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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「波濤」 波濤

小説「新・人間革命」

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1  波濤(1)
 「人間主義とは、皆がかけがえのない存在であるという哲学だ。そして、皆を人材として磨き抜いていくことだ。それができるのがわが創価学会である。さあ、人材を育てよう」
 一九七五年(昭和五十年)七月三十一日、ハワイでの一切の行事を終えて帰国した山本伸一は、開催中の夏季講習会の報告を聞くと、側近の幹部たちに力強い声で語った。
 広宣流布の未来を開くために、何よりも必要なのは、新しき人材である。あの地、この地に、幾重にも連なる、雄々しき人材山脈をつくることが、伸一の熱願であった。
 夏季講習会は「希望と成長の講習会」をスローガンに掲げ、七月二十九日に、東京・八王子の創価大学をはじめ、北海道から沖縄までの全国十六会場で開講式が行われた。
 一昨年まで、夏季講習会は、総本山だけを使って行われていたが、より多くのメンバーが参加できるようにするために、昨年から、全国各地に会場が設けられたのである。
 この七五年の講習会は、期間は八月下旬までの約一カ月間で、会場も、最終的には全国三十四会場を使用し、約二十万人が参加することになっていた。
 伸一は、早くも八月二日には、創価大学で講習会の陣頭指揮を執っていた。
 翌三日には、講習会の一環として行われた、人材育成グループ「五年会」の第三回総会に出席し、「諸法実相抄」の一節を拝して指導。
 なかでも「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」の個所では、師弟論に言及していった。
 「日蓮大聖人と『同意』であることが、信心の根本です。その大聖人の御心のままに、広宣流布の大誓願に生き抜いたのが、牧口先生、戸田先生に始まる創価の師弟です。
 ゆえに、創価の師弟の道を貫くなかに、大聖人と『同意』の実践があります。具体的な生き方でいえば、自分の心の中心に、常に厳として師匠がいるかどうかです。
 また、師と向かい合うのではなく、常に師匠の側に立ってものを考え、行動していることです」
2  波濤(2)
 「五年会」のメンバーは、十代後半から二十代後半の世代である。二十一世紀を、ちょうど働き盛りの年代で迎えることになる。
 山本伸一のメンバーへの期待は、限りなく大きかった。それだけに、信仰の最も重要な師弟というテーマについて、語っておかなければならないと、彼は思ったのだ。
 初代会長の牧口常三郎も、第二代会長の戸田城聖も、国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行しようとする軍部政府の弾圧によって投獄された。
 戸田は、師の牧口と共に投獄されたことを、何よりも誉れとしていた。
 権力への恐れなど、微塵もなかった。さらに、獄中にあっても、″罪は自分一身に集まり、牧口先生は一日も早く帰られますように″と、朝な夕な真剣に祈りを捧げている。
 戸田は、日蓮大聖人の御金言通りに、広宣流布のために戦う牧口に、勇んで随順したのだ。そこに、「日蓮と同意」という御聖訓に則った、現代における実践がある。
 また、牧口の三回忌法要の折には「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」「その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。
 なんたる幸せでございましょうか」と涙した。
 戸田は、牧口という師と同じ心、同じ決意に立つことによって、地涌の菩薩としての使命を自覚することができたのだ。
 伸一は、この牧口と戸田の師弟の絆について触れ、若い魂に呼びかけた。
 「私は、その戸田先生に仕え、お守りし、共に広宣流布に戦うなかで、自分の地涌の菩薩の使命を知りました。創価学会を貫く信仰の生命線は、この師弟にあります。
 どうか諸君も、生涯、師弟の道を貫き、この世に生まれた自身の崇高な使命を知り、堂々たる師子の人生を歩み抜いていただきたいのであります」
 学会が永遠に見失ってはならない指針を、伸一は全力で伝え残そうとしていた。
3  波濤(3)
 山本伸一は、翌八月四日には、創価大学での高等部の第八回総会に臨み、渾身の力を注いで指導にあたった。また、連日のように、講習会に参加した各方面の幹部や各部の代表と懇談を重ねた。
 さらに、五日には、中等部員を、六日には、少年・少女部員を見送るなどして、寸暇を惜しんで激励を続けた。
 七日は、東京男子部の代表三千人が集って講習会が行われた。そのなかで、日焼けした凛々しい顔の男たちの姿が、ひときわ目を引いた。外国航路で働く船員の人材育成グループ「波濤会」のメンバーである。
 彼らは中央体育館での全体集会に参加したあと、教室を借りて、第五回「波濤会大会」を開催。その会合が終了するころ、男子部の幹部が、息を弾ませ駆け込んできた。
 「山本先生が、記念撮影をしてくださいます。校舎前のロータリーの『出発の庭』に集合してください」
 約七十人の″海の男″たちから、歓喜の雄叫びがわき起こった。半袖の白いシャツと白いトレパンのメンバーは、船員帽を誇らしげに被って、急ぎ足で移動し、待機した。
 間もなく、伸一がやってきた。
 「『波濤会』だね。ご苦労様! いつも、皆さんの航海の安全を、一生懸命に祈っています。さあ、記念撮影をしましょう」
 これまで「波濤会」の代表が伸一に激励されたことはあったが、これほど多くのメンバーが、そろって会うのは初めてであった。
 皆、胸を張り、意気揚々と、記念のカメラに納まった。
 この日も、伸一のスケジュールはびっしりと詰まっていた。しかし、時間をやりくりして、「波濤会」のメンバーと、記念撮影をすることにしたのだ。
 伸一は、彼らが、どんな状況のなかで信心に励んでいるかを、よく知っていたからである。
 ″最も大変ななかで頑張っている人にこそ、最大の激励をするのだ。それが私の責務だ″
 伸一は、常にそう自分に言い聞かせていた。
4  波濤(4)
 外国航路の船員は、頻繁に海外に行け、賃金もよいことから、憧れの職業の一つとされてきた。
 しかし、ひとたび船に乗ると、長ければ、勤務は一年以上に及ぶこともある。生活のリズムも、周りの景色も、単調そのものである。
 嵐ともなれば、十メートルを超える荒波が、次々と襲ってくる。大型の船でさえ、立っていることもできないほど、激しく揺れる。大自然の猛威に、命の縮む思いをすることもたびたびである。
 一瞬の油断、一回の判断ミスが、大きな事故につながることもあるだけに、神経をすり減らすことも多かった。
 船内では、立場による厳格な立て分けもあった。それによって、部屋も、個室か、相部屋かが決まる。たいていの乗組員は、相部屋である。そのなかで信心を貫くのは、決して容易ではなかった。
 勤行をするにも、同室の人の了承が必要になる。言い出す勇気がないと、布団の中で小声で勤行するか、勤行自体をやめてしまうようになる。
 また、勤行を始めれば、学会員であることは、すぐに皆に伝わった。すると、冷やかされたり、批判されたりもした。
 批判の内容は、根拠のない噂や、誤った先入観によるものであった。それと戦うことから、船内での信心が始まるのだ。悪口を打ち破ることができずに、悔しい思いをすることもあった。
 信心で苦境を脱した体験などがあり、確信をもっているメンバーは、非難や中傷にも屈しなかった。だが、なかには、意気揚々と乗船してきても、環境に負けて、信心から離れていってしまう人もいた。
 まさに「聴聞する時は・つばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり」との、御聖訓通りであった。
 「孤立した人間は無力である。事実、弱い」とは、スペインの人権活動家アレナルの指摘である。
5  波濤(5)
 苗が地中に深く根を張り、すくすくと伸びていくには、水や、太陽の光が必要である。
 同様に、私たちが信仰者として成長していくには、同志の激励が不可欠である。ゆえに、互いに励まし、触発し合っていく、人間共和の組織が必要となるのだ。
 求道心にあふれた船員のメンバーは、諸外国の港に着くと、電話帳で学会の会館を探して、連絡を取った。
 そして、現地の会合などに参加させてもらい、世界広布の息吹を感じ、決意を新たにして、船に戻って来るのである。
 また、メンバーのなかには、長い航海の間、学会活動ができないことから、この仕事を続けるべきかどうか、悩む人もいた。
 しかし、何人かの学会員が乗船している船の場合、様相は一変した。船内で互いに励まし合い、仕事に取り組んだ。
 船内座談会も開催され、仏法対話も弾んだ。船内生活のなかで同志から信心を学び、同僚の信頼を勝ち取り、一段と成長した、意気軒昂な姿で、帰港するメンバーも少なくなかった。
 一九六六年(昭和四十一年)の十二月のことである。大阪港の近くにある地区部長宅に三人の青年が集まっていた。五年制の商船高校(当時)を卒業したメンバーであった。
 久しぶりに会った彼らは、航海中の出来事などを語り合っていたが、やがて、外国航路の船員の使命に話が及んだ。
 「海外の人たちとの接触の機会が多い外国航路の船員には、世界広布のパイオニアとなる使命があると思う。そこで大事なことは、どこで信心を磨いていくかだよ」
 「陸にいるときは、地元の組織で頑張ることは当然だが、日ごろ、船内で、どうしていくかだと思う。
 たとえば三十年間、船員を務めるとすると、その間に陸の上にいるのは、三、四年だろう。人生のほとんどを海の上で過ごすのだから、船内は、ぼくたちの信心即生活、仏法即社会の実践の場所ではないかな」
6  波濤(6)
 青年たちの語らいに熱がこもっていった。
 「ぼくたちにとって船の中は、人間革命のための戦いを起こし、仏法の勝利の実証を示していく場所だと思う。どこか別の場所に、自分の活躍する広宣流布の舞台があるように考えるのは、間違いじゃないだろうか」
 イギリスの歴史家カーライルは「お前は、いまいる場所で、元気に最後まで、全力をつくし、闘いをつづけるがよい」と書き残した。人生の勝利の道を示す至言である。
 幸福は彼方にあるのではない。自分のいるその場所で、挑戦を開始するのだ。勝利の旗を打ち立てるのだ。その時、どんな逆境も、金色燦然たる常寂光土へと変わるのだ。
 青年の一人が言った。
 「船員のメンバーが使命を自覚し、切磋琢磨していくためのグループをつくりたいね」
 彼らの会話を聞いていた地区部長が、色紙を取り出し、笑みを浮かべて言った。
 「君たちには、山本先生の弟子として、世界広布の開拓者となる使命がある。そこで、その誓いを込めて、署名をしてはどうかね。そして、
 君たちと同じ決意に立つ船員がいたらここに署名していくんだ。その広がりが、船員グループの結成の土台になっていくのではないだろうか」
 皆、大賛成であった。
 署名にあたって、その色紙の中央に、皆の思いを象徴する文字を入れようということになった。「勇気」「世界広布」「七つの海の誓い」、さらに、「怒濤」という案が出た。
 すると、地区部長が提案した。
 「『怒濤』もいいけど、『波濤』というのはどうかね。響きもいいと思うが……」
 皆、「怒濤、波濤」と交互に口に出して言ってみた。そして、「波濤」を選んだ。
 色紙の中央に「波濤」と書き込み、三人の青年が署名した。
 ″これは山本先生への誓いだ! 世界広布を担う人材に成長しなくては……″
 青年たちは燃えていた。燃えているからこそ、青年であるのだ。
7  波濤(7)
 「波濤」と書かれた色紙には、やがて十二人の船員メンバーの名前が並んだ。
 最初に署名した三人の青年は、青年部の幹部に指導を受けながら、外国航路の船員がいることがわかると、連絡を取っていった。
 さらに、彼らは、大切な後輩をしっかり育てようと、母校の学会員とも会い、激励を重ねていった。
 一九七〇年(昭和四十五年)の初夏、彼らの代表が学会本部を訪れ、男子部の幹部と懇談し、船員のメンバーの要請を伝えた。
 「外国航路の船員の代表を、夏季講習会に参加させていただけないでしょうか。
 優秀な人材が数多くおりますが、一年のうち大多数が航海で、所属組織の学会活動に参加できないために、講習会参加者には、なかなか選ばれません。
 そういうメンバーに、成長の起爆剤となる機会を、ぜひ与えていただきたいのです。
 また、船員が互いに信心を触発していくための、グループをつくっていただけませんでしょうか」
 彼らは必死になって訴えた。その言葉には懸命な思いがにじみ出ていた。
 なぜ、船員のグループが必要なのかということも、きちんと説明できるように、よく考えを整理していた。
 真剣であれば、準備もまた周到になる。ゆえに、真剣さに勝る力はないのだ。
 「わかりました。男子部長とも相談し、皆さんの意向にそえるように努力します」
 その要請は、男子部長の上野雅也に伝えられ、上野から、山本伸一にも報告された。
 それを聞くと、伸一は言った。
 「大事な人材だ。ぜひ、講習会に参加させてあげたいね。また、講習会では、男子部長がメンバーと懇談もし、実情や要望をしっかり聞いて、すべて私に報告してください。
 船に乗れば、たった一人で信心に励まなくてはならない。しかし、その一人から、広宣流布の航路は開かれる。メンバーを、断じて″一人立つ丈夫″に成長させることです」
8  波濤(8)
 男子部長は、山本伸一に、船員のメンバーから、グループを結成してほしいとの要望が寄せられていることも伝えた。
 伸一は答えた。
 「大事なことです。
 幹部には″どうすれば、仏子である学会員が、喜々として信心に励み、成長していけるのか。幸福になっていけるのか。そのために、どんな手を打てばよいのか″を、真剣に考え、智慧を絞っていく責任がある。
 外国航路の船員は、一年のほとんどが船の上であり、学会活動ができずに悩んでいる。当然、男子部としても、手を打つべきです。その実情を知りながら、何もしないのは無責任であり、無慈悲です。
 今回の夏季講習会で、しっかりと核になるメンバーを育成し、結成の準備に入ろう」
 夏季講習会が始まった。初めて船員の代表九人が参加しての講習会である。教学の研鑽などのほか、緑陰で懇談もし、互いの決意を披瀝し合った。
 伸一は、全員に土産として、御宝前に供えた菓子を贈った。また、男子部長は、メンバーと語り合い、こう提案した。
 「今回、結成準備委員会を発足させ、来年の講習会で、船員グループの結成大会を行いたいと思うが、どうでしょうか」
 歓声があがった。皆、大賛成だった。
 「船員のグループができる!」
 その知らせは、喜びの大波となって、船員のメンバーに伝わっていった。グループの結成に向け、皆が活発に活動を開始した。船員座談会も、横浜、神戸などで開催された。
 歓喜は活力の源である。それが生命の躍動をもたらし、困難の壁をも突き破るのだ。
 また、男子部の幹部と相談しながら、グループの機構、人事、活動の内容についても、協議が重ねられた。
 組織化の手順としては、最初に男子部、そして壮年部に広げていくことになった。さらに、毎年の夏季講習会に全国の代表が集うことや、船員座談会の月例化などが決まっていった。
9  波濤(9)
 一九七一年(昭和四十六年)の夏季講習会には、船員の代表三十七人が参加し、いよいよ、人材育成グループの結成大会が行われることになった。
 山本伸一に、その開催報告書が届いた。そこには、グループの名称は、皆の案として「波濤会」を考えているとあった。
 「『波濤会』か。″海の男″たちの集いらしい、いい名前じゃないか! 万里の波濤を乗り越えて、世界広布に前進していこうという心意気があふれているね」
 そこには、第一期生となる三十七人のカードも添えられていた。伸一は、その一枚一枚を、生命に焼き付けるように見ていった。
 彼の口から、題目が漏れた。皆の航海の無事と成長、そして勝利を念じての唱題であった。
 また、開催報告書とともに、船長帽も届けられていた。二十一世紀へと進む学会の船長ともいうべき伸一に、メンバーが敬意を表して贈ったものだ。
 伸一は、側にいた幹部の前で、早速、その帽子を被り、敬礼して見せた。
 「『波濤会』と一緒に、大航海に出発だ!
