Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第24巻 「母の詩」 母の詩

小説「新・人間革命」

前後
2  母の詩(2)
 対談でアンドレ・マルローは、山本伸一に、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
 創価学会の活動やメンバーについて、また、政治とのかかわりなど、この機会を待っていたかのように、率直に尋ねた。
 マルローが、なぜ、学会へ強い関心をいだいているのか。桑原武夫は「実践者の対話」のなかで、次のように分析している。
 「政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力をもった西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」
 マルローは、学会という「ひじょうに有力な組織」が、環境汚染などと闘うことを希望するとともに、伸一が世界のさまざまな危機への問題提起を、重要な国々に行い、そのイニシアチブ(主導権)をとるように勧めている。
 一方、伸一は、そうした行動の必要性も、十分に認識したうえで、人類の平和と繁栄を創造するための土台づくりとして、人間生命のなかに潜むエゴの克服こそ、必要不可欠であると主張した。そして、人間主義、生命主義の哲学と、その実践とが、変革の最重要のカギであると訴えたのである。
 マルローの伸一への期待は、大きかった。
 彼は、かつて西欧で人間形成の役割を果たしてきたのは、偉大な宗教的秩序であったが、今では、それが失われてしまったことを指摘した。そして、伸一に言ったのである。
 「会長は、日本で、この人間形成のための偉大な宗教的秩序という役割を果たすことができます。世界的価値の見本を示すことができましょう」
 世界の現状を、見すえるマルローの眼は鋭かった。その言葉からは、希望的観測は排され、強い危機感が迫ってきた。
 彼は、今日、理想的な国家運営を行っている国は一つもなく、「普遍的理想などというものが、もはやどこにも見あたらなくなってしまった」と嘆息するのである。
3  母の詩(3)
 「二十一世紀について明るい見通しをおもちでしょうか、それとも悲観的にとらえておられますか」という、山本伸一の問いについても、アンドレ・マルローは言う。
 「現在の与件からは、いまだ予想できない」
 そして、そのうえで、こう述べた。
 「まったく別の事態が現れることでしょう。われわれの経験の範囲内では計り知れないほどの現象が。まさに一つの精神革命といっていいものです」
 伸一は、その精神革命の基軸たり得るものこそ、仏法であるとの確信を力説した。
 「仏法は人間生命を究極の対象とした哲理であり、私たちの人間革命運動は、内なる宇宙、つまり自身に内在する創造的生命を自身の手によって開拓する、人間自立の変革作業です。人間が新たな生命的思想の高みに立って二十一世紀を展望し、築き上げていこうという運動です」
 さらに、伸一は、未来を考えるにあたっての、自分の態度を語った。
 「私は未来予測という作業は、未来はどうなるかではなく、未来をどうするか――ということに真の意義があると思います。
 一人ひとりの人間の生きることへの意志が人生の全体に反映され、その時代を彩り、やがて歴史へと投影されていく。新しい道は、こうして開かれていくと信じています。したがって未来は、現在を生きる一人ひとりの胸中にある、さらに日々を生きゆく日常性のなかにあるとみたい」
 未来は、自己自身の胸中の一念にこそある。
 約束されたバラ色の未来などない。そのための努力なくしては、幻想である。また、絶望と暗黒だけの未来もない。それは、戦いを放棄した受動的人間のあきらめの産物だ。
 厳しい現実を直視し、そして、未来に理想を描いて、その実現のために、戦いを起こすのだ。自分の生命の力を信じ、人間の可能性を信じて、全力で奮闘していくのだ。
 人間のもつ、無限なる可能性を引き出していく法理が、仏法なのである。
4  母の詩(4)
 現時点で「もっとも重要なものは人間」という点では、アンドレ・マルローも、山本伸一と同じ意見であった。
 マルローは尋ねた。
 「あなたの眼には、人間にとってなにがもっとも重要なものと映りますか」
 伸一は答えた。
 「人間そのものの生き方、その主体である人間自身の変革がどうすれば可能かということでしょう。文明のあり方が問われているということは、文明を生みだす人間のあり方が問われていることに他ならないからです」
 そして、人間革命の必要性を訴え抜いた。
 「たとえば一地域や一国の問題が、そのまま全地球的問題としてかかわってくる時代にあっては、自分だけというエゴは通用しません。他者の苦悩を自己の痛みとして感じとり、行動していくという人格の確立にしても、自己変革への不断の戦いがなければなりません。これ以外に現在の状況を打破する道はないと思います」
 さらに、伸一は続けた。
 「私は、生涯、書き続けるであろう、小説『人間革命』の主題として、『一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする』という信念を綴りました。
 人間の尊貴さは、その無限の可能性にあると信じ、そこにいっさいをかけ、それを規範として行動していきたいと思います」
 力強い口調で、自らの哲学と信念と決意を語る伸一に、マルローは微笑み、頷いた。
 「期待しています」
 この『人間革命と人間の条件』は、伸一と海外の識者との対談集としては、ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯爵との『文明・西と東』、イギリスの歴史学者トインビー博士との『二十一世紀への対話』に続いて、三番目の発刊となったのである。
 人類の未来に光を注ぐために、伸一は、対話に生命を注ごうとしていた。対話による魂の触発こそ、新しい時代を開く力となる。
5  母の詩(5)
 人間革命――世界の知性は、それを可能にする哲理を渇望していた。その確かなる方途
 を求めていた。
 創価学会は、人間革命の宗教である。広宣流布とは、人間革命運動の広がりである。
 この一九七六年(昭和五十一年)の八月半ばから十月上旬にかけて開催された、県・方
 面の文化祭は、「人間革命の歌」とともに、人間讃歌の絵巻を繰り広げた。
 そして、そこには、喜々として人間革命に挑む群像があった。
 八月の二十八、二十九日には、大阪、奈良、和歌山の三府県合同の’76関西文化祭が
 行われた。
 そのプロローグを飾った、婦人部の「あけぼの合唱団」に、橋塚由美子という大ブロッ
 ク担当員(現在の地区婦人部長)がいた。
 橋塚の夫は、防水業を営んでいたが、事業は行き詰まっていた。不況で仕事が少ないう
 えに、人に頭を下げることの嫌いな夫は、注文を取ってくることができないのである。
 子どもは三人いた。家計は逼迫し、文化祭の練習会場に通う交通費を工面することさえ、
 容易ではなかった。
 彼女は、低血圧症で、目まいや倦怠感に苦しんできた。そのなかで、朝は聖教新聞を配
 達し、主婦業、大ブロック担当員としての活動、そして、合唱団の練習に励んだ。だが、
 何よりも苦しかったのは、夫が、仕事がないのを苦にして、酒を飲んでは荒れることであ
 った。茶碗を投げつけられることもあった。
 彼女は、身も、心も疲れ果ててしまった。
 すべてを投げ出してしまいたい思いにかられた。悶々とする日々が続いた。
 ″文化祭に出られないのは残念だけど、もう合唱団は辞めよう″――その思いを、合唱
 団の担当幹部に打ち明けた。
 すると、「今こそ、境涯革命の時よ。この練習を通して、境涯を大きく開いていきましょ
 うよ。自分が変われば、環境は変わるわ。最後まで頑張りましょうね」との励ましが返っ
 てきた。
6  母の詩(6)
 関西文化祭のテーマは、「人間革命光あれ」であった。橋塚由美子は思った。
 ″この文化祭のテーマは、私自身のテーマなのだ。自分の境涯を開こう。なんとしても、人間革命してみせる!″
 寸暇を惜しんで、橋塚の懸命な唱題が始まった。彼女は、明るく、和気あいあいとした、幸福な家庭を築きたかった。それが、信心をした動機でもあった。
 橋塚の母親は、彼女がまだ一歳の時に、雷に打たれて死亡した。父親も戦死し、祖母らの手で育てられた。それだけに、心底、家庭の幸せを、求め続けて生きてきたのだ。
 彼女は、祈りながら、自分を振り返った。
 ″私は、酒を飲んでは荒れる夫の、顔色ばかりうかがい、ただ、おろおろしていただけではなかったのか。そして、生活が苦しいのも、すべて夫のせいにしてはいなかったか。仕事がうまくいかないことで、最も苦しんでいるのは夫なのに……。
 私は、夫のために何をしてきたのだろう。そもそも、夫の立場になって、ものを考えたことがあっただろうか。笑顔も見せず、感謝の言葉もかけはしなかったではないか……″
 自分の態度が悔やまれた。
 ″暗く沈んでいる夫の心に振り回されるのではなく、私が、夫の心を照らす太陽になればいいのだ。それが、山本先生のご指導ではないか。今こそ、題目だ。題目で、自分の生命を磨き、輝かせていくんだ。そうすれば、何があっても負けるはずがない!″
 唱題し続けるなかで、そう気づいた。いつの間にか、夫に対する、彼女の態度は変わっていった。自暴自棄になる夫に、自然に、いたわりや励ましが口をついて出た。
 「大丈夫よ。頑張りましょうね」
 彼女の明るい笑顔が夫を包んだ。夫の心が和み、前向きになっていくのが感じられた。
 逆境に負けないためには、自分が強くなることだ。自身を見つめ直し、一念を転換して、まず一歩を踏みだすことから、人間革命は始まる。
7  母の詩(7)
 関西文化祭が近づくと、朝から練習が行われるようになった。橋塚由美子は、早朝、聖教新聞の配達を終えると、掃除をし、家族の一日分の食事を準備して練習に出かけた。
 夜、帰宅すると、洗濯が待っていた。体は疲れているが、心は軽やかであった。家事をしながら、歌が出た。いつの間にか、低血圧症に悩まされることもなくなっていた。
 また、次第に、夫の仕事の状況が好転していったのである。さらに、夫は、練習に通う彼女を、車で送迎してくれるようになった。
 己心の太陽が輝けば、闇は消える。
 文化祭当日の朝、橋塚は、深い感謝の思いを込めて、真剣に唱題した。そして、合唱団として、晴れやかに関西戸田記念講堂の舞台に立った。純白のドレスの胸に、赤いバラの飾りをつけ、同志と共に歓喜の歌声を響かせたのである。
 この関西文化祭に、山本伸一はメッセージを寄せ、こう訴えた。
 「どうか、本日の文化祭に見せた創造と開拓のエネルギーを、皆さんの境涯を一段と開くために、生かしきっていただきたいと念願してやみません」
 橋塚は、感涙を浮かべ、何度も何度も頷きながら、一層の境涯革命を誓うのであった。
 八月二十八日に、山本伸一が出席して開催された’76神奈川県文化祭では、松葉杖の青年の奮闘があった。
 彼は、一歳の時にポリオ(小児まひ)にかかり、足が不自由であることから、消極的な性格になっていった。思春期には、周囲の見下すような視線を感じ、心はすさんだ。
 しかし、信心に励み、やがて学生部員になった彼は、この神奈川県文化祭への出演を決意する。″足が不自由だから″と、挑戦をあきらめたり、自分の不幸や敗北の原因を、そこに求める″弱さ″と決別したかった。
 また、肉体的なハンディも、信心を根本に、懸命に頑張ることで、必ず乗り越えられるという実証を示したかったのである。
8  母の詩(8)
 山本伸一は、神奈川県文化祭のフォーク「青年の丘」という演目で、最後列で松葉杖を使いながら、懸命に演技する青年に気づいた。
 歌も踊りもあり、激しい動きの演目である。両手を広げるシーンになると、青年は松葉杖を素早く両脇に挟み、皆に遅れまいと、必死であった。伸一は、″頑張れ!″と、心で語りかけながら、演技を観賞した。
 そして、この青年が、生涯、自分に負けることなく、勇敢に、人間革命への挑戦をし続けてほしいと祈りながら、同行の幹部に言った。
 「あの松葉杖の青年に、『本当に、よく頑張っているね』と伝えてください。彼は、自分に勝ったんだ。私も嬉しいよ」
 文化祭終了後、その言葉が伝えられると、青年は、唇をかみしめ、感涙にむせびながら、決意を新たにするのであった。
 また、リズムダンスに出演した女子部員は、当初、職場の人間関係に悩んでいた。皆、自分に対して、冷たく接しているように感じられてならなかったのだ。
 そのなかで、文化祭に出演することになった。練習に参加すると、清掃や荷物の番など、裏方に徹して、黙々と出演者を支えるメンバーがいた。
 「私は、文化祭の当日は、海外出張があるので参加できないんです。それで、みんなのために何ができるかを考え、大成功を祈るとともに、清掃などをさせてもらうようにしたんです。誰も気づかなくてもいいんです。みんなの役に立てるだけで、幸せです」
 人間関係に悩んでいた女子部員は思った。
