Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第23巻 「未来」 未来

小説「新・人間革命」

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1  未来(1)
 教育改造を叫んだ創価教育の父・牧口常三郎は記している。
 「吾々は未来に望を嘱して子孫の計を立てんのみ。今の処、誰が考えても教育以外に適当なる救済の途は見出し難かろうからである」
 子どもの育成は、未来を建設することだ。ゆえに、教育は、最も大事な聖業となる。
 色鮮やかな青い屋根、白い壁。とんがり帽子を被ったような形をした茶色の煙突が、空に伸びる。
 北海道札幌市の豊平区に完成した、札幌創価幼稚園は、おとぎの国の城を思わせた。
 「園長! 園児は、まだ来ませんか」
 いかにも待ちきれないといった様子で、山本伸一が、園長の館野光三に尋ねた。
 伸一は、既に三十分ほど前から、スーツに身を包み、園舎の玄関で、賓客を迎えるかのように、子どもたちを待っていた。
 一九七六年(昭和五十一年)四月十六日のことである。この日は、札幌創価幼稚園の第一回の入園式であった。
 園長が、恐縮した口調で答えた。
 「はい。開始は十二時半ですから、まだ、一時間ほどありますので……」
 「そうだね」
 伸一は、第一期生となる大切な園児たちを自ら出迎えようと、心に決めていたのだ。
 彼は、花や動物の絵などが飾り付けられた保育室をのぞきに行ったが、数分もすると、すぐに戻って来た。その間に到着する園児がいるのではないかと思うと、足は、自然に玄関に向いてしまうのである。
 落ち着かない伸一の様子を見て、館野は、創立者の心に触れた思いがした。
 ″山本先生は、これほどまでに、園児たちを待ち遠しく思っておられるのか!″
 医学の祖ヒポクラテスは「人間愛のあるところに、医術への愛もまたある」と述べた。教育への愛も、人間への愛から始まる。子どもたちを愛おしく思う心の強さから、教育への情熱も責任感も生まれるのだ。
2  未来(2)
 創価学会として「健康・青春の年」と定めた、この一九七六年(昭和五十一年)は、「創価教育」の新たな飛躍の年であった。
 北海道に札幌創価幼稚園が開園しただけでなく、三月には、大阪・交野市の創価女子学園(現在は関西創価学園)で、第一期生の卒業式が行われ、初めて卒業生を送り出したのである。
 また、創価大学も、大きな拡充、発展の時を迎えていた。
 四月から、新たに経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科を設置。そして、開学当初からの念願であった通信教育部(経済学部経済学科、法学部法律学科)を開設。さらに、留学生のために別科(日本語研修課程)が設けられたのである。
 山本伸一は、創価教育の新段階ととらえ、生徒、学生の輪の中に飛び込むようにして、全力で激励を重ねていった。
 一月中旬には、関西の創価女子学園を訪問。第一期生の卒業を祝う昼食会に出席し、良き伝統を築くことの大切さについて語った。さらに、生徒と共にピアノ演奏もした。
 下旬には、東京の創価学園を訪れ、高校三年生の送別卓球大会、第六期生卒業記念集会などに相次ぎ出席。この日も、全精魂を注いで、生徒たちを励まし続けた。
 「私は、もう一度、学園に力を入れます。そのために奔走します。私の生涯の仕事は教育です。それに賭けているんです」
 また、「何のため」との原点を見失ってはならない。人間主義に根差した創価教育の目的は、民衆を蘇生させゆく指導者の育成にあると、烈々たる気迫で訴えたのである。
 アメリカの哲学者ジョン・デューイは、「教育は、人間性を、その神々しい完成の域へと高めるための手段である」と語っている。その基本は、人間と人間との、真剣な魂の触発にこそある。
 教育の結実には、歳月が必要である。粘り強く語らいを重ね、薫陶していくなかで、人間は目覚め、成長していくのだ。
3  未来(3)
 山本伸一は、一九七六年(昭和五十一年)の二月にも、創価学園の首脳たちと今後の運営について語り合い、さらに、寮生、下宿生の代表との懇談会ももった。また、創価女子学園を訪問し、生徒との茶会や教職員らとの懇談会に出席した。
 そして、三月十三日、創価女子高校の第一回卒業式に出席した伸一は、「生涯の友としての、美しき信義を貫き通していただきたい」と訴えたのである。
 三月十六日は、東京の創価高校の第六回卒業式であったが、伸一は、どうしても岡山を訪問しなければならなかった。そこで彼は、前日の午前中、録音テープにメッセージを吹き込み、届けてもらったのである。
 「私は岡山県におります。この岡山の地より、はるか諸君の卒業式を見つめながら、万感込めてあいさつをさせていただきます」
 そのなかで彼は、学友たちとの友情を永遠のものとしていくために、「精神の故郷」である創価学園に、魂魄をとどめることの大切さを語ったのである。
 「魂魄をとどめる」とは、″わが魂は、ここにあり″と、心を定めることだ。つまり、自分は、永遠に創価学園の担い手であり、建設の主体者であると決めることだ。
 「学園を、ただ懐かしむだけなら、自分との間に、まだ距離がある関係です。しかし、魂をとどめているという関係ならば、距離は全くなくなって、それは自己と対象とが、いつでも一体となり、同化している状態であります。万事、断絶だらけの現代において、見事に断絶を乗り越えた境涯であります」
 皆が、学園と一体であるという信念に立つならば、学友とも、生涯にわたって連帯の絆を、強め続けていけるにちがいない。
 学園生は、スピーカーから流れる伸一の声を聴きながら、″先生は、いつもぼくたちのことを思ってくれている。それは、先生が魂魄を、この学園にとどめられているからだ。ぼくたちも、学園に魂魄をとどめよう″と心に誓うのであった。
4  未来(4)
 山本伸一は、一九七六年(昭和五十一年)四月の関西訪問の折には、創価女子高校の第一期卒業生や寮生らと会い、記念のカメラに納まるなど、励ましを重ねた。
 また、四月八日の、東京・創価学園の第九回入学式、創価女子学園の第四回入学式には、それぞれメッセージを寄せた。
 そして、入学式終了後に、創価学園に駆けつけた伸一は、寮歌として歌われていた「草木は萌ゆる」(後年、校歌となる)の碑の除幕式や、新入生・教職員との記念撮影、学園創立八周年の記念祝賀会などに、相次ぎ出席していった。
 この記念祝賀会の席上、学園の音楽の教師が、伸一が作詩した「厚田村――恩師の故郷に憶う」に曲を付け、独唱した。それは五四年(同二十九年)八月、伸一が戸田城聖と共に、戸田が幼・少年期を過ごした北海道・厚田村を訪れた折に、作ったものであった。
 ″その恩師を育んだ北海道にも、いよいよ札幌創価幼稚園が開園するのだ!″
 そう思うと、伸一は、熱い感慨が、胸に込み上げてきてならなかった。
 四月十日には、創価大学の第六回入学式で記念講演を行い、詩聖タゴールの人生を通して、「悲哀をも創造の源泉に」と、力の限り訴え、新入生の前途を祝福したのである。
 また、この日、創大留学二年目となる、中国からの留学生らと昼食を共にし、卓球に興ずるなどして、激励した。
 さらに、創価教育の父・牧口常三郎の遺墨「創価大学」の文字を使った門標の除幕式や正門開通式、創大三期生大会などにも出席したのである。
 清新の息吹も、歳月とともに失われ、惰性化していくのが世の常である。しかし、そうなれば、新しい発展はない。惰性を破るには、原点に立ち返ることだ。
 伸一は、常に人間と人間の触れ合いという教育の原点に立ち返ろうとしていた。そして、自ら行動することによって、創価教育の城に、魂の新風を送ろうとしていたのである。
5  未来(5)
 山本伸一が、北海道の札幌創価幼稚園を訪れたのは、入園式の前日にあたる、四月十五日の夕刻であった。
 幼稚園の門を入ったところで、車を降りた伸一を、園長の館野光三が迎えてくれた。
 「竜宮城のようだね」
 伸一は、真新しい園舎の青い屋根を見ながら言った。
 玄関を入ると、教職員が待っていた。
 「おめでとう! 皆さんのことは、よく知っております」
 伸一は、一人ひとりのことを、幼稚園の開園準備にあたってきた関係者から、詳しく聞いていた。また、皆の名前をはじめ、出身地、家族構成、履歴などを、心にとどめてきた。子どもにとって、最も重要な教育環境は、教師であるからだ。
 札幌創価幼稚園の教員は、皆、経験四、五年の、二十代の女性であった。
 伸一は、「よろしくお願いします」と言いながら、皆と握手を交わした。
 どの目も決意に輝き、「はい! 頑張ります」という、元気な声が、はね返ってきた。一途な情熱を感じた。
 彼女たちは、経験は豊富であるとはいえなかった。しかし、幼稚園教育という創価教育の新たな分野で、パイオニアの使命を果たそうと、懸命に生命を燃やしていたのである。
 人間が直面する課題は、常に新しい。昨日と全く同じことなど、何一つない。ゆえに、大切なのは、挑戦への情熱である。勇気である。行動である。最善の道を究めようと、試行錯誤を重ねていく挑戦の軌跡が、やがて真の経験となって結実するのだ。
 伸一は、″これならば大丈夫だ″と思った。彼女たちに、未来への希望を感じた。
 彼は、一切を託す思いで語った。
 「どうか、仲良く、団結して、最高の人間教育の城をつくってください。みんなが、苦労した分だけ、創価幼稚園の黄金の歴史が綴られていきます。私に代わって、皆が創立者の気持ちで頑張ってください。頼みます」
6  未来(6)
 山本伸一は、園長の館野光三の案内で、幼稚園の園内を見て回った。
 玄関を入ってロビーの左側には、トンネルのような形をした廊下があり、緑色、オレンジ色、黄色などに彩られていた。
 廊下の窓は、園児たちの身長に合わせた低い位置に設置されている。
 廊下を抜けると、入園式の式場となる遊戯室である。遊戯室にはステージがあり、明日の入園式に備えて、きれいな飾り付けが施され、イスが並べられていた。
 ロビーの右側には、職員室、園児用のトイレ、そして、四つの保育室が並んでいた。
 一期生として入園するのは、年少の二年保育が一クラス、年長の一年保育が三クラスである。各部屋には、ピアノとVTR(ビデオテープレコーダー)などが設置されていた。
 伸一は、トイレも丹念に見た。
 それから、二階の和室で、教職員と懇談のひと時を過ごした。
 「この創価幼稚園のスタートで、創価教育の最初の『教育の門』が完成しました。その幼稚園が、北海道の札幌の地に誕生した意義は、極めて大きいといえます」
 創価教育の父・牧口常三郎が学んだ北海道尋常師範学校も、彼が最初に教壇に立った同校の付属小学校も、札幌にあった。
 また、第二代会長の戸田城聖は、北海道・厚田村で幼・少年期を送り、札幌に出て、雑貨問屋で働きながら、尋常小学校准教員の検定試験を受けて、合格している。
 いわば、牧口にとっても、戸田にとっても、札幌は、教育者として飛翔しゆく、出発の天地であったのである。
 伸一は、創価教育の学園構想を練り始めた時から、いずれは、その札幌に、先師・恩師を宣揚するためにも、なんらかの創価教育の城をつくろうと、心に決めていたのである。
 伸一の思考の根底には、常に師への報恩感謝の一念があった。恩に報いようとする生き方のなかにこそ、古今東西にわたって、普遍の人道があり、人間教育の基調もあるのだ。
7  未来(7)
 牧口常三郎は、創価教育を実践するために、一貫教育の学校を建設するという構想をいだいていた。そして、その実現を戸田城聖に託していたのである。
 それを、戸田から、山本伸一が聞かされたのは、戸田の事業が破綻した苦境のなかで、再起を期して激浪の暗夜に船出した一九五〇年(昭和二十五年)の晩秋のことであった。
 その時、戸田から、「私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ」と託されたのである。
 以来、創価教育の学校の建設は、伸一の生涯のテーマとなっていったのだ。
 ベネズエラの教育者シモン・ロドリゲスは、弟子シモン・ボリバルへの手紙に記している。
 「私の構想を実現するためには、君の存在が不可欠である。そして君の構想を実現するためにも、私が不可欠なのである」
 大事業は、一朝一夕に成就するものではない。二代がかり、三代がかりの作業となることもある。師弟が一体となっての、不二の奮闘なくして、大業の成就はない。
 また、五五年(同三十年)一月、伸一は、戸田と共に高知を訪問した。その折、「学会は学校をつくらないのか」との会員の質問に答えて、戸田は語った。
 「今につくります。幼稚園から大学まで。一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一の学校にするよ!」
 この時、戸田は、幼稚園から大学までの建設構想を明言したのである。
 伸一は、先師、恩師の教育構想を、一つ一つ実現してきた。
