Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「人間外交」 人間外交

小説「新・人間革命」

前後
1  人間外交(1)
 対話は、人間と人間を結ぶ。仏法という生命尊厳の哲理も、この対話を通して広がっていく。
 対話には、勇気が必要である。そして、相手を包み込む人間の温もりが求められる。
 また、対話には、納得と共感をもたらす智慧と情熱が必要である。
 いわば、対話力とは、総合的な人間力の結実といってよい。人間は、対話への挑戦を通して、自分を磨き、高めていくことができるのである。  
 SGI(創価学会インタナショナル)の発足となった、グアムでの第一回「世界平和会議」を終えた山本伸一は、一九七五年(昭和五十年)一月二十八日に帰国した。
 ロサンゼルスに始まり、ニューヨーク、ワシントンDC、シカゴ、ハワイ、グアムを歴訪した約三週間にわたるアメリカ訪問であった。
 帰国した伸一は、本部幹部会などの諸行事に出席するとともに、精力的に、大使館関係者や各界のリーダー、ジャーナリストなどと、相次ぎ対話を重ねていった。
 「地球の命運は、対話を推進しゆく我々の能力にかかっている」とは、後年、伸一と対談集を発刊したヨーロッパ科学芸術アカデミーのフェリックス・ウンガー会長の叫びである。
 対話が、時代を動かし、人類の命運を変えるのだ。
 伸一は二月の一日には駐日アメリカ大使館を訪問し、ジェームズ・ホジソン大使にアメリカ訪問を無事に終えたことを報告。約一時間にわたって会談した。
 その翌日には、アメリカの日本協会(ジャパン・ソサエティー)のアイザック・シャピロ会長と会談し、言葉の文化論などについて語り合った。
 さらに六日には、AP通信社のジョン・ロデリック東京特派員と会い、世界の軍縮問題や、伸一の教育国連構想などをテーマに話し合った。
 そして、十二日には、佐藤栄作元総理との会談に臨んだのである。
 佐藤元総理は前年十二月にノーベル平和賞を受賞していた。それを「一日も早く山本会長にお見せしたい」との連絡を受けていたのであった。
 しかし、伸一は一月六日にアメリカに出発するために、日程の都合がつかず、この日の会談となったのである。
2  人間外交(2)
 佐藤栄作元総理は「こちらから山本会長のお宅に、おじゃまさせていただきます」とのことであった。
 しかし、伸一は、″狭いわが家にお迎えするのは申し訳ない″と思った。そこで、自宅近くにある、和食の店で会談することにした。
 伸一は、峯子と一緒に佐藤夫妻を迎えた。元総理は、背広にグリーンのネクタイを締め、やや長髪であった。
 それが、若々しい印象を与えていた。
 伸一が「ノーベル平和賞のご受賞、まことにおめでとうございます」と祝福すると、佐藤は、はにかむように言った。
 「ありがとうございます。どうしても山本会長にご覧いただきたかったもので、押しかけてしまいました」
 食事をしながらの語らいが始まった。
 佐藤は語った。
 「私はノーベル賞の授賞式の帰り、ソ連を訪問し、コスイギン首相とお会いすることができました。意義のある会見となりました。
 領土問題の話はしませんでしたが、約一時間にわたって、友好的な語らいができました。
 実は、その時、コスイギン首相が、こう言われておりました。
 『日本に帰ったら、創価学会の山本会長によろしく伝えてください。この間、有意義な会見をしたばかりなんです』と」
 伸一は頷いた。
 「そうですか。私は昨年の九月に訪ソし、コスイギン首相とお会いした折、率直に意見を申し上げました」
 伸一は、その会談の模様を佐藤に伝えた。
 ″多くの日本人がソ連に対して、「怖い国」であるという印象をもっているので、これを変えなくてはならない″と訴えたこと。
 また、″日本人の理解を得ようと思うなら、「親ソ派」と称される政治家や団体とばかり交流するのではなく、保守党の議員など、幅広く交流すべきである″と述べたことも伝えた。
 佐藤元総理は″親米″の代表のように言われていた。その佐藤とコスイギン首相との会見が実現したのだ。
 コスイギン首相は、伸一の意見を真摯に受け止めてくれたのであろう。
 勇気ある対話は、共鳴の波動を広げ、世界を動かす力となる。
3  人間外交(3)
 佐藤栄作元総理は山本伸一の話を聞くと、大きく頷きながら言った。
 「山本会長の真心と情熱にあふれたご意見が、コスイギン首相を動かし、私との会見が実現したのでしょう」
 伸一はこたえた。
 「いいえ。コスイギン首相の方が、私の提案を誠実に受け止めてくださったからです。その誠実さにこそ、私は首相の偉大さがあると思います」
 思想家の内村鑑三は、「世に、いまだかつて、誠実でなくして偉大となった人間はいない」と述べている。
 これは、伸一も、後輩たちに、よく語ってきた言葉であった。
 佐藤は言った。
 「それにしても、山本会長は、コスイギン首相を相手に、よくぞ言ってくださった。まさに友人としての忠告という感じがします。
 そういう語らいは、政府の代表同士では難しいでしょう。だから民間交流が大事です」
 また、佐藤は、今回、訪問したモスクワ大学でも、伸一への深い信頼によって、創価大学との教育交流が始まろうとしていることを知り、感嘆していた。
 さらに伸一は、前年十二月の第二次訪中で、周恩来総理、鄧小平副総理と会見したことを述べ、中国を大切にしていきたいとの心情を語った。
 すると佐藤は、力を込めて言った。
 「日中国交の橋を架けてくださり、感謝しています。よくやっていただきました」
 佐藤元総理といえば、台湾一辺倒であるという見方が定着していた。しかし、彼は、以前から日中国交正常化を念願していたのだ。
 伸一には、その心がわかっていた。
 佐藤が常に台湾を重要視してきたのは、蒋介石総統に対する信義を貫いたからであった。佐藤は、戦後、蒋介石が日本人の帰国を速やかに認め、賠償金も取らなかったことに、深い恩義を感じていたのである。
 恩をもって恩に報いる――その信念が佐藤を貫いていたのだ。
 伸一は、佐藤が総理在任中から、何度か顔を合わせる機会があった。ひときわ深い思い出となっているのが、九年前の一九六六年(昭和四十一年)一月、鎌倉・長谷の別邸を訪れた時のことであった。
4  人間外交(4)
 佐藤栄作の鎌倉の別邸で、山本伸一は彼と二人だけで、三時間半ほど語り合った。日本の将来のことから、教育、宗教、国際問題……。
 佐藤の総理就任から一年二カ月がたっていた。佐藤は六十四歳、伸一は三十八歳。年の開きは親子ほどあった。しかし、世代を超えて、肝胆相照らす対話となった。
 伸一の小説『人間革命』第一巻が発刊されて間もないころであった。
 「『人間革命』読みましたよ。厳しい言葉がありますね。総理よりも一庶民が偉いと書いてある」
 語らいは『人間革命』から始まったのである。
 この巻には、初代会長の牧口常三郎が「わたしが嘆くのは、一宗が滅びることではない。
 一国が眼前でみすみす亡び去ることだ」と叫んだことも記されている。軍部政府に屈し、宗教者としての信念までも捨て去った、宗門への憤りである。
 佐藤は、しみじみとした口調で言った。
 「創価学会は純粋ですね。気持ちがきれいだ。純粋に国のためを思っていることがよくわかる」
 伸一は、最初、応接間に通され、三、四十分ほど語り合ったあと、食堂で寛子夫人の運ぶ料理に舌鼓を打ちながら語らいを続けた。
 当時、学会と公明党とは、まだ組織的に分離をする前である。総理である佐藤には、公明党になんらかの協力を求めようとの意図があったのかもしれない。
 しかし、そういう話は全く出なかった。佐藤は日本の将来を見すえ、日本人の生き方や心のありようについて、時には慨嘆しながら考えを述べていった。
 「若い世代が、国の将来を思う心をなくしてしまった。本当に残念なことです」
 伸一も同感であった。
 「国はもとより、人類、世界の将来のために立とうという青年がいないのが残念です。私は、そこに、青年を育む創価学会の使命があると思っております」
 また、佐藤は、敗戦以来、日本にモラルがなくなってしまったことを、深く憂慮していた。
 「欧米には宗教的モラルがあるが、日本人には自らを律するものがないのが心配です」
 宗教の大きな役割の一つは、人びとの胸中にモラルを確立させることにある。
5  人間外交(5)
 「モラルの模範を示すべき政治家が、決して模範にはなっていない。残念なことです」
 佐藤栄作は、そう言って嘆いた。人間の精神をどう変革するかを彼もテーマとしていたようだ。
 食事が終わると、伸一は佐藤の部屋に案内された。一緒に階段を上っていくと、途中に一枚の写真が飾られていた。
 戦後日本の立て直しを図った宰相として知られる吉田茂と佐藤が並んで写った写真である。
 「私の師匠です!」
 佐藤は胸を張って、誇らかに言った。
 一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は″心から信頼できる″と思った。
 「求道の人」「向上の人」は、必ず師匠を求める。そして、心に師をいだいている人には、厳たる風格がある。
 ローマの哲人セネカは恩を受けた師について、こう語っている。
 「もしも私が、最も感謝すべき親愛の情の下において彼を尊重しないならば、私は恩知らずと言うべきである」
 佐藤は吉田学校の優等生といわれた。真面目に、厳父に接するように吉田に仕えたという。
 一九五五年(昭和三十年)の保守合同の時にも吉田と行動を共にした。大勢となった新党・自由民主党への入党を拒否し、孤立無援の無所属として一時期を過ごした。
 彼は、師匠への信義を貫いたのである。
 佐藤は伸一に言った。
 「あなたの師匠は戸田さんでしたね」
 「はい。戸田城聖先生が、私の恩師です。
 戸田先生は偉大な数学者であり、教育者であり、また、実業家でもありました。
 私は戸田先生から、個人教授で、万般の学問を教わりました。最高の人間教育を授けていただいたと思っております」
 伸一もまた、誇らかに答えた。佐藤は目を細めながら頷いた。
 洋館の一番上にある彼の部屋で、話を続けた。
 「戸田さんは立派な方ですね。学会の力、その組織の力はすごいですね。われわれも見習わなければいけない」
 師匠が讃えられることほど、弟子として嬉しいことはない。
 そのために、力を尽くし抜くのが、弟子たる自分の使命であると、伸一は心に決めていた。
6  人間外交(6)
 佐藤栄作が、師の吉田茂が亡くなったことを聞いたのは、フィリピンであった。一九六七年(昭和四十二年)十月のことである。
 呆然とした。涙に暮れた。だが、直ちに日本と連絡を取り、国葬の手はずを整えた。
 戦後、国葬は前例がない。反対の声もあった。しかし、最高の栄誉で師への報恩を尽くしたいとの思いで、懸命に推進したのである。
 海外歴訪から戻った佐藤は、羽田の空港から、永眠した師の待つ神奈川・大磯の吉田の自宅に直行した。
 冷たくなった師の顔をさする弟子の背は、小刻みに震えていた。
 弟子は師に、何を誓ったのであろうか。
 この翌月に、佐藤は訪米。小笠原と沖縄の返還への流れを開いた。
 特に小笠原については、一年以内の返還の見通しがついたのである。それは吉田の悲願でもあった。
 吉田は対日講和条約に際して、奄美、沖縄、小笠原は、日本に「潜在主権」があることを認めさせている。
 「潜在主権」とは、外国の統治下にあっても、潜在的に存在する主権のことである。
 つまり、奄美、沖縄、小笠原は、アメリカの統治下に置かれていても、最終処分権は日本にあると認めさせたのだ。
 吉田は、これによって、将来の返還の可能性を残したのだ。
 そして、奄美は既に返還され、残るは沖縄と小笠原であったのである。この佐藤の訪米で、吉田の念願実現へ、もう一歩のところまできたのだ。
 彼は、弟子として胸を張って、師の吉田に、心で語りかけ、報告したにちがいない。
 師匠の念願を成し遂げてこそ弟子である。師が願って、成就できなかったことは、すべて弟子が果たし抜くのだ。それが師弟の道なのである。
 佐藤の七年八カ月という連続しての総理在職は史上最長である。
 その間に沖縄返還をはじめ、ILO(国際労働機関)条約の承認や日韓基本条約の調印などの功績を彼は残したのだ。  
 鎌倉での佐藤との語らいから、既に九年の歳月が流れていた。
 その空白を埋めるかのように、佐藤元総理は、屈託のない笑いを浮かべて、日本と世界の未来図を語った。
7  人間外交(7)
 山本伸一は、この一九七五年(昭和五十年)二月の夜、佐藤栄作元総理の一言一言を、生命に刻む思いで聞いていた。
 その言葉に、未来を託そうとする心が感じられてならなかったからだ。
 食事を終え、車で帰る佐藤夫妻を、伸一と峯子は見送った。
 後日、寛子夫人から丁重な手紙が届いた。
 そこには「無口な主人が本当によく、しゃべりました。『会長がひと回りもふた回りも大きくなって、日本のために頑張ってくださっているのがうれしい』と言っていました」とあった。
 この語らいから三カ月後に、佐藤元総理は倒れた。そして、六月三日、帰らぬ人となった。
 後年、八王子に東京牧口記念会館ができると、伸一と峯子は、その庭園に佐藤夫妻の夫婦桜を植樹している。     
 山本伸一の会談相手は多岐にわたっていた。政界人では、初の革新都知事となった経済学者の美濃部亮吉とも、一九六八年(昭和四十三年)一月と七二年(同四十七年)五月に会談していた。
 美濃部の父親は、天皇機関説で知られる美濃部達吉である。この学説は明治憲法に謳われた統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないとするものである。
 天皇機関説のために、彼は不敬罪で告発され、貴族院議員を辞職。暴漢にも撃たれ、重傷を負っている。
 美濃部都知事との会談は、先方の強い希望で実現したものであった。
 会談では都政の問題というよりも、互いの心情を語り合うことに主眼が置かれた。
 また、伸一は、一九七四年(昭和四十九年)十二月には、日本共産党の宮本顕治幹部会委員長とも会談し、広く人生をめぐって対話している。
 伸一は、党派も、イデオロギーも、また、国家も、民族も、宗教も超えて、各界のリーダーと、信義と友情の絆を結ぼうとしていた。
 人間と人間の交流こそが、平和と人道の潮流となるからだ。
 人間という原点に立ち返るならば、皆が同胞である。隔てるものは何もない。
 ガンジーは言う。
 「私の目標は、全世界との友好である」
 伸一もまた、同じ思いであった。
8  人間外交(8)
 山本伸一は、二月十四日には、神奈川県平塚市にある東海大学の湘南校舎を訪問し、松前重義総長らと会談した。
 松前総長も伸一も、共に大学の創立者であり、日ソの友好に情熱を傾けているという共通点があった。それだけに語らいは弾んだ。
 話題は、海洋資源の確保の問題に始まり、アジアのなかの日本の役割、世界平和の展望など、地球的、世界的な広がりを見せた。
 さらに翌十五日には、ソ連の劇作家で、『アガニョーク』誌のA・V・サフローノフ編集長と会談。
 二十一日にはモスクワ大学のY・S・ククーシキン歴史学部長と、翌二十二日にはアフリカ・ガーナ大学のアレクサンダー・クワポン副総長と、二十五日には中山賀博前駐仏大使と、そして、二十七日には、中国大使館の李連慶参事官らと会談している。
 伸一の、こうした精力的な対話の展開に、学会本部の首脳幹部たちは、ただただ、驚くばかりであった。
 伸一が青年部の数人の幹部と懇談した折、メンバーの一人が尋ねた。
 「近年、先生が会談されている要人の方は、さまざまな分野に及び、さらに、全世界に広がっております。また、イデオロギー的に見れば、社会主義の人も自由主義の人もおりますし、宗教も全く異なっています。
 しかも、そういう方々が、先生とお会いになったあとは、先生を尊敬され、深い信頼を寄せられています。
 主義主張も、価値観も違う人びとと、共感し合い、友情で結ばれていくには、どういう心構えが必要でしょうか」
 伸一は、微笑みを浮かべて語り始めた。
 「いろいろ違いがあるというのは、当然のことじゃないか。違いというのは個性でもある。違いがあるからこそ、この世界は多様性に富んだ、百花繚乱の花園なんだよ。
 だから、差異は本来、認めることはもとより、尊敬し、学び合うべきものだ。まず、その視点をもつことだ。
 したがって、いかなる宗教の人であろうが、人間として尊重することが大前提だよ」
