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日蓮大聖人・池田大作

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第24巻 「人間教育」 人間教育

小説「新・人間革命」

前後
2  人間教育(2)
 一九七七年(昭和五十二年)一月上旬、学会本部などの各会場名が正式に決まり、発表された。本部三階広間の師弟会館をはじめ、創価文化会館の五階大広間は広宣会館、三、四階のホールは金舞会館、地下の集会室は地涌会館、聖教新聞社六階の大広間は言論会館と命名されたのである。
 一月十八日、その師弟会館、広宣会館を会場に、最高幹部が担当し、大ブロック幹部の研修の意義を込めた勤行会が開始されたのだ。
 二十九日に開催された、東京の江東、墨田、荒川、中央の四区合同の婦人部大ブロック担当員(現在の地区婦人部長)勤行会には、会長の山本伸一が出席した。大ブロック幹部の成長にこそ、広宣流布の一切の勝利がかかっているからだ。
 席上、伸一は、一月半ばに訪問した和歌山県の、一婦人の体験を紹介した。
 ――その婦人と夫は、一九五四年(昭和二十九年)に、和歌山市内で創価学会の話を聞かされる。しかし、婦人は、頭から仏法を否定し、学会を蔑むようなことを言い続けた。
 学会員は、「仏法は、幸福になるための法則なんです。それを真っ向から否定していれば、いつか行き詰まってしまいますよ」と、諄々と訴えたが、聞く耳をもたなかった。
 ほどなく、夫の事業が失敗し、夜逃げ同然で、和歌山県の新宮市に移り住む。再起しようと、夫婦で懸命に働くが、ますます生活は苦しくなっていった。
 多額の借金。そのうえ婦人は、胸膜炎や心臓弁膜症などの病にもさいなまれた。何もかも行き詰まった。心は、深い闇に閉ざされ、なんの希望も見いだせず、遂に生きることに、疲れ果ててしまった。
 信心の話を聞いてから、三年がたとうとしていた。彼女は、二人の幼子と一緒に、死のうと思った。そして、死と向き合った時、初めて、仏法の話を思い起こした。
 「祈りとして叶わざるはなしの御本尊よ。真剣に信心に励めば、誰でも、必ず幸せになれるのよ」との言葉が、胸に蘇った。
3  人間教育(3)
 婦人は、夫に、「信心してみようと思うの」と話した。すると、夫は言った。
 「俺は、三年前、学会の話を聞いた時に、本当は、信心をしたかったんだ。しかし、おまえが、あんなに反対したから……」
 彼女は、すぐに、仏法の話をしてくれた和歌山市の学会員に、速達で手紙を出した。
 「あなたの言われていた信心をやりたいと思います。すぐに来てください……」
 婦人の一家は、一九五七年(昭和三十二年)六月、晴れて入会する。
 以来二十年、事業も軌道に乗り、借金も返済した。はつらつとして学会活動に励み、婦人は、県の幹部として活躍。夫妻で幸せを満喫している。彼女が一緒に死のうと思った長男は、創価大学の四年生となり、さらに、海外の大学院に進もうと、勉学に励んでいるというのだ――。
 山本伸一は、大ブロック担当員勤行会で、この婦人の体験を紹介したあと、訴えた。
 「御本尊の力は、一朝一夕には、わからないかもしれない。しかし、十年、二十年と、真剣に信心に励んでいくならば、結果は、厳然と表れます。
 私たちの現実の日々は、悩みだらけでしょう。学会活動の場でも、″わからずや″ばかりで、もうやっていられないと思うこともあるかもしれない。また、皆さんのなかには、子どもさんの問題で悩んでいたり、ご主人と喧嘩ばかりしている方もいるでしょう。会合に来る交通費を工面するのも大変な方や、病苦と闘っている方もいるでしょう。
 しかし、戸田先生は、大確信をもって、よく、こう言われておりました。
 『朝晩の勤行を励行し、懸命に唱題し、折伏を行っていくならば、人間革命できないわけがない。幸福にならないわけがない。これだけは断言しておきます』
 大ブロック担当員の皆さんは、必ず幸せになってください。また、大ブロックの人たちを、一人も残らず、幸せにしていってください。皆さんは、その幸福責任者なんです」
4  人間教育(4)
 山本伸一は、集った大ブロック担当員の生命の奥深く、仏法への大確信を打ち込んでおきたかった。広宣流布を推進する幹部としての第一の要件は、信心への、御本尊への、絶対の確信であるからだ。
 さらに、彼の話は、一転して、家庭での振る舞いに移った。
 「今日、参加されている方の多くが、結婚され、子どもさんもいらっしゃることと思います。どうか皆さんは、優しい、いいお母さん、いい奥さんになってください。
 人間革命といっても、決して特別なことではないんです。一例をあげれば、子どもや夫への接し方一つにも表れます。いつも怒りっぽかったのに、怒らなくなった。笑顔で接するようになった。よく気遣いができるようになった。子どもの言うことを、ちゃんと聞いてあげられるようになった――それが、人間革命なんです。
 また、幸せといっても、自分の身近なところにあるんです。たとえば、家庭で、隣近所とのつきあいのなかで、あるいは、職場で、いい人間関係をつくれるかどうかです。そして、心から感謝でき、幸せだと思える――そこに、幸福があるんです。
 今日、お帰りになったら、ご主人が信心していても、していなくても、くれぐれも、よろしくお伝えください。信心していなくとも仏縁があるんだもの、やがて、いつか信心に目覚める時が来ます。焦らずに、お題目を真剣に唱えていくんです。大事なことは、人間として信頼に結ばれることです。
 信心のことで、ご主人と喧嘩したり、夫婦仲が悪くなったりしてはいけません。それは愚かです。すべて包み込んでいくことです」
 伸一は、日々の現実のなかで格闘する大ブロック担当員の苦労も、その胸の内も、よくわかっていた。だからこそ、全員が、聡明に、力強く生きて、尊き地涌の使命を果たし抜き、絶対に幸せになってほしかった。
 彼は、仏を敬う思いで、一人ひとりの参加者に、じっと眼を向けた。
5  人間教育(5)
 山本伸一は、最後に「愚痴」について語っていった。
 「大ブロック担当員は、学会活動の要となる方々です。ご苦労も多いことでしょう。しかし、せっかく頑張っても、愚痴ばかり言っていると、その福運を消してしまうし、功徳もありません。卑近な例で言えば、風邪を治そうと薬を飲みながら、薄着をして、雨に打たれて歩いているようなものです」
 もともと、愚痴とは、愚かで、ものの道理がわからないことであり、「無明」を意味する言葉でもある。
 「ついつい愚痴を言ってしまう人もいるでしょうが、愚痴の怖さは、言うたびに、胸中に暗雲を広げていくことです。心を照らす太陽が闇に覆われ、希望も、感謝も、歓喜も、次第に薄らいでいってしまう。御聖訓にも、『わざわいは口より出でて身をやぶる』と仰せです。
 さらに、愚痴っぽい人というのは、自分では気づかぬうちに、全体の空気を重くし、人のやる気をも奪っていく。つまり、広宣流布への勢いを削ぎ、戦いの力を止めてしまっているんです。
 それでは、功徳どころか、罰を受ける結果になりかねない。だから、皆で、互いに戒め合っていくことが大事なんです。
 それに対して、勇んで行動する人は、見るからに、すがすがしいものです。人びとに触発をもたらし、やる気を引き出し、周囲の停滞した雰囲気を打ち破っていきます。
 大聖人が『ただ心こそ大切』と仰せのように、大事なことは、どういう一念で信心に励んでいくかです。どうせ信心をするなら、愚痴を言いながらではなく、自ら勇んで、実践していかなければ損です。さっそうと、さわやかに、行動していこうではありませんか!」
 婦人部は、創価学会の太陽である。その婦人たちの、はつらつとした姿が、包容の微笑みが、幸の光線となって、暗く閉ざされた友の心に降り注いでいくのだ。
6  人間教育(6)
 一月三十一日、山本伸一は、創価文化会館の広宣会館で行われた、新宿、港、千代田、世田谷、目黒、中野、渋谷、杉並の各区からなる、第一東京本部の女子部大ブロック長(現在の地区リーダー)勤行会に出席した。
 彼は、まず「立正安国論」の「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」の御文を拝した。
 「この御文は、社会の繁栄、平和を実現するために、さまざまな方法、手段を講ずるよりも、まず、不幸の根本原因である、誤った教えという一凶を絶つことが大事だと述べられているところです。それは、私どもの生き方についても言えます。
 たとえば、夜更かしなど不摂生が重なり、体調を崩した人がいたとします。その人にとっては、不摂生こそが一凶です。それを改めなければ、どんなに栄養をとっても、健康にはなれない。同じように、私たちが、人間革命し、幸せになっていくうえでも、それを阻んでいる一凶というものがあります」
 皆、目を輝かせて、話に耳を澄ましていた。
 「自分の思い通りにいかないと、投げやりになったり、自身を卑下したりするのも一凶です。自分の失敗や不幸を人のせいにする生き方や、広宣流布のために、皆と心を合わせられないというのも一凶でしょう。また、困難に出くわすと、物事を投げ出したり、逃げてしまうという傾向性も一凶です。そのほかにも、人それぞれに一凶があるでしょう。
 そこで、自分の一凶は何かを見極め、それを絶とうと決め、懸命に唱題し、自身に挑戦していくことです。そこから、人間革命の戦いが始まるんです」
 このあと、伸一は、女子部の時代は、長い人生のうちで、一切の土台となる、最も重要な時期であると語った。そして、この青年期に、自らを鍛錬し、一凶を絶っていくことが、人生の幸福を勝ち取っていくうえで、極めて重要であると訴えた。
 「鉄は熱いうちに打て」である。鍛えなき青春では、人生の試練に打ち勝つ人格は築けぬ。
7  人間教育(7)
 女子部は、美しき創価の花である。
 大ブロックなどの座談会に、彼女たちがいるだけで、その笑顔を見るだけで、皆の心は和み、さわやかな春風に包まれる。
 女子部に限らず、男子部、学生部等にも、独自の活動がある。そこに力を注ぐことは当然だが、各部のメンバーが一堂に会する、創価家族の集いである座談会には、積極的に参加していくことが大事である。
 座談会は、創価学会の大地である。この大地がよく耕され、肥沃になってこそ、木々も生い茂り、花も咲き、果実も実るのだ。
 女子部員にとって、座談会を楽しく有意義なものにするためには、壮年や婦人と連携を取り合い、意見を反映させていくことが必要である。壮年、婦人は、その意見に、よく耳を傾け、取り入れていくべきであろう。
 女子部は、学会の大事な宝である。未来を担う創価の若木である。
 壮年、婦人は、その女子部員一人ひとりを育てるために、最大に心を配っていかねばならない。
 特に、婦人部の応援は、女子部が成長を遂げていくうえで、不可欠といってよい。
 女子部の場合、幹部であっても、年代が若いだけに、結婚をはじめ、人生の諸問題については、十分な指導やアドバイスができないこともある。
 そうした時に力となるのが、人生経験豊かな婦人部幹部の存在である。また、女子部員が友人に、弘教をする時にも、婦人の話が、大きな説得力となる場合もある。さらに、入会に際して、両親の理解を得るにも、婦人などの協力は欠かすことができない。
 婦人部は、女子部の姉であり、母であるとの自覚で、誠心誠意、励ましていくことだ。
 時には、婦人部と女子部の幹部が、一緒に女子部員の激励に回ることもよいだろう。
 ともあれ、青年たちの息吹があふれた大ブロックには、希望と躍動と未来がある。
 女子部員の、明るい、一言の決意が、皆を元気づけ、勇気を与えることも少なくない。
8  人間教育(8)
 山本伸一は、大ブロック座談会を担当した最高幹部が学会本部に帰ってくると、必ず尋ねることがあった。それは、青年は何人集っていたのか、特に女子部員は元気であったのかということであった。
 そして、その大ブロックの女子部員が、はつらつと、研究発表や体験発表、活動報告などをしていたことを聞くと、伸一は、途端に笑みを浮かべるのであった。
 「嬉しいね。未来があるね。学会が、どうして、ここまで発展することができたのか。その要因の一つは、常に青年を大切にし、青年を前面に押し出して、育ててきたからだよ。
 時代は、どんどん変わっていく。信心という根本は、決して変わってはいけないが、運営の仕方や、感覚というものは、時代とともに変わるものだ。学会は、その時代感覚を、青年から吸収し、先取りして、新しい前進の活力を得てきた。
 壮年や婦人は、ともすれば、これまで自分が行ってきたやり方に固執し、それを見直そうとはしないものだ。しかし、それでは、時代の変化についていけなくなってしまう。
 社会の流れや時代感覚は、青年に学んでいく以外にない。その意味からも、男子部や女子部が、壮年や婦人にも、どんどん意見を言える学会でなくてはならない」
 伸一は、あらゆる角度から、未来を、二十一世紀を、見すえていた。
 たとえば、仏法には、個人や社会のかかえる、あらゆる問題を解決する原理が説かれている。それを、いかなる角度から、どう語っていくかも、時代によって異なろう。
 初代会長・牧口常三郎は、価値論を立て、「罰」という反価値の現象に苦しまぬよう警鐘を鳴らすことに力点を置いた。第二代会長・戸田城聖は、戦後、広く庶民に、仏法の偉大さを知らしめるために、経済苦、病、家庭不和等の克服の道が、仏法にあると訴え、御本尊の功徳を強調した。では、これからは、人びとは、仏法に何を求め、私たちは、どこに力点を置いて、仏法を語るべきなのか。
9  人間教育(9)
 ″心を強くし、困難にも前向きに挑戦していく自分をつくる――つまり、人間革命こそ、人びとが、社会が、世界が求める、日蓮仏法、創価学会への期待ではないか!