 六八年(同四十三年)には、東京・小平市に創価中学・高校が開校。七一年(同四十六年)には、東京・八王子市に創価大学が開学。七三年(同四十八年)には、大阪・交野市に創価女子中学・高校が開校した。
 そして、七四年(同四十九年)八月には、創価小学校を設立するための準備委員会が発足した。この準備委員会で、幼稚園の設置も検討されることになったのである。
8  未来(8)
 創価小学校設立準備委員会が発足して間もない一九七四年(昭和四十九年)の九月二十九日、第二回「北海道青年部総会」で講演した山本伸一は、引き続き、札幌市の北海道青年センター(別名・羊ケ丘会館=現在は豊平文化会館)を訪れた。「北海道大学会総会」などに出席するためであった。
 この時、伸一の胸には、牧口常三郎と戸田城聖のゆかりの地である北海道の、できれば札幌の地に、創価幼稚園を開設するという構想が出来上がっていたのである。
 青年センターのある一帯は、札幌市東南部の豊平区にあり、静かな住宅街であった。
 緑も多く、近くには、石狩平野が一望できる景勝地の羊ケ丘がある。羊ケ丘には、牧場が広がり、草をはむ羊の群れを見ることもできる。
 青年センターのすぐ近くには、北海道の未来を構想し、購入しておいた土地があった。
 伸一は、羊ケ丘周辺を車で視察しながら、同乗していた北海道長の高野孝作に、自分の思いを語った。
 「この辺りは、教育環境としては申し分ない場所だ。購入してある、あの土地に、創価幼稚園をつくれないだろうかね。
 北海道は、牧口先生、戸田先生の故郷であり、しかも、札幌は、牧口先生が教育者として第一歩を踏み出されたところだ。
 そこで、札幌に、創価一貫教育の最初の門となる幼稚園をつくり、日本一、世界一の幼児教育の城にしたい。それが、私の夢だ」
 教育事業をもって、世界平和を実現する多くの逸材を世に送り出すことこそ、軍部政府の弾圧と戦い抜いた、先師・牧口常三郎と恩師・戸田城聖に報いる「弟子の道」であると、伸一は確信していたのである。
 高野は、伸一の構想に胸を躍らせた。北海道という天地の、深き使命を感じた。
 「すばらしい構想です」
 「そう思うかい。それなら、早速、創価小学校の設立準備委員会や、学会の執行部などにも諮ってみよう。ぜひ、実現させたいんだよ」
9  未来(9)
 世界最初の幼稚園を創設した、ドイツの教育家フレーベルは、その教育施設を、どんな名称にするか、日夜、考え続けた。
 そして、ブランケンブルクを見下ろす丘を歩きながら、突然、「キンダーガルテン」(子どもの庭、幼稚園)という名称がひらめいたという。
 山本伸一の札幌創価幼稚園の構想も、この羊ケ丘を巡りながら、具体化したのである。
 伸一は、幼児教育の重要性を感じていた。自分の三人の子どもや、身近な学会員の子どもたちの幼児期を見てきたなかで、大きな精神の成長を遂げる大切な時期であることを、実感してきたからである。
 子どもは、四歳ぐらいから自己主張が強くなる一方、他者の存在も意識するようになり、人とのコミュニケーションも取れるようになる。さらに、着替えなど、日常生活上のことが自分でできるようになり、自律性、社会性も芽生えてくる。つまり、子どもの社会生活の基盤がつくられる時といってよい。
 それだけに、就学前の、この時期の教育が、子どもにとって、極めて大事になるというのが、伸一の結論であった。
 伸一自身、幼少期の、忘れられない、一つの光景がある。
 夏のある日、母が、兄や弟ら七、八人にスイカを切ってくれた。
 すぐに自分の分を食べてしまった兄の一人が、残ったスイカを見て言った。
 「お母さんは、スイカは嫌いだったから、お母さんの分を、ぼくにおくれよ」
 すると母は、笑顔で「母さんもスイカが好きになったんだよ」と言って、残ったスイカを戸棚にしまった。
 その場にいなかった子どもの分を確保したのである。その時、母が何を考えていたか、伸一は、敏感に感じ取った記憶がある。
 そして、彼は、子どもを平等に遇する、母親の心に触れた思いがして、幼心に感動を覚えた。また、何か暗黙のルールといったものを、母が教えてくれた気がしたのである。
10  未来(10)
 札幌市豊平区に購入してある土地に、創価幼稚園を設立してはどうか――この山本伸一の提案に、学会の首脳や、幼稚園の設立も検討課題としていた創価小学校設立準備委員会のメンバー、創価学園の理事らも、大賛成であった。
 そして、幼稚園の設立準備委員会が発足。委員長には、創価学園の理事長で、学会の副会長である青田進が就いた。
 幼稚園は、一九七六年(昭和五十一年)四月の開園をめざして、準備が進められていった。期間は、わずか一年半である。
 その間に、なすべき膨大な仕事があった。
 さまざまな法的手続き、教育方針や保育内容、園児数、年間行事などの検討、教職員の人事、建物の設計と建設、備品の購入、制服やカバンのデザイン等々、目が回るほどの課題が山積していた。
 皆がフル回転で準備にあたった。
 幼稚園の開設にあたって、最も重要な問題は、園長を誰にするかであった。
 教育は、人によって決定づけられる。なかでも、中心者の影響は極めて大きいからだ。
 「人事こそ、一切を決する最重要事である」というのが、戸田城聖の指導であった。
 戸田自身、その信念のうえから、常に全精魂を注ぎ、慎重に、厳格に、人事を行ってきた。
 札幌創価幼稚園の園長が内定したのは、一九七五年(昭和五十年)の一月であった。北海道三笠市の中学校で、障がいのある子どもたちを特別支援する学級の教師をしていた、館野光三に決まったのである。
 館野は、幼稚園の教員をした経験はなかったが、苦労人で、努力家であり、温厚篤実な人柄であった。
 彼は、二八年(同三年)八月、北海道の上砂川に生まれた。三歳の時に父を事故で亡くし、館野家の養子となった。彼は、この養母を、実の母と思い込んできた。
 養子になって半年ほどしたころ、今度は養父が病で急逝。養母は彼を連れて再婚する。養母の希望で、彼は「館野」姓を名乗った。
11  未来(11)
 館野光三の新しい父親は、炭鉱で働いており、子どもたちもいた。いずれも光三より年上であった。
 義父たちは、温かく彼を迎えてくれた。やがて妹も生まれた。しかし、館野は、名字が異なり、父が実父でないことから、近所の子どもから、いじめられることもあった。
 彼が国民学校高等科に入った年の十二月に、太平洋戦争が始まった。
 館野は、高等科を卒業したあと、室蘭の製鋼所に勤めることになった。軍需工場である。
 その時、会社に提出するため、母が取り寄せた戸籍謄本を目にした。彼は息をのんだ。
 自分は養子で、実母と思っていた人が養母であることを知ったのだ。衝撃が走った。彼の手から、ぽとりと謄本が落ちた。
 その日から、食事も喉を通らなくなった。
 憔悴していく館野を見て、理由を察知した母が、真実を語ってくれた。しかし、心は晴れなかった。
 就職し、室蘭の製鋼所での新しい生活が始まったが、彼は悶々としていた。
 ″父も、母も、きょうだいも、ぼくと血のつながりはない。死んでも誰も悲しまないだろう″
 そう思うと、日ごとに孤独感が募り、いつしか、自暴自棄になっていった。
 ″どうせなら、予科練に入り、特攻隊になって、死んでやろう″
 その思いを、養父と養母に手紙で伝えた。驚いた両親は、上砂川から汽車に五、六時間も揺られ、室蘭へ飛んで来た。そして、必死に「生きておくれ」と、彼を説得した。
 自分を思う、深い愛情が、心に熱く染み渡った。涙が、ポロポロと頬を伝って流れた。
 ″たとえ、血のつながりはなくとも、自分には、本当の両親がいるんだ!
 この恩に報いるためにも、立派な人間に育とう″
 館野は、この時、父母から、全精魂を込めて愛情を注げば、心は、必ず通じ合うことを学んだのだ。これが、後に、彼が教師として子どもに接していくうえでの、信念ともなっていったのである。
12  未来(12)
 人生に、波乱や試練はつきものである。その時に、どうやって、それを乗り越えていくか。その苦闘こそが、人生の宝となり、わが生命を輝かせていくのだ。
 館野光三は、製鋼所に入社して二年目の一九四四年(昭和十九年)十二月、座骨カリエスを患った。
 やむなく上砂川の実家に戻り、自宅療養した。この療養中に終戦を迎えた。
 やがて、健康を回復すると、炭鉱で働くようになった。きつい労働であった。
 二十四歳の時、彼は結婚した。
 炭鉱で体を酷使しない業務につくためには、学歴が必要だと思った。そして、定時制高校に通うことにした。妻も応援してくれた。
 定時制高校の教師には、彼の国民学校高等科時代の同級生もいた。
 館野夫婦は、やがて、娘をもうけた。 彼の面倒みのよさや勤勉さを見ていた教師たちは、「君は、炭鉱で一生を終わるのではなく、教師になったらどうか。合っていると思う」と、盛んに勧めてくれた。
 館野も、その勧めに従い、人生の新たな挑戦をしてみようと思った。真面目に努力を重ねてきた彼は、成績も良かった。卒業の時には、地元の新聞に、「お父さん優等生巣立つ」という見出しで、取り上げられた。
 卒業後は、北海道学芸大学岩見沢分校(当時)の二年課程に進んだ。昼間、学校に行くため、炭鉱での仕事は、「常三番方」という、夜十時から朝六時までの勤務にしてもらった。睡眠時間は、四時間ぐらいしかない。通学の列車の中も、貴重な睡眠場所であった。
 「人生を過ごして、苦労していない者。これは、本物の人間ではない。″人間の虚像″だ。人生を通過しただけで、生きていない者だ」とは、十九世紀のブラジルの詩人フランシスコ・オタビアノの箴言である。
 教師になろうとの夢に向かって、館野は懸命に頑張り抜いた。目標をもつことは、希望をもつことである。それは、青春の光となり、人生の力となる。
13  未来(13)
 館野光三にとって、大学での二年間は、睡眠不足にさいなまれ、心身の限界に挑んだ″激闘″の歳月であった。眠気が襲うなか、緊張感を保つために、教室では、いつも、最前列に座って講義を聴いた。
 一九五九年(昭和三十四年)、卒業した彼は、念願の教師となり、上砂川の小学校の教壇に立った。既に三十歳になっていた。
 その彼が、創価学会に入会したのは、六一年(同三十六年)の七月のことであった。
 館野が入会する前に、まず、近所に住む妻の母親が信心を始めた。体が弱く、いつも病に苦しんできたが、信心に励むようになると、日ごとに元気になっていった。
 そして、その母親から、妻が「宿命を転換できるのは、この仏法しかない」と聞かされ、二カ月ほど前に信心したのである。
 妻も、唱題に励み、学会活動に参加するにつれて、明るく、はつらつとなっていった。
 また、「宿命」という問題は、館野にとっても、いつも頭から離れないテーマであった。自分の複雑な生い立ちを思うにつけ、人生と「宿命」について、考えざるをえなかったのである。
 だから、「宿命」が転換できるということに、彼も大きな関心をいだいた。
 館野は、学会の出版物を読み始めた。戸田城聖の「生命論」に、心を動かされた。
 また、聖教新聞に掲載された、会長の山本伸一の講演を読んだ時、彼は衝撃を覚えた。全世界の平和と人類の幸福を断じて実現しようという熱意と気迫を、そして、慈愛と大確信を感じたからである。しかも、伸一が、自分と同じ一九二八年(昭和三年)の生まれであると聞いて、驚嘆した。
 ″同世代に、こんな人がいたんだ! 自分も、教師として、大いなる理想にまっしぐらに進む、こんな人生を歩みたい″
 そして、館野は、入会したのである。
 文豪トルストイは記している。
 「善の意欲をかき立てるのに最も威力のあるものは、よい生き方のお手本である」
14  未来(14)
 館野光三は、創価学会員となって仏法の法理を学ぶなかで、「子どもの幸福」の実現を明確な目的として、教育に取り組むようになっていった。
 また、皆が、本来、仏の生命を具えているのだと思うと、すべての子どもの、秘めたる可能性と力を信じることができた。
 教員になって八年目から、館野は、障がいのある子どもたちを特別支援する学級を受け持った。自ら希望した仕事であった。
 その学級を担当して間もなく、保護者会を開いた。しかし、十人の保護者全員が欠席したのである。
 彼が学会員であるということが、欠席の理由であった。炭鉱の町では、炭鉱労働組合が創価学会を敵対視する風潮があったことから、学会を誤解している人が少なくなかったのである。
 「保護者会に出ると、子どもの弱みにつけこんで、無理矢理、創価学会に入会させられてしまう」などという、根も葉もない噂が流されていたのである。
 欠席の理由を知った館野は、御本尊に向かい、必死に祈り、決意した。
 ″よし、誠心誠意でぶつかって、自分や学会に対する誤解を、必ず晴らしてみせる!″
 館野は、真心と情熱を込めて、一人ひとりの子どもたちに接した。親たちにも、その熱意は伝わっていった。一カ月後の保護者会には、十人中四人が参加した。彼はそこで、自分の半生を率直に語り始めた。