 詩人・金子みすゞは、「みんなちがって、みんないい」とうたっている。大切なのは、そうした思いであろう。
9  人間外交(9)
 青年と話す時、山本伸一の胸には、情熱が燃え盛った。
 自分の架けた橋を、自分の切り開いた道を、堅固にし、平和の大道をつくり上げてくれるのは青年たちだと思うと、声には力がこもった。
 「人には、さまざまな違いがある。多様である。しかし、その差異を超えた共通項がある。
 それは、皆がこの地球に住む、同じ人間であるということだ。そして、生老病死を見詰めながら、誰もが幸福であることを願い、平和を望んで、懸命に生きているということだよ。
 その共通項に立てば、共有すべき″思想″に行き着くはずだ。
 それは、生命は尊厳なるものであり、誰にも生存の権利があるということだ。幸福になる権利があるということだ。だから、絶対に戦争を許してはならない。
 その生命の尊厳を裏付けているのが、一切衆生が、本来、仏であるという日蓮仏法の哲理だ。
 ゆえに戸田先生は、仏法者の立場から、地球民族主義を提唱され、原水爆禁止宣言を発表されたんだよ」
 伸一の対話の目的は、この人間としての共通項を確認し合い、平和への共感の調べを奏でることにあった。国境を超えて、生命の尊厳を守る人間のスクラムを築き上げることにあった。
 彼は人間の良心を信じていた。胸襟を開き、誠意をもって語り合えば、必ず理解し合い、共感、信頼し合えるというのが彼の確信であった。
 伸一は言葉をついだ。
 「人間には、国家の利害や立場をはじめ、さまざまなしがらみがある。
 それを超えて、人間としての普遍的な価値のために立ち上がってもらえるのか。また、不信を信頼に変えさせうるのか――という生命の啓発作業が対話ともいえる。
 だから、対話には、忍耐、粘り強さ、英知、確信が求められる。
 また、対話を通して、人格や思想、信念に触れ、新しい知識や智慧、発想などを吸収することもできる。対話は人間を高める直道なんだよ」
 ――「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うことであると思う」
 これはフランスの思想家モンテーニュの卓見である。
10  人間外交(10)
 山本伸一は、対話によって、世界を結ぶ平和と人道の連帯を築こうと思うと、少しでも時間がほしかった。
 限りある人生である。時を無駄にすることは、生命を浪費することに等しい。一瞬たりとも無駄にすまいと、彼は心に決めていた。
 伸一は、このころ、膨大な原稿をかかえていた。
 月刊誌や週刊誌、また、新聞各紙の依頼を受け、二度にわたる訪中の印象記や、米中ソの三国首脳との会見をもとにしたリポートや評論などを次々と発表していった。
 訪ソの印象を各紙誌に発表したものをまとめた『私のソビエト紀行』も、この一九七五年(昭和五十年)の二月十日に発刊されている。
 さらに、二月の一日からは、「日本経済新聞」紙上に「私の履歴書」と題する自伝の連載を開始したのである。
 実は二、三年前から、何度か執筆を求められてきたが、″昭和生まれの私は、まだ人に語るべき人生の年輪は刻んでいない″と考え、固辞し続けてきた。
 しかし、再三の依頼を断り切れず、遂に連載を引き受けたのである。
 連載は、三月初旬まで毎日続くことになる。
 「私の履歴書」は、一九二八年(昭和三年)一月二日の自分の誕生から書き始めた。
 この第一回では、頑固な一徹者の父について触れた。そのタイトルは「強情さま」である。
 連載では、少年時代に家業の海苔製造の手伝いや新聞配達をしたこともつづった。軍需工場に勤め、軍事教練中に倒れかけ、血痰を吐いた青春の思い出も記した。
 空襲の類焼を防ぐためにわが家が取り壊され、新しく建てた家が、住む前日に空襲で焼かれてしまったこと。やっと火の中から持ち出した長持ちに入っていたのは、雛人形とコウモリ傘一本であったこと……。
 長兄の戦死。焼け跡に燃やした向学心。そして人生の師となった戸田城聖との出会い……。
 「私の履歴書」は、体験をもとにした平和への叫びとなっていた。
 伸一は、生涯、平和を叫び抜くことこそ、戦争の時代に育った自分たちの世代の、責任であると考えていたのだ。
 いかなる時代に生まれたか――それもまた、宿命であり、使命である。
11  人間外交(11)
 「私の履歴書」には、山本伸一が戸田城聖の経営する出版社に勤め、戸田の事業が破綻していくなかで、師を守り支えた青春の苦闘も記した。
 峯子との結婚にいたるいきさつも、選挙違反という無実の罪を着せられ、不当逮捕された大阪事件も、ありのままにつづった。
 連載は、伸一の第三代会長就任後の、世界平和への軌跡をたどり、この一九七五年(昭和五十年)一月にグアムで開催された世界平和会議までを記して終わっている。
 彼は自分の来し方を通して、創価学会の真実の姿と、師である戸田城聖の偉大さを、読者が少しでも理解してくれればと願いながら、ペンを執ったのである。
 伸一の初めての自伝であり、しかも一般紙の連載とあって、反響は大きかった。
 学会本部にも「創価学会の会長さんというから人間離れした教祖のように思っていましたが、極めて人間的で誠実なお人柄であると感じました」「学会が真剣に平和を考えていることが、よくわかりました」などの電話や手紙が、数多く寄せられたのである。
 そのなかには、「連載の随所から、戸田城聖氏という師匠をもてたことへの筆者の感謝が伝わってきます。戸田氏の偉大さを初めて知りました」など、戸田への賞讃の声も少なくなかった。
 伸一は、何よりも、それが嬉しかった。
 師を宣揚し、その真実と正義を伝え抜くことは弟子の責任であり、義務であると、彼は考えていたからだ。
 師への賞讃は、弟子の勝利である。
 伸一は″戸田先生の正義を世に示し、師匠を宣揚するために、書いて書いて書きまくろう!″と決意していた。
 学会が、どんなに高く評価されようが、師匠が正しく理解され、讃えられなければ、そこには師の精神の継承はない。
 学会精神とは、牧口常三郎の、そして、戸田城聖の生き方のなかに脈動しているものであるからだ。いや、仏法そのものが、人の生き方のなかにあるといえよう。
 ゆえに、日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せなのである。
 観念的な理論のなかには仏法の脈動はない。
12  人間外交(12)
 山本伸一は、三月に入ってからも、さらに会談を重ねていった。
 四日には作家の井上靖と、三時間半にわたって聖教新聞社で会談。中国との友好の在り方などについて語り合った。
 六日には、同じく聖教新聞社で駐日イラン大使館のA・H・ハムザービィ大使と会った。
 そして、九日には学会本部で福田赳夫副総理と会談したのである。
 「山本会長は、中国、ソ連、アメリカを回られて、首脳と会談されておられるが、ぜひ、お話をお聞かせ願いたい」との要請があったのである。
 福田は、この日、飄々と、自ら学会本部に足を運んだ。
 伸一は六年前の一九六九年(昭和四十四年)四月に、佐藤内閣の大蔵大臣であった彼と会談していた。どこか、超然とした風格があった。
 福田は秀才中の秀才として知られ、群馬の名門・高崎中学から、一高、東大と進み、大蔵省に入った。常に成績は一番であったといわれる。
 しかし、その経歴からくる印象とは異なり、至って気さくであった。
 威張ることも、驕ることも、肩肘を張ることもなかった。少年時代に母親から「ぶるな(気取るな)、ぶるな」と教えられたという。
 初対面のあいさつの時、福田は言った。
 「会長のことは、佐藤総理からも、よく伺っております」
 一人の人と、誠実と信義で結ばれていくならば、そこから、友情の輪は幾重にも広がっていくのである。一人を誠心誠意、大事にすることだ。「一は万が母」である。
 福田は、さらに、「創価大学も、このたびは、おめでとうございます」と言って目を細めた。
 創価大学の起工式が行われて、間もないころであった。
 時代は、大学紛争のさなかである。だからこそ伸一は、新しい大学を建設しなければならないと、開学の予定を早めて、この四月の二日に創価大学の起工式を行ったのである。
 福田は、大学教育が混迷の度を深めるなかで船出する創価大学にも、伸一の教育理念にも、強い関心をいだいているようであった。
 日本の大学の行方を、深く憂慮していたのであろう。
13  人間外交(13)
 山本伸一は、最初の会談で、福田赳夫が、目をしばたたきながら、日本の現状を慨嘆していたことが忘れられなかった。
 「戦後、日本は豊かにはなりました。しかし、『モノで栄えて、心が滅びる』という状況になってしまっている。
 金持ちになったからといって、『エコノミックアニマル』と言われるようでは恥ずかしいですよ。どこの国でも金の力には頭を下げるが、それは表面だけです。腹のなかでは軽蔑している。
 これを私は変えたいんです。世界に尊敬される日本にならなければみっともない。私は、金で買えないものの価値を大事にする政治をしたいと思っているんです」
 大蔵大臣である福田の「金で買えないものの価値を大事にしたい」という言葉に、伸一は感動を覚えた。彼の人間性の輝きを感じた。
 本当に価値あるものは金では買えない、と言っても過言ではあるまい。人間としての信頼も、本当の愛も、金で買えるものではない。
 伸一は、福田の視点に共感した。
 「おっしゃる通りだと思います。
 私どもが信奉する日蓮大聖人は、『蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり』と仰せになっています。
 『蔵の財』とは金などの財産といえます。『身の財』とは技術や資格、また、肉体の健康も、ここに含まれるでしょう。
 そして、『心の財』とは、自己の生命の内に築いた豊かさです。いかなる試練にも負けない生命の強さです。常に歓喜、充実、躍動をもって、生き抜く力であり、創造的生命です。
 これこそが、何があっても崩れることのない幸福の源泉といえます。
 この『心の財』は決して金では買えません」
 福田は、イスの肘掛けをとんとんと指で叩きながら、興味深そうに伸一の話を聞いていた。
 「現代の荒廃は『蔵の財』を第一と考え、最も大切な『心の財』を軽んじてしまったことにあるのではないでしょうか。それは生命、人間性の軽視にもつながります。
 私ども創価学会の運動は、その『心の財』を取り戻す、精神の復興運動でもあります」
 「そうですか。大事なことですね」
14  人間外交(14)
 福田赳夫は語らいのなかで、感嘆した口調で、山本伸一に言った。
 「創価学会には、真面目な若い人が多くて、すごいですね」
 そして、伸一の年齢を聞くと、驚きの声をあげた。
 「まだ、会長が四十一歳ですか! 未来が楽しみですね。これからも日本のためによろしくお願いします」
 こう言って彼は、深々と頭を下げた。
 その丁重な態度に、伸一は、いたく恐縮した。    
 以来、六年ぶりの会談である。福田は七十歳になっていた。
 この日は、学会本部の一室で、二人だけで三時間近くにわたって語り合った。
 伸一が民間交流を展開していることに対して、福田は「ソ連、中国、そして、アメリカと、首脳に会って交流の道をつくってこられた。大変なことです。日本の国のために、ありがたいことです」と言いながら、しきりに頷いた。
 伸一の民間交流に対しては、嫉妬からか、「日本外交の邪魔になるから、勝手なことをさせるな」といった政治家や官僚の声もあった。
 だが、福田は、民間交流の大切さを真摯に受け止め、高く評価していたのだ。
 人の器の大きさは、国益や人類益を本当に考えることができるかどうかによって決まるといってよい。伸一は福田の器の大きさを感じた。
 伸一は、ソ連のコスイギン首相や中国の周恩来総理、アメリカのキッシンジャー国務長官との会談について、語れる限りのことを伝えた。
 日中平和友好条約についても話題になった。伸一は、その必要性を強く訴えた。
 また、伸一が四月に三度目の中国訪問を予定していることを告げると、福田は「帰国されたら、また、ぜひお会いして、お話をお伺いしたい」とのことであった。
 「わかりました。お会いしましょう。
 二十一世紀の日本のため、アジアのため、世界の平和のために、語り合いましょう」
 福田は、この翌年(一九七六年)の十二月、自民党総裁となり、総理に就任する。
 伸一と彼との交友は、その後も末永く続くことになる。
15  人間外交(15)
 三月の十四日、山本伸一は、ソ連対外友好文化交流団体連合会のA・M・レドフスキー副議長と聖教新聞社で会談した。話題は国際情勢からトルストイ文学に及び、文学観についての語らいとなった。
 そして、十六日には聖教新聞社で、来日した中国青年代表団の一行を歓迎したのである。
 この日の朝、妻の峯子は、伸一に言った。
 「今日は、中国の青年の方々とお会いするんですね。張り切っていらっしゃるのが、よくわかりますわ」
 「中国の青年たちと会えると思うと、嬉しくて仕方がないんだよ。未来のために本当に大事なのは青年交流だからね」
 青年のために道を開いてこそ、未来は開かれる――伸一は、それこそが自身の使命であると決めていたのだ。
 三月十六日は、一九五八年(昭和三十三年)に、第二代会長の戸田城聖から、伸一をはじめとする青年たちに、広宣流布の後事の一切を託す記念の式典が行われた日である。
 男子部では、その「3・16」を記念する大会を、この日、東京・両国の日大講堂で開催し、引き続いて同じ会場で、中国青年代表団歓迎大会を行うことになっていた。
 その後、一行は聖教新聞社を訪問する予定になっており、伸一はそこで代表団の青年と懇談しようと決めていたのだ。
 この歓迎大会の開催を提案したのは伸一であった。
 中国青年代表団の訪日を中国関係者から聞いた彼は、青年部首脳に、日中の青年交流の大河を開くために、盛大に歓迎大会を開いてはどうかと語ったのである。
 「青年は、胸襟を開いて、大いに友情を広げていかなくてはいけない」とは、周恩来夫人の鄧穎超が示した指針である。
 青年部長になっていた青田進は答えた。
 「ぜひ、やらせてください。『3・16』は、戸田先生から山本先生をはじめ、弟子の青年たちが広宣流布のバトンを受け継いだ日です。
 今年の『3・16』は日中友好のバトンを先生から私たちが受け継ぐ日といたします」
 師と弟子の心が合致するところから、新しい前進の歯車は回転を開始するのだ。
16  人間外交(16)
 「ウォー」という青年たちの、怒濤のような大歓声と拍手が、会場の大鉄傘を揺るがした。
 日大講堂で行われた中国青年代表団歓迎大会は、一行十七人の入場で幕を開けた。
 その瞬間、会場後方の最上階から、日本語と中国語で、「ようこそ 中国青年代表団の皆さん」「スクラムを組んで 平和を促進しましょう」と書かれた垂れ幕がスルスルと下りてきた。
 学生部長の田原薫が、歓迎のあいさつに立った。山本伸一の中国訪問に同行してきた彼は、一行の訪日を大歓迎し、声を限りに叫んだ。
 「この日大講堂は、今から七年前の一九六八年(昭和四十三年)の九月八日、会長の山本先生が学生部総会に集った全国の学生部員を前に、社会の非難を覚悟で、あの歴史的な『日中国交正常化提言』をされた会場であります。
 この提言が、日中友好の源流となり、両国の交流の歴史が織り成されていったのであります。
 いわば、この会場は、日中友好の日本における原点の地であります。その意義深き会場に、中国青年代表団のご一行をお迎えできますことは、私どもにとりまして、最高の喜びでございます」
 中国の青年たちも、伸一の国交正常化提言によって、日中の新しい歴史が開かれたことは深く理解していた。
 その提言が行われたのが、この場所であったことを知り、一行は瞳を輝かせ、感動をかみしめるのであった。
 さらに田原は訴えた。
 「中国と日本は、信頼と友誼の絆によって、強く固く結ばれなければならないというのが、山本会長の叫びであります。その平和友好の信念は、わが創価学会青年部に脈々と流れております。
 私たちは、本日を契機に、中国青年代表団の皆様と共に、日中の永続的な友好と平和の歴史をつくりあげていくことを、誓い合おうではありませんか!」
 会場を埋め尽くした青年たちが、熱気にあふれる、嵐のような大拍手で応えた。
 おお、青年たちよ!
 君たちの胸の坩堝にたぎり立つ情熱は、どんなに困難で分厚い氷壁をもとかすにちがいない。
 青年は世界の宝だ!
 人類の希望だ!
