Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第21巻 「宝冠」 宝冠

小説「新・人間革命」

前後
1  宝冠(1)
 飛行機が高度を上げると、上空には、果てしない青空が広がっていた。
 平和旅を続ける山本伸一の胸に、詩聖タゴールの詩の一節がこだましていた。
 「曇らない希望を君の魂にもって/新しい岸にまで到り着く力を死守せよ」
 荒れ狂う怒濤のごとき世界にあって、平和の岸辺へと人類を運ぶことは、気の遠くなるような労作業である。
 それは、常に困難と失意と絶望という暗雲との戦いである。だからこそ、信念と哲学と勇気をもち、何があろうが、わが胸に赫々たる希望の太陽を昇らせるのだ。
 断じて負けることの許されぬ戦い――それが、われらの人間主義の開拓作業なのだ。    
 一九七五年(昭和五十年)五月二十二日正午、フランスでの予定を終えた伸一は、妻の峯子、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治らと共に、パリの空港を発ち、モスクワに向かった。ソ連は二度目の訪問となる。
 機中、伸一は、原稿の束を取り出し、ペンを手に、真剣に目を通し始めた。
 そこには「東西文化交流の新しい道」とのタイトルが記されていた。今回、彼がモスクワ大学で行うことになっている、記念講演の原稿である。
 伸一は揺れる機内で推敲を重ねていった。
 彼は、この講演で、これまで対立的にとらえられてきた東洋と西洋の、心と心を結ぶ文化交流を提案し、平和を創造する新しい道を示したいと考えていたのだ。
 今回の訪ソは、前回、招聘元となったモスクワ大学だけでなく、ソ連対文連(ソ連対外友好文化交流団体連合会の略称)、ソ連作家同盟も招聘元として名を連ねていた。日ソ友好の推進力として、ソ連の伸一への期待と信頼は、一段と高まっていたのである。
 今回の訪問では、モスクワ大学での講演のほか、ノーベル賞作家M・A・ショーロホフ生誕七十年の記念行事への出席、対文連の訪問、文化省との交流などが予定されていた。
2  宝冠(2)
 山本伸一の一行がモスクワのシェレメチェボ空港に到着したのは、現地時間の午後五時四十分であった。
 空港には、ソ日協会会長であるT・B・グジェンコ海運相、モスクワ大学のR・V・ホフロフ総長、対文連のA・M・レドフスキー副議長、ソ日協会のI・I・コワレンコ副会長、R・M・エセノフ作家同盟理事会書記など、多数の人びとが待っていた。
 出迎えの多くの人が、これまでの伸一との交流を通して、近しい友人となっていた。
 グジェンコ海運相は初対面ながら、親友との再会を喜ぶように、満面の笑みで伸一を歓迎してくれた。
 伸一は、ソ日協会のコワレンコ副会長と握手を交わした時、微笑みを浮かべて言った。
 「また、今回も大いに議論しましょう。夜を徹してやろうではありませんか。日本に帰ってから眠りますから」
 コワレンコは、対日外交で強硬姿勢を貫くことで知られる、党中央委員会国際部のメンバーである。彼を「強面」と敬遠する日本人も少なくなかった。そのコワレンコが、相好を崩し、声をあげて笑って答えた。
 「再会の日を待っておりました。お元気な山本先生とお会いできて嬉しく思います」
 前回の訪問で、何度か忌憚のない対話を交わすなかで、深い友情と強い信頼の絆が結ばれていたのだ。直接会って、語り合うという行動が、心の扉を開き、相互理解を深め、不信を信頼へと変えていくカギとなるのだ。
 今回の訪ソ団には、婦人部、男女青年部、ドクター部の代表、創価大学、民音(民主音楽協会の略称)、富士美術館の代表が加わっていた。伸一は、ソ連との重層的な交流をさらに推進するために、それぞれの分野の代表と共に訪ソしたのである。
 彼は、どうすれば、日ソ間に、新しい橋を架け、さらに交流の道を広げることができるかを常に考え、次々と布石を重ねようとしていた。現状維持に甘んじ、新しき挑戦を忘れるならば、事態の進展はない。
3  宝冠(3)
 山本伸一は、真心の歓迎に深謝しながら、出迎えの人たちと、しばらく懇談した。
 前回の訪問で一行の世話をしてくれた、モスクワ大学で日本語を学ぶ学生たちの、元気な笑顔もあった。彼らの多くは、伸一の第一次訪ソのあと、日本に留学し、滞在中、伸一と交流を深めてきた。
 伸一が、一言、声をかけると、屈託のない笑いを浮かべ、流暢な日本語が返ってきた。
 「山本先生、日本では大変にお世話になりました。先生のご恩は忘れません。私たちのことを、モスクワの息子であると思って、どんなことでも言いつけてください」
 「おお、すばらしい! 日本語の目覚ましい上達に感嘆しました。もはや日本人以上です。私にも日本語を教えてください」
 笑いが広がった。
 それから一行は、車で宿舎のロシアホテルに向かった。
 モスクワの街は、新緑が鮮やかであった。
 昨年訪れた九月は、木々の葉が黄金に輝く金秋の季節であった。五月のモスクワは、緑と花の希望の季節である。
 ホテルでは、訪ソ団一行の打ち合わせが遅くまで続いた。伸一は、力をこめて訴えた。
 「今回は第二次の訪ソとなるが、二回目というのは極めて重要です。今後の流れが決まってしまうからです。対話だって、二の句が継げなければ、それで終わってしまう。この二の句に対話の進展がかかっている。
 二回目を成功させるには、どうすればよいか。それには、前回と同じことを、ただ繰り返すのではなく、一つ一つの物事を、すべて前進、発展させていくことです。
 高村光太郎の詩のなかに、『僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る』とあるが、私たちが、まさにそうです。
 創価大学も、民音も、富士美術館も、また婦人部も、青年部も、″今こそ日ソ友好の新しい歴史を開くぞ!″と決めて、情熱を燃やし、真剣勝負で臨むことです。形式的、儀礼的な交流は惰性です。それでは失敗です」
4  宝冠(4)
 翌五月二十三日の午前十時、山本伸一たちは、ソ連対文連を訪問。N・V・ポポワ議長やレドフスキー副議長、ソ日協会のコワレンコ副会長らと会談した。
 部屋に入ると、ポポワ議長の満面の笑みが目に飛び込んできた。
 「山本会長! また、対文連を訪問していただき、光栄です。お待ちしておりました」
 彼女は、伸一と固い握手を交わすと、峯子を力いっぱい抱き締めた。
 「嬉しい、嬉しい」と言いながら、頬をすり寄せる姿に、深い親愛の情が感じられた。
 懇談が始まると、ポポワ議長が歓迎のあいさつをした。
 「山本会長の第一次訪ソのことを、私たちは決して忘れません。両国の相互理解と信頼を深めるために非常に有意義な訪問でした。
 今回の訪問は、さらに大きな実りをもたらすものと思います」
 そして、伸一が、前回の訪ソのあと、新聞や雑誌に、多くの紀行文などを発表し、さらに、訪ソの映画を製作して、幅広くソ連を紹介したことに、心から感謝を述べた。伸一の誠意は深く伝わっていたのだ。
 また、ポポワ議長は、学会の平和運動に言及していった。
 「私は、学会の青年部が、山本会長の提案を受け、核兵器廃絶の一千万署名の運動を行ったことをお聞きしました。
 青年たちが民衆に根差した平和運動を展開していくならば、未来への平和の潮流が生まれます。山本会長の意志を受け継ぐ青年運動の前途を、私は心から祝福いたします。
 平和を愛する私たちの心は一つです。今日は、学会の平和への戦いを賞讃する意味で、対独戦勝三十周年を記念して、人類の敵であるファシズムとの戦いに勝利したソ連兵士の像を贈らせていただきます」
 それは、高さ四十二センチで、右手に剣を持ち、左腕でドイツの子どもを抱いている兵士のブロンズ像であった。力強さがあふれた、重厚な感じの像であった。
5  宝冠(5)
 ソ連対文連のポポワ議長の話を受けて、山本伸一は御礼を述べるとともに、今回の訪ソの決意を語った。
 「前回の訪問で私たちは皆様方と共同コミュニケを発表し、善隣友好の関係を強化し、文化、科学、教育分野における交流を拡大することを確認し合いました。
 今回の訪問には、創価大学、民主音楽協会、富士美術館の代表が参加しております。それは、コミュニケに基づき、具体的に交流の拡大を図っていくためであります。
 両国の交流を口先だけで終わらせるようなことがあっては絶対にならないというのが、私の決意です。
 私は真剣です。どのような障害も、反対も、恐れません。すべてを乗り越えて、必ず前進させていきます。誠心誠意、日ソの友好に全精魂を注いでまいります」
 すると、ソ日協会のコワレンコ副会長が、大きく頷きながら語り始めた。
 「山本会長が、生命の危険も顧みず、常に平和を主張し、人間と人間の友好に生き抜いてこられたことは、よく存じております。
 私は、会長が第一回の訪ソ後、発表されてきた文章を読みました。ソ連と日本の友好を願う会長のお気持ちが脈打っていました。
 今、私は、山本会長と会うのが遅かったことを、非常に残念に思っています。
 会長は偉大な平和思想をおもちです。たとえば、核兵器に対しても『悪魔の兵器』と断言されております。
 これは画期的な平和思想です。その思想の広がりが、創価学会の青年たちが集めた、一千万人の核兵器廃絶の署名であると思います。大変な壮挙です」
 アメリカと競い合うようにして、際限のない核軍拡の競争を続けてきたソ連の、党指導部のメンバーの発言である。ソ連もまた、平和を渇望しているのだ。
 伸一は、力強い声で応えた。
 「核の禁止については、さらに積極的な活動を続けてまいります。われわれ仏法者は、人間を重んじ、あくまでも人間のために、平和主義、文化主義を貫いてまいります」
6  宝冠(6)
 会談の最後にポポワ議長が笑顔で語った。
 「もう一つ、プレゼントがあります」
 絵画が運び込まれた。タテ一・八メートル、ヨコ二・二メートルの油彩画である。
 灰色の死の街で、浴衣を着てひざまずき、深い悲しみに沈む人の姿が描かれていた。
 「広島の原爆投下の惨状を描いた絵です。絵のタイトルは『ヒロシマの影』です」
 ポポワ議長は、作者のB・ネメチェフ画伯を山本伸一に紹介した。ソ連国家賞を受賞し、高い評価を得ている美術家である。
 この絵は、日本から原爆の惨状を伝える資料を取り寄せ、六年間かけ、平和への思いを託して描き上げたという。
 「私は叫びつづける。/平和、平和、平和」とは、十四世紀のイタリアの詩人ペトラルカの魂の叫びである。
 平和がなければ芸術もない。人間が人間らしく生きるために、断じて勝ち取らねばならぬものが平和である。ゆえに平和の成就は、人間主義を掲げるわれらの使命なのだ。
 伸一は、深い感謝の思いを込めて、画伯と握手を交わした。
 「ありがとうございます。永遠に平和の象徴としていきます。今年は、原爆投下から三十年です。創価学会は、今年の秋、広島で本部総会を開催します。この貴重な絵は、必ずや意義ある場所に飾らせていただきます」
 会場に拍手がわき起こった。
 伸一は対文連に引き続き、午前十一時、文化省を訪問した。P・N・デミチェフ文化相との会見のためである。デミチェフはソ連を代表する第一級の文化人でもある。
 前年九月の初訪ソの折、伸一は文化省で、V・F・クハルスキー第一副文化相と会談。民音、富士美術館との交流について提案し、合意をみていた。
 初対面のあいさつのあと、デミチェフ文化相は、メガネの奥の目を輝かせて言った。
 「これまで提起された文化交流については、実現の見通しがつきました!」
7  宝冠(7)
 デミチェフ文化相と山本伸一の会談では、トレチャコフ、プーシキンの両美術館から富士美術館に出展し、展覧会を開催することや、民音による民族舞踊団の招聘などの方向性が決まった。
 具体的で実りある会談となった。
 伸一は、文化交流は、民衆と民衆の相互理解を促す要諦であると痛感していた。
 互いの文化への無理解から、摩擦が生じる場合も少なくない。こんな話がある。
 ――ある国際都市に赴任した日本人商社マンの子どもが、ヒンズー教徒の同級生を家に連れてきた。母親は歓待し、牛肉料理を出した。
 翌日、同級生の親が「なぜ、いやがらせをするのか!」と怒鳴り込んできた。また、今度は、子どもがイスラム教徒の同級生を連れてきた。母親は豚肉料理を作って歓待した。
 すると、その友だちの親が「お宅とは絶交だ」と言ってきたというのだ。
 ヒンズー教では牛を神聖な動物と考え、食べたりはしない。また、イスラム教徒は豚肉を食べることなどを禁じられている。日本人の母親は、それを知らなかったのだ――。
 この類いの話は、多くの人が耳にしたことがあろう。風俗、習慣を含め、文化の理解は、人間交流の基本事項といってよい。
 文化省を後にした伸一は、午後一時から行われる、文豪ショーロホフの生誕七十周年の記念レセプションに出席するため、ソ連作家同盟中央会館に向かった。
 会場には、ソ連をはじめ、イギリス、東ドイツ、キューバなど十四カ国から、ショーロホフと親交のある作家ら約五十人が集っていた。
 しかし、そこには、ショーロホフの姿はなかった。病気療養中のため、出席することができなかったのである。
 伸一の胸には、前年九月の訪ソの折、ショーロホフが手を握り締めながら語った言葉が、響いていた。
