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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「命宝」 命宝

小説「新・人間革命」

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1  命宝(1)
 この世で最も尊厳な宝は、生命である。
 それゆえに「命宝」と言う。
 「観心本尊抄文段」には「夫れ有心の衆生は命を以て宝と為す。一切の宝の中に命宝第一なり」とある。
 生命を守ることこそ、一切に最優先されなければならない。本来、国家も、政治も、経済も、科学も、教育も、そのためにあるべきものなのだ。「立正安国」とは、この思想を人びとの胸中に打ち立て、生命尊重の社会を築き上げることといってよい。
 一九七五年(昭和五十年)九月十五日、山本伸一は、東京・信濃町の学会本部で行われた、ドクター部の第三回総会に出席した。ドクター部は、医師、薬剤師らのグループである。伸一がドクター部の総会に出席するのは、これが初めてであった。
 ドクター部が結成されたのは、七一年(同四十六年)九月のことであった。仏法を根底にした「慈悲の医学」の道を究め、人間主義に基づく医療従事者の連帯を築くことを目的として、発足した部である。
 このころ、医療保険の改正をめぐって、厚生省と日本医師会の対立が続いていた。
 その背景には、医療費の急増があった。
 当時の診療報酬の体系では、医師の医療技術は、ほとんど評価されず、診療報酬の大部分は、薬代、注射代などが占めていた。それが結果的に、薬漬け、検査漬けと言われる医療に拍車をかけ、医療費の増大という事態を生む、要因となってきたのである。
 そこで、厚生省は、医療費急増の打開策として、医療費を引き上げるのではなく、診療報酬体系を見直そうとした。
 すると、医師会は「医師の犠牲のもとに低医療費政策を押しつけるもの」と猛反発し、遂に、この年の四月、保険医総辞退の方針を決議したのだ。
 そして、七月、大多数の医師が、組合管掌健康保険など、被用者保険の保険医辞退に突入したのである。
2  命宝(2)
 国民健康保険は、医師の保険医辞退の対象ではなく、標的となったのは、賃金労働者の健康保険である被用者保険であり、なかでも、組合健保であった。そのため、多くのサラリーマン家庭が深刻な影響を受けたのである。
 被用者保険の加入者と、その被扶養者は、医師にかかると、まず、全額、現金で支払い、領収書を社会保険事務所や健康保険組合に提出し、払い戻しを受けることになる。
 それだけでも煩雑なうえに、組合健保については、現行料金から値上げされた、医師会が定める″新料金″が請求された。この差額は患者の自己負担となる。
 それによって、病気になっても、金銭的な問題から、早期受診を控える人もいた。また、治療を中断せざるをえない人も出た。
 一九七一年(昭和四十六年)七月半ばには宮城県で、息子夫婦に医療費の過重な負担がかかることを苦にして、息子の被扶養者になっていた老婦人が、自殺するという悲惨な出来事が起こっている。
 すべての国民が、医療保険に加入し、その適用を受ける国民皆保険は、日本の社会保障制度の根幹をなすものであった。それを根底から揺るがす医師会の対応である。
 医師会側は医療制度の抜本的な改革を主張しており、政府がそれに応え切れていないことも事実であった。しかし、国民の生命を人質に取るような結果になったことから、医師会は、人びとの怒りを買うことになった。
 保険医辞退は、政府と医師会で合意が成立し、一カ月で終わったが、医師会は、医療費の大幅引き上げ等を要求。事態は、難航し続けていたのである。
 山本伸一は、そうした状況を見ながら、医師の良心という問題を、考えずにはいられなかった。彼は思った。
 ″人命を預かる医師という仕事は、聖職である。医療制度の改革も重要である。しかし、それ以上に、医師が生命の尊厳を守ろうとする信念をもち、慈悲の心を培うことこそ、最重要のテーマではないか……″
3  命宝(3)
 「医師などの医療従事者のグループとして、文化本部にドクター部を結成しよう」
 山本伸一が、こう提案したのは、医師の保険医辞退で社会が混乱していた、一九七一年(昭和四十六年)の七月のことであった。
 それまで、医師らは学術部に所属してきたが、九月の第二回学術部総会の席上、新たに医師、歯科医師、薬剤師らで構成される部として、ドクター部が誕生したのである。
 伸一は、医学界の現状を深く注視していた。
 医術は人命を救う博愛の道であるとして、「医は仁術なり」と言われてきた。しかし、それをもじって、「医は算術」などと揶揄されるほど、一部の医師の″利潤追求″は、目に余るものがあった。
 また、「患者不在の医療」との指摘もあった。「医師に苦痛を訴えても、真剣に聴いてくれない」「病院では、検査漬けで、モノとして扱われているようだ」「治療法や薬の詳しい説明もなく、大量に薬物投与される」という声も少なくなかった。乱診乱療の傾向を、多くの人びとが痛感していたのである。
 そうした現代医療のひずみは、医療制度の問題だけではなく、医師のモラルや生き方にも、大きな要因があろう。
 伸一は、本来、医療の根本にあるべきものは、「慈悲」でなければならないと考えていた。「慈悲」とは、抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)ということである。一切衆生を救済せんとして出現された、仏の大慈大悲に、その究極の精神がある。
 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と仰せである。あらゆる人びとのさまざまな苦しみを、すべて、御自身の苦しみとして、同苦されているのである。
 医療従事者が、この慈悲の精神に立脚し、エゴイズムを打ち破っていくならば、医療の在り方は大きく改善され、「人間医学」の新しい道が開かれることは間違いない。
 いわば、医療従事者の人間革命が、希望の光明になるといってよい。
4  命宝(4)
 山本伸一は、医師のメンバーと会う機会があると、「慈悲の医学の体現者たれ」と励まし続けてきた。
 ドクター部では、その伸一の激励に応えるために、自分たちに何ができるのか、協議を重ねた。そして、住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」を組織し、医師のいない地域などに、派遣することにしたのである。
 「私たちに必要なものは何でしょうか。すべての根底に高い主義をもつことです」とは、ナイチンゲールの言葉である。「高い主義」から気高き実践が生まれるのだ。
 メンバーには、未来を嘱望されている大学病院の医師や博士も多い。その人たちが、辺地に赴いて、無料で健康相談にあたろうというのである。
 その報告を聞いた、伸一は言った。
 「尊いことです。菩薩の姿です。学会は、一人ひとりの生き方のなかに、その菩薩の心と実践が体現された社会をつくろうとしているんです。ドクター部の皆さんは、その先駆者になってください」
 ドクター部、そして、看護婦(現在は看護師)からなる白樺グループの有志らによる「黎明医療団」が、最初に派遣されたのは、ドクター部の結成から七カ月後の、一九七二年(昭和四十七年)四月であった。
 ――間近に、緑の山並みが見え隠れしていた。もうもうと土埃を上げながら、田んぼのなかのデコボコ道を、十数台の車が進んでいった。乗っているのは、医師、検査技師、看護婦など、六十一人の黎明医療団である。
 一行が到着したのは、宮城県加美郡宮崎町(当時)にある小学校であった。ここが無料健康相談の会場である。交通手段は、一日八便のバスしかないという場所であった。
 会場の入り口では、地元住民の代表が、満面に笑みを浮かべて出迎えてくれた。
 「わざわざおいでいただき、ありがとうございます。この辺りでは、健康相談の機会は、ほとんどないものですから、みんな、喜んで待っておりました」
5  命宝(5)
 「黎明医療団」のメンバーは、無料健康相談の会場となった小学校で、すぐに白衣に着替え、手際よく、準備を整えた。
 会場には、朝早くから、人びとが詰めかけており、相談開始の午前九時には、既に五十人ほどが待機していた。
 訪れた住民は、まず、尿検査をはじめ、身長や体重、血圧などの測定を受け、待合室となった裁縫室で順番を待つ。
 その間、各専門医から健康管理や食生活などについての話を聴く。日常生活で起こりやすい怪我についても、出血した場合や、火傷、骨折など、それぞれの応急処置の説明が行われた。皆、真剣な顔で話に耳を傾けていた。
 各教室では、内科、外科、婦人科、耳鼻咽喉科、歯科などに分かれ、三十人余の専門医によって、健康相談が行われた。
 住民のなかには、健康保険証を出し、恐る恐る料金を尋ねる人もいた。
 「この健康相談は、すべて無料です」と答えると、「ありがたい」と言って、何度も頭を下げた。また、「おらの体、どうでがす?」と不安そうだった人が、「特に心配はありませんよ」と言われ、安心して、ニコニコしながら帰っていく光景も見られた。
 体の異常や病気が発見された場合には、よく説明し、病院に行くよう説得に当たった。
 医師をはじめ、スタッフは、交代で、急いで食事をする以外は、休憩も取らなかった。
 午後六時の終了までに、四百五十一人が健康相談に訪れた。
 住民は、各専門医に相談できたこと、とりわけ、医師たちが笑顔で優しく、親身になって相談に乗ってくれたことが嬉しかったようだ。また、さまざまな病の予防方法などについて、わかりやすく、情熱を込めて訴える姿に、感動したという。
 メンバーは″健康になってほしい″″幸せになってもらいたい″との、祈りにも似た思いで、相談を担当した。真剣にして誠実な一念から発する言葉は、人の胸を打ち、心の共鳴を広げずにはおかないのだ。
6  命宝(6)
 「黎明医療団」は、その後も、奈良県・川上村や熊本県・波野村(当時)、北海道・厚田村(当時)、沖縄県・国頭村など、各地に赴き、無料健康相談を重ねていった。その数は十年間で、百二十回に達している。
 この活動には、学会のドクター部以外の医師たちも、共感、賛同し、加わるようになっていった。多い時には、医師の半数近くが、そうした協力者であることもあった。
 ドクター部のメンバーは、自分たちの進めている運動に、自信と誇りをもち、なぜ、「黎明医療団」を組織し、無料健康相談を行うのかを、語っていったのだ。
 ドクター部員には、医師としての気高き「良心」があった。大いなる「理想」と「確信」があった。その魂に触れ、多くの医師たちが、生命を揺さぶられ、賛同していったのである。対話とは、魂による魂の触発なのである。
 慈悲の医学の体現者たる使命を自覚した、ドクター部員の活躍は目覚ましかった。
 それぞれの職場にあっても、各人が人間的な医療の在り方を探求していった。体に負担の少ない治療法の研究に取り組む人もいれば、病院の環境改善に力を注いだ人もいた。
 さらに、健康セミナーの講師や、仏法と医学についての講演なども積極的に引き受け、地域にも、広宣流布の運動にも、大きく貢献していった。
 また、メンバーは、慈悲の医学をめざすには、仏法の人間観、生命観を深く学ぶ必要があると痛感し、一九七三年(昭和四十八年)からは、ドクター部の教学勉強会も行われた。
 山本伸一も、ドクター部の育成には、ことのほか力を注いだ。代表と、何度となく懇談もした。
 そのたびに、メンバーからは、「安楽死に対する見解」や「新薬に対する基本的な考え方」「人工中絶を仏法者として、どうとらえるべきか」など、質問が相次いだ。
 どの質問も、難解で複雑なテーマであったが、伸一は、仏法の生命観のうえから、考え方の原則を示していったのである。
7  命宝(7)
 医学は、諸刃の剣ともなる。多くの人びとの生命を救いもするが、副作用をはじめ、さまざまな弊害を生みもする。特に、医師をはじめ、医学にかかわる人たちが、誤った生命観に陥れば、医療の大混乱を招くことにもなりかねない。
 それだけに、正しい生命観を究めていくことは、必要不可欠な医師の要件といえよう。
 生命を、最も深く、本源から説き明かしているのが仏法である。したがって、仏法を研鑽し、その教えを体現していくことは、医師としての先駆の探究といってよい。
 山本伸一は、ドクター部をはじめ、全同志が、仏法の生命哲理を研鑽していく手がかりになればと、教学理論誌『大白蓮華』で、一九七二年(昭和四十七年)の十月号から七三年(同四十八年)の十二月号まで、てい談「生命論」を連載した。てい談の相手は、医学博士と教学部の幹部である。
 そこでは、色心不二、依正不二、三諦、一念三千などが、現代医学や科学、社会現象などに即して、さまざまな角度から論じられていった。
 また、伸一は、仏法の生命哲理を広く世界に伝えようと、七二年(同四十七年)五月、イギリスでのアーノルド・J・トインビー博士との対談では、東洋医学と仏法についても語り合った。
 さらに、翌年十一月には、トインビー博士から紹介された、細菌学の権威であるアメリカのロックフェラー大学のルネ・デュボス教授と日本で会談。人間の生死の問題などについて話し合った。
 人から人へ――その対話と共感の広がりのなかに、人間主義の新しい潮流がつくられていく。何人の人と会い、どれだけ胸襟を開いた語らいができたかが、「生命の世紀」を開く力となるのである。
 こうした語らいにあたって、伸一は、懸命に医学の勉強にも取り組んだ。彼は常に学ぼうとしていた。新しき挑戦が、新しき幕を開くからだ。
8  命宝(8)
 ある時、山本伸一は、ドクター部の代表と懇談した。メンバーの一人から、難病の治療法の研究に、日々、悩みながら取り組んでいるとの報告があった。