 もちろん、経済苦や病苦などを解決していくためにも、人びとは仏法を求めていくであろう。とともに、特に、若い世代のテーマは、自己の変革、生き方の転換に、重点が置かれていくにちがいない。つまり、『人間革命の時代』が来ているのだ″
 それは、山本伸一が、青年たちと、忌憚のない対話を交わすなかで、実感してきたことであった。
 また、医療の進歩等によって、二十一世紀には、人間の寿命は、ますます延び、高齢化が進むであろう。それにともない、人びとの死への関心は高まり、永遠の生命を説き明かした仏法の死生観が、クローズアップされる時代が来ることは間違いない。
 伸一が、教学運動に力を入れた背景には、仏法を、時代の要請に応えた「希望の哲学」として、現代社会に復権させなくてはならないとの、強い思いがあったからである。
 そして、その担い手となっていくのが、男女青年部である。
 伸一は、最高幹部たちに語った。
 「かつて、私は、青年部の室長として、一切の活動の企画を練り、すべての主要行事の運営を担ってきた。それによって、創価学会の大前進があった。したがって、これからも、男女青年部が私の戦いを継承し、室長の自覚で一切を推進していってもらいたい。それが、私の願いです。
 そうなれば、学会は『青年学会』として、永遠に発展し続けることができるからです。
 そのために幹部は、青年と会ったら、声をかけ、心から励ましてほしい」
 中国の政治家で、孫文の夫人であった、宋慶齢は訴えている。
 「青年は革命の柱石です。青年は革命の成果の守り手であり、歴史をよりすばらしい世界へ向けて前進させる力でもあります」
10  人間教育(10)
 各部大ブロック幹部の勤行会は、山本伸一をはじめ、最高幹部が出席して、全国で開催されていった。
 伸一は、二月一日には、武蔵野、立川、西多摩、村山などの代表が参加して、広宣会館で行われた、第二東京本部の婦人部大ブロック担当員勤行会に出席した。
 彼は、生老病死という四苦は、避けることのできない理であるが、仏法では、「現世安穏、後生善処」(現世安穏にして、後に善処に生ず)と説いていることに言及した。
 「人は、老いも、病気も、死も避けることはできない。では、だから、不幸になるのかというと、決してそうではありません。
 病や老いなどの苦悩はあっても、それに打ちのめされない、負けない心、強い心、広い心、豊かな心を培っていけばいいんです。それができるのが、信心なんです。そこに『現世安穏、後生善処』への道が開かれるんです。
 仮に、年老いて体が不自由になったとしても、自らの心を磨き、鍛え、広宣流布の使命に生き抜こうとする人には、充実があり、日々、湧きいずる歓喜があります」
 日蓮大聖人は、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」と仰せである。
 この「苦をば苦とさとり」とは、苦悩から目をそらすのではなく、仏法の眼を開き、真正面から向き合って、現実を達観していくことである。すると、病も、老いも、決して単なる苦しみではなく、信心を奮い起こし、深めるための契機であることが自覚できよう。また、病み、老いゆく姿のなかにも、仏法を証明しゆく使命の道があることに気づく。
 「楽をば楽とひらき」とは、得られた安楽を、さらに、常楽へと開いていくのだ。それには、御本尊への感謝をもって唱題に励み、自らの境涯を高め、絶対的幸福境涯を確立していくのだ。ともあれ、苦しい時も、楽しい時も、常に、題目を唱えきっていくなかに、崩れざる幸福の大道があるのである。
11  人間教育(11)
 山本伸一の、各部大ブロック幹部の勤行会への出席は、壮年部、男子部と続いていった。そして、その流れは、三月に入ると、ブロック幹部の勤行会へとなっていくのである。
 学会の組織を堅固にしていくための伸一の照準は、第一線組織に合わせられていた。
 広宣流布運動の大勝利といっても、最前線組織を離れてはない。そこが、広宣流布の主戦場であるからだ。
 その最前線組織で、友の激励に根気強く足を運び、何人の人を立ち上がらせたのか――そこにこそ、幹部の使命がある。 伸一は、一九五二年(昭和二十七年)、蒲田支部の支部幹事として、二月闘争の指揮を執った時、タテ線であった当時の第一線組織である「組」に、一切の焦点を定めた。弘教の目標も、各組で決め、座談会も組単位で行っていった。そして、各組にあって、今日、一人ひとりが何をするかを明確にし、決意を確認し合って、活動を進めたのである。
 伸一も、その組に入って、メンバーを励ました。常に膝詰めの語らいであった。入会はしていても、学会員であるとの自覚さえない人とも、徹底して対話した。地味で目立たぬ労作業であった。華々しい活動など、何一つなかった。 しかし、そのなかで使命に目覚め、立ち上がったメンバーが、新しい拡大の起爆剤となっていったのだ。それが、当時の支部としては、未曾有の、一支部で二百世帯を超える弘教の金字塔を打ち立て、師の戸田城聖が掲げた、会員七十五万世帯達成の突破口を開いていったのである。 広宣流布も、仏道修行の道場も、すべては、最前線組織のなかにこそあるのだ。
 創価学会は、自分を磨き高め、真の人間の生き方と、社会建設の道を教える、人間教育の場である。
 戸田は、「創価学会は、校舎なき総合大学である」と語った。その総合大学の、いわば″教室″であり、″実習場″となるのが、第一線組織なのである。
12  人間教育(12)
 二月の初旬、山本伸一は、自分に代わって大ブロック幹部の勤行会を担当する、理事長、副会長ら最高幹部と懇談した。
 この時、大ブロックを、いかにして強化するかが話題になった。
 伸一は、待っていたかのように語り始めた。
 「最も重要なことは、幹部同士の団結です。団結というのは、互いに″他人任せ″にするのではなく、自分が、この大ブロックの一切の責任を担おうと、心を定めることから始まります。
 それぞれの幹部が、『ここに真実の創価学会あり!』と、胸を張れる組織を、断じてつくろうという、強い一念をもつことです。
 そして、力を合わせて、一人ひとりを徹底して励まし、″ここまで自分を大切にしてくれるのか!″″ここまで本気になって、自分のことを思ってくれるのか!″″こんなに麗しく、温かい人間の連帯はない″″自分は、ここで本当の信心を学んだ!″と、皆が心の底から感じられる組織にしていくことです。
 特に、大ブロック長、大ブロック担当員の方々は、厳たる創価の大ブロック城の城主であり、会長である私の分身であるという自覚をもってほしいんです。
 私が、各大ブロックの皆さんお一人お一人と、直接、お会いする機会は、なかなかもてません。だから、私に代わって、皆さんに声をかけ、悩みに耳を傾け、勇気づけ、元気づけ、抱きかかえるようにして励ましていただきたい。
 ″会長だったら、どうするか。どういう思いで、どう励ますか″を考え、私をしのぐような激励をしてほしい」
 最高幹部たちは、伸一の気迫に満ちた言葉に、目を見張りながら、話を聴いていた。
 「次に、皆が功徳を受けられるようにすることです。それには、一人ひとりと、じっくり対話し、唱題と弘教の実践を教えなければならない。広宣流布の使命に生きることを教えるんです。本当に功徳を受け切って、幸せになっていく道は、それしかありません」
13  人間教育(13)
 山本伸一は、語るにつれて、言葉に力がこもっていった。
 「学会の組織はなんのためにあるのか。広宣流布のためであり、それは、皆さんに功徳を受けてもらい、幸せになってもらうことが目的です。そのための学会活動です。これが一切の根本であることを忘れてはならない。
 功徳を受ければ、御本尊の偉大さ、題目の力のすごさを、心から実感します。歓喜がみなぎり、信心への確信が深まります。
 そして、それぞれの功徳の体験を互いに語り合い、その喜びと確信を共有し合っていくんです。功徳の体験を積み、確信を深め、信心の喜びがあれば、おのずから人に仏法を語っていきたくなります。その実践が、さらに歓喜を倍増させていきます。
 したがって、大ブロック強化のポイントは、結論すれば、大ブロックのなかで、どれだけの人が功徳を受け、人間革命でき、歓喜しているのか、ということなんです。
 具体的に言えば、座談会で、『どなたか、功徳の体験を語っていただけませんか』と聞いた時に、皆が『はーい』と言って、こぞって手をあげ、われ先に体験を語ろうとするような大ブロックこそ、本当に強化された組織なんです。それは、統監の数字を見ているだけでは、わかりません」
 最高幹部たちは、意外な思いがした。
 彼らは、「大ブロックの強化」がテーマであったことから、伸一は、重層的な担当幹部の配置や、大ブロック幹部、ブロック幹部の定期的な研修会の開催などについて、語るのではないかと考えていたのである。
 もちろん、それも大事なことだ。しかし、そうした組織の制度的な対応に目を向ける前に、伸一は、何が組織活動の活力源であるかを、人間という原点に立ち返って、明らかにしておきたかったのである。
 人間の心こそが、すべての原動力である。ゆえに、その心が、赤々と燃えているかどうかに目を向ける――そこに、人間主義の指導者の視点があるのだ。
14  人間教育(14)
 「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」
 創価教育の父・牧口常三郎の叫びである。
 子どもが幸福になるための教育――そこにこそ、教育の根本目的がある。
 一九七七年(昭和五十二年)二月六日夕刻、山本伸一は、東京・信濃町のレストランで、創価学園生の代表と夕食を共にし、懇談した。
 伸一は、武蔵野の大地で、心身両面にわたって磨き鍛え、たくましく育ちつつある鳳雛たちの英姿に、目を細めながら、彼らの話に耳を傾けた。
 寮生活の模様などを、頬を紅潮させて語る彼らの顔には、希望があふれていた。未来に巣立つ使命を自覚し、生徒と教師が一体となって切磋琢磨し合う、学園の人間教育の様子が伝わってくるようであった。
 しかし、社会では、一九七〇年代前半から、授業についていけない子どもの急増や、遊び場の不足、子どもの骨折、胃潰瘍などの増加が問題となっていた。
 当時の文部省の教育課程審議会は、七六年(同五十一年)十二月、三年間にわたる審議をまとめ、答申を行った。そこでは、「ゆとりのある、しかも充実した学校生活」の実現をめざす必要性が強調され、教材や授業時間の削減を打ち出していた。この答申を受けて、文部省は、学習指導要領の改訂に取りかかっていくことになるのである。
 伸一は、そうした教育界の動きを見つめながら、未来を思い、思索をめぐらしてきた。
 ″現状を見すえ、制度を改革していくことは、当然、必要である。しかし、それ以前に、子どもたちに、なんのための学校か、なんのための勉強かを自覚させ、一人ひとりの、やる気を引き出していく教育をめざすことこそ、最も大切なテーマではないか。
 子どもの自主的な挑戦の心を育まずしては、ゆとり教育は、深刻な学力の低下を招きかねないからだ。
 そして、そのやる気を引き出していくのは、教師という人間の力によらざるを得ない″
15  人間教育(15)
 山本伸一は、創価学園生との懇談に続いて、第一回となる東京教育部の勤行集会に出席しようと思っていた。現代の教育の問題点を考えるにつけ、教育部の使命が、いかに大きく、重いかを痛感していたからである。
 教育部が誕生したのは、伸一の会長就任一周年に当たる一九六一年(昭和三十六年)五月三日の本部総会の席上であった。
 教育部は、創価学会の源流を継承する部である。学会の前身である創価教育学会は、初代会長の牧口常三郎が、未来の宝である児童・生徒を救いたいとの思いから、教育の改造を掲げて立ち上がり、『創価教育学体系』を発刊したことから始まっている。当初、その構成員の多くは、教育者であった。
 教育部が、この牧口の教育思想を受け継いで、教育現場にあって、子どもの成長を図っていくなかに、社会の繁栄もある。
 ゆえに伸一は、教育部員の育成に全精力を注いできた。
 教育部の総会と聞けば、万難を排して出席した。出席できない時には、万感の思いと祈りを込め、メッセージを書き、贈った。
 また、六四年(同三十九年)には、何回かにわたって、代表に「法華取要抄」の講義も行った。