 「また、お会いしましょう。来年の五月で私は満七十歳になります。その時に、また、おいでいただけたら幸甚です」
8  宝冠(8)
 山本伸一は思った。
 ″ショーロホフ先生のご病状は、かなり悪いのであろう。ご自身の七十歳を祝う記念式典に出席できず、さぞかし残念であるにちがいない……″
 彼は、信念の文豪の健康回復を祈り、心から題目を送った。
 レセプションでは、参加者の代表があいさつに立った。チェコスロバキアの詩人に続いて、伸一がスピーチを求められた。
 「日本におけるショーロホフ文学の愛好者を代表して、一言、ごあいさつをさせていただきます。
 ショーロホフ文学では、大地に根を張るように、力強く生き抜く一個の人間の運命と世界の転換とが、一体化されて描かれております。つまり、民衆こそが歴史の底流を支えるということがテーマになっております。
 そして、その作品には、歴史という運命に翻弄されながらも、未来に向かって生き抜こうとする、人間の強さがある。それは、人間への信頼であり、讃歌であります。
 そこに、多くの青年たちの人生観、社会観に、大きな影響を与え、引き付けてやまないショーロホフ文学の魅力があると思います。
 しかし、ショーロホフ先生がこの場におられたなら、『そんなことを言う前に、まず飲め!』と言われるにちがいありません」
 どっと笑いが広がり、拍手が起こった。
 このユーモアが、幾分、緊張気味であった雰囲気を和らげた。
 彼は話を続けた。
 「ショーロホフ先生は、お酒を手に多くの人びとと、自由に、対等の立場で対話を交わされた。ここに集われた世界各国の方々も、そうして対話されてきたと思います。
 先生は、何よりも対話を愛される方です。
 今や、世界の人たちが、本当に人間同士として話し合える下地はできています。私どもは、ショーロホフ先生と共に、同じ人間として、世界の平和と友好のために、対話を広げていこうではありませんか!」
9  宝冠(9)
 山本伸一は、最後に、「ショーロホフ先生が一日も早く健康を回復されますよう、心よりお祈り申し上げ、ごあいさつとさせていただきます」と述べ、話を結んだ。
 伸一がユーモアを交えてあいさつしたことから、座の雰囲気は大きく変わった。皆がジョークを言うようになった。
 続いてあいさつに立ったイギリスの作家は語った。
 「ショーロホフ氏は、人を冷やかすのが好きなんです。私の友人も、私自身も、よく彼に冷やかされました。
 だから彼が元気になったら、冷やかされる前に、くたくたになるまで飲み、酔ってしまおうと思っております」
 また、ルーマニアの作家は、ショーロホフの声色を真似ながら言った。
 「君たちは、私について、いろいろと勝手なことを言っているが、問題は、その中身なのだよ。このショーロホフ並みの含蓄ある話をすることだ!」
 笑いと拍手が一斉に起こった。
 主役のショーロホフ抜きで、大いに盛り上がりを見せたレセプションとなった。
 誰もが彼を愛し、慕っていることがよくわかった。それはショーロホフの、公平で屈託のない人柄、人格によるものであろう。
 人格は光である。その輝きに触れて、人は心に、安らぎと希望をいだくのだ。
 自身の生命を磨く信仰の実践は、人格革命となって表れなければならない。
 引き続き午後五時からは、ショーロホフ生誕七十周年の記念式典がボリショイ劇場で盛大に行われた。
 山本伸一たちの一行は、舞台に向かって右手の特別席に案内された。会場は、何層もの観客席からなり、その優雅で荘厳なたたずまいは、誇り高き伝統を感じさせた。
 席上、国民的英雄であるショーロホフにレーニン勲章が贈られたことが発表された。そして、労働者や農民、モスクワ大学の学生など、各界の代表が祝福のあいさつに立った。
10  宝冠(10)
 「山本会長! ようこそソ連へ」
 休憩時間、山本伸一と峯子がロビーに出ると、ロシア語で呼びかける声が響いた。
 振り向くと、そこには、劇作家で『アガニョーク』誌の編集長を務めるA・V・サフローノフと、エベリーナ夫人がいた。
 伸一と峯子は、日本を訪問したサフローノフ夫妻に、この年の二月に聖教新聞社で会い、約二時間半にわたって、人物論、文学論などを語り合っていた。
 その折、伸一とサフローノフは意気投合し、特に詩をめぐっては対話に熱がこもった。
 すると、エベリーナ夫人が言った。
 「山本先生も主人も、本当に詩を愛しておりますね。その二人の四つの目が見つめているのは、人の心でしょう」
 伸一は声をあげた。
 「まったくその通りです。私は名もない、無名の詩人ですが、人間の心を見つめる眼は確かです。一点の曇りもありません」
 すると、サフローノフは言った。
 「私は、山本先生のご意見に、全面的に賛成です。ただし、一つだけ反対があります。それは山本先生が、ご自身を『名もない、無名の詩人』とおっしゃることです。この発言を認めることはできません。もし、山本先生が無名の詩人であるなら、世界のどこに高名な詩人がいるというのでしょう。世界のどこに優れた詩があるというのでしょう」
 真剣そのものの顔であった。
 以来、三カ月ぶりの対面である。
 「また、お会いできて嬉しい!」
 伸一は言った。
 二人は互いの手を強く握り締めた。休憩のわずかな時間であったが、語らいは弾んだ。
 「人びとの幸福のために書いてください。人間性の勝利のために書いてください。私たちは平和のための文筆闘争の戦友です」
 伸一が言うと、サフローノフは「すばらしい言葉です」と、目を輝かせて頷いた。
 短時間でも、生命を打つ対話が交わされれば、心と心は強く結ばれるのだ。
11  宝冠(11)
 休憩のあと、ショーロホフ生誕七十周年の祝賀の舞台が始まった。
 バレエやコサックの踊り、合唱などが次々に披露された。どの演技も秀逸であり、文学の英雄ショーロホフの七十歳の誕生日を祝う喜びにあふれていた。
 山本伸一も、峯子も、惜しみない拍手を送り続けた。
 式典が終わり、ホテルに戻る車中、伸一は峯子に言った。
 「ショーロホフ先生には、ともかく、早くお元気になっていただきたいね」
 峯子は頷きながら答えた。
 「本当に、そうですね。
 ショーロホフ先生は、ソ連を代表する作家であるばかりでなく、世界の文豪なのだと、しみじみ思います。先生の愛読者は、社会主義の国だけでなく、日本にもたくさんおりますでしょ。優れた文学には、国境も、イデオロギーの壁もないんですね」
 「そうなんだよ。ショーロホフ先生は、かつてこう言われている。
 『すべての作りもので不自然なもの、すべての虚偽のものは、時間の経過とともに消えさり、長くは生きられないでしょう』
 真理の言葉だと思う。
 イデオロギーを宣揚するだけの作品ならば、社会体制を超えて、人びとの感動を呼ぶことはないし、やがては消えてしまう。
 また先生は『真実のみを書くことです』とも述べている。これは文豪ショーロホフの文学的信念だ。『静かなドン』にせよ、『人間の運命』にせよ、ショーロホフ文学には人間の真実が描かれている。だから、世界中の人びとに親しまれ、愛されているんだ」
 峯子は瞳を輝かせて語った。
 「創価学会が強いのも、そこに真実があるからだと思いますわ。学会には、人間の蘇生のための励ましがあり、生命の連帯があります。歓喜と幸福の実像があり、本当の仏法があります。その真実は、どうやって否定しようとしても、否定しきれませんものね」
12  宝冠(12)
 ソ連滞在の三日目となる五月二十四日、山本伸一の一行は、モスクワにあるソ連のスポーツ施設を視察した。
 漕艇場や、陸上競技のメーン会場となるレーニン中央競技場など、五年後に開催されるモスクワ・オリンピックに向けて、着々と施設の整備が進んでいた。
 オリンピックの開会式、閉会式が行われる中央競技場は、十万を超す座席がある。しかし、入退場は十五分でできるように工夫されているとのことであった。
 スケート場では、何人かがフィギュアの練習をしていた。そのなかに、伸一も見覚えのあるペアがいた。女性は一九七二年(昭和四十七年)の冬季オリンピック札幌大会で金メダルを獲得したI・K・ロドニナ選手であり、男性はA・G・ザイツェフ選手であった。
 このペアは、七三年(同四十八年)以来、世界フィギュアスケート選手権で、毎年、優勝を重ねてきていた。また二人は、つい一カ月ほど前に、結婚したばかりであった。
 伸一は、練習を見学しながら、その華麗な演技に、思わず拍手を送った。
 ほどなく二人が来た。伸一は語りかけた。
 「おじゃましてすみません。日本から来ました山本と申します。お二人は、日本でも有名です。本日は、お会いできて光栄です」
 こう言って握手を交わすと、ザイツェフ選手が言った。
 「ようこそ、モスクワへ」
 「ありがとうございます。私はモスクワが大好きです。そのモスクワでのオリンピックの大成功を祈っております。
 お二人の見事な演技は、世界の友好を促進する力です。音楽は『世界を結ぶ言葉』です。そして、スポーツは『世界を結ぶ動作』です。だから、言語の壁を超え、国境を超えて、競技が感動を呼ぶんです。
 お二人のご健闘とご多幸をお祈りします」
 二人の選手は、瞳を輝かせて頷いた。
 生命に響く言葉がある。伸一は、その言葉を懸命に紡ぎ、常に全力で対話に努めた。
13  宝冠(13)
 山本伸一がスポーツ施設を視察した二十四日、ソ連は、有人宇宙船ソユーズ18号を打ち上げた。翌二十五日には、そのニュースが日本にも流れた。
 乗船しているP・I・クリムク船長とV・I・セバスチヤノフ飛行士は、気分は良好で、順調に飛行していることが伝えられた。
 米ソは、七月には両国の宇宙船をドッキングさせ、共同の実験飛行を行うことを計画していた。これは、一九七二年(昭和四十七年)の米ソ首脳会談で決まったものである。
 米ソは、それぞれ、ドッキングのための実験を重ねてきた。今回のソユーズ18号の打ち上げは、米ソ共同実験飛行の本番を前に、ソ連の軌道科学ステーション・サリュート4号とドッキングさせるための実験であった。
 山本伸一は、モスクワにある宿舎のロシアホテルで、テレビから流れる、ソユーズ18号打ち上げ成功のニュースを見ながら、七月の米ソ宇宙船のドッキングに思いを馳せた。
 近年、米ソ関係は緊張緩和の時代に入っていた。しかし、この年一月、ソ連が米ソ通商協定の破棄を通告するなど、両国の関係は、決して良好であるとはいえなかった。
 それだけに伸一は、米ソ宇宙船のドッキングに期待し、成功を祈っていたのである。
 米ソ宇宙船の共同飛行が成功すれば、緊張緩和の象徴となり、宇宙での国際協力から、新たな米ソの、そして、東西両陣営の協力の流れが開かれていく可能性があるからだ。
 伸一は、確信していた。
 ″宇宙船から見た地球には、国境も、社会体制による色分けもない。青く輝く、たった一つの人類の故郷だ。
 米ソの宇宙飛行士たちは、美しき地球を見ながら、このかけがえのない星を、力を合わせて守ろうと思うにちがいない……″
 憎悪、戦争は波及する。しかし、協力、平和も波及するのだ。人間の協力がもたらす感動は、イデオロギーの壁を超えて、心から心へと波動していくにちがいない。それが見えざる平和の潮流となることを彼は願った。
14  宝冠(14)
 五月二十五日も、モスクワの空は美しく晴れ渡り、既に夏の日差しが降り注いでいた。
 山本伸一たちは、この日、モスクワの南東三十キロほどのところにある、ゴールキ・レーニンスキエに向かった。
 ここは、レーニンの臨終の地である。彼が人生の最後を過ごした別荘は、レーニン博物館となっており、人類史の流れを変えた生涯と業績が展示されていた。
 後年、レーニンについては、さまざまな批判も出ているが、彼が最も虐げられてきた人びとを解放し、守ろうとして、新しい社会の建設に取り組んだことは間違いない。
 彼は、こう訴えている。
 「労働者と農民は住民の多数者である。権力をもつことのできるものは彼らであって、地主や資本家ではない。
 労働者と農民は住民の多数者である。権力と行政をにぎるべきものは、彼らのソヴェト(会議=編集部注)であって、官吏ではない」
 ″社会の最下層であえいできた労働者や農民のための社会を創るのだ!″――その心こそが、本来、ソ連を貫く精神であった。レーニン博物館の展示が伝えようとしていたのも、まさに、その心であったはずだ。
 一九九一年(平成三年)に、ソ連は崩壊する。しかし、この精神が、官僚たちに、全党員に、生き生きと脈動し続けていたならば、ソ連は人民の支持を集め、別の道を歩んでいたのかもしれない。
 人びとを指導すべきリーダーたちが、当初の目的を忘れて、保身や怠惰、安逸、私利私欲に走るところから、組織の腐敗と堕落が始まり、崩壊に至るのである。
 人びとの心に巣食う、それらの念々を克服しゆく「人間革命」がなければ、いかに隆盛を誇った組織や国も、いつか、必ず行き詰まってしまうものだ。
 御書には「師子身中の虫の師子を食」と記されている。崩壊の要因は組織などの内部にあり、さらには人間に巣食う「心中の敵」によって崩れていくのだ。
15  宝冠(15)
 五月二十五日は日曜とあって、ゴールキ・レーニンスキエは、家族連れや子どもたちで賑わっていた。山本伸一は行く先々で、子どもたちを見ると声をかけた。
 「マリチク!」(坊や!)