 「尊いことです。それは菩薩の悩みです。難解極まりない問題だけに、絶望的な気持ちになることもあるでしょう。しかし、諸仏の智慧は甚深無量です。私たちは、その仏の智慧を、わが身に具えている。信心を根本に、真剣に挑み抜いていくならば、解決できぬ問題はない。大事なことは、使命の自覚と、粘り強い挑戦です。私も題目を送ります」
 伸一は、常にドクター部の友の成長を祈り続けていた。
 一九七四年(昭和四十九年)二月、東京・新宿区内で開催された、ドクター部の第一回総会の折には、伸一は千葉県を訪問中であった。その渦中、彼は、小松原でメッセージを口述し、創価学会の厳護を頼んだ。
 また、この年の十二月に、大阪で行われた第二回総会のメッセージには、こう綴った。
 「医学の分野に、慈悲の赫々たる太陽光線を差し込む作業は、単なる社会の一分野の改革にとどまるものではない。生命を慈しみ、育て、羽ばたかせる思想が、人びとの心の隅々にまで染み込んだ時、初めて現代文明が、機械文明から人間文明へ、物質の世紀から生命の世紀へと転換され、人類が光輝ある第一歩を踏み出すのであります。
 皆さん方は、一人ひとりが、その重要な使命と責任をもった一騎当千の存在であります。いな、そうなっていただかなければ、私たちの未来はないとさえ言える」
 伸一の期待は、限りなく大きかった。
 日蓮大聖人御在世当時、鎌倉の門下の中心になっていたのは、武士で医術に優れた四条金吾であった。彼が、あらゆる迫害をはねのけ、信心の勝利の実証を示したことで、どれほど門下が、勇気と自信を得たことか。一人の勇敢な戦いが、全体の勝利の流れを開く。
 ″ドクター部よ、現代の四条金吾たれ!″
 それが、伸一の心からの叫びであった。
9  命宝(9)
 四条中務三郎左衛門尉頼基、すなわち四条金吾が、日蓮大聖人に帰依したのは、青年時代とされている。彼の偉大さは、単に医術に優れていただけでなく、生涯にわたって師匠である大聖人を守り、師弟の道を貫き、広宣流布の大願に生き抜いたことにある。
 文永八年(一二七一年)九月十二日、大聖人が頸をはねられんとした、竜の口の法難でも、不惜身命の行動を貫いている。
 深夜、大聖人が、四方を兵士たちに取り囲まれ、処刑の場に連れて行かれたとの連絡を聞くと、彼は直ちに駆けつけ、馬の轡に取りすがり、お供をしたのである。
 四条金吾は、大聖人が、もし頸をはねられるならば、自分も、共に殉ずる覚悟であった。
 その生き方には、鎌倉時代の武士という時代的な背景がある。
 大事なことは、「まことの時」に、弟子として、いかなる行動をとるかである。
 わが身に危険が及ぶのを恐れて、傍観するのか。死をも覚悟し、師匠と共に戦おうとするのか――そこに、本当の師弟たりえるかどうかの、分岐点がある。
 もし、四条金吾にためらいがあり、直ちに行動できずにいたならば、刑場に引かれる大聖人のお供をすることはできなかった。「遅参其の意を得ず」である。臆病の殻を打ち破る勇気の実践が、師弟の大道を開くのだ。
 大聖人は、終始、四条金吾の心の奥底を、その行動を、じっと見すえていた。
 落涙する弟子を、師は叱咤し、励ます。
 「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし
 大聖人の胸中には、命に及ぶ大難に遭い、法華経をわが身で読むことができる大歓喜が、あふれていたのである。
 師匠の、その巍々堂々たる大生命を仰ぎ見て、四条金吾の生命もまた覚醒していった。
 そして彼は、竜の口の頸の座に「光り物」が現れ、処刑が失敗し、大聖人が御本仏としての本地を顕される発迹顕本の場に、立ち会うことになるのである。
10  命宝(10)
 四条金吾の生き方に一貫しているのは、勇気と誠実であった。
 文永九年(一二七二年)、「二月騒動」が起こる。
 執権・北条時宗の命によって、京都にいた異母兄の時輔が、謀反を企てたとして、討たれたのである。さらに、それに先立って、時輔に与したとして、鎌倉で、名越時章・教時の兄弟も討たれている。
 四条金吾が仕えた主君の江間(名越)光時は、時章・教時の兄であった。
 「二月騒動」の折、四条金吾は、江間氏の本領がある伊豆にいたが、主君の身を案じて、急遽、鎌倉に駆けつけた。この時も彼は、主君にもしもの事があれば、自分も自害する決意で馳せ参じたのである。
 幸いにして、江間氏は事なきを得、事態は収束に向かっていった。
 四条金吾の、この必死の行動は、一旦事あらば、主君のために一切をなげうとうとする彼の忠義と、勇敢にして誠実な人柄を示すものといえよう。
 十八世紀のイギリス・スコットランドの詩人ロバート・バーンズは、誠実な人間こそが「人間の王者なのだ」とうたっている。
 四条金吾は、師の日蓮大聖人に対しても、主君に対しても、誠実に仕え抜いたのだ。
 不誠実は、人の信頼を裏切るばかりでなく、自身の心に、悔恨の暗い影を残す。誰に対しても、何事に対しても、自分は誠実に行動し抜いたと、晴れやかに胸を張れる、日々の生き方のうえに、人生の勝利はある。
 「二月騒動」が起こった文永九年の二月、日蓮大聖人は流罪の地・佐渡にあって、人本尊開顕の書である「開目抄」を著される。
 四条金吾は、大聖人の安否を気遣い、心を痛め続けてきた。そして、供養の品々を、佐渡の大聖人のもとに送った。大聖人は、その使者に、「開目抄」を託されたのである。
 烈々たる御本仏の大確信と御決意が綴られた「開目抄」を、四条金吾は、感涙にむせび、身を震わせながら、拝したにちがいない。
11  命宝(11)
 「開目抄」をいただいた四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。込み上げる歓喜に、居ても立ってもいられなかったのだ。主君に仕える身でありながら、流罪された大聖人を訪ねることは、容易なことではなかったはずである。
 大難という烈風は、欺瞞の信仰者の仮面をはがす。誰が、真の信仰者か、本当の弟子かを明らかにしていくものだ。
 真正の弟子・四条金吾を迎えた大聖人のお喜びは、いかばかりであったか。大聖人は、その後の御手紙で、こう励まされている。
 「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ
 ――武士や医師として、その責務を全うするだけではなく、法華宗、すなわち日蓮大聖人門下の四条金吾として、日本中の人びとから、賞讃される人物になりなさいと言われているのだ。
 自分という存在の、最も根源的な意味は、末法の一切衆生を救済するために出現した地涌の菩薩であるということだ。それが法華経の思想である。武士であることも、医術に秀でていることも、自分が本源的な使命を果たしていく、一つの側面にすぎない。
 武士や医師として、名声を得ることも大事であろう。しかし、どんなに賞讃されようが、地涌の菩薩としての広宣流布の使命を忘れ去ってしまえば、所詮は、砂上の楼閣を築いているにすぎない。本末転倒の人生である。
 大事なことは、広宣流布に生き抜き、そして、武士や医師としても、人格、技量ともに立派であると言われる人になっていくことである。ゆえに、大聖人は、「法華宗の四条金吾……」と言われたのである。
 常に、どこにあっても、大聖人の弟子と名乗り、胸を張れるか。現代でいえば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、賞讃を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ。
12  命宝(12)
 日蓮大聖人は「法華宗の四条金吾……」と述べられる前の個所では、「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず」と持続の信心を強調されている。
 火を生み出すためには、間断なく、木と木を擦り続けなければならない。途中で気を抜いて手を休めれば、それまでの努力は水泡に帰してしまう。火を起こすまで、ますます勢いよく、作業を続けるしかない。
 持続といっても、重要なのは、事が成就する最終段階である。
 イギリスの劇作家のシェークスピアは、こんな言葉を残している。
 「すべてを決するのは最後だ」
 また、ドイツの作家トーマス・マンは、警鐘を鳴らした。
 「最後に勝利が確定するまで油断は禁物です」
 さらに、フランスの文豪ビクトル・ユゴーは、こう記している。
 「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」
 大聖人は、将来、四条金吾の身に迫害が起こることを、予見されていたかのように、信心を貫き通すことを訴えられたのである。
 大聖人が佐渡から帰られ、既に身延に入られた文永十一年(一二七四年)九月、四条金吾は、主君の江間氏を折伏する。江間氏は念仏を信仰し、極楽寺良観を信奉していた。
 そのため、四条金吾の忠義から発した折伏は、主君の不興を買い、さらには、同僚からも迫害されることになる。
 そして、建治二年(一二七六年)には、遠い越後の地へ、所領を替えるとの、主君の内命が下ったのである。現代でいえば、左遷にあたろうか。
 いよいよ、四条金吾にとって、人生の正念場ともいうべき、大試練が始まるのだ。
 苦闘の峰を越えずして勝利はない。峰が高く険しければ、辛労も激しい。しかし、その峰を登攀すれば、洋々たる未来が開かれる。
13  命宝(13)
 広宣流布の道は、戦いに次ぐ戦いである。熾烈な三障四魔との攻防戦である。油断し、息を抜けば、その瞬間に足をすくわれる。万人の幸福と平和のために、自身の一生成仏のために、前進の歩みを止めてはならない。
 所領替えの内命が下った四条金吾に、さらに追い打ちがかけられた。主君の江間氏に対して、讒言がなされたのである。
 ――鎌倉・桑ケ谷での竜象房の法座に、四条金吾らが徒党を組んで乱入して法座を乱したというのだ。
 竜象房は天台宗の僧で、比叡山にいたが、人肉を食べたことが露見して、鎌倉に逃げ、極楽寺良観の庇護を受けていた悪僧である。
 四条金吾が法座に乱入したなどというのは、デマであり、良観らの捏造であった。事実は、大聖人門下であった三位房が、竜象房と問答し、論破した法座に、四条金吾も立ち会っていたというだけのことであった。彼は、一切、口を出すこともなかった。
 ところが、江間氏は、この讒言を真に受け、四条金吾に、「法華経の信仰を捨てるという起請文(誓約書)を書け。さもなくば所領を没収する」と迫ったのである。
 所領を没収されたならば、武士としての暮らしは成り立たない。一家一族が路頭に迷うことになる。しかし、彼は屈しなかった。大樹のごとく、微動だにしなかった。たとえ所領を没収されても、信心を貫き通し、起請文など書きませんという決意の手紙を認め、身延におられる大聖人に送った。
 大聖人門下の鎌倉の中心である四条金吾が退転すれば、皆が総崩れになってしまう。良観の狙いも、そこにあったにちがいない。
 大聖人は、四条金吾の信心を賞讃され、すぐに返事を書かれた。
 「一生はゆめの上・明日をせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず
 そして、決してへつらうことなく、これも諸天のおはからいであると確信して、強盛に信心を貫くように励まされているのである。
14  命宝(14)
 弘安元年(一二七八年)は、その閏年にあたり、十月が二回あり、後の十月を「閏十月」といった。
 日蓮大聖人は、主君の江間氏から「法華経を捨てるという起請文を書け」と迫られた四条金吾に、激励の御手紙とともに、主君に出す彼の陳状(答弁書)も代筆されて送られた。これが「頼基陳状」である。
 窮地に陥った弟子のために、陳状までも、書いてくださった師匠の御心に、四条金吾は熱く涙したにちがいない。そして、報恩を胸に立ち上がった。
 彼が決意の手紙を送ると、直ちに大聖人から返信が届いた。その冒頭には、「仏法は勝負」であることが述べられていた。正法を持った者は、最後は必ず勝たねばならない。そこに、仏法の正義の証明があるからだ。
 「勝つ」とは、法の正邪を決することである。それは、文証、理証、現証によって、明らかにされる。そして、最終的には、人間の姿、生き方による勝利の証明が大事になる。
 つまり、人格を磨き、人びとの信頼を勝ち得ることであり、崩れざる幸福境涯を築き上げていくことである。
 江間氏は、やがて悪性の流行病にかかり、四条金吾が治療に当たった。誠心誠意、全力を尽くした。主君の病は快方に向かい、勘気(咎め)も解けたのである。
 彼は、主君の出仕の列にも加えられるようになった。また、以前の三倍の所領を与えられる。彼の人生の海原に、勝利の太陽は燦然と昇ったのだ。
 一方、大聖人は、建治三年(一二七七年)の年末から、体調を崩されていた。四条金吾は、懸命に治療に当たった。
 ″師匠のためには、どこであろうが訪れ、治療に当たろう。大聖人の御健康は自分が守り抜いてみせる!″
 それが、彼の決意であったにちがいない。
 弘安元年(一二七八年)六月の、彼の投薬によって、健康を回復された大聖人は、この年の閏十月、御手紙を認められ、「今度の命たすかり候はひとえに釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か」と賞讃されている。
15  命宝(15)
 四条金吾は、大聖人を慕い、求め、守り抜いた真実の弟子であった。また、人びとの苦悩を救わんと、広宣流布に生き抜いた、真正の勇者であった。
 現代の四条金吾ともいうべき勇者たち――それが、ドクター部である。
 そのドクター部の、第三回総会が、一九七五年(昭和五十年)九月十五日午後、初めて会長・山本伸一が出席して、学会本部で晴れやかに開催されたのである。
 明七六年(同五十一年)は、学会として、既に「健康・青春の年」をテーマに掲げて前進することが決まっていた。それだけに、ドクター部員は、健康の守り手である自分たちが、大奮闘すべき年であるとの、新たな決意に燃えていた。
 ドクター部総会で伸一は、まず、メンバーと共に、皆の健康と一家の繁栄、ますますの社会貢献を祈って、厳粛に勤行した。さらに、総会の席上、約三十分にわたって記念のスピーチを行ったのである。
