわち、信心に励む同志を、軽んじ、憎み、嫉み、恨むことなのである。
 法華経誹謗の罪報について、法華経譬喩品には「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」(法華経一九九㌻)と説かれている。ゆえに大聖人は、その罪を犯させまいと、「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか」と、戒められているのである。
 同志を誹謗することは、広宣流布の魂の結合を破壊し、皆の心を攪乱させ、前進の活力を奪っていく。御書には「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」と仰せである。深く心にとどめねばならない。
18  福光(18)
 懇談は、物事をじっくりと語り合える好機である。山本伸一は、この機会に、特色の異なる地域をかかえる福島県の幹部に、団結の在り方を、あらゆる角度から、徹底して訴えておこうと思った。
 「幹部が本当に団結しようと決意しているならば、それは、具体的な行動、振る舞いとなって表れます。
 団結がある組織というのは、県でいえば、まず、県長と県婦人部長など、県幹部同士の連絡、報告が密です。″今日は、県幹部の誰が、どこの組織に入っているか″といったことも、お互いに知っています。また、自分の担当した地域で、何か問題があった場合も、すぐに連絡を取り合い、情報も共有されています。
 さらに、互いの気遣いがあります。
 県長が、さまざまな仕事をかかえ、一人で悪戦苦闘していたら、ほかの県幹部は、『何か、私にできることはありませんか。なんでもやらせていただきますよ』と、すぐに言えるようでなければならない。
 立場の違いはあっても、自分が中心者の自覚で、県の一切の責任を担っていこうとするのが、県幹部の姿勢です。
 それを、″我関せず″″お手並み拝見″とでもいうような態度で、冷ややかに見ているとしたら、それは、もはや、広宣流布の組織でもなければ、学会の世界でもありません。
 野球を見ても、出場選手の誰もが球の動きを注視し、展開に応じて皆が動き、もし、一塁が手薄になれば、すぐに別の選手が、そのカバーをするではないですか」
 詩聖タゴールは力説している。
 「正義の搖ぎなき信仰と結束との中に、我々の力を求めなければならぬ」
 まさに、至言といえよう。
 創価の慈悲の大力もまた、広宣流布をめざす異体同心の結束のなかにこそ、大いに発揮されるのである。
 福島県の幹部たちは、伸一の話に、真剣な面持ちで耳を傾けていた。
19  福光(19)
 山本伸一の声が強く響いた。
 「その組織が、団結しているか、それとも、幹部の心がバラバラなのかは、会合を、ちょっと見ただけでもわかるものなんです」
 皆、不思議そうな顔で伸一に視線を注いだ。
 「たとえば、会館で総ブロック長以上の幹部が集って、県の総ブロック長会が開かれたとします。特に席が決まっていない場合、登壇者以外の県・圏幹部などが、どこにいて、何をしているかを見ればよい。
 役員などの任務に就いているのでなければ、なるべく前の方に来て、すべて吸収しようという意気込みで、最も熱心に話を聴くべきです。学会歌を合唱する時には、力いっぱい歌い、拍手も真っ先に送るんです。そうすれば、ほかの参加者もそれに倣い、会合も盛り上がります。
 しかし、″自分とは関係ない″というような、つまらなそうな顔で、後ろの方に座っていたらどうなるか。会合の雰囲気をこわし、皆のやる気を削いでしまう。ましてや、会場の中に入りもせず、外で雑談していたりするのは、仏法の会座ともいうべき、創価学会の会合に対する冒涜です。
 つまり、本当に団結しようという一念があるかどうかは、何気ない振る舞い、言動のなかに表れるということなんです」
 伸一は、福島創価学会を、難攻不落の広宣流布の名城にしてほしかった。どこよりも仲の良い、全国模範の、人間共和の固いスクラムの組織にしてほしかった。
 「創価学会は、永遠に異体同心の団結で勝っていくのだ!」とは、戸田城聖の師子吼であった。ゆえに伸一は、必死なまでに、団結を訴えたのである。
 「人間ですから、″あの人は虫が好かない″ということもあるでしょう。しかし、広宣流布のために、どんな人とも仲良くやっていこうと努力するなかに、仏道修行があり、人間革命がある。真剣にお題目を唱え、自分の心を、大きく開いていくんです。自分の境涯が高ければ、人を包んでいくことができます」
20  福光(20)
 懇談会は、「団結論」の研修会の様相を呈した。
 山本伸一は、話が一段落すると、会場の青年たちに目を向けた。
 「福島県の青年部長は、奥津君だったね」
 「はい。奥津正です」と言って、メガネをかけた生真面目そうな青年が立ち上がった。
 彼は、聖教新聞の記者で、東京の品川区で区男子部長をしていたが、二カ月前に県青年部長の任命を受け、移転してきたのである。
 「よく知っているよ。実家は、品川の果物屋さんだったね。一度、家に伺ったね。もう四年前になるかな」
 「はい! おいでくださいました」
 一九七三年(昭和四十八年)四月、伸一は奥津の実家を訪問し、両親と彼ら夫妻を激励したのである。
 伸一は、懇談会の全参加者に言った。
 「私は、本来なら、会員の皆さんのお宅を一軒一軒訪問し、共に勤行もし、語り合いたいんです。特に、さまざまな悩みをかかえて苦しんでいらっしゃる方とお会いし、肩を抱き、生命を揺さぶるように、励ましたいんです。みんな、大切な仏子だもの。
 その時間は、なかなか取れませんが、それが私の心です。また、それこそが、初代会長の牧口先生以来の、会長の心なんです。
 牧口先生は、父母などを折伏できずに悩んでいる青年から相談を受けると、『正法を教えることは最高の親孝行です。その心が尊い。私が行ってお会いしよう』と、日本中、どこへでも足を運ばれています。
 軍部政府の弾圧で逮捕される前年の昭和十七年(一九四二年)にも、福島県の、この郡山や、二本松にも来られている。仏法対話の結果、いずれの地でも親御さんが入会しています。当時、上野から郡山までは列車で約六時間。先生は、既に七十一歳です。
 また、牧口先生は、福岡県の八女にも、青年に頼まれ、その家族の弘教に訪れている。三等車の固い座席で、丸一日以上の旅です。この誠実な行動が、青年を育てるんです」
21  福光(21)
 初代会長・牧口常三郎は、一九三九年(昭和十四年)春、福岡県八女に住む夫妻を訪ねる。東京で暮らす、その子息と夫の弟から、夫妻を入会させたいと相談されたのである。
 牧口は、夫妻に、諄々と法を説いた。理路整然として確信あふれる話に、二人は入会を決意した。その時、牧口は語っている。
 「あなたたちが御本尊様をいただくということは、仏法の原理に照らして、九州の全民衆が不幸から救われることになるんです。日蓮大聖人は、『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし』と仰せです。
 今、あなたたちが、この最高の御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるということは、地涌の義によって、九州にも必ず、さらに、二人、三人、百人と御本尊を持つ人が現れるということなんです」
 そして、こう訴えたのである。
 「題目は自行化他といって、自分がお題目を唱えるだけでなく、人にも、それを教えていかねばならない。これが大事です。自行化他の信心をすれば、悩みは必ず解決します。
 しかし、仏法を信じて正しく行じていけば、必ず障魔が競い起こってきます」
 牧口は、新入会の友に、仏法の法理を明確に語り、深く決意を促していった。
 のみならず、翌日には、「早速、実践に移らねばならない」と言って、長崎県の雲仙にある、牧口の知人の家に、この夫妻を連れて弘教に向かったのである。
 雲仙に向かう車中、牧口は、二人に言った。
 「私が折伏するのを、よく見ておきなさい。
 折伏が宗教の生命なんです。他人を利していく生活こそ、大善といえるんです」
 入会したならば、勤行、折伏を教え、広宣流布の対話の闘士へと育てていく。そこで、弘教は完結するのである。
 ともあれ、一人のために、どこまでも足を運び、仏法を訴え、励まし抜いていく――それ以外に、広宣流布の前進はない。
22  福光(22)
 山本伸一は、県青年部長の奥津正に言った。
 「県長、県婦人部長と呼吸を合わせ、青年の力で新しい福島創価学会をつくっていくんだよ。
 また、壮年、婦人は、男子部、女子部、学生部が、伸び伸びと活躍できるように応援してください。今、どんなに、組織が発展しているように見えても、青年が育ち、さらに、高等部や中等部、少年・少女部が伸びていなければ、未来の興隆はありません。
 青年部は、学会の後継者です。後継者とは、学会を今以上に興隆、発展させていく使命を担っている人ということなんです。
 その使命を果たすために、青年部は、まず、信心への絶対の確信をつかんでほしい。それには、体験を積むことです。
 ″祈り、戦って、自分は、こう悩みを克服した″″こう自分が変わった″という体験を幾つもつかです。
 さらに、教学です。″なぜ、日蓮大聖人の仏法が最高だといえるのか″″仏法の法理に照らして、どう生きるべきか″などを徹底して学んでいくことです。
 そして、師弟の絆を深め、良き同志との友情、連帯を強めていくことです。私は、牧口先生、戸田先生の殉教の精神と実践、その偉大な人格を知れば知るほど、仏法と学会への、確信を深めることができました。
 また、先輩幹部をはじめ、さまざまな同志の体験を聞くことも、自身の確信となっていくでしょう。善知識である創価の麗しき人の輪は、確信の源泉でもあるんです。
 青年部、しっかり頼むよ。未来は、君たちの腕にあるんだからね」
 県・圏の代表との懇談会は、青年への激励をもって終了した。
 伸一は、それから、会館の中をくまなく回り、戸締まりや各部屋の整理整頓の様子を点検した。大行事が行われ、祝賀のムードが漂っている時こそ、心に油断が生じがちになる。その時に魔が付け入り、事故が起こりかねないからだ。
23  福光(23)
 福島文化会館滞在二日目、山本伸一は、早朝から、福島県、東北の愛する同志に贈るために、山と積まれた書籍などに、次々と激励の一文を認めていた。
 その後、福島県の幹部らと懇談し、午後一時半過ぎからは、文化会館の庭に立つ、歴代会長の碑の除幕式に出席した。
 伸一が紅白の紐を引くと、白布が取り除かれ、黒御影石に彼の筆で、「妙法の 広布の旅は 遠けれど 共に励まし とも共に征かなむ」との、戸田城聖の歌が刻まれた碑が姿を現した。同時に、初代会長・牧口常三郎の「学会精神」、戸田の「大願」などの文字が刻まれた石碑が、一斉に除幕された。
 伸一は、戸田の歌碑の横に立つ碑文に、じっと視線を注いだ。この碑文を作ったのは伸一である。
 そこには、こう認められていた。
