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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「共鳴音」 共鳴音

小説「新・人間革命」

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2  共鳴音(2)
 五月の三日には、午後一時前から、東京・八王子の創価大学中央体育館で「5・3」記念式典が開催された。
 式典の開会に先立ち、午前十一時からは、グラウンドで鼓笛隊の慶祝パレードも行われ、祝賀の調べが大空に舞った。
 集った人びとの顔には、喜びがあふれていた。
 ″山本先生が会長になってくださり、一切をなげうって指揮を執られたからこそ、この十五年間の学会の大発展があったのだ!″
 それが、この日集ったメンバーの実感であり、偽らざる心境であった。
 一方、伸一は、こう思っていた。
 ″私が十五年、会長として指揮を執り、広宣流布を大きく前進させることができたのは、同志の皆さんのおかげ以外の何ものでもない。
 皆、苦労に苦労を重ねて、本当に頑張ってくださった。時には、辛い思いも、悔しい思いも、悲しい思いもされたにちがいない。
 しかし、私と心を合わせ、勇気を奮い起こし、広宣流布の使命に生き抜いてくださった。
 法のため、友の幸福のために流したその汗と涙は、すべて珠玉の福運となることは、仏法の法理に照らして絶対に間違いない。
 私は、地涌の菩薩である尊き創価の法友に、わが同志に、心の底より感謝申し上げたい。そのための式典である!″
 記念式典の会場に姿を現した伸一は、入り口付近にいた参加者に「ありがとう!」「ありがとう!」と声をかけながら、次々と握手を交わしていった。
 感謝あるところに、生命の共鳴があり、団結が生まれるのだ。
 「祝典序曲」の力強い演奏で幕を開けた式典は、開会の辞、「二〇〇一年をめざして」と題する青年部代表の抱負に続いて、「創価功労賞」「国際功労賞」「広布文化賞」「広布功労賞」の授賞が行われた。
 これらの賞は、″功労のあった同志を最大に顕彰したい″との思いから、伸一が提案し、設けられたものである。
 「創価功労賞」は、広宣流布と創価学会の興隆に貢献した功労者の代表に贈られるもので、「国際功労賞」は、世界の各地で広宣流布のために活躍してきたメンバーに贈られる賞である。
3  共鳴音(3)
 「広布文化賞」は、日蓮大聖人の仏法を根底に、人間文化の興隆に努めてきた人に贈られる賞である。
 そして、「広布功労賞」は、地域広布に貢献してきたメンバーを顕彰するものである。
 山本伸一は、共に学会のため、広宣流布のために奮闘してくれた同志を賞讃し、顕彰していく流れを厳然とつくっておきたかったのである。
 受賞者は皆、喜々として晴れやかであった。
 「陰徳あれば陽報あり」と言われるように、隠れた善行は明確な善の報いとなって必ず表れる。陰で黙々と広宣流布のために献身してきた苦労は、いつか必ず、大功徳となって花開く。
 仏法は生命の厳たる因果の法則であるからだ。
 伸一は「冥の照覧」という法理に則り、広宣流布に尽くし抜いてくれた同志を表彰することで、その敢闘を讃え、労をねぎらい、深い感謝の心を伝えたかったのである。
 日興遺誡置文には「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」と認められている。
 ――一身を賭して法を弘める行者に対しては、いかに身分が低い法師であったとしても、まさに仏を敬うようにするというのが道理であり、最大の尊敬を払わなくてはならない、というのである。
 広宣流布の功労者、実践者、智者を敬いなさいという、こうした遺誡は、二十六箇条のうち四箇条もあるのだ。
 伸一は、この精神のうえからも、広宣流布に多大な尽力をされてきた方々を、顕彰しなくてはならないと思った。
 また、大聖人が「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず……」と仰せのように、讃えられれば、また頑張ろうというのが人間の心の常である。
 表彰が受賞者の励みとなり、さらに決意に燃えて奮闘していただけるなら、それがまた、前進の新しい活力となる。
 第二代会長の戸田城聖も、広宣流布のために奮闘した弟子たちをいかに賞讃し、励ますか、常に心を砕いていた。
 「論功賞罰はきちんとせよ」というのが、戸田の教えであった。
4  共鳴音(4)
 戸田城聖は、広宣流布のために、さまざまな難に遭い、頑張り抜いてきた同志がいると、励ましのメダルを贈った。
 また、折々に、句や和歌を作って、功績のあった弟子たちに贈っては、讃え、励ましてきた。
 さらに戸田は、いろいろな局面で青年たちの見事な働きを目にすると、さまざまな物を授けた。時には、自分が身につけていた時計や金の鎖などまで贈り、賞讃、激励することもあった。
 この戸田の精神を、山本伸一は、そのまま継承してきた。青年部のリーダーであった時から、同志の賞讃と励ましには最も心を配ってきたのだ。
 地方指導に行く際にも、貯金をはたいてノートや筆記用具などを大量に購入し、健気に奮闘する同志にプレゼントし、激励してきた。
 持ってきた品々がなくなると、彼もまた、自分が使っている万年筆や、ネクタイ、時にはベルトまで贈って励ますことさえあった。
 一度の励ましや顕彰が、人生の大きな転機となることもある。ゆえに伸一は、物を惜しむ気にはなれなかった。
 かつて戸田城聖は、彼の事業が苦境に陥り、その再建のために夜学を断念した伸一に、万般の学問の個人教授を続けた。「戸田大学」である。
 伸一は懸命に学び、ことごとく吸収していった。ある講義が修了した時、戸田は、机の上にあった一輪の花を取って、伸一の胸に挿した。
 「この講義を修了した優等生への勲章だ。伸一は、本当によくやってくれているな。金時計でも授けたいが、何もない。すまんな……」
 広宣流布の大師匠からの真心の賞讃である。伸一は、その花こそ、世界中のいかなるものにも勝る、最高に栄誉ある勲章であると思った。感動を覚えた。自分は最大の幸福者であると感じた。
 伸一は、後年、世界各国から、多くの国家勲章を受けている。また、大学・学術機関からは、二百数十という世界最多の名誉学術称号を受章することになる。
 彼は、その根本要因こそ、生命の因果の法則のうえから、師匠より賜った一輪の花に対する感謝と、ますますの精進を誓った「心」にこそあったと、深く、強く、確信しているのである。
5  共鳴音(5)
 記念式典は、座談会場などの会場提供者への表彰となった。
 山本伸一は、会場提供者の苦労を、よく知っていた。
 彼自身、青年時代からアパートの自室を、座談会場などとして提供してきた。何人ものメンバーが訪ねてくるので、″駐輪などで、周囲に迷惑はかからないか。声が外に漏れていないか″と、心を配った。
 参加者のなかには、注意を呼びかけても、大声で話しながら来る人や、足音を響かせて廊下を歩く人もいた。
 伸一は、会合の前後には、隣人たちに、あいさつをして回るように心がけてきた。
 また、彼は、自分が座談会など、個人の家を使っての会合に出席した折には、家の方々に必ず丁重に御礼を述べた。
 そして、その家に受験生や病人などがいることがわかると、会場として使用することは控えるようにしてきた。
 やむなく使わせてもらった場合にも、早めに切り上げ、皆が長居をしないように努めた。
 さらに、会場提供者と話し合い、使用した部屋はもとより、トイレ、玄関などの清掃も、皆で手分けして行うようにしてきたのである。
 ともあれ幹部は、会場提供者に最大の配慮と感謝を忘れてはならない。
 会場があるから広宣流布が進むのである。
 仏法が説かれ、功徳が語り合われ、発心を誓い合う場となる会場は、さながら現代における霊鷲山会であり、虚空会といってよい。そこは生命蘇生の宝処なのである。
 一方、わが家を、その会座として提供できるということは最高の喜びであり、誇りではないか。功徳、福運も、無量無辺である。
 伸一の妻の峯子の実家も、草創期から会場として使われてきた。彼女の父母が、喜んで自宅を提供してきたのである。
 峯子は、母と共に、同志を真心の笑顔で迎え、″わが家を会場として使っていただき、本当にありがたい″と思ってきた。この感謝の一念が、さらに、功徳、福運を倍増させるのである。
 記念式典で表彰された会場提供者は、皆、そうした心で、尽力してくださっている方々の代表である。伸一は、一人ひとりに深く頭を下げ、大きな拍手で祝福した。
6  共鳴音(6)
 記念式典は、いよいよ山本伸一の話となった。
 伸一の会長就任十五周年の佳節を刻む式典である。参加者の誰もが、伸一は未来展望などを示す、長時間の大講演を行うものと思っていた。
 しかし、大拍手のなか、登壇した彼の話は簡潔であった。
 「皆さん、十五年間、大変にお世話になり、本当にありがとうございました!」
 参加者への御礼に始まり、創価学会の全会員への感謝と、学会厳護の決意に貫かれたあいさつであった。
 「私は、日々、″断じて同志の皆様を守り抜こう″との一念で戦い、広宣流布の指揮を執っております。
 また、″必ず全員が幸せになっていただきたい″との思いで、懸命にお一人お一人に、お題目を送っております」
 伸一は実感していた。
 ″学会員は、御本仏日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のために、来る日も、来る日も、一身をなげうつ思いで戦い、献身してくださっている。
 まさに、学会員こそ、大聖人が召し出された地涌の菩薩だ。一人ひとりが末法の一切衆生を救済せんがために出現した仏なのだ!″
 そう思うと、彼の胸には、わが同志を最大に讃嘆し、守り抜いていこうという決意が込み上げてくるのである。
 伸一は、話を続けた。
 「長い広宣流布の旅路にあっては、雨の日も、嵐の日もあるでしょう。戦いに勝つこともあれば、負けて悔し涙をのむこともあるでしょう。
 しかし、勝ったからといって、驕って、虚勢を張るようなことがあってはならないし、負けたからといって、卑屈になる必要もありません。
 何があろうが、堂々と、また、淡々と、朗らかに、共々に使命の道を進んでまいろうではありませんか!
 前進が加速すればするほど、風も強くなるのは道理であります。したがって、ますます発展しゆく創価学会に、さまざまな試練が待ち受けているのは当然であります。
 ″まさか!″と思うような、予想外の大難も必ずあるでしょう。だからこそ、日蓮大聖人は『魔競はずは正法と知るべからず』と仰せなんです」
 未来を予見するかのような言葉であった。
7  共鳴音(7)
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「私は、いかなる事態になろうとも、情勢がどう変わろうとも、今までの十倍、二十倍、三十倍、五十倍と力を尽くし、皆さんを、創価学会を守り抜いてまいります。
 それが会長です。皆さんのために会長がいるのだと、私は心を定めております。
 何があろうとも、どんな困難に遭遇しようと、私は皆さんを守るために、一歩でも、二歩でも、前進するのだと決めて、力の限り戦います。
 広宣流布のため、世界の平和のため、人類の幸福のために、これからも全力で進んでまいりますので、どうか、よろしくお願いいたします」
 会場を揺るがさんばかりの大拍手が起こった。
 これで、記念式典での山本会長のスピーチは終わった。
 彼は退場に際しても、参加者のなかに飛び込むようにして、次々とメンバーと握手を交わしていった。
 このあと、伸一は、海外からの来賓と会談し、さらに、創価大学の構内で行われた男子部、学生部の代表の集いに出席したのである。
 そこには、青年部長をはじめ、百人近い青年たちがいた。いずれも青年部の最高幹部や各方面の男子部、学生部の中心幹部たちである。
 伸一は会場に姿を見せると、皆に言った。
 「さあ、始めよう! 