 伸一は、現代は「健康不安時代」と言われており、「健康維持」「健康増進」が、人びとの最大関心事となっていることを述べたあと、「医学と仏法」の関係について言及していった。
 「『医学』は、病気の原因を客観的に認識し、治療していくのに対して、『仏法』は、病の根底にある生命そのものを把握し、そこから、病気の原因をとらえ、変革していく立場であります」
 彼は、現代人の過度のストレスや心の病などの背後には、現代文明、現代社会の人間疎外の問題があることを指摘。生命という視座に立って、人間性と人間の主体性の回復を図っていくことの大切さを強調した。
 そして、それには、身体的な側面だけでなく、「心身両面にわたる健康」に着目し、特に、強い心をつくりあげることが、極めて重要であると訴えたのである。「病は気から」と言われるように、心の健康なくして、真実の健康はないからだ。
16  命宝(16)
 山本伸一は、人間性の回復のためには、心の健康、強さが不可欠な事例として、「優しさ」を通して、論じていった。
 「『優しさ』は、一見、柔和で温順な、静かな響きをもった言葉として、受け取られていますが、これほど、過酷な行動を要求する言葉もありません。
 『優しさ』とは、言い換えれば、他を思いやる心でありましょう。他人の懊悩、苦しみを分かちもち、共に歩み、その苦を解決してこそ、初めて、本当の意味で、他を思いやったことになるといえます。
 そのためには、自らの内に、確かな信念と強いエネルギーが秘められていなければならない。もし、他の不幸を見て、心情的に同情しても、ただ手をこまねいて傍観し、かかわることがないとすれば、それは『優しさ』などでは決してない。冷淡であると非難されても、否定できないことになってしまう。
 泥まみれの実践と、あふれる正義感、エネルギーに満ちあふれた生命であってこそ、初めて『優しさ』を、現実のものとすることができるといってよい」
 人びとを不幸にする悪と戦う、強い破邪の心なくして本当の慈悲はない。また、心が健康で、強くなければ、優しさを貫くことはできない。
 そして、伸一は、「崇峻天皇御書」(三種財宝御書)の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」の一節を拝した。
 この御書は、建治三年(一二七七年)九月に、身延にいらした日蓮大聖人が、四条金吾に与えられた御手紙である。
 当時、四条金吾は、病にかかった主君・江間氏の治療に当たるようにはなっていたが、所領の没収という問題が解決したわけではなかった。いわば、いまだ窮地に立たされていたのだ。その四条金吾に、大聖人は、人間にとって、人生の財、真実の価値とは何かを示されたのである。
17  命宝(17)
 「崇峻天皇御書」(三種財宝御書)にある「蔵の財」とは、金銭やモノなどの財産である。また、「身の財」とは、体のことであり、肉体的な健康や、自分の身につけた技能なども、これに入ろう。
 そして、「心の財」とは、生命の強さ、輝きであり、人間性の豊かさである。さらに、三世永遠にわたって、崩れることのない福運ともいえよう。その「心の財」は、仏道修行によって得られるのである。
 戦後の日本は、経済発展を最優先し、「蔵の財」の獲得に力を注ぎ、利潤の追求を第一義としてきた。その結果、人間の管理化が加速され、過度のストレスなどを生むとともに、環境破壊も進み、大気や河川、海も汚染され、公害病などが蔓延するに至った。
 そこでようやく、「蔵の財」偏重の誤りに気づき、次第に「身の財」を重要視するようになった。それが、「健康維持」や「健康増進」への強い関心となっていった。
 巨額の富も、使えば、いつかなくなるし、災害などで、一瞬にして失ってしまうこともある。しかし、健康でさえあれば、また働いて、富を手に入れることができる。大切なのは、体であり、健康である。ゆえに、大聖人は「蔵の財」よりも「身の財」と言われたのだ。
 だが、「身の財」である肉体も、やがて老い、病にもかかる。「身の財」も永遠ではない。また、いかに、肉体が健康でも、心が不安や恐怖、あるいは嫉妬や憎悪にさいなまれていれば、生の喜びはない。
 「蔵の財」「身の財」も、人間にとって大事なものではあるが、それを手に入れれば、幸福になるとは限らないのだ。
 人間の幸福のために、最も必要不可欠なものは、「心の財」である。心が満たされなければ、幸福はない。
 「幸福であるか不幸であるかは、心で決まる」とは、ガンジーの洞察である。
 しかし、その心が軽んじられ、「蔵の財」「身の財」の追求に血眼になり、発展を遂げてきたのが、現代文明といってよい。
18  命宝(18)
 「蔵の財」「身の財」を、ひたすら追い求めてきた結果、先進国には、多くのモノがあふれ、医療も発達し、一面、確かに暮らしは豊かで便利になった。
 しかし、発展途上国との間に、大きな経済格差をもたらしていった。また、豊かさ、便利さを手に入れた人びとも、結局、心が満たされることはなかった。人間の欲望には、際限がないからだ。
 そして、医療は進歩しても、人びとの健康不安は募り、人間疎外を感じ、精神の閉塞化、無気力化が進んでいるのである。
 それは、「心の財」「心の健康」の欠落が招いた帰結といってよい。
 心は見えない。しかし、その心にこそ、健康の、そして、幸福のカギがある。
 心の力は無限である。たとえ、「蔵の財」や「身の財」が剥奪されたとしても、「心の財」があれば、生命は歓喜に燃え、堂々たる幸福境涯を確立することができる。
 「心の財」は、今世限りではない。三世にわたり、永遠にわが生命を荘厳していく。それはまた、「蔵の財」「身の財」をもたらす源泉ともなる。
 人間の本当の幸福は、蔵や身の財によって決まるのではない。心の豊かさ、強さによって決まるのだ。どんな逆境にあろうが、常に心が希望と勇気に燃え、挑戦の気概が脈打っているならば、その生命には、歓喜と躍動と充実がある。そこに幸福の実像があるのだ。
 流罪の地・佐渡にあって、「流人なれども喜悦はかりなし」と言われた、日蓮大聖人の大境涯を知れ!
 また、獄中にあって、「何の不安もない」「心一つで地獄にも楽しみがあります」と言い切る、牧口常三郎初代会長を思え!
 わが生命から込み上げてくる、この勇気、希望、躍動、充実、感謝、感動、歓喜……。
 これこそが「心の財」であり、私たちの信仰の目的も、その財を積むことにあるのだ。
 いわば、それは幸福観の転換であり、「幸福革命」でもあるのだ。
19  命宝(19)
 山本伸一は、情熱を込めて訴えた。
 「『心の財』は、精神的な健康です。『心の財』から、生きようとする意欲が、希望と勇気が、張り合いが生まれます」
 その「心の財」は、人びとの幸福のために、さらに言えば、広宣流布のために生きることによって、築かれるのである。
 スイスの哲学者ヒルティは、「たえず新たにみなぎってくる健康な力は、大きな目的にささげた非利己的な活動から生ずる」と述べている。
 「人は、この『心の財』を積んでいくなかで、生きることの尊さを知り、エゴに縛られた自分を脱し、人びとの幸福という崇高な目的のために、生き生きと活動していくことができるのであります。
 しかも、こうした精神的な健康の確立が、どれほど大きな、身体上の健康回復、健康増進の力となっていくか、計り知れないものがあります。いな、心の健康なくしては、本当の健康はない。それを、広く社会に認識させていくべきであると思うのであります」
 また、伸一は、心の健康を確立していくという医学の在り方は、単に病気を治療するという″守りの医術″ではなく、健康を保持し、増進していく″攻めの医学″の確立につながっていくと述べた。
 そして、これからは、病気をしないという消極的な意味での健康ではなく、生き生きと活動し、生命が躍動しているという、積極的な意味での健康をつくりあげていくことこそが重要であり、そこに、ドクター部の使命があると力説。最後に「『病気の医師』ではなく、『人間の医師』であっていただきたい」と呼びかけ、スピーチを結んだのである。
 大拍手が轟いた。
 彼の話は、現代医学の進むべき道を示すものであった。それは、ドクター部の使命を再確認する、永遠の指針となったのである。
 後に、この九月十五日は「ドクター部の日」となり、年ごとに、同部のメンバーが新出発を期す記念日となるのである。
20  命宝(20)
 秋空に、白い雲が浮かんでいた。
 一九七五年(昭和五十年)十一月八日午後一時、山本伸一は、広島市にある平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)の前に立った。
 彼は、広島市での創価学会の第三十八回本部総会(九日)に出席するため、広島を訪問していた。そして、総会前日の八日、慰霊碑に献花しようと、メンバーの代表らと共に、平和記念公園を訪れたのである。
 広島市の荒木武市長らの出迎えを受け、慰霊碑に献花した伸一は、平和への深い祈りを込め、題目を三唱した。
 原爆死没者名簿を納めた石棺が、家形埴輪を模した屋根の下に安置されていた。その向こうには、鉄骨をむき出しにした、原爆ドームが見えた。
 伸一は、献花台の先にある石棺に刻まれた文字を、じっと見つめた。
 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
 実は、この碑文をめぐって、論争が繰り返されていたのである。
 慰霊碑が建立されたのは、原爆投下から七年後の、一九五二年(昭和二十七年)八月六日のことであった。碑文の作者は、広島大学教授の雑賀忠義である。
 その三カ月後の十一月、長身のインド人が慰霊碑の前に立ち、献花し、黙とうを捧げた。あの東京裁判で判事を務め、ただ一人、日本のA級戦犯全員の無罪を主張した、インドの国際法学者ラダビノッド・パールである。
 パール博士は、碑文を見ると、通訳に、なんと書かれているのか、何度も意味を確認した。彼の目は、怒りに燃えていった。
 「この″過ちは繰り返さぬ″という過ちは誰の行為をさしているのか。むろん日本人をさしていることは明かだ。それがどんな過ちであるのか、わたくしは疑う」
 彼は、敗戦国が戦勝国に屈して、加害者の責任をあいまいにしてしまうことが、許せなかったのである。
21  命宝(21)
 パール博士は、原爆死没者慰霊碑に刻まれた文章の主語は、日本人であると考えた。しかし、原爆を落としたのはアメリカであり、日本人は被害者である。その日本人が″過ちは繰返しませぬから″と言うことが、博士は、納得できなかったのだ。
 このパール博士の発言は、ラジオや新聞で取り上げられた。
 これに対して、広島市長の浜井信三(当時)は、「あれは原爆の犠牲者に対し広島市民に限らず、生きている全人類の立場を代表した言葉だ」と述べている。
 また、碑文の作者・雑賀忠義は、「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰り返さないと霊前に誓う――これは全人類の過去、現在、未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである」と、パール博士に抗議文を送っている。
 碑文をめぐる論争は、一九七〇年(昭和四十五年)にも再燃。碑文は屈辱的であり、抹消すべきだという運動も起こっていた。
 山本伸一は、敗戦国を擁護し、尊重する、パール博士の心を、嬉しく思った。
 しかし、伸一は、この碑文は、核戦争の過ちを二度と起こさないという、人類の誓いであるととらえていた。
 誰が加害者で、誰が被害者であるかを明らかにすることも必要であろう。だが、慰霊碑にとどめるべきは、平和への誓いである。
 また、被害者であるとの考えのみにとらわれ、加害者を糾弾しているだけでは、憎悪と報復の連鎖を繰り返すだけである。世界の恒久平和を創造していくには、被害者・加害者という分断的な発想を転換し、地球上のすべての人が、同じ人類、世界市民としての責任を自覚することが必要である。
 伸一は、慰霊碑の言葉は、それを世界に明示するものとして、高く評価していたのだ。
 その言葉を、広島の、日本の、そして、世界の人びとの誓いとしていくには、人類の心の結合が不可欠だ。それを可能にする生命尊厳の哲理こそが、日蓮仏法なのである。
22  命宝(22)
 慰霊碑に祈りを捧げた山本伸一は、案内してくれた広島市長の荒木武に語りかけた。
 「大変にお世話になりました」
 市長は、感慨をかみしめるように言った。
 「実は、私も被爆者なんです……」
 伸一は、市長を見つめ、静かに頷いた。
 「そうですか。世界には、数多くの市がありますが、一番、責任が重く、使命が深いのが、広島の市長さんだと思います。
 ご健康にて、ご活躍なさいますよう、お祈り申し上げます」
 市長の顔に微笑が浮かんだ。
 言葉をかければ、心が触れ合う。
 伸一は、それから、広島の青年部の代表に声をかけた。被爆二世の宿命に、信心を根本に立ち向かい、平和運動の先頭に立って奮闘している青年たちである。
 「ご苦労様! ありがとう!」 彼らは、前年の一九七四年(昭和四十九年)八月六日に、青年部反戦出版の広島編第一弾として、被爆体験集『広島のこころ ―二十九年』を発刊。さらに、この七五年(同五十年)の八月六日にも、『広島・閃光の日・三十年』『私が聞いたヒロシマ――高校生が訴える平和への叫び』を出版してきた。
 また、創価学会青年部として推進した、戦争の絶滅と核廃絶を訴える一千万署名でも、その先駆となってきたのである。
 伸一は、言葉をついだ。
 「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです」
 そして、戸田城聖を偲ぶように彼方を仰いだ。伸一の胸には、最悪な体調のなか、断固、広島行きを決行しようとした戸田の姿が、まざまざと蘇ってくるのであった。
