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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「新世紀」 新世紀

小説「新・人間革命」

前後
2  新世紀(2)
 ソ連から帰国した山本伸一は、この日の夜には副会長会議に出席して、新しい出発の打ち合わせを行うなど、一日の休息もなく、広宣流布の諸活動に全力を注いでいった。
 そして、六月の五日には、彼の故郷でもある大田区の代表五十人と、東京・港区内で協議会をもった。
 大田は、伸一を生み、育んだ天地である。師匠の戸田城聖との出会いも、この地であった。また、彼の広宣流布の初陣ともいうべき、一九五二年(昭和二十七年)の「二月闘争」の主戦場も大田であった。
 伸一は蒲田支部の新任の支部幹事として指揮を執り、一支部で二百一世帯という、当時としては未曾有の弘教を成し遂げたのだ。
 この蒲田支部の戦いが、それまでの低迷を打ち破り、戸田城聖が生涯の願業として掲げた、会員七十五万世帯達成への突破口を開いたのである。
 伸一が、第三代会長の就任式に出発したのも、初の海外訪問に出発したのも、大田区小林町の自宅からであった。
 ローンで購入した、小さな、質素な家であったが、そこから世界広宣流布の歴史が織り成されていったのだ。
 大田には、伸一が生命を削るようにして築き上げた黄金の歴史が無数にある。まさに、かけがえのない創価の精神の宝庫である。
 この誇りを忘れれば、どんなに偉大な歴史も単なる昔話となり、その精神は埋もれ、死滅していってしまう。
 師匠が、先人たちが、築き上げてきた敢闘の歴史は、その心を受け継ぎ、新しき戦いを起こそうとする後継の弟子によって、今に燦然たる輝きを放つのだ。
 伸一は、大田の同志には、あの「二月闘争」の指揮を執った若き日の自分と、同じ決意、同じ自覚、同じ情熱をもって、新時代の突破口を開いてほしかった。
 自分に代わって、皆が力を合わせ、大田を広宣流布が最も進んだ模範の地にしてほしかった。
 ″出でよ、陸続と出でよ! 山本伸一よ!″
 彼は、そう祈り、念じながら、大田区の協議会に出席したのだ。
3  新世紀(3)
 大田区の代表との協議会で、山本伸一は皆の意見を聞きながら、次々と提案を重ねた。
 そして、蒲田会館を、大田の中心拠点にふさわしい機能を備えた蒲田文化会館に改築。大森、雪谷の両会館も、文化会館に建て替えることになった。また、学会の組織として同区に所属する八丈島に、会館を建設することなどが決定した。
 学会はこれまで、総本山の整備をはじめ、宗門の寺院建立に力を注ぎ、学会の会館の整備は、後回しにしてきた。しかし、一九七二年(昭和四十七年)の正本堂の建立、そして、それに伴う周辺の整備がほぼ完了したことから、向こう五年間は、会館の建設など、学会の新しい発展の基盤づくりに力を入れることになっていた。
 伸一は、会館というと、戸田城聖との忘れられない思い出があった。
 ――本部となる独自の会館をつくることは、戦後、戸田が学会の再建に着手した時からの夢であった。戸田は、よく伸一に、「学会としての会館もないのでは、同志がかわいそうだ」と、もらしていた。
 しかし、一九四九年(同二十四年)秋ごろから、戸田の会社の経営は悪化し、窮地に陥っていった。学会に迷惑をかけないようにと、戸田は学会の理事長も辞任した。とても会館の建設どころではなかった。
 そんなある日、戸田と伸一は日比谷方面に出かけた。どしゃ降りの雨になった。傘もなく、タクシーもつかまらなかった。全身、ずぶ濡れになった戸田を見て、伸一は胸が痛んだ。弟子としていたたまれぬ思いがした。
 目の前に、GHQ(連合国軍総司令部)の高いビルがそびえ立っていた。そのビルを見上げて、伸一は戸田に言った。
 「先生、申し訳ございません。必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
 弟子の真剣な決意を生命で感じ取った戸田は、嬉しそうにニッコリと頷いた。
4  新世紀(4)
 山本伸一は、ただ″すべてに勝って、戸田先生にお喜びいただくのだ″との一念で、働き、戦い、走り抜いた。
 伸一の心には、瞬時も離れず戸田がいた。彼の日々は、瞬間、瞬間、師匠である戸田との対話であった。彼は確信していた。
 ″自分の一挙手一投足を、心の奥底を、常に先生はご覧になっておられる!″
 そして、″いかなる瞬間をとっても、常に胸を張って、先生にご報告できる自分であらねばならない″と心に決めていた。
 毎朝、唱題しながら、伸一は誓った。
 ″先生! 今日もまた、全力で戦い抜きます。先生のために、必ず勝利いたします。まことの弟子の実践をご覧ください″
 だが、戸田と伸一を襲う風は、激しく、冷たかった。しかも、伸一は胸を病んでいた。発熱も続いていた。厚い困難の壁に阻まれ、呻吟する夜もあった。
 そんな時には、戸田の叱咤が胸に響いた。
 ″今が勝負だ! 負けるな! 自信をもって、堂々と突き進め! 戸田の弟子ではないか! 師子の子ではないか!″
 戸田を思うと、勇気が出た。力がわいた。
 自分らしく戦い抜いた日には、伸一の胸には、会心の笑みを浮かべる戸田がいた。
 ″よくやった、よくやったぞ!″
 伸一にとって、怠惰や妥協は、自身の敗北であるばかりでなく、師匠を悲しませることであり、裏切りでもあった。
 師弟とは、形式ではない。常に心に師があってこそ、本当の師弟である。心に師がいてこそ、人間としての「自律」があり、また、真の「自立」があるのだ。
 伸一の陰の奮闘によって、戸田は最大の窮地を脱し、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、晴れて第二代会長に就任する。
 この日、伸一は、日記に記している。
 「吾人は、一人、集会の中央に、静かに、先生の、先輩諸氏の話を聞き入るなり。十年先の、学会の前途を、見定める青年ありとは、先生以外に、誰人も知らざるを思いながら」
5  新世紀(5)
 戸田城聖が第二代会長に就任しても、しばらくは学会の経済的基盤は確立できず、独立した本部の建物をもつことはできなかった。
 戸田の会社の事務所があった、東京・千代田区西神田の建物の一部を、本部として使っていたのである。
 戸田は、会員のために、一刻も早く、広い立派な建物をつくりたいと念願していた。皆に申し訳ない気持ちさえ、いだいていた。
 しかし、そんな戸田の心も知らず、「学会も早く本部をつくらなければ、何をやるにも不便で仕方ありませんな。そろそろ、世間があっと驚くような、建物の一つももちたいものですね」などと言う幹部もいた。
 すると、戸田は強い口調で語った。
 「まだよい。かたちばかりに目を奪われるな。私のいるところが本部だ! それで十分じゃないか。今は建物のことより、組織を盤石にすることを考えなさい」
 山本伸一は、そんな戸田の言葉を聞くたびに、心に誓っていた。
 ″先生、私が頑張ります。一日も早く、気兼ねなく皆が集える、独立した本部をもてるようにいたします″
 一九五三年(昭和二十八年)十一月、新宿区信濃町に学会本部が誕生した時、戸田はまるで、子どものような喜びようであった。
 「遂にできたな! すごいじゃないか。創価の大城だ。これからは、ここで私が指揮を執る。朝から晩まで、同志は自由に集って来られる。広宣流布は破竹の勢いで進むぞ!」
 それは、弟子の誓いの結実であった。
 新本部といっても、大広間が、わずか七十畳ほどの広さである。しかし、この新本部の誕生を境に、広宣流布の前進は、一段と加速していったのだ。戸田は伸一に言った。
 「将来は、日本中に、こんな会館が建つようにしたいな」
 伸一は、その言葉を生命に刻んだ。
 そして今、かつての学会本部をはるかにしのぐ、幾つもの大会館を、各県区に、つくれるようになったのである。
6  新世紀(6)
 山本伸一は、大田区の代表との協議会で、会館建設への思いを語っていった。
 「今までは会館建設にまで手が回らず、皆さんには、何かとご苦労をおかけしてきました。どの会館も質素で狭く、木造のものも多かった。
 しかし、いよいよ、新しい段階を迎えました。これからは、都内の各区に、鉄筋コンクリートの、立派な文化会館をどんどんつくってまいります。皆さんの会館です。また、平和と文化を創造する地域の牙城です」
 皆の思いをはるかに超えた、建設の構想である。参加者の顔は、喜びに輝いていた。
 皆の心を見抜いたように、伸一は言った。
 「皆さんは″考えもしなかった、すごいことだ! わが区に、立派な会館を幾つもつくってしまってよいのだろうか″と思われているかもしれません。しかし、広宣流布の未来の広がりを考えるならば、必要不可欠です。学会の会館は、まだまだ少ない。他の宗派と比べてみても、それは明らかです」
 伸一が言うように、他宗派の寺院・教会等の数と、学会の会館数を比べてみれば、いかに少ないか一目瞭然である。
 たとえば、天台系全体の信者数は五百四十万余で寺院・教会等の合計は四千二百余。また、真言系は信者約千二百万で寺院・教会等は一万二千四百余、浄土系は信者二千万余で寺院・教会等が三万五百余、禅系は信者一千万余で寺院・教会等が約二万となっている。<『宗教年鑑(昭和50年版)』文化庁>
 学会は、このころ既に、会員数は約一千万であったが、会館は四百に満たず、いずれも小さな建物であった。
 しかも、学会の会館は、連日、同志が集い、勤行会、教学の研鑽、指導会、研修会、打ち合わせなどが行われ、その使用頻度は他宗派の寺院などと比べて極めて高い。
 それらを考え合わせると、効率的な広宣流布の活動を推進していくためには、さらに全国に会館を整備していく必要性を、伸一は痛感していたのである。
7  新世紀(7)
 山本伸一は、大田区の幹部たちに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「地域広布を推進していくには、地域の方々に、学会の会館はわが町の誇りであると、思っていただけるようにすることです。
 したがって、会館の使用に関しては、駐車や駐輪、騒音などで、近隣に迷惑をかけることがないように心がけていただきたい。
 そして、『学会の会館があると、地域が明るくなり、活気づく。町が栄える』と言われるようにしていくことが大事です。
 また、会館を立派にするのは、もし、地震や台風などの災害があった時には、地域の方々の避難所としても使えるようにするためでもあります。地域を守り、繁栄させ、人びとを幸福にしていくための会館です。
 学会の会館は、地域の発展に寄与する灯台です。皆さんは、その灯台守の自覚で、会館を守っていってください」
 皆が大きく頷いた。
 さらに、伸一は、決意を込めて語った。
 「大田は学会の源流の地です。大切な広宣流布の要衝です。年ごとに、大発展していかなければならない。
 将来は、もっと、もっと、立派な会館を、この大田の地につくっていきます。そのために私は、今の何倍も懸命に働きます。みんなで創価の大田城をつくろうじゃないですか」
 「はい!」
 元気な声がはね返った。
 会館の改築、建設の構想は、日夜、地域広布に邁進するメンバーにとって、希望の目標となり、大きな励みとなった。
 皆の夢は、広がった。
 「たえず力を新たにして新しい道を求めること――これこそが、いつの世にも進歩の秘訣」とは、詩聖タゴールの言葉である。
 協議会では、参加者から、地域友好の在り方や女子部の活動の進め方などについて、活発な質問が相次いだ。皆が躊躇なく、自由に質問し、語り合える雰囲気のなかにこそ、創価の人間主義の実像がある。
8  新世紀(8)
 東京各区などの協議会は、時には「代表者会議」「最高会議」等の名称で、次々と開催されていった。
 大田区の協議会の翌日にあたる六月六日には世田谷区、十日は第二東京本部、十二日は神奈川県、十四日は品川区、十五日は埼玉県、十六日は港区、十七日は練馬区、十九日には江東区、二十日は中野区……と続いた。
 いずれの協議会でも、会館の建設や改築をはじめ、記念行事の開催などが決まり、新しい前進の目標が打ち出されていった。
 希望を生み出すことは、価値を創造することである。勇気の火をともすことである。
 東京の協議会は、七月五日の渋谷・目黒区の協議会で早くも一巡した。
 山本伸一は、各大学会の総会への参加、識者との会談など、強行スケジュールをこなすなかで、これらの協議会に、相次ぎ出席していったのである。まさに、電光石火の行動であったといってよい。
 「行動の迅速は大勝の秘訣である」とは、十九世紀のイタリアの革命家マッツィーニの警句である。
 戦いはスピードだ。速さが勝負だ。行動が遅れ、打つべき時に手を打ち損なえば、未来に敗北を招くことになる。
 それぞれが迅速に、今日の使命に生き、今の課題を完璧に果たし抜いていくなかに、広宣流布の大勝はある。
