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日蓮大聖人・池田大作

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第23巻 「学光」 学光

小説「新・人間革命」

前後
1  学光(1)
 「教育だ! 知性の光だ! 知性の光だ! すべてはこの光から出て、またこの光にもどる」
 これは、文豪ユゴーの叫びである。
 教育は、人間に「知」という力を与え、人びとの幸福を、尊厳を、自由を、平等を実現していく必須の条件である。
 一九七六年(昭和五十一年)五月十六日、ツツジが群れ咲く東京・八王子市の創価大学のキャンパスは、日曜日だというのに活気にあふれていた。
 青葉が茂る石畳を、スーツ姿に身を包んだ男女青年や婦人、壮年など、幅広い年代の人たちが、中央体育館に向かっていた。なかには、白髪の老婦人や、杖を手にした老紳士の姿もあった。
 どの顔も誇らかであり、その歩みは、はつらつとしていた。創価大学の通信教育部の開学式に参加するため、北は北海道、南は九州、沖縄など、全国各地から集って来た通教第一期生の学生たちである。
 正午、開会を告げる司会の声が響き、大拍手が高鳴るなか、開学式が始まった。
 通信教育部長の開式の辞、法学部長のあいさつに続いて、通信教育生代表が元気いっぱいに抱負を語った。
 「必ずや、生きた学問を身につけ、それを職場に、社会に生かし、自己完成への道を歩んでまいります!」
 向学の息吹にあふれた、決意であった。
 ここで、創立者・山本伸一のメッセージがテープで流れた。
 伸一は、なんとしても、通信教育部の開学式に行き、学生たちを激励したかった。しかし、この日は、海外からの来客が予定されており、開学式に出席することは難しかった。そこで、やむなく、事前に、メッセージをテープに録音することにしたのだ。
 通信教育部の開設は、伸一が、創価大学の設立を誓った時からの夢であった。いや、民衆教育をめざす彼にとっては、そこに、大きな眼目があったといってよい。
2  学光(2)
 録音テープに吹き込まれた、山本伸一の力強い声が、創価大学の中央体育館に響いていった。
 「五月十六日は、重大な歴史の日となりました。晴れやかな開学式、まことにおめでとうございます。また、皆さんのご入学を心よりお祝い申し上げます」
 「重大な歴史の日」――皆、その言葉に、思わず息をのんだ。通教生たちは、伸一の言わんとすることの、深い意味を理解したわけではなかった。しかし、誰もが、通信教育部に対する、伸一の、強く、熱い思いを感じながら、メッセージに耳をそばだてた。
 「通信教育部の設置は、創価大学設立の構想を練り始めて以来の、私の念願でありました。
 教育の門戸は、年齢、職業、居住地のいかんを問わず、すべての人びとに平等に開かれねばなりません。まして、本学が″人間教育の最高学府″をめざす以上、教育の機会均等化を図るために、通信教育部をおくことは重要な課題であると考えてまいりました。
 今回、入学された皆さんは、年齢も幅広く、十代から七十歳を超える高齢の方々までいらっしゃるとうかがっております。また、ほぼ全員が仕事をもち、会社員、公務員、主婦等々、多忙ななかで、学問の道を志されたと聞いております。私はそこに、創価教育の原点ともいうべき学問への姿勢を見る思いがしてなりません」
 そして、牧口常三郎が提唱した「半日学校制度」に言及。それは、学習の能率を図ることによって、学校生活を半日とし、あとの半日を生産的な実業生活にあてるという制度である。牧口は、この制度の根本的な意義は、「学習を生活の準備とするのではなく、生活をしながら学習する、実際生活をなしつつ学習生活をなすこと、即ち学習生活をなしつつ実際生活もすることであって、(中略)一生を通じ、修養に努めしめる様に仕向ける意味である」と述べている。
 生涯が学習である。生涯が勉強である。それが、人間らしく生きるということなのだ。
3  学光(3)
 教育の本義は、人間自身をつくることにある。教育は、知識を糧に、無限の創造性、主体性を発揮しうる人間を育む作業である。
 知識の吸収は、進展しゆく社会をリードするうえで、必要不可欠な条件ではあるが、知識それ自体は、創造性とイコールではない。内なる可能性の発露こそが教育であり、知識は、それを引き出す起爆剤といってよい。
 では、知識を創造へ、生き生きと転ずる力とは、いったい何か――。
 山本伸一は、メッセージのなかで論じていった。
 「それは、社会を担う人間としての自覚と責任であると申し上げたい。人びとの現実生活を凝視し、その向上、発展のために、習得した豊饒な知識を駆使するなかに、創造性の開花があるといえると思うのであります」
 そして、勤労しつつ勉学に励むことは、自分自身を鍛え、視野を広げていく行為であると強調。牧口常三郎が「半日学校制度」を提唱したのも、働きながら学ぶことが、人間教育を志向するうえで、最も適切な環境条件であるからだと訴えた。
 ここで、伸一の声に一段と力がこもった。
 「その意味で皆さん方は″創価教育体現の第一期生″であると申し上げておきたい!」
 集った通教生たちの瞳が輝いた。決意を新たにし、ぎゅっと、唇をかみしめる青年もいた。身を乗り出して拍手をする婦人もいた。
 続いて、伸一は、自らの青年時代の思い出に触れた。窮地に陥った戸田城聖の事業を支えるため、学問の道を、いったん断念せざるを得なかったこと。その代わり、戸田がさまざまな学問を教えてくれたこと……。
 伸一は、深い感慨を込めて、その″戸田大学″での講義の実感を語った。
 「それは文字通り、人生の師と弟子との間に″信″を″通″わせた教育でありました」
 伸一は、創価大学の通信教育の「通信」という意味も、郵便による伝達ということではなく、師と弟子が、互いに″信″を″通″わせ合う教育であるととらえていたのである。
4  学光(4)
 山本伸一のメッセージは続いた。
 「人間の完成よりも知識が、知識よりも学歴、資格が優先され、教育目的の逆転現象を呈している今日の大学にあって、人間の道を究めんとする皆さんの存在は、教育のあるべき姿を世に問うものと確信してやみません」
 伸一の通教生に対する期待は、限りなく大きかった。彼は、そこに、真実の人間教育の道を見ていたのである。
 さらに、通信教育で学業を全うすることの困難さを語った。この当時、入学者に対する卒業生の割合は、一割にも及ばなかった。しかも、卒業までには、五、六年を費やすのが普通であった。
 だからこそ、伸一は、祈るような思いで訴えていった。
 「学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽の積み重ねのなかにのみあることを銘記していただきたいのであります。仕事や家庭の事情等、さまざまな問題に直面するでありましょうが、五年かかろうが、十年かかろうが、断じて初志を貫き、全員が卒業の栄冠を勝ち得ていただきたいのであります」
 卒業は、一つの結果にすぎないかもしれない。しかし、その目標の踏破のなかに、人間完成への確かなる歩みがある。一歩一歩の前進なくして、栄光への走破はない。
 そして彼は、通教生は、一人も漏れなく、人生の勝者になってほしいと、強く、強く、念じながら、こう呼びかけたのである。
 「まずもって向学の走者は、自己を制覇し、試練の障壁に信念のバネで挑み、生涯の自己錬磨の飛躍台にされんことを念願するものであります。
 人間の真価は、ひとたび険難の峰にさしかかった時に、初めて明らかになるといわれております。前途に立ちはだかる困難をもって、挫折を自己正当化する手だてとするか、成長への好機と意義づけて進んでいくかで、将来の行路を決定づけてしまうといっても過言ではない。その選択は、ほかならぬ自己自身の腕にあるのであります」
5  学光(5)
 山本伸一は、通信教育が、いかに困難な道のりであるかを、よく知っていた。したがって、その初心を貫くためのアドバイスも忘れなかった。
 「皆さんの大きな励ましとなり、力となるのが、同じ志をいだく友人との交流であります。相互に連携をはかり、切磋琢磨していっていただきたい。
 大学で学ぶ意味の一つは、人生の友を得ることであります。互いに啓発し合える友の存在は、何にも増して貴い財産であります」
 敢然と一人立って、苦難の壁に立ち向かう覚悟なくしては、何事も成就はできない。そして、その決意を、さらに堅固なものにしていくのが、友の存在である。
 アメリカの大思想家エマソンは言う。
 「友人と共にあるとき、私たちは容易に偉大な人間になれる」
 最後に伸一は、未来を託す思いで、力を込めて語った。
 「第一期生の皆さんこそ、通信教育部の創立者であります。それを忘れないでいただきたい。開拓の道は険しくも、その向学の軌跡は、創価大学の名とともに、永遠に顕彰されていくことでありましょう。
 皆さん方のご健康とご健闘を祈るとともに、建設の学徒の未来に栄光あれ、と申し上げ、私のあいさつとさせていただきます」
 開学式に集った通教生から、一斉に、決意のこもった大拍手がわき起こった。
 四百字詰め原稿用紙にして、八枚ほどの長文のメッセージである。伸一は、この原稿には、何度も、何度も、手を入れた。
 彼は、開学式に出席し、一人ひとりの学生を抱きかかえるように祝福し、励まそうと思っていた。しかし、それが、困難となったために、せめて、永遠の原点となる指針を贈りたかったのである。
 参加者は、伸一の深い真心と、余りにも大きな期待を感じながら、身震いする思いでメッセージのテープを聴いた。この時、通教生の心田に、誓いの種子が植えられたのだ。
6  学光(6)
 世界で最初の通信教育は、一八四〇年にイギリスのアイザック・ピットマンが行った、速記の講座といわれている。この年にスタートした郵便制度を利用したものであった。
 語学教育の通信教育が始まったのは、一八五六年であった。ドイツの言語学者グスタフ・ランゲンシャイトが、自分で学習できるようにした、語学の通信教育教材を出版し、大きな反響を呼んだのである。
 日本における通信教育は、遠隔地などにいて通学できない人を、「校外生」として受け入れ、講義録を送ったことが、その始まりとされている。一八八五年(明治十八年)には、中央大学の前身である英吉利法律学校が、翌年には早稲田大学の前身である東京専門学校が、講義録を頒布している。
 しかし、多くの人びとに学問を広めるという理念に基づいてはいたが、添削指導や試験は行われなかった。
 そのころ、諸学科の添削指導や試験も行う通信講学会が誕生する。この会では、家政学など、女性を対象とした通信教育も実施するようになる。
 牧口常三郎も、一九〇五年(同三十八年)から三年ほど、通信教育に携わってきた。
 当時、高等女学校で学びたいという女子を、受け入れる学校が不足していた。そこで、牧口は、大日本高等女学会を創立し、高等女学校の教育を授ける通信教育に取り組んだのである。それは『人生地理学』を発刊した一年半後、三十三歳の時であった。
 女子に学問は不要であるというのが、当時の風潮であった。そのなかで牧口は、″好学の心″を抑えつけてきた時代は過ぎ去ったと断言し、こう訴えている。
 「女子教育の勃興は全く時勢の進歩に伴ふ当然のことにして固より慶すべく、国民の半数を占めて男子と共に国家を形造る女子の教育思想の斯の如くなることは寧ろ其遅かりしを憾むべきなり」
 女性を、民衆を、賢明にすることが、社会の繁栄を築く、根本の改革となるのだ。
7  学光(7)
 大日本高等女学会で牧口常三郎は、″好学の心″をもちながらも、経済的な事情などで進学できない女子に、勉学の場を提供するため、あらゆる努力、工夫を重ねた。
 出征軍人の家族には、入学金を免除し、月謝を半額にした。また、特待の枠を設け、小学校長の推薦する模範の生徒には、入学金も月謝も無料としている。
 牧口は、通信教育を始めて、半年ほどたったころから、神田・三崎町にあった大日本高等女学会の建物で、月に一度、女子技芸実習講話会を企画している。直接、授業を受ける機会を設けたのである。
 また、彼は、東京各区で、大日本高等女学会の懇話会を行っているほか、全国各地で、懇話会を開催するよう呼びかけている。
 地域で、互いに励まし合いながら、勉強を続けるネットワークづくりを、期待していたのであろうか。
 大日本高等女学会の通信教育は、最盛期、全国に二万人余の受講生を数えるに至っている。しかし、貧しい人びとに教育の場を提供したいという彼の教育方針を貫くには、篤志家などの支援を必要とした。結局、財政が思うに任せず、やがて、経営は行き詰まり、牧口は、やむなく手を引くことになる――。
