Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第24巻 「厳護」 厳護

小説「新・人間革命」

前後
56  厳護(56)
 最後に山本伸一は、法華経神力品の「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経575㌻)の、「世間に行じて」について述べていった。
 「世間とは、社会であり、社会の泥沼のなかで戦うのでなければ、衆生の苦悩の闇を晴らすことは、不可能なのであります。
 日蓮大聖人が、当時、日本の政治などの中心地であった鎌倉で、弘教活動を展開されたのも、『世間に行じて』との、経文通りの御振る舞いであります。ゆえに、世間へ、社会のなかへ、仏法を展開していかなければ、大聖人の実践、そして、目的観とは、逆になってしまうことを恐れるのであります。
 今、私は、恩師・戸田先生が、昭和二十八年(一九五三年)の年頭、わが同志に、『身には功徳の雨を被り、手には折伏の利剣を握って、師子王の勇みをなしていることと固く信ずる』と述べられたことを思い出します。
 私どもも、燦々たる元初の功徳の陽光を浴びながら、慈悲の利剣を固く手にし、師子王のごとく、この一年もまた、悠然と、創価桜の道を切り開いてまいりたいと思います」
 共感と誓いの大拍手が轟いた。
 伸一は、社会を離れて仏法はないことを、伝え抜いておきたかったのだ。
 荒れ狂う現実社会のなかで、非難、中傷の嵐にさらされ、もがき、格闘しながら、粘り強く対話を重ね、実証を示し、正法を弘めていく。そこに、末法の仏道修行があり、真の菩薩道があるのだ。
 原点を見失い、草創の心と実践を忘れた宗教は、形式化、形骸化し、儀式主義に陥り、官僚化、権威化する。そして、民衆を睥睨し、宗教のための宗教となる。それは、宗教の堕落であり、精神の死である。
 日蓮仏法を、断じてそうさせてはならない。大聖人の大精神に還れ――仏法厳護のために伸一は、自ら大教学運動の旗を掲げ、決然と、新時代開拓の扉を開こうとしていたのである。

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