Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第23巻 「敢闘」 敢闘

小説「新・人間革命」

前後
2  敢闘(2)
 全国から集った「青春会」のメンバーと勤行した山本伸一は、皆に視線を注ぎながら、語り始めた。
 「人生には、生老病死の四苦がつきまとっています。生まれてくること、生きること――そこにも、常に苦しみがあります。
 生を受けても、経済的に豊かな家に生まれる人もいる。反対に、食べていくことさえ大変な、貧しい家に生まれる人もいる。
 また、健康な体で生まれる人もいれば、病をもったり、病弱な体で生まれてくる人もいる。両親の愛情を一身に受けて育つ人もいれば、愛情に恵まれない環境で育つ人もいる。
 そこに宿命という問題がある。これは、学問や科学では、割り切れない問題です。既成の宗教でも、解決できません。日蓮大聖人の大仏法にしか、この問題を解決し、乗り越えていく道はありません」
 伸一は、なんのための信仰かを、メンバーに心の底からわかってもらいたいとの思いから、女性の一生に即して、宿命について語っていった。
 「皆さんは、やがて結婚されるでしょう。娘時代は、どんなに華やかで、名門の大学を出て、周囲から賞讃されていたとしても、結婚によって、どんな人生を歩むようになるかは、わかりません。
 夫や舅、姑との不仲に悩む人もいる。夫の仕事が行き詰まらないとも限らない。あるいは、夫が病に倒れたり、死別することもあるかもしれない。
 さらに、出産しても、生まれてきた子どもに先天的な病があるかもしれない。将来、子どものさまざまな問題で、悩むこともある。
 また、自分自身が、難病などで苦しむことだってあります」
 苦悩なき人生はない。それらの苦悩、宿命との格闘劇が、人生といえるかもしれない。
 その宿命を転換し、人生を勝ち越えていく、勇気と力の源泉が、仏法であり、信仰なのだ。そして、苦悩に負けない自身をつくり上げる場こそが、学会活動なのである。
3  敢闘(3)
 山本伸一は、さらに、「生老病死」のなかの、「老」について語っていった。
 「人間は、誰でも老いていく。人生は、あっという間です。過去がいかに幸せであっても、老いて、晩年が不幸であれば、わびしい人生といわざるを得ない。
 その人生を幸福に生き、全うしていくための、堅固な土台をつくるのが、女子部の時代なんです。
 若い時代に、懸命に信心に励み、将来、何があっても負けない、強い生命を培い、福運を積んでいくことが大事です。
 皆さんには、年老いて、“もっと、題目をあげておけばよかった”“真面目に信心に励んでいればよかった”“もっと、社会に貢献しておけばよかった”と、後になって悔いるような人生を送ってもらいたくはない」
 そして、「死」の問題に移っていった。
 「また、いかなる人間も、死を回避することはできない。
 文豪ユゴーは、『人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ』(ユゴー著『死刑囚最後の日』斎藤正直訳、潮出版社)と記している。
 トインビー博士も、対談した折に、しみじみと、こう語っていました。
 ――人間は、皆、死んでいく。生死という冷厳な事実を突き付けられる。
 しかし、社交界で遊んだり、それ以外のことを考えたりして、その事実を直視せずに、ごまかそうとしている。だから、私は、日本の仏法指導者であるあなたと、仏法を語り合いたかった。教えてもらいたかった。
 死という問題の根本的な解決がなければ、正しい人生観、価値観の確立もないし、本当の意味の、人生の幸福もありません」
 ゆえに日蓮大聖人は、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せなのである。
 伸一は力説した。
 「その死の問題を、根本的に解決したのが、日蓮大聖人の仏法です。広宣流布に生き抜くならば、この世で崩れざる幸福境涯を開くだけでなく、三世永遠に、歓喜の生命の大道を歩み抜いていくことができるんです」
4  敢闘(4)
 「青春会」のメンバーは、瞳を輝かせ、真剣な表情で、山本伸一の話を聞いていた。
 伸一は、力のこもった声で語った。
 「信心をしていても、当然、生老病死の四苦はあります。
 しかし、広宣流布のための人生であると心を定め、強盛に信心に励んでいくならば、わが生命が大宇宙の根本法たる妙法と合致し、あらゆる苦悩を悠々と乗り越えていくことができるんです。
 信心に励んでいる生命の大地には、福運の地下水が流れていく。大風や日照りの日があっても、やがては、その生命の大地は豊かに潤い、幸の実りをもたらします。
 ともかく、何があろうが、生涯、広宣流布に生き抜いていくことです。いざという時、『よし、やるぞ!』と、決然と立ち上がり、勝利の旗を打ち立て、学会を守り抜いてください。
 そのための『青春会』です。二十一世紀の広宣流布の責任を担うのが皆さんです。その使命を絶対に忘れないでいただきたい」
 伸一は、未来の広宣流布を託すつもりで、全力で激励を重ねた。
 出発間際まで、「青春会」の激励を続けた伸一は、それから、三重の中部第一総合研修所に向かった。
 列車を乗り継ぎ、研修所に到着した時には、午後五時を回っていた。伸一が、この研修所を訪問するのは、初めてのことであった。
 研修所は、したたる緑の中にあった。布引山地の美しい山並みが、日没前の陽光に照らされていた。
 彼は、直ちに研修所内を視察した。研修所のなかに建てられた三重記念館の前には、初代会長・牧口常三郎の「一人立つ精神」の文字を刻んだ石や、伸一の「共戦」の文字を刻んだ石もあった。
 また、第二代会長・戸田城聖の「広布の誓」の文字や、牧口の「創」の字が刻まれた石もあった。
 歴代会長の精神を偲ぶために、伸一の提案で設置されたものである。
5  敢闘(5)
 三重記念館の館内に入ると、初代・二代会長の遺品や、ゆかりの品々が展示されていた。
 山本伸一は、丹念に見て回った。
 牧口初代会長が愛用した万年筆もあった。キャップはなく、「MAKIGUCHI」というローマ字が入っており、かなり使い込まれている。
 “このペンで、どれほど激励の便りを書かれたことだろうか。その手紙によって、勇気を得て、断じて幸福になろうと、敢然と立ち上がった同志も多いにちがいない……”
 また、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、横浜・三ツ沢の競技場で行われた第四回東日本体育大会で、戸田城聖が使用した皮ケース付きの双眼鏡もあった。
 この席上、戸田は、「第一の遺訓」として、あの「原水爆禁止宣言」を発表し、男女青年部に、その思想を全世界に広めゆくことを託したのである。
 “戸田先生は、双眼鏡をのぞき、若い力をぶつけ合う、たくましい青年たちの英姿を、どんな思いでご覧になっていたのだろうか。
 いや、その目は、広宣流布の栄光の未来を見つめておられたにちがいない”
 伸一は、戸田の平和思想を、全人類の共通認識とするまで、断じて戦い抜かねばならないと、誓いを新たにするのであった。
 さらに、四七年(同二十二年)八月十四日、伸一が、初めて戸田と出会った座談会場の、座卓や柱時計も展示されていた。
 あの夜の、運命的な出会いが、まざまざと蘇り、懐かしさがあふれた。
 “戸田先生あればこそ、大仏法に巡り合うことができた。先生あればこそ、今の自分がある。先生、伸一は幸せ者です……”
 戸田を思う時、必ず、伸一の心は、師への感謝でいっぱいになった。そして、感謝は歓喜と報恩の決意となり、広宣流布への闘魂の炎となって燃え上がるのであった。
 韓国の“独立の闘士”であった大詩人の韓龍雲は語っている。
 「感謝の心! そこに理解もあり、尊敬もある。満足もあり、平和もあるのだ」(『韓龍雲語録』キムサンヒョン編、詩と詩学舎)
6  敢闘(6)
 各地に、歴代会長の遺品等を展示した記念館や記念室をつくろうと提案したのは、山本伸一であった。
 初代会長の牧口常三郎や第二代会長の戸田城聖の闘争と、その精神を学び、継承していくうえで、遺品や、ゆかりの品々に触れることは、必要不可欠であると考えたからだ。
 時がたてば、牧口や戸田を知る人もいなくなってしまう。その偉業や精神を伝える一つの方法は、書き残すことである。
 だから伸一は、二十一歳で戸田の会社に勤め、戸田の身近で仕えるようになってから、日々の指導のことごとくを、メモに残してきた。その指導には、恩師の思想が凝縮されていた。
 さらに、遺品や写真などを、直接、見ることができれば、師を偲ぶ縁となり、その存在を身近に感じることができる。また、その品々は、師の偉業を裏づける証拠ともなる。
 そもそも、「学会を永遠ならしめるために、師匠の魂魄を永遠にとどめる場所をつくらねばならない」というのが、戸田城聖の考えであった。
 戸田は、一九五三年(昭和二十八年)に、学会本部が東京・千代田区の西神田から、新宿区の信濃町に移転した折、自分が使う会長室よりも立派な一室を、「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口の写真を飾った。
 そして、伸一に語った。
 「ここには、牧口先生の生命がおられる。この学会本部で、私は、常に牧口先生と一緒に、広宣流布の指揮を執っていく。
 大聖人は『法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し』と仰せである。南無妙法蓮華経という法のために殉教なされたのが牧口先生だ。
 その先生のご精神をとどめてこそ、学会本部は尊貴なる場所となるのだ。ゆえに、学会の創始者である牧口先生のご精神を本部にとどめ、先生を讃嘆し、宣揚し、敬愛していくのだ。
 それは、広宣流布の団体として発展していくための基本中の基本だ」
 伸一は、師弟の真髄に触れた思いがした。
7  敢闘(7)
 戸田城聖は、それから、遺言を伝えるような厳粛な目で、山本伸一を見た。
 「将来、広宣流布のために、日本各地に会館をつくることになるだろう。いや、世界にも、多くの会館が誕生することになるだろう。また、断じて、そうしなければならない。
 その時には、『師と共に』という学会精神を、永遠ならしめるために、『恩師記念室』を設けて、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくのだ」
 戸田の言葉は、伸一の胸を射た。どこまでも師匠の精神を伝え抜き、宣揚していこうとする心に、彼は、熱いものが胸に込み上げてきてならなかった。
 "牧口先生のみならず、この戸田先生のご精神も大賞讃しなくてはならない。師弟の結合があり、師弟の血脈が流れてこその、創価学会である。そこに、広宣流布の永遠の流れがつくられるからだ!"