17  人間外交(17)
 田原学生部長の歓迎あいさつの後、一行十七人が紹介され、日本の青年部から花束と記念品が贈られた。
 次いで、男子部員による歓迎太鼓が高らかに鳴り響き、音楽隊が中国の歌曲を演奏。さらに、女子部合唱団による「花」の合唱など、歓迎の舞台が続いた。
 それに対して、中国青年代表団は「さくら」の独唱で応え、心がとけ合う友情の交流となった。
 ここで、中国青年代表団の団長があいさつに立った。
 「山本会長が中日友好を促進するために行った努力は、中国人民の心に印象深く残っております。
 今度は、世々代々の友好へ、両国の青年が団結し、励まし合い、友情の花を、一層鮮やかに咲かせていこうではありませんか!」
 全男子部員の思いを代弁するかのような、団長のあいさつであった。
 続いて青年部長の青田進は、日中友好への決意を、強い口調で訴えた。
 「私たちは、山本先生が命がけで築いてくださった日中の″金の橋″を、末永く互いに行き来し、手を取り合って前進していきたい。
 われらの責任において、希望の虹かかる未来の友誼の道を開いていくことを、ここに誓うものであります」
 苗木の群れは、やがては鬱蒼たる森になる。青年のスクラムは、未来を守る平和の城塞となる。
 ゆえに、全精魂を注いで青年を育成するのだ。青年を育むことは、希望を育むことだ。
 そして、シュプレヒコールが響いた。
 「われわれは世々代々にわたる日中友好の道を開くぞ!」
 「日中の″金の橋″を盤石にするぞ!」
 最後に壇上で、青年部長の青田らが団長の左右の手を取って高く掲げると、大拍手が轟いた。
 その時、「ワーッ」という掛け声とともに、男子部員が進み出て、団長を胴上げした。
 「ワッショイ! ワッショイ!」
 団長の体が、何度も、何度も宙に舞った。
 それは友情の波に躍るシャチの姿を思わせた。友誼の潮は、青年の海に広がったのである。
 青年が前面に躍り出て一切の責任を担い、誇らかに行進を開始する時、新時代の幕は開かれる。
18  人間外交(18)
 ブラジルの女性詩人セシリア・メイレレスは高らかにうたった。
 「前進をやめてはいけない 前進は継続していくものだ 続けることが前進だ」
 道を開くことは難しい。しかし、開き続けることは、さらに至難である。だが、それなくしては、道はつながらない。
 だから、山本伸一は、日中友好の開拓の手を休めることはなかった。
 「ローマは一日にして成らず」と言われる。偉大な歴史をつくるものは苦闘の積み重ねである。
 青年へ、さらに若き世代へと、バトンを託し続けるために、彼は、次々と行動を重ねた。
 中国青年代表団の一行が、日大講堂から伸一の待つ聖教新聞社に到着したのは、十六日の午後五時過ぎであった。
 伸一は、代表団の一人ひとりを抱きかかえるようにして迎え、固い握手を交わしていった。
 「ようこそおいでくださいました。
 将来の中国の指導者となる皆様方を歓迎することができて光栄です」
 テーブルを囲んで歓談が始まった。
 伸一は、まず、前年の二度にわたる訪中の際、真心の歓迎を受けたことに対して御礼を述べた。
 それに応えて、代表団の団長は語った。
 「中日の友好のために山本会長がなされてきたことは、中国人民の心に永遠に刻まれていくものと思います。
 また、今回の訪日で創価学会の皆様から受けた真心の熱烈歓迎に、心から感謝申し上げます。
 私たちは、山本会長をはじめとする創価学会の皆様の友情と好意を携えて帰り、それを中国人民に伝えてまいります」
 伸一は、団長の手を強く握り締めて言った。
 「ありがとうございます。感謝します。
 私たちが開いた日中友好の道を、やがて、何百万の青年が、喜々として往来していくでしょう。
 そのための私たちの交流です。現在の一歩一歩の歩みが、一回一回の語らいが、新しい日中の歴史を開いているんです。
 皆さんは先駆者です。今は実感できなくとも、後になればなるほど、その意味がよくわかるものです。
 どうか青年として、歴史を担う気概と誇りをもって進んでください」
 代表団のメンバーは、目を輝かせて頷いた。
19  人間外交(19)
 青年と語り合うことは爽快である。未来の大空に真っすぐに飛翔せんとする、一途な情熱が脈打っているからだ。
 山本伸一は、中国青年代表団のメンバーに、未来を託す思いで語った。
 「皆さんには、さらに堅固な友好の大道を開いていく使命があります。
 では、そのために何が必要か――。
 それは行動です。どんな立派な言葉よりも、実際に何をしたかです。勇気をもって行動していくことです。私も、そうしてきました。これからも、そうしていきます。
 共に日中両国の友好のために、走り抜こうではありませんか!」
 青年たちは、大きく頷いた。
 伸一は、彼らの胸に燃える決意の炎を感じた。
 和やかななかにも、友誼の誓いを固め合った語らいとなった。
 懇談を終えた伸一は、再び全員と握手を交わして、青年たちの成長を祈り、見送ったのである。
 伸一の仕事は、年々増えこそすれ、減ることはなかった。毎月の本部幹部会をはじめ、学会の各種会合や各大学会の総会への出席もあれば、各部の幹部との打ち合わせも頻繁にもたれていた。
 創立者として、創価大学や創価学園、また、富士美術館や民音の催しなどにも足を運ばねばならなかった。
 そのなかで、時間を捻出し、各界の識者や指導者たちとの対話は、着実に続けられていった。
 三月の二十日には、関西の財界人たちと、さらに、東洋大学の磯村英一教授と会談した。
 二十四日には、イスラエルのシャウル・ラマティ駐日大使夫妻。
 二十五日には、ルーマニアのニコラエ・フィナンツー駐日大使。
 二十九日には、西ドイツ(当時)のボン大学名誉教授のゲルハルト・オルショビー博士に引き続き、ウガンダのS・T・ビゴンベ駐日臨時代理大使夫妻と会談している。
 対話には勇気と決断が大切である。まず、断じて語り合おうと心を定めて、懸命に時間をつくり出すのである。
 そして、対話が実現したら、恐れずに真実を語るのだ。それが、本当の友情を育んでいく。 
 「時代は勇敢な者、決断する者に味方します」とは、シラーの記した真理の言葉である。
20  人間外交(20)
 三度目の中国訪問が、間近に迫っていた。
 今回、山本伸一は、四月十四日に関西から中国に旅立つことにしていたのである。
 七日、創価大学では入学式を前にして、新入生の入寮式が行われた。
 「新中国からの留学生も、寮に入ることになりますので、彼らも入寮式に出席します」
 創価大学の関係者から、こう報告を受けた伸一は、日程を調整して、入寮式に駆けつけたのである。
 大学の構内にある滝山寮の集会室で入寮式は行われた。
 留学生たちは、日本での生活自体が慣れないうえに、日本人と一緒に寮生活を送ることになる。
 みんなが、どんなに心細い気持ちでいるかと思うと、伸一は、会って励まさずにはいられなかったのである。
 そもそも、入学する六人の留学生の、身元保証人になっていたのは伸一であった。
 日中の国交は、一九七二年(昭和四十七年)九月の日中共同声明によって正常化され、貿易などの経済的な交流は進められたが、教育交流は遅々として進まなかった。
 特に新中国からの正式な留学生を受け入れる日本の大学は、なかなか見つからなかった。
 また、聴講生などの立場で日本の大学で学んでいる中国人学生はいたが、多くの日本人の接し方は、概して冷たかったようだ。文化大革命のさなかであり、中国に対して悪いイメージをもっていた日本人が多かったためでもあろう。
 伸一は、第二次訪中を終えた七四年(同四十九年)の年末、駐日中国大使館に一等書記官として赴任してきた金蘇城と聖教新聞社で懇談した。金蘇城は、中日友好協会の理事を務め、伸一が交流を深めてきた人である。
 そこで、中国人留学生の受け入れ先を探しているとの話を聞いたのだ。
 「それでしたら、応援させていただきます」
 そして、伸一は、自らが身元保証人となって、創価大学に留学生を受け入れるよう尽力することを約束したのである。
 ビクトル・ユゴーは、力を込めて訴えた。
 「″今日の青年″を育成することは″明日の人間″を創ることです。その″明日の人間″が″世界共和国″を形成するのです」
21  人間外交(21)
 「ようこそ! よくいらっしゃいました」
 山本伸一は、入寮式で中国人留学生を真心の握手で歓迎し、それからマイクを取った。
 「新入生の皆さん、入寮おめでとう。
 特に中国からの留学生の皆さんは、わが創価大学に来られ、日中友好のため、世界の平和のために、事実上の第一歩を印されました。
 本日は、中国の未来を担う優秀な友を迎える最も記念すべき歴史的な日であります。私は、なんとしても皆さんにお会いしたいと思い、駆けつけてまいりました」
 伸一は留学生一人ひとりに視線を注いだ。皆、勤勉そうな青年であった。
 彼は思った。
 ″私がつくった創価大学に、中国から留学生として来てくださった方々である。何があろうが、この青年たちを守り抜き、一段と成長した姿で中国に帰っていただくのだ。そうしなければ、周総理に申し訳ない″
 学校は、学生のためにある。ゆえに、創立者も教師も、学生に仕えるためにいるのだ――それが伸一の哲学でもあった。
 彼は言葉をついだ。
 「青年時代の一年一年は貴重です。黄金にも匹敵します。どうか、留学生の皆さんは、在学中に広く日本文化を学習するとともに、人格の完成をめざし、有意義な学生生活を送ってください」
 さらに伸一は、日本の新入生に語りかけた。
 「日本の皆さんは、この留学生との友情を軸にして、未来永劫にわたって中国の友人となり、強く美しい絆で結ばれた、友誼の歴史を築いていっていただきたい。
 それこそが、この寮で学ぶ、人生の大きな財産となります。もはや、友情は世界に広がらねばならない時代です」
 そして、前年の十二月に周恩来総理と会見した模様に触れながら、日中友好の「金の橋」を永遠ならしめようと訴えた。
 入寮式の後、伸一は留学生と懇談した。六人の留学生のうち、一人はまだ日本に到着していなかった。
 皆、日常の会話なら、日本語で上手に話すことができた。
 伸一は、皆のために用意しておいた、革表紙の特製ノートを贈った。
 「ここに、創大で学んだ勉学の歴史をとどめてください」
22  人間外交(22)
 山本伸一は中国の留学生と懇談した後、桜の咲く、夜のキャンパスを自ら案内した。
 伸一は提案した。
 「皆さんと初めて会った、この四月七日を、記念の日として永遠にとどめたいと思いますが、いかがでしょうか」
 留学生の顔に微笑みがこぼれた。
 さらに、一緒に記念のカメラに納まった。
 「何か困ったことや要望がありましたら、遠慮なく言ってください。ここは皆さんの家であり、母校なんですから」
 伸一は、固く心に誓っていた。
 ″一人たりとも落胆させまい。暗い思いで、創価大学を去っていく留学生など、絶対に出すまい。皆、最高の思い出をつくってほしい……″
 散策の後、彼は教職員と学生たちに言った。
 「中国から選ばれた優秀な学生です。私は大切な家族だと思っています。くれぐれもよろしくお願いします!」
 誰もが伸一の並々ならぬ心配りに感動を覚え、自らに言い聞かせるのであった。
 ″この山本先生の心をわが心として、留学生と接していこう!″
 友好や平和といっても、彼方にあるのではない。身近な一人に、どんな思いで接し、何をするのかにかかっている。そこに平和への道がある。  
 伸一は、翌八日にも、留学生を創価学園に招待し、第八回となる入学式に、共に出席した。
 入学式の後には、「中国同朋歓迎スポーツ大会」として、親善卓球大会が行われた。
 留学生は、ラケットさばきも巧みであった。
 団体戦では、教職員チーム、学園生チームを次々と破って優勝した。
 個人戦には、伸一も出場した。トーナメントを勝ち抜いて残った伸一と留学生の許金平の優勝決定戦となった。
 変化に富んだ許のサーブに、伸一は的確なレシーブで応戦。抜きつ抜かれつの激戦であった。
 そして、最後は、二十一対十八で伸一が優勝したのである。
 伸一は許に言った。
 「緊張して、今日は実力を出し切れなかったみたいだね」
 「いいえ。先生が強かったのです。これは実力の差です」
 そして、和やかな語らいが弾むのであった。
23  人間外交(23)
 創価学園では、卓球大会に続いて、学園生の代表や教職員、創大の教授らが参加して、留学生の創価学園訪問記念の歓迎夕食会が行われた。
 これは、若い学園生たちが中国の留学生と交流を図ることによって、末永い日中友好の道を開きたいとの思いから、伸一が提案し、実施されたものであった。
 そして、四月十日、創価大学の入学式が晴れやかに挙行され、新中国からの留学生を迎えたのである。
 ここに、日中教育交流の新しき歴史の扉が開かれたのだ。
 伸一も、この第五回となる入学式に出席し、あいさつのなかで、留学生一人ひとりの名前を呼んで、その出発を心から祝福したのである。
 今回の中国からの留学生は、わずか六人にすぎないかもしれない。しかし、伸一は、その彼方に広がる、日中友好の洋々たる未来を見ていた。
 留学生の受け入れを続けていけば、年月とともに何十人、何百人となっていく。しかも、それぞれが、やがては中国の中枢を担う人材なのだ。
 そのメンバーが日本を理解し、日本を好きになるならば、それは日中友好の大河となることは間違いない。
 眼前の物事の先に続く未来を見よ! 彼方を見よ! そこには、新しき世界が広がっている。
 エマソンは叫んだ。
 「偉大なものは未来に向かって呼びかけるのだ」
 創価大学の入学式を終えた山本伸一は関西に移り、四月十二日には大阪に開校予定の関西創価小学校の起工式に臨んだ。
 さらに、十三日には、創価女子中学・高校の二期生、三期生との記念撮影会に出席。生徒たちは、伸一の第三次訪中を心から祝福し、にぎやかに見送ってくれた。
 そして、十四日、初めて伊丹の大阪国際空港から、中国訪問に出発したのである。
 今回の訪中では、中日友好協会への訪問、武漢大学での図書贈呈式への出席、また、上海の復旦大学の訪問も予定されていた。
 北京だけでなく、武漢、上海の大学とも交流し、日中の青年たちが往来できる「金の橋」を大きく広げようというのが、伸一の願いであり、決意であった。
24  人間外交(24)
 北京は、うららかな春の陽光に包まれていた。
 飛行機が高度を下げるにつれて、空港周辺の、鮮やかな木々の新緑が目に入ってきた。
 山本伸一たちを乗せた飛行機が上海を経由し、北京の空港に着いたのは四月十四日の午後三時前(現地時間)であった。
 タラップの下で、中日友好協会の張香山副会長や孫平化秘書長、中国仏教協会や北京大学の関係者らが出迎えてくれた。
 既に皆、親しい友人になっていた。顔と顔を合わせた瞬間から、笑みの花が咲いた。
 宿舎の北京飯店に向かう道の柳並木には、新緑の葉が輝いていた。
 街のあちこちに、ピンク色の桃の花や白い梨の花が、一行を歓迎しているかのように、風に揺れていた。
 この日の夜、北京飯店で中日友好協会の主催による、一行の歓迎宴が開催された。
 あいさつに立った中日友好協会の張副会長は、前回の訪中から、わずか四カ月にして、このように一堂に会して友情を深め合う機会を得たことに対する喜びを述べ、歓迎の意を表した。
 さらに、伸一の中国への貢献を、次々とあげていった。
