Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第24巻 「灯台」 灯台

小説「新・人間革命」

前後
2  灯台(2)
 山本伸一は、聖教の記者たちに訴えた。
 「戸田先生は、広宣流布の大誓願に生涯を捧げられた指導者でした。
 先生は、こうおっしゃっていた。
 『私は、創価学会を、愛おしい全同志を、全会員を、断じて守らねばならない。いや、学会員だけではない。全人類を幸福にしていかねばならん。そのために、命をなげうとうと思うと、力が出る。元気になる。怖いものなど、何もなくなるんだよ』
 広宣流布の師匠には、すべての民衆を救っていこうという地涌の菩薩の大生命が、脈動している。その″師のために″と、心を定めて戦う時、生命が共鳴し合い、自身の境涯も開かれていくんです。
 私は、そうすることによって、戸田先生の生命、ご境涯に、連なることができた。わが命は燃え上がり、無限の勇気が湧き、智慧が湧きました。誰もが不可能と思い、たじろぐような困難の壁にも、勇猛果敢にぶつかり、乗り越えていくことができた。また、忍耐強く戦うこともできたんです。師弟の不二の道こそ、自身を開花させる大道なんです。
 人間は、ただ自分のためだけに頑張っているうちは、本当の力は出せないものだ。女性の場合でも、母親となって、わが子を必死になって守り抜こうとする時には、想像もできないぐらいの力を発揮するじゃないですか」
 伸一は、編集室を回り始めた。何気なく、傍らの記者の机を見ると、評論家の小林秀雄の本があった。
 「君は、この本を読んでいるのかい。私は小林さんとお会いしたことがあるんだよ」
 「はい、存じております。学会創立四十六周年の記念行事で、先生は、小林秀雄さんの著作を通して、大野道犬の話をしてくださいました。それで読んでみようと思いました」
 大野道犬は、豊臣秀頼に仕えた武将・大野治胤のことである。
 「そうか。嬉しいね。青年は、貪欲なまでに学び、その知識を生かし、実践し、民衆のなかに入り抜いて、戦うんだよ」
3  灯台(3)
 山本伸一が学会創立四十六周年の記念行事で語った大野道犬についての話は、小林秀雄の「文学と自分」のなかで紹介されているエピソードである。
 ――大坂冬の陣で、徳川家康は大坂城の外堀を埋める条件で、豊臣と和議を結ぶ。しかし、家康は外堀のみならず、内堀までも埋めたのである。それを見て、大野道犬は、家康が心の底では、和睦するつもりはないことを知り、憤怒する。そして、徹底的に抵抗を試みた。家康は憤り、彼を生け捕りにするよう命ずる。彼は、捕らえられるが、堂々と、家康に「大たわけなり」と言い放つ。
 火刑に処された大野道犬は、黒焦げになるが、検視が近づくと、動きだし、検視の脇差しを抜く。そして、検視の腹を刺し貫く。その瞬間、黒焦げの体は、たちまち灰になったというのだ。
 小林秀雄は、この逸話について、「諸君はお笑いになりますが、僕は、これは本当の話だと思っています」と述べている。
 伸一は、その小林の言葉を紹介し、人間の執念の問題について、こう語ったのである。
 「これに共通する話として、有名な石虎将軍の故事を思い出します。虎に母(父の説もある)を殺された将軍が、仇を討とうと、石を虎と間違えて矢を射る。矢は命中し、石に深く刺さったという話であります。
 大野道犬の話も、石虎将軍の話も、一人の人間が、本気になって何事かをなさんとした時には、常識では考えられないことを成就できるという原理を、これらの話から汲み取っていただきたいのであります」
 伸一は、彼らの生き方の是非を語ったわけではない。広宣流布の決戦の時には、岩盤に爪を立てても険難の峰を登攀する、飽くなき執念が不可欠であることを、同志の生命に深く刻んでおきたかったのである。
 初代会長・牧口常三郎は、七十歳を超えて、独房の中で敢然と戦い抜いた。この壮絶無比なる闘争なくして大願の成就はない。輝ける未来を開くのは、不撓不屈の闘魂だ。
4  灯台(4)
 山本伸一は、聖教新聞の記者に語った。
 「日蓮大聖人は、何度も命を狙われ、流罪になっても、微動だにすることなく、『然どもいまだこりず候』と、一歩も引かれることはなかった。その御言葉には、天をも焦がさんばかりの、燃え立つ執念の炎がある。それが、広宣流布の勝負を決する力なんだよ。
 執念とは、決して、あきらめることなく突き進む忍耐力であり、粘り強さだ。最後の最後まで、ますます闘魂を燃え上がらせて戦う敢闘精神だ。何ものも恐れぬ勇気だ。
 戦おうよ。ぼくと一緒に。そして、歴史を創ろうよ。
 時は、瞬く間に過ぎていってしまう。人生というのは、思いのほか、短いものだ。だから、今こそ、広宣流布の舞台に躍り出なければ、戦うべき時を逸してしまう。私は、いつも本気だよ。
 今生の最高の思い出となり、財産となるのは、自分の生命に刻んできた行動の歴史だ。青年ならば、壮大な広宣流布のロマンに生き抜いていくんだよ」
 記者たちは、伸一の言葉に、並々ならぬ決意を感じた。
 記者の一人が、尋ねた。
 「先生は、今、自ら先頭に立たれて大教学運動を展開してくださっています。これは、いよいよ仏法を、本格的に社会に開いていく時代が到来したということなんでしょうか」
 伸一は、言下に答えた。
 「そうです。つまり、仏法の人間主義という哲理を、一人ひとりが、あらゆる分野で体現し、実証していく時代に入ったということなんです。その意味から、私は、社会本部のメンバーの育成に、全力を注ごうと思っています。全会員が、社会にあって、勝利の旗を掲げることが、立正安国になるんです。
 皆が勝利王となって、互いに、『よくやった!』『よく頑張った!』と、賞讃し合い、肩を叩き合う姿を、私は見たいんです」
 伸一の瞳には、闘魂が燃え輝いていた。
5  灯台(5)
 「仏法即社会」である。ゆえに、仏法の哲理を社会に開き、時代の建設に取り組むことは、信仰者の使命である。それには、一人ひとりが人格を磨き、周囲の人びとから、信頼と尊敬を勝ち得ていくことだ。人間革命、すなわち、人格革命こそが、そのすべての原動力となるのである。
 職場にあっては、仕事の第一人者、勝利者としての実証を示し、信頼の柱となるのだ。地域にあっては、友好の輪を広げ、和楽と幸福の実証を打ち立て、地域の希望の太陽となっていくのだ。仏法は、各人の人格、生き方を通して、社会に輝きを放つのである。
 一九七七年(昭和五十二年)二月二日朝、山本伸一は、学会本部で、この日に本部周辺で行われる会合の開催報告を目にしていた。
 彼は、午後六時半から創価文化会館内の広宣会館で開かれる、東京社会部の勤行集会開催の報告書を見ると、傍らの幹部に言った。
 「この勤行集会には、私が出席します。社会の第一線で活躍している尊い同志を、力の限り励ましたいんです!」
 社会部は、職場、職域を同じくするメンバーが、互いに信仰と人格を磨き合い、共に職場の第一人者をめざし、成長していくことを目的に、結成された部である。その誕生は、オイルショックの引き金となった七三年(同四十八年)十月の、アラブ諸国とイスラエルが戦いに突入した第四次中東戦争の勃発から、十八日後の十月二十四日のことであった。
 この日、東京・両国の日大講堂で行われた十月度本部幹部会の席上、社会本部に、社会部、団地部、農村部、専門部の四部の設置が発表されたのである。
 団地部は団地に住む人びとの、農村部は農・漁業等に従事する人びとの組織である。専門部は専門的な技能・実力をもち、社会の中核として重責を担う人びとの集いである。いずれも、信心を根本に、社会、地域に貢献していくことをめざして設置されたものだ。
 本来、仏法とは、人のため、社会のために尽くす、真の人間の道を示しているのだ。
6  灯台(6)
 社会部などが誕生した一九七三年(昭和四十八年)の十月度本部幹部会では、翌七四年(同四十九年)の学会のテーマを「社会の年」とし、仏法の法理を広く展開し、社会建設に取り組んでいくことが、満場一致で採択された。第四次中東戦争によって、石油価格は急上昇し、世界が不況の暗雲に覆われようとしていた時のことである。
 経済危機をもたらすのが人間ならば、その克服の道も、人間によって開かれるはずだ。
 山本伸一の社会部への期待は、メンバー一人ひとりが、職場、社会の灯台となって、社会の繁栄と人びとの幸福のために、慈悲と英知の光を放ってほしいということであった。
 伸一は、不況が予測される時だからこそ、社会部の同志は、信仰で培った力を発揮し、なんとしても、試練を乗り越えていってほしかった。社会のテーマに、真っ向から挑み、活路を開き、人びとを勇気づけていくことこそ、仏法者の使命であるからだ。
 「生きた哲学は今日の問題に答えなければならぬ」とは、インドの初代首相を務めた、ネルーの言葉である。
 社会部の結成によって、各職場や職域ごとに、懇談会等も活発に開催されるようになり、励ましのネットワークは、大きく広がっていったのである。
 七四年三月には、第一回社会部大会が、日大講堂で開催されている。
 この時、伸一は、アメリカを訪問中であったが、祝福のメッセージを贈ったのだ。
 「社会仏法、民衆仏法なるがゆえに、庶民がそれぞれの生活の場で、粘り強く改革運動を推進していくことこそ、仏法の本義であります。したがって、職域社会、地域社会の最前線で戦う皆様の姿こそ、『社会の年』の前駆をなしているのであります。
 どうか皆様一人ひとりが、人びとから好かれ、愛され、信頼されるリーダーとなってください。そして、未来にわたる広布の礎を、盤石なものとすべく、成長しゆかれんことを心から祈っております」
7  灯台(7)
 山本伸一は、社会部のメンバーの激励に、常に心を砕き続けてきた。
 一九七四年(昭和四十九年)の十月上旬、聖教新聞の記者が、見出しの相談に来たことがあった。その紙面に、社会部のグループ長会が報道されるのを知ると、伸一は、自ら見出しの案を示した。
 「″社会に根を張って初めて広布″と」
 そして、こう語るのであった。
 「世間への執着を捨てて、仏門に入ることを『出世間』というが、人びとを救うために広宣流布をしていくには、さらに『出世間』を離れ、再び、世間という現実社会の真っただ中で、戦っていかなくてはならない。つまり、『出出世間』だ。実は、そこに、本当の仏道修行があるんだ。だから、″社会に根を張って初めて広布″なんだよ」
 この年は、職場ごとのグループ座談会も定着し、また、ホテル、デパートなど、職種別の大会も行われていった。
 翌年の九月九日、伸一は、創価文化会館の地下一階集会室(地涌会館)で行われた社会部の合同グループ指導会に出席した。
 彼は、三日前に出た都内の人材育成グループの会合で、一人の女子部員から、この社会部の指導会に出席してほしいと要請されたのである。伸一は、即決した。
 ″苦労に、苦労を重ねながら、社会の第一線で活躍するメンバーの集いである。皆のために、自分にできることは、なんでもしてあげたい″というのが、彼の思いであった。
 合同グループ指導会で伸一は、参加者と一緒に勤行したあと、懇談的に話を進めた。
 「世の中は、激動に激動を重ね、千変万化を遂げていますが、妙法だけは、信心だけは、何ものにも揺るがない、幸福への直道であります。ゆえに、皆さんは、将来、どんな立場、いかなる状況になろうとも、妙法から、また、学会から、生涯、離れることなく、広宣流布の使命に生き抜いていただきたい。そこにのみ、最高の幸福境涯の確立があるからであります」
8  灯台(8)
 山本伸一は、さらに、「開目抄」の「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」の御文を拝し、確信をもって訴えていった。
 「これは、日蓮大聖人が、『私は、日本を支える精神の柱となろう。思想の正邪を見極める眼目となろう。一切衆生を幸福の楽土へと運ぶ大船となろう――との誓願を破ることはない』と、断言されているところです。
 その大聖人の門下である私どもも、社会の柱、眼目、大船でなければなりません。一人ひとりが、各職場にあって、その自覚で頑張り抜いていってほしいんです。
 たとえ、立場は新入社員であっても、あるいは、決して、主要なポジションにいるわけではなくとも、″自分が、この会社を守っていこう! 必ず発展させてみせる! 皆を幸福にしていこう!″という自覚を忘れてはならない。それが、仏法者の生き方であり、学会の精神です。
 腰掛け的な気持ちや、″どうせ自分なんか取るに足らない存在なんだ″という思いがあれば、本当にいい仕事はできません。
 戸田先生は、よく『ただ月給をもらえばよいというのでは、月給泥棒だ。会社のために、自分はこう貢献したというものがあって、初めて、月給をもらう資格がある』と語っておられた。そして、『″信心は一人前、仕事は三人前″してこそ、本当の学会員だ』と厳しく指導されていた。
 大聖人が『みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ』と仰せのように、自分の仕事を、信心と思い、仏道修行と思って挑戦していくことです。限界の壁を破り、不可能を可能にするという学会の指導や活動の経験も、仕事に生かされなければ意味がありません」