 教育部員は、一騎当千の勇者であり、社会を変革する大きな使命をもっている――これが、彼の確信であった。
 社会は、人間が創り上げた有機体である。であるならば、そこに生きる若き魂をどう育て上げていくかで、社会の明日も、世界の未来も、決定づけられていく。ゆえに、教育こそ、人類にとって、最も力を注ぎ込むべき大切な事業といってよい。
 そして、学校教育において、子どもたちに最も強い影響を与える、最大の教育環境こそ、教師という人間の存在である。牧口は、「教育の改造における根底は教師」と明言している。つまり、教師が、自らを、いかに磨き、向上させていくかが、社会建設の最も重要な課題となるのである。
16  人間教育(16)
 教育には、教育理念が必要である。二十一世紀の建設のためには、国家や民族の枠を超え、生命の尊厳観に立脚した、世界市民としての新しいモラル、新しい教育理念が確立されなくてはならない。それがあってこそ、教育の大道は開かれるのである。
 法華経には、「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん)とある。
 仏は、すべての人間の生命に内在する仏界という無限の可能性を開き、万人を平等に、仏自身と同じ境地、境涯にしていく。そこに仏の使命があると説いているのである。
 山本伸一は、ここにこそ、「人間教育」の原理があると確信していた。
 教育の目的は、機械を作ることではなく、人間形成、つまり人間をつくることにある。 人間――なんと偉大な存在であろうか。一切の文化の創造の源であり、その生命の内奥には、計り知れない可能性が秘められている。それを引き出し、磨き上げ、完成へと導き、子ども自身の幸福と社会の繁栄を築いていくのが「人間教育」である。
 伸一は、大学紛争の火が燃え盛り、教育の荒廃が露呈し始めたころから、「人間教育」の推進こそ喫緊の課題であることを、叫び続けてきた。
 さらに、一九七一年(昭和四十六年)の年頭、教育部の集いに贈った長文のメッセージのなかでも、人間教育の必要性を強く訴えたのである。この年は、牧口常三郎の生誕百年であり、創価大学の開学の年であり、教育部結成十周年であった。大学紛争の余燼が、まだくすぶっていた時である。
 「人格を育成することほど、偉大な仕事はない。教育こそ、新しき世紀の生命であります。実に今日ほど、教育の重要性が叫ばれる時代はありません。
 かつては、国家主義的な教育が一世を風靡した。それが今、ことごとく挫折し、人間教育に視点があてられるようになりました。人間としていかにあるべきか――これが今日の最大のテーマとなっております」
17  人間教育(17)
 山本伸一は、メッセージのなかで、現状の教育の問題点を、鋭く指摘していった。
 「教育の挫折は、文明の崩壊であり、はたまた、人間自身の敗北につながります。現代の多くの指導者は、未来をいかに築き、何を与えていくかという大局観に乏しく、目前の利害、打算に汲々としております。
 また、人間と環境の生きた関係に目を閉ざし、個々の多様な鼓動に耳をふさぎ、真実の生命の心音を聞こうとしない。かつての国家主義的教育と同じく、人間を機械の部品のごとくみなす虚構の教育になっております。こうした教育に、鋭い、潔い、青少年の心がついていけるはずがない。ここに、断絶の時代といわれる現代の迷妄があるといってよい」
 さらに彼は、人間教育を推進する教育者の在り方を述べていったのである。
 「人間教育の核心となるものは、まず教育者自身が、人格を錬磨して成長することにあります。青少年と向き合った関係ではなく、共に成長して未来を志向していくなかに、教育の実が上がっていくことでありましょう」
 「皆さんは、人間教育の旗手であります。そのことは同時に、人間文化の旗手でもあるということになります。偉大な人間把握の哲理こそが、新しい教育と文化の淵源となっていくことは、必定でありましょう」
 伸一は、このメッセージを書き終えると、十年後に思いを馳せた。
 ″人間教育の使命に燃える教育部員の、体当たりの実践と不断の研鑽があるならば、教育改革の突破口を開くことができる。それは、日本の未来に、大きな希望の光をもたらすにちがいない。教育部の、この十年の歩みが、日本を救うといっても過言ではない……″
 さらに彼は、二十年後、三十年後、四十年後の未来を思った。
 ″やがては、創価大学の卒業生のなかからも、陸続と教育者が誕生し、教育部も、一段と充実していくだろう。そして、生命尊厳の哲理に根差した創価の人間教育は、世界の大潮流となっていくにちがいない″
18  人間教育(18)
 「人間教育」を叫ぶ、一九七一年(昭和四十六年)年頭の山本伸一のメッセージに、教育部は、勇んで立ち上がった。
 そして、八月二日、教育部は、牧口常三郎の生誕百年と結成十周年を記念する第七回総会を開催し、「人間教育の実践」への、新たなスタートを切った。
 この総会にも、伸一はメッセージを寄せ、教育の現状に、警鐘を鳴らした。
 「近代化の名において知識重視の教育へと偏向し、肝心の人間能力の開発が、生存競争への適応をめざして進められたことは、よく指摘されます。しかし、その奥に〈教育の無責任化現象〉ともいうべき、〈投げやり方式〉の横行が見られる。
 それに流されるか、革命するか、これこそ、現在の中心課題であると思えます。
 人間主義の教育樹立とは、まさに、それに対する〈教育の使命と権利回復の叫び〉であります。慈悲と対話に潤う人間建設の教育へと開眼した皆さんの、深い英知とたゆまぬ情熱と、そして、その見事な連帯ある実践に期待してやみません」
 教育の改革といっても、結局は、教師自身の生き方の問題となる。人間革命があってこそ、教育革命もあるのだ。
 七三年(同四十八年)には、教育部は、「社会に開いた教育部」「教壇の教師から地域の教師へ」とのモットーを掲げ、地域貢献へのさまざまな試みを開始していった。
 教育部の活躍に大きな期待を寄せる伸一は、主要な催しには、永遠の指針となる長文のメッセージを贈るとともに、教育部の代表と、しばしば懇談を重ねてきた。
 メンバーは、そうした伸一の指導、激励に触れるたびに、人間教育の体現者たろうと決意を固め、試行錯誤を重ねながら、体当たりで、教育に取り組んでいった。
 さらに、地域社会に貢献しようと、さまざまな取り組みを開始した。社会のために、自分に何ができるかを問い、行動していくところから、新しき創造の力が生まれる。
19  人間教育(19)
 教育部有志によって始まった教育相談室も、社会貢献の大きな実績をあげていった。
 この教育相談室は、一九六八年(昭和四十三年)九月、山本伸一が教育部の代表らと懇談した折、特別支援教育に携わる杉森重代という女性教育者に、「その経験と力を、地域、社会に、生かしていくことはできないか」と提案したことから始まっている。
 そして、準備を重ね、十人余の有志で、不登校や言語障がい、夜尿症、情緒不安定等々の問題に悩む子どもと、その家族のために、無料の教育相談室を開設したのである。
 当時、そうした教育相談が受けられる公的機関の数は少なかった。私的な機関もあったが、経済的な理由から、あきらめざるを得ない人もいた。
 人間主義とは、一番困っている人の立場、庶民の目線に立つことから始まるのだ。
 相談室は、毎週一回、開かれた。相談員は、学校での仕事を終えてから、子どもの問題で悩んでいる人の力になりたいと、食事もそこそこに、勇んで駆けつけてきた。
 相談室では、心理検査や、児童・生徒、および保護者へのカウンセリング等が行われ、好評を博していった。回を重ねるごとに、相談希望者は激増した。
 相談室を担当する教育部員は、研修会も開催し、カウンセリング技術の向上や人間洞察などの研鑽に努めた。苦闘の連続であったが、皆、日ごとに力をつけていった。
 さらに、幅広く、さまざまな問題の相談にのる一般教育相談も行われるようになり、教育相談活動は、全国に広がっていった。
 「この子らと生きる喜びを!」
 それが、活動のスローガンであった。
 ″一人を大切にし、どこまでも、個人に光を当てた実践活動を行おう。そこに、真の生命尊重の教育の実現がある″
 メンバーは、一人ひとりの子どものために、親身になって力を注いだ。見返りを求めてのことではない。信仰者としての使命感と、良心の発露からの活動であった。
20  人間教育(20)
 教育部有志による、地域、社会での人間教育運動は、多彩に展開されていった。
 ――学校の授業についていけない子どももいる。しかし、ほんの少しの配慮があれば、理解でき、伸びていく子は少なくない。
 そうした観点から、土曜、日曜を使って、学校の授業が理解できずに悩んでいる小・中学校の児童・生徒のための学習指導も、千葉県の習志野市などで実施された。それは、「希望教室」と名づけられた。
 集まって来た時の子どもたちは、どことなく浮かぬ顔で、自信がなさそうであった。しかし、皆、わかるようになりたいのだ。
 一人ひとりが、どこで行き詰まっているかを探りながら、教えていくと、急に子どもたちの目が輝いてくる。理解する手がかりがつかめたのだ。
 やがて、目に見えて表情が明るくなり、口元には、微笑みが浮かぶ。
 理解することで、学ぶ喜びを味わわせることも、この教室の大きな狙いである。そこから、自発的、能動的に学ぶ意欲が湧いてくるようになるからだ。
 また、戸田城聖が、かつて私塾・時習学館で行った創価教育法の具体的実践を、継承、発展させようと、東京・墨田区や千葉県の柏市などでは、「時習学館運動」も始められた。
 数学には、戸田の推理式指導算術方式が用いられ、作文では、類文指導方式が取り入れられた。牧口常三郎、そして、戸田城聖の教育理念や教育技術を現代に応用し、子どもの多様な可能性を開き、価値を創造していける人格を育もうとの試みである。
 さらに、幼児・児童の情操を培うために、人形劇、影絵の公演などを行う有志のグループもあった。このほかにも、書道・絵画・手芸・音楽教室など、さまざまな取り組みがなされていったのである。
 異体同心の団結とは、一人ひとりが心を同じくして、緻密に連携を取り合いながら、自主的に、それぞれの能力を出し切っていくことだ。そこに勝利の道がある。
21  人間教育(21)
 躾など、子どもの人間形成の基盤は、家庭にある。学校に通うようになってからも、子どもは、家にいる時間の方がはるかに長い。
 したがって、「家庭で、どのような教育がなされているか」「父親や母親が、いかなる教育観、家庭観をもって、子どもと接しているか」が、子どもを育てるうえで、極めて大切になる。
 また、地域が及ぼす子どもへの影響も大きい。つまり、学校、家庭、地域という三者が、連携し、協力し合っていくなかに、よりよい教育環境がつくられていくのである。
 教育部では、子どもの学力や躾などについて悩む地域の父母と共に、具体的な解決の道を探し、子育てについての希望と自信をもってほしいと、一九七二年(昭和四十七年)から、「父母教室」を開いていった。この教室が、子育ての啓発になり、また、父母と教師との、心の″溝″を取り除く契機となることも願っての開催であった。
 「父母教室」では、親と子の関係の在り方などをテーマに、講演や、質疑応答、懇談等が行われた。
 この「父母教室」は、当初、教育部の有志が、地域貢献のために何かできないかと考え、「母親教室」として始めた催しであった。
 その一人に、東京・中央区の団地に住む萩野悦正という、東京都の小学校の教員になって六年目を迎えた青年教師がいた。
 彼は、教員であることから、よく近所の母親たちに、子育ての相談をもちかけられた。そのなかで、躾や教育について、深刻に悩んでいる親が、予想以上に多いことを知った。また、「子育てについて、母親にアドバイスをしてもらえる″教室″を開いてほしい」との声もあった。
 人びとの声に耳を傾け、その要請に応えていくことから、社会建設の第一歩が始まる。
 自分が地域のお役に立てるのなら、喜んでやらせてもらおう!″
 萩野は、地域への恩返しのつもりで、引き受けることにした。
22  人間教育(22)
 萩野悦正は、「母親教室」を開催しようと決断したものの、″どうやって地域に呼びかけるか″″会場は、どこにすればよいのか″″内容は、どうすればよいのか″など、戸惑うことだらけであった。
