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日蓮大聖人・池田大作

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第23巻 「勇気」 勇気

小説「新・人間革命」

前後
2  勇気(2)
 学生部に「飛翔会」が結成されたのは、前年の一九七五年(昭和五十年)の八月二十六日、東京・江戸川区公会堂で行われた、第一回「二部学生大会」の席上であった。
 二部学生の学内活動は、その八年ほど前から活発化していた。そして、大学ごとに責任者を設け、指導会や大学別講義なども開催してきた。
 この七〇年代半ば、キャンパスでは、先鋭化していった一部のセクトが、内ゲバを繰り返していたものの、既に大学紛争は沈静化していた。学生たちの多くは、自分を賭けて悔いない理想も、運動も、また、連帯も見いだすことができず、しらけと孤立化が進んでいた時代であった。
 そして、社会とのかかわりを避け、就職もできる限り先延ばししようとする、いわゆる「モラトリアム化」が青年層に広がっていた。若者たちを、「無気力」「無関心」「無責任」と評する意見もあった。
 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」とは、戸田城聖の魂の叫びである。
 青年が建設への情熱を失った社会の未来は、暗黒である。山本伸一は、そうした若者の風潮を最も憂えていた。その伸一と共に、人間革命の哲学を掲げ、新しき時代建設の思想潮流を創ろうとしていたのが、学生部員たちであった。彼らは、熱く語り合った。
 「学生運動の波が全国に広がりながら、結局、破綻していったのは、根本的には、変革の主体である人間自身の変革が欠落していたからだ。だから、暴力という迷路に陥り、民衆から遊離してしまったのだ」
 「そうだ。今こそ、民衆一人ひとりの人間革命を機軸にした、新しい変革の波を起こさなければならない。生活に深く根差しつつ、目覚めた民衆が互いに触発し合い、信頼と共感の輪を広げ、平和的に漸進的に幸福社会を実現するんだ。これが広宣流布の大運動だ」
 新しき民衆運動の先駆けたらんとする、その学生部のなかで、大きな力を発揮していたのが二部学生であったのである。
3  勇気(3)
 二部学生は、昼間部の学生より、社会経験も豊かであるだけに、折伏・弘教に臨んでも説得力があった。また、実社会で鍛えられている彼らは、行動力にも富んでいた。
 折しも学生部では、次代のリーダーたる一騎当千の人材育成に力が注がれ、「精鋭五万」の結集が目標として掲げられた。
 二部学生は、この活動も自分たちが推進力になろうと話し合い、その決起の集いとして、一九七五年(昭和五十年)八月に、「二部学生大会」を行うことにしたのである。
 山本伸一は、学生部長の田原薫から、大会開催の報告を聞くと、即座に言った。
 「私も夜学に学んだ。二部学生は、皆、私の大切な後輩たちだ。
 二部学生は大事だよ。貴重な青春時代に、働きながら学ぶという逆境に身を置いて、自らを鍛え抜いている。そうした青年が、大人材に育たぬわけがない。学会の宝だよ。
 私は、この日は、神奈川にいるので出席できないが、みんなの重要な飛躍台になるように全力で応援するよ。
 はつらつとした二部学生の出発の会合にしよう。愛唱歌を作って、その日に発表してもいいんじゃないか。
 私もメッセージを書きます。また、人材育成グループを結成してはどうかね」
 田原の顔が、ほころんだ。
 「はい。みんな大喜びすると思います」
 伸一は、静かに頷きながら言葉をついだ。
 「そのグループについては、当日の全参加者、そして、全二部学生がメンバーだ。
 グループとして特別に講義をしたり、研修会をもったりする必要はない。学内や地域での日々の活動、また、仕事や勉強それ自体が訓練であり、修行なんだから。
 私と同じ青春の道を、真の師弟の道を歩む内証の誇りをもって、うんと苦労し、自らが自らを磨いていくんだ。それが、本当の師子の集いだ。自立の信仰者だ。
 グループの名称などの案を考えたら、必ず私のところに持っていらっしゃい」
4  勇気(4)
 さっそく、学生部長の田原薫と二部学生の中心メンバーで、人材育成グループの名称を検討した。そして、幾つかの名称の案を、山本伸一に提出した。
 それを目にすると、伸一は言った。
 「この『飛翔会』という名前にしてはどうかね。二部学生は、生涯、『飛翔会』として、私と共に、広宣流布の大空へ飛翔し続けていくんだ!また、社会の指導者として飛翔し、勝利していくんだ!」
 その力のこもった言葉に、田原は、二部学生に対する伸一の期待が、いかに大きいかを痛感したのである。
 一九七五年(昭和五十年)八月二十六日の夜、東京・江戸川区公会堂への道は、仕事を終えて、二部学生大会に勇んで駆けつける青年たちの列が続いていた。入場開始とともに、会場は瞬く間に埋まり、熱気に包まれていた。
 開会に先立ち、新たに作られた二部学生愛唱歌「先駆の誓い」が発表された。
  風吹きすさぶ この征路は
  望みし使命の 幾山河
  民衆の嘆きに 胸焦がし
  若き正義の 生命燃ゆ
  ああ風よ! 吹かば吹け!
  先駆の同志の 誓いは固し
 仕事と勉学、そして学会活動と、幾つもの課題に勇んで挑戦する二部学生の真情と、先駆の決意をうたい上げた愛唱歌である。
 合唱団による歌の披露、歌唱指導のあと、「先駆の誓い」の大合唱で二部学生大会は幕を開けた。息の合った力強い手拍子とともに、神奈川にいる師匠・山本伸一に届けとばかりに熱唱が響いた。
 キャンパスには、しらけが蔓延していた。しかし、ここには、一途に燃え盛る情熱の炎があった。
 広宣流布という崇高な使命に目覚める時、人間の魂は、蘇生し、発光していくのだ。
5  勇気(5)
 二部学生大会では、二部学生の指導に当たってきた学生部主任部長の稲野健作が、大会の開催に至るまでの経過報告を行った。
 彼自身、夜間部の出身であり、二部学生の力を結集し、広宣流布開拓の新たな突破口を開きたいと念願してきただけに、この大会開催の喜びは、一方ならぬものがあった。
 「二部学生である私たちの力を、今こそ、いかんなく発揮し、新しい広宣流布のドラマを創ろうではありませんか!」と呼びかける彼の頬は紅潮し、声は歓喜に震えていた。
 ドラマを創る――そこにこそ、人生の醍醐味がある。その人生劇場の主役は、自分自身である。自らの「心」である。
 一生を感動の大ドラマとして完結させるには、試練の嵐は必要不可欠だ。いや、荒れ狂う苦難の怒濤こそ、望むところではないか。忍耐と努力と執念の、長い、長い暗夜も、あえて突き進んでいくのだ。
 逆境――まさに、それこそが、創価の英雄が躍り出る最高の舞台であるからだ。不可能の壁に敢然と挑み立ち、必ずや、誇らかに凱歌を響かせるのだ。
 次いで、この二部学生大会の実行委員長を務めた青年が、あいさつに立った。
 彼は、会長の山本伸一が、若き日に、大世学院(当時)の夜学に学びながら、戸田城聖に仕え、守り支えた、創価の師弟の歴史に言及し、全身の力を振り絞るように叫んだ。
 「師匠の山本先生と同じ道を歩む私たちの青春こそ、最高の誉れの人生道であります。私たちは、職場にいようが、どこにいようが、常に山本先生の心をわが心として、師弟不二、先生直結で、勇んで前進していこうではありませんか!
 若き日に山本先生が、師匠・戸田先生のもとで、苦難をものともせずに戦い、広宣流布の新しき時代を開いてきたように、いよいよ私たち一人ひとりが山本伸一青年となって、創価の勝利の旗を打ち立てていこうではありませんか!」
 皆の胸中に、師子の誇りが燃えた。
6  勇気(6)
 二十一世紀に求められる人材の要件とは何か。それは、磨き抜かれた「英知」とともに、苦境のなかで培われた「勇気」と「人間性」を備えているということである。
 実行委員長は、その人材となって新世紀に羽ばたくことこそが、二部学生に託された使命であることを力説したのである。
 そして、ここで、自分たちの永遠の指針と決意を、「二部学生宣言」としてとどめたいと述べ、宣言文を読み上げていった。
 「一、私たち二部学生は、師匠・山本先生が青春時代に歩んだ同じ人生道を進む誇りに燃え、同志を裏切ることなく、生涯、創価文化運動の旗手として、その任を全うしゆくことを誓う。
 一、私たち二部学生は、逆境の中にこそ、学会精神の本流があると確信し、全学生部員の模範たるべく、職場、キャンパスで創価思想を体現しゆくことを誓う。
 一、私たち二部学生は、学内、ブロックに仏法拡大の波動を巻き起こし、常に、学生部、創価学会の先駆となりゆくことを誓う。
   創価学会学生部 二部学生一同」
 宣言文を発表した実行委員長が、「これを採択したいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」と呼びかけると、激しい賛同の拍手が轟いた。
 幹部のあいさつに続いて、最後に学生部長の田原薫が登壇した。
 「最初に、今日の『二部学生大会』に山本先生からメッセージを頂戴しておりますので、紹介させていただきます」
 大歓声が起こり、大拍手が広がった。皆、多忙を極める山本会長が、メッセージを送ってくれるなどとは、思ってもいなかった。
 ″先生は見守ってくださっているんだ!″
 誰もが胸を躍らせながら、耳を澄ませた。
 「盛大な二部学生大会本当におめでとう。
 私は、学会の前衛であり、先駆である学生部のなかでも、勤労しつつ学びゆく諸君に大きな期待をかけております」
 歓喜の電撃が、皆の心を貫いた。
7  勇気(7)
 学生部長の田原薫は、山本伸一のメッセージを声高らかに読み上げていった。
 「人生の勝利というものは、決して学歴や知識量で決定するものではない、と私は思う。むしろ、いかなる困難にあっても、自分のいだいた目標を貫徹するという強い意志力と忍耐力こそ、勝利の母であり、革命児として最も重要な資質であると考える。
 諸君が、仕事、学問、学会活動と、時間のないなか精いっぱい戦い抜いていることを、私はよく知っております。しかし、そのこと自体、諸君の人生の盤石な基盤の構築に通ずることを、決して忘れないでいただきたい。そして、誰人にも勝る強き意志と忍耐の力を養っていただきたいのであります。
 諸君の人生の勝利は、そのまま広宣流布の実証である。どうか、大御本尊に題目を唱え抜き、自ら選んだ苦難の道を、堂々と切り開いていってください。諸君の成長を楽しみにしております。お元気で!」
 会場を揺るがすかのような拍手が響いた。
 田原は、もう一度、メッセージを読むと、メガネの奥の目を輝かせながら言った。
 「皆さん、大変におめでとうございます!