 私は、この日を待っていたんだ。
 諸君の代表から、かつての水滸会に代わって、新しい創価学会を担う人材育成のためのグループを結成したいとの要請を受けました。大事なことです。大賛成です。
 このグループは、あえて私の名を取って、『伸一会』と命名します。
 青年部の中核である諸君は、私の分身として、広宣流布の一切の核となり、世界の同志を守り抜き、未来建設の原動力になっていただきたい。
 『俺たちがいれば大丈夫だ! 学会は微動だにしない!』と、胸を張って言えるようになってもらいたい。
 それには、団結だ。みんなで力を合わせていくことです。古今東西、これが勝利の要諦です」
 ――「団結しよう、されば我らは無敵となる」とは、南米解放の指導者シモン・ボリバルの叫びである。
8  共鳴音(8)
 山本伸一は、強い口調で話を続けた。
 「戸田先生のもとで、実質的に学会を支えたのは、私を中心とした、わずか数人の参謀室でした。
 先生亡き後も、私と共にこの参謀室の青年たちが団結して、創価学会を引っ張っていきました。
 諸君にも、その自覚をもっていただきたい。しかし、決して、″自分たちは特別だ!″などという意識をもってはならない。そういう思い上がった心をもった者は、必ず退転していきます」
 伸一は、鋭い視線で参加者を見渡した。
 皆、緊張した顔で固唾をのみ、伸一を見ながら、次の言葉を待った。
 「諸君は、出世しようとか、偉くなろうとか考えるのではなく、陰の力として、うんと苦労し、広宣流布のために、黙々と頑張り続けていただきたい。
 自分の力を磨いていくならば、自然に光ってくるものです。
 戸田先生は、青年に対して『宗教家になれ』とは言われなかった。『国士たれ』と言われた。
 そこには、宗教の枠のなかにとどまるのではなく、さまざまな道に通じた指導者になってほしいとの、思いがありました。
 また、仏法の精神は、そんな狭いものではない。広く、全人類の平和と幸福を築き上げることこそ、仏法の目的です。
 ともあれ、本当の勝負は二十一世紀です。その時に、どれほど力を蓄えて、どんな働きをしているかがすべてです。
 どうか、終生、信義の絆で結ばれた同志を裏切らないでいただきたい。
 そして、英知と情熱を融合させた真のリーダーに育ってください。非難や中傷の嵐に、敢然と立ち向かう指導者になっていただきたい。
 『さあ、共に戦おう!』と申し上げ、結成のあいさつとします」
 伸一は、このメンバーには、なんとしても、自分の「志」を受け継ぐ後継者として立ち上がってほしいとの念願から、自身が第三代会長として立った、この五月三日を、「伸一会」の結成の日としたのである。
 未来は青年によって決まる。ゆえに、青年を育てるかどうかに、一切はかかっているのだ。青年こそ「人類の至宝」だ。
 伸一は、この青年たち全員を、大リーダーに育てるために、どんなことでもしようと思った。
9  共鳴音(9)
 「5・3」の祝賀行事として、五月四、五日には「学会歌まつり」が、また、五日には記念の本部幹部会が、いずれも創価大学の中央体育館で開催された。
 この本部幹部会でも山本伸一の渾身の激励が続いた。三日の記念式典に続いて会場提供者の表彰が行われたほか、新たに設けられた「弘教推進賞」が五百五十人に贈られたのである。
 この賞も伸一の提案をもとに、副会長会議等で協議され、決定をみたものである。
 日興遺誡置文にも「弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事」とある。
 つまり、折伏の闘士に対しては、最高の敬意を払うというのが、日蓮仏法の精神である。
 弘教の勇者こそが、最高の勇者なのである。
 伸一は、本部幹部会の会場に姿を現すと、そのまま表彰者の席に向かった。そして、この日が「端午の節句」にあたることから、用意していた布のカブトを、表彰者たちに配り始めた。
 「おめでとう! ありがとう!
 皆さんは、民衆の幸福のために立ち上がった闘将です。大将軍です。私の心からの讃嘆として、カブトをお贈りします。
 これを被って、意気揚々と前進しようではありませんか!」
 壇上には、菖蒲をはじめ、美しい花々が飾られていた。
 その花を見ると、伸一は言った。
 「すばらしい花です。しかし、壇上に飾るのではなく、婦人部の参加者に差し上げてください。それが一番ふさわしい。
 婦人部の皆さんは、民衆の幸福と平和のために戦い抜いてこられた大功労者です。
 私は、その皆さんに、最大の感謝を込めて花を捧げたいんです」
 歓声が起こり、拍手が舞った。壇上にいた幹部たちが下に降りて、花を配り始めた。
 伸一は、この日のスピーチでは、未来展望に触れ、今後は広宣流布に励む同志の牙城として、各地の会館を充実させていくことなどを発表した。
 また、創価学会は、どこまでも「人間のための宗教」であり、深く民衆に根差すとともに、互いに守り合い、励まし合っていく信頼の団体であると訴えた。
10  共鳴音(10)
 山本伸一は、本部幹部会が終了し、退場する時にも、表彰者の席を回った。そして、開会前に伸一が配ったカブトを被り、微笑む初老の男性に声をかけた。
 「カブトがよく似合います。まるで若武者のようですよ」
 折から、学会歌の調べが流れた。すると、伸一は、空いていた隣の席に座り、その男性の肩に手をかけて言った。
 「さあ、一緒に、声高らかに学会歌を歌いながら、新しき法戦に出発しましょう!」
 伸一は、元気いっぱいに学会歌を歌い始めた。初老の男性も、喜々として歌った。全参加者が、それに唱和し、力強い手拍子が響いた。
 ドイツの詩人ヘルダーリンは詠った。
 「あなたと共に私は心をこめて よりよい時代のために闘うのだ」
 会場中の人が、そうした思いで熱唱した。それは、誓いと歓喜の、新しき船出の歌声であった。
 伸一は、さらに、このあとも、表彰者との記念撮影に臨み、声を嗄らしながら、メンバーを激励し続けるのであった。
 翌六日には、会場を東京・千代田区内のホテルに移して、陰の力として学会を支えてくれた、功労者千人を招いて、記念の祝賀会が行われた。
 全国の同志は、伸一の会長就任十五周年を心から祝福しようと、この一連の記念行事に集ってきた。しかし、その集いは、伸一の方が皆を祝福し、励ます場となった。
 彼は、いかなる団体や組織も、繁栄、安定していった時に、衰退の要因がつくられることをよく知っていた。
 「魚は頭から腐る」といわれるように、繁栄に慣れると、ともすれば幹部が、怠惰や傲慢、保身に陥り、皆のために尽くそうという心を忘れてしまうからである。
 学会の幹部は広宣流布と同志に奉仕するためにいるのだ。それを忘れてしまえば、待っているのは崩壊である。
 しかし、健気な奉仕の実践が幹部にあるならば、学会は永遠に栄えていくことは間違いない。
 大切なのは、″あそこまで自分を犠牲にして尽くすのがリーダーなのか″と、皆が驚くような率先垂範の行動だ。
 伸一は会長就任十五周年の佳節にあたり、そのことを身をもって示しておきたかったのである。
11  共鳴音(11)
 「わたしたちには、行動が人生だ。
 力を発揮することだけが喜びなのだ」
 ドイツの詩人ノバーリスは誇らかにうたった。
 会長就任十五周年の記念行事を終えた山本伸一は、五月十三日には、フランス・イギリス・ソ連訪問に出発した。
 アメリカ、中国に続いて、この年、三度目となる海外訪問である。
 旅程は十八日間であり、このうちソ連訪問は、前年九月に続いて、これが二度目となる。
 現地時間の午後六時、フランスのパリに到着すると、空港には、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治らの、元気な顔があった。川崎は今回、伸一のソ連訪問にも、同行することになっていた。
 伸一は語りかけた。
 「出迎えありがとう。
 川崎さん、私は、新しい歴史を創る旅をするからね。これまでの何倍も懸命に働きます。一日一日が真剣勝負です」
 柔和な微笑みを浮かべていた川崎の顔に、緊張が走った。
 彼は、これまで伸一と共に、ヨーロッパ各地を回ってきた。常に伸一は真剣勝負であった。息継ぐ間もないほどの、全力投球の連続であった。
 それなのに今回は、その何倍も、懸命に働くというのだ。
 やや遅れて、川崎が、「……はいっ!」と答えると、伸一は言った。
 「私と一緒に行動していくなかで、境涯を大きく開いてほしい。
 私の身近にいる日本の最高幹部が、惰性に陥ったりした時には、すぐに指摘し、励ましてあげることができる。
 しかし、海外の中心者というのは、普段は励ましてくれる人も、指導してくれる人もいない。
 自由でいいように思えるかもしれないが、それだと、どうしても惰性に陥り、新しい挑戦の意欲を失ってしまいがちだ。
 また、ともすれば、わがままや自分勝手になってしまい、場合によっては信心の軌道を踏み外してしまうことにもなりかねない。
 惰性というのは怖いものだ。いつの間にか、自分をむしばんでいく。
 たとえば、本来、百の力をもっていたとしても、惰性に陥り、挑戦を怠り、七十の力しか出さなければ七十が、三十の力しか出さなければ三十が、自分の力になってしまう」
12  共鳴音(12)
 川崎鋭治は、思い当たるところがあるのであろう。真剣な顔で山本伸一の話を聞いていた。
 「人間というものは、どうしても、人に言われないと、自分の弱い面、悪い面に傾斜していってしまい、挑戦の心を失ってしまうものだ。
 それを打ち破るためには、常に求道心を燃やして、師匠を求めていくことが大事になる。
 師匠というのは、惰性を破り、自身を高めていくための触発の力なんだよ。その触発がないということほど、不幸なものはない」
 ――中国の文豪・魯迅は、「心は、外から刺激を受けないと、枯死するか、さもなければ、萎縮してしまう外はない」と警鐘を鳴らしている。
 伸一の全精魂を注いでの同志への激励は、空港に到着したこの時から、開始されたのである。
 伸一たちは、空港からパリ会館に向かった。
 会館には、百五十人ほどのメンバーが待機し、到着した伸一を、歓声をあげて歓迎してくれた。
 十六日に開催が予定されている欧州友好祭に参加するために、パリに来ていたスウェーデン、スペイン、デンマークの友の姿もあった。
 伸一は、会館で共に勤行したあと、一人ひとりに声をかけながら、懇談的に話を進めた。
 「パリにおじゃまするのは二年ぶりとなりますが、皆さんとは、常に心はつながっております。
 私たちは、″人びとを幸せにしよう″″世界の平和を建設しよう″という同じ心で結ばれた同志であります。
 この心の絆ほど、尊く、麗しいものはありません。そこに、異体同心という善の精神の結合があるからです」
 そして彼は、「それぞれの国の良き市民たれ」と訴えたのである。
 「仏法即社会」である。社会で勝利していくための信仰である。
 「どうか、皆さんは、社会にあって、最も良識豊かな、誰からも信頼、尊敬される一人ひとりになってください。それが広宣流布の力なんです。
 そのために、題目を心ゆくまで唱え、自身の生命を磨き抜いていただきたい。
 また、仏法哲理をしっかり身につけ、どんな試練にも負けない人生観を確立していっていただきたいのであります」
13  共鳴音(13)
 五月のパリは、色とりどりの花が咲き競い、緑が薫る、美しい希望の季節である。
 翌十四日、山本伸一は妻の峯子らと共に、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、アルフォンス・デュプロン総長と会談した。
 総長とは、二年前の同校訪問の折にも語り合っていた。
 同校で起こった学生運動が、一九六八年(昭和四十三年)の「五月革命」へと発展し、社会変革を求める大規模な大衆運動となったことは、よく知られている。
 総長は、ここで長年、教育者として、諸問題の解決に取り組み、教育の在り方について探究していた。
 伸一は、教育関係者と会うと心が躍った。教育は次代を創る。ゆえに、未来を創造するための語らいができるからだ。
 デュプロン総長は、伸一との再会を喜び、笑顔で握手を交わした。
 総長は、二年前の会談以来、伸一に共感を寄せ、その行動に注目してきたという。そして、伸一との語らいを待っていたかのように、会談の冒頭から、教育の使命について論じていった。
 「教育は本来、社会の進むべき方向を照らし出すものであると思います。
 憂慮すべきは、現在、人びとの精神が戦争へと向かっているということです。個人、国家を問わず、すべてのレベルで平和を志向していく必要があります。
 そのための″平和への教育″こそ、最も大切であり、それを行うことが教育者の責任です」
 伸一は総長の言葉に頷くと、身を乗り出すようにして語った。
 「おっしゃる通り、教育者には、平和を築こうとの固い信念と情熱が必要です。教師が学生の平和建設の意志を触発していくことが、平和教育の根本です。
 私は教師には、単に知識を与えるだけではなく、心を呼び覚ます役割があると考えています」
 「その通りです!」
 総長は瞳を輝かせた。
 語らいは、世界の平和を築くうえで、何が必要かに及んだ。
 伸一は、人類の融合を図るために、異なる文化の交流が必要であり、特に教育交流が大切であることを訴えた。総長も、全く同じ意見であった。
 未来の責任を担おうとする二人の、魂と魂が響き合う語らいとなった。
14  共鳴音(14)
 デュプロン総長と山本伸一は、教師と学生の断絶という課題についても率直に語り合った。
 総長は、教師は学生との間に交流がなくなっていることを認識し、責任を感じる必要があると指摘して、こう語った。
 「教育にとって大事なのは、″よく聞くこと″です。したがって教授は指導するというより、まず学生の言い分をよく聞くことを考えなければなりません」
 教育の根本は人間交流であり、対話なのだ。
 会談は、人間教育に移り、学ぶことと社会の関係が話題になった。
 伸一は、牧口常三郎初代会長が半日学校制度を提唱し、一日のうち半日は学校で学び、半日は勤労するという制度を主張していたことを述べた。
 総長は言った。
 「そうした勤労を通して、学生は、社会という自己を支える存在があって、自分が勉学に励めるのだと認識することが大事です。そして、その恩を社会に還元し、奉仕していこうという意思があってこそ、勉学と労働の調和があるといえます」
 「恩」という考えは、現代社会から忘れ去られて久しい。しかし、人間は単独では存在しない。親や師、社会などに支えられて生きているのだ。
 それを自覚し、感謝の心をもち、その恩に報いていくなかに人間の道がある。そのことを教えているのが仏法である。
 また、それは、古今東西を問わず、普遍的な真理といってよい。
 さらに伸一は、グローバルな視野に立つ世界市民の育成という役割を、教育は担わなければならないことを訴えた。
 総長は賛同した。
 「言語を媒介としてコミュニケーションを図り、互いの良心を引き出すことが最も重要です。
 その良心の交流によって、互いに理解を深め、善意をいだき合っていくなかで、世界市民としての自覚と結合が生まれていくと思います」
 伸一は、大きく頷いた。
 「そうです。大切なのは、まさに互いの良心を引き出すことです!