 私は、広宣流布の大海原を行く『創価学会丸』の船長だ。人びとを幸福と平和の大陸に運ぶことが、私の使命だ。
 その航路は、常に激浪と嵐の日々だった。これからも、その連続にちがいない。一瞬たりとも気を抜くことなど、許されない。みんなも、その覚悟で私についてくるんだよ」
 そして、つぶやくように言った。
 「もう六年だな……」
 ――伸一は、一九六五年(昭和四十年)二月の、商船高校生たちとの出会いを、懐かしく思い起こしていた。
 その日、伸一が学会本部から車で出かけようとした時、本部の入り口に学生服を着た、三人の青年が立っていた。寒風の中である。
 伸一は、車を止めてもらい、声をかけた。
 鳥羽商船高校の久保田実、寺崎秀幸、そして、富山商船高校の吉野広樹である。皆、商船高校機関科の専攻科一年生であった。
10  波濤(10)
 商船高校では、本科(三年)を経て、専攻科(二年)に進む。機関科の場合、専攻科の一年目は練習船、造船所での実習を受ける。二年目には商船での実習などを受け、卒業していく。
 機関科の専攻科一年の久保田実と寺崎秀幸、吉野広樹の三人は、東京の同じ造船所で実習を受けていた。寺崎と吉野は、久保田の紹介で三カ月半前に入会したばかりであった。
 春からは、それぞれ別の商船で実習を受けるため、その前に、そろって学会本部を訪ねようということになったのである。
 三人は、山本会長と会えるとは、思いもしなかった。驚きと喜びが、彼らを包んだ。
 伸一は、車の中から、一人ひとりと固い握手を交わし、これから彼らを待っている、長い航海の日々に思いを馳せながら語った。
 「どんな状況に置かれても、自分は学会員であるとの誇りをもって、しっかり頑張るんだよ。そして、誰からも信頼され、尊敬される立派な人になりなさい。君たちがどこへ行っても、私は、じっと見守っているからね」
 彼らは、胸が熱くなるのを覚えた。
 「頑張ります!」
 伸一は、この束の間の出会いを忘れなかった。三人の青年も、その言葉を胸に刻んだ。
 そして、就職すると、船員として、職場の第一人者をめざし、奮闘してきたのである。
 人生の師との誓い――それは、生涯を支える精神の骨格となる。
 その精鋭たちが、「波濤会」結成の推進力となってきたのである。
 「波濤会」の結成大会が行われたのは、一九七一年(昭和四十六年)八月十日、総本山での男子部夏季講習会のことであった。
 午前十時、五重塔前に、白いトレパンに白いシャツを着て、船員帽を被った、海の男たち三十七人が整列した。木と木の間に、「波濤会結成大会」と書かれた幕が掲げられていた。
 赤銅色の地肌を見せた富士が、彼らを見守るように、悠然とそびえていた。
11  波濤(11)
 「波濤会」結成大会の開会が宣言された。宣言を行ったのは、結成準備委員会の委員を務めてきた久保田実であった。
 次いで、結成に至る経過を、同じく委員になっていた寺崎秀幸が報告した。
 さらに、委員の吉野広樹が、関東、関西での月例座談会の充実など、活動大綱を発表。
 そして、関西方面の船員メンバーの激励にあたってきた男子部の幹部が、「波濤会」の役員並びに会員を紹介した。メンバーの世話役となる委員長には、本部職員で男子部の全国幹部である井野道正が就いた。
 続いてメンバー三十七人の名前が、一人ひとり呼ばれていった。
 「はい!」という、はつらつとした声が、辺りの木々にこだました。どの顔にも、世界広布に生き抜く決意がほとばしっていた。
 このあと、四人の代表が抱負を語った。どの抱負にも、歓喜と決意がみなぎっていた。
 船内での孤独な生活のなかで、信仰を貫いてきた日々を振り返りながら、逆境に生きる自分たちこそが、広宣流布の開拓者なのだと、胸を張って力説する人もいた。
 委員長の井野は、「世界広布の先駆者たれ」「自己に挑戦し、信心の確立を」「船員界の革命児たれ」とのスローガンを発表し、メンバーの奮起を促した。
 続いて、男子部長があいさつに立ち、「波濤会」の出発を祝福。メンバーの今後の成長に期待を寄せながら、力を込めて訴えた。
 「本日、山本先生は出席されておりませんが、結成大会のことは、よくご存じです。
 私たちは、どこにいようが、先生の弟子です。大事なことは、それぞれが弟子として、師匠に勝ちましたと、ご報告できる、見事な実証を示すことです。その結果を携えて、来年も集い合おうではありませんか!」
 師に応えようと決意を定める時、わが胸中に師が存在する。その師を、決して見失わず、裏切らず、日々、精進を重ね、戦い続けるなかに、師弟不二の栄光の道が開かれる。
 師は、汝の心に、厳としてあるのだ。
12  波濤(12)
 男子部長は、力強い声で語った。
 「いつの日か、山本先生を、必ずこの『波濤会』の集いにお迎えしたいと思います。
 その時こそ、本当の意味で、『波濤会』の結成であるととらえ、その日をめざして、勇猛果敢に前進していこう」
 賛同と決意の拍手が鳴り響いた。
 夏季講習会の指揮を執っていた山本伸一は、男子部長らから、「波濤会」結成大会の詳細な報告を受けた。
 伸一は、未来を思い描きながら語った。
 「これで一石が投じられた。まだ、小さな動きだが、ここから大波が広がっていくよ」
 「波濤会」の結成は、機関紙である聖教新聞にも報じられ、また、船員のメンバーからメンバーへと、伝えられていった。
 その知らせは、大きな衝撃をもたらした。
 彼らは、普段、学会活動に参加できないことから、自分たちは、学会の″主役″にはなりえないと考え、寂しい思いをいだく人も少なくなかった。そして、何か″負い目″のようなものを感じていたのである。
 ところが、「波濤会」の結成によって、光が当てられ、その固有の使命が、明らかにされ、宣揚されたのだ。それは、勇気と希望の光源となったのである。
 船員のメンバーの多くが、自己の使命を自覚し、仕事に誇りをもった。そして、「波濤会」のメンバーになることを目標に、喜び勇んで信心に励むようになっていった。
 関東、関西では、船員座談会も活発に行われ、新しい参加者も増えていった。船内での仏法対話が実り、入会する人もいた。
 また、あるメンバーは、航海中は、学会から遠く離れてしまったような寂しさに襲われてきた。
 しかし、「『波濤会』の一員となってからは、仏道修行の最前線にいるのだという自覚がもて、決意と勇気が、ふつふつとたぎっています」と言うのである。
 自分の一念が変わる時、自分のいる世界が変わる。それが仏法の変革の方程式である。
13  波濤(13)
 山本伸一が、「波濤会」誕生後、メンバーの代表と初めて会ったのは、結成大会の翌年(一九七二年)四月、神戸市立中央体育館で行われた、兵庫県の同志との記念撮影会であった。
 この席上、兵庫県の三校の大学会が結成され、メンバーが神戸商船大学寮歌″白波寄する″を合唱した。
 そこに、「波濤会」の代表七人も、参加したのである。
 彼らは、金ボタンの付いたダブルのスーツの制服に身を包み、大学会のメンバーと共に、感激に胸を躍らせながら、熱唱した。
 伸一は、「波濤会」メンバーの、厳しい船上での生活を思い、彼らの歌に耳を傾け、じっと視線を注ぎながら、心で語りかけた。
 ″みんな、半年、一年と、船の中で孤軍奮闘する日々が待っているだろう。しかし、決して負けないでほしい。君たちには、私がいるんだ! いつも、じっと見守っているぞ。
 凛々しく、胸を張って、威風も堂々と歌った、この光景を絶対に忘れないでほしい″
 合唱が終わり、伸一がマイクを取った。
 「今日は『波濤会』も来ているんだね。『波濤会』のメンバー、ご苦労様!」
 「はい!」と言って、七人が立ち上がった。どの顔も紅潮していた。
 「ありがとう! 勇壮な心意気を感じさせる合唱でした。非常に感銘を受けました。
 その制服もいいね。また、お会いしよう」
 短いやり取りであったが、伸一は、彼らと師弟の原点をつくろうと、真剣であった。
 原点があれば、心は揺れない。何があっても、そこに帰れば、新しい力がわく。原点をもつならば、行き詰まりはない。
 結成一周年を迎えた七二年(昭和四十七年)の夏季講習会にも、「波濤会」は、喜々として集ってきた。そして、新たに第二期生として二十一人が任命されたのである。
 その後も、一騎当千の信心強盛な船員を選抜し、「波濤会」メンバーの任命式が行われていくことになるのである。
14  波濤(14)
 山本伸一は、「波濤会」のメンバーに、折に触れ、渾身の激励を重ねた。たまたま路上で会った青年のメンバーにも、励ましの言葉を贈り、握手を交わすのであった。
 船員座談会は、一九七三年(昭和四十八年)から、関東と関西だけでなく、各方面でも開催されるようになった。
 また、翌七四年(同四十九年)には、全国七方面に「波濤会」の中心者も任命された。
 ――そして、創価大学で開催された、この七五年(同五十年)の夏季講習会には、約七十人のメンバーが参加し、念願であった、山本会長との記念撮影が行われたのである。
 撮影が終わると、伸一は言った。
 「この写真を見て、諸君のことを心に焼き付け、私も世界広布のために戦います!
