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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「潮流」 潮流

小説「新・人間革命」

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2  潮流(2)
 ハワイでは、七年前の一九六八年(昭和四十三年)八月にも、全米総会を開催していたが、今回の総会は会場も室内ではなく、ワイキキビーチである。
 いわば、社会に大きく開かれた、地域ぐるみの大イベントであった。
 山本伸一は、ハワイ初訪問から十五周年となる今回の「ブルー・ハワイ・コンベンション」に、さまざまな応援をしてきた。
 このハワイでの全米総会は、前年の三月に発表された。翌四月に行われたサンディエゴ・コンベンションに出席した伸一は、日本への帰途、ハワイに立ち寄り、全精魂を注いでメンバーを激励した。
 全米から参加者を受け入れる開催地の運営の苦労を、よくわかっていたからである。
 彼は、寸暇を惜しんで、一人ひとりの奮起を願い、励ましの揮毫の筆を執り続けた。
 また、この時に行われた、地元メンバーとの交歓の集いを、「一九七五――プレ・ハワイ・コンベンション」とし、皆と一緒に希望のスタートを切った。
 さらに、伸一は、七五年(同五十年)の一月、ロサンゼルスから、SGI(創価学会インタナショナル)の発足となるグアムでの第一回「世界平和会議」に向かう折にも、ハワイを訪問。代表のメンバーと協議を重ね、コンベンションの打ち合わせを行う一方、ジョージ・アリヨシ州知事を表敬訪問し、行事への理解と協力を求めた。
 アリヨシは、前年の十二月、日系人として初めて州知事に就任した、四十八歳の期待のリーダーであった。知事はハワイでのコンベンション開催を歓迎し、全面的な協力を約束してくれたのである。
 ″平和のため、広宣流布のために、奮闘する同志がいる限り、身を粉にして守り抜く。見えないところで、幾重にも手を打つ。そして、必ず大成功させ、勝利させてみせる!″
 それが伸一の決意であった。事実、彼は、常にメンバーのために、陰であらゆる手を打ってきた。その炎のごとき一念と行動こそが、学会の前進の原動力となってきたのである。
3  潮流(3)
 七月二十二日の午前十一時(現地時間)前、山本伸一はホノルル空港に到着した。
 ホノルルの空は、快晴であった。海も、大地も、風も、輝いていた。空港にはハワイ州知事補佐官やメンバーの笑顔が待っていた。
 「アローハ!」(ようこそ)
 山本伸一の妻の峯子、そして、伸一に、歓迎のレイがかけられた。
 「ありがとう! 世界平和への本格的な出発のコンベンションにしようよ」
 伸一の快活な声が響いた。
 ハワイに世界平和への旅の第一歩を印してから十五年。伸一は、今再び、このハワイから、新しい平和の大潮流を起こさねばならないと決意していた。
 戦後三十年にあたるこの年、世界の情勢は大きな変化を遂げつつあった。
 東西冷戦は緊張緩和の時代を迎え、七月十七日には、アメリカの宇宙船アポロ18号とソ連の宇宙船ソユーズ19号が大西洋の上空でドッキングに成功。
 両国の宇宙飛行士が握手を交わし合う映像が、世界に流れた。
 さらにベトナムでは、一九七三年(昭和四十八年)の和平協定成立後も戦いが続いていたが、この七五年(同五十年)の四月、北ベトナム軍・解放戦線軍が南ベトナムの首都サイゴンに無血入城し、ベトナム戦争にピリオドが打たれた。
 その一方で、中ソの対立の溝は深まり、中東和平も混沌とした状況が続いていた。
 また、六月には、アフリカのモザンビークがポルトガルから独立し、先進諸国の植民地のほとんどが独立国家となった。そして、これらの発展途上にある国々が、世界の三分の二以上を占めるようになった。
 それは、「北」と呼ばれる先進資本主義諸国と、「南」と呼ばれる発展途上国の、経済などをめぐる対立を生み、いわゆる「南北問題」を深刻化させていたのである。
 まさに、地球は一つであるとの視点に立った、世界を結ぶ平和創造の新しい哲学が求められていたのだ。
4  潮流(4)
 空港の貴賓室で、州知事補佐官らと懇談した山本伸一は、宿舎のホテルに移動した。そして、アメリカの首脳幹部らと打ち合わせに入り、コンベンションの準備状況について、詳細な報告を受けた。
 このコンベンションは、翌年がアメリカ建国二百年にあたるところから、″アメリカ二百年前年祭記念コンベンション″として開催されることになっていた。
 今回のコンベンションに対して、アメリカのフォード大統領、ロックフェラー副大統領からメッセージが寄せられていた。
 大統領は、こう祝福していた。
 「わが国の建国二百年慶祝行事に参加する皆様方に、私は心からの敬意を表するものであります。
 皆様方の努力は、深い愛国心とアメリカ市民としての大きな誇りを象徴しております。
 それは、同時に、わが国のバイタリティーと精神を表しています。
 私は、われらアメリカの二百回目の誕生日を、全国民の記念すべき歴史的行事とすべく尽力される皆様方の献身に対して、衷心より歓迎の意を表します」
 メッセージを聞いた伸一は、力強い声で語った。
 「これは皆さんが、アメリカ社会で着実に信頼の輪を広げてきた実証です。
 広宣流布というのは、広い意味では、社会の人びとが仏法の人間主義に賛同していくことです。
 それには、皆さん方一人ひとりが、そして、SGIという存在が、大きく友情を広げ、社会に深く根を張り、人びとの信頼を勝ち取っていかなければならない。
 ここには、その勝利の象徴的な一つの姿があります」
 思えば、アメリカを初訪問した伸一が、各地で訴え続けたことが、「良きアメリカ市民に」ということであった。
 それが今、十五年の歳月を経て、美事に花開いたのである。
5  潮流(5)
 アメリカの首脳幹部との打ち合わせを終えた山本伸一は、峯子とホテルの庭に出た。
 眼前に、夜の海が広がっていた。空には丸い月天子の微笑みがあった。
 海面は白銀にきらめき、寄せ返す波の音が静かに響いていた。
 伸一は、懐かしそうに語り始めた。
 「十五年前に最初にハワイを訪問した時、ハワイ滞在は三十数時間だった。
 空港からホテルに着いたのが午前二時近く。打ち合わせをして、一、二時間うとうとしたら、目が覚めてしまった。朝食をとっている時にメンバーが訪ねてきて、それからフル回転だった。
 みんなを励まし、現地の視察に回りながら地区をつくる打ち合わせをした。そして、座談会に出て、質問を受けながら全力で指導と激励を重ねたあと、地区を結成した。
 夜も、メンバーが訪ねてきて、懇談となった。特に地区部長になったヒロト・ヒラタさんとは、深夜まで語り合った。最後は二人だけでホテルのテラスで話した。その日も、月がきれいな夜だった」
 ヒラタは、学会活動の経験もあまりないだけに、伸一は必死だった。中心者がどれだけ真剣になり、いかに行動するかによって、組織がどうなるかが決まってしまうからだ。
 伸一は彼に、生活の問題から組織運営の在り方まで、あらゆる面から、全生命を注ぐ思いでアドバイスし、励ました。
 「結局、寝ることができたのは、午前三時近くだった。それで午前五時半に起床し、七時にはホテルを出て、サンフランシスコに向かったんだよ」
 峯子が、しみじみとした口調で言った。
 「時差の疲れもありましたのに、無理に無理を重ねて……」
 伸一が、力のこもった声で応えた。
 「体を張らずして、生命をかけずして、一閻浮提への広宣流布の道など、切り開けるわけがない。私はその覚悟で世界を回った。だから、今日の世界広布の大発展があるんだ」
6  潮流(6)
 日興上人は遺誡されている。
 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事
 広宣流布の大前進の原動力は、戸田城聖が、山本伸一が、この御言葉のごとく、常に死身弘法の決意で奮闘してきたことにある。
 伸一は、盤石な二十一世紀の建設のために、何よりも皆に教えていかなければならないのは、この精神であると痛感していた。
 幹部が完成した組織の上に乗っかり、行事を運営する手法だけを身につけ、それで広宣流布が進むかのような感覚に陥ってしまえば、早晩、学会は破綻をきたすことになる。前進は死闘なのだ。
 幹部が、それを忘れ、青年が、それを知らずに育っていくことを、伸一は最も危惧していたのである。
 生命を削るような苦闘の積み重ねのなかに、広宣流布の道も、自身の人間革命の道もあるのだ。
 「光栄は労苦のみによって得られる」とは、ナポレオンの魂の言葉である。
 伸一は、月を眺めながら、決意をかみしめるように、峯子に語った。
 「今回のコンベンションでも、私は、華やかなスポットライトを浴びる人よりも、その陰で黙々と汗を流しているスタッフに、視線を注いでいきたい。
 その方々に、生命を捧げる思いで励ますつもりだ。それが指導者の在り方であり、私の精神だ!」
 峯子が頷いた。
 「いつもあなたは、一つ一つの事柄に対して、見えないところで、どれほど皆さんを励ましてこられたか……。
 すべての幹部の方が、その心を知り、同じように実践していったら、広宣流布は今の何倍も進みますね」
 「そうなんだよ。人間主義というのは励ましから始まる。私は行動を通して、アメリカの幹部に、それを教えておきたいんだ……」
 こう言って伸一は、夜空を見上げた。大月天がまぶしいほどに、皓々と輝いていた。
7  潮流(7)
 ワイキキの海はまばゆく光り、喜びに震えるかのように、ヤシの葉が風に揺れていた。
 七月二十三日、山本伸一はコンベンションのコントロールセンターの開所式に向かった。運営に取り組むスタッフと会い、御礼を述べ、励ましておきたかったのである。
 伸一が到着すると、既にメンバーは集合しており、テープカットの準備ができていた。
 「どうも、ご苦労様! さあ、始めよう」
 彼は手渡されたハサミでテープを切った。
 拍手が響いた。
 伸一は、コントロールセンターの各所を見て回りながら、次々にスタッフと握手を交わし、名前や年齢、仕事、家族構成などを尋ねていった。
 今回のコンベンションは大がかりな催しである。これまでの準備にも、かなりの時間を費やしてきたにちがいない。
 それだけに伸一は、スタッフとして参加している一人ひとりのメンバーの仕事や生活状況のことが、気がかりでならなかったのだ。
 通訳を介して、対話が始まった。
 「お仕事は何をされているの?」
 「ロサンゼルスで、自動車の営業をしております」
 「仕事の方は、大丈夫なの?」
 「はい。このコンベンションに役員として参加するため、休みがとれるように、その分、しっかり働いてきました。半年間、営業成績でトップを維持しました」
 「そうか。頑張ったね。それが大事だよ。
 なんのために、こうしたイベントや学会活動があるのか――いろいろな意味があるが、個人の次元で考えるならば、自らに挑戦し、自分を磨き鍛え、強くしていくためです。人間革命していくためです。
 信心しているからこそ、また、忙しいからこそ、これまで以上に効率よく、よい仕事を成し遂げなくてはならない。
 その戦いを起こすことによって、自分を向上させることができる。だから、学会の諸行事は、人間錬磨の道場になっていくんです」
8  潮流(8)
 山本伸一が、皆に仕事の状況を尋ねていくと、会社を辞めて、コンベンションの手伝いに来たという青年がいた。
 青年は、不満そうな顔で語った。
 「その会社は、給料もあまりよくないし、私の力を認めようとしません。上司も、私の勤務態度が悪いとか、文句ばかり言います。
 題目をしっかり唱え、このコンベンションで頑張って、福運をつければ、もっとよい仕事に就けると確信しています」
 伸一の顔が曇った。本当の信心とは何かを語っておかなければならないと思った。
 「辞めてしまったものは仕方がないが、その考えは誤りです。もちろん、唱題し、学会活動に頑張ることは大事です。
 しかし、懸命に働かず、ただ信心に励めば、もっとよい仕事が見つかるなどというのは、現実から逃げている姿です。その姿勢では、どんな仕事に就いても、同じ結果になるでしょう。
 『信心は一人前、仕事は三人前』やりなさいと、戸田先生は言われた。それが学会員の生き方です。また、大聖人は『みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ』と仰せになっている。
 自分の仕事を法華経の修行であると思って、全力で取り組みなさいと言われているんです。
 職場の第一人者となり、信頼を勝ち得ながら、信心に励んでいくなかに、自身の成長があるんです。私もそうしてきました。連日のように深夜まで働きに働き、戸田先生の会社を支えてきたんです」
 伸一は、メンバーが、安易な、誤った信仰観に陥ることを憂慮していた。
 日蓮仏法は人間革命の宗教である。自身の生命を磨き鍛えて、強く賢明にし、いかなる困難にも雄々しく挑戦し、勝利していくための信仰なのだ。
 伸一は、青年に、こう尋ねた。
 「ところで、君は水泳は上手なの?」
 「いいえ、あまり得意ではありません」
 「もし、君が水泳大会に出ることになったとしよう。優勝するために何をするかい」
9  潮流(9)
 山本伸一の質問に、青年は答えた。
 「そうですね。水泳大会で優勝したいと思ったら、まず懸命に練習をします」
 伸一は、頷いた。
 「それから?」
 「あとは、より効率のよい練習方法を研究するなど、いろいろ対策を立てます。もちろん、題目も懸命に唱え、勝利を祈念します」
 「それが本来の在り方です。
 信心していれば、満足に泳げなくとも、優勝できるなんていうことはありません。
 仏法というのは道理なんです。努力もせず、成功を願うのは、仏法者の生き方ではない。もし、それが仏法の教えなら、人間を怠惰にし、堕落させてしまいます」
 青年は真剣な顔で、伸一を見つめ、話に耳を傾けていた。
 「職場にあっても、学会員ならば、誰よりも懸命に働き、そして、能率を上げ、よい仕事をするために、研究、工夫していくことです。そのための強い生命力と智慧を涌現していくのが信心であり、唱題なんです。
 仕事である限り、大変な労働もあれば、人間関係の問題など、苦労もたくさんあるでしょう。しかし、職場は自分を磨く人間修行の場であるととらえることです。
 そこで頑張り抜いて、職場の第一人者になり、周囲の人びとの信頼を勝ち取っていくことが大事なんです。その結果として、会社での実績、評価も向上し、給料も上がっていく。そうなれば、自分のいる職場が最高の職場であると思えるようになります。
 また、毎朝の勤行では、″今日も最高の仕事をし、職場の勝利者となり、信心の力を証明してまいります″と、決意の祈りを捧げるんです。それによって、自身の最大の力と智慧を発揮していくことができます。