 ″私は、職場で、みんなのために尽くそうとしたことがあっただろうか。結局、自分中心の生き方をしていたのではないか。私も、みんなの幸せを願える自分になろう。この文化祭を、その人間革命の舞台にするんだ!″
 彼女も、積極的に清掃作業などに励むようになった。そして職場にあっても、皆のために行動するように変わった。やがて、社内の信頼を勝ち得ていくことになるのである。
 人間革命によって、変わらぬ世界はない。
9  母の詩(9)
 九月五日、山本伸一は、東京・八王子市にある創価大学の中央体育館にいた。’76東京文化祭に出席していたのである。
 「創価桜」と題した第一景で、伸一が作った詩「母」に曲をつけた、「母」の歌が流れた。
 母よ あなたは
 なんと不思議な 豊富な力を
 もっているのか……
 舞台の中央で、白いブラウスと赤いスカートに身を包み、ピアノとマリンバを演奏しているのは、「母」の作曲者の植村真澄美と松山真喜子である。その調べに合わせ、若々しい混声合唱が、母への感謝の思いを託すかのように、高らかに響く。
 「母」の歌の一節一節が、伸一の心に深く染み入っていった。彼は、胸に込み上げる熱いものを感じながら、日本中、そして、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げた。とともに、彼の母である幸を思い、心で題目を唱えた。
 実は、この日、東京・大田区の実家で、老衰のため床に就いていた母の容体が、あまり思わしくないとの連絡があったのである。
 気がかりではあったが、多くの来賓を招いての文化祭であり、欠席するわけにはいかなかった。
 二カ月余り前、母は、一度、危篤状態に陥った。しかし、奇跡的に一命を取り留めた。小康状態になった時、母は、伸一に、きっぱりと、こう言うのであった。
 「私は、大丈夫。皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」
 もし、この日、伸一が、すぐに駆けつけたとしても、母は、おそらく同じことを言ったにちがいない。伸一が、人びとの幸福のために尽くすことが、母の念願であったのだ。
 彼は、その母の心を体して、この日も、広宣流布のため、同志のために、奮闘し抜こうと心に決めたのである。
10  母の詩(10)
 東京文化祭は演目を重ね、男子部による組み体操「青年の譜」が始まった。
 学会歌の躍動の調べに合わせ、山本伸一の詩「青年の譜」を朗読する声が響く。
 舞台では、人間のブリッジがつくられ、人間風車が回り、人間ロケットが飛ぶ。さらに、人間ピラミッドが築かれる。
 ダイナミックに展開される演技に、観客は息をのみ、一心に舞台を見ていた。
 オレンジ色のユニホームに身を包んだ青年たちによって、組み体操の圧巻ともいうべき、五段円塔への挑戦が始まった。
 土台となる一段目の円陣を組んだ二十人が、呼吸を合わせ、渾身の力で立ち上がる。その上には、体をかがめた二段目の十人、三段目の五人、四段目の三人、五段目の一人が乗っている。
 「同志の歌」の調べが流れるなか、二段目が立ち、やがて、三段目も立ち上がった。円塔は小刻みに震えている。
 四段目が立ち、五段目の一人が立ち上がりかけた。その時、円塔は、グラリと大きく揺れた。そして――崩れ落ちた。
 「ああっ!」
 会場から喚声が起こった。
 ″しまった! 失敗だ!″
 円塔の中で演技の合図を出していた、五段円塔の演技指導責任者で、江戸川区の副本部長の石上雅雄は、頭の中が真っ白になった。
 ――東京文化祭で男子部が組み体操を行うことになったのは、八月三十日であった。
 「学会魂をいかんなく表現するには、やはり組み体操しかない」ということになり、五段円塔にも挑戦することになったのである。
 学会の文化祭で、五段円塔は、何度かつくられていたが、準備に約一カ月は必要とされてきた。しかし、今回は、わずか五日しかない。まさに、不可能への挑戦であった。
 だが、青年たちは燃えた。断じて、成し遂げようと決めた。困難の壁が厚ければ厚いほど、闘魂を燃え上がらせるのが青年である。
11  母の詩(11)
 「困難といわれる五段円塔を完成させ、今こそ、不屈の学会精神を示そうじゃないか」
 五段円塔の演技指導責任者の石上雅雄は、皆に、こう呼びかけた。
 彼は、″絶対に無事故で、大成功させてみせる″と、深く決意していた。
 練習初日は、まず、五段円塔の四段に挑戦した。皆、足腰が不安定だ。″こんな状態で大丈夫か″と思いながらも、円塔を組んだ。すると、四段目の二人が、外側に落下した。
 石上は、とっさに、二人を受け止めようと、落ちてくる地点に、頭から滑り込んだ。一人を腰で受け、もう一人を肩で受けた。見事な″ヘッドスライディング″であった。
 二人にも、石上にも、怪我はなかった。
 落下するメンバーを、自分の体で受け止めて、守ろうとする責任者の行動に、誰もが感動を覚えた。また、これを契機に、″いい加減な気持ちがあれば、事故につながってしまうのだ″という緊張感を、皆がもつようになったのである。
 この時、出演者の心は、一つにまとまったといってよい。
 「指導者にとって、勇気は決して欠くことのできないものです」とは、あのトインビー博士の箴言だ。
 石上は、薬局を営む薬剤師である。小学校から高校まで野球をしており、ヘッドスライディングには自信があった。
 石上が身を挺してまで、メンバーを守ろうとしたのは、山本伸一への誓いがあったからである。
 石上の父親は韓・朝鮮半島の出身で、母親は日本人であり、在日二世として、東京で生まれ育った。物心ついたころから、何度となく、理不尽な差別を受けてきた。
 小学生時代に、地元の少年野球のチームに入った。その監督が、学会の男子部員であった。監督だけは、自分を異質な目で見たり、差別したりすることはなく、常にいたわり、守ってくれた。石上は、監督の後について離れなかった。学会の会合にもついて行った。
12  母の詩(12)
 石上雅雄が、少年野球の監督について、学会の会合に行くと、見知らぬ、おじさんやおばさんが、本当の子どもや孫のように、温かく声をかけてくれた。
 彼は、学会が好きになった。自分から、進んで座談会にも参加した。そのたびに皆が、「よく来たね。しっかり勉強して、偉くなるんだよ」と励ましてくれる。
 石上は、日本人に心を開くことは、ほとんどなかった。父親が韓国人であることから、幾度となく、蔑むような、冷たい視線を浴びせられた。ひどい仕打ちを受けもした。しかし、学会員と接するなかで、初めて人間の心の温もりに触れた気がした。
 ″こんなにも温かい世界があったのか!″
 万人に仏を見る仏法は、国籍、人種などによる、あらゆる偏見や差別を打ち砕く、生命の尊厳と平等の哲理である。創価家族とは″心の世界市民″の地球的連帯を意味するのだ。
 「学会はすごい」という石上の話を聞き、彼よりも先に、母が入会した。そして、半年後、彼を含め、家族全員が学会員となった。
 石上は、高校時代には、在日韓国人の学生野球チームのメンバーに選ばれ、親善試合のため、約四十日間、初めて韓国を訪れた。父親の故郷を見たいという、強い思いがあった。期待に胸躍らせての旅であった。
 しかし、韓国語もできず、母親が日本人で、″在日″である彼は、韓国の人たちとも、何か、埋めることのできない、深い溝を感じた。
 ″結局、ぼくは、日本人でも、韓国人でもないんだ。自分は、いったい何者なんだ! どこの国の人間として生きればいいんだ!″
 自分という存在への、根本的な疑問が芽生え始めた。
 高校を卒業した彼は、薬科大学に進んだ。学生部員として、学会活動に励んでいても、どこか、心の奥に、悶々とした思いが消えなかった。
 ″もし、山本先生にお会いできたら、自分の悩みを聞いていただき、指導を受けたい″
 彼は、そう思い続けてきた。
13  母の詩(13)
 石上雅雄が大学三年の、一九六九年(昭和四十四年)春三月のことであった。彼は、東京・信濃町の学会本部を訪れる機会があった。
 そこで、会長の山本伸一に出会ったのだ。
 「先生、お伺いしたいことがあります!」
 石上は、この時とばかりに、自分の胸の内を語り始めた。そして、日本人として生きるべきか、韓国人として生きるべきか、悩んでいることを語ったのである。
 伸一は、何度も頷きながら、石上の話を聞いていた。話が終わると、じっと、石上の顔を見つめた。
 「そうか、大変だったんだな……」
 こう言うと、力強い声で言葉をついだ。
 「君は、地球人として生きなさい。日本人であるとか、韓国人であるとか、悩む必要はないよ。地球人でいいじゃないか! 広々とした心で生きるんだ。
 そして、生涯、学会から離れずに、人びとのために生きていくんです。そこに、本当の幸福への道があるよ」
 石上は、ハッとした。自分の小さな境涯が打ち破られた思いがした。
 ″そうだ。自分には世界に広がる創価の同志の連帯がある。めざすべきは世界広布だ。くよくよすることはないんだ!″
 そう思うと、勇気がわいた。
 それから六年後の一九七五年(昭和五十年)一月、SGI(創価学会インタナショナル)が結成された、グアムでの第一回「世界平和会議」で、伸一が署名簿の国籍欄に「世界」と記入したことを、石上は知った。
 ″地球人として生きなさい、という言葉は、先生ご自身の心でもあったんだ。ぼくも、生涯、先生と共に、世界の平和と人類の幸福のために生きよう。創価学会の尊き同志を守り抜いていこう!″
 彼は、この時、心中深く、そう伸一に誓ったのである。
 ――東京文化祭の練習で、石上が、円塔から落下したメンバーを、身を挺して守ったのは、その誓いの発露であったのである。
14  母の詩(14)
 練習が始まっても、五段円塔は、なかなかできなかった。
 九月三日は、大田区の河川敷で練習が行われた。この夜は、折あしく雨になった。降りしきる雨のなか、ずぶ濡れになりながら、練習に励んだ。メンバーのシャツは、肩も背中も、担ぎ上げた人の靴で、泥まみれになっていた。雨の冷たさが体に染みた。
 雨に濡れた衣服は、滑りやすかった。
 「注意しろ!」「頑張れ!」「今日こそ立てよう!」と、互いに声を掛け合いながら、何度も挑戦を重ねた。しかし、この日も、とうとう五段円塔は完成しなかった。
 練習が終わった時には、誰もが、ぐったりと疲れ果てていた。そして、″このまま、五段円塔は立てられないのではないか……″という焦燥感にさいなまれていた。
 「題目だ。題目だよ! 明日こそ、必ず立てよう。できないわけがない!」
 メンバーの一人が、叫ぶように言った。
 皆、この日は、深夜まで、懸命に唱題した。
 また、指導にあたるスタッフは、どうすれば成功するのか、真剣に討議を続けた。ただ漫然と、同じ事を繰り返していたのでは、挑戦にはならない。失敗の要因を探り、工夫に工夫を重ねていってこそ、成功はある。
 翌四日は、創価大学のサッカー場で、朝から練習が行われた。雨はあがっていた。
 ″今日こそは、必ず立ててみせるぞ!″
 午前十一時半過ぎのことである。四段目が立った。そして、五段目の一人が立ち上がると、両手を広げた。
 「立った! 立ったぞ!」
 五段円塔の練習を見ていた、組み体操の参加者六百人から、歓声と拍手が広がり、さらに、勝鬨が起こった。
 メンバーは、円塔を解くと、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、小躍りし、抱き合い、健闘を讃え合った。円塔が立った場所には、めり込んだような二十人の足跡が、くっきりとついていた。それが、一人ひとりにかかる、重圧の大きさを物語っていた。
15  母の詩(15)
 五段円塔が初めて立った九月四日は、総合リハーサルが行われ、この日は、合計七回、組み上げることができた。
 皆、自信満々で、翌五日の東京文化祭の本番を迎えたのであった。
 「諸君は、諸君の油断大敵という気持を決してゆるめてはならない」とは、イギリスの名宰相チャーチルの至言である。
 そして――山本伸一が出席した文化祭の舞台で、五段円塔は完成直前に崩れたのだ。一瞬、メンバーの誰もが、起こった現実が受け止められず、呆然としていた。場内を埋めた観客は、固唾をのんで舞台を注視した。
 数秒の沈黙が続いた。次の瞬間、炎のような闘魂が、彼らの胸に噴き上げた。
 ″このまま、終わらせてなるものか!″
 皆が、そう思った。
 「やろう!」
 「もう一度やろう!」
 誰からともなく、声があがった。
 客席から、声援が起こった。
 「頑張れ!」
 五段円塔の演技指導責任者の石上雅雄を中心軸に、下段の二十人が、スクラムを組み、再挑戦の態勢がつくられていった。バックミュージックのテープが、巻き戻される。
 トランペットの音色が高らかに響き、「人間革命の歌」の曲が流れた。
 舞台の袖で、フィナーレの出番を待っている、他の演目の出演者たちも、小声で題目を唱え始めた。
 「よーし、一段目、立ち上がれ!」 
 石上が叫んだ。下段が立った。だが、皆の肩と腕は、ピクピクと震えていた。連続しての挑戦で、筋肉が疲労しているのだ。
 「人間革命の歌」の調べに合わせ、詩「青年の譜」を朗読する声が響く。
 「青年よ!