 「我ら戸田門下生は 広宣流布のその日まで勇んで三類の嵐を乗り越え 恩師のこの和歌を永遠の原点となし 異体を同心として 仏意仏勅のために共戦しゆくことを ここに誓うものなり」。そして、「我が創価門下はすべからく 生々世々 代々の会長を中心に折伏弘教に邁進すべきことを ここに書きとどむ」と結ばれていた。
 彼は、福島の同志に語りかけた。
 「福島は、何があっても、この精神でいくんだよ。創価門下ならば、いつ、いかなる状況に置かれようが、広宣流布の歩みをとどめてはならない。大聖人が『月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし』と仰せのように、進まざるは退転につながる」
 次いで伸一は、庭の一角にある池で、鯉の放流式に臨んだ。
 県の幹部が、彼に言った。
 「この池には、まだ名前がありません。ぜひ、命名をお願いしたいのですが……」
 「わかりました。では『生々の池』にしましょう。永遠の生命の意味です。また、私たち創価の同志の絆も永遠だからです」
24  福光(24)
 鯉の放流式に引き続いて、福島文化会館の開館を記念して、各部の木などの植樹が行われた。山本伸一は、ケヤキの木を植樹した。ケヤキは、福島県の県木である。
 彼は、県長らから請われ、この木を「広布ケヤキ」と命名した。
 その間にも、男子部の代表などと、次々に記念のカメラに納まった。
 このあと、郡山市内を視察した。彼方には、白雪を頂いた安達太良山が腕を広げるようにそびえていた。車中、彼は、東北総合長で副会長の青田進に尋ねた。
 ″福島文化会館まで、車を持っていない人たちは、どういう方法で来るのか″″文化会館の駐車場には、車は何台入るのか″″近隣には、誰が、いつ、あいさつに行ったのか″等々、質問は、矢継ぎ早に発せられた。
 伸一は、会員を守り、近隣の理解を得ながら、無事故で円滑な会館運営をしていくために、どうしても、さまざまな観点から、確認をしておかずにはいられなかったのである。
 「想定されるあらゆる事態に備えて、的確な対策を立てよ」とは、第二代会長・戸田城聖の指導である。
 伸一は、福島文化会館ができるまで、福島の中心会場となってきた、郡山会館の前も通ってもらった。そして、同行の幹部に、この会館に着任する牙城会などの役員に対して、伝言と激励の品を託した。
 皆の目は、新たに完成した福島文化会館に向けられている。しかし、記念行事の準備などは、この会館を使って行われてきたにちがいない。いわば、陰の力の拠点となっている会館である。伸一は、″その会館を黙々と守っている方々を大切にし、少しでも励ましの手を差し伸べたい″と思ったのである。
 リーダーが、光の当たるところしか見ず、陰の人にスポットライトを当てようとしなければ、要領主義がまかり通るようになってしまう。人材を見つけだすには、表面より側面や裏面を、水面よりも水底を凝視する眼を開かねばならない。
25  福光(25)
 午後四時過ぎ、山本伸一は、県・圏幹部ら八十人ほどとの懇談会に出席した。この集いは、組織の中核として活躍するメンバーや、草創期からの功労者をねぎらい、励ますために、福島文化会館近くのレストランで、食事をしながら行うことにしたのである。
 伸一は、会場に到着すると、各テーブルを回って、一人ひとりにあいさつした。婦人たちがいる円形テーブルに行くと、並んで座っていた県指導長の鈴村アイと常磐圏の指導長の菅田歌枝に声をかけた。
 「福島の二人のお母さんが健在なんで、嬉しい。草創の功労者が元気で、いつまでも活躍されている組織は、必ず発展しています」
 鈴村は、メガネをかけた明朗闊達な感じの婦人で、二年前まで、県の婦人部長をしていた。また、菅田は、控え目ななかに、信心の筋金が通った婦人である。
 菅田が、ほおを紅潮させて言った。
 「ありがとうございます。私も五十四歳になりました」
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「レディーは、年齢を言ったりしてはいけませんよ。まだまだお若い。牧口先生は、その年では、まだ入信さえしていません。
 人生で大事なのは、ラインの中心者を退いたあとなんです。その時に、″自分の使命は終わったんだから、のんびりしよう″などと考えてはいけません。そこから、信心が破られてしまう。戦いは、これからですよ。
 先日、ある県の指導長に、『この七年間で何人の人に仏法を教えましたか』と尋ねました。これまでに、百人、二百人と折伏してきた方です。ところが、『この七年は、折伏は実っておりません』と言うんです。
 私は、『もう一度、草創期の思いで、戦いを起こしましょう』と申し上げました。
 大事なのは過去の功績ではない。『今、どうしているのか』『これから何をするか』なんです。八十歳になろうが、九十歳になろうが、命ある限り戦い、人びとを励まし続けるんです。『生涯青春』でいくんですよ」
26  福光(26)
 山本伸一は、鈴村アイと菅田歌枝に、力を込めて語った。
 「あなたたちには、生涯、自らの行動を通して、皆に学会精神を伝え抜いていってほしいんです。私と一緒に、文京支部員として戦った、同志ではないですか!」
 二人は、かつて伸一が支部長代理をしていた、文京支部の婦人部員であった。
 県指導長の鈴村は、福島県の須賀川の出身で、生来、明るく、活発な性格であった。教員養成所を出て、国民学校などで教壇に立ってきた。
 二十三歳の時に、浜通りの勿来で米穀小売業を営む、鈴村裕孝と結婚した。店も繁盛し、順風満帆の船出に思えた。
 女学校時代から、″朗らかさん″と呼ばれてきた彼女の周りには、いつも笑いが絶えなかった。
 しかし、長男を出産して間もなく、肺結核にかかってしまったのである。まだ、結核で亡くなる人が多かった時代であった。死の不安におびえながら、入院生活を続けた。
 八カ月後に、ようやく退院できたが、不眠症に悩まされ、さらに、持病の胃腸炎も悪化していった。
 精神的にも疲れ果てて、とうとうノイローゼになってしまった。生きていることが、苦しくて、苦しくて仕方なかった。
 今度は、″どうすれば、命を絶てるのか″と考え、断崖にたたずんだこともあった。
 全く生気を失い、痩せこけて別人のようになった鈴村アイの口から出るのは、苦悩のため息ばかりであった。家から笑い声が絶えて久しく、いつも、陰鬱な静寂に包まれていた。
 夫の裕孝も、病んだ妻をかかえ、仕事と子育てに追われ、心身ともに疲弊していった。妻と自分の運命を呪った。
 アイが病気になって、八年がたった一九五六年(昭和三十一年)の十月、裕孝は、近所に住む兄の家に、たまたま車で炭を届けた。兄は、少し前に創価学会に入会し、この日、その兄の家で座談会が行われていたのだ。
27  福光(27)
 鈴村裕孝に、兄は言った。
 「いいところに来た。今、学会の座談会をやっているから、話を聞いていきなさい。さあ、前の方へ!」
 裕孝は、兄には頭が上がらなかった。不承不承、そのまま、座談会に出席した。
 集っている人の身なりを見ると、あまり裕福そうな人はいなかった。しかし、皆、瞳を輝かせ、ほおを紅潮させながら、信心で病や生活苦を乗り越えた体験などを、生き生きと語っていた。そして、その言葉には、必ず幸せになれるのだという確信があふれていた。
 彼は、信仰の喜びに弾む生命が放つ、まぶしいほどの明るさを感じた。
 また、妻が病に苦しんでいることを話すと、皆が、「この信心で必ず乗り越えられます!」と、確信をもって語るのである。
 弘教の原動力は確信にある。何があろうが、絶対に幸福になれるのだという確信から発する魂の叫びが、人の心を打つのである。
 座談会から三カ月後の翌年一月、裕孝は入会した。兄は、文京支部の日本橋地区に所属していたため、裕孝も同じ組織になった。
 裕孝の入会に、妻のアイは反対であった。彼女はクリスチャンであり、実家には教会が建てられ、兄が牧師をしていた。創価学会について、よく知らなかった彼女は、″えたいの知れない宗教″に入ったように感じたのだ。
 裕孝は、妻が健康になってほしいとの思いで、懸命に信心に励んだ。しかし、アイは、裕孝が「会合に行く」と言えば、「行かないでよ」と大騒ぎし、実家の姉まで呼んで、信心をやめるように迫った。
 鈴村の家には、東京や福島県の浜通りにある小名浜から、文京支部の幹部や会員が、よく訪ねて来るようになった。
 そのなかに、日本橋地区の地区部長である島寺丈人や、小名浜に住む菅田歌枝がいたのである。
 鈴村家を訪問した会員たちは、妻のアイにも丁重にあいさつし、励ましの言葉をかけ、体験を語り、仏法の功力を訴えていった。
28  福光(28)
 鈴村アイは、自宅に来る文京支部のメンバーの話を聞くうちに、その確信に打たれ、信心をしてみようと思うようになっていった。
 そして、夫の裕孝の入会から、五カ月後の一九五七年(昭和三十二年)六月に入会したのである。
 ある日、鈴村宅を訪れた地区部長の島寺丈人が、彼女に語った。
 「鈴村さん。宿命を転換し、幸福になろうと思うなら、題目を唱えているだけでは駄目ですよ。『自行化他』と言って、自分が勤行し、題目を唱えるとともに、人にも信心を教えていかなければならない。
 自分の幸せばかりを祈っているとしたら、利己主義の信心になってしまう」
 「でも、私は、まだ、悩みも解決できたわけじゃないんですよ。悩みがなくなったら、頑張りますよ」
 「それは違うんじゃないかな。あなたは病気で苦しんでいる時、動くのが辛いから、病気が治って元気になったら病院に行こうと考えますか。それとも、大変でも、すぐに病院に行って治したいと思いますか」
 「苦しければ、すぐに病院に行きます」
 「そうでしょ。信心も同じですよ。今の苦しみを乗り越えたいと思うなら、いつか頑張ろうなんて考えるんじゃなくて、今すぐに、行動を起こすことです。もちろん、体調が悪いなら、無理をする必要はありません。
 折伏は、遠くまで行かなくてもできます。家に来た人や近所の人に、仏法の話をしていけばいいんです。ともかく、みんなを幸せにしようとの一念で、正法を語り抜いていくことが大事なんです」
 「でも、どう言えばいいかも、わからないし……」
 「自分にできることから、やればいいんです。なぜ、自分が信心してみようと思ったかを語ることも立派な折伏です。ご主人と一緒に折伏に行って、ご主人が話をしたら、『そうなんです。その通りですよ』と、一生懸命に相づちを打つだけでもいいんですよ」
29  福光(29)
 鈴村アイは、島寺丈人の顔を、のぞき込むようにして尋ねた。
 「題目を唱えて、折伏をすれば、本当に幸せになれるんですね!」
 「間違いない。学会の会長の戸田先生が、そう断言されているんです!」
 戸田城聖は、一九五三年(昭和二十八年)九月、中野支部総会で、こう言明している。
 「この会場にお集まりの方々のために約束をしよう。朝夕の勤行を欠かさず、二カ月に一人の折伏を必ず行うと覚悟してもらいたい。
 悩みある人は願いを立てよ。仏法は真剣勝負です。万一、実行して解決しなければ、戸田の生命を投げ出そう」