 この年の七月三日は、第二代会長・戸田城聖の出獄三十周年であった。伸一はこの日、東京・港区内で行われた、記念集会に出席した。
 集い合うのは、戸田のもとで薫陶を受け、戦後の草創期から共に戦ってきた、戸田門下をはじめとする三百数十人である。伸一は、その功労の同志をねぎらおうと、記念集会の形式を会食としたのである。
 彼は首脳幹部のあいさつに耳を傾けながら、″先生の出獄から三十年にして、実質的に日本第一の教団となった今日の創価学会を先生がご覧になったら、どれほどお喜びか″と思うと、目頭が熱くなるのを覚えた。
9  新世紀(9)
 山本伸一は、戸田城聖の経営していた事業が行き詰まり、戸田が同志に迷惑をかけまいと、学会の理事長辞任を発表した日のことが、思い起こされてならなかった。
 それは、伸一の入会三周年の記念日にあたる一九五〇年(昭和二十五年)の八月二十四日、東京・西神田の学会本部で行われた法華経講義の終了後のことであった。
 戸田は、理事長の辞任を語ったあと、自ら新理事長の人事を発表した。
 当時は、会長不在の時代であり、理事長が学会の一切の責任を担っていたのである。
 戸田の悲壮な決意を聞いた、伸一の衝撃は大きかった。動揺を隠せなかった。
 ″創価学会は、そして、広宣流布は、どうなってしまうのか……″
 伸一は戸田のいる部屋を訪れ、これから自分の師匠は、新理事長になるのかを尋ねた。
 即座に、戸田の答えが返ってきた。
 「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠はぼくだよ」
 伸一の全身に、言いしれぬ喜悦がほとばしった。彼の迷いは、ことごとく吹っ切れた。
 心は決まった。
 創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の「獄中の悟達」にある。法華経に説かれた「在在諸仏土 常与師倶生」(在在の諸仏の土に常に師と倶に生ず)の文を生命で読んだ戸田の、「われ地涌の菩薩なり」との悟達こそが、学会の魂である。その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする「創価学会仏」たりえるのである。
 この時、伸一は決意した。
 ″戸田先生は広宣流布の大指導者である。先生に自在に指揮を執っていただかなければ、広宣流布はない。人びとの幸福も、世界の平和もない。よし、私が働いて、働いて、働き抜いて、先生の借金も返済しよう。そして、戸田先生に、会長になっていただこう。それが、弟子である私の戦いだ!″
 伸一は、戸田に「仏」を見ていた。戸田を守るなかに、弟子の道があると思った。
10  新世紀(10)
 山本伸一は胸を病んでいた。しかし、戸田城聖を守るために、生命をなげうつ思いで懸命に働いた。
 そして、戸田の事業に新たな局面が開かれ、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、戸田は第二代会長に就任するのである。
 その会長就任式の席上、戸田は、生涯の願業として、会員七十五万世帯達成の決意を発表。新生・創価学会は、広宣流布への新たな船出を開始したのである。
 彼は、常に弟子たちに語っていた。
 「広宣流布は、この戸田がする。七十五万世帯は、戸田の手で達成する。君たちも手伝いたいか!」
 戸田は、決して「戦ってくれ」とは言わなかった。自分でやると決めていたのだ。一人立ったのである。弟子たちは、「お手伝いをさせてください!」と、広宣流布の戦いに加わることを、戸田に誓願したのだ。
 だが、その戸田が、ある時、伸一にこう語ったのである。
 「広宣流布は、お前がやるのだ。大聖人の仰せの通りに、立正安国の戦を起こせ! 手伝いをしている気持ちの者が、何万人集まろうが、本当の戦いはできんぞ!」
 戸田は、最終的には、自分と同じく、師子となって一人立つ弟子を、つくろうとしていたのである。そして、その範を示す使命を、伸一に託したのだ。
 広宣流布を成就する力は、師子の団結にある。傍観者の群れや、人を頼み、互いにもたれ合うような烏合の衆では勝利はない。″一切の責任を私がもつ!″と心を定めた、一人立つ師子と師子との結合が大願を成就するのだ。
 自分がすべてを担う、主体者、責任者の自覚に立つ時、勇気がほとばしる。力が出る。英知がわく。執念が燃え上がる。また、その勇猛果敢な実践のなかに、生命の躍動と充実と幸福がある。
 トルストイは言明している。
 「使命に生きる人の人生は、増え続ける幸福の連続である」
11  新世紀(11)
 恩師・戸田城聖についての、山本伸一の思い出は尽きなかった。
 戸田の出獄から十二年後の一九五七年(昭和三十二年)七月三日、伸一が選挙違反という無実の罪を着せられ、不当逮捕された大阪事件の時のことである。
 伸一が手錠姿で人目にさらされながら、地検の別館に連れていかれたとの話を耳にした戸田は激怒した。関西本部に頻繁に電話を入れ、弁護士を呼び出すと、戸田は叫んだ。
 「直ちに手錠を外させろ! すぐに伸一を釈放させろ!」
 さらに、唸るような声で言った。
 「学会をつぶすことが狙いなら、この戸田を逮捕しろと、検事に伝えてくれ。
 かわいい弟子が捕まって、牢獄に入れられているのを、黙って見過ごすことなど、断じてできぬ。戸田は逃げも隠れもせんぞ」
 そして、検事正に抗議するため、自ら大阪地検に出向いたのだ。
 戸田の逝去の九カ月前のことであり、体は著しく衰弱していた。同行の幹部に支えられ、喘ぐように息をし、よろめきながら、地検の階段を一段一段、上っていったのである。
 「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか!」
 戸田は怒りに燃え、血の叫びを放った。
 一方、獄中の伸一は、検事に″罪を認めなければ戸田を逮捕する″と迫られていた。
 戸田の逮捕は、死につながりかねない。戸田が倒れれば、広宣流布の柱を失う。平和の道、幸福の道が閉ざされてしまう。
 やむなく伸一は、ひとまずは罪を一身に被って、法廷闘争を決意したのである。
 出獄後、戸田の話を聞いた伸一は、師の慈愛の深さに慟哭した。また、民衆勢力を打ち砕かんとする権力の魔性の卑劣さ、狡猾さを身に染みて痛感したのである。
 彼は生涯にわたる人権闘争を決意した。
 ″権力の魔性の牙をもぎとるのだ。それは命がけの闘争だ。しかし、民衆の力で断じて勝つのだ。絶対に負けるわけにはいかぬ!
12  新世紀(12)
 戸田第二代会長の出獄三十周年記念集会であいさつに立った山本伸一は、声高らかに宣言した。
 「恩師の出獄から三十年、今、私どもは新しい出発の時を迎えました!
 新しき前進、新しき希望――それが、創価学会に脈打つ、不屈の精神であります。
 御聖訓に照らして、これからも私たちには激しい嵐がありましょう。獰猛な波浪の攻撃もありましょう。
 しかし、私たちは、信教の自由を、人権を、人びとの幸福と平和を守るために、戦い続けなければなりません。 
 創価学会は、平和と人権の城塞です。庶民の蘇生の花園です。人間共和の縮図であります。私は、民衆の幸福と恒久平和を実現するために、終生、この学会を全力で守り、育ててまいります。それが、戸田先生にお応えする道であると確信しております。
 戸田先生は、昭和二十七年(一九五二年)二月の青年部研究発表会で、東西冷戦の渦中にあって、『地球民族主義』を提唱されました。その世界平和への大構想を実現するために、私は命の限り、走り抜いてまいります。
 また、恩師の偉業を讃え、永遠に顕彰するために、先生の故郷である厚田村に、記念碑を建設することを提案し、私のあいさつとさせていただきます」
 力強い、弟子の誓いの言葉となった。
 師匠を宣揚することは、運動の原点を明らかにすることでもある。師の教え、生き方のなかに、自分たちの運動の目的が示されているからである。ゆえに、戸田城聖も、初代会長・牧口常三郎の偉業を、生涯、宣揚し抜いた。十回忌には、牧口の『価値論』を補訂・再版し、その英訳を、世界の四百以上の大学・研究所等に送ったのである。
 記念集会が終わり、車に乗る伸一を、青年部の代表が見送りに来た。
 会場の玄関で車を待つ伸一に、青年の一人が、意を決したように語った。
 「先生、お願いがあります!」
13  新世紀(13)
 青年部の代表が話し始めた。
 「七月十一日には男子部結成記念日を、十九日には女子部結成記念日を迎えます。そこで、戸田先生と山本先生の師弟についての青年部の座談会を行い、聖教新聞に掲載したいと思っています。
 現在の青年部員の大多数は、戸田先生にお会いしたことはありません。そうした若い世代が、学会の精神を学んでいく糧にしたいと考えています。そのために、山本先生に、時間をとっていただき、戸田先生の人格、思想、行動、また、指導や思い出について、お教え願いたいのですが……」
 伸一の顔に微笑が浮かんだ。
 彼は、青年が自発的に恩師の精神を学び、継承していこうという心意気が嬉しかった。それを、何よりも大切にしたかった。
 「そうか。大事なことだね。応援するよ。
 しかし、戸田先生の指導は、ほとんど本に収録されているし、私もこれまで、先生のことは、みんなに話してきた。
 だから、今度は、みんなで先生の指導について思索し、君たちにとって″戸田先生とは″また″学会の師弟とは何か″を考えていくんだよ。その意味から、紙上座談会のタイトルは『青年が語る戸田城聖観』としてはどうかね。自由に、大いに語り合いなさい」
 青年の瞳が光った。
 紙上座談会に登場することになった青年部の代表は、戸田と伸一の指導を読み返し、思索に思索を重ねた。メンバーは、男子部長、女子部長、学生部長ら数人である。
 座談会は、「男女青年部結成の意義」から始まった。
 ――戸田には″広宣流布は青年に託す以外にない″との強い思いがあった。戦時中の弾圧の時も、戦後、戸田の事業が破綻した時も、多くの年配者が退転していったからだ。
 「私のすべての希望は、青年たちにかかっている」とは、トルコの初代大統領ケマル・アタチュルクの言葉である。戸田も同じ心境であったにちがいない。
14  新世紀(14)
 座談会の出席者は、青年部結成について、それぞれの考えを述べていった。
 「戸田先生は、もはや頼みとすべきは青年以外にないとの結論に達し、『時』と『人』とを待たれた。『人』は、あらゆる苦難に耐えて、師弟の道を貫いてきた山本伸一青年を得た。『時』は、第二代会長就任の直後という、名実ともに″戸田時代″の幕開けを告げる冒頭を選ばれた。
 したがって、青年部の結成には、創価学会の本格的な広宣流布への出発の意義がある」
 それを受けて、学生部長の田原薫が、力を込めて語り始めた。
 「私も、そう思う。戸田先生は、男子部の結成式で、このように言われている。
 『今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお祝いを申し上げておきたい』『広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であります』
 そこには、師弟の甚深の意義がある。つまり、広宣流布を誰に託すかという、重大な問題が示されている」
 結成式に山本伸一は、一班長として出席していた。彼は、戸田が五月三日の会長就任式で発表した会員七十五万世帯を、弟子として絶対に達成すべき、自分のテーマであると決意していた。そして、この五月三日の日記に「進まん、法旗を高らかに。広宣流布を目指して」と記している。伸一は、この誓いを胸に、男子部の結成式に臨んでいたのである。
 田原は確信をもって断言した。
 「まさに、結成式は、師弟による広宣流布の共戦の出発という、歴史的な意義をとどめる儀式であるといえる」
 男女青年部の結成の意義は、単に青年層に属する人びとを集めて組織したことにあるのではない。戸田の思想と行動を人生の指標とする、創価の後継者の出発であり、広宣流布を永遠ならしめる、令法久住への流れが開かれたことに最大の意義がある。
15  新世紀(15)
 紙上座談会では、戸田城聖が青年たちに贈った「青年訓」「青年よ国士たれ」(国士訓)についても論究していった。
 「青年訓」の冒頭の「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」とは、戸田の生命の叫びであった。この叫びに呼応して、立ち上がった青年たちが、財力も、権力も、地位もないなか、民衆蘇生の大宗教運動を展開してきたのだ。そして、常にその先頭に立って戦ってきたのが、山本伸一であった。
 出席者の一人が語った。
 「ともあれ、一切の学会の前進は、青年の責任で進められてきた。『国士』というと、今日では、何か大時代的な響きを感じるが、戸田先生が言わんとした意図は、″宗教家であってはならない″、また″事なかれ主義であってはならない″ということだ。
 先生は、″日本の国をいかに安泰にするか″″民衆の幸福をいかに勝ち取るか″″世界の平和にいかに貢献するか″といった課題に応えうる、多次元にわたる青年指導者をつくりたかったのだと思う」