 三たび中国を訪れ、北京大学への五千冊の図書贈呈に続き、今回は武漢大学にも三千冊の図書を贈呈すること。文筆活動を通し、新中国の真実の姿を日本人民に紹介したこと。
 日本を訪問した多くの中国代表団を心から歓迎し、中日友好に尽力したこと……。
 思えば、すべては、初訪中した昨年五月末から一年以内に行われたことである。
 戦いとはスピードである。限られた時間のなかで、どこまで頑張れるかが、勝負なのだ。
 「時は得難くして失い易し」とは『史記』の言葉である。
 だから伸一は、″いつかやろう″というのではなく、常に″時は今だ″と決めて行動を起こしてきた。一瞬一瞬を真剣勝負で日中の友好に尽くしてきたのである。
 張副会長は、ひときわ大きな声で言った。
 「もはや、中日の友好は、いかなる力も阻むことのできない歴史の潮流となりました!さあ、両国人民の世々代々の友好を願い、乾杯をしましょう!」
 乾杯の声が響いた。
25  人間外交(25)
 乾杯に続いて、山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、まず、昨年、初めて中国を訪問してから、わずか一年もたたぬうちに、三度目の訪中を果たせた喜びを述べた。
 そして、訪中のつど、温かな歓迎を受けたことに、心から謝意を表し、平和友好の金の橋を、ますます強固にしていきたいとの信念を語った。
 また、教育交流の面では、さらに一歩前進し、今春から創価大学で中国の未来を担う留学生が学ぶようになったことを報告した。
 「私もお会いしましたが、将来の中国を担い立つ、すばらしい青年たちでした。未来への希望を感じました。
 直接、中国の留学生と日本の学生が一緒に暮らし、共に学ぶことによって、どれほど強く深い絆が結ばれていくかと思うと、大きな喜びを覚えております。
 私は、創価大学への貴国の信頼と友情に対して、誠心誠意、応え抜いていく決意であります」
 日中友好への誓いのこもった言葉に、大きな拍手がわき起こった。
 伸一は一礼すると、さらに話を続けた。
 「私たちは、未来のため、青年たちのために、ただひたすら、開拓の鍬を振るい続けなければなりません。未来のために流す労苦の汗が、黄金の実りをもたらします。
 日中友好の使命に生きる数多の青年を育むために、私は喜び勇んで、生涯、開拓の鍬を振るい続ける所存であります。
 また、今回は、武漢大学、上海の復旦大学にも訪問させていただくことになっております。
 この訪問で、北京大学に続いて、両大学とも、教育・文化交流の流れを開いていくことができれば幸いであると思っております。
 ともあれ私は、日中両国の繁栄と平和のために、後に続く青年の成長に、全精魂を注いでいく決心であります」
 帝王学の教科書として知られる中国の『貞観政要』には、次のように記されている。
 「安きを致すの本は、惟だ人を得るに在り」(平和な国家を作り出す根本は、ただ、立派な人材を得ることにある)
 伸一は、平和な世界をつくるために、教育を人生最後の事業と定め、その交流の大河を開くために、懸命に取り組みを開始していたのである。
26  人間外交(26)
 歓迎宴は歓談に移っていった。
 山本伸一は、同じテーブルに着いた中国仏教協会の副会長を務める趙樸初と、法華経をめぐって語り合った。
 第一次訪中の折、趙樸初とは北京の頤和園で、しばし法華経談議に花を咲かせた。その続きともいうべき対話となったのである。
 語らいのなかで、法華経方便品第二の冒頭「爾時世尊」を、中国語で、どう発音するかが話題となった。
 伸一は、日本での発音を紹介したあと、同行の通訳に、中国語で読んでもらった。
 「爾時世尊」
 すると、趙は、すぐに中国語で「従三昧……」と続けるのであった。
 法華経に深い意義を見いだし、経文をそらんじているようだ。
 二人の対話は「本門」と「迹門」についてや、「方便品」と「寿量品」の意義、また、「十界」などに及んでいった。
 伸一は言った。
 「法華経というのは、人間の生命を解明した法理といえます。
 軍部政府の弾圧によって捕らえられた私の恩師である戸田城聖先生は、法華経を読み切ろうと決意され、牢獄で唱題と思索を重ねました。そのなかで『仏とは生命である』と覚知されたんです。
 それによって、仏法というものが、時代を超えた普遍の生命哲学として、現代に蘇ったといえます。今日、私ども創価学会が大発展したのは、この恩師の悟達があったからです」
 興味深そうに瞳を輝かせて、伸一の話を聞いていた趙樸初が言った。
 「私は、その弟子である山本会長が、仏法をさらにわかりやすく現代的に展開されてきたことこそ、発展の大きな要因であると思っています。
 私自身、山本会長の話を聞いて、″仏法はこうとらえることもできるのか″と、目の覚めるような思いをしました。
 仏法は、単に訓詁注釈するだけでなく、新しい展開がなければ、人びとの人生を支える生きた教えとはなりません」
 「確かに展開は大事です。私は、貴国で体系化された法華経の精髄の教えを、世界に開いていく決意でおります」
 「ぜひ、そうしてください!」
 趙樸初は、そう言って伸一を見つめた。
27  人間外交(27)
 対話は、寄せ返す波である。波がいつしか岩の形を変えていくように、胸襟を開いた誠実の対話を重ねるなかで、不信も信頼へと変えていくことができる。
 山本伸一の中国訪問は、対話の旅であった。
 翌十五日の午前には、宿舎の北京飯店で、張香山副会長をはじめとする、数人の中日友好協会のメンバーと懇談した。
 永続的な平和友好をどう築くかという観点から、日中間の諸問題、また、中ソの関係、さらに、アジア、世界の諸問題について、活発に意見を交換した。
 伸一の主張――。
 それは「中国は、ソ連とも、また、アメリカとも、平和友好の道を歩むべきである」ということであった。
 中国側も率直に、内外の諸情勢に関する見解を述べ、困難はあるが平和の大道をめざす考えであることを語った。
 伸一は、さらに踏み込んで話を進めた。
 「そこで大事なことは″では、どうすれば、戦争を回避できるのか。目的と手段を混同しないで、いかにすれば平和という目的に近づけるか″ということです。
 つまり、抽象的な展望ではなく、具体的に中国が何をするかです」
 語らいが単に状況の分析や批評、あるいは抽象的な結論に終わってしまうならば、問題解決への本当の進展はない。
 大切なことは、今日から何をするか、今から何をするかである――伸一は、常にそれを心がけ、自らの信条としてきた。
 時は、瞬く間に流れていってしまうのだ。イタリアの詩人ペトラルカが「見るがいい いかに時間が早く飛び去ってゆくかを、いかに人生が早く逃げ去ってゆくかを」と叫んだように。
 伸一は自身の決意と、今後、行うべきテーマを明快に語った。
 「私は、一民間人として世界平和への底流をつくる意味から、さらに民衆間の交流を進めていきます。特にこれからは、長く侵略や抑圧に苦しんできた国々も回り、幾重にも平和と友好の橋を架けてまいります。
 私たち人類は、いつまでも対立と反目、そして戦争を繰り返していては、絶対にならないと思います。それを変えたいんです」
 あっという間に二時間半が過ぎていた。
28  人間外交(28)
 この十五日の午後、山本伸一の一行は、中日友好協会の李福徳理事の案内で故宮博物院を訪問した。前年五月に続いて、二度目の訪問である。
 午後三時過ぎ、故宮に到着すると、国家文物事業管理局の王冶秋局長、故宮博物院の呉仲超院長らが歓迎してくれた。
 伸一は、前年の秋、来日した王局長と会い、あいさつを交わしていた。
 喜びの再会となった。
 李理事が、伸一の同行メンバーに、「王局長は、歴史文物や芸術品等に関して、中国国務院で最も重い責任をもつ立場にあります。日本でいえば閣僚級の立場にある方です」と紹介した。
 その王局長が言った。
 「山本会長には、一般には公開していない文物も、ぜひ、ご覧いただきたいと思います」
 局長は、呉院長と共に、自ら案内役を買って出て、先に歩き始めた。
 ″本当に国を挙げての歓迎なんだ!″
 同行のメンバーは、そう実感した。
 貴重な文化遺品のなかには、一九六八年に発掘された、河北(ホーペイ)省・満城(マンチョン)県にある前漢時代の中山靖王劉勝とその妻の墓と推定される場所からの出土物もあった。
 中山靖王劉勝といえば、『三国志』の英雄・劉備が自らの祖先としていた人物である。
 伸一は、青春時代に恩師・戸田城聖から学んだ歴史のロマンに再会した思いがして、胸の高鳴りを覚えた。
 また、北宋時代の生活情景を描いた「清明上河」の図なども、わざわざ巻物をほどいて見せてくれた。その心遣いに、伸一は恐縮した。
 別れ際に、王局長は伸一に、呉院長は峯子に、出土品などを収録した本を贈った。
 伸一は言った。
 「ありがとうございます。よろしければ、記念に何か、ご揮毫していただけますでしょうか」
 すると王局長は、伸一への本に、こう認めた。
 「中日友好万歳」
 また、呉院長は峯子に贈った本に記した。
 「日中友好万歳」
 伸一は声をあげた。
 「まさに、これです。一方通行ではだめです。
 中国も、日本も、同じ思いで、双方から友好を推進してこそ、堅固な金の橋を架けることができます。ありがとうございます!」
29  人間外交(29)
 山本伸一たちは、故宮博物院から北京大学に向かった。着いたのは午後五時であった。
 キャンパスには、春の到来を告げるレンギョウや、ライラック(リラ)をはじめ、黄、白、ピンクなど、色とりどりの花が咲き薫っていた。
 前回、十二月に訪問した時には、木々の葉も落ち、冬枯れていた庭が、まるで花園のように精彩を取り戻していたのだ。
 大学の首脳の出迎えを受けた伸一は、五月一日の公開に向けて準備中の新図書館に案内された。
 「山本先生にお贈りいただいた図書が、どのように納められているか、ぜひご覧ください。先生が外国人として、初めてのお客様です」
 この図書館の敷地面積は二万四千平方メートル、書庫として使える面積は一万一千平方メートル。十階建てと八階建ての建物からなり、三百六十万冊の図書が収容可能であるという。
 図書館の書架の一角には、伸一が寄贈した図書の一部が、分類を表示するラベルが張られて納められていた。
 館長は、頬を紅潮させて言った。
 「これらの本には山本先生の真心が刻まれています。大切に大切に利用させていただきます」
 「ありがとうございます。嬉しい限りです。皆さんの誠実さに感動しております」
 同行のメンバーは、そのやりとりに、真心と真心の共鳴が生み出した、友情の交響詩を聴く思いがした。
 北京大学の訪問は、これで三度目である。どの人も旧知の友のように親しく、また、最大の敬意をもって伸一に接した。
 信頼は、献身の積み重ねのなかで培われていくものだ。
 友情の苗は、その場限りの出会いでは育たない。水や肥料をやり、丹精して苗が育つように、誠実を尽くしてこそ、友情は育つのだ。
 伸一たちは図書館の視察のあと、未名湖のほとりに立つ、木々や花々に囲まれた「臨湖軒」に移動し、大学の首脳と食事をしながら歓談した。
 また、過去二回の訪問で親しくなった、日本語を学んでいる学生や教員など、約百人と語らいの機会をもった。
 会うということは、友好の扉を開くことだ。
 対話することは、心の橋を架けることだ。
30  人間外交(30)
 山本伸一は、学生たちの顔を見ると、親しみを込めて語りかけた。
 「また、お会いできて嬉しい。懐かしい人ばかりです」
 そして、皆と握手を交わしていった。
 すると、学生の一人が日本語で言った。
 「先生は、近ごろいかがですか」
 「おお、すばらしい! また一段と、日本語が上手になっています。努力しましたね。
 おかげさまで私は元気です。特に今日は皆さんとお会いできたので、元気いっぱいです」
 笑いが広がった。
 周恩来総理は、若き日に、こう訴えている。
 「われわれ青年には、今日があるばかりでなく、はてしない未来がある」
 青年は次代を担う″人類の宝″である。青年との語らいは、未来と語り合うことだ。
 伸一は語った。
 「皆さんとの友情の絆を、私は、さらに太く強く、永続的なものにしていきたいのです。
 日中の若い世代が次々に交流していってこそ、本当の友好の金の橋となります。
 皆さんは、必ず日本に来てください。お待ちしています。
 中国に出発する前、私は、大阪にある創価女子学園を訪問しました。私が創立した学校です。
 そこの高校生、中学生たちも、ぜひ中国に行きたいと言っていました。
 そうした後に続く生徒たちが、また、皆さん方がいるからこそ、私には希望があるんです。勇気がわいてくるんです。
 皆さんのために、私はさらに道を開き続けます。全生命をかけます。
 さあ、希望の未来に、日中の新しい明日に、共々に出発しましょう!」
 皆の瞳が輝いた。
 この日の夜、伸一は、創価女子学園に電報を打った。
 「中国へ出発の時には、女子学園でお見送りをいただきありがとう今日は北京大学に行きました。明日はまた忙しいと思います。たくましく、そして美しく成長してください。ではまた、わが娘たちへ。 北京にて 山本」
 伸一は、創価女子学園生、また、創価学園生、創価大学生のことが、常に頭から離れなかった。
 世界平和のバトンを託す後継者であると信じていたからだ。
31  人間外交(31)
 「ようこそ! ようこそ、おいでくださいました。お会いできて本当に嬉しい」
 鄧小平副総理の弾んだ声が響いた。
 四月十六日、山本伸一は人民大会堂でトウ副総理と会談した。四カ月ぶりの再会である。
 会見会場の前でトウ副総理は、満面の笑みで、伸一を抱き締めた。
 鄧小平は、一月の第四期全国人民代表大会で、周恩来総理を補佐する十二人の副総理のうち、筆頭の副総理に就任。療養中の周総理に代わって各国首脳と会見するなど、重責を担っていた。
 この会談には、創価学会の訪中団のほか、日本の外務省のアジア局長も同席していた。
 会談の冒頭、伸一はユーモアを交えて言った。
 「今日は一日本人民として、徹底して話し合いたいと思ってまいりました。何時間でも、何十時間でも、帰れと言われるまでお話しさせていただきます。
 しかし、ご聡明なトウ先生の英知は、難問解決の道を探り出され、語らいは、一、二時間で終わるものと思います」
 伸一は、対立の亀裂が深まる中ソ関係を、改善の方向に向かわせてほしいとの思いでいっぱいであった。
 また、日中平和友好条約を実現させるために、覇権反対の条項を盛り込むことを強く主張している中国側の考えを、正しく認識しておかなければならないと考えていたのである。
 トウ副総理は言った。
 「わざわざおいでいただきましたが、毛主席はご高齢です。周総理は少し健康を損ねております。総理は、多少でも健康が優れていたら、喜んで山本先生にお会いされたと思います。しかし、今回は難しい状況です」
 「はい。よく存じております。昨年、周総理にお会いした折、総理は五十数年前に、桜の季節に日本を発たれたと言われたことが、私は忘れられません。
 それで今回、桜の絵をお持ちいたしました。後ほど、中日友好協会を通してお届けいたします」
 友誼を織り成していくものは、真心と信念の糸である。
 思いやりを紡げ!
 誠実に、また誠実に、心の温もりを込めて、一本一本の糸を紡げ!