 創価学会の創立の日となった、一九三〇年(昭和五年)の十一月十八日は、『創価教育学体系』の発行日である。思えば、この発刊自体が、師弟共戦の産物であった。
 ――牧口常三郎の教育学説が「創価教育学説」と名づけられたのは、この年二月のことであった。
 当時、牧口は、東京・芝の白金尋常小学校の校長をしていたが、しばらく前から、教育局長や視学課長らによって、彼を排斥しようという動きが起こっていたのである。
 牧口は、小学校長在任中に、自分が積み上げてきた経験と思索をもとにした、後代の小学校教員の拠り所となる教育学説を、発表しておきたいと考えていた。
 二月のある夜、牧口と戸田は、戸田の家で火鉢を挟み、深夜まで語らいを続けていた。その席で、教育学説を残したいという牧口の考えを、戸田は聞いたのだ。
 多くの学者が、欧米の学問に傾倒していた時代である。日本の一小学校長の学説を出版したところで、売れる見込みはなく、引き受ける出版社もないことは明らかであった。
8  敢闘(8)
 牧口常三郎は、自分の教育学説出版の意向を戸田城聖に語ったあと、すぐに、それを打ち消すように言った。
 「しかし、売れずに損をする本を、出版するところはないだろう……」
 戸田は、力を込めて答えた。
 「先生、私がやります!」
 「しかし、戸田君、金がかかるよ」
 「かまいません。私には、たくさんの財産はありませんが、一万九千円はあります。それを、全部、投げ出しましょう」
 小学校教員の初任給が五十円前後であったころである。師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。
 「私は、体一つで、裸一貫で北海道から出て来ました。そして、先生にお会いしたことで、今日の私があるんです。また裸一貫になるのは、なんでもないことです」
 牧口は、じっと戸田を見て頷いた。
 「よし、君が、そこまで決心してくれるのなら、ひとつやろうじゃないか!」
 牧口の目は、生き生きと輝いていた。
 そして、つぶやくように言葉をついだ。
 「さて、どんな名前にしようか……」
 すると、戸田が尋ねた。
 「先生の教育学は、何が目的ですか」
 「一言すれば、価値を創造することだ」
 「そうですよね。……でも、価値創造哲学や、価値創造教育学というのも変だな」
 「確かに、それでは、すっきりしない。創造教育学というのも、おかしいしな……」
 戸田は、頬を紅潮させて言った。
 「先生、いっそのこと、創造の『創』と、価値の『価』をとって、『創価教育学』としたらどうでしょうか」
 「うん、いい名前じゃないか!」
 「では、『創価教育学』に決めましょう」
 時計の針は、既に午前零時を回っていた。
 師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。
9  敢闘(9)
 牧口常三郎の教育学説の発刊の難題は、いかに原稿を整理し、まとめるかであった。
 牧口の場合、原稿といっても、校長職の激務のなかで、封筒や広告の裏、不用になった紙などに、思いつくままに、書き留めてきたものが、ほとんどである。
 二度、三度と、同じ内容も出てくる。それを順序立てて構成し、文章を整理しなければ、とうてい本にはならない。
 だが、その労作業を買って出る人などいなかった。牧口も悩んでいた。
 「先生、私がやりましょう」
 その時に、名乗りをあげたのも、戸田城聖であった。
 「戸田君、そこまで君にやらせるわけにはいかんよ。それに、いかに数学の才のある君でも、文章を整理するという畑違いの仕事だけに、困難このうえない作業になるぞ」
 牧口は、戸田に、これ以上の苦労をかけまいと、拒んだのである。
 「先生。私は、文章の才はないかもしれません。また、難しいことは言えません。しかし、戸田が読んでわからないような難解なものが出版されても、誰が読むでしょうか。
 先生は、誰のために、出版しようとされるんですか。世界的な、大学者に読ませるためですか。戸田が読んでわかるものでよろしければ、私がまとめさせていただきます」
 そして、戸田が、この作業を行うことになったのである。
 切れ切れの牧口の原稿の、重複する個所はハサミで切って除き、自宅の八畳間いっぱいに並べてみた。すると、そこには、一貫した論旨と、卓越した学説の光彩があった。
 戸田は、牧口への報恩感謝の思いで、この編纂の労作業を、自らに課したのである。
 そして、一九三〇年(昭和五年)十一月十八日、『創価教育学体系』第一巻が、「発行所 創価教育学会」の名で世に出るのだ。
 表紙の題字と牧口の著者名は、金文字で飾られていた。ここにも戸田の、弟子としての真心が込められていた。
10  敢闘(10)
 『創価教育学体系』第一巻の「緒言」(序文)に、牧口常三郎は、この発刊にあたって、青年たちが、原稿の整理や印刷の校正に尽力してくれたことに触れ、なかでも、戸田城聖の多大な功績について記している。
 そこには、戸田が、牧口の教育学説を時習学館で実験し、小成功を収め、その価値を認めて確信を得たことから、学説の完成と普及に全力を捧げたことが述べられている。
 また、戸田の著書『推理式指導算術』についても、「真に創価教育学の実証であり又先駆である」と賞讃した。
 さらに、デンマークの国民高等学校(フォルケホイスコーレ)を創設したニコライ・グルントウィと、その若き後継者であるクリステン・コルを、自分と戸田に重ね合わせている。
 そして、戸田の存在によって、「暗澹たる創価教育学の前途に一点の光明を認めた感がある」と綴ったのだ。
 まさに、創価学会は、その淵源から、師弟をもって始まったのである。ゆえに、師弟の道を、永遠に伝え残していくなかに、創価の魂の脈動があるのだ。
 そして、この師弟の道は、弟子が師匠の精神と実践を学ぶことから始まる。それには、師匠の遺品や、ゆかりの品々に触れることが大事になると、山本伸一は考えたのである。
 伸一は、戸田が逝去した直後から、広宣流布の恩師の精神と足跡をとどめる品々を集めることに、最大の努力を払ってきた。いな、戸田の生前から、そのために、心を砕いてきたといってよい。
 戸田の講義などのレコード製作を進めたのも、伸一であった。
 彼が、戸田の「声」を、永遠に残さねばならぬと思ったのは、一九五一年(昭和二十六年)二月。戸田のもとに十四人の青年が集い、ホール・ケインの小説『永遠の都』を学んだ時のことである。
 ――主人公のロッシィが、自分を育ててくれた老革命家の声を、蓄音機で聴く。それは、流刑地からの、後を頼むとの遺言であった。ロッシィは感涙にむせび、革命を誓うのだ。
11  敢闘(11)
 戸田城聖を囲み、『永遠の都』を学びながら、山本伸一は、ひとり思った。
 “先生の叫びを、永遠に残したい。いつかレコードのようなかたちで!”
 一九五九年(昭和三十四年)の元旦――。
 戸田が世を去って、初めて迎えた新春である。信濃町の学会本部に集った弟子の代表で、戸田の講義を収めた録音テープを聴いた。
 提案したのは、伸一であった。歳月は、精神を風化させる。学会にあっては、それは、広宣流布の破綻を意味する。彼は、戸田の叫びが、薄らいでいくことを憂えたのだ。
 力強い、恩師の声が流れると、場の空気は一変した。戸田と対座するかのように、誰もが襟を正し、感涙に眼を潤ませ、敢闘を誓った。
 「師は、人々の中に眠っている偉大な力を爆発させる」(N・ラダクリシュナン著『池田大作 師弟の精神の勝利』栗原淑江訳、鳳書院)とは、インドのガンジー記念館の館長を務めたラダクリシュナン博士の洞察である。
 ほどなく、伸一は、師の「声」をレコードにして、永遠に残す事業に着手し、戸田の講義、講演等のテープ百六十余本を集めた。
 レコードの一枚目となる「可延定業書」講義が完成したのは、この年の七月であった。そのジャケットには、「創価学会々長戸田城聖先生の教え」との、伸一の文字が躍っていた。
 戸田の師子吼を聴いた同志は、弟子の誓いを新たにし、大前進を開始したのだ。
 また、伸一は、戸田の映像も、動画として残しておかねばならないと考えていた。
 一九五五年(昭和三十年)の年の瀬であった。戸田は、伸一に言った。
 「聖教新聞のカメラマンが、学会の主要行事を、映画フィルムで撮っておきたいと言っている。
 しかし、機材も、フィルムも、かなり高額だ。いろいろと支出も多いだけに、そうしたことに金をかけるべきかどうか、考えているんだよ」
 すると、伸一は、即座に答えた。
 「先生、それは、後世に先生の真実の姿と精神を伝えていくうえで、最優先すべきことであると思います。私からもお願いします」
12  敢闘(12)
 学会の主要行事を映画に収めようというのは、実は、山本伸一が、今後の構想として、青年たちに語ってきたことであった。
 伸一は、戸田城聖に、重ねて進言した。
 「先生、今や映画の時代です。ぜひ、未来のために、重要な行事だけでも、撮影させていただきたいと思います」
 「そうか。わかった、伸一に任せよう」
 こうして、一九五六年(昭和三十一年)の主要行事をはじめ、大阪大会や横浜・三ツ沢の競技場での「原水爆禁止宣言」、さらに、青年部に広宣流布の後事の一切を託した「3・16」の記念式典などが、映画フィルムに収められていくことになる。
 すべては、師匠の真実の姿を永遠に残し、その精神を、誤りなく伝えたいとの、伸一の一念から発したものであった。
 初代会長・牧口常三郎は、広宣流布の旗を掲げ、軍部政府の弾圧によって、獄中で殉教した。第二代会長・戸田城聖は、生きて牢獄を出て、生涯を広宣流布に捧げた。
 まさに、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」との御聖訓のままに、広宣流布に生き抜いてきたのが、創価の師弟である。
 その師弟の精神が永遠に流れ通ってこその、創価学会である。
 したがって、特に組織の中核となる最高幹部には、“ただ、ただ、広宣流布のために!”という、清浄にして崇高な師弟不二の大精神が、横溢していなければならない。
 口先だけで、広宣流布の先頭に立って戦うこともなく、名聞名利を欲するような人間が、もし、幹部として君臨するようになれば、学会の魂は崩れ去ってしまう。
 ゆえに、伸一は、幹部をはじめ、次代のリーダーとなる青年たちに、この師弟の精神を、深く、深く、刻み込んでいかなければならないと思っていたのである。
 また、堕落の萌芽を目にしたならば、それは、直ちに摘み取らねばならないと、強く決意していた。それが、本人のためであるし、学会を守ることにもなるからだ。
13  敢闘(13)
 山本伸一は、中部第一総合研修所に到着した七月二十三日の夜、同研修所内に完成した三重記念館の開館記念勤行会に出席した。
 この勤行会でも、「人間革命の歌」の熱唱が響いた。
 歌が出来上がり、聖教新聞紙上に歌詞と楽譜が発表されたのが、十九日である。それから五日しかたっていなかったが、既に、全国津々浦々の同志が、「人間革命の歌」を、声高らかに歌い始めていたのである。
 勤行会で、伸一は、記念館の意義に言及していった。
 「牧口先生、戸田先生がいらっしゃったからこそ、私どもは、仏法に、御本尊に巡り合い、御書を教わることができました。
 それによって、地涌の菩薩としての、この世の尊き使命を知り、絶対的幸福への大道を歩むことができました。
 その両先生の御遺徳を偲び、弟子の誓いを新たにしていくための記念館です。
 また、記念館のなかには、十畳ほどの小さな和室がありますが、そこには、牧口先生、戸田先生の位牌も安置したいと思います。
 そして、共に、懇ろに唱題し、師弟不二の、三世にわたる一段と強い生命の絆を、結んでまいろうではありませんか」
 戸田城聖は、師の牧口常三郎の写真を飾った、学会本部の恩師記念室ともいうべき部屋で、常に、牧口を偲び、誓いを新たにして、広宣流布の大願に生き抜いてきた。
 伸一もまた、学会本部に掲げた戸田の写真に語りかけ、誓いながら、広宣流布の戦いを起こしてきた。
 遺影の前で、人知れず悔し涙を流した夜もあった。苦闘に呻吟しながら、“負けるものか! 先生の弟子ではないか!”と、自らを鼓舞したことも、幾度となくあった。
 心の師がいるということは、わが生命を照らす太陽をもっているということだ。絶望の暗夜にも、希望と勇気の燦々たる光が昇る。
 伸一は、三重の同志に、師弟共戦の師子として立ってほしかったのである。
14  敢闘(14)
 山本伸一は、中部第一総合研修所に滞在して、中部の新章節を開くために、人材の育成に全精魂を注いだ。
 七月二十四日には、研修所内をくまなく回った。安全管理や研修会の運営状況を、自らの目で確認しておきたかったのである。
 館内の各部屋や廊下なども入念にチェックした。電気がつけっ放しの場所もあれば、清掃が行き届いていない個所もあった。
 伸一は、中部の幹部らに、それら一つ一つの事柄について、細かくアドバイスした。
 「研修所も、会館も、会員の皆さんの浄財によって運営されている。したがって、使わない電気をつけっ放しにしておくようなことがあってはならない。
 みんなが、無駄をなくそうと心掛けるとともに、互いに“あなた任せ”にするのではなく、担当者、責任者を明確にすることです。
 つまり、どの場所の電気は、誰が責任をもつのか、戸締まりは誰がするのか、清掃は誰がするのか、そして、それを最終点検するのは誰なのか――。
 ただ、『気をつけよう』とか、『頑張ろう』といった抽象的なことではだめです。事故などを防ぐには、具体的な責任の明確化が大事になる」
 あいまいさがあれば、魔の付け入る隙を与えてしまう――それが、若き日から青年部の室長として、全責任を担って学会の一切の運営にあたってきた、伸一の結論であった。
 「また、幹部の祈りも具体的でなければなりません。研修会が行われるならば、集って来た人たちが、風邪などをひかずに、無事故で、元気に有意義な研修ができるように、真剣に祈っていくことです」
 さらに、伸一は、こう語った。
 「研修所にいる役員も多すぎます。みんな忙しいし、休みを取って、ここに来るのも大変です。
 それに、数を頼んで、安心しているところから、かえって、油断が生じ、事故を起こしてしまうことが多いんです。少数精鋭での運営を心掛けなければならない」
15  敢闘(15)
 山本伸一は、七月二十四日にも、中部第一総合研修所での勤行会に出席した。二十五日には、ドクター部、教育部の代表や、三重の功労者らと共に記念撮影し、激励を重ねた。
 そして、二十六日には、研修所で夏季講習会を開催していた、中部学生部の代表を励ましたのである。
 伸一は、前日、彼らが研修所に到着したことを聞くと、すぐに伝言を託した。
 「君たちは、将来、学会の、また、社会のリーダーに育っていく人なんだから、民衆を守り、民衆に仕えていく精神を、しっかり学んでいってもらいたい。
 その意味から、研修会の期間中は、寸暇を見つけて、研修所の草取りや清掃に、汗を流すようにしてはどうか。学生部員の労作業で、会員の皆さんに、研修所を気持ちよく使っていただくようにする意味は大きい。
 また、三重記念館に展示された歴代会長の記念の品々も、よく心にとどめてください」
 この伝言を聞いた学生部員は、御書講義や教学試験などの諸行事の合間に、喜々として研修所の清掃作業に取り組んだのである。
 その報告を受けると、伸一は言った。
 「みんな、清掃に頑張ってくれたのか。ありがたいね。学生部員は、将来、全員が、大リーダーになる大事な人たちだ。
 だからこそ、会員のため、民衆のために、陰で労作業に励み、尽くしていくという精神を、身につけてほしいんだよ」
 ――「大学は、真理を追求し、人類に奉仕することを願い、人間性を端的に表出しようとするものです」(ヤスパース著『大学の理念』福井一光訳、理想社)とは、ドイツの哲学者ヤスパースの至言である。
 しかし、大学をはじめ、社会から、その教育は失われつつある。奉仕の精神が欠落した青年たちが、指導者になっていったら、二十一世紀は暗黒の世界となろう。
 だからこそ伸一は、学生部員たちに、この講習会を通して、奉仕することの大切さを、その意義と喜びを、教えておきたかったのである。そこに、善の創造があるからだ。
16  敢闘(16)
 中部第一総合研修所の夏季講習会に参加している学生部員は約百二十人で、一年生と、入会間もないメンバーがほとんどであった。
 それを聞くと、山本伸一は言った。
 「ぜひ、みんなと会って、励ましたいな」
 そして、この二十六日の夕刻、懇談会をもったのである。
 メンバーと記念撮影したあと、庭の芝生の上で語らいが始まった。
 「ここで、ゆっくり話をしよう。この夏季講習会の責任者は誰だい」
 「はい。中部学生部長の長田耕作です」
 高校で数学の教師をしているという、メガネをかけた生真面目そうな青年が立った。
 「そうか。どうもお疲れ様! みんな、掃除もしてくれたんだね。ありがとう!