 生きぬくのだ 断じて 生きぬくのだ
 絢爛とした 総体革命の主体者として
 決然 歴史に勝利するのだ……」
16  母の詩(16)
 五段円塔の二段目が立ち、そして、三段目が立った。だが、波がうねるように、二、三段目のスクラムは揺れている。
 ″立て! 立ってくれ!″
 観客も、祈るような気持ちで、手に汗を握って、舞台を見ていた。
 一呼吸置き、円塔の揺れが収まるのを待って、四段目の三人が立ち始めた。円塔が、また、グラッと、大きく揺れた。
 ″危ない!″
 一人が、片足を肩から滑らせたのだ。
 それを手で受け止め、三段目で懸命に支えたのが、墨田区で大ブロック長(現在の地区リーダー)をしている森川武志であった。
 五段円塔は、絶妙なバランスのうえに成り立つ。一人が片足を踏み外せば、バランスは崩れ、どこかに大きな負荷がかかる。そして、支えきれずに、円塔は崩れてしまうのだ。
 ″俺が支えるしかない。俺がつぶれれば、五段円塔が崩れる!″
 森川は、歯を食いしばり、必死にこらえた。顔はゆがみ、腕も肩も、ブルブルと震えた。
 ″立ってくれ!″と、心で叫び、唱題しながら、自分の限界に挑み続けた。
 ″自分に挑み、自分に勝つ″――それが、彼の信条であった。
 ――森川は、小学校四年の時、胃癌で母を亡くした。彼は、五人兄弟の次男であり、一番下の弟は二歳であった。母が他界したあとは、祖母が子どもたちの面倒をみてくれた。
 彼は、静岡県の中学校を卒業すると、東京の工務店に就職した。一人前の大工になるのが夢だった。
 だが、しばらくは、与えられる仕事は、掃除や後片付けばかりだった。「仕事は、見て覚えろ」という時代であり、丁寧に仕事を教えてくれる先輩などいなかった。しかし、やらされてできなければ、どやしつけられた。次第に心は萎えていった。
 そんな彼を励ましてくれたのが、工務店の社長夫妻だった。夫妻は、学会員であった。その真心に打たれ、彼は入会を決意した。
17  母の詩(17)
 森川武志は、仕事が終わると、男子部の先輩と共に、学会活動に励んだ。
 同志は、皆、温かかった。「どんなに辛くとも、頑張り抜くんだ。苦労を乗り越えて、人間は強くなるんだよ」と、力強く激励してくれた。また、座談会に出ると、「夜中におなかが空くでしょう」と言って、そっと握り飯を持たせてくれる婦人部員もいた。
 砂漠のように乾き切った現代社会を潤す、真心と励ましの泉が、創価学会といってよい。
 森川は、創価家族の温もりを感じた。それが、彼の孤独感を癒やし、心の支えとなった。
 彼は、何事にも自信がなかった。母親がいない、中学しか行けなかった、家が貧しかったことなどが、劣等感を募らせ、″どうせ、俺なんかだめなんだ″という思いが、いつも心のどこかにあった。
 就職して四年たった時のことだ。帰省した森川は、自分と同じように大工をめざしていた、中学時代の同級生と会った。既に家を建てられるようになったと、喜々として語るのを聞いて、彼は、大きく水をあけられた気がした。自分を卑下し、落ち込んだ。
 東京に戻って、男子部の先輩に、その思いを語ると、先輩は言った。
 「どうして君は、人と比べて、自分はだめだとか、不幸だとか、考えるんだ! 結局、それは、見栄があるからだよ。君は、なんのために信心しているんだ。
 大聖人は『すべて一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず』と述べられている。釈尊が説いた八万法蔵といわれる膨大な仏法の教えも、一切の仏や菩薩も、自分の心の中にあると説かれているんだよ。
 つまり、森川君という人間は、君自身が想像もできないほど、尊く、崇高な、無限の力を備えた存在なんだよ。しかも、君は、君にしかできない使命をもって、この世に出現してきた地涌の菩薩だ。誰も、君の代わりはできない。この世の中に、たった一人しかいない、かけがえのない存在なんだ!」
18  母の詩(18)
 男子部の先輩は、強い語調で、森川武志に語り続けた。
 「君は、人と比較して落胆したり、卑下したりする必要なんか全くないんだよ。他人と比べて一喜一憂するというのは、『仏法を学して外道となる』という生き方だよ。
 要は、自分の大生命を開けばいいんだ。その時に、自分を最高に輝かせていくことができるし、そこに、崩れざる幸福がある。
 挑戦すべきは、人に対してではない。自分自身にだ。自分の弱さにだ。そして、自分に勝っていくんだよ。焦らずに、自分を磨き、君自身の使命に生き抜いていくんだ!」
 森川は、″その通りだ″と思った。
 以来、彼は、自分に挑み、自分に勝つことを目標に、すべてに挑戦してきた。
 三年後、彼は、静岡県の実家を、自らの手で建て直した。
 そして、自分をさらに磨き、鍛えようと、この一九七六年(昭和五十一年)の東京文化祭に、勇んで出演したのである。
 森川は、五段円塔の三段目で、片足を滑らせた四段目のメンバーの足を、手で必死に支え続けた。呼吸をするのも苦しいほどの、重圧がかかっていた。一秒が、五分にも、十分にも感じられた。
 四段目の三人は、固くスクラムを組み、エビのように腰を曲げたまま、互いに支え合っていた。円塔の揺れが激しく、腰を伸ばし切って立ち上がることはできなかった。
 しかし、やがて、揺れは収まった。四段目は、完全に立ち上がってはいないが、バランスは保たれている。
 ″五段円塔を立てるなら、今ではないか。 いや、この状態で立てようとすれば、崩れてしまうかもしれない……″
 五段円塔の演技指導責任者の石上雅雄は迷った。しかし、彼は、今しかないと思った。
 円塔の中で、彼は叫んだ。
 「五段目、行け!」
19  母の詩(19)
 詩「青年の譜」の朗読が、力強く流れる。
 「午前八時の
 青年の太陽は 今日も昇りゆく!
 青年の鼓動にあわせて昇りゆく!」
 四段目のスクラムの上に、五段目となる一人の青年が、静かに立ち上がり始めた。観客の誰もが、息を凝らし、祈りを込めて見つめた。
 円塔の頂で、青年は、体を伸ばした。胸を張った。そして、大きく両手を広げた。
 立った! 奇跡は起こった!
 二度目の挑戦という、著しく体力を消耗し、疲弊しきった体で、美事に、五段円塔を組み上げたのだ。割れんばかりの大拍手と、大歓声が体育館を揺るがした。
 円塔の三段目で、歯を食いしばり、肩を震わせながら、こらえ続けていた森川武志は、その大拍手で、五段円塔が立ったことを知った。会場には、「人間革命の歌」の調べが高らかに響いていた。
 皆が、自分に挑んだ。あきらめの心に、無理だという心の弱さに、懸命に挑戦した。そして、それぞれが、自身の心の壁を破って、五段円塔は打ち立てられたのだ。
 山本伸一は、盛んに拍手を送りながら、側にいた男子部の幹部に言った。
 「やったね! 壮挙だね! みんな負けなかった。それが、すごいことなんだ。負けないことが、勝つということなんだ!」
 そして、彼は、メンバーに、こう伝言を託したのである。
 「大変にご苦労様でした。感動しました。
 倒れても、倒れてもまた立ち上がれ――これが、学会精神です。師子の心です。ここにこそ、人生の勝利があります。
 諸君は、この文化祭で、生涯にわたる誇らかな、黄金の思い出をつくった。『青年の譜』を観念でなく、わが五体に、わが人生に刻み込み、″不倒″の実証を示した。心から『おめでとう!』『万歳!』と申し上げます」
 文化祭終了後、メンバーは、この伸一の伝言を涙で聞いた。そして、互いに抱き合い、「不倒の人生」を誓い合うのであった。
20  母の詩(20)
 東京文化祭は、フィナーレを迎えた。
 舞台正面には、「人間革命光あれ」の文字が、鮮やかに浮かび上がり、頬を紅潮させた出演者が、舞台を埋めた。
 高らかに手拍子が鳴り響き、「人間革命の歌」の大合唱が始まった。山本伸一も席から立って、マイクを手に、共に歌った。
 君も立て 我も立つ
 広布の天地に 一人立て……
 勝利と感動と歓喜の大合唱となった。
 皆が、人間革命をめざしての文化祭であった。自己自身への挑戦の文化祭であった。
 そして、それぞれが、″自分に勝った!″との実感と、その感動をかみしめながらのフィナーレとなった。
 最後に、伸一が、御礼のあいさつをした。
 彼は、短い練習期間にもかかわらず、美事な、大成功の文化祭となったことに対し、関係者の努力に、心から深謝した。
 そして、現代社会の進むべき道について、語っていったのである。
 「今日、人類は、あらゆる面で、行き詰まりの様相を呈しております。あらゆる指導者は、この状況をどう打開するか、真剣に悩み、また、その方途を模索しております。
 『行き詰まったら原点に戻れ』との言葉がありますが、私は、西洋文明の源流ともいうべき、古代ギリシャの在り方に立ち返ってみる必要があると思います。
 古代ギリシャでは、神は、人間と同じ姿をもち、喜怒哀楽をともにするという考えのもと、人間中心、人間礼讃の文化が花開きました。また、オリンピック競技も行われ、その期間中は、戦争も休んだといわれる。
 こうした文化を支えたものは、民衆の心からの熱望であったといえましょう。
 今日の人間疎外をはじめ、現代の行き詰まりは、人類が政治優先、経済優先に陥り、人間を見失ってしまった帰結であると、私は、申し上げたいのであります」
21  母の詩(21)
 山本伸一は、さらに力を込めて訴えた。
 「今こそ、人類は、『人間』という原点に返り、政治優先主義、経済優先主義から、人間性の発露である、文化の復興を優先しなければなりません。全人類は、人間文化の復興を希求しています。戦争という武力の対極に立つのが文化であり、文化、芸術は、生命の歓喜の発露であると、私は考えております」
 伸一は、その人間文化の一つの結実が、この文化祭であると語った。
 「音楽隊、鼓笛隊の演奏あり、合唱あり、日本舞踊あり、リズムダンスあり……。しかも、皆、素人でありながら、実に美事な、華麗、勇壮の演技の数々が展開されました。
 ここには、舞台も客席も一体になっての、感動の共有がありました。友情のドラマがありました。人間の連帯がありました。
 こうした民衆文化の運動が、日本のみならず、全世界に広がっていくならば、人と人の心は結ばれ、新たなルネサンスの夜明けが訪れると、確信いたします。この文化祭に象徴される大文化運動が、広宣流布という人間復興の運動なのであります」
 午後六時過ぎ、'76東京文化祭は、感動のなかに幕を閉じた。
 出演者や役員の、どの顔も限りなく生き生きとし、美しかった。戦い抜いた生命の充実と躍動は、至極の表情をつくり上げる。
 伸一は、文化祭の終了後も、来賓との懇談や見送りが続き、一段落したのは、午後八時前であった。母のいる東京・大田区の実家に向かおうとした時、母の容体が急変したとの連絡が入った。
 彼は、夜空を仰いだ。今日一日の彼の戦いを、母が見守っていてくれたような気がした。
 車の中で、伸一は、母を案じて唱題した。
 彼が実家に着いたのは、午後九時過ぎであった。
 幸いなことに、まだ、母の意識はあった。家族から、「もうじき伸一が来るからね」と言われ、母は、遠のく意識と、懸命に闘って待っていたのかもしれない。
22  母の詩(22)
 山本伸一は、横たわる、母・幸の手を、握り締めた。母も、彼の手を握り返そうとしているようであったが、指先が動くだけで、力は感じられなかった。
 彼は、持参してきた花束や、母を知る同志からの見舞いの品々を見せ、枕元に置いた。
 「ありがとう……」と言うように口を動かし、ニッコリと微笑んで、静かに頷いた。
 それからほどなく、目を閉じ、静かな寝息をたて始めた。
 伸一は、母への報恩感謝の思いを込めて、仏壇に向かい、一心に唱題した。
 しばらくして、再び、母の顔を覗き込んだ。その時、うっすらと目を開けた。それから、深い眠りについたようだ。
 伸一は、幾筋もの皺が刻まれた、母の顔を見ながら、八十年の来し方を思った。
 ――母の幸は、一八九五年(明治二十八年)、東京府荏原郡の古市場(現在の大田区内)の農家に、長女として生まれた。幸の娘時代を知る縁者の話では、裁縫が上手で、負けず嫌いだが、優しい心の持ち主であったという。
 幸が、父・宗一と結婚したのは、一九一五年(大正四年)であった。″強情さま″と呼ばれた頑固一徹な父のもとで、家業の海苔の養殖を懸命に支えた。