 ――幼くして父を亡くし、養子となり、二人の義父に育てられたこと。養子であったために、近所の子どもたちに、いじめを受けたこと。実母と信じていた人が、養母であると知り、自暴自棄になった思春期。しかし、自分を思う養父母の真心で、立ち直ったこと。さらに、炭鉱で働き、二十四歳で定時制高校に入り、教師になる決意をしたこと……。
 赤裸々な体験には、人間の素顔があり、人間性の温もりがある。そこに人は、同じ人間として共感を覚え、心を開くのである。
15  未来(15)
 保護者会に集った父母たちは、初めは館野光三の話を、伏し目がちに聞いていた。 
 しかし、やがて、皆が顔を上げ、館野に、真剣な眼差しを注ぎ始めた。
 彼は、熱を込めて語った。
 「したがって、私自身、決して恵まれた生い立ちではありません。だから、ハンディを背負っている子どもの気持ちは、多少なりとも、わかるつもりです。それだけに、私は、皆さんのお子さんの力になりたいんです!」
 懸命な訴えであった。
 いつの間にか、父母たちの頬には、涙が光っていた。真剣と誠実と情熱の対話が、心の氷塊を溶かしていったのである。
 この日を境に、父母との距離は縮まり、秋の保護者会には、十人の児童全員の保護者が出席した。
 館野は、受け持った子どもたちに、自分の子ども以上に愛情を注いだ。皆の幸せを真剣に祈りながら、教育に当たった。
 修学旅行を前に、一人の児童が、「行かない」と言い出した。夜尿症であった。母親も「あの子の参加は、無理です」と言うのだ。
 修学旅行は、児童にとっては、かけがえのない思い出となる。また、無事に帰って来られれば、本人の自信にもなる。
 館野は、なんとしても行かせたかった。
 「私が夜中も面倒をみますから、安心してください。ぜひ、行かせてあげましょう」
 彼の訴えに、本人も、母親も、了承した。
 二泊三日の旅行中、館野は、同じ部屋にいて、一時間ごとに、児童をトイレに連れていった。不寝番であった。
 元気な笑顔で、修学旅行から帰って来たわが子を見て、母親は目を潤ませて言った。
 「館野先生、ありがとうございます!」
 ″子どもたちのためには、どんな苦労も引き受けよう。それが教師ではないか″
 常に彼は、そう自分に言い聞かせてきた。
 人間教育とは、教師の、子どもへの深い思いから始まる。愛する心、さらに、子どもの幸福を願う慈悲の一念に、その原点がある。
16  未来(16)
 上砂川の小学校で高い評価を得た館野光三は、一九六八年(昭和四十三年)に、別の地域の中学校に移った。
 この中学校に障がいのある生徒を特別支援する学級が開設されることになり、強く要望されての赴任であった。
 旅立ちの日、あの夜尿症の子どもと母が、上砂川の駅まで見送りに来てくれた。
 館野の乗った列車が動き出すと、子どもはホームの端まで走り、「先生! 先生!」と叫びながら、列車が見えなくなるまで、手を振ってくれた。館野も、盛んに手を振り返した。生涯の忘れ得ぬ光景となった。
 障がいのある生徒への授業内容は、全面的に、館野に任された。彼は、もう一人の教師と共に、全力で指導に当たった。
 中学生の場合、卒業後の進路を、どうするかも、大きな問題であった。
 館野は、生徒たちの就職活動にも奔走した。雇ってもらえそうだという話を聞くと、どこまでも飛んで行った。名古屋まで出かけて行ったこともあった。
 しかし、どこの職場も、何度、交渉しても断られた。やっと決定しても、あとから断りの電話が入るのである。
 それでも、誠意をもって、体当たりするかのように、企業を訪れては、頭を下げ、話し合いを重ねた。生徒に自立の道を歩ませたかった。幸せになってほしかった。
 ようやく、館野の真剣さに、「それでは二カ月間、様子を見て決めましょう」という条件付きで、引き受けてもらった生徒もいた。
 その仕事ぶりが気になって、休みを利用して、そっと見に行ったこともあった。
 子どもたちを思う強い一念が、館野の情熱を、粘り強さを、周到さを生んだのだ。
 誰かを守ろう、育もうとすることによって、人は、自らを強くし、成長させることができる。
 「奉仕の人生こそが、唯一の実り豊かな人生である」とは、マハトマ・ガンジーの箴言である。
17  未来(17)
 札幌創価幼稚園の設立にあたり、準備委員会で、園長を誰にするかという話になった時、すぐに館野光三の名前があがった。
 彼の献身的な教育への情熱を、準備委員会の関係者らも、よく知っていたからだ。
 山本伸一も、一九六九年(昭和四十四年)九月に北海道の岩見沢会館を訪問し、記念撮影をした折、壮年の総ブロック長として参加していた彼と言葉を交わしたことがあった。″正直な人柄である″というのが、伸一の実感であった。それは、教師として、最も大切な資質といえよう。
 また、伸一は、この時、北海道の幹部から、館野の教師としての活躍などについて話を聞いたのである。
 七四年(同四十九年)の初冬、伸一は、札幌創価幼稚園を設立する学校法人創価学園の理事長である青田進から、園長には、館野を考えているとの報告を受けた。
 伸一も、大賛成であった。
 翌七五年(同五十年)一月、館野は、園長になることが決まった。
 彼は、自分の複雑な生い立ちも、小学校、中学校での教師経験も、すべて、ここで生かしていくための財産であったと思った。この時、館野は、自分の「宿命」は、ことごとく「使命」として開花したことを実感した。
 彼は、決意した。
 ″私は、山本先生の教育構想のために、この身を捧げよう!″
 館野は、創価学園の職員となり、幼稚園の設立準備に奔走した。すべて、初めての経験であった。設立の参考にするため、北海道各地の幼稚園も視察した。最高の幼稚園をつくろうと思うと、探求心は飽くことを知らなかった。訪問した幼稚園は三十を超えた。 ラテンアメリカ解放の英雄シモン・ボリバルは、「私は困難を恐れなかった。それは、大いなる事業への情熱に燃えていたからだ」との言葉を残している。
 情熱の炎こそが、困難も、労苦をも焼き尽くす力となるのである。
18  未来(18)
 一九七五年(昭和五十年)の六月には、札幌創価幼稚園の園舎の起工式が行われた。
 そして、八月には、幼稚園のモットー「つよく ただしく のびのびと」が決まった。
 秋になると、パンフレットを持って、設立準備委員会のメンバーが、園児募集の呼びかけのために、札幌市内の各地を回った。
 創価学園や創価大学などの人間教育が、既に高い評価を得ていることもあり、創価幼稚園への関心と期待は大きかった。
 十一月三十日には、園舎が完成し、落成式が行われた。この日、新雪が積もった園庭に立つポールに、園章の入った幼稚園の旗が初めて掲揚されたのである。
 園章は、創価学園の校章を赤で中央に描き、それを、札幌を象徴する白い雪の結晶とアカシアの六枚の青葉が囲むデザインであった。そこには、厳しい自然環境にも負けずに、「つよく ただしく のびのびと」育ってほしいとの願いが込められていた。
 十二月二日、入園試験が実施され、翌日、合格発表が行われた。年少一クラス、年長三クラスの合計百五十五人の入園が決定したのである。
 十八日には、正式に設立が認可された。開園の準備は最終段階に入った。
 年が明けた七六年(同五十一年)一月、地域の有志によって、札幌創価幼稚園を守る会「宝珠会」が結成された。幼稚園と家庭、そして、地域の支援が得られてこそ、子どもの教育環境が整うといえよう。
 地域の協力、団結は、社会建設の基盤である。防災や防犯、環境改善や相互扶助も、地域の人と人とが心を通わせ合うなかで、初めて可能になるのだ。その人間の心と心を結ぶには、対話の波を起こさなければならない。
 そして、三月二十六日には、教育関係者や地域の代表ら、百余人の来賓を招き、開園祝賀会が行われた。
 広い園庭、明るい園舎、安全を考慮した整った設備に、来賓は目を見張った。その一つ一つに創価の教育思想が光っていた。
19  未来(19)
 札幌創価幼稚園の保育室は一階にあり、廊下の幅は、小学校並みに広い設計であった。また、玄関の靴箱のほかに、廊下にも靴箱があり、ここで外遊び用の靴に履き替え、園庭に出られるようになっていた。
 保育室の収納スペースの戸は、掲示板としても使えるように工夫されていた。
 また、建物が鉄筋コンクリートなので、ぶつかって怪我をしないように、壁や柱には、軟らかい材質のクッションが張られていた。
 すべて、子どもへの配慮であった。工事に携わった人や見学に来た地域の人たちからも、「ぜひ、この幼稚園に子どもを通わせたい」との感想が、数多く寄せられた。
 一九七六年(昭和五十一年)四月十五日、初めて札幌創価幼稚園を訪れた山本伸一と、教職員との懇談が続いていた。
 伸一は、言葉をかみしめるように語った。
 「この幼稚園を、日本一、世界一にしたいね。日本一、世界一ということの根本要件は、何よりも、この幼稚園からは、一人も不幸な人間を出さないということです。
 札幌創価幼稚園は、創価教育の出発点となります。目標は、二十一世紀の人間主義の指導者を育てることです」
 伸一は、教員一人ひとりに視線を注いだ。教員は、皆、若い女性たちである。
 「クラスを担任される教員の皆さんは、まだ若いだけに、不安もあるでしょう。しかし、これから学んでいけばいいんです。
 みんな姉妹のように、仲良く、朗らかに、楽しく頑張ってください。
 この『楽しく』ということが、人生のポイントです。なんにでも苦労や困難はつきものです。それを嘆くのではなく、楽しみながら挑戦していく。そこに、幸福の道を開く要諦があるんです。義務感だけでは、力は出ません。挑戦に喜びを見いだし、楽しんで頑張っている人には、誰もかないません。
 教員が、明るく、朗らかであれば、園児たちも、強く、のびのびと育っていきます」
20  未来(20)
 教員の一人から、園児との関わり方についての質問が出た。
 山本伸一は、「大事な問題ですね」と言って頷き、明快に答えた。
 「難しく考えなくてもいいでしょう。まずは、子どもたちから好かれることです。園児が先生を好きだと思えれば、教育の目標は、大部分が達成されたと同じです。
 また、園児のご両親にも好かれることが大切です。
 好かれるようになるためにも、明るく、朗らかでなければならない。そして、子どもを尊重し、思いやりの心をもつことです。
 子どもであるからといって、あなどってはいけません。子どもは、大人以上に鋭い感性をもっています。また、子どもにも″大人の心″があるんです」
 それから伸一は、自分の子どもとの思い出を語り始めた。
 ――伸一は、かつて、息子の一人が通う幼稚園に、サクランボを届けたことがあった。初物であり、ぜひ、園児や教員たちに食べてもらおうと、持参したのである。
 彼が幼稚園を訪ねると、息子を呼んでくれた。伸一は、しばらく地方に行っていて、子どもと会っていなかったこともあり、その配慮に感謝しながら、息子を待った。
 「ところが息子は、私の顔を見ると、『なんだパパか』と言って、すぐに友だちのところへ、遊びに戻ってしまったんです。私は、がっかりしました。
 しかし、その時に、″子どもには、子どもの世界がある。大人の都合で子どもの世界に踏み込み、遊びを中断させてしまうようなことはいけない″と、しみじみ思いました。
 どうか、先生方は、子どもを尊重し、対等な人格と考えて接していってください。教育というのは、人格と人格の触れ合いです。その触発のなかで子どもは成長するんです」
 伸一は、教員との対話を大切にした。
 対話を通しての、創立者と教員との心の交流が、教育理念の継承となっていくからだ。
21  未来(21)
 山本伸一は、園長の館野光三に、言葉をかけた。
 「園長先生は、幼稚園の経験がないので不安かもしれません。苦労も多いでしょう。しかし、どんなに苦しいことがあっても、″これが当然だ。うんと苦労しよう″と決めて、頑張り抜いてください。あなたの人生の苦労を、ここですべて開花させるんです。つまり、一切の経験を生かし切っていくんです。そのための、これまでの人生ですよ」
 「はい。私も、そう痛感しております」
 決意のこもった館野の声が響いた。
 さらに、伸一が、明日の入園式で、記念植樹をするように提案すると、館野が答えた。
 「創立者の山本先生の桜を、植樹させていただこうと考えております」
 すると、伸一は言った。
 「皆さんの桜も植えましょう。『園長桜』と『教員桜』です。
 そして、子どもたちの木も植えましょう。そうだな、名前は『王子桜』『王女桜』ではどうですか。それから、保護者の方々のために、『父桜』『母桜』を植樹しましょう。
 年々、植樹した桜が大きくなれば、希望がふくらみます。木を植えることは、夢を植えることにつながります」
 館野が、嬉しそうに語った。
 「ありがとうございます。そうさせていただきます。桜が咲くようになれば、地域の人たちも、喜んでくださると思います」
 「そうなれば、すばらしいではないですか。どうか、地域の方々を大切にしていってください。たとえば、年に一度は幼稚園に招いて、記念の集いを行うことも必要です。地域と共に歩んでいくんです」