 就職が決まったら、今度は、そういう心で頑張り抜き、職場の勝利者になっていくんだよ。それが学会精神です」
 「はい!」
 明るい声が、はね返ってきた。
10  潮流(10)
 山本伸一はコントロールセンターから、ワイキキの浜辺に案内された。
 浜辺から、数十メートルほどの海上に、火山をかたどった人工の島が浮かんでいた。その上で、何人もの人が作業に励んでいた。
 伸一を案内していた、アメリカの理事長が説明した。
 「あの浮島が今回のコンベンションのステージです。浜辺全体が観客席になります。舞台の横幅は三十メートル、奥行きは四十五メートル、高さが二十一メートルあります。
 全体を火山の形にして、噴火もさせるようにしています。また、舞台の上には、大スクリーンを取り付けます」
 浮島は、ステージ部分と、後方の機械コントロール部分からなり、後方には各種の機器設備や発電機、出演者の更衣室や飲料水タンク、トイレなども設置されているという。
 確かに大がかりで、斬新な計画だが、作業に従事するスタッフの労力も、大変なものがあったにちがいない。伸一は、それが心配でならなかった。
 「これは、誰のアイデアですか」
 伸一が尋ねると、理事長は、誇らしげに胸を張って答えた。
 「私です。アメリカ人は、こうしたことが大好きなんです」
 伸一が口を開いた。
 「みんなに相当な負担がかかっていると思うが、本当に問題はないのかい。
 毎年のことなんだから、派手で奇抜な、大がかりな舞台をめざすのではなく、内容面での充実に力を注ぐ努力をすることです。
 メンバーは純粋です。皆、献身的に準備にあたってくれる。しかし、それを当然のことのように考え、過重な負担を強いるようなことが続けば、どこかで、その弊害が生じるものだ。事故も起こりかねない。
 『一将功成りて万骨枯る』ような事態は、絶対に避けることだ。守るべきはメンバーだ」
 こう語る伸一の口調は厳しかった。得意げであった理事長の顔色が変わった。
11  潮流(11)
 山本伸一は、アメリカの理事長に尋ねた。
 「この催しの責任者は誰ですか」
 「ジェイ・ハーウェルというアメリカの本部職員が、コンベンション全体のプロデューサーです。また、舞台設営の責任者は、職員のチャーリー・マーフィーです」
 「その人たちは、いつごろからハワイに来て、準備を始めたんですか」
 「五カ月ほど前からです」
 「彼らをはじめ、準備にあたってくれているメンバーに、『ありがとう。くれぐれもよろしく』と伝えてください。これだけのものをつくり、準備しているのだから、心の休まる時などなかったにちがいない。
 そうした人たちあってのコンベンションです。この真心に、この労苦に、断じて応え、皆が人生の大勝利を飾る飛躍台となるコンベンションにしなければならない。
 また、ハワイから、平和と人間主義の潮流を起こすコンベンションにしていかなければならない。
 そのために私は、全力で戦います。皆の心に、幸福と平和への決意の魂を打ち込んでいきます。そこに、このコンベンションの本当の目的がある。
 それがなければ、大がかりな浮島も″壮大なる空虚″になってしまう」
 学会のさまざまな行事、催しは、魂を触発し、人間の精神に寄与するためにあるのだ。
 伸一は、海上の浮島を見つめながら、感慨をこめて語った。
 「皆、コンベンションに間に合わせるために、あの浮島で、今も不眠不休で懸命に作業に励んでいるんだろうな……。
 浮島をつくるという困難このうえないことを現実化するために、どれほど悩み考え、苦心し、汗を流してくれたことか。その苦労を思うと、私は涙が出てくるんです。
 皆、広宣流布のため、世界の平和のためには、労を惜しまずに尽力しようと思ってくれている。これは、ただごとではない。仏・菩薩の振る舞いです。だから最高幹部は、その方々を守り、仕えていくんです」
12  潮流(12)
 ワイキキの海に浮かぶ人工島では、ジェイ・ハーウェルが作業の進行状況を確認している真っ最中であった。
 ″いよいよ総仕上げに入るぞ!″
 ハーウェルはヘルメットの下の目を細め、浮島に立つ山の突端を見上げた。常夏のハワイの太陽が白銀に輝いていた。
 ――ここに至るまでの道程は、苦闘の連続であった。彼は、前年四月のサンディエゴ・コンベンションに続いて、このハワイ・コンベンションのプロデューサーに就いた。
 ハーウェルは、毎回、コンベンションなどの企画、製作の責任を担ってきた。
 彼の周囲には、音楽、衣装、舞台装置などを担当できる優秀な人材がそろっていた。皆、プロではなかったが、文化祭などのスタッフとして経験を重ねるなかで、技術を身につけてきたメンバーであった。
 チームワークは抜群であった。
 ハーウェルの胸には、闘魂が燃え盛っていた。彼には、強い信念と確信があった。
 ″華やかで美事な舞台を成功させるには、陰ですべてを支える土台や柱の存在が必要だ。自分は、その「陰の力」に徹し抜こう。陰の苦労を、山本先生は誰よりも知ってくださっているのだから……″
 彼には、忘れられない思い出があった。
 ロサンゼルス・コンベンション(一九七二年)の時、大規模な文化祭を初めて任された彼は、神経をすり減らしながら奮闘した。文化祭の最中は音響調整室にいた。
 会いたくて仕方なかった会長の山本伸一の姿も、斜め後方から見ることしかできなかった。
 文化祭が終わって、後片付けをしていると、日本の幹部が来た。
 「先生からの贈り物です」
 こう言って、大きな胸章を手渡した。伸一が胸に着けていたものであった。
 ″先生は、何もかもご存じなんだ!″
 ハーウェルは胸が熱くなった。
 以来、「陰の力」として生きることが、彼の誇りとなったのである。
13  潮流(13)
 一九七三年(昭和四十八年)五月、山本伸一がトインビー博士との対談などのためにイギリスを訪問した時、ジェイ・ハーウェルも訪英した。
 同じ英語圏のアメリカが諸行事の運営を応援しようということになったのだ。
 この時も彼は裏方に徹し、車の手配や警備などの仕事を買って出た。
 ハーウェルは、ホテルで、エレベーターに乗り降りする伸一を警護しようと、廊下の端から、そっと見守っていた。すると、伸一は彼に気づき、お辞儀をするのだ。
 さらに、伸一から一文を認めた本が届けられた。そこには「君の 確たる人間建設と 偉大なる仏法哲学指導者として 全米の渇仰の的となる日を 血涙を込めて 私は待ち 祈ろう」とあった。
 その三日後には、トインビー博士と伸一が対談している写真が贈られた。写真の裏には「君の この歴史的対談を 大成功に導きし陰の最大の力を 謝しつつ」と記されていた。
 ハーウェルは、こうした伸一の振る舞いのなかに、人への深い思いやり、励まし、真心、感謝を見た。そして、それが″学会の心″であることを知った。
 彼の入信の背景には、反戦運動家のエゴイズム(利己主義)を知った失望感があった。
 彼はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)在学中、ヒッピーの反戦運動に参加した。人間性を侵食し、ベトナム戦争などの戦いに人びとを駆り立てる既存の社会体制、価値観からの脱却をめざしたのだ。
 近代合理主義を拒否し、自然に帰ろうと、髪もヒゲも伸ばし放題にした。そして、マリフアナやLSDに浸りながら平和を夢見た。
 大学卒業後は、ヒッピーが集まるサンフランシスコのヘイトアシュベリーに住んだ。
 しかし、ヒッピーの反戦運動家と付き合っていくなかで、ハーウェルは大きな矛盾に突き当たった。彼らは口では愛と平和を叫び、理想の社会を築こうと主張しながら、実は多くの人たちが自己中心的であった。
 互いに憎み合い、暴力さえ平気で行使していた。
14  潮流(14)
 ジェイ・ハーウェルには、ヒッピーたちが訴えてきた「平和」や「愛」は、自分たちのエゴイズムや弱さ、甘えをカムフラージュするための謳い文句のように感じられてならなかった。そこには、本当の「平和」の建設も、「愛」もないと感じた。
 ハーウェルは幻滅し、裏切られた思いでヒッピーの世界から離れていった。ただ、空虚感と深い疲労感だけが残った。
 彼はロサンゼルスに戻り、タクシーの運転手になった。ある日、同僚に誘われ、学会の座談会に参加した。
 そこには世代を超えた老若男女の、家族的な温かい人間の連帯があった。皆が真剣に、人びとの「幸福」と「平和」のために生きようとしていた。現実と遊離した観念的な運動ではなく、生活に根差した堅実な社会建設の運動があった。
 また、人間革命の道を説く仏法の教えも、納得のいくものであった。
 彼は入信した。一九六七年(昭和四十二年)八月、二十二歳の時のことである。
 やがて彼は、航空産業の関連企業に技師として勤め、その後、アメリカの本部職員となったのである。
 そして、さまざまな行事の陰の力として奮闘するなかで、山本伸一から、あの数々の激励を受ける機会に恵まれたのだ。
 大詩人ホイットマンは語った。
 「私は、いつもは表に現れない、忘れられたような陰の人々に大きな尊敬の念を持っている。結局は、そのような目立たない無名の人たちが一番偉いんだよ」
 ハーウェルは、伸一の行動のなかに、同じ信念を見た。どこまでも一人ひとりを大切にしようとする、人間としての至誠を感じた。その行動にこそ、万人が「仏」の生命を具えていると説く仏法思想の実践があり、それは、人間のエゴイズムの対極にあるものだと思った。
 さらに、学会の運動のなかに、真実の「平和」の道があるとの確信を深めていった。
15  潮流(15)
 「ブルー・ハワイ・コンベンション」のプロデューサーに就いたジェイ・ハーウェルは、今回の催しを通して、SGIの世界平和への精神を、ハワイから、全米、全世界に伝えていこうとの決意に燃えていた。
 彼は、この一九七五年(昭和五十年)の一月にグアムで行われた、SGIの結成となる第一回「世界平和会議」の席上、山本伸一の見守るなか、平和宣言を発表している。
 そこには「生存の権利は、人種、民族、言語、風俗の相違を超え、すべての人間に固有で、かつ不可侵の権利である」ことが示され、この権利の回復と拡大のために、恒久平和の実現をめざすことが謳われていた。
 ハーウェルは、その精神を、コンベンションで表現したいと考えたのだ。
 今回のコンベンションの計画は、壮大なものであった。人工の浮島の大ステージを造ることに始まり、民族文化の尊重を表現するためのポリネシア村の建設、アメリカ各地のメンバーによるフロート(山車)を使った大パレードなどが企画されていた。
 当時のアメリカの組織の規模は、日本の大きな県ほどであった。その組織で、これらのすべてを製作・推進するのだ。
 しかも、こうしたコンベンションが、毎年、続けられてきただけに、メンバーの負担は重なっていた。作業に従事する人員を確保するだけでも容易ではない。また、今回の計画を実行するには、州や市・郡の関係各局をはじめ、たくさんの許可が必要になる。
 ″許可は下りるのか。限られた時間のなかで、本当に準備できるのだろうか……″
 ハーウェルの不安は尽きなかった。
 しかし、彼は、無理難題が山積したような、この状況のなかで、挑戦の気概を、赤々と燃え上がらせていた。
 青年の挑戦心こそが、不可能を可能にし、時代を変えていくのだ。
 「まず、挑戦してみることだ。挑戦なくして、成功は決してありえないのだから」
 第十六代大統領リンカーンの箴言である。
16  潮流(16)
 プロデューサーのジェイ・ハーウェルをはじめ、舞台のデザインや設営を担当する「ステージ・クルー」などのメンバーが、本格的な準備に入ったのは、一月にグアムで行われた世界平和会議が終了した直後であった。
 彼らは、コンベンションの五カ月ほど前からハワイ入りした。
 作業場はホノルル空港の近くにある四十一番桟橋と、その近くの大きな倉庫である。そこで浮島の装飾やパレードのフロート、ポリネシア村の家々などの設営作業が行われることになる。
 ハーウェルと舞台設営の責任者を務めるチャーリー・マーフィーらが真っ先に行わなければならなかったのが、浮島という奇想天外なアイデアの実現を引き受けてくれる、建設業者を探すことであった。
 だが、この問題は、ほどなく解決した。「やりましょう」という業者が見つかったのだ。
 巨大なクレーンなどの作業台にする台船を二隻用意し、浮島を造ることになった。しかし、それでも、まだ小さいために、高速道路の建設に使う鉄骨で、ステージを広げることにした。
 彼らを最も悩ませたのは、ホノルル市・郡、ハワイ州、ワイキキ・ホテル・オーナーズ協会、港湾管理者などから、許可を得ることであった。まず、市・郡、州のそれぞれの役所を回って、担当の責任者に話をした。
 「そういう催しは、ほかの場所でやっていただきたい」
 どこも、けんもほろろの応対であった。
 ハーウェルはアメリカ本部に報告した。
 「許可は下りません。この際、開催場所を変更するしかないと思いますが……」
 返ってきたのは、「どうしてもワイキキでなければ駄目だ」という答えであった。
 ″よし、唱題で乗り越えてみせる!″
 彼らは決意した。闘魂が燃え上がった。
 日蓮大聖人は「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」と仰せである。題目に勝る力はない。
17  潮流(17)
 行き詰まったら原点に返ることだ。唱題から出発するのだ。妙法は宇宙の根源の法なるがゆえに、妙法への祈りこそ、一切を動かす原動力となるのだ。
 ジェイ・ハーウェルたち、コンベンションのスタッフは、作業場の倉庫で、御守り御本尊に向かって、懸命に唱題した。
 州政府の担当の責任者とは、日をあらためて会うことにしていた。地元の幹部であるヒロト・ヒラタらも、誠意を尽くして、関係各所の説得に回ってくれた。
 数日後、ハーウェルらは、担当の責任者と会い、コンベンションの意義と歴史、また、SGIの目的などを説明していった。
 担当の責任者は、前回とは打って変わって、にこやかに頷きながら、彼らの話を聞いていた。意外であった。
 そして、彼らが、なんとしてもワイキキで行いたいと頼むと、「オーケー、許可します」との言葉が返ってきた。
 あまりにも、あっさりと許可が下りてしまったのである。
 彼らは喜びより、驚きの方が大きかった。
 「本当にワイキキでコンベンションを行っていいんですね」
 「はい。成功を祈っております!」
 担当の責任者は、SGIのことについて調べていた様子であった。
 そのなかで、一月に山本伸一がハワイを訪問し、州知事と会見したことなども、わかったようだ。また、州知事の力添えもあったのかもしれない。
 さらに担当の責任者は、市・郡の担当者にも電話を入れ、ワイキキでの開催を認めるように口添えしてくれた。
 ″諸天善神が動いた! 題目はすごい!″