 しかし、その家業も、関東大震災のころを境に傾き始め、さらに、宗一がリウマチで寝込むようになっていった。
 宗一と幸の間には、男七人、女一人の子どもがいた。伸一は、その五男として育った。しかも、父母は、さらに、親類の子を二人、引き取って育てたのである。
 伸一は、母の働く姿しか思い出すことはできない。家事だけでも大変なうえに、海苔製造という家業を担うのだ。寝ている母の姿を見た記憶は、ほとんどなかった。
 ナイチンゲールは、「忍耐強く、朗らかに、そして親切に」と訴えている。実は、そこに、苦難のなかでも、幸せの果実を育む道があるのだ。
 それは、母・幸の生き方そのものであった。
23  母の詩(23)
 潮の干満の時刻によって異なるが、海苔を採取するには、午前二時か三時には起床し、朝食をとってから仕事を始める。その食事のしたくをするために、母の幸は、皆より早く、午前一時か二時には起きねばならない。
 朝食の後片付けを手早くすませ、母は海苔採りに出る。冬の海、日の出前の作業は、寒さとの戦いである。母の手は、アカギレだらけであったことを、山本伸一は覚えている。
 彼も、幼少期から家業を手伝った。
 採った海苔は、早く干し上げなければならない。母は、休息の時間など、全く取れなかったようだ。風邪をひいても、休もうとはしなかった。
 子どもたちは、気づかなかったが、後年、母は、こう語っていた。
 「昼ご飯など、食べる暇はなかったよ」
 幼いころから、母は、よく伸一に、二つのことを言って聞かせた。
 「他人に迷惑をかけてはいけません」
 「嘘をついてはいけません」
 そして、伸一が少年期に入ったころから、「自分で決意したことは、責任をもってやりとげなさい」という言葉が加わった。
 伸一は、平凡ではあるが、人間として最も大切なことを、母から教わったと、深く感謝している。
 やがて、時代は、戦争の泥沼へと突入していく。働き手である四人の兄たちが、次々と兵隊にとられ、一家の暮らしは窮乏していった。
 しかし、母は、「うちは貧乏の横綱だ」と笑い飛ばしながら、わずかな菜園で野菜を育て、懸命に働いた。
 「母の気概に恐れの入り込む余地はない」とは、哲人セネカの言葉である。
 兄たちが兵隊にとられてから、伸一は一家を守り支えねばならなかった。しかし、その彼が、結核にかかってしまった。
 それでも、病と闘いながら、軍需工場に通った。母は、そんな彼を心配し、食糧が満足にないなか、卵など、少しでも栄養価の高いものを、用意してくれた。
24  母の詩(24)
 山本伸一の、母の思い出は尽きなかった。
 終戦の年となる一九四五年(昭和二十年)の春のことであった。それまで住んでいた蒲田区糀谷(当時)にあった家が、空襲による類焼を防ぐために取り壊しが決まり、強制疎開させられることになった。
 やむなく近くの親戚の家の敷地に、一棟を建て、越すことにした。家具も運び、いよいよ、皆で暮らすことになった五月、空襲があった。その家も、焼夷弾にやられ、全焼してしまったのである。
 伸一と弟が、やっとの思いで、火のなかから、一つの長持ちを運び出した。しかし、そこに入っていたのは、雛人形と一本のコウモリ傘であった。
 落胆して、言葉も出なかった。
 その時、母は、快活に言った。
 「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ……」
 この言葉に、皆、どれだけ元気づけられたことか。
 「明るい性格は、財産よりももっと尊いものである」とは、アメリカの実業家カーネギーの洞察である。
 そのころ、こんな出来事があった。
 やはり、空襲を受けた時のことだ。夜が明け始めた空に、一つの落下傘が見えた。高射砲で撃墜された、「B29」から脱出した米軍の兵士であろう。
 落下傘は、見る見る地上に近づき、伸一の頭上を通り過ぎていった。
 彼は、その米兵の顔を、しっかりと見た。二十歳を過ぎたばかりだろうか。
 十七歳の自分と、それほど年齢も違わない、若い米兵の姿に、伸一は、少なからず衝撃を覚えた。
 「鬼畜米英」と教えられ続けてきたが、目の当たりにしたのは、決して「鬼畜」などではなかった。色の白い、まだ、少年の面影の残る若者であった。
 伸一は、この米兵のことが、気がかりでならなかった。
25  母の詩(25)
 山本伸一は、落下傘で降りてきた米軍の若い兵士がどうなったか、大人たちに聞いた。
 ――米兵の青年は、集まって来た人びとに、棒でさんざん殴られたあと、やって来た憲兵に目隠しをされて、連行されたとのことであった。
 伸一は、敵兵とはいえ、胸が痛んだ。
 家に帰り、その話を、母の幸に伝えた。母は、顔を曇らせ、悲しい目をして言った。
 「かわいそうに! 怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう……」
 母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。
 米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、四人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。
 わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。
 伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。
 戦後、伸一は、東京・神田の三崎町にある東洋商業(現在の東洋高校)の夜間部に学んだ。彼が授業を終えて、自宅に戻るのは、いつも午後十時前後であった。
 朝の早い伸一の家は、夜は、皆、早く床に就いた。
 しかし、母親だけは、いつも起きて待っていてくれた。物資不足の時代が続いていたが、ウドンやスイトン、ふかした芋などが用意されていた。そして、彼の健康を気遣い、決まって、「大変だったね」と、優しい言葉をかけてくれるのである。
 その一言に、伸一は、母の限りない愛を感じ、どれほど癒やされたか、計り知れない。
26  母の詩(26)
 山本伸一は、落下傘で降りてきた米軍の若い兵士がどうなったか、大人たちに聞いた。
 ――米兵の青年は、集まって来た人びとに、棒でさんざん殴られたあと、やって来た憲兵に目隠しをされて、連行されたとのことであった。
 伸一は、敵兵とはいえ、胸が痛んだ。
 家に帰り、その話を、母の幸に伝えた。母は、顔を曇らせ、悲しい目をして言った。
 「かわいそうに! 怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう……」
 母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。
 米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、四人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。
 わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。
 伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。
 戦後、伸一は、東京・神田の三崎町にある東洋商業(現在の東洋高校)の夜間部に学んだ。彼が授業を終えて、自宅に戻るのは、いつも午後十時前後であった。
 朝の早い伸一の家は、夜は、皆、早く床に就いた。
 しかし、母親だけは、いつも起きて待っていてくれた。物資不足の時代が続いていたが、ウドンやスイトン、ふかした芋などが用意されていた。そして、彼の健康を気遣い、決まって、「大変だったね」と、優しい言葉をかけてくれるのである。
 その一言に、伸一は、母の限りない愛を感じ、どれほど癒やされたか、計り知れない。
27  母の詩(27)
 山本伸一の父・宗一は、一九五六年(昭和三十一年)十二月十日、六十八歳で他界した。母の幸と、二人三脚で歩み抜いてきた生涯であった。
 伸一は、その日の日記に、こう記した。
 「私を、これまで育ててくれた、厳しき、優しき父が、死んでしまった。嗚呼。大なる親孝行できず、残念。われ、二十八歳。旧き、実直な父。封建的な、誠実な、スケール大なる父。
 無口の中に、一度も、叱られしことなきを反省す。嗚呼。静かな、安祥とした遺体を前に、御守御本尊様を奉戴し、読経、唱題、回向を一時間。
 残されし、悲しげな母の姿に涙す」
 母は、広宣流布の大師匠・戸田城聖に仕え抜く伸一のために、題目を送ってくれた。
 父は、信心はしなかったが、「伸一は、戸田先生に差し上げたもの」と言って、彼を温かく見守ってくれていた。
 伸一は、父が、最高峰の日蓮仏法に帰依することを、朝な夕な祈念し、機の熟するのを待っていた。
 戸田は、ある時、伸一に言った。
 「君が強盛な信心に立つことだ。大きく、立派な傘ならば、一つに何人も入ることができる。同じように、家族で、まず誰か一人が頑張れば、みんなを守っていくことができる。君が必死になって頑張り抜いた功徳、福運は、お父さんにも回向されていくよ。
 それに、お父さんは、既に心は学会員だ。陰では応援してくれているはずだ。また、君のことを、最高の誇りにしているだろう」
 父は、戸田に絶対の信頼を寄せていたし、学会のことも、深く理解していた。
 それでも、父が、信心せずに一生を終え、最高の親孝行ができなかったことが、伸一は、やはり、心残りであった。
 彼は、この日、十年ぶりに実家に泊まった。
 父の遺体の横で、回向の唱題をした。広宣流布に生涯を捧げ抜き、父の恩に報いようとの誓いを込めて――。
28  母の詩(28)
 山本伸一の父・宗一が他界し、入棺した時、母の幸は、慟哭した。
 伸一が、初めて目にする母の姿であった。
 彼は、日記に綴った。
 「……父との旅。母の心情は、心境は誰人にもわからぬであろう。長い、楽しい、苦しい、旅路であったことであろう。英知、地位、財産、虚栄、すべてを超越した、真実の愛の妻の涙であろう。
 ああ平凡の中の、偉大なる母、そして父よ」
 その後、兄弟たちも、次々と信心を始めた。
 母は、次兄と共に暮らし、懸命に信心に励んだ。そして、伸一が、元気に、広宣流布のために活躍できるようにと、いつも真剣に祈り続けてくれていた。
 伸一は、努めて母と会おうと思っていたが、なかなか時間が取れず、足を運ぶことができた回数は、決して多くはなかった。
 彼は、せめてもの感謝の気持ちとして、折あるごとに伝言を添えて、着物など、心づくしの贈り物を届けた。妻の峯子と三人の子どもたちも、幸を心から慕っていた。
 伸一は、第三代会長に就任すると、ますます多忙を極め、母とゆっくり会う機会はめったになかった。でも、会えば母は、「私のことは、何も心配しないでいいから。体だけは丈夫にね」と言うのである。
 また、何かあると、江戸前の海苔や、煮物など手料理を届けてくれた。
 母は、自分を犠牲にして、たくさんの子どもを育ててきた。伸一は、その恩に報いるためにも、元気なうちに旅行もしてもらおうと、尽力した。母は、楽しそうに出かけて行って、その地の学会員との出会いを喜びとしていた。母の笑顔を見ることが、彼は、何よりも嬉しかった。
 母は子に、無尽蔵の愛を注いで育ててくれる。子どもは、大威張りで、母に甘える。母が老いたならば、今度は、子どもが親孝行し、恩返しをする番である。子どもに、その「報恩」の自覚がなくなってしまえば、最も大切な人道は失せてしまうことになる。
29  母の詩(29)
 母の幸は、学会本部に来る時には、よく自分で縫った黒い羽織を着ていた。
 本部は、広宣流布の本陣であり、歴代会長の精神が刻まれた厳粛な場所である。正装して伺うのが当然である――というのが、母の考えであった。
 息子が会長であるからといって、公私を混同するようなことは、全くなかった。
 母が亡くなる前年の一九七五年(昭和五十年)四月のことである。桜花爛漫の総本山で、伸一は、母と久しぶりに会う時間があった。諸行事が続くなか、言葉を交わしたのは、数分にすぎなかった。