 先生の、二部学生に寄せる、この限りない期待を、その厳父の慈愛を、深く、深く、生命に刻んでいただきたい。
 皆さんこそが、学会の先駆である学生部のなかでも、さらに、その先駆であり、中核中の中核であります。
 どうか、その尊い使命を、片時も、また、生涯、絶対に忘れないでいただきたい!」
 田原は、理知的なタイプの青年リーダーである。その田原が火を吐くがごとき叫びを放ったのだ。この真剣な訴えに、二部学生は、伸一の心をあらためて知った思いがした。
 理屈では、人は奮い立たない。人の心を揺さぶり、魂を目覚めさせるものは、懸命な魂の訴えであり、行動である。
 ここで田原は、さらに力を込めて語った。
 「実は、本日は、もう一つ、すばらしい発表がございます!」
8  勇気(8)
 田原薫の言葉に、場内は静まり返った。皆が、瞳を輝かせて田原を見つめた。
 「この二部学生大会の開催を山本先生にご報告申し上げたところ、先生から″二部学生全員から成る人材育成グループを結成してはどうか″″グループの名称は『飛翔会』としてはどうか″との提案をいただきました。
 皆さん、いかがでしょうか!」
 大歓声と大拍手が起こった。
 「では、本日の参加者の総意として、ここに『飛翔会』の結成を宣言いたします」
 賛同の拍手は、怒濤のように轟き、いつまでも鳴りやまなかった。
 田原は、話を続けた。
 「先生は、『二部学生は、生涯、飛翔会として、私と共に、広宣流布の大空へ飛翔し続けていくんだ!また、社会の指導者として飛翔し、勝利していくんだ!』とも言われておりました。
 これで、私たちの大成の種子は植えられました。その種子が芽を出し、花を咲かせ、勝利の実りをもたらしていくかどうかは、ひとえに、今後の個々人の決意と実践にかかっております。断固、戦いましょう!」
 さらに、田原は、創価学会の歴史は、庶民の幸福と平和を勝ち取る戦いであったがゆえに、さまざまな権力からの、非難と中傷、弾圧と迫害の歩みであったことを述べた。
 そして、その矢面に立って戦ってきたのが、第三代に至る歴代会長であったことを訴え、二部学生こそ、この精神を受け継いで、師弟不二の直道を、誰よりも純粋に、誰よりも力強く、永遠に歩み抜いてほしいと呼びかけて、話を結んだ。
 最後の学会歌の合唱は、意気天を衝くかのような大熱唱となってこだました。どの目も光り輝いていた。どの頬も紅潮していた。
 彼らの置かれた状況も、立場も、何一つ変わったわけではなかった。しかし、会場を後にした時には、使命に生きる歓喜が脈打ち、世界のすべてが変わったように感じられた。自身の一念の大きな転換がなされたのだ。
9  勇気(9)
 明治大学四年の藤森敦は、電流が全身を貫くような思いで、二部学生大会への山本伸一のメッセージを聞いた。
 彼は、高校卒業後、アルバイトをして学費を貯め、政治経済学部の二部に入学した。実家は、東京の人情味あふれる下町の江東区であった。暮らしは、決して豊かではなく、本来ならば、大学に進める状況ではなかった。
 そのなかで彼が、大学進学を決意したのは、中学時代に「男子は、全員、大学へ」との会長・山本伸一の指導を聞いたからであった。
 知識、教養は、知恵を開く門である。したがって伸一は、できるなら、男女の別なく、大学等に進学し、勉学に励んでほしかった。
 しかし、あえて男子に、強く大学進学を呼びかけたのは、男子は社会に出て働き、女子の多くは、結婚後、専業主婦になるという、当時の日本の現実を見すえてのことであった。学歴が重視される日本社会にあって、存分に力を発揮していくには、大学卒業の資格と学力を得ることが望ましかった。
 伸一は、中等部員や高等部員に対して、もし、昼間の大学に行けない場合には、夜学でも、通信教育でもよいから、勉学を重ねていくように訴えていたのである。二部学生のなかには、この伸一の指導を聞いて、大学進学を決意した人が少なくなかった。
 藤森は、希望に燃えて二部学生となり、昼は、ホテルに勤めた。仕事、学業、学会活動に、体当たりする思いで挑戦していった。
 しかし、その生活は、肉体的にも、精神的にも、予想以上に厳しかった。睡眠時間を削らなければならないことも、少なくない。
 朝、勤務先で清掃しながら、あまりの疲労から、掃除機の柄を支えにして眠ってしまうこともあった。大学の前期試験を終えて、本部幹部会の会場である日大講堂に駆けつけると、既に終了していたこともあった。
 苦闘の渦中は、ただ、必死なだけかもしれない。しかし、その時が、最も成長し、前進し、自身を磨き上げている時なのだ。苦闘即栄光であり、苦闘即勝利となるのだ。
10  勇気(10)
 二部学生に対する社会の評価は、決して昼間部の学生と同等とは言えなかった。昼間部の受験に失敗し、二部に入る学生も増えつつあったことから、学力を疑問視する声もあった。就職についても、事実上、二部学生を採用枠から外している企業も少なくなかった。二部に学ぶ学生部員も、その現実に、いやというほど直面してきた。
 学会にあっては、すべて平等であった。しかし、社会的な評価を考え、内心、寂しい思いをしているメンバーもいた。
 夜間部に学んだ山本伸一は、二部学生の置かれた状況も、心情も、よくわかっていた。
 伸一が、仏法を根底にした人間学の眼でとらえた二部学生は、社会の見方とは、全く異なっていた。二部学生こそ、学会の先駆である学生部のなかでも、最も期待すべき存在であるというのが、彼の認識であり、評価であった。その真実の思いを、伸一は、二部学生大会のメッセージに記したのだ。
 二部に学ぶ学生部員こそ、広宣流布のリーダーとして、最も重要な資質を備えている。それは、働き学ぶなかで、いかなる困難にあっても、自身のいだいた目標を貫徹する「強い意志力と忍耐力」を、日々、磨いているからだ。
 最も苦労した人こそ、最も成長を遂げる。過酷な「宿命」を背負った人こそ、最高の「使命」を担っている人である――これが、仏法の原理であり、伸一の信念であった。
 伸一は、彼らが、真の師弟として、広宣流布の使命を成し遂げる永遠の軌道を築くために、「飛翔会」の結成を提案したのである。
 藤森敦は、学生部員として、はつらつと学会活動に取り組んでいたが、二部学生ゆえの辛酸もなめてきた。しかし、山本会長のメッセージと「飛翔会」の結成が、彼の一念を、人生観を、一変させ、悲哀の雲を一掃していったのである。
 「人間は、本来の使命に目覚めたとき、あらゆる悩みを解決できます」とは、文豪トルストイの達見であった。
11  勇気(11)
 ″二部学生は、学生部の、さらに、学会の師弟の本流なのだ。すべての苦闘は、自ら願い求めた人生修行の場なのだ!″
 藤森敦は、こう思うと、歓喜が胸に込み上げてくるのを覚えた。全身に力があふれた。仕事、学業、活動に、ますます情熱を燃やした。
 後年、彼は、副会長、団地部長、東京書記長、壮年部書記長等の重責を担い、学会の中核として、活躍することになる。
 国学院大学の経済学部第二部四年の田島尚男は、卒業を半年後に控えていたが、進路が定まらなかった。だが、この二部学生大会で、居住している東京・多摩地区の市役所に勤めようと決意した。二部学生として培った 力をもって、地域社会に奉仕するなかに、自己の使命があると考えたのだ。
 田島は、幼少期に家族と共に入会していたが、本格的に信心を始めたのは、二部学生になってからである。
 高校を出て浪人していた時、父親が勤めていた会社が倒産し、母親も早朝から働きに出るようになった。彼も予備校をやめて、アルバイトを始めた。そして、自分の力で大学に行こうと二部に入ったのである。
 二部学内では、先輩から、徹底して信心を教えられた。烈々たる気迫で指導された。
 「君は人生の大目的を、どこにおいているんだい。広宣流布という万人を幸福にする最高の目的に生きようと心を決めるんだ。そこに真実の幸福があり、人間革命がある」
 「二部学生は、仕事と勉強の両立なんか、あたりまえだ。職場でも、学業成績でも実証を示すんだ。さらに、地域での学会活動も、学内での活動も、すべてやり切るんだ。それでこそ、自分を磨き、鍛え、人生の堅固な礎を築くことができる。
 ″不可能だ。ぼくにはできない″などと思うこと自体が、最大の敗因なんだ。自分で限界の壁をつくってしまっているからだ」
 「ぼくらがめざすのは山本先生だよ。先生はどんな戦いをされたか、先生ならどうされるかを、常に考えて生きるんだ!」
12  勇気(12)
 二部学内の先輩の激励は、剛速球のような指導であった。真剣であった。厳しさのなかに、誠実さ、思いやりがにじんでいた。
 田島尚男は、その指導を、すべて真正面から受け止めた。
 学会活動に取り組むようになると、二部学生の多くが、どれほど苦労しているか、身に染みてわかった。実家に仕送りをしているという人もいた。給料から家賃や学費を払うと満足な食事もとれず、即席ラーメンや、パンの耳が日々の食事だというのだ。生活に疲れ果てて、大学をやめていく学友もいた。
 田島は、活動の帰途、月天子を仰ぎ見ながら、しみじみと思った。
 ″厳しい生活闘争をしている人が多いなかで、ぼくは、実家に住み、食事に困ることもない。なんと幸せなんだろう″
 日蓮大聖人は「ひだるし空腹とをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ」と仰せである。
 人間は、孤独に陥り、自分ばかりが大変なのだと思うと、悲観的になり、心も弱くなってしまうものだ。
 しかし、自分より、もっと大変ななかで頑張っている人もいる。それを知れば、勇気がわく。そして、悶々と悩む自分を見下ろしながら、むしろ、試練と戦う友を励ませる自分に成長できる。苦難の時こそ、勇気ある信心を奮い起こし、生命の苦悩の流転を断ち切り、境涯を開いていくチャンスなのだ。
 田島が学内で、何人かの部員の責任をもつようになった時、先輩は言った。
 「二部学生の多くは、ともすれば、経済的、精神的なプレッシャーに押しつぶされかねない状況にある。組織のリーダーとして大事なことは、退学していったり、挫折していく同志を一人も出さないことだよ。
 それには、まず、誰が学校に来ていないのか、わかっていなければならない」
13  勇気(13)
 二部学内の先輩の指導は具体的であった。
 「もし、学生部員で、しばらく学校に来ていない人がいたら、すぐに、その理由を考えてみることだ。
 仕事が忙しい場合もあれば、体調を崩していることもある。あるいは、精神的に行き詰まっているのかもしれない。その一人ひとりの状況を知るために、学生部員同士で、常に情報交換し合っていくことも大切だ。
 さらに、重要なことは、心配になったら、すぐに会いに行くことだよ。可能な限り、直接会って激励するのが、学会活動の基本だ。皆のために奉仕するのが、学会精神だよ」
 田島尚男は、授業の欠席が続いているメンバーがいれば、学校が終わってから、会いに行くことを、自分に課したのである。
 また、彼は勉強を第一義に考え、仕事はアルバイトにしていた。しかし、「アルバイトでも、やる限りは職場の第一人者に!」というのが、学会の先輩の指導であった。
 田島は挑戦した。倉庫の管理をしていた時には、整理をするのに皆がわかりやすいようにと、表を作るなど、工夫を重ねた。すると、正社員になるように勧められた。ありがたい話だが、断らざるを得なかった。
 大学の三年からは、地元の市役所でアルバイトをした。ここでも、勤勉で意欲的な仕事ぶりが評価された。何人もの職員から、「卒業したら、市役所に勤めたらどうか」と勧められた。そして、採用試験の申込書まで用意してくれた。
 一九七三年(昭和四十八年)秋のオイルショックに端を発した不況によって、「低成長」「就職難」の時代といわれていた時である。
 二部学生への社会の評価は厳しい。だが、田島は、自らの努力、行動で、その状況を変えようとしてきた。