 最初は、ポスターやチラシを作るのも、それを貼ったり、配ったりするのも、萩野自身がやらなければならなかった。奮闘する彼の姿を見て、地域の人たちも手伝ってくれるようになった。チラシなどの印刷を引き受けてくれる人もいた。
 「母親教室」には、数十人の母親が参加した。彼は、子どもを伸ばす上手なほめ方や叱り方などについて講演した。
 ――子どもが、叱られると思っている時に叱るのは、下手な叱り方である。逆に反感をいだかせてしまうこともある。叱るというのは、大人の感情をぶつけるのではなく、子どもに反省させる心をもたせることである。
 「だめな子なんていません」というのが、萩野の教師としての、仏法者としての確信であった。彼は、自分の体験を交え、懸命に語った。顔中が汗だらけになった。質問も受け、懇談の時間ももった。大好評であった。
 「母親教室」は回を重ねていった。開催日は、日曜や祝日であったことから、父親も参加したいという要望が寄せられた。そして、「父母教室」となったのである。それが、教育部の有志によって、各地で開催されるようになり、その後の教育セミナーや家庭教育懇談会となっていくのである。
 萩野の入会は、一九六一年(昭和三十六年)春のことである。高校を卒業したものの、将来の進路が定まらずにいた時、友人の母親の紹介で信心を始めた。
 入会を契機に大学進学を決意し、東京学芸大学に進んだ。学生部員として活動に励むなかで、万人が「仏」の生命を具え、無限の可能性をもっていることを説く仏法に、深く共感していった。そして、教職に就いて、子どもたちの可能性を引き出したいと思うようになっていったのである。
23  人間教育(23)
 一九六七年(昭和四十二年)、萩野悦正は、念願の教員となった。
 二度目に赴任した都心の小学校で、六年生を担任した。一クラスしかなく、児童は二十人である。低学年の時から、「手がつけられない」と言われてきたクラスだった。
 花壇の土を屋上から商店に投げつけたり、徒党を組んで低学年いじめもする。机とイスで教室にバリケードをつくる。音楽の時間に太鼓の皮を叩き破り、楽器を次々と壊す。数人でデパートに行って万引し、店員に見つかると、他校の名前を言うのだ。
 前任の担任教諭は、悩み抜いた末に、転勤の道を選んだ。
 萩野は、不安を感じ、迷い、悩んだ。″経験の浅い自分に、このクラスの担任という大役を果たすことは、無理かもしれない……″
 その時、山本伸一の、少年少女は「人類の宝」「世界の希望」という言葉を思い起こした。
 ″そうだ。みんな、未来を担う尊い使命をもって生まれてきたんだ。その宝の子どもたちに、だめな子なんているはずがない。一人ひとりが、すごい使命をもっていることを教えてあげるのが、私の役目だ″
 心に光が差し込む思いがした。その日から、児童一人ひとりを思い、唱題を開始した。
 しかし、授業中、勝手にしゃべりだす子や、後ろを向いてしまう子が、後を絶たなかった。いじめにあい、学校を休む女の子もいた。その子には、励ましの手紙を書いた。
 萩野は、どんなことが起きても、子どもたちを信頼しようと心に決めていた。強く叱ることは、絶対にしなかった。児童と信頼の絆で結ばれずしては、叱っても、何もよい結果など生まれないからだ。
 フランスの詩人エリュアールは謳った。
 「わたしの生きかたのすべてのうちで 信頼こそが もっともすばらしい」
 唱題に力がこもった。心のゆとりが生まれた。物事を前向きに見る目が開かれた。
 ″荒れているのではない。わんぱくなのだ。エネルギーがあり余っているのだ″
24  人間教育(24)
 どうすれば、児童のエネルギーを、正しく発散させられるか――萩野悦正は考えた。
 そして、休み時間と放課後を使って、徹底してドッジボールをさせた。男女の対抗意識が強いことを利用し、男女に分け、闘魂をぶつけ合わせた。児童のエネルギーは、次第にドッジボールに注がれるようになった。萩野も、女子のグループに入って戦った。
 体育の授業の時には、準備体操として、走って校庭を三周した。それも、校庭の周りにある、ジャングルジムや鉄棒などを、すべて使って走るのだ。体育の授業が終わると、皆、へとへとになった。あり余るエネルギーが発散されるとともに、仲間意識が出て、クラスは落ち着きを取り戻していった。
 秋には、六年生の代表が出場する区の陸上記録会がある。萩野の学校は、児童数が少ないため、ほとんどが選手として参加することになってしまった。放課後、猛練習を開始した。みんな、よく耐えた。
 大会では、なんと、一人の児童が百メートル走で一位になった。走り高跳びで二位になった子もいた。皆が大奮闘し、男子のリレーでは、参加校二十六校中六位となった。
 「二十人しか六年生がいない学校が、これほど好成績を収めたことなど聞いたことがない」と、校長も、教師たちも、喜んでくれた。
 努力することで何かを勝ち取った喜びは、大きな自信となる。一つの勝利が、すべての勝利の突破口となり、バネとなるのだ。
 子どもたちのなかから、今度は、私立中学の受験にも挑戦したいという声があがった。
 ″学力は、決して高くないクラスである。陸上記録会のようにうまくいくのか……″
 子どもたちは、自信満々に言った。
 「陸上記録会でも勝てたんだから、頑張ればできるよ。受験も同じさ」
 休み時間も惜しみ、勉強する子も現れた。
 萩野は、″毎日でもプリントを作って応援するぞ!″と心に決めた。わからないところがあれば、放課後も残って教えることにした。
 受験希望者は、皆、燃えに燃えていた。
25  人間教育(25)
 二月の中学入試を迎えた。萩野悦正のクラスの子どもたちは、短期間だが、真剣勝負で勉強に励み、いかんなく力を発揮した。
 数日後、合格の報が次々に入った。私立中学に八人が受験し、七人が合格したのだ。毎年、一、二人しか合格者のいなかった学校にとって、画期的な出来事となった。
 また、学芸会が近づいた時のことだ。子どもたちから、「今まで、迷惑をかけてきた先生や、お父さん、お母さんに、ぼくたちの成長した姿を見てもらうために、何かやりたい」という声があがった。メロスとセリヌンティウスの信義と友情を描いた、太宰治の名作『走れメロス』を劇にし、上演することになった。シナリオは萩野が書いた。
 子どもたちは、大道具や小道具も、自分たちでどんどん作り、練習にも熱がこもった。
 学芸会当日は、熱演のあまり、メロスがセリヌンティウスの頬を、本気で、場内に響くほど強く、殴ってしまう一幕もあった。
 迫真の演技に、会場のあちこちから、すすり泣きが漏れた。それは、子どもたちが、かくも成長した姿に対する感動の涙であった。
 卒業式の数日前、謝恩の式が開かれた。オルガンの調べをバックに、子どもたちが一人ずつ、思い出を述べた。
 学校で怪我をした時、養護の先生に看病してもらった喜びを語る子。学校を病気で休んでいた時、ケンカ友だちまでが交代で見舞ってくれたことが嬉しかったと語る子……。
 さらに、みんなの口から、「萩野先生、本当にありがとう!」と、感謝の言葉が出た。
 誰もが泣いていた。萩野も、ハンカチを目に当てながら思った。
 ″子どもたちを信頼してよかった。やっぱりすばらしい子どもたちばかりだったんだ″
 謝恩の式が終わった。定年を迎える女性校長が、彼に言った。
 「すばらしい謝恩の式でしたね。本当にご苦労様でした。子どもって、あんなに変わるものなんですね。最後になって大事なことを教えてもらった気がするわ」
26  人間教育(26)
 萩野悦正に限らず教育部員は、職場で、地域で、体当たりするかのように、人間教育運動を展開していった。そのなかで、自分たちの運動の具体的な理念を、社会に明示していくことの必要性を感じていた。
 教育部が、地域貢献への取り組みを開始した一九七三年(昭和四十八年)ごろ、社会は「無目標化」の様相を呈していた。
 大学紛争は終息したが、若者も、社会も、めざすべき方向が定まらず、「三無主義」といわれる、無気力、無関心、無責任の風潮が蔓延していた。また、社会との関わりを避け、就職も先延ばしにしようとする、「モラトリアム化」が広がっていたのである。
 いい大学を出れば、いい就職先が待っており、豊かで安定した一生が送れるかのように考えられ、熾烈な受験戦争が展開されてきた。だが、その「いい大学」の頂点に立つ東京大学をはじめ、全国の多くの大学に紛争の嵐が吹き荒れたのだ。
 学生たちは、キャンパスを占拠し、権威化した、″象牙の塔″の暗部を次々と暴き、大学の民主化、さらには、″解体″まで叫んだのである。そして、機動隊の導入、大学立法の成立という、大学の自治の崩壊をもって、紛争は終息を迎えたのである。
 キャンパスは、平穏を取り戻したものの、教育、学問、政治等々への不信が、人びとの心に強く兆し始めた。特に若者の多くは、自分を賭ける目標も見いだせず、疎外感と虚無感をかかえ、自らを閉ざして、精神の暗夜を彷徨しているかのような時代であった。
 それは、教育現場にも、影を落とし、「どんな子どもに育てたいのか」という子ども像も、「どんな教師になろうとしているのか」という教師像も失われていた。
 ″無目標化し、めざすべき焦点も定まらないなかで、いかに教育技術を磨こうが、それでは画竜点睛を欠いてしまう″
 教育部の有志は、今こそ、自分たちが立ち上がらなければならないと思った。使命の自覚は、自己に内在する新たな活力を引き出す。
27  人間教育(27)
 教育部の有志たちは、混迷する教育界にあって、未来建設の曙光を注ごうと、人間教育の研究に力を注いだ。
 牧口常三郎の創価教育学説や、戸田城聖の教育実践、教育に関する山本伸一の提言などを学び、意見交換を重ねた。メンバーの胸には、″新しい教育理念を構築し、創価の人間主義を、広く社会に発信していかねばならない″との、使命の炎が燃え盛っていた。
 そのなかで、戸田城聖の生誕七十四年に当たる一九七四年(昭和四十九年)二月十一日、「人間教育研究会」が設立されたのである。
 同研究会は、十一月、東京・小平市の創価学園講堂で第一回人間教育研究発表会を開催した。
 「推理式指導算術の現代数学への応用」「造形感覚をのばし個性豊かな表現力を高める試み」「幼稚園における五歳児の指導」「事例研究・自閉症とみまちがえられる子」のテーマで、専門的に研究・実践を重ねてきたメンバーが、その成果を発表した。
 研究室などにこもっての、机上の研究ではなかった。教育の現場で、汗まみれになりながら、自ら実践を重ね、研究してきた、成果の発表であった。
 「自ら研究する人だけが、本質的に教えることが出来るのです」とは、ドイツの哲学者ヤスパースの至言である。
 この研究発表会には、牧口常三郎の思想研究を続けてきた、アメリカのデイル・ベセル博士も招かれて出席した。
 博士は、人間教育の具体的な実践を展開している「人間教育研究会」の活動に、賞讃を惜しまなかった。そして、「教育とは、教師も児童・生徒も、一個の人間として、自己のもつ力、知恵を最大限に発揮、開発し、共に社会に貢献していこうとする尊い共同作業である」と述べ、教師自身の人間革命をめざす創価の人間教育に、大いなる期待を寄せた。
 さらに、東京教育大学の唐沢富太郎教授が、「現代教育における人間像の考察」と題して講演したのである。
28  人間教育(28)
 教育を蘇生させるには、もちろん制度的な問題の解決も重要である。しかし、一切の根本となるのは、教育の実質的な主体者であり、推進者である、教師自身の人間的成長を図っていくことである。
 学校教育では、教師こそが子どもたちの最大の教育環境であり、教師と子どもの、生命と生命の触れ合い、啓発にこそ、教育の原点があるからだ。
 また、制度的な問題が、どこにあるかを、いちばん実感しているのも、教育現場で懸命に汗を流す教師である。教師は、制度改革を進めるうえでも、最も大きな力となろう。
 ゆえに、教師自身の人生観、教育観、人間観の確立をはじめ、自己変革が、教育改革の極めて重要なカギとなる。
 そこで、教育部のメンバーは、人間教育運動を本格的に推進していくために、教育目的を教育者自らがつくることから着手し、「人間教育運動綱領」の発表をめざしていった。
 メンバーは、まず、大前提となる″次代を担う人間像″を探究することから始めた。
 将来、子どもたちが幸福になり、よりよい社会を築いていくには、どういう人間が求められるのか――何度となく意見交換し、あらゆる角度から検討を重ねるなかで、めざすべき人間像がまとめられた。