 いわば、創価大学の通信教育部開設は、人びとの幸福のための教育を実現しようとした牧口の、悲願の結実であったともいえよう。
 その先師の苦闘を知っていた山本伸一は、″孫弟子の自分が、牧口先生の念願を果たそう″と心に決めていたのだ。永遠なる師弟の道が、大事業を成就させるのだ。
 また、牧口の弟子・戸田城聖もまた、通信教育には、ことのほか力を注いできた。
 戸田は、一九四〇年(昭和十五年)一月に、月刊学習雑誌『小学生日本』の五年生向けを、四月に、六年生向けを創刊する。そのなかに、切り取って送ることのできる「誌上考査問題」を掲載している。
 届いた答案は、採点し、間違いを正し、考え方を指導し、批評して送り返すのである。
8  学光(8)
 戸田城聖は、『小学生日本』の「誌上考査問題」で、成績優秀者を誌上で発表し、メダルや記念品を贈った。そこには、次代を担う「宝」である子らの学習意欲を、少しでも高めたいとの、強い思いがあった。
 当初、考査問題に挑戦した児童は、五年生向けが約二千人、六年生向けが約三千人であった。
 発刊翌年の一九四一年(昭和十六年)春、国民学校令によって小学校が国民学校に変わったことから、『小学生日本』も『小国民日本』へと改題する。この年の十月号によれば、考査問題への応募者は、五、六年生合わせて、一万二千人を超えている。
 その後、戸田は、軍部政府の弾圧によって逮捕される。四五年(同二十年)七月三日に出獄し、事業の再建に取りかかった彼が、真っ先に着手したのが、戦争で学びたくても学べなかった青少年のための、通信教育事業であった。
 中学生(旧制)を対象にした半年間のコースで、月に二回、数学、物象(物理、化学、鉱物学などを包括した教科)の教材を送り、月に一度、試験問題の添削を行った。後に英語も加えられ、高等学校・専門学校(旧制)受験のための添削も始めている。
 申し込みと同時に、前金を納めるというシステムで、一日に八百通以上の申し込みが届いた日もあった。しかし、戦後混乱期のインフレの影響を受け、紙代や印刷費が高騰し続け、通信教育事業から撤退せざるをえなくなったのである。
 ″万人に教育の機会を与えたい。民衆が賢明にならずしては、本当の民主主義はない。それには教育しかない!″
 それが、戸田の信念であった。それだけに通信教育事業からの撤退は、さぞかし残念であったにちがいない。戸田は、山本伸一への個人教授の折にも、よくこう語っていた。
 「日本中、世界中の人たちが、学べるような教育の場をつくらなければならんな」
 その言葉を伸一は、遺言の思いで聞いた。
9  学光(9)
 通信教育は、戦後、社会教育法による、洋裁や書道、速記など、趣味や教養、職業技術などを学習する社会通信教育と、学校教育法に基づく大学や高校が行う学校通信教育に整理されていく。
 創価大学が通信教育を始めた一九七六年(昭和五十一年)に通信教育を行っていた大学は、法政大学や慶応義塾大学など、私立の十一大学であった。創価大学は、日本で十二番目に通信教育部を設置した大学となった。
 山本伸一は、創価大学の設立を構想した時から、通信教育部の開設を考えていた。民衆に、万人に開かれた大学の建設というのが、伸一の構想であったのである。
 六九年(同四十四年)四月二日、創価大学の起工式が行われるが、それから一カ月後の五月三日に開催された本部総会で、伸一は、できるだけ早く通信教育部を開設したいとの意向を示し、次のように語っている。
 「通信教育ならば、年齢、職業、居住地等に関係なく、あらゆる人が勉学にいそしむことができることになります」
 また、よく伸一は、学会の高等部員たちと会うと、こう言って励ましてきた。
 「高等部員はできるだけ大学に進学するべきです。家庭の経済が許さない時は、自分で働いて夜学へ行けばよい。あるいは通信教育でもいい」
 大事なのは、学歴ではない。学び抜く心である。学ばずは卑しである。
 伸一は、どんな環境にあっても、勉強し続ける志をもってほしかったのだ。そのためにも、そうした人たちが学ぶことのできる、通信教育部の設置を念願としていたのである。
 しかし、大学の開学と同時に通信教育部を設置するという構想は、実現しなかった。そういう前例がないことから、文部省(当時)の認可を受けられなかったのである。
 文部省の担当官は、卒業生を出したあとなら、申請を受け付けるとのことであった。
 伸一は、一日千秋の思いで、通信教育部の開設の日を待ち続けてきたのだ。
10  学光(10)
 一九七一年(昭和四十六年)に創価大学が開学した時から、事務局長は、日々の業務の傍ら、通信教育部開設の準備を進めてきた。
 そして、創大の第一期生を社会に送り出す七五年(同五十年)を迎えると、担当の職員も数人に増員し、いよいよ通信教育部の開設に向けて、本格的な準備を始めた。
 他大学の通信教育の教科書や資料集めに始まり、学部などの構成やカリキュラム(教育課程)づくりなど、課題は膨大であった。
 すべてが新しい試みである。すべてが暗中模索であった。
 しかし、事務局長をはじめ、担当した職員たちは、黙々と準備に当たった。
 ″この通信教育にこそ、民衆に開かれた創価大学の真骨頂がある″と思うと、闘志がわき、苦労も吹き飛んだ。
 「喜べ!喜べ!人生の事業、人生の使命は喜びだ」とは、ロシアの文豪トルストイの箴言である。それは、準備に取り組む職員たちの、実感であったにちがいない。
 協議を重ね、経済学部と法学部を設置するなど、全体の構想がまとまり、文部省に開設を申請。認可されたのは、翌七六年(同五十一年)の二月十日であった。
 創価大学の通信教育は、「学校教育法」に基づいて行われる正規の大学教育である。
 高等学校卒業または同等の資格を有する人が入学でき、正科課程(経済学部、法学部)を卒業すれば、「学士号」を取得できる。
 一方、学歴にかかわらず、教養として大学課程の勉強をしたいという人などが学ぶ、特修課程(現・科目等履修)も設置されていた。この特修課程からも、正科課程へ進む道が開かれていた。
 開設の準備が整うと、職員らは、全国各地で通信教育の説明会を行い、その意義や教育内容、特色などを熱く訴えた。
 そして、七六年二月から、いよいよ通信教育部の入学願書の受け付けが始まった。願書は全国各地から寄せられ、昭和五十一年度一期生は二千人を超えたのである。
11  学光(11)
 山本伸一は、通信教育部の開設の準備に当たる大学の教職員たちから報告を聞き、意見交換を重ねてきた。
 伸一が、テーマとしていたことの一つは、通信教育は卒業生が少ないという問題を、どうやって乗り越えるかであった。彼は、大学側にも、「入学してくる通教生が、少しでも多く、卒業できるよう、最大の尽力をしていただきたい」と要望していた。
 教職員たちも、この問題に懸命に取り組んできた。他大学で通信教育部長をしている人からも話を聞いた。
 その人は、「通教生を孤立させないことですよ」とアドバイスしてくれた。つまり、居住地域での学生同士の横のつながり、先輩と後輩の縦のつながり、大学の教職員とのつながりなど、励ましの連帯を築き上げていくことが、継続の力となるというのである。
 詩聖タゴールは、「人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである」と述べている。
 人間が情熱を燃やし、信念を貫き通していくには、「人」の存在が不可欠なのだ。そのために、善き人間関係を築く組織が、どうしても必要になってくるのである。教職員たちは考え抜いた。
 ――学生同士のつながりは、将来的にはできていくであろう。しかし、まず、出発段階にできることとして、通教生の相談にのり、アドバイスする「指導員」を、各都道府県に置いたらどうだろうか。「指導員」には、大学を卒業し、創価大学の通信教育に理解があり、勉強面でも、精神面でも支援できる方を人選し、就いてもらおう。
 教職員たちから、その考えを聞いた伸一も、大賛成であった。
 「いいアイデアです。私も人選などについては、全面的に協力させてもらいます。みんなが必死になって考え、知恵を絞っていってこそ、最高のものができる。通教生のために、未来のために、うんと一緒に悩もうよ」
12  学光(12)
 山本伸一のところへは、通信教育部の開設についてのさまざまな問題が持ち込まれた。彼は、その一つ一つの解決のために、労を惜しまなかった。それらが、やがて、通教生のためになると思うと、嬉しくさえあった。
 ある時、創価大学の事務局長が、浮かぬ顔で伸一のところへやって来た。
 教員の意見が分かれて、通信教育部で発行する機関誌の名前が決まらないというのだ。
 「深刻な顔をしているので、どうしたのかと思ったら、そんなことだったのかい」
 伸一が笑いながら言うと、事務局長は、真剣な口調で語り始めた。
 「いつもそうなんですが、皆、それぞれ強い主張をもっていて、なかなか意見がまとまりません。
 機関誌のタイトルは、議論の末に、ようやく″二十一世紀″という名称でまとまりかけました。ところが、そこでまた、『″二十世紀″という梨がある。梨の名前みたいだ』と、反対意見が出て、振り出しに戻ってしまいました」
 伸一は、「それで最後は、私に決めさせようというわけか」と言って、また微笑んだ。
 事務局長は、顔を赤らめた。
 「わかった。では、名前をつけさせてもらいます。『学光』というのはどうだろうか」
 即座に名がつけられた。伸一は、前々から創大の通教生の出発にあたって、何か言葉を贈りたいと、考え続けていたのだ。
 事務局長は、「がっこう」という発音から、伸一が意図した文字が浮かばず、「学校」だと思い、怪訝そうに尋ねた。
 「はあ、『学校』ですか。確かに創価大学は学校ではありますが……」
 伸一は、思わず噴き出してしまった。
 「違うよ。その『学校』じゃないよ。『学は光、無学は闇』と言うじゃないか。それにちなんで、学ぶ光、『学光』と書くんだ」
 「学光」――学の光をもって、わが人生を、そして、社会を照らしゆくのだ。
 それは、創価大学の通信教育を象徴する、永遠の指針が決まった瞬間でもあった。
13  学光(13)
 通信教育部の開設に備え、施設の建設も進んだ。一九七六年(昭和五十一年)の三月十五日には、通信教育棟が竣工した。事務室や会議室、教室などからなる、鉄筋コンクリート四階建ての校舎である。
 また、三月三十一日には、大学内に簡易郵便局が開局した。通信教育部の開設によって、大学から発送する多大な郵便物に、対応する必要があったからである。
 また、寮生をはじめとする学生や、地域に住む人たちの利便性を考慮してのことでもあった。
 事務局長から、簡易郵便局設置の申請をしたいとの相談を受けた山本伸一は言った。
 「賛成です。みんなのためになることは、なんでもやることです。どこまでも学生第一に考え、手を打っていこう。私もそうします」
 そして、簡易郵便局が開局した時には、祝福の気持ちから、伸一は貯金通帳をつくり、貯金者の第一号となったのである。
 満を持しての通信教育部の開学であった。
 開学式を終えた通教生たちの胸には、伸一がメッセージで呼びかけた、「創価教育体現の第一期生」「第一期生の皆さんこそ、通信教育部の創立者」との言葉が、最大の誉れとなり、喜びとなって脈打っていた。
 開学式のあと、教室でガイダンスが行われ、リポートの書き方をはじめ、単位修得の方法、また、スクーリング(面接授業)の概要などの説明があった。
 ガイダンスが終わるころから、雨が降り始めた。傘を持っていない人も多かった。
 皆、″困ったな″と思いながら校舎を出ると、通学課程の学生たちが並んで、左右から傘を差し掛けてくれていた。その″花道″は、八王子駅までの臨時バスが出る、ロータリーまで続いていた。
 そして、バスが発車する時には、腕もちぎれんばかりに、手を振って見送ってくれた。
 通学生たちは、働きながら学ぶ″学友″たちを誇りに思い、尊敬し、心から祝福したかったのである。それが創大生の心である。
14  学光(14)
 いよいよ通信教育がスタートした。
 通教生のもとには、ダンボールに梱包されて、何冊もの教科書が送られてきた。意欲満々であっても、それを見ると、気おされてしまう人も少なくなかった。
 また、勉強を始めようとしても、どこから手をつけていいのか、戸惑う人も多かった。
 そのなかで、いち早く学習を開始できるかどうかが、最初の関門であった。
 通信教育の勉強は、教科書を読み、与えられている課題についてのリポートを書くことと、スクーリングで直接、授業を受けることに大別される。
 リポートの課題は、教科書と一緒に送られてきていた。