 周囲の誰もが認めざるを得ない、黄金の輝きを放つ自分になること――そこに、社会を改革する、最も堅実な方途がある。
 「青年は、いくら踏みつけられても、伸びていくのだ」とは、戸田城聖の励ましであった。
14  勇気(14)
 田島尚男は、二部学生大会に出席して、市役所の職員になろうと決めた。学会で身につけた奉仕の精神をもって、市民を守り、社会に貢献することで、仏法者の生き方を示していきたいと思ったのである。
 彼は、市役所の採用試験を受けて合格し、翌年、職員となった。
 田島は、さまざまな部署を経験した。常に、挑戦の毎日であった。
 ″ぼくは飛翔会だ! その力を発揮するチャンスじゃないか!″
 そう思うと、闘志がわいた。また、幾つもの課題に挑戦することを余儀なくされた二部学生時代を思えば、むしろ余裕さえ感じた。
 まさに、山本伸一のメッセージ通り、青春時代の苦闘が、「人生の盤石な基盤」を構築していたのだ。
 田島は、ゴミの減量対策やコミュニティーFM放送局の立ち上げなど、どの部署にあっても、大きな実績を残し、やがて、市役所の要職を担っていくことになる。
 「飛翔会」のメンバーとなった二部学生のパワーは、随所で爆発した。キャンパスで、地域で、仏法対話の渦が巻き起こり、励ましの輪が広がっていった。
 新聞販売店に住み込む、ある学生部員は、学内の友の激励に奔走し、よく終電車に乗り遅れてしまうことがあった。そんな時は、一時間、二時間とかけて、歩いて帰った。
 真冬、ジャンパーの襟を立て、寒風に吹かれながら販売店に戻っても、店のシャッターは、まだ閉まっていた。
 仕方なく、街灯の下で本を読み、店が開くのを待つ。指先に息を吹きかけ、足踏みをし、寒さをしのいだ。
 しかし、彼に悲哀はなかった。いや、心は誰よりも燃えていた。師の山本伸一と同じ使命の道を歩む誇りと、今の一日一日が、栄光の人生の基盤をつくっているのだという、強い確信があったからである。
 希望は、逆境をはね返す前進の活力となる。
15  勇気(15)
 最も厳しい状況にある人が、決然と立ち上がり、勇躍、勝利の劇を演じるならば、万人に勇気と希望と確信を与える。苦境のなかで戦っているということは、その重大な使命を担っているということなのだ。
 二部学生は、勉強時間も、まとまって取ることは、なかなかできない。通勤、通学の時間や、会合の開始を待つわずかな時間でも、寸暇を惜しんで本を開いた。いやでも彼らの集中力は培われていった。逆境で戦えば、短日月でも力は磨かれる。向上心強き人には、逆境こそが最高の恵みとなるのだ。
 時間のないなかで、懸命に学会活動に励む二部学生に触れると、昼間部に学ぶ学生部員は、″自分たちは、もっと、もっと頑張らねばならない″との思いを強くしていった。
 この二部学生の活動が牽引力となり、一九七七年(昭和五十二年)五月、全国各地で行われた部大会をもって、念願の学生部精鋭五万の結集が成就するのである。
 「飛翔会」の結成から、半年ほど過ぎたころ、二部学生のなかから、「勤労学生主張大会」を開催しようとの声が起こった。
 世間では、マスコミを中心に、若者に対して、しらけ、無気力、現実逃避といった見方がなされていた。また、若者自身、それをよしとしている風潮があった。
 それだけに、社会建設の使命を自覚し、崇高な理想に燃えて、日々、現実のなかで格闘している自分たちの生き方、考え方を、同世代の青年に、さらに、広く社会に、訴えたかったのである。
 人間の生きる姿のなかにこそ、思想・哲学の実像がある。
 戸田城聖は、生前、山本伸一に語っていた。
 「創価の青年の逞しさを吹き込んでこそ、今の青年層を力強く蘇らせることができる」
 また、二部学生たちには、″この主張大会を通して、時代を変革する仏法哲理を社会に示し、真実の人間道を説く師匠・山本先生の教えを宣揚したい″との強い思いがあった。
16  勇気(16)
 正義の言論は、時代創造の力だ。
 一九七六年(昭和五十一年)五月十六日の夜、「勤労学生主張大会」が、教授などの大学教員、学友、職場の上司や同僚らを招いて、東京・江東公会堂で行われた。
 最初に、創作劇「明日に駆ける」が上演された。新聞販売店で働く、栃木県出身の二部学生をモデルにした演劇である。
 主人公が五歳の時、電器工場の管理責任者を務める父親が出奔。母親が農協の事務と河川工事をして働き、子どもたちを育てた。彼は長男で、妹と弟がいる。生活は苦しく、父親が失踪した一家への世間の目は冷たかった。
 彼が小学校三年の時、一家は入会した。
 しかし、彼の心は、すさむ一方だった。中学時代は勉強もせず、喧嘩に明け暮れた。
 母親は、台風の夜、濁流の渦巻く河川の工事現場へ働きに出かけた。普段の三倍の日当がもらえるからだ。母の身を案じ、彼は、自ら仏壇に向かった。
 中学卒業後は、電器工場に勤め、定時制高校に通った。学会活動にも参加するようになった。学会の先輩と共に、会長・山本伸一の指導も学んだ。彼を奮い立たせたのは、山本会長の、諸君は「学会の宝」「未来の指導者」との言葉であり、「じっとこらえて今にみろの決意を忘れず」との激励であった。
 彼は、自分も、広宣流布の使命に生き抜こうと決意する。また、大学へも進もうと思う。
 定時制高校を卒業したあと、東京に出て新聞販売店に住み込み、二部の大学に入学した。
 職場の同僚の多くは、将来に希望がもてず、自信を失いかけていた。自殺を考えている人もいた。彼は放っておけなかった。仏法対話を始めた。青年の使命を訴え、皆を励ましていった。そして、同僚十一人のうち、九人までが信心を始めたのである。
 真の友情とは、友の幸せを願う心であり、必然的に、仏法という根本の幸福道を教えることに帰着していくのである。
 主人公は、希望の明日に向かって、誇らかに胸を張り、喜々として苦闘の青春を生きる。
17  勇気(17)
 創作劇のあと、「勤労学生の使命と自覚」「私にとっての反戦運動」などのテーマで、五人が登壇し、力強く主張を語った。
 全国に吹き荒れた学生運動の嵐は、社会の矛盾、不合理を暴き出していったが、武力化した闘争は、あえなく鎮圧された。
 過激化したセクトは分裂を重ね、内ゲバを繰り返し、学生からも、社会からも、大きく遊離していった。そして、学生社会には、しらけ現象が蔓延していた。
 それは、生命の哲理をもたず、変革の主体である人間自身の革命が欠落した運動の、必然的な帰結でもあった。
 そこで、二部に学ぶ学生部員は、一切の原点である人間自身の変革、人間革命を機軸にした社会の建設という、新たな創造の叫びを、今こそ放とうとしたのである。
 その心意気を示すかのように、壇上の後方には、図案化された「創造」の文字が掲げられていた。
 「勤労学生の使命と自覚」と題して、主張を発表した青年は訴えた。
 ――二部学生への社会の評価は厳しく、職場にあっても、最前線の労働者であることが多い。勤労学生として、仕事と学業を両立させることは大変だが、その環境は、見方を変えれば、人間錬磨の最高の道場といえる。また、社会の底辺に生きる人びとの実情や心を、誰よりもよく知ることができる。
 その二部学生が力をつけ、優れた知識と人間性を育み、社会の指導者に成長していってこそ、民衆を守る社会の建設が可能となる。それが、私たちの使命である――。
 逆境に最大の意義を見いだす逆転の発想だ。そこに、仏法の視座がある。
 最後に、彼は叫んだ。
 「その時、社会の二部学生に対する認識も大きく変わることは明らかです。自己の環境を開くのは、私たち自身の戦いです!」
 社会建設の主体者としての自覚に立つ人には、悲哀も、愚痴も、文句もない。あるのは、燃え立つばかりの情熱と挑戦の気概である。
18  勇気(18)
 「私にとっての反戦運動」とのテーマで登壇した青年は、核軍拡競争に明け暮れる大国の現状に触れ、国家やイデオロギー優先の思想に代わって、人間優先、生命尊厳の哲学を確立することが急務であると語った。
 さらに、人間の心に宿る他国や他民族への「不信」や「蔑視」を、「信頼」に転換するとともに、他者を支配しようとする魔性の生命を断じなければならないと強調。それを可能にするのが、万人に仏の生命を見いだし、生命変革の道を示した仏法であると訴えた。
 そして、声を大にして、こう話を結んだ。
 「恒久平和への道は、決して遠くにあるのではありません。戦争を引き起こすのも、平和を築くのも人間です。ゆえに、キャンパスで、地域で、生命尊厳の仏法哲理を伝え、民衆の心に反戦平和の砦を築いていくことが、最も本源的な平和の道なのであります」
 「五月危機に思う」との主張では、いわゆる″五月病″の背景には、大学で学ぶことの確かな目的観の欠落があると指摘した。
 そして、「人間は、なんのために生きるのか」「生命とは何か」などの根本命題を学び問うことの必要性を力説。その問いの解答こそ、人間存在の意味を根源的に解明した仏法哲理にあると訴えた。
 「労働と人間完成」という主張を展開した青年は、自由の問題に言及していった。
 「人間が幸福を獲得するには、自由は不可欠ですが、外的な拘束がなく、自由な時間と金銭を持っていても、本当に自由であるとは言い切れません。常に欲望に支配され、翻弄されていれば、欲望の鉄鎖につながれているに等しい。そこには、生命の解放はない。
 真の自由とは、自分の欲望を律し、いかに恵まれない、困難な環境下にあっても、それを自己の成長の飛躍台にしていく、生命の力そのもののなかに存在すると、訴えたいのであります」
 彼らには、仏法への大確信があった。広宣流布の使命に生きる歓喜と誇りがあった。
 それこそが、創価の言論運動の魂なのだ。
19  勇気(19)
 ここで主張大会の実行委員長が登壇した。
 彼は、社会の新潮流を創るべき学生の主張が、時代建設の言論となり得ていない現状を指摘し、その理由を分析していった。
 「現代学生の言論が不毛となっている背景には、三つの欠如があると言えます。
 第一に、生活者としての実践行動の欠如であり、第二に、社会建設への主体者意識の欠如であり、第三に、言論の支えとなる哲理の欠如であります。
 それらを、ことごとく備えているのが、二部に学ぶ、われら学生部員であります。したがって私たちは、創価の人間主義に基づく、新しき思潮を創造する時代転換の言論の闘士として、正義の叫びを放ち続けていこうではありませんか!」
 近代日本を代表する思想家の内村鑑三は、記している。
 「青年はこの腐敗せる社会の改善者なり、この世の新勢力なり、清流の源なり」
 それは、まさに創価の二部学生の心意気でもあった。青年が、新しき時代を創る魂の叫びを忘れたならば、未来は暗黒となる。
 来賓たちは、学生の主張に対して、身を乗り出すようにして、真剣に耳を傾け、終始、賛同の拍手を送っていた。
 ある大学教授は、終了後、頬を紅潮させ、希望を託すかのように語った。
 「今の学生を見ていると、ごく当たり前のことでも避けることばかりを考える傾向が強いように思います。また、『なんのために生きるのか』『なんのために学ぶのか』という目標を喪失して、彷徨している学生が多い。
 そのなかにあって、どんな困難にも敢然と挑戦していこうという力強い主張と、同じ目標に向かって進む、固い連帯の絆は、大変にすばらしいことだと思いました。
 どうか、この健全な青年の輪を、今後、さらに拡大させてほしいと念願しています」
 また、ある教員は、「真剣でエネルギーに満ちあふれた主張に、信仰のもつ力を、まざまざと感じました」と感嘆するのであった。
20  勇気(20)
 山本伸一は、「勤労学生主張大会」の報告を、担当幹部として出席した青年部の幹部から詳細に聞いた。
 伸一は、目を細めて、語り始めた。
 「そうか、大成功だったね。二部学生が、『飛翔会』の誇りを胸に、自ら言論の戦いを起こしたんだ。頼もしいじゃないか!