 一、生きること自体に喜びを感じて生活できる人間。
 二、他人や自然と共栄できる人間。
 三、自己と環境を常に切り開いていける人間。
 牧口常三郎は、教育の目的を、豊かな価値創造をなし得る主体性の形成に置いた。つまり、幸福な人生を生き抜くことができる人間づくりである。その幸福とは、自分さえ幸せであれば、他のことはどうでもよいといった利己的なものではなく、他者との共存という社会的な概念を含んでいる。
 メンバーは、その観点から、何回となく議論し、子どもたちの″未来の人間像″の骨格をまとめ上げていったのである。
29  人間教育(29)
 教育部のメンバーは、三項目にわたる人間形成の目標が定まると、その目標を実現するための、教育者の実践原則の検討に入った。
 やがて、それも、まとまっていった。
 一、生命の尊厳を基本原則とした教育であること。
 二、人間の多様な可能性に対する信頼を基本とすること。
 三、教育者と被教育者との関係性を重視し、人格相互の触発に努めること。
 四、絶えざる価値創造と自己変革の人生を全うすることを、共通目的にすること。
 五、被教育者の能力を的確につかみとって、適切な指導ができる教育者をめざすこと。
 こうした検討のなかで、人間教育運動の基本的立脚点についても、話し合われた。
 そして、あらゆる教育的営為において、人間生命を手段化せず、相対化することなく、人間生命に絶対的価値を認めるべきであることも、合意された。
 また、かつての国家主義的教育のように、人間や教育を組織的・政治的目的の手段とせず、教育は、あくまでも人間それ自体のために、行われるべきであることも確認された。
 さらに、地球上の諸民族は、運命共同体であり、人間共通の「生命尊厳」の自覚に立って、世界平和の実現をめざすことでも、意見の一致をみたのである。
 熱意は創造の母である。教育部員たちの、子どもの幸福を願う情熱が、新しい教育理念を形づくろうとしていたのだ。
 創価学会は、一九七五年(昭和五十年)を「教育・家庭の年」と名づけた。
 その冒頭を飾って、一月の七日、第九回教育部総会が東京・立川市市民会館で晴れやかに開催された。その席上、メンバーが取り組み、積み上げてきた、「人間教育運動綱領」(第一次草案)が発表されたのである。
 それは、目標を失った社会の暗夜に、人間教育の、鮮烈な光を投げかけたのである。
30  人間教育(30)
 山本伸一は、「教育・家庭の年」の出発にあたって、教学理論誌『大白蓮華』一月号に、「教育」と題する詩を発表した。教育部員や父母はもとより、人間を育成しようとする、すべての人たちに指針を示し、励ましを送りたかったのである。そこに、こう詠った。
 子どもはわが所有物ではない
 子ども自身が所有者であり ひいては
 人類共有の宝であるという
 尊敬の上に立った教育が
 時代転換のエネルギーとなるからだ
 他人を教育することは易しい
 自己自身を教育することは難しい
 生涯 確たる軌道に乗りながら
 自己を教育していくところに
 人間革命の道がある
 小さな忠告であっても
 人生最大の転機をつくることがある
 気まぐれの冷笑が
 一生癒えぬ心の傷をつくることがある
 教育 指導の第一歩は
 細やかな心遣いから始まる
 そして、詩のなかで、教育実践の基本となる具体的な在り方を、次のように記している。
 一人の人を大切にしよう
 一人の人の悩みを聞こう
 一人の人の苦しみを引き受けていこう
 それが最大の教育であり
 学会草創の基本精神であることを忘れまい
 それは、伸一が、何度となく訴え、徹底してきた学会のリーダーの姿にほかならない。いわば創価学会とは、人生の教師育成の場であり、学会の歩みそれ自体が、人間教育運動となっているのだ。
 仏法という人間革命の法理は、究極の教育哲理であるといってよい。
31  人間教育(31)
 教育部の人間教育運動の、推進力となってきたのは、青年教育者たちであった。
 教員の世界では、経験年数がものをいい、若い教師が、ベテランの教師と自由に意見を交換したり、一つの物事の責任を全面的に任されることは少なかった。だからこそ、学会の教育部では、青年教育者を前面に出し、情熱に満ちあふれた若い力と、柔軟な英知を大切にしようと努めてきた。
 それは、山本伸一の意思であり、信念であった。青年が伸び伸びと力を発揮してこそ、新しい前進があるからだ。ゆえに、彼は、教育部の中心者にも、青年を登用していた。
 青年教育者は、教師としての経験に乏しいだけに、未熟な面もあろう。しかし、伸一は、彼らのもつ高い志、未来性、向上心、一途な情熱に、満腔の期待を寄せていたのだ。
 牧口常三郎と親交があり、国際連盟事務局次長も務めた教育者・新渡戸稲造は、青年時代の思想について、こう評価している。
 「世の中の慾即ち名誉も富貴も知らない清浄無垢の青年時代に起る思想が最も貴い」
 また、牧口は、自分の考える教育改造の担い手は、青年であると断言している。
 「斯やうなる大生活改革は、所詮、純真にして真理を需め、正義の為め、国家のためには、敢然として闘ふだけの気概ある青年教育家にあらざれば、てんで相手にされぬものであらう」
 一九七五年(昭和五十年)の年頭、青年教育者たちから、声が起こった。
 「今年は、『教育・家庭の年』だ。今こそ、青年教育者が立ち上がり、本格的な人間教育運動の大波を、日本中に起こしていく年ではないか!」
 そして、三月、静岡での教育部春季講習会の折、全国の代表二千人が集い、満を持して、初の青年教育者大会が開催されたのである。
 伸一は、嬉しかった。はつらつと使命に燃えて、新しき時代を築こうと奮闘する青年の姿ほど、尊貴なものはないからだ。
32  人間教育(32)
 山本伸一は、初の青年教育者大会には、ぜひとも出席し、心から祝福し、励ましを送りたかった。しかし、大会当日の三月二十九日は、環境問題の世界的権威で西ドイツのボン大学名誉教授である、ゲルハルト・オルショビー博士や、ウガンダの駐日臨時代理大使夫妻との会談などが入り、スケジュールは、ぎっしりと詰まっていた。
 そこで、大いなる期待と万感の思いを込めて、メッセージを贈ったのである。
 青年教育者大会の会場には、メンバーの決意を託した「人間教育運動を青年教育者の手で」と大書きされた文字が掲げられていた。
 担当の幹部が、伸一のメッセージを伝えた。
 「二十一世紀まであと二十五年――その未来世紀をいかなるものとするかは、皆さんの手中にある。皆さん方の教え子が築きゆく時代だからであります」
 烈々たる伸一の思いがほとばしっていた。
 「教育は、未来創造の、歴史の方向を決める地下水脈のようなものでありましょう。現在、行われている教育の姿に、未来の輪郭はあるといってよい。あえて言えば、深まりゆく危機の時代の突破口は教育にあり、と私は訴えたい。その意味で、皆さんの使命と責任は極めて大きいのであります」
 その呼びかけは、深く参加者の胸に突き刺さった。メンバーは、この日、人間教育運動を推進していくうえでの基本姿勢を、「青年教育者宣言」として発表した。
 「一、我々は、教育者自身の変革こそ、教育の第一歩であると考え、自己のエゴイズムと傲慢を克服する。
 二、我々は、いかなる児童・生徒に対しても、その可能性を信じ、決して希望を失わず、指導の手を差し伸べる。
 三、我々は、教育者としての資質を高めるため、互いの教育経験を交換し合い、真摯な研鑽を重ねる」
 この基本姿勢のもと、青年たちは、体当たりで教育実践を開始した。自らが太陽となって、学校に、地域に、希望の光を送っていった。
33  人間教育(33)
 一九七五年(昭和五十年)の八月、山本伸一は、連日、各部の夏季講習会等に出席し、生命を振り絞る思いで指導を重ねていた。
 十二日には、教育部のメンバーが参加し、創価大学で夏季講習会が行われることになっていた。伸一は、「教育・家庭の年」である今年は、教育部の講習会には、必ず出席しようと、心に決めていた。
 前日の十一日、伸一は、静岡から創価大学に到着した。この日、彼の体調は優れなかったが、婦人部の夏季講習会の全体集会に出席し、参加者の指導にあたった。
 創価大学には、翌日の教育部夏季講習会の準備のために、同部の関係者も来ていた。伸一は、教育部書記長の木藤優らを、大学構内にある「万葉の家」に招いた。教育部の代表を励ましたかったのである。
 彼らが中に入ると、伸一は、頭に氷嚢を乗せ、体を横たえながら、大学の理事長の報告に耳を傾けていた。木藤は、伸一と、直接会うのは初めてであった。伸一は言った。
 「こんな格好で申し訳ないね」
 テーブルには、中華料理が並んでいた。彼らのために用意していたものであった。
 「あなたたちは、遠慮しないで召し上がってください。さあ、どうぞ!」
 伸一は、さらに、大学の理事長と打ち合わせを続けた。話が一段落すると、「私もいただこうか」と言って体を起こした。しかし、食欲がなく、ほんの少し食べただけで、箸を置き、木藤に語りかけた。
 「木藤さんは、確か、神奈川県の川崎で、小学校の先生をされていたんでしたね」
 ″山本先生は、自分のことを、知ってくださっている″――驚きを隠せなかった。
 一人ひとりのことを、よく知るということは、人間関係の基本であり、それはまた、教育の基本でもある。人間は、子どもであれ、大人であれ、″自分を、よく知ってくれている″″関心をもってくれている″と感じることによって心を開くのだ。そして、それこそが、信頼関係を結ぶ第一歩となるのである。
34  人間教育(34)
 教育部書記長の木藤優は、入会して十年になる、三十八歳の教員であった。
 一九三七年(昭和十二年)に東京の馬込に生まれた彼は、幼少期に空襲の恐怖を味わい、八歳で終戦を迎えた。翌年、劣悪な食糧事情のなか、母親が病にかかり、他界した。そんな時代を生んだ、戦争を憎んだ。
 彼は、進学校として有名な都立日比谷高校から、横浜国立大学の学芸学部に進んだ。家は貧しく、夜は、小学校の警備員などのアルバイトをしながら、学業に励んだ。
 六〇年安保の時代である。「安保反対!」を叫び、デモの先頭にも立ち、国会を包囲した。しかし、新安保条約は自然承認された。胸にポッカリと穴が開いた思いにかられた。
 ″デモやストライキといった方法ではなく、教育を通して平和への道を探るべきではないか。平和に対する無知や無気力、無関心を、一つ一つ乗り越え、対話を重ねていくことが、平和への確かな道であると思う″
 こう考えた彼は、NHKの「青年の主張」に出場し、自分の考えを訴えた。
 そのころ、大学の友人から、学会の話を聞かされた。「人間革命があってこそ、平和の実現もある。それを可能にするのが仏法だ」と言うのだ。そして、「あなたの言っていることはわかるが、その実現のために、日々、何をしているのか」と問われた。
 答えに窮した。学会の出版物を借りて読んだ。共感できる部分もあったが、入会する気にはなれなかった。宗教になど、頼って生きたくはなかった。
 木藤は、大学卒業後、川崎市の小学校の教員になった。工場地帯の一角にある学校で、煤煙が漂い、粉塵が降ってくることもあった。貧困と闘う家庭も少なくなかったが、人情味は豊かな地域であった。彼は、「一番大変なところに赴任したい」と希望し、この学校に配属されたのである。
 ″子どもたちに、人生を捧げる教師でありたい。日本のペスタロッチになるのだ!″
 木藤は、燃えていた。ただ、燃えていた。
35  人間教育(35)
 木藤優は、やがて、″壁″に突き当たった。担任した五年生のクラスで、学校を抜け出す児童が、後を絶たないのだ。男子二十五人のうち、十五人ぐらいがいなくなってしまうこともあった。捜しに行くと、近くの河原でたむろしていた。
 また、シンナーを吸う子もいた。
 木藤には、″自分は、心理学を学んできた。だから、子どもたちを変えられる!″という自負があった。仕事に情熱を注いだ。
 市の教育研究所の研究員として、教育相談や心理療法の研究にも携わった。
 ほかの先生の宿直も進んで引き受け、宿直室に泊まり込んで、仕事をする日が続いた。
 夜、「ガシャン! ガシャン!」と大きな音がする。見に行くと、窓枠は壊れ、ガラスが散乱し、コンクリートの塊や石が、校舎に投げ込まれていた。悪質ないたずらだ。