 それを受けて、隣にいた青年が言った。
 「『国士訓』での『宗教家であってはならぬ』という指導は画期的だ。宗教的な権威や形式を完全に払拭し、人間革命から社会革命へと至る真実の宗教を確立しようとする、宗教革命そのものではないだろうか」
 さらに、「青年訓」の「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」との一節にも言及していった。
 別の青年が感嘆した声で語り始めた。
 「この一節は学会の原点だ。人間のさまざまなエゴが噴出し、今や、それを克服できるかどうかが、人類の命運を決する事態にまで至っている。この宣言を時代精神とし、人間のエゴを慈悲に転じていくなかに、真実の社会建設がある。これが私たちに課せられた立正安国の戦いだ」
16  新世紀(16)
 広宣流布、立正安国の戦いを進めれば、難が競い起こる。日蓮大聖人は、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せである。
 大聖人は、この世は第六天の魔王が支配する世界であると説いている。魔とは、人間を不幸にする生命の働きである。差別や支配、「殺の心」なども、人間の生命に巣食う魔性によるものである。
 仏法では、その根源を元品の無明、すなわち生命の根本的な迷いにあると説く。それを打ち破るのが「仏」の生命である。
 いわば広宣流布とは、万人の「仏」の生命を覚醒させ、不幸の根源たる「無明」を打ち破る戦いである。ゆえに、広宣流布の前進あるところ、「仏」と「魔」との壮絶な闘争となり、それが法難となって現れるのである。
 日蓮大聖人の御生涯を見ても、「立正安国論」をもって国主諫暁されて以来、迫害に次ぐ迫害の人生であった。「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」と仰せの通りである。松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして、竜の口の法難から佐渡流罪にいたる大難である。
 戸田城聖も、師の牧口常三郎と共に、軍部政府の弾圧という大難に遭い、投獄され、牧口は獄死している。
 また、戦後も、夕張炭鉱の労働組合による学会員の締め出し事件や、山本伸一が選挙違反という無実の罪で逮捕された大阪事件が起こっている。それらは、立正安国の理念の実現をめざして、政治改革に着手したことによって起こった迫害である。
 伸一の第三代会長就任後も、政治権力をはじめ、さまざまな勢力による、学会への攻撃が繰り返されてきた。その攻撃の照準は、いつも会長である伸一に絞られていた。
 学会の団結の要であり、前進の原動力ともいうべき伸一を倒せば、同志は分断され、広宣流布は破綻をきたすことになる。したがって魔は、常に師弟の離間工作に躍起になるのである。
17  新世紀(17)
 学会弾圧の背景には、破竹の勢いで拡大する民衆平和勢力に対する、権力をもつ者の恐れ、憎悪、嫉妬がある。
 万人の生命の尊厳と平等を説く日蓮仏法の革新性への反発がある。さらに、差別意識に基づく、庶民の団体への蔑視がひそんでいる。
 日蓮大聖人の時代から、弾圧を加えるには大義名分が必要であった。
 しかし、「世間の失一分もなし」と仰せのように、大聖人には、社会的な違法行為など全くなかった。
 そこで、不当な手段で竜の口での斬首を計画する。それが失敗に終わると、念仏者らが放火、殺人を行い、日蓮の弟子たちの仕業であると讒言し、大聖人は佐渡流罪となったのである。
 また、熱原法難では、日蓮門下となった農民信徒を弾圧するために、「刈田狼藉」の罪をでっち上げている。田の稲を刈り取って盗んだとしたのだ。
 また、戦時中の牧口常三郎、戸田城聖らの逮捕は、思想・信教の自由を剥奪した治安維持法などの悪法を用いて行われた。学会の主張や実践が、国体の変革や否定、神宮・皇室の尊厳の冒涜にあたるとしたのだ。
 戦後、その悪法は廃止され、日本は民主主義国家となった。しかし、学会への迫害は続くのである。あの大阪事件では、権力は一部の会員が起こしてしまった選挙違反事件を理由に、山本伸一を不当逮捕した。
 つまり、個人的な過失や問題を、学会総体の違法性として転化させていく手法である。
 これらの歴史は、法難と冤罪の構図を浮き彫りにしている。
 さらに、根拠のない噂話をねつ造して喧伝し、それが事実であるかのように騒ぎ立て、捜査や法的制裁の対象に仕立て上げようとすることもあろう。
 また、法解釈をねじ曲げて、学会の諸活動が違法であるとして、弾圧を企てることもあろう。
 社会の制度は変わっても、むしろ、巧妙さを増して、迫害は続くのだ。そこに、正義の仏法者への、受難の方程式がある。
18  新世紀(18)
 青年たちは、御書に照らして、将来、権力の弾圧をはじめ、法難が競い起こるであろうことを自覚していた。
 その時、どうすれば全青年部員が退転することなく、師匠と共に、学会と共に、信心を貫けるのか――紙上座談会では、それが大きなテーマともなった。
 司会を務めた聖教新聞の記者が、問題を提起した。
 「大聖人亡き後、高僧であった五老僧が退転していった。その事実をどう考えるべきか。
 これは単に七百年前の歴史的事実ということではなく、今に、そして、未来にもかかわる極めて重要な問題であると思いますが……」
 五老僧は、大聖人が御入滅に先立って定められた本弟子と呼ばれる六人の高僧のうちの、日興上人を除く五人である。
 いずれも、大聖人の付嘱を受けた日興上人を門下の中心として仰ぐことができずに、敵対していくのだ。
 大聖人は、退転者の共通傾向を、「をくびやう臆病物をぼへず・よくふか欲深く・うたがい多き者ども」と御指摘になっている。
 臆病であり、師の教えを心に刻むことなく、私利私欲が深く、信心への疑いが強いというのである。
 本弟子と言われた五老僧も、そこから脱し切れていたわけではなかった。師である大聖人が御入滅になると、臆病や名聞名利の心が頭をもたげたのだ。そして、幕府の弾圧を恐れ、大聖人の弟子としての誇りも捨て、「天台沙門」(天台宗の僧)と名乗る。また、わがまま、慢心から日興上人を軽んじ、結局、正法正義に背いていくのである。
 女子部長の田畑幾子が言った。彼女は、吉川美香子の後を受け、前年八月、女子部長に就任したのである。
 「五老僧は、自分たちの生き方が退転であり、大聖人に敵対することになるという意識は、なかったのではないでしょうか。
 自分としては、当然のことをしていると思っていたのかもしれません。気づかぬうちに、信心の軌道を踏み外す。そこが怖いところです」
19  新世紀(19)
 青年の一人が、頷きながら語り始めた。
 「大聖人は『佐渡御書』で、弾圧を恐れた弟子たちの言い分を、『日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし』と記されている。
 つまり、彼らは、″大聖人は自分たちの師匠ではあるが、その折伏の方法は、あまりにも強引すぎる。だから、迫害も起こる。自分たちは、もっと柔軟に法を弘めよう″と言うわけです。
 一応、言い分としては、弘教の方法論への批判というかたちをとっているが、その本質には″大聖人の生き方はこうだ。
 しかし、われわれは別の生き方をしよう″という、師匠への″離反の心″がある。それは、無自覚ではあっても臆病な心から起こっている。
 五老僧の場合も同じだ。″あれは日興の生き方だ。われわれとは生き方が違う″という姿勢だ。実は、この″心″こそが、退転の元凶ではないだろうか」
 青年たちの語らいは深まっていった。
 「牧口先生の時代も、皆、御書を拝していたのだから、難があるということは、当然、知っていたはずだ。しかも、当時の座談会にも特高刑事が来ていたわけだから。
 ところが、牧口先生、戸田先生が投獄される。自分たちも、逮捕されるかもしれないという恐怖感をいだくようになる。また、先が見えず、未来に希望がもてなくなる。
 それで″自分たちは自分たちでいこう。牧口先生の生き方では駄目だ。違った生き方をしよう″ということになる。ここに、師弟の道の逸脱があり、信仰者としての破綻があったのではないか」
 このとらえ方は、正鵠を射ていよう。大聖人は、信心の肝要を「自他彼此の心なく」と述べられている。
 ″どこまでも広宣流布に進む師匠と共に、同志と共に″という異体同心の一念、師弟不二の一念を失う時、信心の軌道から外れ、瞬時にして信仰は破壊されてしまう。
 そうなれば、無明の深淵へと転落していくことになる。
20  新世紀(20)
 青年たちは、やがて学会に競い起こる法難を自覚する時、自分たちの今後の課題がクローズアップされてくるのを感じた。
 「現在の青年部は、いわゆる″信仰第二世代″です。かなり出来上がった広宣流布の環境のなかで信心をしている。最初に信仰した親たちは、学会への誤解と偏見や、草創期の折伏運動に伴って起こった、嵐のような非難・中傷を浴びながら信心を貫いてきた。しかし、われわれは、そうした体験に乏しい。ともすれば、それが信仰者としての弱さになりかねない面があるのではないか」
 では、どうすべきか――。
 「歴代会長の、不撓不屈の抗戦の姿を学ばなければならない」との意見もあった。「山本先生が、常々、訴えられている『諸難にもあえ身命を期とせん』との覚悟に立つことだ」と力説する青年もいた。
 皆の結論として、「いざという時に立ち上がるには、普段の積み重ねがなければならない。たとえば、家庭指導や折伏にしても、大変なところ、行きづらいところに敢えて挑戦し、困難の壁を打ち破り、苦労し抜いて、自ら鍛錬していくことが不可欠な修行ではないか」ということになったのである。
 「訓練の力は偉大だ」とは、アメリカの思想家エマソンの箴言である。
 紙上座談会では、戸田城聖が示した、読書と思索についてや、「水滸会」での訓練などにも話が及び、白熱した語らいとなった。
 青年たちは、座談会「青年が語る戸田城聖観」の新聞原稿が出来上がると、山本伸一に届けた。伸一は原稿を読みながら思った。
 ″青年が育ってきている! 彼らも自覚しているように、今後、さまざまな大難が学会を襲うだろう。その時に、青年がどうするかだ。そこに、学会の未来の一切がある!″
 この紙上座談会は、男子部結成記念日の七月十一日付から三回にわたって、聖教新聞に見開きで掲載された。それは、新しき時代の到来を告げる青年の叫びでもあった。
 青年が立つ時、「新世紀」の幕は開かれる。
21  新世紀(21)
 山本伸一は、このころ、人間共和の新世紀を築くために、各界の指導者や識者との対話に全力を注いでいた。
 七月十二日には、日本共産党の宮本顕治委員長と都内のホテルで会談した。これは毎日新聞の連載企画で、平和論、組織論、文学・芸術論など、幅広い人生対談となった。
 二人の会談は、かつて伸一と対談した作家の松本清張の勧めによるものであった。
 伸一が宮本との会談に踏み切った動機には、選挙の折などに起こる、公明党を支援する学会員と共産党員の間の、軋轢やトラブルをなくしたいとの思いがあった。
 また、彼には、人類の未来のために、共存は不可能と言われてきた宗教とマルクス主義の、共存の可能性を見いだしたいとの強い思いがあった。
 松本の提案で、二人の対談の前に、まず、両者の代表を決めて予備会談を行い、双方の考えの合意事項を文書にすることにした。
 予備会談は前年の十月から数回にわたって行われ、十二月末に、相互理解への最善の努力をすることや、誹謗中傷を行わないことなどをうたった七項目を合意した。
 この文書が、いわゆる″創共協定″である。協定の期間は十年である。
 この翌日、伸一は、松本清張邸で、初めて宮本委員長と語り合ったのである。
 その後、代表同士の話し合いのなかで、伸一と宮本が毎日新聞の企画による対談を行ったあとに、協定を発表することになった。
 そして、七月十二日の対談となったのである。語らいは「ビッグ対談」として、七月十五日から三十九回にわたって連載された。
 対談の連載が続く七月の二十七日には、″創共協定″が発表されている。
 この協定が延長されることはなかったが、宗教とマルクス主義との共存という、伸一がめざした文明論的テーマは、中国やソ連などの社会主義国と創価学会の、友情と信義の交流となって実を結んでいくのである。
 対話をもって世界を結ぶことこそ、仏法者である伸一の、人生のテーマであった。
22  新世紀(22)
 対話は、人間の結合を生み出す賢者の磁石である。
 山本伸一は、この一九七五年(昭和五十年)の春から、文学界の巨匠・井上靖との手紙による語らいにも取り組んでいた。井上は『風林火山』『氷壁』『天平の甍』『蒼き狼』などの名作で知られ、日本文芸家協会理事長を務めた作家である。
 この往復書簡は「四季の雁書」と題して、総合月刊誌『潮』に七月号から連載されていた。第一回には、伸一が四月に三度目の訪中を果たした印象をつづった書簡と、それに対する井上の返書が掲載された。