 そして、年齢や学年を尋ねては、「大きくなったら日本に来るんだよ」と言い、お土産に用意してきたワッペンをプレゼントし、一人ひとりの胸に張り付けた。すると、子どもたちは満面に笑みを浮かべるのだ。
 それを見ていた、モスクワ大学の主任講師で通訳のストリジャックが言った。
 「山本先生は、子どもがお好きですね」
 「ええ、大好きです。また、日本人と交流したという思い出をつくり、友好の種子を幼い心のなかに植えておきたいんです。
 私には、こんな思い出があるんです……」
 伸一は語り始めた。
 ――それは九歳の夏の夜、東京・蒲田駅に立ち並ぶ、露店を見て回った時のことであった。日中戦争が始まった、
 風雲急を告げる世情である。夜店の列の果てで、背の高い、西洋人の男性が西洋カミソリを売っていた。
 道行く人は、西洋人の露店に驚き、奇異な視線を注ぐばかりで、誰も買おうとはしなかった。彼は、カミソリを手に、笑顔を向け、片言の日本語で呼びかけていた。
 「ワタシ、ニッポン、ダイスキデス!」
 その露店の前で、酒に酔って顔を赤くした三人の男が足を止め、西洋人にからみ始めた。彼は困惑した顔で、首を左右に振っている。
 男の一人が、台の上の品物を、やにわに手で払った。カミソリが路上に散乱した。男たちは、逃げるように、立ち去っていった。
 西洋人は、黙ってカミソリを拾い集め、台の上に並べた。そして、道行く人に、また、笑顔で呼びかけるのだ。
 「ワタシ、ニッポン、ダイスキデス!」
 顔が明かりに照らされた。瞳が水晶のようにキラキラとしていた。
 しかし、その目の底に、深い寂しさが潜んでいるように、伸一には感じられた。
16  宝冠(16)
 少年時代の思い出を語った山本伸一は、ストリジャックに言った。
 「カミソリを売っていた西洋人と、直接、言葉を交わすことはできませんでした。しかし、同じ人間として、その寂しさ、悲しさは伝わってきました。『ワタシ、ニッポン、ダイスキデス!』と語りかけていた彼の言葉は、今でも耳に響いています。
 これは、私にとって、胸の痛む思い出ですが、西洋人を身近に感じた最初の出会いとなりました。
 大事なことは出会いです。幼い心に、良き思い出の種子が植えられれば、それは、いつか芽を出し、友好の花を咲かせます。そして、平和の実を結びます。
 種を蒔かなければ、花は咲きません。実も結びません。機会があれば、全力で種を蒔き続けようというのが、私の決意なんです」
 ストリジャックは、目を輝かせて、大きく頷いた。
 引き続き、レーニン記念ソフホーズ(国営農場)の視察に向かうために車に乗ると、ライラックの白い花が飾られていた。
 峯子が声をあげた。
 「まあ、きれい!」
 一行に同行していたモスクワ大学の学生が持ってきてくれたのだ。
 「五月のモスクワはライラックの花に包まれます。しかし、今年は、まれに見る暑さで、ライラックの花の季節は終わってしまったんです。でも、ここには咲いていました。せめて一枝だけでも、ご覧いただこうと思って、持ってきました」
 伸一は、その気遣いが嬉しかった。
 峯子は、深く頭を下げて言った。
 「お心遣い、ありがとうございます。これで私にも、友好の思い出の種子が、しっかりと植えられましたわ……」
 さわやかな笑いが広がった。
 一行は、ソフホーズを見学したあと、アルハンゲリスコエ博物館を訪問した。眼下にモスクワ川が、金の帯となって流れていた。
17  宝冠(17)
 「一日一日が、黄金の歴史になる。さあ、今日も力の限り頑張り抜くぞ!」
 二十六日朝、山本伸一は、こう言って車に乗り込み、クレムリンに向かった。午前十時から、A・P・シチコフ連邦会議議長と、会見が予定されていたのである。
 ソ連最高会議は、連邦会議と民族会議の二院制である。伸一は、前回の訪ソで民族会議のV・P・ルベン議長と会見しており、今回のシチコフ連邦会議議長との会見で、両院の議長と対話することになる。
 この日のモスクワは雨であった。
 満面に笑みをたたえた伸一と峯子が、シチコフ議長らにあいさつを交わすと、光が差すように、いかめしい政治の舞台であるクレムリンが、和やかな友好の世界となった。
 記念撮影のあと、語らいが始まった。この会見には、対文連のポポワ議長も同席した。
 シチコフ議長は、伸一の第一次訪ソが、ソ連と日本の友好交流のうえで大きな成果をあげたと賞讃。そして、今回の訪問が、両国の文化、学術、教育交流をさらに推進するものとなるよう期待を寄せた。
 それに応えて、伸一は語った。
 「日ソ友好の新しい流れを開くために、全力を尽くします。私は、これまでも真剣勝負で日ソ交流の道を開いてきました。これからも、その決意で進みます。私は本気です」
 シチコフ議長は言った。
 「よく存じております。山本会長は第一次訪ソから帰られると、直ちに原稿の執筆に着手され、新聞や雑誌に、相次ぎ、ソ連の真実を書きつづってこられた。
 それは『私のソビエト紀行』という一冊の本になった。ご多忙を極めるなかでの執筆です。生命を削らなければできないことです。
 それによって、どれだけ多くの日本人が、ソ連を正しく認識し、理解を深めたことでしょう。感謝申し上げます」
 真剣かポーズだけかは、何をしたかに明確に表れる。新しい歴史は、生命をかけた真剣勝負によってのみ開かれるのだ。
18  宝冠(18)
 シチコフ議長は、山本伸一に、ソ連は日本との一層の友好を強く望んでいることを、情熱を込めて訴えた。そして、ソ連邦成立五十年の記念メダルを、伸一に贈った。
 クレムリンでの一時間十五分の語らいのあと、伸一の一行は、モスクワ市庁舎を表敬訪問した。
 彼は前回の訪ソでも市庁舎を訪れ、V・P・イサエフ第一副市長らと会談していた。今回は、V・F・プロムイスロフ市長自らが、一行を笑顔で歓迎してくれた。
 「日本の優れた社会活動家である山本会長とお会いすることができ、大変に嬉しく思います。また、創価学会は、日本の諸団体のなかでも最も大きく、平和をめざす優れた団体であることを知っております」
 会談ではモスクワと東京を比較しながら、人口問題、大気汚染、交通事故、犯罪など、都市問題について、幅広く語り合った。
 モスクワ市庁舎の訪問に続いて、一行は海運省を訪れ、ソ日協会会長のグジェンコ海運相と会談した。
 伸一は、モスクワ到着の折に、わざわざ海運相が空港まで足を運び、出迎えてくれたことに深く感謝の意を表した。
 海運相は「ソ連の最高のお客様に、最高の礼儀をもって遇するのは当然です」と述べ、自分がなぜ、創価学会を大切に考えるかについて語った。
 「ソ連の海運労働者は、日本の各地で日本人と交流しています。その労働者たちは、私に、こう報告してきます。
 『創価学会は庶民を組織した団体であり、学会によって庶民が希望と力を得て、蘇生している。そのリーダーである会長のヒューマニズムに富んだ行動は、人びとから高く評価されている』と。
 庶民のため、民衆のために何をしたか――私たちは、そこに着目しています。だから、山本会長に信頼と尊敬を寄せているんです」
 ――「民衆、これがすべてである」とは、ドストエフスキーの確信であった。
19  宝冠(19)
 グジェンコ海運相は話を続けた。
 「また、山本会長は、世界の平和を担う数多くの若い世代を育成されてきた。その青年教育に、私たちは注目しております。
 会長がどのようにして青年を育成されているのか、世界中が知りたがっているのではないでしょうか」
 創価学会の青年育成のポイントは、人類の幸福と平和の実現をめざす広宣流布という、使命の自覚を促すことから始まる。そして、その崇高な目的に向かい、励まし合い、成長を競い合っていく、人間啓発の輪をつくっていることにある。
 十九世紀のイタリアの革命家マッツィーニも、こう訴えている。
 「青年は運動によって生き、熱情と信仰によって成長するものだ。高き使命をもって彼らを浄めよ。競争と賞讃をもって彼らを燃えたたせよ」
 山本伸一は、グジェンコ海運相が創価学会に強い関心をもち、深く理解、認識していることに感嘆した。
 さらに、海運相は、ソ日協会会長として同協会の活動を紹介したあと、こう語った。
 「ソ日間の物質的分野の交流は順調に進んでいます。今後は、精神的分野の交流に力を注ぎ、文献の交換や文学作品の翻訳、芸術団体の相互派遣などを推進していきたいと思います。精神を通わせ合いたいのです」
 伸一は言った。
 「全く同感です。精神的分野の交流は、極めて重要です。心と心を結び合うことこそ、交流の根本であるからです。
 私は、そのために世界を駆け巡り、対話しています。心と心の橋を架け、世界中を結びたいんです。それが私の決意です。
 グジェンコ先生とは、ぜひまた日本でもお会いし、交流を深めてまいりましょう」
 伸一は、グジェンコ海運相とも、心と心が海のように深くつながった思いがした。二人は、その後も対話を重ねていくことになる。
 対話の積み重ねが、友好の橋を築くのだ。
20  宝冠(20)
 海運省を後にした山本伸一は、午後四時、妻の峯子、婦人部、女子部の訪問団らと共に、ソ連婦人委員会を訪問した。この一九七五年(昭和五十年)が「国際婦人年」であることも踏まえ、ソ連の女性と、学会の女性との交流の場をもつことにしたのである。
 婦人委員会のV・V・テレシコワ議長は、一九六三年(同三十八年)六月、ボストーク6号で宇宙を旅した、世界初の女性宇宙飛行士として知られている。
 「ヤー、チャイカ」(私はカモメ)
 これがテレシコワ飛行士の、宇宙からの第一声であった。「カモメ」というのは、彼女が地上と交信する際のコールサインである。
 「……地平線が見える。明るい青、青い線、ああ地球だ。なんて美しいんだろう」
 明るく弾んだ、その声は、地球の美しさ、尊さを気づかせる天の声であり、女性の時代の開幕を告げる未来の声でもあった。
 伸一の一行が、モスクワのプーシキンスカヤ通りにある婦人委員会の建物に到着すると、そのテレシコワ議長の、清楚な花のような姿があった。婦人委員会の代表が、懇談する部屋の入り口で出迎えてくれたのだ。
 楕円形のテーブルを挟んで、婦人委員会の代表と、一行が向かい合って座った。
 緑色のブラウスに毛糸の上着を羽織ったテレシコワ議長の、こぼれるような微笑が印象的であった。
 伸一は言った。
 「お会いできて光栄です。ソユーズ18号の打ち上げの成功、おめでとうございます」
 この日、ソユーズ18号は計画通りに、軌道科学ステーション・サリュート4号とのドッキングに成功したことが報じられていた。
 議長は両手をいっぱいに広げ、喜びの表情を浮かべ、ブルーの瞳を輝かせて答えた。
 「ありがとうございます。また、国際婦人年であるこの年に、わが婦人委員会を訪問してくださったことは、ソ連人民の婦人生活に皆様が関心をおもちくださっている表れであると思います。心から感謝申し上げます」
21  宝冠(21)
 テレシコワ議長の話を受けて、隣の副議長や事務局のメンバーが、婦人委員会の構成や活動について説明を始めた。演説をしているような口調である。硬い空気に包まれた。
 自由主義の国の、しかも宗教者との語らいとあって、緊張しているのかもしれない。
 山本伸一は、打ち解けた語らいができるように、こう尋ねた。
 「今日は、テレシコワ議長に、宇宙飛行士としての、いろいろな話をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
 彼女は、微笑して頷いた。
 「では、なぜ、宇宙飛行士をめざされたのでしょうか」
 議長は、テーブルの上で手を組み、静かな口調で語り始めた。
 「一九六一年(昭和三十六年)に、わがソ連のガガーリン少佐の乗ったボストーク1号が、世界初の有人宇宙飛行に成功しました。
 ソ連の青年たちは、皆、感動し、ガガーリン少佐のようになりたいと思わない若者はいなかったと思います。
 当時、私は、ヤロスラブリ州の紡績工場で働いていましたが、私も宇宙に飛んでいきたいと思いました」
 一人の先駆者の偉大なる成功は、万人に希望と勇気を与える。ロマン・ロランは「新しい時代には、新しい道と新たな希望!」と叫んだ。ガガーリン少佐の壮挙は、ソ連の新しい時代の新しい希望となったのだ。
 多くの人びとが、″ボストーク1号の打ち上げに成功したソ連は、次は最初の女性飛行士を乗せた宇宙船を打ち上げるであろう″と思っていた。
 このころ、彼女は、航空クラブに入って、パラシュートの降下を繰り返し、自ら努力を重ねていた。大空に魅了されていたのだ。ガガーリン少佐の壮挙のあとは、宇宙飛行士への門戸は、あらゆる人に開かれていた。
