Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「SGI」 SGI

小説「新・人間革命」

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1  SGI(1)
 平和の太陽は昇った。
 世界広宣流布の新しき幕は上がった。
 一九七五年(昭和五十年)一月二十六日――。
 西太平洋・マリアナ諸島南端の緑の島・グアムの地から、平和の大波が広がろうとしていた。
 この日、世界五十一カ国・地域のメンバーの代表百五十八人がグアムの国際貿易センタービルに集い、第一回「世界平和会議」を開催。席上、世界各国のメンバーの団体からなる国際的機構として、SGI(創価学会インタナショナル)が結成されたのである。
 そして、全参加者の総意として懇請され、山本伸一がSGI会長に就任したのだ。
 「生命の世紀」へ、「平和の世紀」へ、歴史の機軸は、大きく回り始めたのである。
 世界の恒久平和を実現するには、一切衆生に尊極無上の「仏」の生命を見いだす仏法の生命尊厳の哲理を、万人万物を慈しむ慈悲の精神を、人びとの胸中に打ち立てなければならない。それが広宣流布である。
 日蓮大聖人は「一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」と仰せである。
 一閻浮提とは、全世界であり、世界広宣流布は絶対にできるとの御断言である。
 しかし、それは、ただ待っていればできるということではない。″この御本仏の御言葉を、虚妄にしてなるものか!″という弟子たちの必死の闘争があってこそ、広宣流布の大前進はあるのだ。
 自身が主体者となって立ち上がるのだ。尊き使命を自覚するのだ。それが地涌の菩薩として立つことなのだ。
 そこに、生の歓喜がみなぎり、崩れざる幸福への道が、境涯革命の道があるのだ。
 大宇宙もわが一念にありと教えているのが仏法である。なれば、傍観者のような姿勢は「仏法を学して外道となる」生き方である。
 そこには生命の躍動もない。空虚な心の闇が広がっている。
 グアムに集った代表は、いずれも各国のリーダーであり、広宣流布をわが使命として立ち上がった闘士たちであった。創価の先駆者であった。
 その一人立った勇者たちが、スクラムを組み、SGIという世界を結ぶ平和の長城の建設に立ち上がったのである。
2  SGI(2)
 一月二十六日、山本伸一は午前十一時過ぎには、世界平和会議の会場となったグアムの国際貿易センタービルに、妻の峯子と共に姿を現した。
 そこはグアムの商業の中心地タムニングにあり、空港にほど近い白亜のビルであった。
 既に世界五十一カ国・地域、百五十八人の代表が集っていた。
 伸一は、まず参加者と共に記念撮影をした。
 民族衣装に身を包み、誇らかに胸を張るメンバーもいた。
 どの顔にも、平和への決意が光っていた。
 決意は大願を成就する種子である。心を定めることから一切は始まる。
 伸一もグアムの人たちと同じように、柄ものの開襟シャツ姿であった。
 このあと、長年にわたって各国の仏法興隆に努めてきたメンバーの代表十一人に、「副理事長」などの称号が贈られた。
 伸一は、それから、急いで白いスーツに着替えた。意義あるこの日の式典には、正装で臨むべきであると考えていたのである。
 この日の参加者は、後世に残る重大な記録として、署名を行うことになっていた。
 その署名簿が、会場の入り口に置かれていた。
 伸一も、ペンを手にした。署名簿には、氏名とともに、国籍を記す欄もあった。
 彼は、氏名欄に「山本伸一」と書いたあと、国籍の欄にはこう記した。
 「世界」――
 周囲の人たちから、感嘆のため息が漏れた。
 この時、彼の胸には、師の戸田城聖が叫んだ「地球民族主義」という言葉が響いていた。
 そして、心で亡き恩師に誓っていた。
 ″先生! 私は全人類の幸福と平和のために、世界の広宣流布に、わが人生を捧げます!″
 伸一の心には、既に国境はなかった。民族の壁もなかった。伸一の国とは、アジアの東に位置する「日本」という小さな島にとどまらず、地球それ自体であった。
 国籍「世界」という記帳は、彼の率直な真情の表れであった。
 「わたしの祖国は全世界であり、わたしの宗教は善を行なうことなのだ」とは、トマス・ペインの信念である。
 伸一も、世界を祖国とし、世界の人びとのために尽くし抜く決意を込めて署名したのであった。
3  SGI(3)
 世界平和会議の会場正面には、地球をデザインしたパネルが広がり、そこに英文で、「平和の波動」「第一回『世界平和会議』」と書かれていた。
 平和――それは、グアムの人びとの痛切な悲願であった。
 アメリカ領のグアム島は、一九四一年(昭和十六年)十二月八日(日本時間)、ハワイへの真珠湾攻撃と同じ日に、日本軍の攻撃を受け、十日に占領された。
 四四年(同十九年)六月、マリアナ沖海戦に勝利した米軍は、グアム島奪還のため、七月二十一日に上陸。すさまじい攻防戦が繰り広げられた。両軍の兵士をはじめ、現地住民も多大な犠牲を強いられたのである。
 日本軍の守備隊は、数日でほとんど壊滅し、生き残った兵隊は、密林や山岳地帯でゲリラ戦を展開した。敗走する日本兵によって、虐殺された現地の人たちもいた。
 この戦争で日本兵は約二万一千人のうち、約一万八千人が死亡。米軍もグアム島奪還のために、約千四百人の犠牲者を出したといわれる。
 歴史的な第一回「世界平和会議」は、正午に開会となった。
 まず、議長団が選出され、続いて開催地グアムのメンバーの代表が英語で開会宣言を行った。
 彼は、山本伸一をはじめ、メンバーのグアムへの来島を歓迎するとともに、世界平和会議の開催を心から喜び、感無量の顔で語り始めた。
 「三十年前、グアム島は、なんの罪もない民衆の生命が、戦禍によって無残にも蹂躙された悲劇の舞台でありました」
 グアムの人たちは、戦争こそ最大の悪であることを、心の底から痛感してきた。
 「人間は善悪を区別する場合にはじめて目ざめるのである」とは、ドイツの哲学者ヤスパースの言葉である。
 グアムの代表は、力を込めて訴えた。
 「グアムの悲惨な歴史を背負った私たちには、最も声高に平和を叫ぶ使命があります。
 私たちは、そう決意して、この日をめざし、仏法という幸福と平和の哲学を人びとに伝えようと、力の限り活動を進めてまいりました」
 広宣流布のために立ち上がるなかに、境涯の大飛躍があり、わが生命は変革され、宿命の転換があるのだ。
4  SGI(4)
 グアムの代表の声は、喜びに弾んでいた。
 「今回の世界平和会議の開催に際し、平和をめざす私たちの活動に賛同したグアム政庁は、一九七五年(昭和五十年)一月二十六日を、『世界平和の日』と定めたのであります。
 私たちは、この幾重にもわたる喜びを胸に、本日より、必ずやグアムから全世界に、平和の波動を広げてまいります。
 どうか、世界の同志の皆さん、今日よりは、共々に、世界平和の第一歩を踏み出していこうではありませんか!」
 大きな拍手が起こった。見ると、期せずしてアメリカと日本のメンバーが、立ち上がって拍手を送っていた。
 この島で激戦を繰り広げた二つの国が、そして世界の国々の代表が、平和への誓いの拍手という共鳴音を奏でたのだ。
 グアムは、世界平和の電源の地となった。
 御聖訓には「浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」とある。
 まさに、人間の一念の変革によって、自分のいる地域も、社会も、国も、世界も、すべては、いかようにも変わっていくのである。