 ――戸田は、一九五七年(同三十二年)九月八日、「原水爆禁止宣言」を発表した。その約二カ月後の十一月二十日、広島指導に出発しようとして、自宅で倒れたのである。
 戸田は、しばらく前から体調を崩し、日を追うごとに、衰弱は激しくなっていたのだ。
23  命宝(23)
 山本伸一は、戸田城聖の広島行きは、命にかかわりかねないと感じていた。しかし、世界最初の原爆投下の地・広島に赴き、「原水爆禁止宣言」の精神と使命を、一人ひとりの魂に、深く打ち込まねばならないという、戸田の思いも、痛いほどわかっていた。
 師の心を、常に敏感に、的確に感じ取ってこそ、真の弟子である。
 伸一は、悩み、熟慮した末に、戸田が広島に出発する前日、学会本部を訪れた。
 応接室のソファに横たわっていた師の前で、弟子は正座し、懇願した。
 「先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください」
 彼は、必死であった。
 戸田は、静かに身を起こし、じっと伸一を見て、腹の底から絞り出すような声で言った。
 「……それは出来ぬ。行く、行かなければならんのだ」
 「ご無理をなさればお体にさわり、命にもかかわります。おやめください」
 しかし、戸田は、毅然として答えた。
 「そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ。伸一、それがまことの信心ではないか!」
 あの時の、戸田の烈々たる声は、今も伸一の耳朶に鮮やかに残っていた。
 死をも覚悟しての広島行きであったが、出発の朝、戸田は倒れた。やむなく、彼の訪問は中止となり、急遽、代理として理事長の小西武雄が、広島に向かったのである。
 戸田は、平和記念公園に立つ広島平和記念館(現在の広島平和記念資料館・東館)での決起大会に出席し、広島をはじめとする西日本の同志と共に、平和への新たな潮流を起こそうと、心に決めていたのだ。さぞかし悔しく、無念であったにちがいない。
 その戸田の心を思うと、平和への死力を尽くした戦いなしには、弟子として、広島の地は踏めぬというのが、伸一の心情であった。
24  命宝(24)
 山本伸一は、この広島での本部総会に向かって、果敢な平和行動を展開してきた。
 前年の一九七四年(昭和四十九年)の五月以来、わずか一年半のうちに、中国を三度、ソ連を二度にわたって訪問。ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理をはじめ、両国の要人と、対話を重ねてきた。
 その最大の眼目は、一触即発の状況にある中ソ紛争の和解の道を探ることであった。また、日中、日ソ間に、平和と文化と教育の「友好の橋」を架けることであった。
 さらに、この七五年(同五十年)の一月には、アメリカを訪問し、国連本部でワルトハイム国連事務総長と会談。仮称「国連を守る世界市民の会」の設置を提唱した。そして、青年部が一千万人から集めた、戦争の絶滅と核廃絶を訴える署名の一部を手渡したのである。
 また、キッシンジャー米国務長官とも初の会談を行い、中東問題、米ソ・米中関係などについて語り合った。
 伸一は、中東の紛争解決の基本原則を示すとともに、東西冷戦の終結への流れを開こうと、懸命に対話を交わしたのである。
 その帰途、SGI(創価学会インタナショナル)の結成となる、グアム島での第一回「世界平和会議」に出席し、SGI会長に推挙され、就任したのである。そして、全世界に仏法の人間主義に基づく平和の連帯を広げ、この広島の地に来たのだ。
 平和への闘争は、生命尊厳の哲理を持った仏法者の使命である。
 平和のために、何をするのか――その具体的な行動こそが、肝要なのである。
 「行動のみが歴史である」とは、イギリスの詩人ブレイクの名言である。
 伸一は、献花の準備にあたってくれた広島の青年たちと、固い握手を交わした。
 「人生は早いよ。だから私は、一瞬一瞬が真剣勝負だという思いで戦っているんです」
 彼らは、広島に到着してからの伸一の行動に、その「真剣勝負」を実感してきた。
25  命宝(25)
 山本伸一は、十一月五日に東京を発って、京都に行き、フル回転で諸行事をすますと、七日の夕刻、新幹線で広島入りした。広島市は、六年八カ月ぶりの訪問である。
 市内の東区に立つ、広島文化会館に到着したのは、午後五時過ぎである。
 この文化会館は、十一月三日に落成したばかりであった。
 太田川の清流を望む、鉄筋コンクリート五階建ての建物は、明るいブラウン調の総タイル張りで、敷地面積は約三千平方メートル、二階の大広間は二百十三畳という、当時としては、堂々たる大法城であった。
 広島文化会館では、多くの同志の笑顔が出迎えてくれた。
 「落成、おめでとう!」
 伸一は、歓迎の花束を受け取ると、メンバー一人ひとりに声をかけていった。
 そして、そのまま、文化会館の館内を視察した。
 一部屋ずつ、ドアを開け、中にいる人を激励しながらの視察である。
 彼は、広島の中心者に言った。
 「どこに何があり、誰がいるか――指導者というのは、それを、すべて知ったうえで、指揮を執っていくんです。そのためには、ほんのわずかな時間も活用して、自ら足を運んで、回ってみることです。
 それは、一切の戦いに言えます。その努力を怠り、人の話を聞いて事足れりとするところから、惰性、官僚主義が始まる。幹部が最も戒めなければならないことです」
 寸暇を惜しんでの、全力の指導であった。
 館内で行き交う人は、皆、喜びにあふれ、はつらつとしていた。
 「みんな嬉しそうだね。立派な会館ができて、本当によかった。戸田先生が、この文化会館と、生き生きとした同志の姿をご覧になったら、どれほどお喜びになったことか。先生に代わって、私がみんなを励まし抜くよ」
 「師に代わって」――その自覚こそが、真の弟子の心である。
26  命宝(26)
 山本伸一は、広島文化会館を回りながら、中国方面の中心者に、会館の施設について詳細に尋ね、会館建設の在り方を語った。
 「会館には、大勢の人が来るんだから、トイレなどは、なるべくゆったりと、数も多くした方がいいね。集会用の広間が、どんなに立派でも、トイレの数が少なかったり、階段が狭く、急であったりすれば、人を大切にした設計とは言えない。
 学会の会館は、特に安全性を考慮していくことが大事です。建物には、思想が表れる。人格が表れる。学会は、生命の尊厳を守る人間主義の団体なんだから、人への配慮が表れている設計にしていかなければならない」
 また、伸一は、広島県や中国方面の、草創期からの功労者は、誰かを尋ねていった。
 そして、こう提案し、指導した。
 「その功労者の代表を表彰するとともに、名前を冠した木を、広島文化会館に記念植樹してはどうだろうか。
 ともかく幹部は、″どうすれば、頑張ってこられた方を顕彰できるのか。喜んでいただけるのか″、また、″皆が希望と張り合いをもって活動に励めるのか″を、常に考え続けていかなければならない。
 幹部に、そうした意識がなく、無慈悲であれば、会員がかわいそうです」
 矢継ぎ早の指導であった。そこには、一瞬たりとも、時間を無駄にすまいという、強い気迫があふれていた。
 それが、「臨終只今にあり」との覚悟で戦う、勇将の行動である。
 午後七時からは、県内の代表幹部らが参加して、広島文化会館の開館式が行われた。
 広島の繁栄を願っての厳粛な勤行のあと、伸一は、広島での本部総会に、国内外の代表が集うことから、お世話になる地元のメンバーに感謝を述べた。さらに、中国方面のメンバーは、「日本一明るい中国」をめざして進んでいくよう、指針を示した。
 そのあとも、中国各県や海外の代表らと、食事を共にしながら、懇談、激励が続いた。
27  命宝(27)
 広島の青年たちは、山本伸一の広島到着以来の奮闘を、直接、目にし、あるいは、その話を耳にしてきた。
 だからこそ、「一瞬一瞬が真剣勝負だ」との伸一の言葉が、強く胸に迫ったのである。
 八日、平和記念公園での献花を終えた伸一は、広島文化会館に戻り、夕刻、全国の各部代表幹部で構成される、中央幹部代表者会議に出席した。
 席上、「創価功労賞」「国際功労賞」、さらに、伸一が提案した、広島をはじめ、中国各県の広布功労者に対する表彰も行われた。
 伸一は、その一人ひとりと、真心を込めて、握手を交わした。
 彼は、この代表者会議では、懇談的に、指導者論などを語った。
 「広宣流布の活動を進めるうえで、大事なことは、幹部の率先垂範です。命令では人は動きません。全同志を心から包容しながら、自分の実践を通して、共に活動に励もうと、呼びかけていくことです。
 実践の伴わない観念的、抽象的な話では、人の心は打たない。しかし、行動、体験に裏打ちされた話には、説得力があり、共感を覚えます。この″共感″が、勝利の大波を広げていくんです。ゆえに、幹部は、常に自らが、真っ先に動くことです。
 また、戦いに臨んだならば、幹部には、勝利への執念と、自分が一切の責任をもつのだという気迫が、ほとばしっていなければならない。皆が一丸となって勝負すべき時に、幹部でありながら、本気になって戦おうとせず、事の成り行きを静観しているような態度は、最も卑怯だと、私は思う。
 それは、皆のやる気を失わせ、師子身中の虫となるからです。大聖人が『日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し』と仰せの姿です。その罪は重いと言わざるをえない」
 伸一は、新しい出発にあたり、幹部自身の革命が最大の課題であると考えていたのだ。
28  命宝(28)
 堅固な創価学会の建設のためには、各方面や各地域を、一カ所、また一カ所と、盤石にしていく以外にない。
 その意味から、山本伸一は、東京で行われてきた本部総会を、各方面で行うことを提案した。そして、二年前は関西の大阪、前年は中部の名古屋で開催され、原爆投下から三十年となる、この年の本部総会は、中国の広島で開かれることになったのである。
 伸一は、世界平和への新しき誓いを固める総会にしようと、提言も考え、講演原稿の準備にも、ことのほか力を注いできた。
 彼が、それを側近の幹部に語ると、その幹部は、驚いたような口調で尋ねた。
 「先生は、これまでも、実に多くの平和提言を重ねられておりますが、どうすれば、そのように次々と、事態の改善策や改革のプランが浮かぶのでしょうか」
 伸一は苦笑しながら答えた。
 「真剣だからです。核兵器の廃絶、戦争の絶滅を、戸田先生の弟子として、わが責任と定めているからです。本当に自分の責任で実現させなければならないと思えば、いやでも、さまざまな問題点が見えてくる。そして、おのずから、どうすべきかを考える。
 これは、広宣流布についても同じです。本気になって、自分が責任をもとうとすれば、問題がどこにあるか、何をすべきかが、わかってくる。したがって、その人は、必ず多くの建設的な意見をもっているものです。
 裏返せば、皆で協議をしても、何も意見や提案が出てこないということは、真剣でないということでもある」
 一九七五年(昭和五十年)十一月九日。
 第三十八回本部総会は、広島城の近くの県立体育館で、午後一時二十分過ぎから、晴れやかに開催された。
 晩秋の、さわやかな風が、会場周辺の色づき始めた木々を、ほのかに揺らしていた。
 開会前には雨が降ったが、次第に空は晴れ、鮮やかな虹が懸かった。
29  命宝(29)
 本部総会の会場となった県立体育館の壇上には、オレンジ色の花で飾られた地球を背景に、「健康」「青春」の青い文字が掲げられていた。明年のテーマが「健康・青春の年」であることから、製作されたものだ。
 総会を祝賀し、音楽隊、鼓笛隊、合唱団による組曲「青春」が披露され、やがて、開会を告げる司会の声が響いた。
 開催地・中国の総合長による開会の辞、明年の活動方針発表、青年部・婦人部・壮年部の代表抱負などが続き、会長・山本伸一の講演となった。
 彼は、冒頭、この広島の地で、本部総会を開催したことに触れ、力強く訴えた。
 「戦後三十年という一つの節を迎えて、二度と再び、あの人類の惨劇を繰り返してはならないという、私どもの重大なる決意をもって行われていることを、まず、はっきりと申し上げておきたい」
 そして、明年のテーマ「健康・青春の年」に言及し、健康論を展開。仏法では、病の起こる原因をどう分析しているかを述べたあと、「真実の健康とは何か」について論究していった。
 「健康とは、単に病気ではないという状態をさすものではない。また、身体が強健であることのみで、健康であるとは言えません。
 心身ともに、健全に、生き生きとした創造の営みを織り成していくところにこそ、真の健康がある。どのような苦難をも乗り越え、最悪の環境条件さえも、かえって、飛躍の原動力に変えていくところに、真実の健康像があると申し上げたい。
 したがって、一言にして、健康の本義を言えば、それは、絶えざる生命の革新にほかならないと考えたい。この生命の革新を可能にする根源の当体を、人間の内部に洞察して、″仏界″すなわち仏の生命と名づけ、現実に生命革新の道を開いた仏法こそ、人類の健康法を最も根源的に明かしたものであると私は信じますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 共感の大拍手がわき起こった。
30  命宝(30)
 山本伸一は、「真実の健康とは何か」に続いて、「青春」について論じていった。
 彼は、青春の根源をなすものは「生命の躍動」であり、青春には、たとえ、未完成であっても、偉大なる生命の燃焼があり、未知の世界への挑戦、はつらつたる革新のエネルギー、正義感、情熱等があると語った。
 そして、青年期の信念を、死の間際まで燃やし続けるところに、真実の健康があり、青春が輝くと訴え、仏法の歴史においても、変革者は、常に「生涯青春」の姿を示してきたことを述べた。