 「もちろん、私も志願しました」
 そして、見事に選ばれた。しかし、それは困難への挑戦の始まりでもあった。
22  宝冠(22)
 テレシコワ議長は、言葉少なに、宇宙飛行士の訓練の厳しさについて語った。
 「量的にも、質的にも、実に厳しいものでした。一段一段、すべての段階が、相当の体力の困難を伴いました」
 遠心力装置で体を回転させられるトレーニングもある。これは、体中の血液が、まるで水銀のように重くなった気がするという。
 ロケット工学の専門知識の猛勉強もある。毎日が戦場であった。
 そのなかで彼女を支えたものの一つが、母への思いであった。
 ――彼女が三歳の時である。荒れ狂う吹雪の夜、出征していた父親の「戦死」の知らせが届いた。
 第二次世界大戦が始まっていた。
 母は、肩を震わせて泣いた。だが、決然と立ち上がり、幼い姉と彼女、そして、間もなく生まれた弟を育てた。母は働いた。
 まだ、暗いうちから、コルホーズ(集団農場)の酪農場に乳搾りに出かけることもあった。
 母の兄弟も、飢餓や内戦で五人が死んでいた。母は、時々、「運命の女神に見放されてしまった……」と言っては、ため息をついた。
 しかし、負けなかった。子どもたちは、母親が休んでいる姿を見たことがなかった。
 やがて一家は都会に移り、母と姉は紡績工場で働くようになった。テレシコワは十七歳になった時、タイヤ工場に勤めた。
 初めての給料日。彼女は母に、花模様のスカーフとお菓子を買った。母の笑顔を思い浮かべながら家路を急いだ。
 しかし、スカーフを差し出すと、母の顔から微笑は消えた。おいおいと泣きだした。喜びが涙となってあふれたのである。
 テレシコワは、その母の写真を、宇宙飛行士として訓練を受ける自分の部屋に飾った。
 写真を見ると勇気がわいた。母が「おまえには、きっとできるよ」と、励ましてくれているような気がするのだ。
 詩人ハイネは、「母はつねに私の心のなかにいる」とうたっている。心に母がいる人には、安心があり、勇気がわく。
 その母に報いようとする時、無限の力がみなぎる。
23  宝冠(23)
 「訓練を経て、いよいよ搭乗の指名を受けたわけですね。その時のお気持ちは?」
 「とても嬉しかったですわ。長い間、それを望んで訓練を受けてきたのですから」
 「それで、遂にロケットに乗られた。その時、成功するという確信はありましたか」
 「もちろんです。どれだけ綿密に計画されてきたものか、よく知っておりましたから」
 彼女は、ソ連の科学技術とスタッフの努力を、また、自分の日々の猛訓練の成果を信じていた。自分も、皆も、努力し抜いた、やり抜いたという実感があった。考えられる限りの万全の努力を重ねてこそ、成功への確信が生まれるのだ。
 ここで伸一が「一つ重大な質問をさせていただきます」と言うと、テレシコワ議長は、少し緊張した顔で伸一を見た。
 「飛行中、恋人のことは考えましたか」
 ユーモアを込めた伸一の質問に、彼女の顔から緊張が消え、ぱっと笑みが浮かんだ。
 「飛行中は、そういう時間の余裕はありませんでした」
 そして、こう付け加えた。
 「恋人を搭載せずに、地上に残したまま飛行してしまったにもかかわらず、私の心臓は至って順調に鼓動していました」
 見事なユーモアの応酬であった。機知に富んだ言葉に、テレシコワ議長の人間性が光っていた。
 さらに、伸一が宇宙船から地球を見た感想を尋ねると、彼女は瞳を輝かせて語った。
 「地球が見える嬉しさは、たとえようもありません。地球は青く、他の天体と比べて格別にきれいでした。どの大陸も、どの大洋も、それぞれの美しさを見せていました。
 宇宙から一度でも地球を見た人は、自分たちの揺籃の地である地球を、尊く、懐かしく思うにちがいありません」
 この母なる地球を守らずしては、人類の未来はない。国益から人類益への思考の転換を、人間は突き付けられているのだ。
24  宝冠(24)
 テレシコワ議長は、周囲への配慮も怠らなかった。
 「私ばかり話していますと、″なんと、おしゃべりな……″と思われてしまいますわ」
 彼女は、こう言って、同席していた婦人委員会のメンバーに、自然に話をつなげた。
 山本伸一は、そこに、彼女のこまやかな心遣いを見た思いがした。―
 ―リーダーへの信頼は、皆に対して、どれだけ配慮ができるかどうかによって決まるといってもよい。勇気や冷静な判断力などとともに、周囲への配慮は、極めて重要な指導者の要件である。
 ソ連婦人委員会のメンバーは、この年が「国際婦人年」であることから、婦人運動、さらには平和運動について意見を述べた。
 伸一は、男性が中心となってつくり上げてきた二十世紀が「戦争の世紀」であったと指摘したあと、楽しそうに、こう提案した。
 「いっそのこと、本然的に平和主義者である女性が、全世界の男性政治家、男性指導者に代わってしまったらどうでしょうか」
 すると、テレシコワ議長が答えた。
 「そうなると、大変、寂しくなりますね。どんな事柄も、男女が助け合ってこそ、最大の成果が収められるのではないでしょうか」
 間髪を入れず、伸一が言った。
 「最も正しい答えであると思います。
 ところで、私も、一人で質問を続けますと、″おしゃべりだ″と思われますので、ほかのメンバーの質問にも答えてください」
 ここで、妻の峯子が、家庭での夫と妻の在り方について尋ねた。
 議長は微笑みながら語った。
 「とかく男性は、自分たちが家を操縦しているつもりでいますが、実際には、私たち女性が操縦しているのです。その認識に立つことが大事です」
 日本では、妻の家庭操縦の秘訣は「従って従わせる」ことにあるとよく言われる。ソ連でも、それが当てはまるようだ。そこには、聡明な女性の知恵があるのかもしれない。
25  宝冠(25)
 女子部の代表が質問した。
 「テレシコワ議長は、宇宙飛行士をされながら、妻として、母として、一人二役、いや三役を果たしてこられましたが、そのためにどのような努力を払われたのでしょうか」
 議長は、大きく頷きながら語った。
 「妻の時は妻に専念し、母でいる時には母に専念し、ベストを尽くしました。そして、宇宙飛行士の時には、宇宙飛行士として全力を尽くし抜きました」
 簡潔にして、的を射た答えであると、山本伸一は思った。
 人間は、常に幾つもの課題をかかえているものだ。大事なことは、″すべてやり切る″と心を定め、その時、その時の自身の課題に専念し、全力で取り組んでいくことである。
 子どもと接している時に仕事のことで悩み、仕事中に子どものことに心を奪われていれば、どちらも中途半端になってしまう。
 日蓮大聖人は「一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし」と仰せである。その時々のテーマに集中し、情熱を込め、全力を出し切っていくこと、そして、クヨクヨせず、常に朗らかに前を見つめていくことが、何役もの役割を果たしていく秘訣といえよう。
 テレシコワ議長は、母親の教育に話が及んだ時、しみじみとした口調で語った。
 「私も母がいたからこそ、今の私があるのだと、心の底から思います」
 感謝の心がある人は謙虚である。そして、感謝の心が、自身の向上の力となる。
 伸一は、組織と組織の交流ではなく、人間と人間の心の触れ合う会談にしたかった。同じ人間として、共鳴、共感し合うことが、相互理解の第一歩となるからだ。
 さらに会談では、女性と平和、婦人の社会的役割などについても意見が交わされ、和気あいあいとした、心通い合う語らいとなった。
 テレシコワ議長と伸一・峯子の夫妻は、その後も交流を重ね、友情を育んでいくことになる。
26  宝冠(26)
 この五月二十六日も、まさに分刻み、秒刻みで、スケジュールが組まれていた。
 ソ連婦人委員会を訪問した山本伸一の一行は、午後六時半からは、ソ連対文連とモスクワ大学が主催し、モスクワ市内のレストランで行われた歓迎レセプションに出席した。
 二度のソ連訪問で深い親交を結んだ人も多く、和やかに歓談が繰り広げられた。
 このレセプションの冒頭、対文連のポポワ議長がスピーチした。その言葉は、参加者の胸を揺さぶった。
 彼女は、いかにも嬉しそうに相好を崩しながら、情熱を込めて訴えた。
 「山本会長、私たちは今日からまた、共に平和の建設に進んでまいりましょう。
 人類の敵・ファシズムへの戦いは、″聖なる戦い″と呼ばれてきました。私たちが結んだ尊く美しいソ日間の友情は、″聖なる友情″であると、私は宣言したいと思います」
 伸一は大きく頷いた。彼は、わが身を削ってでも、その″聖なる友情″の道を切り開いていく覚悟を固めていたのである。
 この夜、伸一の宿舎に、ソ日協会のコワレンコ副会長が訪ねてきた。
 前日の二十五日夜も、コワレンコは伸一の部屋を訪ねていた。その時、伸一は、″ソ連は中国を攻撃するつもりはない″とのコスイギン首相の考えを、前年十二月の第二次訪中で、中国首脳に伝えたことを告げた。
 二十六日の夜、コワレンコは、やや緊張した顔で伸一に言った。
 「山本先生、コスイギン首相が、二十八日にクレムリンでお会いしたいとのことです」
 伸一は答えた。
 「首相はご多忙です。ご無理をなさっているにちがいありません。しかし、前回、首相とは、モスクワに来た折には必ずお会いするという約束をいたしました。したがって、ご迷惑にならないように、五分ほどの表敬訪問とさせていただきます」
 コワレンコは顔色を変え、首を振った。
 「五分なんて、それはいけません!」
27  宝冠(27)
 ソ日協会のコワレンコ副会長は、情熱を込め、必死になって山本伸一に訴えた。
 「確かにコスイギン首相は、中東を訪問していたため、執務も山積し、また賓客も多く、誰よりも忙しい日々を送っています。
 しかし、何よりも私たちは、新しいソ日関係を開きたいと思っています。再び両国を、かつてのような緊張状態に置くようになれば、お互いに不幸です。その新しい道を開くことができる方は、山本先生だけです。
 先生は、現状を正しく洞察し、分析できる方であり、遠く将来を見通しておられる方です。したがって、私たちは、今回の先生の訪ソに賭け、最大に力を入れています。
 山本先生の発言は重要です。ソ連と中国、ソ連と日本の間に横たわるすべての問題に、先生のアドバイスが必要です。
 このようにご説明すれば、首相が先生とお会いすることを、いかに重要視しているか、おわかりいただけると思います。五分などとおっしゃってはいけません」
 伸一は、丁重に答えた。
 「過分なお言葉に感謝します。また、おっしゃる趣旨は、よくわかります。
 しかし、私の発言が重きをなせばなすほど、慎重にならざるをえません。日本の為政者は、私の発言を受け入れるとは限りません。むしろ、私の動きに警戒心さえいだいている人も多い。私は余計な波紋を日本に広げたくないんです。このことを、どうか、よくご理解いただきたいのです」
 「もちろんです。しかし、先生という存在は、政治の次元など突き抜けています。大きく抜きん出た指導者です。どうか、もう一度、考え直してください」
 コワレンコは、伸一に、しっかり時間をとって、さまざまな角度から、コスイギン首相と会談するように訴えた。彼が帰った時には、既に午前一時を回っていた。
 伸一は思った。
 ″ソ連は真剣だ。誠意には誠意をもって応えねばならない。それが人の道であろう″
28  宝冠(28)
 五月二十七日、山本伸一の一行は、午前十時前に、モスクワ大学を訪問した。
 この日、モスクワ大学では、ゴーリキー記念図書館での書籍展示会に始まり、伸一に対するモスクワ大学名誉博士の称号授与式、「東西文化交流の新しい道」と題する伸一の講演などが予定されていた。
 名誉博士号の授章の話を伸一が聞かされたのは、モスクワに到着してからのことであった。宿舎のホテルに、同大学のV・I・トローピン副総長が訪ねて来たのである。
 「二十七日の、わが大学での講演に対し、心から感謝申し上げます。
 実は、この講演の前に、山本先生に、名誉博士号をお贈りすることになりましたので、お伝えにあがりました。この授章は、山本先生の文化・教育交流と平和運動を高く評価し、厳正な審査を経て、わが大学の教授会で決定したものです」
 同行してきたモスクワ大学のストリジャック主任講師が、それを訳して伸一に伝えた。
 栄光あるモスクワ大学の名誉博士号である。彼らは、伸一は喜んで受けるものと思っていた。しかし、返ってきたのは、予想もしなかった意外な言葉であったのである。
 伸一は感謝の意を表したあと、こう語った。