 私の胸には諸君がいる。そのことを忘れないでください。また、諸君の心にも、私がいると信じます。これが師弟です。
 皆さんが、厳しい条件のなかで、懸命に信心に励んでいることは、よく知っております。航海に出れば、同志は誰もいないというケースも多いことでしょう。
 しかし、一人立つのが師子です。そのなかで、人格を磨き高め、誰からも信頼され、尊敬される人になり、自分のいる場所で勝利の実証を示し切ってください」
 大聖人は「強敵を伏して始て力士をしる」と仰せである。
 強い敵を倒してこそ、力ある士と知ることができる。逆境に打ち勝ってこそ、師子たりえるのだ。
 「船が逆巻く波濤を乗り越えて進んでいくように、諸君も″広布丸″の船長の自覚で、いかなる人生の怒濤も、嵐も、堂々と乗り越えていっていただきたい。
 さあ、今日から、新時代の海へ出航だ。お元気で!」
 「はい!」
 たくましく日焼けした″海の男″の、元気な声が響いた。
15  波濤(15)
 メンバーに見送られ、車に乗った山本伸一は、しばらくの間、皆の顔を思い浮かべながら、真剣に心で題目を唱えていた。
 ――実は、このころ、海運業界にかげりが見え始めていたのだ。
 一九七三年(昭和四十八年)に起こった、第一次オイルショックによる世界的な不況のなかで、海上輸送量は減少し、タンカーは過剰状態になっていた。
 日本は、七三年に固定為替相場制から変動為替相場制に変わって円高となり、そこに、オイルショックによる燃料価格の高騰が重なったのだ。
 船会社は、運賃を低水準に抑え、努力を重ねていたが、赤字はかさむ一方であった。海運業界は深刻な経営不振に陥っていった。
 それに対して、人件費などのコストの安い発展途上国の船会社は、国際競争力を急速に増していったのである。
 当時、日本船籍の船の乗組員は、人件費の高い日本人に限られていた。そこで、日本の船会社の多くが、船舶への税金も安く、乗組員に関する規制も緩やかな、パナマやリベリアなどの国に、便宜的に船籍を置くようになっていった。そして、賃金の安い外国人を乗組員として雇い入れ、コストを下げるのである。
 それは、日本人船員の雇用を脅かしていった。この七五年(同五十年)には、日本の船会社は、船員の新規採用を大幅に削減した。
 伸一は、そうした海運業界の厳しい状況を知り、心を痛めていた。それだけに、「波濤会」のメンバーには、断固として未来の活路を切り開いていってほしかった。
 苦境のなかでこそ、信仰の力は一段と光彩を放つ。皆が″職場の勝利者″に、″希望の灯台″にというのが、伸一の願いであった。
 そのためにも彼は、自分がメンバーと直接会い、共に記念のカメラに納まり、激励しようと、時間をこじ開けるようにして、この記念撮影を行ったのである。
 悩み、苦しむ友のもとに走れ! それが、リーダーの心だ。学会精神だ。
16  波濤(16)
 「波濤会」への山本伸一の激励は続いた。
 一九七六年(昭和五十一年)二月、神戸を訪問した折には、「波濤会」のメンバーに、歌を詠んでいる。
 妙法の 波濤の弟子の 無事祈り 菩提の海に 勇み立ちゆけ
 「波濤会」は年ごとに期を重ね、人材の層も厚みを増していった。
 七八年(同五十三年)八月には、愛唱歌「波濤に誓う」も誕生した。
 さらに、結成十周年にあたる八一年(同五十六年)の四月には、「波濤会」の家族勤行会が学会本部で行われた。
 これは、伸一の提案によって開催されたものであった。前年、彼は「波濤会」担当の副会長に言った。
 「『波濤会』も、いよいよ来年は結成十周年だね。メンバーは、よく頑張っている。人材もたくさん育ってきている。嬉しいね。
 みんなが、そうして頑張れるのも、留守を支える奥さんや家族の陰の力があるからだ。
 そこで、もし、みんなが賛成ならば、家族も含め、学会本部で記念の勤行会を開催してはどうだろうか」
 日蓮大聖人は「をとこのしわざはのちからなり」と仰せになっている。夫の働きを支えているのは妻の力である。また、家族の尽力があればこそ、縦横無尽に活躍することができる。
 ゆえに、夫人をはじめ、家族が、広宣流布、そして、社会への貢献という同じ目的、同じ決意に立つことが大事になる。
 また、男性は、妻や家族の応援を当然と思うのではなく、感謝の心を忘れないことだ。
 そうした意味から伸一は、家族勤行会を提案したのである。担当の副会長は、それを皆に諮り、深い喜びのなか、開催が決まったのだ。
17  波濤(17)
 家族勤行会は、「波濤会」のメンバーをはじめ、その夫人、子どもなどが参加し、学会本部の師弟会館で、晴れやかに、にぎやかに、和気あいあいと行われた。
 この勤行会で、大きな感動を呼んだのが、「波濤会」第六期生の大崎哲也が行った、難破船の救助活動の体験発表であった。
 ――それは、前年の一九八〇年(昭和五十五年)十二月三十日のことであった。
 大崎が船長を務める大型鉱石専用船「だんぴあ丸」(五〇、四五一トン)は、鉄鉱石を満載して、南米・チリから日本をめざし、千葉県・野島崎の東南東約一、五〇〇キロの北太平洋上を航行していた。
 急激に発達した低気圧によって、海は荒れに荒れていた。この辺りは、冬場は大シケが続き、″魔の海域″と言われ、以前から、海難事故が絶えない場所であった。 
 二日前の十二月二十八日には、リベリアの貨物船「アルテミス号」が浸水し、航行不能となっていた。さらに同日、ユーゴスラビアの貨物船「ドナウ号」が行方不明になるなど、遭難が相次いでいたのである。
 三十日の午後三時ごろであった。「だんぴあ丸」はSOSを受信した。救助を求めてきたのは貨物船「尾道丸」(三三、八三三トン)で、大シケで船首をへし折られたというのだ。
 遭難場所までは、約三十マイル(約五十キロ)ほど離れていた。救助に向かえば、「だんぴあ丸」が、遭難しかねない暴風雨である。
 このために、茨城県・鹿島港への到着も、既に二日遅れになっていた。船の遅れは、一日につき、約二百五十万円の損害をもたらすと言われていた。
 救助に時間を取られれば、入港はさらに遅れる。しかも、暴風雨のなかで大型船同士が接近すれば、衝突の危険性もある。
 しかし、大崎は決断した。
 「救助に向かう!」
 生命尊厳を説く仏法を信受する人間としての良心、そして「波濤会」の誇りが、万難を排して救援に向かう、勇断をもたらしたのだ。
18  波濤(18)
 ビクトル・ユゴーは記している。
 「逆境にぶつかっても笑顔を見せる、というのが海で指揮をとるものの常なのだ」
 危機的状況を脱しきれるかどうかは、すべて船長の采配にかかっている。特に極限状況下では、リーダーの姿が皆の心を左右する。
 だが、船長の大崎哲也の表情は硬かった。
 彼には、大シケのなかでの救助経験などなかった。また、こうすれば助けられるという、確実な救助法もないのだ。
 ″俺がしっかりしなければ!″
 大崎は、何度も自分に言い聞かせ、心で題目を唱えた。すると、若き日に山本会長が一青年に贈ったという、小説『人間革命』に記された言葉が頭に浮かんだ。
 世紀の丈夫たれ 東洋の健児たれ 世界の若人たれ 君よ 一生を劇の如く
 ″そうだ。俺は今、山本先生の弟子として、一世一代の大舞台で、劇を演じようとしているんだ。落ち着け、落ち着くんだ。勇敢にして堂々たる、冷静沈着な名船長を演じ切ってみせる。
 どうせなら、最高の名優であり続けよう″
 そう思うと、勇気が込み上げてきた。そして、心が軽くなった気がした。
 SOSを発信した「尾道丸」は、アメリカから粉炭(細かく砕いた石炭)を積んで日本に帰る途中、この″魔の海域″で大シケに遭い、船首を折られたのだ。
 そして、「だんぴあ丸」が救出に向かっている時に、さらに、その船首が波に奪い取られたのである。
 「尾道丸」からの無線は、退船準備を始めたことを伝え、叫ぶような声が響いた。
 「至急、救助を頼みます!」
 ″どうすれば、全員の救出ができるか″
 大崎は思案し続けていた。
19  波濤(19)
 「尾道丸」の遭難現場に急行する「だんぴあ丸」に、巨大なビルのような青波が襲いかかって来る。砕け散るしぶきは、マストよりも高かった。救助活動の対応を間違えれば、二重遭難の危険性が高い。
 大崎哲也は、無線の交信を通して、「尾道丸」の船体は、水平の状態が保たれていることを知った。また、船倉には、粉炭(細かく砕いた石炭)を満載しているという。粉炭が、水を防ぐ働きをするので、浸水には時間がかかる。不幸中の幸いであった。
 大崎は無線で「尾道丸」に、船首が切れても、船は、すぐには沈まないことを告げた。
 乗組員がパニックを起こして、この状況下で、救命ボートを下ろして脱出したりすれば、間違いなく波にさらわれてしまう。だから、乗組員を安心させたかったのである。
 「尾道丸」には二十九人の乗組員がいる。
 大崎は″必ず全員を、無事に救助してみせる!″と、固く心に誓っていた。
 午後六時半過ぎ、「だんぴあ丸」は「尾道丸」から八キロの地点に来た。相変わらず海は荒れ続け、既に夜の帳に包まれていた。
 風速は二十メートルほどの強風である。船は大きく揺れている。
 大崎は自分に言い聞かせた。
 ″焦っては危ない。慎重に行動するのだ″
 彼は、無線で訴えた。
 「本船は、いつでも救助作業ができる態勢で待機しています。とにかく夜明けを待つ方がいいと思いますが、いかがでしょうか」
 「……はい。夜明けを待ちます」
 午後七時半、「だんぴあ丸」は五キロほど離れて機関を停止し、夜明けを待った。
 船内では、慎重に救助方法の検討が重ねられた。「だんぴあ丸」の乗組員二十五人の心は、″絶対に救助する″との、強い一念で結ばれていた。そのなかには、遭難経験者もいた。次々に具体的な知恵が出た。
 「団結こそ力である。団結してこそ、われわれに課せられたすべての任務を実現できる」とは、周恩来総理の箴言である。
20  波濤(20)
 「尾道丸」の救助が成功するかどうかは、シケがいつ収まるか、また、「尾道丸」の乗組員が、沈没の恐怖と戦い、どこまで冷静に、待つことができるかにかかっていた。
 救助方法の協議を終え、「尾道丸」の様子を見に行こうとした船長の大崎哲也の、肩を叩く人がいた。振り向くと、操機長の赤城幸春の微笑があった。
 「キャプテン、題目ですよ。今までにない題目をあげましょう」
 赤城も「波濤会」のメンバーであった。二人とも、学会の組織にあっては、壮年部の副ブロック長をしていた。
 大崎は一九七二年(昭和四十七年)、赤城は六五年(同四十年)の入会で、学会員としては赤城の方が七年先輩であった。また、大崎は四十六歳だが、赤城は五十五歳であり、船乗り歴も七年先輩であった。
 「キャプテン! 私たちには、御本尊があります。絶対に成功しますよ」
 大崎が頷いた。ヒゲに囲まれた大崎の口元に、白い歯がこぼれた。
 極限状況下で全責任を担い、一切の判断を下さなければならない孤独感のなかで、大崎は赤城の言葉に、大きな勇気を得た。
 励ましは、勇気の母である。
 大崎は、船長室に戻ると、部屋に安置している御本尊に向かい、懸命に唱題した。
 午前零時を過ぎた。大晦日である。
 暴風雨は、グオーと咆哮をあげながら、船に襲いかかっていた。激しい揺れに大崎の体も前のめりになったり、後ろにひっくり返りそうになったりした。彼は、祈り続けた。
 遂に、この日は一睡もしなかった。
 夜が明けた。海は大シケのままであった。風速計は、時に二十五メートル以上を示した。救助活動ができる状況ではない。
 彼は、「尾道丸」の船長に連絡をとった。
 「『だんぴあ丸』には、燃料も食糧も十分にあります。何日でも待てます。しばらく様子を見てはどうでしょうか。ともかく、一人の犠牲者も出したくないのです」
21  波濤(21)
 「だんぴあ丸」の船長・大崎哲也の、しばらく様子を見てはどうかとの呼びかけに、「尾道丸」の船長・北川翔は答えた。
 「了解しました」
 しかし、待てる限度は正午までだという。
 「尾道丸」は、今のところ傾きもなく、浸水率も小さい。沈没が差し迫っているわけではない。安全のためには、波が収まるまで退船を延ばすべきである。
 しかし、乗組員の忍耐は、限界に達し、浮き足立っているようだ。
 午前九時過ぎ、「尾道丸」からは、「退船準備完了」を伝えてきた。
 大崎は無線で、再度、待てないか尋ねた。しかし、やはり待てるのは正午までという。
 もし、今の状況で退船を決行すれば、犠牲者が出ることになりかねない、危険極まりない救助作業となる。しかし、「尾道丸」の乗組員の退船が始まれば、「だんぴあ丸」としては、救助活動を開始しなければならない。
 大崎は覚悟を決めた。彼は、心で必死に唱題しながら、船を近づけるよう指示した。
 「尾道丸」の甲板には、ヘルメットとオレンジ色のライフジャケットを身に着けた乗組員たちが、既に待機していた。
 「だんぴあ丸」は移動し、「尾道丸」から百メートルほどまで接近し、横に並んだ。
 その時だった。大波が「だんぴあ丸」の右から甲板をのみ込んだ。巨大な船体が、おもちゃの船のように大きく揺れた。こんな波を受けたら、救命ボートなど、ひとたまりもないことは、誰の目にも明らかだった。
 ほどなく、「尾道丸」の方から、「もう一日、待ちましょう」との連絡が入った。
 大崎は、″守られた!″と思った。「尾道丸」の乗組員が、冷静さを取り戻し、待つ気持ちになってくれたからだ。
 彼は確信した。
 ″これで全員救出することができるぞ!″
 大崎は、「諸天の加護」を実感した。祈りは大宇宙をも動かす。″全員救助″を願っての一心不乱の唱題が、この日も続いた。
22  波濤(22)
 午前零時を過ぎた。一九八一年(昭和五十六年)の元日となった。大崎哲也は新年を迎えたことも忘れ、題目を唱え続けた。彼は、一時間ほど、うとうとしただけで、この二日間、ほとんど寝ていなかった。
 午前五時半、「尾道丸」の船長は、無線で、二時間後に退船することを伝えてきた。シケも収まりかけ、雨も上がっていた。
 ″いよいよ戦闘開始だ!″
 大崎は、ぎゅっと拳を握り締めた。
 打ち合わせは、既に入念に行われていた。
 ――「尾道丸」からの脱出は、膨らむとテントのような形になる、ライフラフトと呼ばれる救命イカダを三つ、投下する。そこに、縄バシゴを使って下り、乗組員二十九人が分乗。風下で待つ「だんぴあ丸」に移動する。
 「だんぴあ丸」はライフネット、縄バシゴを垂らしておく。また、輪を作ったロープを下ろす。「尾道丸」の乗組員は、そのロープをつけて、縄バシゴなどを上る。
 「だんぴあ丸」の乗組員も、甲板上からロープを引いて、上るのを助ける――
 また、「だんぴあ丸」では、救出後の入浴や食事、部屋割りまで細かく決めていた。さらに、乗組員から、「尾道丸」の船員用に、下着などの日用品も提供してもらっていた。
 本気になって責任を果たそうと思えば、計画はおのずから緻密になるものだ。大ざっぱで、具体性に乏しい計画というのは、成功させようという一念の欠如の表れといってよい。
 「だんぴあ丸」の厨房では、救出したら、正月料理を振る舞おうと、司厨長らが腕によりをかけて準備にあたっていた。