 涅槃の直前まで、法を求める衆生に教えを説き続けた釈尊。御入滅の年まで、なお御書を認め、弟子の指導に全力を傾けた日蓮大聖人。学会の歴史においても、殉教の先師・牧口初代会長は、取り調べの場で堂々と仏法を説き、戸田第二代会長は、逝去の寸前まで妙法流布の構想を練り、指揮を執り続けたことを、伸一は語った。
 「私たちは、こうした仏法を体得した先覚者の生き方に、宇宙生命と交流しつつ、輝ける青春の生涯を貫いた、真に偉大な人間の理想像を思い描くことができるのであります。
 私どももまた、いつまでも若々しい健康美にあふれ、青春の息吹に満ちた、生涯青春の生き方を全うしてまいりたいと存じますが、皆さん、いかがでありましょうか!」
 この伸一の呼びかけに、参加者は、大拍手をもって応えた。
 次いで、彼は、「大宇宙と人間生命をともに貫き、支え、生み出す根源の一法こそ、南無妙法蓮華経である。仏法の実践によって、その根源の法とわが生命を合致させていくことによって、真に健康と青春の人生が送れる」と、確信を込めて訴えたのである。
 広宣流布のために戦うなかで、生命は活力を増して、健康と青春の息吹がみなぎる。ゆえに、大聖人は、「年は・わかうなり福はかさなり候べし」と仰せなのである。広宣流布に生きる人の生命は、「生涯青春」である。
31  命宝(31)
 参加者は瞳を輝かせて、山本伸一の講演に耳を傾けていた。
 ここで伸一は、創価学会の根本目標は、どこまでも広宣流布にあり、その実現のための個人個人の活動は、着実な折伏・弘教の推進であることを再確認した。
 折伏こそ、末法の仏道修行の真髄であり、そこに、日蓮大聖人の弟子としての、地涌の菩薩としての、本領があるのだ。
 伸一は、この万人の仏性を涌現させていく仏法拡大の運動それ自体が、現代社会における、最も本源的な人間復興、生命尊厳確立の戦いであると述べ、さらに論を展開した。
 「一歩進めて、仏法を持った社会人の集団としての、社会における責任という観点で、創価学会の目標をとらえるならば、『生命の尊厳を基調とした文化の興隆』と言えます。
 また、学会員個々人としての、社会貢献の在り方を申し上げれば、『人間共和の地域社会の現出』『人間性あふれる職場社会の創出』にあります」
 そして、弘教の推進と文化・社会の建設とは、ともに仏法の精神である一切衆生の救済をめざすものであり、それは本来、合一しており、二つの側面であることを語った。
 「広宣流布、折伏・弘教は、人間個々の内面から、変革の力を与え、救済していくものであります。一方、『生命の尊厳を基調とした文化の興隆』とは、文化的・社会的環境という、外からの救済の道を開くものであります。
 特に、環境的側面からの救済の道ということに関して言えば、『立正安国論』にも『国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か』との仰せがあります。つまり、恒久平和の実現こそ、われわれのめざすべき大道なのであります」
 「四表の静謐」とは、社会の平和である。
 ――「宗教から何等の改革も出てこないようになれば、その宗教はもう廃物だということである」とは、アメリカの思想家エマソンの警句だ。
32  命宝(32)
 宗教は、人間の幸福と平和のためにある。
 ここで、山本伸一は、核問題について話を進めていった。
 彼は、第一に、いかなる国の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用をも禁止し、この地上から一切の核兵器を絶滅する日まで、最大の努力を傾けることを、あらためて宣言した。
 仏法の眼から見る時、核兵器は奪命者である魔の働きをもつ。ゆえに彼は、生命の尊厳を守る仏法者として、核兵器の廃絶を訴え続けてきたのである。
 さらに、伸一は、核拡散に歯止めをかけ、核兵器を絶滅へと向かわせるための要諦を、力を込めて訴えた。
 「私は、核兵器を廃絶していくためには、核抑止理論がいかに無意味であるかを強調するだけでは足りないと思います。
 より深く本源的な次元から、″核兵器は悪魔の産物であり、それを使用する者も悪魔であり、サタンの行為である″という戸田先生の洞察を、全世界に広めていくことが、最も根底的な核絶滅への底流を形成することになるものと考えたい」
 核兵器廃絶には、核兵器を絶対悪とする、揺るがざる根本の哲学が不可欠である。それがなければ、状況のいかんで、核兵器は必要悪とされ、結局は、その存在が肯定されるようになってしまうからだ。確たる哲理の土台がなければ、平和の城は建たない。
 伸一は、第二に、核兵器全廃への具体的な取り組みについての提言を行った。
 その一つが、核絶滅を願う国際世論を高めるために、広く民間レベルで、核の実態や人間生命に与える影響性などを、正しく調査・研究する機関を、広島、または長崎に、早急に設置すべきであるというこ核兵器は悪魔の産物であり、それを使用する者も悪魔であり、サタンの行為である″という戸田先生の洞察を、全世界に広めていくことが、最も根底的な核絶滅への底流を形成することになるものと考えたい」
 核兵器廃絶には、核兵器を絶対悪とする、揺るがざる根本の哲学が不可欠である。それがなければ、状況のいかんで、核兵器は必要悪とされ、結局は、その存在が肯定とであった。
 また、核兵器全廃のための全世界首脳会議への第一段階として、専門家、科学者、思想家などの民間代表を結集して国際平和会議を開催。核の脅威を徹底的に研究・討議し、核軍縮の具体的なプロセスについて、結論が出るまで会議を続行することを提唱した。
33  命宝(33)
 山本伸一は、第一段階となる国際平和会議では、まず、現実的な問題として、「いかなる核保有国も自ら先に核を使用しないこと」「非核保有国に対しては、未来にわたって、絶対に核を投下しないこと」を決議し、核兵器廃絶への土台を築くべきであると述べた。
 そして、この国際平和会議を、平和原点の地である広島で開催するように提案したのである。
 伸一は、第三に、原子力発電など、核の平和利用は、人類の生存にとって重大な脅威にもなりうることから、安全性についての厳重な監視を怠ってはならないと訴えた。
 ここで彼は、人口爆発、食糧不足、資源枯渇、環境破壊など、人類が英知を結集して対処すべき問題が山積していながら、それができない要因の一つに、「人類の道徳的迷妄」があるとする学者の説を紹介した。
 伸一は、その道徳的迷妄は人間生命の根本の迷い、すなわち#JIS2D60#元品の無明#JIS2D61#から発するものであり、それを打ち破る道を万人に示したのが、日蓮仏法であることを語った。
 また、その迷妄を打破し、人間生命に内在する善の可能性、創造性を顕在化させていくには、教育、なかんずく自己教育が重要になると訴えたのである。
 すべての原点は人間にある。人間自身の変革なくしては、人びとの幸福も、社会の繁栄も、世界の平和もない。人間革命こそが、人間讃歌の世紀を開く、根源の力となるのだ。
 伸一が、講演を開始してから、既に一時間近くがたっていた。彼は、話しながら、軽いめまいを覚えた。体調は、決して、良いとは言えなかった。
 しかし、まだ、語らねばならないことがあった。心で、#JIS2D60#倒れるわけにはいかぬ!#JIS2D61#と、自分に言い聞かせ、話を続けた。
 戸田城聖が、死をも覚悟して行こうとした広島の地での、本部総会である。そう思うと、一歩たりとも引くわけにはいかなかった。ますます力を込めて、伸一は訴えた。その執念の叫びが、自らを元気づけていったのである。
34  命宝(34)
 師子吼のような講演であった。
 山本伸一は、さらに、日本がめざすべき、今後の進路に言及。中小・零細企業に従事している人たちが、失業、倒産といった事態に見舞われている危機的現状を指摘し、喫緊の問題として、「弱者救済」を最優先することこそ、政府のとるべき道であると力説した。
 そして、長期的には、日本は「経済大国」の夢を追うのではなく、文化をもって、世界人類に貢献する「文化の宝庫」「文化立国」とすべきであると提唱したのだ。
 講演は、創価学会の社会的役割に移った。
 彼は、激動する社会のなかで、時代を正常な軌道へと引き戻していく力、生命のバイタリティーを、民衆一人ひとりの心田に植え付けていくところに、宗教の最も根本的な使命があることを強調し、こう訴えた。
 「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を冒し続ける″力″に対する、内なる生命の深みより発する″精神″の戦いであると位置づけておきたい」
 その″精神″の力の開発は、対話を通しての、地道な人間対人間の生命の触発による以外にない。
 権力主義や武力を背景とした力による威圧が、国際政治の舞台を支配しているなかで、人間主義による対話こそが、新しき時代の幕を開くというのが、伸一の確信であった。
 事実、彼の対話主義が、日中、日ソをはじめ、新たな平和友好の流れを開こうとしていたのである。
 講演は、その日中の平和友好条約の締結へと移った。伸一は、中国の周恩来総理との語らいを思い起こしながら、話を続けた。
 そして、一九七二年(昭和四十七年)九月に調印された日中共同声明に、アジア・太平洋地域における、いかなる覇権にも反対することが示されていることを確認。この精神を、一歩も後退させることなく堅持し、それを明確に盛り込んだ日中平和友好条約が結ばれることを、強く主張したのである。
35  命宝(35)
 決意に燃える同志の顔は、紅潮していた。
 山本伸一は、「百草を抹りて一丸乃至百丸となせり一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ」との御文を拝した。
 百の薬草をすって一丸、あるいは百丸の薬をつくったとしても、病を治すという効能は、一丸も、百丸も同じだとの意味である。
 その譬えを通して、伸一は訴えた。
 「皆さん方、一人ひとりが、創価学会そのものです。それ以外には、創価学会の実体はありえないと確信していただきたい。また、一人ひとりに、それだけの、尊い使命と資格があると説いているのが、日蓮大聖人の仏法であります」
 自分自身が創価学会なのだ。そして、自分の周りの同志との絆が、自分のブロックが、創価学会なのだ。ゆえに、自身が成長し、友のため、社会のために尽くし、貢献した分だけが、広宣流布の前進となるのである。自分が立ち上がり、勝っていく以外に、学会の勝利はない。
 社会の組織は、集団のなかに埋没するようにして個人がいる。しかし、学会は、それぞれの個性の開花をめざす、異体同心という人間主義の組織である。その組織の目的は、広宣流布の推進にある。それは、生命の哲理を人びとの胸中に打ち立て、人間の尊厳を守り、輝かせていく聖業なのだ。
 私たちは、組織のなかの個人というだけでなく、自身の規範、誇り、勇気の源泉として、それぞれの心の中に、創価学会をもっている。つまり、個人のなかに創価学会があり、各人の心中深く根を張っていることに、学会の強さがあるのだ。
 伸一は、最後に、この十五年間、自分を支え、守り、学会の発展に寄与してくれた会員同志に、心から深謝し、「偉大なる地涌の友に栄光あれ」と述べ、講演を終えた。
 実に講演は、一時間二十分に及んだ。幾つもの提言を含んだ講演であった。
 会場を揺るがさんばかりの大拍手が、伸一を包んだ。彼の額には、汗が光っていた。
36  命宝(36)
 本部総会終了後は、来賓を歓迎するレセプションが、山本伸一を待っていた。
 彼は、レセプションの会場に入ると、「本日は、わざわざご臨席を賜り、誠にありがとうございました」と、丁重にあいさつし、来賓の一人ひとりと握手を交わしていった。
 その伸一の姿を見て、大学の名誉教授である白髪の男性が、足早に近づいてきた。
 「今日は、ありがとうございました!」
 そして、伸一の手を握りしめたまま、語り始めた。
 「私も被爆者なんです。今日は、勇気をいただきました。先生の核兵器廃絶への決意をお聞きして、私も、もう一度、戦う決心をしました。本当に若返った気持ちです」
 この名誉教授は、病気のために静養中であったが、本部総会に出席したのだという。
 彼は、反核運動に情熱を傾けてきた。しかし、その運動が、政党などの宣伝の具にすぎなくなっている現実を、いやというほど見てきた。また、本気になって核兵器廃絶のために戦う人が、いかに少ないかも痛感してきたようだ。
 そのなかで、伸一が、中国、ソ連、アメリカを訪問して、核兵器の廃絶と世界の平和のために、全精魂を傾けて行動していることを知った。さらに、伸一の提案を受けて、創価学会青年部が、核廃絶の署名や反戦出版を行い、それが平和への大きな波を広げていることも、目の当たりにしてきた。そして、今日の講演で、伸一の反核の断固たる決意を聞き、心を揺さぶられたというのだ。
 伸一は言った。
 「お気持ちはよくわかります。私は、戦います。生涯、戦い抜いてまいります。あなたのために戦います!」
 その力強い言葉を聞くと、名誉教授の目が潤んだ。
 対話は力だ。胸襟を開いた語らいによって、核兵器の廃絶を願う、素朴な人びとの思いを汲み上げ、結集していってこそ、時代を動かす大きな平和の潮流がつくられるのである。
37  命宝(37)
 来賓のレセプションのあと、山本伸一は広島文化会館に戻り、午後七時から、広島未来会第二期の結成式に出席する予定であった。
 広島未来会は、高・中等部、少年・少女部の代表からなる、二十人ほどのメンバーである。
 総会に引き続き、レセプションで、全精魂を注ぎ込むようにして来賓の応対に当たる伸一を見て、同行の首脳幹部は思った。
 ″先生は、さぞかし、お疲れにちがいない。今日は、もう、会合などへの出席は、控えていただくべきではないか″
 レセプションが終了し、伸一が車に乗ろうとした時、首脳幹部が尋ねた。
 「本日は、このあと、午後七時から、未来会の結成式となっておりますが、これは、いかがいたしましょうか。できましたら……」
 言下に、力強い声が響いた。
 「もちろん出席します。未来会は大事だ」