 伸一は、″皆が職場の第一人者に!″との祈りを込め、魂をぶつける思いで語った。仏法は勝負である。ゆえに、社会で勝利の実証を示してこそ、その正義が証明されるのだ。
9  灯台(9)
 社会部の合同グループ指導会から一年五カ月後の、一九七七年(昭和五十二年)二月二日、創価文化会館内の広宣会館で開催された東京社会部の勤行集会に、会長の山本伸一が姿を現した。予期せぬ会長の出席に、場内は大拍手と大歓声に包まれた。
 伸一は、この日、社会部のメンバーが、職場で勝ち抜いていくための要諦を、何点か、語っておこうと考えていた。
 「わざわざおいでいただき、まことにご苦労様でございます。また、大変にありがとうございます。心より感謝申し上げます」
 伸一は、深く頭を下げた。それが、彼の、ありのままの気持ちであったのだ。
 集ったメンバーは、皆、それぞれの職場にあって、要職を担っている。懸命に仕事を追い込んで、駆けつけて来ているに違いない。夕食を済ませていない人もいよう。
 もちろん、参加者の側には、遅刻などしないようにさまざまに工夫し、馳せ参じるという自覚が大事である。法のために、求道心を燃え上がらせ、参加することが信心であり、その戦いのなかに、仏道修行もあるからだ。
 しかし、会合を主催する側は、皆が万障繰り合わせて出席してくださることを、″当然だ″などと考えては絶対にならない。まず、その信心に敬意を表して、心から賞讃し、ねぎらいの言葉をかけることである。
 また、開催した側には、集ってくださった方々が、″本当に来てよかった。心底、感動した″″生命が覚醒した思いがする″と感じる、会合にしていく責任と義務がある。
 伸一は、以前、出版社に勤務する青年と懇談した折、人気の高い作家などの講演料が話題になった。五十万円ぐらいのことが多いと聞くと、伸一は言った。
 「それは、数百人分の残業代に相当する。学会の会合参加者には、残業の時間をやりくりして来られる方も多い。それだけに、一流の文化人の講演以上にすばらしい、感動的な内容の会合にしなければ、申し訳ないことになる」
10  灯台(10)
 幹部の話は、確信にあふれ、″なるほど″と頷けるものがあり、歓喜と感動を呼び起こすものでなければならない。
 「てきぱきした対話のない単調な長話は、鈍感を示す」とは、イギリスの哲学者ベーコンの警句である。
 会合で、何を、どう話すか――山本伸一も、青年時代から、真剣に悩み、考えてきた。
 新鮮で説得力のある話をしようと、懸命に読書を重ね、新しい知識や先人の格言などを通して、信心の在り方を訴える努力もした。
 また、自らの実感に裏打ちされた言葉で語るために、いかなる活動も、率先垂範で戦ってきた。創価の父・牧口常三郎は、「体験のない指導というものは観念論になってしまう」と、よく語っていたという。
 実践あるところにはドラマがある。ドラマがあるところに感動が生まれる。当然、失敗もあろう。それでも、めげずに挑み抜いた体験にこそ、共感が広がるのだ。苦闘を勝ち越えた体験談は、″自分には、とてもできない。もう無理だ!″と弱気になっている同志の、心の壁を打ち破る勇気の起爆剤となる。
 また、伸一が信条としてきたのは、戸田城聖の指導を語ることであった。
 師の指導を伝え、それを皆が生命に刻み、共有していくなかで、広宣流布の呼吸を合わせていくことができるからだ。
 さらに、彼は、″戸田先生は、いかなる思いで、広宣流布の戦いに身を投じられ、どれほど、一人ひとりの同志に慈愛を注いでおられるか″という、師の心を訴えてきた。
 広宣流布の師の指導と心を知り、行動する時、勇気が、歓喜が、生命力が、沸々とたぎり立つ――それは、伸一自身が、常に体験し、強く実感してきたことであった。
 ともあれ彼は、″戸田先生に代わって、全参加者を励まし、希望と勇気と確信を与えよう。奮い立たせずにはおくものか!″との決意で、真剣勝負で臨んできたのである。
 一回一回の会合に、全精魂を注ぎ尽くす伸一の姿勢は、青年時代から一貫していた。
11  灯台(11)
 社会部の勤行集会で、山本伸一は、広宣流布といっても、自分の足元を固めていくことが重要であると訴えた。
 「足元を固めるというのは、具体的に言えば、平凡なようですが、まず、健康であるということです。人間として、社会人として、最も大事なものは、自身の生命です。したがって、どうか、お体を大切にしていただきたい。健康管理をし、事前に病を防ぐという姿にこそ、信心の智慧があるんです」
 健康の維持は、社会で勝利するための、大事な要件である。いつも、生命力にあふれ、はつらつとしていてこそ、力の限り、働くこともできるし、職場を守り支えていくこともできるからだ。
 仏法は道理である。暴飲暴食、睡眠不足、過労などが続けば、どこかに支障をきたし、病にかかったり、事故を起こしたりしかねない。そうならないために、さまざまに工夫し、価値的な生き方をしていくことが、仏法者の姿といってよい。
 規則正しい生活をし、さわやかで張りのある勤行をし、生命力を満々とたたえて、職場、地域で活躍していくのだ。
 次に彼は、家庭の大切さに言及した。家庭が盤石であってこそ、職場でも、安心して力を発揮していくことができるからだ。
 また、人間の幸せといっても、家庭など、身近なところにある。さらに、後継者を育て上げていくうえでも、最も重要なのは家庭教育である。立派な、模範の家庭を築いていくことは、地域広布の灯台をつくることにもなる。
 ここで伸一は、職場の勝利者をめざすうえでの、仏法者の姿勢について語った。
 「職場にあって、第一人者になるためには、まず、信心をしているからなんとかなるだろうという考えを、徹底して排していくことです。そうした考えは、『仕事を信心ととらえて頑張りなさい』という大聖人の御指導に反する我見であり、慢心の表れです。
 正しい信心とは、最高の良識であることを銘記していただきたい」
12  灯台(12)
 仏法は、生活法である。社会にあって信頼を勝ち得、職場で勝利の実証を打ち立てていくことが、そのまま人生の勝利へ、仏法の勝利へとつながっていくのだ。
 したがって、社会で、はつらつと、縦横無尽に活躍していくことが大切なのである。
 山本伸一は、包み込むように語りかけた。
 「社会では、さまざまな付き合いや、他宗の儀式の場に参加しなければならない場合もあるでしょう。しかし、窮屈に考え、自分を縛るのではなく、賢明に、広々とした心で、人間の絆を結んでいくことが大事です。日蓮仏法は、人間のための宗教なんです。
 信心をしているからといって、社会と垣根をつくり、偏狭になってはいけません。また、信心のことで、家庭や職場で争ったりする必要もありません。それでは、あまりにも愚かです。長い目で見て、家族も、職場の人びとも、温かく包み込みながら、皆を幸せにしていくのが、仏法者の生き方です」
 日蓮教団は、ともすれば、排他的、独善的で、過激な集団ととらえられてきた。事実、日蓮主義を名乗り、テロなどに結びついていった団体もあった。それは、万人に「仏」を見て、万人の幸福を実現せんとした、日蓮大聖人の御精神を踏みにじる暴挙である。そこには、社会を大切にしていくという「仏法即社会」の視座の欠落がある。
 伸一は、最後に、「常識を大切に」と訴えていった。
 「非常識な言動で、周囲の顰蹙を買う人を見ていると、そこには共通項があります。
 一瞬だけ激しく、華々しく信心に励むが、すぐに投げ出してしまう、いわゆる″火の信心″をしている人が多い。信仰の要諦は、大聖人が『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』と仰せのように、持続にあります。
 職場、地域にあって、忍耐強く、信頼の輪を広げていく漸進的な歩みのなかに、広宣流布はある。いわば、常識ある振る舞いこそが、信心であることを知ってください」
13  灯台(13)
 山本伸一が出席して行われた、東京社会部の勤行集会は、皆が職場の勝利者をめざす決意を、一段と固め合う集いとなった。
 ある大手デパートの美術品部門で働く女子部員の代田裕子は、″職場で勝利の実証を示し、山本先生に報告できる自分になろう″と、心に誓った。
 彼女は、入社以来、仕事と信心についての、伸一の指導を糧に、直面する困難を、一つ一つ乗り越えてきた。
 代田が入社して担当したのは、美術サロンに来る人を応対する仕事であった。一日中、立ち続け、にこやかに迎えなければならない。
 最初は、この会社に就職できたこと自体が功徳であると感じ、喜びがあった。しかし、日々、何時間も、きちんと背筋を伸ばして、立っていなければならない仕事が、次第に苦痛に感じられるようになっていった。
 その時、学会の先輩から、「職場の第一人者に」という、伸一の指導を聞かされた。
 ″ただ立っていることが仕事のような職場で、第一人者になるというのは、具体的にどうすることなのだろうか……″
 考え、祈った。あることに気づいた。
 ″立つことは、誰にでもできる。しかし、私は、立つことが仕事だ。それなら、プロの立ち方をする必要がある。一番、美しく、お客様に好感をもたれる立ち方があるはずだ″
 代田は、最高の立ち方を考え、工夫を重ねていった。そのなかで、すべてにおいて、何かに寄りかかろうとするのではなく、自分の足で、きちんと立とうとすることが、人生の基本であることに気づいた。
 それが、一つ一つの物事への、自分の取り組み方を振り返る契機となっていった。
 その後、美術・工芸品の管理の仕事を担当した。高価な美術・工芸品を、傷がつかないように、汚れないように、ただ、ひたすら磨くことが、彼女に与えられた業務だった。
 この仕事にも、きっと、何か大きな意味があるはずだ。代田は、そう確信し、唱題を重ねた。
14  灯台(14)
 美術・工芸品の管理に当たる代田裕子は、唱題を重ねながら、山本伸一の「仕事を仏道修行であると思って、自分を磨いていくのだ」との指導を、何度もかみしめてきた。
 ある時、職場の上司が、彼女に語った。
 「ヨーロッパの貴族のなかには、本当に大切な工芸品などは、誰にも触らせず、自分で楽しみながら磨くという人もいる。君は、それと同じ仕事をしているんだよ」
 ″そうなのか″と思うと、心に余裕と喜びが生まれた。仕事をどうとらえるかで、仕事に対する姿勢も、意欲も、全く異なってくる。単調で、つまらないと思える仕事であっても、そこに豊かな意味を見いだしていくところから、価値の創造は始まる。
 代田は、喜々として作業に励みながら、深く心に誓った。
 ″仕事は、ただ、給料をもらうためだけにするのではない。職場は、自分を輝かせる人間修行の道場なのだ。
 たとえ、任された仕事が、お茶を入れたり、アシスタント的なものであっても、結婚までの腰掛け的な気持ちでいたのでは、職業人としての成長はない。どんな仕事でも、なくてはならない大事なものだ。
 それを完璧にこなしていくには、努力、創意、工夫が必要だ。もし、お茶を入れることが仕事なら、そのプロになろう。コピーをとることが仕事なら、そのプロになろう。
 コピー一枚とるにも、その人の仕事への姿勢が表れるし、真心も投影される。周囲は、学会員である自分を見ている。つまり、誠実にコピー一枚とる姿にも、広宣流布があるのだ。どんな立場であれ、職場の第一人者になろう。それが、学会員として、山本先生にお応えする道ではないか!″
 代田は、美術・工芸品を、大切に、懸命に、心を込めて磨き続けた。そして、何年かが過ぎ、気がつくと、さまざまな美術・工芸品の良否を見極める目が磨かれていたのだ。
 そんな彼女の姿を、職場の上司や周囲の人たちは、じっと見ていた。
15  灯台(15)
 人は、往々にして、自分を見ている周囲の視線に気づかぬものだ。また、手抜きをしても、要領よく立ち回れば、うまくいくかのように思ってしまう人もいる。だが、それは、浅はか極まりない考えである。信頼という、人間として、社会人として、最も大切な宝を自ら捨て去ってしまうことになるからだ。
 東京社会部の勤行集会から二年後の一九七九年(昭和五十四年)、代田裕子は、″ショップマスター″に抜擢された。
 クラシックな調度品やアクセサリーなどを扱う部門の、男女七人のリーダーである。しかも、販売だけでなく、仕入れ、企画、宣伝なども、すべてを担当することになったのである。
 彼女は、そこで実績を挙げ、さらに、大事なポジションを任されていくことになる。
 社会部員の活躍は目覚ましく、満天の星のごとく、人材が育っていた。
 東京の半導体メーカーに勤める中山勇は、経理部門の中核として重要な責任を担っていた。彼は、高校の普通科出身で、経理の経験は全くなかった。六四年(同三十九年)にこの会社に入社し、配属になったのは、工場での材料製造だった。
 時代は、次第に高学歴化しつつあった。どうすれば、自分が職場で力を発揮することができるのか――彼は悩んだ。
 男子部の第一線で活動に励む中山は、山本伸一が青年時代、戸田城聖の事業が窮地に陥った時も、青年部の室長として多忙極まりない時も、徹して読書に励み、勉強し抜いたことを、学会の先輩から聞かされていた。
 ″ぼくは、まだ若い。勝負は、これからだ。山本先生のように、懸命に勉強しよう″
 そして、将来、会社を支えていくには、経済の動向を見極める目をもつとともに、経理の実務にも精通することが大事だと考え、経理の専門学校の夜学に通い始めた。