 指示されて動くというのではなく、自分たちが広宣流布のため、社会のために何が必要かを考えて、こうやって、積極的に挑戦していくことが大事だ。青年が、それをやらなければ、学会の発展はなくなってしまう。
 本来、青年が集まれば、未来のために、こうしよう、ああしようという意見が百出するようでなければならない。その息吹、その模範が彼らにはある。嬉しい、本当に嬉しい」
 青年部の幹部は、さらに報告した。
 「田原学生部長の話では、『飛翔会』の結成以来、二部学生が精鋭五万結集の突破口を開き、大活躍しているとのことでした」
 「すごいことだな……」
 伸一は、嬉しそうに頷いた。そして、語気を強めて言った。
 「実は、そこに、『飛翔会』の永遠の使命があるんだ。学会は、将来、広宣流布の重要な局面となる戦いを、何度も越えなくてはならないだろう。皆が″勝てない″とあきらめたり、戦うポーズや口先だけで、真剣勝負を避けようとしたりすることもあるかもしれない。
 その時に、『わが戦いを見よ!』『勝利をもぎ取る真剣勝負とは、こういう戦いをいうのだ!』と、猛然と先駆し、大勝利の突破口を開くのが『飛翔会』だ。
 つまり、決戦の責任をもつ、一騎当千の闘将の集いとして、私は『飛翔会』をつくったんだ。彼らは、必ずやってくれるだろう。私と同じ、青春の道を歩んだ弟子だもの。山本伸一の後継の集いじゃないか。
 私は、みんなを信じている。三十年先、四十年先に、厳たる歴史として、彼らは、それを証明してくれるはずだ」
 師の心に、応えるのが弟子である。
21  勇気(21)
 「飛翔会」メンバーの活躍は、目覚ましかった。彼らは一途であった。真剣であった。
 二部学生は、最も時間がない、多忙を極める青年たちである。その彼らが、どのキャンパスでも、学生部のどの部でも、最も燃え輝き、大活躍していった。
 夜学の帰りにメンバーの激励に行くのは、多くの二部学生の日課になっていた。
 出張の多い会社に勤めながら、学生部の部長をしている青年は、バッグに葉書を必ず入れて持ち歩き、時間を見つけては、メンバーに、せっせと励ましの便りを書いた。その数は、毎月百通を超えた。
 また、毎日、たくさんの十円玉を用意し、会社の昼休みになると、昼食もそこそこに、電話ボックスに走り、連絡や報告、激励に余念がない人もいた。まだ、携帯電話などない時代のことである。
 時間があれば、環境条件が整っていれば、力が発揮できるというものではない。大事なことは使命の自覚である。広宣流布への強き一念である。山本伸一は、彼らに、使命に生きる精神の種子を植えたのである。
 第二回の「飛翔会」総会が開催されたのは、結成から一年を経た一九七六年(昭和五十一年)の八月二十九日のことであった。会場は東京・大田区体育館であり、全国から二部学生の代表が集っての開催となった。終始、歓喜と求道の炎が燃え盛る総会であった。
 父親の死、急性肝炎を乗り越え、大学の二部を卒業し、難関である大手の経営コンサルタント会社に就職した青年の体験もあった。
 彼は、学会活動にあっても、挑戦に挑戦を重ねてきた。四歳年上の先輩の家に通うこと十六回。遂に、その先輩も、会合に出席するまでになったのである。誠実と粘り強さが、友の心を開いていくのだ。
  耐えぬきて
    勝利を勝ち取れ
      この一生
22  勇気(22)
 体験発表に続いて登壇した、この第二回総会の実行委員長を務めた学生部主任部長の吹原俊実は、「飛翔会」結成以来の一年の歩みを述べながら、声を限りに訴えた。
 「私たちは、『飛翔会』となり、山本先生のもと、師弟の大道を歩むことによって、挫折を決意に、悲哀を歓喜に、宿命を使命へと転じてまいりました。そして、社会の繁栄と人びとの幸福を築く広宣流布運動の、先駆者としての最高の誇りをもっております。
 キャンパスで、職場で、地域で、『わが青春を見よ!』と、胸を張って叫び抜き、先生の弟子としての見事な実証を、あらゆる分野で示してまいろうではありませんか!」
 吹原は、秋田の生まれだが、出稼ぎに行った父親に呼び寄せられて、母と妹と共に東京に出てきた。しかし、その後、両親は、不和のために別居する。中学時代のことだ。母親が女手一つで、彼と妹を育てた。
 既に信心をしていた母は、自身の宿命に敢然と挑んだ。吹原も学会活動に励むようになっていった。
 高校は定時制に進み、昼は大学の図書館で働いた。卒業後は証券会社に勤め、営業マンとして奮闘。夜は語学学校で英語を学び、さらに、中央大学の法学部の二部に進んだ。
 そして、この一九七六年(昭和五十一年)の春に、大学を卒業したのである。
 「わが青春を見よ!」――それは、「飛翔会」結成以来の、彼の胸中の叫びであった。
 ″宿命の波浪にもまれ、夢も希望も見いだせず、すねて生きていても、おかしくはない自分であったはずだ。その自分が、人生の師から大きな期待をかけられ、日々、歓喜と躍動をもって、広宣流布という崇高な使命に生きられる。なんたる幸せか!″
 これが、彼の実感であったのだ。
 この日、学生部長の田原薫は、順次、全国の各方面に、「飛翔会」を結成していくことを提案。さらに、″創価後継″の松明を、自身の胸に、赤々と燃やしゆけと訴え、指導としたのである。
23  勇気(23)
 第二回「飛翔会」総会の会場となった大田区体育館からは、山本伸一にゆかりの深い森ケ崎海岸まで、徒歩三十分ほどであった。
 総会終了後、東北、九州、中部などから参加したメンバーの要請に応え、二部学生担当の学生部幹部が、森ケ崎海岸に希望者を案内した。
 森ケ崎海岸といっても、かつて伸一が「磯の香高く波かえし」「崩れし土手に草深くいかなる虫か知らねども……」と詠んだ、あの風情は既になく、著しい変容を遂げている。メンバーは、その説明を受けてはいた。それでも、わが師の青春の思い出が刻印された、海辺に立ってみたかったのである。
 海は埋め立てが進み、岸辺はコンクリートで固められていた。頭上には、高速道路、モノレールが走っている。だが、皆、その海に目を輝かせ、深呼吸した。
 彼らの眼は、波が寄せ返す月下の浜辺で、友と語り合う十九歳の伸一を思い描いていた。苦しみ悩んで基督の道を行くという友に、″君に幸あれ!″と祈る、伸一の清き心を、見ていたのであろう。
 「『森ケ崎海岸』を歌おう!」
 肩を組み、合唱が始まった。
  岸辺に友と 森ケ崎
  磯の香高く 波かえし
  十九の青春 道まよい
  哲学語り 時はすぐ……
 夕暮れの海岸に、スクラムが揺れた。
  友の孤愁に われもまた
  無限の願望 人生を
  苦しみ開くと 誓いしに
  友は微笑み 約しけん……
 現実は、いかに貧しく、苦しくとも、未来に無限の希望と勝利を確信する力。五濁悪世の時代に、どこまでも清らかに、理想へと進みゆく息吹――その源泉こそが信仰なのだ。
24  勇気(24)
 山本伸一は、「飛翔会」の総会や大会と聞けば、必ずといってよいほど、メッセージや記念の句などを贈り、励まし続けてきた。
 「飛翔会」メンバーは、最愛の弟子であるからだ。伸一の命であるからだ。広宣流布の重要なカギを握る人たちであるからだ。
 結成二十周年の一九九五年(平成七年)八月の記念総会には、メンバーの要請に応え、「学問で勝て」「人格で勝て」「社会で勝て」との三指針を贈った。
 また、「『飛翔会』のなかから本物の学会のリーダーが出るのが伝統だから、『飛翔会』を大事にしたい」との伝言を、担当の幹部に託したこともあった。
 さらに、結成二十六周年を祝う二〇〇一年(同十三年)の記念大会には、皆の相談にのり、スローガンを決定した。
 「走れ! 広布の拡大を
  叫べ! 創価の正義を
  戦え! 民衆の先陣で
  後継の勝利王・飛翔会」
 苦労し、苦労し、苦労し抜いて、悔しさに耐え、泣く思いで自らを鍛え、学び、働き、戦い抜いた人でなければ、民衆の苦労はわからぬ。人間の本当の心はわからぬ。
 御聖訓には「くろがねは炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」と仰せである。労苦こそが財産だ。
 「飛翔会」のメンバーは、二十一世紀の大空に、師弟の翼を大きく広げ、さっそうと羽ばたいた。副会長をはじめ、方面、県などの責任者として、広宣流布の重責を担っている人も多い。また、公認会計士や税理士、一級建築士、教育者等々、皆が、社会のあらゆる分野で光り輝く存在となり、美事なる勝利の大絵巻を描こうとしている。
  飛翔会
    何と尊き
      使命かな
    真の人材
      ここにあるかと
25  勇気(25)
 創価文化会館の三階ホールに、ピアノの音が、途切れ途切れに響いていた。
 「ちょっと、違うな。そこは、もう少し、低い方がいい」
 こう言って、ピアノの傍らに立つ山本伸一が、メロディーを口ずさむ。
 「こんな音の感じにしたいんだよ」
 ピアノを弾いていた、音楽教師の青年が、そのメロディーに合わせて鍵盤を叩く。
 「そうそう、それでいいと思う。問題は次だ。ぼくが、ちょっと弾いてみるよ」
 伸一がピアノに向かい、弾き始める。何度か鍵盤を叩くうちに、音のかたちができる。
 「細かいところは、調整してもらいたいんだが、この部分は、こういうイメージだ」
 一九七六年(昭和五十一年)七月十八日の昼過ぎのことである。
 伸一は、前日の夜から作曲に没頭していた。新しい学会歌となる「人間革命の歌」を作ろうとしていたのだ。この十八日の午後二時から創価文化会館五階の大広間で、本部幹部会が開催されることになっていた。彼は、それまでに歌を完成させ、発表したいと思っていたのである。
 歌詞は、まだ推敲を重ねるつもりだが、一応、出来上がっていた。問題は曲であった。
 伸一は、専門的な音楽教育を受けたわけではなく、作曲を一人で行うことは難しい。そこで、作曲の心得のある、音楽教師の青年に協力を頼んでいたのだ。
 時計を見ると、午後一時四十五分である。
 伸一は、側の幹部に言った。
 「もう、本部幹部会に行かなくてはならない。今日は、私は最初に話をさせてもらい、それから、ここに戻って、また曲を作ろう。なんとしても、『7・17』を記念し、今日中に完成させたいんだよ。いかなる大難にも負けない、魂の歌を作りたいんだ。希望をわかせ、勇気を鼓舞する、人間讃歌を作りたいんだ」
 ――「民族にせよ、団体にせよ、興隆あるところには、必ず歌がある」とは、戸田城聖が、よく青年たちに語った言葉である。
26  勇気(26)
 「7・17」――それは、一九五七年(昭和三十二年)の七月三日に、事実無根の公職選挙法違反の容疑をかけられ、大阪府警に不当逮捕された山本伸一が、出獄した日である。
 伸一は、この前年にあたる五六年(同三十一年)、戸田城聖から、関西を東京と並ぶ、いや、それ以上の、広宣流布の盤石な城にすることを託され、担当幹部として、年頭から大阪に派遣されたのである。
 盤石な組織をつくり上げるには、同志一人ひとりが、一騎当千の闘士となり、新たな開拓と拡大を敢行する以外にない。
 戦いとは、人間を見つけ、育てることだ。人を触発することだ。その生命を燃え上がらせることだ。
 伸一は、この年、早くも一月四日には、大阪に向かった。以来、何度となく、関西指導を重ねていくことになる。
 交通費をはじめ、活動にかかるすべての費用も、自分で賄わなければならない。それを捻出するのも大変であった。また、大東商工の営業部長としての仕事のほか、青年部の室長、文京支部長代理など、幾つもの役職を兼務しているなかでの関西指導である。
 不滅の大関西城を築き上げることは、何があろうが、絶対に、成し遂げねばならない最重要課題であった。もし、実現できなければ、師匠・戸田城聖の、広宣流布の構想を破綻させることになるからだ。
 自分の双肩にかかる、あまりにも重い責任を考えると、激しい緊張で胸が締めつけられる思いがし、食事も喉を通らなかった。新年早々、発熱さえした。正月だといって浮かれる幹部たちが、この上なく、のんきに感じられてならなかった。
 関西の歴史を開く大闘争が始まった。
 彼には、勝利を収めるために、自らに課していた鉄則があった。
 それは、″人を頼み、人にやらせようなどと、絶対に考えてはならない。すべて、自らが率先し、自らが動くことによって、波動を起こしていくのだ″ということであった。
27  勇気(27)
 山本伸一は、関西本部で、ただ一人、祈りを開始した。すべては祈りから始まる。
 関西に広宣流布の錦州城を築かんと、懸命に、真剣に、唱題に励む伸一の姿を見て、支部長ら二、三の幹部も加わるようになった。そして、次第に参加者が増え、最後は、仏間がいっぱいになった。
 また、伸一は、朝の勤行のあとには、御書の講義を行った。それが、皆の勇気を燃え上がらせた。自分たちは、地涌の菩薩として、この関西中の人びとに幸福の道を教えるのだという使命感と歓喜が、同志の胸中に脈打っていったのである。
 彼は、まず、大阪中をくまなく回り、同志の激励に奔走した。会員から自転車を借りて、動くことも多かった。時には、その自転車がパンクしてしまい、夜道を引いて帰らねばならぬこともあった。
 小さな小さな家々が軒を連ね、狭い路地で魚を焼く煙が立ち込める地域も回り、同志を激励した。果てしなく田畑が続く地域にも足を延ばした。
 学会員の多くは″こんなところまで、よく来てくださいました!″と感激して迎えてくれたが、なかには、けんもほろろな応対をする人もいた。しかし、どんな人をも、笑顔で包み、対話し、励ましていったのである。
 さらに、座談会場から座談会場を転戦し、折伏の最前線に躍り出ていった。東大阪方面の座談会では、伸一の誠実と確信の対話によって、参加していた十八人の友人のうち、十七人が入会の決意を固めたこともあった。
 勝利への力は、魂の触発にある。自身の燃え盛る生命が、同志の生命を燃え上がらせるのだ。伸一の敢闘を目の当たりにして、関西の幹部たちは深く思った。
 ″これが、ほんまのリーダーなんや。生命を削って戦うから境涯革命があるんや。やったろやないか!″
 山本伸一の率先垂範の行動が、全同志を触発し、共に戦う何人もの″山本伸一″をつくり出していったのである。
28  勇気(28)
 共感することによって、行動するのが人間である。ゆえに、リーダーが臆し、ずる賢くなって、率先して行動せずに、皆を動かそうとしても、動いてくれるわけがない。
 すると、リーダーは焦りを感じて、その言動は、ともすれば、威圧的、命令的になっていく。そして、組織は、重く、暗くなり、人心は、ますます離れてしまうことになる。
 それに対して、率先垂範のリーダーは、自らの行動を通して人に触発を与え、人びとの″やる気″を引き出し、皆の自主性、自発性を呼び覚ましていく。ゆえに、その組織は、明るく、歓喜にあふれ、上昇気流に乗るように、勝利への流れがつくられていくのだ。
 また、山本伸一は、戸田城聖こそ、広宣流布に、ただ一人立ち上がった、われらの師であり、この大阪、関西から、いや、日本、世界から、不幸に泣く人をなくしたいというのが、戸田の誓いであることを語り抜いた。
 そして、こう訴えたのである。
 「その戸田先生の心を、わが心として、先生に代わって戦おうではないですか!