 貧しさから空腹に耐えかね、万引する男子児童もいた。警察に引き取りに行き、しばらく自分の部屋で一緒に暮らしたこともあった。
 悪戦苦闘の日々が続いた。彼は疲れ果て、身も心も、ぼろぼろになっていた。
 ある時、一人の女の子が言った。
 「先生は、なんでも相談にのってくれるし、学校中で一番熱心な先生だけど、みんなから嫌われているよ。近寄ると″忙しいんだ。来るな!″っていう目をしているよ」
 教師としての自信が砕け散った。
 ″結局、何もできなかった……″
 かつて、学会員の学友が、「自分の無限の力を引き出していくのが仏法であり、自身の人間革命があってこそ、周囲の人を変えることもできる」と語っていたことを思い出した。
 ちょうど、そのころ、その友人から電話がきた。木藤は友人と会い、入会を申し出た。
 学友の仏法対話は、五年後に結実したのである。下種をすれば、必ず、いつかは実を結ぶ。たとえ、その時は、関心を示さずとも、仏法を語り抜いていくことが大事なのだ。
 「聞法を種と為し、発心を芽と為す」とは、妙楽大師の言である。
36  人間教育(36)
 入会した木藤優の面倒をみてくれたのは、紹介者である学友の母親″イネさん″であった。彼女は、平凡な主婦であったが、幾つもの病を乗り越えた体験をもち、限りなく明るく、仏法への確信に満ちあふれていた。
 その″イネさん″が、木藤に、信心の基本から、根気強く教えてくれたのである。
 彼が、仕事で、会合などに出席できず、深夜に帰宅すると、アパートのドアに、励ましのメモが挟んであった。
 「心配しています。あなたは大事な使命をもった人です。何があっても、負けずに頑張ってください」
 ″イネさん″は、会えば、木藤の話に、じっくりと耳を傾けてくれた。彼が、子どもと上手に関われたことなどを話すと、「そう、よかったね。頑張ったわね」と、わが事のように喜んでくれるのである。また、彼のわずかな変化も見逃さず、「最近、明るくなったね」と、声をかけてくれた。
 木藤は、″イネさん″に接すると、心から安堵することができた。また、自然に元気が出てくるのである。
 ″なぜなのか″と、考えた。
 ――″イネさん″は、自分を心の底から信頼し、全生命を注いで、励ましてくれる。幸せと成長を、本当に願ってくれている気持ちが、びんびん伝わってくる。だから、会えば安堵もするし、元気も出るにちがいない。
 そして木藤は、それこそが、教師として、自分に足りなかったものではないかと思えるのであった。
 ″ぼくは、優れた教師になろうと懸命に努力してきたつもりであった。しかし、子どもたちのことを、皆、尊い使命をもった人なのだと、信じていただろうか。皆を幸福にするのだという一念はあっただろうか……。子どもの心を離れて、有能な教師になろうとしていたのではないか。結局、自分のエゴにすぎなかったのではないか″
 どこまでも、子どもの幸せを願う心こそ、教育の根幹をなす精神といえよう。
37  人間教育(37)
 ″イネさん″から、「教育の心」を学んだ木藤優は、日々、クラスの児童のことを思い浮かべては、唱題に励んだ。そして、次第に子どもたちと心が通い合うようになり、学校を抜け出す子どももいなくなった。クラスは目に見えて変わっていったのである。
 山本伸一は、創価大学の「万葉の家」で、木藤に言った。
 「教育部の活動については、すべて報告を受けています。若いメンバーが、育っていますね。今年の教育部は、よく頑張った!」
 「ありがとうございます。
 先生。八月の下旬に、教育部の代表が、ソ連教育省の招きで訪ソいたします。山本先生が切り開いてくださった教育交流の道を、さらに堅固なものにしてまいります」
 「頼みます。私は、日本のため、世界のために、これからも、懸命に、全世界に教育交流の道を開いていきます。次代を担う子どもたちが、″世界は一つ″だという考えをもてるようにしなければならない。
 教育部の皆さんは、私が開いた道を、世界平和の大動脈にしていってほしい。せっかく全力で道を切り開いても、後に続く人がいなければ、道は、雑草や土に埋もれていってしまう。一つ一つの事柄を、未来へ、未来へとつなげ、さらに、発展させていくことが大事なんです。
 今回、ソ連を訪問するメンバーが、体調を崩したりすることなく、元気に、有意義な交流を図れるよう、祈っています。妻と共に、真剣に題目を送り続けます」
 伸一自身が、体調の優れないなかで、訪ソ団の健康を気遣う言葉に、木藤は目頭が熱くなった。真心とは、気遣いの言葉のなかに表れるものだ。
 懇談は、ほどなく終わった。
 木藤は、この日、なんとしても伸一に、明十二日の教育部夏季講習会への出席を、お願いしようと思っていた。しかし、疲労の極みにある伸一を見ると、口には出せなかった。
38  人間教育(38)
 八月十二日、山本伸一の姿は、創価大学中央体育館の壇上にあった。教育部夏季講習会の全体指導会に出席したのである。
 文化本部長の滝川安雄のあいさつに続いて、伸一が登壇した。
 講習会には、北海道をはじめ、東日本の教育部の代表約二千人が集っていた。
 「教育部の先生方、暑いさなか、本当にご苦労様です!」
 伸一は、まず、参加者の労をねぎらい、強い求道の心を讃えた。
 壇上にいた教育部書記長の木藤優は、伸一の後ろ姿を見ながら、何度も目頭を押さえた。
 ″今日の講習会へのご出席を、お願いするのもためらわれるほど、先生はお疲れであった。それなのに、私たちの心をお酌みになって、出席してくださった!″
 伸一は、用意してきた原稿を見ながら、力を込めて語りかけた。
 「私が最初に申し上げたいことは、この八月十二日を『教育革命』の日と定めて、毎年、皆さんが、なんらかの意義をとどめる日にしていただければ――と提案したいと思いますが、いかがでしょうか!」 
 彼のいう「教育革命」とは、子どもの幸福を目的とし、生命の尊厳を守り抜く、人間教育を実現することであった。その革命は、教師自身の、精神の深化、人格の錬磨という人間革命から始まるのである。
 教育の現状を憂慮し、人間教育の開拓者の決意に燃える参加者は、大拍手をもって、伸一の提案に賛同の意を表した。
 拍手がやむのを待って、彼は話を続けた。
 「戦後三十年を振り返ってみますと、終戦直後の日本には、荒廃と物資の窮乏に悩み苦しみつつも、民主主義という理想に向かう精神が躍動しておりました。
 しかし、経済復興が進み、さらに、物質的豊かさに慣れた今日では、その精神も弱々しく、力を失ってきた感があります。
 そして、それは、教育の世界にも露呈されていると見るべきでありましょう」
39  人間教育(39)
 山本伸一は、本来、最も優先されるべきは「人間」であるにもかかわらず、戦前・戦中は「軍事」が、戦後は「経済」が優先されてきたことを指摘した。そして、この順位を逆転させるには、教育という人間の育成作業から、突破口を開く以外にないと訴えた。
 また、教育は、「未来への対応」であり、伸一自身、それを人生の最終事業と決め、世界の各大学を訪問して対話を重ね、教育の在り方を探究してきたことを述べた。そのなかで、パリ大学ソルボンヌ校を訪問した折、アルフォンス・デュプロン総長が、教育にとって何よりも大事なのは、″よく聞くこと″であると語っていたことを紹介した。
 パリ大学は、ド・ゴール政権を揺さぶることになる、一九六八年(昭和四十三年)の「五月革命」の発火点となった大学である。それだけに、総長の言葉には重みがあった。
 伸一は、講演を続けた。
 「ここでいう″よく聞くこと″とは、学生のなかにあるものを引き出していくという意味でもあります。つまり、言葉による表現から、その奥にある精神の心音を、よく聞いていくということです。今ほど、それが、教育界に必要な時はないと、私は申し上げたい」
 ――「われわれに舌はひとつだが耳は二つ与えてくれた。話すことの二倍、聞くためだ」とは、古代ギリシャの哲学者で、ストア派哲学の祖ゼノンの箴言である。
 「″よく聞く″ためには、教育する側に、それだけのキャパシティー(容量)がなければならない。それは、大海のような慈愛の深みがあってこそ、可能となるのであります。
 あたかも容量の大きなバッテリーは、それだけ多量の充電ができるのと同じように、心に奥行きのある、しかも吸収力と方向性を無言のうちに示す、人格の輝きと力量をもった教師像が望まれているのであります。
 よき聞き手ということは、それ自体が、よき与え手となっていきます。そして、それには、常に、児童・生徒たちと共にいるとの姿勢が肝要なのであります」
40  人間教育(40)
 ここで、山本伸一は、スイスの大教育者ペスタロッチが、身寄りのない子どもたちの教育に取り組んでいた時のことを記した、手紙の一文を紹介した。
 「わたしは彼らとともに泣き、彼らとともに笑った」
 ペスタロッチは、身寄りのない子どもたちと常に一緒にいて、同じ物を食べ、彼らが病気の時は看病し、いつも彼らの真ん中で、共に寝たのである。
 伸一は、訴えた。
 「このペスタロッチの姿勢に、実は教育の基本的な在り方が示されていると思うのであります。もちろん学校教育の場にあっては、子どもたちと、起居を共にすることはできませんが、教育にかける、その情熱は、決して失ってはならない」
 時代、社会の変動によって、教育の方法も変化しよう。しかし、子どもと共にあり、子どもを愛し、断じて守り抜こうとする心は、絶対に変わってはならない。そこに、人間教育の原点もあるからだ。
 さらに、伸一は、めざすべき人間教育とは何かについて、論じていった。
 「人間教育の理想は、『知』『情』『意』の円満と調和にあります。つまり『知性』と『感情』と『意志』という三種の精神作用を、一個の人間のうちに、いかに開花させていくかが課題であります」
 「知」は、ものを知る能力一般を意味し、理性や悟性も、そのなかに含まれる。さらには、情報洪水といわれる現代にあって、与えられた情報という素材を、自分で考え、処理する、高度な認識能力、すなわち思考力といえよう。
 また、「情」は、快・不快を示す気分をはじめ、情緒、情操、激情などであり、いわば、精神の情的側面を意味している。
 「意」は、欲望や本能といった自然的要求に基づくものではなく、明らかな意図に基づいて自己を決定し、なんらかの目的を追求するバネ(発条)となるものをいう。
41  人間教育(41)
 「知」「情」「意」という精神作用を十全に開花させていくには、何が必要か――山本伸一の話は、いよいよ核心に迫っていった。
 「それは、『自己の人間としての向上、完成をめざす主体性』であり、また『すべての人に対する慈悲の精神』であります」
 この二つの支えがあってこそ、「知」「情」「意」は、現にある人間の生活、社会環境を切り開いていく源泉となるのである。
 しかし、古来、″自己の完成″と″他者への慈悲″は、仏法においても、背反するテーマとされてきた。自己完成をめざせば、利己主義に陥ることになり、他への慈愛を追求していけば、自己犠牲に、そして、自己欺瞞に陥りかねないからである。
 このジレンマの繰り返しが、諸宗教の歩んできた足跡ともいえよう。
 伸一は、声を大にして語った。
 「この一体化の大道を開いたのが、法華経哲学であり、日蓮大聖人の仏法であります。宇宙本源の妙法を根源とした時、他への慈悲の菩薩道は、即自己の向上、完成となるのであります。
 『御義口伝』には、″喜ぶ″ということについて、次のようにあります。
 『喜とは自他共に喜ぶ事なり』、また、『自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり』と。この自他一体の原理は、御書に一貫して示されています。
 ここに『知』『情』『意』を開花させ、自身の幸福と社会の繁栄のために寄与しゆく、人間教育の基盤が完成されたのであります。
 皆さんは、この妙法の哲理を持ち、日々、実践行動に励まれている教育者であります。その使命は、あまりにも大きい。
 新しい時代の、新しい軸を確立させるには、新しい力による以外にありません。人間勝利の時代を開く若い力を育てることは、至難の作業であり、棹をもって星を突こうとするようなものだと考える人もいるかもしれない。しかし、だからこそ私は、あえて、それを、青年の皆さんに頼み、託したいのであります」
42  人間教育(42)