 今、世界に必要なものは、魂が共鳴し合い、良心を引き出すような対話です。私は、そのために世界を駆け巡り、対話をし続けております」
 デュプロン総長との教育談議は弾み、深い意義を刻みながら時間は過ぎていった。
15  共鳴音(15)
 パリ大学ソルボンヌ校のデュプロン総長と会談した山本伸一は、夜にはパリ会館で、西ドイツ(当時)、デンマーク、スウェーデンなどからやって来たメンバーを歓迎し、懇談した。
 さらに、第三次訪中の記録映画を共に観賞。終了後には、皆が喜ぶならとピアノに向かい、「さくら」や「荒城の月」などを演奏し、激励した。
 翌十五日、川崎鋭治が一九六一年(昭和三十六年)九月にヨーロッパに渡って、今年で十五年目になることから、その記念の意義も込めた集会がパリ会館で行われた。
 これは、ヨーロッパの中心者として道を切り開いてきた川崎の功労を讃えるために、伸一が提案したものであった。
 この会合には、欧州友好祭に参加するために、ヨーロッパ各地から集ってきた、十一カ国三百人のメンバーが出席。欧州広宣流布十五年の前進を祝賀したのだ。
 伸一は常に、″どうすれば皆が喜び、勇気をもって信仰に励めるのか″″明るく元気に頑張れるのか″を考え続けていた。
 彼の一念も、行動も、日々、友への励ましに貫かれていた。
 励ましとは、安心と希望と勇気を与えることである。相手の生命を燃え上がらせ、何ものにも負けない力を引き出す、精神の触発作業である。
 励ましの本義は、相手の幸福を願う心にある。
 法華経に説かれた不軽菩薩は、あらゆる人びとに対して、礼儀を、誠意を尽くして、礼拝していった。
 「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(創価学会版法華経557㌻)
 <私は深く、あなた方を敬います。決して軽んじたり、慢ったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです>
 つまり、一人ひとりが、最高の人格の輝きを放ち、何ものにも負けない師子王となるのだ。人びとを救いゆく使命の人なのだ――と叫び抜いているのだ。
 だが、人びとは彼を杖や木で打ちすえ、瓦や石をぶつけた。それでも、彼は、それぞれのもつ無限の可能性を教え抜いていったのだ。この不軽菩薩の生き方にこそ、励ましの原点がある。
16  共鳴音(16)
 創価学会のめざす広宣流布とは一次元から言えば、″励まし社会″の創出である。
 御聖訓には「末代濁世の心の貪欲・瞋恚しんに・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり」と仰せだ。
 競争社会の様相を濃くし、互いに足を引っ張り合い、嫉妬、憎悪、いじめなどが横行しているのが現代社会である。利己主義が蔓延し、人びとの心と心は分断され、閉ざされているといっても過言ではない。
 励ましの対話によって、その心を開き、勇気と希望の光を送り、人間と人間の善の連帯をつくりあげていくのが、創価学会の運動である。
 あいさつに立った川崎鋭治は、頬を紅潮させながら語り始めた。
 「私はヨーロッパに来てから、早いもので十五年がたちます。でも、まだ、なんの貢献もできておりません。
 それなのに山本先生は、いつも私を讃え、励ましてくださいました。先生の真心で、激励に次ぐ激励で、どれだけ勇気と希望をいただいたか計り知れません。
 また、常に同志の皆様に支えられ、守られてまいりました。
 山本先生をはじめ、同志の皆様方に、この場をお借りして、心より御礼申し上げます。
 思えば、九年前、私は交通事故を起こし、大量の輸血をしていただきました。私の体には、多くのフランス人の血が流れております。
 そのおかげで命を救われ、こうして元気に駆け回ることができます」
 彼の目が潤んだ。
 「私は、フランス、そして、ヨーロッパの皆様の幸せのために、身を粉にして働き抜き、このご恩に報いていく決意でございますので、よろしくお願い申し上げます。
 私どもは異体同心の団結で、それぞれの個性を人びとの幸福と社会の繁栄のために最大限に生かしながら、仲良く、朗らかに前進していこうではありませんか」
 拍手が広がった。
 山本伸一は、川崎の話を聞きながら、″これならばヨーロッパは大丈夫だ″と思った。
 川崎の話から、皆への感謝の心と謙虚さを感じたからである。反対にリーダーが慢心に陥れば、広宣流布の組織は破壊されてしまう。
17  共鳴音(17)
 この日、あいさつに立った山本伸一は訴えた。
 「仏法は宇宙の根本法則です。信心に励むということは、その最高の法則通りに生きることにほかなりません。ゆえに、幸福境涯を築けるのであります」
 また、広宣流布とは、万人の幸福と人類の平和の実現であり、その使命に生き抜く人生は、人間として最も尊い在り方であると強調した。
 そして、仏法は「人間革命の道」を説いており、その実証を一人ひとりが示していくことが大切であると述べ、こう話を結んだ。
 「仏法を持った一個の人間が、人びとのため、世界のために、どれほどの仕事ができるか、私は行動で示していきます。
 私の最も大切な兄弟ともいえる皆さんは、私と共に、力強く、人間革命の道を歩み、自らが幸せになるとともに、人びとの幸福のために生き抜いてください。そこにこそ、真の幸福の道があります。
 皆さんが幸せになってくださることが、私の願いであり、日々の祈りであり、喜びであることを知ってください」
 ヨーロッパの同志を思う伸一の真情が、心に響くスピーチであった。
 このあと、伸一は、川崎鋭治に創価学会「副会長」の称号を授与した。出発前に行われた、副会長会議の決定によって贈られたものだ。
 ″おめでとう! ムッシュー・カワサキ!″
 川崎と苦楽を共にしてきたメンバーは、心から祝福の拍手を送った。
 先輩であれ、後輩であれ、同志が表彰、賞讃された時に、共にわが事のように、心から喜べるかどうか――そこに自身の境涯が端的に表れるといってよい。
 共に喜べてこそ、真の同志であり、高く大きな境涯の人といえよう。また、皆と団結していくことができる異体同心の信心の人である。
 しかし、同志を羨み、さらには嫉妬したりするのは、名聞名利の心に支配された、低く小さな境涯の表れといえよう。また、異体異心の信心の姿といわざるをえない。
 「君が愁いに我は泣き 我が喜びに 君は舞う」というのが、我らの団結の姿である。小さな自己を乗り越えて、同志の栄光を心から喜べる自分になることこそが、人間革命なのである。
18  共鳴音(18)
 記念の集会に引き続いて、パリ会館で、十一カ国の代表者によるヨーロッパ最高会議が開催された。
 席上、南フランスのプロバンス地方のトレッツに、研修所が設置されることが発表された。
 これは、メンバーの研修会などを行うための施設で、皆の要請をもとに用地を検討してきたが、それが正式に決定をみたのである。
 そこは、眼前に「サント・ビクトワール(聖なる勝利)山」の断崖が屏風の如く連なる、風光明媚な地である。この山を画家のセザンヌも愛し、作品に描いている。
 やがて、ここに研修所が完成し、フランスをはじめ、欧州各地からメンバーが集い、仏法の生命哲理を研鑽し合う姿を思うと、皆の夢は限りなく広がっていった。
 希望あふれる未来構想を祝福するように、メンバーの頭上には、やわらかな日差しが降り注ぎ、やさしい小鳥のさえずりが飛び交っていた。
 パリ滞在四日目となる五月十六日の午前十時、伸一は川崎鋭治と共に、フランスの大統領官邸であるエリゼ宮を訪問し、クロード・ピエール・ブロソレット大統領府事務局長と会見した。背が高く、気品の漂うダンディーな紳士であった。
 初対面のあいさつのあと、伸一が日仏関係など何点かにわたって見解を伺いたいと述べると、事務局長は言った。
 「私は会長の行動、平和への努力をよく知っています。また、多数の著作をもつ作家であることも存じております。
 平和の推進は、人類の共通の課題ですが、私は公的な立場にあるため、どうしても、当面する具体的な問題に対して、集中的に取り組まなければなりません。
 しかし、会長は、将来のために、世界はどうあるべきかについて考え、行動してこられた。
 このように異なった立場にある二人が語り合うことは、極めて有意義であると思います」
 伸一は、事務局長が自分のことをよく知ってくれていることに驚きもし、恐縮もした。
 ジスカール・デスタン大統領のもとで、共にフランスの責任を担うブロソレット事務局長は、グローバルな視座と新しい平和の哲学を模索していたのかもしれない。
19  共鳴音(19)
 ブロソレット大統領府事務局長と山本伸一は、日仏関係や、ヨーロッパ文化と日本文化の違いについて語り合った。
 また、中国の鄧小平副総理がフランスを訪問中であったことから、中仏関係について尋ね、さらにソ連観についても意見交換した。
 会談が終わると、伸一は急いでパリ会館に戻った。正午過ぎにローマクラブの創立者であるアウレリオ・ペッチェイ博士を迎えることになっていたのだ。
 ――二年前、伸一と対談したトインビー博士は、対談終了後、川崎鋭治に、こう言って、伸一あてにメモを託した。
 「これは、私の友人の名前です。ミスター・ヤマモトはお忙しいでしょうが、可能ならば、お会いしていただければと思う人たちです。
 ……世界に対話の旋風を巻き起こしていくことを、私は、強く念願しています」
 そこには、何人もの錚々たる世界的な学識者などの名が記されていた。
 その一人がペッチェイ博士であった。彼は著名な実業家で、人類の未来のためには人間の生き方の転換が必要であり、人間性を革命しなければならないと訴えてきた。
 博士は、天然資源の無駄遣い、人口爆発、環境破壊などによる人類の危機を回避するため、一九六八年(昭和四十三年)に世界各国の学識者や経営者らに呼びかけ、ローマで初会合を開催。
 そして、民間組織ローマクラブが発足する。
 このローマクラブは七二年(同四十七年)に「人類の危機」リポート『成長の限界』を発表。
 このままでは、食糧不足、資源の枯渇、環境汚染等によって、百年以内に成長の限界に達し、人類は破滅的な事態を迎えかねないと警告を発したのだ。
 世界に衝撃が走った。
 同じ危機感をいだいていた伸一は、この『成長の限界』に、大きな関心をもった。ぜひ、博士と語り合わなければならないと思っていたのだ。
 その伸一の意向を受けて、川崎鋭治がペッチェイ博士と会い、創価学会の理念や目的、活動などについて語ってきた。
 博士は、人間革命を基調に、世界の平和をめざす学会の運動に共感。グアムでの第一回「世界平和会議」に賛同のメッセージを寄せていた。
20  共鳴音(20)
 この一九七五年(昭和五十年)の二月、アウレリオ・ペッチェイ博士から山本伸一に、会談を希望する書簡が届いた。
 その後、両者の間で、具体的な日時と場所が検討され、当初は、イタリアのローマで会見する予定であった。
 伸一は、ローマを訪問する日程を組んでいたのだ。ローマ法王庁から正式な招待を受け、バチカンでローマ法王と会見することが決まっていたからである。
 彼は、世界の平和をめざすうえで、キリスト教との対話は、極めて重要であると考えていた。
 教義は異なっていても対話していくならば、人間を守り、平和を築くということにおいては、互いに理解し合い、協調し合えるというのが伸一の確信であった。