 彼は、花の大好きな母のために、レイと桜の小枝を贈った。レイを首にかけると、母は、「ありがとう、ありがとう」と、何度も言い、桜の花を見ては、微笑んだ。
 別れ際、伸一は、自分にできる、せめてもの親孝行として、母を背負って、坂道を歩こうと思った。
 伸一が、かがみ込んで背中を向けると、母は、はにかむように言った。
 「いいよ、いいよ。そんなことを、させるわけにはいかないよ」
 「いいえ、お母さん。私が、そうさせていただきたいんです」
 伸一が、強く言うと、母は、「悪いねえ」と言って、彼の背中に乗った。
 小柄な母は、年老いて、ますます小さく、軽くなっていた。
 伸一が、「うーん、重い、重い」と言うと、屈託のない笑い声が響いた。
 背中に感じた、その温もりを、彼は、いつまでも、忘れることができなかった。
 親孝行とは、何も高価なものを贈ることではない。親への感謝の思い、真心を伝えることである。親と遠く離れて暮らし、なかなか会えない場合には、一枚の葉書、一本の電話でも心は通い合う。
 「生みの親をないがしろにするようでは、自然にもとり、人の道を守れるはずはない」とは、シェークスピアの警句だ。
30  母の詩(30)
 山本伸一の母・幸は、一九七六年(昭和五十一年)に入ってからも、六月には、元気に関西旅行に出かけた。しかし、月末から体調が優れず、床に伏す日が多くなっていった。
 七月初旬には、何度か、危篤状態に陥ったのである。
 伸一が見舞った時、母は、既に酸素吸入器をつけ、ぐったりとしていた。彼は、健康を回復するように祈りながら、体をさすった。一念が通じたのか、母の呼吸が整い、頬に赤みが差した。
 「伸ちゃん、楽になったよ」
 はっきりとした口調で、こう言い、この日は、羊羹まで食べたのである。
 その後、快方に向かった母は、見舞いに訪れた伸一に、こう語った。
 「私は、行きたいところは、どこへも行ったし、着たいものも、なんでも着ることができた。私は、日本一の幸せ者だよ。いい人生だったよ」
 苦労に、苦労を重ねてきた母である。しかし、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切れる母は、人生の勝利を満喫していたにちがいない。
 伸一は、病床の母に、日寛上人の「臨終用心抄」を簡潔に、講義した。これは、日寛上人が、臨終の心構えを説かれた書で、死を迎える時に心が乱れることなく、成仏するための用心について、御書や経論、さらに、一般の書も用いて示されたものである。
 心が乱れてしまう要因として、「断末魔の苦」「魔の働き」「妻子・財宝などへの執着心」をあげている。このうち「断末魔の苦」は、他人をそしることを好み、人の心を傷つけることによって、招いたものであるとし、そうならないためには、平生からの善行が大切であると教えている。まさに、臨終は、人生の総決算といってよい。
 この「臨終用心抄」では、法華本門の行者は、不善相であっても成仏は疑いないことや、臨終に唱題する者は、必ず成仏することなどが明かされている。
31  母の詩(31)
 山本伸一は、母の幸に、日寛上人の「臨終用心抄」を要約して講義し、力強く訴えた。
 「日蓮大聖人は、題目を唱え抜いていくならば、成仏は絶対に間違いないと、お約束されています。
 伝教大師が受けた相伝にも、『臨終の時南無妙法蓮華経と唱へば妙法の功に由て速かに菩提を成じ……』とあるんです」
 そして、伸一は、傍らの御書を開き、「松野殿御返事」を拝読していった。
 「『退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道をさかへり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり
 大聖人は、″退転することなく仏道修行を重ねて、最後の、臨終の時を待ってご覧なさい。そうすれば、必ず寂光土に行くことができる″と言われているんです。そして、その世界について、こう述べられています。
 『妙覚の山に走り登って、四方を見渡せば、なんと、すばらしいことでしょう。あらゆる世界は、すべて寂光土で、地面には、瑠璃が敷き詰められ、金の縄で、涅槃に至る八つの道の境が作られている。
 天からは、四種類の花が降り、空には音楽が聞こえ、もろもろの仏や菩薩は、常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられる。私たちも、そのなかに入り、自在の境地を得て、楽しんでいける時は、もう近いのだ』
 つまり、死も、なんら恐れることはないんです。死後も、楽しく、悠々と大空を翔る大鳥のごとき、自由自在の境涯が待っているんです」
 母の幸は、病床に伏しながら、「うん、うん」と、目を輝かせて頷き、伸一の話を聴いていた。それは、伸一が母のために行う、最初で最後の講義であった。
32  母の詩(32)
 山本伸一は、母は危篤状態を脱したとはいえ、余命いくばくもないと感じていた。
 ゆえに、彼は、この機会に、仏法で説く死生観を、語っておきたかったのである。
 「お母さん。また、大聖人は、信心し抜いた人は、『きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり』とも、言われているんです。
 広宣流布に戦い抜いた人は、生きている時は『生の仏』であり、どんな苦難があっても、それに負けることのない、大歓喜の日々を送ることができる。そして、死して後もまた、『死の仏』となる――それが、即身成仏という大法門なんです。
 ゆえに、生も歓喜であり、死もまた、歓喜なんです。永遠の生命を、歓喜のなかに生きていくことができるんです。
 万物を金色に染める、荘厳な夕日のように、最後まで、題目を唱え抜いて、わが生命を輝かせていってください」
 仏の使いとして生きた創価の母たちは、三世永遠に、勝利と幸福の太陽と共にあるのだ。
 伸一が語り終えると、母の幸は、彼の差し出した手を、ぎゅっと握り締めた。それは、決意の表明でもあった。
 翌日、幸は、家族に語った。
 「私は、悔しい思いも、辛い思いもした。でも、私は勝った。社会に貢献するような、そういう子どもが欲しかった。そして、自分の子どものなかから、そういう人間が出た。だから私は、嬉しいんだ」
 中央アジアの大詩人ナワイーはうたう。
 ――「幸福とは、千の苦悩で傷ついても、最後に精神と魂の中に花を見いだす者のことである」
 七月十二日の夜、母・幸の見舞いに訪れた伸一は、六月に東北を訪問した折に、「同志の歌」や「さくら」「森ケ崎海岸」などをピアノで弾き、録音したテープを渡した。母への、せめてもの励ましになればとの思いからであった。
33  母の詩(33)
 七月十四日、山本伸一に代わって、妻の峯子が、長男の正弘、次男の久弘、三男の弘高と共に、母の幸を見舞った。正弘は二十三歳、久弘は二十一歳、弘高は十八歳になっていた。
 「おばあちゃん、早く元気になってよ」
 三人が、次々にこう言って、手を握り締めると、幸は、「うん、うん」と言いながら、頷いた。
 「孫は子よりもかわいい」とも言われる。幸にとって、孫たちの見舞いは、最高の宝物であったにちがいない。なかでも、正弘は、アメリカ建国二百年祭を記念して行われた全米総会などに出席していたため、幸は、その帰国を待ちわびていたのだ。
 幸は、嬉しそうに、孫たちを見て、「大丈夫だよ。よく来てくれたね」と言って、笑みを浮かべた。以来、彼女は、次第に、目に見えて元気になっていった。
 七月度の本部幹部会が行われた十八日夜、山本伸一は、「人間革命の歌」を完成させる。この時、彼は、曲について意見を聞かせてもらった、民音(民主音楽協会の略称)に勤務する植村真澄美と松山真喜子という、二人の女子部員に、詩「母」に曲をつけてほしいと頼んだ。
 詩「母」は、伸一が、五年前の一九七一年(昭和四十六年)の十月に作った詩である。母親の幸をはじめ、学会の全婦人部員を思い描きながら、作詩を進めたのだ。
 母よ!
 おお 母よ
 あなたは
 あなたは なんと不思議な力を
 なんと豊富な力を もっているのか
 この一節から始まる、約二百行の長編詩で、伸一は、母こそ万人の「心の故郷」であることを謳った。
 海よりも広く、深い、母の愛は、正しき人生の軌道へと、人を導く力でもある。
34  母の詩(34)
 山本伸一は、子に愛を注ぐ母という存在は、戦争に人を駆り立てる者との対極にあり、「平和の体現者」であると見ていた。
 彼は、詩「母」のなかで詠んだ。
 「だが母なる哲人は叫ぶ――
 人間よ
 静かに深く考えてもらいたい
 あなたたちの後ろにも
 あなたたちの成長をひたすら願う母がいる
 ベトナムのアメリカ兵にも
 わが子の生命を強烈に気づかう母がいる
 硝煙の廃墟に苦しむ解放軍の背後にも
 わが子の無事を祈り悲しむ
 傷ましい母が待っているのだ
 母という慈愛には
 言語の桎梏もない
 民族の氷壁もない
 イデオロギーの相克もない
 爽やかな畔道にも似ていようか
 人間のただ一つの共通の感情
 ――それは母のもつ愛だけなのだ」
 これは、伸一が、母の幸から学んだ、実感であり、哲学でもあった。
 母たちが人間革命し、さらに聡明になり、この母性の美質を、思想化していくなかに、確かなる平和の大道が開かれるというのが、伸一の信念であったのである。
 彼は、この「母」の詩にメロディーをつけて、わが母を、婦人部員を、そして、世界のすべての母たちを讃えたかったのである。
 伸一が、植村真澄美と松山真喜子に作曲を頼もうと思ったのは、七月二日のことであった。この日、戸田城聖が出獄した「7・3」を記念して、「恩師をしのぶ会」が行われた。その席で、彼女たちが、「厚田村」「森ケ崎海岸」「緑の栄冠」などの曲を、ピアノとマリンバで演奏してくれたのである。
 伸一は、歌の心を美事に表現した、優雅な演奏を聴いて、この二人なら、きっと、すばらしい曲をつけてくれると確信したのである。
35  母の詩(35)
 七月十八日、「人間革命の歌」が完成した時、山本伸一は、植村真澄美と松山真喜子に言った。
 「あなたたちに、頼みたいことがある。私の作った『母』の詩に、曲をつけてもらえないだろうか。
 もちろん、自由詩だから、そのまま、曲をつけるのは難しいと思うので、詩は歌にしやすいように整えてあります。それでも、曲にしにくいところがあれば、自由に直してかまいません。
 ただ、一つだけ要望があるんです。曲のイメージは、私の青春の思い出をうたった、あの『森ケ崎海岸』の歌のような感じにしてほしいんだがね」
 一瞬、二人は、当惑した顔で伸一を見た。彼女たちは、作曲の経験がないだけに、無理からぬ話である。
 しかし、すぐに心を決めたのであろう。「はい!」という元気な声が、はね返ってきた。これが、師弟の呼吸である。
 「無理なお願いをして申し訳ないね。悪いけど、頼むよ」
 山本伸一は、七月下旬、中部指導に出かけた。伸一が、東京に戻り、各部の夏季研修会に出席するため、神奈川の箱根研修所(現在の神奈川研修道場)にいた八月一日、一本のテープが届いた。詩「母」に曲をつけたテープである。
 早速、テープをかけてもらった。しかし、よい歌を作ろうとして凝りすぎてしまったのか、かなり難しい曲になっていた。
 伸一は、二人をねぎらう感謝の言葉とともに、率直な感想を伝えてもらった。
 「ちょっと難しすぎるように思います。皆が歌うので、すまないが、もう少し、歌いやすい曲にしてもらえないだろうか」
 二人は、自分たちが、一番大事なことを、見落としていたことに気づいた。
 ″歌は、民衆のためにある。みんなが歌えてこそ、本当にすばらしい歌といえる。私たちは、その先生の心を見失っていた……″
36  母の詩(36)
 植村真澄美と松山真喜子は、「もう少し、歌いやすい曲に」という山本伸一の思いに応えようと、苦心を重ね、曲を作り直した。
 彼女たちは、ようやく出来上がった「母」の歌をテープに吹き込み、八月四日の夕刻に本部に届けた。その夜、伸一は、妻の峯子とテープを聴いた。万人が母を思い、求めるような、自然で歌いやすい曲になっていた。
 「すばらしい歌ができましたね」
 峯子が、最初に微笑みを浮かべた。
 「いい歌だ。きっと母も喜ぶだろうし、全国、全世界の母たちが喜んでくれるだろう」
 そして、側にいた幹部に言った。