 山本伸一が、このグアム島で、世界平和会議を開催し、仏法者の国際的な機構を結成することを構想したのは、前年の四月にハワイを訪問した折のことであった。
 彼はこの時、グアム島からやって来たメンバーと懇談したのである。
 伸一は、メンバーと意見を交換するなかで、戦争の悲惨な歴史が刻印されたこのグアムを、なんとしても、世界平和の発信地にしなければならないと思った。
 宿命は使命である。残酷な戦争の舞台となってきた地であるからこそ、そこから平和への大波を起こす使命があるのだ。
 伸一は、グアム島での平和会議の開催などの考えを、アメリカの首脳幹部らに語った。
 その話を聞いたグアムの中心者は、心から賛同した。彼は「わが愛する平和の島グアムで、世界的な平和会議を、ぜひ開催していただきたい。ここから平和の波を起こしたい」と、強く要請したのである。
 そして、各国の代表の合意を得て、グアムでの第一回「世界平和会議」の開催となったのだ。
5  SGI(5)
 世界平和会議では、開会宣言のあと、世界の識者のメッセージが紹介されていった。
 ローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ会長やペルーのサンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ総長、香港大学の黄麗松学長、アメリカの上・下院議員など、世界各国から賛同の声が寄せられていた。
 なかでも注目されたのは、東京裁判(極東国際軍事裁判)で知られるパール判事の長男・プロサント・パールからのメッセージであった。
 「人間が、今後、生存しうるとするならば、それは人間自身の思想の変革によらなければなりません。
 継続的な世界平和のための唯一の方途は、仏法の原理、そして非暴力の理論であるべきです。私は、この会議の大成功を祈ります」
 世界の識者の多くは、仏法という人間革命の哲理を渇望しているのだ。
 続いて、イギリスの代表が経過報告に立った。長身の男性である。力強い英語が響いた。
 「世界の同志の皆さん、平和の島・グアムに五十一カ国・地域、百五十八人の代表が集い、かくも盛大に世界平和会議が開催できましたことを、共々に喜び合おうではありませんか!」
 彼の呼びかけに、大拍手が起こった。
 「この集いは、真実の仏法を持った世界の代表が初めて一堂に会した歴史的な会議であります。
 民族、人種、風俗の違いを乗り越え、信仰の連帯を基盤に、人間と人間の生命交流を通して各国間の相互理解を促進し、真に永続的な世界平和を樹立する第一歩となるのが、本日の会議です。
 今回の会議のテーマは『平和の波動』です。このテーマを深く心に刻み、二十一世紀への平和の大波を起こしていこうではありませんか!」
 彼は、戦時中、イギリス軍の少佐であった。
 日本軍がインド進攻のために「インパール作戦」を敢行した時には、壮絶な防衛戦を体験し、戦争がいかに残酷なものであるかを、身に染みて感じてきたのである。
 彼は、全情熱を注いで世界平和への戦いを訴えた。そこには平和の英雄の崇高な輝きがあった。
 「美しい情熱は魂を大きくする」――フランスの作家ジョルジュ・サンドは記している。
6  SGI(6)
 演壇に立つイギリスの代表の額は、汗で光っていた。
 「今、人類の平和と繁栄を阻む根本の障壁は、国の違いを問わず、人間そのものの生命に巣くうエゴと増上慢という魔性であります。その人間を蝕む、生命の魔性を打ち破る力が仏法です。
 今や戦争や公害をはじめ、人類を脅かす暗雲は、地球的規模で私たちの前に立ちはだかっております。
 それに対応するために、私たちのめざす運動も旧来のワクにとらわれることなく、人間と人間の幅広い世界的連帯と長期的展望に立たなければなりません。
 これまで、こうした時代の要請を踏まえ、各国の独自性をたもちながら、ヨーロッパ会議、パン・アメリカン連盟、東南アジア仏教者文化会議を設け、連携を取りつつ進んでまいりました。
 しかし、もう一歩その連帯を広げ、世界を結ぶ意味から、全世界的機構として、国際仏教者連盟、略称IBLの結成を提案したいと思います」
 そして彼は、これまで、各国の有志らと分科会をもって準備にあたってきたことを述べ、現在、この連盟への加入申し込みは七十四カ国・地域から寄せられていることを報告した。
 さらに、その理念についても語っていった。
 「このIBLは、日蓮大聖人の仏法思想を根底に、それぞれが各国の繁栄に貢献するとともに、相互の連携と協力によって、すべての人びとの友好と福祉及び世界平和の実現に寄与するために、英知を結集することを目的としたものです。
 そして、そのために、『平和のための行事の提唱と促進』『連盟員相互の連携、支援及び活動の調整』『文化の国際的交流及び国際親善の促進』などを行っていきたいと思うのであります」
 それから彼は、IBLの議長や事務局長らを推薦した。そして、IBLの結成並びに人事に、全員が賛同の大拍手をもって応えた。
 「ただ今、人類の未来に新たな希望の灯をともす国際平和団体『IBL』が正式に発足いたしました。おめでとうございました」
 世界宗教の役割は、平和の実現にある。社会のために何をするか――その善の競争こそ、宗教の進むべき道である。
7  SGI(7)
 経過報告に続いて、あいさつに立ったのは、IBL(国際仏教者連盟)の議長に就任したアメリカの代表であった。
 彼は、IBLの会長に山本伸一を、また、名誉総裁に法主の日達を推薦し、皆に諮った。
 即座に、全員の賛同の拍手が返ってきた。
 さらに議長は、ひときわ大きな声で語った。
 「次に、私は、世界の山本先生の弟子を代表して、先生にお願いしたいことがあります。
 それは、われわれ全員の願いとして、われらの先生に、創価学会インタナショナル(SGI)の会長として、さらに世界平和の指揮を執っていただきたいということであります。
 われわれの総意として先生にお願いしたいと思いますが、いかがでしょうか!」
 期せずして参加者全員が立ち上がり、場内を圧するような大拍手が起こった。拍手は、いつまでも、いつまでも鳴りやまなかった。
 伸一は、立ち上がって皆に一礼した。
 「ワーッ」という歓声が起こり、拍手は一段と激しさを増し、雷鳴のように轟いた。
 「山本先生! 今後ともよろしくご指導をお願いいたします」
 伸一の方を向いて、議長は叫ぶように言った。
 この日、この時、全世界の代表たちの総意により、山本伸一を会長とする創価学会の世界的なスクラムとして、SGIがスタートしたのだ。
 SGIも、IBLも、それぞれの国や社会の繁栄、世界平和の実現などに寄与するという目的は同じである。
 そのうえでSGIは、日蓮大聖人の仏法思想の理解を広げるとともに、メンバーが仏法を正しく理解し、信心の成長を図るために、信心活動の指導・助言を行うという役割を担っている。
 そして、必要に応じて指導員の派遣や研修会、講習会、各種儀式、行事等も、実施していくことになる。
 いわば、日蓮仏法を根底に、人類の幸福、世界の平和を実現していくためのアドバイスなどを行うとともに、その原動力となる学会精神を脈動させ、信心を啓発していく機構こそ、SGIなのである。
 その誕生は、世界の同志の切実な願いであり、強い要請であった。
8  SGI(8)
 これまで、各国・地域の組織が連帯し、仏法を根底に平和と幸福を築き、文化の交流を行っていくために、世界の各州などに協力態勢がつくられてきた。
 欧州には「ヨーロッパ会議」が、南北アメリカには「パン・アメリカン連盟」が、アジアには「東南アジア仏教者文化会議」が設けられた。