 そうすることによって、私たちは、広宣流布の闘将である先生に直結していくことができる。そこに力がわくんです。
 先生を思えば、勇気がわきます。自分が鼓舞されます。どうか、常に戸田先生を心に思い描いて、″先生は、じっと見ていてくださる″″先生なら、どうされるか″と、日々、己心の師匠と対話しながら、戦っていこうではありませんか!」
 広宣流布の戦いを進めるうえで、仏法の師と心を合わせていくことこそが、団結の根本である。そこに勝利への前進がある。
 自転車も、車軸にスポークがしっかりと繋がってこそ、車輪の回転がある。この車軸の存在が師匠にあたるといってよい。
 伸一の指揮のもと、関西は、怒濤の大前進を開始した。三月には、大阪支部が五千五世帯、堺支部が七百五十九世帯の弘教を達成。さらに四月、大阪支部は九千二世帯、堺支部は一千百十一世帯の成果を収めた。
29  勇気(29)
 戸田城聖の会長就任五周年となる、一九五六年(昭和三十一年)の五月には、遂に関西は、大阪支部一万一千百十一世帯、堺支部一千五百十五世帯という弘教を成し遂げた。
 「戸田先生は折伏の師匠である。なれば、弟子として弘教をもって、会長就任五周年をお祝いしよう」との山本伸一の思いを、関西の同志は皆が、共有していたのだ。
 関西二支部の弘教は、全国の四四パーセントを占めていた。まさに、未聞の快挙であり、不滅の金字塔が打ち立てられたのだ。関西に、美事なる広宣流布の大城が築かれたのだ。
 この年の七月には、第四回参議院議員選挙が行われた。創価学会は、前年四月の統一地方選挙に、初めて候補者を推薦したのに続いて、参院選挙にも、地方区の東京と大阪に一人ずつ、また、全国区に四人の候補者を推薦したのである。
 日蓮仏法は、「立正安国」の宗教である。
 「立正」(正を立てる)とは、正法すなわち、慈悲と生命尊厳の仏法哲理を、社会建設の主体者である、一人ひとりの人間の胸中に打ち立てることである。「安国」(国を安んずる)とは、その「立正」の帰結として、 社会の平和と繁栄を築いていくことである。
 いわば、「立正」という、仏法者の宗教的使命の遂行は、「安国」という、仏法者の社会的使命の成就によって、完結するといえよう。
 社会の平和、繁栄なくしては個人の幸福もない。ゆえに、日蓮大聖人は仰せである。
 「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か
 「四表の静謐」とは、社会の太平であり、広くは、世界の平和、繁栄である。
 宗教は、決して宗教のための宗教にとどまってはならない。「安国」という、社会の平和と繁栄を実現してこそ、民衆の救済という宗教本来の使命を全うすることができ、人間のための宗教たり得るのだ。この立正安国の使命を果たすために、創価学会は社会の建設に立ち上がったのだ。
30  勇気(30)
 山本伸一は、七月に行われる参議院議員選挙でも、大阪地方区の支援の最高責任者として指揮を執った。支援する会員の世帯数から見ても、東京地方区での当選は、ほぼ間違いないが、大阪地方区での当選は不可能であるというのが、大方の予測であった。
 しかし、結果は、人びとの予想を覆して、なんと東京が落選し、大阪が当選を果たしたのである。大阪の勝利は、朝日新聞が「″まさか″が実現」との見出しを掲げるほどの、壮挙であったのである。
 伸一をはじめ、大阪の同志の、″断じて立正安国を実現していこう″という、信心から発する情熱がもたらした勝利であった。
 「人間社会の完成をめざす重要な歩みの中で、強い宗教的信仰に根柢をもたなかったものを、私は一つだって知らない」とは、十九世紀のイタリアの革命家マッツィーニの言葉である。
 翌一九五七年(昭和三十二年)四月、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた。山本伸一は、再び戸田城聖から、この選挙支援の最高責任者に任命された。
 補欠選挙とあって、一議席をめぐっての戦いとなる。学会が推薦した候補者が当選することなど、あり得ない選挙戦といえた。しかし、戸田は、あえて、その選挙戦の指揮を、伸一に執らせた。″伸一なら、勝利できるかもしれない″との、一条の希望を託しての、戸田の布陣であったのであろう。
 しかし、その一方で、不可能の壁をことごとく打ち破り、いつも勝利を収めてきた常勝将軍の伸一を妬み、わざと無謀ともいえる戦いの指揮を執らせ、その責任を負わせようという、古参の幹部らの思惑もあった。
 ともあれ、獅子が、わが子を谷底に突き落とすといわれるように、戸田は、伸一を、勝算のない、熾烈な戦線に投げ入れたのだ。
 ″地に打ちのめされても、そこから立ち上がれ! そして、必ずや、民衆勝利の旗を打ち立てるのだ!″
 それが、戸田の思いであった。
31  勇気(31)
 山本伸一の師子奮迅の指揮によって、大阪の同志は、一騎当千の師子となって立った。暗夜のような状況に、希望の光が差し、時々刻々と明るさを増していった。
 しかし、選挙戦の終盤、候補者の名前を書いたタバコを配るなどの、選挙違反事件が大々的に報じられた。学会の推している候補者の陣営によるものとの噂が流れた。
 公明選挙を訴え続けてきた伸一には、寝耳に水の出来事であった。悪質な選挙妨害ではないかとさえ思った。しかし、なんと、それは、東京から英雄気取りで乗り込んで来た、心ない会員が引き起こした事件であることが、やがて明らかになるのだ。
 この違反事件が、勝利を決するうえでの大きな障害となった。結果は敗北に終わった。
 補欠選挙から二カ月余が過ぎた七月三日、伸一は、この選挙違反について事情聴取を求められ、自ら大阪府警察本部に出頭した。そして、違反は彼の指示であるとの事実無根の容疑がかけられ、逮捕されたのである。
 勾留は十五日間に及んだ。過酷な取り調べが続いた。容疑を認めない伸一に対し、検察は、罪を認めなければ、「会長の戸田城聖を逮捕する」などと言いだしたのだ。
 一九五七年(昭和三十二年)の七月といえば、恩師が逝去する九カ月前のことである。戸田の衰弱は、既に激しかった。逮捕は、死にもつながりかねない。
 独房での苦悶の末に、伸一は、容疑を認め、裁判の場で真実を明らかにすることを決意したのである。
 庶民が目覚め、聡明になり、力をもち、改革に立ち上がることを、権力は恐れ、嫌悪する。そこには、権力を持つ者の、庶民を蔑視し、排斥しようとする驕りがある。それこそが、権力の魔性である。
 権力を握る人間の目には、会員七十五万世帯の達成をめざし、大躍進を続ける創価学会を放置しておけば、近い将来、自分たちの存在さえも脅かす、大きな力となるにちがいないと、映っていたのであろう。
32  勇気(32)
 ひとたびは一身に罪を被り、法廷で正義を証明しようと決意した山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、一九五七年(昭和三十二年)の七月十七日であった。若師子は、民衆の大地に、再び放たれたのだ。
 この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。大阪をはじめ、各地から駆けつけた同志で、場内はもとより、場外も、人、人、人であふれた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。
 午後六時、開会が宣言された。やがて、にわかに空が暗くなり、雨が落ち始めた。
 そして、瞬く間に激しい豪雨となり、横なぐりの風が吹き荒れた。稲妻が黒雲を引き裂き、雷鳴が轟いた。
 多くの同志が、今日まで獄舎に囚われていた伸一の姿を思い、″学会への非道な仕打ちに、諸天も激怒しているのだ″と感じた。
 場外で、激しい豪雨にさらされながらも、帰ろうとする人は、一人もいなかった。
 雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる、登壇者の声を聴き取ろうと、皆、必死に耳を澄ましていた。
 豪雨のなかに、スピーカーから、雷鳴をしのぐ、大歓声と大拍手が響いた。
 山本伸一の登壇である。師子吼が轟いた。
 「最後は、信心しきった者が、大御本尊様を受持しきった者が、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか」
 その叫びが、皆の心に突き刺さった。場外の人びとは、どの顔も、雨と涙でぐしゃぐしゃであった。
 ″この山本室長が、無実の罪で牢屋につながれ、手錠をかけられ、辛い、惨めな目にあわされてきたんや。権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん! 戦いは、絶対に勝たなあかん!″
 伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った、この日が、「常勝関西」の″不敗の原点″となったのである。
33  勇気(33)
 参議院大阪地方区の補欠選挙で、東京から乗り込んできた会員が引き起こした選挙違反事件は、支援の最高責任者である山本伸一とは、なんの関係もなかった。検察当局も、捜査が進むにつれて、その事実を認めざるを得なかったようだ。
 伸一の起訴にあたっては、この事件は、公訴事実からは外されていた。
 しかし、検察は、公職選挙法がよくわからぬ関西の会員が、熱心さのあまり、戸別訪問をし、逮捕されていたことに着目した。そして、それを、伸一の指示によるものとして、彼を起訴したのである。
 それは、新しい社会変革の力となった創価学会に、なんとしても一撃を与え、その前進を阻もうとする″権力の意図″を、浮き彫りにするものであったといってよい。
 伸一が、この「大阪事件」の法廷闘争に勝利し、無罪の判決が出たのは、釈放から四年半後の、一九六二年(昭和三十七年)一月二十五日である。
 もともと無実の罪である。無罪は当然といえば、当然のことといってよい。
 検察の控訴が懸念されたが、有罪に持ち込むことは、不可能であると判断したのであろう。控訴はなく、一審で伸一の無罪が確定したのである。
 長い戦いであった。当初、伸一が、第三代会長の就任を辞退した理由の一つも、もしも、有罪になれば、学会に多大な迷惑をかけてしまうことを憂慮したことにあった。
 ともあれ、立正安国の道は、権力の魔性との壮絶な闘争であり、疾風怒濤の道である。
 迫害に次ぐ迫害の、日蓮大聖人の御生涯を見よ! 立正安国を実現せんとする創価学会にも、これから先、暴虐な弾圧や巧妙な迫害が、待ち受けているにちがいない。
 日蓮大聖人は「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」と仰せである。その大難と戦い、勝ち越えていくなかに、自身の一生成仏があり、人間革命があるのだ。
34  勇気(34)
 山本伸一が出獄し、関西の同志と共に創価の正義の勝利を誓い合った「7・17」は、権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立ちの日である。
 ゆえに、伸一は、以来二十年目を迎える、この一九七六年(昭和五十一年)の「7・17」を記念して、全同志の広宣流布への誓いを託した「人間革命の歌」の制作に取り組んできたのである。そして、七月十八日の本部幹部会までには、歌詞も曲も完成させ、その席上、発表しようと思っていたのだ。
 しかし、開会までには、作曲が間に合わなかった。