 伸一は、次々と具体的な提案やアドバイスを重ねた。彼は、幼稚園を、心から大切にし、発展を真剣に考えていた。
 それゆえに、一つ一つの事柄を、おろそかにすることなく、最大に有意義なものにしようと必死だった。だからこそ、さまざまな発想やプランが、泉のように湧いてくるのだ。
22  未来(22)
 山本伸一は、懇談のあとも、札幌創価幼稚園の園内を回り、園長の館野光三らの要請に応えて、廊下などに名前を付けた。
 遊戯室に通じる廊下は「虹のトンネル」、園庭にある小山は「王子王女の小山」、そして、青い屋根の鳥小屋は「ぼくたちの小屋」と命名した。
 また、彼は、「つよく ただしく のびのびと」との札幌創価幼稚園のモットーと、「笑顔」という言葉を、それぞれ色紙に認めて贈った。
 そして、伸一は、心弾ませて、翌日の四月十六日の、入園式を迎えたのである。
 園児を出迎えるため、幼稚園の玄関に立っている伸一を、真っ先に見つけたのは、園児に付き添ってきた母親であった。
 「先生!」
 驚きと喜びの表情で、駆け寄ってくる母親に、伸一は諭すように言った。
 「今日の主役は、お母さんではなく、お子さんですよ」
 伸一は、かがみ込み、母親の脇でたたずむ子どもに向かって、優しく語りかけた。
 「よく来たね。入園おめでとう。立派になるんだよ」
 そして、抱き寄せ、頬をさすり、一緒に記念のカメラに納まった。
 それから、伸一は、ロビーのイスに腰掛けて、子どもたちを迎えた。園児と同じ目の高さで、語りかけるためである。
 その姿を見ていた創価学園の理事長の青田進は、感嘆しながら、園長の館野に言った。
 「先生は、ここまで考えて、園児たちを迎えてくださっている。館野さん、これが、創立者の心なんですね」
 館野は、その姿を、しっかりと眼に焼き付けた。そして、「創立者の心」を伝えるために、彼も翌日から、門のところで、園児たちを笑顔で迎え、見送った。雨の日も、雪の日も、立ち続けた。それは、札幌創価幼稚園の伝統となって、今日も受け継がれている。
23  未来(23)
 札幌創価幼稚園の入園式に集って来た園児たちは、保育室に入り、父母たちは、式場となる遊戯室で待機した。
 園児たちを迎え終わった山本伸一は、式場に行き、父母たちに、わが子を創価幼稚園に入園させてくれたことへの深い感謝の心を込めて、丁重にあいさつした。そして、せめてもの御礼として、ピアノで「さくら」を演奏するのであった。
 やがて、園児たちの入場となった。
 はぐれないように、前の子どもの肩に手をかけ、一列になって入って来た。皆、緊張した顔で、そろそろと歩いて来る。どことなく寂しい入場風景である。
 伸一は、ピアノが弾ける女子部の幹部に、何か曲を演奏するように言った。
 「むすんでひらいて」のメロディーが流れた。父母たちの手拍子が広がった。その軽やかなリズムに乗って、子どもたちは笑顔で歩き始めた。明るい入場となった。
 教育に限らず、現場では、臨機応変な対応が必要となる。マニュアル(手引書)通りには、事は進まない。大切なのは機転である。機転とは、智慧と責任感の産物である。
 伸一は、式場の外に出て、入場する園児たちを迎えた。そして、最後の園児と一緒に式場に入り、園児席の最後列に座った。
 本来であれば、創立者として、園児や保護者と向かい合う場所に座るべきであったかもしれない。しかし、伸一は、あえて、そうはしなかったのである。
 それは″私は、お父さんやお母さんの先頭に立って、生涯、みんなのことを見守り続けていくからね″という思いの表明であった。その心を、いつか、園児たちは、わかってくれるだろうと、彼は思った。
 「影響を与えつつ後ろから付き添う」とは、インドネシアの教育の父キ・ハジャル・デワンタラが残した教育の指針である。
 皆で「むすんでひらいて」の手遊びをし、緊張がほぐれたところで、札幌創価幼稚園の第一回入園式が始まった。
24  未来(24)
 入園式では、最初に、園長の館野光三があいさつに立った。
 「皆さん、こんにちはー」
 園長の呼びかけに、「こんにちはー」という、はちきれんばかりに元気な園児の声が、はね返ってきた。
 館野は、第一回の入園式を、創立者を迎えて開催できた喜びを述べ、教職員を紹介。そして、札幌創価幼稚園を、「つよく ただしく のびのびと」とのモットーを実現する理想の幼稚園としていきたいと語った。
 次いで、学校法人創価学園の理事長である青田進が、幼稚園の開園に向け、献身的に尽力し、支援してくれた功労者の代表に、感謝状と記念品を贈呈した。
 そして、札幌創価幼稚園の第一期生は、二十一世紀を迎えるころには三十歳前後になっていることを語り、二十一世紀を担う平和社会建設のリーダーを育てることが、この幼稚園設立の目的であると述べた。
 未来を思えば、希望の翼が広がる。教育という未来を創る事業は、希望と共にある。
 その時である。「わぁーん」という泣き声がした。園児の一人が泣き出したのだ。
 山本伸一は、さっと、園児の側に行き、抱き上げて、自分の膝の上に乗せ、ジュースを飲ませた。てんやわんやの入園式である。
 子どもを育てることは、汗まみれ、泥まみれの労作業だ。その現実のなかで格闘し、理想に向かって、進歩、向上させていくなかにこそ、教育の喜びがある。
 青田は、「これからが、いよいよ建設の時であります。創価幼稚園の原点となる、よき伝統を築き上げていくためにも、保護者と教職員が一体となって努力していってください」と訴え、早々に話を結んだ。
 最後に、伸一が贈った花束を、園長の館野が、「創立者の山本先生から、花束のプレゼントです」と言って、年長クラスと年少クラスの代表二人に手渡した。自分の背丈と同じぐらいの花束を抱え、はにかみながら笑みを浮かべる、園児の顔が愛らしかった。
25  未来(25)
 入園式に続いて、創立者の山本伸一も加わり、園児たちの記念撮影が行われた。
 四列に並んでの撮影であったが、一回目の組は、比較的スムーズに終わった。
 二回目は、並ぶのに手間取った。ようやくみんなが並んだ時、一人の女の子が泣き始めた。伸一は、「よしよし」とあやしながら、この子を自身の膝の上に乗せた。
 これで撮影できるかと思いきや、今度は、別の園児が、大きな声で言った。
 「おしっこ!」
 母親が飛んで来て、園児を連れてトイレに走った。その間に、伸一の膝の上に乗っていた子が泣きやみ、歩き始めようとした。
 伸一は、つかまえて、抱き締める。
 ここで、シャッターが切られた。すると、廊下の方から声がした。
 「おしっこの子が、入っていませーん」
 爆笑が広がった。
 にぎやかな記念撮影が終了すると、園児たちは、遊戯室から、それぞれの保育室に向かった。
 だが、この移動が、大変であった。列から外れて迷う子もいて、たちまちロビーは園児であふれた。子どもたちが、騒ぎだした。
 見かねた伸一は、マイクを手にした。
 「ばら組さんは、いますか! はい、こっちに来て、真っすぐ歩いて行こうね。
 それから、ひまわり組さんは、手をあげてください!」
 「はーい」と大勢の子が手をあげた。
 「はい、そのまま、一列に並びましょう」
 その姿を見て、学園理事長の青田進は、ハッとした。
 ″一旦緩急の時は、立場など関係なく、現場に飛び込んで働くんだ。ただ傍観し、手をこまぬいていては、絶対にならない――先生は、そのことを、学園の私たち首脳に、身をもって教えてくださっているんだ!″
 青田も、子どもたちを誘導した。
 伸一の率先垂範の行動は、大人たちへの教育でもあった。
26  未来(26)
 クラスごとの集いのあと、幼稚園の庭で、記念植樹が行われた。「王子桜」「王女桜」には、山本伸一と園児が一緒にシャベルを持って土をかけた。また、「父桜」「母桜」の植樹は、保護者の代表が行った。
 庭に揚げられた「鯉のぼり」が、風に泳ぎながら、その光景を見守っていた。
 入園式を終えた園児と保護者らは、園舎の玄関に立て掛けられた、「入園おめでとう」という看板の横や、幼稚園のバスの前で、記念のカメラに納まっていた。
 このバスは、クリーム色の車体で、ウサギやゾウ、サル、キリン、リスなどの絵が描かれていた。園児たちは、その絵を指でなぞったり、バスのなかをのぞき込もうとしたりする。バスが気になって仕方がないようだ。
 伸一は、園長の館野光三に尋ねた。
 「今日は、バスは出さないんですか」
 「明朝の登園からとなっております」
 「そうですか……。子どもたちが、かなり興味をもっているようなので、試運転ということで、これから走らせてはどうだろうか。私も一緒に乗って、みんなを送りますよ」
 「えっ、山本先生がですか!」
 頷く伸一を見て、館野は微笑んだ。そして、園児たちに発表した。 「皆さん、今日は、創立者の山本先生が、バスで皆さんを送ってくださることになりました」
 園児からも父母からも、歓声があがった。
 伸一は、園児の通園状況を、できる限り自分の目で確かめておきたかった。″どんなコースを回るのか″″時間は、どのぐらいかかるのか″″安全な乗り降りができるのか″など、状況を正しく把握していなくては、″見守る″ことはできないからだ。
 彼は、一つ一つを、決してなおざりにはしなかった。小さなことを見過ごすことが、大きな事故につながりかねないからである。
 誰も気にもとめないような細かいこと、小さなことにも気を配り、完璧にしていこうという行動こそ、責任感の表れといえよう。
27  未来(27)
 札幌創価幼稚園のバスには、四、五十分で戻ってこられる三つのコースがあった。それぞれに、何カ所か、園児が乗り降りする場所が定められていた。
 この日は、そのうちの一コースだけを運行することになった。
 園児たちは、山本伸一を囲むように席に座った。バスが走り出すと、伸一は、子どもたちに語りかけた。 「『むすんでひらいて』を歌おうよ」
 「うん、いいよ」
 皆が口々に言い、合唱が始まった。
 歌い終わると、子どもたちは、ますます元気づき、園児の一人が言った。
 「ねえ、なぞなぞしようよ」
 「いいよ」と、伸一が答えると、「やったー」と声をあげた。
 「じゃあ出すよ。大きな羽をつけて、上がったり下がったりするもの、なあーに?」
 「チョウチョかな?」
 「当たり!」
 乗降場所に着くと、数人ずつ、バスから降りて行く。伸一は、そのたびに「さようなら。また明日ね」と、手を振って送った。
 「山本先生、ありがとう! さようなら」
 子どもたちも、嬉しそうに言い、母親に手を引かれて家に向かって行く。
 バスが、交差点で信号待ちをしていた時のことであった。「プスッ」という音がして、エンジンが止まってしまった。運転手が何度もキーを回したが、エンジンはかからない。バスの後ろには渋滞の車列ができていく。
 運転手の青年は、顔色を失い、バスから降りて、バッテリーを調べた。
 伸一は、子どもたちを不安にさせないように、なぞなぞなど、遊びを続けた。母親たちも、その伸一を見て、安心したようだ。
 彼は、微笑みながら、母親に言った。
 「ご家庭でも、何があっても、お母さんが悠然としていれば、子どもは安心します。その強さこそが、愛情なんです。それが、子どもを守ることにもつながります」
28  未来(28)
 運転手がバッテリーを調べると、端子につけていた線が外れていた。
 それをつないで、キーを回すと、エンジンはスムーズに動き始めた。
 バスは十日ほど前から試運転を始め、何度もコースを回り、園児の乗降場所を確認してきた。その間、一度も途中で止まることはなかった。どうやら、そこから油断が生じ、この日は、点検を怠っていたようだ。
 これまで大丈夫だったからといって、今日も大丈夫であるという保証はない。毎回、点検し、万全を期すことが、無事故を貫く要件である。
 幼稚園に戻った運転手の青年は、職員室にいた山本伸一のところに、謝りに来た。
 その誠実さが、伸一は嬉しかった。
 「無事故でいくんだよ。それには、油断をしないことだ。そして、事故を起こさないための原則を定め、それを徹底して順守していくことだよ。明日も、また、バスに乗って、二コースと三コースを回り、園児たちを送るからね。しっかり頼むよ。
 あの子どもたちは、二十一世紀を幸福と平和の沃野に変える大樹だ。よき種が、よき苗となり、よき大樹となるために、私は、生命を捧げる思いで、その種を育てようと決意しているんだよ」
 園児を大切にしようとする伸一の心を、運転手の青年は、ひしひしと感じた。
 ちょうど、この入園式の日、札幌創価幼稚園の近くにある羊ケ丘の展望台では、札幌農学校で初代の教頭として教育に当たった、クラーク博士の銅像の除幕式が行われた。
 札幌農学校でクラーク博士に教えを受けた学生の一人は、アメリカに帰国した師への手紙に、こう記した。
 「先生が当地で蒔かれた種は、とてもみごとな芽を出し始めました。時が来れば、よき果実を結ぶことは間違いありません」