 各国のメンバーは、さらに、それを広げ、全世界を一つに結ぶ、国際的な団体の発足を希望していたのである。
 山本伸一も、その必要性を痛感していた。
 核戦争の脅威や地球環境の深刻な悪化、また、差別、貧困、飢餓など、現代のかかえる諸問題の多くが、国や地域を超えて、世界が連帯して立ち向かわなければならないテーマだからである。
 この地球上から、「不幸」の二字をなくすことは仏法者の使命である。
 したがって、国際的な機構の設立は不可欠であり、喫緊の課題であると伸一は考えていたのだ。
 そして、前年の春、グアムで世界平和会議の開催が決まると、この席上、国際機構の設置を発表する方向で準備が進められたのである。
 当初、準備にあたったのは、海外メンバーの支援などを行う国際センターの職員であった。
 十一月には、各国のメンバーの代表で世界平和会議の実行委員会が設けられ、国際機構設立の準備も、この実行委員会が責任をもって進めることになった。
 その国際機構は、国際仏教者連盟(IBL)とすることが決まり、規約案もでき上がった。
 「この連盟は、日蓮大聖人の仏法思想を根底に、これに加盟する団体及び個人が、その国の平和と繁栄に貢献するとともに、相互の連携と協力によって、全世界の人びとの友好と福祉及び世界平和の実現に寄与するために、その英知を結集することを目的とする」
 IBLの役割は、各国の法人・団体などの互助組織的なものとなっていた。各国の代表たちは″これでは何か足りない″と感じた。
 彼らが、本当に必要と痛感していたものは、各国の法人や団体の自主性のうえに、誤りのない信心の指導が受けられる機構であった。真実の仏法を学ぶための、依怙依託となる組織であったのである。
9  SGI(9)
 世界のどの国にあっても、メンバーには″信心の在り方や教学を教わりたい″″人生の問題や活動の方法等、さまざまな事柄について指導を受けたい″という、強い思いがあった。
 特に、中心者が信心して日が浅く、活動経験に乏しい場合には、なおさらであった。
 また、各国・地域のリーダーたちの多くが、日蓮大聖人の仏法思想への理解を広げていくには、まず、自分たちが創価学会の歴代会長に流れる学会精神、師弟の精神を継承していかなければならないと、気づき始めていたのである。
 東南アジアの代表は、創価学会の歴史を振り返りながら、仏法の人間主義を伝え抜いていくうえで、何が最も必要なのかを真剣に考えた。
 ――初代会長の牧口先生は、日蓮大聖人の仰せ通りに正法正義を貫き、軍部政府の弾圧と戦い、獄中で殉教されている。
 第二代会長の戸田先生は師の牧口先生と共に投獄され、獄中にあって、「仏とは生命なり」と悟達された。
 これによって、人びとの現実生活からかけ離れているかのように思われていた仏法が、生命の法理として輝きを放ち、現代に蘇ったのだ。
 また、戸田先生は、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得られ、人類の幸福を実現しゆく久遠の使命を自覚された。
 そして、法華経の「在在諸仏土 常与師倶生(在在の諸仏の土に 常に師と倶に生ず)」(創価学会版法華経317㌻)の文を生命で実感、体得され、広宣流布に生き抜く師弟の道に、仏法の正道があることを教えてくださった。
 さらに戸田先生は、立正安国(正を立て国を安んずる)こそ、日蓮大聖人の御精神であり、そこに、仏法者の社会的使命があることを示された。
 そして、「地球民族主義」の理念を打ち立て、「原水爆禁止宣言」を行い、世界平和を叫び続けてこられた。
 この創価の師弟に連なり、その精神と実践とを体得せずしては、メンバーが大聖人の仏法の正道を歩むことも、人びとの幸福と平和の道を開くこともできないにちがいない――。
 広宣流布の脈動も、その世界的な広がりも、創価学会の師弟の道にこそあるのだ。
10  SGI(10)
 東南アジアの代表は、さらに思索を続けた。
 ――創価学会の初代会長牧口先生、第二代会長戸田先生の精神を受け継ぎ、その教えのままに実践し、構想をことごとく実現してきたのが、第三代会長の山本先生だ。
 私たちは、山本先生を通して、牧口先生、戸田先生の精神を知り、また、日蓮仏法を正しく学ぶことができた。さらに、山本先生によって、世界広宣流布の種は蒔かれ、各国・地域とも、希望の前進を遂げてきた。
 つまり、どこの組織も、山本先生の指導と励ましを養分として人材が育ち、広宣流布の発展の歴史を刻んでいる。
 したがって国際的な機構をつくるといっても、大事なことは、山本先生に指導を仰ぐことができ、創価学会の精神を継承できる組織を誕生させることではないか――。
 彼は、平和会議の準備にあたるなかで、その考えを語った。
 南米の代表が言った。
 「私もそう思います。
 これまで各国に結成された法人は『創価学会』という名称を使ってきませんでした。そのなかで学会の心が忘れ去られ、広宣流布に生きる師弟の精神が、薄らいできている気がします。これではいけないと思います」
 海外では「創価学会」という名称を聞いて、仏教団体であると思う人はほとんどいなかった。また、「創価学会」という名を知っている人でも、日本では学会が母体になって公明党が結成されたことから、学会を政治団体であるかのように考えている人もいた。
 そうした誤解から問題が生じないように、各国・地域では法人名に創価学会の名称を使うことは避けてきたのである。
 たとえば、香港の法人は「香港仏教日蓮正宗」とするなど、仏教団体であることがわかる名称を用いてきたのだ。
 南米の代表は言葉をついだ。
 「私は、広宣流布の使命を担っていくうえで、最も大事なことは、学会精神に立つことだと思います。生き生きと学会精神が脈動していることが一切の源泉ではないでしょうか」
 ――「偉大なる富も強大なる帝国も、やがては塵芥となるであろうが、精神の所産は不朽の価値を持っている」とは、詩聖タゴールの真理の言葉である。
11  SGI(11)
 今度は、ヨーロッパの代表が、力を込めて語り始めた。
 「入会前、私は、仏教というのは、基本的には過去の遺物で、せめて心を安定させる一助になるぐらいのものと思っておりました。
 しかし、山本先生は、仏法が生命尊厳を説く、平和の根本的な哲理であることや、人間革命の道を説き明かしていることなどを教えてくださいました。また、生命の変革を機軸にした社会建設の原理も、私たちに教えてくださった。
 つまり、先生は仏法の真義を、現代人にわかりやすく示してこられた。それによって、広宣流布の世界的な広がりがつくられたといえます」
 アメリカの代表が頷きながら言った。
 「その通りですね。
 山本先生は、民音をはじめ、創価大学や富士美術館などを創設され、広宣流布とは人間文化の開花であり、仏法を根底とした大文化運動であることも教えてくださった。
 大聖人の仏法への共感と理解を世界に広げていくには、こうした展開がなくてはなりません。
 でも、それは、私たちにはできない。広宣流布の指導者に、山本先生に、教えていただくしかないと思います。
 また、運営的な問題は、皆で話し合って進めていけばよいが、信心を学ぶには師匠が必要です」
 すると、日本の青年部の幹部が、相づちを打ちながら言った。
 「私も同感です。そう考えますと、創価学会の精神、師弟の道を学ぶことができ、さまざまな面で指導を求めることができる国際的な組織と、指導者が必要不可欠ということになる。
 すると、これまで私たちが準備を進めてきたIBL(国際仏教者連盟)という互助組織的な連盟では、不十分ということになりますね」
 皆が頷いた。
 青年部の幹部は確認するように語った。
 「では、IBLの規約案などを改めなくてはなりませんね……」