 大崎たちは、死の恐怖のなかから生還する「尾道丸」の乗組員に、できる限りのことをして、最高に遇し、心から喜んでもらいたかったのである。
 人を大切にする心――それこそが人間主義の真髄であり、創価の精神である。
 午前六時半、「尾道丸」から、退船準備が完了したとの連絡が入った。退船は一時間ほど早まった。
23  波濤(23)
 「だんぴあ丸」と「尾道丸」の距離は、五百メートルほどであった。「尾道丸」から、救命イカダ三つが投下された。
 「だんぴあ丸」の船長・大崎哲也には、気にかかっていたことがあった。それは、「尾道丸」の船長は、責任をとって、船に残ろうとするのではないかということであった。
 無線の声から推測すると、「尾道丸」の船長・北川翔は、大崎より、数歳は年長のようだ。そうだとすると、″船長は船と運命を共にしなければならぬ″という、戦時中の教育の影響が、強く残っている世代である。
 同じ船長である大崎には、北川の気持ちが、痛いほどわかった。大崎は、努めて明るい声で、無線で呼びかけた。
 「元日の祝杯を共にあげる準備ができております。無事を祈っております」
 それは、退船開始の合図でもあった。
 当初、北川は、甲板には、出てこなかった。しかし、やがて、一等航海士に連れられ、姿を現した。北川は、「退船」という「生」を選択したのだ。大崎は、その決断と勇気に喝采を送りたかった。
 軽々に「死」を選択することなど、決してあってはならない。何があろうが、強く、強く、生き抜くなかにこそ、人間の人間たる輝きがある。
 ここで、またしても試練に見舞われた。スコールである。風も強くなっていた。
 だが、退船は敢行された。「尾道丸」の乗組員は、縄バシゴを使って救命イカダに下り、三つのイカダをロープで結び合った。
 大崎は、作業を見守りながら、心で懸命に題目を唱え続けた。
 ほどなくスコールはあがった。乗組員は、三つのイカダに、無事に分乗した。甲板上で待機している「だんぴあ丸」の船員たちの顔に、一瞬、安堵の色が浮かんだ。
 これでイカダは、風下で待つ「だんぴあ丸」に向かって、流れてくるはずであった。
 しかし、イカダは、吸い付けられたように、「尾道丸」から離れなかった。
24  波濤(24)
 救命イカダに乗った船員たちは、必死にオールを漕ぎ、風下の「だんぴあ丸」に近づこうとしていた。しかし、イカダは「尾道丸」から離れず、「だんぴあ丸」との距離も縮まらなかった。
 イカダより、船の方が速く流されてしまうためである。
 やがてイカダは、「尾道丸」の船尾側に出たが、「だんぴあ丸」との距離は広がる一方であった。船長の大崎哲也は、「だんぴあ丸」をイカダの風上に移動させた。
 退船開始から二時間、三つのイカダが「だんぴあ丸」の左舷に着いた。波に揺られて上下するイカダの高低差は、三メートルほどある。いつか、周囲にサメが群がってきていた。
 「だんぴあ丸」から、イカダを引き寄せるためのロープが投下されたのに続いて、輪を結んだ救命ロープが、イカダに投げられた。
 このロープに体を通し、波が最も高くなった時に、「だんぴあ丸」の左舷に張られたライフネットか縄バシゴへと、飛び移るのだ。
 最初の一人が、いきなりネットに飛び移った。救命ロープもつけていない。はい上がり始めた。海面からデッキまでは、五メートル半ほどの高さがある。彼の体は、ネットと共に、風に揺れた。皆が息をのんだ。
 定めたルールを度外視することから、事故が生じてしまう。原則の順守こそ、事故防止の根本要件である。
 甲板から声がかかった。
 「落ち着くんだ! もう少しだ」
 少しずつネットを上り、甲板から手の届くところまで来た。一人が救助された。
 「だんぴあ丸」の乗組員が叫んだ。
 「必ずロープを、体につけてください」
 今度はロープをつけ、順番に、縄バシゴをはい上がる。甲板からも引き上げる。
 三つ目のイカダを救助している時、再びスコールが襲ってきた。″魔の海域″が、最後の戦いを挑んできたかのような、激しい風雨であった。
 大崎は乗組員に言った。
 「通り過ぎるまで、救助を待ったらどうか」
25  波濤(25)
 大崎哲也の言葉に、救助作業にあたっていた乗組員は、力強い声で答えた。
 「大丈夫です。やらせてください!」
 声には勢いがあった。最前線の人びとの、あふれる勢いこそ、成功の原動力である。
 大崎は了解した。
 スコールのなかで、救助作業は続いた。
 「だんぴあ丸」の乗組員の行動は迅速であった。縄バシゴを上ってくる人を、次々と引き上げる。そして、ライフジャケットの紐をナイフで切って、脱がせ、下着などを渡し、風呂に案内する。
 船長の北川翔も上がってきた。午前八時四十五分、「尾道丸」の乗組員二十九人全員の救出が終わった。救命イカダからの引き上げ作業は、わずか十五分で終了した。
 北川船長は、五十過ぎの、小柄な人であった。彼は、「だんぴあ丸」の甲板に上がると、叫ぶように、大崎に言った。
 「ありがとうございます!」
 そして、力いっぱい、大崎を抱き締めた。その目には涙が光っていた。大崎も、北川を受けとめるように抱いた。海の男と男の、熱い抱擁であった。互いに胸の鼓動を感じた。
 「よくぞ、耐えられた。頑張り抜かれた」
 こう語る大崎の目も、潤んでいた。
 彼は、胸のうちで語りかけた。
 ″あなたが、どれだけ心労を重ね、どれほど無念の思いで船を捨てられたか……。悔しかったでしょう。さぞ、辛かったことでしょう。私には、よくわかります……″
 北川は、喜びをかみしめるように語った。
 「もし、一人でも犠牲者を出していたら、私は生きてはおれませんでした。ありがとうございました!」
 大崎は、北川が悲壮な決意を固めていたことを知った。彼を抱く手に力がこもった。
 熱いものが、大崎の全身を貫いた。
 ″よかった! 本当によかった! 俺たちは、魔の海に勝ったんだ!″
 「波濤会」のメンバーとして、使命を果たしたという、誇りと喜びが胸にあふれた。
26  波濤(26)
 「だんぴあ丸」が「尾道丸」のSOSを受信してから四十二時間がたっていた。
 沈没という、迫り来る死の恐怖のなかで耐え続けた「尾道丸」の乗組員。暴風雨のなかで、必ず救助するのだと、懸命に奮闘し抜いた「だんぴあ丸」の乗組員――。
 海の男たちは、″魔の海域″に挑み、見事に勝利を収めたのだ。
 「だんぴあ丸」は、茨城県・鹿島港に向かった。午前十時、風呂から上がった「尾道丸」の乗組員は、食堂に案内された。
 そこには「だんぴあ丸」の乗組員のまばゆい笑顔と、見事な正月料理が、ズラリと並んでいた。祝いの酒もふんだんにあった。
 思わず歓声があがった。
 新年会が始まった。
 船長の大崎哲也があいさつした。
 「一九八一年(昭和五十六年)、明けましておめでとうございます。もし、一人でも、犠牲者がいたら、こうして元日を祝うことはできなかったでありましょう」
 喜びにあふれた、乾杯の声が響いた。
 救助された一人は、「このお屠蘇の味は生涯、忘れられません」と、声を詰まらせた。
 その言葉に、大崎も胸を熱くした。
 彼は「尾道丸」の乗組員に祝福と励ましの声をかけたあと、共に救助に奮闘してくれた「だんぴあ丸」の乗組員をねぎらい、感謝の言葉をかけ続けた。
 大崎は思った。
 ″自分一人では、何もできなかった。みんなが心を合わせ、命がけで大奮闘してくれたからこそ、できた救助だった……″
 皆への深い感謝の念が込み上げ、一人ひとりを強く抱き締めたい思いに駆られた。
 なかでも、共に救助の成功を祈ってくれた、「波濤会」メンバーで操機長の赤城幸春には、ことのほか、ありがたさを感じた。
 「団結の力がなければ、いくらよい方針であっても、これを実行することはできない」とは、韓民族独立の父・安昌浩の言葉だ。その団結の要は、リーダーへの信頼である。
27  波濤(27)
 新年会の席で、通信長が、海上保安庁警備救難部長からの電報を読み上げた。
 「尾道丸の救助に対しては、悪条件にもかかわらず、沈着、冷静、的確な救助活動により、乗組員全員を救助されました。
 これは船長以下乗組員一同の崇高な同僚愛と高度な技術のたまものであり、その功績を高く評価し、感謝の意を表します」
 読み終わると、大きな拍手が響き渡った。
 この″魔の海域″では、前年暮れの貨物船等の遭難に続いて、一月の二日にも、ギリシャの貨物船「アンティパロス号」が行方不明になるという事故が起こっている。
 そのなかで「尾道丸」の乗組員は、全員救助されたのだ。海難救助史のなかでも、ひときわ光彩を放つ壮挙となったのである。
 船長の大崎哲也をはじめ、「だんぴあ丸」の乗組員は、民間の海難救助として、初の総理大臣表彰を受けることになる。
 「だんぴあ丸」は、一路、鹿島港をめざして進んでいた。大崎が気がかりだったのは、「尾道丸」の船長・北川翔のことであった。船長として船を放棄したという重圧は、皆の想像を絶するものがある。
 また、日本に戻れば、海難審判が待っている。彼に過失はないと思われるが、船長の責任は厳しく問われる。
 北川は、終日、ふさぎ込んでいた。海に飛び込むのではないかとさえ思えた。
 ″苦しんでいる北川さんを、少しでも励ましたい。なんとか勇気づけたい……″
 大崎は、船長室で北川と世間話を始めた。暗く閉ざされ、凍りついた心を、ときほぐしたかった。人生の来し方、生き方を語るうちに、やがて、仏法の話になっていった。
 「自分の生命を開き、どんな苦境も、どんな絶望も乗り越え、希望へと転じていく力の源泉が仏法なんです。誰にでも、幸せになる権利があるんですよ」
 ″この人を死なせるものか!″と、必死に祈り念じながら、大崎は訴えた。人の幸せを願う心は、おのずから仏法対話となる。
28  波濤(28)
 人の幸福を願う必死の祈りは必ず通じる。
 日蓮大聖人は「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひ満干ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」と御断言である。
 ――北川翔は、大崎哲也の熱意と真心に打たれ、この救出の翌年に入会している。
 「尾道丸」の海難事故を受け、運輸省(当時)は技術検討会を設置し、大型船遭難のメカニズムの研究に乗り出した。船の強度や三角波の実態など、本格的に研究が進められた。
 その結果、コンピューターによる安全運航システムが開発され、船の設計基準も大きく変わっていった。それによって、″魔の海域″での海難事故は激減していくことになる。
 北川は、海難審判に受審人として、何度も立たなければならなかった。
 そして、一九八三年(昭和五十八年)八月、事故の原因は、波浪による衝撃現象の実態が解明されていないためであると審判が下された。北川には、職務上の過失はなかったことが明らかになったのである。
 八一年(同五十六年)四月、学会本部で行われた「波濤会」の家族勤行会で、大崎は、この救助活動の体験を発表したのだ。
 大崎の妻のフミは、夫が″魔の海域″で救出劇を展開していた時、そんなことが起きていたとは、全く知らなかった。鹿島港に帰港する直前、船からの夫の電話で初めて知ったのである。
 彼女は、日々、真剣に題目を唱え続け、家庭を守ってきた。家族勤行会には、その妻も参加し、夫の体験発表に耳を傾け、仏法の偉大な力をかみしめていた。
 命がけで人命救助にあたった大崎の体験に、参加者は、仏法者の生き方を学び、″波濤会魂″を実感した。
 「精神」は、「行動」によって表現されてこそ、初めて輝きを放つのである。
29  波濤(29)
 ″魔の海域″での、「だんぴあ丸」による「尾道丸」の救助活動は、その後、何度か、テレビのドキュメンタリー番組などに取り上げられた。
 二〇〇三年(平成十五年)五月には、無名の日本人による戦後の画期的な社会貢献事業などを扱ってきた、NHK総合テレビの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」が、この救出劇を取り上げたのである。
 乗組員の使命感、団結、救出の喜び、両船長の固い友情の絆……。それは、日本中に大きな感動を広げた。
 そこでも、「だんぴあ丸」の船長の、毅然とした態度、的確な判断、真心の行動が光っていた。それは、断じて人命を守り抜こうとする一念から発する、仏法の人間主義の光彩であった。
 マハトマ・ガンジーは、「信仰が、その結果として行動に移されないとしたら、いったい信仰とは、何であろう」と述べている。
 社会貢献にこそ、信仰の実証がある。
 日本の海運業界は、一九七三年(昭和四十八年)のオイルショック以来、先細りの一途をたどっていた。山本伸一は、「波濤会」のメンバーのことを常に気にかけ、峯子と共に題目を送っていた。
 そして、八二年(同五十七年)三月、別の人材育成グループと合同で、第一回の「波濤会総会」を開催してはどうかと提案した。伸一はメンバーを激励したいと思ったのだ。
 この総会は、三月二十八日、東京・立川文化会館で開催された。伸一は、勇んでここに出席し、メンバーの無事故を祈念し、共に勤行したあと、皆の前途を祈りつつ、全精魂を傾ける思いで、スピーチしたのである。
 彼は、初代会長・牧口常三郎の「三種の人間がいる。
 ――″いてもらいたい人″″いてもいなくても、どちらでもよい人″″いては困る人″」との指導を引き、どこにあっても″いてもらいたい人″になることが、仏法者の生き方であることを力説した。
30  波濤(30)
 山本伸一は、さらに、「新池御書」の「始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、たとえば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」の一節を拝して訴えた。
 「大聖人は『始めから終わりまで、日々、″いよいよこれからだ!″との思いで信心を貫いていきなさい。そうでなければ、必ず後悔することになってしまう』と仰せです。
 そして、『たとえば、鎌倉から京都へは十二日の道のりである。それを十一日余り歩き、あと一日というところで、歩みをやめてしまうならば、どうして、京都の月をながめることができようか』と言われている。
 皆さんは、社会人としてこれからも、さまざまな苦労があるでしょう。行き詰まってしまい、もう自分の人生は駄目なのかと、思うこともあるかもしれない。しかし、何があろうが、信心から離れてはならない。
 苦境に陥った時こそ、祈って、祈って、祈り抜くんです。弘教に邁進し、広宣流布のために戦い切っていくんです。その時こそが、宿命打開のチャンスなんです」
 伸一は必死であった。海運業界は、今後、ますます厳しくなっていくであろうことを、強く感じていた。
 だからこそ、「波濤会」のメンバーには、どんなに激しい、社会の荒波にさらされようが、断固として、人生の勝利の旗を打ち立ててほしかった。
 「私は十九歳で、戸田先生とお会いして、入信した。若いころ、私は病弱であり、医師からも、三十歳まで生きられない体であると言われていた。