 伸一は、中国でカンボジアのシアヌーク殿下と会見した模様や、初めて武漢を訪問し、友情を温めてきた、武漢大学で日本語教師をしている呉月娥と再会したことなどを紹介。国と国との友好といっても、人間と人間の交流こそが根本であることを強調し、永遠の人間交流の道を開くうえで、何が重要であるかを語っていった。
 「人間のもつ永遠の尊貴さに基礎をおかない限り、永遠の友好は確立されないと信じます。これは仏法者としての私の信念でありますが、人間の存在を現世だけのものとせず、過去、現在、未来と三世に亘る存在ととらえる時、人間として在ることの希有な価値と意義とに、おのずから眼が開かれるのではありますまいか。
 そのような自己の存在の本然を覚知した時、それはそのまま他人の存在をも同じく畏敬の念をもって見ることにつながるはずです。人間という存在が、現世という河の流れに浮かぶ飛沫のような偶然の産物であるととらえるところには、生命の深層で共鳴し合う触れ合いは生まれ難いと考えるのです」
 人との関係を、その場限りのものと考えれば、目先の利害という尺度で人を推し量ることになりかねず、真実の友好は生まれない。
 しかし、過去世からの深い絆によって結ばれているとの認識に立つならば、人への接し方は異なり、人間関係はより深いものとなる。
23  新世紀(23)
 人とのつながりが希薄化し、関わりを避ける風潮が蔓延しつつある現代である。その根本的な解決法は、人との出会いという現象の奥に、どれだけ深い意味を見いだすことができるかにかかっているといえよう。
 一つ一つの事象から、人生を荘厳する、最高、最大の意味を見いだしていく、価値創造の源泉こそが仏法なのである。
 山本伸一は、さらに、「私の信ずるところでは、人間の触れ合いの究極の機軸は、師弟という関係にも求められると思います」と記した。
 「教え」「教わる」という師弟の関係は、人生という人間の営みのすべての場面にあり、友好も、この師弟関係を意識する時、最も理想的な形になるのだ。
 「つまり、お互いに師であると共に弟子であるといった、深い人間関係への洞察をもって人間の触れ合いがなされる時、友好は最も実り豊かなものになるように思うのです」
 ものを教わる時、人への尊敬は増し、ものを教える時、人への愛着は増す。
 伸一は、イデオロギーや政治体制の違いを超えて、人間として触れ合い、互いに学び合い、友情を結び合っていくなかに、激動する世界に平和の火を点ずる道があると確信していた。
 その思いを、率直にぶつけたのである。
 井上の返書には、こうあった。
 「私もまた国と国との関係は、政治の形や国柄とは別に、人間一人と一人の友情の交流から出発しなければならぬと固く信じています。
 政治というものは、そうした人間関係を超えた もっと つめたく非情なものだという考え方もありますが、政治もまた人間が携るものである以上、人間的心情と無縁なところに成立するものではないと信じます。
 もし人間の真情や人間関係の持つ誠実さを無視したところに成立する政治であったら、現下のこんとんとした世界情勢に対して、いかなる寄与ができるでしょうか」
 二人の考えは、強く響き合った。
24  新世紀(24)
 山本伸一は、井上靖とは六年ほど前から交友があり、何度か懇談を重ねていた。月刊誌『潮』の編集者に勧められ、会談したのが最初の出会いであった。
 井上は、以前から伸一に強い関心をもち、伸一の著作にも目を通していたようだ。
 一九六八年(昭和四十三年)十二月に、井上靖・臼井吉見編の「10冊の本」(全十巻、主婦の友社)というシリーズの第五巻『生死をこえるもの』が出版された。その中に「幸福の確かめ――青年に贈る短い言葉」と題して、山本伸一の随想や講演、講義などから抜粋した言葉が、名言集として収められた。
 この編者が井上であった。
 一方、伸一は井上文学の愛好者であった。
 井上は日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員にもなっていたが、気さくで飾らない人柄であった。そして、二十歳も年下の伸一に対して丁重な態度で接してくれた。
 六九年(同四十四年)の十一月末ごろから、いわゆる″言論問題″が起こった。年が明けると、学会への批判は激しさを増した。
 この時、何人かの作家が、『潮』に対して、学会の関連雑誌であるという理由で、執筆・取材を拒否することを伝えてきた。
 当時、井上が理事長を務める日本文芸家協会でも一部の作家から、学会に抗議声明を出すべきだとの声があがっていた。その渦中、井上は『潮』の編集長を呼び、こう語った。
 「あれほど深く文学を理解し、また、ご自身でも筆を執られる先生が、『言論の自由』とか、民主主義の基本となることに対して、間違ったとらえ方をされるはずがないと信じています。
 先生のことが、人間的な理解が伴わない形で、誤解されたまま、マスコミに喧伝されているのではないでしょうか」
 ″何かおかしい。意図的な力が働いているのではないか……″
 井上は、そう感じていたようだ。現象の奥にある底流を、鋭く見ていたのだ。それが、真実の″文学者の眼″であろう。
25  新世紀(25)
 井上靖は『潮』の編集長に、さらに、マスコミの陥りやすい問題点を指摘した。
 「火がつけば、付和雷同しやすい。それがマスコミの欠点です。私も新聞記者をしていましたから、ジャーナリストの経験上、よくわかっています」
 また、学会への抗議声明を出すべきだとの声についても、明確に断言したという。
 「協会として特定の人びとを排斥するような、そんな声明を出すなど、少なくとも私が理事長をしている限り、するつもりはないし、させません」
 そして、編集長を、こう励ますのである。
 「仕事でも人生でも、いろいろあるものです。私もそういう時代をくぐり抜け、いろんなことで板挟みにもなってきました。
 今は、降りかかった火の粉みたいに、″なんでこんなことを″と思うかもしれないけれども、すべて、人生のかけがえのない体験だったと、後々になって思い起こされてきますよ」
 その言葉には、普遍の真理がある。
 詩人バイロンは「逆境とは真実にいたる第一の径」と述べ、劇作家メーテルリンクは「逆境はそれまで開いたことのない魂の目を開いてくれる」と記した。
 また、「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」という。困難、試練との戦いが人間を鍛え、強くする。まさに苦境こそ、人生の財産なのだ。
 井上は、窮地に立つ『潮』の編集長を元気づけるために、わざわざ会ったのであろう。また、なんらかの、山本伸一への励ましのメッセージを送ろうとしたのかもしれない。
 伸一は、編集長から、井上の話を聞くと、その真心が、熱く心に染みた。この人のことは、終生、絶対に忘れまいと思った。
 ″言論問題″に腑に落ちぬものをいだいていた井上は、そのために苦境に立っている人を見て、黙っていられなかったのであろう。
 その突き上げる思いこそ、彼の正義感の現れであり、良心の血潮といえよう。そして、そこに、人間性の輝きがある。
26  新世紀(26)
 山本伸一は、井上靖とは、作家の有吉佐和子と一緒に食事をしながら、語り合ったこともあった。井上も、有吉も、中国通とあって、中国の歴史やシルクロード、日中関係の在り方などをめぐって話に花が咲いた。
 さらに、潮出版社から、伸一と井上の対談を連載したいとの話があり、この一九七五年(昭和五十年)の三月初め、二人は聖教新聞社で、約三時間半にわたって懇談した。
 「ぜひ井上先生には、一度、ゆっくりと文学論をお聞かせ願いたいと思っていました」
 伸一が言うと、井上は、じっと視線を注ぎながら、静かに語った。
 「ここ何年間か、会長は外国の一級の方々とお会いされ、思想家として、一段と大きくなられた感じがいたします」
 伸一は答えた。
 「二十一世紀のために、グローバルな視点から、人類をどうするかということを考え、少々動いております。
 一人の人間として、訪問する国のことを思って、率直に意見を述べています。あくまでも、一民間人の立場ですので、政治次元の話はできるだけ避けております。私は、本当は″文学の世界″を旅していたいのです」
 「しかし、そうはなさらないでしょう。使命感、責任感がおありですから。それにしても、実に精力的に、自由に動いておられる。そんな方は、ほかにはおりません」
 「そうはなさらないでしょう」との言葉に伸一は思わず微笑を浮かべた。その通りであったからだ。実に鋭く見ていると思った。
 伸一は仏法者として、日蓮大聖人の仰せのままに、「立正安国」という人類の幸福と平和の実現に生き抜こうと、深く心を定めていた。
 それは命がけの闘争であり、ひとたび戦いを起こしたからには、負けるわけにはいかなかった。勝利を名誉ある使命とし、責任をもって遂行していくのが仏法者の戦いである。
 ゆえに、″文学の世界″を旅して回るなど、実現不可能な願望であることを、彼自身が最もよくわかっていたのである。
27  新世紀(27)
 井上靖は、山本伸一との『潮』の対談に話が及ぶと、居住まいを正して言った。
 「日本文化に貢献するためにも、ぜひ会長との対談を実現したいと考えています。会長は大変に視野が広いので、受け答えするのは、とても難しいと思いますが、やらせていただきたい。ただ、私は話すのは苦手ですので、書簡でお願いできればと思います」
 日本を代表する大作家の謙虚さに、伸一はいたく恐縮した。「最も高邁な人々は、通常、最も謙虚な人々である」とは、哲学者デカルトの洞察である。
 伸一は、井上の真剣さに敬服した。
 「私の方こそ、ぜひ、お願いします。形式は書簡で結構です。楽しくやりましょう」
 この日は、作家論も話題になった。
 井上は「作家に志がなくなった。奇をてらうことばかり考えている作家もいます。節操のない作家は困ります」と言って嘆いた。そして自分は、一生のうち一冊、本当に優れた作品を書き残したいとの心情を、決意をかみしめるように語るのである。
 「晩年の、人間としても完成に近づいていく年代に、最高に優れた作品を仕上げたい。それが勝負です。また、これが一番、幸せなことと思っています。そこに向かって、日々挑戦し、着実に積み上げています」
 既に多くの名著を世に送り出した文豪の言である。果てることなき向上心の発露といえようか。六十七歳にして青年の気概がある。
 文学の世界に限らず、それぞれの人生にあって、全精魂を注いで、自身の最高の作品といえるものを残していく。それが″生きる″ということであろう。
 伸一は、その姿勢に感嘆して言った。
 「地道に、着実に精進を重ね、自分を乗り越え、一心不乱に挑戦していく――王道の規範であると思います。井上先生は王道です。断じて、その王道を行くべきです」
 井上は、目を輝かせた。
 「今日は嬉しいお言葉をいただき、勇気百倍です。意欲がわいてきます」
28  新世紀(28)
 井上靖と山本伸一の往復書簡のタイトルは「四季の雁書」となった。
 連載開始となる『潮』七月号掲載の書簡を伸一が記したのは四月二十八日であり、井上が返書を認めたのは五月四日であった。
 さらに八月号掲載分の書簡を六月十二日に井上が書き、六月十四日には、伸一は返書を書き終えた。
 井上は、五月に中国の北京、洛陽、西安、延安、無錫、上海を旅した印象を述べ、伸一も、フランスのパリ、イギリスのロンドン、ソ連のモスクワを訪問し、ローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイらと会談したことなどを記した。
 伸一は、七月十一日に書いた九月号の書簡では、三十年前の戸田城聖の出獄に触れ、恩師への思いを認めた。
 山本伸一という人間を知ってもらうためには、自分を育んでくれた師匠のことを語らざるを得なかったからである。師ありてこその弟子である。戸田について語る時、彼は最も誇らかであった。
 戸田との初めての出会いや、戦時中、軍部政府の弾圧によって、戸田が先師・牧口常三郎と共に、治安維持法違反、不敬罪の容疑で逮捕、投獄されたことをつづっていった。
 「戸田先生も相当苛烈な目に遇ったにちがいありません。しかし御自身のことはさておいて、師でもあり、共に投獄された高齢の牧口常三郎初代会長のことを、独房でいつも案じていたようです。
 牧口先生の獄中での死を伝えられた時ばかりは、さしも豪気な戸田先生も涙が涸れるほど慟哭されたと承りました。
 『牧口は死んだよ』――こう看守に知らされた時から、実は戸田先生は生涯の道を誓ったと考えられます。この時、恩師の遺志を継ぐのは自分であると決定されたように思えるのです。
 『牧口先生は自分を牢獄までお伴させてくださった』と生前よくもらしておられましたが、この並々ならぬ言葉の中に、私は透徹した師弟の強い絆を知りました」
29  新世紀(29)
 山本伸一は、さらに戸田城聖の、豪放磊落な人間像に触れたあと、こう記した。