 全国各地で、戸田は、こう指導の矢を放っている。時には、「一カ月に一人の折伏」と述べていることもあるが、一カ月、あるいは二カ月で一人を折伏するには、自分が縁するすべての人に、仏法を語り説く実践が求められる。つまり、要は、折伏・弘教に生き抜けとの、戸田の魂の叫びであった。
 ″日々、悩み苦しんでいる、こんな自分の宿命を変えたい!″
 鈴村は、その一心で、近隣の知人を訪ね、仏法を語った。驚いたのは、彼女の訪問を受けた知人たちであった。いつも陰鬱な顔をして、床に就いてばかりいた鈴村が、自ら訪ねて来ては、一生懸命に信心の話をするのだ。
 「私は、この仏法で、必ず悩みを乗り越えて見せます。すごい信心なんですよ」
 しかも、話すにつれて、青白かった彼女のほおは紅潮し、声は力強さを増し、はつらつとしてくるのだ。周囲の人びとは、生気のなかった鈴村が、布教に歩く姿に驚き、彼女の話に熱心に耳を傾けた。
 鈴村は、仏法を語っていると、何か熱い血潮のようなものが全身にたぎり、生命力があふれてくるような気がした。
 彼女の顔には、久しく見ることがなかった笑みの花が開くようになった。
 この鈴村アイを励まし続けてきたのが、菅田歌枝であった。
30  福光(30)
 常磐圏の指導長をしている菅田歌枝は、中通り北部の霊山村の生まれであった。
 年は県指導長の鈴村アイよりも一つ上で、入会も二年早かった。
 戦後、歌枝は、県南の小名浜にある化学工場に勤める菅田留太郎と結婚し、新婚生活はその社宅からスタートした。三人の子宝にも恵まれた。しかし、皆、病弱だった。
 ある日、妹の知り合いだという婦人たちが訪ねてきた。宗教の勧誘であった。
 姓名判断をされ、こう言われた。
 「あなたは、ご主人を亡くし、三人のお子さんも早世するでしょう」
 そして、その宗教への入会を勧められた。
 歌枝の父親は三十七歳で病死していた。子どもたちも小児喘息などの病に苦しんでいる。それだけに不安を覚え、入会した。
 道場にも通い、積極的に布教にも歩いた。
 しかし、ほどなく、夫の留太郎が肺結核にかかったのである。彼女は、今度は、夫の病を治したい一心で、ますます熱心に活動を続けた。多額の布施もした。真冬の深夜に、水を被る水行もした。ところが、夫の病状は、悪化の一途をたどっていったのである。
 歌枝は、自分は騙されていたと思った。
 ″もう宗教なんて、こりごりだ!″
 宗教は、人間の生き方の根本法である。もし、教えに誤りがあり、それを信じてしまえば、その影響が表れる。ゆえに、人びとの幸福を願うならば、宗教の教えについて鋭く考察し、対話を重ねていくことが大切になる。
 一九五四年(昭和二十九年)の初夏のことである。菅田留太郎と歌枝は、東京から来た青年から、創価学会の話を聞いた。
 青年は、日蓮仏法の偉大さを語り、学会の書籍を置いていった。病で苦しんでいた留太郎は、むさぼるように読んだ。そこには、宗教には高低浅深があることや、信じる対象によって、人の幸・不幸は決定づけられていくことなどが論じられていた。留太郎は、よく納得することができた。
 ″よし、この仏法にかけてみよう!″
31  福光(31)
 一九五四年(昭和二十九年)の六月、菅田留太郎は創価学会に入会し、御本尊を受持した。しかし、夫が信心を始めたことに、妻の歌枝は憤慨した。彼女は、自分の体験から、宗教は″うさんくさいもの″と痛感していたからである。
 普段は、柔和な歌枝だが、夫が勤行をすると、同じ部屋で、御本尊に背を向けて、大声で他宗で習った経を読んだ。 
 「正法を信じ、実践すれば、必ず魔が競い、反対される」と聞かされていた留太郎は、微動だにしなかった。歌枝には、それがまた、しゃくに障った。
 入会を機に、留太郎は、日増しに健康を回復していった。一方、歌枝は、激しい頭痛に襲われるようになった。病院でも原因がわからず、痛みで一睡もできぬ日が続いた。
 夫の結核は、完治するまでに二、三年はかかるだろうと診断されていたが、入会から半年後に、職場に復帰することができた。
 この厳たる実証の前に、歌枝は感服せざるを得なかった。留太郎より八カ月遅れて、信心に励むようになった。
 正法に目覚めた歌枝は、夫も驚くほどの広宣流布の闘士となった。″友人、知人は、一人も残らず幸せになってほしい!″と願い、次々に仏法対話していった。
 三人の子どもを抱え、暮らしは、決して豊かとはいえなかった。しかし、彼女には、希望があった。信仰の歓喜と確信があった。弘教に歩くことが、楽しくて仕方なかった。
 歌枝は、平凡な一人の主婦にすぎない。その自分が、広宣流布という、人びとの幸せと社会の繁栄、さらには人類の平和を実現する使命を担っているのだと思うと、人生の新しい世界が開かれ、喜びに胸が弾むのだ。
 彼女は、東京での、文京支部や日本橋地区の会合にも、勇んで出かけていった。常磐線の各駅停車に揺られ、福島県から茨城県に入る。茨城県を縦断し、千葉県を越えて、五時間近くかかって、東京の会場に到着するのである。でも、苦には感じなかった。
32  福光(32)
 菅田歌枝は、体当たりしていくような、一途な求道心を胸に秘めていた。
 文京支部の会合では、文京支部長代理で青年部の室長を兼務し、学会の運営の一切を担う山本伸一と、しばしば顔を合わせる機会があった。活動のことで、指導を受けたこともあった。
 ある時、会合が終わると、伸一は、遠方から参加した壮年や婦人に、ねぎらいの言葉をかけ、自ら用意した土産の品などを手渡していった。菅田には、こう声をかけた。
 「いつも、本当にご苦労様です。福島は大事です。広宣流布の新天地になる場所です。日々、奮闘してくださっている、せめてもの御礼です。お使いください」
 伸一は、購入してきた椿油を差し出した。
 「まあ、そこまでお気にかけていただき、申し訳ありません。ありがとうございます」
 菅田は、伸一のこまやかな心遣いに、深い感動を覚えながら、その椿油を受け取った。
 夕刻、帰途に就いた。外は、既に夜の帳に包まれていた。
 彼女は、列車の中で、車窓に映る自分の姿を見た。顔は歓喜に燃え輝いている。しかし、化粧っ気はなく、髪も、無造作な感じがした。また、アイロンをかける時間がなかったことから、着ているブラウスにも皺が目立った。
 膝の上に置いた椿油を見ながら、菅田は、思いをめぐらした。
 ″会長の戸田先生は、学会の婦人部は、身だしなみも、きちんと整えるようにおっしゃっている。でも、私は、なりふり構わず、ただ動くだけで、精いっぱいだった。山本室長は、そんな私に、学会婦人の在り方を教えようとされて、この椿油をくださったのではないか……″
 婦人部員が、誰からも、すがすがしく魅力的だと思われるようになれば、学会理解の輪は、さらに大きく広がるにちがいない。一人ひとりが″学会の顔″であるがゆえに、身だしなみに気を配ることも大切なのである。
33  福光(33)
 菅田歌枝は、鈴村アイが入会すると、同じ文京支部の日本橋地区であることから、一緒に活動することも多かった。
 菅田は、よく鈴村の面倒をみた。
 ″福島の地から、自分以上の人材が育ってほしい。鈴村さんには、ぜひ、そうなってほしい″
 それが、菅田の願いであった。
 鈴村が入会した直後の一九五七年(昭和三十二年)六月末、文京支部では七月度の活動として、一班十世帯の弘教が発表された。
 実は、この目標を提案したのは、支部長代理である山本伸一であった。
 創価学会の世帯数は、六月末には約六十万世帯であり、戸田城聖が六年前の第二代会長就任式で掲げた、会員七十五万世帯の達成が、間近に迫っていた。全会員が総力をあげて弘教に取り組むならば、年内には、戸田の願業は成就されることになる。
 伸一は、痛感していた。
 ″この七十五万世帯達成の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得る歴史となる。その意義は、どれほど大きく、尊いことであろうか……″
 そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班十世帯の弘教を提案したのだ。
 特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などに、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。
 活動の目標が打ち出されても、幹部など一部のメンバーだけが活動に取り組んでいるのでは、人材も育たなければ、広宣流布の本当の広がりもない。全会員が、共に責任を分かちもち、主体者となって活動の大舞台に躍り出てこそ、新しい活力にあふれた、新しい前進があるのだ。
 皆が地涌の菩薩である。皆が尊き使命をもった如来である。その力が十全に発揮される流れを開いていくことこそ、広宣流布のリーダーの大切な要件といえよう。
34  福光(34)
 一九五七年(昭和三十二年)の六月末、山本伸一は、北海道にいた。夕張で炭鉱労働組合が、学会員を締め出すという暴挙に出たことから、信教の自由と会員の人権を守るために、北の大地を奔走していたのである。
 文京支部では、六月二十九日、組長会を開いた。七月の活動への出発の集いである。
 ここには、支部長代理の伸一から、電報が届いていた。一班十世帯の弘教達成を呼びかけ、この戦いを「一班一〇闘争」と名づけることを述べた電報であった。
 支部の組長会を受けて、日本橋地区では、島寺丈人地区部長が出席して、福島県の小名浜で、浜通り在住の地区員が集い、決起大会が行われた。
 会場は、地域で最も早く入会した、雑貨店を営む福本輝代の家であった。会合の途中、文京支部長の田岡金一から島寺に電話があった。日本橋地区の浜通りの同志に、伸一が伝言を託したのである。
 島寺は、感無量の面持ちで、声を震わせながら、その伝言を発表した。
 「″一班一〇闘争″は、断固、勝利しよう。そして、戸田先生の大誓願である七十五万世帯達成の一大推進力となろう。また、北海道での闘争が終わったら、帰りに、浜通りの磐城に寄らせていただきます」
 集った同志は、喜びに沸き返った。
 伸一が、磐城に寄ろうとしたのは、炭鉱で働く同志を、力の限り励ましたかったからだ。福島の炭鉱でも、学会員へのいやがらせや、折伏の禁止など、組合による不当な締め付けが行われていたのだ。
 彼は、炭鉱で働く福島の同志を思い、″負けるな! 負けるな!″と心で叫び続けながら、北海道を駆け巡っていたのである。
 「人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生きかただ」――阿武隈の山並みを愛した作家・山本周五郎は綴っている。
35  福光(35)
 島寺丈人は、感極まった顔で話を続けた。
 「山本室長が、磐城に来られるということは、炭鉱で働く同志のことを、心配してくださっているからです。″常磐の炭鉱でも、夕張と同じような不当な圧迫があるなら、私が許さない″との決意で、室長は来てくださるんです。皆さん、この山本室長の心が、わかりますか!