 「大変にありがたいお話ではありますが、まだまだ、おつきあいも短く、たいした貢献はできておりません。文化・教育交流にしても、むしろ、これからが本番です。したがって、名誉博士など、時期尚早です。
 今後の私の行動をご覧になってください。そのうえで、いつか、ご授章を検討くださればと思います。今はまだ、お受けするわけにはいきません」
 伸一は、栄誉を欲して、日ソの交流を推進してきたのではない。平和への信念からだ。
 通訳のストリジャックは、驚きの表情を浮かべた。彼は、トローピン副総長には話を訳さずに、伸一に尋ねた。
 「断ると言われるのですか!」
 そして、しばらく絶句した。
29  宝冠(29)
 ストリジャック主任講師は、いかにも困ったという顔で、山本伸一を見つめた。
 モスクワ大学の名誉学術称号は、細菌学者のパスツールや進化論のダーウィン、詩人のシラーやゲーテ、また、政治家では、インドのネルー初代首相や中国の周恩来総理など、人類史に輝く巨人たちに贈られている。
 ストリジャックは、それを辞退したいという伸一の考えが理解できないようだった。
 伸一は、同大学の名誉学術称号の重さをよく知っていた。それだけに、まだ自分など頂戴すべき立場ではないと考えたのだ。
 また、彼には″本来、自分には、社会的な名誉など必要ない。常に、民衆のなかに生きる「無冠の勇者」でよい″との思いもあったのである。
 ストリジャックは懇願するように語った。
 「この名誉博士号は、モスクワ大学として、先生の平和、教育への貢献を讃え、捧げたいと、決定したものです。もし、先生にお受けいただけなければ、私たちが困ります。どうか、ご辞退などなさらないでください」
 沈黙が流れた。ストリジャックは、トローピン副総長をちらりと見て、困惑し切った顔で、視線を落とした。
 伸一の傍らにいた峯子が口を開いた。
 「捧げたいとまでおっしゃってくださっているんですから、お断りするのは失礼ではないでしょうか。お受けすれば、モスクワ大学の方々も、お喜びくださいますし……」
 ストリジャックの顔に光が差した。
 「先生、どうか、お願いいたします!」
 伸一は思った。
 ″確かにモスクワ大学のご厚意を無にすべきではないのかもしれない。また、辞退すれば、多くの方々に迷惑をおかけしてしまうことになろう。この真心をお受けし、全力を注いで、日ソの未来のために尽くし抜こう!″
 「わかりました。それでは、僭越ながら、ご厚意を、ありがたく頂戴いたします」
 ストリジャックは、その言葉をトローピン副総長に伝えた。副総長が瞳を輝かせた。
30  宝冠(30)
 「山本先生! ようこそ、モスクワ大学においでくださいました。今日一日は、″モスクワ大学デー″にしていただきます」
 ホフロフ総長は、こう言って山本伸一の一行を迎えた。
 午前十時、伸一はクレムリンに近いモスクワ大学旧館のゴーリキー記念図書館で行われた書籍展示会のテープカットに臨んだ。前年の九月に寄贈した三千冊の図書が、広く一般公開されることになったのである。
 前々日は夏の陽気であったが、この日の明け方には摂氏四度にまで下がり、寒い一日であった。しかし、会場前には三百人ほどの学生が詰めかけ、熱気にあふれていた。
 テープカットに先立ち、ホフロフ総長が満面に笑みを浮かべてあいさつした。
 「書物は、人類の歴史、文化の一切が収められた貴重な文化財です。会長からお贈りいただいた、ここにある三千冊の図書は、ソ日両国の、そして、全人類の相互理解のための大きな力となることは間違いありません。
 今回、わがモスクワ大学は、両国の一層の交流推進を願い、創価大学に三千冊の図書贈呈を決定いたしました。本日は、その本の一部も、あわせて展示しております」
 これに応え、伸一が感謝の言葉を述べた。
 「盛大に書籍展示会を開催し、私どものささやかな真心の図書を、最大に活用してくださり、心より御礼申し上げます。また、創価大学への図書贈呈、大変にありがとうございます。早速、創価大学の学生に伝えさせていただきます。
 書物は、人間の英知の結実です。書物の交換は、人間交流の貴重な第一歩となります。贈呈いただく図書は、尊い友情の、黄金の結晶です」
 大きな拍手がわき起こった。
 書物を贈ることは、文化の橋を架けることだ。心を結ぶ道を開くことだ。良書には国境を超えた精神の触発がある。「良書を読むのは良い人との交りに似ている」とは、アメリカの思想家エマソンの名言である。
31  宝冠(31)
 山本伸一たちは、ゴーリキー記念図書館から、車でモスクワ大学の本館に向かった。
 超高層の大学本館の近くに、新しい白い塔が天に向かってそびえていた。第二次大戦で亡くなったモスクワ大学の学生や教職員を弔う記念塔である。
 ナチス・ドイツの侵略に抗して、学生も、教職員も、ペンを銃に持ち替え、祖国を守るために戦い、そして、命を落としていった。
 この塔は、ソ連の対独戦勝三十周年を記念して、完成したばかりだという。
 一行は献花のために記念塔の前に立った。
 伸一たちが近づいたことも気づかず、一人の老婦人が一心に祈りを捧げていた。スカーフと黒いコートが、ヒューヒューと吹きつける冷たい風に翻っていた。戦争に命を散らした学生の母なのであろうか。
 彼女は、花を手向け、身じろぎもせずに、じっと、祈りを捧げていた。その姿は、伸一の胸のなかで、長兄の戦死の知らせを見て、肩を震わせて泣いていた母の姿と重なった。
 老婦人の背中は、天に向かい、大地に向かい、ありったけの声で平和を訴えているように、伸一には思えた。
 去って行く老婦人を見送ったあと、献花した伸一は、心から題目を三唱し、犠牲者の冥福を祈りつつ、誓うのであった。
 ″戦争など、断じて起こしてはならない。若い命が犠牲になるような事態を、絶対につくりだしてはならない。
 そのために、私は自らの生命をなげうって戦おう。世界を駆け巡り、人間の心と心を結ぶために、語りに語ろう!″
 伸一は、トインビー博士との対談の折、博士が語っていた言葉が忘れられなかった。
 「権力を握った人間は、その掌中にある人々の利益を犠牲にしても、なおその権力を己の利益のために乱用したいという、強い誘惑にとらわれるものです」
 その権力者の魔性の心を変革するための戦いこそ、博士から託された自分の使命なのだ――彼は、そう自らに言い聞かせていた。
32  宝冠(32)
 献花のあと、山本伸一たちの一行は、モスクワ大学本館の九階にある総長室に案内された。ここで、名誉博士号の称号授与式が行われるのである。
 総長室には、既に教授や学生の代表らが待機し、伸一と峯子を拍手で迎えた。二人は、部屋の中央にある円形テーブルに、大学首脳と共に座った。周囲にもテーブルとイスが並び、百人ほどの人が出席していた。
 冒頭、ホフロフ総長が立った。
 「わがモスクワ大学は、山本先生に対して名誉博士の称号を贈ることを決定いたしました。ただ今から、その授章式を行います」
 拍手がわき起こった。伸一は、立ち上がって、皆に向かって礼をした。
 さらに総長は語った。
 「この名誉博士号の授章は、山本伸一氏の、教育活動、平和事業への多大な貢献に対するものであります」
 伸一への名誉博士の称号授章は、モスクワ大学教授会の席上、同大学哲学部から提案があり、歴史学部と同大学付属アジア・アフリカ諸国大学の支持を得て、推挙され、教授会の決定をみたものであった。
 「山本先生は、優れた社会活動家、平和運動家であり、哲学者、そして数多くの著作をもつ作家として、よく知られています。
 会長は、それら著作のなかで、現代の最も大事な問題として、人間関係の新しい価値観を提起しております」
 総長は、伸一の、世界平和と社会への貢献の具体的な実績をあげて賞讃し、それらが伝統あるモスクワ大学の名誉博士にふさわしい業績であることを述べ、こう話を結んだ。
 「今回の称号授与が、モスクワ大学と創価大学の協力と、ソ日両国民の一層の親善の発展につながると信ずるものであります」
 そして、総長は伸一に、名誉博士の学位記を手渡した。
 伸一にとって、世界の大学・学術機関からの第一号となる名誉学術称号が授けられたのである。意義深き「知性の宝冠」であった。
33  宝冠(33)
 山本伸一がホフロフ総長から名誉博士の学位記を受けると、総長室を埋めた、副総長や各学部長、教授、学生の代表から盛大な拍手が起こった。
 贈られた学位記には、こう記されていた。
 「ロモノーソフ記念モスクワ大学の教授会は、一九七五年四月二十八日に、優れた社会活動家、創価大学創立者の山本伸一氏に、文化と教育の分野における実り多い活動、並びに諸国民の平和と友好の深まりをめざす積極的な活動を讃え、モスクワ大学名誉博士号を授与することを決定した」
 モスクワ大学の一学部からのものではなく、大学全体から贈られた名誉学位である。
 ここで女子学生の代表から花束が贈られ、モスクワ大学卒業生の音楽家による弦楽器の優雅で荘重な調べが流れた。曲は、チャイコフスキー作曲の弦楽四重奏曲第二番である。
 伸一は、演奏に耳を傾けながら、恩師・戸田城聖をしのび、心で語りかけた。
 ″先生! 伸一は、ただ今、世界屈指の名門である、モスクワ大学の名誉博士号を受章いたしました。これも、ひとえに戸田先生の薫陶の賜物でございます。
 私は、この栄誉を、弟子として先生に捧げさせていただきます。さらに、私の教育と平和の戦いを支えてくださっている、学会の全同志と共に、分かち合いたいと思います″
 伸一は、ただただ、戸田城聖の指導のままに、師の遺志を果たさんとして、世界の平和のために、全力で走り抜いてきた。
 その結果が、モスクワ大学からの名誉博士号受章となったのである。伸一は、「創価の師弟道」のすばらしさを痛感していた。また、自分の受章によって、恩師の偉大さを示せることが何よりも嬉しかった。
 モンゴルの箴言にはこうある。
 「ランプの灯りは、油から生まれる。弟子の英知は、師匠から生まれる」と。
 ゆえに、弟子の勝利は師匠の勝利である。
 師の戸田城聖を世界に宣揚しなければならぬ――これが、伸一の誓いであった。
34  宝冠(34)
 見事な弦楽四重奏が終わると、再び大きな拍手が響いた。山本伸一は静かに立ち上がり、四人の奏者のもとに行き、握手を求めた。どうしても感謝の意を表したかったのだ。
 そうしたことは、あまり例がないのか、四人は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、伸一が差し出した手を笑顔で握り締めた。
 さらに、拍手が場内に広がった。
 人間的であることとは、人への感謝の心をもち、率直に、その気持ちを伝えることである。感謝なき人間主義もなければ、自身の思いを表現せぬ無表情の人間主義もない。
 次いで授章式では、伸一への名誉博士号の授章を提案したS・T・メリューヒン哲学部長が立ち、伸一の行動と思想、業績を詳細に語った。
 彼は、伸一の生い立ちから述べ、一九六〇年(昭和三十五年)に創価学会の会長に就任したこと、そして現在、学会は七百五十万世帯を超え、SGI(創価学会インタナショナル)メンバーは世界八十数カ国・地域に広がっていることなどを紹介した。
 また、伸一の平和創造のための提言等の活動、教育事業、世界の学識者との交流、ソ日友好への業績を語ったあと、彼の著作を通して、その思想に言及していった。
 「山本会長は、地上の最も価値あるものは人間生命であり、その生命のために戦わなければならないと説いております。
 会長が最も注目を集めているのは人間に関する主張です。人間をヒューマニズムの立場からとらえ、新しい世界を建設するには、まず、新しい人間をつくることが大事であるとし、人間革命の哲学を提唱しております。
 つまり、会長は伝統的な仏法の教義の解説のみならず、それを根本にした具体的実践を示しているのであります。
 以上の業績に対して、モスクワ大学哲学部は、四月の本学教授会で、会長に名誉博士号の授章を提案したものであります。
 最後に、今後の会長の平和事業、友好行動の成功をお祈り申し上げます」
35  宝冠(35)
 続いて、Y・S・ククーシキン歴史学部長が、モスクワ大学教授会として、山本伸一を名誉博士に推挙した理由を述べた。
 歴史学部長は、(1)人間性を重視した教育事業による社会貢献(2)核廃絶の提唱と平和運動の展開(3)哲学の研究、とりわけ歴史的な仏教という分野における優れた哲学的著作の発刊(4)小説、詩集を通してのヒューマニズムに富んだ文学の創造(5)これらの諸活動を通しての重層的な人類社会への貢献――をあげた。