 たとえば、法学では「法と道徳及び宗教との相違について説明せよ」「日本国憲法の基本原理と明治憲法のそれとの比較について述べよ」などが課題となっていた。
 また、経済学では「一国の経済体制はどういう根拠から定まっているのかを、例を日本にとって説明せよ」「寡占価格の功罪についてあなたの意見を述べられよ」などが、課題としてあげられていた。
 これらの課題について、教科書や、参考書を読んで思索し、千二百字から二千字のリポートを作成するのである。
 二単位の科目には二通のリポート、四単位の科目には四通のリポートを提出し、添削指導を受ける。再提出を要請される場合もある。
 最初、通教生の多くは、教科書などを読んでも、どうやってリポートを書けばよいのかわからなかった。
 ともかく書き上げてみても、これでよいのかと不安になり、読み返しては書き直し、しばらく置いて、また読み返しては書き直し、なかなか提出にこぎつけられないという人もいた。
 このリポート提出という関門のあと、さらに、科目試験が待っているのである。
 新しい挑戦には、不安はつきものである。しかし、それを乗り越え、前へ、前へと突き進んでいくなかに、成長があるのだ。
15  学光(15)
 通教生は、卒業に必要な百二十四単位(経済学部は百二十六単位)のうち、スクーリングで、約四分の一にあたる三十単位を修得する。
 この単位はリポートでは修得できず、夏か秋のスクーリングに参加し、授業を受け、試験を受けなければならなかった。
 第一回の夏期スクーリングは、八月十五日から二十九日までであった。十五日間、続けて参加することもできるし、前期(十五日〜二十五日)、後期(二十五日〜二十九日)のどちらかを選ぶこともできた。
 また、九月から十一月にかけての日曜、祝日には、秋期スクーリングが開催されることになっていた。
 夏と秋のスクーリングを組み合わせて、単位を修得することも可能であった。それでも、スクーリングに参加すること自体が、大変な″戦い″であった。
 八月十五日、初の夏期スクーリングが開始された。全国各地から、通教生全体の三分の一を超える七百数十人が参加したのである。通学できない、遠方からの参加者のためには、学生寮なども用意されていた。
 参加者のなかには、既に何通ものリポートを出している人もいたが、なかには、まだ、教科書さえ開けずにいる人もいた。それでも、向学意欲を燃やして集って来たのだ。
 開講式とガイダンスを終え、午後から授業が始まった。
 翌日からは、授業は午前九時開始となる。一コマ九十分で、学生たちの状況を考慮し、短期集中のスクーリングとなっているため、朝から夕方まで、ほとんど授業が詰まっていた。
 教室の席は、先を争うようにして前から順に埋まっていった。
 スクーリングは、直接、講義を聴くことができる貴重な時間である。職場や家族の理解と協力を得て、時間をつくり、費用を捻出して参加したのだ。決して無駄にするわけにはいかなかった。
 厳しい条件のなかで挑戦する人は、真剣である。その真剣さが、自らを鍛え、強くし、大成への力となっていくのだ。ゆえに、苦境こそ、幸福の母となるのである。
16  学光(16)
 通信教育部の授業を担当するのは、通学課程同様、学長をはじめ、学部長、教授などの、優れた教師陣である。その教員たちを驚嘆させたのは、通教生の真剣な受講態度であった。
 なかには、教員よりも年上の学生もいる。その人たちが、目を輝かせ、一言も聞き漏らすまいと講義に耳を傾ける姿に、教員たちは新鮮な息吹を感じた。
 ″これは、こちらも真剣勝負で講義に当たらなければ、失礼になる!″
 講義にも、自然に力がこもっていった。教員たちは、通教生には幅広い年代や、さまざまな学歴の人がいるだけに、専門用語も、わかりやすく、かみ砕いて説明した。
 何度も「よろしいでしょうか」と確認しながら、授業を進めた。その問いかけにも、明快な気持ちよい返事が響いた。
 いかに、わかりやすく伝えるか――そこにこそ、民衆に開かれた教育の生命線がある。
 どんなに高邁な内容の話であっても、それが人びとに伝わらなければ、話し手の自己満足に終わってしまう。そこに、ともすれば、学者や専門家が陥りがちな落とし穴がある。
 通信教育部を担当する教員たちは、講義に限らず、わかりやすくするための工夫を重ねていた。多くの教員が、通信教育の教科書も、自分たちで執筆したのである。
 授業が終わると、通教生たちは、質問するために、教員を取り囲んだ。教員たちは、むしろ、それを喜び、休み時間を返上して、一つ一つの質問に、親切に答えていった。
 創価教育の父・牧口常三郎は強調していた。
 「教師の人格」こそ、「あらゆる教育作業の原動力」なりと。
 通教生たちは、知の喜びに感動を覚えていた。初めて、ドイツ語などに触れ、未知の世界の扉を開いたような思いをいだく人もいた。
 また、飲食店を営んでいた婦人は、どうやって食料品などの価格が決まるのか、不思議に思っていたところ、経済学の授業で、それを学んだ。社会の仕組みが、理解できた喜びは大きかった。
17  学光(17)
 山本伸一は、八月十七日、創価大学で行われた、婦人部の結成二十五周年を祝う集いに出席した。通信教育部の夏期スクーリング三日目のことである。
 彼は、会場の中央体育館に向かう途中、何人もの通教生の姿を目にした。
 側にいた幹部に語った。
 「スクーリングで通教生が全国から来ているんだね。みんなと会いたいな。明日は、私も、激励に行くよ」
 最も苦労して、学業に励もうとしている人たちである。伸一は、自分が夜学に通っていた時代が思い出され、皆の苦労が、わが事のように感じられるのであった。
 大変な状況のなかで頑張っている人を、全力で励まし抜く――それが、指導者の心でなければならない。
 この日の夜、伸一は、大学の構内を車で回った。学生寮の近くを通ると、各部屋には、煌々と明かりがともっていた。
 彼は、同行していた幹部に言った。
 「通教生は、みんな勉強しているんだね。夜食にパンと牛乳を届けるようにしよう。大至急、手配してくれないか」
 パンと牛乳がそろうと、大学の職員が寮に運んだ。そして、皆に、創立者が寮の周りを車で回ったことなどを伝えた。歓声が響いた。
 翌日、伸一は、通教生の激励に向かった。
 中央体育館の横にある階段教室のS二〇一教室では、経済学部の通教生が「保健体育」の授業を受けていた。
 すると、教壇の横のドアがパッと開いた。そこに、山本伸一の姿があった。
 ″創立者だ! 山本先生だ! 私たちのために、わざわざ来てくださったんだ!″
 目を潤ませる人もいた。教室中に大拍手と歓呼の声が轟き渡った。
 伸一は、皆に一礼し、教授の許可を得ると、マイクを取った。
 「第一期の通教生である皆さんの、真剣な、そして、勤勉なる姿を拝見し、創立者として感激しております。喜んでおります」
18  学光(18)
 山本伸一は、話を続けた。
 「皆さんのことは、学長や通信教育部の部長から、つぶさに話を聞いております。
 私は、通信教育の皆さん方に、ひとしお大きな期待を寄せております。
 通信教育は、創価教育の父・牧口先生の一つの理想であり、皆さんこそ、その体現者であるからです。また、私も、同じ苦学の道を歩んで来た一人だからであります」
 ″苦労″という教科を修得してこそ、人の苦労がわかり、人格も陶冶される。苦労は、大成のための必須科目である。
 伸一は、力を込めて訴えた。
 「通教生の皆さんは、短期間のスクーリングで、一年分の内容を吸収しようと挑戦されている。その向学心に敬服しています。
 来年もまた、勇んで大学にいらしてください。わが母校を愛して、学問を修得していってください」
 「はい!」という元気な声が響き、大きな拍手が起こった。
 「大変に盛り上がった教室ですね。エネルギーを感じます。突然、お邪魔して申し訳ありませんでした。お体を大切にして、どうか、このスクーリング期間中、元気で頑張り通してください」
 学生たちは、伸一を、嵐のような拍手で見送った。
 続いて彼は、法学部の通教生が「法学」の講義を受けている、S一〇一教室にも顔を出した。ここでも彼は、心から励ましの言葉を贈り、「創立者として、通教生の育成に全力を傾けていきます」と語った。
 そして、一人ひとりに視線を注ぎながら、「風邪をひかないよう。お元気で!」と呼びかけ、教室を後にしたのである。
 伸一は、このあと、各方面の通教生の代表十人と懇談することにしていた。大学からも、強く要請されていたのだ。
 彼は、早めに、文科系校舎の正面玄関前に行き、皆が来るのを待った。やがて、通教生の代表が校舎から出て来た。
19  学光(19)
 「こっちにおいでよ」
 山本伸一は、校舎に向かって右側のブロンズ像の前に通教生の代表たちを呼んだ。鍛冶職人と天使の像で、その台座には、「労苦と使命の中にのみ人生の価値は生まれる」との、伸一の言葉が刻まれている。
 働き学ぶ、通教生への指針として、この言葉を忘れないでほしいと思ったからだ。
 ブロンズ像の前で、伸一を囲み、立ったまま、語らいが始まった。
 彼は、一人ひとりに、どこから来たかを尋ねながら、ねぎらいの言葉をかけていった。
 全国各地から、向学の情をたぎらせ、創価大学のキャンパスにやって来た人たちである。生活と格闘しつつ、学び抜いていこうという、地に足の着いた強さが感じられた。
 伸一は、″頑張れ! 頑張れ!″と、心で叫ぶような気持ちで語った。
 「このメンバーを『通信使命会』としてはどうでしょうか。何事も、発展していくためには、核となる人たちが必要です。
 皆さんには、ぜひ、通教生の核となっていただきたい。そして、母校を愛し、母校を守り、発展させていってください。
 また、まず皆さんが、あらゆる困難を乗り越え、卒業される日を待っています」
 この夜、大学の寮に宿泊していた通教生たちは、語り合った。
 「まさか、創立者の山本先生が教室に来られるとは思わなかったですね。ぼくは、先生の話を聞いて、通教生として苦学することに、″先生と同じ道を歩んでいるんだ″という誇りを得ました」
 「そうだね。ぼくの場合、これまで、経済的に恵まれないために、通教生になったという思いが強くあった。
 しかし、今は、むしろ、ぼくたちこそが、創価教育を体現する使命を担っているんだと思えるようになった。もう闘志満々だ。必ず頑張って、四年で卒業してみせるよ」
 人間教育の本義は、一念を転換させ、自分の大いなる価値に目覚めさせることにある。
20  学光(20)
 夏期スクーリングの前期の最終日であり、後期の初日に当たる八月二十五日の夕刻、体育館横のS二〇一教室を中心に「学光祭」が行われた。
 これは、通教生を慰労し、親睦を深める″夏祭り″として、企画された催しであった。
 数日前、学長から、「学光祭」を開催するという報告を受けていた山本伸一は、皆に、飲み物や食べ物を届けることにした。
 また、その時、学長に言った。
 「楽しく、愉快な、催しにしてください。講義の内容は、忘れてしまっても、″楽しかったな。来てよかったな″という思い出は残ります。
 そして、それが、学習意欲のバネになっていきます。だから、学長も学部長も、皆のなかに入って激励し続けてください」
 励ましは、人の意欲を引き出す。教育は、そこから始まるのだ。
 「学光祭」が終わると、帰る人もいれば、引き続き、後期のスクーリングに参加する人もいる。また、後期だけを受講するために、この日から大学に来た人もいた。
 教室の前には、「肩組み合って、共に学ぼう! 共に進もう! 我ら一期生」とのテーマが掲げられていた。寮ごとに出し物を用意し、舞踊、合唱など、″熱演″が繰り広げられた。
 だが、練習する時間があまりなかったせいか、踊りも、歌も、なかなかそろわず、爆笑に次ぐ爆笑となった。シュプレヒコールで演技を締めくくるグループもあった。
 「われわれは、リポートを出すぞ!」
 「われわれは、来年も大学に来るぞ!」
 「われわれは、全員、卒業するぞ!」
 笑いに包まれた、和やかななかにも、決意が光っていた。固い誓いがあった。
 さらに、飛び入りの歌合戦も行われた。
 また、文科系校舎のロビーには、模擬店や金魚すくい、射的などのコーナーも置かれ、勉学の疲れを吹き飛ばす、ひと時となった。
 この「学光祭」は、毎年、夏期スクーリング中に行われ、創価大学に学ぶ通教生の伝統行事となっていくのである。
21  学光(21)
 八月二十九日、夏期スクーリングは最終日を迎えた。正午過ぎ、中央体育館横のS二〇一教室で閉講式が行われた。