 午後二時前、本部幹部会の会場である創価文化会館の大広間に姿を現した伸一は、皆と勤行したあと、すぐに、マイクに向かった。
 「私は、『7・17』を記念して、『人間革命の歌』を作ろうと、先ほどまで音楽関係者の力もお借りして、作曲に取り組んでおりました。ところが、まだ、出来上がりません。
 なんとしても、今日中には完成させたいと思っておりますので、本日は、先にあいさつをさせていただき、それからまた、作曲を続けたいと思います。
 歌詞の方は、一応、出来ております。まだ、手を加えるかもしれませんが、まず先に、その歌詞だけでも発表させていただきます」
 どよめきと大拍手が広がった。
  君も立て 我も立つ
  同志の人びと 共に立て
  広布の天地に 一人立て……
 歌詞を読み上げる、凛とした伸一の声が響いていった。
 それは、一人立つ正義の雄叫びであり、師弟共戦を呼びかける、伸一の魂の叫びであった。参加者は、思わず襟を正した。
 ″すごい歌ができるぞ!″
 歌詞を聴いているだけで、勇気がわいてくるのを覚えた。皆が胸を躍らせた。
 「奇しき歌の力の支配する限り、あらゆる苦悩の襞は消え去るべし」とは、ドイツの詩人シラーの叫びだ。
35  勇気(35)
 山本伸一が、「人間革命の歌」を作ろうと決意したのは、六月の末のことであった。
 彼は、以前から、創価学会の精神と思想を表現した、創価学会の歌ともいうべきものが必要であると考えていた。
 学会には、草創期に歌われてきた、「学会の歌」と呼ばれ、愛唱されていた「花が一夜に」という歌があった。
 一、花が一夜に 散るごとく
   俺も散りたや 旗風に
   どうせ一度は 捨てる身の
   名こそ惜しめや 男なら
 この歌は、もともと、太平洋戦争の直前にレコード発売された「熱血の男」という歌であった。その歌詞が、広宣流布に生きる不惜身命の心意気に通じるところから、牧口常三郎初代会長の時代から、学会でも歌われるようになっていった。原曲の三番を省き、四番を三番として歌っていたのである。
 一九四三年(昭和十八年)七月、軍部政府による大弾圧の嵐が学会を襲う。牧口も、戸田も、逮捕され、翌年十一月十八日、牧口は獄死する。
 取り調べの場で、牧口の死を聞かされた戸田は、悲嘆の底に沈む。しかし、彼は、決然と頭を上げた。恩師・牧口の遺志を受け継ぎ、広宣流布という平和と正義の大闘争に、わが生涯を捧げることを誓ったのである。そして、獄中で、その誓願を託した詩「独房吟」を作っている。
 戸田は、この詩を「学会の歌」の四、五、六、七番として、一人、心で歌い、自らを鼓舞してきたのだ。戦う魂の歌は、勇気を、力を、希望を、歓喜をわかせる。
 その四番には、こうある。
 四、恩師は逝きて 薬王の
   供養ささげて あるものを
   俺は残りて なにものを
   供上まつらん 御仏に
36  勇気(36)
 戸田城聖が「独房吟」として詠んだ、「学会の歌」の四番から七番の歌詞は、まさに、学会の骨格をなす、戸田の精神そのものであり、厳粛な内容であった。
 戸田は、この部分を歌うことを禁じた時期もあった。歌の本当の心がわからずして、軽々に歌うことを許さなかったのである。
 さらに、彼は、牢獄の中で、後に「同志の歌」(一番から三番)として歌われることになる詩も詠んでいる。
 一、我いま仏の 旨をうけ
   妙法流布の 大願を
   高くかかげて 独り立つ
   味方は少なし 敵多し
 そこには、獄中にあって、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得た戸田の、広布大願に生きんとする覚悟が刻印されている。
 この「同志の歌」の曲は、旧制高等学校の寮歌が原曲であり、この歌も、「学会の歌」も、曲が古いという印象はぬぐえなかった。
 そこで、山本伸一は、学会の精神と思想を端的に表現し、未来に歌い継がれていく、歌いやすい、新しい感覚の歌を作ろうと思っていたのである。
 さらに、伸一が、新しい歌を作り、同志を勇気づけようと考えたのは、学会をめぐる不穏な動きを、ひしひしと感じ取っていたからでもある。この前年から、一部のマスコミなどによる、学会への攻撃が激しくなりつつあったのである。
 伸一は、近年、世界の平和のために、中国やソ連など、社会主義国を相次ぎ訪問し、国内にあっても、日本共産党の委員長らと対話してきた。そうした彼の行動は、世界の注目を浴びるとともに、学会は、共産主義に接近していくのではないかという、警戒感を呼び起こしていったようだ。
 いわば、この学会攻撃の背景には、伸一の平和行動に対する誤解と偏見に基づく反発があった。それが、後に明らかになるのである。
37  勇気(37)
 山本伸一は、世界の平和を築くために、イデオロギーの壁を超え、友誼と信頼の道を開こうと必死であった。しかし、偏狭な心の眼では、その真実を見ることができなかったのであろう。そして、彼は、攻撃のターゲットになったのだ。
 また、宗門の僧たちが、学会員に対して、師弟を離間させるような、いわれなき非難・中傷を浴びせ始めたのである。それは、僧俗和合を破壊する、卑劣な画策であった。
 伸一は、そうした現象に、広宣流布を阻まんとする「魔」が、いよいよ牙をむいて襲いかかってくる予兆を感じていた。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「魔競はずは正法と知るべからず」、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」、「如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可し
 大聖人の仰せ通りに仏法を行じて広宣流布を推進し、事実上、日本第一の教団として、民衆の幸福の道を開いてきた創価学会である。
 さらに、伸一は、立正安国の理念のもと、断じて恒久平和を実現せねばならぬと、全世界を奔走し、各界の指導者、識者らと、懸命に対話を重ねてきた。また、同志も、社会の建設に懸命に取り組んできた。
 それゆえに、御聖訓に照らして、世界広布の大海原に船出した創価学会丸に、諸難の嵐が競わぬわけがないというのが、伸一の覚悟であり、確信でもあったのだ。
 その吹きすさぶ嵐に向かい、広宣流布のために戦うことによって、わが胸中に、地涌の菩薩の生命が脈動し、人間革命がなされるのだ。ゆえに、伸一は、愛する同志が、何ものにも負けぬ闘魂を燃え上がらせる、勇気の歌を作らねばならないと思った。
 ともあれ、文化の興隆、民族の台頭には、民衆を鼓舞する希望の歌があった。今、伸一は、新しき人間文化の創造と人間主義の時代を築き上げるために、同志の心を奮い立たせる生命の讃歌を作りたかったのである。
38  勇気(38)
 「新しい学会歌が必要だ。タイトルは『人間革命の歌』にしよう」
 七月一日、東京・上野の美術館で開催されている「第三文明展」に向かう車中、山本伸一は、同乗していた二人の幹部に語った。
 二人は、「はあ」と答えたものの、キョトンとした顔をしている。
 彼らは、この時、伸一が、なぜ、「人間革命の歌」という新しい学会歌を作ろうと思ったのか、理解しかねていた。ちょうど、六月の十九日から、映画「続・人間革命」が上映されていたことから、それにちなんで、歌を作るのかと思ったりもした。
 伸一は、新しい歌を作ろうと考えた時、既に、タイトルは「人間革命の歌」にしようと決めていた。それ以外にはないと思った。
 それぞれの幸福境涯の確立も、家庭革命も、社会の建設も、世界平和の創造も、すべては人間革命から始まるからだ。
 そして、その人間の変革を推進している、唯一無二の団体が創価学会である。まさに創価学会は「人間革命の宗教」であるからだ。
 しかし、二人の幹部は、歌の意義を考えるよりも、″歌は誰が作るのだろう。制作委員会をスタートさせ、準備に当たれということなのか″等と、思案を巡らせていたのである。
 すると、伸一が言葉をついだ。「歌詞は『君も立て 我も立つ……』から始めようと思う。この二、三日、いろいろ考えて、イメージは、ほぼ出来ているんだ。
 今夜は、戸田先生ゆかりの方々と、先生が出獄された『7・3』を記念する集いがあり、明日は、東京の同志の代表と『恩師をしのぶ会』を行う。そして、明後日は、学会本部で、先生の出獄記念勤行会だ。
 私は、戸田先生を偲び、心で対話しながら、師弟の共戦譜となる『人間革命の歌』の制作に取り組もうと思っているんだよ。
 今年の後半からは、この歌を、皆で声高らかに歌って、誇らかに前進していくんだ」
 広宣流布の歩みは、学会歌の調べとともにある。躍動する生命の歌声とともにあるのだ。
39  勇気(39)
 七月十六日――この日は、文応元年(一二六〇年)に、日蓮大聖人が「立正安国論」を、時の最高権力者・北条時頼に提出した日である。この「立正安国論」をもって、国主を諫暁されたのである。
 そこから、松葉ケ谷の法難や伊豆流罪、さらには、竜の口の法難・佐渡流罪など、津波のごとく襲いかかる、大聖人の大難の御生涯が始まるのである。
 しかし、大聖人は叫ばれた。「日蓮一度もしりぞく心なし」と――。
 十六日、山本伸一は、東京・大田区の座談会に出席するなど、多忙を極めていた。だが、そのなかで、大聖人の大闘争に思いを馳せながら、「人間革命の歌」の歌詞を作り終えたのである。一番が五行からなる、三番までの歌であった。
 翌十七日は、権力の魔性と戦い抜いた伸一の、出獄の日である。朝、伸一は、歌詞を推敲し、さらに手を加えた。この日も、学習院大学会の総会に出席するなど、諸行事が詰まっていた。
 そして、夜、自宅で曲想を練り上げていったのである。軽やかで、それでいて力強く、勇気を燃え上がらせ、希望の光が降り注ぐような曲というのが、伸一の思いであった。
 彼の頭のなかで、曲のイメージが出来上がった時には、午後十一時を回っていた。
 本部幹部会当日の十八日は、朝から作曲に取り組んだ。昼からは、創価文化会館の三階ホールに、作曲経験のある音楽教師の青年を呼び、ピアノを弾いてもらいながら、曲作りに励んだ。しかし、本部幹部会までに、曲は完成しなかったのである。
 彼は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった。
 ″努力を重ねてきたのだから、もうこれでいいではないか″との思いが、進歩、向上を止めてしまう。その心を打ち破り、断じて最高のものを作ろうとする真剣勝負の一念から、新しい知恵が、力が、創造が、生まれるのだ。
40  勇気(40)
  「……陽出ずる世紀は 凛々しくも
  人間革命 光あれ」
 本部幹部会で山本伸一が「人間革命の歌」の歌詞を発表すると、怒濤のような歓声と拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
 この幹部会で、伸一は、広宣流布の指導者として銘記すべき、六つの心得を示した。
  「個人指導を大切に」
  「小会合を大切に」
  「言葉遣いを大切に」
  「ふだんの交流を大切に」
  「その家庭を大切に」
  「その人の立場を大切に」
 なぜ、個人指導が大切なのか――一人ひとりの置かれた立場や環境も異なれば、悩みや課題も、千差万別である。皆が、その悩み、課題に挑み、乗り越え、希望と歓喜に燃えてこそ、広宣流布の確かな前進がある。ゆえに、どこまでも個人に照準を合わせた個人指導が、最も重要になるのである。