 そして、「モスクワ大学から名誉博士号をお贈りできたことを、私たちは、心から喜ぶものでございます」と話を結んだ。
 哲学部長と歴史学部長の話から、モスクワ大学が名誉博士号の授章にあたって、あらゆる面から、極めて厳格に審査し、検討、決定した経過を、よく知ることができた。
 伸一は、モスクワ大学の厚意と期待を、厳粛な思いで受け止めた。
 ここで、伸一の謝辞となった。
 彼は深く一礼し、力強い声で語り始めた。
 「私は、ただ今、モスクワ大学からの名誉博士号を謹んでお受けいたしました。
 この栄誉ある貴大学のはからいは、今後の文化交流のためへの称号であると受け止めております。それだけに、重く、深い責任を感じております。
 私は、生涯、この名誉博士号に値する行動を貫き、日ソ友好のために、さらに、さらに、全力を注いでまいることをお誓い申し上げ、御礼の言葉とさせていただきます」
 伸一は、簡潔に話を終えた。祝福の大拍手のなか、再び弦楽四重奏が流れた。
 ホフロフ総長が、嬉しそうに伸一の顔を見て、柔和な微笑を浮かべていた。
 同行のメンバーは、喜びのなかで思った。
 ″すごいぞ! 世界屈指の知性の府が先生の業績を正しく評価している。平和貢献をはじめ、先生の人類への業績は、まさに黄金の価値を放っている。悪意をいだき、嫉妬の中傷で泥にまみれさせようとする者がいても、黄金は黄金だ。その光を消すことはできない″
36  宝冠(36)
 午後零時半、モスクワ大学の文化宮殿に、ホフロフ総長の弾んだ声が響いた。
 「……モスクワ大学は本日、山本会長に、名誉博士号をお贈りいたしました。その山本名誉博士に、東西文化の交流について、講演していただきます」
 文化宮殿を埋め尽くした約千人の教職員、学生らから、激しい拍手がわき起こった。
 文化宮殿は二層からなり、荘厳で、伝統を感じる会場であった。天井のライトは、大きな花を思わせた。壇上には、ホフロフ総長をはじめ、副総長や各学部長、ソ連対文連の関係者などが並んでいた。
 総長の隣の席に座っていた伸一は、総長に紹介されると、一度、立ち上がり、深くお辞儀をして着席した。
 講演のテーマは、「東西文化交流の新しい道」である。凛とした伸一の声が流れた。
 「昨年九月、金の秋の時期にモスクワを訪れて以来八カ月、近しい、そして、忘れ得ぬ友人との再会を指折り待つような思いで、この大地を踏みしめることができました。
 人と人との忌憚ない、率直な意見の交換というものは、交流の歳月のいかんを問わず、体制の壁をも超えて、旧知の友の情を呼び覚ますものであります」
 モスクワ大学のストリジャック主任講師が、伸一の言葉をロシア語に訳していった。
 妻の峯子は、壇上にあって、祈るような気持ちで、伸一の講演に耳を傾けていた。
 社会主義国の大学では、初めての講演である。しかも、原稿を見ると、人間の心と心の交流を訴える、精神性を強調した内容になっていた。それが、唯物史観に立ったマルクス・レーニン主義のソ連で、果たして受け入れられるのか、心配でならなかったのである。
 しかし、伸一は確信していた。
 ″皆、同じ人間だ。ソ連の人びとは誰よりも平和を求め、体制、民族、国境を超えて交流し、人類が結ばれることを、心から望んでいる。それならば、私の主張と共鳴し合うことは間違いない!″
37  宝冠(37)
 山本伸一の言葉には、語るほどに熱がこもっていった。
 「あたかも、凍てついたシベリアの大地にも、春の訪れとともに若草が芽吹くように、忍従を余儀なくされた長き圧制に耐えて、人間解放の歴史の一ページを開いた民衆の、あの不屈の意志と力こそ、私には、ロシアの風土が育んだ、誇り高き特質であるように思えてなりません」
 伸一は、こうした国民性が、ソ連独自の民衆文化を開花させたとして、その象徴的な事例として、ロシア文学に言及していった。
 ゴーリキーやプーシキン、トルストイなどをあげながら、ロシア文学の特長は、すべての民衆の幸福、解放、平和という理想の実現を目標に掲げ、民衆という土壌にしっかりと根を下ろし、深く人間性を掘り下げてきたことにあると述べた。
 そうしたロシアの文化は、人類文化の交流に貢献していくべきものであるとし、東西文化の交流に話を進めた。
 そして、かつて東西交流の懸け橋といわれたシルクロードに触れ、その存在が、世界の諸文化に甚大な影響をもたらし、ユーラシア大陸の文化が遠く日本まで、シルクロードを通して伝播している事実を紹介したあと、こう聴衆に呼びかけた。
 「では文化が、かくも広範に伝播、交流をなした要因は、どこにあったのでしょうか」
 伸一は、講演といっても、話を一方通行に終わらせたくなかったのである。彼は、何千人の人の前で話をする時も、常に対話を心がけていた。皆に声をかけ、心を通わせ合うなかで、共感と理解は深まるからだ。
 伸一は、皆が一瞬、思案顔になったところで語り始めた。
 「もちろん、交易、遠征による交わりが、文化交流の糸口になったことは当然であります。しかし、私は、より根本的には、文化それ自体の性格が、交流を促進していったと考えるものであります。実は、ここに、文化というものの特質があると思います」
38  宝冠(38)
 講演では、山本伸一の独自の文化論が展開されていった。
 「本来、文化の骨髄は、最も普遍的な人間生命の躍動する息吹にほかなりません。
 それゆえ、人間歓喜の高鳴る調べが、あたかも人びとの胸中に張られた絃に波動し、共鳴音を奏でるように、文化は人間本来の営みとして、あらゆる隔たりを超えて、誰人の心をもとらえるのであります。
 この人間と人間との共鳴にこそ、文化交流の原点があると、私は考えるのであります。
 したがって、人間性の共鳴を基調とする文化の性格というものは調和であり、まさに、武力とは対極点に立つものであります」
 伸一は、ここで、武力と文化を対比させながら、その特質を論じていった。
 「軍事、武力が、外的な抑圧によって、人間を脅かし、支配しようとするのに対し、文化は、内面から人間自身を開花、解放させるものであります。
 また、武力は、軍事的、また経済的な強大国が弱小国を侵略するという、力の論理に貫かれているが、文化交流は、摂取という、受け入れ側の主体的な姿勢が前提となる。
 さらに、武力の基底に宿るものが破壊であるのに対して、文化の基底に宿るものは創造であります。
 いわば、文化は、調和性、主体性、創造性を骨格とした、強靱な人間生命の産物であるといえましょう。そして、その開花こそが、武力、権力に抗しうる人間解放の道を開く唯一の方途であると、私は考える次第です」
 斬新な文化論に、参加者の誰もが魅了されていった。どの目も生き生きと輝いていた。
 次いで伸一は、シルクロードが八世紀ごろから次第にすたれ、ヨーロッパと極東地域を結ぶ海上ルートが確立されていった経過を語った。そして、話を現代に移し、今や交通網、通信網は目覚ましい発達を遂げ、物と物、情報と情報の交換はあるものの、人間と人間、なかんずく心と心の交流の希薄さを、大きな問題点として指摘したのである。
39  宝冠(39)
 山本伸一の講演は、いよいよ本題に入っていった。彼は、これまでに会った、世界の心ある識者、指導者は、東西文化交流の早期実現を強く念願し、その声は世界の潮流となってきていることを述べ、こう力説した。
 「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり、人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が、今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたいのであります。
 それというのも、民衆同士の自然的意思の高まりによる文化交流こそ、『不信』を『信頼』に変え、『反目』を『理解』に変え、この世界から戦争という名の怪物を駆逐し、真実の永続的な平和の達成を可能にすると思うからであります。
 民衆同士の連帯を欠いた単なる政府間協定が、一夜にして崩れ去り、武力衝突の悲劇へと逆転した歴史を、われわれ人類は何回となく経験してきたのであります。同じ過ちを繰り返してはなりません」
 ここで彼は、歴史のうえで長年培われてきた「民族的敵意」の問題に触れた。そして、「民族的敵意などというものは、正体のない幻である」と断言したのである。
 伸一は、その一例として、互いに敵だと教え込まれてきたギリシャ人とトルコ人の、キプロスでの交流のエピソードをあげて、こう訴えた。
 「いかに抜きがたい歴史的対立の背景が存しようとも、現代に生きる民衆が過去の憎悪を背負う義務は全くないのであります。
 相手の中に″人間″を発見した時こそ、お互いの間に立ちふさがる一切の障壁は瞬くうちに瓦解するでしょう。実際、私は今、皆さんとともに話し合っています。交流しています。皆さんとは、平和を共通の願いとする友と信じます。皆さんはいかがでしょうか!」
 大きな賛同の拍手がわき起こった。大事なことは、過去に縛られるのではなく、同じ人間として未来に向かって生きることなのだ。
40  宝冠(40)
 いかに解決しがたい問題に見えようとも、人間という次元から光を照射してみるならば、そこには必ず、武力抗争によらない平和的手段が浮かび上がってくる。
 人間と人間を対立させ、煽り立てる権利は、いかなる地位の人間にも断じてない――それが山本伸一の確信であり、信念であった。
 ここで伸一は、東洋文化圏と西洋文化圏の交流だけでなく、先進国といわれる「持てる北の諸国」と、発展途上にある「持たざる南の諸国」の関係、いわゆる「南北」の交流にも言及していった。
 彼は、この「持てる北」「持たざる南」という色分けは経済発展度によるものであり、それが文化の領域全般の優越性を示すものではないと指摘。逆に発展途上の国であっても、世界に誇るなんらかの文化的財産を保有していると力説した。
 そして、音楽、文学、芸術、宗教、伝統、生活様式、心理的性向等々、さまざまな面から光を当てる時、評価の様相は千変万化し、先進国と発展途上国という区別は消滅するであろうと、強く訴えたのである。
 伸一は、経済至上主義の世界の在り方、人間の考え方を、断じて変えねばならないと思っていた。その生き方こそが、心の豊かさを奪い、人間を貧しくし、偏頗で空虚なものにしているからだ。
 古来、詩人や哲学者らが、金は人間にとって「召し使い」にもなれば「主人」にもなると指摘してきた。
 経済を人間の幸福のために使いこなしていく「心の豊かさ」の復活――そこに、宗教者の使命があるのだ。
 さらに伸一は、文化交流は、人と人との心を結び、その琴線に共感のハーモニーを奏でるものであり、あくまでも相互性、対等性に貫かれていることが肝要であると述べた。
 それによって、異民族、異文化に対する尊敬と崇重の念も育まれ、東西、そして南北をも包み込む「精神のシルクロード」で、世界を縦横に結ぶことが可能になるからだ。
41  宝冠(41)
 次いで山本伸一は、ソ連こそ、東西、南北にわたる文化交流の橋渡しの役割を担っているとして、その特質をあげた。
 (1)ソ連は、ロシア文化に特有の人間把握の深さと普遍性に加え、地理的にもヨーロッパとアジアにまたがり、東西文化の″巨大な接点″であること。
 (2)さまざまな経済発展度を呈する十五の共和国からなる連邦の在り方は、南北文化交流の貴重な先例となること。
 (3)百二十を超える、多種多様な民族をかかえるソ連は、文化交流の偉大なる″るつぼ″であり、異民族、異文化の見事な調和と独自性をめざそうとしていること。
 伸一は、願いを託すように訴えた。
 「アジアの心も、ヨーロッパの心も、そして、『北』の心も、『南』の心も、ソ連には理解できるに相違ない。だからこそ、東西文化交流に、そしてまた、南北文化交流に、ソ連が寄与すべき任務は多々あると、私は信じたいのであります!」
 会場を揺るがさんばかりの大きな拍手が広がった。賛同と共感の拍手である。
 最後に伸一は、こう話を締めくくった。
 「私ども創価学会も、皆さんと共に、今後も文化交流を民衆レベルで推進していくことをお約束します。私は、その交流のために、生涯、先頭に立って、誠意を尽くして、世界を駆け巡るでありましょう。
 そうした人間交流の舞台で、いつの日かまた、皆さんとお会いする日を脳裏に描きつつ、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました!」
 歓声と拍手が雷鳴となって場内を包んだ。拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。