 また、キリスト教に限らず、イスラム教とも、ユダヤ教とも、ヒンズー教等とも対話を重ねていかなければ、世界平和の大潮流をつくることはできないと、彼は痛感していた。
 ローマ法王庁の関係者とは、既に八年前から対話を始めていた。
 カトリックと仏教が互いに理解を深め、世界平和を築くための共通の土台をつくっていきたいとの、意見の一致も見ていたのだ。
 そのなかで、ローマ法王との会見を勧められ、この七五年(同五十年)の欧州訪問にあたって、ローマ法王庁への招待を受けていたのである。
 しかし、出発直前になって、宗門は難色を示し始めた。
 伸一は、残念でならなかったが、宗門の最終的な賛同が得られないかぎり、中止せざるをえなかった。
 この会見が実現すれば、どれほど有意義な世界平和への語らいがなされたことであろうか。
 また、ヨーロッパ訪問の直前、イタリアの空港がストライキを起こし、便の発着が不安定な状態にあった。そのために他のスケジュールに影響が出て、多くの方に迷惑をかけることは避けなければならない。
 そこで、ローマの訪問を取りやめたのである。
 そして、ペッチェイ博士には、お詫びするとともに、その旨を、丁重に伝えてもらった。
 すると博士は言った。
 「それでは、私の方から、会長のいらっしゃるパリにお伺いします」
21  共鳴音(21)
 色とりどりの美しい花々が、微笑むように風に揺れていた。
 ローマクラブのペッチェイ博士が、パリ会館に到着したのは、五月十六日の正午過ぎのことであった。
 白髪の博士が、さっそうと車から降りると、山本伸一は両手を大きく広げて歓迎した。
 「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました。大変にありがとうございます。ペッチェイ先生とお会いできるのを楽しみに、ヨーロッパにまいりました」
 博士は六十六歳。実業家として世界を駆け巡ってきた。
 戦時中はファシズムへの抵抗運動に参加し、獄中で激しい拷問に耐え抜いた体験ももっている。
 また、戦後は、人類が直面する地球的規模の問題群の研究、危機回避に取り組むとともに、人間性革命を叫んできた。
 伸一は最初、会館の応接室にペッチェイ博士を案内した。
 博士は、伸一の小説『人間革命』の英語版を持参しており、伸一にサインを求めた。
 伸一は認めた。
 「人間性革命の提言者であり 先駆者である博士の御活躍と御成功を 人間革命の私は心より祈り 待っております」
 一方、伸一は、トインビー博士との対談が『二十一世紀への対話』として日本で出版されたことを伝え、この本にサインを求めた。
 ペッチェイ博士は、こう記した。
 「先生に深い敬意を表するとともに、貴殿が取り組まれている先駆的な啓発活動が、すべて実を結ばれますよう、心からお祈り申し上げます」
 この日は、ちょうど、ペッチェイ博士の夫人の誕生日であった。
 そんな大切な日に、わざわざ伸一に会うためにイタリアから駆けつけてくれたのである。伸一は、申し訳ない思いでいっぱいであった。
 博士は、破滅へと向かう人類の歩みを回避するために、新たな突破口を見いだそうと、必死であったにちがいない。
 その懸命な一念と強い責任感が、鋭い眼光となって、仏法者の伸一に注がれた。
 「諸君は、全人類を救いゆく世界最高峰の生命哲学をもっている」とは戸田城聖の叫びである。
 伸一には、博士の心が痛いほどよくわかった。
22  共鳴音(22)
 パリ会館の応接室で、山本伸一はペッチェイ博士に提案した。
 「部屋が狭くてすいません。庭がきれいですから、今日は外でお話ししませんか」
 「それはいいですね」
 庭にテーブルとソファを用意し、パラソルを立てて、語らいが始まった。
 博士は、情熱を込めて語り始めた。
 「私は、今まで、『人間性の革命』を唱え、行動してきましたが、それをさらに深く追究していくならば、究極は『人間革命』に帰着すると考えるようになりました。
 この両者の関係について、ご意見をお聞かせください」
 伸一は頷いた。
 「『人間性革命』の大前提になるのが、人間性を形成する生命の変革であると思います。
 その生命の根源的な変革を、私たちは『人間革命』と呼んでおります。
 したがって『人間性革命』のためには、『人間革命』が不可欠であるといえます」
 じっと、伸一の話を聴いていた博士は、「よくわかります。私も今日からは『人間革命』でいきます」と言って笑みを浮かべた。
 そして、人類はこれまで、産業革命など、機械、科学技術の進歩にともなう革命を経験してきたが、それらはいずれも「人間の外側の革命」であることを述べ、こう指摘した。
 「そうして生み出したモノや科学を、なんのために、どのように使うべきなのかという英知は、全く未開発のままです」
 さらに、進歩した技術を人間の幸福と繁栄のために使っていくうえで、何が必要かを、博士は訴えた。
 「それは『人間精神のルネサンス』です。『人間自身の革命』です。
 山本先生は、そのことを以前から主張されてきた。私はそこに着目しておりました」
 大至急、手を打て! まだ、時間があるうちに――それが、博士の叫びであった。
 博士は、伸一の主張はもとより、牧口常三郎の獄死も、戸田城聖の投獄もよく知っていた。そして、牧口と戸田の軍部政府との闘争に触れ、「正義の道を貫かれた」と、賞讃を惜しまなかった。
 伸一は言った。
 「ペッチェイ博士こそ、獄中の闘士だったではありませんか」
23  共鳴音(23)
 アウレリオ・ペッチェイ博士が、祖国のイタリアで抵抗運動に身を投じ、そして、逮捕されたのは一九四四年(昭和十九年)二月、三十五歳のことであった。
 ナチス・ドイツがムッソリーニを傀儡にし、北イタリアを支配下に置いていた時である。
 博士は、顔も見分けがつかなくなるほどの、拷問を受けた。しかし、鋼鉄の信念は、いささかも揺るがなかった。
 「牢獄では、頼れるものは自分の信念と人間性だけです。普段、皆に号令をかけている人間ほど、もろかった。
 むしろ、黙々として、静かなぐらいの人間の方が、極限状態では強かったことを覚えています」
 そして博士は、怒りをかみしめるように、拳を握って言った。
 「私は、変節漢が一番嫌いです!」
 山本伸一は博士の気持ちがよくわかった。彼もまた、変節漢は大嫌いであったからだ。
 青年時代、戸田城聖の会社に勤務していた時、戸田の事業が行き詰まると、社員たちのなかには戸田を恨み、罵倒しながら去っていく者が後を絶たなかった。
 皆、それまで、「戸田先生に生涯、ついてまいります」などと、殊勝な顔で語っていた男たちである。
 伸一は、その変節と臆病さに、強い憤りと、哀れさを覚えたことが忘れられなかった。
 変節は自身の敗北であるだけでなく、同志への裏切りである。裏切りは古来、人間として最も醜悪な行為であった。
 古代ギリシャの詩人アイスキュロスも、こう叫んでいる。
 「まこと、裏切りよりさらに 忌むべき病いはありません」
 ペッチェイ博士は、何日も拷問に耐えた。そして、投獄十一カ月、窮地を脱した。敗戦後の報復を恐れた軍の幹部が、密かに釈放したのだ。
 「まったく酷い目にあいました。しかし、痛手を受けた分だけ、私の信念は鍛えられました。絶対に裏切らない友情も結べました。
 だから、逆説的には、『ファシストからも教えられた』というわけです」
 博士は、こう言って微笑し、肩をすぼめ、言葉をついだ。
 「その意味で、ファシストたちを許す気持ちになっています」
24  共鳴音(24)
 ペッチェイ博士と山本伸一の語らいのテーマは多岐に及んだ。
 文化交流の必要性、グローバルな視野をもった人間教育の在り方、時代状況を把握する方途や、国連・ユネスコへの期待など、当面する人類の諸問題から、未来のあるべき方向を鋭く論じ合うものとなった。
 日本の進むべき道が話題になった時、伸一は言った。
 「日本は、政治、経済の次元で世界をリードしていこうというのではなく、新たな方向性を考えるべきです。
 政治の次元は必ず力の論理が、経済の次元では利害の論理が、どうしても先行してしまう。
 百年前の明治維新以来、日本は武力をもって世界に出た。軍国主義です。第二次大戦後は経済をもって世界へ進出しました。経済至上主義であり、″エコノミックアニマル″と揶揄されてきました。
 これからの日本は、平和主義、文化主義の旗頭として、国際社会に、人類に貢献すべきです。
 つまり、″軍事大国″″経済大国″をめざすのではなく、″平和大国″″文化大国″をめざすべきです。
 そして世界にあって、東西の、また、南北の、文化の懸け橋となっていくことです。
 そのためには、グローバルな視野に立った人間教育、平和教育が必要になります」
 伸一は、日本の新しい在り方の柱を、「文化」「教育」に置いていたのである。
 スイスの大教育者ペスタロッチは述べている。
 「教育と人間性の錬磨、そして人間の文化を通してのみ、人類を救うことができる」
 対談は、人間革命に始まり、また、人間革命に至った。
 博士は、科学技術という巨大な力をもった人間が、その力を意のままに行使した結果、今日の地球的規模での危機的状況を招いたと喝破し、その根本要因について、こう力説した。
 「それは、人間自身のエゴです。そこに、人類の諸問題における主要な原因があります。したがって、人類の繁栄と幸福のためには、人間革命が必要なのです。それが人類の未来を決定します」
 博士の目の輝きが、必死なまでの真剣さを物語っていた。
25  共鳴音(25)
 山本伸一は、仏法の視座から、真実の幸福と人間革命の関係について語っていった。
 「仏法は、人間が欲望に支配され、物質的・環境的条件の充足による幸福の追求にとらわれている限り、真実の幸福はないと教えています。
 そして、利己的な欲望や本能的衝動に支配されない主体性を確立し、他者と協調し、自然と調和していく生き方にこそ、幸福実現の道があることを説いています。
 その生き方は、人間の生命に内在し、宇宙万物を統合する永遠の法則に融合を求めていくなかで確立されていくものであり、そこに人間革命の道があると、仏法では教えているんです。
 ともあれ、人間の内面の変革がなければ、人類のかかえる諸問題の解決はありえません」
 ペッチェイ博士は、静かに頷いた。
 「仏法の説く法則については、十分に理解しているとは言えませんが、おっしゃることは、よくわかります。強く心に響きます」
 ゲーテは「意見が完全に一致したかどうかは問わなくてよい。同じ趣旨で行動しているかどうかを問え」と述べている。
 ペッチェイ博士も、伸一も、地球的な問題群を切実にとらえ、人類の未来のために、命を惜しまず行動し抜いてきた。だからこそ二人は、多くの部分で強く共鳴し合うことができたのである。
 博士は尋ねた。
 「人類の人間革命を成し遂げていくには、どれぐらいの時間が必要でしょうか。
 人類は今、核兵器の問題や環境破壊など、多くの難問をかかえています。人間自身の変革を百年待つことは、とてもできません。急がねばならないのです」
 伸一は応えた。
 「人間を変革する運動は漸進的です。かなりの時を要します。
 しかし、行動せずしては、種を蒔かずしては、事態は開けません。
 私は、今世紀に解決の端緒だけは開きたいと思っています。
 そのために、これまでにも増して、さまざまな角度から、さらに提言を重ね、警鐘を発していく決意です。