 「作曲をしてくれた二人に、『本当にありがとう。名曲です。明日の婦人部の集いで発表させてもらいます』と伝えてください」
 翌五日、伸一が出席して、創価大学で行われた婦人部の集いで、初めて、この歌が流されたのである。「母」の歌は、一番から三番の歌詞にまとめられていた。
 一、母よ あなたは
  なんと不思議な 豊富な力を
  もっているのか
  もしも この世に
  あなたがいなければ
  還るべき大地を失い
  かれらは永遠に 放浪う
 二、母よ わが母
  風雪に耐え 悲しみの合掌を
  繰り返した 母よ
  あなたの願いが翼となって
  天空に舞いくる日まで
  達者にと 祈る
 二番の歌を聴くと、伸一は、風雪の幾山河を勝ち越えてきた母・幸の、尊き栄光の人生が、思い返されてならなかった。
 母が幸せになってこそ、本当の繁栄といえる。母の笑顔が、まばゆく光ってこそ、社会の平和といえるのだ。
37  母の詩(37)
 山本伸一は、八月六日、鹿児島の九州総合研修所(現在の二十一世紀自然研修道場)での諸行事に出席するため、東京を発った。出発の前に、彼は、母・幸のもとに、「母」の歌のテープを届けてもらった。
 母の容体は、幸いにも小康状態が続いていた。そして、伸一が贈った「母」の歌のテープを、何度も聴いては、微笑みを浮かべて、嬉しそうに頷いていたという。
 ――この「母」の歌は、国境を超え、多くの人に愛されていくことになる。
 一九九二年(平成四年)二月、インドを訪問した山本伸一と妻の峯子は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを持参した。どうしても贈りたい人がいた。故ラジブ・ガンジー元首相の妻・ソニア夫人である。
 伸一は、八五年(昭和六十年)の十一月に首相が来日した折、核軍縮の問題や、中国との友好、青年への期待など、多岐にわたって語り合った。
 そのラジブ・ガンジー首相が、伸一の訪印する九カ月前の九一年(平成三年)五月、選挙遊説中に爆弾テロで命を奪われたのである。ラジブの母で首相であったインディラ・ガンジーも、八四年(昭和五十九年)十月、銃弾に倒れている。ソニア夫人は、猛り狂う悲劇の嵐のなかで、決然と立とうとしていたのである。
 伸一は、「母」と「人間革命の歌」の曲が入ったオルゴールを贈りながら語った。
 「母は太陽です。太陽は輝いてこそ太陽です。お義母様が亡くなられた直後、ご主人は『二十一世紀のインドを、ともどもにつくりあげていこう』と、全インドに呼びかけ、立ち上がられました。
 これからは、ご一家が、二十一世紀のその先までも、光を届けてください。
 『人間革命の歌』は、どんな吹雪にも胸を張って生き抜いていこうという心を歌ったものです。人生には、暴風雨があり、暗い夜もあります。それを越えれば、苦しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が光るものです」
38  母の詩(38)
 山本伸一は、ソニア夫人に懸命に訴えた。
 「運命を価値に転換してください。その人が人間としての勝利者です。王者です。
 ソニア夫人が悲しめば、亡きご主人も悲しまれるでしょう。夫人が笑顔で立ち上がれば、ご主人も喜ばれるでしょう。夫人とご一家の勝利が、ご主人の勝利となるでしょう」
 伸一は、ソニア夫人に、家族のためにも、インドの民衆のためにも、苦難に負けずに、強く、強く、生き抜いてほしかった。
 「前へ、また前へ進んでください。振り返らないことは、とても難しいことです。無理なことかもしれません。けれども偉大な人は、あえて足を踏みだす人です。
 お国の釈尊は、『現在と未来』を見よと教えました。すべては『これから』です。いつも『これから』なんです。前進のなかに勝利があります。栄光があります。幸福があります。
 一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人です。悲しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が来るのです」
 ソニア夫人は、伸一の贈り物のオルゴールを、気に入ってくれたようであった。
 二年後の一九九四年(平成六年)秋、夫人は、東京富士美術館で開催された「アショカ、ガンジー、ネルー展」のオープニング式典に、わざわざインドから来日してくれた。
 再会した折、ソニア夫人は言った。
 「前にインドでくださったオルゴールが、大好きで、毎日、聴いていました。娘のプリヤンカが、よく知っています。聴けない時は、寂しく感じます」
 そして、毎日、聴いていたため、遂にオルゴールは壊れてしまったというのである。
 伸一が、「新しいものを用意させます」と言うと、夫人は、静かに微笑を浮かべた。
 ″インドの母″の心は、「母」の歌と、共鳴の調べを奏で、あのオルゴールに愛着をいだいてくれていたのだ。
 伸一は、ソニア夫人の、その心が、嬉しくもあり、ありがたくもあった。
39  母の詩(39)
 「母」の歌にまつわる逸話は尽きない。
 一九九二年(平成四年)十二月、創価大学のロサンゼルス・キャンパス(当時)で、語学研修中の創価女子短大生が、米国の人権運動の母ローザ・パークスと懇談する機会を得た。
 短大生が尋ねた。
 「模範とされるのは、どなたでしょうか」
 即座に、答えが返ってきた。
 「母です。母は、強い意志をもって自分の尊厳を守ることを、教えてくれたからです」
 懇談のあと、短大生たちは、感謝の気持ちを込めて、「母」を合唱した。パークスには、英訳した歌詞が渡されていた。
 彼女は、感動した面持ちで歌に聴き入っていた。その目が涙で潤んだ。
 九四年(同六年)五月、″人権運動の母″は、山本伸一と峯子の招きで、初めての来日を果たし、創価大学で講演した。この時、パークスは、あの時の女子学生たちと会うことを希望していた。「母」の合唱が忘れられなかったのであろう。
 その要請に応え、「母」を歌ったメンバーの代表が集い、喜びの再会を果たしたのである。歌を通して、″人権運動の母″と娘たちの、固い絆が結ばれたのだ。
 また、二〇〇六年(同十八年)七月、中華全国青年連合会(全青連)の招聘を受けて、青年部の訪中団が上海を訪問した折、歓迎宴で、全青連のメンバーが提案した。
 「『母』の歌を歌いましょう」
 彼らも、この歌が好きなのだという。
 さらに、同年十一月、山本伸一に、名誉人文学博士号を授与するために来日した、フィリピン国立リサール・システム大学のデレオン学長は、創価世界女性会館で、「母」の歌の合唱を聴いた。
 自身も三児の母。彼女の父親は、九人の子どもを残して、若くして亡くなった。しかし、母親は、子どもを全員、大学で学ばせてくれた。学長は、感動をかみしめて語った。
 「魂を揺さぶられました。『母』に歌われている心は世界共通です」
40  母の詩(40)
 「母性は本来の教育者であり、未来に於ける理想社会の建設者」とは、創価の父・牧口常三郎初代会長の言葉である。
 トルストイは「母親のこころは、――それは地上における神性の驚くべき至高の現われです」と語り、オーストラリアの詩人ジェフリー・ペイジは「母たちの生きた一日また一日を、一夜また一夜を、私は讃える。来る年も来る年も、『不屈』の二字に彩られた、苦しくも実り豊かな母たちの人生を、私は讃える」と歌う。
 母性、母親への讃辞は、時には自分を犠牲にしてまで子どもを守り、生命を育もうとする愛の、強さと力への賞讃である。
 「開目抄」には、激流に流されても、幼子を抱き締めて、絶対に離さなかった母の譬えが引かれている。子を思う慈念の功徳によって、母は梵天に生じたと説かれる。
 大聖人は、人間の一念の在り方を、この母の慈念を手本として示されたのである。
 母は、子どもにとって最初の教師であり、生涯の教師でもある。それゆえ、母が、確固たる人生の根本の思想と哲学をもつことが、どれほど人間教育の力となるか。人間完成へと向かう母の不断の努力が、どれほど社会に価値を創造するか。母が、境涯を高め、聡明さを身につけていった時、母性は、崇高なる人間性の宝石として永遠なる光を放つのだ。
 「母」の歌の三番には、まさに、その山本伸一の願いが託されていた。
 三、母よ あなたの
  思想と聡明さで 春を願う
  地球の上に
  平安の楽符を 奏でてほしい
  その時 あなたは
  人間世紀の母として 生きる
 ひまわりのごとき母の微笑は、平和の象徴といえよう。女性を、一家の、社会の、人類の太陽として輝かせるために、創価学会という人間教育、女性教育の学びの園があるのだ。
41  母の詩(41)
 わが子を、戦争で失うことなど、絶対にいやだ。戦争には、断固として反対だ――それは、すべての母の思いであろう。
 しかし、それが、平和思想となって、深く広く根を下ろしていくには、自分だけでなく、子どもを戦場に送り出す、すべての母や家族の、さらには、戦う相手国の母や、その家族たちの苦しみ、悲しみを汲み上げ、生命尊厳の叫びとして共有していかなければならない。
 仏典では、わが子のみを愛おしみ、他人の不幸を意に介さない愚を、鬼子母神の姿を通して戒めている。
 ――鬼子母神は、王舎城の夜叉神の娘で、鬼神・般闍迦の妻である。彼女には、五百の鬼子がいたという。鬼子の数は、千、一万とする説もあるが、ともかく、たくさんの子をかかえていたのであろう。彼女の性質は暴悪で、人の子を取って食うことを常としていた。
 釈尊は、そんな鬼子母神を戒めるために、最愛の末子である嬪迦羅を隠してしまう。
 鬼子母神は、血相を変えて嬪迦羅を捜し回った。しかし、見つからなかった。
 彼女は、釈尊のもとに行き、わが子の安否を尋ねた。そこで釈尊は、鬼子母神の悪行を諭し、三帰五戒を授け、終生、人の子を取って食べることをしないと誓わせ、隠していた嬪迦羅を返したのである。
 鬼子母神のわが子への愛は、エゴイズムの延長にすぎなかった。しかし、彼女は、わが子がいなくなったことで、子を失う人の苦しみを知ったのだ。いわば、自分のエゴイズムに気づき、人と同苦できる素地がつくられたのである。
 鬼子母神は、法華経の陀羅尼品では、十人の羅刹女と共に、法華経を読誦し、受持する人を擁護し、安穏を得さしめ、わずらいを除くことを誓っている。悪鬼神から諸天善神となるのである。
 わが子を思う心は、万人の幸せを願い、守る心となって昇華したのである。それは、人生の大目的に目覚めた母の、偉大なる人間革命の姿を象徴するものともいえよう。
42  母の詩(42)
 近年、育児放棄をはじめ、児童虐待が急増しつつある。その要因には、″育児に縛られず、自由でありたい″という強い願望と、親としての責任感の欠如がある。
 本来、子育ての責任を自覚し、自分のエゴイズムをコントロールする心を培うことこそ、親になるための必須条件といえよう。
 子育ては、確かに労作業ではあるが、人間の生命を育む、最も尊貴な聖業である。そのなかに、最高の喜びがあり、生きがいもある。また、子どもを育てるなかで、親も、学び、磨かれていくのである。
 核家族化が進むなかでの子育てには、夫婦の協力が不可欠であることは言うまでもない。特に、共働きの場合は、妻の側にばかり過重な負担がかからないように、役割分担を明確にしていくことも必要であろう。
 しかし、シングルマザーであれば、一身に育児を担わなければならないケースが多い。その負担は、並大抵のものではあるまい。
 育児という労作業に勝ち抜く、強い心をつくるには、まず、「子どもをいかなる存在ととらえるか」、いわば、「どういう哲学をもつか」が極めて重要になる。
 御書には「法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん目出度覚え候ぞ」と仰せである。
 仏法では、すべての人間は、「仏」の生命を具え、偉大な使命をもって、この世に出現したととらえる。つまり、子どもは、未来を担い立つ、崇高な人格をもった、使命深き鳳雛と見る。ゆえに、仏法からは、決して、親の所有物などというとらえ方は生まれない。
 ある学会員の夫妻は、子どもが誕生した時に、こう思ったという。
 ″よくぞ、こんな私たちのところに生まれてきてくれた。ありがとう! 使命ある大切な子だ。大事に、大事に育てなければ……″