 伸一は、札幌創価幼稚園に学んだ子どもたちも、やがて、見事な果実を結ぶことを確信していたのである。
29  未来(29)
 入園式の翌日、登園して来た園児たちの、元気な声が園舎に響いていた。
 保育室を回るために、ロビーに出て来た山本伸一は、園長の館野光三に言った。
 「にぎやかだね。でも、子どもたちが、うるさいぐらい元気なのは、すばらしいことなんだよ。それによって、周りが生命力をもらえるんだ。輪陀王の故事のようなものだ」
 御書によると、輪陀王は、白馬のいななきを聞いて、威光勢力を増す。その白馬は、白鳥の姿を見て、いなないたという。
 「元気な子どもの声を聞けば、家族も、地域の人たちも、″かわいいな。この子たちを守るために頑張ろう″と元気になる。それが、社会を向上、発展させていく力にもなる」
 伸一は、最初に、年少の「ばら組」の保育室を訪問した。
 彼は、皆に、パンとジュースを用意してきたことを告げたあと、こう尋ねた。
 「では、質問します。皆さんの担任の先生は、なんという先生ですか」
 「こんどうせんせいでーす!」
 皆が一斉に答えた。
 「はい、そうです。近藤先生は、最高の先生なんですよ。よかったね。皆さんは幸せなんです。先生の言うことを、よく聞いてください。私も、皆さんが立派に成長するまで、ずっと見守っていきます」
 伸一は、年長の三つの保育室でも、同じように担任の教師を誉め讃えた。園児が先生を好きになるように、また、若い教員が自信をもてるようにと、彼は彼の立場で、懸命に応援しようとしていたのである。
 この日、家に帰った園児が母親に言った。
 「お母さん、ぼくのクラスの先生は、最高の先生なんだよ。ぼくは、幸せなんだよ」
 人を尊敬する心を、植え付けることこそ、人間教育の肝要といえよう。
 「人間として人間を尊敬するということが、あらゆる高貴な感情の基礎である」とは、イギリスの女性解放思想の先駆者ウルストンクラフトが述べた真理の言葉である。
30  未来(30)
 札幌創価幼稚園の園児たちは、入園二日目の帰りの時間を迎えた。山本伸一は、この日は、二コース、三コースを回るバスに乗って、園児たちを送ることにしていた。
 教員が、二コースのバスに乗る園児の、名前と顔を確認すると、女の子が一人いない。
 伸一が玄関を見に行くと、まごまごしている子どもがいた。二コースのバスに乗る園児であった。
 「さあ、みんなでバスに乗って帰ろうね」
 彼は、子どもの手を取ってバスに向かい、一緒に乗り込んだ。
 車中、伸一が、園児たちにマイクを回すと、次々と、童謡やテレビの子ども向け番組のテーマソングを歌い始めた。まるで、遠足のようである。伸一も共に口ずさんだ。
 クイズも出し合った。
 二コースを回って、幼稚園に戻ると、三コースの園児が乗り込んできた。伸一は、再び子どもたちと出発し、また、車内で交歓のひと時を過ごすのであった。
 この日は、乗降場所で、園児の名前を確認しながら降ろすのに手間取ったこともあり、バスはかなり遅れてしまった。三十分近くも待っていた母親もいた。
 伸一は、申し訳ない思いで、胸がいっぱいだった。バスの時間帯も、再検討する必要があるかもしれないと思った。
 彼は、降車した子どもたちを見送りながら、バスが止まる場所の交通量や、安全状況などを、詳細にチェックしていった。
 計画と現実との間には、さまざまな違いが生じるものである。だから、実際に行って、検証してみることが大事になるのだ。
 伸一自身、常に、そう努めてきた。机上の空論に基づいて計画が実行に移されれば、現実とのの大きな違いが生じ、混乱をもたらすことになる。場合によっては、事故にもつながりかねない。
 それだけに、細かな検証作業を繰り返し、現実に即して、計画を練り上げていくことが極めて重要になるのだ。
31  未来(31)
 園児をバスで送った山本伸一は、夕刻、札幌支部結成二十周年の集いに出席し、さらに札幌創価幼稚園に戻り、教職員と懇談した。
 伸一は、皆に要望を尋ねた。すると、通園バスに名前を付けてほしいとの意見が出た。
 「それは、みんなで決めましょう。すぐ、紙にバスの名前を書いて出してください」
 メモが伸一の前に出された。目を通した伸一は言った。
 「『きぼう号』にしよう」
 拍手がわき起こった。
 「ほかに何か、要望があったら、なんでも言ってください。園児たちのために、また、教職員の皆さんのために、私にできることは、なんでもしたいんです。
 と言っても、実際には、できないことの方が多いかもしれません。しかし、それが、私の心であることを知ってください」
 皆、静かに頷いた。入園式前日から今日までの、伸一の行動を見ていて、誰もが、その彼の心を、痛いほど感じていたのである。
 園長の館野光三は思った。
 ″こうした創立者の心を、伝えることができる教職員でなければならない。また、その創立者の心を感じ取ることができる、子どもたちに育てなければならない……″
 人の心がわかる子どもを育む。それが、人間教育の第一歩と言えるかもしれない。心が敏感であってこそ、感謝が生まれ、喜びも生まれる。そして、心が満たされていく。心を豊かにし、強くしていってこそ、幸福を築くことができる。心を育まずして教育はない。
 翌四月十八日は、伸一が東京に帰る日である。この日は日曜で幼稚園は休みであった。
 伸一は、出発前、園長の館野らに言った。
 「明日、子どもたちが、『山本先生は、どうしたの』と言ったら、『急に用事ができて、東京に帰ったけれど、みんなによろしくと言っていたよ』と伝えてください」
 伸一は、園児たちが寂しがることが、心配でならなかったのである。
32  未来(32)
 山本伸一は、東京に帰ると、札幌創価幼稚園に、雌雄一対の銀鶏を贈った。銀鶏はキジ目キジ科の鳥で、雄は、頭頂が緑で後頭部が赤く、白地に藍色の縞模様がある。雌は、雄の半分ほどの大きさであり、茶色である。
 さらに、六月上旬には、同じキジ科の雄の錦鶏を贈った。金色の冠羽に、金色のくちばしをもつ、王者の風格を備えた鳥であった。
 伸一は、子どもたちが好奇心に目を輝かせ、喜んで鳥を観察する姿を思うだけで、嬉しくなってくるのだ。
 六月二十日、札幌創価幼稚園では、初の運動会が行われた。この日、幼稚園の敷地内に創価教育の父・牧口常三郎が揮毫した「教育」の文字を刻んだ石碑と、伸一が揮毫した「つよく ただしく のびのびと」の文字を刻んだモットーの石碑が除幕された。
 幼稚園では、皆でこのモットーを唱和し、覚えるようにした。園児たちが、生活のなかで、困難なことに挑戦する「負けじ魂」を育み、善悪を見極め、明るく朗らかな人間性を培っていく規範とするためである。
 幼年期に、身についた生き方の規範は、人格の土台となり、根っことなっていく。それを教えることに、幼児教育の眼目がある。
 山本伸一が、再び札幌創価幼稚園を訪問したのは、一九七六年(昭和五十一年)の十月二十六日のことであった。
 「せんせい、きた、きた!」
 正午過ぎ、車で幼稚園に到着した伸一を見つけると、子どもたちは小躍りした。満面の笑みで走ってくる園児たちを、伸一は、次々と抱き寄せ、頬ずりし、再会を喜び合った。
 この日は、十月生まれの園児たちの、誕生会が行われることになっていた。
 中国やインドの舞踊、木琴と鍵盤ハーモニカの合奏などが、クラスごとに披露された。
 わずか半年だが、子どもたちが大きく成長したことに、伸一は喜びを隠せなかった。
 また、園児からは、この日のためにと真心を込めた手作りの″レイ″が贈られた。
33  未来(33)
 誕生会の最後に、全員で札幌創価幼稚園の園歌を合唱した。五月に誕生した歌である。
 ピアノの調べに合わせて、園児たちのかわいらしい歌声が響いた。
 一、ひつじがおかの あおいやね
   ことりもげんきに うたってる
   やさしくみている やえざくら
   おうじ おうじょの きんのみち
 口を大きく開けて、声を張り上げて熱唱する王子王女たちの愛くるしい姿に、山本伸一は、目を細めながら、一緒に歌った。
 二、にじのトンネル はなどけい
   ゆめはおおきく ふくらんで
   やくそくします せんせいに
   つよく ただしく のびのびと
 合唱が終わると、彼はマイクを取った。
 「みんなの元気な、成長した姿を見て、本当に嬉しい。歌や演奏も、大変に上手です。
 この幼稚園は、日本、世界で、一番よい子が集まっている幼稚園です。このなかからは、不幸な人は一人も出てはならないし、出してもならない。みんなが、幸せになる権利があるんです。
 来年からは、たくさんの妹や弟も入ってきます。どうか、先生方の言うことをよく聞いて、仲良くしてあげてください。
 寒くても、暑くても、雪が降っても、いやなことがあっても、自分に負けないで、頑張り通してください。そして、お友だちと、一生涯の友情を結んでいってください。
 十一月三日に、東京で、小学校の起工式をします。起工式というのは、″これから建物をつくりますよ″という式なんです。
 これで、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院と全部そろいます。一貫した最高の教育の場ができるんです。
 また、皆さんにお会いしに来ます。おうちの方にも、よろしく伝えてください」
34  未来(34)
 山本伸一は、この日の夕方、園長の館野光三と各保育室を見て回った。動物園へ行った時のことを描いた絵など、″小さな芸術家″の力作が展示されていた。
 さらに、保育室で、子どものイスに腰掛け、教職員との懇談が始まった。伸一は、教員が用意した、第一回「未来っ子まつり」や秋の遠足のアルバムなどを丹念に見ながら、園児の成長の歩みを振り返った。
 それから、園児は、年末、いつまで幼稚園に来るのかを尋ね、こう語った。
 「実は、お正月のお年玉として、私が書いた童話『少年とさくら』の本を、園児全員に贈りたいと思っているんです。年内最後の登園日に間に合うようにします」
 教職員は、日々の業務に追われ、子どもたちのお正月を、どう祝うかなど、全く考えていなかった。それに対して、日々、多忙を極める、創価学会の会長である伸一が、常に園児のことを考えている事実に、皆、感嘆したのである。
 懇談の最後に、館野が言った。
 「山本先生は、今日、お帰りになりますので、園児に、何か、ご伝言をいただければと思いますが……」
 伸一は、頷いた。
 「わかりました。園児たちには、こう伝えてください。
 『皆さんは、私の代わりに留守番をしているつもりで、幼稚園を守ってください。そして、幼稚園を自分のおうちだと思って、大切にし、生涯、この幼稚園を守り抜いてください。いつも、いつも、みんなが幸せになるように祈っています』」
 「幼稚園を守り抜いてください」という園児への伝言が、教職員は意外だったようだ。
 しかし、使命を自覚するなかに、人間の成長はあるのだ。伸一は、園児たちを対等の人格と考え、創立者の自分と同じ自覚に立ってほしかった。使命の種子を植えたかったのである。そこに、教育の要諦があるというのが、彼の確信であった。
35  未来(35)
 札幌創価幼稚園では、一九七七年(昭和五十二年)の三月に第一回の卒園式が、四月には第二回の入園式が行われた。しかし、山本伸一は、どうしても出席することができず、万感の思いを込めて、メッセージを送った。
 この年には、クラスを増設し、年少二クラス、年長四クラスの六クラスとなった。
 伸一は、子どもたちに会うため、九月に、幼稚園を訪問し、誕生会に出席した。
 開園三年目の、七八年(同五十三年)四月の入園式にも、彼はメッセージを送った。
 そのなかで伸一は、園児たちに、「三つの約束」をしようと呼びかけた。
 一、自分のことは自分でしましょう
 一、お友だちと仲よくしましょう
 一、明るく元気にあいさつしましょう
 この年度から、札幌創価幼稚園では、さらに、年少二クラス、年長六クラスとなり、開園時の倍となる八クラスに発展したのだ。
 伸一は、この七八年の六月八日から二十三日まで、北海道に滞在し、十二日には、教職員と札幌市内で懇談した。そして、二十日に、幼稚園を訪問したのである。
 四度目となるこの訪問で、伸一は、園児と記念撮影した。
 伸一が近づくと、子どもたちは握手をしようと、もみじのような手を伸ばしてくる。
 「ありがとう! 元気でね!」
 伸一は、一人ひとりに声をかけながら、その手を握り締めていった。
 記念撮影の終了後には、園児から伸一に花束が贈られた。
 引き続き、伸一と園児の手で、園歌の銘板の除幕式が行われ、皆で園歌を合唱した。さらに、園児たちは、「三つの約束」を、声高らかに唱和した。毎日、あいさつのあとに、これを行っているという。
 約束は、成長の種子である。約束したことを果たそうと心に決めて、日々、努力していくなかに、人間は成長を遂げていくのだ。
36  未来(36)
 未来に希望があれば、人生は幸福である。
 未来への挑戦があれば、生命は躍動する。
 羽ばたけ! 大いなる明日へ!
 人類の平和と勝利のために!