 小さなことであっても、行動を起こしていくことが大事です。行動することによって、自分の思いを人びとに伝えていくことができるし、自身の心を鼓舞することもできる。行動こそ、社会を築く力です。
 ところで今日は、まず、みんなで『厚田村』のテープを聴こうよ」
 「厚田村」は、伸一が一九五四年(昭和二十九年)夏、師の戸田城聖と共に、戸田の故郷である北海道・厚田村を訪れた折に、師の偉大な生涯に思いを馳せて作った詩であった。
 それに、音楽教師をしていた青年が、曲をつけたものである。
 用意されていたカセットデッキから、荘重な調べにのって、「厚田村」の歌が流れた。
  北海凍る 厚田村  吹雪果てなく 貧しくも………
 北海道から一人旅立ち、やがて、広宣流布の大業に生涯を捧げ、人類の幸福と平和の夜明けを開いた戸田城聖――伸一は、その清廉にして気高き「志」を、若き青年たちに受け継いでほしかったのである。
 人生を大成させるかどうかは、「志」の有無によって決定づけられてしまう。
17  敢闘(17)
 「厚田村」のテープを二回聴くと、山本伸一は、皆に語りかけた。
 「『厚田村』の詩は、私が二十六歳の時に作りました。戸田先生と一緒に厚田村を訪ねた折、“この偉大な先生を讃えたい。その存在を世界に知らしめたい”との思いから、一気に書き上げた詩なんです。
 詩のなかに、『少年動かず 月明かり』とあるのは、戸田先生の向学の心をうたったものです。
 同時にそれは、学生部の諸君の姿でもある。今は、あらゆることを、学んで、学んで、学び抜くんです。学は力、学は光です」
 それから伸一は、じっと、一人ひとりに視線を注いだ。
 「戸田先生は、石川県に生まれ、やがて一家は、北海道の厚田村に移ります。そこは、ニシン漁で栄えた村でしたが、漁獲量の変動が激しく、やがて衰退していきます。
 先生は、貧しい村で、お父さん、お母さんが、必死で働く姿をご覧になって育った。
 そして、“自分が力をつけ、立派になって、両親に楽をさせたい”“なんとしても、社会に貢献したい。人びとを幸せにしたい”と、月明かりで、猛勉強するんです。
 諸君のお父さん、お母さんも、多くが貧しい暮らしのなかで、懸命に働き、信心に励み、君たちを育ててきたのではないかと思う。
 権力も、財力もない、その庶民が、人びとを救うために、広宣流布に立ち上がったんです。さまざまな非難や中傷を浴び、食べる物もないなか、身骨を砕き、時には、何キロと歩き通しながら、折伏してきた。
 “じっとこらえて、今に見ろ!”との思いで、歯を食いしばりながら、今日の学会をつくってくださったんです」
 創価学会は、無名の庶民の団体である。それゆえに、清く、尊く、強いのである。
 伸一は、力を込めて訴えた。
 「そのお父さん、お母さんが、わが子に期待を託し、大学に行かせてくれた。ありがたいことではないですか。その感謝の心、報恩の心を、絶対に忘れないでいただきたい」
18  敢闘(18)
 山本伸一の話を聞きながら、中部学生部長の長田耕作は、父母の苦闘を思い起こして、唇をかみしめた。
 彼は、兵庫県の神戸の生まれで、父親は寿司職人であった。父は繁華街に店を開いていたが、トラブルに巻き込まれ、やむなく店を閉じ、養鶏業を始める。それにともない、転居した家は、畳さえ満足になかった。
 しかも、そこで、さらに人に騙され、経済的にも大きな打撃を受けた。
 途方に暮れていた両親は、学会員であった父の妹の勧めで入会した。長田が小学校三年の時である。
 一家に、初信の功徳が現れた。かつて面倒をみた知人が、兵庫県の明石にある店舗を貸すから、もう一度、寿司店を開かないかと連絡をくれたのだ。といっても、数人も客が入れば、いっぱいになってしまう、
 小さな店であった。しかし、人生の再出発ができたのだ。暮らしは、決して楽ではなかったが、父も母も歓喜に燃え、真剣に唱題に励んだ。
 仕入れを始める早朝から、店を閉める深夜まで、懸命に働きながら、わずかな時間を見つけては、折伏に励んだ。嘲笑されもした。愚弄されもした。しかし、負けなかった。
 やがて、広くて、新しい店舗を構え、その二階の住居を座談会場とした。
 夫を亡くし、乳飲み子を抱えた婦人や、病に蝕まれ、自嘲を浮かべる青年も、連れられて来た。
 その人たちに、サンダル履きに割烹着姿の婦人や、仕事場から駆けつけた作業服の壮年が、頬を紅潮させ、確信をもって、幸福への道を、仏法を、語り説いた。時には、目に涙さえ浮かべての対話であった。
 そこには、人間の温かい心の交流があり、生命の触発があった。
 また、最初、青い顔で、意気消沈して、座談会に連れて来られた人たちが入会し、信心に励むようになると、日増しに、はつらつとしていく様子を、長田は目の当たりにしてきた。
 創価学会には、庶民のなかに脈動する、仏法の力の証明がある。
19  敢闘(19)
 山本伸一は、学生部員たちの顔を見渡しながら、こう提案した。
 「今日、一緒に『厚田村』の歌を聴いたこのメンバーを、『学生部厚田会』としてはどうだろうか。
 生涯、どんな立場になっても、折々に、この研修所に集まって、この『厚田村』を歌い、私たちの恩師である戸田先生を偲んで、誓いを新たにしていってはどうかと思う。賛成の人?」
 皆が、「はい!」と言って手をあげた。
 伸一は、さらに話を続けた。
 「牧口先生は、小学校の校長でしたが、常に信念を貫いたことから、権力者ににらまれて、学校を追われています。
 迫害の連続でした。その牧口先生を、一貫して守ってこられたのが、戸田先生でした。留任運動の先頭にも立って戦っています。
 また、戸田先生が、私塾・時習学館を開いたのも、牧口先生の教育学説を、弟子の自分が実証しようとの思いからでした。
 さらに、将来、牧口先生の本を出したい、そのための資金も自分が用意しようと心に決めて、懸命に働いてこられた。
 その戸田先生が、牧口先生には、本当によく叱られたと言います。戸田先生は、自分を全力で訓育してくれる師に深く感謝し、牧口先生に付き従われた。
 そして、軍部政府の弾圧と戦い、牢獄にまでも、お供されることになる。それが師弟です」
 世間の多くは、謹厳実直な牧口を、世事に疎い、一徹者の老人と見ていたようだ。しかし、戸田は、牧口に仏を見ていたのだ。人類の救済を宿願とする師匠の大生命を、一心に見すえていたのである。
 常不軽菩薩は、会う人、会う人に、「我深敬汝等」の二十四文字の法華経を唱え、礼拝・讃歎して歩いた。一切衆生の仏性を見すえていたからである。
 仏法の眼を開いてこそ、眼前の現象に惑わされることなく、深い生命の本質を見ることができる。仏法の師弟の道は、信心の眼によってこそ、見極められるのである。
20  敢闘(20)
 山本伸一は、「今日は、夏季講習会であり、諸君は、二十一世紀を担う人たちなので、少し、難しい話もしておきたい」と言って、核心に迫っていった。
 「現在は、東西冷戦というかたちで、資本主義と共産主義の対立が続いていますが、よく、創価学会は、どちらの勢力なのかと尋ねられることがあります。
 結論から言えば、学会はどちらでもありません。人間の生命を中心とした中道主義であり、人間主義です。
 真実の仏法は、円教であり、円融円満で、完全無欠な教えです。そこには、すべてが具わっています。したがって、左右両極を包含し、止揚しながら、人類の幸福と世界の平和をめざしているのが、学会の立場です」
 資本主義であっても、人びとの幸福を考えるなら、社会的弱者を守り、救済することは不可欠な要件となる。それが欠落すれば、弱肉強食の社会になってしまうからだ。
 また、共産主義にも、人間性を尊重し、自由を保障することが要請されよう。
 さまざまな制度も、科学も、文化も、すべては、人間の幸福と平和の実現が、出発点であり、そして、目標である。これを忘れれば、人間は手段化されてしまう。
 その人間の幸福と平和を実現していくには、「人間とは何か」「生命とは何か」という問題の、根源的な解明がなされなくてはならない。
 そこに、人間の生命を説き明かし、人間自身の変革を可能にする仏法哲理を、世界の精神としていかねばならないゆえんがある。
 伸一は、力を込めて訴えた。
 「いかなる体制であっても、最終的に求められるのは、生命の尊厳を説く人間主義の哲学です。それがないと、制度などによって、人間性が抑圧されていってしまう。
 また、エゴイズムなどを律する人間革命がなくてはならない。特に、指導者層の不断の人間革命が必要です。そこに、権力の乱用や組織の官僚主義化を防ぐ道があるからです」
21  敢闘(21)
 人類の未来を仰ぎ見るように、山本伸一は目を細めて語っていった。
 「資本主義、自由主義の国々にあっても、やはり、人間革命が最大のテーマになってきます。人間のエゴが、野放図に肥大化していけば、社会の混乱は避けられません。
 さらに、戦争などの元凶もまた、その人間のエゴにこそあります。
 どうか諸君は、社会にあって、大指導者に成長し、仏法の人間革命の哲理を訴え抜いていってください。二十一世紀は、諸君の双肩にある。諸君の成長こそが、私の最高の喜びです。
 この『学生部厚田会』に、私が作った『人間革命の歌』のテープと、カセットデッキを差し上げます。『厚田村』のテープも置いていきます。
 これらの歌を聴きながら、生涯、父母のため、民衆の幸福のために、威風堂々と、広宣流布の大道を歩み通してください」
 これが、中部学生部に対する、この夏季講習会の「最終講義」となったのである。
 伸一は、敢闘していた。励ましの一場面、一場面が、人間触発の格闘劇でもあった。
 七月三十日からは、舞台を神奈川県の箱根研修所(現在の神奈川研修道場)に移し、男子中等部や東京・新宿区の女子部などの夏季研修会に出席し、指導を重ねた。
 引き続き、創価大学などでの各種研修会に臨み、八月六日には、鹿児島県の九州総合研修所(現在の二十一世紀自然研修道場)に飛んだ。
 そして、十二日に東京に戻り、三日間にわたる茨城指導、創価大学での諸行事を終えると、再び十九日から、九州総合研修所を訪れたのである。
 彼は、一分一秒が惜しかった。人と会い、人と語り、一人ひとりの心に、発心の光を注ぎ、一騎当千の人材を育てることに必死であった。
 すべての戦いは、時間との戦いといってよい。行動をためらい、時を浪費した者が、敗者となる。
 「時間をかちとることは、勝利を意味する」(新井宝雄著『革命児周恩来の実践』潮出版社)とは、中国の周恩来総理の命の叫びだ。
22  敢闘(22)
 八月の二十日のことであった。九州総合研修所では、鳳雛会の結成十周年を記念する大会が、晴れやかに開催された。
 男子・鳳雛会、女子・鳳雛グループは、一九六六年(昭和四十一年)一月から、山本伸一が高等部の代表に行ってきた会長講義の受講生によって、同年六月に結成された人材育成グループである。
 その講義は、一回一回、伸一が全精魂を注ぎ込み、真剣勝負で臨んできた、後継者の育成作業であった。
 結成の翌月にあたる七月の十六日には、伸一が出席して、神奈川県の箱根研修所で、第一回の野外研修が行われた。
 彼は、この時、鳳雛会、鳳雛グループの根本精神として、どんなことがあっても、御本尊を一生涯抱き締め、学会を築き守っていくことを、遺言の思いで訴えたのである。
 その後、鳳雛会、鳳雛グループは、期を重ね、さらに、各方面にも誕生していった。
 そして、結成十年を経たこの日、まず、鳳雛会の代表八百人が集い、記念大会を行ったのである。鳳雛グループは、二十二日に大会を開催することになっていた。
 鳳雛会のメンバーは、若き大鳳に成長していた。全員が二十代である。高等部長や学生部の首脳幹部もいたが、男子部の大ブロック長(現在は地区リーダー)など、組織の第一線で奮闘する人が多かった。
 「青春時代に獲得したものは、どれひとつとして消え去りはしない。若いころにつちかわれた習慣は、一生のこる」(リハチョフ著『ロシアからの手紙』桑野隆訳、平凡社)とは、“ロシアの良心”と呼ばれた、思想家リハチョフの言葉である。