 それこそが、最も強き人間の絆となる。
32  人間外交(32)
 高齢の毛沢東主席、闘病中の周恩来総理に代わって、鄧小平副総理は、事実上、大中国の一切を支えていたのだ。
 トウ副総理の双肩には、この先、さらに責任が重くのしかかってくるにちがいない。
 山本伸一にはトウ副総理の心労が、痛いほど感じられてならなかった。
 伸一は言った。
 「貴国は大きな国であり、創価学会は小さな団体です。
 立場は違いますが、指導者が大変な事態にある時に、人びとをまとめて、新たな発展を遂げなくてはならないご苦労は、よくわかります。
 中国がさまざまな困難を乗り越えて、未来に進むためにも、トウ先生の健康が大切です。どうか、くれぐれもお体を大事になさってください」
 誰もが同じ人間である。共に人間である。人間としての真心の励まし、いたわりこそ、立場も、世代も、イデオロギーも超えて、人間と人間が結び合う要であろう。
 相手が誰であれ、その言葉を自然に発することができるなかに、人間主義がある。
 伸一の思いが通じたのか、トウ副総理は静かに頷いた。それから、大きく目を開いて語った。
 「皆さんは、大変な事態や危機を克服して、これほどまでに大きく運動を進めてこられた。これは容易なことではなかったと思います」
 それから話題は、世界情勢に移り、第三次世界大戦の可能性に及んだ。
 トウ副総理は、多くの核兵器、通常兵器をもつソ連とアメリカは、世界にとって大きな脅威となっていることを指摘した。
 そして、こうした状況下にあっては、「私たちとしては、それに対応し得る十分な備えをせざるをえない」と述べた。
 特にソ連に対しては、中ソ間のイデオロギー論争や国境紛争などの経過を、時に語気を強めながら語り、「覇権主義である」と厳しく批判するのである。
 しかし、伸一には、それがトウ副総理の本当の考えとは思えなかった。
 中国はまだ「四人組」が実権を握っており、一月に開かれた第四期全国人民代表大会で、ソ連との対決姿勢を明らかにしたばかりである。
 トウ副総理としては、その路線に基づいた発言しかできなかったにちがいない。
33  人間外交(33)
 現実は常に厳しい。平和を望みつつも、歴史的な経緯のなかで、利害や憎悪の感情などが複雑に絡み合い、もつれた糸のように、一筋縄ではいかない状況をつくり出しているケースが多い。
 しかし、だからこそ、過去に縛られて、憎悪と反目の迷路を堂々巡りするのではなく、平和の未来図を描き、そこに向かって、新しき前進を開始するのだ。
 山本伸一は、鄧小平副総理に率直に尋ねた。
 「歴史的には、複雑な経緯があるでしょう。しかし、大切なのは今後であると思います。中国は、アメリカとも、ソ連とも、また、世界のどの国とも、友好を結ぼうというお考えはございますでしょうか」
 平和を望むのか、戦争を望むのか――まず、定めるべきは、その根本姿勢である。それが明確であれば、進むべき道は定まってくるのだ。
 トウ副総理は答えた。
 「私たちは、ソ連に対して国家関係の改善を望んできましたが、イデオロギーをめぐって対立し、現在も論争が続いています。しかし、イデオロギー論争にとどめ、国家関係を悪くさせないことはできます」
 中国は、平和のためにソ連との関係の改善を希望し、そのための努力を払うことの意思を示す発言といってよい。
 それならば、事態は複雑そうであっても、道は見えている。平和の方向に勇気をもって踏み出せばよいのだ。
 副総理は話を続けた。
 「また、アメリカとは一九七二年(昭和四十七年)に、ニクソン大統領、キッシンジャー大統領補佐官らが中国に来て、上海で共同声明を発表しました。これによって、中国とアメリカ両国の関係は大きく改善され、よい方向に進もうとしています」
 ここで伸一は、米ソが戦争となる危険性についてどう見るかを尋ねた。
 副総理は答えた。
 「その危険性はあります。米ソは、恒久平和、緊張緩和を訴えてはいますが、実際には緊張状態がつくりだされ、軍備を増強しているという現実があるからです」
 「なぜ、そうしているとお考えですか」
 「世界の覇権を握ろうとしているからです」
 覇権の争奪は、相互不信を招き、対立の溝をますます深めていく。
34  人間外交(34)
 戦争の脅威を増幅させるものは、指導者相互の拭いきれない不信感といえよう。
 その不信の根源は、仏法で説く「元品の無明」にある。元品とは根本、無明とは迷いである。
 本来、一切衆生は仏性を宿し、妙法蓮華経の当体であると、仏法では教えている。
 しかし、その道理がわからず、信じることができないという生命の迷いが、元品の無明である。
 相互不信、疑心暗鬼の根本要因もここにある。
 「人間に対する信頼を失うことは罪である」とは詩聖タゴールの警鐘である。
 山本伸一は、一切衆生に仏の生命が具わっていると説く仏法思想を、世界に弘めることの大切さを痛感してきた。
 また、常に相手の仏性に語りかけ、目覚めさせる思いで、米ソ首脳とも誠心誠意、平和への語らいに努めてきた。
 不信と反目の心を破り、信頼と友情の心を開いてほしいとの祈りにも似た思いで――。
 ここで伸一は、鄧小平副総理に、日中平和友好条約についての中国の見解を尋ねた。
 一九七二年(昭和四十七年)に発表された日中共同声明では、アジア・太平洋地域において覇権を確立しようとするいかなる国の試みにも反対することが謳われている。
 ところが、日中平和友好条約では、この反覇権条項を除こうとの意見が、日本側の一部から出ていたのだ。
 「覇権を確立しようとする国」とはソ連を指し、これを日中平和友好条約に盛り込めば、日ソ関係を壊すというのが理由であった。
 前年の九月、伸一がソ連を初訪問した折には、ソ連共産党中央委員会国際部の日本担当であるI・I・コワレンコがホテルに伸一を訪ねてきて、この文言は、ソ連を敵視するものだと語った。
 そして、日中平和友好条約には、この反覇権条項は除くべきだと、強硬に訴えたのである。
 伸一は悠然と答えた。
 「日本と中国が、どんな平和友好条約を結ぼうと、振り回される必要はないではありませんか。
 ソ連は日本と、もっと親密な、もっと強い絆の平和友好条約を結べばいいではないですか。
 大きな心で進むことです。本当の信頼を勝ち取ることです」
35  人間外交(35)
 日中平和友好条約は、難局を迎えていた。
 山本伸一は、その締結の道を開くために、反覇権条項を強力に主張する中国の考えを、改めて確認しておきたかった。
 相手の考えを正しく知り、理解してこそ、さらに深い話し合いが可能となるからだ。
 鄧小平副総理は、自信に満ちた口調で、中国側の見解を語り始めた。
 「平和友好条約に覇権反対を明示することは、中国人民、日本人民の願望に合致するものです。
 『反覇権』には二つの意味が含まれます。
 一つは、中国も、日本も、アジア・太平洋地域で覇権を求めないということです。
 中国は、これによって中国自身を制限したいと考えています。つまり、中国は、アジア・太平洋地域で覇権を求めないという義務を、自ら負うということになります。
 これはアジア・太平洋地域の各国のみならず、日本にとっても悪いことではないはずです。
 また、第二次世界大戦、さらに、この百年近い歴史のなかで、日本のイメージは傷ついてしまいました。
 覇権反対の条項を盛り込むことは、日本が過去の歴史を正しく総括していることを裏付けるものとなります。
 したがって日本が周辺国の信頼を回復し、関係を改善するためにも、有益かつ必要な条項です」
 副総理は、話すにつれて、言葉にますます熱がこもっていった。
 「反覇権の二番目の意味は、いかなる国家・集団であれ、この地域で覇権を求めることに反対するということです」
 そして、日本では、この条項を入れればソ連の感情をそこねるのではないかと議論されているが、既にこれは「日中共同声明」に謳われていることであると強調した。
 この会談には、日本の外務省のアジア局長も同席している。
 伸一は、自らの考えを述べることより、トウ副総理の見解を尋ねることに力点を置いた。
 中国の見解を正しく認識することが、日本が対応を検討するうえで極めて大事になると考えたからだ。
 伸一が民間人であるからか、副総理は、忌憚なく答えてくれた。
 相手の話をいかに引き出すかに、対話の重要なポイントがある。
36  人間外交(36)
 鄧小平副総理は、日中平和友好条約には覇権反対を明記しなくてはならないと、力を込めて訴えたあと、山本伸一に、三木武夫総理への伝言を託した。
 「お帰りになられましたら、三木総理にお伝えください。
 『三木総理に必要なのは、勇気と決断です。
 三木総理が、いろいろな方面から邪魔され、圧力を受けていることは理解しています。
 しかし、総理が決断されることを、われわれは望んでいます。
 共同声明から前進するのではなく、後退することがあれば、それは三木総理にとってもよくありません。これは、友人としての衷心からの意見です』と」
 伸一は、さらに、日本がソ連となんらかの条約を結ぶことについて、中国の見解を尋ねた。
 日本が、ソ連とも、中国とも友好を進めるうえで、大事な問題であると考えたからだ。
 「それは、日本政府自身の問題です」
 含みのある言葉だが、中国は日本とソ連が条約を結ぶことに対して、必ずしも反対の立場を取るとは限らないようだ。
 伸一は、こんな質問もしてみた。
 「参考のために、もう一つ伺います。たとえば、覇権反対は、日中平和友好条約の条文で謳うのではなく、前文で謳うというのでは認められないのでしょうか」
 伸一は、日中両国の未来のために、平和友好条約は断じて実現させなければならないと必死であった。
 そのために、日本政府が条約の案を考えるうえで、指標となる話を聞き出さなければならないと思った。
 責任ある語らいには具体性がある。あいまいな結論では、新しい前進はない。
 トウ副総理は、慎重に言葉を選びながら答えた。
 「条約のなかでどう扱うかは、研究の余地があるでしょう」
 伸一は、これで平和友好条約についての、中国の見解は、ほぼ明らかになったと思った。
 語らいのなかで、伸一は、中ソの友好と平和を切望しながら、こう水を向けてみた。
 「八億人民の中国に対するソ連の態度も、これからは、だんだんと、変わってくるのではないでしょうか」
37  人間外交(37)
 鄧小平副総理は、山本伸一の言葉に、鋭く反応した。
 「中ソの人民同士は、ずっと良好な関係を保ってきました。問題は指導者です。今後、どんな人物が現れるかです。
 ただ私たちは、ソ連が中国に侵攻してくるという心配はしていません」
 トウ副総理は、ソ連への厳しい批判を繰り返してはきたが、伸一が中国首脳に伝えた、ソ連は中国を攻めないというコスイギン首相の言葉を、深く心にとどめていたにちがいない。
 最後に副総理は、中日両国の関係の発展は、民間による友好の促進が極めて重要であるとして、伸一の貢献に深く感謝の意を表した。
 伸一は言った。
 「大中国の行方は、副総理の双肩にかかっております。中国人民のためにも、日中友好のためにも、お元気でご活躍ください!」
 彼は、トウ副総理と固い握手を交わし、人民大会堂を後にした。
 宿舎に戻った伸一は、峯子に言った。
 「周総理は、トウ副総理に、後事を託そうと考えられているようだね。
 昨年、周総理とお会いした時、総理は『トウ副総理と話し合われましたね』と確認され、『私の方から、多くを話さなくてもよろしいですね』と言われた。それだけ、鄧小平副総理を信頼されているのだと思う」
 周総理は、文革を推進した四人組が、自分の亡き後も権力を意のままに操るようになったら、中国の未来はないと考えていたのだ。
 そして、将来の布石のために、後継のリーダーとして鄧小平に着目していたのである。
 二人は一九二二年(大正十一年)に、留学先のフランスで交友が始まったともいわれる。
 周は二十四歳、トウは十八歳である。周の下宿で共に革命機関誌を作り、中国の未来を語り合ってきた。
 さらに、長征、抗日戦争、新中国の建設と、二人は同志として、幾多の困難を乗り越えてきた。
 「誠実な友として相携えて共に耐えぬいてきた苦労にまさる強いきずなはない」とは、哲学者ヒルティの実感である。
 労苦を共にすれば、互いの本質が見えてくる。辛酸が人の真価を試し、浮き彫りにするからだ。
38  人間外交(38)
 鄧小平は、文化大革命では「走資派」(資本主義に進む反革命分子)と批判され、失脚した。
 それは、過酷な、屈辱の日々であった。大衆の前で吊し上げられ、軟禁・監禁生活を強いられた。また、三年余にわたって下放された。
 累は家族にも及び、長男は迫害を受け、下半身不随となった。次男も農村に送られ、厳しい労働に従事させられた。
 誰もが、これで、鄧小平の政治生命は絶たれたと思った。
 しかし、周総理は鄧小平を陰で庇護し、じっと時を待って、彼を政府の中央に引き戻したのだ。
 その復活から一年後に、山本伸一はトウ副総理と会談し、さらに、周総理と会ったのである。
 周総理は、伸一と会談した十八日後の一九七四年(昭和四十九年)十二月二十三日、毛沢東主席のいる湖南(フーナン)省の長沙(チャンシャー)に向かった。
 鄧小平に、さらに大きな権限を与える了解を求めるためである。
 病身の周総理にとって、この長旅は命がけであった。総理の足はふらつき、手は震えていた。
 飛行機に搭乗するにも、服務員の補助が必要であった。機内で出されたアメの包みをむくことも困難であったという。
 だが、なんとしても毛主席に会って、未来のために、四人組を抑える流れをつくろうと必死であった。
 周総理は毛主席の了承を得た。そして、翌月の第四期全国人民代表大会で鄧小平は第一副総理、軍事委員会副主席などの要職に就いたのである。
 自由に動けない周総理に代わって、トウ副総理は、あらゆる責任を担って、懸命に働いた。
 総理が亡くなる四カ月前の一九七五年(昭和五十年)九月の手術の折のことであった。
 総理は言った。
 「鄧小平同志は来ているか」
 トウ副総理が急いで側によると、総理は彼にじっと視線を注ぎ、やっとの思いで差し出した手で、トウの手を握った。
 総理は、力を振り絞るようにして語った。
 「この一年、よくやったな。私よりも強くなった……」
 感動がトウを貫いた。
 「士は己を知る者の為に死し……」とは、『史記』に書かれた有名な一節である。
39  人間外交(39)
 翌一九七六年(昭和五十一年)一月、周恩来総理が死去した。四人組は鄧小平に攻勢をかけ、彼は、またしても失脚するのである。
 しかし、九月に毛主席が死去すると、翌月、四人組は逮捕された。
 七七年(同五十二年)七月、鄧小平は党や政府等の職務に復帰し、党副主席、副総理として再び活躍することになる。
 正義も負ければ悪とされる。悲しいかな、それが社会の現実である。それが歴史の常である。なればこそ、正義の道を行く者は、断じて負けてはならない。
 七八年(同五十三年)の八月、北京で日中両国外相が日中平和友好条約に調印した。
 そして十月、トウ副総理が黄華外相と共に訪日し、批准書の交換式が行われた。
 日本側は総理になっていた福田赳夫と外相の園田直らが出席。両国外相によって批准書が交換され、遂に同条約は発効したのである。
 平和友好条約は前文と五カ条の条文からなり、前文では「アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させる」ことが謳われていた。
 反覇権条項は、日中共同声明通りの内容で、第二条に盛り込まれた。
 「両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」
 また、第四条には「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」とある。ソ連に配慮しての条文である。  
 山本伸一は七五年(同五十年)四月、三度目の中国訪問を終えると、副総理であった福田赳夫と会談し、日中平和友好条約に対する中国側の考えなどを伝えていた。
 福田は「ありがたい。ありがたい」と、伸一が恐縮するほど深く感謝の意を表した。
 ともあれ、伸一が六九年(同四十四年)六月、連載中の小説『人間革命』のなかで、日中平和友好条約の締結を訴えてから十年目にして、条約は現実のものとなったのだ。
 歴史は動いたのだ!