 山本伸一は、札幌創価幼稚園の園児に、卒園生に、常に、こう心で呼びかけていた。
 多忙を極める伸一は、なかなか幼稚園に足を運ぶ機会はもてなかった。 伸一の五回目の訪問は一九八二年(昭和五十七年)の六月であり、六回目は九〇年(平成二年)七月、七回目が九一年(同三年)八月、八回目が九二年(同四年)八月、九回目が九四年(同六年)八月である。
 しかし、幼稚園のことが、彼の頭から離れることはなかった。入園式や卒園式には、園児たちに思いを馳せながら、メッセージを書き送った。また、世界の各地で購入した絵葉書や民芸品、さらに、文房具や縫いぐるみなども、折にふれ、プレゼントした。
 ″わが心よ、園児に届け!″と、祈るような気持ちで贈ったのである。
 教員たちも、創価の幼児教育の新しい道を開こうと、懸命であった。創価教育の父・牧口常三郎の『創価教育学体系』や、伸一の教育についての指導をまとめた『人間教育の指針』も、徹底して学んだ。
 そして、幼稚園のモットーである、「つよく ただしく のびのびと」を実現していくために、子どもたちのもっている無限の可能性を尊重し、自主性、主体性を引き出す教育をめざし、研究していった。
 それには、まず、人間生活の基本となる正しい習慣を、幼児期に、身につけさせることが大事になる。そこで、「自分のことは自分でしましょう」「お友だちと仲よくしましょう」「明るく元気にあいさつしましょう」という、伸一との「三つの約束」が身につくように、教員たちは奮闘していった。
 基本を教え込むには、忍耐強さが求められる。地味で目立たぬ労作業である。しかし、そこから、すべては開花していくのだ。
37  未来(37)
 子どもは、自分のことは、自分でできるようになりたいと思っている。
 入園当初、多くの園児が歓声をあげている時に、泣き出す子どもがいた。
 札幌創価幼稚園の教員たちは、それは、集団生活の第一歩を踏み出そうとする子どもの、自己主張の声であると、とらえた。
 「なんで泣いているの?」
 教員が聞いても、すぐに答えは返ってこない。なだめながら、根気強く、笑顔で尋ねる。
 「泣かずに言ってごらん」
 ようやく、訳を話し始める。
 ――「靴が脱げないよう」「ボタンがとめられないよ」など、理由はさまざまだ。
 「大丈夫だよ。ゆっくりやってごらん」
 時間はかかっても、やり方を教えるだけで、代わりにやることはしない。
 「頑張ろうね。もう少しだよ」
 問われるのは、教員の粘り強さである。教育は、根比べでもある。″だめだ!″と、投げ出すことは、教員自身の敗北を意味する。
 人を育てることは、自分を磨き、自分を育てていくことでもある。
 できた時の、園児の顔は誇らかだ。自分のもっている可能性に気づき、その力を引き出した、喜びの表情だ。この達成感が、強さにつながっていくのである。
 また、子どもは、お友だちと仲よくしようとすることで、人を思いやる心を育む。
 左手足に障がいがある女の子がいた。負けず嫌いの性格で、みんなと一緒に、縄跳びにも挑戦した。しかし、うまくいかない。最初は、その様子を見て、笑う子どももいた。
 すると、それでは、モットーの「ただしく」や、「三つの約束」の「お友だちと仲よく」とは違うという声が、子どもたちからあがった。
 また、教員は、″自分が、その子の立場だったら、どう感じるか″を訴えた。
 やがて、皆が、彼女を応援するようになった。頑張る姿を、すごいと思うようになっていったのである。そして、″難しい縄跳び″ができると、拍手が起こるようになった。
38  未来(38)
 友だちと仲よくしようとするなかで、子どもたちは、社会感覚を培っていく。
 園児は、みんなで遊ぶようになると、遊具の奪い合いが始まる。しかし、教員たちは、すぐには止めない。トラブルは、子どもたちが成長していくチャンスだからだ。話し合いをさせるのである。
 園児たちは、どうすれば、少ない遊具で、みんなが遊べるかを考える。そして、順番で使おうということになる。ルールづくりが始まるのだ。
 教員は、園児の意見を整理しながら、そこに至るまで、忍耐強く待つ――。
 ある時、園児がイスを並べ、バスごっこを始めた。二人の園児が、運転手をやると言ってきかず、互いに泣きだしてしまった。
 しばらくすると、泣いていた子どもの一人が、近くにあったイスを運んで来て、前に並べた。運転席が二つになった。
 「じゃあ、二人運転手ね」
 こう言って、仲よく遊び始めた。
 それ以来、二人は、大の仲よしになった。
 子どもの考えは、柔軟である。問題解決の力ももっている。それをいかに引き出していくかが教育である。
 札幌創価幼稚園で、最も力を入れてきたのが、山本伸一との「三つの約束」にもある、あいさつの励行であった。
 「言葉は人間を近づけて親しくさせる」とは、文豪トルストイの洞察だ。あいさつは、社会生活の第一歩となる。
 朝、園児たちは、通園バスから降りると、並んで、大きな声で、「せんせい、おはようございます! みなさん、おはようございます!」とあいさつをする。
 入園当初は、うまくできなかった園児たちも、続けるうちに、われ先に並び、目を輝かせて、あいさつをするようになる。
 さらに、それが自信となり、近所のおじさんやおばさん、街ですれ違った人にも、元気にあいさつをするようになっていった。
 自信は、積極性の原動力となる。
39  未来(39)
 札幌創価幼稚園は、開園から三十四周年を迎える。卒園生は六千人を超えている。
 そのなかには、工学博士もいれば、弁護士もいる。幼稚園・小学校・中学校・高校の教師や、大学で教壇に立つ人など、教育者も多い。また、看護師、栄養士、飛行機の客室乗務員など、実に多彩である。
 札幌創価幼稚園の教員にも、数人がなっている。同園の教員になった第一期生の女性は、幼稚園時代を振り返って、語っている。
 「入園式の日、創立者の山本先生が、迎えてくれたことを覚えています。『あっ、先生だ!』と指をさすと、『おいで!』と言って、膝の上に乗せてくださいました。
 幼稚園では、担任の先生から、いつも『あなたたちは、未来の国から来た、王子様、王女様なんだよ』と言われ、本当に大事にされていました。私は、創価幼稚園に入るまで、近くの保育園に通っていましたので、子どもへの接し方の違いが、よくわかりました。
 創価幼稚園では、『やめなさい』『だめでしょ!』など、命令口調で、上からものを言われる感じで叱られた記憶はありません。
 いたずらをした時も、先生方がしゃがみ、子どもと同じ目線で視線を合わせ、手を握って、『なぜ、こういうことをしたの?』と聞いてくれました。
 子ども心にも、園児の人格を尊重し、話し合うなかで、物事を解決していこうという先生方の姿勢が感じられました。
 また、何よりも、子どもに体当たりしてくるような情熱を感じていました。だから、幼稚園が、大好きになっていました。
 そして、大きくなったら、この幼稚園の先生になりたいと思ったんです」
 創価幼稚園の教員になった卒園生は、皆、幼稚園の時に、教員の優しさや心遣い、さらに、一生懸命さに感動したことを、進路決定の理由としてあげている。
 「教師となる者の最も重要な資質は、熱心であるということである」とは、アメリカの哲学者デューイの言葉である。
40  未来(40)
 山本伸一は、園児たちに、「生涯、この幼稚園を守り抜いてください」と伝言したことがあった。その自覚は、卒園生の心に、深く刻まれていったようだ。
 卒園生の多くが、卒園式や運動会などの催しがあると、勇んで手伝いに駆けつけて来る。それは、よき伝統となっている。
 一方、教員たちには、生涯、園児を守り抜こうとの気概がみなぎっていた。幼稚園を巣立って、十年、二十年とたっても、卒園生に何かあると、電話をするなどして、励ます教員も少なくない。
 札幌創価幼稚園の出身であることは、卒園生たちの大きな誇りとなっている。
 この幼稚園出身の初の工学博士となる、第三期生の男子は、伸一と峯子が幼稚園を訪問した折に、代表として峯子に花束を手渡した園児である。彼は、「それが、生涯の思い出であり、札幌創価幼稚園出身の誇りが、自分を支えてくれました」と語る。
 幼稚園を巣立った彼は、やがて、東京の創価高校に進む。そして、東京大学に合格し、さらに、大学院へ。しかし、英才の集まる研究室で自信を失い、本当に博士号が取れるのかと、悶々とする日もあった。
 彼は、何度も自分に言い聞かせた。
 ″ぼくは、札幌創価幼稚園で育った師子の子だ。創立者の弟子だ。負けるものか! 創価幼稚園の出身者として、博士号を取って、後輩たちの道を切り開くんだ。そして、絶対に、創立者の期待に応えるんだ!″
 すると、力がわいた。闘志が込み上げてくるのを覚えた。
 伸一にとっても、園児たちは宝であり、その存在は、生涯の誇りであった。互いに誇りとし合う、この魂の交流にこそ師弟がある。
  使命ある
    あの子この児を
      忘れまじ
    来たる世紀の
      主役なりせば
41  未来(41)
 札幌の地に誕生した創価幼稚園に続いて、その後、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、韓国にも、現地のSGI(創価学会インタナショナル)によって、創価幼稚園が開設されていった。
 香港創価幼稚園の開園式が行われたのは、一九九二年(平成四年)のことであった。
 香港では、八三年(昭和五十八年)に教育部が結成され、創価教育、学会の人間主義を基調にした教育への探究が重ねられてきた。そのなかで、次第に、幼稚園設立の機運が高まっていったのである。
 八八年(同六十三年)に、香港文化会館が落成すると、それまでの中心会館であった香港センターのあった場所に、幼稚園を設立し、創価教育の実践に着手してはどうかとの意見が出された。そして、九〇年(平成二年)、李広康(レイ・ゴンホン)理事長を委員長に設立準備委員会が発足し、具体的な検討が始まったのである。
 ″山本伸一先生に創立者になっていただきたい″というのが、委員たちの強い思いであった。牧口常三郎の創価教育を根幹とし、伸一の人間主義の哲学を教育思想として、子どもの幸福を築き、世界平和を担うリーダーを育てるのが幼稚園設立の趣旨であるからだ。
 この年、香港SGIは、伸一に香港創価幼稚園の創立者となるよう要請したのである。
 伸一は快諾した。
 香港社会は、青年層の占める割合が高い。香港の未来のためには、その子どもたちの世代を育む、幼児教育を充実させる必要がある。それには、まず、優れた幼稚園をつくることだ。一つの立派な手本ができれば、全体が向上、発展する――伸一は、そう考えていたのである。
 また、当時は、九七年(同九年)の香港の中国への返還を前に、海外に移住する動きなどがあり、人びとの心も微妙に揺れていた。
 そのなかで、伸一は、幼稚園の創立を通して、揺るぎない未来への希望を送ろうと決意したのである。
42  未来(42)
 一九九一年(平成三年)の一月、山本伸一は峯子と共に、香港創価幼稚園の起工式に出席した。
 香港センターがあったこの場所は、九竜塘(カオルントン)の閑静な住宅街にあった。六六年(昭和四十一年)、ここに香港会館がオープンし、八〇年(同五十五年)に香港センターと改称されたが、一貫して、香港社会に幸福と平和の光を送る発信地となってきた。
 その場所に、未来からの使者たちが集い、やがて、新世紀の平和の大空に羽ばたいていくことを思うと、彼の胸は躍った。
 幼稚園の起工式で、伸一は、万感の思いを込めて、「二十一世紀を担う世界の指導者を育成するため、私も全力を尽くして応援してまいります」とあいさつした。
 そして、九二年(平成四年)の九月、三歳から五歳までの百七十人が、第一期生として入園し、香港創価幼稚園はスタートした。
 同幼稚園のモットーは、日本の札幌創価幼稚園と同じく、「堅強(つよく) 正直(ただしく) 活撥(のびのびと)」である。
 伸一は、開園式に寄せたメッセージのなかで、「ここは、みなさんの″お城″です。みなさんは、このお城の″王子″であり、″王女″です」と綴っている。 ″王子″″王女″との呼びかけに、教員たちは、教育は、どこまでも子どもの幸福のためのものであり、子どもを対等な人格としてとらえ、尊重していく、創立者の教育哲学を実感したのである。
 また、自分たちも、その思いで、創価の幼児教育のパイオニアとして、最高の教育を行っていこうと、研究を重ねていった。
 そして、生み出された工夫の一つが、園児の日常生活に根差した″実地の教育″を行っていくということであった。
 たとえば、「秋」という季節を理解させるために、教師が「秋」について語ったあと、近くの公園に出かける。そして、木の葉が落ちることなど、自然界の事象を通して、「秋」を感じさせながら、教えるのである。
43  未来(43)
 山本伸一が、香港創価幼稚園を初訪問したのは、開園の翌年となる一九九三年(平成五年)の五月のことであった。