 ハーウェルたちは、確信を深めた。
 人生には、さまざまな困難や試練があるものだ。その時、″題目ですべては乗り越えられる″という、学会活動のなかで培った体験が大事になる。それが、何ものにも負けない不動の確信を生む源泉となるのである。
18  潮流(18)
 いよいよコンベンションのための製作作業が開始された。
 製作する物は、膨大な量に及ぶ。浮島を覆い尽くす火山の形をした装飾や、パレードのフロート、ポリネシア村に建てる、昔ながらの島の家等々である。
 限られた設営役員だけでは、とうてい製作することはできない。したがって、何よりもほしいのは人手であった。
 アメリカ本土では、メンバーに、「ハワイに行って作業を手伝ってほしい」と呼びかけていたが、果たして何人が来るのか、予想もつかなかった。休みを取るだけでも容易ではない。そのうえ、ハワイ往復の飛行機代や宿泊の費用も捻出しなければならないのだ。
 ″果たしてメンバーは、手伝いに来てくれるのだろうか……″
 舞台設営の責任者であるチャーリー・マーフィーたちは、不安をいだきながら、作業を開始した。だが、彼らの心配はすぐに吹き飛んだ。全米からメンバーが、続々と手伝いに来てくれたのだ。
 「なんでもやりますから、どんどん指示してください。力を合わせてコンベンションを大成功させましょう!」
 その元気な言葉に、設営のスタッフたちは大きな勇気を得た。
 メンバーは、ハワイに滞在して作業に励み、喜々として帰っていった。仕事をやりくりして、何度も来てくれた人もいた。メンバーの数は、少ない時でも三十人ほどおり、多い時には、千人にも上ったのである。
 年齢層も、人種もさまざまであった。皆が世界の平和を願い、山本伸一のハワイ訪問を思い描いて、懸命に働いた。
 メンバーのほとんどは素人であったが、なかには各分野の熟練者もいて、作業の進行を大いに助けてくれた。
 かつて、ケネディ大統領は、こう訴えた。
 「結束すれば、多くの新しい、協力して行なう冒険的事業において、不可能なことはなにもない」
19  潮流(19)
 コンベンションの三カ月ほど前になっても、関係各所の協力や許諾を得なければならないことが、たくさんあった。米軍の太平洋艦隊にも、音楽隊の出場などを要請しなければならなかった。
 あの太平洋戦争は、一九四一年(昭和十六年)十二月八日(アメリカ時間の七日)、このハワイにある真珠湾(パール・ハーバー)への、日本軍による奇襲攻撃で幕を開けた。
 今回のコンベンションには、世界初の原爆が米軍によって投下された広島からも、代表が参加する。
 それだけに、太平洋艦隊の音楽隊にも出場してもらうことによって、かつての憎悪と反目を克服した平和の縮図を、コンベンションで示したかったのである。
 その交渉にあたったのが、広報・渉外を担当する、アメリカ本部の職員のギル・マクローリンであった。
 彼は、米太平洋艦隊を統括する太平洋軍の司令官と会い、懸命にコンベンションの意義を訴えた。司令官は、協力を快諾してくれた。
 難問を一つ一つ克服し、準備は進んでいった。設営メンバーは、開催日が近づくと、睡眠時間を削って作業に励んだ。
 催しは七月二十五日から三日間である。約五カ月を要する準備期間からすれば、コンベンションは、瞬く間に終わってしまうといえるかもしれない。しかし、メンバーは確信していた。
 ″花の咲く期間は短くとも、美しい花を見た感動は、いつまでも人びとの心に刻まれる。
 このコンベンションという人間共和の花園を見た感動も、末永く人びとの心に残るにちがいない。それは、平和の尊さを知り、学会を、仏法を理解する契機になる……″
 そして、こう誓い合うのであった。
 「自分たちは、その花を支える、枝に、幹に、根っこになろう」
 限界に挑み、共に苦楽を分かち合いながらの作業のなかで、メンバーには広宣流布の「戦友」ともいうべき絆がつくられていった。
 共戦こそ、人間と人間を結合させる最も強い磁力となる。
20  潮流(20)
 山本伸一がハワイに到着する前日の、七月二十一日朝のことであった。
 ビルのように組み上げられた鉄骨を積んだ台船が曳航され、ワイキキの海原を静かに進んでいった。コンベンションのステージとなる浮島の運搬である。
 浜辺に立つホテルの六階から、プロデューサーのジェイ・ハーウェルや「ステージ・クルー」と呼ばれる役員たちが、固唾をのんで、台船の曳航を見ていた。ここは、浮島での行事の指揮室となる部屋であった。
 浮島は、ホノルル空港近くの四十一番桟橋で、二つに分けて造られ、コンベンションが行われるワイキキの海で、合体させることになっていた。
 曳航を依頼された会社にとっても、これだけの大きな物を牽引するのは初めてである。
 波が三フィート(一フィートは、約三十センチ)以上ある時に、組み上げた鉄骨を積んだ台船を運ぶことは危険である。
 当初、浮島の移動は、全米総会が行われる三日前の二十三日の予定であった。しかし、この日は、波の高さは六フィートとの予報が出ていた。やむなく二日早めて、この二十一日の曳航となったのである。
 作業は、早朝から始まった。波、風ともに穏やかな日であった。
 自然を守るために、珊瑚礁のない航路を選んで、慎重に運搬した。浮島を設置する場所も、珊瑚のない砂地を選んだ。
 指揮室に詰めかけたスタッフたちは、運ばれてくる台船を見ながら、突然の強風で横転したり、事故が起きることのないよう、心で必死に題目を唱えていた。
 彼らの合言葉は、「唱題第一」であった。浮島の企画は、すべて新たな試みである。いつ、どんな事故が起こるかわからない。
 人種差別撤廃の闘士であったキング博士は、「油断をしないでいる能力」の大切さを語っている。絶対無事故を誓っての唱題こそ、神経を研ぎ澄まし、油断を排していく根源の力となるのだ。
21  潮流(21)
 ワイキキの海に、突然、現れた巨大な物体を、観光客は興味津々の面持ちで見ていた。
 台船の位置が決まり、浮島ステージが無事に設置されると、浜辺から歓声があがった。
 ホテル六階の指揮室に詰めていたスタッフも、その瞬間、皆で握手を交わし合った。
 浮島での突貫作業が始まった。鉄骨を積んだ台船の島は、一夜明けた時には、岩山がそびえる島に変わっていた。
 ――山本伸一がワイキキの浜辺で浮島の説明を受けていたころ、メンバーは設営作業の総仕上げに、全力を注いでいたのである。
 その浮島に一艘のボートが近づいていた。地元テレビ局が取材にやってきたのだ。
 ニュースキャスターらが浮島に上がった。責任者の話を聞きたいという。
 カメラが回り始めた。突然の取材である。広報関係のスタッフが不在であったために、舞台設営の責任者であるチャーリー・マーフィーが応対した。
 キャスターは、「メンバーは、どこから集って来るのか」「全部で何人集まるのか」「どうして仏教徒が、アメリカの建国二百年を祝うのか」などを尋ねたあと、皮肉めいた口調で言った。
 「こうした浮島を造るには、相当の費用がかかっていると思います。そのお金を、ベトナムの孤児とか、世界の恵まれない子どもたちを助けるために使おうとは思いませんか」
 マーフィーは確信をもって答えた。
 「そうした活動も、もちろん大事です。
 でも、そのためには、市民の一人ひとりが、勇気と希望をもって、平和のために行動していこうという心を、呼び覚ましていくことが必要です。つまり、多くの市民に、生命の輝き、生命の尊さを伝え、平和への決意を触発するメッセージを送ることです。
 それがあってこそ、平和への大きな潮流が広がっていきます。その催しこそが、このコンベンションなんです」
 彼の回答にキャスターは納得したようだ。
22  潮流(22)
 民衆こそが、社会を建設する主役である。そして、科学も、宗教も、芸術も、すべては民衆のために、人間のためにある。
 チャーリー・マーフィーは、平和運動の本当の広がりは、民衆が平和のために立ち上がり、日々の生活のなかで、差別や偏見、憎悪を克服し、あらゆる人びとが信頼と友情で結ばれるなかにあると考えていた。
 彼が、こうした考えをもつようになった契機は、山本伸一の著作との出合いであった。
 マーフィーは、七年前の一九六八年(昭和四十三年)、美術大学の一年生の時に、学友に勧められて信心を始めた。
 彼は、経済的には不自由はなかったが、常に心に空虚さをかかえていた。そのころ、学友が入信し、日ごとに明るく、はつらつとなっていく姿を目の当たりにして、自分も入信したのである。
 そして、アメリカの創価学会に音楽隊があることを知った。小学生の時からフルートを習ってきた彼は、すぐに入隊した。
 音楽隊では、練習のたびに、山本会長が音楽隊に贈った指針の英文を、皆で朗読した。
 「古今を問わず、いずこの国も、いずこの民族も、民衆が幸福と平和をめざして、生き生きと立ち上がっていくときには、その根底に必ず、新しい偉大な思想哲学があった。
 そして、その偉大な哲学の実践は、とうとうと流れる大河のごとく、民衆の息吹きとなり、躍動となって、必ず偉大なる音楽とあらわれ、その民族の大いなる前進のエネルギーとなってきたのである」
 さらに、「清純にして、怒濤をも打ちくだく情熱と、信心のほとばしる音律こそ、大衆の心を打たずにはおかないとの、強き強き確信をもって前進されたい」とあった。
 マーフィーは、芸術は芸術家の内面世界を表現するためのものであり、一般大衆を相手にするものではないと思ってきた。
 しかし、「民衆」が主人公だというのだ。衝撃を覚えた。自分のエゴが打ち破られた思いがした。
23  潮流(23)
 チャーリー・マーフィーは、″民衆のための音楽″という、音楽隊に対する山本伸一の指導は、芸術すべてに通じると思った。
 ドイツの大詩人シラーは述べている。
 「あらゆる芸術は人に喜悦を与えるためのものである。しかも、人間を幸福ならしめることこそ、最高のそして最も厳粛な仕事なのである」
 マーフィーは、芸術に限らず、科学、教育、政治など、文化のすべてが、人間のため、民衆のためにあり、民衆こそが時代を建設する力なのだとの確信を深めていった。この考えは、彼の信念となっていった。
 そして、学会の文化祭の舞台設営などを担当する際にも、民衆による平和の創造ということが、彼の一貫した根本のテーマとなっていたのである。
 だから、テレビ局のインタビューに答えた時にも、その考えに基づいて意見を述べたのである。
 彼は、時間があれば、もっと訴えたいことや見てほしいことが、たくさんあった。
 ″設営作業にあたっているのは、みんなボランティアです。メンバーには、アフリカ系も、ヒスパニック(スペイン語を話す中南米系)も、日系も、中国系もいます。
 その人たちが心を一つにして団結し、人類の平和と幸福を願って汗を流しています。そのなかに、アメリカ社会がめざしつつも、実現できずにいる、人間共和の縮図があります!″
 ″みんな今は、不眠不休で作業に励んでいます。しかし、活力にあふれています。 文句を言う人など誰もいません。
 人に言われたからではなく、自らが主体的に作業に参加しているからです。信仰によって使命を自覚した民衆の力は偉大です。それをよく見ていただきたい!″
 彼は、こう叫びたかった。
 しかし、テレビ局の取材班は、自分たちの聞きたいことだけ聞くと、帰っていった。
 「ブルー・ハワイ・コンベンション」は、マスコミをはじめ、人びとの注視のなかで、着々と準備が進められていった。
24  潮流(24)
 山本伸一が、コントロールセンターを視察した七月二十三日には、日本での夏季講習会に参加していたアルゼンチンのメンバーや、広島のメンバーなど、交流団が次々と到着した。
 この夜、伸一は、交流団の代表を宿舎のホテルに招いて、懇談のひと時をもった。
 最初にアルゼンチンの代表に声をかけた。
 「遠いところ、大変にご苦労様です。もっと時間を取って懇談したいのですが、その時間がないもので申し訳ありません」
 そして、用意しておいた土産を手渡すと、力を込めて語り始めた。
 「せっかくの機会ですので、信心の要諦について、話をさせていただきます。
 信心したからといっても、人生に平坦な道などありません。むしろ、苦楽の起伏があり、波浪も逆巻くのが、人間社会の実相です。苦しいこと、辛いこと、悲しいことがあって当然です。
 その時こそ、ただひたすら、題目を唱え抜いていくんです。そうすれば、仏法の法理に照らして、必ずや打開できることは間違いない。それを生涯にわたって繰り返し、広宣流布のために戦い続けていくなかに、人間革命があり、絶対的幸福境涯を築き上げていくことができる。それが信仰の道です。
 だから、何があっても、信心から離れるようなことがあってはならない。
 また、広宣流布を進めるうえで重要なのは団結です。ともすれば人間は、慣れてくるとわがままになり、自分のエゴが出てくる。そして、派閥をつくったり、組織を自分のために利用しようとするようになる。
 それが、大聖人が仰せの『外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし』の姿なんです。
 わがままな自分と戦い、広宣流布のために心を合わせ、団結していこうという一念のなかに、信心の血脈がある。仲良くしていくことが、信心の鉄則です。
 今日は、この点を確認しておきます」
25  潮流(25)
 山本伸一は、さらに広島の代表にも語りかけた。
 「広島の皆さんは、よく頑張ってくださった。しかし、本格的な戦いはこれからです。
 広島といえば、平和の原点ですが、その平和を創造するための生命の哲学を発信していけるのは、私たちしかいません。
 ″原爆は悲惨である。戦争なんて絶対に起こしてはならない″ということは、誰もが思う。では、″そのために、どうしていくのか″″いかなる哲理が必要なのか″ということになると、皆、あいまいになってしまう。
 だから、今こそ、万人が『仏』の生命をもち、尊厳無比なる存在であることを説いた仏法を、慈悲の哲理を、世界に伝え抜いていかなければならない。
 そうでなければ、平和運動といっても、画竜点睛を欠き、迷走していくことになりかねない。そして、平和創造の使命を担う中核となるのが、広島の皆さんです。今年は、その新しい出発の年だ」
 実は、この年の十一月、広島で第三十八回となる本部総会が開催されることになっていたのである。
 「私は広島の皆さんに期待しております。平和といっても、広宣流布といっても、すべては対話から始まります。徹底して語り合うことです。私もそうしてきました。人間として語らいを進めてきました。
 その結果、宗教との共存は難しいと言われてきた共産主義の国の指導者も、正しく学会を理解するようになりました。
 対話には勇気が必要です。さらに、粘り強さが大事です。そこから相互理解が始まり、共感も生まれていきます。広島の皆さんは、どうか『対話の勇者』となって、世界に本当の平和思想を広げていってください」