 「私は戸田城聖という人間を知り、その人間から仏法を教えられたのです。私の場合、決して信仰というものが先ではなかった。
 戸田先生を知って仏法を知ったのであり、仏法を知って戸田先生を知ったのではありません。
 私がなぜこうしたことを申し上げるかといいますと、実はここに社会万般をつなぐ軸のようなものがあると思うからなのです。
 つまり人間があってすべてが始まるという、単純なことかもしれませんが、私はこのことが実際には忘れ去られているような気がしてなりません。
 権威とか名声とか、形式が優先した社会というのを私は好みません。もっと人間そのものが前面に出て、人間と人間の打ち合いといえばいいのでしょうか、
 そこから混沌の時代や人間関係の希薄さを破る端緒が開けるようにも思えるのです」
 宗教の根本は法である。しかし、生き生きとした宗教の脈動、生きた哲学は、人間と人間の触れ合いを通して伝わるものだ。
 ましてや、人間を離れたヒューマニズムの宗教など、あろうはずがない。そして、その根幹こそが師弟という人間の絆である。
 伸一は、井上靖に、自分の胸中を、ありのままに吐露していった。
 「私の心の中には、いつも戸田城聖という人格がありました。それは生きつづけ、時に黙して見守りながら、時に無言の声を発するのです。生命と生命の共鳴というのでしょうか」
 師は、師弟の道を貫かんとする弟子の心のなかに、永遠に生き続ける。
 井上は、こう返書につづってきた。
 「たいへん心を打たれました。一つの大きな人格に出会い、その人間と思想に共鳴し、傾倒して、ご自分が生涯進む道をお決めになり、しかも終生その人格に対する尊敬と愛情を持ち続けられるということは、そうたくさんあることではないと思います」
 師をもつ人は幸せである。
30  新世紀(30)
 井上靖は、戸田城聖と山本伸一の師弟の絆に、強く共感したようだ。
 「もし恩師がなかったとしたら、今日の自分は無にひとしい存在であったに違いないといったことをお書きになっているのを記憶しております。本当の師弟の関係というものは、そういうものであろうと思います」
 さらに、井上は記す。
 「師との出会を大切にし、それをお育てになったことはもちろんですが、もっと本質的な言い方をすれば、出会を大切にするもしないもない、
 お会いになったという、ただそのことだけで抜きさしならない関係が、お二人の間に成立したということ、成立させるものがお二人の間にすでに用意されてあったということであろうかと思います。
 そうした特別な、謂ってみれば運命的なものに、ある讃嘆の念を覚えずにはいられません」
 透徹した文人の眼は、三世にわたる師弟の絆を見ていたのかもしれない。
 また、井上は、伸一の詩「主題」に「人生にも主題がある」とあるが、「その主題を、戸田城聖氏との出会によって、若くしてお持ちになったわけであります」と書いている。
 井上もまた、人生の師を求めていたのであろうか。
 戸田と伸一を貫く人生の主題――それは、広宣流布という、人類の幸福と平和の実現である。いかなる主題をもつのかによって、人生は決定づけられてしまうともいえよう。
 伸一は、井上の書簡を読みながら、戸田城聖という師と出会い、崇高にして偉大な人生の主題を得たことに、あらためて深い感慨を覚えるのであった。
 この手紙には、井上が郷里の伊豆に帰り、家で手にした伸一の詩集『青年の譜』に収められた詩「母」への感想も記されていた。
 「心打たれました。母が持つ愛の無限の深さ、強さ、広さ、美しさを称えて、その汚れなき広大な愛を、この人間社会関係の基調に置くことができたらと、高い調子で謳っておられます」
31  新世紀(31)
 井上靖は続ける。
 ――母親のおなかから出た子どもたちが生い育ち、明暗さまざまな舞台に主役として登場し、悲惨な現実をつくりだしている。
 「こうした地球上の現実に対して、烈しく抗議する資格のあるのは、おそらく母というものであり、それ以外にはないのではないか」と。
 山本伸一も、全く同感であった。
 母は、子を産み、その幸せを願い、命がけで育む。母には、子を叱る権利がある。
 ゆえに、世の悲惨に敢然と抗議する資格があるのだ。いや、母なればこそ、世の悲惨を、不幸を、不正を、邪悪を、断じて許してはならない。
 母なればこそ、決然と立たねばならない。母の力は強い。母こそが、すべてを変えることができる。
 「母」の詩は、次の一節で終わっている。
 今からは 今日からは あなたの あなた自身の変革による
 思想と聡明さをもって わが家に憧憬の太陽を
 狭く薄暗い社会に明朗の歌声を 春を願い待つ地球上に
 無類の音楽の光線で 平安の楽符を 伸びのびと奏でてほしいのだ
 その逞しくも持続の旋律が 光と響の波として彼方を潤すとき
 あなたは蘇生しゆく人間世紀の母として 悠遠に君臨するにちがいない
 また、別の書簡のなかで伸一は、母の生き方について、こんな話も紹介している。
 戦争で夫を亡くし、郵便局の集配員をしながら娘を育て上げた婦人の話である。
 ――終戦間近の一九四五年(昭和二十年)の梅雨明けのころのことだ。
 彼女の夫は一年ほど前に、ビルマ(現在はミャンマー)で戦死していた。彼女が住んでいた北九州の工業地帯も頻繁に空襲を受けた。町のキリスト教会にはアメリカ兵の捕虜が収容されていた。
32  新世紀(32)
 捕虜のアメリカ兵は、防空壕を掘る作業をさせられていた。そのうちの一人が、喉の渇きに堪えかね、井戸に来た。水を汲み上げ、口にしようとした時、通りがかりの主婦が、釣瓶をもぎ取り、水を撒き捨てた。
 「お前たちに飲ます水は一滴もないよ!」
 夫を亡くした、郵便局の集配員の婦人は、その光景を見て、釘付けになった。
 ″私の夫も、こうして一滴の水を求めて、異国の地で死んでいったのではないか……″
 そう思うと、彼女から、アメリカ兵への敵愾心は消えていた。急いで水を汲み上げて、立ち去ろうとするアメリカ兵のために、道端の草むらに釣瓶をそっと置いた。
 兵士は、喉をならして飲んだ。やがて捕虜の仲間が一人、また、一人と来ては水を飲んでいった。
 いつしか水汲みは、彼女の日課となった。その行為に憎悪の目を向ける日本人もいた。
 彼女は、心から思った。
 ″どこの国の兵士も故国には家族があり、温かい団欒の家庭がある。誰が喜んで戦争などするものか。悪いのは戦争であり、国家の名のもとに民衆を巻き込む指導者である″
 終戦になると、立場は一変した。集配に行く彼女に、四、五人のアメリカ兵が「アリガトウ、アリガトウ」と言いながらチョコレートなどを差し出した。
 家で待つ娘を思うと喉から手が出るほどほしかった。しかし、もらってはならないと、道を急いだ。そんなことを望んでしたことではない。また、敗戦国民といえども、プライドがあった――。
 伸一は、九州を訪問した折に、一婦人から聞いたこの話を紹介し、次のように記した。
 「私には教えられるものがありました。その後、その婦人は娘を立派に育てあげるのですが、その芯の強さ、心の気高さが、彼女を支え、娘を支えたと感じました。
 一人の女性の来し方ではありますが、女性はやはり、そうした意味での″自立″の強さを持つべきであろうと、しみじみ思います」
 母が使命に目覚め、決然と立つ時、平和の堅固な礎が築かれ、世界は変わるのだ。
33  新世紀(33)
 往復書簡では″老い″の問題もテーマとなった。井上靖は、「八十九歳(数え年)の死の直前に次々に傑作を描いた鉄斎という画家を立派だと思わないわけにはゆきませんでした」と述べた。
 山本伸一は、この富岡鉄斎の話を受けて、″老い″について語った。
 老醜、老残などという言葉があるように、″老い″は、ともすれば否定的に考えられがちだが、それは、誰も避けることのできない、「人生の総決算、総仕上げであり、その生の完結」であるとして、こう述べた。
 「私はかねがね人生の本当の勝負というものは、老境にいたって決まるものである、最後の姿がその人の人生のすべてと言えると考えてきました。
 半生を一つの砥石として磨き上げた清冽な生命の輝きが、そのまま昇華されていくわけです。逆に、怠惰と憂鬱の半生は、その老いの姿にもまた不幸な影を宿しているもののようです」
 ″老い″の美しさ、美しく老いることは、人生のいかなる時期の美しさよりも「尊い美しさ」である。
 晩年というのは「人生の秋」であり、その美しさは「紅葉」の美しさではないか。「老いの美しさというものには、ある深さがこめられている」――というのが、伸一の意見であった。
 そして、彼は、その象徴として、「トルストイの晩年の顔が好きです」と記した。人生の最後に家を出て、旅の途次で倒れたトルストイは、その臨終の床でも、不幸な人びとのために泣いたと伝えられている。
 伸一は、十一月に認めた手紙には、今度は″青春″について記している。
 「私は青春とは、たんに年齢的な、または肉体的な若さというだけのものではないと思います。青年期の信念を死の間際まで貫き、燃やしつづけるところに、真実の青春の輝きがあると考えます」
 「私も私なりに生涯青春の、精神の若々しさだけは失いたくないと、しみじみ思っております」
34  新世紀(34)
 井上靖は返書のなかで、山本伸一の「″生涯青春″であらねばならぬという考え方は、老いも、若きも持たなければならぬと思います」と賛同し、さらに、こうつづった。
 「青春の姿勢を、死の瞬間まで崩すべきではないでありましょう。しかし、こうしたことは、一朝一夕にできることではなく、青壮年期をそうした姿勢で貫いて来て初めて、老いてもなお、それを望み得ることであるに違いないと思います。
 私もまた″生涯青春″を心掛けようと思いますし、実際にまた心掛けて来ております」
 井上は新たな挑戦を怠らぬ人であった。日々、健康にも留意し、体も鍛え続けていた。
 ″生涯青春″は、彼の生き方にほかならなかった。ゆえに、その言葉は、井上の胸中に深く、強く、鮮烈に響き渡ったのであろう。
 彼は、この書簡に、新しき年を迎える、挑戦の決意を書きとどめている。
 「今年は、凧に似たものを烈風の中に高く揚げようと思いましたのに、つい果しませんでした。しかし、高く揚げようという気持は持ち続けて来たと思います。
 来年もまた、同じことを繰り返すことでありましょう。生涯青春、生涯青春、――たいへんすばらしい言葉を頂戴した思いであります」
 「凧」とは信念の事業を意味していよう。烈風に挑み、空高く信念と挑戦の「凧」を揚げるのだ。命の燃え尽きる瞬間まで、友を励まし、勇気づけながら、理想への前進を続けるのだ。その人生こそが、まばゆい青春の光彩に満ちているのだ。
 ――『潮』誌上での、伸一と井上靖との往復書簡は、翌一九七六年(昭和五十一年)の六月号まで十二回にわたって続けられた。
 論じ合ったテーマも、生死や老いの問題、祈り、故郷、カント、利休、トルストイなど、幅広かった。しかし、井上は、難解なテーマも、淡々と、わかりやすく論じた。
 そして、七七年(同五十二年)四月には、この往復書簡は、単行本『四季の雁書』(潮出版社)として発刊されている。
35  新世紀(35)
 『潮』での連載が終わった、この一九七六年(昭和五十一年)の秋、井上靖は文化勲章を受けた。
 山本伸一は、ささやかなお祝いとして松の盆栽を贈った。ところが、これが、ふみ夫人に心労をかけてしまうことになったようだ。
 彼女は、随筆集『風のとおる道』のなかで、この盆栽について、こうつづっている。
 「……見事な松の大盆栽は、大そう手入れが難しいようだ。二百年も経っているであろうという老木を、高松からフェリーに載せて、特製の大きな鉢を積んだトラックには、数人が付き添って来られた。
 枯らしては申しわけない。靖とあれやこれやと方法を考えてみたが、なかなか名案が浮かばない。私には、枯らさずに、守りをする自信はとてもない。
 植木屋に相談して、直接、庭に降ろすことになった。水捌けをよくするために、土を小高く盛り上げて、その上に植えた。昔、出雲へ行った時に頂戴した小さな石灯籠を傍に供えた。庭の格が一段と上がった」
 伸一は、それを読んだ時、自分の贈り物によって、井上夫妻を、あれこれ悩ませてしまったことに、少々、心が痛んだ。また、その盆栽を、大切に守ろうとする、ふみ夫人の懸命な心遣いに、胸が熱くなった。
 夫人は、解剖学の世界的権威である足立文太郎博士の長女である。彼女は、四人の子どもを育てながら、徹して夫の健康管理に心を砕き、原稿の清書も手伝った。気骨と優しさの人であった。
 <井上靖氏は、一九九一年(平成三年)一月、八十三歳で逝去。そして、ふみ夫人も今年十月、九十八歳で逝去された。心より、哀悼の意を表したい>
 夫妻は、誠実そのものであった。
 「誠意は必ず実を結ぶ日が来る」とは、韓国の大教育者・安昌浩の言葉である。
 誠実な心、誠実の対話――そこに、友好の信義の絆が生まれる。人間主義とは、誠実を貫く、人間の王道のなかにある。
36  新世紀(36)
 晴れ渡る天空に、勝利の旗を靡かせよ!