 青年を信じることは、未来を信じることである。青年を育むことは、未来を育むことである――ゆえに、山本伸一は、一心に青年を信じ、その育成に、全身全霊を注いだ。
 彼は、場内の青年たちに視線を巡らしながら、こう話を締めくくった。
 「どうか、教育部の皆さんの手で、『教育革命の大情熱の火を点じてください』『未来社会を潤す人間教育の、豊かな水脈をつくってください』と、心からお願い申し上げ、私のあいさつとさせていただきます」
 決意と誓いの大拍手が轟いた。
 この八月十二日は、「教育部の日」となり、教育部が教育本部となった二〇〇二年(平成十四年)には、「教育原点の日」と定められ、創価の人間教育を推進するメンバーの、誓いの日となっていくのである。
 教育部夏季講習会で、伸一の青年への期待を痛感した青年教育者たちは、人間教育運動の先駆となって、若い力をいかんなく発揮していった。
 一九七六年(昭和五十一年)一月六日に行われた第十回教育部総会でも、青年教育者たちの活躍が目立った。
 教育部では、前年から、「人口急増地における児童の生活意識調査」を実施し、この総会で調査結果を発表した。その推進力となったのも、青年たちであった。
 当時、大都市周辺では、盛んに団地の造成が進み、著しい人口の急増を招いていた。そうした地域での、児童の生活意識を調査し、教育の在り方を考えようとの趣旨のもとに、前年五月に、東京の多摩地域、愛知の春日井地域で調査を実施したのである。
 以来、教育部では、「中学生の行動問題に関する意識調査」や「中学三年生に見る戦争と平和の意識調査」なども、各地で実施していった。
 「認識しないで評価してはいけない」とは創価教育の父・牧口常三郎の教えである。子どもの意識を正しく認識し、新しき教育の道を開こうと、皆、懸命に奮闘したのである。
43  人間教育(43)
 青年教育者たちは、自分たちの人間教育運動を知ってもらおうと、第十回教育部総会には、多くの教育関係者を招待した。
 青年たちは、運動を推進していくなかで、子どもたちが生き生きとし、目覚ましい成長を遂げていくのを実感してきた。彼らには、自分たちの運動に、教育の未来を開く確かなる道があるとの、強い確信と誇りがあった。
 その思いの発露が、教育関係者への呼びかけとなっていったのだ。
 また、総会を記念して、青年教育者の人間教育実践の体験談集が、『体あたり先生奮戦記』として発刊されたのである。
 青年たちは、この本を、真っ先に、山本伸一に届けた。伸一は、本を宝前に供え、題目を唱えたあと、ページを開いた。そして、一気に、最後まで目を通したのである。
 そこには、都心の小学校で六年生二十人の担任となり、児童のすさんだ心を一新し、スポーツで、中学入試で、見事な成果を収めた、あの萩野悦正の体験も載っていた。
 また、タバコ、シンナー、万引、恐喝、家出など、非行を重ねる八人の男子生徒に真正面から関わり、皆を更生させ、感動のなかに卒業の日を迎えた、広島県の高校教師の体験もあった。
 家にこもりきりであった五年生の女子児童の自宅に、毎日のように足を運び、心の絆を結び、登校するようになるまでを記した、埼玉県の女性教師の体験も掲載されていた。
 伸一は、妻の峯子に語った。
 「いい本ができたよ。先生方の苦闘と必死さが伝わってくる。みんな、何度も子どもに裏切られた思いをいだき、自信を失い、大きな壁にぶつかっている。それでも、″どの子も使命があるはずだ!″と、自分を鼓舞して、体当たりで突き進んでいった。
 結局は、忍耐であり、執念であり、気迫であり、勇気だ。それは、教育に限らず、すべての分野で勝利する秘訣だ。こうした真剣な教師が、続々と誕生していることが、私は本当に嬉しいんだよ」
44  人間教育(44)
 山本伸一が「教育革命」を誓い合う日にと提案した教育部夏季講習会から一年後の、一九七六年(昭和五十一年)八月十二日には、東京・立川市市民会館で、「青年教育者実践報告大会」が開催された。
 人間教育運動を実践してきた青年たちの体験を、活字ではなく、肉声で伝えようと企画されたものであった。
 この日、五人の代表が登壇。体当たりの懸命な教育実践には、いずれも感動のドラマがあった。なかでも、大きな共感を呼んだのが、岡山県の女子高校の教員である、北川敬美の報告であった。
 ――北川が担任を務める三年生のクラスに、和子という生徒がいた。下宿暮らしで、生活は乱れ、ほかの生徒と喧嘩を繰り返した。
 廊下ですれ違っただけで、「その目つきはなんだ!」と言ってからんだりもする。校則は無視し、パーマをかけ、マニキュアをし、超ロングのスカートで、ぺしゃんこにした鞄を抱えて登校した。
 他の生徒の話では、酒を飲み、タバコはもとより、シンナーなども吸っているという。
 彼女は、手に障がいがあった。生まれつき人さし指と中指が短かった。そのために、何度となく、いやな思いをさせられ、心はすさんでいったのであろう。
 和子のこととなると、どの教師も、お手上げという状態であった。北川の胸は痛んだ。
 ″校則違反を重ね続ける和子は、このままでは、学校にいられなくなる!
 不自由な手という宿命に翻弄されて生きてきた、十七年間の人生は、辛さ、苦しさの連続であったにちがいない。でも、それに負け、いつまでも自暴自棄になっていれば、ますます自分を不幸にしてしまう。その辛苦を補って余りある、幸福な人生を生きてほしい。なんとかしなければ……″
 北川の挑戦が始まった。
 和子の幸せを祈って、懸命に唱題した。
 祈りに裏打ちされた、積極果敢な行動が、事態を開いていくのだ。
45  人間教育(45)
 北川敬美は、″自分は、和子の校則違反を見て見ぬふりをすることはやめよう″と心に決めた。また、心のどこかで、″非行少女″のレッテルを貼るようなことも、絶対にすまいと決意した。
 そして、自分がいつも見守っていること、成長してほしいと心から願っていることを知ってもらうために、毎日、厳しく注意した。
 「ブラウスのボタンを留めなさい」
 「違反の赤い運動靴を履いていたでしょ」
 愛情の発露として受け止めてもらえるか。感情的反発を招き、逆効果になるのではないか――賭けであった。
 最初、和子は、注意を無視した。「先生の顔なんか見たくない!」と言って、教室を飛び出していったこともあった。しかし、毎日、声をかけ続けた。
 徐々に変化の兆しが見え始めた。注意すれば、真っすぐに顔を見るようになった。希望の曙光を見た思いがした。
 だが、ある教科の授業中、体の障がいについて触れた教師の言葉が、いたく和子を傷つけてしまった。教師が謝っても、彼女の心は癒えなかった。
 翌日から、遅刻が続いた。兆し始めたかに見えた信頼の芽も、摘み取られてしまった。 北川は、″もうだめだ!″と思った。
 ″でも、私が見捨ててしまったら、和子はどうなるの!″と、挫けそうになる自分を叱咤し、辛抱強く関わっていった。
 一途に、懸命にぶつかり抜いていくなら、通じぬ真心はない。心を通わせるということは、自身の″あきらめ″との闘いなのだ。
 一月半ば、和子の代理と名乗る人物から、″腹痛で学校を休む″という電話が入った。不審に思い、下宿に電話をしてみると、″学校へ行ったはずだ″と言う。
 心配で、心配で、仕方がなかった。
 翌日、和子は何食わぬ顔で登校してきた。
 話をしたいと言うと、彼女は拒絶した。
 「意味ないよ。先生は指がそろっている。私の気持ちなんか、わかりゃあせん」
46  人間教育(46)
 北川敬美は、和子に、話し合おうと、何度も声をかけた。和子は、「まだ、お弁当を食べていないから」「掃除があるから」と、さまざまな理由をつけて、拒否し続けた。だが、とうとう話し合いにこぎ着けた。
 北川は、同情では、和子は変わらないと思った。彼女のために、皆が、触れないようにしている手の障がいのことも、あえて言おうと心に決めた。でも、それは、人間関係に決定的な亀裂を生むかもしれない。自分の気持ちが、通じるように、ひたすら祈ってきた。
 語らいが始まった。北川は、和子の目を見すえ、意を決して語った。
 「あなたは、自分に都合の悪いことは、全部、その指のせいにしている。いつまで、その指に甘えるつもりなの! 世の中には、大病と闘っている人や、もっと大きなハンディのある人もいる。でも、みんな懸命に生きているのよ。親を恨み、反抗し、他人に当たり散らしても、自分が惨めになるだけよ」
 初め、無視するように横を向いていた和子の顔色が変わっていった。唇を震わせて、膝の上に置いた手を、固く握りしめ、怒りを押し殺している様子であった。
 ″魂を揺さぶるつもりで、思いのたけを語り抜くのだ。中途半端では意味がない!″
 北川は、自分を鼓舞して語り続けた。
 「たとえ、不自由でも、その手があったからこそ、今のあなたがあるんじゃない。あなたは、短い、その指を上手に使って、ノートを取り、箸を使っているじゃないの。心まで不自由になっては、いけないのよ。
 これからは、その手を堂々と人前に出して歩ける自分になろうよ。あなたは、今まで、辛い思いをし、悲しい思いをしてきた分だけ、それ以上に、人の何倍も幸せにならなくてはいけないのよ。クラスのみんなに幸せになってほしいけど、特にあなたには、いちばん幸せになってもらいたいの……」
 和子の目から大粒の涙があふれ、幾筋も、頬を伝って流れ落ち、スカートを濡らした。
 外は、既に夕闇に包まれていた。
47  人間教育(47)
 ″さあ、これからだ!″
 翌日、北川敬美は、自分に言い聞かせ、学校に行くと、和子が職員室に来た。
 「先生、昨日は、すみませんでした」
 照れくさそうに言い、そっと、手紙を置いていった。北川は、すぐに目を通した。
 「私は、先生の期待をいっぱい裏切ってきました。先生に反抗したことも、数え切れないほどです。それでも先生は、今日の今日まで、私を信じ、本当に心配してくださいました。先生が、人の何倍も幸せになってほしいと言われた時、とっても嬉しかったのです。
 こんな私ですが、そばにいて、私を叱ってください。私は、初めて思いました。私のことを本当に心配してくれる人が、親のほかにいることを。私は嬉しいんです。先生に出会えて本当によかったと思います」
 以来、和子は変わっていった。明るい笑顔を、よく目にするようになった。クラスメートとの間にあった、厚い壁も取れていった。 遂に迎えた卒業式の日。北川は和子に、「幸せになるのよ」と言って送り出した。
 明くる日、和子は、また、長文の手紙を届けに来た。そこには、彼女の尽きぬ感謝の思いと、決意が綴られていた。
 北川と和子との交流は、卒業後も続くことになる。和子は、その後、看護師をめざし、病院で働きながら高等看護学校に通い、見事に夢を実現していく。手の障がいに負けることなく、明るく、生き抜いていく。
 使命のない子など、誰もいない。皆が尊き使命の人なのだ――その不動なる確信に立つことこそ、人間教育の根幹といってよい。
 ――北川をはじめ、青年教育者たちの教育実践は、やがて、『体あたり先生奮戦記・第2集』に収録され、出版される。それを目にした山本伸一は、若手教師の奮闘に、創価教育の脈動を見る思いがした。
 彼は、深い、祈りを捧げた。
 ″青年教育者に栄光あれ! そして、和子さんをはじめ、若き教師らの教え子たちよ。強くあれ、幸福であれ、人生の勝利者たれ!″
48  人間教育(48)
 一九七七年(昭和五十二年)二月六日、東京・信濃町で創価学園生と懇談した山本伸一は、午後七時半、創価文化会館内の広宣会館で開催されている、東京教育部の第一回勤行集会に向かった。
 彼は、二十一世紀を「平和の世紀」「生命の世紀」「人間の世紀」としていくうえで、教育の担う役割の大きさを痛感していた。
 それだけに、話しておきたいことはたくさんあったが、今日は、根本の信心の在り方について、語ろうと思っていた。
 伸一が会場に到着した時には、予定されていた式次第は、ほぼ終わっていた。彼が姿を現すと、大きな拍手と歓声が起こった。
 「こんばんは! 寒いところ、ようこそ、おいでくださいました!」
 彼は、こう呼びかけ、皆と一緒に題目を三唱すると、用意されていたテーブルとイスを、もっと前へ移動するように言った。
 「皆さんのなかに入り、懇談的に話をしたいんです。皆さんも、前に来てください」
 皆が、伸一を取り囲むように座った。