 それを制して、メンバーの一人が提案した。
 「IBLはそのまま発足させ、同時に創価学会としての国際機構をスタートさせればよいのではないでしょうか。
 でも、これは山本先生のご意見を伺い、そのうえで話し合うようにしてはどうでしょうか」
12  SGI(12)
 「IBL(国際仏教者連盟)のほかに、創価学会の精神を学び、指導を受けることのできる国際機構をつくっていただきたい」
 海外の代表たちの意向を聞いた山本伸一は思索を重ねた。
 彼も、メンバーが学会に脈打つ精神を学び、さまざまな指導を受けることのできる国際機構の必要性を感じていたのだ。
 しかし、それは、あくまでも、各国のメンバーの、強い主体的な意思によるものでなければならないと考えていた。
 ″各国・地域では、法人をつくり、それぞれの国や地域のルールに則って自主的に運営し、活動を推進してきた。その自主性は最大限に尊重されなければならない。
 そのうえで、さらに深く仏法を研鑽し、学会の精神を学ぶために、指導やアドバイスを受ける機関の設置を強く求めているならば、IBLとは別に、国際機構を発足させることもありえよう″
 だが、伸一は、すぐには結論を出さなかった。本当にそれが、各国のメンバーの要請なのかを見極めたかったのである。
 ″信仰を貫き、深めていくことは、人間の最高の自発性の発露である。その信仰を触発し、指導するための機構であるならば、皆の強い自発的意思の総和によって結成されなくてはならない。
 したがって、もしも、世界のメンバーが、その国際機構を、お仕着せのように思ってしまうならば、本来の意義を失ってしまうことになる″
 伸一は、そう考えていたのである。
 一九七五年(昭和五十年)一月六日、伸一は結論を保留にしたまま、アメリカ訪問に出発した。
 アメリカでは、しばしば幹部との懇談会をもった。その時、アメリカの草創期を切り開いてきた日系人の婦人は、切々と訴えた。
 「私を支えてきたものは、人生の師である山本先生との誓いであり、弟子としての誇りでした。師弟が信仰の力でした。
 この師弟の心をメンバーに伝えたいのですが、アメリカ社会では、仏法で説く師弟という考えを伝えることは容易ではありません。
 日本で研修会などを開いて、創価学会の師弟の道について、お教えいただきたいのです」
13  SGI(13)
 アメリカ訪問中の山本伸一のもとには、第一回「世界平和会議」の開催を喜ぶ、世界各地からの手紙も届けられた。
 フィリピンに住む日本人メンバーの便りには、こう記されていた。
 「世界平和会議が開催されると聞いて、喜びで胸がいっぱいです。
 私の住んでいる地域の人たちは、戦時中の日本軍への根強い反発があります。『日本軍は大学に踏み込み、暴虐の限りを尽くした』と、涙ながらに訴える方もおります。
 したがって、日本人に対しても、日本の宗教に対しても否定的でした。
 私は懸命に、その軍部政府と戦い、殉教した牧口先生のことや、共に投獄された戸田先生のことを語りました。
 さらに、戸田先生は、仏法の理念のもとに『地球民族主義』を提唱し、『原水爆禁止宣言』を行ったことも伝えました。学会が多くの民衆を蘇生させ、新たな平和社会建設の波を起こしてきたことも訴えました。
 すると、周囲の方たちの態度は、大きく変わっていきました。『日本にそんな仏教団体があったのか』と言って、創価学会に対する、理解と認識を新たにしたのです。
 学会の真実の姿をそのまま伝えていくならば、日蓮大聖人の仏法への正しい理解が可能になることを実感いたしました。
 学会本部からも講師の方を派遣していただき、創価学会の歴史や運動を教えていただければと思う次第です」
 伸一は、IBL(国際仏教者連盟)とは別に、国際機構を発足させることについて、同行の幹部にも意見を求めた。
 国際センターの事務総長である田原薫は、強く主張した。
 「IBLは、どちらかといえば、各国のメンバーが互いに連携を取り、支え合い、スクラムを組むための国際機構といえます。
 それも、大事ではあると思いますが、今、最も必要としているのは、学会の精神を学ぶことができる機構です。いわば、信心の充電器ともいうべき組織です。まさに創価学会の国際機構です。
 その意味から、今回、ぜひ創価学会インタナショナルを発足させ、山本先生に指揮を執っていただきたいと思います。それが、世界各国のメンバーの願いであり、要望です」
14  SGI(14)
 田原薫は、国際センターの事務総長として、各国・地域の法人やメンバーの支援にあたり、さまざまな声を聞いてきた。
 田原が訴えたSGI(創価学会インタナショナル)の結成は、その結論であった。
 山本伸一は、熟慮を重ね、アメリカのマリブ研修所での懇談の折、自分の考えを田原に告げた。
 「私が創価学会インタナショナルの会長として指揮を執ることについては、最終的には世界平和会議の参加者に諮って決めよう。もし、みんなが賛成であれば、創価学会インタナショナルの会長となります」
 その言葉を聞くと、田原は叫ぶように言った。
 「先生、ありがとうございます!」
 人類の平和と幸福を担い立つ真の人材を育てようとする伸一の、ほとばしる思い。そして、仏法の師匠を求め抜く、世界の同志の一途な思い――その師弟の心の結合がSGIを誕生させ、山本SGI会長という世界の創価学会の柱を打ち立てることになったのだ。
 世界平和会議が行われる一月二十六日の早朝、伸一はグアムの海岸に立った。
 彼は、一九五四年(昭和二十九年)の夏、戸田城聖と共に、戸田の故郷・厚田村(当時)を訪れた日のことを思い起こしていた。
 ――戸田は、夕日に染まる日本海を眺めながら、伸一に言った。
 「ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ」
 伸一は、それを遺言の思いで聞いた。
 今、彼は、その言葉をかみしめながら、心で戸田に語りかけていた。
 「先生! 本日、世界五十一カ国・地域の同志が集い、世界平和会議を開催いたします。広宣流布は、先生の世界平和の叫びは、全世界に広がりました。
 私は、今日の世界平和会議で、創価学会インタナショナルの会長となって、名実共に世界広宣流布の指揮を執ることになると思います。先生の分身たる伸一は、いよいよ世界に飛翔します」
 そして、この日、伸一は、全メンバーの総意をもって、SGI会長に就任したのだ。
 それは、広宣流布の歴史を画す新しき旭日が躍り出た瞬間であった。
15  SGI(15)
 世界平和会議の会場は、山本伸一SGI会長誕生の喜びの余韻に包まれていた。
 待ちに待った、世界広宣流布のリーダーが決まったのだ。誰もが高鳴る胸の鼓動を感じていた。
 議長は深呼吸を一つすると、再び話を続けた。
 「さて、われわれが本日、ここに集ったのは、日蓮大聖人の仏法を持つ者として、大聖人の大理想であり、人類の願いである、世界平和実現のためであります。
 その道は長く、幾多の困難が待ち受けていることでありましょう。
 しかし、われわれは固くスクラムを組んで、いかなる苦難をも乗り越え、この地球上に燦たる平和の光が輝き渡るまで戦い抜いていきたいのであります。
 そこで、このわれわれの決意を込めて、次の平和宣言を採択したいと思います」
 ここで事務局長になったアメリカのメンバーが立ち、平和宣言を声高らかに英語で読み上げていった。
 「生存の権利は、人種、民族、言語、風俗の相違を超え、すべての人間に固有で、かつ不可侵の権利である。
 われわれは、この権利の回復と拡大を願う仏法者として、この地球上に恒久平和を築き上げるために、次のたゆまざる実践をめざすものである。