 「仏法と申すは勝負をさきとし」と。ゆえに、真実の仏法者たるわれらには、「勝利王」たる使命があるのだ。
 君よ、目覚めよ。この世のわが使命に!
 なんのための人生か――。
 絶望の溜め息に明け暮れ、悲哀の宿命に涙するために、生まれてきたのではない。
 安楽と惰性に流され、やがて悔恨の日々を送るために、生まれてきたのでもない。
 試練を勝ち越え、暗雲を突き抜け、歓喜と幸福に乱舞し、民衆勝利の大ドラマを演じるために、われらは生まれてきたのだ。
 地涌の菩薩なれば、わが人生に勝てぬ闘争はない。最後の勝利は既に決定づけられているのだ。勇気をもて!吹雪がなんだ!怒濤がなんだ! 嵐がなんだ! 逆境がなんだ!
 誰もが予想だにしない、わが人生の「まさか!」を、君の手で痛快に実現するのだ。そこに、誉れ高き師弟の大道がある。
 敢然と立て! 猛然と進め! 飽くなき挑戦の心こそ、青年の魂だ。
 わが人生の栄光と創価の新時代を開くために、燦然たる勝利の旗を打ち立てるのだ!
 山本伸一は、生命を振り絞るように、あらゆる識者、指導者と魂の対話を続けた。人類の未来を、新世紀を開くための、真剣勝負の語らいであった。
 井上靖との往復書簡の連載が始まったころ、もう一つの往復書簡集の発刊準備が着々と進んでいた。
 ″経営の神様″と言われ、世界的にその経営手腕を高く評価されていた、松下電器産業(現・パナソニック)の創業者・松下幸之助との書面での語らいをまとめた『人生問答』(潮出版社)である。
 松下は、九歳で商店に奉公し、裸一貫から日本を代表する家電メーカーを築き上げた、立志伝中の人である。伸一は、以前から松下を尊敬しており、人生哲学や経営理念など、さまざまなことを学びたいと思っていた。
37  新世紀(37)
 山本伸一と松下幸之助の最初の出会いは、一九六七年(昭和四十二年)十月、国立競技場で行われた東京文化祭でのことであった。
 この時、松下は、大阪から、わざわざ東京まで足を運んだのである。
 松下が育ててきた社員のなかに学会員がいた。彼は、その社員から、仏法の理念や伸一の指導、学会の運動などについて、話を聞いていた。″尊敬するわが社の会長に、偉大なる仏法を知ってほしい″との思いで、社員は懸命に語ったのであろう。
 大聖人は「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せである。大切なのは、仏法を語る人の存在である。勇気ある対話は、人の心を動かし、時代、社会を変えていく。対話は力だ。
 松下は、学会が短日月のうちに大発展を遂げたことや、山本伸一という学会の若き指導者に、強い関心を抱くようになっていった。
 そして、東京文化祭に出席した松下は驚嘆する。後に彼は、『人生問答』の「はじめに」で、こんな感想をつづっている。
 「まず感心したのが、出迎えや案内の方々の真心のこもった親切な応対ぶりである。私どもでも、よくお得意先をご招待して、その応接には相当心をくばるようにはしているが、それよりも数段念の入ったものが感じられた」
 彼は「接遇」には人一倍気を使い、その作法と精神を、社員たちに訴え続けてきた。しかし、それを、本当に徹底させることは、容易ではない。ところが、自分が訴えてきた「接遇」の模範を、この文化祭の役員たちの姿に見たようだ。
 ほどなく、文化祭が始まった。絢爛豪華にして一糸乱れぬ演技や、千変万化する鮮やかな人文字に息をのんだ。
 彼は、戦時中、甲子園で従業員の運動会を行った。それを見た軍人から、「軍隊でもこれほど整然とはできない」と賞讃された。
 現代は、国民の気分が高揚している戦時中とは違う。その時代に、民衆の美事な団結の絵巻を見たのだ。彼は衝撃を覚えた。
38  新世紀(38)
 東京文化祭の演技に感嘆した松下幸之助は、こう記している。
 「社会混乱といっていい今日に、これほどのことができるということに、私はまことに感銘を深くした。そして、創価学会の真価というものを認識するとともに、そういうことができる人間の心というか、力の広さ深さを、あらためて思ったりもした」
 この文化祭では、山本伸一は松下と個人的に言葉を交わす機会はもてなかった。そこで、幹部を何度か松下のもとに行かせ、丁重に御礼を言うとともに、何か不都合なことはないか、伺うように指示した。
 その伸一の対応についても、松下は、「十万近い人を集め、数千の人を招待して多忙をきわめておられるだろう」「そこまで心をくばっておられることに私は驚いた」「ほんとうに人を大事にし、人間尊重に徹しておられる」と述べている。
 そして、「お心の一端を見る思いがして、非常な感動を覚えたのである。この若さで、このまま成長されれば、将来、国の発展、人心の開発に非常に貢献し、日本の柱ともなる人だと思った」という。
 常に伸一は、自分に縁したすべての人を、学会の最高の理解者にしようとの思いで、一回一回の出会いを大切にしてきた。
 ″人との出会いは「一期一会」だ。渉外は、誠実をもってする真剣勝負だ。失敗は許されない″――それが、青年時代から学会の渉外の全責任を担ってきた、伸一の決意であり、信念であった。
 その彼の心を、最高幹部をはじめ、役員のすべてが、わが心としていた。皆が″山本先生に代わって、自分たちがおいでくださった方々と応対するのだ″との思いで、来賓と接してきたのである。
 松下は、役員たちの一挙手一投足に、そのほとばしる一念を、鋭く感じ取ったようであった。「人への最高のもてなし」を常に考え、心を砕き続けてきた松下幸之助だからこその、まことに鋭い反応といえよう。
39  新世紀(39)
 一九七〇年(昭和四十五年)の十一月十二日夜、東大阪市の市立中央体育館で開催された関西文化祭の来賓席にも、松下幸之助の姿があった。
 文化祭の途中、松下は、わざわざ山本伸一の席まで来て、かがみながら丁重に告げた。
 「本日は、お招きいただき、誠にありがとうございました。これから、最終便で東京へまいりますので、失礼させていただきます」
 多忙ななか、飛行機の最終便ぎりぎりまで文化祭を観賞してくれたのである。伸一は深く頭を垂れ、出席を感謝した。これが松下と直接、言葉を交わし合った最初であった。
 年が明けた七一年(同四十六年)の二月のことである。松下から伸一に、人を介して、「ぜひお会いし、お話を伺いたい」との連絡があった。「どこでも先生のいらっしゃるところにまいります」とのことであった。
 松下は、大発展する創価学会の真実と、その原動力は何かを、自分で確かめたかったのであろう。人頼みにするのではなく、自ら積極的に行動を起こす、その生き方にこそ、事業の成功の要諦もある。
 松下は既に七十六歳であり、体調も優れないとの話を耳にしていた。伸一は、自分の方から、松下のいる関西を訪ねようと思った。
 しかし、あいにくスケジュールはかなり先まで詰まっていた。やむなく、四月二十八日に総本山で行われる桜の植樹祭に招待し、懇談することにした。
 松下は、前日から東京に来て、二十八日の朝、傘下の関連会社の社長を伴い、車で静岡の総本山に向かった。
 伸一は開式前、式典会場で席に着いていた松下のもとへ、真っ先にあいさつに訪れた。
 「本日は、遠路、静岡までお越しいただき、大変に申し訳ございません」
 すると、松下は「私のわがままをお聞きくださり、お時間を取っていただき、ありがとうございます」と、伸一が恐縮するほど、丁重に礼を言うのである。誠実が光っていた。
40  新世紀(40)
 午前十一時過ぎから始まった式典の後、山本伸一と峯子は、まず野点で松下幸之助を歓迎し、さらに場所を移して室内で懇談した。
 松下は、精神が荒廃し、人びとが志を失いつつあることへの憂慮を語った。
 「これでは、日本はよくなりまへん……」
 伸一は言った。
 「全く同感です。人びとの多くが欲望の奴隷のようになってしまい、自分のことしか考えていないのが現状といえます。
 社会をよくしていくには、人間自身を変革していくことが根本です。私どもは、それを人間革命と呼んでおります。
 そのためには、一人ひとりが、生死観、人間観、幸福観、宇宙観など、確かなる生命の哲学を確立するとともに、自身の生命を磨いていかなくてはなりません。
 実は、仏法というのは、その生命の哲学であり、人間革命の道を説いております」
 松下は目を輝かせ、頷きながら、伸一の話を聴いていた。ピンと背筋を伸ばし、姿勢を崩そうともしない。それは、一心に法を求める求道者のようでもあった。
 伸一は、恐縮しながら話を続けた。
 「つまり、人間の心に、正しい規範、正しい哲学を打ち立て、人間を変革することによって、世界の繁栄と平和を築こうというのが仏法の在り方です。
 その原理を、日蓮大聖人は『正を立て国を安んずる』つまり『立正安国』として示されました。宗教の本当の目的は、自分一身の安泰や来世の往生を願うことだけではなく、『立正安国』の実現にこそあると思います。
 『安国』なき『立正』であれば、それは宗教のための宗教ということになります。
 また、『立正』なくして『安国』を求めても、土台となる思想、哲学がないために、それは、砂上の楼閣のように、はかなく、もろい、繁栄や平和になってしまいます」
 ――「宗教なき社会は、羅針盤のない船のようなものである」とは、ナポレオンの卓見である。
41  新世紀(41)
 山本伸一は、「立正安国」という原理のもとに、仏法の人間主義の哲学をもって、文化・平和・教育の創造に寄与するため、これまで民主音楽協会や公明党を設立し、この四月には創価大学を開学したことを語った。
 松下幸之助は「立正安国」という考え方に強く共感したようであった。
 ――松下は一八九四年(明治二十七年)十一月、和歌山県に、八人兄姉の末っ子として生まれた。九歳で火鉢店に奉公に出て、自転車店の店員、電灯会社の工事担当者や検査員を経て、二十三歳で独立。改良ソケットをはじめ、自転車ランプ、ラジオなど、電気器具の製造・販売を手がけ、松下電器産業を日本を代表する企業に発展させていった。
 ところが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から「松下は財閥」であると判定され、財閥解体の対象とされたのである。
 会社の歴史、事業の内容などを見ても、松下は財閥ではなかった。松下幸之助はGHQに何度も足を運び、真実を語り抜いた。その回数は五十回を超えた。
 そうした努力が実り、やがて財閥指定も、それにともなう会社のさまざまな制限も、解除されたのである。粘り強さは勝利を決する最大の要件である。
 この戦後の混乱期のなかで、松下は思う。
 「混沌とした世相をなんとか根本的に直したい。人間性に立脚した、素直な正しいものの見方で、社会の諸制度の本来のあり方を考え、ともに繁栄の道を歩みたい」
 これが、松下のPHP(Peaceand Happiness through Prosperity=繁栄によって平和と幸福を)運動の理念となり、一九四六年(昭和二十一年)には「PHP研究所」を設立している。
 彼は、社会の繁栄、そして、平和を実現していくには、確固たる理念が必要であり、その理念とは何かという回答を、求め続けていた。ここに、松下が「立正安国」の原理に強く心を引かれた理由があったのではないか。
42  新世紀(42)
 松下幸之助と山本伸一の語らいは尽きなかった。松下は、現代の日本には、国のため、世界のために行動しようという人物がいないと憤ったあと、しみじみとした口調で語った。
 「会長のおっしゃる通りです。根本は人間です。人間をつくらなあきまへん。それが一番大事なことやと思います」
 そして、開学した創価大学の未来に、心から期待を寄せるのである。
 会談の最後に松下は、「これからも、ぜひお会いいただき、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」と深々と頭を下げた。
 それを制して伸一は言った。
 「とんでもないことでございます。お教えを賜るのは私の方でございます。私の方こそ、ご指南のほど、お願い申し上げます」