 「二十世紀の大きな出来事の一つは、人類の宇宙飛行といえるでしょう。八年前(一九六九年)、アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功し、人類史上、初めて月面に降り立った、アームストロング船長の、『この一歩は一人の人間にとっては小さなものだが、人類にとっては偉大な躍進だ』との第一声を、皆さんも、よく覚えていると思います。
 次元は異なりますが、それは、私どもの日々の前進についても言えます。広宣流布のための一つ一つの勝利は、小さなことのように思えるが、人類の恒久平和と幸福を築く、前人未到の一歩一歩です。そこから、人類史を画する新しい歴史が始まるからです。
 さて、このアポロ11号は、サターン5型ロケットの先端に取り付けて、打ち上げられています。
 そのロケット開発の指導にあたってきた立役者こそ、″ロケットの父″とも言われる、フォン・ブラウン博士でありました」
49  人間教育(49)
 山本伸一は、フォン・ブラウン博士について語っていった。
 ――フォン・ブラウンは、一九一二年(明治四十五年)に、ドイツ東部のビルジッツ(現在のポーランド内)に生まれ、少年時代に宇宙旅行への夢をいだく。
 「博士の偉大さは、宇宙旅行を可能にするためのロケットを開発しようと心に決め、生涯、それを貫いていったことにあります。
 十二歳の時には、車に花火を取り付けたロケットの実験を行って大騒ぎになり、父親から激しく叱られる。しかし、彼は、あきらめずに、ロケットの実験を重ね、そのたびに、大目玉をくらいます。
 数学や物理学は落第点であったが、それがわからないとロケットの設計ができないことを知ると、猛勉強を開始します。やがて、大学を卒業し、ロケット開発の仕事に携わるようになります。
 宇宙旅行という、博士の大きな夢を実現させる力となったのは、何があっても、絶対にやめないという、この″貫徹精神″にあります。決してあきらめずに、命の限り突き進む執念――それこそが、成功の母であり、勝利の原動力となっていきます」
 時代は、ナチスによる暗黒の嵐が吹き荒れていた。博士も、その烈風に翻弄されることになる。
 ロケットの開発研究を行うには、ドイツ軍の仕事に従事するしかなくなっていった。
 そのなかでも、彼は、宇宙旅行のためのロケット開発の夢を捨てなかった。
 ″自分の目的は、ロケット兵器の開発ではない。宇宙旅行を実現することだ″
 博士は、胸の思いを口にした。そのため、ナチスの秘密国家警察に逮捕されたのだ。
 彼は、上司の尽力で釈放される。その約半年後、彼が中心となって開発したミサイルは、秘密兵器V2号となって、戦争で使用され、ロンドン郊外の町を破壊した。高性能の新兵器となってしまった。悔やまれて、悔やまれてならなかった。
50  人間教育(50)
 新兵器はできても、ドイツの敗戦は、既に避けがたい状況にあった。
 フォン・ブラウン博士らは、生命の危険を感じていた。新兵器製作の秘密を知り、その技術をもっている自分たちを、ドイツ軍や秘密国家警察が殺すことも懸念されたからだ。
 博士は、ドイツが連合国軍に敗れて、捕虜になるなら、自由の国・アメリカの捕虜になろうと決めた。
 彼らは、米軍に投降し、アメリカに渡った。博士は、この新天地で、ロケット開発に取り組み、次々と成功を収める。
 しかし、夢である宇宙旅行が完全に成功するまで、決して満足することはなかった。
 アポロ11号が月面着陸に成功し、地球に向かって帰り始めた時、記者会見に応じたフォン・ブラウン博士は語った。
 「きょうという日は、長年にわたるきつい仕事と希望と夢とが一つに結び合わされた日です。が、宇宙飛行士たちは、まだ地球にもどっていません。そのことをわたしは忘れることはできません。まだ、お祝いをするのは早すぎると思います」
 山本伸一は、ロケット開発にかける博士の生き方を通して、こう訴えた。
 「私たちの信心の目的は、個人にとっては一生成仏です。そのために、絶対に排していかなければならないのは油断です。常に″まだまだ、これからだ!″ と、自身に言い聞かせて、昨日よりも今日、今日よりも明日というように、自分を磨き、深め、仏道修行に励み通していくことが大事です。
 人生の最終章において、″自分は、真剣に戦い抜いた。何も悔いはない。学会員であってよかった。人生の喜びを心からかみしめている″と、思えるかどうかです。
 フォン・ブラウン博士は、宇宙への冒険に生きてきましたが、私たちの信仰は、内なる世界である生命の扉を開く、挑戦と探究の旅であり、冒険であります。恐れを知らぬ、あくなき冒険心を燃やし、勇猛果敢に、この道を突き進んでいこうではありませんか!」
51  人間教育(51)
 山本伸一は、ここで話を転じて、キリスト教が、なぜ、普遍的な世界宗教として発展したのかを考察していった。
 「その一つの理由は、キリスト教は、民族主義的な在り方や、化儀、戒律に縛られるのではなく、ギリシャ文化を吸収しながら、世界性を追求していったことにあるといえましょう」
 民族や国家、あるいは、そこに受け継がれている文化や風俗、習慣が、教義の普遍性よりも先行し、絶対視されるならば、その宗教は世界化することはない。民族宗教や国家の宗教などとして終わってしまう。
 日蓮大聖人が、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と仰せになっているのも、その地域の人びとの諸事情や文化を考慮し、仏法を弘むべきであるとのお考えの表明といってよい。
 日蓮仏法は、本来、万人の生命の尊厳を説く、人類のため、人間のための宗教である。決して、偏狭な″日本教″などであってはならない。したがって、日本の文化や風俗、習慣などに縛られる必要はないのである。
 日蓮仏法の教えの「核」となるのは、宇宙の根本法である南無妙法蓮華経を信受し、どこまでも、「御本尊根本」「題目第一」であるということである。そして、共に地涌の菩薩として、広宣流布の使命に生き抜く師弟の、自覚と実践である。
 伸一は、言葉をついだ。
 「キリスト教が世界に広がった二つ目の理由は、病人や貧者、あるいは罪人など、社会の底辺であえぐ民衆のなかに飛び込み、民衆のなかで戦い抜いたことにあるといえます」
 最も深い苦悩を背負った、一個の人間と向き合い、救済の手を差し伸べることは、万人に幸せの道を開こうとすることだ。そして、蘇生した一人の感動は、大きな共感の輪を広げる。また、民衆は社会の大地である。民衆に語り、民衆が納得し、その賛同と支持を得ることこそ、宗教興隆の確固不動の基盤となるのである。
52  人間教育(52)
 山本伸一は、キリスト教は苦悩する民衆のなかに入って、戦いを開始していったがゆえに、権力からの迫害を宿命的に背負っていったことを述べた。
 「だが、注目すべきは、キリスト教は迫害を受けるたびに、大きく民衆のなかに広がっていったという歴史的事実であります。
 翻って、創価学会の広宣流布の伸展も、迫害と殉教の崇高な歴史とともにありました。初代会長の牧口先生は獄死され、第二代会長の戸田先生も、二年間の獄中生活を送り、学会は壊滅状態になった。しかし、戸田先生のもとに、本当の弟子が集い、学会は大発展しました。そこに、″宗教の信念″ともいうべき不屈の栄光の精神があります。
 苦難の烈風に向かい、決してたじろぐことなく、高らかに飛翔を遂げていく――これこそが、学会精神です。その心意気を忘れぬところに、発展と勝利がある。
 また、裏返せば、障害があるからこそ、本当の力を出すことができるし、勝利への大飛躍ができるんです」
 さらに、伸一は、キリスト教は世界宗教へと発展したが、中世になると、教会の勢力が増大し、結果的に教会主義に陥り、民衆を権力に隷属させてしまった側面があることに言及していった。
 「教会は常に民衆の側に立つべきであり、神と人間の間に立ちふさがる障壁であってはならない。マルチン・ルターの宗教改革の原点も、まさに、そこにあったといえます。
 また、真実の教会と人間の在り方というものは、集まっては、また、民衆のなかへ飛び込み、あくまでも民衆のため、社会のために貢献しゆく、動的な関係に貫かれていなければならない。この″集合離散″ともいうべき方程式こそが、信仰を触発し、精神を高まらしめ、宗教を発展させゆく根本の原理であることを、銘記してほしいのであります」
 民衆のなかへ、ひたすら民衆のなかへ、そして、その生命のなかへ――この粘り強い戦いがあってこそ、勝利があるのだ。
53  人間教育(53)
 山本伸一は、創価学会が永遠に発展し続けていくためには、″仏法の根本は何か″を見失うことなく、大聖人の御精神という原点に回帰し、″人類のために″″民衆のなかへ″と、弛まざる流れを開いていくことが、必要不可欠であると訴えた。
 そして、創価学会は、本源からの宗教改革、人間革命の運動を展開しており、一人ひとりが、その運動の主役として、社会に大きく貢献していってほしいと呼びかけた。
 最後に彼は、こう語って話を結んだ。
 「先師・牧口初代会長、恩師・戸田前会長をはじめ、学会の草創期を築き上げた先輩の多くは、教育者でありました。
 したがって、第二章の広宣流布、すなわち、世界の平和と文化の本格的な興隆の時代にあっても、教育部は、その先駆者であっていただきたい。その誇りを胸に、一騎当千の光り輝く主柱へと成長しゆくことを、心から祈っております」
 賛同と決意の大拍手が轟いた。
 文豪トルストイは、「宗教は教育の基礎である」と記している。それは、教育の場に宗教を持ち込むことではない。
 教育には、確たる人間観と幸福確立のための哲学が必要である。それを説いているのが仏法である。また、子どもの可能性を信じ、その幸せのために、どこまでも献身し、奉仕しゆく強靱な意志と情熱が必要である。この強き一念の源泉は、断じて子どもたちの幸せを築こうとする宗教的使命感である。
 ゆえに、伸一は、教育部員が強盛なる信仰の人となるよう、自身の生命を削る思いで、激励したのである。
 山本伸一は、三月三十日、静岡県の牧口園で行われた、第三東京本部(大田・品川区)婦人・女子部の、教育部研修会に出席した。
 ″未来のために、今、なすべきことは、すべてなすのだ。時は待ってはくれない。全力を振り絞らずしては、終生、禍根を残す!″ 伸一は、必死で戦い抜いていたのだ。
54  人間教育(54)
 第三東京本部の婦人・女子部の代表が集った教育部研修会で、山本伸一は、人間教育実践の場について語った。
 「御書には、『法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し』とあります。持つ法が最高に優れていれば、それを持つ人も貴い。持つ人が貴ければ、その人のいる場所も尊いとの意味です。
 大聖人の仏法は、生命尊厳の法理であり、最高の人間革命の教え、すなわち、人間教育の大法であります。その法を実践する皆さんは、最高の人間教育の教師であります。そして、皆さんのいるその場所は、学校であれ、家庭であれ、地域であれ、すべて最高の人間教育の現場となるのであります」
 教育部員に限らず、自分に連なる一切の人に、生命の触発を、希望を、勇気を与え、一人ひとりの秘めたる力を引き出し、幸福の道へと共に歩むことが、学会員の尊き使命であると、伸一は考えていた。
 つまり、わが同志のいるところは、ことごとく人間教育の教室とならねばならない。そして、その先駆者こそが、教育部員であることを、伸一は訴えたかったのである。
 研修会の最後に、彼は呼びかけた。
 「皆さんが出した本のタイトル『体あたり先生奮戦記』のように、何事も″体当たり″で進まなければ、事態は開けません。″体当たり″とは勇気の行動です。必死であり、真剣勝負ということです。その時に、自分の殻を打ち破り、人生のドラマが生まれる。やりましょう! 人間革命の大ドラマを、共々につくろうではありませんか!」
 伸一の励ましによって、教育部は、新時代の大空に、雄々しく飛翔していった。全国津々浦々に、「平和の世紀」「生命の世紀」を開く人間教育の潮流が広がっていったのだ。
 自らが教職を終えたあとも、地域の信頼の柱となって貢献する教育部の友も多い。
 人類の闇を破り、未来を照らし出すことができる光は、「教育」という太陽である。

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