 この日、伸一は、全参加者に贈るために、初代会長・牧口常三郎が揮毫した「創価後継」の色紙を用意していた。四半世紀後に訪れる二十一世紀の、広宣流布を託す儀式にしようと、深く心に決めていたのだ。
 広宣流布の勝負は、二十一世紀である。その時に、決然と困難の壁を打ち破り、勝利の旗を打ち立てる真正の弟子を、伸一は、生命を削る思いでつくろうとしていたのである。
23  敢闘(23)
  霧雨けむる仙石に
  未来を築く若武者の
  師匠に誓いし この意気は
  天にこだまし 地に響く……
 午後四時半、凛然たる歌声が響き、鳳雛会の大会が始まった。
 運営委員長の抱負、色紙贈呈などのあと、マイクに向かった山本伸一は、静かな口調で語り始めた。厳粛な声であった。
 彼は、初代会長・牧口常三郎が揮毫した「創価後継」の色紙を皆に贈ったことは、創価学会の未来を託したことであると述べ、力を込めて訴えた。
 「大聖人が『浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり』との一節を引かれて御指導されていることは、諸君もよく知っていると思う。これは、まさしく鳳雛会の諸君への指針といえます。
 自分の幸せのみを追い求める、安易な人生を送るのであれば、この御指導を心に刻む必要はありません。
 しかし、広宣流布という崇高な目的に生きるならば、何があろうが、『我は深きについて、我が道を征く』との決意で、この丈夫の心で、生涯、使命の大道を歩み抜いていただきたい」
 語るにつれて、伸一の声には、ますます力がみなぎっていった。
 「今日、創価学会は、世界的な大教団、大平和・文化団体に発展しました。それは、諸君のお父さん、お母さんたちが、私と共に、歯をくいしばり、血の涙を流しながら、必死になって戦い抜いてくださったからです。
 私たちは、日蓮大聖人の仰せ通りに、また、牧口先生の仰せ通りに、戸田先生に誓った通りに、すべてやり抜いてきました。
 今度は、諸君です。君たちが、この基盤の上に、十年、二十年、三十年と、さらに、学会を立派に育て上げていただきたい。
 人類の幸福のために、広宣流布の大拡大を成し遂げていくことが、諸君の久遠の使命であり、宿命なんです!」
24  敢闘(24)
 山本伸一の言葉は、参加者の魂に、深く突き刺さっていった。
 「学会は、世界でただ一つの、純粋なる真実の仏意仏勅の教団です。それゆえに、御聖訓に照らして、邪悪の徒らによって、攪乱されるような事態を迎えるかもしれない。
 しかし、鳳雛会の諸君が、地中で竹が根を張り、深く結び合っているように、強く結合し、団結して立ち上がり、広宣流布を進めていっていただきたい。
 もしも、今後、創価学会の前進が、一歩でも、二歩でも、後退するようなことがあったならば、その全責任は諸君にある。諸君が、だらしないからである。一切は、諸君の責任であることを、今日は、宣言しておきます」
 それは、伸一の生命の叫びであり、広宣流布の厳粛な付嘱の儀式を思わせた。
 どの顔も、緊張していた。固唾をのみ、ぎゅっと拳を握り締める青年もいた。
 「諸君は、創価学会の真実の子どもです。本当の私の弟子であり、学会の王子ともいうべき存在です。その王子が、無慈悲であったり、意気地がなかったりしたならば、かわいそうなのは学会員です。民衆です。
 まずは、次の十年をめざし、創価学会の一切を引き受け、全責任を担うとの精神で、雄々しく、進んでいっていただきたい」
 伸一と共に、この大会に出席していた最高幹部たちは、ただ、驚いて、彼の指導を聞いていた。
 鳳雛会のメンバーは、この時、年齢的にも、役職的にも、まだ創価学会の全責任を担うような立場ではなかったからである。
 しかし、伸一は、自身の体験のうえから、本気になって立ち上がるならば、年齢や立場に関係なく、彼らは、学会の全責任を担い得ると確信していたのである。
 師の戸田城聖が、事業の破綻から、学会の理事長を退いた時、伸一は、“必ず、先生に会長として広宣流布の指揮を執っていただくのだ!”と心に決め、ただ一人、厳然と師を守り、師子奮迅の戦いで活路を開いていった。それが、二十二歳の時であった。
25  敢闘(25)
 山本伸一は、二十一歳で戸田城聖の会社に勤めた。そして、ほどなく、戸田の事業の挫折という、最大の苦境に陥る。しかし、彼は、敢然と師を厳護し抜いたのである。
 その伸一の激闘によって、難局を乗り切った戸田は、晴れて、第二代会長として、広宣流布の指揮を執ることになるのである。
 また、伸一が蒲田支部の支部幹事として折伏戦を展開し、一支部で二百一世帯の弘教を成し遂げたのは、二十四歳の時であった。
 この戦いによって、戸田が会長就任式の席上、生涯の願業として掲げた、会員七十五万世帯達成への突破口が開かれたのである。
 さらに伸一は、二十五歳で文京支部長代理となる。彼の奮闘は、低迷していた支部を、やがて第一級の支部へと発展させていく。
 伸一は、いまだ年も若く、全学会を率いる立場ではなかった。しかし、戸田の構想の実現を、わが使命と定め、組織の一角から、未聞の大勝利という烽火を上げ、広宣流布の突破口を開き続けてきたのである。
 年が若いから、立場を与えられていないから、権限がないから、時間がないから……など、力を発揮できない理由をあげれば、常に、枚挙にいとまがないものだ。
 広宣流布という仏意仏勅の使命と責任を果たしゆくには、年齢や立場など、問題ではない。大宇宙を己心にいだく信心の世界、仏の世界では、そんなことは、なんら障壁とはならない。
 それらを理由に、力が発揮できないという考えにとらわれた時、自らの無限の可能性を放棄してしまうのだ。それこそが、魔に敗れた姿である。
 要は、師弟不二の自覚と祈りと実践があるかどうかである。それを実証してきたのが、ほかならぬ伸一であった。
 彼は、二十六歳で青年部の室長になると、実質的に学会の全責任を担った。
 一九五六年(昭和三十一年)、二十八歳の時には、関西の地にあって、一支部で一カ月に、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げるなど、常勝関西の不滅の金字塔を打ち立ててきたのだ。
26  敢闘(26)
 “鳳雛会は、私の弟子ではないか! つまり、皆が山本伸一の分身ではないか!”
 “山本伸一”とは、師と共に広宣流布に生き、勝利の旗を打ち立てる闘士の異名だ。
 伸一は、そう信じるがゆえに、今後、創価学会の前進が、後退するようなことがあれば、「その全責任は諸君にある。諸君が、だらしないからである」と、言明したのだ。
 彼のその思いは、女子・鳳雛グループに対しても同じであった。
 大会の最後に、伸一は歌を詠み、贈った。
  鳳雛の 君ら巣立ちて 大鳳と 広布の桜を 見つめ飛びゆけ
  伸一は、鳳雛会に限らず、すべての人材育成グループは、いな、すべての同志は、広宣流布の使命を共に分かち合う“山本伸一”であると確信していた。
 彼が、各種の人材育成グループを結成してきた目的の一つは、その自覚を促すための契機をつくることにある。
 ゆえに、いかなるグループのメンバーに選ばれようが、本人が自覚をもとうとしなければ、人材育成のための周囲の人たちの努力も、水泡に帰すことになる。
 自覚――それは、本来、「自ら覚す」、すなわち、自ら悟りを開くことを意味する。
 われらの自覚とは、戸田城聖が獄中で悟達したように、自身が地涌の菩薩であると確信し、生涯、師弟不二の心で、広宣流布の大願に生き抜くことだ。全人類の幸福と平和の実現を、わが使命とすることだ。
 その時、自らの幸福のみを願っていた生命の扉は開かれ、崇高なる“利他”の大道が広がるのである。そこに、境涯革命、人間革命の直道があるのだ。
 まさに、“地涌の使命”の自覚は、偏狭なエゴイズムの対極に立つ、人間の生き方の確立であるといってよい。
27  敢闘(27)
 九州総合研修所では、連日、人材育成グループなどのさまざまな行事が行われ、山本伸一の敢闘が続いていた。
 八月の二十二日、彼は、同研修所で開催された本部幹部会、鳳雛グループ結成十周年の記念大会などに相次ぎ出席した。
 この八月度本部幹部会では、七月度の本部幹部会で発表した、広宣流布の指導者としての六つの心得に続いて、さらに、リーダーとしての新たな六項目の心構えを発表した。
 「後継の人を大切に」
 「年配者を大切に」
 「ふだんの言動を大切に」
 「ふだんの身なりを大切に」
 「婦人、女子を大切に」
 「職場、社会を大切に」
 本部幹部会終了後、伸一が庭に出ると、各地から集った青年たちが駆け寄って来て、幾重にも彼を囲んだ。そのなかに、八月二十九日に県文化祭を行う埼玉のメンバーがいた。
 この一九七六年(昭和五十一年)後半を飾る活動が、庶民文化の祭典ともいうべき、県・方面の文化祭であった。
 八月十五日の、伸一が出席して行われた茨城郷土文化祭、そして、京都・滋賀・福井合同の青春文化祭に始まり、十月の上旬にかけて、全国二十八会場で盛大に開催されることになっていたのである。
 愛する同志が、郷土愛と不屈の闘志を燃やして創り上げる、汗と涙と歓喜の、華麗なる人間讃歌の舞台である。
 伸一のスケジュールは、既に諸行事で埋まっていたが、彼は、可能な限り出席して、皆を讃えようと、心に決めていたのである。
 埼玉の青年が、頬を紅潮させて語った。
 「先生! 二十九日の埼玉県文化祭は、必ず大成功させます。ぜひ、ご出席ください」
 伸一は、ニッコリと頷き、言下に答えた。
 「必ずまいります! 埼玉は大事だもの。
 埼玉には、無限の未来がある。計り知れない可能性がある。二十一世紀の新生の都であり、広宣流布の原動力になる宝土です」
28  敢闘(28)
 山本伸一は、埼玉のメンバーに言った。
 「文化祭の練習も、総仕上げの段階に入ったね。成功させるには、最後が大事だよ」
 「はい。みんな、“これからが勝負だ! 最高の文化祭にしよう”と、燃えています」
 「そうか、すごいね。期待しているよ。
 “一日一日、今日こそが本番だ! これまでで、最高のものをつくりあげるぞ!”との心で、挑戦していくことだよ。
 演技の練習にしても、今日は、昨日をしのぐことだ。さらに、明日は、今日をしのがなければならない。その敢闘があってこそ、最高のものができる。
 文化祭は、出演者も、役員も、全員が主役だ。みんなが一つ一つの事柄を疎かにせず、精魂を注ぎ込むんだ。一人ひとりが自分の課題を果たし抜き、猛然と突き進んでいくならば、大成功は間違いない。成否は、最後の勢いで決まるよ」
 中国の文豪・魯迅は述べている。
 ――最後の勝利は、「どこまでも進撃する人々の数にある」(注)と。
 伸一は、生い茂った緑の木々を仰ぎながら、埼玉での思い出を語り始めた。
 「埼玉には、私の青年時代の、魂が刻印されている。それは、まさに疾風怒濤の日々だった。そのなかで私は、呻吟しながら、創価学会の新しい時代の幕を開いたんだ……」
 一九五〇年(昭和二十五年)八月、戸田城聖の経営する信用組合が業務停止となった。伸一は、事業の新たな活路を開くために、幾たびか、埼玉の大宮方面に足を運んだのだ。
 戸田への囂々たる非難が渦巻くなか、伸一は、難局を打開しようと、粘り強く交渉にあたった。けんもほろろの応対や、罵声を浴びせられることもあった。しかし、誠実に、勇気をもって、説得の対話を重ねた。
 “現代にあって、正しく広宣流布の指揮を執れる方は、戸田先生しかいない。その先生に会長になっていただくために、先生をお守りするのだ。それが、私の使命だ”
 烈風に向かい、敢然と弟子は進んだ。
29  敢闘(29)
 埼玉を、しばしば訪れた一九五〇年(昭和二十五年)――山本伸一は、十二月の日記に、こう記している。
 「苦闘よ、苦闘よ。
  汝は、その中より、真の人間が出来るのだ。
  汝は、その中より、鉄の意思が育つのだ。
  汝は、その中より、真実の涙を知ることが
  できるのだ。
  汝よ、その中より、人間革命があることを知れ」
 “風を受けてこそ、凧は天高くあがる。試練の烈風あってこそ、自身の境涯は高まる”
 そう考えると、伸一は燃えた。
 “必ず、逆境を跳ね返してみせる!”