 伸一は、今回の広島訪問で、十年、二十年先の大発展の布石をするために、命の限り働き抜こうと、深く心に決めていた。
 しかし、東京から来た首脳幹部たちには、その彼の心がわからなかった。
 真剣勝負の行動とは、目の前の一つ一つを完璧に仕上げ、瞬間瞬間を、決して無駄にすることなく、全力で戦い切ることだ。
 広島文化会館に伸一が到着したのは、午後五時であった。文化会館には、来客が待っていた。彼は、そのまま応対した。
 このころ、会館の二階ロビーには、「広島若竹少年少女合唱団」の六十人ほどが集っていた。この合唱団の名前は、要請を受けて伸一が命名したもので、メンバーは小学校の三年生から六年生であった。 少年少女合唱団は、当初、本部総会で合唱を披露することになっていた。しかし、時間の関係で、やむなく、出場は取り止めとなったのである。
 そこで、合唱団の担当幹部と、東京の首脳幹部が相談し、「総会終了後、山本先生に、少年少女合唱団の歌を、特別に聴いていただこう」ということになったのだ。
38  命宝(38)
 「広島若竹少年少女合唱団」のメンバーは、本部総会の日、一生懸命に唱題し、夕刻、喜々として広島文化会館に集った。
 東京から来た首脳幹部は、思った。
 ″山本先生は、夜の未来会結成式にも出られるという。そのうえ、合唱団まで激励していただくとなると、先生に大変な負担をおかけすることになる。かわいそうだが、今日のところは、合唱は中止すべきだろう。みんな、わかってくれるだろうか……″
 彼は、意を決して、合唱団に語った。
 「先生は、今日の本部総会で、一時間二十分にもわたって講演されました。大変にお疲れですし、今も、来客があってお忙しい。残念ですが、今日は、お会いすることは難しいと思います」
 子どもたちの顔に、落胆の色がにじんだ。
 「えーっ」と、声をあげる子もいた。
 皆、この日を楽しみに、練習に励んできたのである。目に涙を浮かべる子もいた。
 話をする幹部も辛かったが、力を振り絞るようにして、言葉をついだ。
 「今日は、会っていただく時間はありませんが、明日の夕方なら大丈夫だと思います。明日、もう一度、集まってください」
 子どもたちは、しぶしぶ荷物を持って、文化会館の外に出た。そこで合唱団の団長から、明日の集合時間が徹底され、集合可能かどうか、尋ねられた。
 合唱団のメンバーのなかに、文化会館に荷物を忘れてきてしまった少年がいた。彼は急いで、取りに戻った。
 午後七時前、山本伸一は、未来会の結成式に出席するために、文化会館の大広間に向かった。その時、合唱団の制服である白いシャツに、若竹色のネッカチーフを首に巻いた少年が、足早に館内を行く姿を見た。
 「合唱団の子だね。メンバーが来ているなら、呼んであげよう。合唱も聴きたいね」
 ″今しかない。一人でも多くの人と会って励ましたい。決意の種子を植えたい″との強い一念が、その瞬間を見逃さなかったのだ。
39  命宝(39)
 広島文化会館の外に集まっていた「広島若竹少年少女合唱団」のもとに、青年部の役員が走った。解散する寸前であった。
 「合唱団の皆さんは、会館の中に入ってください!」
 皆、″なんだろう″と思った。
 「きっと、山本先生の前で歌えることになったんだよ!」
 確信をもって、そう言い切る子もいる。すると、皆、そんな気がしてくるのだ。
 期待と不安と緊張が入り交じった顔で、メンバーは、二階の大広間の横で待機していた。
 山本伸一は、この時、既に大広間での、広島未来会第二期の結成式に出席していたのだ。結成式には一期生も参加しており、伸一は、各期ごとに、一緒に記念撮影した。
 撮影の前後には、皆に声をかけていった。
 「みんないい顔をしている。凛々しいね。将来が楽しみだな」
 「広宣流布のバトンは、君たちに託すからね。頼んだよ」
 未来会のメンバーも、忌憚なく、伸一に語りかけた。男子高等部員が言った。
 「先生、お元気で、長生きしてください。お疲れでしょうから、ぜひ、肩を揉ませてください!」
 伸一は、笑顔で答えた。
 「ありがとう。でも、申し訳ないからいいよ。未来の大事な指導者に、そんなことを、させるわけにはいきません」
 それが、彼の偽りのない気持ちであった。
 伸一は、後継の人材育成に当たっては、常に、こう自分に言い聞かせていた。
 ″皆、尊い使命をもった、二十一世紀の偉大な指導者だ。大切な、創価の後継者だ。仏に、師匠に、仕えるような気持ちで、私は、皆を育てていくのだ″
 彼は、後継の弟子たちに対して、時には、本人のために、あえて厳しく指導をすることもあった。しかし、この″敬いの心″こそが、伸一の根本姿勢であった。
40  命宝(40)
 少年少女合唱団が大広間に入るように言われたのは、未来会の記念撮影が終わろうとしていた時であった。大広間に入ると、イスに座り、微笑みかける山本会長の姿が、メンバーの目に飛び込んできた。
 ″万歳! 駄目かもしれないと思っていたのに、先生とお会いできた!″
 皆、歓声をあげて、小躍りしたかった。しかし、それをこらえて、打ち合わせ通りに、静かに、素早く、合唱の隊形に並んだ。
 「こんばんは!」
 皆が、元気よく言うと、伸一も、「こんばんは!」と応えた。
 合唱団を代表して、少年があいさつした。
 「先生! 広島に来てくださり、本当にありがとうございます!」
 また、伸一が応えた。
 「こちらこそ、ありがとう!」
 「山本先生に名前をつけていただいた『広島若竹少年少女合唱団』は、こんなに成長することができました!」
 伸一は、一人ひとりに、視線を注いで、頷きながら言った。
 「すばらしい。よかったね」
 「これからも、どんなに辛いことがあっても、今日の日を、生涯、忘れることなく、二十一世紀をめざして、頑張っていきます」
 「すごいね。負けないで!」
 「先生に聴いていただこうと、一生懸命、練習してきた少年部歌『ぼくら師子の子』を元気いっぱい歌いますので、聴いてください」
 「聴かせていただきます。ありがとう」
 伸一は、少年の語る一言一言に反応し、言葉を返した。
 対話の生命は反応にある。人を、温かく包み込み、勇気づける反応のなかに、人間主義の交流があるといってよい。
 合唱が始まった。皆、この瞬間を待ちわびながら、来る日も、来る日も、厳しい練習に耐えてきたのだ。メンバーの小さな胸に、感激と歓喜が沸騰していた。
 皆、涙をこらえながら、懸命に歌った。
41  命宝(41)
 「広島若竹少年少女合唱団」が、はつらつとした声で、「ぼくら師子の子」を歌い上げた。
 山本伸一は、真っ先に拍手を送った。
 「うまいね! もう、君たちは″若竹″なんかじゃない。一人前の″大きな竹″だ!」
 メンバーの合唱は続き、「春が来た」「まっかな秋」「紅葉」が披露された。
 歌が終わると、さらに、伸一は言った。
 「上手だね。一流です。
 これから、記念撮影をしよう。その写真は、この大広間に飾ります。みんなが大学を卒業するまで、ずっと飾っておこう。
 君たちは、総会で歌うことになっていたんだよね。みんなを総会に出してあげたかったな。でも、どうしても、合唱をしてもらう時間がなかったんだよ。残念だったな」
 彼は、子どもたちの気持ちが、痛いほどわかっていた。だから、総会に出演した以上の、思い出をつくってあげたかった。
 大人が、子どもたちと接していくなかで、約束を果たせないこともあろう。しかし、それを、そのままにしておけば、自分への信頼を失うだけでなく、子どもたちの心に、大人や人間への、不信感を植え付けてしまう。
 約束を果たせなかった時には、子どもが、″ここまでやってくれるのか″と思うほど、誠心誠意、それに代わる何かをすることだ。その真心が、誠実さが、人間への強い信頼感を育み、若き生命を伸ばしていくのである。
 広島にも足跡を留めた、歌人の若山牧水は詠んだ。
 「若竹の 伸びゆくごとく 子ども等よ 眞直ぐにのばせ 身をたましひを」
 伸一は、「広島若竹少年少女合唱団」と記念のカメラに納まった。それから、合唱団、未来会、文化会館にいた役員らと勤行し、皆の成長と栄光を、深く祈念した。
 合唱団の少年少女の、弾んだ読経・唱題の声が、ひときわ大きく会場に響いていた。
 この合唱団や未来会のメンバーからは、後に、全国の青年部長をはじめ、数多くの、広宣流布の逸材が育っていくことになる。
42  命宝(42)
 広島滞在四日目となる十日、山本伸一は、朝から、海外各国の理事長らと、寸暇を惜しんで懇談し、指導を重ねた。
 世界広布は、伸一が師の戸田城聖から託された、断じて成し遂げねばならぬ人生のテーマであり、創価学会の使命であった。
 世界広布とは、仏法の人間主義の哲理をもって人類を結び、世界の平和と人びとの幸福を実現することである。しかし、どの国や地域にも、軍事政権下にあって活動が制限されるなど、さまざまな困難が山積していた。
 伸一は、力を込めて語った。
 「実情は厳しいかもしれない。でも、だからこそ、自分がいるのだという自覚を忘れないでいただきたい。私たちは師子だ。どんな逆境も、はね返して、歴史の大ドラマをつくる使命をもって、生まれてきたんです」
 ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは叫んだ。
 ――「君たちが、新たな、あらしをはらむ、わきたつ時に生まれたのは、一体不幸だろうか。それは君たちの幸福ではないか」
 逆境が、真正の勇者をつくるのだ。
 さらに、伸一は訴えた。
 「自国の平和と繁栄を、絶対に築いてみせると強く決意し、大宇宙を揺り動かす思いで、祈り抜くことです。そして、執念を燃やして、一日一日を、一瞬一瞬を、『臨終只今』の思いで全力で戦い、勝利を積み上げていくんです。
 大聖人は『小事つもりて大事となる』と仰せだ。瞬間瞬間の勝利の積み重ねが、歴史的な大勝利となる。悔いなき闘争のなかに、大歓喜がある!」
 正午からは、広島文化会館の前庭で、海外メンバーの歓迎フェスティバルが行われた。
 席上、本部総会に来賓として出席した、ハワイのホノルル市議会副議長から、伸一に、ホノルルの名誉市民の称号が贈られた。
 一九六〇年(昭和三十五年)十月、海外歴訪の第一歩をホノルルに印してから十五年――伸一の、同市への貢献と、世界平和への間断なき努力が高く評価されたのである。
 それは、世界広布の勝利の曙光であった。
43  命宝(43)
 山本伸一は、海外メンバーに、次々と声をかけ、レイを贈るなどして励ましていった。
 メンバーのなかに、ウルグアイから来日した四人の青年がいた。男性二人、女性二人である。
 同行の幹部が、伸一にメンバーを紹介した。四人のうち、一人は、日系人の男性で、あとの三人は、スペイン・イタリア系などのウルグアイ人であった。
 ウルグアイは南米の南東部にあり、ブラジルとアルゼンチンに隣接する国である。日本とは、ほぼ地球の反対側に位置する。いわば、最も遠い地域から、参加した青年たちであった。
 伸一は、じっと、メンバーを見つめると、厳しい口調で言った。
 「まず、今後五年間、退転せずに頑張りなさい。今は苦しみなさい。本当の師子にならなければ、広宣流布などできない!」
 周りにいた日本の幹部たちが、予想もしなかった言葉であった。皆、伸一は、青年たちの訪日を讃え、ねぎらいと包容の言葉をかけるものと思っていたのだ。
 ――ウルグアイは、以前は、中南米を代表する民主国家として知られていた。だが、経済の停滞から社会不安が高まり、一九六〇年代には都市ゲリラ活動が活発化した。そして、ゲリラ鎮圧のために、次第に軍部の力が強まり、この当時は、事実上、軍政となっていたのである。
 伸一は、これまで、軍政下にある国々の状況を、つぶさに見てきた。会合なども自由に開けないケースが多かった。また、学会への誤解から、警戒の目が向けられ、弾圧の対象とされてしまうこともあった。
 そのなかで広宣流布を進めるのは、決して容易なことではない。まさに「日興遺誡置文」に仰せの、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」との覚悟が必要となる。この不惜身命の信心こそが、いかなる逆境もはね返し、勝利の旗を打ち立てる原動力なのだ。
44  命宝(44)
 山本伸一の言葉を、スペイン語の通訳が伝えると、ウルグアイから来たメンバーの顔に、緊張が走った。
 伸一は、さらに、念を押すように言った。
 「本気になるんだ。この四人のうち、本物が一人でも残ればいい。
 また、学会に何かしてもらおうなどと考えるのではなく、自分たちの力で、ウルグアイに、理想の創価学会を築いていくんです。
 皆さんが広宣流布を誓願し、祈り、行動していかなければ、どんなに歳月がたとうが、状況は何も変化しません。私に代わって、ウルグアイの広宣流布を頼みます」
 日本語が少しわかる、日系人のユキヒロ・カミツが、「はい!」と元気な声で答えた。
 伸一は、傍らにいた日本の幹部に言った。
 「この人たちは、必ず将来、大きな役割を担う使命がある。大切な人なんだ。だから私は、あえて厳しく言っておくんです。
 若い時に、広宣流布のために、うんと苦労しなければ、力はつかない。
 ウルグアイの中心になる人たちを、私は、未来のために育てておきたいのだ。
 彼らは今、日本の創価学会を見て、″すごいな。別世界のようだ″と思っているかもしれないが、三十年前は、戸田先生お一人であった。そして、先生と、弟子の私で、壮大な広宣流布の流れを開いたのだ。その師弟の精神がわかれば、どの国の広宣流布も大きく進む。″一人立つ人間″がいるかどうかだ」
 カミツは、その言葉を、生命に刻む思いで聞いた。彼は一九五七年(昭和三十二年)、五歳の時に、家族と共に熊本県からブラジルに渡った。しかし、一家は米作りに失敗し、二年後、ウルグアイに移った。 それから九年が過ぎた時、同じ移住船でブラジルに渡った人が訪ねて来た。学会員であった。仏法の話をするために、わざわざブラジルから来てくれたのである。
 人びとの幸福のために、労苦をいとわず、喜び勇んで、どこへでも駆けつける――それが学会精神である。それが創価魂である。