 山本伸一は、創価大学で通教生を激励した翌日の十九日には、九州を訪問。東京に戻ると、二十八日には、神奈川の県民ホールで開催された「‘76神奈川県文化祭」に出席した。そして、この二十九日の午後には、大学の中央体育館で行われる「昭和三年会」の記念の集いに出席することになっていたのである。
 「昭和三年会」は、伸一と同じ昭和三年(一九二八年)生まれのメンバーの代表によって結成されたグループである。
 伸一は、さらに、そのあと、埼玉県に移動し、大宮市民会館で開催される「‘76埼玉県文化祭」を観賞する予定であった。
 彼は、スクーリングの閉講式には、ぜひ出席したいと思っていたが、来客もあり、スケジュールが立て込んでいるだけに難しかった。そこで、閉講式には、メッセージを託し、皆の奮闘を心から讃えたのである。
 「見事な充実したスクーリング、まことにご苦労様でした。ただ、ただ、ご苦労様と申し上げます。来年もまた、元気いっぱいの姿でご来校ください。私も心からお待ち申し上げております。では、皆さん、お元気で」
 伸一は、「昭和三年会」の記念の集いに出席するため、創価大学に向かう車中でも、通教生のことを考え続けた。
 ″明日からは、また、それぞれが一人となり、働きながら、日々の生活と格闘しつつ、時間を割いて勉学に励む……。このスクーリングを通して、学業に勝利する、強い決意を固められただろうか……″
 午後二時過ぎ、伸一は、大学の文科系校舎前に到着した。玄関のブロンズ像の辺りに、帰途に就く通教生たちの姿があった。
 伸一は、急いで車を降りた。
 ″直接、会って励まそう! 今しかない″
 瞬時を逃すな。時は再び巡りくると思うな――それが、「臨終只今」の決意に生きる、彼の行動哲学であった。
22  学光(22)
 閉講式を終えた通教生たちは、すぐにはキャンパスを離れがたく、ブロンズ像の前などで、親しくなった人と写真を撮ったり、連絡先を記したメモなどを交換したりしていた。
 そこに、山本伸一が現れたのである。
 「みんな、ご苦労様! 一緒に記念撮影をしようよ」
 歓声があがった。
 居合わせた教員も加わり、ブロンズ像をバックにカメラに納まった。
 伸一は、空を見上げて言った。
 「青空閉講式になったね」
 彼の言葉に、教員も、学生も、ニッコリと笑顔で頷いた。
 伸一は、メンバーと、次々に握手を交わしていった。
 「何があっても、負けないで!」
 「あなたが卒業証書を手にする日を、楽しみに待っています」
 そして、決意をかみしめるように語った。
 「私も勉強します。これから、さらに、世界の学者や指導者と、人類の未来のために、対談を重ねていきます。学ぼう。学びに学んでいこうよ」
 伸一の言葉に、通教生たちは粛然とした。その炎のような向学心に、感嘆したのだ。
 札幌農学校で初代教頭として教育に当たったクラーク博士は、農学校を去る時、見送りに来た学生たちに、「Boys,be ambitious」(青年よ、大志を抱け)との、有名な言葉を残している。
 クラーク博士の教え子で、札幌農学校の教授も務めた大島正健によれば、クラーク博士は、その言葉に続いて、「like this old man」(この老人のように)と語ったという。「この老人」とは、博士自身である。つまり″自分のように、君たちは大志を抱くのだ!″と叫んだのである。
 真の人間教育とは、生き方を通しての、人格的触発によってなされるものだ。
 ゆえに伸一は、常に新しき前進と向上と挑戦を、自らに課し続けていたのである。
23  学光(23)
 通教生たちにとってスクーリングの大きな収穫の一つが、全国各地の学友を知ったことであった。
 連絡先を交換し合い、その後、手紙や電話で励まし合う人たちもいた。近くに住む人たち同士が、一緒に勉強するようになったケースもあった。
 当初、通教生の多くが、一人で教科書を読んで学習し、リポートを書き、試験を受けねばならない通信教育を全うするのは、無理なのではないかと、思い悩んでいた。
 しかし、スクーリングでの、懇切丁寧な講義で理解を深め、さらに、友を得たことから、皆、自信と希望をもって、勉学に取り組むことができた。
 トルストイは、次のように記している。
 「人間は他人との交流がなくては、また他人からの働きかけと他人への働きかけがなくては自己を完成することはできないのである」
 友情という絆を結ぶなかで、個人のもつ勇気が、力が、発揮されるのである。
 九月から十一月までは、日曜などの休日に行われる秋期スクーリングが実施された。
 まとまって休みが取れず、夏期スクーリングに参加できない人たちも、このスクーリングで単位を修得することができる。
 授業の開始は、午前九時である。未明に起き、二時間、三時間がかりで通って来る人もいた。また、月曜から土曜まで働き、夜行列車や夜行バス等を使って、地方から来る人もいた。蓄積する疲労に音をあげたくなることもあったが、同じ境遇で頑張る学友との出会いが力となった。
 十月三日には、初の秋期試験が行われた。
 学生の便宜を図り、東京の創価大学をはじめ、北海道、宮城、愛知、大阪、広島、福岡など、全国十八会場で実施された。
 どの会場も、試験に挑む通教生たちの表情は、真剣そのものであった。学び、挑戦する人は美しい。向上心には高貴さがある。
24  学光(24)
 十月十日の日曜日――この日もスクーリングが行われ、各地から創価大学に集って来た通教生が、真剣に学んでいた。
 山本伸一は、午後から大学を訪れ、女子部の代表の研修会に出席していたが、通教生が集っていることを聞くと、授業終了後、一緒に記念撮影をするよう提案した。
 彼は、創立者として、わずかな時間でも、触れ合いと励ましの場をもちたかったのだ。
 記念撮影は、大学構内の松風合宿所の階段を使って行われた。
 伸一は、皆に呼びかけた。
 「どうか、体を大事にしてください。
 皆さんが、卒業されることが、私は一番嬉しいけれども、大切なことは、どれだけ頑張って勉強できたかなんです。学べば、その分だけ、自分の財産になります。
 私は、皆さんの努力に対して、陰ながら一生懸命に応援してまいります。お元気で!」
 彼は、そのあと、通信教育を担当している教職員たちにイスを勧め、懇談した。
 伸一は、懇願する思いで語った。
 「通教生は、わが大学の誇りであり、宝です。みんな、苦労しながら学んでいる。立派です。そうした人たちのなかから、ダイヤモンドのような逸材が出てくるんです。どうか、先生方は、一人ひとりを、心から大切にしていただきたい」
 試練に身をさらし、生命を磨いてこそ、人は光り輝いていく。したがって、見方を変えるならば、通教生こそ、自らを輝かせる最高の環境にいるといってもよい。
 語り合った十人ほどの教職員のなかに、ひときわ大きく頷く、黒縁のメガネをかけた青年がいた。この年の春に、通信教育部のインストラクター(添削指導員)として採用された佐江一志である。
 彼は、理容師をしながら、定時制高校、大学の通信教育部、二部(夜間部)に学び、大学院の修士・博士課程に進んだ青年であった。
 それだけに、伸一の思いがよくわかった。その心が、痛いほど胸に響くのである。
25  学光(25)
 佐江一志の生い立ちは複雑であった。
 彼は一九四三年(昭和十八年)に東京に生まれた。母親は、両国で料亭を営んでいたが、父親の記憶はなく、父については、何も知らされずに育った。
 彼には、二人の妹がいた。妹たちは、母に育てられたが、彼は、千葉の祖父母のもとで幼少期を送った。小学校六年の時、母は料亭をやめて、東京・調布の理容店を買い取り、経営を始めた。佐江も、そこで、母や妹たちと一緒に暮らすことになった。
 しかし、母親への反発から非行に走った。喧嘩も繰り返し、何度となく補導された。そのたびに、母親が引き取りに来てくれた。
 「うちは、お父さんがいないんだから、お前がしっかりしてくれないと……」と語る母に、佐江は吐き捨てるように言った。
 「そんなの、自業自得だろ!」
 五八年(同三十三年)、母親が学会に入会し、信心を始めた。息子の未来を憂いてのことであった。
 佐江は、中学校を卒業すると、理容学校に進んだ。彼の非行はおさまらなかった。
 母親は、懸命に唱題に励んだ。彼には、母が自分のことを祈っているのが、よくわかった。それが、かえって、しゃくにさわり、ある時、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。
 母が振り返った。じっと、彼を見つめた。その目は、涙で潤んでいた。深い悲しみの目であった。佐江は視線をそらせた。心に痛みを覚えた。自分が情けなかった。
 子を思う母の祈りが通じぬわけがない。祈りは、大宇宙をも動かすのだ。
 六〇年(同三十五年)、佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。
 この年、彼も信心を始めた。必ずしも、仏法に共感したわけではない。さんざん母に迷惑をかけてきただけに、親孝行になればとの思いから、勧めに従ったのだ。
 それでも、男子部の先輩について学会活動に参加するようになった。青年の使命を力説する先輩の姿に、心を打たれた。
26  学光(26)
 佐江一志は、十八歳の春、友人の勧めもあって、定時制高校に入学した。
 彼が定時制高校の四年になった、一九六四年(昭和三十九年)六月のことである。山本伸一は、第七回学生部総会で、創価大学の設立構想を発表した。
 それが掲載された聖教新聞を、佐江は目にした。そこで伸一は、こう語っていた。
 「その大学で、世界の平和に寄与すべき大人材をつくり上げたい。その時に、諸君のなかから、大仏法を根底とした、各専門分野における大教授が出て、教壇に立っていただきたい。その目的達成、すなわち世界の大指導者に育て上げるために、その大学で頑張っていただきたいと、お願い申し上げたいのであります」
 佐江は、日ごろ、学会の男子部の先輩たちが、「祈りとして叶わざるはなしの信心だ」と語っていたことを思い出し、母に尋ねた。
 「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」
 ささやかな願望はあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を、困らせてみたいという気持ちの方が強かった。
 しかし、予想外の言葉が返ってきた。
 「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」
 その声は、確信にあふれていた。母親の顔は、喜びで輝いていた。
 佐江は、自分の可能性を信じてくれている母親の言葉が嬉しかった。
 自分を信じ、期待してくれている人がいる――そう自覚する時、人は、大きな力を発揮することができる。
 ″よし、やってみよう!″
 彼は、決意した。
 二十二歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育部に進んだ。
27  学光(27)
 通信教育で単位を修得することは、佐江一志が予想していたより、はるかに困難であった。リポートも思うように進まず、いつになったら大学を卒業できるか、わからなかった。
 彼は、悩んだ末に、二部への転籍を考え、母親に相談した。
 「真剣に考えているんだね。いいんじゃないかい。一度、決めたことは、どんなことがあってもやり抜くんだよ。信心を根本に、悔いのない青春を送るんだよ」
 母の励ましで力を得て、彼は、大学の二部に移った。しかし、仕事の関係で、まともに授業に出られるのは、定休日の月曜日だけであった。″月曜日の男″というのが、佐江につけられたニックネームであった。
 ″果たして自分は、このまま学業を続けられるのか。本当に大学の教員になることができるのだろうか……″
 学生部の夏季講習会に参加した時、御書講義を担当した幹部に、自身の苦境を語り、どうすればよいか、質問した。
 担当幹部の指導は、厳しかった。
 「君の言葉には、本気で現在の境遇と戦う決意が感じられません。大変だ、大変だという気持ちに負けているのではないか。大変だからこそ、自分はやってみせるという意欲がない。題目を唱え抜き、自分はこうして学業を成就したという道を開くんです。それが、信心ではないですか!」
 甘さを、痛烈に指摘された思いがした。
 講習会が終わって、帰途に就こうとした時、学生部長が佐江に声をかけた。
 「佐江君、君が指導を受けた担当幹部が、君のことを、山本先生に報告したところ、先生は色紙をくださったよ」
 そこには、「勇気」と認められていた。
 佐江の全身に電撃が走った。まさに、自分に足りなかったのは、勇気であると思った。
 この瞬間、彼の一念が変わった。すると、断じて勝ってみせるという挑戦の心がみなぎるのであった。一念の転換こそ、自分の境遇を変え、すべてを変革していく原動力となる。