 伸一は、さらに一人ひとりの名前や仕事などを尋ね、激励を重ねた。そして、共に記念のカメラに納まったのである。
 人は励ましによって使命を自覚し、奮い立っていく。指導者とは、わが生命を注ぎ尽くして、励まし続ける人のことである。
26  潮流(26)
 広島のメンバーは思っていた。
 ――世界初の原爆投下の地である広島の私たちと、日米開戦の地・ハワイの人びとが友情で結ばれるなかに真実の平和がある。「ヒロシマの心」とは「平和の心」であり、それは「創価の心」だ。
 だから、私たちには、世界平和への波を起こしていく使命がある。
 山本伸一の指導に決意を新たにしたメンバーは、早速、ハワイの人びとと、盛んに対話を交わしていった。ワイキキの浜辺でも、周囲の人たちに気さくに声をかけた。
 なかでも婦人部は最も積極的であった。といっても、自在に英語を操れるわけではない。しかし、身振り、手振りの語らいで意思の疎通が図れることが少なくなかった。
 「アイ、私ね、フロム・ヒロシマ。ユー・ノウ・ヒロシマ? 原爆、ピカドンね」
 話しかけられた相手の婦人は「オオッ、ヒロシマ!」と言って頷いた。
 さらに、「ユーは、ジャパニーズに似とるが、どこから来ちゃったんかね」と、何度か尋ねると、「コリア」との答えが返ってきた。
 「はあはあ、氷屋さんね。近くで氷屋さんをやっとってんじゃ。今度、行くけえ」
 相手の婦人は、氷店を営んでいるわけではない。韓国から来た観光客であった。
 こんな誤解はあったものの、語らいを通して、「平和を実現していこう」というメンバーの心意気は伝わり、時には住所を交換したりしながら、固い握手を交わして別れるのであった。
 仏法者としての使命感が、言葉の壁を超えて、心の交流を可能にしたのだ。
 友の心の扉を開く力の源泉は、懸命な一念である。使命に燃える、躍動する生命である。
 メンバーのなかには、何人もの被爆者がいた。広島グループの団長を務める徳田信八郎も、尋常小学校の六年の時に、故郷の長崎で被爆した。
 爆心地から二キロ半ほどのところにある家での被爆であったが、山の谷間にあったために、命拾いしたのである。
 学校の校庭では、来る日も来る日も死体が焼かれ、異臭はいつまでも消えなかった。
27  潮流(27)
 長崎で被爆した徳田信八郎は、青年時代を大阪で過ごし、やがて、学会の広島県の中心者として活動するようになる。
 徳田は、そのなかで、自分は仏法者として、原水爆の禁止を、世界の平和を、叫び抜く使命をもって生まれてきたのだという、深い自覚をもつようになった。
 人は「宿命」を「使命」に転じた時、一切を転換する無限の力を発揮する。
 また、メンバーのなかに、松矢文枝という婦人がいた。彼女は結婚し、身ごもっていた時に、ヒロシマの爆心地から、一・五キロのところにあった自宅で被爆した。家のガラスは砕け散ったが、幸いに怪我は免れた。
 しかし、実家の母も、妹も、亡くなった。彼女は十月に長男を出産したが、子どもは病気を繰り返した。「小学校に上がるまで生きられないだろう」と医師は告げた。
 彼女自身も貧血やリウマチなど、七つもの病で苦しみ続けた。目まいや痛みに悶えながら、原爆を落としたアメリカを呪った。
 長女も生まれたが、やはり、貧血で苦しまなければならなかった。
 長男が十歳の時、松矢文枝は、創価学会に入会した。一九五六年(昭和三十一年)三月のことである。体の弱い子どもたちが、元気になってほしいとの一心からであった。
 その翌年の九月八日、彼女は、横浜・三ツ沢の陸上競技場で行われた、青年部東日本体育大会「若人の祭典」に参加することができた。そこで、戸田城聖の、あの「原水爆禁止宣言」を聞いたのである。
 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」
 「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」
 その一言一言が彼女の胸に突き刺さった。
28  潮流(28)
 戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を、松矢文枝は、身の震える思いで聞いた。
 彼女は、帰りの列車のなかで、こう決意したのであった。
 ″被爆者である私には、原爆の悲惨さを訴え、平和のために尽くし抜いていく使命があったのだ。
 仏法を持った私がすることは、アメリカを憎むことではない。この弱い体を元気にして、原爆を使用することは絶対悪であるという戸田先生の思想を、生命の尊さを説く仏法を、弘め抜いていくことだ″
 松矢は、被爆という宿命を使命に転じて、決然と立ったのである。いや、松矢だけでなく、それが広島の、また、長崎の同志たちの決意であったのだ。
 仏法では「願兼於業」(願、業を兼ぬ)と説く。自ら願って、悪世に生まれて妙法を弘通することをいう。
 われらは本来、末法濁悪の世に妙法を弘めんがために出現した、地涌の菩薩である。そのために、自ら願い求めて、あえて苦悩多き宿命を背負い、妙法の偉大さを証明せんと、この世に出現したのだ。
 ゆえに、地涌の菩薩の使命に目覚め、広宣流布に生き抜くならば、転換できぬ宿命など、絶対にないのだ。
 松矢は、喜々として広宣流布に励むようになると、日ごとに、元気になっていった。
 また、胎内被爆した長男は、中学生になると、皮膚や粘膜に出血を起こす紫斑病を発病したが、やがて、それも克服することができた。
 学会活動のなかで、彼女が心掛けてきたことは、自分の接した人を大切にすることであった。そこに、仏法の実践があり、平和への道があると、彼女は考えたからだ。
 そして、そのために、人の長所を見いだせる自分になろうと思った。
 それには、自分を磨くしかないと結論し、常に唱題を重ねてきた。自分の生命が澄んだ鏡のようになれば、人の長所が映し出されるからだ。
 一個の人間の、自分自身の「人間革命」から、「世界の平和」が始まるのである。
29  潮流(29)
 広島のメンバーは、滞在中、親善友好のために、ホノルル市庁をはじめ、ハワイ州政庁、ホノルル市・郡議会、日本人商工会議所、新聞社のハワイ報知社などを訪問した。
 広島市はホノルル市と姉妹交流を推進しており、一行の訪問によって、友好の絆は一段と深まった。
 また、メンバーは、日米開戦の舞台となった真珠湾や、第二次世界大戦の戦没者などが眠る、パンチボールの太平洋国立記念墓地も訪れた。
 墓地では、平和への深い祈りを込めて、題目を三唱した。
 近くに、墓に花を手向け、祈りを捧げる、初老の婦人の姿があった。
 婦人は、青い目をした彫りの深い顔立ちのアメリカ人であった。太平洋戦争で夫を亡くした人なのだろうか。
 一行は、帰ろうとする婦人とすれ違った。誰からともなく、「アローハ!」(こんにちは)とあいさつした。すると、彼女も、「アローハ!」とあいさつを返し、ニッコリと微笑んだ。皆、心が通い合った気がした。
 去っていく婦人の後ろ姿を見つめながら、メンバーは語り合った。
 「あの人も、日本人を憎んだことがあったんじゃろうね」
 「そうじゃろうね。ハワイは、日系人が多いけぇ、交流を重ねていくなかで、憎しみがとけていったんじゃないかね」
 「人間と人間が、触れ合うことが大事じゃね。そうすりゃ、同じ人間として理解し合える。あの人も、私たちも、同じ戦争の被害者じゃ。平和を願う同胞じゃ」
 「被爆地である広島の私たちが戦う相手は、アメリカとか、アメリカ人じゃない。
 人間に巣食う魔性の生命じゃ。ほいで、その魔性を打ち破り、人間の心に、平和の砦をつくることができるのが仏法じゃ。じゃけん、私らの使命は大きい」
 広島の同志は、平和への誓いを、強くかみしめるのであった。
30  潮流(30)
 七月二十四日、山本伸一は、峯子と共に、全米総会を記念して造られた庭園の開園式に出席したあと、ハワイに到着したブラジル、ペルーの代表を宿舎に招いて、懇談のひと時をもった。
 伸一は前年の三月、ブラジルを訪問する予定で日本を発ったが、入国のビザ(査証)が下りず、やむなく訪問を断念した。そして、急遽、予定を変更し、最初の訪問地であるアメリカから、パナマを初訪問したのである。
 それだけに、自分の訪問を待ちわびていたブラジルのメンバーの気持ちを思うと、かわいそうでならなかった。
 彼は、この日、日本の来賓との会談もあり、スケジュールは、ぎっしりと詰まっていた。しかし、時間をこじ開けるように、懇談の機会をもったのである。
 伸一は、笑顔で語りかけた。
 「皆さんの幸福と繁栄を、いつも御本尊にご祈念しています。特に、ブラジルの同志のことは、片時も忘れたことはありません」
 すると、メンバーの一人が言った。
 「先生、本当に申し訳ございません。私たちが学会の真実を正しく示し切ることができなかったために、政府関係者の理解が得られず、先生のご訪問もなくなってしまい……。
 私たちは″必ず、国を挙げて、先生のご訪問を大歓迎するような時代を築こう″と、誓い合いました」
 「私のことより、皆さんご自身がブラジルの社会のなかで正しく理解され、信頼を勝ち得ていくことが大事なんです。
 ともあれ、すべてを変毒為薬できるのが信心です。ゆえに、『ブラジルは勝つ。大勝利します』と、私は宣言しておきます」
 「変毒為薬」(毒を変じて薬と為す)とは、大薬師が毒を薬として用いるように、苦悩を幸福へと転じていく仏法の力を示す言葉である。
 この転換の原動力こそが、信心なのだ。そして、苦悩が深ければ深いほど、その転換を通して得られる、歓喜や幸福もまた、大きいのである。
31  潮流(31)
 山本伸一の声に、力がみなぎっていった。
 「苦悩や困難こそが、実は、人生の勝利への飛躍台なんです。苦難に打ち勝とうと思えば、懸命に題目も唱えるし、何事にも必死になって取り組んでいく。そうすれば、力も出るし、自分を磨き、鍛えることができる。これが、勝利のバネになる。
 だから私は、最も大変な状況にある、ブラジルの皆さんに、あえて『おめでとう』と申し上げておきたいんです。
 ハッピーエンドの映画やテレビドラマも、艱難辛苦があるから感動を呼ぶ。皆さんは、広宣流布の大ドラマを演じているんです。大試練がなければ、物語は成り立ちません。『苦難即栄光』『苦闘即勝利』なんです」
 哲学者ヒルティは明言している。
 「苦しみを通してのみ、人生の真の使命が実現される」
 この原理は、人にとっても、各国の組織にとっても、同様であろう。
 伸一は、ブラジルの青年たちに視線を注ぎながら言った。
 「ブラジルに限らず、これまで、国や社会の理解がなかなか得られずに、苦闘しているところがたくさんあります。韓国や台湾もそうです。
 しかし、変毒為薬の仏法です。その国や地域の同志が、心を一つにして立ち上がっていくならば、必ず事態は開かれ、理解の輪は、大きく広がっていきます。
 そうしたところこそ、二十一世紀には、広宣流布は大進展を遂げるでしょう。それが仏法です。
 今、ブラジルは、大発展のための根を張り巡らしているんです。地中は暗く、根を伸ばすことは労作業です。
 しかし、根を深く張り巡らしていくならば、やがて芽も出る。茎も伸び、大きな花が咲く。時をつくり、時を待つんです。絶対に負けてはいけない」
 そして、伸一は、メンバーと共に、記念のカメラに納まったのであった。
32  潮流(32)
 七月二十五日、三日間にわたる「ブルー・ハワイ・コンベンション」の開幕の日を迎えた。コンベンションは、全米総会の前夜祭として午後八時から行われる、野外公会堂ワイキキシェルでの「ゴールデン・ハワイアン・ナイトショー」をもってスタートする。
 この日の午後、山本伸一はワイキキの浜辺近くに完成した「ポリネシア村」を訪れた。
 これは、ポリネシアの島々の文化遺産や伝統を、世界の多くの人びとに知ってもらい、理解を深める一助にしたいとの目的でつくられたものだ。
 ポリネシアは、太平洋のハワイ諸島、イースター島、ニュージーランドからなる三角形と、その周辺の島々の総称である。そこには共通の文化がある。
 伸一は二カ月前、ソ連のモスクワ大学で、「東西文化交流の新しい道」と題する講演を行った。
 そのなかで、先進国と発展途上国という区分は、経済発展度によるものであり、発展途上といわれる国々も、世界に誇るなんらかの文化的財産を保有していると訴えた。
 そして、音楽や芸術、伝統、生活様式など、さまざまな面から光を当てる時、先進国と発展途上国という評価の様相は千変万化すると、語ったのである。
 伸一の講演を読んだポリネシアのメンバーは、大きな自信と誇りを得たという。
 「経済力」にものをいわせた開発による、伝統文化と自然の破壊――それは「文明」という名の「野蛮」である。メンバーは、自然と調和したポリネシアの伝統文化を、伸一に見せたくて仕方がなかった。
 竹で囲まれた「ポリネシア村」に、伸一が到着し、車を降りると、期せずして歓声があがった。彼は、メンバーの要請に応えてテープカットに臨んだ。
 「ポリネシア村」に足を踏み入れると、メンバーが建てた、トンガやサモア、タヒチ、ハワイなどの、各島の代表的な民家が十軒ほど並んでいた。
33  潮流(33)
 「ポリネシア村」の家々は、縄で柱を結わえ、竹で壁をつくり、ヤシの葉などで屋根を葺いた、素朴だが、快適な家である。
 家のなかには、それぞれの島の習俗や産業を伝える写真などが展示されていた。
 山本伸一は、家々を見学しながら、ポリネシア出身という役員の青年に声をかけた。
 「どこか、懐かしさを感じます。これだけの家を再現するのは、大変だっただろうね。皆さんのご苦労が偲ばれます」
 すると、赤銅色に日焼けした顔に、白い歯を浮かべ、青年が答えた。
 「先生に、私たちの故郷である、ポリネシアの家や生活を知っていただこうとの思いで、建設にあたってきました」
 「すばらしい家です。外は暑いのに中は涼しい。知恵があります。文化があります。そして、何よりも、皆さんの真心があります」
 「ありがとうございます。この村を建設するのに使っている竹のほとんどは、ハワイ州政府が提供してくれました。これも、山本先生への深い尊敬と信頼があったからこそです。心より御礼申し上げます」
 伸一は語った。
 「そうした感謝の思いをいだけるのは、心が豊かだからです。すばらしい。それもポリネシアの伝統と文化が育んだ精神性といえるでしょう。
 精神の豊かさが失われてしまえば、拝金主義に陥るなど、人の心は殺伐としてしまいます。
 郷土の伝統や文化を大切にすることは、そのなかで培われてきた、人間の精神性と知恵を守ることにつながります。だから学会は、文化を大事にしているんです」
 それから伸一は、居合わせた少年少女たちに声をかけた。
 「二十一世紀は君たちの舞台だ。だから今のうちに、しっかり勉強しておくんだよ」