 次に、小会合を大切にするのは、納得できるまでよく語り合い、綿密な打ち合わせを行うことによって、運動の大きな広がりが生まれるからだ。
 大会合が動脈や静脈だとすれば、小会合は毛細血管に譬えることもできよう。毛細血管が円滑に機能してこそ、血液は体中に通うのである。
 小会合の充実がなければ、組織の隅々にまで、信心の息吹が流れ通うことはない。小会合をおろそかにすれば、その組織は、やがて壊死していくことになりかねない。
 さらに、リーダーにとっては、ことのほか言葉遣いが大切になる。
 「声仏事を為す」である。私たちは、語ることによって、仏の聖業を担うことができる。その言葉遣いが悪ければ、法を下げることにさえなる。
 言葉は、人格、人間性の発露である。
 日蓮大聖人は、「わざわいは口より出でて身をやぶる」と戒めておられる。
41  勇気(41)
 山本伸一が、四番目に、日ごろからの交流の大切さを訴えたのは、学会の活動においても、また、交友においても、大事なのは人間関係であるからだ。そして、その人間関係は、日々の交流の積み重ねのなかで築かれていくものだからである。
 足繁く通って対話する。あるいは、電話や手紙なども含め、意思の疎通を図り、励ましを送る。その不断の努力のなかに、信頼が育まれ、強い人間の絆がつくられていくのだ。
 五番目に彼が、「その家庭を大切に」と語ったのは、リーダーが、メンバーの各家庭の状況を理解し、配慮をめぐらしていってこそ、皆が無理なく活動に励んでいくことができるからである。
 皆、それぞれに家庭の事情がある。食事や就寝時間など、生活の時間帯も、家庭によって異なる。さらに、病気の家族がいるお宅もあれば、受験生がいるお宅もある。また、家族が未入会の場合もある。訪問する際には、事前に連絡をして伺うなどのマナーも、当然、心掛けなければならないし、玄関先で会話をすませるなどの配慮も大切である。
 また、自宅を座談会場などとして提供してくださっている家庭に対しては、特に、こまやかな心遣いが必要であろう。
 最後に、伸一が、「その人の立場を大切に」と訴えたのは、すべての人を尊敬、尊重していくことは、仏法者としての、生き方の根本姿勢であるからだ。それを、自分の感情で人を叱ったり、後輩に対して威張り散らすようなことがあっては、絶対にならない。
 大聖人は「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」と言われている。
 広宣流布に生きる同志は、皆、等しく尊厳無比なる存在である。互いに尊敬し合う心の連帯が、創価学会なのだ。
 伸一は、リーダーの留意点として、この六項目の指針を発表し、皆の健闘を讃えると、本部幹部会の会場を後にしたのである。
42  勇気(42)
 山本伸一は、創価文化会館の三階ホールに戻ると、再び「人間革命の歌」の作曲に取りかかった。曲は、一応、かたちにはなっていたが、まだ納得がいかないのだ。
 彼は、本部幹部会の終了までに完成させることができれば、ぜひ、参加者に披露したいと思っていた。
 伸一は、この本部幹部会で、彼が入場する前に、ピアノとマリンバを演奏した、二人の女子部員にも来てもらい、意見を聞いた。音楽大学を出て、民主音楽協会に勤務している植村真澄美と松山真喜子である。彼女たちにも手伝ってもらいながら、作曲を続けた。
 午後三時半、伸一は、彼女たちと一緒に、本部幹部会の会場となった五階の大広間に上がった。既に会合は終了していた。
 伸一は、大広間のピアノを使って、引き続き、作曲に挑戦した。なんとしても、この日のうちには歌を完成させようと、固く心に決めていたのである。
 伸一は、二人の女子部員に言った。
 「決して、遠慮しないで、気がついたことがあったら、どんどん意見を言ってください。みんなの力を借りて、後世永遠に残る、名曲を作りたいんだ」
 伸一は、常に、皆の意見を聞くように努めていた。何事も、そこに発展があるからだ。
 「多くの人の声を尊重してこそ、智者となることができる」とは、中国・三国時代の蜀漢の丞相・諸葛亮孔明の名言である。
 会場には、本部幹部会に参加した、学生部の音楽委員会の代表もいた。彼らにも、曲を聴いてもらった。
 皆に意見を求めながら、伸一は、曲作りを進めていった。しかし、納得のいく曲はできないまま、時が過ぎていった。
 伸一は、もう一度、歌詞を推敲した。
 歌詞は、五行詞である。どうやら、これが、作曲を難しくしているようだ。
 「五行ある歌詞を、思い切って四行にしては、どうだろうか……」
 彼は、こう言って、皆に視線を注いだ。
43  勇気(43)
 集っていた音楽関係者の一人が答えた。「五行詞を四行詞にすれば、確かに、作曲は、しやすくなると思います」
 しかし、″歌詞のどの部分を削るのか″となると、山本伸一は、困惑せざるを得なかった。熟慮に熟慮を重ねてきた歌詞である。一言一言に、深い思いが込められていた。
 どこを削除するか、歌詞を読み返した。
 削るとすれば、二行目だと思った。一番の歌詞の二行目は「同志の人びと 共に立て」、二番は「同志の歌を 胸はりて」、三番は「同志の人びと 共に見よ」である。
 「残念だが、二行目を削ろう。この『同志の人びと』というところには、深い意義があるんだがね……。でも、仕方ないな」
 伸一が、この言葉を使った背景には、若き日に読んだ、山本有三の戯曲『同志の人々』への共感があった。
 ――この作品は、幕末の文久二年(一八六二年)、寺田屋騒動で捕らえられた八人の薩摩藩士が、薩摩に護送されていく船の中が舞台である。寺田屋騒動は、討幕を計画した薩摩藩士らが、京都・伏見の船宿・寺田屋で、藩によって鎮圧された事件だ。
 荒波に翻弄される船で、藩士たちは″これから、どうなるのか″″途中で処刑されるのではないか″″これまでやってきたことは無意味だったのか″と、不安にさいなまれる。
 そこに、″目つけ″から、船底に幽閉されている、公家の臣下である父と子を殺害すれば、二、三カ月の謹慎という軽い刑にすると告げられる。この父子は、藩士らとともに、討幕を誓った同志であった。
 薩摩藩としては、幕府の機嫌を損ねたくないため、この父子を、薩摩にかくまうことは避けたかった。しかし、表立って処刑すれば、公家に義理が立たない。そこで、船の中で、仲間割れが起こって殺されたことにしたいというのだ。八人の藩士は動揺した。
 最悪な事態、最大の窮地に立たされた時、何を考え、どう行動するか――そこに、人間の奥底の一念、本質が現れるといえよう。
44  勇気(44)
 護送されている薩摩藩士が、公家の臣下である父子を手にかけずとも、父子は、役人によって殺害されるにちがいない。そして、罪は、藩士に押しつけられ、重罪に処せられることになろう。
 どちらにせよ、助からないのなら、討幕の再挙をはかるために、殺害することもやむを得ない――という意見が出される。
 同志を殺して、自分たちの罪が軽くなることを選ぼうとする皆の心を、是枝万介という藩士は見抜き、真っ向から異を唱える。
 「生死を誓った同志ではないか。生きる時はいっしょに生き、死ぬ時は、潔くいっしょに死ぬのが道ではないか」
 だが、藩士たちは、「再挙のため」を理由に、父子の殺害を決める。
 では、誰が、その役を担うのか――。
 名乗り出たのは、是枝であった。彼は、自害を勧めようと考えた。それが、武士の情けであると思ったからだ。また、自分も、共に死のうと、心を決めたのである。
 是枝は、父と子に、維新を成就させるため、同志の犠牲となって切腹するよう、説得にあたる。だが、息子は、聞き入れない。
 「不正なものを倒して、正しい世の中にしたいと思えばこそ、今のいのちが惜しまれるのだ」
 やむなく是枝は息子を斬り、深手を負わせる。その息子を介錯したのは父親であった。
 詫びる是枝に、父親は、自分は切腹することを伝え、介錯を頼む。そして、自分たちの死を、犬死にに終わらせることなく、維新の成就を訴える。
 ――「ほんとうの悲壮なことに出あわれるのは、むしろこれからですぞ」「これからは貴殿たちの時代です。どうか、しっかりやってください」
 苦難のなかで呻吟し抜く覚悟なくしては、大義を貫くことなどできない。死せる父親が、従容として語った遺言は、「ただ同志の方々に、よろしくとお伝えください」であった。
45  勇気(45)
 山本伸一は、青年時代に『同志の人々』を読んだ時、強く胸を打たれた。志をもった人間の生き方に、鋭い示唆を投げかける作品であると思った。
 彼は、是枝の苦渋の選択に、理想と現実の狭間で、矛盾と向き合い、葛藤を超えねばならぬ、革命に生きる人生の厳しさを感じた。また、再挙を理由に、同志の殺害を決めた藩士たちと、死んでいった公家臣下の父子と、人間として、どちらが勝者で、どちらが敗者かを考えざるを得なかった。
 やがて幕府は倒れ、明治維新は訪れる。しかし、いかに自己正当化しようとも、藩士たちが、討幕を誓い合った、父子の殺害を決めたことは、同志への裏切りにほかならない。それは、人間の信義を破り、自らの手で理想を汚してしまったことになる。同志を裏切ったという事実は、自身の生命に、無残な傷跡を刻み、永遠にうずき、さいなみ続けるにちがいない。
 それに対して、最後まで革命の理想を信じて、その成就を藩士たちに託して、堂々と自ら死んでいった公家臣下の父親こそ、人間として勝者といえるのかもしれない。
 伸一は、思った。″広宣流布の使命に生きる学会のなかにも、牧口先生の時代から、目先の利害や、安逸、保身のために、あるいは、迫害を恐れるゆえに、同志を、いや、師匠をも裏切っていった人間がいた。これからも現れるにちがいない。
 しかし、断じて、そんな人間に屈してはならないし、翻弄されてもならない……″
 彼は、「人間革命の歌」の作詞にあたって、『同志の人々』を思い起こした。そして、全会員に、″広宣流布という人生最極の理想に生き抜き、三世に輝く永遠の勝利者の道を歩んでほしい″と呼びかける思いで、一番から三番までの歌詞の二行目に、「同志」という言葉を使ったのである。
 しかし、あえて、その二行目を、削る決断をしたのだ。
46  勇気(46)
 新しいものを創造するには、時には、これまで作り上げてきたものへのこだわりを、躊躇なく捨てる勇気が必要な場合もある。
 山本伸一は、きっぱりとした口調で、皆に語った。
 「二行目を削るようにして、曲を考え直すことにしよう。一行目が、それぞれ、『君も立て 我も立つ』『君も征け 我も征く』『君も見よ 我も見る』だから、そこに二行目の『同志』という意味も含まれている。四行詞にして、再び挑戦だ!」
 また、曲の調整が始まった。
 ほどなく、出来上がった。
 曲に合わせて、皆で歌ってみた。
 「では、録音しよう」
 伸一が呼びかけると、学生部の音楽委員会の代表が言った。
 「先生、文化会館の地下の集会室に、今日の本部幹部会の開会前に合唱を披露した、富士学生合唱団のメンバーがおります」
 「それなら、合唱団に歌ってもらおう」
 その青年は、合唱団を呼びに行った。
 伸一は、さらに、歌詞を推敲し始めた。
 メンバーがそろい、ピアノを囲んで、練習が始まった。
 それを聴きながら、伸一は言った。
 「二番の『吹雪も恐れじ』のところだが、『吹雪に胸はり』に直そう。『恐れじ』は古い感じがするし、内心、びくびくしているように聞こえてもいけない。みんな師子なんだもの、胸を張った方がいいだろう」
 「はい!」