 一、平和創出の原点は、人間の生命に絶対至尊の価値を認めることにある。したがって、われわれは、一人ひとりの心の中に生命尊厳の要塞を築き、平和への人類普遍の精神的基盤を確立しようとするものである」
 ユネスコ憲章の前文には、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と謳っている。
 では、人の心の中に、最も堅固な平和のとりでを築くには、どうすればよいのか。それを、この平和宣言では、「人間の生命に絶対至尊の価値を認めることにある」と述べているのである。
 仏法では、万人が尊極無上の仏の生命を具えていると説いている。生命の尊厳をいかに声高に叫んでも、それを裏づける確固不動の哲学がなければ、うたい文句に終わってしまう。
 平和宣言は、生命尊厳の仏法哲理に基づく、仏法者としての信念と良心の叫びであった。
16  SGI(16)
 平和宣言を読み上げる声が会場に響いていた。
 「一、平和創出のために、政治や経済の絆より強いものは、生命の尊厳に目覚めた民衆と民衆の心と心の連帯である。したがってわれわれは、平和を愛するあらゆる国のあらゆる人びとと強き連帯の絆を結んでいく。
 一、永続的な平和は、人類のすべてが幸福を享受し得て、初めて実現する。したがって、われわれは、人類の幸せと、その未来の存続に『何をもって貢献できるか』という慈悲の理念を、今後の新しい思想の因子としてゆくことをめざしていく」
 山本伸一は、今、世界の同志によって、日蓮仏法が、人類の平和と幸福の理念として、広く世界に開かれたことを感じていた。
 平和宣言は、さらに続いた。
 「二度まで世界戦争を経験した二十世紀に生きる者にとって、来るべき二十一世紀を最大に人間が謳歌される世紀――すなわち、生命の世紀とすることこそ、後に続く世代に対する最大の義務である。
 ゆえに生命の旗を掲げ、人間精神の覚醒運動に進むわれわれにとっても、残る四半世紀は重大な意味をもつ時代といわなければならない。
 今、その出発点に立ったわれわれは、それぞれが置かれた環境に応じ、立場に応じて、その理念の伝播につとめ、もって恒久平和創出への確かな波動を高めていくことを決意するものである」
 この宣言は全参加者の賛同を得て採択された。
 二十一世紀の恒久平和の実現へ、新しき世界の連帯がつくられたのだ。
 続いて、世界五十一カ国・地域の参加者が紹介された。
 「初めに香港!」
 それぞれの地域名や国名が呼ばれ、メンバーが立ち上がるたびに、大歓声が会場を包んだ。
 カリブ海に浮かぶトリニダード・トバゴからも、ラオスやバングラデシュ、また、イランやアフリカのガーナ、ケニア、ナイジェリアからもメンバーが集っていた。
 この世界平和会議に駆けつけるための旅費を工面することも大変なメンバーもいた。
 しかし皆、尊き使命に生きる、各国の幸福の開道者であり、平和のパイオニアである。人類史を転換する無名の英雄たちなのだ。
17  SGI(17)
 世界平和会議は、代表のあいさつに移った。
 アジア代表の香港のメンバーは、一月十九日に文化祭を開催し、香港社会に平和の波動を広げたことを報告した。
 ヨーロッパ代表のフランスのメンバーは、毎年、全ヨーロッパの同志が一堂に集い、欧州家族祭を開催してきたことを述べたあと、その趣旨をこう語った。
 「それは、エゴイズムを克服し、生命を浄化する方途を知った私たちが、ヨーロッパのなかに人間と人間の心の連帯をもって、新たな精神の共同体をつくることをめざした行事であります」
 南北アメリカ代表のペルーのメンバーは、「今日の世界に必要なものは、人類的基盤に立った新しい地球人です」と力説。そして、世界市民の自覚を生命に深く刻み、一切衆生の生命尊厳を説く仏法の哲理を、広くペルー社会に伝えていきたいと抱負を語った。
 登壇した代表の話のなかで、ひときわ大きな感動を呼んだのは、アフリカ代表のケニアのメンバーのあいさつであった。
 「現在、アフリカは干ばつ、食糧問題等、数多くの難題をかかえております。しかも、どの問題一つとっても、全世界、全地球的規模で取り組まなければ解決のつかない問題ばかりであります。
 しかし、いまだ世界には、そのための共通の精神的基盤が欠如しております。世界を結ぶ、普遍的な精神の紐帯が見いだせずにおります。
 ゆえに、慈悲の哲理を根底に、世界の平和と民衆の幸福を築くために開催された、この平和会議に、私たちは限りない期待を寄せるとともに、重大な使命を感じております」
 賛同の大拍手が広がった。
 人類が立つべき共通の精神的基盤とは、国籍、民族、宗教等々は異なっても、皆が同じ人間であり、同じ地球に住む同胞なのだという認識をもつことである。
 また、生命は尊厳無比であり、いかなる理由によっても、人間を手段化してはならないという思想である。
 さらに、万人が幸福になる権利があるという哲学である。
 それを戸田城聖は「地球民族主義」と表現したのだ。そして、その根底をなす哲理こそ、日蓮仏法なのである。
18  SGI(18)
 日本を代表して、前年の十月に理事長になった十条潔があいさつしたあと、IBL(国際仏教者連盟)の名誉総裁となった宗門の日達法主の話となった。
 「このような国際会議は三千年の仏法史上、未曾有の出来事であり、まことに喜ばしいかぎりであります」
 彼は冒頭から賞讃を惜しまなかった。それは、率直な感想であったにちがいない。
 「日蓮大聖人がこの皆様のお姿を御覧になられたならば、どんなにお喜びになられるかと推察され、感涙おさえがたい思いがいたします」
 さらに、仏法の流布は″時″によると大聖人は仰せであるが、その″時″は山本伸一の努力によってつくられ、世界的な仏法興隆の時を迎えたことを強く訴えた。
 そして、「最も御本仏の御讃嘆深かるべきものと確信するものであります」と語ると、怒濤のような拍手が広がった。
 最後に、日達は、伸一が世界平和の潮流を巻き起こそうと率先して働いていることを語り、伸一を中心に「ますます異体同心に団結せられ、世界平和の実現をめざしてください」と話を結んだ。
 日達が明言したように、日蓮仏法を世界に弘め、正法隆昌の時代を開いたのは、まぎれもなく伸一をはじめとする創価学会員の命がけの奮闘によるものである。
 御書には「妙法の五字を弘め給はん智者をばいかに賤くとも上行菩薩の化身か又釈迦如来の御使かと思うべし」と仰せである。
 大聖人の仰せのままに、世界に妙法を広宣流布してきたわれら学会員に、無量無辺の功徳が降り注がぬわけがない。
 また、世界広宣流布の広がりは、学会が日蓮大聖人の仰せのままの、仏意仏勅の唯一の団体であることを裏づけている。
 弾むような司会者の声が響いた。SGI(創価学会インタナショナル)会長となった山本伸一の初めてのスピーチである。
 大拍手と歓声が場内を包んだ。
 「おめでとう。ありがとう!」
 演壇に立った伸一は、こう言って参加者に満面の笑みを向けたあと、会議の開催にあたってお世話になった地元グアムの関係者に対して、心から感謝を述べた。
19  SGI(19)
 山本伸一は、世界五十一カ国・地域から集った参加者の労を深くねぎらい、世界平和会議の意義について語っていった。
 「ある面から見れば、この会議は小さな会議であるかもしれない。また各国の名もない代表の集まりかもしれません。
 しかし、幾百年後には今日のこの会合が歴史に燦然と輝き、皆さんの名前も、仏法広宣流布の歴史に、また、人類史に、厳然と刻まれゆくことを私は信じます」
 確信に満ちあふれた伸一の言葉であった。
 ビクトル・ユゴーは、こう叫んでいる。
 「われわれには確信があるのだから、なにを恐れることがあろう?