 彼は、捨て身の闘争を続けた。
 その不撓不屈の努力が実り、遂に、翌五一年(同二十六年)、闇を破り、旭日が昇った。五月三日、戸田城聖の第二代会長就任の日を迎えるのである。
 いわば、埼玉は、新生・創価学会の出発に至る、反転攻勢の天地なのだ。
 また、五五年(同三十年)二月、ある全国紙の埼玉版で、学会に対する中傷記事が掲載された。渉外部長であった伸一は、青年を伴い、その新聞の本社を訪れ、厳重抗議した。
 さらに、浦和支局にも足を運んだ。礼儀正しく、理にかなった伸一の指摘に、支局長は、非を認めた。しかし、訂正は、なかなか掲載されなかった。
 伸一は、二週間後に、再度、支局を訪問し、交渉にあたった。あいまいなまま終わらせては、問題の解決はない。大事なのは、決着への執念と、情熱の対話だ。
 そして、誤りの部分を直した記事とともに、学会側の反論も掲載されたのである。
 これによって、デマが打ち破られたのだ。
 「真実は真実でないものとの闘争のなかで、書かれねばならない」(ブレヒト著「真実を書くさいの五つの困難」(『ブレヒトの文学・芸術論』所収)五十嵐敏夫訳、河出書房新社)とは、ナチスと戦ったドイツの劇作家ブレヒトの叫びである。
 正義のためには、一歩たりとも引かぬ、炎のごとき学会精神を、伸一は、自らの行動をもって、埼玉の地に刻んできたのである。
30  敢闘(30)
 山本伸一は、力を込めて訴えた。
 「私は、埼玉の天地に、幾つもの闘争の歴史と学会の精神をとどめてきました。それらの精神を受け継ぐ、民衆凱歌の文化祭にしてほしい。
 本当は、練習も見に行って、一人ひとりと握手し、『頼むよ』と言って、励ましたいんだ。その時間はないが、皆で力を合わせて、新生・埼玉の勝利の扉を開く文化祭にしてください。
 大成功させて、共に肩を叩き合って、喜び合おうよ!」
 「はい!」
 決意に燃えた瞳を輝かせながら、埼玉の青年が答えた。すると、その後ろにいた、東京の青年が、身を乗り出すようにして語った。
 「先生。東京も、九月五日に文化祭を行います。必ず、大成功させます」
 伸一は、微笑を浮かべ、埼玉のメンバーを見ながら言った。
 「ほら、埼玉が燃えると、東京も負けじとばかり、張り切りだすんだよ。東京が動けば、全国が、全世界の広宣流布が動きだす。その原動力こそ、埼玉だよ。埼玉は二十一世紀の王者だ」
 そして彼は、東京の青年に視線を注いだ。
 「学会本部のある本陣・東京は、その底力を全国に示し、“さすが東京だ”“やっぱり東京だ”と言わしめる文化祭にしてほしい。
 東京は、どんな活動に際しても、学会員が多いだけに、自分が本気になって頑張らなくても、なんとかなるなどと思ってしまいがちだ。しかし、そうした感覚に陥ることこそが“魔”に負けた姿だ。
 心のどこかで人を頼み、“一人立つぞ!”と決めなければ、本当の力は出ない。
 すべての力を出し尽くし、自分を完全燃焼させてこそ、仏道修行なんです。
 大聖人は、師子王の戦いについて、『ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり』と仰せになっているではないですか!」
31  敢闘(31)
 山本伸一は、東京創価学会の大発展を祈りながら、さらに東京の青年に訴えた。
 「広宣流布の戦いは、皆が主役です。皆が一人立ってこそ、本当の力が出る。それぞれは力があっても、力を出し切らなければ、ないのと同じ結果になってしまう。
 ’76東京文化祭は、そうした、一人立つ精神を示し、教えるものにしてほしい。
 あの『人間革命の歌』の、『君も立て 我も立つ 広布の天地に 一人立て』という言葉は、東京の皆さんにこそ贈りたいんだ。
 日蓮大聖人は、幕府のある鎌倉を広宣流布の主戦場とされた。政治の中心地で戦いを起こせば、権力の弾圧も受けやすい。
 しかし、国主の諫暁には、最も適した地であるし、一国の中心地で敢然と妙法の旗を掲げ、正義を宣揚してこそ、広宣流布の成就もある。
 それゆえに、法難を覚悟のうえで、あえて鎌倉で戦われた。今日、その使命を担っているのが、首都・東京の同志だ。
 本陣は、堅固であり、無敵の強さがなければならない。したがって、本陣・東京の文化祭は、不屈の闘魂を表現することも大事だね。楽しみにしているよ」
 居合わせた東京のメンバーは、声をそろえて、「はい!」と答えた。
 伸一は、皆の顔を見渡した。そのなかに大阪の青年を見つけると、声をかけた。
 「大阪は、八月二十八日と二十九日だね」
 「はい。大阪、奈良、和歌山の三府県で、’76関西文化祭として、関西戸田記念講堂で開催いたします」
 「私は、どうしても出席できないが、メッセージを送ります。大成功の報告を待っています。皆さんにくれぐれもよろしくね。
 関西魂を、いかんなく表現する文化祭にするんだよ。関西魂とは、勝利への執念です。民衆の幸福を実現するまで、何があろうが、“一歩も引かぬ”“あきらめるものか”という闘魂です。それが私の心です」
 伸一は、一言一言、生命を振り絞り、言葉を紡ぎ出すように、青年を励ましていった。
32  敢闘(32)
 山本伸一は、気迫のこもった声で、大阪の青年に語った。
 「いよいよ、弟子が立ち上がる時代だよ。
 私が、大阪の戦いを開始したのは、昭和三十一年(一九五六年)一月です。
 ただただ、戸田先生がお元気なうちに、広宣流布は、必ず弟子の手で成し遂げられるという、一つの実証をご覧いただき、安心してもらおうとの思いで戦いました。それが弟子です。
 みんなの力で、私が出席した以上に、意気軒昂で、大歓喜が爆発する文化祭にしてください。それができてこそ、本当の弟子です。じっと見守っています」
 その時、後列から声がした。
 「先生、東北も頑張ります! 東北では、二十日に、秋田文化祭を大成功に終えました。
 これから、二十四日に青森、二十五日に宮城、二十七日に山形、二十九日に福島、九月の九日には、岩手で文化祭を開催する予定になっております」
 「わかっているよ。今回は、東北には行けませんが、大成功を祈っています。
 かつて私は、広宣流布の総仕上げを東北の同志に託した。それは、総仕上げを成し遂げていくには、東北人のもつ粘り強さが必要だからです。
 総仕上げの時に油断があれば、『九仞の功を一簣に虧く』ことになってしまう。
 粘りとは、大聖人が命に及ぶ大難に遭われながらも、『然どもいまだこりず候』と宣言された、あの不撓不屈の一念です。
 『いよいよ・はりあげてせむべし』と叫ばれた、一途に前進し抜く敢闘精神です。追撃の力です。そういう心意気がたぎる文化祭にしてください」
 それから伸一は、集った青年たち一人ひとりに、じっと視線を注いだ。
 「戦おうよ。限りある一生だもの。得がたい生涯だもの。悔いなど、絶対に残してはならない。生命を燃焼させ尽くし、永遠の思い出となる、青春の勝利の詩を綴るんだよ」
 樹間を一陣の風が吹き抜け、木々の葉が揺らめき、微笑んだ。
33  敢闘(33)
 使命に生き抜く人は、人生の勝利者である。広宣流布の高き峰をめざして、常に前へ、常に未来へと進みゆくなかに、歓喜あふれる、真の幸福の大道がある。
 山本伸一は、八月の二十三日には、九州総合研修所で行われた、壮年・男子部からなる人材育成グループである「転輪会」の総会に臨んだ。
 そうした諸行事の寸暇をぬうようにして、研修所内を回り、行事の参加者や役員の激励に余念がなかった。
 彼は、周りの幹部たちに尋ねた。
 「ほかに励ます人はいないのかい。ここにいられる時間は、限られている。だから、一人でも多くの人と会って、全力で激励しておきたいんだよ」
 すると、九州の婦人部の幹部が言った。
 「鹿児島の奄美諸島にある喜界島から、婦人が来られています。草創期から頑張ってこられた富島トシさんという方です」
 「お会いしよう。お呼びしてください。一緒に、勤行しましょう」
 喜界島は、奄美大島の東方約二十五キロに位置する、美しい珊瑚礁の島である。島の主な産業といえば、サトウキビ栽培や大島紬であり、人びとの暮らしは慎ましやかであった。
 富島トシの夫は、終戦を迎える一九四五年(昭和二十年)の五月、九歳の長男、六歳の次男、二歳の長女を残して、心臓発作で他界した。しかも、トシは、四人目の子どもを身ごもっていたのである。
 しかし、途方に暮れる余裕さえなかった。子どもたちを育てるために、がむしゃらに働かなければならなかったからだ。大島紬を織り、畑を耕して、サツマイモ、大根、麦、粟などを作った。他家の農作業も手伝った。
 長男、次男が中学を卒業し、ホッとしたのも束の間、不幸が襲った。仕事に行き詰まった次男が、自ら命を絶ったのだ。彼女は、生きていく希望を失い、日ごとに痩せ衰えていった。
 荒れ狂う宿命の怒濤――だが、それに打ち勝つために、「変毒為薬」の仏法があるのだ。
34  敢闘(34)
 富島トシが、創価学会の信心の話を聞いたのは、東京から里帰りした、蒲田支部に所属する友人からであった。
 「トシさんも大変だったね。でも、正しい仏法を持てば、必ず幸福になれる。いつまでも、不幸に泣いていることはないのよ」
 その確信にあふれた言葉に、信心してみようと思った。一九五六年(昭和三十一年)のことである。
 喜界島は、周囲が五十キロほどの、人口約一万六千人(当時)の島であった。
 富島の家は、飛行場や港に近い、湾集落にあった。島の反対側にある嘉鈍集落に、もう一軒、小岩支部に所属する学会員の家があったが、彼女は全く知らなかった。
 入会して、しばらくすると、鹿児島から、青年部の幹部が指導に来た。勤行の仕方や、折伏の大切さなど、諄々と語ってくれた。
 「宿命を転換し、幸福になるためには、どげんすればよいか――。
 日蓮大聖人は、『我もいたし人をも教化候へ』『力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』と仰せです。
 つまり、懸命に題目を唱え、折伏することです。自分だけの幸せを願う信仰は、本当の信仰じゃなかです。みんな一緒に幸せになってこそ、自分の幸せもある。
 また、折伏に行っても、そげん、難しいことは言わんでもよかです。初めは、なぜ信心をしたか、仏法のどこに共感したかを、精いっぱい訴えて歩くんです」
 自他共の幸せを実現していく――これまでの宗教では、聞いたこともない教えである。
 富島は、奮起した。
 “この信心で、幸せになろう!”