 適当なところで妥協し、よしとしていたのでは、最高のものは作れない。妥協なき、熾烈な挑戦の果てに、栄光はある。
 伸一は、合唱団に、力強く呼びかけた。
 「さあ、録音だ。明るく、伸び伸びと歌うんだよ。伴奏はピアノとマリンバがいいね」
 彼は、自ら合唱団のために、マイクの高さを調節した。
 若き師子たちの歌う「人間革命の歌」が、はつらつと場内に響いた。
47  勇気(47)
 「ありがとう。この『人間革命の歌』は、新しい人間文化創造の原点になる歌だ。では、合唱団の皆さんと記念撮影しよう」山本伸一は、一緒にカメラに納まった。
 このあと彼は、海外メンバーの代表らと、夕食を共にしながら、打ち合わせを行った。その席で、「人間革命の歌」を録音したテープをかけ、皆に紹介した。
 何度もテープを聴くうちに、歌詞にも、曲にも、また、手直ししたい個所が出てきた。打ち合わせが終わると、伸一は、本部に戻って、居合わせた幹部にテープを聴かせた。
 「どうかね。率直な感想を聞きたいんだ。感じたままを言ってもらいたい」伸一は、皆の声、意見を大切にした。衆知は、時に仏智の輝きを放つからだ。
 その幹部は、答えた。「すばらしいと思いますが、なかほどに平板なリズムが続くので、その辺りを、もう少し変えた方がよいのではないかと思います」
 「私も、そう感じていたところなんだよ。よし、やり直しだ!」――「完全なるものへ、あるが上にも完全へと。これが我らのすべてに対する祈りである」とは、学会創立の父・牧口常三郎の信条であった。
 伸一は、作曲の応援をしてもらった音楽教師の青年らに、もう一度、来てもらうことにした。午後八時過ぎ、音楽教師が駆けつけた。
 「何度も足を運ばせて、申し訳ないね。テープを聴き直してみると、歌詞にも、曲にも、納得できない個所があるんだよ。
 まず、一番の歌詞の『平和と慈悲との 旗高く』だ。ここは、『正義と勇気の 旗高く』にしようと思う。
 平和、慈悲といっても、仏法の正義を断じて貫こうという勇気から始まる。戸田先生は、『慈悲に代わるものは勇気です。勇気をもって、正しいものは正しいと語っていくことが慈悲に通じる』と、よく言われていた。臆病を打ち破り、勇気をもって戦いを起こしてこそ、自身の人間革命がある」
48  勇気(48)
 山本伸一は、二番の三行目の「地より涌きたる」にも筆を入れ、「地よりか涌きたる」とした。さらに、三番の二行目の「遙かな空の 晴れやかな」の「空」を「虹」に直した。
 「ここは、『地よりか』とした方が、力が入るんだよ。それと、『空』より『虹』とした方が、夢があるし、色彩が豊かになる」
 そして、彼は、声を出して、歌詞を読み返し、大きく頷いた。
 「よし。さあ、次は曲だ!」
 伸一は、ピアノの前で腕を組み、しばらく、じっと考えていた。
 ″曲のメリハリをきかせるには、どうすればよいか……″
 声を掛けることもためらわれる、真剣そのものといった顔である。
 一つ一つの事柄を、徹して完全無欠なものにしていく――それは、広宣流布の″戦人″ともいうべき彼の哲学であった。
 蒲田支部での二月闘争においても、札幌の夏季指導でも、大阪の戦いでも、山口の開拓指導でも、計画を練りに練り、万全な準備をして臨んだ。
 会合一つとっても、焦点の定まらぬ、歓喜の爆発がない会合など、絶対に開かなかった。それでは、忙しいなか、集って来てくださった方々に、失礼であり、貴重な時間を奪うことにもなると考えたからだ。
 ゆえに、自分が話す内容について熟慮を重ねることはもとより、式次第や他の登壇者の原稿、会場の設営や照明にいたるまで、詳細にチェックし、打ち合わせも綿密に行い、常に最高のものをめざしてきた。妥協は、敗因の温床であるからだ。
 ″参加者の心を一新させ、大歓喜と闘魂を燃え上がらせることができるか!″
 彼は、必死であった。一回の会合、一回の打ち合わせ、一軒の家庭指導を、すべて最高のものにしてみせるぞと、全力を尽くした。それがあってこそ、勝利があるからだ。
 おざなりの行動で、その場を取り繕うことはできても、待っているのは敗北である。
49  勇気(49)
 山本伸一は、三行目の「正義と勇気の 旗高く」の個所は、音程を次第に上げていき、そして、「旗高く」は、繰り返して、強調しようと思った。彼は、歌を口ずさんでみた。
 音楽教師の青年が、譜面に手を入れ、歌いながらピアノを弾いた。
 「よし、これに決めよう!」
 伸一は言った。
 遂に、「人間革命の歌」が完成したのだ。一九七六年(昭和五十一年)七月十八日、午後八時四十分であった。
 早速、音楽教師に、ピアノを弾きながら歌ってもらい、それをテープに吹き込んだ。
 「この歌詞と譜面を、明日の聖教新聞に発表しよう。今なら、まだ、間に合うね」
 伸一は、こう言うと、録音された「人間革命の歌」のテープを聴いた。
 一、君も立て 我も立つ
   広布の天地に 一人立て
   正義と勇気の 
       旗高く 旗高く
   創価桜の 道ひらけ
 二、君も征け 我も征く
   吹雪に胸はり いざや征け
   地よりか涌きたる
       我なれば 我なれば
   この世で果たさん 使命あり
 三、君も見よ 我も見る
   遙かな虹の 晴れやかな
   陽出ずる世紀は 
       凛々しくも 凛々しくも
   人間革命 光あれ
 ホイットマンは歌った。「情熱、脈搏、活力、すべてにおいて測りしれぬ『いのち』をそなえ、奔放自在な振舞いができるよう神聖な法則どおりに造られた、陽気で『新しい人間』をわたしは歌う」
 伸一は、その「新しい人間」への道を、歌い、示したかったのである。
50  勇気(50)
 午後九時過ぎ、山本伸一が呼んだ、植村真澄美と松山真喜子が本部に到着した。彼女たちが、事務室で待機していると、伸一は、大きなカセットデッキを抱えて姿を現した。
 「よく来てくれたね。ありがとう。『人間革命の歌』に、さらに手を加えたんで、感想を聞かせてくれないか」伸一は、テープをかけた。
 「どうだい。よくなっただろ」
 彼女たちが、「はい!」と言って頷くと、彼は、満面に笑みを浮かべた。
 「それなら安心だ。これでいくよ!」
 そして、事務室にいた幹部たちにも、テープを聴かせた。さらに、最高幹部や各方面・県などの中心者に、次々と電話を入れた。
 「『人間革命の歌』を作ったよ。みんなに勇気を送ろうと作った歌だよ。私の生命の叫びだ。今から、歌を流すからね」
 そして、電話口をカセットデッキの前に置き、テープをかけるのである。
 歌が終わると、伸一は言った。
 「私たちは地涌の菩薩だ。日蓮大聖人の直弟子だ。この歌を歌いながら、一緒に、この世の使命を果たすために、頑張ろうよ!」
 電話は、随所にかけられた。
 初めは一台の電話で行っていたが、途中から、三台の電話を同時に使って、各地の代表に、歌を聴いてもらった。
 伸一は、植村と松山に語った。
 「この歌の音程を少し下げてもらえないだろうか。皆が歌いやすいようにね。お年寄りにも、子どもたちにも歌ってほしいんだ。
 それから、明日、関西で女子部の結成二十五周年を記念する総会があるが、そこで、この『人間革命の歌』を演奏してくれないか。
 私の出獄の日を記念し、戸田先生の弟子として、地涌の菩薩の使命を果たし抜く誓いを込めて作った歌だ。だから関西の地に、真っ先に、この歌を轟かせたいんだよ」
 「人間革命の歌」は、低い音程に移調された。翌日午前中には、富士学生合唱団によって録音され、テープが全国に発送された。
51  勇気(51)
 山本伸一が「人間革命の歌」を作った翌日の七月十九日夜には、早くも各地の会合で、この歌が、声高らかに歌われた。
 なかでも、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で、夕刻から行われた第二十五回女子部総会は、「人間革命の歌」に始まり、「人間革命の歌」に終わったかのような、晴れやかな新出発の集いとなったのである。
 ″山本先生が権力の魔性と戦い、魂魄を留めた、常勝の天地・関西に、そして、日本中、世界中に、二十一世紀に響け!″とばかりに、「創価の華」たる女子部員の、はつらつたる歌声が、こだました。
 参加者は、この日、雨の中を集って来た。やがて、小雨となり、開会前にはあがった。
 総会も終わりに近づいたころ、整理役員が場外に出て、空を見上げた。息をのんだ。″虹よ! 虹だわ!″美しい、大きな七彩の虹が、暮れなずむ空に懸かっていた。その知らせは、女子部長の田畑幾子から、全参加者に伝えられた。
 「ただ今、空には、美しい虹が懸かっております。『人間革命の歌』にある『君も見よ 我も見る 遙かな虹の 晴れやかな』の通りになりました。山本先生と共に『陽出ずる世紀』へ旅立つ私たちへの、諸天の祝福であると思いますが、いかがでしょうか!」
 大歓声が起こった。皆が頬を紅潮させた。
 「人間革命の歌」は、瞬く間に、全国で、さらに、世界各地の同志にも歌われるようになっていくのである。
 この年の八月から十月にかけて、県・方面の文化祭が盛大に開催される。どの会場でも、歓喜に満ちあふれた「人間革命の歌」の合唱が響いた。
 文化は、人間という生命の大地に開く花である。新しき文化の創造も、未来の建設も、そして、人類の宿命の転換も、一人ひとりの人間革命から始まる。この歌は、創価学会のテーマともいうべき、その人間革命運動の推進力となっていったのである。
52  勇気(52)
 山本伸一は、「人間革命の歌」で、戸田城聖が獄中で悟達した、「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかに、最も心を砕いた。
 戸田は、この獄中の悟達によって、生涯を広宣流布に捧げんと決意し、一人立った。
 大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せである。
 この悟達にこそ、日蓮大聖人に直結し、広宣流布に生きる、仏意仏勅の団体である創価学会の「確信」の原点がある。
 「地涌の菩薩」の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである。
 それは、人生の最高の価値創造をもたらす源泉となる。また、利己のみにとらわれた「小我」の生命を利他へと転じ、全民衆、全人類をも包み込む、「大我」の生命を確立する原動力である。
 いわば、この「地涌の菩薩」の使命に生き抜くなかに、人間革命の道があるのだ。
 伸一は、若者たちが、人生の意味を見いだせず、閉塞化した精神の状況を呈している時代であるだけに、なんのための人生かを、訴え抜いていきたかった。
 そして、彼は、その思想を、「人間革命の歌」の二番にある、「地よりか涌きたる 我なれば 我なれば この世で果たさん 使命あり」との歌詞で表現したのである。
 この年の暮れには、伸一の四十九歳の誕生日にあたる、翌一九七七年(昭和五十二年)一月二日を記念し、学会本部の前庭に「人間革命の歌」の碑が建立され、その除幕式が行われた。山本門下生として、地涌の使命を果たし抜かんとの、弟子一同の誓願によって建てられたものだ。
 「人間革命の歌」は、師弟の共戦譜である。そして、生命の讃歌である。碑の歌詞の最後に、伸一は刻んだ。
 「恩師戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 山本伸一」

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