 未来を担おうとするなら、未来を見すえ、不断の努力を重ねていくことだ。
16  灯台(16)
 中山勇は、経理の専門学校に通い始めたものの、経理の知識が皆無なため、戸惑うことばかりであった。夜学で机を並べる人の多くは、税理士や公認会計士をめざす、三十代、四十代の人たちである。最初は、とても、ついていけそうもないと思った。
 彼は、自分を叱咤した。
 ″今からあきらめてどうするんだ! ぼくは、学会の男子部じゃないか! 山本先生の弟子じゃないか!″
 ――「すべては、志操にかかっている。おのれ自身の向上につとめよ! そうすれば、すべてが改良されるであろう」とは、ドイツの作家トーマス・マンの警句である。
 中山は、学会活動も一歩も引くまいと思った。平日は、毎日、午後五時に退社すると、専門学校に駆けつけた。六時から三時間、経理をはじめ、経済、税務などを学び、それから男子部員の激励に回った。
 苦闘あってこそ、人生の大成はある。
 中山が経理の勉強をしていることは、上司の耳にも入っていた。やがて彼は、人事で工場から経理部門に異動した。会社は、経理のできる人材を嘱望していたのだ。
 彼の向上心は、勢いを増した。単に経理にとどまらず、どうすれば、同業他社と比べて、企業の安全性、収益性、発展性が図れるかなど、いろいろな角度から勉強を重ねた。
 学会では、常に「青年が一切の責任を担って立て」と指導され、さまざまな運営を任され、訓練されてきた。全体観に立って物事を進めていくことも、教育されてきた。職場でも、その訓練と教育が生かされていった。
 一九七一年(昭和四十六年)、中山は、二十六歳の若さで、経営管理室の係長になったのである。学会活動を通しての人間陶冶の力を、彼は痛感するのであった。
 そして、七七年(同五十二年)二月二日の社会部の勤行集会で、さらに、職場の第一人者になることを、深く決意したのだ。
 この勤行集会からほどなく、中山は、三十二歳で経理課長となっている。
17  灯台(17)
 智慧の眼を開き、新しい視点で物事を見る時、新しい世界が開かれる。この智慧の眼を開く力こそ、仏法である。
 中山勇は、経理という仕事を、単に数字を扱う事務作業とは考えず、経営管理ととらえていた。その視点で数字を見ると、会社の問題点もわかり、未来も予測できた。
 彼は、自分が、この会社の責任者であるとの思いで、仕事に臨んだ。会社という組織の歯車であるなどという考えは捨てた。そうした考えでは、自分の思考を狭くし、全体観に立った責任ある仕事はできないからだ。
 中山は、独学でコンピューターの勉強も始めた。近い将来、コンピューター時代が到来すると確信しての、自己研鑽であった。
 その後、中山の会社も、コンピューター導入に踏み切る。彼が着実に重ねてきた研鑽が、大きく役立ったのである。さらに後年、彼は、役員に就任することになる。
 アメリカのケネディ大統領は「過去だけをたよりにする人々は、必ず未来を見落すことになる」と指摘していた。
 いわば、時代の流れを読む目を培い、変化を先取りしていくことだ。それには、情報の収集や新しい知識の習得を絶えず心がけ、勉強を重ねていくことだ。
 現状に甘んじ、勉強を怠れば、職場で勝利の旗を掲げ抜くことはできない。社会に出れば、学生時代以上に勉強が求められる。日々努力、日々研鑽、日々工夫なのだ。
 そして、その根底には、確固たる経営の理念、生き方の哲学がなければならない。そうでなければ、時流に踊らされ、流されていってしまうことになりかねないからだ。
 日本は、一九八〇年代後半から九〇年代初頭にかけて、「バブル」の時代が訪れる。本業を忘れ、株や土地の買い占めに走った企業も少なくなかった。しかし、やがて、株価や地価は暴落する。もともと投機によって生じた、実体経済とは異なる景気である。瞬く間に経済は崩壊を招き、企業の多くが、大打撃を受けたのである。
18  灯台(18)
 山本伸一が出席しての社会部勤行集会は、社会部員の自覚を一段と深めた。職場ごとのグループ座談会にも力がこもった。また、彼の指導は、各企業等で働く学会員に、大きな勇気の光源となった。
 大路直行は、大手自動車販売会社の、都心にある営業所に勤める青年であった。入社二年を迎えようとしていたが、売り上げは営業所で最下位で、大きな壁に突き当たっていた。上司からは、毎日のように叱咤され、日々、悶々としていた。
 ″転職した方がいいのかもしれない……″
 そう思い悩んでいた時、彼は、聖教新聞で、社会部勤行集会での山本会長の指導を目にした。″自分も職場の勝利者にならなければ……″と思い、男子部の先輩に指導を求めた。先輩は、自動車のセールスマンをしている、同じ区内に住む壮年部の工藤重男を紹介してくれた。
 「工藤さんは、四十代半ばで、大ブロック長(現在の地区部長)をしている。営業成績は常に全社でトップクラスのセールスマンだよ。仕事上のことは、相談してみるといい」
 数日後、大路は、近くの会館に工藤を訪ねた。工藤は、どちらかといえば、身なりも地味で、素朴な印象を受けた。そして、温かさと誠実さが感じられる人であった。
 大路は、自分の悩みを打ち明けた。
 「そうですか。今が難所ですね。でも、焦って、自分を追い込んじゃだめですよ。車を売ることは、もちろん大事ですが、売れなくて怒られても、めげないことの方が、もっと大事なんです。これからなんですから。
 営業成績が好調で、意気揚々としている社員は、たくさんいます。しかし、売れなければ、たいてい、くよくよして、″辞めようか″などと考えてしまう。だから、最悪な状況でも落ち込まずに、元気でいる社員の方が、すばらしいのではないかと思っているんです」
 こう言って工藤は、ニコッと笑った。
 「実はね、成績不振の時、私は、そう自分に言い聞かせてきたんですよ」
19  灯台(19)
 工藤重男は、自分の体験をもとに、セールスの基本姿勢について語った。
 「私は、セールスの基本は、一人の人間として、お客様の信頼を勝ち取ることだと思っているんです。そのために、″このお客様のために何ができるか。どんな力になれるのか″を、いつも考えるようにしています。
 たとえば、車を売ったら、売りっ放しにするのではなく、その後も、必ず訪問し、車の調子をはじめ、何か不都合なことはないかなど、伺うようにしてきました。
 足しげく訪問するうちに、お客様は、次第に、さまざまな相談をしてくださるようになります。『家を改修したいけど、いい業者はいないか』とか、『糖尿病の名医を紹介してほしい』とか、いろいろです。
 私は、この時とばかりに、精いっぱい、お世話をさせていただきます。
 そうしたなかで、私を信頼し、車を買い替える時は、必ず声をかけてくださる方が、かなりおります。また、新しいお客様も紹介してくださいます。結局、お客様に助けられてきたというのが実感なんですよ」
 それから、工藤は、営業に当たっては、勇気と粘り強さが大事であることを訴えた。
 「まず必要なのは、どんなところでも、ぶつかっていこうという勇気ですね。それがないと、新規開拓はできず、やがて、行き詰まってしまいます。また、最初は、けんもほろろな応対をされることもあります。しかし、それでもあきらめずに、二度、三度と、顔を出し、話をしていくことです。粘りです。断られてからが戦いなんです。
 私は、仕事は、足で稼ぐものだと思っています。成績がなかなか伸びずにいた時、こう決意したんです。
 ″自分には、卓越した能力なんてない。それなら、努力しかないじゃないか。訪問軒数にしても、人が八十軒回ったら、私は百軒回ろう。人が百軒回ったら百五十軒回ろう。そして、ただ、ただ、誠実に応対していこう。
 あえて言えば、これが私の指針なんです」
20  灯台(20)
 大路直行は、工藤重男の話を聞いて、仕事に対する自分の甘さを痛感した。考えてみれば、営業で一日に回る訪問軒数も、たいてい五、六十軒で終わっている。
 また、訪問して、すげなく断られたりすれば、脈はないものと考え、二度と行こうとはしなかった。大路は″自分は、挑戦せずして負けていたのだ″と思った。
 工藤は、大路の顔に視線を注いで言った。
 「大路さん、少し疲れていますね。山本先生は、社会で活躍するには、健康、生命力が大切であると指導されていますよ。
 断られてもめげずに、もう一軒、もう一軒と挑戦していくには、生命力が必要です。
 また、こちらが元気で、はつらつとしていなければ、商品に対して、お客様に夢を感じていただくことはできません。私は、セールスというのは『生命と生命の共鳴』によって成り立つものであると思っています。
 ですから、強い生命力を涌現させるために、何があっても、『題目第一』に徹しているんです。私は、特に、朝の唱題に勝負をかけています。″今日も、必ず勝たせてください。いや、勝ちます!″と、真剣に祈るところから一日が始まります。
 実は、私の仕事への取り組み方は、全部、学会活動のなかで教わったものなんですよ。学会の指導通りにやれば、皆、必ず職場の勝利者になれますよ」
 大路は、自分に何が欠けていたのかが、痛いほどよくわかった。彼は奮起した。自分も「題目第一」「努力第一」でいこうと決めた。
 この月、大路は、車二台を売り上げた。翌月は五台、翌々月は八台と、不振を脱し、年末には、実績が評価され、職場で表彰されるまでになったのである。
 社会部の多くのメンバーが課題としていたのが、仕事と学会活動の両立であった。
 夜間の勤務で、会合等への参加が難しい職種もあった。また、職場での責任が重くなればなるほど、時間的な制約も多くなるのが常である。
21  灯台(21)
 後に大手スーパーの常務取締役となる波留徳一も、仕事と学会活動の両立で、苦闘し続けてきた一人であった。
 山本伸一が出席して、社会部の勤行集会が行われた一九七七年(昭和五十二年)二月、三十九歳の波留は、店舗施設部長代理の要職にあり、学会にあっては、名古屋市南区の区長として活動の先頭に立っていた。
 各スーパーは、店舗数の拡大に乗り出し、熾烈な競争が展開されていた時である。店のイメージで、売り上げは大きく左右する。波留は、店舗の設計、建設、インテリアなどの責任を担っていたのである。
 ――彼は、デザイン会社に勤務していた六一年(同三十六年)に福岡で入会。やがて名古屋に移り、スーパー業界に飛び込んだ。急成長を遂げる業界にあって、生命線を握る出店の仕事に従事した彼は、多忙さに流され、信仰の世界から遠ざかっていった。
 波留は、随所で行き詰まりを感じ始めた。
 店舗づくりのアイデアの枯渇、自信喪失、心身の疲弊、仕事への意欲も失っていった。
 その苦しさを紛らすために酒に溺れた。体調も崩し、円形脱毛症にもなっていた。妻との喧嘩も絶えなかった。迷路をさまようような日々が続いた。
 そんな彼のもとに、男子部の先輩が、何度も、何度も、足を運んでくれた。
 先輩は、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」との御聖訓を引いて訴えた。
 「この御文は、『天が晴れるならば、大地は自然に明るくなる。同様に法華を識る者、つまり、妙法という一切の根源の法を体現された大聖人は、世の中の事象も、当然、明らかに知ることができる』という意味だよ。
 『天が晴れる』というのは、ぼくらの立場で言うならば、一点の曇りもない、強盛な信心だ。強い信心に立てば、『大地』すなわち仕事も含めた生活の面でも、おのずから勝利していくことができる。だから、もう一度、信心で立ち上がるんだよ」
22  灯台(22)
 波留徳一は、学会の先輩の激励に、″よし、もう一度、本気になって信心してみよう″と思った。
 時間をこじ開けるようにして唱題に励み、学会活動に飛び出した。広宣流布の使命に目覚めると、歓喜があふれ、仕事への挑戦の意欲がみなぎった。自信も取り戻した。
 彼は、一九六七年(昭和四十二年)には、男子部の地区の責任者である隊長となった。
 仕事は、残業に次ぐ残業の連続である。学会の組織での責任もある。しかし、そのなかで、波留は固く決意する。
 ″信心は、一歩たりとも引くものか!″
 大切なのは、一念である。心を定めることである。決意が固まらなければ、戦わずして敗れることになる。
 彼は、活動に参加できず、悩みを抱えて悶々としている青年たちを、一人、また一人と立ち上がらせていった。弘教も次々と実らせた。
 仕事は、ますます増えていったが、学会活動を優先させた。″信心していれば、仕事の面でも守られる!″という確信があったからだ。だが、それが、いつの間にか、甘え、油断となり、仕事が疎かになっていった。
 遂に、ある時、上司から、「仕事と信心と、どっちが大事なんだ!」と叱責された。
 ″これでは、いけない! 周囲の人たちは自分の姿を通し、創価学会を見ているんだ″
 「信心第一、仕事も第一」と決めた。両立への本格的な挑戦が始まった。
 店舗の改装工事は、スーパーの定休日に行う。皆が休んでいる時も、波留は改装の現場に出かけ、業者と意見交換し、一緒に作業に汗を流した。改装資材のベニヤ板の上で仮眠を取って、泊まり込みで仕事を続けたこともあった。
 学会活動に参加しても、深夜には、仕事に戻った。また、夜更けて、連絡事項や激励の言葉を書いた手紙を、メンバーの家のポストに入れてくることもあった。
 無理だ!″と思えても、やり切ろうという執念を燃やす時、新たな工夫が生まれる。