 それでも松下は、なかなか頭を上げようとはしなかった。
 さらに、互いに連絡を取る場合、伸一の方は秘書業務を担当している田原薫を、松下の方は、同行してきた関連会社の社長を窓口とすることも取り決めた。
 「田原にご連絡いただければ、一分もあれば、すべて私に報告が入ります」
 伸一の言葉に、松下は驚きの表情を浮かべながら語った。
 「わかりました。私の方も、速やかに対応できるようにいたします」
 ――帰途、車の中で、松下は同行者に、こう語っている。
 「創価学会は迅速や! あれだけの大組織やのに、会長まで、わずか一分で連絡がつくとは……。
 そして会長は、すぐに大胆な手を打って、行動される。さすがや! 学会の強さの理由がよくわかる。うちは私に報告が入るまで、十分以上かかるやろう。もっとかかることもあるかもしれへん。
 君には、私が静養する際の病室まで、すべての電話番号を教えよう。もし、山本会長から連絡があったら、いつ何時でもいいから、直ちに報告してきなさい」
 スピードは一切の勝利の要件である。
43  新世紀(43)
 松下幸之助との会談を終えると、山本伸一は総本山を案内し、丁重に見送った。
 それから半年余りが過ぎた十一月、伸一は京都にある松下の別邸「真々庵」に招かれた。
 松下は茶室で自ら茶をたて、伸一をもてなした。心に染み渡る一服であった。
 あとで聞いた話では、松下は夫人と共に、前日から陣頭指揮で、伸一を迎える準備に当たっていたとのことであった。
 そして、伸一の到着前に、もう一度、案内する順路を確認し、「いつ、最後の打ち水をするか」を二人で語り合っていたという。
 ――水が靴を湿らせてはいけない。かといって、からからに乾いた石の道を歩ませてはいけない。一番、しっとりとした、ほどよい状態にするには、到着の何分前に打ち水をすればよいのか、と。
 伸一は、松下夫妻の真心に深謝した。
 そして、松下が創立し、育て上げた松下電器は、発展すべくして発展したのだと、しみじみと思った。誠心誠意、相手のことを考え、尽くそうという努力と行動は、必ず開発の成功と信頼を生むからだ。
 松下は『夢を育てる――私の履歴書』(日本経済新聞社)に、こんな話を記している。
 高度経済成長のひずみから不況が始まった一九六四年(昭和三十九年)初夏、彼は熱海のホテルに松下電器の販売会社・代理店の社長に集まってもらい、懇談会を開いた。
 このころ彼は、既に社長を退き、会長となっていた。販売会社・代理店には、松下電器としてはできる限りの応援をしてきた。しかし、それでも八割強の販売会社・代理店が赤字であり、不満が続出した。
 松下は、強い語調で言った。
 「苦労したと言われるけれども、血の小便が出るまで苦労されたでしょうか!」
 そのぐらい必死に努力するなら、道が開けぬわけがないという、信念の叫びであった。
 事実、不況下でも、二割弱の販売会社・代理店は黒字であるのだ。
44  新世紀(44)
 松下幸之助と販売会社の社長らとの懇談会は三日目に入った。さまざまな苦情や意見をじっと聞いていた松下は、最後に言った。
 「結局は松下電器が悪かった。この一語に尽きると思います。みなさん方に対する私どものお世話の仕方が不十分でした」
 そして、かつて、電球をつくって売り歩いていた時代に、各店がそれを売って、松下電器を育ててくれたことに触れた。
 「今日、松下電器があるのは、本当にみなさんがたのおかげです。……恩顧を忘れてしまって、ものを見、判断し、考えるから、そこに、一つの誤りなり弱さが現れてくると思うのです。
 これからは、心を入れ替えて出直したいと思います」
 非は販売会社・代理店にも多々あった。しかし、松下は、最終的には彼らを責めるのではなく、すべてを自分の問題、自分の責任としてとらえたのだ。また、
 受けた恩義に応え切れなかったことを参加者に詫びたのである。
 松下の目は潤んでいた。参加者も、ハンカチで目頭を拭っていた。
 彼の誠実さに、誰もが胸を揺さぶられ、共感し、考えを改め、決意を新たにしたのだ。
 「われわれも悪かった。これからはお互いに心を入れ替えて、しっかりやろう」と言ってくれる人が続出したという。
 事態が窮地に陥ると、その責任をなすりつけ合うのが、人の世の常といってよい。しかし、そうなれば、自分を省みる眼を塞いでしまい、真の敗因を探り出すことはできない。ゆえに、そこには本当の再生はない。
 だが、″責任は自分にある″とする松下の生き方が、自分を見つめる皆の眼を開かせたのだ。
 松下は決意を直ちに行動に移した。自ら営業本部長代行となり、第一線に躍り出て、販売改革に当たった。
 販売店の集まりで四時間も立ち詰めで、業界繁栄への道を訴えたこともある。そして、苦境を乗り越えていった。
 「勇将の下に弱卒無し」と。リーダーの勇猛果敢な行動ほど、皆を鼓舞する力はない。
45  新世紀(45)
 「真々庵」での、松下幸之助と山本伸一の語らいは弾んだ。
 この日、松下は伸一に、仏法で説く人間観などについて、次々と質問した。
 伸一は、仏法の精髄の教えである法華経では、万人が等しく尊極無上の「仏」の生命を具え、また、本来、誰もが人びとを救済する使命をもって、この世に出現したと説いていることなどを語った。
 松下は、何度も、何度も頷きながら、熱心に耳を傾けていた。
 話が一段落した時、松下は「今日は、ぜひ先生にご相談したいことがあります」と言って語り始めた。
 「私は、このままでは、日本はますます混迷の度を深めていくことになると思っております。
 それは、日本の政治に『国家経営の哲理』がないからです。企業の命運は、経営者の経営理念で決まっていきますが、国家も原理は同じではないでしょうか。
 ところが、今の政治家の大多数は、国家百年の大計もなく、その時々の利害で動いているような現状です。これでは、国家の経営がうまくいくわけがありません。企業なら、とうにつぶれています。
 今こそ、国家の経営哲学をもった、いい政治家をつくらなければいけません。それにはいい人を育てることです。そこで、そのための塾を、つくろうと計画しています。先生のご意見を、お聞かせください」
 いわゆる「松下政経塾」の構想であった。
 伸一には、国を思う松下の切なる気持ちがよくわかった。また、極めて大事なことであると思った。しかし、賛同することには、ためらいがあった。
 それは、松下の健康を考えたからだ。
 「人材の育成」は命を削る仕事である。創価学園、創価大学を創立した伸一には、それがいやというほどわかっていた。
 病弱な体を押して、一代で″世界の松下″を築いた苦労を思うと、休養しながら、もっと長生きしてほしかった。だから、答えに窮したのだ。
46  新世紀(46)
 山本伸一は、松下幸之助に、教育は、いわば自分の命と引き換えにして打ち込まなければならない事業であることを述べた。そして、政治家の育成よりも、自身の健康、長寿を第一にしてほしいとの思いを伝えた。
 だが、松下の信念は固かった。自分の残された命を人材の育成に捧げたいというのだ。
 伸一は、折れざるをえなかった。
 「お心は、よくわかりました。確かに、松下先生のおやりになるべき仕事です。日本の将来を担う人材の育成のため、おやりになってください」
 松下は嬉しそうに微笑み、こう続けた。
 「それで先生には、ぜひ塾の総裁に……」
 伸一は、その気持ちはありがたかったが、丁重に辞退した。自分は、適任ではないと考えたからである。
 その後も出会いを重ねるたびに、松下は塾の構想について熱心に語り、意見を求めた。伸一も、学園と大学を創立した経験を踏まえて、率直に自分の考えを語った。
 「大事なのは一期生です。一期生を鍛え抜き、その一期生が母校に帰ってきて後輩を訓練する――そこから人材を繰り返し広げていって、良き伝統を築いていくわけです。
 吉田松陰の『松下村塾』も、いわば、一期生しかつくっておりません。『毎年、一期生をとる』決心で、おやりになってはいかがでしょうか」
 塾の路線においても、伸一は語った。
 「人類に求められているのは″世界市民″の自覚です。″国家″よりも″人間″を前面に主張した方がよいのではないでしょうか」
 松下は「二十一世紀の日本」を深く憂え、どうすべきかを、真剣に考えていた。
 必死の一念の可能性を、松下は「何としても二階に上がりたい。どうしても二階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかす。階段をつくりあげる」と記している。
 彼の熱意は、独創的で壮大な構想を生んだ。その一つが「将来、日本を無税国家にすることができる」との主張であった。
47  新世紀(47)
 自社を優良企業に育てた松下幸之助には、″ダム経営″と呼ぶ経営理念があった。ダムに水をためておくように、たとえば、資金や設備、人材も、常に一定の余裕をもつべきであるとの考え方だ。
 しかし、日本の国は、予算は毎年使い切るという考えに立ち、年度内に「消化」しようとするために、無駄な使い方もする。
 そうではなく、仕事を効率的に行い、予算を節約して余らせ、それを積み立てて運用する。百年もすれば、政府を運営できるだけの剰余金がたまって、税金がいらなくなる。さらには、収益を国民に分配さえしていけるようになるというのだ。それは、税金の無駄遣いを生む官庁の在り方の改革でもあった。
 この提案は、強い批判を浴び、国家として検討されることもなかった。
 その後、日本は、″無税国家″とは正反対の、莫大な″借金国家″となっていくのである。未来の在り方を真摯に探求する民間の賢人の声に、為政者は謙虚に耳を傾けるべきだ。
 「真々庵」での会談後も、山本伸一と松下の交流は続いた。請われて伸一が御書の講義をしたこともあった。一九七三年(昭和四十八年)四月には、伸一は松下の招きを受け、大阪・門真市の松下電器産業本社を見学した。
 健康が優れなかった松下は、三週間ほど前から病院で静養して体調を整え、三日前から毎日、案内するコースを下見した。そして、落ち度がないように、細かな指示を出した。彼は誠心の接客に徹していたのだ。
 伸一は、ラジオ工場や音響研究所などを見て回り、懇談した。近代的な大工場であったが、社の″精神″を極めて大切にしていた。
 毎日、始業時には、全員が立って社の歌を合唱し、遵奉すべき精神などを唱和するのが伝統になっているという。
 伸一は、大事なことであると思った。精神が失われるということは、原点、目的が見失われるということだ。精神が生き生きと脈打っていてこそ、真の向上、発展もある。
48  新世紀(48)
 一九七三年(昭和四十八年)の秋、信濃町で会談した松下幸之助と山本伸一は、どちらからともなく、こんな話になった。
 ――二人の語らいを、なんらかのかたちで、記録として残しておくことも、意味があるのではないか。
 そして、二人が直接会う機会は限られているので、互いに聞きたいことや回答を、書簡でやりとりすることになった。
 折から、第四次中東戦争を機にアラブ産油国が原油価格を大幅に引き上げたことから、いわゆる「オイルショック」が起こっていた。日本経済は大きな打撃を受け、将来に暗雲が垂れ込め始めたころである。
 また、松下は、この年七月、松下電器産業の会長を退き、相談役となっていた。
 松下は、待っていたかのように、続々と質問を寄せてきた。いずれも、日本の針路を真剣に模索したもので、政治・経済に始まり、人生論、生命論、文明論等々、テーマは人事百般にわたった。
 文面には、二十一世紀をどうするかという熱情があふれていた。責任と使命に生きる人には、燃える情熱がある。
 松下は八十歳になろうとしていた。伸一は、まだ五十歳にも満たない若輩である。″本来、質問させていただき、教えを受けるべきは自分である″と、伸一は思っていた。
 ″しかし、お尋ねいただいた以上、力の及ぶ限り、誠心誠意お答えせねばならない″
 伸一は、全精魂を注いで質問に答えた。