28  学光(28)
 必死の一念は、苦境の岩盤を打ち砕く。
 佐江一志は、理容師という仕事柄、授業には十分に出られない分、友人からノートを借りるなどして、懸命に勉強し、中央大学(二部)を卒業。さらに、駒沢大学大学院の法学研究科に学んだ。また、勉強の成果を試そうと、行政書士、宅地建物取引主任者などの資格試験に挑戦し、合格を勝ち取っていった。
 この大学院時代も、自分の学費を工面し、家族の生活を支えるために、理容師として働き通した。
 一九七六年(昭和五十一年)四月、創価大学に通信教育部が開設されると、佐江はインストラクターとして採用されたのだ。
 彼は、通信教育部の建設に力を注ぎ、後年、教授となるのである。″創価大学の教員に″との、定時制高校生の夢は現実となった。
 固い決意、強盛な祈り、不断の努力がある限り、夢は叶う。いや、断じて叶えるのだ。そのための信仰である。
 戸田城聖は言った。
 信仰とは「求道の太陽」である。「智慧の宝蔵」である。そして「永遠の青春の心」である、と。
 ――秋期スクーリングに参加した通教生との記念撮影のあと、教職員たちと懇談した山本伸一は、重ねて念願した。
 「通信教育の学生たちの苦労をわかってあげていただきたい。そして、家族のごとく励ましていただきたい。
 この通信教育が成功すれば、創価の民衆教育の新しい歴史の扉が開かれます。ここに、創価大学設立の大きな意義があります」
 教職員たちは、決意した。
 ″通信教育部から、ダイヤモンドのような多くの逸材を出そう!あらゆる面で、日本一、そして世界最高の通信教育にしよう!″
 十一月に行われた「創大祭」には、通教生も参加した。日本地図が描かれた大きなパネルに、全国の通教生から届いた、決意を記した葉書を張り付けた展示も好評であった。
29  学光(29)
 秋期スクーリングが終了したのは、師走が間近に迫った十一月二十八日であった。
 秋期スクーリングを受講した学生たちから、大学への感謝の思いを込めて、図書館に百冊の本が寄贈された。
 さらに、創立者の山本伸一に、スクーリング参加者の決意署名簿が届けられたのである。伸一は、妻の峯子と共に、署名簿に丹念に目を通し、皆が学業を成就し、社会に大きく貢献するよう、深い祈りを捧げた。
 十二月十九日には、全国二十一会場で冬期試験が実施された。終了後、派遣された教職員と懇談会がもたれた。学生たちの意見を聞き、よりよい通信教育の在り方をめざそうと開かれたものだ。
 大阪では、「英語の発音がわからないので、カセットを作ってほしい」「限られた科目だけでも、地方でスクーリングを行うことはできないか」などの要望が出された。
 教職員たちは、それをなんとか実現しようと、大学で協議を重ねていった。
 常に人びとの声に耳を傾け、その実現への不断の努力を重ねていくなかで、最高のものが生み出されていく。人びとの声を無視したり、無理だとあきらめてしまえば、改善も、前進もない。待っているのは停滞である。
 また、教職員は通教生に、通信教育部の来年度新入生を募集しているので、身近な人に声をかけ、協力してほしいと呼びかけた。
 通教第一期生の胸には、開学式のメッセージで伸一が語った、「皆さんこそ、通信教育部の創立者」との言葉が焼き付いていた。また、スクーリングなどを通して、自らが創大の通信教育のすばらしさを痛感していた。それだけに、自分たちが創立者の理念を体現し、創大通教の流れを開き、伝統を築いていこうとの使命感に燃えていたのだ。
 学生たちは、それぞれの知人に、創価大学の通信教育のすばらしさを訴え、大学が主催する説明会があれば、率先して手伝い、通教生としての体験や決意を語っていった。
30  学光(30)
 冬期試験が行われた十二月十九日には、全国の会場で、第一回正科生資格認定試験も実施された。これは、高校卒業などの資格はないが、通教で科目等を履修してきた特修生が、正科生となるための試験である。科目は、英語、国語、社会であった。
 試験は、決して容易ではない。しかし、特修生の多くが目標にし、なんと受験者の半数近くが合格し、正科生となったのである。
 その一人に沖縄の与那原盛治がいた。彼は一九三〇年(昭和五年)に宮古島で生まれ、国民学校高等科を経て、当時、日本の植民地であった台湾の、逓信講習所の電信科に入った。逓信講習所の電信科は、通信技術者を養成する専門機関である。
 与那原は、この電信科を出たら、さらに、上級の科に進み、もっと勉強したかった。
 電信科での一年の授業は、繰り上げられて八カ月で終わり、台北(タイペイ)の電信局に勤務した。電信局の通信士が次々に徴兵され、欠員が出たために、それを補充する必要があったからだ。
 仕事を始めて八カ月半で終戦を迎えた。十五歳であった。やむなくアメリカの軍政下に置かれた沖縄に戻った。学校に通って、もっと勉強したいという思いはあったが、戦後の激動期を生き抜くのに精いっぱいであった。戦争が彼の夢を打ち砕いたのだ。
 やがて、那覇の電信局に勤務。結婚し、家庭をもった。仕事に追われる毎日であったが、胸の奥には向学の火が燃え続けていた。
 七六年(同五十一年)、創価大学に通信教育部が開設されると、与那原は、待ってましたとばかりに特修生となった。そして、仕事の傍ら懸命に勉強し、正科生資格認定試験に合格したのだ。四十六歳の挑戦であった。
 「志さえあれば方法はいくらでもある」とは、孫文の至言である。強き一念があれば、不可能の障壁はない。
 与那原は、経済学部の学生となり、四年間で卒業単位を修得。沖縄で、創価大学通信教育部の第一号の卒業生となるのである。
31  学光(31)
 正科生の資格認定試験に挑戦した受験者のなかに、熊本の洗足信子という婦人がいた。
 洗足は、この試験で、社会と国語は合格したが、英語は不合格となってしまった。
 彼女は長崎の佐世保に生まれ、海軍の主計であった父の赴任先である朝鮮(当時)の鎮海で高等女学校時代を過ごした。しかし、病弱で喘息に苦しみ、学校は休みがちであった。五年がかりで卒業はしたが、在学中に、学業に打ち込むことはできなかった。
 しかも、米英と日本との関係悪化にともない、英語は敵性語とされ、満足な授業は受けられなかった。女学生は、英語排斥のプラカードを持って、街路を行進させられたり、田植えや工場にも動員された時代であった。
 女学校を出たあと、東京に行っていた弟が病にかかり、世話をするために、彼女も東京に来た。そこで知り合った男性と結婚する。
 だが、夫は空襲で死んだ。戦後は、熊本で暮らした。女手一つで娘を育てるため、必死になって働いた。
 やがて再婚し、次女が生まれた。
 終戦から三十年、その次女が創価大学に入学した。洗足も、わずかながら時間の余裕が生まれた。勉強したくてもできなかった時代を過ごしてきた彼女は、残された人生は、学べる限り、学びたいと思った。そして、創価大学に通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生の資格認定試験をめざした。そのために、塾にも通って勉強を始めた。
 しかし、英語は不合格となった。でも、彼女は、今、学べること自体が嬉しくて仕方なかった。飽くなき向上心と挑戦心のなかにこそ、人生の輝きがあり、充実があるのだ。
 翌年五月、洗足は、英語の試験に再挑戦して合格。法学部の正科生となった。
 スクーリングの時には、世代を超えて、たくさんの友だちもできた。また、創大生の娘と会って、母子で、学業や人生について語り合うことも楽しかった。
 洗足は、勉学の喜びを満喫し、正科生となって四年間で、卒業を勝ち取るのである。
32  学光(32)
 通信教育部は、開設から二年目の一九七七年(昭和五十二年)には、教職課程が設けられた。規定の科目を履修すると、中学校教諭一級、高等学校教諭二級の社会科の教員免許状を取得できるようになったのである。
 創価大学の通教からも、教育界に雄飛できる道が開かれたのだ。
 四月九日には、創立者の山本伸一が出席して、創価大学の第七回入学式が行われた。
 この日の祝辞で伸一は、入学の喜びにひたる通学課程の新入生に、こう語った。
 「諸君は努力のかいあって、首尾よく、合格の栄冠を勝ち取ることができましたが、その半面、諸君の何倍かの青年たちが、無念の涙をのんでおります。私は、この青年たちがくじけることなく、たくましく立ち上がってくれていると信じてやみません」
 ここには、通教生の代表も出席していた。この伸一の言葉は、通教第一期生で、埼玉から参加した福満寿々子の、胸を射貫いた。自分への励ましのように思え、目頭が潤んだ。
 彼女は、前年、創価大学を受験し、無念の涙をのんだ。通信教育部に入ったのは、通学課程への転籍が可能だと聞いたからである。
 しかし、送られてきたテキストの山を見ると、何から手をつけてよいのかわからず、勉強に取り組むことはできなかった。教科書を開くこともないまま、とりあえず夏期スクーリングに参加した。
 このスクーリングで、授業を見に来てくれ、通教生を激励する伸一と出会った。また、全国各地の通教生とも交流をもった。勇気が出た。通教に魅力を感じた。
 三月に通学課程への転籍試験を受けたが、失敗に終わった。だが、落胆はしなかった。
 ″私には通信教育がある!″
 この入学式に参加した福満は決意した。
 ″山本先生は、すべて、わかってくださっている!通教第一期生として卒業しよう″
 日の当たる人より陰の人に、勝利の栄冠を手にした人より涙をのんだ人に、心を向けることから、人間主義は始まるのだ。
33  学光(33)
 一九七七年(昭和五十二年)八月には、約千人の通教生が参加し、二度目の夏期スクーリングが行われた。
 多くの通教生を悩ませたのは、スクーリングの時間を、いかに確保するかであった。全期間の参加となれば、二週間余の休暇が必要となる。それを、四年間は続けることになるのだ。難色を示す職場も少なくなかった。
 宮城の平山成勝は、この年の四月、医薬品販売会社の社員となり、経理事務を担当した。この会社は、休みは社員が順番に取るというシステムになっていた。彼は、新入社員だけに、長期の休暇を取りたいとは、なかなか言いだしかねていた。
 ある日、意を決して上司に通信教育を受けていることを打ち明け、夏期スクーリングに参加するので、十五日間の休みがほしいと訴えた。上司は困惑した顔で言った。
 「そんなに休むのか!先例がないので、即答はできんよ……」
 毎日、誠心誠意、働きながら、祈るような思いで回答を待った。
 何日かして、上司は告げた。
 「君が休めば、みんなに負担がかかる。社員全員の了解がもらえたら、許可しよう」
 平山は、二十人ほどの社員一人ひとりに、頭を下げて回った。難色を示す人もいたが、日々、懸命に仕事に取り組む彼の真剣な訴えに折れ、結局、皆が了解してくれた。
 熱意なくして成就するものなど何もない。
 その夏期スクーリングの開講式の日、山本伸一は、参加者の代表と記念撮影を行った。
 彼は、自分の後ろに立つ平山の姿を見ると、見上げるようにして、「雄々しいな」と言って目を細めた。
 平山は、スクーリングに参加したことを、讃えられたような気がしてならなかった。
 撮影が終わると、伸一は再び声をかけた。
 「頑張るんだよ。卒業を待っているよ」
 平山は、絶対に卒業しようと心に誓った。
 一言の励ましが、人を奮い立たせることもある。「声」は、勇気を呼び起こす新風となる。
34  学光(34)
 平山成勝は、夏期スクーリングから帰ると、創価大学の通教生として恥じないよう、職場の第一人者をめざして働きに働いた。
 また、仕事が多忙なことから、進んでいなかったリポートの遅れを取り戻そうと、必死に挑戦した。職場の昼休みにも教科書を開き、仕事を終え、夜更けて机に向かった。睡魔との戦いでもあった。
 平山の仕事への真剣な取り組みと、学業への情熱は、社内でも評判になっていった。
 三年目の夏期スクーリングは、会社の方から「行ってらっしゃい」と言われた。
 平山が第一期生として卒業した時には、上司と同僚が祝賀会を開いてくれた。彼は、会社にとってなくてはならぬ存在になり、職場に信頼の輪を広げていたのである。
 何事かをなすには、周囲の理解と協力が必要である。それには、決して周囲に甘えるのではなく、どこまでも自己に厳しく挑戦していくことを忘れてはならない。
 その真剣な生き方に、人びとは共感し、支援もしてくれるのである。
 創価大学にも来校した、アメリカの人権の母ローザ・パークスは青年に語っている。
 「本当に学びたいと思ったら、あなたを止めるものは何もありません」