23  灯台(23)
 情熱を傾け、奮闘する青年には、生命の輝きがある。その光彩が、人を引き付ける。
 仕事に、学会活動に、懸命に頑張る波留徳一を見て、学会の組織では後輩たちが立ち上がり、団結して活動を進めてくれた。また、教学試験が近づくと、壮年部の幹部が、個人教授をしてくれた。
 仕事でも、下請け業者や関係者が、彼のために協力態勢をつくり、支えてくれたのだ。
 「波留さんは、あそこまで一人で頑張っている。なかなかできることじゃない。わしらも、多少、無理な仕事でも、引き受けようじゃないか!」
 ありがたい言葉であった。諸天善神が動き、自分は守られているのだと感じた。
 波留は、自分の力を、もっと学会のため、広宣流布のために役立てたいと、男子部の設営グループ(現在の「中部炎の会」)のメンバーになった。デザイン会社に勤務した経験もあり、店舗の室内装飾のデザインも手がけているだけに、彼の存在は大きな力となった。
 各種幹部会の字幕のデザインや、文化祭などの設営に取り組んでいった。
 設営メンバーは、皆、仕事や学会活動を終えてから駆けつけ、黙々と作業に励んでいた。裏方に徹し、大きな行事を支える同志の姿に、波留は、学会精神を学んだ。
 その精神を、彼は、職場でも発揮した。自分が表に出るのではなく、陰の力として皆を支えることを、信条としていった。
 波留は、職場では、係長、課長と昇進し、店舗開発を一手に任されるようになっていったのである。そして、部長、取締役を歴任し、一九九三年(平成五年)には、常務取締役になっていく。
 「職場の勝利者に」――それは、既に創価学会の伝統となった。仏法即社会なれば、そこに、仏法の勝利があり、人間の勝利があるのだ。その先駆にして模範が社会部のメンバーである。社会部員による「信頼の柱」の林立こそ、人間宗教の新しき時代を築く、確固不動な「黄金の柱」となるのだ。
24  灯台(24)
 山本伸一は、社会部のみならず、地域、社会に根を張る社会本部の各部メンバーを、徹底して激励しようと、深く心に決めていた。その人たちこそが、広宣流布という社会の繁栄を実現していく原動力となるからだ。
 二月十七日、伸一は、全国の農村部、団地部の代表メンバーが創価文化会館内の広宣会館に集って開催された、第一回「農村・団地部勤行集会」に出席した。
 旧習の深い地域で奮闘する農村部の友を、また、人間関係が希薄になりがちな団地で、信頼と友好を広げる団地部の友を、ねぎらい、讃え、励ましたかったのである。
 農村部と団地部が結成されたのは、社会部と同じく、一九七三年(昭和四十八年)十月二十四日の本部幹部会の席上であった。
 この年、世界は、深刻な食糧不足に脅かされていた。
 前年の七二年(同四十七年)から七三年にかけて、ソ連、インド、中国、東南アジア、オーストラリア、西アフリカ諸国などが旱魃となり、カナダやヨーロッパは寒波に襲われた。また、アメリカのミシシッピ川流域、バングラデシュは長雨から洪水が発生するなど、異常気象が続いたのである。これによって、各国の穀物をはじめとする農産物に、甚大な被害が出たのだ。
 十一月に開催されたFAO(国連食糧農業機関)総会でも、七三年の世界の食糧事情は、第二次世界大戦の直後以来、最悪の事態となったことが報告されている。
 世界的な穀物不足によって、七、八月、シカゴ商品取引所では、小麦、大豆、トウモロコシの相場は、なんと一年前に比べ、二倍から三倍という異常な高値を記録した。
 日本は、米以外の穀物の大多数を輸入に依存してきただけに、小麦、大豆、飼料などの高騰は、食料品の値上げとなって、国内物価に波及し、国民生活を圧迫したのである。
 天災という非常事態が生じた時こそ、政治の真価が問われる。対応を誤れば、天災は人災となって不幸を増幅させてしまう。
25  灯台(25)
 日本政府は、穀物の世界的な高騰への対応策として、麦や大豆などに生産奨励金を支払い、国内生産を拡大することや、輸入先の多元化、輸入穀物の備蓄などを打ち出した。
 こうした事態に対して、これまでの日本の農業政策を疑問視する声も起こっていった。
 戦後の日本農業は、農地改革で自作農となった、多くの農業従事者によって支えられてきた。手に入れた農地の規模は小さかったが、地主に小作料を払う必要がないため、希望に燃えて、農作に取り組んできた。
 彼らが、食糧不足に苦しむ時代の、日本人の食生活の担い手となってきたのだ。危機を乗り切る力は、常に民衆の活力にある。
 政府も、食料の自給率を高めるため、増産政策を推進した。なかでも、米は、最も重要な穀物として保護し、買い上げ価格も、流通も、政府の統制下にあった。その結果、政府が所得を保障してくれる稲作に、農家は積極的に取り組んでいったのである。
 日本が高度経済成長を迎えるころから、農村人口は都市に流出し始めた。同時に、専業農家は減り、兼業農家が増えていった。
 ″所得倍増″が叫ばれていた時代である。都市部の俸給生活者の賃金は、年々上昇していった。政府は、それに合わせて、生産者米価も引き上げていった。
 一九六〇年(昭和三十五年)に六十キロで四千百六十二円だった生産者米価は、六八年(同四十三年)には、八千二百五十六円と、倍増したのである。 
 農家は、稲作の面積を拡大し、機械を導入するなどして、生産の向上に取り組んでいった。米の収量は増大し、六七年(同四十二年)からは、三年連続で、千四百万トンを超える大豊作を記録した。
 ところが、既にこのころ、国民の食生活は変化し、米の消費は減少傾向にあった。大豊作は、米の供給過剰を招き、政府の古米在庫量は累増し、七〇年(同四十五年)十月末には七百二十万トンになった。これは、全国に配給する米の約十四カ月分の量であった。
26  灯台(26)
 米が余剰になったことから、政府は、古米の在庫処理の一方、価格も自由に決めて売買できる、自主流通制度を導入した。また、生産調整を行うために、新田開発を抑制し、野菜などへの作付け転換を進めたのだ。
 農家は減収となった。農業だけでは暮らしが成り立たないため、専業農家は、ますます減少した。出稼ぎに行く人や、兼業農家に切り替える家が、年々、増大していった。
 この高度成長期には、日本では、国際分業が主流となっていた。工業製品や農作物などを、国家間で分業し、互いに必要な物を安く輸出入しようという考え方である。
 日本は、工業製品の輸出に力を注ぎ、麦や大豆などの穀物を、大量に安く輸入していった。その結果、麦や大豆を生産する日本の農家は、激減していったのである。
 さらに、一九七二年(昭和四十七年)、田中角栄内閣が、「日本列島改造論」を掲げてスタートする。それは、農地法を廃止し、農地政策を根本から改め、各地に人口二十五万人規模の都市をつくり、高速交通網で結ぼうという構想であった。太平洋ベルト地帯に集中した工業や、大都市に集中した人口の分散を図り、過疎と過密を解消する計画であったが、都市整備、工業優先の施策といえた。
 農業関係者の間に、危機感が走った。
 そこに、世界的な食糧危機が起きたのだ。 そのなかで、七三年(同四十八年)十月、農村部が誕生するのである。
 日蓮大聖人は「人は食によつて生あり食を財とす」、「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(同一五九七㌻)と仰せである。
 山本伸一は、人間の命をつなぐ食の生産に従事する農村部は、人類の生命を支え、守る、極めて重要な部であると、考えていた。
 ″メンバーの智慧と営農の実証は、先細りの様相を見せ始めた農業の、未来を開く力となる。さらに、それは、日本、そして、世界の食糧問題を解決する糸口ともなろう″
 伸一の農村部への期待は大きかった。
27  灯台(27)
 山本伸一の心に呼応するかのように、農村部のメンバーは、農村の活性化が、新しい時代を開く力になると自覚し、さまざまな活動を積極的に推進していった。
 一九七四年(昭和四十九年)二月には、茨城県の水戸会館(当時)で、初の「農業講座」を開催した。これは、農業経営に関する、幅広い知識を身につけるとともに、農村部のメンバー同士が、信心の連帯を深めるために実施されたものであった。
 土壌の研究に取り組んできた学術部員らの講演、質疑応答も行われた。専門家のアドバイスや、同じ農業従事者の苦心、工夫なども聞くことができ、参加者の収穫は大きかった。この「農業講座」は、翌月には、鳥取県でも実施され、好評を博した。
 また、八月には、次代を担う農村青年を育成するために、神奈川県の三崎会館で、「全国農村青年講座」が行われている。
 全国から代表約五十人が集い、「世界の農業と日本農業」「農村地域における現状と対策」などについて学習するとともに、仏法者としての使命を確認し合ったのである。
 農村は、いずこも、後継者不足が深刻化していた。さらに、減反政策など、農政のひずみが、農家を疲弊させ切っていた。
 状況にのまれ、流されていくのか。状況に立ち向かい、改革していくのか――それは、常に、人間に突き付けられている課題である。
 しかし、改革は至難である。本当の信念と強靱な意志力が求められるからだ。それを引き出すための力が、信仰なのである。
 「人間のなすあらゆる偉大な精神的進歩というものはまず信仰にもとづくものだ」とは、スイスの哲学者ヒルティの洞察である。
 「全国農村青年講座」に参加したメンバーは、誓い合った。
 「日本の農業は、八方ふさがりといってよい。しかし、誰かが、それを打開していかなければ、農業の未来も、日本の未来もない。その使命を担っているのが、私たち農村部の青年ではないか。出発だ! 前進だ!」
28  灯台(28)
 山本伸一の心に呼応するかのように、農村部のメンバーは、農村の活性化が、新しい時代を開く力になると自覚し、さまざまな活動を積極的に推進していった。
 一九七四年(昭和四十九年)二月には、茨城県の水戸会館(当時)で、初の「農業講座」を開催した。これは、農業経営に関する、幅広い知識を身につけるとともに、農村部のメンバー同士が、信心の連帯を深めるために実施されたものであった。
 土壌の研究に取り組んできた学術部員らの講演、質疑応答も行われた。専門家のアドバイスや、同じ農業従事者の苦心、工夫なども聞くことができ、参加者の収穫は大きかった。この「農業講座」は、翌月には、鳥取県でも実施され、好評を博した。
 また、八月には、次代を担う農村青年を育成するために、神奈川県の三崎会館で、「全国農村青年講座」が行われている。
 全国から代表約五十人が集い、「世界の農業と日本農業」「農村地域における現状と対策」などについて学習するとともに、仏法者としての使命を確認し合ったのである。
 農村は、いずこも、後継者不足が深刻化していた。さらに、減反政策など、農政のひずみが、農家を疲弊させ切っていた。
 状況にのまれ、流されていくのか。状況に立ち向かい、改革していくのか――それは、常に、人間に突き付けられている課題である。
 しかし、改革は至難である。本当の信念と強靱な意志力が求められるからだ。それを引き出すための力が、信仰なのである。
 「人間のなすあらゆる偉大な精神的進歩というものはまず信仰にもとづくものだ」とは、スイスの哲学者ヒルティの洞察である。
 「全国農村青年講座」に参加したメンバーは、誓い合った。
 「日本の農業は、八方ふさがりといってよい。しかし、誰かが、それを打開していかなければ、農業の未来も、日本の未来もない。その使命を担っているのが、私たち農村部の青年ではないか。出発だ! 前進だ!」
29  灯台(29)
 山形訪問翌月の一九七四年(昭和四十九年)十月、山梨広布二十周年記念総会に出席した山本伸一は、講演のなかで、農業問題に言及した。当時、西アフリカ諸国、バングラデシュ、インドなどでは、旱魃や洪水で、極度の飢饉を招来し、多くの人びとが餓死状態に追い込まれていた。
 彼は、食糧の大部分を海外に依存する日本の農業政策の在り方の転換を主張したのだ。
 さらに、この年の十一月十七日に、愛知県体育館で行われた本部総会では、食糧危機の問題について、提言を行っている。
 ちょうど、総会前日の十六日まで、イタリアのローマで、世界食糧会議が開催され、世界的な食糧危機打開への討議が行われていたのである。
 しかし、その語らいには、国家間の利害と思惑が絡み、食糧危機が国家の取引、政争の具に供されていた。現実に飢餓線上にあって、今日死ぬか、明日まで生命がもつかといった人びとの苦しみよりも、それぞれの国家利益が優先されていることが、伸一は、残念でならなかった。
 ″人間の生命を守ることを、一切に最優先させるというのが人の道ではないか!″
 そこで彼は、本部総会で、食糧問題に取り組む先進諸国の、基本的な姿勢を、まず確認していったのである。
 「『何を要求するかではなく、何を与えうるか』に、発想の根本をおくべきであるということであります。各国が争って要求し、駆け引きをし、奪い合うのではなく、今すぐに各国が、まず『何ができるか』『何をもって貢献できるか』ということから、話を始めなければならない」
 次いで伸一は、経済大国・日本は、世界に対して「何をすべきか」を語った。
 彼が、第一にあげたのは、「農業技術の援助」であった。
 食糧問題の根本的な解決は、長期的に見るならば、発展途上国の自力による更生にかかっているからである。