 河が逆流しないように、思想も逆流などしない」
 それは、伸一の思いそのものであった。
 続いて彼は、現在、世界は軍事、政治、経済という力の論理、利害の論理が優先されることによって平和が阻害され、常に緊張状態に置かれているのが実態であると指摘した。
 そして、こうした平和阻害の状況を打破し、人類を統合し、平和への千里の道を開く力こそ、高等宗教であると訴えた。
 伸一は、ここで「異体同心なれば万事を成し」の御文を拝した。そして、生命尊厳の哲理を根本に、各国の民衆が団結して進んでいった時に、必ず永遠の平和が達成されると強調した。
 さらに伸一は、トインビー博士との対談の折、戦争の歴史であったこの世界を、どのようにして世界国家、世界連邦へと統合するかについて語り合ったことを述べた。
 「博士は、世界国家、世界連邦がまずできて、その段階で世界宗教が広まり、やがて理想的な社会が達成されるであろうと述べておりました。
 しかし、私は、世界宗教が広まった後に、世界国家、世界連邦という人類の理想的な社会が達成できるのではないかと主張したのであります」
 伸一は、博士がこの対話を通して、″将来、地球的規模で人類の統合がなされる時には、世界宗教が広まることが重要な役割を果たすであろう″との考えに立つようになったことを紹介した。
 そこには、トインビー博士の、人類を結ぶ新しき「世界宗教」に寄せる、大きな期待があった。
20  SGI(20)
 山本伸一は、さらに、対談の最終日にトインビー博士にアドバイスを求めた際の、博士の言葉を紹介した。
 「博士は大きく手を振って『何もない』と答えました。私は学者であり、実践家ではない、意見を述べるなど、おこがましいと言うのです。
 そして、『世界の人びとのために、仏法の中道哲学の道を、どうか勇気をもって進んでください』と言われました」
 また、伸一は、ワルトハイム国連事務総長との会談にも触れた。
 その折、事務総長が「あなた方の理念をよく知り、検討し、平和の実質的機構としての国連の運営に反映させていきたい」と語っていたことを伝えた。
 参加者は、世界の期待を、ひしひしと感じた。
 「創価学会は、物質主義に対する宗教の、そして戦争に対する平和の、勝利をもたらす大いなる希望である」とは、ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギーの洞察である。
 皆の顔は紅潮し、その目は、生き生きと決意に燃え輝いていた。
 伸一の言葉に熱がこもった。
 「ともかく地平線の彼方に、大聖人の仏法の太陽が、昇り始めました。
 皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします。
 私は、ある時は同志の諸君の先頭にも立ち、ある時は側面から、ある時は陰で見守りながら、全精魂を込めて応援していくでありましょう」
 最後に、彼は力強く呼びかけた。
 「どうか勇気ある大聖人の弟子として、また、慈悲ある大聖人の弟子として、また、正義に燃えた情熱の大聖人の弟子として、それぞれの国のために、尊き人間のために、民衆のために、この一生を晴れ晴れと送ってください!」
 伸一の言葉が各国語に訳されると、場内に雷鳴のような拍手が起こった。皆、手が赤くなるほど、いつまでも拍手を送り続けた。
 この日、この時、このグアムの地で、世界の同志は、伸一と共に、創価学会インタナショナル会長と共に、その弟子たる誇りに燃えて、平和のために立ち上がったのだ。
21  SGI(21)
 立ち上がって盛んに拍手を送るメンバーの胸には、山本伸一の「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください」との言葉がこだましていた。
 皆が、その決意をかみしめていた。
 西ドイツ(当時)から、ただ一人参加していたディーター・カーンは、何度もメガネを取っては目頭を拭った。彼は、山本SGI会長の平和建設への熱い心に、涙が込み上げてきて仕方がなかったのである。
 カーンは一九三〇年(昭和五年)に、ポーランド国境に近い、当時はドイツであったブレスラウ(現在はポーランドのブロツワフ)で生まれた。
 彼が八歳の時、ナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻を開始した。たくさんの戦車が轟音を響かせて進撃していくのを怯えながら見送った。それは、第二次大戦の始まりであった。
 小学校の校長であった彼の父親も徴兵され、ポーランド侵攻作戦に参加させられた。
 カーンは十歳になると、ナチスの少年団「ユングフォルク」に入団した。ドイツ民族がいかに優れているかや、敵国に対する憎悪、軽蔑を徹底して叩き込まれた。
 教育は諸刃の剣である。誤った教育ほど、恐ろしいものはない。
 「世界を改革するのは教育を改革することなのです」――これは、ナチスと戦ったポーランドの教育者コルチャックの命の叫びである。
 しばらくして父親は帰還したが、情勢が悪化すると、再び徴兵された。今度は、千キロほど離れたドイツ北方にあるヘルゴラント島の守備隊として派遣された。
 ドイツ軍はソ連にも侵攻した。スターリングラード(現在はボルゴグラード)では激しい攻防戦が展開され、四三年(同十八年)二月、市は廃墟と化したが、ソ連軍はドイツ軍を打ち破ったのである。
 この勝利を機に、ソ連軍は反撃に転じ、ポーランドからドイツへと迫ってきたのだ。
 四五年(同二十年)一月、カーンは母と姉の三人でブレスラウを出て、避難民の列に加わり、父親のいるヘルゴラント島をめざした。
 途中、ソ連軍の空襲に遭った。戦火のなかを必死になって逃げた。
22  SGI(22)
 避難民の列は延々と続いていた。自動車やオートバイは軍に接収されたために、皆、生活必需品を背負い、ひたすら歩くしかなかった。
 季節は真冬である。零下一○度を下回る日もあった。飢えと寒さで、老人や病人、赤ん坊などが次々と死んでいった。それは、地獄絵図さながらの光景であった。
 命がけの旅を続け、一九四五年(昭和二十年)四月、父親のいるヘルゴラント島に近いクックスハーフェンの町にたどり着いた。
 だが、守備隊として島にいる父と会うことはできなかった。
 翌月、ドイツは無条件降伏する。ようやく父親と再会できたのは、降伏から一カ月後のことである。
 敗戦は、それまでの価値観を崩壊させた。ドイツには、昨日まで敵国であったアメリカなどの文化があふれた。
 ディーター・カーンは社会の変貌に空虚さを感じた。ポッカリと空いた心の穴を埋めようとするかのように、ジャズにのめり込み、高校卒業後、しばらくして音楽学校に進んだ。
 しかし、音楽を生活の糧にしていくには困難な時代であった。彼は、英語を学び、駐留米軍の通訳となり、やがて航空管制官となった。
 カーンは結婚し、経済的には恵まれた生活を送った。だが、仕事のストレスから、家庭不和や不眠症などに悩むようになる。また、敗戦の時にいだいた心の空虚さが、常につきまとっていた。
 そんな時、米軍の軍人の夫人から仏法の話を聞かされた。
 座談会にも出席した。明るく、確信にあふれた皆の信仰体験を聞くなかで、仏法に心がひかれていった。
 座談会の中心者である米軍の軍人は、仏法を知るには実践することだと言う。
 カーンは、思い切って信心してみることにした。六八年(同四十三年)のことである。
 牧口常三郎初代会長は、信仰について、次のように指導している。
 「宗教というものは体験する以外にわかるものではない」「水泳をおぼえるには、水に飛び込む以外にない。畳の上では、いくら練習しても実際にはおぼえられない。勇気を出して自ら実験証明することです」
23  SGI(23)
 入信したディーター・カーンは、いやいやながらではあったが、勤行を実践してみた。
 すると不眠症が治り、熟睡することができた。また、娘が校庭の鉄棒から落ちて、病院に運ばれたが、怪我がなかったなどの現証が重なった。
 ″これが、仏法の力なのか!″
 彼は、信仰への確信をいだいた。確信は歓喜をもたらし、歓喜は新たなる行動の原動力となる。
 カーンは仏法を友人に語らずにはいられなかった。歓喜あるところに、広宣流布の怒濤の前進が始まるのだ。
 仏法対話の末に、ドイツ人の友人が入信した。その友人が、喜びにあふれて信心に励む姿を見て、彼の確信は、ますます深まっていった。