40  人間外交(40)
 鄧小平副総理と会談した四月十六日の午後、山本伸一の一行は、北京市郊外にある「五・七幹部学校」を参観した。
 翌十七日には、中日友好協会の廖承志会長夫妻の来訪を受けた。
 廖会長は、病気で入院していたが、この日は、医師から外出許可をもらい、わざわざ宿舎に来てくれたのである。
 伸一は、廖会長から訪問したいとの連絡をもらった時、喜びに小躍りしたい気持ちであった。体調を崩していると聞いており、今回はお会いできないかもしれないと思っていたからだ。
 「お待ちしております」
 彼は、こう言ってしまったあと、悔やまれてならなかった。
 ″廖会長に無理をさせ、負担をおかけすることになるのではないか。お体のことを考え、丁重にご辞退申し上げるべきではなかったか。
 会見は短時間で切り上げなければ……″
 人への思いは、具体的な心遣いのなかにこそ現れるものだ。
 第二次訪中以来、四カ月ぶりに会う廖会長は、少しやつれていた。しかし、変わらぬ温和な笑顔で語った。
 「だいぶよくなりました。病のために、飛行場へは出迎えにも行けませんで……」
 病床に伏しながらも、″迎えに行かねば″と、気をもんでくださったのであろう。伸一は、その真心に目頭が熱くなった。
 「出迎えなど、とんでもないことでございます。決してお気遣いなさいませんように……。どうか、お体を大切になさってください」
 互いを思い合う、心と心が響き合った。
 伸一は、トインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』に、一文を認めて贈った。
 「敬愛する廖承志先生
 中国の未来のためにも そして日本のためにも ただひたすらご健康をお祈り申し上げます」
 伸一は言った。
 「この本は、最近発刊されたものですが、中国では最初に先生に記念としてお贈りします。
 先生は国家の大切な指導者です。いつまでも、いつまでも、お元気でいてください」
 廖会長は、嬉しそうに頷いた。
 伸一と峯子は、その夜、宿舎で、廖会長の健康を祈願し、遅くまで唱題を続けた。
41  人間外交(41)
 「五年間に及ぶカンボジア内戦が終わった!」
 山本伸一が、中日友好協会の廖承志会長と会った四月十七日、このニュースが世界を駆け巡った。
 翌十八日、伸一は北京市内にあるカンボジア王国民族連合政府の元首府を訪ね、元首のノロドム・シアヌーク殿下と会見したのである。
 まさにカンボジアの大きな節目に行われた、歴史的な会見となった。
 元首府は、新中国誕生前は、フランス大使館として使われていた建物であった。
 カンボジアは、九世紀以降のアンコール王朝時代、「アンコール・ワット」に象徴される荘厳な建造物を数多く建築し、強大な力を誇っていた。
 しかし、インドシナに進出したフランスによって、一八八七年には、フランス領インドシナ連邦に組み入れられた。
 カンボジアが完全独立を果たしたのは、一九五三年(昭和二十八年)のことである。その交渉に当たり、手腕を発揮してきたのが、国王のシアヌークであった。
 彼は一九二二年(大正十一年)に生まれ、十八歳で国王に即位した。
 独立後に、退位して首相となり、その後、「国家元首」に就任し、中立外交を推進してきた。
 しかし、アメリカとの間で亀裂が生じ、国交を断絶。自力更生を基本にして進んできたが、天候不順による凶作なども重なり、カンボジア経済は危機に瀕していった。
 そして、七〇年(昭和四十五年)三月、シアヌーク殿下の外遊中に、親米右派勢力であるロン・ノル将軍によるクーデターが勃発したのだ。
 殿下は、国家元首の座を奪われ、死刑を宣告された。やむなく、中国に亡命し、北京でカンプチア民族統一戦線を結成し、さらに、王国民族連合政府を樹立。以来、五年間の亡命生活を余儀なくされてきたのである。
 カンボジア国内ではロン・ノル政権と、シアヌーク殿下を支持する反米勢力の間で激しい内戦が続いた。その間、殿下への中傷も繰り返された。
 「真に重要な人物であって、しかも多くの苦難をなめずして人生を経てきた者はかつてなかったであろう」とは、スイスの哲学者ヒルティの鋭い洞察である。
 殿下は、過酷な運命に敢然と挑んだ。
42  人間外交(42)
 一九七〇年(昭和四十五年)三月に起こったカンボジアのクーデターに、山本伸一は、激しく胸を痛めてきた。
 彼は六一年(同三十六年)の二月十一日、つまり戸田城聖が存命ならば六十一歳の誕生日を迎える日に、カンボジアのアンコール・ワットを訪ねている。
 生い茂る緑のなかに立つ、壮大な遺跡は、往時の繁栄と平和を象徴しているかのようであった。
 また、現地の人たちの穏やかな笑顔が、心を和ませた。
 雲の井に 月こそ見んと  願いてし  アジアの民に  日をぞ送らん
 伸一は、戸田のこの和歌を思い起こしながら、胸のポケットから師の写真を取り出し、アジアの平和のために生き抜くことを誓ったのだ。
 カンボジアには、六六年(同四十一年)一月に支部が結成され、フランス人の夫をもつ、キクヨ・ラロッシュという女性が支部長になった。
 メンバーの多くは、日本人女性であった。彼女を中心に、座談会も活発に行われた。
 功徳の体験等が語り合われ、感動があり、笑いがあり、決意があった。
 日本から来たメンバーも、豊かな自然に恵まれ、人柄のよい気質の人が多い、カンボジアが大好きであった。
 だが、クーデターが起こり、キクヨ・ラロッシュら外国人のメンバーは、後ろ髪を引かれる思いで、カンボジアを去っていった。
 カンボジア人と結婚した日本人女性をはじめ、何人かのメンバーが残ったが、内戦状態となったカンボジアでは、座談会を行うこともできなかった。個人的に連携を取り、励まし合うことが精いっぱいであった。
 戦火のインドシナにあって平和が維持され、オアシスにもたとえられてきたカンボジアが、流血に染まり、メンバーの消息さえわからぬことが、伸一は心配で心配で仕方なかった。
 彼は、ひたすら、カンボジアの平和を願って、題目を送り続けてきたのである。
 同胞同士が争い、殺し合うことほど、悲しいものはない。シアヌーク殿下の苦しみは、いかばかりであったことか。
43  人間外交(43)
 一九七〇年(昭和四十五年)のカンボジアのクーデターから五年、ロン・ノル政権はアメリカの支持を失い、七五年(同五十年)四月十七日、遂に首都プノンペンは、民族統一戦線によって陥落した。
 山本伸一の一行が日本を発つ前から、プノンペンの陥落が目前に迫り、内戦の終結が近いことが報じられていた。
 それだけに伸一は、できることならば、シアヌーク殿下と会い、共にアジアの平和を願う一人として、カンボジアの新しい出発のために意見を交換したかったのである。
 ″世界のために、苦悩する人びとのために、私に何ができるのか。何をすべきなのか″
 伸一は、常に自身にそう問いかけてきたのだ。
 シアヌーク殿下との会見が決まったのは、内戦が終わった十七日の午後である。
 人を介して連絡を取ると、殿下も、「ぜひ、お会いしたい」とのことであった。
 中日友好協会の関係者が、伸一に言った。
 「これからシアヌーク殿下と会見されますと、日程を変更せざるをえません。そうなると、ご不便をおかけすることがでてきます。次の訪問地である武漢への移動も、飛行機ではなく、列車で二十時間近くかけて行くようになりますが……」
 「もちろん、かまいません。どうしても殿下とは、お会いしたいのです」
 伸一が会見会場である元首府の接待室に行くと、部屋の入り口に、気品をたたえ、柔和な微笑を浮かべた背広姿の殿下が立っていた。
 仏教徒である殿下は合掌して伸一を迎えた。
 伸一も合掌して、礼にこたえると、「ボンジュール(こんにちは)。お待ちしていました」という、殿下の洗練されたフランス語が響いた。
 会見が始まった。
 「内戦が終結した大切な時に、敬愛する閣下とお会いできて光栄です。
 お国へ帰られたら、人民に、真っ先になんと言われますか」
 伸一が尋ねると、その言葉が中国語に訳され、それからフランス語に訳された。そして、殿下の話は中国語に訳されたあと、日本語に訳された。
 プノンペン解放の喜びのなかで行われたはずの会見だが、なぜか、殿下の表情は暗かった。
44  人間外交(44)
 シアヌーク殿下は、山本伸一の質問に答えて、こう語った。
 「私は、すぐにはプノンペンに帰れません。母親が重病なのです……」
 殿下の母親は、波乱の人生を気丈に生きてきたことで知られる、コサマク皇太后である。
 その母堂が、北京で病床に伏していたのだ。七十歳を超えていた。
 殿下は言葉をついだ。
 「おそらく母は、数週間以内に亡くなるでしょう。私は母親をアンコール・ワットに埋葬したいと思っております。
 ですから、私がまず帰るのはプノンペンではなく、アンコール・ワットになるでしょう」
 殿下は壁を指差した。そこにはアンコール・ワットの大きな絵が飾られていた。
 それを懐かしそうに見入る殿下の眼差しから、母親と故国への限りない愛が感じられた。
 母を大切にする心にこそ、ヒューマニズムの原点がある。
 ――親をも愛さぬような者が、「どうして他人を愛せようか」とは、戸田城聖第二代会長の厳しき戒めである。
 伸一は、シアヌーク殿下の言葉に、誠実な人間性の輝きを見た思いがしてならなかった。
 それから殿下は、帰国後、どうするかについて語っていった。
 「今後は日本の天皇制のように、政務は首相に任せたい。私は国際的な活動をしたいと思っています」
 伸一は、外交手腕に富んだシアヌーク殿下が、国際的な活動をすることに心から賛同した。
 中立・非同盟路線を掲げた「シアヌーク外交」は、戦火が打ち続くインドシナにあって、″綱渡り″のように、危険な局面を切り抜けてきた。
 東西冷戦の狭間で、カンボジアが平和を維持できたのは、その外交手腕の賜物であった。
 殿下はまさに、平和の柱となってきたのである。
 事実、クーデターによって、殿下が追放されるや、ロン・ノル政権を支える、アメリカ軍、南ベトナム軍が越境し、カンボジアは戦場となったのである。
 しかし、柱のありがたさに気づく人は少ない。いつの間にか、それが当たり前のように思ってしまうからだ。
 だが、その柱を守り、大切にしなければ、建物は崩れてしまうのだ。
45  人間外交(45)
 山本伸一は、シアヌーク殿下に質問を続けた。
 「この五年間で一番辛かったことはなんでしょうか。屈服しなかった信念のバックボーンはなんであったのでしょうか」
 今度は、毅然とした言葉が返ってきた。
 「私は、今日に至るまで、長い間、闘争を続けてきました。
 以前は、フランスの植民地主義と戦いました。クーデターとも戦いました。大国の干渉とも戦ってきました。私は、闘争には慣れています。
 したがって、この五年間も、大きな苦痛を突き付けられてはきましたが、問題ではありません。そんなことは、なんでもないことです!」
 シアヌークという名は獅子の意味をもつという。その獅子の心意気がほとばしっていた。
 「常に奮いて身を顧みず、以て国家の急に殉ぜんとす」とは、中国古代の歴史家・司馬遷が指導者の資質を評した言葉である。
 わが身のことを思わず、常に奮い立って国家の危機に身をなげうって働いてこそ、真の指導者なのだ。
 さらに殿下は、こう決意を披瀝した。
 「私は、外国の侵略とは、どこまでも戦っていきます」
 そして、世界の平和を脅かし、小国の権利を踏みにじる大国の行動について、厳しく非難したのである。
 伸一が、今後のカンボジア社会の建設について尋ねると、確信のこもった声で答えた。
 「強大な敵に打ち勝つことのできた、その力が建設に向けられていく時、農業・工業を進歩・発展させ、経済的にも繁栄できるにちがいありません。
 カンボジアは、政治的には非同盟政策をとることで、独立を守り通していきます」
 また、殿下は、一貫してカンボジア王国民族連合政府を支援してきた中国に対しては、深い感謝の念をもっていた。
 殿下と周恩来総理の友情が話題になった。伸一も周総理と会見しているだけに、話は弾んだ。
 殿下は言った。
 「ここに、私が今回、周総理あてに認めた感謝の手紙があります。その写しを、そのまま会長にお渡しします」
 伸一は殿下が自分に、厚い信頼を寄せてくれていることを感じた。
46  人間外交(46)
 会見の時間は一時間近くになろうとしていた。
 シアヌーク殿下にとってこの日は、内戦が終わり、特別に忙しい日であるはずである。
 山本伸一は、最後に、こう尋ねた。
 「日本人に対する要望なり、批判があれば、お聞かせください」
 殿下は率直に答えた。
 「日本政府は、クーデターで政権を奪ったロン・ノル政権を支持し続けてきました。
 したがって、ここ数年間は、日本政府とは外交関係をもつことはできないでしょう。しかし、私たちは、日本人民とは友好関係を望んでいます」
 伸一は言った。
 「わかりました。日本人民に伝えます。外交といっても、根本は民衆と民衆が結ばれることです。それが、私の信念です」
 殿下の視線は、常に人民に注がれていた。
 第二次大戦後、日本に対する戦時損害賠償の請求権を放棄したのもシアヌーク殿下であった。
 日本国民が敗戦で苦しい生活をしている時に、賠償を請求するのはしのびないとの思いからであった。
 文豪ユゴーは叫んだ。
 「民衆が苦しんではいけません! 民衆が飢えてはいけません! そこにこそ深刻な問題があり、そこにこそ危険があるのです」
 政治も、国家も、指導者も民衆のためにある。民衆を忘れれば、すべては抑圧の装置となる。
 ″初対面だが、率直に意見の交換ができた。心の通う対談になった″と伸一は思った。
 彼は丁重に礼を言い、いとまを告げた。
 殿下は自ら部屋のドアを開けて、見送ってくれた。その心遣いに、伸一はいたく恐縮した。
 彼は、宿舎に戻ると直ちにペンを執り、シアヌーク殿下への書簡を認めた。
 「殿下の、母上を憂い、カンボジアの繁栄を願い、これまでの苦難の道を転じて、栄えゆく平和を祈念するご心境のほどは、同じ仏教者である私には痛いほど胸に響きました」
 そして、内戦を終えて新しい未来へ出発する歴史的な日に会見できたことは、「生涯、心のスクリーンから消えぬことでしょう」と記した。
 そして伸一は、峯子と共に、カンボジアの繁栄と平和を祈り、唱題するのであった。
47  人間外交(47)
 シアヌーク殿下の母堂であるコサマク皇太后が死去したのは、山本伸一との会見から九日後の四月二十七日であった。
 また、同三十日には、ベトナム共和国(南ベトナム)の首都サイゴンが陥落。ベトナム戦争が終結する。時代は激しく動いていたのだ。
 カンボジアの内戦は終わった。しかし、平和は訪れなかった。むしろ、それは、新しい「恐怖と残酷の時代」の幕開けであったのだ。
 プノンペン陥落後、カンボジアを支配したのは、民族統一戦線の実権を握っていた極左の「クメール・ルージュ」(赤いクメール)、すなわちポル・ポト派であった。そして、
 独裁者ポル・ポトによる恐怖政治が始まったのである。
 シアヌーク殿下はプノンペン解放から五カ月後にカンボジアに戻るが、荒廃した王宮で幽閉生活を強いられることになるのである。
 ポル・ポトは民主カンプチア政府を樹立して首相となり、農本主義的な共産主義を強行した。都市住民は農村に移住させられた。待っていたのは強制労働であった。
 ロン・ノル政権の関係者、知識人などは、次々と処刑されていった。いや、命令に従順でなければ、誰であろうと、その場で射殺された。
 大量虐殺も行われた。まさに一国全土が「強制収容所」となったのである。強制労働のなかで、飢えと疫病で死んでいく人が後を絶たなかった。
 プノンペン陥落の直前、カンボジアを脱出できたメンバーもいた。高根八重という婦人と、その子どもたちである。
 彼女は一九五五年(昭和三十年)に母親の勧めで日本で入会した。その後、駐日カンボジア大使館の外交官であったパン・ソーレと結ばれ、六四年(同三十九年)にカンボジアに渡った。
 夫の父親は、シアヌーク政権下で政府の要職にあり、彼女たち一家が住むようになったのも、七千平方メートル近い敷地の家であった。
 しかし、七〇年(同四十五年)、ロン・ノルによってクーデターが起きると、夫は連行され、家も財産も、没収された。
 彼女は、自分に言い聞かせた。
 ″私は信心をしているのだ。こんなことで負けるわけにはいかない!″
48  人間外交(48)
 高根八重は必死に唱題し、夫のパン・ソーレが無事に帰って来るのを待った。幸いにも、夫は三カ月ほどで帰された。
 カンボジアには、親米反共のロン・ノル政権を支援するために、アメリカ軍と南ベトナム軍が進攻してきた。
 そして、「クメール・ルージュ」らの民族統一戦線と、内戦が繰り広げられていった。
 昼夜の別なく、爆弾が落とされ、ロケット弾が打ち込まれた。
 ある日、高根の長男が自転車に乗っている時、わずか一メートルほど先でロケット弾が炸裂した。自転車もろとも吹き飛ばされたが、怪我一つせず、自転車を引いて帰ってきた。
 高根八重は″守られた!″と思った。感謝の深い祈りを捧げた。
 戦闘は次第に激しくなり、ポル・ポトの「クメール・ルージュ」が優勢になっていった。