30  灯台(30)
 山本伸一は、第二に、食糧を輸入に依存しておきながら、減反政策を取り、農業人口を減らしてきた農政の在り方を改善し、食料自給率を高めていくべきであると訴えた。
 工業重点主義によって得た金の力にものをいわせ、他国が得るべき食糧を奪っていると言われるような生き方は、改めるべきであろう。また、このまま日本が、なんの方策もなく、一切の輸入穀物が途絶えるような事態になれば、やがては、発展途上国以上の、飢餓の苦しみに陥ることになろう。
 つまり、日本は、世界のためにも、自国のためにも、時代を先取りして、人類に貢献する道を、正々堂々と歩んでいくべき必要があると、伸一は、痛感していたのである。
 第三に、「民衆も、食糧問題を他国のこととして傍観視していてはならない。私たちとしても、仏法者の良心のうえから、なんらかの手を差し伸べたい」と述べた。そして、「私は、その具体的検討及び実施を、青年の諸君に託したいと思いますが、諸君、どうだろうか!」と呼びかけたのである。
 集った青年たちの、賛同の大拍手が場内に轟いた。青年の決起があってこそ、運動の結実はある。すべての命運は青年の手にある。
 さらに伸一は、世界食糧会議でも提案された「世界食糧銀行」に触れた。これは、世界の食糧の安全保障、配分構想のセンターとして、具体的施策を即座に実施していく機関である。その構想の基盤とすべき、理念、思想について、彼は明言したのである。
 「それは、援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人びとの生存の権利を回復するというものであり、あえて言えば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという『抜苦与楽』(苦を抜き楽を与える)の慈悲の理念であります」
 そして、こう力説したのだ。
 「今、必要とされるのは、グローバルな見地に立つこととともに、国家エゴイズムを捨てて、人類の生存という一点に協力体制をしいていくことに尽きるのであります」
31  灯台(31)
 一九七二年(昭和四十七年)十一月の第三十五回本部総会で、山本伸一は、人類の生存の権利を守るための運動を青年に託したいと呼びかけた。それが起点となり、反戦出版や、「核兵器、戦争廃絶のための署名」など、創価学会の広範な平和運動が展開されていったのである。
 そして、この七四年(同四十九年)の第三十七回本部総会で、さらに伸一は、食糧問題への取り組みを青年に託したのだ。彼は、愛する後継の青年たちが、国家のエゴイズムを乗り越え、世界の平和と人類の繁栄を築き上げていく使命を自覚し、未来を切り開いていくことを、強く念願していたのである。
 伸一の提案を受け、翌月の八日に開催された第十六回学生部総会では、「二十一世紀食糧問題委員会」の設置が発表された。また、十五日の第二十三回青年部総会では、「生存の権利を守る青年会議」が発足し、そのなかに、「食糧問題調査会」が設けられた。
 人類の「食」を守るための運動の準備が、着々と整えられていったのである。
 七五年(同五十年)五月、同調査会は、「飢餓に悩むバングラデシュ」と題する講演会を開催。また、学生部の「二十一世紀食糧問題委員会」と共催して、食糧問題の講演会を重ねるなど、人びとの意識啓発を図り、市民の連帯を訴えていった。
 さらに、この七五年の九月二十一日を中心に、十五都府県で、「世界の飢えをなくそう」と呼びかけ、募金活動を実施した。
 真心の募金は、日本ユネスコ協会連盟に寄託され、アジアやアフリカ各国のユネスコ機関を経て、当事国に届けられた。
 また、日本ユネスコ協会連盟からは、人道的大義に立脚した活動に対し、「食糧問題調査会」に感謝状が贈られた。
 青年は、眼を世界に向けねばならない。地球は、人類の家であり、人間は皆、家族、同胞なのだ。ゆえに、この地球上の苦悩と悲惨を、わが苦として担い立つのだ。そこに、真の仏法者の生き方があるからだ。
32  灯台(32)
 一九七五年(昭和五十年)九月、初の試みとして、山形県の「農村青年主張大会」が上山市民会館で開催された。後継者不足、不安定な収支、離農など、深刻な問題が山積しているなかで、信心を根本に、農業に青春をかける青年たちが、郷土愛や土に生きる誇りを、力強く訴えた。
 青年の信念の主張や心意気を、参加した地元の識者たちは高く評価し、今後の活躍に大きな期待を込めて拍手を送った。
 この「農村青年主張大会」は、やがて全国に広がっていった。さらに、各部の代表が登壇しての″体験主張大会″、そして、衛星中継による「農漁村ルネサンス体験主張大会」も、開催されていくことになる。
 まずは、わが地域に、希望の火を燃え上がらせるのだ。その火は、やがて、全国、全世界に広がっていくからだ。
 「改革とは本来足もとから始めるべきものです」とは、イギリスのロマン派の詩人シェリーの至言である。
 翌七六年(同五十一年)一月には、男子部に「農村青年委員会」が発足する。農村部と連携を密にしながら、農村青年の活動を定着化させ、より一層、地域貢献の運動を推進していくことを目的に設けられたのである。
 また、この年の三月には、全国から農村青年の代表が集い、初の「農村部大会」が静岡県で開催されている。山本伸一は、歴史的な第一回大会を祝福し、メッセージを贈った。
 「いつの場合でも、新しい道をつけるためには、誰かが泥まみれになって死闘しなければならないのが、歴史の宿命であります。いかなる苦しみのなかでも、前進を止めてはなりません。ひとたびは後退を余儀なくされることがあっても、必ず、次はさらに進むのだという執念を失ってはなりません」
 農業の現実は、依然として厳しかった。
 しかし、参加者は、伸一の呼びかけに応え、″だからこそ、仏法という価値創造の大法を持った私たちが活路を開こう!″と、赤々と闘志を燃え上がらせるのであった。
33  灯台(33)
 「農村部大会」への山本伸一のメッセージは、農村再建の使命を強く促すものとなった。
 農村部では、一九七六年(昭和五十一年)にも、北海道などで、活発に「農業講座」を開催していった。講座では、地元の農村部メンバーの体験発表や、農業に関する学術研究者の講演などが行われた。農村部員は、現代農業が直面する諸問題に、なんらかの解決の道筋を示し、農村社会に希望の灯をともそうと、真剣な取り組みを重ねていった。
 七七年(同五十二年)一月には、社会の大黒柱である壮年に焦点を当てた「農村壮年講座」が、各地の研修所などで開催された。
 この催しでは、山本伸一の「諸法実相抄」講義を学び、仏法哲理の研鑽に力を注いだ。一人ひとりが、仏法者としての使命を自覚していくことこそ、農業再生の力となるからだ。
 壮年の意気は軒昂であった。壮年が立ち上がってこそ、物事の本格的な成就がある。
 壮年の「壮」とは、若々しく、元気盛んで、強く、大きく、勇ましいことをいう。ゆえに、意気盛んな男性を「壮士」と呼び、働き盛りの年代を「壮歳」といい、勇気のいる大がかりな仕事を「壮挙」というのだ。
 また、英国の女性作家シャーロット・ブロンテは、「壮年には叡智があります」と綴っている。
 本来、青年をしのぐ、勢い、勇気、強さ、実力、叡智をもっているのが壮年なのである。
 まさに、壮年の力、叡智が発揮され、本格的な地域社会の建設に向け、農村部の活動が、いよいよ軌道に乗り始めた時に、第一回「農村・団地部勤行集会」を迎えたのである。
 農村部の抱える大きなテーマが、人口の過疎化のなかで、どうやって農業を再生させるかであるのに対して、一方の団地部は、人口の過密化した団地という居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をいかにしてつくり上げていくかが、大きなテーマであった。
 農村の過疎、都会の過密――現代社会の抱える大テーマに、創価学会は、真っ向から取り組んでいったのである。
34  灯台(34)
 団地部のメンバーは、一九七三年(昭和四十八年)十月の結成以来、わが団地を″人間共和の都″にと、懸命に活動に励んできた。
 方面や県、区で勤行会や協議会も活発に開催され、地域に信頼を広げていくことを確認し合った。
 そして、団地に住む人びとと交流を深め、さまざまな悩みを抱えた友人を励ましながら、連帯の輪を広げてきたのである。
 日蓮大聖人は、「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなりここを去つてかしこに行くには非ざるなり」と仰せである。
 信心に励む自分がいるところが、成仏得道の場となるのである。したがって、彼方に理想郷を求めるのではなく、わが居住の地を最高の仏道修行の地と定め、そこに寂光土を築いていくことこそが、われら仏法者の戦いなのである。
 日本で、団地の建設が本格的に始まったのは、戦後のことである。焦土と化した都市部を中心に、日本全土で四百万戸以上の住宅が不足し、その解消のために、まず、東京の港区や新宿区に団地が建てられていった。そして、高度経済成長と軌を一にして、団地は日本全国へと広がっていった。
 当初、団地の間取りは決して広くはなく、畳なども通常の規格よりも小さい、いわゆる″団地サイズ″であった。
 しかし、木造の家屋が、大多数の時代にあって、コンクリートの外壁に、ステンレス製の流し台のあるダイニングキッチンなど、新しい設備を施した団地は、極めてモダンな、都市生活の見本とされていた。
 夫婦と子どもからなる、核家族化が進んでいただけに、間数は多くなくとも、居住者の満足度は高かった。
 特に若い世代には、″団地に住みたい″という願望をいだく人が少なくなかった。
 団地の居住者は、「団地族」と、もてはやされ、一九五八年(昭和三十三年)には、それが流行語にまでなるのである。
35  灯台(35)
 団地は、民間のアパートなどと比べ、環境や諸設備も整っていることから、入居希望者が多く、一九六一年(昭和三十六年)には、日本住宅公団の東京・阿佐ケ谷市街地住宅の申し込みは、四千二百倍を超えた。
 団地の建設地は、次第に都会から郊外へと移るとともに、大阪の「千里ニュータウン」や、東京の「多摩ニュータウン」など、団地を中心とした計画的な都市づくりも行われていった。
 当初、団地は、四、五階建てが多かったが、十四階建ての高層棟を擁する「高島平団地」(東京・板橋区)なども登場した。そこでの生活は、多くの人びとにとって、まさに、″高嶺の花″であった。
 団地生活は、人びとの憧れではあったが、その一方で、近所付き合いがあまりないことなどが、問題点として指摘されてきた。
 団地での″孤独死″も起きていた。
 一九七四年(昭和四十九年)一月、東京・渋谷区にある団地の浴室で、老婦人が死亡しているのが発見された。既に、亡くなってから一週間が経過していた。
 また、この年八月、神奈川県の団地の四階に住む男が、「ピアノなどの音がうるさい」と、三階に住む母子三人を殺害するという事件が起こっている。″憧れ″の団地での、騒音問題や人間関係が、にわかにクローズアップされることになったのである。
 この事件の第一審判決には、次のようにある。
 「犯行は被害者方と被告人との間に意思の疎通があれば十分防止し得たともいえる」
 団地部のメンバーは、こうした事件に心を痛めつつ、自分たちの果たすべき使命を強く自覚していったのである。
 ″私たちの団地を、温かい心と心が通い合う人間郷にしなければ……″ 
 身近に起こっている問題から目を背けるのではなく、それを自身の問題ととらえ、解決のために全力を尽くす――それが、立正安国の実現をめざす仏法者の生き方である。
36  灯台(36)
 団地で隣同士を隔てているのは、コンクリートの一枚の壁にすぎない。しかし、その団地での人間関係が、なぜ、希薄なのか――。
 新しく造られた団地の居住者は、さまざまな地域から移転してきた人たちである。当然、互いの気心もわからない。
 本来ならば、積極的にあいさつを交わし、交流を重ね、意思の疎通を図るよう努力していくことが望ましい。
 一九六〇年代、七〇年代、団地入居者の世帯主は、三十代が最も多く、若い世代が大半を占めていた。世代が若くなるにつれて、プライバシー意識が高くなり、できるだけ人との関わりを避けようとする傾向が強かった。それが、隣家との″心の壁″を厚くしていた面があったことも否めない。
 人との関わりを断てば、人付き合いに伴う煩わしさを避けることはできる。しかし、集合住宅では、互いに配慮したり、皆で協力しなければならないことも多い。近隣の相互理解、信頼という土壌がないなかで、互いが個人の自由や権利を主張し、利害などがぶつかり合うと、話はこじれ、事態は難航しかねない。時には、激しい憎悪の応酬となってしまうこともある。
 もちろん、それは、団地に限ったことではない。新しい住宅地などでも、起こりがちな現象である。
 人間が生きるには、人との協調や気遣い、また、礼儀やマナー、支え合い、助け合いが不可欠である。その心を育むには、人間をどうとらえるかという哲学が必要である。まさに、それを教えているのが仏法なのである。
 仏法の基本には、「縁起」という教説がある。「縁りて起こる」と読み、一切の現象は、さまざまな原因と条件が相互に関連して生ずるという考え方である。