45  命宝(45)
 ユキヒロ・カミツの父は、農業をしていたが、ウルグアイでも借金がふくらみ、にっちもさっちもいかなくなっていた。しかも、家族も病気がちであった。
 「信心で乗り越えられぬ問題はない」と、力強く訴える紹介者の話に、藁にもすがる思いで一家は入信した。
 信心を始めたカミツの面倒を見てくれたのが、彼より八歳上の、タダオ・ノナカという青年であった。ノナカは、花の栽培を勉強するため、日本からアルゼンチンに渡る直前、姉夫婦の勧めで入会。アルゼンチンで本格的に信心に励み、ウルグアイに移り住んだ。
 カミツは、ノナカと共に活動に取り組むなかで、仏法への確信を深めていった。
 ウルグアイは、一九七五年(昭和五十年)当時、五十世帯ほどになっていた。
 山本伸一は、軍政下にあって、集会にも許可がいるなどの、ウルグアイの状況を聞き、心を痛めてきた。そして、未来への飛躍の契機になればと、広島での本部総会に、ウルグアイの青年たちを招待したのである。
 カミツは、この時、ウルグアイの広宣流布への決意を固めた。「今は苦しみなさい」との伸一の言葉は、彼の指針となった。
 「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」とは、文豪トルストイの名言である。
 カミツは、猛然と戦いを開始した。
 弘教に、家庭指導にと奔走した。勇気を奮い起こし、自分の殻を破って、挑戦していってこそ、成長があり、境涯革命があるのだ。
 広島の本部総会から二年後の七七年(同五十二年)、ウルグアイのSGIは、法人資格を取得。タダオ・ノナカが理事長となった。そして、二〇〇五年(平成十七年)には、カミツが第二代の理事長に就任する。
 伸一も、ウルグアイの平和と発展を願い、一九八九年(同元年)には、訪日したサンギネッティ大統領と会談。さらに、二〇〇一年(同十三年)には、バジェ大統領のメルセデス夫人とも語り合い、交流に努めてきた。
46  命宝(46)
 十一月十日の午後二時からは、山本伸一が出席し、広島文化会館で原爆犠牲者の追善勤行会が行われた。これには、広島をはじめ、中国各県、海外の代表ら八百人が参加した。
 さらに、伸一は、勤行会終了後、この日、結成された、女子部の人材育成グループ「中国青春会」のメンバーと会い、励ましの言葉をかけ、記念撮影をした。
 また、夕刻には、文化会館前庭での、本部総会の役員らを慰労する集いにも出席した。
 彼は、各地の中心者たちに、よく、こう指導してきた。
 「総会などの大きな会合が成功すれば、それで、すべてが終わったように思ってはならない。まだ、後片付けが残っている。では、それを済ませば終わりかというと、そうではない。設営、清掃など、陰で支えてくれた多くの人たちを、讃え、ねぎらって、すべてが終わるんです」
 この慰労の集いも、彼の指導をもとに、企画されたものであった。
 伸一は、ここでも、裏方となって奮闘してくれたメンバーをねぎらい、心から、御礼と感謝の言葉をかけていった。
 人への配慮のなかにこそ、慈悲があり、人間性の輝きがある。また、それを実践してきたところに、創価学会の強さがあるのだ。
 「広島会館に行こう!」
 慰労の集いが終わると、伸一は言った。
 今回、広島文化会館が誕生し、すべて、ここが中心となっているが、それまで、広島の中心会館となってきたのが、広島会館であった。また、文化会館の落成は、十一月三日であったために、本部総会の準備も、実質的には、広島会館で行われてきた。
 伸一が、六年八カ月前に広島市を訪問した折も、広島会館で指揮を執ったのである。
 「あの会館にいる人を、激励したいね」
 彼は、会館の管理者や、任務についている牙城会のメンバーらを励ますとともに、一言でも御礼を言っておきたかったのである。
47  命宝(47)
 山本伸一は、広島市の南観音にある広島会館に到着すると、会館の前にある民家に向かった。その家の主や夫人たちが、庭にいたからである。畑仕事から戻ったばかりのようで、主の手は泥にまみれていた。
 伸一は、前回、広島会館に来た折にも、一人でこの家を訪れていた。「会館に大勢の人が集う時など、ご迷惑をおかけすることがある」と聞いて、あいさつに行ったのだ。その時は、勝手口から訪ね、主が不在であったため、主の母堂と対話を交わしている。
 伸一は、今回は主に、丁重にあいさつした。
 「こんばんは! 創価学会の会長の山本でございます。本当にお世話になります。何かと、お騒がせしてすみません。また、日ごろ、ご尽力を賜り、誠にありがとうございます」
 ――「あらゆる人間関係において、隣近所というもののもつ圧倒的な重要性をまず考えよう」とは、アメリカの思想家エマソンの言葉である。
 伸一は、「今後とも、よろしくお願い申し上げます」と言って、泥まみれの主の手を、強く握り締めた。
 主は、最初、戸惑っていたが、心からの感謝の言葉に、笑みを浮かべ、大きく頷いた。
 大事なのは、勇気の行動だ。誠実の対話だ。近隣の学会理解の姿が、広宣流布の実像だ。
 伸一は、広島会館に入ると、館内を視察し、現地の幹部と、会館整備などの構想を協議。さらに、管理者や職員らを励まし、記念撮影もした。矢継ぎ早の行動であった。
 彼は、時間を無駄にしたくはなかった。時間の浪費は、生命の浪費であり、広宣流布の遅れであるからだ。
 翌十一日の朝、伸一は、文化会館にいた人たちの激励のために、ピアノに向かい、「同志の歌」などを、次々と奏でていった。
 ちょうど、そのころ、呉では、呉会館への伸一の訪問を願って、懸命にメンバーが唱題に励んでいた。呉の同志は、以前から、″山本先生に呉においでいただきたい″と念願し、伸一にも、その希望を伝えていた。
48  命宝(48)
 ″なんとしても、山本先生を呉にお迎えして、呉の同志に会っていただくのだ!″
 こう決意して、猛然と祈り始めた、一人の婦人がいた。呉総合本部の婦人部の中心者である竹島登志栄であった。
 彼女は、広島で本部総会が開催されることが決定すると、本部総会が大成功に終わるように、唱題を開始した。さらに、″山本先生が広島に来られるなら、呉にも来ていただきたい″との祈りが加わっていった。
 ただならぬ気迫を漂わせ、懸命に唱題する竹島を見て、婦人部のメンバーが訳を尋ねた。そして、この婦人も、総会の成功と伸一の呉訪問を願って、唱題するようになった。
 その話を聞いた呉の同志は、″そうだ。私も頑張ろう!″と、皆が真剣に唱題に励むようになっていった。題目の渦が巻き起こっていったのである。
 祈りに勝る力はない。祈りは、一切を変えていく原動力である。勝利への強き祈りの一念から、大確信も、緻密な計画も、勇気ある行動も生まれるのだ。
 唱題を重ねるなかで、呉の同志は思った。
 ″山本先生においでいただくからには、弟子として、「私は戦いました。勝ちました!」と、胸を張って報告できる自分でなければならない。それが師弟の道ではないか!″
 活動にも、一段と力がこもった。
 本部総会が近づくにつれて、会館の清掃も念入りに行われ、庭にも手を入れた。
 ″先生に来ていただきたい″との思いは、やがて″先生は来てくださるだろう″という希望的観測となり、さらに″絶対に来られる″との、確信に変わっていった。
 十一月七日、山本伸一は広島入りし、八日には原爆死没者慰霊碑に献花。九日には本部総会が行われ、大成功のうちに幕を閉じた。十日は、海外メンバーの歓迎フェスティバル、原爆犠牲者の追善勤行会などが続いた。
 呉の幹部たちは、日程から推測して、″山本先生は、十一日には、きっと呉においでくださるにちがいない″と思った。
49  命宝(49)
 十一月十一日は、呉会館に、そして、隣接する寺院に、朝からメンバーが集ってきた。
 また、中国婦人部長の岡田郁枝や、東京の幹部らも会館を訪れた。もし、山本伸一が呉会館を訪問することになった場合に備えての、下見であった。それを見て、呉の同志は、伸一の呉訪問に確信をもった。
 一方、山本伸一は、広島文化会館での、落成を記念する親善卓球大会などに出席し、同志の激励に余念がなかった。
 また、広島の幹部らとも懇談し、リーダーの在り方について、あらゆる角度から指導。そのなかで彼は、広宣流布は時間との闘争であることを強調し、こう語った。
 「幹部は、全力で動き抜くんです。今回は難しいが、私は呉も訪問したかった」
 それを聞いた幹部が呉会館に電話を入れ、山本会長の呉訪問はないと伝えたのである。
 広島文化会館に戻ることにした岡田郁枝が、呉の婦人部の竹島登志栄に言った。
 「残念ね。今回は、山本先生のご訪問はないそうよ。いつか、必ず、先生をお呼びする決意で頑張りましょうね」
 岡田たちは、慌ただしく帰っていった。
 山本会長の訪問はないという話は、呉会館に集っていた人たちにも伝えられた。皆、肩を落とした。それでも唱題をする人もいれば、がっかりした顔で家路につく人もいた。
 呉の婦人部の幹部は、会館の一室に集まり、涙しながら、語り合った。
 「でも、あきらめるのは早いわ。先生は、まだ広島におられる」
 「そうよ。明日だって可能性はあるわ」
 もちろん、伸一の予定もある。訪問が実現しないこともあるかもしれない。しかし、それが、祈り抜いた結果であるならば、そこには、必ず、深い意味があるのだ。
 彼女たちは、ともかく、最後まで、絶対にあきらめずに、祈り切ってみようと決めた。
 「勝つ」とは、決して「あきらめない」ということだ。烈風に、いや増して燃え盛る、炎のごとき不撓不屈の闘魂が、勝利を開くのだ。
50  命宝(50)
 呉会館にいた婦人たちは、唱題を始めた。
 そこに、広島文化会館から電話が入った。
 竹島登志栄が電話に出ると、山口県婦人部長の直井美子からであった。
 「あっ、竹島さん。中国婦人部長の岡田郁枝さんを呼んでいただけますか!」
 直井の緊迫した声が、受話器から響いた。
 竹島は、答えた。
 「岡田婦人部長なら、さきほど、広島文化会館にお帰りになりました」
 「えーっ、そちらに行かれましたよ!」
 「どなたがですか」
 「先生よ! 山本先生よ!」
 今度は、竹島が「えーっ」と言ったきり、絶句した。 
 竹島は、電話を切ると、急いで皆に、山本会長が呉に向かっていることを伝えた。さっきまで泣いていた婦人たちの顔に、光が差した。涙は、嬉し涙に変わった。
 会館に残っていた人が手分けして、家に帰ろうと、停留所でバスを待っている人などを、呼び戻しに走った。
 山本伸一は、午後一時四十分ごろ、広島文化会館で、県幹部から「呉では、先生のご訪問をお待ちして、大勢の同志が集まっております」との報告を受けた。伸一は、これから、広島市内の寺院を訪問する予定であった。
 「そうか。それなら、ぜひ、呉にも行ってあげたいな。みんな喜ぶだろうな」
 呉会館まで、片道一時間余りであるという。
 伸一は、時計を見た。
 「呉に行っても、今夜の勤行会までには、こっちに戻れるね。よし、行こう!」
 伸一は、直ちに車で出発した。
 勝利は迅速果敢な行動にある――それが、ナポレオンの戦闘哲学であった。
 時は、走り去っていく。「今」という時は、二度と来ることはない。ゆえに、機会を逃さぬ、電光石火の行動が大事なのだ。それが、広宣流布の新しき流れを開くのだ。
 伸一は、広島市内の寺院を訪ねたあと、同志の待つ、呉へと急いだ。
51  命宝(51)
 午後四時前、山本伸一の乗った車は、呉会館の隣にある寺院の前で止まった。会館をはじめ、この寺院にも学会員が集まり、さらに、近くの公園にも、たくさんの人がいた。
 伸一は、公園の前まで行き、皆に手を振りながら言った。
 「皆さんに、お会いしにまいりました」
 それから彼は、寺院に向かった。本堂は、ぎっしりと人で埋まっていた。
 伸一が姿を現すと、大歓声があがった。
 彼は、皆と一緒に、厳粛に勤行したあと、懇談的に話を進めた。
 「今日は、皆さんとお目にかかれて、本当に嬉しい。呉の訪問は、私の念願でした。
 日夜、広宣流布のために頑張っておられる皆さんは、仏の使いであり、最も尊貴な方々です。なかなかお会いできませんが、お一人お一人を、抱きかかえるように激励して差し上げたいというのが、私の真情なんです。
 しかし、実際には、そうもいかないので、皆さんのご健康とご一家の繁栄を祈って、毎日、妻と共に真剣に題目を送っております」
 伸一は、一人ひとりの顔を心に焼き付けるように、視線を注いでいった。
 お年寄りの姿を見ると、声をかけた。
 「お会いできてよかった」
 すると、「ありがとうございます!」という、元気な声が返ってきた。
 「中国方面のなかで、私は、呉が一番、元気があると思うんです。でも、これは、ほかの地域の人には、黙っていてくださいね」
 どっと笑いが広がった。
 「明るいね。功徳は受けていますか」
 「はい!」
 皆が答えると、伸一の顔がほころんだ。
 「私にとって、それが最高の朗報です。幸福になるための信心ですから。
 信心の労苦は、歓喜の種子、幸福の種子なんです。広宣流布のために流した汗は、すべて、福徳のダイヤモンドとなります。自身の、そして、一家の幸せのために、宿命の転換のために、懸命に戦うんです」
52  命宝(52)
 愛する呉の同志の、幸福を祈りながら、山本伸一は話を続けた。
 「長い人生であり、長い広宣流布の旅路です。いろいろな困難もあるでしょう。しかし、その時が、宿命転換の、人間革命のチャンスなんです。″負けるものか!″と、不屈の闘魂を燃え上がらせて、信心を貫いていくことです。
 そして、ひたぶるに、お題目を唱え、広宣流布に走り抜いていくんです。信心に行き詰まりはありません。私も、唱題第一で、ここまできました。
 祈れば、自分が変わります。己心の仏の生命が開かれ、周囲の人も変えていくことができる。さらに、大宇宙が味方します。
 ところが、いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、″もう駄目だ″とあきらめてしまう。しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深ければ深いほど、暁は近い。