 しかし、戸田先生と共に、ひとたび決めたこの道を、歩み通そうと覚悟を定め、私は歌を詠み、日記に記した。
 『荒狂う 怒濤に向かいて 撓まぬは   日の本背おう 若人なりけり』
 これが私の決意でした。また、『波濤会』の決意としていっていただきたい。諸君は苦境のなかで光る人になっていただきたい」
31  波濤(31)
 山本伸一が、予見していたように、さらに厳しい現実が日本の海運業界を襲った。
 一九八五年(昭和六十年)九月のG5(先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で、ドル高修正に向けて協調介入をとっていくことが合意された。
 いわゆる「プラザ合意」である。そして、一ドル=二百四十円前後から、二年後には、百二十円台になるという、急速な円高となっていったのだ。
 海運会社は、賃金の高い日本人船員の削減を進め、七五年(同五十年)当時は五万五千人近かった日本人船員が、八六年(同六十一年)には、二万四千人ほどになっていった。
 それでも、ほとんどの海運会社の財政は、危機的な状況であった。
 会社側と組合は協議を重ね、八七年(同六十二年)の四月から、二年間にわたる「特別退職制度」を設け、退職金の加算や退職後の雇用対策を進めた。
 その結果、八九年(平成元年)には、船員数は一万一千人となり、八六年の半数を下回った。
 「波濤会」のメンバーのなかでも、陸上勤務に変わったり、転職を余儀なくされた人もいた。海運業界の前途は、暗澹としていた。
 メンバーは思った。
 ″不況が続き、船員は削減されても、日本は海に囲まれた海洋国だ。日本人の船員が全くいなくなるわけではない。その同じ船員たちに、なんらかのかたちで、希望と勇気と誇りを与えることはできないものか……″
 仏法者は、社会の松明である。烈風の暗夜にこそ、使命と情熱の火を燃え上がらせ、周囲に希望の光を放ちゆく存在となるのだ。
 彼らの間からあがったのが、「波濤会」のメンバーによる写真展の開催であった。
 実は、学会の週刊写真誌『聖教グラフ』では、八六年に四十回にわたって、「波濤を越えて」と題する、メンバーが撮影したカラー写真と紀行文からなる連載を続けてきた。
 技術的には未熟でも、なかなか行けない場所や、航海中でなければ出合えない珍しい光景が撮影され、迫力に富み、好評を博していたのである。
32  波濤(32)
 「波濤会」のメンバーのなかから、『聖教グラフ』の「波濤を越えて」に連載された写真のパネルを展示し、写真展を開いてはどうかという意見が出された。
 ″不況で低迷する日本の海運業界を勇気づけたい″″船員たちに、「海の男」の気概を忘れず、人生のあらゆる試練に挑戦していく契機にしてほしい″との気持ちから発した提案であった。また、
 これによって、「船員文化」ともいうべきものが伝えられればとの思いもあった。 
 「波濤会」のなかで、写真展開催の意見がまとまると、彼らは山本伸一に、自分たちの考えと決意を伝える手紙を認めた。
 伸一は、手紙を読むと、峯子に言った。
 「すごいことだね。『波濤会』のメンバーは、自分たちの明日が、どうなるかもわからないような状況のなかで、海運業界を元気づけようというのだ。その心意気が嬉しいね。これが、学会の精神だ。
 学会の草創期、学会員は、みんな貧しく、病気や家庭不和などの悩みをかかえていた。
 しかし、そのなかで、自分たちが日本中の人を幸せにするのだといって、意気揚々と折伏に走った。自分の悩みなど突き抜けて、友のため、社会のために、懸命に戦ってきた。
 そのバイタリティーが、広宣流布の波を広げ、社会を活性化していった。また、そうした活動のなかで、学会員は自分の境涯を高めて、悠々と悩みを乗り越えていった。大事なことは心意気だ」
 峯子が、微笑みながら答えた。
 「世の中の人たちは、自分のことだけで汲々としているなかで、同志の皆さんは、人びとのことや社会のことを考えています。
 地涌の菩薩の心を感じます。時代の闇が深くなればなるほど、こうした学会員の存在は、ますます輝いていきますね」
 伸一は、頷いた。そして、「波濤会」の手紙を持ってきた幹部に言った。
 「みんなに伝えてください。『了解しました。頑張ってください。応援します』と」
33  波濤(33)
 山本伸一からの伝言を聞いた「波濤会」のメンバーは、燃えた。
 写真展は、「波濤を越えて――働く海の男の写真展」のタイトルで、一九八七年(昭和六十二年)七月十二日から十九日まで、横浜にある、日本丸メモリアルパークの訓練センターで開催されることが決まった。
 彼らは、会社の社長や上司、同僚、組合関係者、海運の各種団体などを回っては、写真展の趣旨を訴え、出席を呼びかけた。
 「今、海運業界は不況です。だからこそ、海運の仕事に従事する人たちに、希望と勇気と誇りをもってもらおうと、この写真展を企画しました。写真には、海を愛する人間の気概があふれていると自負しています」
 海運会社の、ある重役は言った。
 「頼もしい限りだね。ところで、どうして君たちは、そうした考えをもつようになったのかね」
 メンバーは、胸を張って答えた。
 「ただ苦境を嘆くのではなく、自分が主体者となって、事態を転換していくのだというのが、仏法の教えであり、創価学会の山本先生の指導なんです。
 私たちも、仏法を持った者として、業界が大変な時だけに、なんらかのかたちでエールを送りたいと思いました」
 重役は、感心したように頷いた。
 「そうか。そういう思いの社員がいてくれるとは、ありがたいね。写真展には、必ず行かせてもらうよ」
 写真展では、『聖教グラフ』で連載された四十点の写真のほかに、新たに二十五点の写真が加えられた。
 開幕式には、東京商船大学(当時)の学長や日本船長協会の会長をはじめ、多くの海運関係者が出席。鑑賞者は最終的に二千人を超えた。
 「勇壮な心意気があふれていますね。心が晴れ晴れとして、元気が出てきます」「世界は海で結ばれており、地球は一つなんだということを感じさせます。平和の心がある」など、賞讃の声が寄せられたのである。
34  波濤(34)
 展示された写真は、迫力にあふれていた。
 台風で荒れ狂う海原を突き進む船、カリブ海に懸かる虹、寒波の襲来で氷結したアメリカ・チェサピーク湾、アフリカ南端の海に昇る旭日もあった。パナマ運河、スエズ運河を行く船の風景もあった。
 また、インドネシアやオーストラリアの子どもたちの写真もあれば、馬車が走るパキスタン・カラチの街角や、シンガポールのビル群、チューリップが咲き競うオランダの公園の写真もある。さらに、
 船倉での清掃作業や、カツオの一本釣りに汗を流す、働く海の男たちの奮闘をとらえた写真もあった。
 そこには、世界があり、ロマンがあった。闘魂があり、希望があった。そして、平和を願う心があった。
 「波濤会」の写真展が、大成功に終わったことを聞いた山本伸一は言った。
 「社会に船出したね。みんなの戦いと努力を、いつか、歴史に残してあげたいな」
 第二回の写真展は、翌一九八八年(昭和六十三年)の七月、横浜郵便貯金会館(当時)で開催された。出品作も一段と充実していた。
 伸一も、ぜひ祝福に駆けつけたかったが、どうしても、時間の都合がつかなかった。そこで、自分の名代として、長男の正弘を激励に差し向けた。
 「よい作品がたくさんあり、好評を博していました。多くの人が感動していました」
 正弘は、こう感想を語り、作品の内容や参加者の声など、こと細かに報告した。彼の報告は、常に正確で客観的であった。
 また、伸一は、何人かの幹部にも、様子を見てきてもらい、感想を聞いた。
 伸一は、皆の話から、写真展の模様を、鮮明に思い描くことができた。
 「皆の意見や報告を、きちんと聞くことだ。皆の目を自分の目とし、皆の耳を自分の耳としていくのである」
 これは、中国・三国時代の蜀漢の名丞相・諸葛亮孔明の教えである。
35  波濤(35)
 山本伸一は、「波濤会」の第二回の写真展が開幕した七月二十日、横浜の神奈川文化会館を訪問していた。
 この日、彼は、「波濤会」の代表を会館に招いて共に勤行し、翌日には、短時間であったが、出発前に代表と懇談した。
 船員の制服に身を包んだ、メンバーの姿が凛々しかった。
 伸一は笑顔で語りかけた。
 「写真展のことは、聞いているよ。行けなくって申し訳なかったね。
 すばらしい写真がたくさんあるらしいね。長男からも、詳しく報告を受けています。
 『波濤会』の写真展のような企画は、おそらく世界にもないでしょう。大変な評判になっています。
 これからも毎年やっていこう。そして、伝統にしていこう」
 「はい!」
 青年たちが答えた。
 伸一の言葉は、未来にわたる光明となって、「波濤会」メンバーの胸を射貫いた。
 彼らは、車で出発する伸一を見送った。
 しばらくすると、車中からの、伸一の伝言が伝えられた。
 「『波濤会』の写真を、私の写真と一緒に世界にも回そう」
 伸一の写真展は、″自然と平和との対話″等と題して、フランスのパリ、香港で既に開催され、大好評を博していた。
 その自分の写真とセットで世界を巡回させることで、「波濤会」の写真にも、より高い関心を集めることができるのではないかと考えたのである。
 ″どうすれば、弟子たちに光が当たり、檜舞台に送り出すことができるのか。皆の努力が報われるのか。また、皆の人生を大勝利させることができるのか……″
 伸一は、常に、そう考え、心を砕き続けてきたのである。
 弟子を陰で守りに守り、その勝利のために、あらゆる手を打つのが師匠である――これが、伸一の強き信念であった。
36  波濤(36)
 一九八九年(平成元年)の四月、山本伸一は、ソ日協会会長を務める、ソ連のY・M・ボリメル海運大臣と聖教新聞社で会談した。
 その折、伸一は、「波濤会」メンバーの活躍を紹介したのである。
 「貴国と日本の相互理解のためには、さまざまな文化交流を図っていくことが大事になります。そこで、″働く海の男たち″の友情の交流を検討してみてはどうでしょうか」
 海運大臣も賛同した。
 その会談が報じられた「聖教新聞」を目にしたメンバーは、驚きの声をあげた。
 ″山本先生は、ソ連の海運大臣に、私たちのことを話してくださった。先生の心のなかには、常に私たちがいるんだ。よし、日ソ友好のために、力を尽くしていこう!″
 彼らは、伸一の提案を実現しようと、さまざまな可能性を探った。しかし、なかなか具体的な交流の道を開くことはできなかった。
 一九九三年(平成五年)のことである。ロシアを訪問する豪華客船の乗組員のなかに、何人かの「波濤会」メンバーがいた。
 彼らは、訪問地のウラジオストクで、旅行者の通訳にあたったロシアの極東国立総合大学の学生たちと、友好を結んだ。語らいのなかで、「波濤会」の写真展にも話題が及んだ。
 メンバーは、その後も、個人的に交流に努め、何度か、ウラジオストクを訪問した。
 交流の種子が蒔かれたら、丹精して育て上げることだ。誠実な交流を重ねてこそ、種は芽吹き、友情の花は開く。彼らは、伸一の蒔いた種を花開かせようと、必死であった。
 メンバーは、極東大学の学生たちから、S・N・イリイン東洋学部長を紹介された。学部長は学生から、「波濤会」の写真展についての話を聞いて、強い関心をいだいていた。
 メンバーは、イリイン学部長に、日ソの民衆交流のために、同大学で写真展を開催してはどうかと提案してみた。
 「すばらしい意見です。実現しましょう」
 学部長は、目を輝かせて言った。
37  波濤(37)
 「波濤会」メンバーから、「極東大学では、『波濤会』の写真展を開催しようと言っております」との報告を聞き、戸惑ったのは、学会本部の首脳たちであった。
 極東大学に打診する前に、学会本部とよく連携を取り、一つ一つ判断を仰いで事を進めるのが、鉄則である。
 「波濤会」が学会の人材育成グループである限り、事は、創価学会と極東大学、創価学会とロシアという問題になるからだ。
 当時、ロシアでは、ソ連崩壊後の社会的な混乱が続いていた。そのなかにあって、極東大学で写真展を開催することに、学会本部の首脳たちは、慎重にならざるをえなかった。
 だが、その話を聞いた山本伸一は言った。
 「みんなが頑張って、流れを開いたんだ。実現させてあげたいね。私も全面的に応援します。また、私の方から、学会の執行部にもお願いしてみよう」
 伸一は、自分と同じ心で、平和・文化交流の道を切り開こうとするメンバーの意志を、何よりも大事にしたかったのである。
 そして、極東大学と「波濤会」の共催による、ロシア共和国ウラジオストク市での写真展の開催が決まったのである。
 写真展は、一九九四年(平成六年)五月、極東大学の国際部展示室で行われた。多くの来賓、市民、学生らが鑑賞に訪れ、大好評を博した。地元紙やテレビも報道した。
 T・B・バジリエバ副市長は、「この写真展には、ロシアと日本、そして世界の文化があり、とてもすばらしい」と絶讃を惜しまなかった。
 極東国立海洋アカデミー(当時)のV・I・セディフ校長は、「民衆を文化で結ぶ、このような写真展を開催してくれた創価学会に、心から感謝したい」と感慨を込めて語った。
 さらに、来賓たちからは、「また、ぜひ開催を」との、強い要請もあった。
 師に応えようとの弟子の一念が、世界での初の写真展を実現したのだ。師弟の道に生きる時、無限の力と智慧がみなぎる。
38  波濤(38)
 「波濤会」の写真展は、国内で着実に回を重ねる一方、一九九四年(平成六年)の十一月には、フィリピン・マニラ郊外のフィリピン大学で第二回の海外展が開催された。
 山本伸一は、この写真展に、自分の撮った写真十点を特別に出展した。
 以後、海外展は、中国、ベトナム、マレーシア、インド、ノルウェー、モンゴル、インドネシアと、伸一の写真とともに世界を回ることになるのである。
 また、二〇〇八年(同二十年)の六月には、イギリスのロンドンにある、IMO(国際海事機関)の本部でも開催された。
 IMOは、船舶の安全や海洋汚染の防止など、海事問題に関し、協議や勧告などを行い、国際協力を促進する国連の専門機関である。
 海外十カ国目の開催となった、この写真展には、英国王室をはじめ、各国の大使など多くの来賓が訪れて鑑賞し、大好評を博したのである。
 「波濤会」は、外国航路の船員という仕事柄、日ごろ、学会活動に参加できず、悩んでいた青年たちに光を当てるところから始まったグループである。
 しかし、使命を自覚した彼らは、逆境をはねのけ、世界広布の先駆者として立ったのだ。
 御聖訓には「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」と仰せである。その幸福の哲理を携えて、彼らは走った。
 そして、海運業界に勇気の光を送る、希望の灯台となった。また、世界に平和と文化の橋を架ける、民衆交流のパイロット(水先案内人)となったのである。誰もが使命の人なのだ。誰もが勝利の人なのだ。
 山本伸一は、日々、祈り念じてきた。彼らの航海の無事と、人生の栄光と勝利を!