 つまり、物事は、たった一つだけで成立するのではなく、互いに依存し、影響して成り立っているのである。人間もまた、一人だけで存在しているのではない。互いに関係し、助け合って生きているのである。
37  灯台(37)
 団地部のメンバーは、自分の住む団地を、″人間共和の都″にしていこうと、各人が積極的に、行動を起こしていった。自治会の役員などを進んで引き受け、住民のために奔走し、献身していった人も少なくない。
 一九七七年(昭和五十二年)の二月七日朝、大阪では、テレビのニュースで、ベッドタウンとして知られる泉北ニュータウンの団地で、自治会の運動が実り、団地内に駐車場が完成したことが報じられた。この運動の中心となってきたのが、団地内に住む自治会長を務める学会員の婦人であった。
 駐車場には、車が整然と並び、団地内の路上に駐車している車は一台もない。
 以前は、路上に駐車する車で道がふさがれ、消防車も入ることができないような状態であった。もちろん、当時も車庫法(自動車の保管場所の確保等に関する法律)によって、″青空駐車″は禁止されてはいた。
 しかし、この団地の駐車スペースはわずかしかなく、マイカーを持つ人たちは、団地内や周辺の道路に車を置かざるを得ないというのが現実であった。警察に″青空駐車″を注意されても、団地住民は、困惑するばかりであった。
 そのなかで、この団地で悲しい出来事が起こった。路上駐車していた車の横をすり抜けて走ってきた子どもが、別の車に、はねられ、病院に運ばれたのだ。嘆き悲しむ母親の姿が、学会員の婦人の胸に焼き付いて離れなかった。
 ″とうとう事故が起こってしまった。団地内の路上駐車を、なんとかしなければならない。駐車場だ。駐車場が必要だ″
 彼女は、公団事務所や市役所に掛け合い、団地内を一軒一軒回り、駐車場建設の運動を呼びかけた。その訴えに賛同し、積極的に協力してくれる人もいたが、″我関せず″という態度の人も少なくなかった。普段からの意思の疎通が図られていないためだ。
 物事には常に予期せぬ壁がある。それを破ることから前進は始まる。
38  灯台(38)
 駐車場の建設に立ち上がった、学会員の婦人は思った。
 ″ここが勝負だ! 今こそ、みんなの心の扉を開こう。そして、誰もが愛し、誇れる最高の団地にするんだ!″
 彼女は、懸命に訴えた。
 「路上駐車だらけの、今の状態では、消防車などの緊急自動車も入って来られません。もし、火災が発生したら、大変なことになります。駐車場をつくろうというのは、車を持っている人のためだけではありません」
 大切な生命を守ることができる団地にしたいとの、強い思いがあった。
 有志と共に、団地の人びとと地道な対話を続け、各機関との折衝も、何回となく重ねた。その粘り強い行動によって、多くの住民が賛同していった。そして、二年間を費やし、遂に駐車場が出来上がったのである。
 文豪ゲーテは、「現実は、万事、精神的な粘りにかかっている」と記している。
 駐車場の完成がテレビで報じられた日、団地では、大がかりな消防訓練が行われた。これまでは、路上駐車する車が道をふさぎ、一度も実施できずにいたのである。
 社会の建設といっても、最も身近な、近隣との関わりから始まるのだ。
 山本伸一は、折々に、「学会員は、地域の幸福責任者です」と訴えてきた。この指導は、同志の胸中に深く根差し、社会貢献という使命の自覚を促してきたのである。
 民衆は大地である。その民衆の生命が耕され、社会を創る主体者であるとの意識の沃野が開かれてこそ、地域の繁栄という実りもあるのだ。
 学会員のなかには、かつては、社会の底辺で宿命に泣き、来る日も来る日も、ため息まじりに生きてきた人たちも少なくない。その庶民が、決然と頭を上げて、あの地、この地で、社会建設の主役となって、表舞台に躍り出たのだ。
 そこに、創価学会が成し遂げてきた民衆教育の、刮目すべき偉大な功績がある。
39  灯台(39)
 埼玉県・吉川町(当時)の吉川団地は、一九七三年(昭和四十八年)から入居が始まった団地である。約千八百世帯、六千人が、さまざまな地域から転居して来た。
 新しく建設された団地や新興住宅地の常として、なかなか住民の心の交流は図れなかった。そのなかで、学会員は、いち早く連絡を取り合い、「この団地を、一日も早く、人情味にあふれた、人間性豊かな団地にしよう」と語らいを重ねた。
 「皆さんのお役に立てるなら」と、積極的に、団地の自治会をはじめ、地域の役員を引き受ける人も少なくなかった。
 ある壮年部員は、団地の老人会の中心となり、定期的に懇親会を開催した。さらに、可能な限り高齢者世帯を訪ねては、声をかけ、健康状態などを確認して回った。
 婦人部員のなかには、保健所や町役場と連携して、育児に追われる母親と、子どもの健康を守るボランティア活動に参加する人もいた。また、団地のバス発着所の近くに信号機がないため、道路の横断が危険であるとの声を聞いた壮年は、発起人となって信号機の取り付けを推進した。
 一人ひとりが損得にとらわれず、わが地域の繁栄を願い、奉仕の心で懸命に働いていった。学会員には、信仰を通して培われてきた、社会貢献の哲学と信念がある。
 日蓮大聖人は、「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」と仰せである。そこには、他者への献身が、自身のためにもなるという、共存共栄の思想がある。
 また、「立正安国論」には「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と述べられている。「四表」は東西南北で、国、社会を意味し、「静謐」は世の中が穏やかに治まることをいう。つまり、わが身の安穏を願うならば、地域、社会の安泰を実現しなければならないと言われているのだ。
 学会員には、こうした考えに則った行動が、各人の生き方として確立されていたのだ。
40  灯台(40)
 団地部メンバーの貢献は、いずこの地にあっても、目を見張るものがあった。
 ″まず、自分がよき住民となり、皆が誇りに思える団地をつくろう″と、地域建設の推進力となり、住民の心と心を結んでいった。
 メンバーは、団地のすべての人に、元気いっぱい、あいさつをするように心がけた。盆踊り大会や、餅つき大会などの催しには、率先して協力した。
 しかし、誠意や献身が、そのまま、受け止めてもらえるとは限らない。
 関西のある団地では、当初、意欲的に地域の役員として活躍する学会員を、冷ややかな目で見る人たちも少なくなかった。
 「学会の人は、好きでやってるんやから、やらしたったらええんや」
 そんな、突き放したような声も耳にした。
 しかし、学会員は、人びとのために、骨身を惜しまず、喜々として働いた。もともと賞讃を得ようとして、やっているのではない。信仰者としての良心から自発的に始めた、社会貢献の活動である。微動だにしなかった。
 「大いなる誠実な努力も ただ たゆまずしずかに続けられるうちに 年がくれ 年があけ いつの日か晴れやかに日の目を見る」とゲーテは詠っている。
 学会員が、一つ一つの事柄に対して、懸命に、誠実に取り組み、さまざまな貢献の実績を残すうちに、「学会の人は、よう頑張りはるなぁ」との、感嘆の声があがり始めた。そして、次第に皆が協力してくれるようになっていった。役員の任期が終わりに近づくと、「次もぜひ、学会の方にお願いしたい」と、要望されるようになったのである。
 地域交流の場の必要性を痛感し、自宅を提供して、手芸やアートフラワー、人形作りなどを学び合うサークルをつくり、交流を深めていった婦人もいた。子どもの遊び場をつくろうと、奔走した人もいた。
 「人間疎外」から「人間共和」へ――団地部員の運動は、各地に、人間の輪、友情のネットワークを広げていったのである。
41  灯台(41)
 山本伸一は、団地という集合住宅に住む人たちの心がよくわかった。彼も、団地ではなかったが、青年時代にアパートで暮らした経験があるからだ。
 彼が実家を出て、東京・大田区大森にある「青葉荘」というアパートに移り住んだのは、戸田城聖のもとで働き始めて四カ月が過ぎた、一九四九年(昭和二十四年)五月であった。
 まさに、青葉の季節に、新生活をスタートしたのだ。アパートは二階建て三棟で、九十世帯ほどが住み、伸一が入ったのは、その三号館一階の部屋であった。
 勤行している時、隣室の人から、小さな声でしてくれと、注意を受けたこともあった。集合住宅では、ことのほか、周囲への配慮が必要なことも学んだ。
 また、ある時、滝の夢を見た。滝に打たれ、寒くて震えが止まらない夢であった。あまりにも寒くて目を覚ますと、布団がびしょ濡れであった。上の部屋の住人が、水道の蛇口を閉め忘れたのか、天井から布団の上に、水がしたたり落ちてきていたのだ。
 伸一が、青年として心がけていたのは、明るく、さわやかなあいさつであった。同じアパートに住んだのは、決して偶然ではない。深い縁があってのことだ。だから、近隣の人びとを大切にし、友好を結ぼうと思った。
 彼は、隣室の子どもたちを部屋に呼んで、一緒に遊んだこともあった。自分の縁した一家が、幸せになってもらいたいと、その親には仏法の話をした。やがて、この一家は、信心を始めた。
 伸一は、自分の部屋で座談会も開いた。何人かのアパートの住人や近隣の人たちにも声をかけ、座談会に誘った。そのなかからも、信心をする人が出ている。
 「この世に、あたたかい心ほど力づよいものがあるでしょうか」とは、「華陽会」の教材ともなった『小公子』の言葉である。
 周囲の人びとの幸せを願っての友好の広がりは、おのずから、広宣流布の広がりとなっていくのである。
42  灯台(42)
 山本伸一は、「青葉荘」で三年間を過ごし、一九五二年(昭和二十七年)五月に峯子と結婚する。結婚当初、三カ月ほど、東京・目黒区三田の借家に住むが、八月には、大田区山王のアパート「秀山荘」に移った。赤い屋根の二階建てで、十世帯ほどが住んでいた。
 伸一たちが借りたのは、六畳二間の一階の部屋であった。
 このアパートには、五五年(同三十年)の六月に、大田区小林町(当時)にローンで小さな家を購入し、転居するまで、三年近くにわたって住むことになる。ここにいた時、長男の正弘、次男の久弘も生まれている。また、伸一が、青年部の室長として、学会の重責を担うようになるのも、この時代である。
 「秀山荘」に転居した伸一は、すぐに名刺を持って、近所にあいさつに回った。
 和気あいあいとした人間関係を、つくっていきたかったのである。
 正弘が成長し、走り回るようになると、妻の峯子は、隣室や上の部屋に気を使い、なるべく早く寝かしつけるようにした。
 彼の部屋には、実に多くの人が訪れた。当時、伸一が、峯子と語り合ったのは、「どなたが来ても温かく迎えて、希望を″お土産″に、送り出そう」ということであった。
 じっくりと話を聴き、時には、一緒に食事をしたり、レコードを聴くなどしながら、励ました。語らいは、時として深夜にまで及ぶこともあった。翌朝、峯子は「昨夜は、遅くまで来客がありまして、すみません。うるさくなかったですか」と、近隣の人びとにあいさつして回った――。
 いずこの地であれ、誠実さをもって、気遣いと対話を積み重ねていくなかで、友好の花は咲き、信頼の果実は実るのだ。
 わが団地部の同志も、そうしたこまやかな配慮を重ねながら、周囲に思いやりのある言葉をかけ、献身的な振る舞いを通して、麗しい人間関係を築くために努力しているにちがいない。伸一は、全精魂を注いで、団地部のメンバーを励まさねばならないと思った。
43  灯台(43)
 山本伸一は、団地は、社会の一つの縮図であると考えていた。彼は、車で移動する際にも、団地を目にすれば、同志の幸せと活躍を念じ、題目を送るのが常であった。また、新しい団地建設が、新聞などで報じられるたびに、団地の未来に思いをめぐらした。
 ″今、団地住まいをしている人たちは、比較的若い世代が多く、活気にも満ちている。しかし、二十年、三十年とたった時、現在の団地は、どうなっていくのだろうか……″
 日本の社会は、やがて、先例のない高齢化の時代を迎えることが指摘され始めていた。それだけに、子どもたちが独り立ちしていけば、高齢夫婦の世帯や、高齢者の独り暮らしも増えていくことになろう。
 この一九七七年(昭和五十二年)当時、五階建てまでの古い団地は、たいていエレベーターもなく、また、高齢者や障がい者のためのスロープなども設けられていなかった。
 そうした設備を見直し、未来に対する備えが必要となることは言うまでもない。
 とともに、伸一が、何よりも痛感していたのは、人と人との絆を固くし、強い共同体意識を育まねばならぬということであった。
 将来、高齢者の独り暮らしなどが増えていけば、隣近所の声かけや励まし、助け合いなどが、ますます必要不可欠なものとなるからだ。
 また、若い夫婦などの場合、育児に悩むことも少なくないが、子育てを終えた経験豊富な年代の人たちのアドバイスや協力が得られれば、どれほど大きな力になるだろうか。
 災害への対策や防犯などにおいても、行政の支援だけでなく、住民相互の協力や結束こそ、地域を支える大きな力となる。