 そして、子どもたちをはじめ、地元のメンバーや役員の青年たちと、何度も記念のカメラに納まった。激励に次ぐ激励が続いた。この励ましにこそ、創価の心がある。
34  潮流(34)
 そよ風にヤシの葉が揺れ、天空には月天子が皓々と輝いていた。
 半円形の貝殻型をした野外公会堂ワイキキシェルのステージが、ライトに照らし出され、躍動の調べが響き渡った。
 コンベンションの開幕となる「ゴールデン・ハワイアン・ナイトショー」が始まった。
 ポピュラーソングやジャズの演奏、また、スパニッシュダンスなど、さまざまな演目が次々と披露されていった。
 出演者は、アメリカを代表する一流の芸術家のメンバーである。日本の芸術部有志も出演し、太平洋を結ぶ、華やかな友好の舞台となった。
 会場には、来賓として、ドミニカ共和国の副大統領や、パナマの駐ドミニカ大使、カリフォルニア州サンタモニカ市の市長、ハワイ州議会副議長などが出席していた。
 山本伸一は、演技の合間を縫って、あいさつに回った。
 「本日は、遠路、はるばるお越しくださいまして、大変にありがとうございます。私がSGI会長の山本伸一でございます。お会いできて光栄です。
 本日は、生命の歓喜と平和への賛歌の舞台を、どうか、ゆっくりとご観賞ください。また、何か、ご要望がございましたら、担当の役員にお申し付けください」
 そして対話が始まるのだ。来賓たちは、その礼を尽くした真心の応対に、かえって恐縮するのである。
 イギリスの名外交官ハロルド・ニコルソンは語っている。
 「外交がいやしくも有効であるためには誠実が必要である」
 伸一は、すべての来賓に、SGIのこと、仏法のことを、正しく理解する契機にしてほしかった。
 それには、誠実なあいさつ、真心の気遣いが重要になる。人間の振る舞いのなかにこそ、思想、哲学も、信念も表れるからである。
 ゆえに、仏法者ならば、まず、万人を包み込む、春風のような、さわやかなあいさつを心掛けることだ。
35  潮流(35)
 「ゴールデン・ハワイアン・ナイトショー」で、ひときわ大きな喝采を浴びたのは、ジャズピアニストのハリー・ハンクスであった。
 彼は、アメリカのジャズ界始まって以来といわれる、記録的な大ヒット曲を生んだ名ピアニストである。
 ハンクスが信心を始めたのは、三年前の一九七二年(昭和四十七年)、三十二歳の時であった。
 既に彼は、ジャズ界をリードする存在として脚光を浴びていた。しかし、自らの音楽に行き詰まりを感じていたのだ。
 ハンクスのジャズは、アフリカ的な要素にロック調をミックスしたものであり、人気もあった。しかし、彼は満足できなかった。
 どこか自分の音楽は、現実世界からかけ離れているように感じられ、常に違和感がつきまとっていたのだ。彼は、新しい音楽を懸命に模索し、悩み抜いていた。
 ″音楽は、自分の心の表現だ。心が変わらないかぎり、音楽を変えることはできない。新しい音楽を創造するには、何か新しい「心の柱」が必要なのではないか″
 そう考えながら、悶々とした日々を送っていた。
 そんなある日、シアトルのクラブで行われたコンサートで、ベース奏者が即興でソロを奏で始めた。ハンクスのバンドは、メンバーの直感的な演奏スタイルを重視していた。奏者はブルース・ウィルマーである。
 その調べが流れると、ハンクスの全身に、感動が走った。これまでのウィルマーの演奏では聴いたことのない、深みのある、優雅な音律であったからだ。
 ハンクスも、ほかのメンバーも、彼の調べに引き込まれるように、夢中で演奏した。曲が終わると、聴衆は握手を求め、ステージに駆け寄ってきた。涙を流している人もいた。
 ハンクスは、コンサートのあと、楽屋でウィルマーに、率直に尋ねた。
 「すばらしい演奏だった。何か、大きな心境の変化でもあったのかい」
36  潮流(36)
 ハリー・ハンクスの質問に、ブルース・ウィルマーは、笑顔で答えた。
 「そうなんだ。ぼくの心は、大きく変わった。実は、このことを、君にどうやって話そうか、考えていた。そして、君が信心できるように、祈ってきたんだよ」
 「えっ、祈ってきたって?」
 ウィルマーは語り始めた。
 ――交通事故の後遺症に苦しんでいた妻が、仏法の話を聞き、信心を始めて、その後遺症を克服。それを見て、自分も入信したこと。
 仏法は宇宙の根本法則であり、生命の因果の法則であること。唱題によって、自らの生命を変え、人間革命ができること……。
 「南無妙法蓮華経と、題目を唱えることによって、宇宙の根本法と自分の生命が合致して、最高の歓喜がわくんだ。そして、真剣に祈っていくならば、願いも必ず叶う」
 ハンクスは、心を動かされはしたが、信じがたい話だと思った。
 「君の言うことはわかるが、その言葉を唱えることで、何かが起こるとは思えないな」
 「初めから信じる必要はない。信じられなくとも、実践してみれば結果が出る。そうなれば必ず信じるようになるよ」
 ハンクスは考えた。
 ″地球の重力は信じようと信じまいと、現実に存在する。仏法という生命の因果の法則があるのならば、確かに実践することによって、なんらかの結果が出るにちがいない″
 そして、彼は入信を決意したのである。
 その二日後、シアトル市内で行われた学会の会合に出かけていった。この宗教が、本当に自分が探し求めていたものかどうかを、確認したかったのである。
 会場のアパートに着いた時には、会合は終了していた。しかし、ハンクスのために、二人のメンバーが体験発表し、ねぎらいの言葉をかけ、励ましてくれた。
 彼は″人間の心″に触れた思いがした。
 友の幸福を願う真心の一念が織り成す、人間共和の世界――それが創価学会である。
37  潮流(37)
 ″みんな、明るく、楽しそうだ。そして、人生を深く生きている感じがする!″
 それがメンバーと語り合った、ハリー・ハンクスの印象であった。また、初めて御本尊に向かい、皆と一緒に唱題してみると、熱いエネルギーがこみ上げてくるのを感じた。
 彼は、翌週も会合に参加し、初めて皆の勤行の声を聞いた。そのリズムが、とても心地よかった。生命に響き渡る気がした。
 ハンクスは入信し、懸命に唱題に励んだ。演奏旅行中も題目を唱え続けた。彼は「自分のめざす音楽とは何か」をつかみたかった。
 唱題を重ねていくなかで、彼は思った。
 ″一部のジャズファンだけでなく、たとえば、学会の会合に集ってくる婦人や、劇場の掃除をしてくれる人など、すべての民衆の感性に響くような音楽にしなければならない。
 シンプルで、それでいて芸術性豊かな音楽を創造していくのだ……″
 さらに彼は、祈っては、いろいろな音楽スタイルに思いを巡らせた。それは、創っては自ら壊し、また創っては壊すという繰り返しであった。
 その試行錯誤の末に、リズム・アンド・ブルースをベースに、現代にフィットしたアフリカ系アメリカ人的な感覚を盛り込んだスタイルの音楽でいこうという結論に達したのである。
 唱題で開いた新境地であった。
 翌一九七三年(昭和四十八年)、その考えを基調に、新しいジャズバンドを結成した。
 人びとは、その音楽に衝撃を覚えた。新鮮であった。魂を揺さぶられる思いがした。音楽界に新風が巻き起こったのだ。
 しかし、「これはジャズではない」と、こきおろす評論家もいた。
 「人間は『批判する者』と『創造する者』とに分けられる」とは、ロシアの芸術家ニコライ・レーリッヒの言葉である。
 ほどなく、ハンクスらのレコードは百五十万枚の大ヒットとなった。その事実がハンクスの勝利を物語っていた。彼の音楽に、多くの民衆の心が共鳴したのである。
38  潮流(38)
 ハリー・ハンクスが信心を始めた翌年(一九七三年)の秋、約三千人のメンバーが来日して、第十回全米総会が開催された。
 彼は、その時、設営役員として参加した。作業着姿で、腰に工具を下げ、釘を打ち付け、懸命に総会の舞台づくりに励んだ。
 ハンクスの姿を見ても、誰も、彼が著名なジャズピアニストであるとは気づかなかった。ハンクスは、一個の「人間」として、確かな手応えと充実を感じながら、設営作業に汗を流した。
 彼は思った。
 ″人間は、皆が平等だ。芸術家だから、政治家だから、学者だから等々の理由で、偉いのだと考え、特別扱いするのは誤りである。
 それぞれに応じた立場や役割、仕事はあるにせよ、皆が同じ人間として、互いに尊敬し合い、力を合わせていくべきだ。 創価学会には、まさに、その万人平等の哲学が脈動している!″
 ジャズピアニストのハンクスが入信し、懸命に信心に励んでいるということは、山本伸一にも報告されていた。
 伸一は、七四年(昭和四十九年)、ハンクスがコンサートで日本を訪れた折、彼をはじめ、バンドのメンバーを会食に招き、懇談した。
 そして、ハンクスを、こう励ました。
 「あなたはジャズ界の王者になる人です」
 それはハンクスの永遠の指針となった。
 彼は仏法を学び、実践していくなかで「自分とは何か」を探究し続けていった。彼にとって、その解明こそ、音楽を創造するうえでの極めて重要なテーマであった。
 彼は考えた。
 ″自分は「音楽家」である。しかし、それは、自分が「していること」にすぎない。では「アフリカ系アメリカ人」ということが自分の本質か。
 いや、自分の一面にすぎない。「父親」であることも、「一人の市民」であるということも一面だ。私の中心を貫くもの――それは「人間」であるという事実だ″
39  潮流(39)
 仏法の教えをもとに、ハリー・ハンクスは思索を続けた。
 ″では、「人間」とは何か。それは、一人ひとりが尊厳無比な「仏」の生命を具えた存在であるということだ。さらに、地球上の誰もが、本来、「地涌の菩薩」であり、人びとを幸福にする使命をもっているのだ。
 「人間」――なんと尊く、すばらしきものか! 自分も、その「人間」なのだ″
 この結論に至った時、彼は感激に震えた。
 また、学会活動を通して、どんな人でも、その存在には重要な価値があり、誰もが、その人でなければできない使命をもっているということも、実感できるようになった。
 ハンクスは、新しい視野が開け、自分が大きく変わっていくのを感じた。
 彼はそれまで、人と苦悩や喜びを分かち合うことができなかった。「自分は自分、人は人」という考えが常にあった。
 たとえば「仕事が見つかった」「車が手に入った」といったメンバーの体験を聞いても、自分は、仕事も車もあるだけに、なんの感動もなかった。
 ところが、人の喜びを自分の喜びとして感じられるようになり、「すごいじゃないか!」と自然に声をかけ、皆と心がとけ合うようになっていったのだ。
 そうした心の変革は、新しい音楽表現の源泉ともなっていった。
 「心とは万事の本源である」とは、中国の革命家・孫文の至言である。その心に内在する、無限の可能性を引き出す力こそ、仏法なのだ。
 ハンクスは自らが体験した仏法のすばらしさを、記者会見の席でも胸を張って語った。
 「ジャズは奏者のありのままの心の表情です。したがって、奏者の心がどこまで豊かかどうかで、その音楽の内容も決まっていきます。
 そして、豊かな心をもてるかどうかは、奏者が自己の心を豊かにする生命の哲理をもっているかどうかで決まってしまいます。
 その生命哲理が日蓮大聖人の教えであることを、私は自分の体験から知ったのです」
40  潮流(40)
 野外公会堂での「ゴールデン・ハワイアン・ナイトショー」で、山本伸一は、ハリー・ハンクスの奏でる調べに、じっと耳を傾けていた。その音律は、生きる喜びにあふれ、生命の躍動がみなぎっていた。
 伸一と妻の峯子は、演奏が終わると、立ち上がって拍手を送った。
 その姿は、ステージの上にいるハンクスの目にも映った。彼は、思わず叫んでいた。
 「先生! 私は、必ず、必ず、ジャズ界の王者になります!」
 だが、その声は、拍手にかき消された。
 舞台のソデから、伸一とハンクスを見て、小躍りせんばかりに喜ぶ、一人の青年がいた。ハンクスに仏法を教えた、親友のブルース・ウィルマーであった。
 彼はコンベンションの一週間ほど前にハワイに駆けつけ、舞台の設営役員を買って出た。そして、コンベンションの成功を祈って、黙々と作業に励んできたのである。
 ハンクスは、どんなに賞讃を浴びても、名声に酔って、自分を見失うことはなかった。″師匠である山本先生との約束を果たしたい″との一心で、挑戦を重ねてきた。
 伸一も、彼を励まし続けた。何度となく、心ごと抱きかかえるように抱擁し、固い握手を交わした。そして、ジャズ界の王者として生き抜いてほしいと、祈りに祈ってきた。
 一九八三年(昭和五十八年)、ハンクスはアメリカ音楽界の最高栄誉である「グラミー賞」を受賞。以来、同賞の受賞は十回を超える。
 また、SGIの芸術部長にも就任し、人間主義の芸術創造の旗手として活躍している。
 さらに、ある世界的な雑誌の「世界で最も影響力のある百人」(二〇〇八年)にも選ばれている。彼は、世界の誰もが認める「ジャズ界の王者」となり、王者であり続けているのだ。
 「ただいかなる時にも己れの決意をひるがえさぬ者が真の勇者の名に値する」とは、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスの箴言である。
41  潮流(41)
 「ゴールデン・ハワイアン・ナイトショー」では、ハワイ・コンベンションのテーマソングである「遥か二百年の未来に」が発表された。
 ハワイ・コンベンションは、アメリカ二百年前年祭記念行事であり、メンバーは建国の理想を、さらに二百年後の未来に継承していく誓いを、この歌に託したのだ。
 我々はどこにいるだろう  遥か二百年の未来に  どんな光景が待っているのだろうか
 トマス、ジョン、ベン  誇り高き建国の父たちが  皆 見守っている
 不可能に見えようとも  さあ 皆で誓い合おう
 コンベンションの企画を担当したスタッフたちは、語り合ってきた。
 「二百年の昔に建国の先駆者たちが、追い求めてきた人間共和の理想は、今や危機に瀕しているのではないか。人びとの精神は荒廃し、夢も色あせた時代になってしまった」
 「だからこそ、生命の確かな哲理をもった私たちが、その理想を、現実のものとしていかなければならない。再び、はるか二百年の未来をめざして立ち上がろう。
 人間と人間の心を結び、幸せと平和の道を切り開いていくことこそ、私たちの使命だ」
 その思いを表現したテーマソングに、共感は大きく広がった。歌い終わると、大拍手と歓声が、いつまでも鳴りやまなかった。
 社会のかかえる大テーマを、自らの課題ととらえ、仏法者の立場から、解決のための挑戦と努力を開始していくところに、日蓮仏法の精神がある。
 だから大聖人は、「立正安国論」をもって国主を諫暁し、苦悩する民衆の救済に立ち上がったのだ。
 山本伸一もまた、その精神を受け継ぎ、立正安国のための戦いを起こしてきた。アメリカの友も今、彼と同じ心で、社会の建設に立ち上がったのだ。
42  潮流(42)
 ワイキキの海は、青く澄み渡り、砕ける白い波が、陽光に光っていた。