 室長を迎えるのは、三、四日後になると思いますが、それまでに″一班一〇闘争″の緒戦を大勝利で飾り、『広宣流布は、福島に任せてください』と言える戦いをしましょう。そして、最後まで、この闘争を大勝利して、″福島は盤石です″という意気を示し、山本室長に安心していただきましょう!
 私は、なるべく、この福島県で共に活動できるように、仕事もやりくりしてきました。仕事がある場合には、夜行で東京に帰り、また、夜行でこちらに来ます。一世一代の大闘争をするつもりでおります。
 皆さん、自分の人生を開く、大闘争の歴史を創ろうではありませんか!」
 炭鉱で働く、ヤマの男たちをはじめ、全参加者から、「オーッ!」という元気な声が、はね返ってきた。
 島寺は、一本気な男であった。その彼の気迫に触れて、皆が心を燃え上がらせたのだ。
 日蓮大聖人は、「大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」と仰せになっている。戦いの勝敗を決する大きな要因は、指導者の一念、行動にある。断じて勝つという、燃え盛るリーダーの闘魂が全軍に波及し、皆を勇猛果敢な闘士にしていくのだ。
 福島県浜通りの文京支部の同志たちは、翌日から、伸一の訪問を楽しみにして、喜び勇んで、弘教に飛び出して行った。
 しかし、七月二日の夜、田岡支部長から島寺に電話が入った。緊張をはらんだ田岡の声が、受話器から響いた。
 「島寺さん。山本室長から『磐城には行かれなくなった』との連絡がありました」
 「室長に、何かあったんですか!」
36  福光(36)
 電話口で田岡金一は、一度、深呼吸し、努めて冷静に、島寺丈人に語った。
 「詳しいことはわからないが、山本室長は大阪府警(大阪府警察本部の略称)に出頭されるらしい。四月の参議院大阪地方区の補欠選挙で、違反者が出てしまった件で、室長は支援の最高責任者であったことから、出頭を求められているようなんだよ。
 どうも、検察は、学会自体を攻撃の対象にしているらしい。実は今日、その件で、小西理事長が逮捕されてしまった。既に、一部の新聞は、今日の夕刊で、そのことを報道しているんだよ」
 不安そうな声で、島寺は言った。
 「お二人は、大丈夫でしょうかね……」
 島寺の不安を打ち消すように、田岡は、明るい声で語った。
 「大丈夫。嫌疑は、すぐに晴れるよ。選挙違反なんてしていないんだから。
 室長は、『磐城に行けなくなって申し訳ないね。行けなくても心は一緒だよ。私も戦います。みんなも大奮闘してください』との伝言をくださった。頑張ろうよ」
 翌三日の朝、山本伸一の磐城訪問は中止になったことが、島寺から皆に伝えられた。
 午後三時過ぎ、田岡の妻で、前文京支部長の田岡治子から、島寺に電話がきた。
 「今日、山本室長は、飛行機で北海道から羽田を経由して、大阪に行かれました。
 私は、羽田の空港に行って、乗り換えの際に、お会いしてきました。
 室長に、『何かご伝言を!』と申し上げると、力強い声で、『夜明けが来た、と伝えてください』とおっしゃっていました」
 炭鉱労働組合に続いて、国家権力という、さらに強大な力が、創価学会を狙い撃とうとしていたのだ。「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」とは、天台大師の『摩訶止観』の文である。その法理は、いかに時代が変化しようが、決して、変わることはない。広宣流布を阻む障魔の嵐が、学会に襲いかかったのである。
37  福光(37)
 七月三日の夜遅く、田岡治子から島寺丈人に、再び電話が入った。彼女の言葉には、憤怒がほとばしっていた。
 「山本室長は、大阪府警に出頭し、そのまま逮捕されました。何も悪いことなどしていない室長が、無実の罪で不当逮捕されたんですよ。いよいよ権力の魔性が、牙をむいたんです。
 室長は、今日の昼間、羽田でお会いした時に、『夜明けが来た』と言われましたが、その意味を私は考えてみました。
 夕張の件も室長の逮捕も、その淵源は、学会が人びとを幸せにしようと折伏を進め、さらに、立正安国のために、政治改革に着手したことから始まっています。
 炭労は、学会が独自の候補者を推薦し、支援したことに腹を立て、″組合の統制を乱した″などと言って、学会員を締め出した。そして、国家権力は、一部の学会員が起こしてしまった選挙違反を山本室長に結びつけ、学会を抑えつけようとしているんです。
 つまり、創価学会という、民衆の力を結集した新しい団体が、社会的に大きな力をもってきたから、今のうちに、それを躍起になってつぶそうとしたのが、今回の二つの事件だと思います。だから、この弾圧をはね返し、学会が不屈の力を発揮していくならば、民衆の新しい時代が訪れる。それで、山本室長は、『夜明けが来た』と、私たちに伝言してくださったと思うんですよ」
 田岡治子は、ここまで一気に話すと、叫ぶように言った。
 「島寺さん。何があっても、なんとしても、″一班一〇闘争″を大勝利しましょう。これは、支部長代理の山本室長が熟慮の末に提案された戦いなんですから。
 この闘争に勝つことが、山本室長との共戦であり、″夜明け″を開くことになると思うんですよ」
 一人の婦人の懸命な訴えに、闘将の心は烈火となった。必死の一念から発する言葉が、生命を射貫くのである。
38  福光(38)
 島寺丈人は、電話口で田岡治子に言った。
 「田岡さん。任せてください。日本橋地区は、絶対に勝ちますよ。特に、この福島の浜通りが、大勝利の先駆になりますよ!」
 いざという時に、心を同じくして立ち上がることができてこそ、まことの団結であり、その人たちこそ、真の勇者なのだ。
 島寺は、その夜は、いつまでも唱題を続けた。そして、翌朝、拠点に集って来た同志に、山本伸一が不当逮捕されたことを発表したのである。
 皆、息をのんだ。誰もが、驚きを隠せなかった。
 ″なんで、あの山本室長が逮捕されなければならないのだ……″というのが、皆の疑問であった。島寺は語った。
 「大阪府警も、大阪の地方検察庁も、今年四月に行われた参議院の大阪の補欠選挙で、選挙違反者が出たことから、支援の最高責任者である山本室長が、違反の指示を出したと考えているらしい。しかし、そんなことは、絶対にあり得ません。
 私は昨年七月の参院選挙の時に、山本室長と共に、大阪の支援に行きました。その時に室長は、口が酸っぱくなるほど、『無事故であることが大事です。違反行為など、絶対にしてはならない』と言われ続けていた。
 その室長が、違反行為を指示するわけがないではありませんか!」
 集った同志たちは、誰もが″そうだ!″と思った。文京支部に所属する彼らは、支部の会合などで、直接、伸一の指導に接し、激励された人も少なくなかった。それだけに、誰もが、正義感の強い伸一の人柄を、よく知っていたからである。
 島寺は、ひときわ大きな声で訴えた。
 「山本室長が逮捕された裏には、創価学会をなんとか抑えつけようという、権力の悪質な意図があることは間違いないと、私は思う。皆さんは、昨年、戸田先生が、郡山の駅で、福島の同志に言われた指導を、聞いているでしょう」
39  福光(39)
 ――第二代会長・戸田城聖は、山本伸一が逮捕される前年の一九五六年(昭和三十一年)四月一日、仙台指導に向かった。そのことを耳にした福島の同志二、三十人が、″戸田先生に、ひと目、お会いしたい″と、郡山駅のホームで待っていたのだ。
 乗降客が一段落したあと、戸田は、列車のデッキまで出てきて、皆を励ました。
 「いいか諸君! 大難が競い起こらなければ、本当の広宣流布はできない。その時に、腰を抜かしてはなりませんぞ。心して信心を貫くんです!」
 島寺丈人は、皆に訴えた。
 「戸田先生の言われた、その大難が、遂に競い起こったんです。そして、わが文京支部の支部長代理である、あの山本室長が標的にされ、牢につながれたんです……」
 島寺の声はかすれ、幾分、涙声になっていた。その声を聞くと、皆、居ても立ってもいられない気持ちになった。大阪に駆けつけたい衝動にかられるのだ。
 皆の心を感じ取った島寺は、なだめるような口調になった。
 「みんなは、″山本室長の逮捕は、国家権力の横暴だ。絶対に許さん!″と思っているでしょう。私も、そうです。
 しかし、今、大阪府警に乗り込んで行ったところで、混乱をきたすだけです。
 私たちは、権力の魔性に対して、″学会は弾圧なんかに負けないぞ! 民衆の力をなめるな!″というものを、見せつけてやらねばならない。それには、この試練のなかで、大拡大の実証を示すことです。まず、この″一班一〇闘争″を必ず大勝利するんです。
 大聖人は、『始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり』と仰せです。今こそ、″まことの時″が来たのだと腹を決めて、強盛の大信力をいだして、大折伏を敢行しようではありませんか!」
 賛同の拍手が起こった。闘魂の雄叫びは、皆の勇気を呼び覚まし、心を一つにする。
40  福光(40)
 島寺丈人は、″一班一〇闘争″に、自分の人生を賭けようと思っていた。
 ――島寺は、一九五四年(昭和二十九年)七月の入会である。文京支部長代理として山本伸一が出席した池袋での座談会に、友だちと連れ立って来ていたのだ。