 松下も真剣であった。七四年(同四十九年)の初訪中の折、見送りに来た松下の関係者が、「松下相談役からです」と言って分厚い封筒を伸一に渡した。機中、封を切ると質問を認めた何枚もの原稿用紙であった。 
 伸一は、ユーモアを交えて峯子に言った。
 「これは『中国訪問中も忘れずに回答を書きなさい。何かがあるからといって、やるべきことを怠ってはならない』とのご指導だ。さすが松下先生だ。最高のお餞別だね」
 そして旅先でも、せっせと回答を書いた。
49  新世紀(49)
 山本伸一も松下幸之助に、次々と質問をぶつけた。質問は双方、百五十問ずつとした。
 松下の質問は、根源的で、鋭かった。たとえば、政治に関しても、「政治はなんのために行われるものか」「わが国の政治に一番欠けているものは何か」「総理大臣に望まれる要件とは」「政党同士の対立と協調のあるべき姿」「派閥は解消できるか」といった問いが相次いだ。
 伸一は、質問にも苦心した。尋ねたいことはたくさんあったが、的を射た質問でなければ、先方に失礼になる。
 的確な質問は、よい答えを引き出すが、愚問は、いたずらに相手を悩ませ、無駄な時間を費やさせることになるからだ。
 松下は、人生の大先輩である。したがって人間の生き方については、特に意見を聞きたかった。伸一の質問もまた、根源的な問いかけとなった。
 「人間の最も人間たる条件は何か」「人はなんのために生きるのか」「女性の特質と役割について」「悔いなき人生のために何が必要か」などを尋ねていった。
 伸一が「これまでの半生で、最も苦労し、心身を削られたという、苦闘の人生史の一ページを、お話しいただければ」との質問をすると、意外な答えが返ってきた。
 「実はこの種のご質問が一番お答え申し上げにくいのです。と申しますのは、正直のところ、自分の歩みを、今静かに振り返ってみて、あの時は非常に苦しかった、大変な苦闘であったという感じがあまりしないのです。
 他人からみて苦闘と思われることはあっても、自分ではそのなかに常に喜びというか希望が輝いており、そのため苦労という感じがなかったのかもしれません」
 希望をもって困難に立ち向かい、努力する人には、苦闘や苦労などといった実感はない。
 「人間が満足を覚ゆるのは努力にあり、成功においてではない。十分な努力は完全なる勝利である」とは、マハトマ・ガンジーの名言である。
50  新世紀(50)
 松下幸之助にも、仕事のことを考え、悩んで、眠れないことは何度もあったという。
 悪いことをする従業員がいて、悩み抜いた時もあった。しかし、そのなかで、現実を見すえ、「自分が、いい人だけを使って仕事をやるというのは虫がよすぎる」と気づく。
 すると、気分も楽になり、人を許す気持ちにもなり、以来、大胆に人を使えるようになったというのである。
 「そういう悩みから、いわば一つの悟りをえたわけで、今となってみれば、苦闘でもなんでもなく、あれもいいことだったなという感慨が残っているのです」
 苦悩に学び、苦悩をバネにしてきたのだ。
 松下は、さらに続ける。
 「私の場合、その日その日を精いっぱいに努力してきたということに尽きるように思われます。
 そして、その過程のなかには、常に希望があって、それが苦労とか苦闘を感じさせなかったのではないかと思っております」
 ″さすが、「人生の達人」の答えだ″と、山本伸一は思った。おそらく、苦闘についてのこの実感は、人生の勝利者の多くに共通したものであるにちがいない。
 後年、伸一と対談集を編んだブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁も、こう語っていたことがある。
 「私は十代の終わりから、働き抜いてきました。しかし、苦労したなどと思ったことはありません。ただただ命がけで仕事をしてきただけです」
 自身を完全燃焼させ、その時々の自らの課題に懸命に取り組む人にとっては″苦闘″などという思いはない。あえて言えば、それは″歓闘″といえるかもしれない。
 また、松下に、生涯の指針、モットーとしている言葉を尋ねると、「素直な心」との答えが返ってきた。
 それは「私心なく曇りない心」であり、「一つのことにとらわれずに物事をあるがままにみようとする心」だという。
 そして、この「素直な心」が、人間を正しく強く聡明にし、宇宙の根源力にも直結する道だというのが松下の考えであった。
51  新世紀(51)
 仏法には「恩」という考え方がある。それはタテ社会の主従関係を強いるものではない。
 「一切衆生の恩」が説かれているように、心を社会へと広げ、他者の存在を受け入れ、信頼の眼を開いていく哲学ともいえよう。
 山本伸一は、この「恩」について、松下幸之助に意見を求めた。
 松下は「恩」を最重要視していた。「感謝報恩」は、自身の「処世の基本」であり、自社の社員の指針の一つでもあるという。
 それは「この思いこそ、われわれに無限の喜びと活力を与えてくれるものであり、この思いが深ければ、いかなる困難も克服でき、真の幸福を招来する根源ともなる」からであり、
 「恩を知るということが一番心を豊かにする」ものだと記していた。
 伸一は感服した。
 さらに、松下は、こう解説する。
 ―恩を知るということは無形の富であって、無限に広がって大きな価値を生む。猫に小判というが、猫にとっては小判も全く価値はない。
 しかし、恩を知ることは、その逆で、鉄をもらっても、金をもらったほどの価値を感じる。つまり、恩を知ることには、鉄を金に変えるほどのものがある。
 そして、恩を感じた人は「金にふさわしいものを返そうと考える。みんながそのように考えれば、世の中は物心ともに非常に豊かなものになっていく」というのだ。
 もとより、恩や恩返しは、決して要求されたり、強制されたりするものであってはならない。自由ななかで恩について理解を深め、この考えを、浸透させていく必要がある――それが松下の主張であった。
 彼は「豊かな情操を育てるうえで、いわゆる音感教育というものが重視されているようですが、それ以上に、いわば『恩感教育』というものを、近代的な姿で行なっていくことが大事だと思うのです」と結んでいる。
 父母や一切衆生の恩、報恩感謝の道を教える仏法を、民衆に弘め、実践する創価学会には、その「恩感教育」の生きた姿がある。
52  新世紀(52)
 松下幸之助と山本伸一が、互いの質問に対する回答を、ほぼ終えたころ、『週刊朝日』の編集者から、これを公開してはどうかとの話があった。
 松下も、伸一も、もともと公表を意図して始めたものではなかった。
 しかし、編集者の熱心な勧めに従い、二人は了承した。
 編集者は、三百の問いと答えのなかから、時局にふさわしいテーマを選び、一九七四年(昭和四十九年)十月十一日号から連載を開始した。
 そして、往復書簡は、七五年(同五十年)の六月二十七日号まで計三十五回、八カ月半にわたって連載された。それでも、掲載された分は、交わした書簡の三分の一ほどであった。
 六月の下旬、連載の終了にあたって、松下と伸一は会談した。その折、『週刊朝日』には掲載されなかった、人生や人間などについて論じ合ったものなど、すべてを収めて本として残してはどうかということになった。
 そして、この年の十月に、『人生問答』のタイトルで、上下二巻の単行本として、潮出版社から発刊されたのである。各質問と回答は、「人間について」「豊かな人生」「宇宙と生命と死」「繁栄への道」「宗教・思想・道徳」「政治に望むこと」「社会を見る目」「何のための教育か」「現代文明への反省」「日本の進路」「世界平和のために」の十一章に分類された。いかに多岐にわたる書簡が交わされたかが、よくわかろう。
 『人生問答』は、伸一にとって、財界人との初の往復書簡集となった。これを読んだ学会員は、松下の意見が、仏法の考え方に極めて近く、多くの点で、伸一の主張と見事に共鳴し合っていることに感嘆した。
 天台大師は「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と述べている。治生産業とは、社会生活や生産活動など、世間における人びとのさまざまな営みである。
 それは、仏法と決して別のものではないというのだ。 ゆえに、社会の一流の人物の生き方、考え方は、仏法と響き合うのである。
53  新世紀(53)
 切り開いた道は、通い合うほどに、広く、堅固になっていく――。
 松下幸之助と山本伸一は、『人生問答』の出版について語り合った後も、交流を重ね、絆は、ますます強く、固くなっていった。
 松下は、一九七五年(昭和五十年)十一月の、広島での本部総会にも出席した。
 東京・八王子の創価大学、大阪・交野の創価女子学園(現在は関西創価中学・高校)にも足を運び、その教育に大きな期待を寄せ、讃辞を惜しまなかった。
 また、伸一が関西から中国訪問に向かう時には、空港まで見送りに来るのである。
 さらに、松下は、しばしば、こう語って伸一を励ました。
 「この乱れた日本を救い、世界の平和と繁栄を築いていく人は、先生しかいません」
 「本当に、日本のため、国民のためを思って、毎日戦っておられる」
 「先生は、日本にとっても、世界にとっても、掛け替えのないお方ですから、くれぐれも十分なご養生のうえ、お体を大切にしていただきたい」
 伸一は、いたく恐縮しながら、人生の先輩からの、身に余る期待と真心の激励として、それらの言葉を受けとめた。
 また、よく松下は、「先生にお目にかかっていると、何かしら元気がわいてくる。お会いできるだけで嬉しい」と語っていた。それは″常に、人に元気を与える人たれ″との指導であったのであろう。
 ある時、予定の時刻より一時間も前に、松下が会見の会場に到着したことがあった。
 「少しでも早くお会いしたかったものですから……」と、屈託のない笑いを浮かべた。
 伸一と松下の会談は、四時間、五時間がかりとなることも珍しくなかった。二人とも、話は尽きないのだ。
 ″日本の未来のために、少しでも語っておきたい! 聞いておきたい!″
 松下の物腰は柔らかであったが、彼の言葉には、そんな気迫があふれていた。
54  新世紀(54)
 東京・信濃町で、食事をしながら歓談した時のことであった。松下幸之助は、突然、座り直して、山本伸一に言った。
 「これから私は、先生を、『お父さま』とお呼びしたい」
 伸一は面食らった。松下は続けた。
 「年は先生の方がお若いが、仏法のこともいろいろとお教えいただいた。私には『お父さま』のように感じられてなりません」
 「何をおっしゃいますか。とんでもないことです。あってはいけないことです。私の方こそ、『お父さま』と呼ばせてください」
 松下は、なかなか折れなかった。結局、互いに「お父さま」と呼ぶことで、ようやく話は収まった。
 伸一は、学ぶことに対して、どこまでも謙虚な、松下の純粋な心に触れた思いがした。
 一九八八年(昭和六十三年)一月、伸一は還暦を迎えた。その時、松下から祝詞が届いた。そこには、こうあった。
 「本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ『創価学会』をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁とご活躍をお祈り致します」
 松下はこの時、既に九十三歳であった。しかし、青年にも勝る灼熱の心をもっていた。
 以来、伸一は、その言葉を胸に刻み、SGI(創価学会インタナショナル)の大発展に一段と力を注いだ。そして、世界百九十二カ国・地域を結ぶ、平和と文化と教育の人間主義のスクラムを築き上げていくのである。
 二人の会談は、三十回ほどになろうか。誠心の糸を紡ぎ続け、信頼と友情の錦を織り上げていったのだ。
 ″未来に、人類の幸福と平和を築く、確かなるメッセージを残さなくてはならない!″
 伸一は、そう定め、生命を削る覚悟で時間を捻出し、各界の指導者、識者との対談集、往復書簡集を生み出していったのである。

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