 カーンは、教学にも取り組み、仏法が生命の尊厳を説く、平和の哲理であることを学んだ。
 また、先輩のメンバーから、かつて会長の山本伸一が、東西の分断の象徴である、ベルリンのブランデンブルク門の前に立ち、ドイツの平和を真剣に祈念してくれたことを聞いた。
 彼は、その山本会長の心を思うと、胸が熱くなった。
 そして、少年時代の悲惨な戦争体験を思い起こし、ドイツ人である自分たちこそが、平和のために立ち上がらなければと決意した。
 さらにカーンは、活動に参加するなかで、人びとの幸福のために奔走し、互いに励まし合うメンバーの姿に、平和の実像を見る思いがするのであった。
 彼は、広宣流布こそ、自分が探し求めていた、生涯をかけるべきテーマではないかと思い始めていた。
 やがて、彼は班長の任命を受けた。五人ほどのメンバーのリーダーである。
 ドイツのメンバーには、日本から渡った、炭鉱で働く青年たちや看護婦(当時)、駐留米軍の日本人妻などが多かった。そのなかで、ドイツ人のリーダーが誕生したのだ。
 日蓮仏法が深くドイツに根を張っていくには、ドイツのことを最もよく知る、ドイツ人がリーダーとなって、活躍していくことが望ましい。
 メンバーは、「ドイツ広布の人材の出現だ」と語り合い、彼を懸命に支え、応援してくれた。
24  SGI(24)
 班長になったディーター・カーンは、会合で指導や御書の講義をすることもあった。
 そんな時は、その脇に先輩のメンバーが付き、足りない部分は補ってくれた。
 カーンが話をすると、うまく語れなくとも、常に温かい大きな拍手が起こった。彼は、皆の期待を痛いほど感じた。
 ″みんなのためにも、頑張ろう″と思った。
 一九七〇年(昭和四十五年)十月、彼は日本での研修会に参加するために来日。落成したばかりの聖教新聞社の新社屋で行われた「海外同志歓迎パーティー」に出席した。
 そこで、初めて山本伸一と会ったのである。
 カーンは、会長である伸一が、自ら参加者に寿司を配り、ねぎらいの言葉をかけ続ける姿に驚きを覚えた。
 伸一は、カーンの姿を見ると、包み込むような笑顔で語った。
 「よくいらっしゃいました。あなたが来られるのを待っていました。お会いできて嬉しい!」
 法華経には、正法を受持した人を見たならば、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(創価学会版法華経677㌻)と説かれている。
 伸一は、常に、その文を胸に刻み、特に海外メンバーに対しては、自分の命を削る思いで、励ましてきたのだ。
 カーンは、会ったこともない自分が来るのを待っていてくれたという伸一に、深い思いやりを感じた。感動を覚えた。
 ″自分のような人間にも、大きな期待をかけ、懸命に励ましてくださる。これが仏法指導者の心なのか。自分も、そんなリーダーにならなければ……″
 ――「誠心誠意をもって人に対すれば、不思議なほど対手(相手)に感動を与えるものである」とは、実業家として著名であった渋沢栄一の訓言である。
 誠意は、万人の心を動かす。
 カーンは、差し出された伸一の手を、ぎゅっと握り締めながら、「ドイツの広宣流布のために、生き抜きます!」と叫ぶように言った。
 一瞬の出会いであったが、これがカーンの発心の原点となったのだ。
 何人の人の発心の原点をつくることができたか――リーダーは常に、自身にそれを問うことだ。
25  SGI(25)
 ドイツの人たちの幸せと平和のために生涯を捧げようと決意したディーター・カーンは、毎年のように山本伸一の指導を求めて、日本に来るようになった。
 伸一と直接、言葉を交わす機会がないこともあったが、諸会合での伸一の指導を、一言も聴き漏らすまいと、乾いた砂が水を吸い込むように、懸命に吸収していった。
 そして、創価学会の歴史や精神を学ぶなかで、師弟の道に強い関心をもつようになっていった。
 ″牧口先生、戸田先生、山本先生という三代の会長によって、日蓮大聖人の仏法の正義は守られたのだ!″
 カーンは、大聖人の仰せのままに、試練を越えて、世界に真実の仏法を伝え、人びとの幸福と平和の実現に邁進してきた創価の師弟の道にこそ、最高の人間道があることを、強く、深く感じた。
 彼は、その師弟の精神が脈動する、伸一を中心とした世界的な創価学会の機構の結成を待ち望んでいた。
 それが、この日、伸一が創価学会インタナショナルの会長となり、SGIが発足したのだ。
 カーンの喜びは、誰よりも大きかった。
 彼は、世界平和会議が終了すると、伸一の側に走り寄り、話しかけた。
 「先生! SGI会長に就任してくださり、大変にありがとうございました。
 実は、今年の五月か、六月ごろ、ドイツ平和祭を計画しております。ぜひ、この平和祭においでください」
 「そうですか。参加できるように努力はしますが、私が行っても、行かなくとも、みんなで力を合わせて、大成功させてください。
 大事なのは団結です。本当に団結をするには、互いに思いやりの心をもち、尊敬、信頼し合っていなければならない。
 真の団結ができれば、全体も輝き、個人も生かされていく。団結こそ平和の真髄なんです。
 ドイツは、団結第一で進んでください」
 以来、「団結」は彼の指針となった。
 また、伸一は、この世界平和会議を記念して、カーンに歌を贈った。
  あなうれし
    君がドイツに
      誓いもち
    久遠の使命に
      いざや立つ見て
26  SGI(26)
 山本伸一が一九六一年(昭和三十六年)十月にヨーロッパを初訪問した折、第一歩を印したデンマークからも、一人の青年が代表として世界平和会議に参加していた。
 ヨン・ミラーというコペンハーゲン大学で日本文化を学ぶ二十八歳の青年である。
 十四年前に伸一がデンマークを訪れた時には、メンバーは誰もいなかったが、今では三、四十人のメンバーが誕生し、活発に座談会などが行われるようになっていた。
 どんな国や地域であっても、事態は刻一刻と変わっていくものだ。
 今はどんなに大変で困難な状況であっても、黙々と広宣流布の種を蒔き続けていくならば、必ずいつか花は開く。いな、必ず、そうしていくのだと決意することだ。
 祈りに祈り、粘り強く時を待ち、時をつくるのだ。「一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」というのが、日蓮大聖人の大確信であられる。
 ミラーの入信は、六七年(同四十二年)十二月である。フォルケホイスコーレ(国民高等学校)の名門アスコー校の寮で同室となった、上岡政之という青年から仏法の話を聞かされたのだ。
 フォルケホイスコーレは、行政から独立した社会教育施設である。十八歳以上の義務教育修了者を対象とした全寮制の学校で、教師と学生が寝食を共にしながら、対話を通し、啓発し合ってゆくことを重視した教育が行われていた。
 上岡は、日本で学生部員として活動に励んでいたが、若い時代に世界を見ておきたいと考え、大学を休学して、世界に旅立ったのである。
 ソ連を経て、フィンランドのヘルシンキに行き、そして、デンマークのコペンハーゲンにやってきたのである。
 農場で働き、デンマーク語を学んだ。さらに多くの人と交流を深め、デンマークについての勉強もしたいと考え、フォルケホイスコーレのアスコー校に進んだ。
 一方のミラーは、徴兵されて、兵役を終えたあと、これからの自分の生き方を探すために、アスコー校に入学した。六七年(同四十二年)秋のことである。
 生きるとは学ぶことであり、向学心に燃えていることが、青年の青年たるゆえんである。
27  SGI(27)
 アスコー校の三百人ほどの学生のなかで、日本人は上岡政之、ただ一人であった。
 上岡は、寮の部屋で、朝夕、元気な声で勤行をした。
 同室のヨン・ミラーは、日本といえば「サムライ」という印象しかなく、日本のことはよくわからなかった。
 彼は″こうして何か唱えるのが、日本人の生活様式なのか″と思いながら、いぶかしそうに上岡の勤行を見ていた。
 ある日、ミラーは、とうとう上岡に尋ねた。
 「マサユキ、君が朝晩やってるのは、いったい何かね」
 「あれは日蓮大聖人という、最高の仏が説いた仏法の修行だよ。毎日、経文を読み、南無妙法蓮華経と唱えることによって、自分自身の生命を変えていくことができるんだよ。