 また、エゴイズムの根本的な解決のために、私どもの人間革命運動に、一段と力を注ぎます」
26  共鳴音(26)
 山本伸一とペッチェイ博士との語らいは、実に多くの点で意見の一致をみた。
 約束の二時間半は、あっという間に過ぎてしまった。伸一も、博士も、話し合いたいことは、まだまだたくさんあった。
 そこで二人は、今後も会談と書簡によって意見交換を続け、将来は人類の啓発のために、対談集を出版していくことを確認し合った。
 伸一は、このパリに始まり、東京、イタリアのフィレンツェ、東京、パリと、博士が亡くなるまでに、計五回にわたって会談し、書簡でも語らいを重ねた。
 四度目となる一九八二年(昭和五十七年)一月の東京での会談では、それまでの語らいと往復書簡の内容をまとめた対談集発刊の打ち合わせも行われた。
 博士は各国語での発刊を希望し、出版を急ぎたいとの意向であった。
 「人類の未来のために一刻も早く!」というのが、口癖であった。
 最後の会談となった、八三年(同五十八年)六月のパリでの会談では、博士はアメリカから駆けつけてくれた。
 その時、パリの空港で、荷物を全部、盗まれてしまったのである。
 だが、伸一との約束の時間に間に合わせるために、盗難届を出すのも後回しにして、車を走らせたのだ。
 博士は大誠実の人であった。人類の未来を開くために、真正面から戦い抜いた人であった。
 翌八四年(同五十九年)三月、博士は他界する。七十五歳であった。
 その直後、対談集は、まずドイツ語版が発刊になった。本のタイトルは『手遅れにならないうちに』である。
 日本語版が英語版と共に発刊されたのは、その年の十月であった。日本語版タイトルは『二十一世紀への警鐘』である。
 対談集は、その後、中国語、スペイン語などに翻訳され、十七点が出版されることになる。
 今日、大気汚染による地球温暖化などを、人類の多くが深刻に受け止め始めた。その叫びを放った先駆者は博士である。
 「世界を変革できるのは、青年だよ。青年の人間革命によって、世界は変わるんだよ」
 晩年、博士が子息に語っていた言葉である。
 その子息とも、伸一は深い交流を結んできた。
27  共鳴音(27)
 ペッチェイ博士との会談を終えた山本伸一と峯子は、会館を隈なく見て回った。
 会館には連日、ヨーロッパ各地からメンバーが訪れ、伸一を囲んで懇談会などがもたれてきた。
 彼は、陰の力として、それを支えてきた役員をねぎらい、励ましたかったのである。
 食堂に行くと、白衣に身を包んだ数人のメンバーが、懸命に食材を仕込んでいた。会食の料理や役員の食事などを担当してくれているメンバーである。料理人や菓子職人であった。
 「ご苦労様です。いつもありがとう!」
 伸一はこう言うと、深々と頭を下げた。皆、驚きと感激と、恐縮した表情で伸一を見つめた。
 ヨーロッパ会議の議長である川崎鋭治が、二十代半ばの、温厚そうな日本人青年を紹介した。
 「先生、このメンバーの中心になっている千田芳人さんです。彼は、菓子職人で、先日、行われた菓子コンクールで金賞を受賞しました」
 そのコンクールは、フランスの菓子コンクールのなかでも伝統と権威がある、「シャルル・プルースト杯コンクール」であった。
 そこで彼は、日本人初の金賞受賞者となったのである。
 伸一は手を差し出し、千田と握手を交わしながら言った。
 「おめでとう! すばらしい。苦労が報われましたね。
 仏法というのは道理なんです。自分が苦労し、努力したことを、必ず結実させていけるのが信心なんです」
 千田は、伸一の手を強く握り締めながら、自分の来し方を思い起こしていた。
 彼がパリに来たのは、七年前のことであった。
 千田の実家は、東京でパンと洋菓子の店を営んでいた。父親に菓子の品評会に連れて行かれるうちに菓子に魅了され、高校時代に菓子職人になることを決意した。
 ″ぼくは、日本一の菓子職人になろう!″
 どうせなら、洋菓子の本場であるパリで修業しようと、高校卒業後、パリに渡ったのである。
 「いやしくもなんらかの道にたずさわる人は、最高のものをめざして努力すべきである」とは、文豪ゲーテの箴言である。
 何事も、志にこそ、成否のカギがある。
28  共鳴音(28)
 千田芳人は、日本で半年ぐらい語学学校に通っただけで、フランス語もほとんどできなかった。
 パリに着いた彼は、まず住む部屋と語学学校探しから始まった。
 日本で通った語学学校で知り合い、先にフランスに渡っていた友人に協力してもらい、ようやく部屋を借りた。七階建てのアパートの屋根裏部屋であった。
 また、語学は、パリ大学のソルボンヌ校で講座を取った。
 その同じクラスの日本人学生から、創価学会の話を聞かされた。
 千田の一家は、彼が小学生の時に、学会に入会していた。しかし、千田自身は、何度か会合に参加しただけで、自分が学会員であるという自覚はなかった。
 それでも、日本から遠く離れたパリで、創価学会と聞くと、懐かしい響きを感じ、誘われるままに、ヌイイにあった学会の会館に行ってみた。一九六八年(昭和四十三年)の十二月のことである。
 会館には、ちょうど川崎鋭治がいた。
 川崎は、仏法が最高の生命哲理であることを語り、確信をもって訴えた。
 「この仏法を持ち、真剣に信心に励むならば、必ず願いが叶います。しっかり頑張って、立派なお菓子屋さんになってください」
 千田は、その励ましに温かさを感じた。
 人の心を触発するものは、情熱と真心である。
 また、この時、会館で会ったフランス人メンバーの言葉が、彼の胸に突き刺さった。
 「この最高にすばらしい生命哲学は、日本から起こっているのよ。それなのに、なんで日本人のあなたが、信心に励まないのですか」
 千田は「灯台下暗し」であったと思った。恥ずかしい気がした。
 それは、海外に渡って学会を知り、信心を始めた多くの日本人の、実感であるようだ。
 ″そんなにすごい宗教だったのか。もっと真剣に信心すべきだった。本気で取り組んでみよう″
 千田は御本尊を受け、活動にも参加した。
 また、彼は、いつまでも親の仕送りで暮らすわけにはいかないと考え、皿洗いのアルバイトを始めた。
 彼の願いは、菓子作りを学べる、よい修業先が見つかることであり、それを真剣に祈った。
29  共鳴音(29)
 日本では、千田芳人の父親が、息子のパリでの修業先を紹介してもらえる人を必死になって探していた。
 そして、菓子業界の関係者に紹介状を書いてもらうことができた。
 一九六九年(昭和四十四年)秋、パリの千田のもとに紹介状が届いた。彼は、小躍りしたい気持ちだった。
 その菓子店を訪ねるにあたって、知り合った日本人の菓子職人に、採用される秘訣を聞いた。
 「全く経験がないと言ったのでは駄目だ。日本で三年間修業しましたと言うんだよ」
 面接では、そのアドバイス通り、「日本では三年ほど修業しました」と答えた。採用が決まった。 しかし、麺棒ひとつ、まともに使えないのだ。嘘はすぐにばれた。
 店の主人は、怒りを露にして叫んだ。
 「お前は何もできないじゃないか! 店には必要ない。日本に帰れ! とっとと出て行け!」
 千田は愕然とした。
 ″このまま、日本に帰ったら、父さんはどんなに落胆するだろうか。母さんは、どんなに心配するだろうか。また、自分はなんのためにパリまで来たのか……″
 そう思うと、おめおめと日本に帰るわけにはいかなかった。
 「パ・ド・サレール」(給料はいりません)
 千田は、そう必死に繰り返した。
 店においてくれると言うまで、懇願し続けるつもりであった。
 やがて店の主人は、根負けし、働くことを許してくれた。
 給料はなかった。しかし、フランスに来た目的である菓子づくりの修業が続けられることの方が嬉しかった。
 仕事は、朝の六時から夜八時までで、日曜は午前四時から始まった。
 一日中、立ちっぱなしである。足は棒のようになった。
 仕事を命じられてもフランス語がわからず、怒鳴られることもたびたびであった。
 心身ともに疲れ果て、挫けそうになると、トイレで、そっと母の写真を見た。母の優しさが偲ばれ、熱い涙があふれた。
 ″早く一人前になって母さんを喜ばせるんだ″
 こう自分に言い聞かせ、歯を食いしばって仕事場に戻った。
 愛する人の存在は、苦難に打ち勝つ力となる。
30  共鳴音(30)
 千田芳人が働いている店に、菓子の職業学校に通いながら修業に励む十三歳の少年がいた。二十歳の千田より、この少年の方が、仕事ができた。
 千田の最初の目標は、この少年に追いつき、追い越すことであった。千田は一つ一つ、懸命に仕事を覚えた。
 昼休みも、昼食を早々に切り上げ、絞り袋を使って、クリームで文字や模様を描く練習をした。
 寸暇を惜しんで、努力に努力を重ね、また、懸命に唱題に励んだ。
 フランスの哲学者ベルクソンは叫んだ。
 「未来は精一杯努力する人たちのものである」
 血のにじむような、努力と苦闘のなかにのみ、成功はあるのだ。
 二カ月がすぎたころ、店の主人が給料を出すと言ってくれた。嬉しかった。跳び上がらんばかりであった。
 千田は、菓子職人として、着実に力をつけていった。
 一九七〇年(昭和四十五年)、彼は、日本からフランスに渡った女子部の村野貞江と結婚した。
 七二年(同四十七年)には、フランスの伝統ある菓子コンクールの一つである「ガストロノミック・アルパジョン・コンクール」で銅賞を獲得する。日本人としては、初めての入賞であった。
 千田は、技術を磨くために、職場を幾つか変わり、この七五年(同五十年)の春からは、セーヌ川に浮かぶ船のレストランで、デザート・チーフとして働き始めていたのである。   
 パリ会館の食堂で、山本伸一は千田に言った。
 「黙々と頑張り抜いて、フランス社会に信頼を広げてください。一人ひとりが、社会に勝利の旗を打ち立てていくための信仰です」
 それから伸一は、料理担当のメンバー全員に語りかけた。
 「日本には『腹が減っては軍は出来ぬ』という有名な諺があります。空腹では活動できないという意味です。
 まさに、食事を担当してくださる皆さんの陰の力があるからこそ、行事の大成功もある。心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 そこで、この皆さんでグループを結成したいと思いますが、いかがでしょうか」
 皆が歓声をあげた。
31  共鳴音(31)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「グループの名前は、初夏を彩る、美しいマロニエの花にちなみ、マロニエ・グループにしたいと思いますが、いかがでしょうか」
 歓声があがった。皆、大賛成であった。
 「それでは、マロニエ・グループにさせていただきます。
 白い帽子と仕事着を身につけて、さっそうと作業に励む皆さんの姿は、白いマロニエの花を思わせます。さらに、この花のように清らかな信心を貫き通していただきたいとの思いを込めて、命名いたしました。
 また、パリの街は、マロニエの街路樹で有名ですが、この名前には、皆さんがパリを、フランス社会を代表するような、信頼の柱ともいうべき存在になっていただきたいとの願いを託しました。
 このマロニエ・グループは、自分自身を磨き、鍛えるマロニエ大学、人間大学であると思ってください。
 人生は挑戦です。努力です。勉強です。工夫です。その積み重ねのなかに勝利があります」