 彼は、妻の峯子と共に、幼稚園の講堂で行われた、第一回「創価王子王女の集い」に出席した。伸一たちが姿を現すと、園児たちの元気な声が響いた。
 「熱烈歓迎、先生!」
 教師が言う。
 「皆さーん、創立者の山本先生をお迎えできて、よかったですね」
 すると、子どもたちは、投げキッスをして、喜びを表す。伸一も、直ちにそれに応え、投げキッスを返す。
 和気あいあいとしたなかで、「創価王子王女の集い」が始まった。
 スズメ、ミツバチ、チョウに扮しての合唱もあった。インディアンの衣装を身につけての演技もあった。凛々しい体操もあった。
 伸一は、拍手を送り、皆の熱演を讃えた。
 「皆さんの演技はとてもすばらしかったです。世界一です。シンガポールにも創価幼稚園ができました。将来はマレーシアにもできます。日本にもあります。みんな、皆さんのお友だちです」
 この日、伸一は、香港創価幼稚園に贈ろうと、原稿用紙に、指針を記した。
 「君たちよ!正しい人に!美心の人に!」
 さらに、別の紙に、こう認めた。
 「香港幼稚園は 私の生命也」
 通訳が、その言葉を伝えると、教員たちは、胸を詰まらせた。感動を覚えた。いや、園児たちも、小さな胸に、伸一の思いを、強く感じ取っていた。
 真心には、国境も、年代の壁もない。相手を思う一念から紡ぎ出された言葉は、魂の共鳴板を激しく叩くのだ。
 また、伸一は、香港創価幼稚園の訪問を記念して、プルメリアと呼ばれる、白と黄色の花をつける木を植樹した。
 さらに、園児らと共に、記念のカメラにも納まったのである。
44  未来(44)
 香港創価幼稚園は、開園一年目から高い評価を得ていった。
 香港の幼稚園の園長五十人が視察に訪れた際にも、多くの讃辞が寄せられた。
 「環境の美しさは群を抜いており、設備も最先端のものを使っておられる。大変に参考になりました」との声もあった。
 事実、環境や設備の充実には、関係者は努力に努力を重ねてきた。階段の手すり一つにも心を配り、身長に合わせて、三段階の高さの違う手すりを取り付けた。思いやりと責任感こそが、工夫を生む母となる。
 さらに、園長らは、学習の仕方を見て、「創立者のすばらしい理念のもと、子どもたちの心を大きく広げていく工夫が随所に見られる」と感想を述べた。また、「多くの教育者に、この幼稚園を見学してもらいたい。きっと教育に対する考え方を、根本から変えることになると思う」との意見もあった。
 この香港創価幼稚園の中心となってきたのが、園長の黄瑞玉(ウォン・スイヨッ)であった。彼女は、中・小学校の教員として豊富な経験をもち、小学校では教頭も務めてきた。勤めた小学校を、地域で評判の優良校にした実績もある。また、児童心理学の研究のために、アメリカにも留学している。
 園児一人ひとりとの、心の交流こそ、教育の第一歩であると考えた彼女は、開園の日以来、来る日も、来る日も、玄関で登園してくる子どもたちを、笑顔で迎えてきた。
 開園から六年ほどしたころ、その黄園長の姿が消えた。癌が発見されたのである。
 彼女には、深く胸に刻まれた、魂ともいうべき言葉があった。それは、職員室の壁に掲げられた「香港幼稚園は 私の生命也」という、山本伸一が認めた、あの言葉であった。
 黄園長は、癌の摘出手術を受けるために入院した。創立者の生命である幼稚園と園児たちから離れることが、辛くて、悔しくて仕方なかった。病魔に蝕まれた自分が、情けなく、不甲斐なかった。病院のベッドで園児たちを思い浮かべては、涙に暮れた。
45  未来(45)
 香港創価幼稚園の園長・黄瑞玉には、癌の手術後も、苦しい治療の日々が続いていた。
 医師は言った。
 「苦痛に耐え、打ち勝っていくためには、何か、楽しいことを考えることです」
 ――彼女は、健康を回復し、微笑みながら、登園してくる子どもたちを迎える、自分の姿を思い浮かべた。すると、それだけで、幸せな気分になれた。
 さらに、創立者の山本伸一と一緒に、幼稚園の玄関に立つ自分を想像した。希望の光が、全身に降り注ぐ思いがした。
 ″園児たちが、山本先生が、私を、待っていてくれる。私は、山本先生に代わって、園児たちに生涯を捧げるのだ。絶対に負けるものか! 病を克服して、また、幼稚園の玄関で、子どもたちを出迎え、見送ろう!″
 人生の崇高な意味を自覚する時、生命に内在する無限の力がほとばしる。
 やがて、黄園長は病を乗り越え、再び、幼稚園の玄関に立った。
 彼女は、伸一と一緒に出迎え、見送っているつもりで、毎日、園児たちに向かって、笑みの花を贈る。
 二〇〇〇年(平成十二年)十二月、香港を訪問した伸一は、卒園生の第一期から第三期の代表と再会し、記念のカメラに納まった。
 「お会いできて嬉しい。皆さんは、私の誇りです。宝です」
 第一期生は、既に中学二年生になっていた。
 伸一は、成長した皆の姿に目を見張った。未来へ伸びゆく姿に、深い感慨を覚えた。
 代表が、伸一に花束を贈った。
 「ありがとう。大きくなったね。立派に成長したね……」
 創立者と卒園生の語らいを見る黄園長の頬に、涙が光っていた。それは、子どもたちへの情愛と、生きる喜びの結晶でもあった。
 人間教育の根幹をなすもの――それは、子どもへの愛情である。愛情は、子どもの幸福への願いとなり、その実現こそが、教育の目的であるからだ。
46  未来(46)
 二〇〇三年(平成十五年)のことである。
 この年、香港で新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)が猛威をふるった。
 山本伸一は、新型肺炎流行のニュースを聞くや、直ちに、子ども用のマスクを大量に購入し、香港創価幼稚園に送った。香港の人びとが、事態の深刻さを意識し、皆がマスクを着用するようになる前のことである。
 それから間もなく、香港では、子ども用のマスクが品切れとなった。伸一の配慮に、園児の父母たちは、喜び、感謝してくれた。
 「機会を的確にとらえることと迅速であることとは、大将たる者の最高の特質である」とは、フランスの大思想家モンテーニュが『エセー』に記した、ローマの英雄・カエサル(英語名・シーザー)の言葉である。
 新型肺炎が流行した香港では、三月末から、すべての幼稚園や学校が休園・休校となった。幼稚園の休園は、二カ月近くも続くことになる。
 香港創価幼稚園の教員たちは、語り合った。
 「園児たちのことを、深く思ってくださる山本先生のお心を体して、私たちも、子どもたちのために、何かできることはないか、考えましょう」
 皆が、知恵を絞った。そして、休園中でも、家庭で学習ができるよう、ビデオCDを自分たちでつくり、園児の家庭に送ったのだ。
 内容は、多彩であった。物語の読み聞かせもあれば、図工や歌、体操、さらに、英語や中国語の学習指導もある。普段、幼稚園にいるのと同じように、すべてを学べるようにしようと、懸命に製作に取り組んだのだ。
 また、ビデオCDでは、教員一人ひとりがカメラに向かって手を振り、子どもたちに語りかけるシーンもあった。
 大好評だった。何度も何度も、このビデオCDを見て、学習に励む子どももいた。幼稚園に電話をかけてきて、「先生に早く会いたいよ」と、涙声で訴える子もいた。
 幼稚園のこの対応は、高く評価され、香港の新聞にも大きく取り上げられたのである。
47  未来(47)
 二〇〇六年(平成十八年)には、香港政府教育局による香港創価幼稚園の視察が行われた。
 四日間、十六回にわたる授業参観のほか、教職員と保護者へのアンケート調査、給食や事務管理のチェックなども行われ、視察の結果が評定リポートとして公表されるのである。
 視察の対象となった三十五園のうち、創価幼稚園は、卓越した実績で高い評価を受けた四つの幼稚園の一つとなった。
 リポートでは、まず、「創立の主体となっている団体(SGI)は、教育に関する経験が豊富であり、国際的な視野をもっている」とし、SGIが、教育の向上と世界平和のために尽力してきた事実を述べている。
 教育内容については「『人間主義の教育』を実践しており、バランスのとれたカリキュラム(教育課程)により、園児の体力、知力、外国語、情緒、美的感覚、集団行動等の能力が、全体的に向上するよう考慮されている」とある。
 そして、こう総括している。
 「香港創価幼稚園は、保護者のみならず、社会的にも高い評価を得ている。その設備と環境は、まさに教育にふさわしいもので、園児たちは、そのなかで楽しく学習している。
 教職員の態度は、積極的、前向きであり、互いの協力も良好である。園児たちは、幼稚園生活を楽しんでおり、良い学習態度、他の園児との良い関係、良い生活習慣を築いている。保護者は、幼稚園を信頼し、家庭と幼稚園の間で緊密的な協力関係が結ばれている」
 また、二〇〇八年(同二十年)にも視察があり、この評定リポートでも、総合的に高く評価され、絶讃されたのである。
 さらに、二〇〇九年(同二十一年)には、香港創価幼稚園の教員三人が、優れた教育実績をあげた教員に与えられる「行政長官卓越教学賞」に輝いた。同幼稚園が「学齢期前教育機関の部」で唯一の受賞となった。
 これらは、香港創価幼稚園が、最優秀幼稚園であることの、政府による証明である。
 創価教育は、世界普遍の人間教育なのだ。
48  未来(48)
 香港創価幼稚園の開園から四カ月半後の一九九三年(平成五年)一月には、シンガポール創価幼稚園が開園している。
 創立者の山本伸一は、園児たちの健やかな成長を念願し、メッセージを寄せた。
 「シンガポールは、『獅子の国』。そして皆さんは、『獅子の子』です。『獅子の子』は、つよい子です。何事にも負けません。『獅子の子』は、ただしい子です。いつも正直です。そして、『獅子の子』は、のびのびと明るい子です。いつもほがらかで活発です」
 シンガポールは、中国系、マレー系、インド系など、多民族共存の国である。
 シンガポール創価幼稚園では、英語と中国語で授業・保育が行われる。園歌「太陽の子」の歌詞も、一番が英語、二番が中国語である。
 教員たちは、園児が、民族、宗教などの違いを超えて、どうすれば、互いによく理解し合い、心を結び合うことができるかに、力を注いでいった。平和教育といっても、人間自身の偏見や差別をなくしていくことが、最も重要なポイントであるからだ。
 幼稚園では、教員が話し合いを重ね、民族間の相互理解を深めていくには、単に「理解しよう」とするだけではなく、「違いを尊重する」ことを学ぼうという方針が決まった。
 そして、園児同士、民族による生活習慣や食生活などの違いを知り、学び合うようにしていったのである。
 また、国境を超えた友情をテーマにした、伸一の創作童話『太平洋にかける虹』などを教材にして、友情の大切さ、民族差別や戦争の愚かさを学べるようにした。
 さらに、教員たちは、学んだことを使い、「人を喜ばせる」ことの大切さを知る教育をめざしていった。そこに、人間主義の教育があると考えたからだ。
 たとえば、首飾りの作り方を覚えたら、「母の日」に首飾りをプレゼントする。母親は喜ぶ。そうした体験を積み重ねさせるなかで、「人が喜んでくれることを進んでする子ども」の育成をめざすのである。
49  未来(49)
 山本伸一が峯子と共に、シンガポール創価幼稚園を最初に訪れたのは、一九九五年(平成七年)の十一月であった。
 キラキラと瞳を輝かせる園児たちに、伸一は呼びかけた。
 「お父さん、お母さんを大切に! 幼稚園の先生を大切に! 兄弟姉妹を大切に! シンガポールの国を大切に!」
 「イェー!」という元気な声が、はね返る。
 「皆さんは、世界で活躍する人です。日本へも来てください。世界中に皆さんのお友だちがいます」
 彼は、″未来″との対話に余念がなかった。
 伸一と峯子は、二〇〇〇年(同十二年)の十一月にも、同幼稚園を訪問した。
  海のむこうの 希望の友よ
  静かにじっと 目をとじれば……
 その時、園児たちは、日本語の歌の合唱で伸一を迎えた。歌は、関西創価小学校の児童が作詞した「太平洋にかける虹」である。
 「日本語が上手だね。ありがとう!」
 伸一は、心から賞讃の拍手を送り、一人ひとりの手を握り、頬をなで、励ましていった。子どもたちの笑顔がまぶしかった。
 さらに、伸一は、園舎二階の鳳雛講堂の前で、「創価教育原点の碑」の除幕式に臨んだ。これは、「多民族共生の天地・シンガポールから創価教育を世界に広げゆく」との誓いを込めて設置されたものだ。
 伸一は、園長や教員らに訴えた。
 「シンガポール創価幼稚園は、世界市民をつくる、創価教育の原点です。その自負をもって、堂々と進んでください」
 ここには、民族を超えた、麗しき人間共和の縮図がある――その広がりが、未来の社会となるのだ。 また、彼は、幼稚園にピアノを寄贈した。
 ″なかなか訪問できないが、みんなと一緒だよ。共に平和の調べを奏でていこうね″との、思いを込めてのプレゼントであった。
50  未来(50)
 シンガポール創価幼稚園は、開園以来、世界市民を育む語学教育、人間性を育む情操教育、パソコンなどの最新設備を駆使した先端教育が、社会の注目を浴びてきた。