 各国の商社などの企業は、次々とカンボジアから引き揚げ始めた。
 日本大使館は、日本人の出国のために、ロン・ノルのクメール共和国政府に査証(ビザ)を申請し、パスポートを発給してくれた。
 これで、高根と四人の子どもたちは、カンボジアから出ることができるようになったが、カンボジア人である夫の出国は許されなかった。
 彼女と子どもたちは、出国のために、直ちに航空券を手に入れる必要があった。
 しかし、内戦状態のカンボジアの紙幣は、紙くず同然であり、米ドルを用意しなければ購入できなかった。
 夫は、約二十年分の給料に相当する金額を払って、航空券を購入してくれた。
 だが、なんと、その時には、既に国外への便はなかった。彼女は祈った。ひたすら祈った。
 すると、知人が「故障して修理に出していた飛行機が戻ってくる。もうこれしか飛行機は飛ばないだろうから、明朝、それに乗るといい」と、密かに知らせてくれた。
 高根は、この嵐のような運命も、″断じて信心で切り抜け、勝ってみせる″と決意していた。
 フランスの哲学者アランは記している。
 「人間に苦境を脱出する力があるとしたら、人間自身の意志の中だけだ」
 信仰とは意志力だ。
49  人間外交(49)
 高根八重は夫のパン・ソーレと、必ず生きて再び会おうと誓い合った。
 日本人でもカンボジアから出国できない人もいた。査証(ビザ)、パスポートは手に入れても、航空券を購入できなかったのだ。
 高根は見送ってくれた日本人の女性たちに、「絶対にあきらめないで頑張って! 一日も早く、生きて日本に帰って来てね」と言って別れた。
 プノンペンの空港で、乗ることができた飛行機は、古い双発機であった。離陸はしたものの、高空まで上昇することができず、低空飛行を続けた。高射砲弾が飛ぶなかでの飛行である。
 彼女は子どもを抱き締めながら、必死になって題目を唱えた。生きた心地がしなかった。
 彼女たちが、タイを経て、日本に着いたのは、一九七五年(昭和五十年)の四月十一日のことであった。
 既に両親を亡くしていた高根は、女手一つで、四人の子どもたちを育てなければならなかった。
 日本でも苦悩の歳月が待っていたのだ。
 子どもたちは日本語が全く話せない。学校でいじめにもあった。
 彼女は同志に励まされ、懸命に信心に取り組み、必死に生きた。
 信仰とは勇気の源泉であり、生きる力である。
 高根は、夫との再会を信じて生き抜いた。
 カンボジアでは、ポル・ポト政権のヘン・サムリンがポル・ポトに反旗を翻し、ベトナムの支援を受けて、カンプチア救国民族統一戦線を結成。ベトナム軍と共にカンボジアに進攻し、七九年(同五十四年)一月、ポル・ポト派を追いやり、プノンペンを解放した。
 だが、夫については、何もわからなかった。
 高根は、ポル・ポト派による強制労働や大量虐殺などが明らかにされるたびに、夫やカンボジアに残ったメンバーを思い、胸を痛めた。
 そして、自分と子どもだけがカンボジアから脱出できたことに、申し訳なさを覚えた。
 この年の十二月、メンバーである日本人女性が、二人の子どもと共に日本に生還した。
 山本伸一は、その女性と高根を神奈川文化会館に招き、全力で激励した。
 「本当によかった。あなたたちには、平和のために生き抜く使命があるんですよ」
50  人間外交(50)
 カンボジアに残った高根八重の夫のパン・ソーレは、プノンペンから農村に移され、そこで強制労働させられた。
 農村では都市に住んでいた人びとは「新人民」と呼ばれ、「旧人民」とは差別された。
 彼ら「新人民」の食事は一日二回、一杯の湯のような粥だけであった。
 パン・ソーレは、灌漑用の水路づくりをさせられた。
 その監視にあたったのは、銃とムチを手にした、農村の十代の少年少女であった。
 この若い″監視人″たちは、体力もなくし、よろよろとモッコを担ぐ「新人民」を銃の先で突き、「怠け者!」と口汚く罵るのである。
 気にくわない者は、上層部に訴えた。すると、まるで鳥でも撃つかのように銃殺された。
 誤った教育ほど、恐ろしいものはない。生命の尊さを説き、真実の平和創造と人道を教える人間教育、平和教育がなされぬ限り、人類の悲劇は再生産されよう。
 夫の従兄一家は、十人全員が、疲労と病で死んでいった。
 夫のパン・ソーレは、タバコ栽培をやらされていた時、彼の弟と一緒に脱走を企てた。
 昼は密林の樹上に隠れて、夜の来るのを待って行動した。
 周囲には、ポル・ポト派の埋めた地雷原が広がっていた。
 暗闇のなか、人の足跡を探して、一歩、一歩、踏み進むしかなかった。
 また、いたる所に、死体を投げ込んだ大きな穴があった。落ちれば、はい上がるのは難しい。
 食べる物もなく、飛んでいる虫であろうが、口に入る物は、なんでも食べた。ボウフラがわいている汚れた水も飲んだ。
 生死の淵をさまようような日々であった。
 そして、遂にタイ国境に逃げ、難民キャンプにたどり着いたのである。
 パン・ソーレが日本の大地を踏んだのは、一九八〇年(昭和五十五年)のことであった。
 「願いは叶った! 祈りは通じたのだ!」
 高根八重は、仏法の力を生命の底から痛感した。御本尊への、そして仏法を教えてくれた学会への感謝の思いで、胸はいっぱいになった。
 彼女は、生涯、報恩感謝の心で信心を貫き、カンボジアの平和のために尽くしていこうと思った。
51  人間外交(51)
 ポル・ポトの支配が始まった一九七五年(昭和五十年)の四月から、プノンペン解放までの四年近くの間に、飢餓や処刑による死者は、百五十万人とも、二百万人を超えたともいわれる。
 ポル・ポト派を追いやったカンプチア救国民族統一戦線は、ヘン・サムリンを元首とするカンプチア人民共和国を樹立。ソ連もこれを支援した。
 ASEAN(東南アジア諸国連合)は、次第に力をもち始めたベトナムに警戒感をいだき、その支援を得ているヘン・サムリン政権を認めようとはしなかった。
 そして、ASEANと中国の支援で、シアヌーク派、クメール・ルージュ、ソン・サン(人民民族解放戦線議長)派の三派が連合。民主カンボジア連合政府が誕生する。
 カンボジアの内戦は、まだ続くのである。
 多数の難民も出た。平和への道は遠かった。
 「大衆のためにこそ永遠の祈りと永遠の夢がある」とガンジーは語った。その民衆が最大の犠牲者となったのがカンボジアの歴史であった。
 シアヌーク殿下は、七九年(同五十四年)一月のプノンペン解放のあとも、九一年(平成三年)十一月までの十三年にわたって、再び亡命生活を余儀なくされたのである。
 新しいカンボジア王国が誕生し、彼が国王に復位したのは、九三年(同五年)のことであった。
 山本伸一は、殿下との会見以来、カンボジアの和平と民衆の幸福を切に祈り、平和実現の道を考え続けてきた。
 御聖訓には「すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と。
 世界の平和なくして、本当の意味での社会の繁栄も個人の幸せもない。ゆえに、世界平和の実現こそ、われら仏法者の使命である。
 伸一は、折に触れて青年たちに、戦乱に苦しむカンボジアの人びとへの支援を訴えてきた。
 さらに、八八年(昭和六十三年)、第十三回「SGIの日」(1・26)の記念提言では、カンボジア問題に触れ、戦乱にピリオドを打つために、首脳同士の対話を力説した。
 以後、記念提言では、二度、三度とカンボジア問題に言及し、国連による支援の重要性などを呼びかけてきた。
52  人間外交(52)
 創価学会青年部では、山本伸一の呼びかけに応えて、一九七九年(昭和五十四年)、インドシナ難民救援募金を実施。六千四百万円の義援金を寄付したのをはじめ、カンボジア難民の救援計画にも尽力してきた。
 また、復興支援として自動車修理工場に資金援助も行ってきた。
 さらにUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の選挙公報、民主教育活動を支援するため、ラジオ寄贈運動「ボイス・エイド」を展開。九三年(平成五年)二月には、青年部代表がプノンペンを訪れ、二十八万台を超えるラジオを贈った。
 この三カ月後に、全国で、内戦後初めての総選挙が行われ、投票率は約九〇パーセントとなった。贈ったラジオが、選挙実施の大きな力となったのである。
 一方、青年部は教育支援にも力を注ぎ、書き損じた葉書等の回収運動「ポスト・エイド」などを通し、識字率向上のための募金を実施してきた。
 九州青年部では、プノンペン郊外とタケオ州に小学校開校を推進。それぞれ、地元の行政・教育関係者の要望で「創価学会小学校」「創価牧口小学校」と名づけられた。
 こうした支援に対してカンボジア政府は、九九年(同十一年)十月、創価学会に「建国貢献・金メダル」を贈っている。
 カンボジアでは、内戦のなかで、創価学会の組織はなくなってしまったが、九〇年代の初めごろから新しいメンバーが誕生し始めたのである。
 復興支援のボランティアなどとして訪れたSGIメンバーによって、新たな日蓮仏法の種子が植えられたのだ。
 幸福と平和を創造する真実の仏法を、カンボジアの人びとは希求していたのだ。
 そして、二〇〇〇年(同十二年)四月には、「SGIカンボジア」が宗教省から仏教団体として正式に法人認可を受けたのである。
 さらに、二〇〇二年(同十四年)四月には、プノンペンにカンボジア文化会館が落成したのだ。
 また、この年の三月には、山本伸一がカンボジア王立プノンペン大学の第一号となる、名誉教授の称号を受章している。
 悲劇の暗雲に覆われてきたカンボジアに、いよいよ日蓮仏法の人間主義の太陽が昇ったのだ。
 新しき朝は来たのだ。
53  人間外交(53)
 一九七五年(昭和五十年)四月十八日、北京でシアヌーク殿下との会見を終えた山本伸一は、この夜、武漢(ウーハン)に移動した。
 殿下との会見のあと、記者会見や中日友好協会のメンバーとの懇談を行い、午後七時十分発の列車で、慌ただしく武漢へ出発したのである。
 北京からは、河北(ホーペイ)省、河南(ホーナン)省を縦断し、黄河(ホワンホー)を越える約十七時間の旅となる。
 武漢は、湖北(フーペイ)省の省都である。日本では「揚子江」の名で知られる長江(チャンチヤン)と、漢水(ハンショイ)という二本の川の合流点の周囲に広がる大都市であり、交通の要衝として知られている。
 また、清朝を倒し、アジア初の共和国を築くことになる、あの辛亥革命の蜂起の地でもある。
 一九二七年(昭和二年)には、中国国民党左派と中国共産党が協力し、国共合作の臨時政府として、武漢国民政府も置かれている。
 日中戦争では、日本軍は武漢を攻略。その折、ここで毒ガスを使用するなど、非道な蹂躙が行われたのだ。
 伸一の長兄も、その後、徴兵され、武漢に行かされたことがあった。
 長兄が、戦時中、一時除隊になり、中国から帰ってきた時に、語った言葉が、伸一は忘れられなかった。
 「日本兵は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている!
 平和に暮らしていた人たちの生活を脅かす権利なんて、誰にもありはしないはずだ。こんなことは絶対にやめるべきだ」
 兄は、何を見たのかを語ろうとはしなかった。しかし、温厚な長兄が、怒りと悲しみに顔を赤くしながら語る姿に、伸一は胸を突かれた。
 「戦争は愛想事じゃなく、この世で最大の醜悪事なんだ」とトルストイは記した。兄の目は、それを雄弁に語っていた。
 やがて長兄は、ビルマ(現在のミャンマー)で戦死する。この時の言葉が遺言ともなった。
 伸一は″いつの日か、武漢に足を運び、犠牲者の方々へ追善の祈りを捧げよう。そして、二度と悲惨な戦争を起こさないためにも、確固たる友好の絆を結ぼう″と、心に誓っていたのである。
54  人間外交(54)
 翌朝、目覚めると、車窓には、朝日を浴びて緑の大地がどこまでも続き、花畑が点々と広がっていた。
 山本伸一の一行は、十九日正午過ぎ、武漢の漢口(ハンコウ)駅に到着した。
 駅では、湖北省や武漢市の関係者、武漢大学の首脳や教授、学生の代表など多くの人が歓迎してくれた。
 伸一は、長旅の疲れも見せず、出迎えに感謝しながら、笑顔で一人ひとりと握手を交わした。
 宿舎の勝利飯店に移動すると、すぐに歓迎宴となった。
 窓の向こうには雄大な長江の流れが見えた。
 詩仙・李白の詩「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が伸一の頭をよぎった。
 武漢から旅立つ友に対する送別の詩である。黄鶴楼は、長江のほとりに立つ高楼で、三国時代の二三三年に建てられたといわれる。
 故人 西のかた黄鶴楼 を辞し
 煙花三月 揚州に下る
 孤帆の遠影 碧空に尽 き
 唯だ見る 長江の天際 に流るるを
 伸一は、よくこの詩を読みながら、雄大にして永劫なる長江の流れに思いをめぐらせてきた。
 彼は決意した。
 ″李白が詠んだごとく、空の果てまで滔々と流れるかのような友情の大河を、この武漢でも築いていこう。
 それには、着実に交流を積み重ねていく以外にない。
 間断なき水の流れがなければ、川は枯渇してしまう。友好の大河もまた、間断なき人間交流によってつくられるのだ″
 歓迎宴が終わると、伸一の一行は、車で武漢大学に向かった。伸一が寄贈した図書の贈呈式に出席するためである。
 満々と水をたたえた長江にかかる、長さ千六百七十メートルという武漢長江大橋を渡り、やがて武漢大学に到着した。
 大学は東湖のほとりにあり、緑の山にいだかれるように、青い屋根瓦の校舎がそびえていた。
 武漢大学は一八九三年(明治二十六年)創立の自強学堂が起源の、中国を代表する伝統ある総合大学である。
 伸一の一行が車を降りると、大拍手と歓声がわき起こった。
55  人間外交(55)
 「ルーリエ・ファンイン(熱烈歓迎)!」
 大勢の教員、学生が、歓声をあげて拍手をし、銅鑼と太鼓を打ち鳴らして、山本伸一の一行を迎えてくれた。
 「謝謝(ありがとう)、謝謝! 真心の大歓迎に感謝します」
 伸一は、こう言って、出迎えてくれた人びとに視線を注いだ。
 そのなかに、あの呉月娥の姿があった。
 彼女は、武漢大学の日本語の教師であり、今回の図書贈呈も、呉月娥との日本での語らいのなかで考えたものであった。
 伸一が呉月娥と最初に会ったのは、前年の八月であった。
 日中友好協会の学生訪中団として武漢大学を訪れた、創価大学一期生の倉田城信が呉月娥と知り合いになり、来日した彼女を、倉田が創価大学に案内したのだ。
 その日、創価大学にいた伸一は、呉月娥を心から歓迎し、創大学生部の大会で彼女を学生たちに紹介した。
 これが機縁となって呉月娥は、この年十月に行われた創価大学の第一回「中国語弁論大会」の審査員も引き受けてくれた。伸一は、日中友好のために、喜んで協力してくれる彼女の好意がありがたかった。
 在日華僑の叔父に日本で育てられ、国交断絶の歴史に涙してきた彼女は、日中の友好を誰よりも渇望していたのだ。
 日本の女性ジャーナリストの先駆けである松本英子は述べている。
 「婦人の力大なり。婦人は平和の使者である」
 さらに十一月、伸一は、中国語弁論大会の御礼の意味も込めて、創価大学に呉月娥を招き、教員や学生の代表らと一緒に食事をしながら懇談した。この席で、武漢大学への図書贈呈への意向を語ったのである。
 そして、中国訪問の印象記などをまとめた自著『中国の人間革命』を贈った。
 「中日友好の母の健勝とご活躍を祈念」と認めて――。
 十二月の第二次訪中直後にも、伸一は彼女と会って懇談した。そして、北京大学の関係者を通して、武漢大学への三千冊の日本語書籍の寄贈目録を渡したことを伝えた。
 また、その時、伸一は、彼女の希望を受けて卓球にも汗を流した。ピアノも演奏した。
56  人間外交(56)
 一九七五年(昭和五十年)の三月下旬、中国に帰国する呉月娥の送別会が、第一回卒業式で賑わう創価大学で行われた。
 山本伸一も、時間を割いて、この送別会に出席した。
 その席上、呉月娥は伸一に中国語の詩を贈った。それは、「山本先生の目と心」と「大衆の先生 山本先生」と題する詩であった。
 これらの詩は、この年一月、彼女が日本語で詩をつくり、伸一に贈ったものであった。
 このうち「大衆の先生 山本先生」には、こうあった。
 「子供たちを愛し 青年世代に関心をもつ先生
 女性を尊重し 陰になって人に奉仕している人たちを 大切に大切にされている先生
 年老いた人をいたわり
 なぐさめ すべての人を心から愛される先生
 一人一人の人をとても大切にされる先生
 私は このような先生を心から尊敬している」
 それを今回、中国語にし、色紙に認めてきたのである。
 彼女は、色紙を差し出して言った。
 「お別れにあたって、山本先生への、せめてもの御礼として、尊敬と感謝の思いを込め、この詩をお贈りいたします」
 見事な字である。伸一は、呉月娥の気持ちが嬉しかった。
 彼は、丁重に色紙を受け取りながら言った。
 「ありがとうございます。最高のプレゼントです。家宝にいたします。