 スクーリング参加者のなかで、生後五カ月の子どもを背負い、授業に出席していた女性がいた。兵庫の古藤節美である。背負っている子は次男で、家では夫が休暇を取り、長男の面倒をみてくれていた。次男も家に置いてくるべきであったが、母乳しか飲まないために、連れて来ざるをえなかったのだ。
 スクーリング参加者のなかで、生後五カ月の子どもを背負い、授業に出
 大学側は、古藤から事前に相談を受けていた。本来、子どもを連れての受講は控えてもらうべきだが、初めてのケースであり、特例として参加を認めたのである。
 古藤は、子どもが泣きだして、皆に迷惑をかけはしないかと、気が気でなかった。それでも、一言も聞き漏らすまいと、講義に必死に耳を傾け、ノートにペンを走らせた。
35  学光(35)
 古藤節美は、一年前の、最初の夏期スクーリングにも参加していた。その時は、出発直前に一歳八カ月の長男が、麻疹にかかり、高熱を出した。彼女は、子どもを夫に託し、後ろ髪を引かれる思いで、夜行列車に飛び乗った。この時、次男を身ごもっていた。
 スクーリングは、講義も寮生活も楽しかった。でも、来年、子どもが二人になったら、参加は無理だろうと思うと、一抹の寂しさを感じた。
 そんな気持ちで講義を受けていた時、創立者の山本伸一が授業を見に来て、皆に、こう呼びかけたのだ。
 「大変でしょうが、来年も、再来年も、毎年、必ずいらっしゃい」
 その言葉に勇気がわいた。″無理だとあきらめる前に、挑戦しよう!必ず、来年もこよう″と心に誓った。
 そして、二年目の、この夏期スクーリングには、大学の許可を得て、朝から夕方まで、子どもをおぶって授業に出席したのだ。
 スクーリングの初日、創価大学での諸行事に出席した山本伸一は、子どもを背負って大学構内を歩く古藤の姿を、車から見た。彼は、すぐに「ご苦労様!」という伝言とともに、同行の幹部に、御宝前に供えた菓子を届けるように指示した。
 そして、妻の峯子に語った。
 「尊い姿だね。お母さんの学ぼうという姿勢は、必ず子どもたちにも伝わるものだ。生き方を示すことが、最高の教育になる」
 古藤の宿泊場所には、子どもが夜泣きなどしても他の通教生に迷惑にならないよう、少し離れた寮の一室が割り当てられた。
 昼休みに、合宿所に行き、おしめを洗濯していると、食堂の昼食は完売となり、急いでパンをほおばる日が続いた。
 スクーリング期間中は、ほとんど毎日のように、雨が降り続いた。子どもを背負い、傘を差し、荷物を抱えて構内を移動するのは、辛かった。帰ろうかと弱気にもなったが、伸一の励ましを思い起こして、頑張り抜いた。
36  学光(36)
 第三回となる一九七八年(昭和五十三年)の夏期スクーリングには、古藤節美は二人の子どもを夫に預けて参加した。彼女は、三人目の子どもを宿していた。
 その翌年の夏には、三人の子どもを夫に頼んで、スクーリングに参加した。
 そして、″毎年、必ず行きます″という山本伸一との心の約束を果たし、通信教育を四年間で卒業したのである。
 なお、創価大学では、その後、検討を重ねた結果、子どもを連れてのスクーリングの参加は、自粛してもらうことにしている。
 七七年(同五十二年)の夏期スクーリングでは、八月二十三日に、中央体育館で、盛大に学光祭が行われた。テーマは「忘るな原点!築こう伝統!」である。
 焼き鳥や田楽などの模擬店も並んだ。歌や踊りも披露された。フロアに櫓を組み、盆踊りも行われた。友情の輪が広がった。
 どの顔にも喜びと挑戦の気概があふれていた。そこには、老若男女が集っていたが、″生涯青春″の息吹があった。
 通信教育部が二年目を迎えたころから、各地で、通教生が集い、定期的な学習会が行われるようになっていった。皆が互いに助け合い、励まし合おうという連帯が、具体的なかたちとなって花開いていったのである。
 また、学習会に集まるメンバーが核となり、自主的に通信教育部の入学説明会を開いた地域もある。自分たちでチラシを作成して参加を呼びかけ、大学の職員の派遣を要請し、参加者との懇談も企画した。新しき伝統とは、新しき挑戦と行動の軌跡である。
 ″大学が何をしてくれるかではなく、自分たちが何をするかだ!伝統は、自分たちの手でつくっていくものだ!″
 それが通教生たちの決意であった。山本伸一が開学式のメッセージで訴えた、皆が「通信教育部の創立者」という呼びかけは、通教生の揺るぎない自覚となっていたのである。
37  学光(37)
 山本伸一は、″どうすれば通教生が勉学を成就し、卒業を勝ち取ることができるのか″に、常に心を砕いていた。そして、学長をはじめ、教職員と会うたびに、そのための、さまざまなアドバイスを重ねた。
 ある時、創価大学でのスクーリングに参加できない学生数を聞くと、地方都市でのスクーリングの開催も検討するように提案した。
 それを受けて、大学側では協議を重ね、一九七七年(昭和五十二年)十二月、初の試みとして、福岡で簿記原理と憲法のスクーリングを開催した。
 この地方でのスクーリングは、次第に開催地を増やし、全国の主要都市で行われるようになっていった。
 七八年(同五十三年)四月、第一期生は三年次に入った。一、二年次に規定の単位を修得すると、三年次からは、すべて専門教育科目となる。夏期スクーリングに集った第一期生の表情には、例年にも増して真剣さが漂っていた。
 寮では、こんな語らいもあった。三十歳を超えたばかりの青年が、専門教育科目の難しさに、投げ出したいと弱音を吐いた。すると、初老の通教生が力を込めて言った。
 「君は、難しいというが、何回、教科書を読んだのかね。『読書百遍意自ずから通ず』というじゃないか。わからないとすぐ投げ出すのではなく、わかるまで読むことだ。
 私は、この年代だから、君よりも大変だ。私の場合、限界に挑戦するなんていうもんじゃない。限界からの挑戦なんだ。君は私より、ずっと若いじゃないか。頑張ろうよ!」
 厳しくも温かい言葉に、青年は奮起した。
 文豪トルストイは、「人生とは、限界に挑み、わが境涯を拡大することである」と記している。限界とは、自らの心がつくりだした幻影ともいえよう。
 毎年、スクーリング期間中に行われる学光祭の、この年のテーマは「限界からの挑戦」であった。それは、通教生たちの実感であり、また、心意気でもあったにちがいない。
38  学光(38)
 一九七八年(昭和五十三年)の夏期スクーリングでは、国家試験の説明会が行われた。司法試験や、公認会計士、税理士、社会保険労務士などの試験への、通教生の関心は高く、説明会の開催を要望する声が寄せられていたのである。
 会場の教室には、三百人近くが詰めかけ、国家試験研究室長などの話に、真剣に耳を傾けていた。なかでも、参加者の共感を呼んだのは、司法試験に現役合格した創大生(通学課程)の合格体験発表であった。その挑戦のドラマは、皆の心を大いに鼓舞した。
 この会場に、競艇の選手をしている通教生が参加していた。徳島の岩川武志である。
 彼は、地元の高等専門学校を卒業すると、製紙会社に就職する。しかし、自分の可能性を試したいとの思いから、周囲の反対を押し切り、競艇選手の道に進んだ。
 七三年(同四十八年)にデビューし、やがて、結婚する。
 七六年(同五十一年)四月、岩川は、創価大学の通信教育部が開設されたことを知る。
 彼は、競艇選手を、一生の仕事とすることの難しさを痛感していた。末永く社会貢献していける仕事に就くためには、勉強が必要だと考え、法学部の通教生となったのである。
 競艇選手として、各地のレースに出場する傍ら、リポートに取り組んだ。夏期スクーリングにも参加した。
 そこで、何気ない気持ちで、この国家試験の説明会に出席したのだ。そして、司法試験合格者の体験を聞くと、岩川は決意した。
 ″俺も、国家試験に挑戦してみよう!″
 体験には、現実に立ち向かう人間の苦悩があり、挑戦があり、実証がある。それゆえに、体験には説得力があり、人の心を動かすのだ。
 「教育は、知識のみではなく、長い人生を、生き生きと生き抜いていく力を育むことが大切である」
 これは、戸田城聖の持論であった。その意味からも、体験発表は人間教育の大事な教材となる。
39  学光(39)
 岩川武志は、当初、最難関といわれる司法試験をめざそうと思った。だが、自分の置かれた状況を考え、司法書士試験に挑戦することにした。
 独学で勉強を始めた。通信教育の勉強のうえに、さらに、試験勉強である。しかし、困難であればあるほどファイトがわいた。
 一方、このころから、彼の競艇選手としての成績に、かげりが見え始めた。
 ″試験勉強を続けるのか、競艇選手として徹底的に自らを鍛えていくべきか……″
 このままでは、どちらも中途半端に終わってしまう気がした。
 一九七九年(昭和五十四年)の暮れ、岩川は競艇選手を引退し、勉強に専念した。
 しばらくは退職金で生活できるが、それも、二年間が限度である。朝から図書館に行き、夜は自宅で勉強に励んだ。
 翌八〇年(同五十五年)七月、初めて司法書士筆記試験を受けた。気ばかり焦り、さんざんな結果に終わった。勉強に専念できるのは、あと一年。背水の陣の思いで新たな出発を決意し、夏期スクーリングに参加した。
 この年の学光祭には、山本伸一が出席し、「自分自身に勝っていく人生を」と訴えた。
 岩川は、電撃に打たれた思いがした。
 ″そうだ。自分が克服すべき本当の相手は試験ではない。自分自身だ!だから、何も焦る必要はない。自分に勝てばよいのだ″
 彼は、奮い立った。通教生として社会に実証を示したいと、心の底から思った。
 専修学校で答案練習の通信指導を受けながら、司法書士の試験勉強を重ねた。次第に学習の確かな手応えをつかみ始めていった。
 八一年(同五十六年)三月、岩川は、創大通教の第二期の卒業生となった。
 そして、七月、二度目の司法書士筆記試験を受けた。試験が終わった時には蓄えもほとんど底をつき、八月からタクシーの運転手をしながら、十月の発表を待った。
 合格だった。その後、口述試験も合格し、晴れて司法書士となったのである。
40  学光(40)
 一九七九年(昭和五十四年)の夏期スクーリングの折には、通教生に対する、二度目の国家試験の説明会が開かれた。
 この時、社会保険労務士の合格体験を発表したのが、通教の法学部で四年目を迎えた藤野悦代であった。彼女は、八年前に三十四歳で社会保険労務士の試験に合格していた。
 藤野の夫は、土木請負業を営んでいたが、六二年(同三十七年)の暮れ、多額の借金を残して行方がわからなくなった。家も土地も処分したが、負債は残った。
 祖母の家に、子どもたちと母を連れて身を寄せた。雨漏りのする家であった。これから、子どもたちをどうやって育てればよいのかと思うと、途方に暮れた。だが、泣いている余裕さえなかった。
 昼は税理士事務所に勤め、夜も経理の仕事をした。少しでも借金を返さなければならないと、必死であった。
 子どもたちの衣服は、もらい物の古着であった。新しい服を着たいと言って、涙ぐむ娘を見ると、せつなさに胸が痛んだ。
 働き通して、五年間で借金を完済した。しかし、将来のことを考えると、もっと収入が必要だった。それには、何か資格を取るしかないと思った。そうしたなかで、社会保険労務士の試験があることを知った。
 社会保険労務士は、中小企業などの依頼を受け、労働・社会保険に関する申請、報告、異議申し立て等を行う専門家である。
 七〇年(同四十五年)春から独学で試験勉強を始めた。労働基準法や労働者災害補償保険法、健康保険法、厚生年金保険法などである。法律は全く未知の分野である。
 勉強は、深夜しかできない。わずかな時間も利用しようと、風呂の中にも、本にビニールを被せて持ち込み、学習した。辛いという気持ちはなかった。今日も一つ、新しいことを覚えたと思うと、心は浮き立った。
 喜びをもって、物事に当たる人は強い。それは、義務感からの行動ではなく、自らの主体的な意志の発露であるからだ。
41  学光(41)
 社会保険労務士の試験は、決して容易ではなかった。藤野悦代は、一度目の試験には失敗した。しかし、翌一九七一年(昭和四十六年)、二度目の挑戦で合格の栄冠を手にしたのだ。女性の社会保険労務士としては、彼女の住んでいた滋賀県の近江八幡市で、第一号となったのである。
 藤野は、市内に事務所を開いた。タイミングよく、広い土地を求めて中小企業の工場が数多く移転して来た。仕事の依頼も順調に増えていった。
 仕事に取り組むなかで彼女は、民法や民事訴訟法など、多くの法律知識の必要性を痛感した。そして、創価大学に通信教育部が開設されると、法学部に入学したのである。