 彼は、柔道四段の屈強な体の持ち主であったが、胃潰瘍と十二指腸潰瘍にかかり、人生に絶望していた。
 伸一から、生命力と病の関係や、宗教と人生などの話を聞いた。その話には、魅力を感じ、納得できたが、入会には躊躇があった。
 「リンゴだって、食べてみなければ味はわからない。信心も原理は一緒ですよ。最後は実践です。その勇気がありますか」
 この一言で、島寺は入会を決意した。
 彼は、″やる限りは徹底的にやろう″と、真剣に唱題と弘教に励んだ。もう自分の命は終わっていたものと決め、余命をなげうつ思いでの実践であった。すると、日ごとに、活力がみなぎり、病は、医師も驚くほどの回復ぶりを示していった。
 島寺は、入会した月に、早くも十世帯の弘教を実らせ、半年で、東京・日本橋の地に班を誕生させたのである。
 病を克服し、大確信を得た島寺は、折伏が大好きになった。伸一は、一本気な島寺に、指導の手を差し伸べ続けてきた。
 その伸一が、大阪府警によって逮捕され、投獄されたのだ。
 島寺は、心で泣きながら、悔しさをバネに情熱を燃え上がらせ、福島の浜通りで、″一班一〇闘争″の指揮を執ったのである。
 浜通りの同志たちは、″今こそ、学会の真実を示そう!″との思いで、果敢に戦った。
 しかし、弘教活動が容易なわけがない。学会への悪宣伝がなされ、誤解と偏見が満ちていた時代である。学会と言っただけで、血相を変え、「俺は、学会は嫌いだ。二度と、そんな話をしに来るな!」と、胸ぐらをつかまれ、追い返された人もいた。多くの人が、怒鳴られたり、水や塩を撒かれたりした。
41  福光(41)
 メンバーのなかに、一カ月前に、勤めていた会社が倒産してしまった壮年がいた。二人の子どもは病弱で、生活は逼迫していた。
 その彼が、弘教のために、二十キロほど離れた友人宅を訪れた。話に夢中になり、終列車を逃してしまった。やむなく、列車の線路に沿って歩き始めた。
 彼は、この日、仏法対話の最後に、友人が放った言葉が、胸に突き刺さっていた。
 「人の家に、宗教の話なんかしに来る前に、自分の仕事を見つけてこいよ。それに、そんなに、すごい信心なら、なぜ、子どもが病気ばかりしているんだ!」
 壮年は、言い返した。
 「もちろん、仕事は必ず見つけてみせる。子どもも健康になるよ!」
 「それなら、そうなってから来るんだな。そうしたら、話を聞いてやるよ」
 友人は、終始、薄笑いを浮かべ、蔑むような言い方であった。
 夜道を歩き始めると、無性に悔しさが込み上げ、涙があふれて仕方がなかった。
 涙に濡れたほおに、ピシャリと水が滴り落ちた。雨だ。あいにく傘は持っていなかった。雨は、次第に激しくなっていった。
 全身、ずぶ濡れになった。家は遠い。
 自分が、すごく惨めに感じられた。
 「なんだよう、なんだよう……」
 やり場のない怒りを口に出し、泣きながら雨の夜道を歩いた。二時間ほど歩いたころ、文京支部の会合で山本伸一に激励されたことを、ふと、思い起こした。
 「折伏に行って、悪口を言われ、時には、罵詈罵倒されることもあるでしょう。また、悔しい思いをすることもあるでしょう。
 それは、すべて、経文通り、御書に仰せ通りのことなんです。その時に、負けるものかと、歯を食いしばって頑張り続けることによって、過去世からの罪障が消滅できるんです。仏道修行は、罪障消滅、宿命転換のためでもあるんです。そう確信できれば、『苦』もまた、楽しいではありませんか!」
42  福光(42)
 壮年は、山本伸一の指導を思い返すうちに、″山本室長は、今ごろ、どうされているのだろうか″と思った。
 ″もう何日も、勾留されている。毎日、過酷な取り調べを受けているんだろう。出歩くこともできなければ、自由に家族と連絡を取ることもできない。そのなかで、室長は、学会の正義を叫び、必死に獄中闘争を展開されている……。
 その室長と比べれば、自分は、なんと恵まれた環境にいるんだろう。こんなことで、弱気になったり、負けてしまったら、室長は慨嘆されるにちがいない。
 負けるものか! 明日こそ、必ず折伏を実らせてみせる。室長、見ていてください!″
 こう心で叫ぶと、ふつふつと、胸に勇気がたぎるのを覚えた。
 雨は、一段と激しく降り続いていた。
 しかし、壮年は、意気揚々と大股で歩きだした。そして、雨に負けじと、学会歌を歌い始めた。広宣流布への闘魂は、この雨のなかで、強く、激しく、燃え上がったのである。
 法のために味わった悔しさは、やがて、栄誉と賞讃となって、わが人生を飾る。
 ――この時、いずこの地の学会員も、夕張の炭労事件を、自分と遠く離れた、北海道の出来事とはとらえなかった。また、大阪で起こった山本伸一の不当逮捕事件も、彼方の大阪の出来事とは思わなかった。すべて、自分を含む創価学会という一つの生命体が被った問題であり、自分たちに襲いかかった問題であると、とらえていたのだ。
 それは、「自他彼此の心なく」との御聖訓通り、金剛不壊の精神の結合であり、異体同心の実像といえよう。ここに、創価学会の永遠不滅の強さがあるのだ。
 文京支部日本橋地区の浜通りの同志は、獄中の伸一を思いながら、走りに走った。
 菅田歌枝も、入会間もない鈴村アイも、懸命に弘教に汗を流した。苦しい時には、「こんなことで弱音を吐いたら、山本室長に合わせる顔がないわね」と言って励まし合った。
43  福光(43)
 山本伸一の逮捕・勾留は十五日間に及んだ。釈放されたのは、一九五七年(昭和三十二年)七月十七日の正午過ぎであった。
 文京支部日本橋地区の会員たちは、今度は、その喜びと、不当な権力との闘争の決意を胸に、勇躍、弘教に奔走した。
 その結果、″一班一〇闘争″を掲げた文京支部は大躍進を遂げ、なかでも、日本橋地区は、浜通りの同志の奮闘が原動力となって、八十世帯の弘教を実らせ、全国模範の優秀地区に名を連ねたのである。
 日本橋地区の広宣流布の歩みは、ますます加速していった。
 福島県の地区員は、磐城や小名浜、勿来など、浜通りに集中していた。第二代会長・戸田城聖が逝去した五八年(同三十三年)の夏季地方指導では、中通りにも弘教の戦線を広げていくことになった。その先陣を切ったのは、菅田歌枝と鈴村アイであった。
 草創期、同志は皆、″世間は休暇のさなかでも、広宣流布に休みはない!″と、炎暑に挑むように、意気盛んに活動を展開していったのだ。そこに創価学会の強さがあった。
 八月のある日、菅田と鈴村は、中通りの鏡石に出かけた。鏡石は、砂利の運搬業を始めた鈴村の夫が、仕事でよく来る場所で、ここに何人かの知人がいたのである。菅田は、小学校に入学前の長男・信を連れていた。
 二人の婦人は、「折伏を成就させるまでは、帰らない決意で行って来ます」と、地区部長の島寺丈人に元気に宣言して、鏡石へ出発した。
 ところが、訪ねてみると、どの家も、けんもほろろの応対であった。五軒、六軒と回るうちに、だんだん気落ちしていった。
 菅田は、鈴村に言った。
 「折伏が簡単なわけがないもの、挫けるわけにはいかないわ。『からんは不思議わるからんは一定とをもへ』との決意でいきましょう!」
 苦労なくしては、道は拓けない。汗と涙で岩を穿つ作業が、広宣流布の開拓なのだ。
44  福光(44)
 菅田歌枝と鈴村アイは、鏡石で、″今度こそ! 今度こそ!″と自らに言い聞かせ、知人宅を訪ねて、仏法を語っていった。
 予定した訪問先を当たり尽くした時には、二人は、意気消沈し切っていた。どこも厳しい反応であったからだ。最高の仏法を持ちながら、その力を明快に伝え、納得させることができない自分たちが、ふがいなく、情けなかった。
 日差しが、肌を焼くように感じられる、暑い日であった。トウモロコシ畑の緑が、まぶしく目に染みた。もう行くあてはなかった。でも、このまま、「できませんでした」などと言って、帰りたくはない。
 菅田の息子の信は、疲れたらしく、ぐずり始めた。三人は、トウモロコシ畑の傍らに座り込んだ。信は、お腹がすいたのか、よく実ったトウモロコシを見て、「あれが食べたい」と言いだした。
 「駄目よ。あれは、よその家のものよ」
 「でも、食べたいよ」
 「駄目なの!」
 信は、恨めしそうな目で、母親を見て、しくしくと泣きだした。
 菅田も、張り詰めていた心の糸が切れ、こらえていた涙が、一気にあふれだした。泣き濡れる母と子を見て、鈴村も目を潤ませた。
 農作業に出てきた近所の老婦人が、道端に座り込んで泣く三人の様子を、いぶかしそうにうかがっていた。
 「どうしたの?」
 老婦人は、放っておけずに声をかけた。
 ここから、仏法対話が始まった。菅田と鈴村は、先ほどまでとは打って変わって、瞳を輝かせ、生き生きとした表情で、仏法の偉大さについて語っていった。
 老婦人は、彼女たちが語る一言一言に大きく頷き、話を聞いていた。そして、ほどなく入会を決意したのである。菅田と鈴村は、今度は、歓喜の涙でほおを濡らすのであった。
 ″地涌の使命を、断固、果たし抜こう!″という執念が実らせた弘教といえよう。
45  福光(45)
 文京支部日本橋地区は、福島で着実に弘教の輪を広げ、一九五八年(昭和三十三年)の十月には、浜通りに新しく二地区を誕生させた。磐城地区と勿来地区である。
 磐城地区の地区部長には菅田歌枝の夫である留太郎が、地区担当員(現在の地区婦人部長)には歌枝が就いた。また、勿来地区の地区部長には鈴村アイの夫の裕孝が、地区担当員にはアイが就任したのである。