 伸一の隣の席にいたホフロフ総長が立ち、叫ぶような口調で謝辞を述べた。
 「山本博士! すばらしい、歴史的な講演でした。大変にありがとうございました」
 歓声をあげながら聴衆が立った。頬を紅潮させて、次々と立ち上がった。そして、盛大な拍手で、伸一を見送った。
42  宝冠(42)
 山本伸一の講演は一時間半に及んだ。
 退場する伸一のもとに、通訳をしたストリジャック主任講師が駆け寄ってきた。
 「山本先生! おめでとうございます。最高の講演です」
 伸一は、手を差し出しながら言った。
 「名通訳、ありがとうございます。ストリジャック先生のおかげで、大任を果たすことができました。心から感謝申し上げます」
 ストリジャックは、感無量の表情で、伸一の手を握り締めた。その目が潤んだ。
 あとで聞いた話であるが、ストリジャックは前夜、徹夜までして、講演原稿の翻訳に万全を期したのである。そして、万が一、そのために自分が体調を崩し、途中で通訳ができなくなった場合に備え、一人の最優秀の教え子を後ろに控えさせていたのだ。
 その事実を知った時、伸一は、彼の誠実さと強い責任感に、深い感動を覚え、熱いものが込み上げてきてならなかった。
 二人の間には、強い友情と連帯がつくられていたのである。
 「信実のある友にまさるものは、なにもない」とは、古代ギリシャの詩人エウリピデスの真理の言葉である。
 伸一が退場したあとも、文化宮殿には拍手が鳴り響いていた。
 伸一は、その響きを耳にしながら、モスクワ大学名誉博士号という「知性の宝冠」を賜った一人として、ささやかながら、その務めの第一歩を踏みだせたことが嬉しかった。
 彼は、かつて、戸田城聖が「戸田大学」で個人教授をしながら、語った言葉が、思い出された。
 「世界のいかなる大学者、大指導者とも、いかなる問題であれ、自由自在に論じられる力をつけるように、鍛えておくからな」
 そして戸田は、心血を注いで伸一を教え育んだ。来る日も、来る日も、自身の一切の学識と経験と智慧とを伝えてくれた。
 伸一は、恩師を思うと、ありがたさに身が打ち震える思いがするのであった。
43  宝冠(43)
 山本伸一たちは、再びモスクワ大学本館九階の総長室に移動し、同大学と創価大学の学術交流に関する協定書の調印式に臨んだ。
 この協定は、前年九月の初訪問の折に交わした取り決めに基づき、両大学間の学術交流を具体化したものであった。
 協定書には、教員や研修生の交換、定期刊行物や学術文献などの交換、共同学術研究または共同学術発表について検討することなどの詳細が記されていた。
 ホフロフ総長、創価大学の学長が、それぞれ署名し、両大学は、さらに本格的な交流に向かって動き始めたのである。
 続いて午後二時半から、モスクワ大学主催の昼餐会が行われた。まさに、分刻みのスケジュールであったが、伸一は自らを鼓舞しながら、勇んで行事をこなしていった。
 昼餐会でホフロフ総長は、伸一の記念講演に触れて、語った。
 「本日、山本先生は、大事なテーマを与えてくださいました。私たちは″精神のシルクロード″の開拓者となってまいります。
 偉大な友人、山本先生を迎えての今日一日の催しは、モスクワ大学の歴史に永遠に輝くものであり、両国の民間友好と平和事業の前進へ、多大な貢献を果たしました」
 それに応えて、伸一があいさつに立った。
 「ホフロフ総長をはじめ、皆様方とお会いして、まだ一年もたたないうちに、私たちは深い友情に結ばれた親愛の友となることができました。東洋流に言えば、『不思議な縁』であります。
 私は、それは″私たちが、互いに平和を強く願望しているからである。平和への強い意志という共通項があったからである″と思います。その心の共鳴が、私たちを、固く、強く、結びつけたのであります。
 つまり、平和を望む心があれば、人類は手を握り合い、友情を育むことができると、私は確信しております」
 そして、伸一は、モスクワ大学のますますの発展を願って、話を結んだ。
44  宝冠(44)
 モスクワ大学での昼餐会は、午後四時過ぎまで続けられた。
 この日の夜、山本伸一たちは、モスクワ大学の招待で、サーカスの観賞に出かけた。ソ連のサーカスは、世界に誇る芸術である。
 伸一が貴賓席に案内されると、場内アナウンスが、彼を紹介し、歓迎の拍手が響き渡った。そこにもソ連側の心遣いが感じられた。
 一つ一つの演技に、極めて高度な技術が光っていた。伸一は感嘆した。
 フィナーレで彼は、出演者に賞讃と感謝の花束を贈呈した。伸一は、あらゆる機会を日ソの友好交流の場とし、心を結ぼうとしていたのである。
 翌二十八日も、ぎっしりと行事が詰まっていた。前日、冷え込んだせいか、伸一は、体調を崩し、熱もあった。しかし、そんな素振りさえ見せずに、彼は精力的に動いた。
 時間は限られている。そのなかで成すべきことを成し遂げるには、一瞬の猶予も許されなかった。すべては時間との戦いである。
 午前十時、一行はソ連平和委員会を訪問した。詩人でもある同会のN・S・チーホノフ議長とS・S・スミルノフ副議長、ソ連科学アカデミー会員でノーベル物理学賞を受賞したP・A・チェレンコフ博士など、主要メンバーが迎えてくれた。
 チーホノフ議長らは、これまでの伸一の平和提言や、青年部が行った核廃絶一千万署名、グアムでの世界平和会議の開催など、学会の平和運動を高く評価した。
 伸一は応えた。
 「恐縮です。学会の平和運動について、本当に、よくご存じであることに驚きました」
 「当然です。私たちは、会長の提案や学会の運動は、一生懸命、勉強しております。世界の平和を真剣に考えるなら、会長の提言に耳を傾けざるをえません」
 この発言に、同行の青年たちは思った。
 ″世界の識者たちは、先生の提言の重要性を深く理解されている! 日本は、いったい、どうなっているんだ!″
45  宝冠(45)
 ソ連平和委員会のチーホノフ議長は語った。
 「昨日も会長は、東西、そして南北の、幅広い文化交流を主張されましたが、私どもは平和のために緊密に連携を取り合い、協力することを惜しみません」
 山本伸一は、学会の平和運動についての考えを明らかにした。
 「学会としても、平和のために、宗派やイデオロギーを超えて、あらゆる人びとと話し合う用意があります。
 しかし、日本には″平和運動″という美名を掲げてはいても、政治的意図や利害に左右され、根本的な平和への理念をもたない団体や、売名のための運動も数多くあります。
 創価学会は、軍部政府の弾圧と戦い、初代会長は獄死、第二代会長も二年間の獄中生活を送っています。
 だが、大多数の教団、団体は、戦時中、軍部政府に協力してきました。そのことに本当の反省もなく、戦後の弾圧のない平和な時代になってから、『平和、平和』と叫ぶ。
 そうした運動については、その真偽を厳しく見極めていきたいと思っております」
 「平和」と言えば、否定したり、反対したりする人は、まずいない。それをいいことに宗教団体や政治団体などが、「平和」を自分たちの宣伝の道具として利用するケースが、あまりにも多いのである。
 本当に平和を推進するには、いかにして平和を実現するかという哲学、理念が不可欠である。また、命をなげうつことも辞さぬ覚悟がなくてはならない。
 ソ連平和委員会のメンバーは、何度も頷きながら、伸一の話に耳を傾けていた。
 「また、平和運動は、社会活動として民衆の生活に、日常的に根を張ったものでなければなりません。
 民衆が、日々の生活の場で、平和を叫び、平和の潮流をつくるための貢献ができることが大事です。そうでなければ、恒常的な運動の持続も広がりもないからです」
46  宝冠(46)
 山本伸一は話すにつれて、ますます言葉に勢いがみなぎっていった。
 「私ども創価学会の平和運動は、まず、生命尊厳の仏法哲理を学び合うことから始まります。それは、本来、万人が等しく、尊極無上の仏の生命をもっているという思想です。
 そして、互いが互いの幸福を願って、励まし合い、信頼、尊敬し合う人間の善の連帯を、家庭、地域、職場など、身の回りから広げていく運動が基調になっています。
 戦争の根本要因は、相手を信じられないという相互不信、人間不信にあります。
 各人がそれを打ち破る人間革命の実践に励み、観念ではなく、現実の社会のなかに、人間共和の縮図をつくり上げ、それを、イデオロギー、民族、国境を超えて、世界に広げようというのが、私たちの運動です」
 ―チリの女性詩人ミストラルは叫んだ。
 「私達が今いるその場所で″平和″を唱えよう。どこへ行こうと唱えよう。その輪がふくらむまで」
 午前十一時過ぎ、伸一の一行は、「赤の広場」にあるレーニン廟に献花した。日ソの友好を誓い、平和を願っての献花であった。
 昼食を挟んで、午後三時、伸一は高等中等専門教育省を訪問し、Ⅴ・P・エリューチン大臣と、第一次訪ソに続いて二度目の会談を行った。
 そして、午後五時、彼はクレムリンで、八カ月ぶりにコスイギン首相と再会したのだ。
 「この語らいを待っていました!」
 こう言って首相は握手を求めながら、人なつこい微笑を浮かべた。
 伸一が、多忙ななか、時間を割いてくれた礼を述べると、首相は、いたずらっぽい表情を浮かべて答えた。
 「時間をつくり出しました!」
 そして、「ぜひとも必要な時間であったからです」と真顔で続けた。
 「では、記念撮影をしましょう」
 首相は、伸一の一行十数人を自ら案内し、共に記念のカメラに納まった。
47  宝冠(47)
 記念撮影のあと、山本伸一と同行の青年のうち一人が残り、コスイギン首相の執務室で会見が始まった。
 ソ連側には、対文連のポポワ議長、ソ日協会のコワレンコ副会長、モスクワ大学のホフロフ総長らが同席した。通訳はモスクワ大学のストリジャック主任講師である。
 ブレジネフ書記長が静養中であることを聞いていた伸一は、まず、書記長への見舞いの言葉を述べた。
 「ありがとうございます」
 首相は笑顔で答えた。
 昨年秋に引き続いて、二度目の会談とあって、打ち解けた語らいとなった。
 伸一は、「私は政治家ではありません。日本の一壮年として、率直にお話しさせていただきます」と前置きし、コスイギン首相の米ソの緊張緩和に対する努力を讃えた。次いで、平和建設のための未来展望について、さまざまな観点から意見交換した。
 そのなかで伸一は、昨年九月の訪ソ後、二度にわたって中国を訪れ、周恩来総理、鄧小平副総理と会談したことを伝えた。また、アメリカではキッシンジャー国務長官と会談したことも語った。
 そして、仏法者として世界の平和を願い、人間対話に励む真情を述べた。
 コスイギン首相は、日中平和友好条約がどうなるのか、特に反覇権条項がどうなるのかに強い関心をもっていた。中国が、この年一月に開催した第四期全国人民代表大会で、明確に反ソ路線を打ち出したことから、中国への警戒感を強くしていたのである。
 中国は、いまだ文化大革命が続いており、四人組が実権を握っていた。まさに激動の渦中にあったのである。
 しかし、伸一は、やがて中国は、大きく変化し、対ソ政策も変更する時が、早晩、やって来るにちがいないと確信していた。
 彼は時代の底流を見ていた。周恩来総理、鄧小平副総理という中国の指導者の″人間″を見すえていたのである。
48  宝冠(48)
 コスイギン首相との会談では、日中平和友好条約の締結が進められようとしているなかでのソ連の対応について、首相が山本伸一に、率直に意見を求める一コマもあった。
 伸一は答えた。
 「何があっても、大局観に立って、悠々とすべてを見下ろすように様子を見ていくことも、一つの方法ではないかと思います」
 彼は、首相には、共に時代の底流を凝視してほしかった。中国と対立を深めるのではなく、対話へ、友好へ、平和へと、舵を取っていってほしかったのである。
 この時期、中ソ関係は、最悪の事態を迎えていた。しかし、激しく非難し合ってはいても、戦争へと迷走することはなかった。
 両国首脳は、伸一という一つのパイプを通して、戦争を避けようとする、互いの心音と息づかいを感じていたのかもしれない。
 伸一は、険悪化する中ソの関係を改善するためには、自分が両者の懸け橋になろうと覚悟を決めていた。
 対立する両者に、対話の必要性を語り、友好と平和への歩みを開始させることは、いかに難しいかを、彼はよく知っていた。両者から反感をかい、憎まれることもある。
 しかし、だからこそ、自分がやるべきであると、彼は心を定めていたのだ。
 ″誰にも評価されずともよい。二十一世紀のため、平和のため、人類のために、やらねばならぬテーマなのだ!