 国家試験の説明会で、藤野の合格体験は、大きな反響を呼んだ。女手一つで三人の子どもを育てながらの、婦人の体験は、多くの参加者に共感をもたらし、″自分も、やればできる!″との勇気を与えたのだ。
 苦労の度が深ければ深いほど、その体験は多くの人に希望を与えることができる。自分の労苦は、人びとの光となるのである。
 彼女は、社会保険労務士としての仕事などをこなしながら、通信教育も六年間で卒業を勝ち取る。そして、さらに、裁判所の調停委員(民事・家事)、司法委員としても活躍。通教で学んだ法律の知識を生かしながら、社会貢献していくことになる。
 ″通教生が集う機会があれば、私も、できる限り、なんらかのかたちで激励したい!″
 それが、山本伸一の思いであった。
 七八年(同五十三年)十一月三日、創大祭の日程に合わせて、第一回「全国通教生大会」が開催されることになった。それを聞いた伸一は、会合には出席できないが、終了後に皆と記念撮影をすることにしたのだ。
 第一期生にとっては、三年目の秋であり、これから卒業への山場を迎える時である。伸一は、それだけに、なんとしても、激励の機会をもちたかったのである。
42  学光(42)
 第一回「全国通教生大会」の終了後、通教生と、松風合宿所前の階段で、記念のカメラに納まった山本伸一は、皆に訴えた。
 「仕事、勉強と、皆さんは、日々、大変かもしれない。しかし、置かれた状況が厳しければ厳しいほど、人間修行の環境が整っているということなんです。
 英知を磨くだけでなく、苦労を重ねてこそ、本当の人間的な成長がある。たとえ、英知を磨いたとしても、苦労しなければ、惰弱な人間になってしまう。だから、苦労が大事なんです。どうか皆さんは、勇んで今の苦労を担っていってください」
 教育の重要なテーマは、人間の心を磨くことにある。労苦は、精神の研磨剤なのだ。
 一九七九年(昭和五十四年)の春、通信教育部は開設四年目に入り、来春には、いよいよ卒業生を送り出すことになる。通教の学生数も増え、夏期スクーリングには千四百余人が参加した。
 この年、創大祭期間中の十一月三日に、第二回「全国通教生大会」が白ゆり合宿所で行われた。全国から約千人が集った通教生大会に招かれた伸一は、勇んで出席し、スピーチした。
 初めに彼は、使命感に燃え、努力に努力を重ねていった人こそが天才であり、天才とは「努力の人」であることを訴えた。
 次いで、吉田松陰が松下村塾で弟子の育成に当たった、わずか二年ほどの間に、久坂玄瑞や高杉晋作など、多くの逸材が育った理由に言及していった。
 ――教育や訓練が実るかどうかは、必ずしも、年数では決まらない。触発によって使命感を与えた時、人間は大きな力を発揮していく。松下村塾の例は、その一つの証明であるというのが、伸一の主張であった。
 通教生の場合、教師から直接、講義を受けるスクーリングの時間は、長くはない。しかし、そこで、使命を自覚するならば、一人ひとりの無限の可能性が開かれていくことを、彼は訴えたかったのである。
43  学光(43)
 全国通教生大会に集った人たちには、青年もいれば、壮年や婦人もいた。なかには、七十歳を超えていると思われる白髪の老婦人の姿もあった。まさに老若男女が集っていた。また、職業も、出身地も、千差万別である。
 しかし、それぞれが置かれた状況のなかで苦闘し、必死に学ぼうとしていることは、皆に共通していた。
 山本伸一は、深い敬意を込め、参加者に視線を注ぎながら話を続けた。
 「皆さんもご存じのように、私も夜学で学びました。夜学であれ、通信教育であれ、そうしたなかから偉大な人が、力ある社会貢献の人材が出てこそ、本当の教育革命です。また、そこに人間革命の姿があるといえます。
 民主主義の世の中ですから、万人に、学ぶ権利がある。ましてや、懸命に働いている人には、教育を受ける最大の権利がある。
 その権利を、胸を張って行使し、無名であっても、地道に、懸命に学びゆく人たちのなかから、民衆に幸福と希望の光を送る先覚者が出なければならない。私は、その人こそが、皆さん方であると思います」
 また、伸一は、会場の年配者に呼びかけるように語っていった。
 「大変ななか、卒業できれば、皆さんも幸せであろうし、私も一番嬉しい。しかし、卒業だけに、とらわれる必要はありません。
 この創価大学通信教育部で学んだということは、自分自身の胸中に、輝く青春、輝く勉学、輝く努力の歴史を刻み、輝く先覚者としての道を歩んだということであります。その誇りをもつならば、学んだ事柄は昇華され、偉大な人生の価値を創造することを知っていただきたいし、自信をもっていただきたい。
 大事なことは、前に向かい、光に向かい、向上のための努力をし続けた人が、真実の価値を創造することができるということです。また、そこに幸福があることを忘れないでください」
 皆が人生の勝利者に、皆が幸福博士に――というのが、伸一の心からの願いであった。
44  学光(44)
 一九八〇年(昭和五十五年)二月十日、全国二十五会場で、各科目の試験が行われた。卒業をかけて挑戦する第一期生も多かった。
 三月九日には、創価大学で卒業面接試験が実施された。そして、経済学部九十九人、法学部百三十人、合計二百二十九人の卒業が決まったのである。
 外には、春の雪が降り続いていた。
 三月二十二日、創価大学のキャンパスは、一面の銀世界であった。
 この日、大学の中央体育館で、第六回卒業式が行われたのである。通信教育部にとっては、初めて卒業生を送り出す、記念すべき式典となった。
 二階席には、通教生を支えた家族たちの姿もあった。深夜に勉強する息子のために、夜食を作り続けた母親もいた。商店主の夫が夏期スクーリングに参加するため、その間、一人で店を切り盛りしてきた妻もいた。
 何事かを成し遂げるために、最大の力となるのは、家族の理解と協力である。一人の人の奮闘の陰には、必ず、それを支える人たちがいる。人間として大事なことは、その人たちへの感謝を絶対に忘れないことだ。
 卒業式であいさつに立った、山本伸一の声も弾んでいた。二百人を超す通教生が卒業の栄冠を手にしたことが、嬉しくて、嬉しくて仕方なかったのである。
 この日、彼は「たゆまぬ努力と実践で、社会で信用を勝ち取ってもらいたい」「生涯、学問をするという姿勢を貫いてもらいたい」との二点を要望し、はなむけの言葉とした。
 式典終了後、通信教育棟で学部ごとに、一人ひとりに卒業証書が授与された。
 名前が読み上げられると、「はい!」という元気な声が響き、前に進み出る。皆、やや緊張しているものの、誇らかな顔であった。
 卒業証書と、伸一が卒業生のために揮毫した「学光」という書が手渡されていった。
 その光景を、教室の後方から、家族たちが喜びの涙を浮かべながら、見守っていた。
45  学光(45)
 法学部の卒業証書の授与で、「今井翔子」という名前が呼ばれると、ひときわ大きな祝福の拍手が響いた。今井は、長崎から来た三十代半ばの主婦で、耳が不自由であった。
 彼女は、学友に背を押されると、さっそうと前に進み出た。
 ――それは、中学一年の時であった。家庭科の授業中、悪ふざけをして彼女の頭上を飛び越そうとした友だちの踵が、頭のてっぺんを直撃した。
 帰宅後、激しい頭痛に襲われた。高熱が二週間も続いた。吐き気、目まいも起こり、以来、人の話が聞き取りにくくなった。
 高校は進学校に進んだが、症状は次第に悪化。最前列にいても教師の声が聞き取れず、試験日の発表さえ、聞き逃してしまうこともあった。当然、勉強にもついていけず、大学進学も断念せざるをえなかった。
 十八歳で右耳を手術したが、かえって、全く聞こえなくなってしまった。
 高校を卒業した今井は、洋裁店に勤めた。人の口の動きや表情から、何を言っているのか、必死で読み取って仕事をした。
 二十三歳の時、最後の望みを託して、左耳を手術する。しかし、その左耳までも、聴力を失う結果となったのである。絶望の淵に叩き落とされた。
 その後、彼女のことを深く理解する青年からプロポーズされ、結婚。三人の娘に恵まれ、育児に追われる日々が続いた。
 そんななかで、創価大学の通信教育部が開設されることを知った。
 ″通教で学問を身につけよう。娘たちが誇りに思える母親になりたい!″
 子どもへの最高の教育とは、親が生き方の手本を見せることである。
 創大通教に入学した彼女は、育児と家事の傍ら、懸命に勉学に励んだ。
 しかし、あの事故に遭った時から、頭痛や耳鳴りが続いており、三十分も机に向かっていると、吐き気もしてくるのだ。それでも、身を横たえながら勉強を続けた。
46  学光(46)
 心に勇気の光源を持つ人は、苦しみの暗夜に打ち勝つことができる。闇が深ければ深いほど、仰ぎ見る太陽はまばゆい。「暁は夜から生れる」とは、インドネシアの女性解放の先駆者カルティニの叫びである。
 今井翔子は、吐き気などの苦痛にさいなまれるなかで、通教を続けることは、自分には無理なのではないかと考えることもあった。そんな時、いつも瞼に浮かぶのは、最初の夏期スクーリングの時に授業を見に来てくれた、創立者の山本伸一の姿であった。
 ″お忙しい先生が、わざわざ私たちの教室に足を運ばれ、額に汗をにじませ、生命を振り絞るようにして激励してくださった!″
 耳が不自由な彼女は、伸一の話の内容はわからなかった。しかし、懸命に語りかける彼の表情から、深い真心と限りない期待を感じた。魂が震える思いがした。
 その時、今井は感極まって、泣きだしてしまった。涙でかすむ伸一の顔は、自分をじっと見ているように感じられた。しかも、このころ、伸一の母親は病の床に伏しており、容体が危ぶまれるなかで、駆けつけてくれたことを、彼女は、後になって知った。
 ″この励ましに、なんとしてもお応えしたい。そのために、私は必ず四年間で卒業し、先生に勝利のご報告をしよう!″
 今井は、深く心に誓った。そして、苦しい時、辛い時には、伸一の、あの時の姿を思い起こして、頑張り抜いたのである。
 スクーリングでも、教師が書く黒板の文字を見て、必死に理解しようと努めた。学友たちも応援し、筆記したノートを見せてくれた。
 そして、遂に卒業を勝ち取ったのである。
 伸一は、今井の奮闘の報告を聞き、卒業記念にと、自著の詩集を贈った。
 その中に、こんな一節があった。
 「他人を教育することは易しい
  自己自身を教育することは難しい
  生涯確たる軌道に乗りながら
  自己を教育していくところに
  人間革命の道がある」
47  学光(47)
 通信教育部開設五年目の一九八〇年(昭和五十五年)八月、夏期スクーリング中に行われた第五回学光祭には、山本伸一も、初めて出席した。十二日の夕刻、会場の中央体育館に向かう伸一の足取りは軽かった。通教生と会えると思うと、彼の胸は躍るのだ。
 通教生は、北は北海道、南は沖縄、さらに遠く、海外はイラクからも参加していた。
 伸一が、学長らと共に、体育館の二階席に姿を現すと、雷鳴のような拍手が轟いた。
 ステージでは、創作体操や棒術、空手演舞、リズムダンスなどが、次々と披露されていった。その演技の一つ一つに、伸一は「うまい。上手だね」と、賞讃を惜しまなかった。
 やがて、通教生の愛唱歌「学は光」の発表となった。有志が、皆の誓いを託して、このスクーリング期間中に作詞作曲した歌だ。
 三番には、こう歌われていた。
  重きまぶたを こすりつつ
  綴りし文字に 夢馳せて
  夜空の星の またたきは
  微笑む我が師の 瞳にも似て
  いざや王者の 道なれば
  ″学は光″と 今もなお……
 伸一には、通教生たちの苦闘が痛いほどわかった。彼自身、青春時代に、大世学院の夜学に通い、苦学してきたからだ。
 また、会長として、同志の激励に全国を東奔西走するなか、寸暇を割いて、リポートの作成に取り組んだこともあったからだ。
 ――戸田城聖の事業を再建するため、やむなく中退した大世学院の後身にあたる富士短期大学(当時)から、卒業のためのリポートを提出してはどうかとの、強い勧めがあったのである。
 伸一は、その厚意に応えようと、十のリポートを書き上げ、六七年(同四十二年)二月に提出したのだ。
 自らが苦闘を経てこそ、人を真に励ますことができる。労苦は、人間を磨き、深める。
48  学光(48)
 「学は光」の合唱を聴いた山本伸一は、真っ先に拍手を送りながら、隣にいた教員に語った。
 「通教生の負けじ魂が、あふれていますね。この″負けるものか!″という一念が、人間を鍛え、強くするんです」
 第五回学光祭には、春に卒業した通教の第一期生たちも駆けつけていた。
 伸一は、その母校愛が嬉しかった。ここから、さらに通教生の良き伝統がつくられていくにちがいないと思った。
 そのあと、実行委員長と学長のあいさつに続いて、伸一がマイクを取った。