 実は、私も、呉先生からいただいた詩への返し詩をつくり、中国語にしてもらいましたので、お贈りいたします。
 詩には詩をもって応えなければなりません。それが礼儀です」
 そして伸一は、その日本語の詩を読み始めた。
 「中国服を着ても
 その英知と革命と進歩が備わった姿
 日本服を着ても
 なぜか美麗の気品をたたえるその姿
 これぞ日中友好の世々代々にわたる 大いなるロマンの懸け橋の姿か
 私は祈る
 中日の金の橋の上を
 あなたに続いて
 陸続と往来する人びとの多きことを」
 真心と真心が交わり、詩歌の花が開いた。馥郁と漂う友情の香気が、集った青年たちを包んだ。
 誠実な行動こそが、友情を育むのだ。
57  人間外交(57)
 呉月娥は、山本伸一の詩を聴くと、「まあっ」と言って、頬を赤く染めた。学生たちからは大きな拍手が起こった。
 そして、決意のこもった彼女の声が響いた。
 「先生のご期待に応えるために、中国に帰ってからも、中日友好のために頑張ります!」
 この送別会で伸一は、呉月娥に言った。
 「また四月に、中国へまいります。その時は、必ず武漢大学を訪問します。今度は、武漢でお会いしましょう」     
 それから、約一カ月ぶりの再会である。伸一は呉月娥に声をかけた。
 「とうとう武漢に来ましたよ。武漢大学との交流は、呉先生が開いてくださった友好の道です。
 お世話になります」
 教員、学生らの歓呼の声が伸一を包んだ。
 長い人垣がつくられ、拍手と銅鑼と太鼓が鳴り響くなか、伸一たちは図書館に案内された。
 出迎えの人は、千人以上はいたであろうか。文字通り、大学をあげての熱烈歓迎であった。
 伸一は、この盛大な歓迎の裏には、呉月娥の懸命な尽力があったにちがいないと思った。
 図書館の入り口で、呉は待機していた彼女の三人の子どもを紹介した。十九歳の次女と、十六歳の三女、十四歳の長男である。
 伸一は満面に笑みを浮かべ、子どもたちと握手を交わした。
 「お会いしたいと思っておりました。お母様には、お世話になっております。できることなら、ご自宅にもおじゃましたかったのですが、時間がなくて残念です。
 お母様は、日中友好の功労者です。皆さんも、後に続いてください。
 そして、どうか、日本に留学してください。私の創立した創価大学に来てください」
 後ろで髪を二つに束ねた次女が、決意のこもった声で答えた。
 「はい!」
 「嬉しいね。待っていますよ」
 後年、彼女は創価大学に留学し、その後も、日中交流のために活躍することになる。
 伸一は世々代々にわたる日中の友誼を念願していた。だから、呉月娥の子どもたちとも、友人になりたかった。
 個人から家族へ――その友好の広がりが、未来を開く力となる。
58  人間外交(58)
 武漢大学の図書贈呈式は、午後四時前から大学の図書館で行われた。
 図書館の一階は講堂のような造りで、正面には「贈書儀式」の文字が掲げられていた。
 贈呈式には、教員、学生の代表約百二十人が参加した。
 山本伸一と峯子は、会場の前方に、武漢大学の首脳や武漢市の代表らと共に、学生たちと向かい合うように座った。
 会場の一角には、今回贈呈する三千冊の日本語書籍の一部が、きれいに並べられていた。
 あいさつに立った伸一は、まず、武漢大学を訪問できた喜びを述べた。
 そして、学生訪中団として武漢大学を訪れた一創大生と呉月娥との交流から、この図書贈呈への道が開かれたことを語り、次のように訴えた。
 「呉先生が創価大学を参観された際、学生たちは心から歓迎し、武漢大学で学ぶ学生たちへの友情の気持ちを込めて、コスモスの造花や折り紙などを贈ったと聞いております。
 私はこのような、一人ひとりの心と心の間に固く結ばれる友情と信頼の絆を、さらに太く大きなものに発展させていくことこそ、永続的な日中間の平和友好の要であると確信しております」
 平和友好といっても、人間と人間の友情と信頼から始まる。民衆と民衆の心の結合こそ、平和の堅固な基盤となる。人間の絆が平和の絆をつくっていくのだ。
 最後に伸一は、「呉先生に続いて武漢大学の多くの先生方、学生の皆さんが創価大学を訪問されることを歓迎します」と述べて話を結んだ。
 拍手が広がった。
 続いて、武漢大学の代表の謝辞となった。
 「今日、私たちは、山本先生が武漢大学に贈られた図書を、心から喜んで受け取りました。
 これは、私たちが日本の悠久の歴史文化の理解を深め、日本人民の知恵を学ぶうえで、大いに役立つことは言うまでもありません。
 それだけでなく、中日両国人民の伝統的な友好往来と文化交流を促進することに寄与するものであります。
 私たちは、中日両国人民間の友誼と文化交流を、さらに一歩前進させるために積極的な努力を重ね、貢献していきたいと、心から望んでおります」
59  人間外交(59)
 図書贈呈式のあと、山本伸一の一行は、武漢大学の図書館や生物標本室などを見学した。
 図書館の屋上からは、風光明媚な東湖の景観を眺めた。
 さらに、一行は、学生会の主催による歓迎の集いに出席した。
 優雅な民族舞踊などに続いて、武漢大学付属中学校の生徒による、日本語での「月の沙漠」の合唱が始まった。
 月の沙漠を はるばると  旅の駱駝が ゆきました
 見事な日本語の発音である。
 実は、この日本語の歌を子どもたちに教えたのは、呉月娥であった。
 日本滞在中に、「月の沙漠」は伸一が好きな歌の一つだと聞いた彼女は、″この歌で山本先生を歓迎しよう″と思った。そして、運営にあたる人たちとも相談し、歌を生徒に教えてきたのである。
 途中から伸一も、唱和した。
 金と銀との 鞍置いて 二つならんで ゆきました
 朗々とした彼の声が、ひときわ大きく響いた。
 呉月娥も、伸一のすぐ後ろの席で合唱を聴いていた。
 伸一の顔を覗き込むようにしながら、いかにも嬉しそうに、歌に合わせて、手でリズムを取っていた。
 その歌声は、伸一と新しき世代を結ぶ、友情の調べとなった。
 歌声がとけ合い、心が結ばれ、新しい友好のページが開かれていったのである。
 また、日本語学科の学生たちは「赤とんぼ」「ソーラン節」を日本語で歌い、さらに「炭坑節」を歌いながら踊った。
 これも、呉月娥が一生懸命に教えたものだ。
 楽しい、愉快な、真心の催しとなった。
 「ありがとう! 感動しました。皆さんの友情をしっかりと受け止めました」
 伸一は出演者と固い握手を交わしながら、励ましの言葉をかけ続けた。
 友誼の花園をつくろうと、彼は必死であった。
 一瞬の出会いでも、深い心の共鳴があれば、友情の種は根を下ろす。
 大事なことは、真剣であるか、誠実であるかである。
60  人間外交(60)
 山本伸一が武漢大学から宿舎の勝利飯店に戻ると、湖北省の主催で、少年少女たちによる「文芸の夕べ」が開かれた。
 木琴、アコーディオンの演奏もあれば、「さくら」「木曾節」の独唱、白鳥の踊りもあった。
 楽器演奏では、伸一がアンコールを求めると、「春が来た」を演奏してくれた。伸一も、峯子も、手拍子を打って演奏に応えた。
 「嬉しいです。本当にありがとう。皆さんは中国の未来の、よき後継者として育ってください。
 この模様は映画に撮りました。明るく、はつらつとした姿を、日本の多くの人たちに伝えてまいります」
 伸一の言葉が訳されると、「謝謝!」という、子どもたちの大きな声が返ってきた。
 青年との交流が、次世代との友好ならば、少年少女との交流は、次々世代との友好となる。
 未来への友誼の流れがまた一つ生まれたのだ。
 翌二十日は、早くも上海に移動しなければならなかった。
 午前中、伸一たちは、中国人民対外友好協会の湖北省分会や武漢大学の首脳らに、東湖に案内された。
 彼は武漢の人たちと相互理解を深めるために、もっと対話したかった。
 観光のためだけに、大切な時間を費やすわけにはいかなかった。
 遊覧船に乗ると、伸一は提案した。
 「さらに友好と理解の道を開くために、大いに語り合いましょう。船上の友好懇談会です」
 幼少期の思い出や教育など、語らいは弾み、遊覧船は、心触れ合う人間交流の場となった。
 一日は二十四時間しかない。だが、その二十四時間は万人に与えられている。
 この限りある時間をいかに有効に活用するかで、人生の仕事量も充実度も決まっていく。
 ゲーテは叫んだ。
 「誠実に君の時間を利用せよ!」と。
 正午前、伸一たちの一行は武漢の空港を出発し、南京経由で上海に向かった。
 南京の空港では、中国青年代表団の一員として三月に日本を訪れ、伸一と聖教新聞社で懇談したメンバーが出迎えてくれた。
 思いがけない、嬉しい再会であった。
 出会いは泉を掘ることに似ている。それがやがて、友情の川をつくり上げていく。
61  人間外交(61)
 南京から上海までは、飛行機で、四十五分ほどの航程である。
 山本伸一の一行は午後二時半、この訪中の最後の訪問地である上海に到着した。
 その日の夜、伸一たちは、「日中友好国民協議会」第三次訪中団の答礼宴に招かれて出席した。この団は、大学の教員らで構成されていた。
 伸一は、団長である大阪外国語大学の金子二郎名誉教授や、副団長である東京教育大学の和歌森太郎教授、秘書長である東京大学の菊地昌典助教授らと、日中友好の今後の展望などをめぐって、親しく懇談した。
 翌二十一日の午前十時、伸一たちは、黄浦江(ホアンプーチヤン)へ案内された。黄浦江は上海の中央を流れ、長江が東シナ海に注ぎ込む前に合流する川である。
 ここから船に乗り、長江見学に出かけ、船上で上海市の関係者らと、中国の未来像について語り合った。
 伸一は、これまでの中国訪問の実感をもとに、意見を述べた。
 「中国は商工業などが発展し、大きな経済成長を遂げ、必ず世界をリードする国になります。そこで大事になるのが心の豊かさであり、人間の精神性をいかにして培うかであると思います。
 経済的に豊かになっても、人間が欲望の奴隷のようになってしまえば、社会は殺伐としたものになってしまうからです」
 ――「われわれを富ましめるもの、それは心です」とは、セネカの箴言である。
 一時間ほどすると、長江が見えてきた。武漢で長江を見た時の川幅は、一キロ余りであったが、ここの川幅は十五キロであるという。
 青海(チンハイ)省に源を発し、東シナ海に注ぐまで、六千三百キロにも及ぶ雄大な流れの終着点である。まさに「源遠ければ流ながし」である。
 伸一は長江を展望するうちに、日中両国は、まさに一衣帯水であると、しみじみと感じた。
 彼は思った。
 ″この川が東シナ海に注ぎ、その先は日本だ。日本と中国は、海によって隔てられているのではない。海によってつながっているのだ。
 もっともっと交流があってしかるべきだ。さらに、友好促進を図っていかねばならない″
62  人間外交(62)
 山本伸一の一行は、この日の午後、上海の名門校・復旦大学を訪問した。
 そこには、緑に包まれた美しいキャンパスが広がっていた。梧桐の並木道、緑の芝生、桜の木も花をつけていた。
 校舎も、国際都市・上海にふさわしいモダンな建物であった。
 復旦大学は、一九〇五年(明治三十八年)に創立の復旦公学に始まる、伝統ある中国屈指の総合大学である。
 校舎の入り口には「熱烈歓迎 日本創価学会訪華代表団」と書かれ、大学の首脳、学生たちが、到着した一行を盛大に歓迎してくれた。
 伸一たちは、まず図書館を訪問し、閲覧室や蔵書を視察した。
 ここには、百六十万冊の蔵書があるという。伸一の寄稿やインタビューを掲載した雑誌も置かれていた。また、創価学会青年部による反戦出版もあった。
 それから一行は、教職員、学生との懇談会に臨んだ。
 復旦大学の首脳からは、歓迎のあいさつや大学の概要説明があった。
 この席上、伸一は、日中の相互理解を推進するため、日本語書籍二千冊の寄贈を申し出た。既に、贈書目録も用意してあった。
 彼は、それを読み上げていった。
 「一、日本語書籍二千冊
 右日中両国の善隣友好の増進と創価大学と復旦大学間の相互交流の第一歩として謹んで贈呈申し上げます。 
 創価学会会長、創価大学創立者 山本伸一」
 北京大学、武漢大学に続いて、中国三校目の教育交流の道が開かれたのである。
 また、懇談会では、大学教育の実情について意見交換が行われたが、伸一は通信教育の内容などについて、集中的に尋ねていった。
 創価大学では、翌春に通信教育部をスタートさせようと、盛んに準備を進めていたのである。
 伸一は、学ぶことにかけては、極めて貪欲であった。どこまでも、食い下がるように質問をぶつけていった。
 創価大学に世界最高の通信教育部をつくろうとの情熱が、彼を質問に駆り立てずにはおかなかったのである。
 「安閑としていてはなにも得られない」とは、トインビー博士の警句だ。
63  人間外交(63)
 復旦大学を訪問した日の夜、上海市の関係者によって、山本伸一たち一行の歓迎宴がもたれた。
 上海市は、横浜市、大阪市の友好都市となっており、開明的な気風にあふれた街である。
 伸一にとって上海は二度目の訪問であり、皆、懐かしい顔であった。
 この歓迎宴のあいさつで伸一は、初訪中以来、世々代々の日中の友好を願って、訪中の模様を映画にしたり、中国の印象記を執筆するなど、自分なりに、懸命に努力してきたことを伝えた。
 そして、中国から創価大学に留学した学生たちについて語った。
 「このたび、私が創立いたしました創価大学に、中国から六人の留学生を迎えました。
 中国からの留学生といえば、私は、偉大な文学者であり、人間の解放をめざして古い道徳・思想と鋭く戦い抜いた魯迅先生と、仙台の藤野先生の交流を思い起こします」
 伸一は、前年の第一次訪中の折、上海で魯迅の故居を訪れていた。そこで目にした、魯迅の遺品などを懐かしく思い返しながら話を続けた。
 「魯迅先生は、『藤野先生』という一文を残されております。お二人の間には、民族、国家の壁を超えた人間と人間の温かい心の触れ合いがありました。気高く美しい人間性の調べがあふれております」
 ――魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学した。ここで、解剖学を教える、福井県出身の教師・藤野厳九郎と出会う。
 藤野は、留学生の魯迅に、講義を筆記したノートを提出するように言う。戻されたノートを見ると、朱筆でびっしりと添削されていた。
 魯迅が書き切れなかったところは補足され、日本語の文法の間違いも指摘してあった。
 その添削は、藤野が授業を担当している間、ずっと続けられた。
 魯迅は「藤野先生」に記している。
 「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ」と。
 藤野は″なんとしても、彼には大成してほしい″との思いで、心血を注いで励まし続けたのであろう。それが師の心だ。
 伸一には、その″藤野先生″の気持ちが痛いほどよくわかった。
64  人間外交(64)
 魯迅はやがて、仙台医学専門学校を辞めて帰国し、中国人民の精神改造のために、正義のペンを執ることになる。
 教師の藤野厳九郎は、仙台を去る魯迅を家に招き、自分の写真を贈る。その裏には「惜別」の文字が記されていた。
 魯迅はさらに、藤野について、こう書いている。
 「かれの写真だけは今でも北京のわが寓居の東の壁に、机のむかいに掛けてある。夜ごと仕事に倦んでなまけたくなるとき、顔をあげて灯のもとに色の黒い、痩せたかれの顔が、いまにも節をつけた口調で語り出しそうなのを見ると、たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる」
 「良心」を、そして、「勇気」を呼び覚ましてくれるのが師である。
 だから、正しい師をもつ人は、正義の道を歩み抜くことができる。強く勇敢に生き抜くことができる。人生の師をもつ人は幸福である――。
 上海での歓迎宴で山本伸一は、決意をかみしめるように、話を続けた。
 「私は、創価大学の教師、学生と、中国からの留学生の間にも、このような美しい友情が育まれることを念願しております。いな、そうなるように最大限の努力を払ってまいります。
 希望の未来へつながる限りない発展性を秘めたこの友好の種子が、やがて亭々たる巨木となっていくよう、しっかり見守り、貴国の信頼に対して、誠意と信義の行動で応えていく所存です」
 創価大学に学んだ中国からの、この六人の留学生は、その後、それぞれが使命の大空に羽ばたき、日中友好のために大活躍していくことになる。
 伸一が結ぼうとしていたのは、政治や経済のための友誼ではない。本当の意味での「信頼の絆」であり、「友情の絆」であった。利害を超えた「人間の絆」であった。
 伸一の行動は、二十一世紀の人類共存の大河を、平和の大潮流を開くための人間外交であった。そこに彼は、生命をかけていたのだ。
 伸一は確信していた。
 ″後世の歴史は、必ずやわれらを、世界平和の開拓者として絶讃するであろう″と。
 伸一の一行が第三次訪中を終えて帰国したのは、四月二十二日の午後二時半過ぎであった。

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