 伸一は、友を励ますために、一瞬一瞬、真剣勝負で臨んでいた。
 彼は、束の間の出会いでも、生涯にわたる誓いの種を植えようと、全生命を注ぐ思いで激励にあたった。
 誓いは、大成の原動力になるからだ。
 「励ます」の「励」という字は「万」と「力」からなっている。全力を尽くしてこそ、真の励ましなのだ。
 一度の励ましが生命を触発し、勇気をわかせ、人生を飛翔させる大力をもたらすこともある。
 伸一の日々は、果てることなき渾身の激励行であった。
 この五月十六日の夜、パリの凱旋門近くにある文化ホール「サル・プレイエル」で、十六カ国三千人のメンバーが集って、欧州友好祭が晴れやかに行われた。
 イギリスから、西ドイツ(当時)から、スイスから、イタリアから……続々とメンバーが集ってきた。大西洋に浮かぶ、スペイン領のカナリア諸島から参加した人たちもいた。
 伸一にとって、各国で奮闘するメンバーと会えることは、何よりも嬉しかった。それが最高の喜びであった。
32  共鳴音(32)
 パリの街は、淡い夕日に包まれていた。
 欧州友好祭の会場であるサル・プレイエルは、凱旋門の近くにあった。
 午後七時半前、山本伸一と峯子が会場に入ると、歓声があがり、一斉に握手を求める手が差し出された。
 「メルシー(ありがとう)、メルシー」
 伸一は、フランス語でこう言いながら、次々に握手を交わしていった。
 彼の「メルシー」が、途中から、英語の「サンキュー」に変わった。
 さらに、同じ「ありがとう」を意味するドイツ語の「ダンケシェーン」に、スペイン語の「グラシアス」に、イタリア語の「グラッチェ」になっていった。メンバーは、ヨーロッパ各国から来ていたからである。
 伸一の手を握り締めながら、「先生、国境を三つ越えて来ました!」と報告する人もいた。
 「そうですか。ご苦労様です。やがてヨーロッパが統合され、国境でパスポートを提示する必要がなくなる時代がきっときますよ。それが時代の流れです。
 そのために、ヨーロッパに求められるのは、精神の連帯です。国家や民族などを超えて、心と心を結び合うことができる哲学が、必要不可欠になります。
 それを担うのが、私たちの人間主義の運動なんです。今日は、そのスタートとなる集いです」
 伸一は、一人ひとりと握手を交わし、懸命に対話した。
 やがて、欧州友好祭の幕が開いた。
 舞台は暗転し、そして、ハトが舞うシルエットが映し出され、詩の朗読が始まった。
 「平和を知らぬ、この大地よ。
 私たちは、幾たび戦争に駆り立てられてきたことか。
 いつの日か、呼びさまそう。真実の尊厳を! 生命の尊厳を!
 友情の開拓のため、希望の明日をめざして!」
 ヨーロッパは社会体制によって、西ヨーロッパと東ヨーロッパに分かれ、ドイツなどは一国が東西に分断されていた。
 そのヨーロッパの統合は、伸一が対談したクーデンホーフ・カレルギー伯爵の悲願であった。
 ヨーロッパの統合には、地球民族主義という考えに立つ伸一の理想と、深く通じ合い、共鳴し合うものがあった。
33  共鳴音(33)
 欧州友好祭の舞台には鼓笛隊が登場し、太陽をイメージした装飾をバックに、若々しい躍動のリズムを奏でた。
 それに合わせて観客から手拍子が起こり、まさに、観客と出演者の合奏となった。
 パリといえばシャンソンである。その魅惑の歌声が流れ、バイオリン、ピアノの演奏が響いた。
 ベルギーのメンバーはモダンバレエ「愛のテーマ」で観客を魅了。
 そして、ヒゲの紳士が進行役になって進められた、イギリスのメンバーによるエリザベス朝風のダンスと、舞台は続いた。
 情熱と太陽の国スペインのメンバーはフラメンコを、西ドイツは「生きる喜び」と題してモダンバレエを披露。
 民族衣装に身を包み、ひときわ陽気なダンスで花を添えたのは、イタリアのメンバーだった。
 ダンスの最後に、舞台にいたメンバーが紙を掲げた。すると、日本語の「先生 お元気で!」の文字が並んだ。
 創作ダンスもあれば、チャールストンの踊りもあった。各国各地の個性の花が爛漫と咲き誇る、芸術と文化の薫り高い友好祭となった。
 山本伸一と峯子は、その一つ一つの熱演に対し、立ち上がって懸命に拍手を送った。
 そこには、ヨーロッパの未来を照らす、友情の結合という希望の縮図があった。
 ヨーロッパ統合の父・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は語っている。
 「ヨーロッパ人は自分の運命に屈しないで、行動と精神によって運命を征服しようと努めている」
 幾たびも繰り返されてきた、対立と戦争というヨーロッパの運命を転換する、その「行動」と「精神」の新しき源泉こそが、仏法という人間革命の哲理なのだ。
 フィナーレの後、ヨーロッパ会議議長の川崎鋭治があいさつした。
 「本日の友好祭は、ヨーロッパは一つであることを示す、大成功の舞台となりました。
 国境を超えて、山本先生のもと、私たちの心は結ばれ、友情の絆は一段と強まりました。
 この友情の輪を、さらにヨーロッパに広げ、人間共和の未来を築いていこうではありませんか。
 久遠からの友である皆様方に、心から御礼、感謝申し上げます」
34  共鳴音(34)
 山本伸一のパリ滞在五日目となった十七日、パリ会館は、朝からヨーロッパ各国のメンバーで賑わっていた。
 欧州友好祭に参加し、それぞれの国に帰る人たちが、伸一に、あいさつにやって来たのだ。
 伸一は、皆で近くのソー公園を散策し、交歓のひと時をもった。
 木々の緑が目に鮮やかであった。赤や黄、白などの花々が、そよ風に揺れていた。
 伸一はセーター姿で、各国のメンバーと記念撮影をし、一人ひとりの近況に耳を傾け、対話を交わした。
 喜びと社会建設の決意を託して、合唱を披露した人たちもいた。
 伸一は語った。
 「各国からおいでいただいて、ありがとう。
 学会の組織は、各人の主体性を生かすためにあり、拘束するためのものではありません。
 創価学会という組織のなかに個人があるのではなく、個人の心のなかに創価学会があるんです。
 つまり、創価学会員であるという自覚こそ、個人の良心の要であり、勇気の源泉となるんです。
 求道心を燃やし、指導を求め、また、団結していくことは大事ですが、あとは、自由に、伸び伸びと、自分らしく、自他ともの幸福のために頑張り抜いてください。
 では、また、お会いしましょう!」
 それから彼は、フランスの中核の一人である、画家の長谷部彰太郎の家へ向かった。
 伸一は、世界のどこにあっても、時間の都合さえつけば、メンバーの家を訪ね、激励するように心がけてきた。
 家庭を訪問すれば、その人の暮らしや、置かれた状況、また、苦労さえもわかるものだ。相手のことを、深く理解する手がかりとなる。
 ゆえに、人材を育成していくには、家庭訪問し、直接、語り合うことが肝要となるのだ。
 組織での人のつながりが、文書などによる行事等の連絡だけで終わってしまうならば、生命の触発や共感をもたらしていくことはできない。
 ただし、相手の家庭の事情もある。玄関先のあいさつだけですませた方が価値的な場合もある。
 いずれにせよ、相手の側に立った、聡明な判断を下しつつ、心と心を結び合う努力、工夫が求められよう。
35  共鳴音(35)
 長谷部彰太郎の家は、パリ会館から車で、西に一時間ほどのところにあるという。
 長谷部は、前年、来日した折に、フランスに家を買うべきかどうか、山本伸一に相談した。
 伸一は微笑みながら言った。
 「もう家を買えるぐらい、絵が売れるようになったんだね」
 「いいえ、将来の方向性を考えるうえで、お伺いしたいのですが……」
 「将来ではなく、すぐにでも買える境涯になってください。
 私は、あなたが家を買うことに賛成です。フランス社会で信用を勝ち得ていくには、フランスに家を持ち、地域に根を張り、信頼を獲得していくことが大事だからです。
 それには、断じてフランスに家を購入するぞと決めて、真剣に祈ることです。
 しかし、ただ家がほしいというだけでは、祈りは、なかなか叶わないかもしれませんよ」
 長谷部は、意外な顔をしながら尋ねた。
 「何か、祈り方があるんでしょうか」
 「あります。フランスの人びとの幸福と繁栄のために、広宣流布を誓願し、祈り抜いていくことです。
 たとえば、″私はフランス広布に生き抜きます。それには、社会の信用を勝ち取るためにも、皆が集える会場にするためにも、家が必要です。どうか、大きなすばらしい家を授けてください″と祈るんです。
 人びとに絶対的幸福の道を教える広宣流布を誓い、願う題目は、仏の題目であり、地涌の菩薩の題目です。
 その祈りを捧げていく時、わが生命の仏界が開かれ、大宇宙をも動かしていける境涯になる。ゆえに、家を購入したいという願いも、確実に叶っていくんです。
 それに対して、ただ大きくて立派な家をくださいというだけの祈りでは、自分の境涯はなかなか開けない。だから、願いが成就するのにも時間がかかります。
 祈りの根本は、どこまでも広宣流布であり、広布のためにという一念から発する唱題に、無量無辺の功徳があるんです」
 広宣流布の誓願のなかにこそ、所願満足の道があるのだ。
 長谷部は、何度も頷きながら、伸一の話を聴いていた。
36  共鳴音(36)
 山本伸一は、最後に長谷部彰太郎に約束した。
 「もし、あなたがフランスで家を購入したら、私も必ず訪問させてもらいますよ」
 「本当ですか! ありがとうございます」
 長谷部は、断じて家を買おうと思った。
 しかし、画家である彼には定収はなく、預金もほとんどなかった。そんな外国人である自分に、銀行がローンを組んでくれるとは思えなかった。
 それでも長谷部は、山本会長の指導通りに懸命に祈り、物件を探した。
 家にはアトリエも必要であり、メンバーが集まって会合が開ける部屋もほしかった。かなり大きな家でなければならないことになる。
 また、緑がふんだんにあり、川や湖の近くに住みたいと思った。
 長谷部は、来る日も来る日も、必死になって祈り続けた。
 すると、パリの郊外に、売りに出ている大きな家が見つかった。
 周囲には小高い丘や森もあり、家の前にはセーヌ川が流れていた。願ってもない美しい景観であった。
 長谷部は気に入った。だが、問題は金額であった。頭金となる総額の一〇パーセントは、なんとか工面できそうであったが、残りの九〇パーセントをどうするのかと思うと絶望的であった。
 仮に銀行ローンを組んでもらっても、銀行の金利は高く、毎月、返済していけそうになかった。
 ところが、幸いにも、公的な金融機関が、頭金以外の全額を融資してくれることになったのだ。
 そして、なんと、伸一が訪問する一カ月ほど前に、家を購入することができたのである。
 日寛上人は宣言されている。「則ち祈りとして叶わざるなく」と。
 戸田城聖は叫んだ。
 「純真な信心には、功徳があることは、絶対に間違いないことである」
 伸一は、長谷部との約束を果たすために、正午過ぎにソー公園を出て、彼の家に向かった。
 この日は、土曜日であり、パリ市内から郊外に向かう人が多く、道路は渋滞していた。
 車で一時間ほどの道のりと聞いていたが、到着したのは午後三時前になってしまった。
 「いやー、遠かったよ」
 車を降りた伸一は、笑顔で語りかけた。
37  共鳴音(37)
 山本伸一を出迎えた長谷部彰太郎は、恐縮して言った。