 七月二十六日は、コンベンションのメーン行事となる全米総会が開催される日である。午前中、山本伸一は、ハワイ州のジョージ・アリヨシ州知事とドミニカ共和国のカルロス・ラファエル・ゴイコ・モラレス副大統領の訪問を受け、宿舎のホテルで会見した。
 伸一は、自分の方から出向いて、御礼を言おうと思っていただけに、その気遣いに、いたく恐縮した。
 アリヨシ知事とは、この年の一月、伸一が州政庁を表敬訪問し、創価学会の目的や歴史、平和・文化運動などについて語り合っていた。その折、七月にハワイで全米総会などを開催することを伝えた。知事は、全面的に協力を約束してくれたのである。
 伸一は、まず、アリヨシ知事との再会を喜び、今回のコンベンションに対するハワイ州の協力に心から感謝した。
 「誠にありがとうございます。ご厚意は、生涯にわたって忘れません」
 知事は、満面に笑みを浮かべて答えた。
 「会長がお元気なので大変に嬉しい。今後とも、どのような協力も惜しみません」
 続いて伸一は、ゴイコ・モラレス副大統領が昨夜、長時間にわたる前夜祭に出席してくれたことに対して、丁重に御礼を述べた。
 副大統領は、恐縮しながら言った。
 「とんでもないことです。すばらしい行事でした。まだ、感動が冷めません」
 御礼と感謝の言葉によって、信頼と友好の絆は強まっていく。人に対して、どれだけ「ありがとう」と言えるか、感謝の言葉を語れるか――実は、そこに人徳が表れるといっても過言ではない。
 伸一は、ハワイのアリヨシ州知事とドミニカ共和国のゴイコ・モラレス副大統領に、平和を象徴するものとして、平安朝時代の風物が描かれた日本画を贈呈した。
 また、副大統領からは、ドミニカの国旗が伸一に贈られ、短時間だが、心通い合う交流となった。
43  潮流(43)
 七月二十六日正午前、「ブルー・ハワイ・コンベンション」のメーン行事となる、第十二回全米総会の開会を迎えようとしていた。 
 打ち際から数十メートルの海上に、浮島ステージが設けられ、ワイキキの砂浜が観客席となった。
 この総会には、アメリカのメンバー二万人のほか、メキシコ、パナマ、ニカラグア、プエルトリコ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、日本の代表らが参加。
 それを見守る市民も含め、浜辺は三万余の人びとで埋まった。
 皆が喜びと期待で胸を躍らせながら、総会の開会を待った。
 飛行機の轟音が響き、大空に青、黄、赤、白のパラシュートの花が咲いた。
 歓声が舞った。
 さらに、浮島ステージに造られた、世界最大の噴火口をもつハレアカラ火山を模した山からは、噴煙を思わせる黒煙が上がった。
 「ワンダフル! 手の込んだ演出だ!」
 浜辺には、拍手と喝采が轟いた。
 しかし、その煙は、演出ではなかった。
 浮島で火災が発生したのだ。浮島の最上部で、スカイダイバーに風向きを知らせるために、使った発煙筒の火花が、ステージの裏側に積んであった資材に燃え移ってしまったのである。炎と黒煙が上がり始めた。
 プロデューサーのジェイ・ハーウェルは、浜辺に立つホテルの六階に設けられた指揮室から、その煙を見た。
 彼はすぐに浮島と連絡をとった。
 「あの煙はなんだ。何が起こったんだ!」
 「火災です! 発煙筒の火の粉が、資材に燃え移りました!」
 想定していなかった事態である。だが、発煙筒を使うのに、火災の危険性を考えなかったことこそが油断なのだ。事故は、当然のことを怠るところから、生ずるものだ。
 ハーウェルは、″しまった!″と思った。心で必死に唱題しながら、総力をあげて、消火にあたるように指示した。
44  潮流(44)
 浮島では、舞台設営の責任者であるチャーリー・マーフィーの指揮のもと、懸命に消火作業が行われ、火のついた資材を海に落としていった。
 指揮室に無線が入った。
 「山本先生の車が到着しました。浮島に、船で移動していただきます」
 ″まだ、火は消えていない。移動など、とんでもないことだ!″
 ジェイ・ハーウェルは答えた。
 「だめだ! 準備が整っていない」
 一、二分すると、また、無線が入った。
 彼は、強い語調で言った。
 「まだだ!」
 何度か問い合わせが続いたあと、無線機からアメリカの首脳幹部の声が響いた。
 「いったい、どうなっているんだ。いつまで待たせるつもりだ。状況を説明しなさい」
 ハーウェルは、無線の声を無視した。
 やがて浮島では、燃える資材を、すべて海の中に落とし終えた。
 火事は、小火ですんだ。燃えたのは予備の資材で、舞台の進行に影響はなかった。ハーウェルは、鎮火したことを確認すると、無線機を手にした。
 「オーケー、スタートしてください!」
 伸一の一行がビーチに現れた。皆が歓声をあげ、手を振っている。
 伸一は、アリヨシ州知事、ドミニカのゴイコ・モラレス副大統領らと共に、浮島に向かう双胴船に乗った。
 動きだした船を見て、ハーウェルは安堵の溜め息をついた。
 ″守られた! 大事故にならなくてよかった。事故につながる危険性のあるものはないか、再点検しよう。安全第一だ″
 小さな事故は、大事故の警鐘である。そこで油断を排し、一念を転換して、すべてを再点検、再考していくならば、大きな事故や失敗を未然に防ぐことができる。
 事態を真摯に受けとめ、決意を新たにすることによって、事故をも成功の飛躍台にできるのだ。
45  潮流(45)
 ジェイ・ハーウェルは、火災などにつながりかねないものはないか、あらためて入念にチェックするように伝えた。
 浮島に到着した山本伸一は、辺りに、焼け焦げた臭いが漂っているのを感じた。
 「安全は確認できているね。大丈夫だね」
 伸一は、ステージの脇で迎えてくれた役員の青年に、小声で尋ねた。
 「はい。もう大丈夫です」
 その言葉を聞くと、一瞬、伸一の目が鋭く光った。″何かあったな″と思ったが、黙って頷いた。
 リーダーには、微細な変化や異常を見逃さぬ敏感さがなくてはならない。それが皆の安全を守るうえでの要件といってよい。
 一行が着席するのを待って、全米総会の開会が宣言された。
 最初に、開催地ホノルル市のリチャード・シャープレス市長代行があいさつに立った。
 「″人種の融合地帯″とも言われるハワイの地を、建国二百年前年祭の一環として行われるコンベンションの開催地に選んでいただきましたことを、このうえない喜びとするものであります。
 また、私どもは、人類の平和を追求する皆様の運動に賛同するものであり、心から歓迎申し上げます」
 まさに、このコンベンションが、社会に開かれた地域行事であることを象徴する、あいさつであった。
 続いて、ハワイ州を代表して、ジョージ・アリヨシ州知事が登壇した。
 州知事は、世界から集ったメンバーを、心から歓迎したいと述べ、ハワイに脈打つ「アロハの精神」について紹介していった。
 「アロハの精神は、人種、言語等、一切の差別を超えて、人間がお互いに人間として手を結び合うところに、意義があります」
 さらに、「学会の仏法運動に、その昇華された姿を見る思いがします」と述べ、SGIに大きな期待を寄せたのである。
 深い洞察であると、伸一は思った。広宣流布とは、人間の融合の潮流なのだ。
46  潮流(46)
 山本伸一は、この全米総会で、「アロハの精神」について語ろうと決め、仏法哲理との共通項について思索を重ねてきた。
 それだけに、学会の仏法運動に「アロハの精神」の昇華された姿を見るという、アリヨシ州知事の言葉に、彼は、強く共感したのである。
 諸外国からの来賓を代表して、ドミニカ共和国のゴイコ・モラレス副大統領があいさつしたあと、いよいよ伸一の登壇となった。
 ひときわ大きな拍手が、ワイキキの空に響いた。浜辺に林立するホテルの窓からも、たくさんの顔がのぞいていた。多くの観光客も、このコンベンションに、強い関心を寄せていたのであろう。
 空には、灼熱の太陽が燃えていた。その太陽のように、熱情のこもった伸一の力強い声が響いた。
 「アメリカ合衆国の未来に『平和』と『希望』をはらみつつ、朝日のごとく昇りゆくコンベンションに対し、私は歓呼して祝福を贈るものであります」
 彼はまず、建国二百年を明年に控えたアメリカへの期待を語った。
 「技術文明の大国として世界平和の指導的役割を担ってこられた貴国が、これよりは再び、自由と平和のために、精神文化の大国として、より偉大な貢献をされんことを、私は期待するものであります」
 伸一は、波濤の大西洋を越え、自由と希望の新天地を求め抜いた「建国の父」たちの精神に、理想への意志を見ていた。
 また、アメリカを築き上げた「フロンティアスピリット」(開拓者精神)に、若々しい建設のエネルギーを感じていた。
 それらが、世界の平和建設に向けられ、人類の理想となる社会を開拓する力となっていくことを、彼は念願していたのである。
 過去の歴史は、未来の創造のためにある。
 「未来の世界がどうなるかは、私たちが今どのように生きるかにかかっています」とは、アメリカの人権運動の母・ローザ・パークスの叫びである。
47  潮流(47)
 ここで、山本伸一は、世界平和実現への、自らの信念を述べていった。
 「私が世界への平和旅の第一歩を印したのは、今から十五年前、このハワイの地でありました。
 私は、仏法者であります。平和主義者であります。私は、一切の暴力を否定する生命尊厳の信仰者であります。私は、いかなる人とも、いかなる国とも、友好を結んでいくことを信条としております。
 そして、われわれは、仏法を基調とした平和と文化を推進していく団体であります。
 その仏法者の立場から、私は、一貫して、″現在の世界平和実現への課題は、民族、国家、イデオロギーの壁を超えて、人間対人間の共鳴音を、いかに奏でるかにある″と主張し、世界平和のために、三十七カ国・地域を回ってまいりました。
 国と国との平和協定の延長線上にのみ、平和を求めるのではなく、民衆と民衆、人間と人間との友愛と調和のなかにこそ、より深く、より強靱な真の平和は築かれていきます。
 つまり、一個の人間を基調とした『人間平和』があってこそ、崩れぬ世界の平和もありうると、考えるのであります」
 これは、伸一が、中国、ソ連をはじめ、あらゆる国々で訴えてきた主張であった。
 彼は一個の人間に光をあてた「人間主義」の視点から、社会体制や国家の壁を超えて、人間と人間の心を結び、世界に平和の大潮流を起こそうとしてきたのである。
 それは、いわば、人類史を転換する新たな視座を示す挑戦であった。
 さらに彼は、「人間平和」を実現していくうえでの、ハワイの使命に言及していった。
 ハワイでは、生活、風習の違う多くの異民族同士が共存してきた。伸一は、そこに着目し、その共存を可能にしたものは何かに焦点を当てていった。
 そして、「それは、州知事が述べたように、ハワイの人びとの英知が生み出した『アロハの精神』である」と語った。
48  潮流(48)
 「アロハ」は、ハワイでは、歓迎にも、別れにも使われる言葉である。深い好意を示す感情の表現であり、それが転じて、友愛を重んじる調和の精神を、「アロハの精神」と言うようになったようだ。
 山本伸一は、この「アロハの精神」は、いかなる国の人であれ、互いに尊重し合い、共存しようとする精神の表れであり、その心は、仏法で説く、「慈悲」と「寛容」に通じると述べた。
 仏法の「慈悲」「寛容」の根底には、生命の絶対的尊厳という哲理がある。それは「いかなる財宝といえども、生命という宝の貴さには及ばない。
 生命は他の一切に優先して尊厳とされるべきものである。他のすべては、そのための手段であり、方法にすぎない」という生命優先の思想である。
 伸一は、この生命の尊厳観が確立されてこそ、恒久平和の樹立があると語り、メンバーに、こう訴えたのである。
 「生命尊厳の思想を堅持する皆様方の明朗な実践によって、アメリカの誇り高い勇気と情熱の『フロンティアスピリット』と、友愛と調和の『アロハの精神』とが、見事に融合するならば、アメリカ合衆国が、平和という全人類の悲願を成就する一大推進力となることは間違いありません」
 賛同の大拍手がワイキキの浜辺を包んだ。
 ステージの上で、何度も頷きながら話を聴いていたアリヨシ州知事も、体を乗り出すようにして、惜しみない拍手を送った。
 伸一のスピーチは、州知事の話を、仏法哲理によって裏付けるものとなった。
 伸一の講演を聴いて、大きな感動を覚えたのは、現地の人たちであった。
 皆、太平洋上の島々からなるハワイには、アメリカ合衆国をリードしていく精神的財産など、ないかのように思っていたのである。
 しかし、伸一は、そのハワイに、アメリカをリードし、世界の平和を築きうる、偉大なる精神の財宝があることを示したのである。それは衝撃的でさえあった。
49  潮流(49)
 山本伸一は、固唾をのむようにして彼の次の言葉を待つ、浜辺の聴衆に呼びかけた。
 「今や時代の潮流は、友好と調和へ赴かざるを得なくなってきたというのが、私の実感であります。あのアポロとソユーズのドッキング成功は、友愛と協力の未来への門出を象徴していると、私には見えるのであります。
 その意味からも、未来性豊かなメンバーの皆様に対し、また、新たな歴史創造に旅征かれるアメリカ合衆国に対して、私は心よりその発展を願うものであります」
 そして、州知事をはじめ、地元の関係者に深い感謝の意を表して、彼は話を結んだ。
 大歓声と拍手が潮騒のように、ワイキキの空に舞った。
 アメリカは科学技術や軍事力、経済力をもって世界をリードしてきた。しかし、あのベトナム戦争の失敗は、そうした在り方に再考を迫るものとなっていた。
 伸一は、これからのアメリカは、精神の力、文化の力をもって人類に貢献していく、新しい道を切り開いていってほしいと、強く念願していたのである。
 このあと、アメリカのメンバーの代表が、あいさつに立った。
 「アメリカの建国から二百年後の今日、新たなるフロンティアスピリットで、永遠なる平和の新世界を築かんとする私たちが挑む″敵″とは、かつてのように外の世界にあるのではありません。
 ほかならぬ私たち人間の生命の内奥に潜んでいるのであります」
 彼は、一人ひとりが自身を変革し、際限なき欲望やエゴイズムを乗り越え、麗しき人間共和のアメリカを、そして、世界を建設していくことに、「立正安国」という仏法者の使命があると訴えた。
 そして、その実践こそ、建国の先駆者たちの精神に合致するのではないかと述べたのである。
 SGIの精神とは、一人ひとりが、その国や地域の″良き市民″となることだ。″良心″となることだ。社会の繁栄と平和と、人びとの幸福を築く原動力となることだ。
50  潮流(50)
 全米総会は、「遥か二百年の未来に」の合唱で幕を閉じた。ビーチを埋めた人たちの組むスクラムが、右に左に大波となって揺れた。生きる喜びを全身で表現し、平和への誓いを込めての熱唱であった。