 人生の  波濤を越えて   黄金の朝
39  波濤(39)
 「動物的な力だけをくらべるならば、女性が男性よりも劣るのは明らかでありますが、力の意味を″道徳的な力″とする場合には、女性は男性にくらべて計り知れない偉大な力を持つものであります。
 もし、非暴力が人類の守るべき教義であるならば、女性は未来の創造者としての地位を確実に専有するでありましょう」
 これは、インド独立の父マハトマ・ガンジーの言葉である。
 女性は、平和の創造者である。
 二十一世紀を「平和の世紀」「生命の世紀」「人間の世紀」とするために必要不可欠なものは、女性の力である。
 山本伸一は、この一九七五年(昭和五十年)の秋、未来のために、若い女性たちを育てることに、全精魂を注いでいた。
 「やあ、こんばんは!」
 九月九日夜、東京・信濃町の創価文化会館五階の大広間に、伸一が、突然、姿を現した。
 集っていたのは、女子部学生局のメンバーであった。
 驚きの歓声があがり、大拍手が起こった。
 女子学生の組織は、以前は、女子部とは別の、独立した組織形態となっていた。
 しかし、同世代の女性が、分かれて活動するのではなく、同じ女子部のなかの学生局として一体化することになり、七二年(同四十七年)の六月、新しいスクラムで、前進を開始したのである。
 学内での活動は、従来通りだが、地域にあっては、女子部員として、女子部の役職にも就き、活動することになったのである。
 女子部員にとって、女子学生との触れ合いは、知的触発や斬新な発想が得られ、組織を大いに覚醒していった。
 また、女子学生にとっても、社会人の女性と、広く交流していくことは、社会の現実を知り、視野を広げていくうえで、学ぶことは多かった。
 伸一は、女子部学生局の発足から三年がたち、活動も軌道に乗ったことから、ここで、共に新たな出発をしようと思ったのである。
40  波濤(40)
 女子部学生局では、この日、秋の大学祭を前に、幹部会を開催していたのである。
 山本伸一が会場に姿を見せた時、女子学生局長の大谷貴美子があいさつに立っていた。
 彼は、大谷の話が終わるのを待って、マイクに向かった。伸一を初めて目の当たりにしたメンバーも少なくなかった。皆、喜びと緊張が入り交じった顔で、彼を見つめた。
 最初に、伸一の口から出たのは、メンバーの両親らの、健康を気遣う言葉であった。
 「お父さん、お母さんをはじめ、ご家族で、体の具合が悪い人がいたら、残ってください。
 何か、激励して差し上げたい。
 ともかく、お父さん、お母さんを大切にし、親孝行してください。それが、真実の人間の生き方です」
 仏法が説いているのは、人の振る舞いであり、まことの人間の道である。
 それから伸一は、力強い声で語り始めた。
 「日蓮大聖人の仏法は、『宿命転換の仏法』です。また、『人間革命の仏法』です。そして、『社会変革の仏法』であります。
 自己の、さらに、万人の崩れざる幸福境涯を確立し、恒久平和を築き上げるためには、この正法を弘め、広宣流布していく以外にない。
 その広宣流布が、日蓮大聖人の『誓願』であり、大聖人の御精神のままに前進する創価学会の『誓願』であります。
 大聖人は、『開目抄』で、広宣流布の『誓願』を果たしゆく烈々たる御決意を、次のように述べられています。
 『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
 ″諸天善神が自分を捨てるのであれば、捨てればよい! 多くの難に遭うというのであれば、遭おうではないか! わが生命をなげうって戦い抜くのみだ!″との叫びである。
 この御文は、一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日、伸一が第三代会長として広宣流布の指揮を執るにあたって、深く生命に刻んだ一節である。ここには、大聖人の透徹した信念の師子吼がある。
41  波濤(41)
 一生成仏という自身の崩れざる幸福境涯を確立し、万人の幸福と平和の道を開くには、広宣流布の「誓願」に生き抜かなければならない。
 だが、そこには、大難が待ち受けている。ゆえに、「不退の心」が不可欠となる。
 集った一人ひとりの女子学生の前途には、就職、結婚、出産など、さまざまな人生の転機や、環境の変化があろう。
 華やかな世界に目を奪われ、地道な仏道修行に嫌気が差すこともあるかもしれない。
 仕事などに追われ、気がつくと、学会活動から遠ざかっていることもあるかもしれない。夫や、その家族から、信心を反対されるかもしれない。
 さらに、組織での人間関係がうまくいかずに、悶々とすることもあろう。
 そこで負け、信心から離れてしまえば、退転の道に堕していってしまうことになる。
 この「開目抄」では、舎利弗などの退転の事例があげられている。
 ―過去世において、舎利弗が六十劫という長い長い間、菩薩道を修め、人に物を施す布施行に励んでいた時のことである。
 婆羅門(司祭階級)の一人が現れ、舎利弗に「眼をくれ」と乞うた。舎利弗は求めに応じて、自分の片方の眼を抜いて与えた。
 婆羅門は、その臭いをかいだ。 「臭い。いやな臭いだ!」 そう言って、眼を投げ捨て、踏みつけた。
 ″こんな輩を救うことは無理だ! もう、自分の悟りだけを考えて生きよう″
 舎利弗は、六十劫もの間、修行を重ねてきたにもかかわらず、菩薩道を捨てて、小乗の教えに堕したのだ。退転である。
 婆羅門の行為が、あまりにも非道、傲慢であるだけに、世間の法では、舎利弗がそうしたのは、仕方がないと考えるかもしれない。
 しかし、自身の心の中に法があるととらえる仏法では、相手や周囲が良いか悪いかといった、相対的な関係では物事を見ない。
 常住不滅なる生命の法理のうえから、″自分は何をしたのか″″自己に勝ったのか。負けたのか″に、一切の尺度があるのだ。
42  波濤(42)
 「眼をくれ」と言っておきながら、それを捨てて、踏みつけた婆羅門によって、実は舎利弗の心は、試されていたのである。
 舎利弗は、せっかく長い長い修行を積み重ねてきたが、究極のところで、万人成仏の法を信じ抜くことができなかった。
 一切衆生に仏性が具わっているという、大仏法の法理を確信できなかった。悪縁に触れて、無明という迷いの生命が、自らの胸中にわき起こり、信心をかき乱されてしまったのである。
 結局、いざという時に、舎利弗は師の教えを忘れ、自分の心に敗れたのだ。
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「大聖人は『開目抄』で、さらに『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』と仰せになっている。
 いかなる理由があろうが、信心を捨てれば敗北です。不幸です。地獄のような、厳しい苦悩の生命に堕ちていく。
 どうか、この御聖訓を、絶対に忘れないでいただきたい。妙法は宇宙の根本法則です。それを曼荼羅として御図顕されたのが御本尊です。
 その御本尊を、信じ切っていくなかに、永遠の幸福の大道がある。 そして、大聖人は、この御文の後、『大願を立てん』と宣言される。
 この御精神を受け継ぎ、末法の広宣流布のために出現したのが、わが創価学会です。皆さんも、その学会の後継者として、生涯、広宣流布の大願に生き抜いていただきたい」
 皆、一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で耳を傾けていた。
 「大聖人が『善に付け悪につけ』と仰せのように、魔は、″法華経を捨てれば国主の位を譲ろう″″念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ″などと、誘惑と脅しを巧みに使い、アメとムチで責め立ててくる。
 しかし、『種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり』と大聖人は言われている。
 御自身の正義が智者によって破られない限り、いかなる大難にも、決して動ずることはないとの仰せです」
43  波濤(43)
 日蓮大聖人には、御自身の説く法門こそが、正法正義であるとの絶対の大確信があった。文証、理証、現証のうえからの、確かなる裏付けがあったのである。
 大聖人は、一切経を学び極めており、いかなる批判も、木っ端微塵に粉砕していった。まさに言論闘争の王者であられた。
 山本伸一は、情熱を込めて訴えた。
 「いかに最高の法を持っていても、論破されてしまえば、正法正義とは言えません。正義なればこそ、断じて勝たねばならない。
 ゆえに、言論の勇者となって、学会を守り、民衆を守っていくことは、最高学府に学んだ皆さんの責任であり、使命です。
 そのために、学びに学び、書きに書いていくんです。これからは、女性が言論の潮流を、世論をつくる時代です」
 「はい!」
 伸一は、その声に、若々しい魂の、決意の響きを感じた。
 「さらに、『開目抄』で大聖人は、『其の外の大難・風の前の塵なるべし』と仰せになっている。
 身命に及ぶ、どんな大難であっても、風の前の塵のように吹き払っていく。何も恐れず、広宣流布という大願を果たしていくとの御断言です。
 創価学会は、その大聖人の御遺命のままに進んでいる団体です。
 今や学会は、日本一の大教団になりました。嫉妬されて、非難・中傷されるのは当然です。船が動けば波が立つようなものです。創価学会も、また私も、さらに攻撃され続けるでしょう。
 戸田先生は、よく『社会が創価学会の真価をわかるまでには、二百年かかるだろう。学会は歴史上、かつてない団体だから、誰も、その本当のすばらしさがわからないのだ』と言われておりました。
 全く、その通りです。どうか、皆さんは、いかなる試練があったとしても、目先のことに一喜一憂するのではなく、もっと長い尺度で物事を見ながら、信念の人生を歩み抜いていただきたいのであります」
44  波濤(44)
 山本伸一の話は、「開目抄」を通しての信心の究極の指導であった。自身の生涯にわたる生き方が問われる、峻厳な内容であった。
 女子部学生局のメンバーは、それを、しっかりと生命で受けとめていた。伸一も、その手応えを感じながら、話を続けた。
 「信心、学会活動は、若い時代に、″自分としてやるべきことは、すべてやった。ここまでやった。悔いはない″と言えるように、頑張ることです。
 『所願満足』と言いますが、広宣流布のために戦い切ったという満足感が、人生の『所願満足』の土台となり、未来にわたる幸福、福運の、盤石な礎になっていくんです。
 また、今世の広宣流布に生き抜いた満足感が、来世を決定づけていきます。
 ゆえに、信心を離れては、未来の幸福も、来世の幸福もないことを知ってください」
 伸一はこの日、一つの提案をしようと思っていた。それは、夜の会合の終了時間のことであった。
 「ところで今日は、ぜひ、皆さんに提案したいことがあります。現在、会合の開始は午後七時で、終了は九時になっています。
 しかし、私は、すべての会合は、八時三十分には、終わるようにしてはどうかと、申し上げたい。『八・三〇運動』です。
 会合が早く終われば、家で勉強もできる。早く休むこともできる。広宣流布は長い戦いです。無理が重なり、疲れがたまれば、朝起きるのも辛くなり、生活も乱れがちになる。
 また、帰宅が遅くなれば、両親も心配するし、事件や事故に巻き込まれないとも限らない。御聖訓にも『よるは用心きびしく』と仰せです。
 それらを、総合的に考えて、会合の終了時間を、午後八時半にしたいと思いますが、いかがでしょうか。賛成の人?」
 一斉に、皆の手があがった。
 伸一は、女子部、婦人部のことを思い、少しでも帰宅時間を早くして、負担を軽減したいと考え続けてきたのである。
45  波濤(45)
 山本伸一が提案した、会合の終了時間を午後八時半とする「八・三〇運動」は、翌十日の方面長会議で諮られ、決議されたのである。
 その夜、伸一に峯子は語った。
 「あなたが提案された『八・三〇運動』が決議されましたね。これは、大変な改革ですね。学会の時間革命に、また、一人ひとりの大きな価値創造につながります。婦人部や女子部の方も安心できますね」
 伸一は、笑顔で頷いた。
 「そうなんだよ。『八・三〇運動』がいかに大事であるかは、後になればなるほど、よくわかるだろうね。
 会合を早く切り上げるということは、その分、内容を充実させなければいけないということだ。一瞬一瞬を、これまで以上に、真剣勝負で臨むということだ。それが、価値を創造していく原動力になる」
 伸一と峯子は、日々、女子部や婦人部が絶対に無事故であるように、懸命に唱題してきた。
 その祈りの一念のなかで、女性の安全のために、夜の会合の終了時間を八時半にするという考えも生まれたのである。
 事故が起こってしまえば、一切は水泡に帰し、広宣流布を大きく遅らせてしまうことにもなりかねない。したがって、事故を起こさないための、事前の配慮が大事になるのだ。
 峯子が言った。
 「学会は、常に女性のことを考え、女性の意見を聞き、女性を大切にしてきたから、大発展してきたのだと思います。いろいろな面で、学会を支えているのは女性ですもの」
 「その通りだね。女性の力は大きい。二十一世紀は、いかなる女性リーダーが育つかによって、決まってしまうといっても過言ではない。
 私はこれから、次の女子部の、さらに二十一世紀の婦人部の中核となる、人材の育成に、全力で取り組もうと思っているんだよ」
 「一番、大切なことですね」
 峯子の顔に微笑みが浮かんだ。
 なお、この女子学生との師弟の語らいが行われた九月九日は、後に「女子学生部の日」となるのである。
46  波濤(46)
 若き日の 誓い果たせや 崇高な 広宣流布に 生命捧げて
 青春時代に「誓い」という種子を植えなくては、人は大樹へと育つことはない。誓いこそが、成長の源泉となるのだ。
 一九七五年(昭和五十年)九月二十八日、山本伸一は、神奈川県の箱根研修所で行われた、「御殿場家族友好の集い」に出席した。
 色づき始めた山々に囲まれた研修所の庭に、静岡・御殿場のメンバー約三千人が集い、鼓笛隊の演奏、有志による太鼓演奏や民謡踊りなどが、にぎやかに繰り広げられた。
 そのなかに、この日、結成される女子部の人材育成グループのメンバー三十五人の、はつらつとした姿もあった。
 やがて、伸一がマイクを取った。彼は、御殿場の大発展への期待を述べたあと、集った女子部員への指針ともなるよう、人生の幸福について語っていった。
 「人生には、嬉しいこともあれば、辛く、悲しいこともあります。しかし、病や経済苦など、さまざまな試練が打ち続いたからといって、それが、そのまま、不幸につながるとは限りません。
 ″よし、負けないぞ! 必ず勝利して見せる″との強い心で、希望に燃えて前進している人にとっては、苦難もまた、歓喜となります。
 その強き心を培い、挑戦と歓喜の生命を涌現させていく根源の力が題目なんです。
 大聖人は『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』と仰せです。
 今日は、御殿場の皆さんが集われている。私は、御殿場という地名を聞くと、御殿、宮殿を思い浮かべます。
 実は、皆さんは胸中に、永遠に崩れることのない、最高の宮殿があるんです。その宮殿の扉を開くカギこそ、南無妙法蓮華経であり、信心であると訴えておきたい」
47  波濤(47)
 山本伸一は、笑顔で包み込むように語った。
 「今日は、お年寄りから、お子さんまで、参加されています。楽しく、平和な、和気あいあいとした、この姿こそ、学会の実像です。その縮図を家庭につくってください。
 女子部の皆さんは、やがて結婚し、ご主人のご両親と、一緒に暮らすようになる人もいるでしょう。その時に、お舅さん、お姑さんを、恩人と思い、大切な人生の先輩として、最高に遇していくことです。