 彼女は、真剣に唱題に励み、弘教を開始した。知り合いという知り合いに、仏法を語って歩いた。しかし、創価学会のことは、誰も知らないうえに、島の旧習は深く、素直に仏法の話に耳を傾ける人は少なかった。
 トシは、変な宗教に騙されて、おかしくなってしまった――人びとは噂し合った。
35  敢闘(35)
 題目を唱え、折伏に励む――そこに、地涌の菩薩の生命が脈動し、歓喜があふれる。
 富島トシは、学会活動をするなかで、“この信心で、必ず自分は、幸せになれるんだ!”という手応えを感じた。
 子どもたちは、信心を始めた母親が、日ごとに明るく、元気になっていく姿に目を見張った。生活は、貧乏のどん底である。それなのに、本当に楽しそうなのだ。
 彼女は、来る日も、来る日も、弘教に懸命に汗を流した。このころ、喜界島にも町営バスが通るようになったが、島の外周を走る線しかなく、本数も少なかった。
 二時間、三時間と歩いて折伏に出かけた。時には、下駄が割れてしまい、裸足で歩いて、帰って来たこともあった。
 また、仏法の話をすると、相手が怒りだして、水をかけられたり、塩を撒かれたりすることもあった。鎌を持って追いかけられたこともある。
 でも、彼女は、めげなかった。どんなに反対され、なんと言われようが、ニコニコしながら、仏法を語って歩いた。
 教学を学び、「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」の通りだと、実感したからだ。
 また、「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」の御聖訓を確信していたからだ。
 といっても、富島は、子どものころ、満足に学校に通えず、あまり読み書きができなかった。御聖訓も、島に来てくれる幹部の話を聞き、耳で覚えたものだ。
 さらに、学会活動に励むなかで、読み書きの必要性を痛感し、漢字を覚えていった。
 広宣流布の使命に生きようという一念が、自分の苦手の壁を打ち破っていったのだ。
 ロシアの文豪トルストイは言った。
 「人生とは、変化し、成長し、限界を広げることである」(『レフ・トルストイ全集第88巻』テラ出版社)
 広宣流布という最高最大の目標に生きる時、自分のすべては生かされ、あらゆる可能性が開花するのだ。
36  敢闘(36)
 富島トシの地道な奮闘もあって、喜界島の広宣流布は、着実に進んでいった。
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年(一九六一年)八月、喜界島に初めて地区が結成され、富島は地区担当員(現在の地区婦人部長)になった。
 その翌月のことである。瞬間最大風速八四・五メートル以上を記録し、「第二室戸台風」と呼ばれることになる台風十八号が、奄美諸島を襲った。トタン屋根の小さな富島の家は、吹き飛ばされてしまった。
 古い木材などでつくった仮設住宅での暮らしが始まった。台所と一間だけの家である。
 富島は、以前から、奄美大島や鹿児島などの幹部が指導に来ると、自宅を宿泊所に提供してきた。彼女は、こう考えていたのだ。
 “泊まってもらえば、いろいろと指導を受けることができる。また、今の貧しい暮らしをよく見ておいてもらえば、功徳を受けた時、信心の実証が、よくわかってもらえる……”
 彼女は、自分が大きな家に住みたいとは、思わなかった。ただ、喜界島まで指導に来てくれた人が、ゆっくり休めるために、広い家がほしいと思った。
 また、何よりも、島の広宣流布のために、会合などに使える立派な会場がほしかった。懸命に祈った。
 すると、東京に出て、不動産会社に勤めていた息子が、「母ちゃんのために、喜界島に家を建てる」と言ってくれた。
 一九六四年(昭和三十九年)に、その家が完成した。会場として使用できる部屋は二十畳を超す。立派な富島の家は、地域の評判になり、多くの人が家を見に来た。その見事な実証によって、さらに折伏も進んだ。
 広宣流布のためとの一念が込められた祈りは、願いを成就させる大力となる。地涌の生命がわき起こり、その声は大宇宙に轟き、諸天が働き、世界が動くからである。
 広宣流布に生き抜くなかに、所願満足の人生があるのだ。
 御聖訓にも「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし」と仰せである。
37  敢闘(37)
 富島トシの家は、喜界島広布の拠点となってきた。ここでの座談会などで、多くの人が入会し、発心した。また、明るく、面倒みのよい人柄の彼女は、“喜界島のお母さん”と、皆から慕われるようになっていった。
 同志が、功徳を受けた、弘教が実ったと、報告に来ると、「はげー(あらまあ)、よかった!」と、お日さまのように、満面に笑みを浮かべ、わがことのように喜ぶのである。
 同志の激励となれば、相手が納得し、立ち上がるまで、何度も、何度も、足繁く通った。決して、あきらめようとはしなかった。
 “皆、尊い使命をもって、この世に生まれてきた仏子だ。皆が幸せになれるんだ! そのことを自覚させずに、途中でやめてしまうとしたら、あまりにも無慈悲だ”
 それが、彼女の信念であった。
 富島は、いつも、“山本先生が喜界島を訪問される時には、どうやって迎えようか”と考えていた。彼女は、家を建てる時、玄関を二つ造ってもらった。
 その一つの玄関は、直接、客間につながるようになっていた。伸一が来島した時に、宿泊するための部屋として用意していたのだ。
 彼女の心には、広宣流布の師匠として、常に伸一がいた。“いつ先生を迎えても、勝利の報告ができるように”と、日々、真剣勝負で活動に取り組んできた。
 子どもたちは、次々と島を出て行った。皆、独り暮らしの母を心配した。
 だが、彼女は、深く決意していた。
 “私には、喜界島広布の使命がある。だから、動けるうちは、ここにおる。島中の人が幸せになるまで、戦いはやめられん”
 彼女は、よく、悩みをかかえ、苦闘している島の同志に、こう語って励ました。
 「苦しいと思った時が勝負だよ。厳しい冬の次に待っているのは、春なんだ。信心で打開できない問題なんてないよ」
 それは、幾つもの体験を通して、生命でつかんだ、彼女の実感であり、確信であった。
 炎のごとき確信こそが、励ましの魂である。
38  敢闘(38)
 “山本先生とお会いして、喜界島のことをご報告したい……”
 富島トシは、朝な夕な、そう御本尊に祈り続けてきた。
 そして、この一九七六年(昭和五十一年)八月二十三日、九州総合研修所で、山本伸一と会うことができたのである。
 「ようこそ! ようこそ、いらっしゃいました。“喜界島のお母さん”に、お会いできて嬉しい」
 伸一は、奄美・沖縄地方の特産である芭蕉布の着物を着て、富島を迎えた。喜界島広布の功労者である彼女に、緊張することなく、ゆったりとした気持ちでいてほしかったからである。
 伸一は、一緒に勤行したあと、しばらく懇談の時間をもった。
 「あなたのことは、鹿児島の幹部から、詳しく伺っております。苦労を重ねて喜界島の広宣流布の基盤をつくってくださった。本当にありがとう。心から感謝いたします」
 その言葉を聞くと、富島は、ぎゅっと唇をかみしめた。目には、涙があふれていた。
 日ごろ、伸一と会ったら、あれも報告したい、これも報告したいと思っていたが、実際に、伸一を目の当たりにすると、感極まって、何も言えなかった。
 「わかっています。全部、わかっていますよ。あなたの心は、痛いほどわかります。
 本当によく頑張ってこられた。悔しい思いもされたでしょう。辛い思いもされたでしょう。そのなかで、法のため、社会のために戦ってこられたこと自体、あなたが仏であり、地涌の菩薩であることの証明なんです。
 広宣流布のために流した汗は、福運の結晶となって、永遠に自身を荘厳します。
 広宣流布のために動き抜いたならば、来世は、強く健康な体を授かるでしょう。勇んで苦闘に挑み抜いた人には、幸福の大勝利が待っています。それが、仏法の因果の理法です。
 どうか、これからも喜界島の太陽として、幸福の光で、みんなを照らしていってください」
39  敢闘(39)
 富島トシは、山本伸一の言葉に、目を潤ませながら、何度も、何度も、頷いた。
 伸一は言った。
 「さあ、また、新しい出発をしましょう。いつまでも、お元気でいてくださいよ」
 富島は、笑顔で答えた。
 「はい。私は六十五歳になりますが、これからが本当の戦いだと思っています。島の人たちを、一人残らず幸せにするまで、頑張り続けます。
 実は、私の家には、先生のお部屋があるんですよ。だから、いつも、先生と一緒なんです。何があっても、その部屋に入ると、先生とお話ししている気持ちになるんです」
 「ありがとう。嬉しいです。では、今日を記念して、一緒に写真を撮りましょう」
 二人は、並んでカメラに納まった。
 彼女は、笑顔皺を浮かべて言った。
 「はげー(あらまあ)、先生と写真を撮れるなんて、夢のようです。嬉しくって……」
 「私もです。今日の日は、永遠に忘れません。喜界島の皆さんに、よろしくお伝えください。お題目を送り続けています」
 そして、伸一は、色紙に歌を認めた。
  遙かなる   喜界の島の 友偲び 今日も祈らん  諸天も護れと
 色紙を手にした富島の目に、また、涙があふれた。
 伸一は、一人の人の励ましに、最大の力を注いだ。一人が立ち上がり、一人が燃えてこそ、広宣流布の幸の火は、燃え広がっていくからだ。
 「集団」や「類」、あるいは「数」といった、抽象化された人間を対象に物事を考えれば、本当の人間を見失ってしまう。どこまでも一個の人間と向き合うことこそ、人間主義の基本であるといってよい。
40  敢闘(40)
 日本の宗教社会学の第一人者として知られた安齋伸博士は、一九六三年(昭和三十八年)から、奄美諸島や沖縄の島々を歩き、宗教・社会調査を行っている。
 そこで、喜々として活躍する創価学会員の姿に触れ、広宣流布の広がりに、目を見張ったという。
 そして、こう結論する。
 「彼らは入信前、例外がないほどに人生苦をなめ、苦労を重ねてきているが、その人生経験から、折伏への批判と攻撃にめげず千波、万波と折伏を続ける力と一般庶民の生活関心との自ずからなる接触の能力を得たように思われる」(安齋伸著『南島におけるキリスト教の受容』第一書房)
 「創価学会の指導者にはこのように厳しい人生苦とそれからの救いの功徳体験に裏打ちされた生命力と信仰、そして指導者としての教学研究への熱意、功徳体験からの人びとへの説得力が窺われたのである」(同前)
 まことに鋭い分析である。
 功徳の体験という、実証に裏づけられた信仰への「確信」と「生命力」と「教学」――そこからほとばしる、人びとを救わんとする情熱こそが、われらの広宣流布運動の原動力である。
 翌八月二十四日は、山本伸一の入信二十九周年の記念日である。一九四七年(昭和二十二年)のこの日、十九歳の伸一は、戸田城聖の門下となり、仏法を持ったのである。
 また、八月二十四日は、創価学会として、初めて迎える「壮年部の日」であった。
 「壮年部の日」は、この七六年(同五十一年)の六月五日に、伸一が出席して行われた、副会長室会議で決定したものである。
 八月二十四日という日には、伸一の忘れがたい思い出が刻まれていた。この日は、彼の入信記念日であるだけでなく、生涯、戸田の弟子として、久遠の師弟の道に生き抜くことを、深く決意した日であったのである。
 ――入信三周年を迎えた五〇年(同二十五年)のこの日に、戸田は、学会の理事長辞任の意向を、発表したのである。
41  敢闘(41)
 一九五〇年(昭和二十五年)夏、戸田城聖の経営する信用組合は、完全に行き詰まり、業務停止のやむなきに至った。
 戸田は、戦後、会長不在のなか、理事長として、学会再建の責任を担ってきた。だが、これ以上、その理事長を続けるならば、事業破綻の波紋は、学会にも及びかねなかった。
 それだけは、なんとしても避けねばならぬと考えた戸田は、八月二十四日、東京・西神田の学会本部で法華経講義を行ったあと、理事長を辞任することを告げたのである。後任の理事長も発表された。
 夢にも思わなかった突然の事態に、参加者の戸惑いは大きかった。
 山本伸一も、動揺を隠せなかった。
 "創価学会は、そして、広宣流布は、どうなってしまうのか……"
 彼は、戸田に尋ねた。これから自分の師匠は新理事長になるのか、と――。
 戸田は、明確に答えた。
 「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は、ぼくだよ」
 伸一は、この一言を、全生命で確かめたかったのである。彼の胸には、言いしれぬ喜悦がほとばしった。
 "ぼくの師匠は、先生なんだ。先生なんだ。これでよし!"