 わが子を、「仏」の生命を具えた、使命の人と見て、立派な人材に育ってほしいと願うからこそ、ただ、甘やかすのではなく、しっかりとした″しつけ″も、していけるのだ。
43  母の詩(43)
 子どものなかには、難病にかかって、生まれてくる子もいる。その宿命に真正面から向き合うことは、親にとっても、あまりにも辛く、苦しいことにちがいない。
 しかし、皆が尊極の「仏」の生命をもち、偉大なる使命をもって誕生しているのだ。
 ある婦人は、生まれた三女がダウン症候群で、しかも、心臓に二つの穴が開いていることを医師から告げられた。心臓の手術は成功するが、ダウン症候群とは、生涯、向き合わなければならない。しかし、母親は、″使命ある子なのだ″と、一心に愛を注いだ。
 小学校六年の長女も、二年の次女も、みんなで妹を大切に育てようと心に決めた。
 その三女が、笑うと、長女の顔にも、次女の顔にも笑みの花が広がった。
 母は、思った。″この子は、既に姉妹の心を一つにしてくれている。深い、深い使命をもって生まれてくれたんだ!″と。
 三女が、何かしゃべったり、寝返りを打ったり、おもちゃで遊んだりするたびに、家族は、皆、拍手をして喜び合う。
 次女は、作文に、「(ダウン症候群の妹が)がんばっている姿を見るだけで、私は勇気がわいてきます」「私に『何でもあきらめちゃだめだ!』って教えてくれたような気がします」「じまんの妹です。これから、どんなことがあっても、お姉ちゃんとして守ってあげようと思います」と書いている。
 長女もまた、「手術も乗り越え、みんなを喜ばす天使的存在の妹が、ほこらしく思えます」と作文に記している。
 なかには、生まれて間もなく、病などによって、早世する子どももいる。しかし、生命は永遠である。今世で妙法に巡り合えたこと自体が、宿命転換の道が大きく開かれたことである。父や母、家族などを、発心させゆく使命をもっての出生ともいえる。
 親子となって生まれてくる宿縁は、限りなく深い。親子は一体である。子の他界を契機に、親が信心を深め、境涯を開くことが、結果的に、その子の使命を決するともいえよう。
44  母の詩(44)
 子育ての苦労は限りない。それだけに、親が子どもを育てることの意義を、どう自覚し、いかなる哲学を胸中に打ち立てているかが、重要になる。
 もちろん、子育て支援や虐待の防止のためには、行政などの取り組みも必要不可欠である。しかし、より重要なことは、地域社会の中に、共に子どもを守り、若い母親を励まそうとする、人間のネットワークがあるかどうかではないだろうか。
 学会の婦人部には、仏法の眼から見た、子ども観や子育て観が確立されている。そして、既に子どもを育て上げた人たちの体験などが、日常の活動のなかで、若い母親たちに伝えられている。また、婦人部の「ヤング・ミセス」の組織には、子育ての悩みなどを相談し、励まし合う人間の輪がある。
 さらに、婦人部では、皆が自主的に、子育て中のメンバーを、さまざまなかたちで応援しているケースも少なくない。
 婦人部を中心とした学会の人間ネットワークは、核家族化が進んだ現代にあって、励ましと協力の地域交流のモデルとして、大きな役割を担っているといってよい。
 山本伸一は、八月十二日に、九州総合研修所から東京に戻ると、十四日には茨城を訪問し、郷土文化祭などに出席。健闘する友をねぎらい、讃えた。そして、十九日には、再び九州総合研修所での諸行事に出席するため、羽田空港を発った。
 空港に向かう途中、伸一は、峯子と共に、母の幸を見舞った。この時も、母は、「私は大丈夫だから、みんなのところに行っておあげ。みんなのために戦うお前を見ることが、いちばん嬉しいんだよ」と、病の床で、伸一たちを見送ってくれたのである。
 八月の末、伸一は、東京に帰った。神奈川、埼玉、静岡などの訪問のスケジュールが、ぎっしりと詰まるなか、九月五日の東京文化祭を迎えた。
 そして、この五日の朝、母・幸の容体が、思わしくないとの連絡を受けたのである。
45  母の詩(45)
 東京文化祭を終え、大田区の実家に駆けつけた山本伸一は、深い眠りについた母・幸の顔を、じっと見ていた。幾重にも刻まれた皺が、苦闘と勝利の尊き年輪を感じさせた。
 時計の音が、部屋に響いていた。
 伸一は、午前一時半ごろまで付き添っていたが、ひとまず帰宅することにした。六日は月曜であり、朝早く、決裁しなければならない事柄も多いからだ。
 伸一が帰って、五時間近くが過ぎた、九月六日の午前六時十五分、母・幸は、老衰のため、息を引き取った。
 享年八十歳。家族の唱える題目の声を聞きながら、安らかに、霊山へ旅立ったのである。
 伸一は、その知らせを受けると、直ちに自宅で御本尊に向かい、妻の峯子と共に、追善の勤行を行った。彼の脳裏に、平凡で慎ましやかだが、清く、強く、優しかった母との思い出が、次々に浮かんでは消えた。
 子だくさんで、家業が斜陽の道をたどるなかで生きた母の人生は、苦渋と忍耐の日々であったにちがいない。
 しかし、仏法を持ってからの母は、自らの使命に目覚め、ひたすら広宣流布を願い、喜々として題目を唱え続けた。人生の勝負は、総仕上げの晩年にこそ、あるといえよう。
 伸一が、実家に到着し、永眠した母と対面したのは、午前十時半過ぎであった。微笑むような、穏やかな顔であった。
 伸一は、母の冥福を祈って題目を三唱したあと、静かに心で語りかけた。
 ″母さん。安らかに眠ってください。伸一は、広宣流布のために戦い抜いてきました。母さんは、いつも私を優しく見守り、陰で支え続けてくれましたね。
 霊山に詣でられたら、山本伸一の母と名乗ってください。大聖人は、心から讃歎して、お迎えくださることは間違いありません。
 私は、これからも、母さんへの、報恩のため、世界の尊き母たちのために、人生の一切を、広宣流布に捧げてまいります。母さん。ありがとう!″
46  母の詩(46)
 山本伸一の母・幸の通夜は、九月七日に営まれ、翌八日には密葬が行われた。会場は、いずれも、東京・大田区の実家であった。
 出棺となった八日の午後二時過ぎ、車に乗ろうとして、伸一は空を見上げた。
 青空に雲が流れていた。
 十九年前のこの日は、横浜・三ツ沢の競技場で、戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を行った日である。その時の光景が、ありありと、伸一の脳裏に浮かんだ。そして、その戸田に、心から信頼を寄せ、戸田に仕えるわが子を、誇りに思うと語っていた、母の言葉が胸に蘇るのであった。
 ――それは、戸田の事業が暗礁に乗り上げ、窮地を脱するために、伸一が奮闘を重ねていたころのことである。給料も遅配が続き、オーバーも買えず、食事も満足にとれないような日々が続いていた。
 伸一は、久しぶりに、実家に立ち寄った。なんの土産も用意できなかったが、せめて母に顔を見せて、安心させたかったのである。
 母は、伸一の身なりから、わが子の置かれた状況を、すぐに察知したようであった。
 幸は、笑みを浮かべて言った。
 「戸田先生が、どれほど立派な方か、私には、よくわかります。たとえ、どんな事態になろうとも、先生のご恩を、決して忘れず、先生のために働き抜きなさい。それが、人間の道です。
 どんなに苦しいことがあっても、自分が正しいと信じた道を貫き、戸田先生に仕えるあなたは、私の誇りです。私のことや、家のことは心配せずに、先生とあなたの大きな理想のために、頑張り抜くんですよ」
 母は、こう言って、家にあった食べ物などを持たせてくれた。
 その言葉が、日々、師を守り抜くために億劫の辛労を尽くす思いで生きていた伸一にとって、どれほど大きな力となったことか。
 母の言葉には、万鈞の重みがある。慈愛と精魂を注いで育ててくれた人の励ましだからこそ、生命の奥深く、染み渡るのである。
47  母の詩(47)
 山本伸一の母・幸が他界したことを知った関西の創価女子学園(当時)の生徒たちは、すぐに、皆で「母」の歌を歌い、テープに吹き込んだ。冥福を祈っての合唱であった。そして、そのテープを、伸一に贈った。
 九月九日の朝、伸一は、それを聴いた。乙女たちの優しさと真心が、熱く、深く、心に染みた。彼は、感謝の思いを込めて、幸の写真を贈り、その写真を収めた台紙の表紙の裏に、歌を認めた。
 悲母逝きて
  娘らの おくりし
     母の曲
  今朝に 聞かなむ
    大空ひびけと
 十三日には、東京・品川区内で、幸の本葬儀が営まれた。
 伸一は、遺族を代表し、謝辞を述べた。
 彼は、母が、七月初旬、全くの危篤状態に陥り、医師も匙を投げた状態であったにもかかわらず、奇跡的な回復を遂げ、以来二カ月余、悠々自適の毎日を送り、満足しきった臨終を迎えたことを語った。
 信心による「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の実証を、彼は痛感していた。この母の勝利を、心から感謝し、讃嘆したかったのである。
 そして、これを機縁に、ますます広宣流布に精進していくことを誓い、烈々たる決意をもって話を結んだ。
 母は、世を去った。しかし、人を慈しむ母の心、平和を愛する母の思いは、伸一の心に、生き続けている。さらに、鉄の意志をもった父の心も……。父母の偉大さを証明するのは、残された子どもである。子が、いかなる生き方をし、何を成し遂げるかだ。父母は、じっと、わが子を見ているのだ。
 御聖訓には「父母の遺体は子の色心なり」と仰せである。伸一は、母の遺影に向かい、心で語りかけた。
 ″母さん! 伸一は大闘争を開始します″
48  母の詩(48)
 九月十三日に営まれた山本伸一の母・幸の本葬儀の際も、伸一の心を悩まし続けていたことがあった。台風十七号が、各地で豪雨をもたらし、被害を広げながら北上していたのである。
 被災地域は刻々と拡大し、十三日には、沖縄、九州、四国、中国、近畿、東海、関東甲信に及び、家屋の浸水や流失、死傷者、行方不明者も、増大の一途をたどっていた。
 創価学会では直ちに、救援本部を設置するとともに、被災各地の会館などにも救援本部を設け、全力で救援活動にあたった。
 方面や県の幹部らが被災現場を回り、激励を重ねるとともに、食料品、衣類、医療品、日用雑貨などの救援物資を被災者に届けた。
 伸一は、本葬儀の日にも、全国各地から寄せられた被災報告をもとに、さまざまな指示を出し、救援のあらゆる手を打ち続けた。彼は、第三代会長に就任した時から、人びとの苦悩がある限り、自分には、本当の休息日はないと、深く心に決めていたのである。指導者に、その決意なくして、広宣流布という大願の成就は、あり得ないからだ。
 そして、九月十四日には、静岡指導を開始し、熱海市の東海研修所(現在の静岡研修道場)を訪れたのである。ここには、この年の三月に、初代会長の牧口常三郎の遺徳を顕彰するための牧口園が開園していた。
 創価の先師・牧口は、一九四三年(昭和十八年)七月六日、弘教旅の途次、静岡の下田署に出頭を求められた。そして、東京に移送され、投獄されたのである。不敬罪と治安維持法違反の容疑であった。同じ日、弟子の戸田城聖も、東京で特高警察に連行されている。大弾圧の嵐が、襲いかかったのだ。
 牧口は、高齢の身でありながら、過酷な取り調べにも、微動だにしなかった。正法正義の旗を掲げ、取り調べの席でも、堂々と法を説き、信念を貫き通した。しかし、翌四四年(同十九年)の、秋霜の季節を迎えた十一月十八日、東京拘置所の病監で、七十三歳の生涯を閉じたのである。
49  母の詩(49)
 創価学会の興隆は、初代会長・牧口常三郎と、第二代会長・戸田城聖という師弟の、不惜身命の精神があったからであると、山本伸一は、深く痛感していた。
 日蓮大聖人は、報恩抄に「根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながし」と仰せである。
 法華経の精髄たる、真実の仏法を流布するため、殉教した牧口。そして、獄中で地涌の菩薩の大使命を悟り、生涯を広宣流布に捧げた戸田――この師弟という根をもち、その精神が脈動し続ける限り、創価学会は、未来永劫に興隆し続け、悠久の大河となろう。
 しかし、その師弟の精神が見失われてしまえば、そこから衰退が始まってしまう。