 「お疲れのところ、わざわざ、こんな遠くまで来ていただいて、本当にありがとうございます。
 どうぞ、こちらへ」
 長谷部は、伸一と峯子を、まず庭に案内した。
 長谷部の家には、たくさんのメンバーが集まっていた。
 庭は緑に囲まれ、芝生が広がっていた。敷地は約三千平方メートルほどあるという。家は石造りで、バルコニーがあり、とがった屋根をもつ立派な建物であった。
 周囲の木々は新緑に光り、庭から眺めるセーヌ川は、銀の帯となって広がっていた。
 伸一は言った。
 「すばらしい家だね。お城のようです。本当によかった。功徳だね」
 伸一にとっては、同志が功徳を受け、幸福になっていくことが、最高最大の喜びであった。
 「ところで、この庭の名前はあるんですか」
 「はっ、庭の名前ですか? ありません……」
 「せっかくだから、名前をつけましょう。名をつけることで、愛着も意義も深まります。
 セーヌ川がよく見える、向こうの庭は『セーヌの庭』、こちらの庭を『長谷部ガーデン』にしてはどうですか」
 長谷部は顔をほころばせて言った。
 「ぜひ、そうさせてください!」
 「では、そうしましょう。帰国したら、この庭に置けるように、その名を書いた記念碑を二つ、お送りしましょう。せめてものお祝いです」
 長谷部は、にわかに信じられず、思わず尋ねてしまった。
 「記念碑というと、石に先生の文字を刻んでくださるんですか」
 「そうです。二つお送りしますよ」
 一瞬、長谷部は絶句した。そして、「ありがとうございます!」と叫ぶように言った。
 伸一は″どうすれば、相手に自分の思いが伝わり、一番喜んでもらえるのか。どうすれば、発心の契機を与え、崩れざる幸福への道を進むことができるのか″と、常に、真剣に考え抜いていた。
 その「励ましの心」こそが、伸一の「毎自作是念」(毎に自ら是の念を作す)であった。
 その必死の一念が触発をもたらし、勇気と希望の共鳴音を奏でるのだ。
38  共鳴音(38)
 長谷部彰太郎の家で山本伸一は、集っていたメンバーと共に勤行した。
 そして、庭で一緒にバーベキューを楽しんだ。
 伸一と峯子は、率先して肉や野菜を焼き、皆に配っていった。
 引き続いて、庭で懇談会が行われた。
 メンバーは伸一に、次々と質問をぶつけた。
 妻の病で悩んでいるという青年の訴えもあった。職場での下積み生活に行き詰まりを感じているが、どうすればよいかとの質問もあった。
 伸一は、一つ一つの質問に対して、全力で、誠実に答えていった。
 悩みに押しつぶされそうな眼前の同志を、どう励まし、勇気づけるか。
 暗から明へ、絶望から希望へ、敗北から勝利へ、いかにして一念を転換させるか――それができてこそ、広宣流布のリーダーである。そのためにこそ、幹部がいるのだ。
 伸一は、一人ひとりへの激励に、大きな会合での指導の何倍、何十倍もの精力を費やしてきた。それがあったからこそ、学会は強く、広宣流布の大前進があったのだ。
 時刻は午後五時を回っていた。伸一は、夜はパリ会館での勤行会に出席することになっていた。
 彼は直ちにパリに戻った。そして勤行会のあと、ここでも懇談会をもったのである。
 生きるとは、力の限り戦い続けることだ――それが伸一の哲学であり、信念であった。
 伸一が長谷部の家を訪問した五月十七日から三カ月が過ぎたころ、約束通り長谷部のもとに、二つの石碑が届いた。
 両方とも幅六十センチ、高さ四十センチほどの見事な石碑であった。
 一つの石碑には、「長谷部ガーデン」、もう一つの石碑には「セーヌの庭」という、伸一の毛筆の文字が刻まれていた。
 どちらの石碑にも、裏には「ヨーロッパ広布の先駆者 長谷部彰太郎君に贈る 一九七五年五月十七日 伸一」と彫られていた。
 その文字を見ながら、長谷部は男泣きした。
 ″ここまで真心を尽くしてくださるのか……。
 ぼくは、必ず先生のご期待に応えよう。広宣流布の立派な指導者に育とう。画家としても絶対に大成してみせる。先生、見ていてください!″ 
 石碑を前に、長谷部は誓ったのである。
39  共鳴音(39)
 五月十八日、山本伸一はロンドンに向かった。
 このイギリス訪問の目的の一つは、トインビー博士との対談集の特装本と、創価大学名誉教授の称号の証書を、博士に届けることであった。
 トインビー博士と伸一との対談は、一九七二年(昭和四十七年)、七三年(同四十八年)に、合計約四十時間にわたって行われた。
 その対話と、書簡を通してのやりとりをまとめ、編集した日本語版の対談集『二十一世紀への対話』が、この年の三月に発刊されたのである。
 伸一は当初、直接、博士と会って、対談集と名誉教授称号の証書を手渡そうと考えていた。しかし、博士はイングランド北東部の都市ヨークで病気療養中であるとのことであった。
 ″お会いしたいが、お訪ねすることで、ご迷惑をおかけするようなことがあってはならない″
 そう考えた伸一は、博士が勤めていた王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)を訪ね、博士の秘書をしていた方に、託すことにした。
 博士とはお会いできなくとも、ロンドンまで自分が足を運んで、博士へのお見舞いと感謝の思いを伝えたいとの気持ちからであった。
 また、イギリスの組織が、このほど法人資格を取得し、新たに理事長を中心に出発を期すことから、ぜひ渡英し、祝福したかったのである。
 ロンドンに到着した日の夜、伸一は、五十人ほどのメンバーが集って、市内のレストランで行われたイギリスの代表者会に出席した。
 席上、彼は、イギリスの組織が法人資格を取得したことを祝福するとともに、メンバーの健闘を讃え、ロンドンに会館を設置することを提案した。
 ロンドンには、二間のアパートを借りたロンドン事務所があったが、二十人ほど入れば仏間もいっぱいになってしまう、小さなものであった。
 それだけに会館の誕生は、皆の念願であった。
 「この会館の設置については、私も、友人として、できる限りの応援をさせてもらいます」
 大拍手が起こった。
 伸一は、その会館から、トインビー博士も期待していた、新しい精神の復興運動の波を起こしてほしかったのである。
 会館は社会を照らす精神の灯台である。
40  共鳴音(40)
 続いて、イギリスの法人の理事長に就任した、レイモンド・ゴードンがあいさつした。
 長身で情熱にあふれたイギリス人である。SGI(創価学会インタナショナル)が発足したグアムでの世界平和会議で、経過報告を行ったのも彼であった。
 ゴードンは感無量の顔で、英語で語り始めた。
 「ここに山本先生をイギリスにお迎えすることができました!
 この喜びを、どう言葉に表せばよいのか、私は戸惑っております。
 私は、先生にはイギリスに、少しでも長く滞在していただきたい。しかし、世界の広宣流布のことを思うと、無理は言えません。今、こうして先生に、ここにいていただけるだけで、胸がいっぱいであります。
 今日から私たちは、先生を心にいだき、そのご指導通りに実践し、師弟の道を進んでまいります。なぜなら、それこそが、私たちの団結の要諦であるからです。
 人類の幸福と平和のために献身する師の心を受け継ぎ、師弟の道を歩んでいくことが、SGIの精神であると、私は確信しております。
 そして、この精神を世代から世代へ、いつまでも語り継いでいこうではありませんか!」
 大きな賛同の拍手が響いた。拍手がやむのを待って、彼は話を続けた。
 「また、私たちは、学会が試練に遭うなどの、″大変な時こそ頑張る″をモットーに、勇んで困難に挑み、勝利を築いていくことを、山本先生にお誓い申し上げます」
 伸一は、ゴードンの決意を聞いて感動を覚えた。信心の本質を鋭く的確にとらえた、英邁なイギリス人リーダーが誕生したことが嬉しかった。世界広宣流布の新しい曙光を見る思いがしたのである。
 ゴードンは、前年の三月にイギリスに戻るまで、日本にいたこともあり、伸一も彼のことはよく知っていた。
 彼は一九二〇年(大正九年)にロンドンで生まれ、王立陸軍士官学校を出て職業軍人となった。
 第二次世界大戦の時には、インパール作戦を展開した日本軍と、イギリス軍少佐として戦った。
 補給の計画もできていない、この無謀なインパール作戦で、十万人の日本兵のうち死傷者は七万人を超えたといわれる。
41  共鳴音(41)
 戦場でレイモンド・ゴードンが見たものは、退却した日本軍の累々たる屍であった。また、日本軍の攻撃でゴードンも部下を失った。
 さらに彼は、マラリアにもかかった。
 戦地で高熱にうなされながら、彼は思った。
 ″われわれは、なんと愚かなことをしているのか……″
 この戦争が、彼の平和主義の原点となった。
 しかし、戦後も、適当な転職先が見つからず、生きていくためには軍人を続けるしかなかった。
 軍をやめる契機になったのは、核兵器の利用方法の研究という任務を与えられたことであった。
 ″もう、そんなことはごめんだ!″
 彼は、人間の愚かさに、あきれ果てていた。
 そして、ビジネスの世界に飛び込み、やがて男性装飾品の有名ブランドの極東支配人となった。さらに、手腕が買われ、スポーツ用品会社の取締役に迎えられ、横浜に居を構えた。
 そのころ、日本人の知人から一冊の本を渡された。山本伸一の小説『人間革命』の英語版であった。自宅に戻って本を取り出した。
 冒頭を読み、ゴードンは衝撃を受けた。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」
 その言葉は、軍人であった彼の胸を突き刺すように迫ってきた。
 心に痛みを覚えながら、彼は、むさぼるようにページをめくった。
 ゴードンは『人間革命』に記された「平和思想」「生命尊厳の哲学」にひかれていった。著者の山本伸一に興味をもった。
 知人に、伸一について尋ね、彼が創価学会の会長であることを知った。また、伸一の兄がビルマ(現在のミャンマー)で戦死していることを聞き、罪の意識を感じた。
 知人に誘われ、座談会にも出てみた。
 明るく和やかな雰囲気、生きる喜びにあふれた輝く笑顔に、生命が揺さぶられた。
 やがてゴードンは、勧められるまま、題目を唱え始めた。生命力がわくのを覚えた。
 だが、それでも、仏教徒として生きていく決断を下すには、かなりの時間がかかった。
 「善は勇気を必要とする」とはスイスの哲学者アミエルの箴言である。
42  共鳴音(42)
 レイモンド・ゴードンは、仕事の関係で、住居を東京に移し、信濃町に家を借りた。
 彼は、ここで信心することを決断した。一九七一年(昭和四十六年)七月のことである。
 さらに、知人の日本人女性と結婚した。
 小説『人間革命』を渡し、彼に仏法を教えてくれた人である。
 ゴードンは、かつて結婚したことがあったが、離婚して独り暮らしを続けていたのだ。
 入会した彼は、自宅を外国人のための「国際座談会」の会場に提供し、そこで自分も、懸命に仏法を学んだ。
 この「国際座談会」の話は、山本伸一の耳にも入っていた。
 伸一は思った。
 ″ぜひ、会場を提供してくださっている、そのイギリスの方とお会いして励ましたい″
 しかし、ゴードンは商用で海外出張が多く、伸一が彼と会う機会は、なかなか訪れなかった。
 伸一がゴードンと会えたのは、七二年(同四十七年)春、パリを訪問した折であった。ゴードンは、商用の途次、夫人のミツエと共に、伸一のいるパリの会館を訪ねてきたのである。