 一人立って、弘教に弘教を重ねて、組をつくり、班をつくり、地区をつくる――それが草創期の戦いであった。
 広宣流布の戦いを起こしたがゆえに、何度となく、辛い思い、悲しい思い、悔しい思いもした。幾度も、人知れず涙を流した。
 しかし、そのたびに、宿命の鉄鎖を一つ一つ断ち切っているという、確かな手応えを感じていた。そして、いかなる苦難や試練にも負けない勇気と、歓喜が、全身にほとばしるのを実感するのであった。
 同志たちは、皆、病苦や経済苦、家庭不和などの悩みを抱えていた。しかし、地涌の菩薩の使命に目覚め、広宣流布の大道を歩み始めると、心を翻弄し続けてきたその悩みが、取るに足りない、指先の小さな″ささくれ″のように感じられるのだ。
 同志の胸中を占めている大きな悩みといえば、″あの友人を、なんとしても救いたい″″わが地域の広宣流布を進めたい″ということであった。まさに、それは、地涌の菩薩の悩みであり、仏の悩みであった。その境涯は、既に、悲哀に泣く宿命の谷間からの、飛翔を意味していた。
 依正は不二である。主体である衆生の心身(正報)と環境(依報)は、密接不可分の関係にある。ゆえに、自身の境涯が変革されれば、現実の状況も変わらぬわけがない。
 事実、広宣流布に喜々として走る同志たちは、競うようにして功徳の花々を咲かせ、人間革命、宿命転換の実証を打ち立てていった。そして、その歓喜と確信が、さらに大きな弘教の力となっていったのである。
46  福光(46)
 一九七七年(昭和五十二年)三月十二日、福島の県・圏幹部らとの懇談会の会場で、山本伸一は、鈴村アイと菅田歌枝に語った。
 「お二人は、ただ、ただ、広宣流布のために、人びとの幸せのために、挺身してこられた。これからも、その尊い生き方を貫いてください。そこに、人間としての真実の輝きと幸福、人生の勝利があるんです」
 懇談会では、福島文化会館の各部屋に名前をつけてほしいとの要望も出された。
 「わかりました。一階の和室は『常楽会館』、二階の大広間は『発心会館』、二階の和室は『安穏会館』としましょう。どうですか」
 賛同の拍手が起こった。
 「ほかに、命名するものはありませんか」
 「会館に自転車があります」
 笑いが起こった。
 「自転車は『福島号』にしましょう。
 今日、池に放した大きな鯉が二匹いたね。鯉も命名しておきます。最初に放流した方は『会津号』、もう一匹は『磐梯号』でどうですか。賛成の人?」
 皆、顔をほころばせながら手をあげた。
 それから伸一は、青年たちに言った。
 「折伏も、座談会も、教学も、行事の運営も、一切の活動は青年が担っていくんです。私もそうしてきました。今の苦労は、未来の大指導者になるための財産なんです。
 『鉄は熱いうちに打て』と言われるが、青年時代に苦労して、自分を、磨き、鍛えなければ、人格の基礎も、指導者としての精神の骨格もできない。苦労し、汗と涙を流さなければ、人の苦労も、辛さもわからない。そんなリーダーを、私はつくりたくないんです。
 諸君のお父さん、お母さんは、必死になって戦ってこられた。青年が立ってこそ、草創の先輩たちも安心できるんです」
 フランスの文豪ゾラは、「青年への手紙」のなかで、「君たちの果たすべき任務を遂行しているのが、情熱に燃えた熟年者や高齢者だというのに、それでも君たちは恥ずかしくないのか?」と綴っている。
47  福光(47)
 三月十二日の夜には、壮年、婦人の代表が参加して、第二回となる福島文化会館の開館記念勤行会が行われた。
 この席上、山本伸一は、「福島県は、その独自性を生かしながら、新しい広宣流布の模範の地域にしていっていただきたい」と要望したあと、会長としての自分の心境と決意を語った。
 「私は、会長に就任してから今日まで、本当に、心から安堵した日はありません。
 ″全学会員が幸せになる前に、自分が、晴れ晴れとした気持ちになることは間違いである。指導者として失格である″と、心に決めているからであります。
 また、『横柄な態度を取る幹部がいて、会員の皆さんが困っている』などと聞くと、身を切られるように辛いんです。
 ″会員の皆さんが幸せになり、福運にあふれた、楽しい人生を歩んでいかなければ、なんのための会長か!″と、常に、自分に言い聞かせています。
 皆さんが、″信心してよかった!″″学会員でよかった!″″こんなに幸せになりました!″と、心から言えるようにならなければ申し訳ないとの思いで、私は、福島に来ているんです。実は、これが、創価学会の会長の精神なんです」
 さらに、彼は、学会活動の意義に言及していった。
 「日蓮大聖人の仰せのままに、広宣流布を推進している、地涌の菩薩の集いが創価学会であります。ゆえに、学会活動以外に、現代における仏道修行はありません。
 学会活動は、人びとに絶対的幸福への道を教え、人間の生命を変革し、社会の繁栄を築き、世界の平和を実現していく、唯一の直道です。それは、地味で、目立たぬ作業でありますが、仏の使いとしての行動であり、地涌の菩薩の聖業です。なればこそ、真剣に学会活動に励むならば、仏、菩薩の大生命が涌現し、自身の生命は浄化され、歓喜、福運に包まれていくんです」
48  福光(48)
 草創期、多くの同志は、病苦や経済苦など、さまざまな悩みをかかえながらも、はつらつと広宣流布に東奔西走してきた。
 それは、学会活動をしていくなかで、わが生命に脈動する歓喜を実感していたからである。そして、大地に向かって放たれた矢が、必ず地に当たるように、絶対に幸せになれるとの、強い確信があったからだ。
 山本伸一は、参加者に視線をめぐらし、話を続けた。
 「時には、学会活動のなかで、いやなことや辛いことに直面する場合もあるでしょう。組織での人間関係で悩むこともあるかもしれない。また、学会への誤解、無理解から、非難、中傷されることもあるでしょう。
 大聖人は、『修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし』と仰せです。一生成仏を成し遂げ、広宣流布という大願を成就していくための仏道修行なんですから、大変なのはあたりまえです。
 それを乗り越えることで、自分が磨かれ、強くなり、宿命の転換がなされていくんです。『大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし』との御聖訓を深く心に刻んで、喜び勇んで難に立ち向かう、強盛な信心の皆さんであってください」
 伸一が若き日、少年雑誌の編集長として交流を結んだ作家の一人で、東北出身の野村胡堂は述懐している。
 「人間には、人生の体験を、人格完成の糧にする人と、その逆をゆく人とがある」
 勤行会のあとも、伸一は、二階のロビーで、参加者に声をかけ、激励を重ねた。
 さらに、二十人ほどの代表幹部と勤行し、懇談した。
 その時、壮年の幹部が手をあげて尋ねた。
 「常磐炭田の炭鉱は、昨年秋にすべて閉山になりました。泣く泣くほかの地域に移って行った人や、なんとしても、いわき市に残りたいと、今なお、必死になって職探しをしている人もいます。そういうメンバーを、どう励ませばよろしいでしょうか」
49  福光(49)
 壮年の質問を聞くと、山本伸一は、強い確信を込めて語り始めた。
 「まず、大変な試練の時を迎えておられる同志に、『今が正念場です。信心の真価を発揮する時です。どこまでも唱題第一に、この困難を未来への跳躍台とし、必ず勝利してください。変毒為薬の信心です。御本尊を持った使命深き仏子が、勝たないわけがありません。私も、妻と共に題目を送り続けます』とお伝えください」
 「はい!」
 「長年、住み慣れた地を離れ、同志とも別れる辛さは、よくわかります。しかし、自分のいるその場所が、広布開拓の新しき使命の天地になるんです。また、これまで住んでいた地域で頑張ろうとする人にとっては、そこが使命の舞台です。
 『御義口伝』には、『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野せんごくこうや皆寂光土みなじゃっこうどなり此れを道場と云うなり』とあります。
 私たちのいるところは、そこが、山であろうが、谷であろうが、広野であろうが、どこであれ、寂光土であり、成仏得道の場所になるのだと言われているんです。
 それには、その場所で、広宣流布の戦いを起こし、信頼の輪を広げ、幸せの実証、勝利の実証を打ち立てていくことです。どこへ行っても、″自分は、仏からその地の広宣流布を託されて派遣されたのだ″という自覚をもつことです。また、私と師弟であると決めているならば、私に代わって、そこにいるのだと確信してください。
 戸田先生は、よく『来世は、どこの星に生まれるのかな。大聖人から、あの星へ行って広宣流布をしなさいと言われたら、そこに生まれ、また、創価学会をつくる』と言われていた。同志と離れ離れになるのは寂しいでしょうが、所詮、地球という小さな星の、日本という小島でのことではないですか。
 仏法の眼を開いて、戸田先生のような、大きな心、大きな境涯で進んでいくんです」
50  福光(50)
 自分の幸福しか考えなければ、心は細り、もろくなる。しかし、広宣流布のための人生であると決め、信心の大地に深く根を張れば、心は太く、強くなる。