 そのために必要なことは、同じ地域、同じ団地のなかにあって、互いに人びとのために尽くそうとする、心のネットワークづくりである。人間の心が通い合う新しいコミュニティー(共同体)の建設である。
 伸一は、その使命を、団地部のメンバーが担い立ち、社会蘇生の原動力となってほしかったのである。
44  灯台(44)
 分断された人間関係の果てにあるのは、孤独の暗夜だ。それを転ずるのが団地部だ″
 山本伸一の期待は大きかった。
 一九七六年(昭和五十一年)七月末の夜であった。伸一が、打ち合わせのため、箱根の研修所を訪れると、千葉県団地部の婦人の代表が集い、研修会が行われていた。
 彼は、できることなら、皆とゆっくり懇談したかったが、この日は、時間がなかった。しかし、なんらかのかたちでメンバーを励まそうと思い、こう提案した。
 「皆さんが、それぞれの地域にあって、一生懸命に活躍されていることは、よく知っております。皆さん方のご苦労に対する、私のせめてもの御礼として、一緒に記念撮影をしましょう」
 皆、大喜びであった。そして、屋外で、共にカメラに納まったのである。
 どんなに多忙でも、人を励まそうという強い一念があれば、さまざまな工夫が生まれる。
 伸一は、会合に出席しても、指導する時間があまり取れない時には、懸命に学会歌の指揮を執り、激励したこともあった。全精魂を注いで、皆と万歳を三唱して、励ましたこともある。また、記念撮影をして、共戦の誓いをとどめることもあれば、生命と生命を結ぶ思いで、一人ひとりと握手を交わすこともあった。
 さらに、歌や句を詠んで贈ったり、激励の伝言を託すこともあった。
 それは、″今を逃したら、もう、励ます機会はないかもしれない。最愛の同志を、あの人を、この人を、断じて励ますのだ!″という、伸一の一念の発露であった。心という泉が、必死さ、懸命さに満たされていれば、創意工夫の清冽なる水は、ほとばしり続ける。
 広宣流布という幸の行進の原動力は、絶え間ない励ましなのだ。
 中国の周恩来総理は、こう訴えた。
 「人間はたえず前進しなければならない。みんなで互いに励ましあい、ともに進歩しなければならない」
45  灯台(45)
 一九七七年(昭和五十二年)二月十七日の夜、会長・山本伸一を迎えて、創価文化会館内の広宣会館で開催された、第一回「農村・団地部勤行集会」は、歓喜と求道の息吹に満ちあふれた出発の集いとなった。
 全国から駆けつけた参加者は、伸一の指導を一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ませ、瞳を輝かせ、一心に彼を見つめていた。
 伸一は、参加者の日々の活動に対して、ねぎらいと感謝を述べたあと、一人ひとりに語りかけるように、懇談的に話を進めた。
 「私が、会長に就任したその年の七月、千葉県の銚子で、青年部の人材育成機関の一つであった『水滸会』の、野外研修を開催いたしました。
 その時、地元の千葉からも、隣県の茨城からも、多くの同志が来られており、私は、しばし、懇談させていただいた。
 語らいのなかで、一人の方が、漁獲量が減少して困っていると言われた。私は、『皆さんの一念で、国土世間も変えていくことができると教えているのが仏法です。根本はお題目です』と申し上げました。
 大聖人は、『心の一法より国土世間も出来する事なり』と仰せだからです。国土の違いも、わが一念から起こり、わが一念に国土も収まります。心の力は偉大です。何があっても負けない、強い、強い信心の一念があれば、一切の環境を変えていくことができる。それが『三変土田』の法理です」
 「三変土田」とは、法華経見宝塔品第十一で説かれた、娑婆世界等を仏国土へと変えていく変革の法理である。「三変」とは、三度にわたって変えたことであり、「土田」とは、土地、場所を意味している。
 見宝塔品では、七宝に飾られた巨大な宝塔が涌現する。釈尊の説く法華経の教えが真実であることを証明するために、塔の中には多宝如来がいる。しかし、宝塔の扉は固く閉ざされ、多宝如来は現れない。出現の時には、釈尊分身の諸仏を来集させてほしいというのが、多宝如来のかねてからの願いであった。
46  灯台(46)
 釈尊の分身の諸仏を娑婆世界に集めるには、国土を浄め、仏が集うにふさわしい仏国土にしなければならない。
 釈尊は、眉間から光を放って、無数の国土にいる仏たちを見る。それぞれの国土では、諸仏、菩薩が法を説いていた。
 宝塔が涌現したことを知った諸仏は、釈尊と多宝如来にお会いしたいと、喜び勇んで馳せ参じるのだ。
 釈尊は、諸仏を迎えるために、娑婆世界を変じて清浄にした。大地は瑠璃で彩られ、宝樹をもって荘厳され、諸仏一人ひとりのために、「師子の座」が用意された。しかし、諸仏の数は膨大で、とても収まりきらない。
 そこで釈尊は、四方(東、西、南、北)・四維(西北、西南、東北、東南)の八方それぞれの、二百万億那由他という無数の国々を浄める。その国土は、すべて一つにつながり、広大なる仏国土が出現する。
 だが、続々と集って来る諸仏は、それでも収まらなかった。釈尊は、さらに、八方それぞれの二百万億那由他の無数の国々を浄める。この三度目の浄化で、娑婆世界と八方の四百万億那由他もの国々が浄められ、一つの広大無辺の仏国土が出現し、宇宙から集い来た分身の諸仏によって、満ちあふれる。まさに、法を求め、師匠のもとに弟子が勇んで馳せ参じる、宇宙大の師弟のドラマである。
 そして、宝塔の扉が開かれ、釈尊と多宝如来が並座するなか、聴衆が空中に導かれ、虚空会の説法が始まるのだ。
 天台大師は、この「三変土田」について、『法華文句』で、三昧によると解釈している。三昧とは、心を一つに定めて動じることのない境地、一念をいう。つまり、国土の浄化は、一念の変革によることを表している。
 日蓮大聖人は、釈尊の一代聖教は「ことごとく一人の身中の法門にて有るなり」と仰せである。わが身を離れて仏法はない。法華経の一切は、己心の生命のドラマであり、大宇宙も、宇宙を貫く根源の法も、わが生命に収まるのだ。
47  灯台(47)
 天台大師は、さらに、釈尊が、三度にわたって娑婆世界等を変革したことを、人間の迷いである、見思惑、塵沙惑、無明惑の「三惑」に対応させている。
 見思惑とは、見惑と思惑のことで、惑は迷いである。見惑は、真実を見極めようとしない、誤ったものの見方をいう。権威、権力にひれ伏し、外見で人を見下すことや、誤った固定観念、偏見もまた、見惑といえよう。
 思惑は、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒などによる迷いである。煩悩に翻弄され、エゴイズムを肥大させ、自然環境を破壊し、争いを生み出すのも、この思惑のゆえである。
 御書には、『法華文句』の「瞋恚しんに増劇ぞうぎゃくにして刀兵起り貪欲とんよく増劇ぞうぎゃくにして飢餓起り愚癡ぐち増劇ぞうぎゃくにして疾疫起り」の文が引かれている。この文には、三毒と、刀兵(戦争)、飢餓(飢饉)、疾疫(伝染病)の因果関係が明らかにされている。戦争も、飢饉も、伝染病も、その根源は、人の一念にこそある。
 「三変土田」の第一の変浄は、戦争や飢餓等の災いをもたらす、見思惑を破ったことを表しているといえよう。
 第二の変浄で破られる塵沙惑とは、菩薩が人びとを救済していく時に直面する、無量無数の障害である。ある意味で、人のための崇高な迷いといえる。それを破って突き進んでいけば、すべては歓喜へと変わっていく。
 さらに、無明惑とは、生命に暗いことから起こる、根本の迷いである。これこそが、成仏を妨げる一切の煩悩の根源となるのだ。それに対して、わが生命も、また一切衆生の生命も、尊厳なる「宝塔」であると悟ることが法性である。第三の変浄で、この無明惑も破られるのである。
 つまり、「三変土田」とは、生命の大変革のドラマであり、自身の境涯革命なのだ。
 自分の一念の転換が、国土の宿命を転換していく――この大確信を胸に、戸田城聖は、敗戦の焦土に、ただ一人立ち、広宣流布の大闘争を展開していったのである。
48  灯台(48)
 日蓮大聖人は、駿河国の富士方面の中心として懸命に弘教に励む、在家のリーダーに、「釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか」と仰せになっている。
 広宣流布に邁進するわれらの生命は、釈尊すなわち仏であり、地涌の菩薩そのものとなるのである。ゆえに、娑婆世界を現実に「三変土田」させ得る力を有しているのだ。
 山本伸一は、農村部、団地部のメンバーに力を込めて訴えた。
 「この私たちが、″断じて、国土の宿命を転換するのだ!″と、決然と立ち上がり、地涌の菩薩の底力を発揮していくならば、三世十方の仏菩薩にも勝る力が涌現します。
 しかも、その地域に、地涌の同志が陸続と誕生し、生命の宝塔が林立していくならば、国土が変わらぬわけがありません。ゆえに、なすべきは広宣流布です。
 戦後、創価学会の大前進とともに、日本は復興し、急速な発展を遂げました。しかし、今や、精神の荒廃や人間疎外、環境汚染など、深刻な多くの課題が山積しています。その大テーマを克服するには、仏法の叡智によるしかありません。したがって、広宣流布の歩みを、一瞬たりとも、止めるわけにはいかないのであります。
 どうか、農村部、団地部の皆さんは、地域広布の先駆けとなっていただきたい。
 また、私は、十七年前に、銚子の地に集って来られた、千葉、茨城の皆さんのことを思い起こすたびに、千葉の同志、茨城の同志は、わが地域を常寂光土へと転ずる、真正の師子であっていただきたいと、祈り念じています。
 さて、その銚子での『水滸会』で、私は、岬に立つ灯台の下で語りました。
 ――諸君は、社会の、日本の、そして、世界の″灯台″になっていかねばならない。
 『水滸会』に限らず、創価学会には、世の暗夜を照らす″灯台″となる使命があることを、声を大にして訴えたいのであります」
 潮騒のような大拍手が、広宣会館に響いた。
49  灯台(49)
 山本伸一は、次いで、地域にあって、広宣流布を推進していくうえでの、基本姿勢について語った。
 「日蓮大聖人の仏法は、下種仏法であります。いまだ仏法の真実の教えを聞いたことがない末法の衆生に、南無妙法蓮華経という成仏得道の種子を下ろし、一生成仏せしめ、人びとを救済していくことができる大法です。
 したがって、その仏法を持ち、広宣流布の使命に生きる私どもの振る舞いは、一切が下種へとつながっていかねばならない。つまり、日々の学会活動はもとより、毎日、毎日の生活の姿や行動が、すべて妙法の種子を植えていく大切な作業であるということを、自覚していただきたい。
 ゆえに、信心していない人に対しても、また現在は、信心に反対であるという人に対しても、幸せを願い、大きな、広い心で、笑顔で包み込むように接して、友好に努めていくことが大事です。それが、仏縁を結び、広げていくことになるからです」
 ここで伸一は、農村部の使命に言及していった。
 「都会生活は、いいように思えても、美しい木々の緑も、すがすがしい空気も失われつつあり、″人間不在″の状況をつくりだしています。農村には、さまざまなご苦労もおありかと思いますが、都会の喧騒から離れ、静かで豊かな自然に恵まれた農村生活を、私は羨ましく思っている一人であります。
 つまり、皆さんは、実は、現代の人びとが憧れる、ある意味で極めて恵まれた環境で生活し、その愛する郷土で、妙法を宣揚する活動ができるんです。そのこと自体に、最大の誇りをもち、確たる信念の人生を歩んでいっていただきたい」
 農業に従事する人のなかには、農業を辞めて、都会に出ようかと悩み考えている人も少なくなかった。しかし、考え方、ものの見方を変えれば、全く別の世界が開かれる。伸一は、農村部のメンバーに、その眼を開き、晴れ晴れとした心をもってほしかったのである。
50  灯台(50)
 東北出身の哲学者・阿部次郎は言った。「土地と農業とを忘れた文化が本質的に人間を幸福にする力があるかどうかは疑はしい」
 農村地域が、やがて、その重要性を再評価され、脚光を浴びる時代が必ず来る――それが、山本伸一の未来予測であり、確信であった。
 伸一は、力を込めて訴えた。
 「今後、社会の関心は、農村地域に集まっていかざるを得ない。したがって、現代における農村の模範となるような、盤石な家庭を築き上げることができれば、そのご一家は、地域社会を照らす確固たる灯台となります。
 そして、そのご一家との交流を通して、妙法の種は下ろされ、広宣流布の堅固な礎が築かれていきます。ゆえに、私は、農村部の皆さんには、『地域の灯台たれ』『学会の灯台たれ』と申し上げておきたい。
 また、農村には、地域のさまざまな伝統行事や風習もあるでしょう。私たちの信心の根本は、どこまでも御本尊です。それ以外の事柄については、随方毘尼の原理に則り、社会を最大限に大切にして、智慧を働かせて、地域に友好と信頼を広げていってください。
 そして、一人ひとりが、福運を満々とたたえて、雅量と包容力に富んだ自身を築き上げていっていただきたいのであります。
 私どもは、決して、偏狭な生き方であってはならない。信仰の原点を踏まえたうえで、寛大な振る舞いで、どうか魅力にあふれる農村のリーダーに成長していってください」
 それから伸一は、農村部のメンバーに、親愛のまなざしを注ぎながら言った。