 ソ連と中国が、固い握手を交わし合う時まで、粘り強く、幾度となく、訪ソ・訪中を重ねよう……″
 語らいの最後に、コスイギン首相は、眼を輝かせて、未来を見すえるように、感慨のこもった声で語った。
 「ソ連と日本は、非常に明るい見通しのある協力関係が可能です。日本とソ連が協力し合ったら、極東のために大きな力を発揮していけると思います」
 会談は、まさに、友人同士の胸襟を開いた対話となったのである。
49  宝冠(49)
 クレムリンを後にした山本伸一たちは、モスクワ市内のレストランに急いだ。
 午後六時半から、伸一と峯子が主催する食事会が予定されていたのだ。文化省、高等中等専門教育省、ソ連対文連、ソ日協会、モスクワ大学、モスクワ市など、お世話になった各界の来賓を招いての集いである。
 伸一は、今回の訪ソを振り返り、出席者の多大な尽力と歓迎を丁重に謝した。
 集った人びとは、今回の訪ソで教育・文化交流が一段と伸展したことを喜ぶとともに、伸一のモスクワ大学名誉博士号の受章を祝福してくれた。
 にぎやかに歓談の輪が広がるなか、伸一は峯子と、出席者一人ひとりに、深謝の思いを語り、御礼の言葉をかけて回った。
 感謝の心は、その人の生き方、哲学の表れといってよい。自己中心の生き方を排し、何事も皆の支えがあってこそ成り立つという考えをもつならば、おのずから、人びとへの感謝がわくものだ。しかし、自分中心で、″周囲の人が何かしてくれて当然″という考え方でいれば、感謝の思いをいだくことはない。胸には、不平と不満が渦巻いていく。
 友情とは、感謝の心をもち、その気持ちを相手に伝え、報いようとしていくなかで深まっていくものだ。
 ソ連滞在の最終日となった二十九日午前、伸一たちは、教育省を訪問。M・A・プロコフィエフ教育相らと意見交換した。
 同教育相は、前年五月の訪日の折、創価大学を訪問していた。
 彼もまた、伸一の名誉博士号受章を、わがことのように喜んでくれた。
 「私は、モスクワ大学で博士号を取り、現在も母校で、講義しております。私たちは、二人ともモスクワ大学の博士なのです。この絆は強いと思います」
 伸一は、自分の名誉博士号の受章を、心から喜んでくれる、ソ連の友人ができたことが、このうえなく嬉しかった。
50  宝冠(50)
 プロコフィエフ教育相との会談で山本伸一は、同省との間で進んでいる教科書交流について語った。
 「各国の教科書が、他国の風俗などを、誤って伝えていることが少なくありません。
 たとえば、日本の場合も、昔の風俗が、現代の日本の姿として紹介されていることがよくあります。反対に日本の教科書も、各国のことを誤って紹介していることもあるのではないかと思います。
 したがって、国際教育の一環として、正しい相互理解を進めていくうえで、教科書の交換・交流は、極めて重要であると思います」
 教育相は笑顔で頷いた。
 「会長の意見に賛成です。政治的評価、イデオロギー的評価は、それぞれの見方で変わりますが、各国の風俗や、客観的に評価すべき事柄が、間違って伝えられるようなことがあってはなりません。
 したがってソ連は、フランス、フィンランド、イタリアと合同委員会を構成し、教科書の的確な記述をめざしています」
 さらに伸一は、国を超えて初等教育に従事する代表者の意見交換の場を設け、相互理解を促進し、教育の向上を図ることを提案した。
 また、国際的な人間を育成するうえで、何が大切かも話題になった。
 プロコフィエフ教育相は語った。
 「社会奉仕することを自分の最高の目的とし、理想とする人間を養成することです。社会に対する自己の使命の自覚は、やがて世界的意識を育んでいきます。これは、二十一世紀への、いや、二十五世紀へのテーマでもあります」
 社会への奉仕、つまり、利他という生き方の確立は、世界共通のテーマなのだ。
 仏法では、その生き方を菩薩道として教えている。皆が、法華経に説かれた、一切衆生を救う使命をもった「地涌の菩薩」であるとの自覚のもと、社会貢献に取り組んでいるのが、創価学会の運動である。世界の識者が模索する回答が、創価学会にあるのだ。
51  宝冠(51)
 午後一時半、ソ連対文連、モスクワ大学が主催する「さよならパーティー」に、山本伸一たち、訪ソ団一行が招かれて出席した。
 会場は、森と池に囲まれた、モスクワ郊外のレストランであった。
 まず、主催者を代表して、モスクワ大学のトローピン副総長があいさつした。
 「楽しい思い出を刻みつつ、会長と共に過ごした日々は終わりに近づき、遂に、お別れのパーティーとなってしまいました。
 会長一行の今回の訪問によって、ソ日両国の友好と協力は一段と進みました。大成功の第二次訪ソであったと確信します。
 『尊敬する皆さん!』と呼びかけ、あいさつをすることも、これが最後になってしまいましたが、私たちは、このたびの皆さんの訪ソを、永遠に忘れることはないでしょう。
 なぜなら、未来にわたる友情の種子が、見事に芽を出したからです」
 そして、新たな旅立ちの乾杯となった。
 その後も、あいさつは続いた。訪ソ団のメンバーは、通訳を務めたモスクワ大学のストリジャック主任講師をはじめ、皆の献身的な尽力に対して、口々に御礼を述べた。
 伸一も、あいさつに立った。彼は、関係者に、深く、丁重に感謝の意を表したあと、今後の友好への決意を力強く語り始めた。
 「よく『日本人は熱しやすく冷めやすい』と言われます。国と国との友好にあっても、確かにそうした傾向があることを、日本人の一人として私も残念に思っております。
 その場だけを取り繕おうとする発言、約束は、いくらでもできます。しかし、それでは本当の友好は確立できないでしょう。
 『建設は死闘』です。真の友好の道を開くのは、その決意と行動です」
 伸一は、一部の政治家たちの、口先だけの実践なき″親善″や″友好″を憂えていた。いや、怒りさえ覚えていた。
 「ただ迅速果敢な行動のみがすべてを決定する」とは、カエサル(英語名・シーザー)の至言である。
52  宝冠(52)
 山本伸一の誓いのこもったあいさつが、参加者の胸に響いた。
 「真の友好とは、その場限りのものではなく、将来にわたる、崩れざる友好でなければなりません。また、相互理解には、相互努力がともなうべきものであり、それがあってこそ、平和は達成されます。
 私は、永遠に日ソの平和交流を貫いていきます――その決意を、遺言にも似た思いで、ここに語っておきます。
 私たちは、永遠にわたる友好をめざしていこうではありませんか!」
 話し終わると、一瞬、場内は水を打ったように、静寂に包まれた。皆、この数日間、目の当たりにしてきた伸一の行動を思い起こしながら、彼の言葉をかみしめているようであった。しばらくして拍手が鳴り響いた。
 その時、一人の日本人女性が立ち上がった。日本対外文化協会の紹介で、通訳として第一次訪ソの時から伸一たちに同行してきた女性である。しかし、彼女は、立ったきり、なかなか話を始めなかった。見ると、その目は潤み、懸命に嗚咽を堪えていた。
 やがて、肩で大きく息をし、話し始めた。
 「私は、今、泣いております。……私は長い間、通訳をしてきただけに、今、先生の話した日本人の悪い面は、いやというほど目にし、耳にしてきました。友好を口では唱えながら、心は違っている人が多かったのです」
 言葉が途絶えた。込み上げる感情を抑えるように、彼女は、話を続けた。
 「私は、私は……今の先生の話を聞き、先生の行動を見て……、初めて、通訳をしてきてよかったと心から言うことができます。先生、ありがとうございました!」
 その目は輝き、頬には涙が光っていた。
 平和を願っての伸一の懸命な行動を間近で見てきた彼女は、真の友好に貢献できた喜びから泣いたのである。会場は、さわやかな感動に包まれた。
 惜別の時は過ぎ、光あふれる戸外で記念のカメラに納まり、パーティーは終了した。
53  宝冠(53)
 ソ連の大地に別れを告げる時が来た。
 山本伸一たち訪ソ団一行は空港に向かい、午後八時に、モスクワのシェレメチェボ空港を出発し、帰国の途に就いた。
 伸一は、次第に高度を上げる飛行機の中で、一人の老人との対話を思い起こしていた。
 この日の午後、「さよならパーティー」の会場に早めに着いた彼は、店の近くにある池の畔を歩いた。そこに、フードの付いたコートを着て、鳥打ち帽を被った老人が、孫を連れて、釣り糸を垂れていたのである。
 「どうですか、釣れますか」
 「まあまあだね……」
 伸一は、家庭のことなどを尋ねてみた。戦争で失った家族がいるようだ。
 「今は、幸せですか」
 伸一が聞くと、老人は答えた。
 「ああ、こうして孫と一緒に釣りができるからね。若い時は、戦争に行っていて、釣りもできなかった……」
 それから、孫に視線を注ぎながら語った。
 「わしらは、戦争に苦しめられてきた。この子たちには、あんな思いは、絶対にさせたくはない……」
 そして、胸の思いを吐き出すように言った。
 「もう、こりごりだ……。戦争はいけませんや。絶対に、絶対にいけませんや!」
 戦争の辛酸を、幾たびとなく、なめてきたのであろう。深く皺の刻まれた顔には、怒りと、悲しみがあふれていた。―
 ―伸一は、その顔を、その声を、忘れることができなかった。
 ″民衆は、心の底から平和を求めている。
 その声をくみ上げ、その心を結ぶのだ!″
 伸一は、窓の外を見た。星々の下に、漆黒の世界が広がっていた。彼の目には、地上に延びる精神のシルクロードが映っていた。
 ″この精神のシルクロードを築き上げることこそ、モスクワ大学の名誉博士号という「知性の宝冠」を賜った私の使命なのだ!″
 彼は逸る心で、星辰の彼方を仰いだ。

1
1