 彼は、この日、戸田を生涯の師匠と定め、守り抜くことを誓ったのである。
 伸一も既に壮年となった。彼は、全壮年部員が、自分と同様に、師弟共戦の誓いを立て、生涯、広宣流布の大目的に生き抜いてほしかった。
 そこに、無上の人生道があるからだ。また、そうなれば、学会は盤石であり、永遠に栄えゆくことは間違いないからだ。
 壮年には、力がある。一家の、社会の、学会の黄金柱である。そして、広宣流布の勝敗を決していくのは、壮年が、いかに戦うかにかかっている。
 ゆえに伸一は、この八月二十四日を、「壮年部の日」にしたいという壮年からの提案に、全面的に賛成したのである。
42  敢闘(42)
 八月二十四日は、初の「壮年部の日」を記念して、東京・八王子市の創価大学や、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂などで、祝賀の集いが行われたほか、全国各地で、総ブロックごとに記念の部員会が開催されていた。
 山本伸一は、この日、九州総合研修所で、諸行事の運営役員らと、記念のカメラに納まるなど、終日、メンバーの激励を続けた。
 彼にとっては、深い意義を刻む、大切な記念の日である。だからこそ、広宣流布のための最も大切な仕事をしたかった。
 その結論が、仏子である同志を励ますことであった。そして、研修所を守り、尽力してくれているメンバーを、激励することに総力を注いだのである。
 一人ひとりの同志と対話し、励ましを送る――それは、地味な、なんの変哲もない作業である。しかし、それこそが、広宣流布を推進する原動力となるのだ。
 励ましは、組織の血流である。その脈動があってこそ、皆が生き生きと活動に励むことができる。
 励ましを忘れれば、組織は形骸化する。そうなれば、歓喜も、確信も、広宣流布の息吹も、損なわれていく。絶えざる激励こそが、前進の活力となるのだ。
 研修所の一角には、伸一が若き日にひとり暮らしをした、東京・大田区大森にあったアパート「青葉荘」の部屋が再現されていた。
 福岡のメンバーが、“山本先生に青春時代を思い起こし、心を和ませていただきたい”との思いで、つくり上げたものであった。
 伸一は、峯子と共に、この展示を観賞した。
 彼が、「青葉荘」に住んだのは、戸田城聖の出版社に勤めて、四カ月余が過ぎた一九四九年(昭和二十四年)五月、二十一歳の時のことであった。
 再現された部屋には、伸一が使っていたものとほぼ同じ、タンスや机、蓄音機などが置かれ、本棚には、かつて読んだ哲学書や文学書なども、そろえられていた。
 伸一は、峯子に言った。
 「懐かしいね。みんなの真心が嬉しいね」
43  敢闘(43)
 山本伸一は、目を輝かせて、再現された「青葉荘」の部屋に置かれた、一つ一つの調度品を見た。そして、本棚に視線を注ぐと、声をあげた。
 「確かに、これは、みんな読んだ本だよ。よく集めてきたな……」
 それから、青春時代を思い起こしながら、峯子に語っていった。
 「当時は、苦難が嵐のように襲ってくる毎日だった。戸田先生の事業は行き詰まり、何カ月も給料はもらえなかった。
 結核は悪化し、毎日、発熱が続いていた。真冬になっても、オーバーもない。そのなかで、へとへとになるまで働いたよ。
 “今日、倒れるかもしれない。しかし、負けるわけにはいかないのだ!”と自分に言い聞かせ、阿修羅のように戦った。先生をお守りするのは、私しかいなかったからね。
 靴下に穴が開いても、新しいものを買うお金がないから、自分で繕ったんだよ。なかなかうまくいかなくて、縫ったところが、波のようにうねってしまうんだ」
 「大変でしたね。そのころの一つ一つの苦闘が、福運となり、功徳となって、今、すべて花開いたんですね」
 峯子が答えると、伸一は頷いた。
 「そうなんだよ。苦労したことは、すべて最高の思い出になっている。今では、それが私の誇らかな歴史だ。無上の財産だ。広宣流布の大師匠のために尽くせたんだもの。
 泣くような思いで、必死になって戦わなければ、宿命の転換も、人間革命もできない。だから、仏法の目から見れば、苦闘ほど、ありがたいものはないんだよ」
 いつの間にか、伸一の周りには、青年たちが集まっていた。彼は、青年に語りかけた。
 「労苦がなければ、歓喜も、人格の完成もないよ。みんなも、広宣流布のために、苦労して、苦労し抜いて、自分を磨くんだよ」
 アイルランドの詩人イエーツは記した。
 「歓び――それは、苦労し、困難を乗り越えて、勝利を知る魂から生まれる」(イエーツ著『自叙伝』マクミラン社)
44  敢闘(44)
 二十四日の午後五時過ぎ、山本伸一は、車で九州総合研修所を出発し、国分市街(当時)をめざした。研修所に近い清水総ブロック、国分総ブロック合同の代表者勤行会に出席するためである。
 切り立った岩が迫る道を抜け、緑の林のなかを、車は進んでいった。
 伸一が、最初に向かったのは、清水総ブロック長の本吉勝三郎の家であった。
 本吉は、研修所の整備や清掃をはじめ、役員として陰で研修会を支える、地元ンバーのグループ「霧島会」の一員である。
 伸一は、数日前、研修所の一角で、研修会参加者のために、饅頭をふかしている、五十代半ばの壮年を目にした。
 伸一は、声をかけた。
 「いつも、ありがとうございます。ご尽力に感謝します。ところで、家は、どちらですか」
 「はい、すぐ下です」
 “すぐ下”といっても、車で四十分ほどの距離である。
 「それなら、いっぺん、御礼に、おじゃまさせていただきます」
 本吉は、喜色を満面に浮かべて言った。
 「はい! お待ちしております」
 伸一は、すぐに日程を具体化した。日時をあいまいにしておけば、言葉だけで終わってしまうことになりかねないからだ。
 「私の入信記念日が二十四日だから、その日ではどうですか」
 「そんな大切な日に……」
 側にいた、本吉の妻の和美が言った。
 「近くのメンバーも、先生にお会いしたくて、皆、真剣に祈っております。メンバーとも、ぜひ、お会いしてください」
 「わかりました。お宅にも伺うし、皆さんともお会いして、勤行もしましょう。なんでもやらせてもらいます」
 一瞬を疎かにせず、真剣勝負で行動に行動を重ねていくなかで、栄光の歴史がつくられる。一歩一歩の歩みは小さくとも、その積み重ねのなかにこそ、大いなる前進があるのだ。
45  敢闘(45)
 “さあ、戦おう!”
 山本伸一は、そう心で自分に呼びかけながら、本吉勝三郎の家の前で車を降りた。
 本吉の家は、繁華街の一角にある平屋建てであった。
 午後六時前、到着した伸一を、本吉をはじめ、家族五人で出迎えてくれた。
 皆で題目を三唱したあと、座卓を囲んで懇談が始まった。
 伸一は、家族の健康状態や家庭の状況などを尋ねていった。
 彼は、学会員と接する時には、“体は大丈夫か”“生活は安定しているだろうか”“子どもなど、家族の問題で悩んではいないだろうか”といった事柄に、常に細心の注意を払っていた。
 人は、皆、なんらかの悩みを抱えている。その悩みに、喜々として挑戦し、乗り越えていくための信心であるからだ。
 また、そうした問題を解決していくなかで、自身の生活の足場が固められていくし、さらに、その体験が、仏法への揺るぎない確信となっていくのである。
 そして、それによって、広宣流布の活動に、一段と力を注いでいくことができるようになるのだ。
 伸一は、本吉の仕事について尋ねていった。
 本吉の家は、かつては地主であったが、第二次大戦後の農地改革で、広大な土地を失ってしまった。
 本吉は、建築業や割烹料理の店など、さまざまな事業を手がけてきたが、どれも、うまくいかなかった。今は、不動産業の友人の手伝いと、家の一部を貸店舗にして、その収入で生活をしているという。
 伸一は、親身になって、将来の方向性について語り合った。
 彼は、本吉の性格から見て、不動産業が合っているようには思えなかった。また、体も無理が利く年代ではない。
 幸いに、彼の家は中心街にあり、店舗としての立地条件がよいことから、家を増改築し、貸店舗を増やしてはどうかと、アドバイスした。
46  敢闘(46)
 山本伸一は、大学受験をめざし、浪人中であるという本吉勝三郎の三男にも、励ましの言葉をかけた。
 伸一は、大福運に包まれた、和楽の家庭を築いていくよう念じながら、彼が揮毫した、「共戦」と「安穏」の色紙を、本吉夫妻に贈り、皆で一緒に記念撮影した。
 本吉は、この時の伸一のアドバイスを実践し、家を二階建てに増改築。一階を貸店舗にした。その家賃収入で増改築のローンも返済し、生活は安定していったという。
 このあと、山本伸一は、清水、国分の二総ブロックの代表が集まっている時田勇雄の家に向かった。本吉の家から、ほんの百メートルほどの距離であった。
 時田も「霧島会」のメンバーであり、派遣で九州総合研修所のある牧園総ブロックの、総ブロック長をしていた。彼は、中華料理店を営み、店の裏にある自宅を、座談会などの会場として提供していたのである。
 時田の家には、八十人ほどの代表が集い、今か今かと、伸一の到着を待っていた。
 すると、縁側の方から、「やあ、こんばんは! おじゃまします」という声が響いた。
 伸一が部屋に入ると、拍手が起こった。
 「皆さん、こんばんは! 山本です。いつも、大変にお世話になっております。ありがとうございます」
 こう言って彼は、深々と頭を下げた。
 「皆さんが、ますますご健康、ご長寿で、ご一家が安穏でありますよう、いつも、いつも、ご祈念しております」
 人間として、とりわけリーダーとして大事なことは、常に「感謝」と「賞讃」の心をもち、それを、素直に口に出せるかどうかである。どんなに、心で思っていても、言葉や振る舞いとして表現されなければ、心は通じない。
 大聖人は御書の随所で「ありがたし・ありがたし」などの言葉を記されている。相手を讃え、感謝を語るところから、心と心は結ばれ、強固な絆が結ばれていくのである。
47  敢闘(47)
 会場には、山本伸一のために、机とイスが置かれ、マイクも用意されていた。
 伸一は、会場提供者の時田勇雄と握手を交わし、丁重に御礼を述べた。
 「いつも会場として使わせていただき、大変にありがとうございます。それによって、地域広布が、どれだけ前進しているか、計り知れません。
 これからも、よろしくお願いします」
 さらに、その場にいた、時田の子どもたちにも声をかけた。
 「両親を大切にするんだよ。実は、それが仏法に通じていくんです。仏法というのは、人間の道を説いているんです」
 それから皆で、「人間革命の歌」を声高らかに合唱した。
 「さあ、勤行をしましょう。
 祈るにあたって大切なことは、願いは、すべて叶うのだという強い信を込め、力強く祈ることです。
 広宣流布のために戦っている地涌の菩薩である師弟が、心を合わせて祈るんですから、願いが叶わぬわけがありません。
 広宣流布を誓願して、題目を唱えていくならば、それは、地涌の菩薩の祈りです。その時、わが生命は、地涌の菩薩の境涯へと開かれていくんです。ゆえに、その祈りには、諸天諸仏を、大宇宙を動かす力があり、自分も、ご家族も守られ、個人の願いもまた、成就していくんです。
 したがって、広宣流布を祈り抜いていくことが、自分の境涯を開き、願いを成就していく直道なんです。
 そして、決意、祈りは、具体的であることが大事です。
 “今日は、あの人に信心の話を教えたい”“この人を座談会に参加させよう”、あるいは、“信心の実証を示すために、就職を勝ち取らせてください”“元気に学会活動に走り回れるように、この病を治してください”といった明確な祈りです。