 エゴイズムという殻に閉ざされていれば、胸に光は差さない。利他という窓を大きく開けば、希望の太陽が降り注ぐ。
 ゆえに、山本伸一は、炭鉱が閉鎖され、生活苦に喘ぐ同志たちに、広宣流布という仏法者の原点に立ち返ってほしかったのである。
 伸一は、話を続けた。
 「炭鉱に勤めていた人だけでなく、関連会社の人や、商店街など、多くの方々が、転職などを余儀なくされ、大変な思いをされたことでしょう。
 大変な人生の試練の時であればこそ、強盛な祈りが大事なんです。大聖人が『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり』と言われているように、魂を込めて、必死に唱題し抜くんです。
 祈れば、福運を積めます。大生命力が涌現し、智慧が湧きます。そして、その智慧を絞り抜き、考えに考えて、果敢に行動を起こしていくんです。ただ祈ってさえいれば、どこからか、いい仕事が降って湧くように思っているのは間違いです。
 何か仕事を始めるにしても、アイデアが大事です。また、人脈等を駆使しなければならない場合もあるでしょう。ともかく、『強盛な祈り』と『懸命な思索』と『果敢な行動』で、事態を開いていくんです」
 「はい!」
 質問した壮年は、伸一の指導を、全身で受け止めるように、大きな声で答えた。
 伸一は、気迫にあふれた声で言った。
 「学会員ならば、師子ならば、何があっても信心の確信と満々たる生命力にあふれ、挑戦の気概に燃えていなければならない。つまり、元気で、生命が輝いていることが大事なんです。生命の光彩こそが、人生の暗夜を照らす光なんです。福光なんです」
51  福光(51)
 山本伸一は、「大切なのは生命力ですよ。わかりますね」と、確認するように言い、壮年の反応を見ながら、言葉をついだ。
 「人間は、仕事がなくなってしまえば、落胆するし、ましてや、先が見えない状況になれば、無気力になったり、心がすさんでしまったりしがちです。
 その時に、生命力にあふれ、元気に、勇んで挑戦しようとする姿は、人びとに、かけがえのない勇気を与えます。勇気は、波動していきます。また、学会員の前向きで元気な、生き生きとした挑戦の姿は、仏法の力の証明になります。宗教の力は、人の生き方にこそ、表れるものなんです。
 転職して、新しい仕事に就くとなれば、炭鉱での技能や経験は生かされない場合が多いでしょう。それだけに、挑戦心に富み、元気で、粘り強く、はつらつとしていることが大事になります。企業側も、悲観的で無気力な人を雇おうとは思わないものです。
 つまり、厳しい状況になればなるほど、磨き鍛えてきた生命という″心の財″は輝いていくんです。閉山だろうが、不況だろうが、″心の財″は壊されません。なくなりもしません。そして、″心の財″から、すべてが築かれていきます。
 いわば、逆境とは、それぞれが、信心のすばらしさを立証する舞台といえます。
 人生の勝負は、これからです。最後に勝てばいいし、必ず勝てるのが信心です。
 苦闘している皆さん方に、『今の苦境を必ず乗り越えてください。必ず勝てます。勝利を待っております』と、お伝えください」
 「はい、ありがとうございます!」
 壮年は、ほおを紅潮させて答えた。
 オーストラリアの国民的作家で、詩人のヘンリー・ローソンは、うたっている。
 ――「時代は厳しい。しかし、怯んではいけない。勇気をもって戦い続ければ、いつの日か、今の苦しみを笑える時が、必ず来るのだから」
 嵐のあとには、やがて青空が広がる!
52  福光(52)
 この三月十二日、山本伸一のもとに、数種類の魚を盛りつけた木の舟が届いた。中央には、五キロ以上もある、大きなヒラメが配されていた。
 鈴村アイの夫である裕孝が、「浜通りのおいしい海の幸を、ぜひ、召し上がっていただきたい」と、手配したものであった。
 鈴村は、山本伸一が福島文化会館に到着する前から、知り合いの漁師に、冬から早春にかけてが美味とされる、ヒラメを手に入れたいと頼んでいたのだ。
 「どうしても、大物がほしいのだが……」
 「おっきいヒラメか。難しいべな」
 漁師の答えは、素っ気なかった。
 しかし、「大物が捕れたぁ!」と言って、ヒラメなど、数種類の魚を届けてくれたのだ。
 伸一は、数人の幹部らと、木の舟に盛られた魚を見て、声をあげた。
 「見事なヒラメだね! これは、どなたが届けてくださったの?」
 県幹部が答えた。
 「鈴村裕孝さんです。夫人のアイさんと一緒に、いいヒラメが手に入るように、真剣に唱題したそうです」
 「気を使わせてしまって申し訳ないね」
 そして、伸一は、色紙に歌を認めた。
  竜宮の
    ひらめか鯛か
      真心の
    題目海の
      君が幸みむ
 「この魚は、みんなでいただこう。鈴村さん夫妻には、県長から、『本当にありがとうございます。真心に感激いたしております』と言って、丁重に、色紙を渡してください。
 私の名代として、私の感謝を、私の真心を、伝え抜いてもらいたいんです。それが励ましになるんです。幹部が事務的になり、ただ渡せばよいという感覚に陥ってしまえば、私の心は伝わりません」
53  福光(53)
 創価学会は、信頼と誠実に結ばれた、人間性にあふれた心の世界である。その世界が、惰性化して事務的になったり、形式化して、心が伝わらなくなってしまうことを、山本伸一は、何よりも恐れていたのだ。
 彼は、周囲の幹部たちに語った。
 「私は、よく同志の方々に、戸田先生の激励のお言葉などをお伝えすることがあった。その時には、先生のお言葉とともに、先生がどういうお気持ちでいらっしゃるかを語り、先生に代わって、心を込めて、最敬礼することもありました。
 私が、あまり頭を下げるものですから、相手の方も恐縮して頭を下げ、お互いに、いつまでも、お辞儀し続けたという、笑い話のようなこともありました。
 ともかく、学会の生命線は、師弟を中心にした心の絆にある。目には見えないが、これがあるから、学会は難攻不落なんです。強い団結もできるんです。それを幹部は、決して忘れてはならない」
 伸一の、幹部らへの指導は、滞在二日目も、全精魂を注いで続けられたのである。
 翌三月十三日、山本伸一は、午前中、福島文化会館の屋上で、東北六県の婦人部代表と懇談のひと時をもった。その語らいのなかで、彼は、婦人の笑顔の大切さを訴えた。
 「一家のなかで、最も大切な宝は、婦人の微笑です。夫も、子どもも、そこから勇気を得ます。希望を知ります。人生には、どんな苦難が待ち受けているか、わかりません。その時に、朗らかに微笑むことのできる人こそが、本当に強い人なんです。
 『母は一家の太陽である』と言われます。それは、どんなに大変な時でも、微笑の光で、家族を包み込むからだと私は思う。
 詩聖タゴールは、『女性よ、あなたの笑い声のなかに、いのちの泉の妙なる響きがある』と詠っているし、確か、トルストイも、母の微笑を讃嘆していました」
 婦人たちの顔が、一斉にほころび、笑みの花園が広がった。
54  福光(54)
 トルストイは、自伝小説『幼年時代』のなかで、母について、こう語っている。
 「お母さまの顔はただでも美しかったけれど、微笑によってそれはいっそうすばらしくなり、まるで周囲のもの全体が明るくなるようであった。生涯のつらく苦しいおりおりに、もしほんのちょっとでもあの笑顔を見ることができたら、私はおそらく悲しみとはどんなものであるかをすら知らなかったであろうと思う」
 山本伸一は、婦人たちに言った。
 「微笑みは、強い心という肥沃な大地に、開く花といえます。皆さんの快活な笑顔があれば、ご家族は、そこから勇気を得て、どんな窮地に立たされたとしても、堂々と乗り越えていけます。女性のこの微笑力こそ、人びとに活力をもたらす源泉となります」
 瞳を輝かせて頷く、″創価の母″たちの微笑がまばゆかった。
 十三日午後一時過ぎから、福島をはじめ、宮城、岩手、青森、秋田、山形の代表が集い、東北六県の代表幹部会が開催された。
 伸一は、この席上、創価学会は、昨年も大きな発展を遂げ、広宣流布は著しく前進していることを述べ、東北の同志の健闘を心から讃えた。
 そして、日蓮仏法の本義は、どこまでも御本尊根本に、広宣流布に生き抜くことであり、それを、命をかけて教えてくれたのが、牧口初代会長、戸田第二代会長であることを力説した。
 「私は、入信して三十年を迎えますが、その間、多くの同志の姿を見てまいりました。
 臆病な人、わがままな人、学会をうまく利用しようとした小才子、要領主義の人、名聞名利の人など、さまざまな人がおりました。そういう人たちは、結局、退転し、最後は行き詰まり、無残な姿を露呈しています。
 しかし、牧口先生、戸田先生の指導通りに、一途に信心を貫き通した人は、途中、大変な苦労があっても、最後は、すべて乗り越え、見事に境涯革命しております」
55  福光(55)
 山本伸一は、仏法の厳しき因果の理法を知ってほしいと願いながら、信仰者の生き方について語っていった。
 「信心三十年の私の結論は、信仰という根本の生き方においては、あくまでも純粋に、真面目に、御書に仰せのままに、突き進んでいかねばならないということであります。