 ゆえに、最後の粘りが、勝利への一念を凝縮した最後の瞬発力が、人生の勝敗を決していくんです」
 彼の声に、熱がこもっていった。
 「生死即涅槃と説かれているように、人生には、常に苦悩があります。仏も、一切衆生を救うために、悩み抜かれています。
 悩みがなくなってしまったら、人生は全く味気ないものになってしまう。おなかが空くから、ご飯がおいしい。月給が安くて生活が大変だから、昇給すれば幸福を感じる。大変さのなかにこそ、喜びがあるんです。
 成仏というのは、なんの悩みもなく、大金を持ち、大邸宅に住むことではありません。大歓喜にあふれ、生命が脈動し、何があっても挫けない、挑戦の気概に満ち満ちた境涯のことです。広宣流布に生き抜くならば、一生成仏は間違いありません」
 伸一は、皆に、断じて幸福になってほしかった。信心の醍醐味を実感してほしかった。皆が、人生の勝利者になってほしかった。
53  命宝(53)
 信仰とは、希望である。常に、新しき心で、新しき明日に向かい、さらに、新しき前進を開始する力である。
 命に及ぶ数々の大難をものともせず、「然どもいまだこりず候」と、新しき戦いを起こされた日蓮大聖人の大精神こそが、「創価の心」である。そして、そこに、人生の幸福への大道がある。
 山本伸一は、呉の同志に呼びかけた。
 「私たちの人生には、何が待ち受けているか、わかりません。また、広宣流布の道は、波瀾万丈です。しかし、どんな時にも、めげず、挫けず、悠々と、前へ、前へと進んでいくんです。日々、新しき挑戦です。新しき出発です。それが、真の信仰者です。
 どうか、ここにいらっしゃる皆さんは、全員が、いつまでも明るく、若々しく、百歳以上、生きてくださいね」
 「はい!」という、明るい返事が響いた。
 伸一は、しみじみとした口調で言った。
 「本当は、もっと、ゆっくりと、お一人お一人とお会いしたいが、時間がとれなくて申し訳ありません。
 一日は二十四時間しかありませんが、私の場合、八十時間から九十時間はないと、足りないんですよ。一年も三百六十五日ですが、千日ぐらいは必要なんです。全世界が相手なものですから。
 でも、私は、皆さんを守るために、全力で戦います。
 壮年部の方々は、どんなに辛いことがあっても、一家一族を、わが組織を、絶対に守り抜くという、鋼のような強い柱になってください。また、奥さん方は、ご主人を大切に。
 それから、ご高齢の方は″これでよし、自分は、何も悔いはない″と胸を張って言える、見事な人生の最終章を飾ってください。
 そして、皆で力を合わせ、世界一明るく、仲の良い、功徳に満ち満ちた呉創価学会をつくっていこうではありませんか!」
 また、「はい!」と、元気な声が弾けた。
 明るさは強さであり、希望の輝きである。
54  命宝(54)
 「大変にありがとうございました! 今日から、新しい決意で出発しましょう」
 山本伸一は、こう言って立ち上がると、参加者と握手を交わしながら、外に出た。
 すると、婦人部の竹島登志栄が、駆け寄って来て、伸一の腕を引っ張って言った。
 「先生! 呉会館はこちらです。みんながお待ちしています」
 彼女は、伸一が、そのまま帰ってしまうのではないかと、心配でならなかったのだ。集ったメンバー全員に会ってもらおうと、必死であったにちがいない。
 竹島は、伸一の手を引いて歩き始めた。
 「わかっています。今、行きますよ」
 伸一は、同志を思う、彼女の真剣さが嬉しかった。師を求め抜く一途な求道の心から、歓喜の前進は始まるのだ。
 竹島は、数歩、歩いたところで、われに返り、自分の強引さに気づいた。赤面して手を離し、恐縮して言った。
 「す、すみません!」
 「いいよ、いいよ。みんなが待っているんだもの……。それにしても、竹島さんは、よくぞ十五年間、苦しいなかで、頑張ってくれたね。ありがとう」
 竹島は、十五年間と言われて、なんのことか、すぐにはわからなかった。
 ――その夜、帰宅して、彼女はハッとする。
 一九六一年(昭和三十六年)に山本会長の面接を受け、呉支部の副婦人部長になってから、夫婦で毎月のように、東京での本部幹部会に通って十五年になるのだ。初めて、そのことに思い至った時、自分でさえ忘れていたことを、覚えていてくれた伸一の一念の深さに、彼女は涙するのであった。
 自分のことを、心から思ってくれる人の存在が、人間を奮い立たせるのだ。
 呉会館の玄関には、くす玉があり、中から「お父さん おかえりなさい」と書かれた垂れ幕が出ていた。高等部員が作ってくれたものだという。伸一は、皆の深い真心に合掌する思いで、その文字を見つめた。
55  命宝(55)
 山本伸一が呉会館を訪れるのは、初めてであった。会館にも大勢の人が詰めかけていた。
 伸一は、ここでも、皆と一緒に勤行し、一人ひとりに声をかけ、激励を重ねた。
 目の不自由な婦人を見ると、彼は言った。
 「何かと大変でしょうが、信心の眼を開いていけば、必ず幸せになれますよ」
 また、別の婦人には、家族のことを尋ね、子どもの教育について語った。
 「子どもさんのなかでも、特に男のお子さんをおもちの方は、頑張って大学に行かせてください。社会に出て、活躍していくうえで、教育は極めて大事です。
 そして、さらに大切なのが、信心をお子さんに、しっかりと伝え抜いていくことです。お子さんが幸せになれる根本の道は、信心しかないからです。
 また、お子さんが広宣流布のために戦っていくならば、それは親の福運にもなります。子どもが、信心に目覚めていけば、絶対に親を粗末にせず、大切にする人になりますよ」
 伸一は、会場の広間に入れなかった人のために、もう一度、勤行することにした。
 参加者の入れ替えが行われている間も、彼は、控室に、八年前に夫を亡くした婦人と、その子息を呼んで励ました。
 婦人の夫は、杉村七郎という公明党の市議会議員であった。
 ――一九六七年(昭和四十二年)七月、全国で三百六十五人といわれる死者を出す大豪雨が、九州北部から関東を襲った。
 神戸などと並んで、呉の被害も大きく、死者八十八人、負傷者四百六十七人、全半壊家屋五百五十七棟を出したのである。
 この時、杉村七郎は、公明党の二人の市議会議員らと共に、山崩れで生き埋めになった一家の救出に向かった。
 救出作業が始まってしばらくすると、救助隊も到着した。生き埋めになった四人のうち、三人を救出し、最後に残った八歳の少女を救出中に、再び山崩れが起こった。そして、杉村は命を失ったのである。
56  命宝(56)
 杉村七郎は、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との、公明党の立党精神を、座右の銘にしていた。
 まさに、その通りの生涯であった。
 山本伸一は、杉村が亡くなったという報告を聞くと、すぐに励ましの手紙を送った。また、翌月に岡山で行われた会合に、杉村の一家を招き、激励した。
 杉村には、八人の子どもがいた。当時、成人していたのは二人で、末の子は四歳であった。妻の純子は、家業の食堂を切り盛りして、必死になって子どもを育てた。
 伸一は、いつか、呉に行ったら、なんとしても杉村の家族と会おうと思っていたのだ。
 ――次男と共に控室へ来た杉村純子を見ると、伸一は言った。
 「お元気そうなので安心しました。
 ご主人は、本当に立派な方でした。議員の鑑です。本当の公明党の精神を体現されていた。私は、生涯、忘れません」
 次男が、伸一に報告した。
 「先生! お陰さまで、私は、今年、創価大学に入学いたしました。姉も創大生です」
 伸一は、目を細めて応えた。
 「そうか。創価大学か。よく頑張ったな。お姉さんにもよろしく。
 アルバイトも大変だろうね。でも、頑張り抜くんだ。お父さんも、じっと見ているよ」
 さらに、伸一は、杉村純子に言った。
 「今夜、広島文化会館で勤行会を行いますが、その時に、ご主人の追善をします。来られますか」
 「はい。必ずまいります」
 そして、また、広島文化会館で会うことを約束した。
 伸一は、さらに、呉会館の広間で、勤行会を行ったあとも、一人でも多くの人を励まそうと、握手を交わし続けた。晩秋であったが、伸一の額には汗さえにじんでいた。
 彼の全身から、皆を奮い立たせずにおくものかという、白熱の気迫が放出されていた。その魂の燃焼が人の心を燃え上がらせるのだ。
57  命宝(57)
 呉での合計三度の勤行会を終えた山本伸一は、さらに控室で、地元の功労者や教育部の代表らと会い、激励を重ねた。
 呉会館を出発する時も、各部屋を見て、こまやかな配慮を怠らなかった。
 「今、私が控室として使わせてもらった部屋は、今後は、婦人部と女子部の部屋にしてはどうだろうか。
 それから、第二集会室となっている部屋は、男子部が使うようにしてはどうだろうか」
 また、階段の電灯を見ると、「少し暗いね。事故などが起きては大変だから、明るいものにしよう」とアドバイスするのである。
 大事故も、その原因は、小事にある。ゆえに、細かいことへの注意が、事故を未然に防ぐ力となるのだ。
 会館の玄関に来ると、置かれていた水槽を眺めた。鯛が悠々と泳いでいた。
 「すばらしいね。生きたままの鯛が見られるなんて。誰が用意してくれたの?」
 地元の幹部が答えた。
 「青年部が、ぜひ、先生にご覧いただこうと、捕ってきたものです」
 伸一は、中国方面の幹部に言った。
 「ありがたいね。水槽を見て、ただ、″立派な鯛だ。きれいだな″と思うだけでは、指導者の資格はないよ。その陰には、大変に苦労をされた方がいるはずだ。
 鯛の泳ぐ姿から、その一つ一つの苦労が、にじんで見えるようでなければ、本当の指導者とはいえない。
 目に見えないところにまで心を配り、陰で頑張っている人、さらに、その陰の陰で黙々と戦っている人を探し出し、一人ひとり、全力で激励していくんです。
 幹部がそれを忘れたら、創価学会ではなくなってしまう。冷酷な官僚主義だ。学会は、どこまでも、真の人間主義でいくんです」
 伸一が、車に乗り込んだのは、午後六時前であった。
 呉の同志への激励は、帰途の車中でも、まだ続くのである。
58  命宝(58)
 山本伸一の乗った車は、広島市へと急いだ。午後七時から行われる、広島文化会館での勤行会に出席するためである。
 途中、生花店の前に、十人ほどの人たちが、人待ち顔で道路の方を見て立っていた。婦人や壮年に交じって、女子中学生や女子高校生もいた。
 伸一は、運転手に言った。
 「″うちの人″たちだよ。ちょっと、車を止めてくれないか」
 呉会館の勤行会に、間に合わなかったために、「せめて、ここで、山本会長をお見送りしよう」と、待っていた人たちであった。
 そこに黒塗りの乗用車が止まった。窓が開き、伸一の笑顔がのぞいた。歓声があがった。
 女子中学生の一人が、抱えていたユリの花束を差し出した。伸一に渡そうと、用意していたのだ。
 「ありがとう! 皆さんの真心は忘れません。また、お会いしましょう」
 伸一は、こう言って、花束を受け取った。
 ――それから間もなく、そこにいた人たちに、伸一から菓子が届いた。
 また、しばらく行くと、バスの停留所に、何人かの婦人たちがいた。はた目には、ただ、バスを待っている人にしか見えなかった。
 「今、バス停に、″うちの人″が五人いたね。念珠と袱紗を贈ってあげて」
 伸一の指示を無線で聞いた後続車両の同行幹部が、念珠などを持って停留所に駆けつけると、確かに五人の婦人たちは、皆、学会員であった。同行幹部の驚きは大きかった。
 学会員は、皆が尊き仏子である。皆が地涌の菩薩である。その人を、讃え、守り、励ますなかに、広宣流布の聖業の成就がある。
 ゆえに、伸一は、大切な会員を一人として見過ごすことなく、「励まし」の光を注ごうと、全生命を燃やし尽くした。だから、彼には、瞬時に、学会員がわかったのである。
 「励まし」は、創価の生命線である。
 彼は、その会員厳護の精神を、断じて全幹部に伝え抜こうと、決意していたのである。
59  命宝(59)
 広島文化会館に到着した山本伸一は、勤行会の会場に姿を現した。
 勤行会でのあいさつで、彼は訴えた。
 「本当の仏法は、絢爛たる伽藍の中で、民衆を額ずかせ、僧侶が教えを説く、僧侶中心の伽藍仏法ではない。大聖人の仏法は民衆仏法です。主役は社会で戦う在家の民衆です。
 事実、皆さんは、立派な社会人として生活され、常識豊かに、社会の尊敬と信頼を勝ち得つつ、布教に汗を流し、指導もし、広宣流布を推進してくださっている。
 そして、万人が『仏』の生命を具えているという、生命尊厳の思想を、広く世界に伝え抜いておられる。
 この私たちの運動は、前代未聞の仏教運動といえます。いわば、創価学会の広宣流布運動こそ、現代における宗教革命の新しき波であり、人間仏法、民衆仏法の幕開けであることを、知っていただきたいのであります」
 中国・広島で、激闘の限りを尽くした伸一は、翌十二日には舞台を中部に移し、愛知、岐阜でも、全力の激励が続いた。
 全身全霊を注いでの山本伸一の指導行は、師走に入っても、とどまることはなかった。
 十二月三日から十日までは、鹿児島の九州総合研修所(当時)で第一回冬季講習会の指揮を執り、さらに、二十四日から二十九日まで、栃木・群馬指導が行われたのである。
 崩れざる幸福を築くには、わが生命を磨き、輝かせるしかない。そのための信仰であり、それを教えるための指導である。
 トルストイは、「生命は幸福の為めに我々に与えられている」と述べている。
 私たちは、幸福になるために生まれてきたのだ。皆が、幸福であると胸を張って断言できてこそ、真実の平和といえるのだ。
 伸一は、吹き荒れる北風の中を走った。彼は、寒風に挑むかのように、新しき年へ、ますます闘志を燃え上がらせていった。
 間断なき挑戦と闘争のなかにこそ、生命の歓喜と躍動があるのだ。

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