 祈りが叶えば、歓喜がわきます。それがまた、新たな活力になっていきます」
48  敢闘(48)
 山本伸一の導師で、勤行が始まった。
 白馬が天空を駆け上がるような、生命の躍動感にあふれた勤行であった。
 伸一は、ここに集った同志が、健康で、長寿で、幸福を満喫し、また、一家が繁栄するよう真剣に祈念した。
 勤行が終わると、皆、生命が洗い清められたような、すがすがしい思いがした。
 伸一は、再びマイクに向かった。
 「九州総合研修所に来るたびに、皆さんには、大変にお世話になっていますので、今日は、御礼に伺いました。
 法華経には、『現世安穏、後生善処』(現世安穏にして、後に善処に生ず)とあります。
 しかし、広宣流布の道には、さまざまな難が競い起こってきます。また、人生は、宿命との戦いともいえます。
 現世安穏というのは、なんの波風もない、順風満帆の人生を生きるということではありません。怒濤のように諸難や試練があっても、勇敢に、一歩も引かずに戦い、悠々とそれを乗り越えていける境涯をいいます。
 何があろうが、堂々と、人生に勝利していける姿が、現世安穏ということなんです。途中は、いかに波瀾万丈でも、それを勝ち越え、晩年に、しみじみと、わが人生は現世安穏なりと、実感していくことが大事です。
 そのためには、どんなことがあっても、一生涯、学会から、御本尊から離れず、題目を唱え抜いて、勇んで、広宣流布に生き抜いていくことです。
 大聖人は、『南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり』と仰せです。たとえ、どんなに苦しい時も、御本尊への信を奮い起こし、“絶対に負けるものか!”と、唱題し抜いていくんです。
 そうすれば、苦難に立ち向かう勇気がわきます。生命が躍動し、歓喜が込み上げてきます。そこから、すべての状況が開かれていくんです。
 題目、題目、題目です。誰も見ていなくとも、日々、懸命に祈り抜いていく――それが、一切の原動力です」
49  敢闘(49)
 山本伸一は、皆が信心の大功徳を受けてほしかった。ゆえに、その源泉となる、唱題の大切さを力説していったのだ。
 「唱題根本に、広宣流布に生き抜いていくならば、来世も、願ってもない最高の境涯で、御本尊のもとに生まれ合わせることができる。つまり、後生善処ということです。
 また、信心を貫いていくならば、死も決して恐れることはありません。
 日蓮大聖人は、『命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死にしぬるならば』――釈迦、多宝、十方の諸仏が、瞬時に飛び来って、守ってくださると仰せです。
 信心が強盛ならば、生きている時も、死後も、御本尊に守られ、幸福と歓喜の大道が続くことは間違いありません。
 世相は、大変に厳しい状況です。しかし、皆さんは、何があっても、唱題第一に、生命力豊かに、堂々と、朗らかに、勝ち進んでいただきたいと、心からお願いし、私の話といたします」
 唱題あるところには、勇気がわく。歓喜があふれる。確信がみなぎる。そこに、功徳の大輪が咲く。それがまた、さらに、勇気、歓喜、確信を生む。一切は、唱題から始まるのだ。
 それを、万人に教え、知らしめるために、創価学会があるのだ。
 唱題第一に、共に広宣流布へ前進することを誓い合った参加者は、頬を紅潮させ、笑顔で伸一を見送った。
 帰りの車中、彼は、同行の幹部に語った。
 「八月二十四日――この日に、会員のお宅を回ることができた。一番大事なことができたと思っている。幹部は、どんなに忙しくとも、第一線の同志のことを、片時も忘れてはならない。常に、同志に会い、激励し続けるんだ」
 周恩来総理は、「われわれの活動はすべての人民のためのものである」(『周恩来選集』森下修一編訳、中国書店)と語っている。それは、人類の幸福のために立ち上がった、わが創価の広宣流布運動の心でもある。
50  敢闘(50)
 九州総合研修所での、山本伸一の敢闘は続いた。八月二十五日には、男子部、学生部の中核メンバーで結成された、人材育成グループ「伸一会」の集いに出席した。
 食事をしながらの懇談であった。
 伸一は、同じ円形テーブルに着いた十人ほどのメンバーの、近況報告などに耳を傾けながら、種々、指導を重ねた。
 「昨日は、私の入信記念日でしたが、二軒のお宅を訪問し、一人ひとりを真剣に激励してきました。
 君たちも、誰が見ていようがいまいが、一兵卒となって、会員のために汗を流し、懸命に励まし、学会を守り抜いていくという姿勢を、忘れないでいただきたい。
 諸君は、既に学会の中核であり、これから多くの人が、さらに、副会長などの要職に就いていくでしょう。
 さまざまな権限をもつようにもなるでしょう。最高幹部になっていくのは、学会を守り、会員に奉仕し、広宣流布に尽くしていくためです。
 しかし、なかには、最高幹部という地位を得ること自体が目的となったり、自分の野心を実現するために、学会を利用しようとする人間も出てくるかもしれない。
 もしも、そうした人間に、いいようにされたら、学会の正義は破壊され、仏法は滅びてしまう。純粋な学会員がかわいそうです。
 君たちは、そんな人間に、絶対になってはならないし、そうした人間がいたならば、徹底して戦うんです。
 また、金銭の不正、飲酒、異性の問題などで、人生の軌道を踏み外すことのないよう、自らを厳しく戒めていかなければならない」
 厳しい口調であった。伸一は、未来のために、青年たちの胸中深く、信仰の王道を打ち込んでおきたかったのである。
 「学会も組織である限り、皆が皆、中心者になるわけではない。脚光を浴びる立場から外れる場合も、当然ある。実は、その時に、人間の本性が現れ、真価がわかる。
 それをきっかけに、組織から遠ざかり、やがて、離反していく者も出るかもしれない」
51  敢闘(51)
 山本伸一のテーブルにいるメンバーは、緊張した顔で、彼の話を聞いていた。
 「自分に光が当たらなくなると、離反はせずとも、ふてくされたり、勝手な行動をとる者、傍観者を決め込む者も出るでしょう。
 私は、戸田先生の時代から、傲慢な幹部たちが堕ちていく姿を、いやというほど見てきました。地道な活動をせず、威張りくさり、仲間同士で集まっては、陰で、学会への批判、文句を言い、うまい儲け話を追い求める。そういう幹部の本質は、私利私欲なんです。
 結局、彼らは、金銭問題等を起こし、学会に迷惑をかけ、自滅していきました。皆、最後は惨めです。仏罰に苦しんでいます。
 仏法の因果は厳しい。人の目はごまかせても、仏法の生命の法則からは、誰人も逃れられない。
 人間革命、宿命転換、一生成仏のための信心です。それには、見栄、大物気取り、名聞名利の心を捨てて、不惜身命の精神で戦う以外にない。広宣流布への師弟不二の信心を貫き通していくことです。遊び、ふざけなど、絶対にあってはならない」
 伸一は、祈るような思いで語っていった。
 「生涯、一兵卒となって、広宣流布のため、同志のために、黙々と信心に励んでいくことです。唱題に唱題を重ねながら、会員の激励に、座談会の結集に、機関紙の購読推進に、弘教に、地を這うように、懸命に走り回るんです。それが仏道修行です。
 それ以外に信心はない。勇ましく号令をかけることが、信心だなどと、勘違いしてはならない。
 模範の一兵卒たり得てこそ、広布の大リーダーの資格がある。私は、君たちが五十代、六十代、七十代……と、どうなっていくか、見ています。人生の最後をどう飾るかだよ。大事な、大事な、中核の『伸一会』だもの、創価の師弟の大道を全うして、広宣流布の歴史に名前を残してほしい……」
 彼の「伸一会」への期待は大きかった。一人も堕ちていくような人間を出したくなかった。だから、信仰の王道を訴えたのだ。
52  敢闘(52)
 九州総合研修所での行事を終え、東京に戻った山本伸一は、八月二十八日には、神奈川の県民ホールで、「二十一世紀への船出」をテーマに行われた、’76神奈川県文化祭に出席した。
 どの演目も、すばらしかった。なかでも、日蓮大聖人と生死を共にせんとした四条金吾の姿を通して、師弟不二の道を進む心意気を表現した、壮年部員七十二人による創作舞踊「四条金吾」に、伸一は感銘を覚えた。
 壮年部が、広宣流布の一切の責任を担い立てば、皆が安心できる。婦人も、青年も、力を出し切ることができる。壮年部が、社会建設の全面に躍り出てこそ、立正安国の幕は開くのだ。
 彼は、この「四条金吾」の舞に、「壮年部の時代」の到来を感じたのである。
 翌二十九日には、「ロワール埼玉に常勝の詩」をテーマに掲げ、埼玉・大宮市民会館で開催された、’76埼玉県文化祭に出席した。
 伸一は、九州総合研修所で、埼玉の青年に、「新生・埼玉の勝利の扉を開く文化祭に」と励ました。その青年たちが、自分の思いを、いかに受け止め、どんな文化祭にしてくれるのか、楽しみで仕方なかった。
 埼玉県文化祭は、まさしく、「勝利の扉を開く」決意が、いかんなく発揮されていた。特に、「共戦太鼓」と題する男子部の演目に、それが象徴的に表れていたのである。
 交差した長さ八メートルのハシゴに挟まれた、三組の太鼓が舞台に現れる。それを、別のハシゴに乗った三人の青年が、力強く叩き始める。
 彼らのハシゴは、リズムに合わせて、右に左に揺れる。そのなかで、勇壮に、連打が続く。玉の汗が光る。
 やがて、ハシゴは次々と組み替えられ、最後は、扇状の布に書かれた、墨痕鮮やかな「共戦」の文字が広がる。圧巻であった。
 なんと、この演目は、本番の四日前に、迫力のあるものにしようと、一から企画を練り直し、つくり変えたものだ。“なんとしても大成功させよう!”という、執念の闘魂が切り開いた、勝利の敢闘劇であった。
53  敢闘(53)
 埼玉県文化祭翌日の八月三十日、山本伸一は、埼玉文化会館(現在の大宮文化会館)で、文化祭の運営関係者らと共に、新装記念勤行会を行った。
 同会館は、一九六九年(昭和四十四年)に埼玉本部として開館し、この七六年(同五十一年)に新装され、埼玉文化会館と改称されたのである。
 勤行会の席上、伸一は、埼玉創価学会が、さらに発展を重ねていくために、「伸びのびと」「朗らかに」「忍耐強く」との三項目の指針を示したのだ。
 皆が、伸び伸びと、朗らかに活動に励んでこそ、自主性、創造性が生まれ、運動は無限の広がりをもっていく。
 また、地球が宇宙の軌道を、リズム正しく運行するように、忍耐強い信仰の持続のなかにこそ、広宣流布の前進はある。
 彼は、それを、愛する埼玉の同志に、強く訴えておきたかったのである。
 ――八月は終わろうとしていた。伸一は、この夏も、間断なく、走りに走った。疲労はあった。しかし、充実と達成感に満ちた、心地よい疲労であった。彼の胸には、黄金の太陽が輝く、晴れやかな青空が広がっていた。
 「真の信仰とは、今自分がしているすべてのことに全力をつくして打ち込むことなのです」(注)とは、ナイチンゲールの箴言だ。
 来る日も、来る日も、自身を完全燃焼させ、力を尽くし、同志を励ます。もう一人、もう一軒、もう一会場と、自らを鼓舞して、歩みを運ぶ。そして、友の奮起を、幸せを祈り、生命を振り絞るようにして、対話を交わす。
 その目立たぬ、地道な労作業のなかにこそ、広宣流布を決する「敢闘」があるのだ。
  敢闘の
    歴史留めし
      幾山河
    勝利勝利と
      旗翻る

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