 シンガポール政府からは、「優れた教育プログラムと環境を有する″モデル幼稚園″」と認定されている。
 さらに、二〇〇七年(平成十九年)、シンガポール創価幼稚園の教員が、教育省の「幼児教育最優秀教師賞」に輝いている。
 一九九五年(同七年)四月には、マレーシア創価幼稚園の開園式が行われた。マレーシアも、多民族国家であり、同幼稚園も、世界市民の育成に力を注いできた。マレー語、中国語(北京語)、英語の三つの言語の学習が、カリキュラムに盛り込まれている。
 園児が、各家庭で使っているのは、マレー語、中国語、英語、タミル語などである。しかも、中国語は、北京語、福建語、広東語などに分かれる。それだけに、意思の疎通、相互理解のためには、語学教育が極めて重要であると考え、実施されたものだ。
 そして、三つの言語を習得するため、週ごとに、マレー語週、中国語週、英語週とし、言葉の習得だけでなく、文化も学んでいく。
 たとえば、マレー語週になると、体操の時間には、マレーの音楽に合わせ、マレーのダンスを踊る。また、マレーに伝わる物語などを聴くのである。
 世界市民を育むうえで大切なことは、ただ言葉を理解するだけではなく、人種、民族、文化の違いを知り、その差異を尊重することであるとの考えに基づくものだ。
 「教育計画のための構想は世界市民主義的に立てられなければならない」とは、近代哲学の祖カントの言葉である。
 創価幼稚園の教育には、カントの主張の実現がある。それは、二十一世紀は世界が一つになる「地球民族主義」の時代、人間共和の時代にしなければならないとの、明確なビジョンがあってこそ、成り立つといってよい。
51  未来(51)
 マレーシア創価幼稚園の、ある園児の母親は、子どもの問いに、驚きを覚えた。
 「お母さん、地球が病気になったら、どうやって地球を守ってあげればいい?」
 そして、母親は、幼稚園で、「地球も人間も同じ生命であり、すべてのものが、互いに関係し合って成り立っている」と、教えていることを知ったのだ。それは、世界市民教育の基礎と言えよう。そこには、創立者の山本伸一の哲学がある。
 ――人間は、自然の恩恵を受けて生きている。したがって、自然を大切にすることが、人間を守ることになる。また、人間は、一人では生きられない。だから、両親や先生、友だちなどに感謝し、大切にすることだ。
 そうした考え方が、マレーシア創価幼稚園では、子どもたちの心に育まれている。
 ゆえに、幼稚園の随所で、園児たちが互いに助け合い、励まし合う姿が見られる。
 「自立」と「思いやり」を育てることに、教員たちは力を注いでいるのだ。
 また、園児たちが、幼稚園生活のなかで、体験を通して、さまざまな物事を学べるように努力している。
 料理作りも、その一つである。園児が、包丁やガスレンジを使って、料理を作るのだ。そのための、子ども用の調理場がある。
 子どもたちは、料理の準備を通して、トマトやジャガイモ、タマネギなど、いろいろな食材を知る。
 さらに、「それが幾つ必要なのか」「スープには、水の分量はどのくらい必要か」などを学習していく。つまり、楽しみながら、算数も学んでいくのである。
 そして、包丁などを使い、実際に料理していくなかで、どうすれば安全で、どうなれば危険なのかを、体得していくのだ。
 さらに、その作業を通して、母親など、日々、料理を作ってくれる人への、感謝の思いも増していくのである。
 生活のなかで身につけたことは忘れない。それは、一生の土台となる。
52  未来(52)
 創立者の山本伸一が、マレーシア創価幼稚園を訪問したのは、二〇〇〇年(平成十二年)の十二月のことであった。
 幼稚園の園舎に入ると、緑と白のシャツに緑の半ズボンの男の子や、赤と白のシャツに赤のスカートの女の子たちが、小さな手を盛んに叩いて歓迎してくれた。
 「ありがとう! みんな、頑張って勉強していますか!」
 伸一の呼びかけに、明るい声が、はね返る。
 「歌を歌おう!」
 彼が提案すると、すぐに元気な歌声が響いた。その歌声に合わせて、伸一は、手を振り、体を動かす。それを見つめる、園児たちの目がキラキラと輝いていた。
 園長から、子どもたちが、マレー語、中国語、英語を話せると聞いた伸一は、微笑みを浮かべて言った。
 「みんな、すごいね。将来は、世界中で活躍する人になるんだよ!」
 この日、彼は、記念植樹を行い、さらに「希望 勇気 友誼」という指針が刻まれた銘板の除幕式にも臨んだ。
 伸一は、妻の峯子に語った。
 「伸び伸びと、太陽の子どもたちが育っているね。嬉しいね。私は、この子どもたちの顔を、生命に刻んだよ。永遠に忘れることはないだろう。今日は″未来″と出会った思いだ。その″未来″は、大きな希望の輝きに満ちている。
 このマレーシア創価幼稚園の園児たちを、いや、世界の創価教育の子どもたちを、私は生涯、見守り続けていくよ!」
 マレーシア創価幼稚園も、マレーシア模範の幼稚園として、高い評価を得ている。
 二〇〇九年(同二十一年)四月、マレーシア公開大学の代表が幼稚園を訪問した折、教育・言語学部の副学部長は、その感想を「美しい場所、美しい人びと、美しい子どもたち」と記している。
 その感嘆の言葉には、マレーシア創価幼稚園への、強い共感と期待があふれている。
53  未来(53)
 創価教育の父である牧口常三郎初代会長の生誕百三十年に当たる二〇〇一年(平成十三年)六月、ブラジルのサンパウロで、ブラジル創価幼稚園の開園式が行われた。札幌創価幼稚園の開園から二十五年後のことだ。
 ブラジルSGIでは、一九九四年(同六年)から、教育部が、牧口の「創価教育学」に基づく、教育プログラム「牧口プロジェクト」を推進してきた。
 これは、教育の目的は子どもを幸福にすることであるとの、牧口の教育哲学を実践するもので、子どもたちが、美・利・善という価値を創造していくための教育である。
 初等教育学校(日本の小・中学校に相当)で、この授業を受けた子どもたちは、学ぶことに喜びを見いだし、思いやりを身につけるなど、人格的にも大きな成長を遂げていった。その教育実績を知り、「牧口プロジェクト」を取り入れる学校が広がり、百校ほどが実践校となっていった。
 その本格的な創価教育の場として、ブラジル創価幼稚園が誕生したのである。
 開園式には、創立者の山本伸一もメッセージを送り、大きな期待を寄せた。
 同幼稚園では、子どもたちが興味をもてる、生活に即した作業を通して、総合的に、さまざまな事柄が学べるような、学習方法がとられていった。
 その一つが野菜作りである。子どもたちが土を耕し、種を蒔き、野菜を育て、収穫する。
 種を蒔く時に、教師は言う。
 「この小さな種の中に、実もあれば、花もある。あなたたちも、同じように、お母さんの中に、小さな生命として宿り、頭や手や足ができていったのよ。そして、すべて小さなまま、赤ん坊として生まれ、それを、お母さんやお父さんが大事に育ててくれたの。
 野菜も、種からかわいがって、大切に土に入れ、水をやり、太陽の光で温めてあげれば、芽を出し、花を咲かせるわ」
 栽培の仕方だけでなく、生命の不思議さ、尊さを教えていくのである。
54  未来(54)
 ブラジル創価幼稚園での野菜の栽培を通して、子どもたちは、野菜の名前や種類、それぞれの野菜には、どんな栄養があるかを学んでいく。また、野菜の生育を観察することで、長さなどの測定の仕方も学ぶ。
 野菜を収穫すると、サンドイッチなどを作る。そして、それを皆で食べる。
 こうした学習に、子どもたちは好奇心をみなぎらせ、目を輝かせて取り組む。また、野菜の栽培によって、皆が、好んで野菜を食べるようになるという。
 そして、自分たちが育てた野菜を、家族にも食べてもらう。その家族が喜ぶ姿から、人のために尽くす「善」の創造の、すばらしさを学んでいくのである。
 子どもたちに、単に知識を詰め込むのではなく、創造力を培い、善、慈悲の心を育む教育への、社会の関心は強く、評価は高い。
 ブラジルでは、幼稚園に続いて、初等教育学校も開校。ブラジル創価学園として、人間主義に基づいた一貫教育をめざしている。
 山本伸一は、折々に、幼稚園をはじめ、ブラジル創価学園にメッセージを送ってきた。まだ、訪問できないでいるだけに、彼の思いは、ことのほか深かった。
 かつて教員をしていた長男の正弘に、自分に代わって訪問し、みんなを励ましてくるように託したこともある。
 伸一の心は、常に、ブラジル創価学園の子らと共にあった。
 彼は、よく妻の峯子と語り合った。
 「日本とは、地球の反対側にあるブラジルで、創価の人間教育が行われ、社会の高い評価を得ている。創価教育の父・牧口先生も、きっと喜ばれているよ」
 「そうですね。本当に、すごい時代になりましたね。二十一世紀は、きっと、南米大陸から、平和を創造する、新しい人間主義の大潮流が起こりますね。楽しみですわ」
 教育は、時代を変え、世界を変える。
 ″未来″は、燦然たる黄金の光を放ち始めたのである。
55  未来(55)
 二〇〇八年(平成二十年)の三月には、韓国のソウルに、世界で六番目となる「創価の人間教育」の幼稚園が開園した。
 自分の幸福はもとより、人びとの幸福を創造していく子どもたちを育てようとの趣旨から、その名を「幸福幼稚園」とした。
 幸福幼稚園は、豊かな緑に囲まれ、約三千平方メートルの敷地に立つ園舎は、地上三階、地下二階で、最新の設備を整えている。
 山本伸一は、戸田城聖が、韓・朝鮮半島の人びとの幸せと平和を、心の底から祈り念じていたことが思い出されてならなかった。
 なかでも一九五〇年(昭和二十五年)、朝鮮戦争(韓国戦争)が勃発した時、戸田が「かわいそうだ。あまりにも悲惨だ……。民衆一人ひとりの胸中に、平和の哲学を打ち立てるとともに、平和の指導者を育まねばならぬ」と語っていたことが忘れられなかった。
 その朝鮮戦争の休戦から五十五年、韓国に創価の人間主義教育の城が誕生したことに、伸一は、深い感慨を覚えた。
 彼は、幸福幼稚園の創立者として、未来に希望の陽光を仰ぐ思いで、開園式に、メッセージを送った。
 伸一は、そのなかで、一人ひとりが自分自身の幸福を築くだけでなく、周囲の人びとも幸福にしていける人に育つよう念願するとともに、「皆さんこそ、幸福をつくる『太陽の王子』であり、『太陽の王女』なのです」と訴えた。さらに、「この幸福幼稚園から、韓国の未来を、そして人類の未来を担いゆく大人材が、続々と躍り出ることを」と、満腔の期待を寄せたのである。
 ″韓国の、世界の、未来を頼むよ!″
 伸一は、心で、こう叫びながら、このメッセージを綴った。
 「善い教育とは、まさに世界のあらゆる善が生じる源泉にほかならない」とは、哲学者カントの洞察である。
 人間の一生には限りがある。だからこそ伸一は、次代のため、未来のために、″人″を残そうと、教育に生涯を捧げたのである。
56  未来(56)
 初代会長・牧口常三郎の『創価教育学体系』の第一巻が発刊された一九三〇年(昭和五年)の十一月十八日は、「創価学会創立記念日」であるだけでなく、「創価教育原点の日」でもある。
 山本伸一は、二〇〇八年(平成二十年)、この十一月十八日を記念して、世界六カ国に広がった創価幼稚園(日本・札幌、中国・香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、韓国)に、新たな指針を贈った。
 「何があっても 負けない人が 幸福な人」
 「みんな仲良く僕たち家族」
 「父母を 大切にする人が偉い人になる」
 彼は、最も大切な幸せへの道を、人間としての生き方を、清らかな子どもの生命に、あらためて打ち込んでおきたかったのである。
 モノや知識は豊富に与えられても、精神の砂漠に放り出され、人間の道を教わらぬ子らもいる。戦火に怯え、飢餓に泣く子らもいる。
 そうした、世界のすべての子どもたちが、自ら価値を創造し、幸福を実現していくために、創価教育はある。
 創価教育の父・牧口常三郎は、『創価教育学体系』の発刊にあたり、自身の思いを、「児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思ふと、心は狂せんばかり」と記している。
 伸一は、先師の、その慈愛の一念から生まれた創価教育を、人間主義教育を、人類の未来のために、伝え、生かしていくことを、自らの使命とし、最後の事業としていたのだ。
 そのための、創価幼稚園であり、創価学園であり、創価大学である。
 伸一は、深く、強く、心に誓っていた。
 「教育の種を植えれば、未来は、幸いの花園になる。
 教育の道を開けば、未来は、平和の沃野へつながる。
 私は、種を蒔く。今日も、明日も。
 私は、この道を開く。全精魂を注いで。
 生命ある限り、生命ある限り……」

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