 伸一は、それゆえに、権力の過酷な迫害にも決して屈することなく、広宣流布に殉じた先師・牧口の死身弘法の精神を、後世永遠に顕彰し、伝え残さなければならないと決意していた。そして、牧口に縁の深い静岡県にある、この東海研修所に、牧口園を開設したのである。
 三月に開園式が行われた折、伸一は、園長となった大沢光久に言った。
 「どうして、ここに牧口園を開設したかわかるかい。もちろん、牧口先生が捕らえられたのが静岡県であるからだが、さらに、ここが、温暖で風光明媚なところだからだよ。
 戸田先生は、よく語っておられたが、牢獄の冬は、本当に辛かったそうだ。朝は氷を割って顔を洗い、夜は布団に入っても、震えが止まらない。そして、体が温まらないうちに、朝を迎えてしまうと言うんだ。
 また、独房の中からは、外の景色さえも見ることはできない。
 そんな獄中生活の果てに逝去された牧口先生を顕彰する場所は、冬も比較的温暖で、美しい景色のところでなければならないと、私は心に決めていた。
 それで、ここに、報恩感謝の思いで、牧口先生の魂魄を永遠に刻む地として、牧口園を設けたんだよ」
50  母の詩(50)
 牧口園の開園式では、「創立の志」をはじめ、「学会精神」「常住」「大慈」「大志」「一人立つ精神」「後継の弟子」など、初代会長・牧口常三郎の文字が刻まれた石の除幕式が一斉に行われた。
 これは、創価の父・牧口の精神を偲ぶ、縁となるものを残したいとの思いから、山本伸一が設置を推進してきたものであった。
 伸一は、開園式で幹部らに言った。
 「この東海研修所には、多くの人たちが、研修のためにやって来る。その時に、牧口先生、そして、戸田先生の精神に触れることができるようにしたいんだよ。
 ここには、牧口先生の胸像も建てよう。また、戸田先生の歌や文字なども残していこう。創価学会の万代の興隆、発展のために、峻厳な師弟の道を学ぶ牧口園にしていきたいんだよ。
 また、ほかの研修所や会館などにも、牧口先生や戸田先生の文字を刻んだ石を設置していこう」
 創価の師弟の精神を永遠ならしめるために、伸一は、心を砕き続けていたのである。
 その牧口園の開園から半年ぶりに、東海研修所を訪れた山本伸一は、九月十五日、牧口常三郎の胸像除幕式に臨んだ。
 代表の手で紐が引かれると、風雪を刻んだ、凛々しき王者の風貌をした牧口の銅像が、初秋の日差しに映えた。
 引き続き、牧口の父母を顕彰し、その名をつけた、「長松の楠」「イネのつつじ」の記念植樹が行われた。
 伸一は、この日、さらに、男子部、学生部の精鋭の研修会に出席した。そのスピーチのなかで、彼は、なぜ先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖を守り、宣揚し抜いていくのかを語った。
 「それは、私どもに、大聖人の仏法を、御本尊を、御書を教えてくださったのは、牧口先生、戸田先生であったからであります」
 師恩を知るところから、弟子の道は始まる。
51  母の詩(51)
 山本伸一は、力説した。
 「いかに仏法がすばらしく、御本尊が偉大であっても、それを教えてくれる人がいなければ、何も伝わりません。永遠に無に等しい。ゆえに、大聖人は『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』と仰せになっているんです。
 したがって、その偉大なる法を教えてくださった師を讃え、報恩に生きることが大切であり、そこに人間の真の道もあります」
 そして、彼は、「主師親御書」を拝しながら、仏法を持ち抜いていくなかにこそ、成仏、すなわち、最高の幸福道があることを述べていった。
 「人は、ともすれば、ある程度の身分や立場を得たり、有名になっただけで、自分ほど、偉い者はいないような気になり、これほどの喜びはないと錯覚してしまう。
 大聖人は、その姿を、『少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり』と喝破されている。
 牧口先生は、秋霜の獄舎で亡くなられた。しかし、その死は、正法のための誉れある殉教であり、その境地は、絶対的幸福境涯でありました。どうか諸君は、地位や名誉、財産などといったことに紛動される人生ではなく、信仰の王道を、わが人生の使命の道を、堂々と進んでいっていただきたい。
 さらに、大聖人は、このあとに、『而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや』との経文を引かれ、常に諸難が競い起こることを確認されている。
 広宣流布の道に難があるのは当然です。学会の前途は、怒濤の連続でしょう。しかし、諸君は、仏子の集いである学会を守り抜き、ひとたび決めた使命の道を、敢然と歩み通していってください」
 伸一は、青年部の代表に、殉教の先師を顕彰する牧口園で、研修を行ったことの意義を、深く自覚してほしかった。
52  母の詩(52)
 九月十六日、山本伸一は、牧口園で行われた、戸田城聖の歌碑の除幕式に出席した。
 代表メンバーの手で、白布が取り除かれると、石に刻まれた戸田の歌が、目に飛び込んできた。
  妙法の
    広布の旅は
      遠けれど
    共に励まし
      共どもに征かなむ
 一九五五年(昭和三十年)の新春に詠んだ歌である。ここには、師弟の、そして、同志の絆の大切さが歌われている。
 広宣流布は一人立たねばできない。と同時に、互いに励まし合い、共に進もうという団結なくしては、広宣流布の広がりはない。
 戸田は、その大聖業を果たしゆく創価学会という教団は、「創価学会仏」であると宣言した。
 大聖人は仰せである。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
 つまり、水魚の思いをもって、心を一つにして信心に励む時、生死一大事の血脈、すなわち、妙法の血脈が流れ通うのだ。
 ゆえに、「創価学会仏」たる根本条件は、広宣流布への異体同心の団結にある。したがって、戸田城聖のこの歌は、全同志が永遠に心に刻むべき指針となるのだ。
 伸一は、この日、牧口園に、戸田の父母の名をつけた「甚七楠」「すえつつじ」を記念植樹した。彼は、恩師を顕彰するために、あらゆる手を尽くしていったのである。
 さらに、その後、十九日には熱海文化会館での本部幹部会、二十日には牧口園で行われた、壮年・男子部の人材育成グループの集いなどに相次ぎ出席。二十一日まで、静岡指導は続いたのである。
53  母の詩(53)
 ″先師・牧口初代会長、恩師・戸田第二代会長――この両先生の死身弘法の精神を継承せずしては、広宣流布の未来も、学会の未来もない!″
 これが、山本伸一の結論であった。だから彼は、全国の研修所(現在の研修道場)をはじめ、各地の主要会館などに、その精神を思い起こし、学ぶ縁となる石碑などの設置を提案し、推進していったのである。
 伸一は、九月の二十四日から十月六日まで、関西、中部を訪問した。京都文化会館(当時)では、牧口の「一人立つ精神」、戸田の「広布の誓」の文字を刻んだ石を除幕。和歌山県・白浜町の関西総合研修所では、庭に、先師、恩師の名を冠し、「牧口庭園」「戸田庭園」と命名している。
 十月二日は、第一回「世界平和の日」記念勤行会が、東京・信濃町の学会本部をはじめ、全国の主要会館で実施された。
 「世界平和の日」は、伸一が、初の海外訪問に出発し、世界平和への第一歩を踏みだした一九六〇年(昭和三十五年)の十月二日を記念して、九月の副会長室会議で決定したものである。
 関西を訪問中の伸一は、関西センター(当時)での記念勤行会に出席し、あいさつした。
 「牧口初代会長は、万人が仏になるという仏法哲理を掲げ、軍部政府と戦い、殉教された。そして、戸田第二代会長は、生命の尊厳のうえから、また、被爆国民の使命のうえから、『原水爆禁止宣言』を発表され、世界平和への道を開くことを私に託されました。
 世界平和を願う私の信念は、先師、恩師によって育まれたものであります。また、私の平和行動の原動力は、戸田先生のご遺志を実現せんとする弟子としての一念にあります。
 私は、平和創造の道を模索し、日本と敵国として戦ったアメリカの、なかでも日米開戦の舞台となったハワイを最初に訪問しました。さらに、次の旅では、英国領の香港(当時)をはじめ、日本が占領したアジア各地を、平和への誓いを込めて歴訪いたしました」
54  母の詩(54)
 初の海外訪問から十六年――山本伸一は、ソ連のコスイギン首相とも、中国の周恩来総理とも、また、アメリカのキッシンジャー国務長官とも会談し、平和への対話を重ねてきた。つまり、米・中・ソという、当時、世界平和の大きなカギを握る国々へ飛び込み、首脳と友誼の絆を結び、人間交流の新しい道を開いてきたのである。
 平和の道も、友好の道も、すべては、勇気ある対話から始まる。
 初代会長・牧口常三郎は、獄中にあって、取り調べの予審判事にも、「さあ、討論しよう!」と言って、堂々と仏法を説いた。第二代会長・戸田城聖も、時の首相であろうが、いかなる権力者であろうが、恐れなく、仏法への大確信を語り抜いている。
 社交辞令の語らいにとどまっていれば、本当の友情は生まれない。勇気の対話があってこそ、魂の打ち合いと共鳴があり、相互理解も、深き友情も培われていくのだ。
 関西から中部に移動した伸一は、十月五日、中部第一総合研修所で、牧口、戸田両会長の「父桜」「母桜」を、それぞれ植樹。さらに、この年が、牧口の生誕百五年にあたることから、樹齢百五年の楠を記念植樹したのである。
 十月下旬、伸一は、北海道・東北指導に訪れ、二十五日には、戸田の故郷・厚田村での戸田記念墓地公園の着工式に出席した。その建設構想は、″戸田先生を宣揚し、恩師を育んだ故郷を、広く世界に知らしめ、三世にわたる師弟の誓いの天地にしたい″との思いから、彼が練り上げてきたものであった。
 また、東北では、青森県・十和田湖町(現在の十和田市)の東北総合研修所を訪問し、牧口初代会長の「授記」「一人立つ精神」の文字が刻まれた石などの除幕式に臨んだ。
 ″今こそ、先師、恩師の精神を、全国、全世界の同志に伝え残し、一人ひとりの胸中深く、広宣流布の魂を刻印していくのだ!″
 伸一は、師弟の精神を永遠ならしめるために、走り抜いたのである。
55  母の詩(55)
 十一月中旬、中部・北陸・関西指導に旅立った山本伸一は、戸田城聖の生誕の地・石川県に足を運んだ。
 十三日、彼は、石川文化会館で、「戸田記念室」を設置し、石川広布の原点の地として荘厳していくように提案。翌日には、富山文化会館を訪問し、「牧口記念室」の設置を提案したのである。
 そして、十七日、大阪府豊中市に誕生した関西牧口記念館の開館式に臨んだ。創価学会の創立記念日であり、初代会長・牧口常三郎の殉教の日でもある「11・18」を、翌日に控えてのオープンであった。
 十一月十八日――この日、伸一は、関西戸田記念講堂での、学会創立四十六周年の記念式典、並びに、牧口の三十三回忌法要に出席したのである。席上、伸一は語った。
 「正法正義を守り抜き、誉れの殉教者として、死して獄門を出た先師・牧口先生。そして、その師に代わって、広宣流布に生涯を捧げようと誓い、生きて獄門を出て、死身弘法の実践を貫いた戸田先生――この厳粛な師弟一極の歩みのなかに、地涌の菩薩の本事たる広宣流布の道があるのであります」
 戸田は、牧口の三回忌法要の折、牧口の遺影に、こう誓っている。
 ――「この不肖の子、不肖の弟子も、二カ年の牢獄生活に、御仏を拝し奉りては、この愚鈍の身を、広宣流布のため、一生涯を捨てる決心をいたしました。ご覧くださいませ。不才愚鈍の身ではありますが、あなたの志を継いで、学会の使命を全うし、霊鷲山会にて、お目にかかる日には、必ずや、お褒めにあずかる決心でございます」
 伸一もまた、誓うのであった。
 「牧口先生が獄舎にあって、ご老体の身で、殉教の瞬間まで、壮絶無比なる戦いをされたのは、全部、今日の私たちのためであります。
 その精神の継承なくして広宣流布はない。私も、牧口先生、戸田先生の志を受け継ぎ、わが生命を広布に捧げ抜いてまいります」
 師弟ありてこそ、永遠なる創価の広宣流布の大道がある。

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