 お年寄りを大切にすれば、将来、自分が大切にされます。それが因果の理法です。
 戸田先生は『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』との、永遠の三指針を示されました。
 これをモットーにして、悔いのない、充実した一日一日を送っていってください」
 「御殿場家族友好の集い」が終了した。
 伸一は、女子部の人材育成グループのメンバーと、一緒に勤行をすることにしていた。研修所の仏間に向かいながら、彼は、満面に笑みを浮かべて、峯子に言った。
 「今日で、二十一世紀の流れが決まるよ。
 かつて戸田先生は、女子部の代表で華陽会をつくられ、先生も、私も、全力で育成に当たった。そのメンバーが今、婦人部の中核となり、学会の原動力となっている。
 今日、集まったメンバーは、やがて、二十一世紀の大リーダーとなる女性たちだ。女子部が総力をあげ、探しに探し、選びに選んだ、多彩な一級の人材だよ」
 ――女子部長の田畑幾子が、「お願いがあります」と言って、伸一のもとに来たのは、この年の五月のことであった。
 彼女は、思い詰めた顔で切り出した。
 「先生、女子部として、次の中核を育てていくために、人材育成グループを結成していただきたいと思います」
 瞬間、伸一の目が輝いた。
 「よし、やろう! 大賛成だよ」
 彼は、その申し出を待っていたのだ。
48  波濤(48)
 山本伸一は、微笑を浮かべて、女子部長の田畑幾子に言った。
 「優れた人材としての資質をもっている人であっても、放っておけば、そのまま終わってしまう。ダイヤモンドの原石だって、見つけ出して、磨き抜いてこそ、まばゆい輝きを放つ。それと同じだよ。
 男子部、学生部は、この五月三日に、次の学会を担う中核を育成するために、『伸一会』を結成した。
 女子部も、次の女子部の中核を育てるというだけではなく、次代の婦人部の中核を、そして、二十一世紀を担う、女性リーダーを育成するグループにしていこうよ」
 田畑は胸を撫で下ろした。人材育成グループの結成は、女子部として、次の流れを開くための、考え抜いた末の結論であったからである。
 しかし、伸一の考えは、彼女たちの発想を大きく超え、二十一世紀を託す人材を育てようというのだ。
 七月初め、伸一は、十人ほどの女子部の代表と懇談した。その折、田畑は、女子部の人材育成グループの人選の仕方について、伸一の意見を求めた。
 「そうだね。メンバーは、厳選するようにしよう。三、四十人がいいだろうね。最初は、東京を中心にスタートさせ、それから、各方面に広げていってはどうだろうか。方面の場合は、十人とか、二十人でいいと思う」
 続いて、女子部の書記長をしている、藤谷幸栄が尋ねた。
 「メンバーの人選基準についても、先生のお考えを、お聞かせいただければと思います」
 「これが、重要だね。どういう人を選ぶかで、すべてが決してしまうからね。
 まず、人選基準の第一は、学会の組織のリーダーとして、ふさわしい人だけを選ぶのではなく、社会で活躍し、各界の女性リーダーとなる人も選んでいくことだ。
 つまり、『仏法即社会』という観点から、多彩な人材を集めるようにしてはどうだろうか」
49  波濤(49)
 山本伸一は、女子部の人材育成グループの人選基準を示していった。
 「それから、教学の力のある人を選ぼう。戸田先生は『女子部は教学で立て』と言われたが、それは人生の哲学を確立しなさいということだ。
 教学という生き方の哲学がなければ、仏法のうえからの重要な指導を、受け止めていくことはできないからね。
 さらに、最も大事なことは、広宣流布の使命に生き抜く決意がある人を探すことだ。この心が定まらず、自分の気分や感情、状況に流されていくようでは、育成のしがいがないじゃないか。
 そして、人間的な魅力も大事だね。誰もが″さわやかな人だ。私も、あのようになりたい″と、憧れをいだくような人だ」
 それから、伸一は、皆の顔を見つめながら言った。
 「ともかく、女子部の首脳が、みんなで力を合わせて、人材を探し出すんだよ。人材を見つけるということは、自分の眼、境涯が試されることでもある。
 たとえば、地上から大山を見上げても、その高さはよくわからない。しかし、高いところから見れば、よくわかる。
 同じように、自分に、人材を見極める目がなく、境涯が低ければ、相手のすばらしさを見抜くことができない。だから、自分を見つめ、唱題し、境涯を高めていくことだ。
 このグループは、最終的に各方面にも広げていくことになるが、決して急ぐ必要はないよ。焦らず、二年ぐらい時間をかけ、みんなで人材を探して、結成していけばよい。
 あなたたちが、二十一世紀の中核の陣列を築き上げてくれることを、楽しみにしているよ」
 女子部長の田畑幾子が、決意をかみしめるように答えた。
 「はい。みんなで力を合わせて、世界をリードする女性人材群をつくってまいります」
 伸一は、その人選作業を女子部の首脳に委ねることで、彼女たちの人を見る眼を培い、境涯を高めさせたかったのである。
50  波濤(50)
 女子部の首脳は、人材探しに懸命に取り組んだ。会合に出席すると、終了後に懇談会をもったり、″これぞ″と思うメンバーの家を訪問したりもした。
 そして、女子部の首脳同士で常に情報を交換し、話し合いを重ねた。
 「すごい人材がいたわ!」
 「こういう人がいるんだけど、どう育てるべきかしら」
 人材を見つけようとすることは、人の長所を見抜く力を磨くことだ。それには、自身の慢心を打ち破り、万人から学ぼうとする、謙虚な心がなければならない。まさに、人間革命の戦いであるといってよい。
 人選を続けるなかで、彼女たちは、あることに気づいた。
 「人材育成グループに入れる人は限られているけど、女子部には、さまざまな資質の、すばらしい人材がたくさんいる。山本先生は人材探しを通して、私たちに、そのことを教えようとされたのではないでしょうか」
 「先生は、本来なら、女子部員全員を、直接、手づくりで育て上げたいというお気持ちに違いないわ。
 でも、現実には、それは不可能なので、代表の育成を通して、私たちに、その精神と人の育て方を、教えようとされているのではないかしら……」
 人を育てることによって、自分も成長することができる。「人材は見つけて、育てるものだ。共に広宣流布へ戦うなかで、共に育つのだ」とは、戸田城聖の教えであった。
 東京を中心としたグループの人選は、九月初めには終わった。
 山本伸一は、提出された一人ひとりのカードに、入念に目を通した。組織での役職もさまざまであり、確かに、多彩な人材が選ばれていた。
 最年長の人は二十四歳であり、最年少は十八歳であった。半数ほどが大学生である。
 「みんな、四十代の半ばから五十歳ぐらいで二十一世紀を迎えるメンバーだね」
 伸一は、瞳を輝かせて峯子に言った。
51  波濤(51)
 田畑幾子をはじめ、女子部の首脳幹部たちは、関西、九州、中国、中部など、各方面の人材育成グループの人選も開始していった。各方面を担当している幹部は、何度も現地に足を運んだ。
 そのなかで、一九七五年(昭和五十年)九月二十八日の、東京を中心としたグループの結成式を迎えたのである。
 山本伸一が、箱根研修所の仏間に姿を現すと、「こんにちは!」という、メンバーの、はつらつとした声が響いた。
 「さあ、勤行しよう。皆さんの新しい出発だ! 未来の栄光をご祈念しよう」
 勤行が始まった。
 伸一は、″ここに集った全員が、一人も漏れなく、自身の使命の大空に羽ばたき、最後まで、広宣流布の大願に生き抜いてほしい″と、真剣に祈念した。また、皆の健康を、希望の成就を、一家の繁栄を、深く願った。
 勤行のあと、伸一と峯子は、食堂に移り、皆と一緒に、用意しておいた弁当を食べた。
 それから集会室で、人材育成グループの結成式となる懇談会が始まったのである。
 開口一番、伸一は言った。
 「まず、このグループの名前を決めよう」
 すかさず、女子部長の田畑が答えた。
 「『青春会』では、いかがでしょうか」
 「『青春会』か……。そうだな。みんな、青春だからね。また、来年は、学会として、『健康・青春の年』にすることが決まっているし、いいじゃないか!
 それで決定としよう。みんな、いいね」
 「はい!」という喜びに満ちあふれた、元気な声が、はね返ってきた。
 「真の仏法者の人生というのは、生涯、求道であり、生涯、戦いであり、生涯、前進です。つまり、生涯、青春なんです。
 この会は、本格的な女子部の中核となり、さらに、実質的に、創価学会を担い立つ婦人部の、後継をつくるための会です」
 伸一の声には、厳粛な響きがあった。
52  波濤(52)
 山本伸一は、「青春会」のメンバーに、二十一世紀の女性リーダーに育っていくために、読書の大切さを訴えた。
 「一般の教養書などを読むことも大事です。
 しかし、人生の確かな哲学の骨格をつくる意味から、まず、御書を読破していくようにしたい。
 難解な個所もあるかもしれないが、御書をすべて拝しておけば、それが一つの自信にもなる。したがって、一日に三十分でも、あるいは、五ページぐらいでもいいから、着実に学んでいっていただきたい。
 そして、わからないところがあれば、皆で集まって、ディスカッションし、研鑽していってもらいたい。
 また、私は、論文や随筆、対談集、御書講義など、さまざまな本を出版してきました。
 真実の信仰の道、人間の道を明らかにするとともに、仏法を現代的に展開し、社会の諸問題を乗り越える方途を示そうと、生命を削る思いで書いてきました。
 皆さんには、それを受け継ぎ、さらに二十一世紀の新しき道を示していく使命がある。
 したがって、私の著作も、よく読んで思索し、そこから、未来の展望を開いていっていただきたい。私は、これからも、皆さんのために、後世のために、あらゆることを書き残していきます」
 女性に、広宣流布に生き抜く信心の筋金が入れば、家庭という社会の基盤も、未来も盤石となる。
 日本社会にあっては、伝統的に、女性は陰の存在であるかのような認識があったが、社会を実質的に支えている力は、女性である。
 ゆえに、大聖人は「女人となる事は物に随つて物を随える身なり」と仰せなのである。
 伸一は、二十一世紀を託す思いで語った。
 「皆さんは、これから、結婚など、さまざまな人生の節目を迎えます。しかし、何があっても、『青春会』として、集っていってほしい。
 まずは、十年後の一九八五年を、さらに、二十一世紀をめざして、集い合い、励まし合って進んでいってください」
53  波濤(53)
 山本伸一は、ここで、ひとまず話を終えると、皆に言った。
 「今日は、みんなの質問を受けよう。聞きたいことがあったら、なんでも聞きなさい」
 彼は、一人ひとりに視線を注ぎ、二十一世紀に思いを馳せた。
 ″皆、婦人部の中核に育っているだろう。婦人部長も、出るにちがいない。しかし、大事なことは、その時、婦人部のリーダーとして、何をするかだ。何ができるかだ。
 仏法の人間主義を時代の哲学とし、人びとの幸福と社会の繁栄を、築き上げることができるのか。
 創価の女性たちが、地域に、社会に、深く根を張り、現在をはるかにしのぐ、広宣流布の大潮流をつくることができるのか。
 広宣流布の道は、熾烈な攻防戦だ。慢心や甘え、いい加減さ、うまく立ち回って楽をしようなどという心があれば、広宣流布は衰退を招いてしまうだろう。
 あなたたちは、二十一世紀初めの広宣流布を担う、責任世代だ。あなたたちの決意と成長と戦いのいかんで、二十一世紀は決まる。
 創価学会を永遠ならしめるかどうかのカギは、まさに、あなたたちが握っているのだ″
 そう考えると、伸一は、思わず力が込み上げてくるのを覚えた。そして、彼女たちを育てるために、全生命を注ぎ尽くそうと、決意を固めるのであった。
 質問の手があがった。
 刈野のぶ代という、人柄のよさそうな女子学生であった。
 「私は、現在、音楽大学の一年生ですが、広宣流布のために、プロの音楽家をめざすべきかどうか、迷っています」
 伸一は、包み込むような口調で言った。
 「将来の進路について悩む時は、誰にでもあるものだ。心配しなくて大丈夫だよ。
 ともかく当面は、音楽も、学会活動も、やるべきことに全力で挑戦することです。
 信心について言えば、若い時代に、苦労して仏道修行に励み、自分の生命を磨くとともに、福運を積んでいくことが大事です」
54  波濤(54)
 山本伸一は、刈野のぶ代の質問に答えて、語っていった。
 「人生を生きるうえで、何事も、努力をするのは当然です。しかし、努力が実る人もいれば、実らない人もいる。そこに、運・不運という問題がある。
 さらに言えば、大音楽家になっても、必ずしも幸せになれるとは限らない。幸福になるには、福運を積むしかない。その唯一の道が、信心なんです。だから、決して退転するようなことがあってはなりません。
 信心を根本に、音楽の勉強に励み、技術を磨いていくならば、三年生ぐらいになった時に、自分の道が見えてきます。
 優れた資質があり、音楽家として活躍していく使命があれば、その資質が伸び、周囲からも、″すばらしい″と評価されていくでしょう。
 最初に、絶対に音楽家になると決めて、挑戦する場合もあるが、あなたは、今、決めなくてもいいでしょう。しかし、大学は、必ず卒業することです」
 伸一の指導は、決して一様ではなかった。特に人生の問題については、根本的なところは一緒でも、具体的な事柄については、人それぞれに、指導は異なっていた。
 たとえば、必ず音楽家になろうと、一心不乱に精進を重ねている人であれば、伸一は、こう励ましたであろう。
 「断固、頑張り抜きなさい。苦労し、苦労し、苦労し抜いていくことです。そして、大音楽家になってください。それが、あなたの使命であると決めることです」
 しかし、伸一は、刈野には、現在の状況や性格から、別の可能性を感じ取り、「今、決めなくてもいい」と語ったのだ。
 彼は、臨機応変に、その人に最も適した方向を考え、挑戦への勇気と希望を送るために、常に全生命を注いだのである。
 刈野は、大学卒業後、本部職員となり、女子高等部長、総合女子部長などを歴任し、やがて、婦人部長として活躍することになる。
55  波濤(55)
 次に質問したのは、女子部の部長をしているというメンバーであった。
 「私の部には、副部長が二人いますが、正役職と副役職の関係は、どうあるべきかについて、教えていただきたいと思います」
 山本伸一は、大きく頷いた。
 「大変に重要な問題です。これからは副役職者として活動しながら、自分の使命の分野で活躍する人も増えていくでしょう。
 まず、副役職者の観点から、根本姿勢を述べておきます。それは、正役職ではないからといって、遠慮し、活動に消極的になったり、組織から遠ざかるようなことがあっては、絶対にならないということです。
 組織から離れると、責任がなくなってしまう。広宣流布の責任を、どこまで担っているかが、信心のバロメーターです。
 組織を離れれば、自由でいいように思えるかもしれないが、自分を磨き、人間革命し、大きく進歩、成長していく場を失ってしまうことになります。
 組織につき切って戦い抜いた人と、離れていった人とでは、二年、三年、五年とたった時に、その差は歴然と現れます。組織を離れていった人は、後になって、必ず悔やむことでしょう」
 釈尊も、僧伽(サンガ)と呼ばれる仏道修行に励む人びとの集団を大事にした。
 仏法では、この僧伽を三宝の一つとしている。人間と人間の絆、即ち組織のなかにこそ、仏道修行のための切磋琢磨があり、それによって、教えの流布も可能となるからだ。
 伸一の声に、力がこもった。