 午後一時前、総会は終わった。
 引き続いて総会を祝賀する「インターナショナル・ショーと水の祭典」が開催された。
 山本伸一と峯子は、浜辺に設けられた観覧席から、演技を観賞した。
 この祭典のテーマ曲「世界は一つ」の歌声に合わせて踊る、バレエで幕が開いた。
 世界は一つ  それは故郷と名づける小さな星  輝く虹は色とりどりに  見知らぬ友を招いている
 だから旅に出ようじゃないか  中国、カナダ、メキシコ……と  世界は一つなのだから
 第二代会長・戸田城聖は、一九五二年(昭和二十七年)二月、青年部研究発表会の席上、「地球民族主義」を提唱した。
 それは、国家や民族など、あらゆる壁を超えて、人間は誰もが、同じ地球民族であるとの思想である。
 この思想が今、アメリカの青年たちにも受け継がれ、「世界は一つ」という歌声となったのだ。
 戸田の、この主張の根底には、人間は皆、等しく「仏」という尊極無上の生命を具え、人類の幸福を実現するために出現した地涌の菩薩なのだという、仏法の生命哲理がある。
 万人の尊厳と平等を認め合う生命哲理があってこそ、″世界は一つ″という夢を現実のものとすることができるのだ。
 「人類社会の進歩向上への真剣な一歩が踏みだされるとき、そこには必ずその主な原因としての信仰の役割があった」とは、イタリアの思想家マッツィーニの言葉である。
 仏法という生命の哲理があってこそ、確かなる平和運動の潮流がつくられるのである。
51  潮流(51)
 舞台では、各国の民族衣装に身を包んだメンバーが登場し、″世界の旅″が始まった。
 日本舞踊、コサックの踊り、スペインのフラメンコ……と、民族舞踊が次々と披露された。
 それに合わせて、背景のパネルも、アメリカの自由の女神、インドのタージ・マハル、アフリカの大地など、世界各地の絵が描き出されていった。
 海面には、直径三メートル余りの、五つの大きな桜の花が浮かんでいた。舞台から現れた人たちが、花を取り囲んだ。ハワイの女子部二百人による、水中バレエである。
 彼女たちは、数カ月前から、ワイキキにある海水プールを使って練習を始めた。
 水中バレエの経験者など、皆無であった。それどころか、全く水泳のできない人もいた。そのため、練習は、まず、水に浮くことや、泳ぎのイロハを教えることから始めなければならなかった。
 また、多少、泳ぎができても、水中バレエとなると、勝手が違った。
 それを、わずか数カ月で仕上げるというのは、まさに不可能への挑戦であった。
 練習は週末に行われていたが、コンベンションが迫ると、毎日行われるようになった。メンバーは、学校や仕事を終えると、バスなどに乗って、急いで練習に駆けつけた。
 練習に、片道二時間かけて通ったメンバーもいた。練習では、ミジンコや日焼けにも悩まされた。毎日が試練への挑戦であった。
 しかし今、水の中を自在に舞う、彼女たちの顔は皆、晴れやかであった。″私たちは勝った!″″困難の壁を破った!″″自分自身を大きく変えることができた!″との喜びがみなぎっていた。
 創価学会の一切の活動は、人間革命への飛躍台といってよい。
 弱い自分、怠惰な自分、途中で物事を投げ出してしまう自分、困難を避けようとする自分……。そうした自分自身に挑み、勝つための舞台として、学会の活動があるのだ。
 そして、その体験が、自らの生命を磨き、鍛え、強くするのである。
52  潮流(52)
 水中バレエのメンバーに、キャシー・ペレラニという女子部の地区リーダーがいた。彼女は、水中バレエを演じながら、観覧席の山本伸一に向かって、必死に誓っていた。
 ″先生! 私は何があっても負けません。必ず、世界の平和と人びとの幸福に、貢献できる人材に成長していきます!″
 彼女は、オアフ島の西部で、七人兄弟の末っ子として育った。交通も不便な、寂しい場所であった。
 父も母もアルコール依存症で、酒を飲んでは互いに罵り合っていた。そんな両親を見るのがいやだった。
 暮らしも貧しかった。すべてに嫌気がさし、小学生のころから、不良の仲間に入った。道にたむろするようになり、皆に誘われるまま、非行にも走った。
 キャシー・ペレラニは、子ども心に思った。
 ″私には夢なんてない。どうせ、この辺りの誰かと結婚し、子どもを産み、年老いて、死んでいくだけだろう……″
 十一歳の時だった。母親がメンバーから仏法の話を聞かされた。「幸せになれる宗教だ」と教えられ、母親は信心を始めた。
 その時、キャシーも母親に言われ、気は進まなかったが、一緒に入信した。一九六八年(昭和四十三年)のことである。
 彼女は、鼓笛隊に入った。唱題すると元気が出た。また、学会活動に励むなかで、人には宿命があり、その転換を教えているのが仏法だということを学んだ。さらに、自分が変われば、周囲も変わっていくことを知った。
 彼女は″人を恨むのではなく、私が変わることだ″と思った。両親のアルコール依存症や貧しさも、自分によって転換できる宿命ととらえ、逃げずに向き合っていった。
 「人間革命」にこそ、環境を変え、崩れざる幸福を築くカギがある。
 母親は、あまり信心に積極的ではなかった。キャシーは両親の幸せを祈り始めた。すると、両親がいがみ合うことが少なくなり、アルコールの量も減った。家計も上向きになっていったのである。
53  潮流(53)
 キャシー・ペレラニにとって、大きな転機となったのは、二年前に日本で行われた全米総会に鼓笛隊として参加したことであった。
 日本滞在中、何度か、会長・山本伸一の指導を間近で聞くことができた。そのなかで、次の言葉が、彼女の胸を射貫いた。
 「妙法は、大宇宙に遍満する生命の法則です。その妙法の当体が御本尊です。ゆえに、御本尊への信心によって、私たちの生命も宇宙大の境涯になり、どのような夢も、実現していくことができるんです」
 彼女は、目から鱗が落ちる思いがした。心が大きく開かれていった。
 ″御本尊を信じ切っていけば、どんな夢も叶うのだ。自分の小さな殻を破って、人間として大きく成長し、社会に、世界に、貢献できる自分になっていこう!″
 そして、大学進学を決意し、勉学と、学費づくりに挑戦した。
 このハワイ・コンベンションの前年、高校を卒業して大学に入った彼女は、苦学しながらも、喜々として練習に励んできた。
 「希望は最良の財産である」とは、イギリスの批評家ハズリットの洞察である。仏法は、その希望の源泉である。
 ペレラニは、″希望の翼″を広げ、未来へと飛翔を開始したのだ。
 彼女は、ハワイの女子部が、水中バレエを行うと聞いた時、″演技を通して、山本先生に、私の人生の旅立ちを誓う舞台にしよう″と心に決めていたのである。
 ペレラニは、水の中で晴れやかに舞った。誇らかに腕を振り、喜びを全身で表す、その姿には、青春の勝利の輝きがあった。
 一人ひとりが、歓喜と躍動と充実を感じながら生きてこそ、真実の平和がある。彼女の胸には平和の太陽が燃えていた。
 舞台では、世界各地の踊りが続いた。やがて、世界各国の国旗が翻り、四百人を超える出演者がステージと海にそろい、フィナーレを迎えた。浜辺の観覧席にいた山本伸一と峯子は、立ち上がって拍手を送り続けた。
54  潮流(54)
 全米総会が行われた、この七月二十六日の夜、コンベンションを祝賀するレセプションが、海外各国の来賓ら約三百人が出席して、ホノルル市内で行われた。
 山本伸一は、峯子と共に、各テーブルを回って、御礼と感謝の言葉を述べていった。
 彼は、アメリカをはじめ、世界のメンバーのために、一人でも多くの来賓と、直接、対話し、学会への理解を深めておきたかった。
 連日の行事で、伸一も峯子も、疲れてはいたが、メンバーのことを思うと、応対に、一段と力がこもった。
 一人ひとりを生命に焼き付けながら、言葉を交わし、握手を交わした。
 友好も、平和も、広宣流布も、すべては人との出会いから始まるからだ。
 この日、午後八時からは、ホノルル市の目抜き通りであるカラカウア大通りで、全米総会を記念するパレードが行われた。
 出発点のフォート・デルーシから、終点のカピオラニ公園まで、約二キロのパレードコースの沿道には、開演前から約五万人の観衆が長い列をつくった。
 沿道に林立する、ホテルの窓という窓にも、パレードを待つ人びとの顔があった。
 伸一も、ドミニカ共和国のゴイコ・モラレス副大統領らの来賓と共に観覧した。
 パレードには、全米各地をはじめ、カナダ、パナマ、プエルトリコ、ベネズエラ、ドミニカなど、総勢四千人近くが参加し、舞い、踊りながら、行進を繰り広げた。
 マウイ島と姉妹交流を行っている宮古島のメンバーなど、沖縄の代表十五人もいた。
 皆、旅費を工面し、休みを取って、勇んでハワイにやってきたのだ。
 ″私たちの手で、世界平和の潮流をつくるのだ。友情をもって世界を結ぶのだ!″
 いずこのメンバーも、仏法者としての、平和建設の使命に燃えていた。
 民衆の心にともされた平和への決意の火が、燃え広がってこそ、世界は、恒久平和の光に包まれるのだ。
55  潮流(55)
 パレードは、にぎやかで華麗であった。
 アメリカの国旗、合衆国の五十の州旗に続いて、アメリカ各地の音楽隊や鼓笛隊などが、時に荘重に、時に軽快なメロディーを奏でながら、はつらつと行進していった。
 自動車に美しいイルミネーションなどを施した十一台のフロート(山車)が、パレードを一段と豪華にしていた。
 パレードのなかで、ひときわ喝采を浴びたのが、二人で行進したグアテマラと、五人で行進したニカラグアのメンバーであった。
 このうちニカラグアには、二カ月前の五月に、支部が結成されていた。国名の書かれた横断幕を二人の男性が持ち、白いドレスに身を包んだ三人の女性が、民族舞踊を披露しながら後に続いた。
 その中央で、さっそうと胸を張って踊っているのが、支部婦人部長の山西清子であった。彼女は、山本伸一の姿を目で追い求め、″先生! ささやかではありますが、私は約束を果たしました!″と心で叫んだ。
 山西が、商社に勤務する夫の仕事の関係でニカラグアに来たのは、一九七二年(昭和四十七年)十二月のことであった。半月後、彼女のいたマナグアは、大地震に襲われた。
 幸いにして家族四人は無事であったが、町は破壊され、大勢の死傷者が出た。この時、彼女は″一人でも多くの人に仏法を伝え、ニカラグアの幸せを築くのだ″と決意した。
 彼女は、七四年(同四十九年)の四月に行われたサンディエゴ・コンベンションに、ニカラグアから、たった一人で参加した。コンベンションでは、ベネズエラから参加した五人のメンバーが明るくパレードしていた。
 それを見た彼女は、固く心に誓った。
 ″次のハワイでのコンベンションには、ニカラグアからも五人で参加し、パレードに出よう。それなら、私にもできる!″
 ヘレン・ケラーは述べている。
 「ひとたびこれを決意し、恐れずに一歩を踏み出すなら、外側のすべての環境や限界性は私たちに道を譲ります」
56  潮流(56)
 山西清子の一家がニカラグアに来た時、メンバーは誰もいなかった。
 しかし、山西の仏法対話で、題目を唱える現地の人が、一人、また、一人と増えていた。
 サンディエゴのコンベンションに参加した翌年の一九七五年(昭和五十年)一月、山西はSGIの結成となる、グアムでの第一回「世界平和会議」に出席した。
 そこで彼女は、SGI会長となった山本伸一に、誓いの一文を記す。
 「ハワイでのコンベンションには、必ずニカラグアのメンバー五人によるパレードを、ご覧いただけるようにします」
 すると、すぐに伸一から伝言が届いた。
 「了解しました。お元気で。これは実現すれば歴史的な壮挙です。頑張ってください」
 コンベンションへの参加者を一人から五人にする。それは、大きな組織から見れば、ささやかな前進と思えるかもしれない。
 しかし、スイスの哲学者ヒルティが「真に善いことや偉大なことで、最初は小さなところから出発しないものはまれである」と述べているように、世界の広宣流布も、目の前の小さな一歩から始まるのだ。
 だから伸一は、五人がコンベンションのパレードに参加することを、「歴史的な壮挙」と言ったのである。
 山西は、ニカラグアに戻ると、知り合った人たちに、懸命に仏法を語った。日常会話程度のスペイン語を駆使しての対話である。
 スペイン語に翻訳された学会の出版物が、大いに役に立った。そして、何よりも、対話した相手が信心をする決め手になったのは、彼女の、ほとばしる確信であった。
 その結果、ニカラグアに支部が結成される七五年五月には、十人を超す人たちが信心に励むようになっていた。それでも支部としては、あまりにも小さな支部である。
 支部婦人部長になった山西は思った。
 ″これは、自分の手で大きな支部にしていきなさいという、山本先生のご指導だ。一人立つことから広宣流布は始まるのだ!″
57  潮流(57)
 ニカラグアの少ないメンバーのなかから、五人のコンベンション参加者を募るのは、大変であった。
 しかし、山西清子は、山本伸一との誓いを果たしたかった。また、メンバーに、直接、山本会長に触れる機会をもってほしかったのである。
 彼女の呼びかけに、信心を始めて日の浅い現地の人たちが、勇んで名乗りをあげた。
 皆、山西から、求道心の大切さを学んでいたからである。大事なのは、一人立つリーダーの存在である。必死の一人がいれば、炎が燃え広がるように、皆の魂を触発していく。
 コンベンションのパレードは、にぎやかに、陽気に、カラカウア大通りを行進していった。
 山本伸一は峯子と共に、沿道にあるホテルのバルコニーから、手を振り続けた。
 ニカラグアのメンバーが通ると、伸一は拍手を送りながら、傍らの峯子に語った。
 「山西さんは、よく頑張った。勝ったね」
 小さな一つ一つの勝利の積み重ねのなかに広宣流布がある。着実に、粘り強く、眼前のテーマに挑み、勝っていくことだ。それが、栄光の大勝利の歴史となるのだ。
 伸一は、翌日の「スピリット・オブ・一七七六ショー」の開始前、ニカラグアのパレード参加を讃え、山西にトロフィーを贈った。
 さらに、七月二十八日にニカラグアのメンバーが帰国する時、彼は空港に、お土産としてハワイアン音楽の三枚のレコードを届けた。
 ニカラグアに帰った山西は、伸一に、御礼の手紙を書いた。すると、多忙を極める伸一に代わって、峯子から長文の返事が届いた。
 「お便り嬉しく拝見いたしました。ハワイでお元気な姿に接し、また、五人もの同志が参加なさいましたことは、条件の違いを考えますと、日本ならば五百人にも相当するものであったと思います。
 ニカラグアの初のパレードに対し、私どもも目頭を熱くしながら、拍手を送らせていただきました」
58  潮流(58)
 山西清子の手紙に対して、山本伸一は峯子に、自分の真情を語り、返書を認めるように頼んだのである。
 峯子からの手紙は、伸一の心でもあった。