 「私は、もし、可能ならば、長生きをして、農村部の皆様方のお宅に、一軒一軒おじゃまして、一緒に大根でも引き抜かせてもらいたいというのが、偽らざる心境なんです」
 「ワーッ」という歓声と、大拍手が起こった。
 ″共に働こう! 共に汗を流そう! 共に苦労しよう! そして、共に喜び合おう!″
 それが、常に同志に向けられてきた、伸一の思いであった。そこに、魂の結合があり、創価の友愛と鉄の団結が生まれてきたのだ。
51  灯台(51)
 「次に団地部について、お話ししたいと思います」
 山本伸一が、こう言うと、今度は、団地部のメンバーから、大きな拍手が起こった。
 「実は、結婚してからしばらくの間、私は、よく妻と、こんな話をしました。
 『団地に住みたいな。コンパクトで便利じゃないか』
 『すべて、機能的につくられていますね』
 『少し狭いかもしれないが、部屋の数は、そんなになくても、御本尊様さえ、きちんと御安置して、荘厳できればいいんだから』
 『そうですね。御本尊様には一切が含まれていますからね』
 ――私も、妻も、団地がいいと思っていましたが、子どもが三人でき、また、会長にもなり、結局、団地で暮らす夢は、あきらめざるを得ませんでした。皆さんが羨ましい」
 再び、団地部のメンバーから、喜びの拍手が高鳴った。伸一は、話を続けた。
 「都市化が進んでいる現代社会にあっては、団地という住宅様式は、都市学的にも、社会学的見地から考えても、時代を先取りした一つの結晶と見ることができます。それは、世界的な流れであるといっても、過言ではありません。
 また、近年、大規模な団地は、一つの都市としての機能をもつに至っているといえます。
 この団地を船舶に譬えるならば、皆さん方は、地域の繁栄を担い、人びとを幸福という人生の目的地へと運ぶ、船長、機関長という重要な使命をもった方々であります。
 そのために、地域の方々と協調し、信頼を通わせつつリードし、人間のスクラムを広げながら、愉快に、朗らかに、前進していっていただきたい」
 世間を離れて仏法はない。日蓮大聖人は、「まことの・みちは世間の事法にて候」と仰せである。仏法は、地域、社会での、自身の振る舞いのなかにある。自分が今いる、その場所こそが、仏道修行の場であり、広宣流布の場所なのだ。
52  灯台(52)
 山本伸一は、この二月十七日の勤行集会で、地域社会のパイオニアである、農村部、団地部の友に、日蓮仏法の偉大さと仏道修行の要諦について語っておこうと考えていた。
 「日蓮大聖人の仏法は、『直達正観』、すなわち『直ちに正観に達する』といって、即身成仏の教えです。大聖人の御生命である御本尊を受持し、題目を唱えることによって、直ちに成仏へと至る、宇宙根源の法則です。
 深淵な生命哲理を裏付けとして、実践的には、極めて平易ななかに、一生成仏への真髄が示された、合理的な、全人類救済のための、大法なのであります」
 ここで彼は、日蓮仏法のなんたるかを、極めて身近な譬えを用いて、わかりやすく語っていった。
 「極端な話になるかもしれませんが、釈尊の仏法並びに天台の法門を、テレビに譬えて言うならば、法華経以前の釈尊の仏法は、テレビを構成する一つ一つの部品といえます。
 そして、テレビの組み立て方を示し、全体像を明らかにしたのが法華経です。さらに、テレビがどんなものかを、理論的に体系づけたのが、天台の法門といえます。
 それに対して、日蓮大聖人は、テレビ自体を残されたことになる。それが御本尊に当たります。もったいない譬えですが、私どもが御本尊を持ったということは、既に完成した立派なテレビを手に入れたことになります。部品を組み立てたりしなくとも、理論はわからなくとも、すぐに見ることができる。
 しかし、テレビを見るためには、スイッチを入れ、チャンネルを合わせなければならない。それが、御本尊への信心であり、仏道修行です。具体的な実践で言えば、唱題と折伏です。それによって、即座に、希望の画像を楽しむことができる。これが、『直達正観』の原理です」
 どんなに深淵な哲理が説かれたとしても、人びとが理解できないものであれば、もともとなかったに等しい。民衆が深く理解し、納得し、実践できてこそ、教えは意味をもつのだ。
53  灯台(53)
 山本伸一は、さらに、日蓮大聖人の門下としての信仰の在り方を述べていった。
 「日蓮大聖人は、御本尊という当体そのものを、末法の私どものために残された。
 したがって、釈尊や天台の法理を理解していなくとも、御本尊に唱題することによって、一生成仏という人間革命の大道を進んでいくことができるんです。
 『直達正観』、すなわち、直ちに絶対的幸福に至るには、結論して言えば、何があっても、御本尊を決して疑うことなく、題目を唱え抜いていくこと以外にありません。
 人生は、順調な時ばかりではない。事故に遭うこともあれば、病にかかることもある。また、仕事や人間関係の行き詰まりなど、さまざまな苦難や試練があるものです。その時こそ、″必ず信心で乗り越えてみせる!″と、心を定めて唱題するんです。そして、地涌の菩薩の使命に生き抜こうと、仏法を語り抜いていくんです。
 強盛に、自行化他の信心という根本姿勢を貫いていくならば、絶対に事態を打開できるという、大確信と勇気と智慧が涌現します。その智慧をもって最高の方法を見いだし、聡明に、満々たる生命力をもって挑戦していくんです。これが、『直達正観』の信仰の直道であることを知っていただきたい。
 それと正反対なのが、いざという時に、信心を忘れ、題目を唱えようとせず、右往左往して策に走る姿です。そこからは、所詮、小手先の浅知恵しか出てきません。それでは、問題の本当の解決もなければ、宿命の転換もありません。かえって、つまずきの要因をつくることにもなりかねない」
 悲しみにも、苦しみにも、喜びにも、常に題目とともに! 常に折伏とともに!
 その実践ある限り、道は必ず開かれる。何ものをも恐れることはない。試練の暗夜にあっても、胸には、希望の火が、勇気の火が、歓喜の火が、赤々と燃え上がる。強盛なる信心を奮い起こして題目を唱え抜くこと自体が、「直達正観」なのである。
54  灯台(54)
 長い人生の途上には、苦しいことも多々あるでしょう。しかし、題目第一に信仰の根本義に立って、人生を生き抜いていくことです。
 たとえ、一時的に行き詰まっても、『妙とは蘇生の義なり』で、そこからまた、題目によって新たな生命力、新たな福運の泉を涌現していくことができる。いな、その挑戦の繰り返しが人生であることを忘れずに、明るく、さっそうと前進していってください。
 農村部の皆さん! 団地部の皆さん! 皆さんの地域を頼みます! 今いるところで、幸せの大城を築いてください。
 今日は、本当にご苦労様でした。どうか、気をつけてお帰りください。ありがとう!」
 熱気を帯びた大拍手が場内を包んだ。
 どの目にも決意が光り、頬は喜びに紅潮していた。そして、伸一が示した、農村部への″地域、学会の灯台たれ″、団地部への″幸福への船長、機関長たれ″との指針は、深くメンバーの生命に刻まれていったのである。
 また、後年、この二月十七日は、「農村部の日」と定められ、農業の発展と地域広布を誓い合う日となっている。
 伸一は、勤行集会の翌年の一九七八年(昭和五十三年)六月二十五日には、東京・立川文化会館で行われた第一回「団地部全国大会」(東日本大会)に出席した。自身のアパート暮らしの思い出を紹介しながら、地域に理想的な人間協調の社会を築くよう訴えた。
 そして、この六月二十五日が、後に「団地部の日」となるのである。
55  灯台(55)
 ″異なった生活を営む多様な人びとが、一つの団地という世界で、共に生きる。まさに団地は、「小さな合衆国」といえる。その団地の人びとを、友情と信頼の固い絆で結び、人間共和の礎をつくらねばならない″――それが、山本伸一の団地部への期待であった。
 彼は、一九九五年(平成七年)十一月、団地を、心と心が通い合う、理想の人間共同体とするための具体的な実践を、十項目の指針にまとめ、団地部のメンバーに贈った。
 一、「小さな合衆国(団地)」の無事・安穏を日々ご祈念。
 二、笑顔のあいさつで明るい団地。
 三、良き住民として、常識豊かに模範の生活。
 四、近隣を大切に、広く、大きな心で、皆と仲良く。
 五、友情の花を咲かせて、心豊かな人生。
 六、地域貢献活動には、率先垂範で積極的に取り組む。
 七、自然保護で緑あふれる希望の団地。
 八、お年寄りを大切に、励ましの一声かけて今日も安心。
 九、青少年の健全な育成に協力。
 十、冠婚葬祭は、思想・信条を超えて相互扶助。
 この指針は、地域の繁栄と幸福をめざす団地部の友の、大切な規範となっていった。
 今や人間関係の断絶は、団地に限らず、社会全体に蔓延し、「無縁社会」などと評される事態に至っている。そのなかにあって、団地部の友をはじめ、わが同志は、それぞれの地域で、友情の連帯を築こうと、対話の花園を広げている。この善のスクラムは、希望を育む精神のセーフティーネット(安全網)となって輝きを放っている。
 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と言われ、あらゆる人びとのすべての苦しみを、わが苦とされた。われらは、この大慈大悲の御精神を受け継ぎ、わが地域に、人間讃歌の時代を創造するのだ。
56  灯台(56)
 東北の詩人・宮澤賢治は友に書き送った。
 「もしあなたがほんたうに成功ができるなら、それはあなたの誠意と人を信ずる正しい性質、あなたの巨きな努力によるのです」
 第一回「農村・団地部勤行集会」を契機に、農業復興の決意を新たにした農村部員の活躍は目覚ましかった。
 羊蹄山の麓の北海道・真狩村から参加した本岡明雄は、ユリ根の有機農法栽培に着手した。消費者の安全を第一に考えた農業に取り組もうと思ったのである。
 ユリ根は、小指の先ほどの種球根から食卓に上るまで、六年を要する。彼は、忍耐強く、創意工夫を重ねて栽培に成功。ユリ根の生産量日本一の真狩村から、品質第一位の表彰を何度となく受けることになる。また、北海道社会貢献賞も受賞する。
 兵庫県・但東町(当時)で畜産業を営む森江正義は、以前は、大阪の自動車整備工場で働いていたUターン青年であった。家業の農業を継いだものの、当初、周囲の目は冷たく、″都会の敗残兵″と言われもした。
 但東町は、優れた品質の和牛として有名な但馬牛で知られる。森江は、一念発起し、但馬牛の飼育に取り組んだ。
 積極的に講習会に参加し、勉強を重ねた。さらに、若手の後継者たちに呼びかけ、「自営者学校」を立ち上げ、畜産の基礎から、血統や肉質の見分け方なども学び合った。但馬牛の伝統を守りつつ、新しい道を開きたいと考えたからだ。また、家畜人工授精師の免許の取得などにも挑んだ。″牛より先に食事はしない″と心に決めて、仕事に励んだ。
 勉強、勉強、また勉強の日々だった。
 畜産を始めて三年、育てた子牛が町の品評会で、最優秀の一等賞一席になった。その喜びのなか、勤行集会に参加したのである。
 彼の牛は、品評会で五年連続して、一等賞一席を獲得するのである。後年、森江の飼育した牛は、県指定の種牛として登録されるなど、彼は、但馬牛の第一人者として、地域に実証を示していくことになる。
57  灯台(57)
 山梨県・勝沼町から勤行集会に参加した果樹農家の坂守太郎は、ブドウ畑の一部を整備し、観光ブドウ狩り園を営んでいた。
 観光客が足を運び、ブドウ狩りを体験してもらうことで、生産者と消費者の交流も生まれ、それがブドウの販売促進にもつながると考えたのである。
 勤行集会で″地域の灯台″になろうと決意した坂守は、地域活性化の方法を、真剣に模索し始めた。そして、果実の栽培と観光が一体化するなかで、勝沼の新たな道が開かれるとの確信を強くしたのである。
 そのために、自分のブドウ狩り園を成功させ、モデルケースにしようと誓った。休憩所や売店、大駐車場もつくって、施設を充実させた。また、人びとのブドウの好みも多様化していることを知ると、巨峰をはじめ、三十余種を収穫できるようにした。
 さらに、お年寄りや障がいのある人も楽しめるように、車イスに座って手が届く高さのブドウ棚を用意した。一方、高いところの好きな子どものために、ハシゴを使って収穫するブドウ棚も作った。インターネットのホームページも立ち上げ、ブドウの生育状況の情報発信や販売にも取り組んだ。
 日々工夫であった。日々挑戦であった。
 坂守のブドウ狩り園は好評を博し、地域発展の牽引力になっていったのである。
 彼は、勝沼町観光協会の副会長や、地域の果実出荷組合の組合長なども歴任し、まさに″地域の灯台″となったのだ。
 あきらめと無気力の闇に包まれた時代の閉塞を破るのは、人間の叡智と信念の光彩だ。一人ひとりが、あの地、この地で、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出すのだ。そこに、創価学会の使命がある。
 「日常生活のなかでの信仰実践と、よりよい人間社会を建設していく努力を続けていくことこそ、本来の宗教の使命である」とは、英国の宗教社会学者ブライアン・ウィルソン博士の、宗教者への期待である。

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