 また、人生を大きく左右するのは、福運です。その福運を積むうえで大事なのは、感謝の一念です。
 同じように学会活動をしていても、不平不満を言いながらでは、福運を消してしまう。
 それに対して、″今日も仏の使いとして働ける!″と、御本尊、大聖人に感謝し、信心を教えてくれた学会に感謝していくならば、歓喜の世界が開かれる。そして、その心が、功徳、福運につながるんです。
 私は、東北の皆さんを尊敬しております。それは、どんな困難にも負けない粘り強さ、不屈の″負けじ魂″があるからです。皆さんには、大難、大苦に、打ちひしがれることなく、広宣流布のために、敢然と立ち上がる真性の強さがある。その力が、自身を三世にわたって永遠に輝かせ、愛する郷土を寂光土へと転じていく″福光″となります。
 私は、かつて広宣流布の総仕上げを東北の皆さんに託しました。いよいよ″負けじ魂″を燃やし、総仕上げの旗頭として、威風堂々と立ち上がってください。時は″今″です」
 それから伸一は、一人ひとりに、視線を注ぐように、場内を見渡しながら言った。
 「私は、わが同志が一人も漏れなく、『学会員として、悔いなく、最高に有意義な人生を生き抜いた』と胸を張って言える、人間革命と幸福生活の実証を示していただきたいと、日々、祈り念じております。それが、私の最大唯一の願いなんです。
 そのために私は、いかなる努力も、苦闘も惜しみません。皆さん方を守るために、命を張って戦います。働いて働いて、働き抜きます。皆さんの今までの労に報いたいんです」
 伸一の心を知り、皆が瞳を潤ませた。
56  福光(56)
 東北の代表幹部会は、感激のなかに幕を閉じた。山本伸一は、一階のロビーで、壮年部、男子部の輪の中に飛び込み、次々と声をかけ、激励を重ねた。
 岩手から来た壮年には、ぎゅっと手を握り締めて語った。
 「岩盤を穿つように、挑戦、挑戦、挑戦を続けてください。特に試練の時こそ、勝負です。日蓮大聖人が『強敵を伏して始て力士をしる』と言われているように、それを乗り越えれば、仏法の偉大さが証明され、一気に広宣流布は進みます」
 また、宮城の青年には、肩を抱きかかえながら、「『新世紀の歌』は、宮城県から生まれた。だから、どんな困難もはねのけ、皆さんの力で新世紀を開く使命がある。頼みます」と励ました。
 青森の友には、こう言った。
 「去年の秋は、お世話になりました。また、東北総合研修所に行きたいな。青森県は、兜のような形をしている。兜は戦いの象徴だ。どうか青森は、皆が闘将となって、大東北の勝利の牽引力になってください」
 秋田の青年には、「秋田は、かつて広宣流布の″日本海の雄″といわれた。今度は″日本の雄″″世界の雄″になるんだよ。君たちの戦いを見守っています」と訴えた。
 山形の壮年とは、固い握手を交わした。
 「大火に見舞われた酒田のメンバーは、元気に頑張っていますか。くれぐれも、よろしくお伝えください。
 山形は、米も、果物も豊富だ。日本一といわれるものが、たくさんある。広宣流布の活動でも、まず何かで、日本一、世界一になってください。そこから、山形広布の新時代の扉が開かれていきます」
 伸一が愛する東北である。二十一世紀の模範となりゆく、限りない未来性を秘めた東北である。ゆえに彼は、そのメンバー一人ひとりの胸中に、決意と発心の種を植えたかったのである。まだ寒い初春の季節だが、伸一の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
57  福光(57)
 三月十三日は、山本伸一の福島県滞在の最終日であり、夜には栃木県に移動することになっていた。
 彼は、午後五時過ぎから、「3・16広宣流布記念の日」の意義を込めて開催された、福島県青年部の記念集会に出席した。
 ″未来を担う青年が集って来るのだ。励まさないわけにはいかない!″と、伸一は、自ら、この集会に参加することを告げたのだ。
 彼は、マイクに向かうと、「福島創価学会に、これだけの優秀で立派な男女青年部がいることに、深い感動を覚えるとともに、未来は盤石だと、心から安心しております」と語り、「3・16」の意義に言及していった。
 「『広宣流布記念の日』の淵源となった昭和三十三年(一九五八年)三月十六日の儀式というと、時の総理大臣が来る予定であったことが、語り継がれておりますが、それは、決して本質的な問題ではなかった。
 戸田先生は、そんなことよりも、次の時代の一切を青年に託すという、いわば付嘱の儀式を行おうとされたんです。
 広宣流布というのは、一万メートル競走のように、ゴールがあって、そこにたどり着いたら、それで終わるというものではない。
 むしろ、″流れ″それ自体であり、常に、いつの時代も青年が先駆となり、原動力となって、さらに″新しい流れ″をつくり続けていく戦いなんです。
 戸田先生と師匠の牧口先生とは、二十九歳の年の開きがあった。軍部政府の弾圧によって、共に投獄されたお二人は、逮捕された年の九月、警視庁の二階ですれ違った。
 戸田先生は『先生、お丈夫で!』と声をかけるのが精いっぱいであり、牧口先生は、頷くことしかできない。それが、最後の別れとなった。
 しかし、この瞬間が、師から弟子への、広宣流布のバトンタッチでもあった。
 牧口先生は獄中で亡くなられたが、戸田先生は、生きて獄門を出られた。そして、広宣流布の大発展の流れをつくられたんです」
58  福光(58)
 山本伸一は、戸田城聖を思い浮かべるように、目を細めながら語っていった。
 「戸田先生は、自ら誓願された会員七十五万世帯を達成された。昭和三十三年(一九五八年)三月には、憔悴しきっておられた。先生と私とは、二十八歳の年の差がある。
 牧口先生が、戸田先生に広宣流布のバトンタッチをされたように、戸田先生は、未来のために、広宣流布の一切を、私をはじめとする青年たちに託された。それが、あの六千人の青年が集った『3・16』の儀式なんです。
 次の広宣流布の流れは、青年につくってもらう以外にない。そして、さらに若い世代が、次のもっと大きな拡大の流れをつくる。その永続的な戦いが広宣流布なんです。
 したがって、後継者が臆病であったり、力がなく、自分たちの世代に、仏法流布の流れを開いていくことができなければ、広宣流布の未来も、学会の未来もなくなってしまう。
 ゆえに私は、青年部の、また、高等部をはじめ、未来に生きる各部の皆さんの育成に、真剣勝負で臨んでいるんです。
 広宣流布は諸君に託すしかない。私は、君たちのために、すべてを注ぎ尽くします。命をも捧げる思いでおります」
 伸一は、それから、青年期は、苦闘と葛藤の連続であり、さまざまな誘惑もあることを述べた。
 「しかし、どんなことがあっても、人生の究極の法である仏法の世界から、創価学会という仏意仏勅の組織から、絶対に離れるようなことがあってはならない。どうか、日蓮大聖人の、『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』との御言葉を心肝に染めていただきたい。
 人生には、常に、悩み、苦しみがあるものです。しかし、二十年、三十年と信心を貫き、広宣流布の使命に生き抜いていくならば、何ものにも負けない、強い、金剛不壊の自身を築くことができます。その生命の変革があってこそ、所願満足の人生を歩んでいくことができるんです」
59  福光(59)
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「弱い自分に打ち勝ってこそ、人生の栄光はあります。
 苦難の荒波に、どんなに打ちのめされようとも、粘り強く、そこから決然と立ち上がる力――それが信仰です。それが、地涌の菩薩です。真の学会員です。
 どうか、皆さんは、大試練の時こそ、″われらは、創価の後継者なり″″われらは、新時代の山本伸一なり″との自覚で、さっそうと立ち上がってください。その希望あふれる姿が、広宣流布の力となります。
 これだけの青年が、人びとの勇気の原動力となり、未来を照らす福光の光源となっていくなら、福島は盤石です。二十年先、三十年先、四十年先の、凛々しき闘将となった諸君の勇姿を思い描いて、私の本日の話とさせていただきます。ありがとう!」
 会場は、雷鳴を思わせる青年たちの決意の大拍手に揺れた。
 伸一は、さらに、皆のために、ピアノを弾いた。曲は、楠木正成と正行の父子の別れと誓いをうたった、あの″大楠公″であった。
 ″君たちの闘魂で、英知で、力で、二十一世紀の広宣流布の突破口を開くんだよ!″
 彼は、こう語りかける思いで、三曲、四曲とピアノを弾き続けた。″福光の種子は植えられた″との、手応えをかみしめながらの、喜びの演奏であった。
 伸一が、栃木県・那須にある関東総合研修所(現在の栃木研修道場)に向かうため、福島文化会館を発ったのは、午後七時五十分であった。
 車窓から見る空は、漆黒に包まれていた。しかし、彼の胸には、群雲を破り、燦然たる黄金の光が降り注ぐ、巍々堂々たる会津富士(磐梯山)が広がっていた。それは、福島の、そして、東北の、青年たちの英姿と、二重写しになっていった。
 ″福島を頼むよ! 東北を頼むよ!″
 伸一は、心で叫んでいた。

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