 彼らは常に、こうした二人三脚ともいうべき呼吸で、広宣流布の仕事を成し遂げてきた。峯子の認める手紙の数は膨大であった。
 山西への手紙に、峯子は記した。
 「ニカラグアは、今、最も重要な、そして、大変な、土台づくりの時を迎えていると思います。どうか、焦らず、着実に、堅固な土台をつくっていってください。それが、一番、大事なことではないでしょうか。
 くれぐれも、お元気で、楽しい活動をなさってください。女性の身で、メンバーの要となり、懸命に奔走される姿に、本当によくなさっていると、敬服しております」
 ニカラグア支部の支部長には、山西の夫が就いていたが、仕事が多忙なために、清子が活動の一切を担っていたのである。
 さらに、手紙には、伸一の激闘の模様をはじめ、日本の同志が、どういう思いで活動に取り組んでいるのかも、つづられていた。
 「世間では、不況がますます深刻になりつつあります。学会員の皆さんは『こういう時こそ、信心している人は違うという事実が、はっきりする時だ!』と、一段と元気に、仏法対話に励んでおります」
 そして、「末筆ながら、ご主人様に、よろしくお伝えくださいませ。
 また、皆様にも、よろしくお伝えくださいませ。御一家の御健康、御繁栄を心よりお祈りいたします。会長から、くれぐれも皆様によろしくとのことでございました」と結ばれていた。
 山西は、この手紙を涙で読んだ。
 ″先生と奥様は、私たちのことも、みんな知ってくださっている。日本から遠く離れたニカラグアも、先生のお心のなかにある。先生も、奥様も、いつも、見守ってくださっている。頑張ろう。頑張り抜こう″
 その手紙が、山西の心を燃え上がらせた。
 生命の言葉は、人の魂を触発する。
59  潮流(59)
 七月二十七日、「ブルー・ハワイ・コンベンション」は最終日の三日目を迎えた。
 午後七時前、賛助出演した米軍太平洋艦隊の音楽隊が、約一時間にわたって演奏を披露。そして、午後八時過ぎ、ファンファーレが高らかに響き渡り、「スピリット・オブ・一七七六ショー」が開催された。
 アメリカの独立宣言が採択された、一七七六年の建国の精神と歴史をうたい上げた、三十景に及ぶミュージカルである。
 壮大なアメリカの大自然を描いた背景が照らし出され、浮島に一隻の帆船が近づく。一六二〇年の「メイフラワー号」の到着である。ここから清教徒による、新世界の歴史が織り成されていったのだ。
 イギリス軍と義勇兵との戦い、独立宣言が採択された大陸会議、カリフォルニアのゴールドラッシュ、西部開拓などを通して、建国に生きた人びとの敢闘と理想、勇気、開拓者精神が、歌で、踊りで表現されていった。
 そこには″自由と民主の、このアメリカの理想を、開拓者精神を、誰が継承し、人類の幸福と平和に寄与していくのか! それは、仏法という生命の哲理をもった私たちだ!″とのメンバーの叫びがあった。
 舞台裏もまた、熱気に満ちていた。出演者が何役もこなしていることが多く、皆、着替えに大わらわであった。
 この衣装の製作に携わったメンバーが着替えを手伝っていたが、その人たちも、幾つもの仕事をこなしていた。
 ロサンゼルスの服飾会社でデザイナーとして働く婦人部のサラー・アポンテは、前日の水中バレエの衣装なども手がけ、さらに前夜は鼓笛隊としてパレードにも出場していた。
 やるべきことはたくさんある。しかし、体は一つである。皆、悩みながら、智慧を絞って、限界に挑んだ。
 そのなかで、自分の殻が破られ、大きく成長していることを、誰もが実感していた。能力は、これまでに出したことのない力を出すことによって、伸びていくのだ。
60  潮流(60)
 衣装製作の作業場は、ロサンゼルスをはじめ全米九カ所に設けられた。
 サラー・アポンテは、ロスの作業場で、衣装のデザインや型紙作りなどを担当してきた。デザインが決まると、十二のサイズの型紙を作り、各地の作業場に、布とセットにして送った。
 それをもとに、一人ひとりの出演者の体形に合わせて縫製するのである。
 ロスの作業場は、大きな倉庫であった。皆、仕事を終えると、喜々として集って来た。
 それぞれが、職場や家庭のことなど、さまざまな悩みをかかえていた。共に作業に励むなかで、互いに悩みを打ち明け合い、励まし合うようになっていった。皆で唱題もした。
 この作業を通して友情が芽生え、強い同志の絆が育まれていったのだ。悩みを克服したという人がいると、抱き合い、涙を流して喜び合った。
 メンバーには、使命に生きる喜びと誇りがあった。よく、皆で語り合った。
 「衣装作りは、コンベンションを支える大事な力よ。木を支える根っこもそうだし、大事なものは外からは見えないものだわ」
 「でも、広宣流布のための苦労は、必ずいつか、福運となって花開くわ。それが仏法の因果の理法ですもの」
 衣装作りは三カ月にわたった。製作した衣装は、全部で二千着になった。アポンテも、不眠不休で作業に励んできたのである。
 この作業は、彼女の大きな人生の飛躍台となっていった。アポンテは、コンベンションが契機となって、ステージ衣装などをデザインする道に進んだ。その衣装には、日常の服装にはない、希望や夢があった。
 やがて、彼女がデザインした衣装が、テレビの人気番組や、有名な雑誌などの表紙を飾るようになるのである。
 人の評価は、必ずしも平等とは限らない。陰の力を見落とすこともある。しかし、仏法という生命の原因と結果の法則は、平等に万人を包み込む。善も悪も、すべては報いとなって自分自身に返ってくるのだ。
61  潮流(61)
 舞台では、コンベンション開催の地となったハワイの歴史が紹介され、「ハワイアン・ファンタジー・ショー」に移った。
 火山の形をした浮島の頂上から、轟音とともに火炎が噴き上げた。これは、火災ではなく、計画通りの火山の噴火である。
 詰めかけた五万人の観衆から、大歓声がわき起こった。
 浮島の横から大きな滝が流れ落ちる。ハワイアンの調べに乗って、海にはカヌーが行き交い、南国の歌や踊りが披露された。
 やがて、フィナーレを迎えた。さまざまな衣装に身を包んだ出演者が、テーマソング「遥か二百年の未来に」を声を限りに歌う。
 そして、最後は「フォーエバー・センセイ」(日本語の曲名は「今日も元気で」)の大合唱となった。
  ……センセイ センセイ   フォーエバー センセイ
 その歌声は、山本伸一を慕うメンバーの、魂の叫びであった。浜辺では、スクラムのうねりとともに、一万本のペンライトが銀河のように輝いていた。
 フィナーレが終わると大歓声と拍手に続いて、ドドドーンという音が轟き、次々と花火が打ち上げられた。
 夜空に大輪の光の花が咲いた。
 終わった。「ブルー・ハワイ・コンベンション」は、ワイキキの浜辺を歓喜の怒濤で包み、ここに終了したのである。
 舞台の裏で、衣装担当のメンバーは、互いに抱き合い、声を出して泣いた。
 プロデューサーのジェイ・ハーウェルは、ホテルの六階の指揮室で、最後の花火が打ち上げられたのを確認すると、無線機で指示を出した。
 「よし、終了だ。大成功だ。これから退場の態勢に入る。速やかに移動だ」
 その声が上ずった。顔には大粒の涙が光っていた。彼は自分に言い聞かせた。
 ″決して、最後まで油断してはならない。むしろ、これからが本番だと思うことだ!″
62  潮流(62)
 「私は、コンベンションの大成功を、心から喜ぶとともに、皆さんの献身的な努力を、高く評価申し上げます。この催しの最も重要な点は、人間と人間の共同作業による偉大な力を示してくれたことであります」
 三日間にわたるコンベンションが終了した翌日の二十八日夜、ジョージ・アリヨシ州知事は、感動をかみしめるように語った。行事に協力してくれた関係者らを招いて行われた、答礼の晩餐会でのことである。
 コンベンションは、異体同心の団結の勝利であった。
 アメリカに、世界に求められているものは、まさに、世界の平和と人類の繁栄のための″共同作業″であろう。それには、皆が、尊い仏の生命を具えた同じ人間であるという、仏法の万人尊重の哲学が不可欠である。
 コンベンションは、その哲学の輝きをアメリカ社会に示すものとなったのである。
 この席上、アメリカのSGIから、ハワイ州の多大な尽力に対する感謝の意を込め、州立図書館に二千冊の日本語書籍が寄贈されたのをはじめ、養護施設や老人ホームに寄付金が贈られた。
 また、ホノルル動物園には、「ポリネシア村」が、そっくり提供されることが発表された。
 「宗教の任務とは正義をなし、慈悲心を持ち、同胞を幸せにするよう努力することからなるものと信じている」とは、アメリカ独立革命の思想家トマス・ペインの言葉である。
 SGIの精神も、人類という同胞の幸せの実現にある。ゆえに″社会のために何ができるか″という、社会貢献の眼を常にもって、運動を進めていくことが大切になるのだ。
 晩餐会のあと、伸一は、アメリカの首脳らと、懇談した。大行事を終えた今、アメリカの組織として、何をすることが大切かを、訴えておきたかったのである。
 「ご苦労様! 無事に終了してよかった」
 アメリカの理事長が答えた。
 「はい。みんな喜んでおります」
63  潮流(63)
 アメリカの理事長は、誇らしげに語った。
 「来年は、建国二百年祭の慶祝行事として、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアの三都市でコンベンションを開催します」
 山本伸一は、その言葉をさえぎるように、強い口調で語り始めた。
 「コンベンションもいいでしょう。 社会が学会への理解を深める場にもなるし、参加者も、題目を根本に懸命に頑張るならば、歓喜もある。信心の成長もある。
 しかし、コンベンション自体は、広宣流布、世界平和、一生成仏をめざすための、一つの化城です。仮の目的にすぎない。
 派手なコンベンションばかりを設定し、皆が時間的にも、経済的にも疲弊して、へとへとになり、仏法対話にも、教学の研鑽にも、座談会にも力が入らなくなってしまうならば本末転倒です。
 したがって、皆に過剰な負担をかけ、年々、派手になっていく一方のコンベンションの在り方は、考え直さなければならない。
 本当に大事なのは、日々の学会活動です。目立たぬ、地道な活動です。そして、メンバー一人ひとりが、信心の喜びに満ちあふれ、地域や職場で信頼を勝ち得て、勝利者になっていくことです。
 そのための力となる運動でなければならない」
 また、伸一は、皆に無理が重なれば、注意力も散漫になるなど、事故も起こりがちになることを指摘し、こう語った。
 「良い報告よりも、むしろ、事故など、悪い事態が生じた時こそ、きちんと報告することが大事です。そうすれば、あらゆる手が打てる。次の事故を未然に防ぐこともできる。
 幹部は、自分の立場を守るために、悪い報告を握りつぶすようなことがあっては絶対にならない。その体質が最も危険なんです」
 あの浮島の火災について、伸一は、日本の同行の幹部から報告を受けた。しかし、アメリカの最高幹部からは、何も聞かされていなかった。彼は、その悪しき姿勢を打ち破っておきたかったのである。
64  潮流(64)
 七月二十九日の午後、山本伸一は、コンベンションを陰で支えてくれた役員らの激励に、ハワイ会館を訪れた。感謝の思いを伝え、少しでも慰労したかったのである。
 「感謝の念も、ただ心の中で思っておるだけのものであれば、それは実践のない信仰と同じで死物に過ぎぬ」とは、スペインの作家セルバンテスの警句である。
 会館に到着した伸一は、共に勤行し、健闘を讃えたあと、簡潔に語った。
 「信心の基本は、どこまでも題目と教学と学会活動です。それを根本に、同志と仲良くスクラムを組んで、次の目標に向かって、楽しく進んでいってください。
 皆さんが和気あいあいとしたご家庭を築き、それぞれの生活を盤石にしていかれるよう祈っております」
 さらに、会館の中庭で、四百人のメンバーが参加し、ガーデンパーティーが行われた。
 庭の一角には、バーベキュー用の焼き台が置かれ、数人の婦人たちが、肉やソーセージを慌ただしく焼いていた。
 伸一は、庭に出ると、真っ先にこの台の前に立った。
 「今日は、皆さんがお客様です。私が感謝の心を込めて、おもてなしいたします」
 こう言うと彼は、肉を焼き始めた。
 ジュージューと脂のしたたる肉を、素早くひっくり返し、皆の皿に取り分ける、彼の鮮やかな手さばきに、皆の笑みがこぼれた。
 やがて、特設ステージで、メンバーによるハワイアンダンスが始まった。
 伸一も峯子と一緒に、演技を見守り、拍手を送った。
 この会場には、ドミニカ共和国のゴイコ・モラレス副大統領らが、帰国のあいさつに訪れていた。副大統領は伸一に握手を求めた。
 「山本会長は、一人の人間を大切にするなかに、世界の平和があると主張されている。実際に会長は、その言葉通りに自ら行動されている。
 言葉と事実の一致があります。実に偉大なことです。これは、誰にでもできることではありません」
65  潮流(65)
 ドミニカ共和国のゴイコ・モラレス副大統領は、笑顔で、山本伸一に語った。
 「ハワイとドミニカ共和国は、気候も風土もよく似ています。
 私はハワイのSGIメンバーの姿を見て、ドミニカの未来に自信をいだきました。人びとが希望に燃え、はつらつとしていくならば、どの国も発展するし、幸せな国になれるという原理を学んだからです。
 私どもは、山本会長の精神面でのアドバイスを求めています。一日も早く、ドミニカにいらしてください」
 語らいは尽きなかった。伸一は、副大統領夫妻らを、メンバーと共に盛大な拍手で送ったあと、メンバーの輪の中に入り、労をねぎらい、一人ひとりと握手を交わしていった。彼の全身から、汗が噴き出していた。
 「ありがとう! また、お会いしましょう」
 「君の成長を楽しみにしているよ」
 わが生命を吹き込む思いでの激励である。
 世界平和の潮流といっても、人間主義の旗を掲げ持つ、人材群が育つかどうかで決まってしまう。そのためには、一瞬一瞬の励ましこそが、勝負なのだ。
 皆を激励した伸一と峯子は、メンバーに送られ、車に乗った。会館の門のところに来ると、アロハシャツを着た日系人の青年が警備をしていた。
 伸一は、車を止めてもらい、窓を開けた。
 同乗していたアメリカの幹部が言った。
 「彼はバーナード・カワカミです。先生のハワイ初訪問の折、先生を訪ねて、両親と一緒にホテルに来ておりました。記念に袱紗もいただいています。当時はまだ、小学生でした。彼の姉は、ハワイの女子部長です」
 伸一は満面の笑みで、握手を交わした。
 「ありがとう。立派な指導者に育ってください。あなたの未来を見守っています」
 十五年前の苗木は今、緑茂る樹木に育ち、ハワイの大地に根を張っていたのだ。平和の新しき潮流が起ころうとしていたのである。

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