 「戸田先生は『創価学会仏』と言われた。末法万年の広宣流布のために、大聖人の御遺志を受け継いで出現したのが創価学会です。だから、先生は、学会の組織は、ご自身の命よりも大事であると語られている。
 副役職の人のなかには、仕事など、さまざまな事情で、思うように活動の時間を取れない人もいるでしょう。たとえ、時間的には制約があったとしても、戦う一念は、一歩たりとも退いてはならない」
56  波濤(56)
 山本伸一は、それから、正役職者が、副役職者に、どう対応すべきかを語っていった。
 「正役職の人は、副役職の人が、遠慮して力が発揮できなかったり、寂しさを感じたりすることがないように、しっかり抱きかかえる思いで、スクラムを組むことです。
 ともすれば、部長の場合だと、大ブロック長(現在は地区リーダー)と連携を取っていれば、いいつもりになってしまいがちです。
 しかし、それだけでは駄目です。副部長との団結こそが、組織を重厚にし、何があっても崩れない万全な態勢をつくる力になります。
 正役職者は、常に副役職者と話し合い、自分と同じ決意、同じ自覚に立てるようにしていかなくてはならない。それには、まず、情報を共有し合い、副役職の人の意見をよく聞き、動きやすいようにしてあげることです。
 何かの部門を、担当してもらうこともいいでしょう。でも、最終的には、責任は、部長である自分が取ることです」
 伸一は、組織論の要諦を、未来の指導者となる彼女たちに、しっかりと語っておかなければならないと思った。
 「部長など、正役職者は、どんなに忙しくても、副役職の人を大事にし、決して突っぱねたりせずに、包容していくことです。
 たとえ相手が、自分より年長であっても、親が子どもに慈愛を注ぐように、包み込んでいくんです。その包容力が、正役職者にとって、最も大切な要件です」
 組織の強さというのは、正役職者と副役職者との、連携、協力によって決まってしまうといってよい。
 正役職者が、一人で、すべてをやっていれば、いつか疲れて、行き詰まってしまう。正役職者と心を合わせて働いてくれる副役職者が、何人もいれば、活動も、より重層的になる。
 組織の団結とは、まず、この正・副の団結から始まる。そこから、異体同心の連帯が広がり、難攻不落の城の石垣のように、堅固にして盤石な組織が出来上がるのだ。
57  波濤(57)
 山本伸一は、皆に聞いた。
 「あなたたちは、大山巌という元帥を知っているかい」
 誰も答えなかった。知らないようである。
 「大山巌は、日露戦争最大の陸戦とされる『奉天の会戦』を指揮した、満州軍総司令官です。緻密で才知豊かな総参謀長の児玉源太郎らの力を遺憾なく発揮させ、戦いを勝利している。
 この大山には、どんな力があったのか。
 彼については、総司令官といっても飾り物にすぎず、すべてに無頓着であったなどという評価もある。だが、それでは、勝利を収めることはできなかったはずだ。実際には、緻密で優れた洞察力をもっていたと思う。
 しかし、彼は、総参謀長の児玉源太郎らが、やりやすいように一切を任せ、細かい指図などしなかった。
 最後は、自分が責任をもつから安心して頑張れという、真の包容力があった。
 そして、自分は大局を見ながら、鷹揚に振る舞っていた。この包容力こそが、彼の最大の力であり、魅力であったといってよいだろう。だから、皆がついていったんです。
 あなたたちも、そういう度量の、女性リーダーに育っていくんだよ」
 次は、学内のグループ長をしているという女子学生の質問であった。グループ員が、自分の言うことを聞いてくれないというのだ。
 伸一は、諭すように語り始めた。
 「一つは、題目だよ。一生懸命に唱題していけば、生命が輝く。そうなれば、磁石のように、人を引き付けていくことができ、みんなが、あなたの言うことを聞くようになっていくよ」
 すると、彼女は、困惑した顔で言った。
 「しっかり題目を唱えて会いに行くんですが、『折伏をしましょう』『お題目をあげましょう』と言うと、はっきり『できません』と断られてしまうんです」
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「それは、結論を急ぎすぎるからです。まず、心を通わせ合うことだよ」
58  波濤(58)
 山本伸一は、噛んで含めるように語った。
 「折伏や唱題を訴えることは大事です。しかし、相手が共感し、納得するには、まず、心をほぐし、友だちになっていくことが必要です。
 たとえば、『私のところに、遊びに来ませんか』と言ってみるのもいいでしょう。あるいは、最近読んで、おもしろいと思った小説の話をしてもいい。また、お父さんや、お母さんのことを聞いてもいいでしょう。
 ともかく、人間として打ち解け合い、理解し合っていくことから始めるんです。
 そして、たとえば、世間話から、人生には生き方の哲学が必要だという話をし、それから、教学を勉強しようとか、学会の会合に参加してみようと言ってみるんです。
 ところで、あなたは、今、幾つなの」
 「十九歳です」
 「それじゃあ、うまく指導できなくても仕方ないな。何度も、何度も失敗して、うんと苦労して、経験を積むんです。
 それが、全部、成長の滋養になり、また、生涯の財産になっていきます。″当たって砕けろ″という思いで、行動していくんです。その覚悟がなければ、本物のリーダーにはなれません。
 でも、体は大事にするんだよ。みんな、大切な、私の娘だもの。学会の宝だもの……」
 最後の伸一の言葉に、皆、彼の深い慈愛を感じた。
 次々と質問の手があがった。
 「先生! 私は女性教育について研究してまいりました。その結論として、女子部、婦人部として、懸命に活動に励むことが、最高の女性教育になると痛感いたしました」
 伸一は、頷いた。
 「そうなんだよ。その通りです。
 日本の未来のためにも、女性教育をどうしていくかが大事になる。だから、これは、みんなで、さらに、研究していってください。
 それはそれとして、女子部、婦人部という組織自体が、最大の女性教育機関であることは間違いありません」
59  波濤(59)
 創価学会は、現代社会にあって、人間教育のための社会教育機関として大きな役割を担ってきた。青少年に対してはもとより、女性の社会教育という面でも、その貢献は、極めて大きいといえよう。
 家庭の事情などから、義務教育も十分に受けられなかった女性が、学会の女子部、婦人部という組織のなかで教育され、地域の女性リーダーとして活躍している例は少なくない。
 山本伸一は、女性に対する創価学会の社会教育的側面に言及していった。
 「学会の女性たちは、仏法の生命哲理を根本に、さまざまな勉強をしている。幸福論、価値論、宗教論、教育論、平和論も学べば、政治、芸術、文化なども勉強している。そして、何よりも、人間学に精通している。
 さらに、大事なことは、広宣流布の使命を自覚して、自らの意志で、友の幸福のため、社会の繁栄のために、情熱を燃やして奔走している事実です。
 社会でも、女性教育への、さまざまな試みがあるが、多くは、教養や技術を身につけることにとどまっているのが現状といえます。
 つまり、『知情意』のなかの『知性』を培うことはできても、『感情』『意志』の円満な発達を促すことは難しい。しかし、学会には、『知情意』を培う人間教育があります。
 しかも、学会では、単に教わるだけではなく、同時に、自分も教える側になり、互いに励まし合うという、切磋琢磨がある。
 また、信心に定年はない。したがって、学会には永遠の生涯教育がある。民衆のための人間教育の最高学府が創価学会です。この伝統を守り、発展させていくことが必要です」
 質問は、さらに何問か続いた。いずれも、組織をどう発展させるかなど、広宣流布への一途な思いを感じさせる質問であった。
 伸一は、未来への希望と力を感じた。
 「真に心を堅固にし、一心に前に向かって行くならば、たとえ泰山であっても動かせるものである」)とは、韓国の思想家・丁若ギョンの言葉である。
60  波濤(60)
 山本伸一は、皆の質問に答えて、組織としての運動の進め方などについて述べたあと、最後に、魂を打ち込むように訴えた。
 「組織といっても、人間関係です。あなたたちが、自分の組織で、一人ひとりと、つながっていくんです。単に組織のリーダーと部員というだけの関係では弱い。
 周りの人たちが、姉のように慕ってくるようになってこそ、本当の人間組織です。
 組織を強くするということは、一人ひとりとの、信頼の絆をつくっていく戦いです。あなたたちが皆から、″あの人に励まされ、私は困難を克服した″″あの人に勇気をもらった″と言われる存在になることです。
 私も、そうしてきました。全学会員とつながるために、常に必死に努力しています。なんらかのかたちで、激励する同志は、毎日、何百人、何千人です。この絆があるから、学会は強いんです。
 その人間と人間の結合がなくなれば、烏合の衆になる。学会は、滅びていきます。この点だけは、絶対に忘れないでほしい」
 皆、真剣な顔で、瞳を輝かせていた。
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「では、みんなで写真を撮ろう。これは、大事な、誓いの証明写真だ」
 伸一は、メンバーを前に並ばせ、自分は、後列に立った。フラッシュが光り、シャッター音が響いた。
 写真撮影が終わると、伸一は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「もし、ほかの人が誰もいなくなっても、このメンバーが残ればいいよ。私がまた、一千万にするから。一緒にやろう。みんな、何があっても、退転だけはしてはいけないよ」
 さらに、伸一は、「青春会」の結成を記念し、皆が署名した色紙に、こう認めた。
 「その名も 芳し 青春会
 次の学会の核たれ 桜花たれ」
 この日、二十一世紀の新しき創価の女性運動の流れを開く、人材の核がつくられたのである。新世紀建設の布石がなされたのだ。
61  波濤(61)
 「青春会」は、この一九七五年(昭和五十年)九月二十八日の東京を中心としたグループの結成に続いて、次々と各方面に誕生していった。
 十月には、関西、九州、十一月には、中国、中部、十二月には、北海道、関東に結成。
 さらに翌年には、神奈川、東北、信越・北陸に、そして、七七年(同五十二年)九月には、静岡、四国、沖縄に「青春会」が結成され、全国の布陣が整ったのである。
 その間に、女子部長も田畑幾子から藤谷幸栄に交代していた。
 いわば、二代の女子部長を中心に、女子部の全国と方面の首脳が、あらゆる角度から人選し、全精魂を注いでつくった、人材の中核が「青春会」といえよう。
 山本伸一は、深く心に決めていた。
 ″二十一世紀を担う人材を育成するために奮闘した、
 女子部首脳の思いを、その健気な努力を、絶対に無にするまい。むしろ、彼女たちが、自分たちの努力が、これほど美事に実を結ぶのかと驚嘆するほど、メンバーを大人材に育てよう″と。
 彼は「青春会」メンバーとは、結成式をはじめ、さまざまな機会に、直接会い、指導を重ねた。また、
 「わが娘よ 弟子よ 断じて 負けるな」(関西青春会)、「わが娘なれば 断じて 挫折と絶望の二字を 捨て去ることだ」(九州青春会)など、指針も贈った。
 さらに、各方面に出かけた折には、会員激励のための仕事を手伝ってもらうなど、メンバーと共に行動した。生命を削って同志を励まし、奉仕する自分の姿を通して、学会の精神を、彼女たちに伝えようとしたのだ。
 まさに、手づくりの人材育成であった。
 「女性の組織を強くしていくためには、新しいリーダーを大胆に抜擢し信頼し、実際の戦いのなかで、忍耐強く育てていくことである。
 そうやって、民衆のなかで成長していった女性リーダーは、幾百万の広大な女性たちを率いていくことができる」――これは、伸一と峯子が深い交友を結ぶことになる、周恩来総理の夫人・鄧穎超の言葉である。
62  波濤(62)
 「青春会」のメンバーは、節目、節目には集い合って、総会や勤行会を行ってきた。
 山本伸一は、可能な限り、それらの集いにも出席し、皆の成長を見守ってきた。
 一九八五年(昭和六十年)九月、結成十周年を迎えた「青春会」のメンバーが、ぜひ、伸一に会いたいと、埼玉青年平和文化祭の会場である、川口市立芝スポーツセンターに集ってきた。
 このころ、彼は体調を崩し、歩くことさえ辛かった。しかし、平和文化祭に出席し、マイクを取って全力で参加者を励ました。
 さらに、中国の要人ら来賓の応対も、誠心誠意行った。途中、身を横たえたくなるほど、体は疲れ果てていた。
 しかし、伸一は、なんとしても、「青春会」のメンバーと会い、励まそうと思った。
 彼は、二階から手すりにつかまり、ふらつきながら階段を下り、ロビーに集っていた彼女たちのもとへ向かったのである。
 メンバーのなかには、女子部時代に、女子部長をはじめ、副女子部長、方面女子部長など、組織の中枢幹部を務めてきた人も少なくない。
 しかし、結成から十年がたち、メンバーの多くは、既に結婚し、婦人部の最前線組織の先頭に立って活躍していた。小さな子どもを抱えている人もいる。
 彼女たちにとっては、環境の大きな変化であり、試練の時代であるともいえよう。ここで、どう頑張り抜くかによって、広宣流布のリーダーとして、頭角を現していけるかどうかが、決定づけられてしまう。
 いわば、人生の飛躍を決する正念場であった。だからこそ伸一は、彼女たちと会い、一言でも、激励の言葉をかけようと思ったのである。
 彼は、メンバーの前に来ると、全身の力を振り絞る思いで語った。
 「みんなと、会えて嬉しい。負けるな。じっと見ているよ。私は、あなたたちのことは、決して忘れません。『青春会』結成十五周年、二十周年の集いは、盛大にやろうよ」
 伸一は、目標を示したかったのである。
63  波濤(63)
 山本伸一は、川口市立芝スポーツセンターで、「青春会」のメンバーを激励したあと、さらに、会食会に出席した。彼は一刻も早く東京に戻り、体を休めたかった。
 しかし、全国から集って来た「青春会」の代表も参加するのだ。出席しないわけにはいかなかった。
 「人生は波濤の連続だ。必ず勝つんだよ。勝負は二十一世紀だ。待っているよ」
 彼は、食事には、ほとんど手をつけず、何度も、こう繰り返した。
 会食の予定は、二時間ほどであったが、四、五十分で切り上げた。体力は限界に達していたのだ。伸一が、精密検査のために入院するのは、それから一カ月後のことである。
 伸一は、「青春会」の集いに自分が出席できず、妻の峯子を代わりに差し向けたこともあった。彼女たちを励ますために、あらゆる手を尽くしたのである。
 ″「女性の世紀」である二十一世紀を、「青春会」に託すのだ!″
 伸一も、峯子も、その心で、生命を注ぐ思いで激励し、成長を見守り続けてきた。
 遂に、目標とした二十一世紀――。
 「青春会」は、見事に、婦人部の中核に育った。総合婦人部長、婦人部長、書記長をはじめ、全国・方面幹部など、実に多くのメンバーが、広宣流布の枢要な立場で活躍している。
 また、小学校の校長や国会議員など、社会の重責を担っている人もいる。
 「青春会」は、誓い通りに、皆が人生の本舞台に立った。いよいよ、この世の使命を果たすべき勝負の時を迎えた。創価学会は、広宣流布は、その双肩にかかっているのだ。
 人間として何をなすのか! 弟子として、広宣流布のために何を残すのか! 伸一は、師弟の道を貫く彼女たちの、尊き栄光の人生を、峯子と共に、ますます健康で、永遠に見守り続けていこうと、心に誓うのであった。
 今、この「青春会」の伝統精神は、世界各地に誕生した新世紀の華陽会に受け継がれ、創価の女性運動の大潮流となって、地球を包もうとしているのだ。

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