 彼は、各地からスクーリングに参加した通教生の向学心を讃え、真心こもる演技への感謝を述べたあと、力強く訴えた。
 「通教生の皆さんは、何があっても″負けない″という精神の核だけは、このキャンパスで深く刻んでいっていただきたい。私の願いは、自分自身に勝っていく人生を歩んでいただきたいということです」
 ――「自分が自分に打ち勝つことが、すべての勝利の根本ともいうべき最善のことであり、自分が自分に負けるのは、最も恥ずかしく、また同時に最も悪いことだ」とは、古代ギリシャの哲学者プラトンの箴言である。
 自己に勝つことから、すべての勝利が始まる。ゆえに、自分に勝つ心を培うことに、創価の人間教育の眼目がある。
 伸一は、言葉をついだ。
 「皆さんは、他人との比較においてではなく、自分自身に根を張った人間の王道を、自分で見いだして、自分でつくり、自分で仕上げていっていただきたい。名誉や、有名であるといったことなどに、とらわれるのではなく、生涯、勉学を深めながら、自分らしい、無名の王者の道を生きてください」
 通教生たちは、誓いの大拍手で応えた。
 名誉や名声を追い求め、自分を見失ってしまう人がいる。大事なことは、自分を見つめ、自分を磨くことだ。そこに、真の充実と勝利と幸福がある。
49  学光(49)
 一九八二年(昭和五十七年)四月には、教育学部の通信教育課程が開設された。これによって、小学校や幼稚園の教員免許状、社会教育主事任用資格の取得も可能になったのである。
 創大通教は、年ごとに学生も増え、民衆教育の大城として、発展を重ねていった。
 八四年(同五十九年)八月、通信教育部では、学生同士が「建学の精神」を学びつつ、互いに励まし合い、卒業をめざすために、希望者からなる都道府県別組織を整備することになった。
 同じ志をもった友の励ましは、勇気の泉となり、前進の力となる。友情のネットワークは、人間を守り、磨き、強くする。
 それまでも、地域によっては、自主的に連絡を取り合い、学習会などが行われていたが、大学として本格的に、地域別に学生会を組織し、学生相互のネットワークづくりに着手していったのである。
 その学生会の命名を依頼された山本伸一は、「光友会」と名付けた。「学は光」との指針を深く胸に刻み、自らを輝かせながら前進していく友のグループであってほしい――との思いからの命名であった。
 「光友会」は、一年後の学光祭を目標に、都道府県単位で結成を行っていくことになった。
 翌八五年(同六十年)、夏期スクーリング期間中の八月十三日夕刻には、第十回学光祭が、第一回光友会総会の意義を込め、創価大学の第一グラウンドで行われた。
 伸一は、通教生の代表らに、「第十回の学光祭は、卒業生も呼んで、盛大に行おうよ。私も必ず出席します」と語ってきた。
 これには、全国から六千人が、喜々として集って来たのである。だが、誰よりも逸る心で、この日を迎えたのは、伸一であった。
 通教十年の歴史を共に開き、堅固な礎を築いてくれた最愛の″盟友″たちを、心から讃え、励ましたかったのである。
 学生への尊敬と感謝の心をもつことこそ、伸一の第一の教育哲学であった。
50  学光(50)
 山本伸一がグラウンドに姿を現すと、大地を揺るがすような拍手と歓声が空に舞った。
 彼は、「ご苦労様!」「ありがとう!」「おめでとう!」と、皆に語りかけながら手を振り、グラウンドを一周した。
 第十回学光祭が始まった。
 「通教常勝太鼓」が轟き、次いで、コミカルな動きを取り入れた「新学光体操」が披露されると、来賓席の伸一も立ち上がり、その動作を真似ながら、共に体操を始めた。笑いが広がった。
 そこには、″ぼくらは一緒だ。断じて負けるな!″との思いが込められていた。
 さらに、組み体操などが終わると、伸一は、招いていたイタリアの著名なオペラ歌手レオニダ・ベロンを紹介した。ベロンは伸一の要請に応え、通教生のためにカンツォーネの「オー・ソレ・ミオ」を熱唱した。
 「オー・ソレ・ミオ」とは″私の太陽″の意味である。その歌声は、「学は光」との信念に燃え、向学の精進を重ねる通教生への応援歌ともなったのである。
 伸一が、この席にベロンと共に出席したのは、通教生と一流の芸術家との、出会いの場をつくりたかったからであった。
 さらに、五百人の合唱団による、愛唱歌「学は光」などの大合唱が続き、実行委員長による「光友の誓」の発表となった。
 凛とした青年の声が響いた。
 「一、我ら創価大学通信教育生は、勤労しつつ学ぶ人生に、最高の誇りと喜びをもち、建学の精神を実践し、社会に英知の光を放ちゆくことを、ここに誓います。
 一、我ら創価大学通信教育生は、断じて初志を貫き、互いに啓発し合える人生の友との絆を深く結び、向学の志高く、自身錬磨の研鑽に挑戦しゆくことを、ここに誓います。
 一、我ら創価大学通信教育生は、創立者・山本伸一先生の御構想実現のため、生涯誉れの大道を歩みゆくことを、ここに誓います」
 この誓いは、参加者全員の賛同の拍手をもって採択されたのである。
51  学光(51)
 日は、沈み始めていた。
 学長による表彰に続いて、いよいよ山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、ある著名な大学教授の、創価大学通信教育部への讃嘆の言葉を紹介しながら、今や、創大通教は、全国の大学の模範の存在になったことを語った。
 それから、学問に取り組む姿勢について、力を込めて訴えていった。
 「学問は、宇宙の真理の探究であり、そこには、王道はない。それゆえに、学問の道には、覚悟と努力、そして、強靱な探究心が必要とされます。″なんとかなるだろう″といった安易な気持ちでは、決して達成されるものではないことを知っていただきたい。
 大学を卒業したといっても、ただ大卒の資格を得ただけで、学問的にも、人間的にも、なんの成長もなければ、大学に学んだ意味はありません。それは虚像にすぎない。
 それに対して、真剣に学問に励んでいる人は、知性が輝き、人格も磨かれる。人間完成に向かって成長を遂げていきます。
 懸命に働きながら、通信教育での卒業をめざして、全力で精進する皆さんは、着実に学問を身につけ、また、深い人生を生き抜いておられる。そこには、人間の実像があります。その精進の日々は、すべて自身の財産となって、永遠に輝きゆくことは間違いありません。
 その意味で、諸君の姿は、まことに尊いし、私は、心から賞讃を惜しみません」
 伸一は、創立者として、真の人間の生き方を教えたかった。本当の人間の輝きとは何かを、通教生の魂に、深く刻んでおきたかったのである。それが人生哲学として確立されてこそ、学問を生かすこともできるし、人間の幸福もあるからだ。人間の道を教えることにこそ、人間教育のテーマがある。
 彼は、一九八八年(昭和六十三年)八月、創大中央体育館で行われた第十三回学光祭にも出席したが、ここでも、フランスの文豪エミール・ゾラの生き方を通して、人間にとって最も大切なことは何かを訴えていった。
52  学光(52)
 ――一八四〇年、パリに生まれたエミール・ゾラは、大学の入学試験に失敗し、進学を断念している。文学者を志していた彼は、出版社に勤務し、本の梱包や発送、返本の整理などの仕事を通して、人びとは″どんな本を求めているのか″を学び、時代の動向を鋭くとらえていった。
 社会のなかで、見識を深め、自身を磨いていったのである。
 ゾラは、晩年には、ユダヤ人大尉ドレフュスがドイツのスパイとされた冤罪事件で、彼を擁護したことから自身も裁判にかけられ、有罪判決を受ける。そのため、亡命生活を送るが、最後の最後まで屈することなく、正義のために戦い続けている。
 山本伸一は、第十三回学光祭で、そのゾラの生涯を通して訴えた。
 「これが、本当の『知性の人』の強さであり、深さです。強靱な知性があるからこそ、正を正、邪を邪と見抜き、雑音になど紛動されない。また、自己のちっぽけな、濁った私情に負けることなく、恐れなく正義の信念に殉じることができる。真理の導く方向へ、堂々と真っすぐに進んでいくことができる。
 学問と教養によって、耕され、練り鍛えられた確固たる人格と知性――諸君は、そうした揺るぎなき『人格の人』『知性の人』になっていただきたい」
 一方、日本の知識人の多くは、権力に迎合し、大勢に押し流され、迫害に抗して正義のために戦った歴史が余りにも少ないことを指摘。それを戸田城聖は「日本の民衆の悲劇」として、深く嘆いていたことを述べた。
 「戸田先生は『民衆が教養を身につけず、一握りのまやかしの知識人に引きずられていくことは不幸である』と語っておられた。
 こんな不幸の歴史は、断じて転換しなければならない。そのためにも、民衆の一人ひとりが、教養を積み、確固たる人格を築いていかねばならない」
 まさに、ここにこそ、創価大学通信教育部開設の意義があるといってよい。
53  学光(53)
 山本伸一は、結びに「『正義』と『真実』の″学の光″を社会に燦然と輝かせ、民衆の新しき歴史をつくるという、私が恩師から託された悲願を実現する担い手こそ、創価大学に学ぶ通教生であります」と訴え、第十三回学光祭のスピーチを終えた。
 創大通教生であることの、感動と決意と誇りが、参加者の胸を貫いた。
 また、この日、通信教育部出身者による教員のグループ「学光世紀会」が結成された。
 その後、通教出身の教師は、年々増加し、現在までに、教員採用試験の合格者は、二千三百人を超えている。
 その教師のなかには、塗装業をしながら創大通教で教員免許状を取得し、小学校の教壇に立った人もいる。不登校の生徒の心を開くことに、挑戦し続けてきた中学校教師もいる。
 通教出身の教師たちは、働き学ぶなかで、自身を磨き鍛えてきただけに、人間性の輝きと強さがある。多くの課題に直面する教育現場にあって、「頼もしい」と、皆、信頼は厚い。
 一九九九年(平成十一年)七月、創価大学本部棟の落成式が行われた。伸一は、本部棟には、優先的に通信教育部の教員の研究室と事務室を入れ、本部棟で行う最初の授業は、通教生の夏期スクーリングにすることを提案したのである。通教は、創価大学の生命線であるとの考えからであった。
 その本部棟の前には、高さ十メートルの「学光の塔」が、凛々しく立っている。塔を飾る躍動感にあふれた男女六体の若者の像は、「挑戦」「情熱」「歓喜」「英知」「行動」「青春」の六つのテーマを表現したものだ。
 塔には、山本伸一が、創価大学に学ぶ一人ひとりへの期待を込めて綴った一文が刻まれている。
 「『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』
 これ、創価教育の父・牧口常三郎先生の精神なり。
 この『学光』を以て永遠に世界を照らしゆくことが我が創価の誉れある使命である」
54  学光(54)
 通信教育部の開設から三十四年を経た今、創大通教生は日本国内だけでなく、世界に広がっている。夏期スクーリングには、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、中国、韓国、タイ、シンガポール、オーストラリア等々、世界各国から学友が集う。
 また、夫婦や親子で通教に学ぶ人もいる。
 既に、卒業生は、一万四千人を数え、実に多彩な人材が育っていった。公認会計士、税理士、社会保険労務士、司法書士、行政書士などとして社会に貢献している人も多い。
 通教から創大の通学課程に転籍し、司法試験に合格。弁護士として活躍する人もいる。通信教育部の第一期生で、創大通教の教員として教壇に立つ人もいる。
 臨床検査技師をしながら通教で学び、やがて、水俣病の研究に取り組み、鹿児島大学医学部で医学博士号を取得した人もいる。
 突発性難聴、肝臓疾患などと闘い、通教を卒業。社会人枠で大阪大学大学院に入り、仕事を通して学んだ在庫と経営についての研究で、工学博士となった人もいる。そのほかにも、何人もの博士号取得者が出ている。
 ペルー文学の父リカルド・パルマは叫ぶ。
 「苦労なしに手に入れることのできるものなど、何もない。まして、忍耐なしには、何事も成就しない。ゆえに君よ、断じて、へこたれるな!迷わずに書を読め!そして学ぶのだ!」
 通教生がつかんだ栄冠は、自らの血と汗で勝ち取った人間王者の冠である。
 創大通教は、まさに「民衆教育の大城」「生涯教育の光城」として、二十一世紀の大空に燦然とそびえ立ったのだ。創価の師弟の、勝利の光を放ちながら!
  生涯を
    尊き人生
      飾らむと
    学光王者に
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