 伸一は、会館の庭で両手を広げ、包み込むように温かく歓迎した。
 「ようこそ! お会いできて嬉しい。
 私たちは同じ信濃町に住んでいるんですから、困ったことがあったら、なんでも相談にきてください」
 そして、生命を注ぐ思いで、励ましの対話を重ねた。対話は魂を触発し、使命を開花させる。
 伸一は、世界各国に仏法の平和思想を根付かせるために、それぞれの国の人のなかから中心者を出せるように、人材を見つけ、育てることに懸命であったのだ。
 この年の夏、伸一は、夏季講習会で再びゴードンと会った。一緒に勤行したあと、彼に言った。
 「次は、どこでお会いすべきか、考えていました。今度は、ロンドンではいかがでしょうか」
 「それはグッド アイデアです」
 ゴードンは、伸一の言葉には深い意味があるように思えた。その日から彼の思索が始まった。
 ″山本先生は、私がイギリスに帰って頑張ることを期待されて、あのように言われたのではないだろうか……″
43  共鳴音(43)
 レイモンド・ゴードンは考え、悩んだ。
 ″もし、イギリスに帰るとなれば、今のスポーツ用品会社の取締役という職は失うことになる。向こうで今以上の収入がある、安定した仕事に就くことは難しい。
 しかし、イギリス社会に仏法を伝え、人びとの幸福と平和のために貢献していくことが、私の真の使命ではないのか″
 彼は、真剣に唱題し、熟慮を重ねた。
 彼が中心となって開かれていた「国際座談会」も充実していった。
 座談会を始めて一年間で、世界六十一カ国・地域、約三百人の友人が出席し、三十人が入会している。
 このゴードン宅では、地元組織の座談会も行われていた。
 山本伸一の妻の峯子も、その座談会に出席し、ゴードンの妻のミツエを温かく激励している。
 ゴードンは、信心に励むなかで、イギリスの広宣流布に生きることを、遂に決断した。
 ″私の祖国には、まだメンバーが少ない。私が学会の本陣である信濃町で活動し、信心を学んだのは、イギリスの人びとのために立ち上がるためではないのか!″
 妻のミツエは、日本に住むことを結婚の条件としていた。しかし、彼の思いを聞くと、イギリス永住を決意し、夫に帰国を促した。
 日蓮大聖人が仰せのように、まさに「をとこのしわざはのちからなり」であった。
 一九七四年(昭和四十九年)の初め、ゴードンは伸一に、イギリスに帰ることを報告した。
 いよいよ出発が間近に迫った二月末、伸一は、夫妻を食事に招いた。
 ゴードンは言った。
 「先生、ロンドンでお会いできる日を、イギリスのメンバーと共に、唱題しながらお待ちしています」
 「世界中で、そう言って、皆が題目を唱えて引っ張るので、私の体は、ちぎれそうなんですよ」
 伸一のジョークに、笑いが広がった。
 それから、伸一は、力を込めて語った。
 「一つだけ約束してください。どんなに苦しいことがあっても、決して退転しないことです。生涯、学会から離れないことです。大丈夫ですね」
 夫妻は大きく頷いた。
44  共鳴音(44)
 山本伸一がゴードン夫妻と歓送の会食をしてから、一年余りが過ぎていた。今、ゴードンは、イギリスの理事長として、伸一を迎えたのである。
 メンバーの信頼も厚かった。
 しかし、日本での安定した生活を捨てて、イギリスに戻ったゴードン夫妻の生活は、決して楽ではなかった。
 このころ彼が勤めていた会社の給料は安く、靴の底がはがれても買い替える余裕もなかった。自宅の冷蔵庫の中は、空っぽのことが多かった。
 会合に行く妻のミツエに、渡すバス代さえないこともあった。
 労苦なき建設はない。その労苦こそ、功徳、福運の種子となるのだ。
 ゴードンは負けなかった。大英帝国の闘将は、平和と幸福の広宣流布の大将軍となって、民衆の大地をひた走った。
 そして、イギリス社会に真実の仏法を根付かせ、その後の発展の基盤を築いていくのである。
 ロンドン市内で行われた代表者会では、最後にメンバーの有志十六人が「今は五月だ」などの合唱を行った。十六日にパリの欧州友好祭にも出場し、歌を披露したメンバーである。
 見事な歌声を讃える拍手は、やがて「アンコール!」の声と一体となって響き渡った。
 そのなかで、伸一はマイクを取った。
 「ありがとう。心から感動しました。皆さんの歌声、そして、その真心は、生涯、忘れません。
 今、合唱をしてくださった皆さんで、正式に合唱団を結成してはどうかと思いますが、いかがでしょうか」
 賛同の拍手が、一層、大きく鳴り響いた。そして、アンコールのあと、さらに伸一は語った。
 「もし、よろしければこの合唱団の名を『ロンドン五月合唱団』としてはどうでしょうか。
 合唱してくださった歌も五月の歌。私の訪英も七二年、七三年、そして今年も五月です。私の会長就任も五月でした。
 春五月は、まさに希望の季節です。それらの意味を込めての命名です。
 イギリスに幸福の春を呼びましょう!」
 再び大拍手が起こり、歓声があがった。
 伸一とメンバーの心と心は一つにとけ合い、皆の胸に喜びの花が咲き、希望の虹が広がった。
45  共鳴音(45)
 翌十九日午前十時、山本伸一と峯子は、川崎鋭治らと共に、ロンドン市内の王立国際問題研究所を訪ねた。トインビー博士が、長年、執務し、国際問題の研究に携わっていた研究所である。
 博士を支えてきたルイーズ・オール秘書の柔和な笑顔が、伸一たちを迎えてくれた。
 伸一は、トインビー博士との連絡など、彼女の尽力に感謝するとともに、博士へのお見舞いの言葉を述べた。
 そして、博士と伸一の対談集『二十一世紀への対話』(日本語版)の特装本を手渡した。
 「トインビー先生の英知の歴史的な所産をとどめていただきました。また、西洋と東洋の意義深い語らいでもあります。
 先生に、心より御礼申し上げます」
 続いて伸一は、創価大学教授会が決定した、トインビー博士への創価大学名誉教授称号の証書を託した。
 「これは、私の創立した創価大学が、先生の人類史への文化的貢献と学術的功績を讃え、最大の敬意を表してお贈りするものです」
 さらに伸一は、トインビー博士とベロニカ夫人へのメッセージを託した。そこには、博士の健康回復を願う気持ちと、夫妻への深い感謝の思いが記されていた。
 オール秘書は、トインビー博士が前年の八月から病床にあり、当分、回復は難しい容体であることを伝え、こう語った。
 「山本会長の真心の品々は、私が責任をもってお渡しいたします」
 伸一は言った。
 「ありがとうございます。トインビー先生と対話を重ねた日々は、私にとって最高の黄金の思い出です。永遠なる不滅の財産となっております。
 対談の最後に、先生は『人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください』と言われました。
 その言葉を、私は生命に刻みつけております。どうか、先生にこうお伝えください。
 『トインビー先生の教えを受けた弟子として、私は戦います。世界を駆け巡って、命の限り、対話を重ねます。人類を結ぶために――。ご安心ください』と」
 凜とした決意の言葉であった。精神を受け継ぐ行動こそが、思想を結実させるのだ。
46  共鳴音(46)
 山本伸一は、五月十九日の午後には、ロンドンからパリに戻り、その足でパリ郊外にある作家のアンドレ・マルロー宅を訪問した。
 マルローは″行動する作家″として知られる。
 青年時代に仏領インドシナを訪れた彼は、植民地政策に疑問を感じ、反植民地運動、さらに中国の革命運動を支持する。
 そして、小説『征服者』『王道』『人間の条件』などを世に出す。
 やがて、スペイン内戦が起こると、共和派の義勇軍として参加し、その体験を『希望』として発表する。
 第二次世界大戦では、戦車部隊として戦うが負傷し、ドイツ軍の捕虜となる。
 脱走したマルローは、レジスタンス運動の闘士となり、戦後はド・ゴール政権下で文化相などを務めた。
 伸一との最初の出会いは、一九七四年(昭和四十九年)五月のことであった。日本での「モナ・リザ展」の開催のため、フランス政府特派大使として来日した際に、聖教新聞社で会談したのである。
 この時の語らいは三時間近くに及び、テーマも芸術・文化論、生死観、核問題、環境破壊など多岐にわたった。その時、フランスでの再会を約し合ったのである。
 以来、一年ぶりの語らいである。
 マルロー邸は、芝生の広がる緑の館であった。
 会談では、日本の針路をはじめ、世界情勢と二十一世紀の展望などについて語り合った。人間の変革こそ最重要事であるというのが、二人の一致した意見であった。
 ″行動する作家″は訴える。
 「今、何が大事か――それは人間です。人間の精神革命から始まります。自分は一個の人間として何ができるかを考え、行動を起こしていくことです」
 伸一は答える。
 「おっしゃる通りです。人間の変革以外に人類の新たな局面を開くことはできません。エゴを抑え、人類の善性を最大限に拡大することです」
 人間革命は、人類の未来を考える世界の知性の帰結なのだ。
 伸一は、このアンドレ・マルローとも、これらの語らいをまとめ、翌年八月、対談集『人間革命と人間の条件』を発刊している。
47  共鳴音(47)
 山本伸一は五月二十日には、パリ会館でアカデミー・フランセーズ会員で美術史家のルネ・ユイグと会談した。
 彼とも、前年四月、聖教新聞社で初めて会い、会談していた。
 戦時中、学芸員であった彼が、ナチスの手からルーブル美術館の至宝を守り抜いたことは、つとに有名である。
 今回の会談では、精神の力の復興が大きなテーマとなり、ここでも、人間革命をめぐって話が弾んだ。
 彼との対話も、対談集『闇は暁を求めて』となって結実するのだ。
 さらに翌二十一日の午前、伸一はパリの南ベトナム臨時革命政府の大使館を訪れ、レ・キ・バン代理大使と会談した。
 ベトナム戦争は、停戦(一九七三年)後も南北間の戦闘が続いてきた。北ベトナム軍の戦車がサイゴン(当時)に無血入城し、南ベトナムが解放され、戦争にピリオドが打たれたのは、まだ二十日余り前のことである。
 会談では、今後の日本との外交、南と北の統一の問題などについて意見が交わされた。
 「どうか、会長から日本の人びとへ、われわれベトナム人民の心を伝えてください」
 その言葉に伸一は、平和と友好を願う魂の声を聞いた思いがした。
 そして午後には、フランス社会党の執行委員で社会運動の論客として知られるジル・マルチネ宅を訪ねた。マルチネとも前年の三月に東京で会談しており、二度目の語らいであった。
 会談では、文明論、さらに指導者論にも話が及び、二人の意見は「指導者の条件は明快さにある」との結論に達した。
 伸一はこのヨーロッパ訪問では、可能な限り、識者と対話を重ねた。彼の胸には「対話を!」との、トインビー博士の言葉がこだましていた。
 そして、語り合った一人ひとりが、人間の変革を志向し、伸一の語る人間革命の哲理に感銘し、精神の共鳴音を高らかに響かせたのである。
 十九世紀後半、ビクトル・ユゴーは「フランス革命を完遂すること、そして、人間的な革命を始めることを義務とする、今世紀」と記した。
 今、まさに、その「人間革命」の本格的な時代が、遂に、遂に、到来したのだ! 時は来たのだ!

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