 平和や社会の変革といっても、人間の生命が変わらなければ、結局、何も変わらない。仏法は自身の人間革命を根本に、社会の平和と繁栄を築く道を示した、素晴らしい生命哲学なんだ」
 そして上岡は、仏法の生命論を語り始めた。
 ミラーは、以前からインドやチベットの仏教に興味をもっていたが、上岡が語る生命論は、仏教に対するイメージを一変させた。
 彼は日蓮仏法に魅了され、時には一緒に唱題するようになった。
 十二月、アスコー校の授業で、ロシア革命の講義があった。ミラーが日ごろから尊敬を寄せていた教師が、講義の結びにこう語った。
 「フランス革命は政治革命、ロシア革命は経済革命であった。もし次に革命が起こるとすれば、それは人間の内面の変革をめざした精神の革命でありましょう」
 その言葉に目から鱗が落ちる思いがした。
 ″それは、マサユキが言っている「人間革命」のことではないか!″
 彼は、社会をどうするかを真剣に考えようとしている青年であった。
 「改革者たるものが関心をもたなければならないのは、外面的形式よりも内的精神における根本的な変革である」とは、ガンジーの指摘である。
 人間革命こそ、崩れざる幸福と平和実現のための決定打であり、世界が希求する革命なのだ。
 ミラーは入信した。
28  SGI(28)
 信心を始めたヨン・ミラーは、創価学会のことや、会長の山本伸一のことを、ぜひ、自分の目で確かめたいと思った。
 ミラーが日本に到着したのは、一九六八年(昭和四十三年)の五月末であった。
 彼は、どこへ行っても、学会員に温かく迎えられ、大歓迎された。
 学会には、民族や国家を超え、信仰によって結ばれた心の連帯がある。
 ミラーは、東京・台東体育館で行われた男子部幹部会にも連れて行ってもらった。この幹部会には伸一も出席した。
 ミラーは、一階のほぼ中央の席に座った。
 開会が宣言され、次々と青年が登壇した。皆、絶叫調であり、盛んな拍手と歓声に包まれ、会場は熱気にあふれていた。
 彼は、その雰囲気に驚嘆した。すごいとも思ったが、違和感も覚えた。
 伸一は、幹部会が始まると、壇上から参加者をじっと見ていた。彼の視線は、頬から顎にかけてヒゲを生やした金髪の青年に注がれた。ミラーである。
 世界広宣流布に真剣勝負で臨む伸一の生命のレーダーは、デンマーク人の青年を見逃すことはなかった。強き一念が発する照射力といえよう。
 伸一は、あいさつの冒頭、こう語った。
 「今日は、海外の同志も参加されています。皆さん方の代表として、念珠を差し上げたいと思います。どうぞ、前においでください」
 そして、ミラーに向かって手招きした。
 日本語ができないミラーは、伸一が何を言っているのかわからなかったが、周囲に促されて、舞台の下まで進み出た。
 伸一は、「高いところからすいません」と言って、舞台の上で腰をかがめ、念珠の入った箱を手渡した。
 ミラーはそれを受け取ると、伸一の手を力いっぱい握った。伸一も彼の手を、強く握り締めた。
 「お名前は? どこの国からいらしたの?」
 伸一の言葉を、英語のできる壇上の幹部が訳した。ミラーも英語なら話すことができた。
 「ヨン・ミラーです。デンマークです」
 「よく来たね。遠いところ、ご苦労様! お会いできて嬉しい」
 その言葉に、ミラーは人間的な温かさと慈愛を感じた。熱い感動が全身を駆け巡った。
29  SGI(29)
 山本伸一は、ヨン・ミラーと握手を交わしながら言った。
 「デンマークの人びとの幸福のために、頑張ってください!」
 ミラーは頷いた。
 彼は、自分の胸を射貫くような伸一の目の輝きから、大きな期待と真心を感じ取った。これがミラーの、大きな転機になったのである。
 伸一は一人ひとりとの一回一回の出会いに、常に全精魂を注いできた。
 ″この出会いが、彼を励ませる最後の機会かもしれない。生涯の崩れざる幸福の軌道を築いてほしい。広宣流布に断じて生き抜いてほしい″
 いつも伸一は、こう懸命に祈り念じつつメンバーに接し、励ましの言葉をかけ続けた。
 その必死さが、真剣さが、相手に伝わり、魂を揺さぶるのである。励ましとは、生命の触発作業なのだ。
 デンマークに戻ったミラーは、しばらく働いたあと、コペンハーゲン大学に入学する。大学には上岡政之が先に入学していた。ミラーは、日本文化を学び、日本語の習得にも力を注いだ。
 上岡は、当初、一年間ほどで帰国するつもりであったが、デンマークで暮らすなかで、ミラーと一緒にデンマークの広宣流布に生きる決意を固めていったのである。
 伸一は、デンマークを担う二人の青年を、ヨーロッパ訪問の折などに、会って励ましてきた。″生涯、人間革命の大道を!″との万感の思いを込めて。
 そして、今回の世界平和会議には、ミラーがデンマークの代表として参加したのである。
 伸一は、ミラーをグアムに迎えた時には、肩を抱いて再会を喜んだ。また、世界平和会議のあとにも懇談し、彼の質問に懇切丁寧に答え、激励を重ねた。
 以来、ミラーは伸一の期待に応えようと、デンマーク広布の礎を築いていった。
 やがて、上岡はデンマークSGIの初代理事長に、ミラーは二代目の理事長となっていく。
 また、二人が出会った母校のアスコー校から、二〇〇〇年九月、山本伸一に第一号の「教育貢献賞」が贈られ、さらに、その後、同校内に、牧口常三郎、戸田城聖、山本伸一の「三代会長の木」が植樹されることになるのである。
30  SGI(30)
 山本伸一は、世界平和会議でスピーチを終えると、各テーブルを回って参加者をねぎらった。
 東南アジアのメンバーの席に来た時、温厚そうな五十代後半の壮年に声をかけた。シンガポールの代表である高康明であった。
 「高さん、よく頑張ってきましたね。シンガポールの広宣流布は大きな広がりを見せています。
 私が最初にシンガポールの空港に降りた時には、まだ、メンバーは誰もいなかった……」
 それは、伸一が初めてアジアを歴訪した一九六一年(昭和三十六年)の一月のことであった。香港からセイロン(現在のスリランカ)のコロンボに向かう途中、飛行機の給油のために立ち寄ったのである。
 日本軍は、戦時中、シンガポールを占領し、人びとに塗炭の苦しみを味わわせ、多くの生命を奪った。
 空港でそのことを思うと、伸一の胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
 彼は、一人の日本人として、シンガポールの平和と人びとの幸福のために、生涯、献身し抜いていくことを心に誓った。
 そして、空港の待合室の窓辺に立ってシンガポールの繁栄を祈り、″出でよ、地涌の菩薩よ! 集い来れ、使命の同志よ!″と、懸命に唱題したのである。
 「あれから十四年で、シンガポールも、また、あなたが担当してきたマレーシアも、広宣流布は大きく進みました。隔世の感があります。
 高さんの功績です。あなたが陰でどれほど苦労して奮闘してきたか、私はよく知っております」
 「戦って戦って戦い抜いた人は、必ず賞讃せよ!」とは、戸田城聖の教えであった。
 広宣流布の功労者を讃えることは、″仏の使い″を讃えることだ。
 高は「もったいないお言葉です。私など……」と言って目を潤ませた。
 高は中国名を名乗っているが、瀬戸内海に浮かぶ愛媛県の弓削島生まれの日本人である。
 商船学校に学び、このころから、英語の学習に力を注いだ。卒業後は、貨物船の航海士を務めたあと、船舶の入出港の手続きなどを行う船舶代理店に勤務した。
 そこでシンガポールに派遣されたのだ。戦時中の一九四二年(昭和十七年)のことである。
31  SGI(31)
 高康明がシンガポールに来たのは、日本軍による占領直後であった。日本はシンガポールを「昭南」と呼び、現地の人たちに対し、傍若無人な振る舞いを重ねた。
 高は、それが腹に据えかねていた。
 ″あんなことでは、日本人は嫌われるだけだ。同じ人間ではないか!
 現地の人に信頼されなければ、何をやってもうまくいくはずがない″
 彼は、知り合った現地の人たちから、マレー語や福建語を教えてもらい、現地の言葉でコミュニケーションをとろうと努力した。
 敗戦後、高は収容所に入れられた。収容所を出た彼を、現地の人たちは温かく迎えてくれた。
 「占領時代もあんたは威張らなかった。シンガポールの言葉をしゃべるあんたは、俺たちの仲間だ。あんたをみんなで応援するよ」
 本当の信頼は、地位や立場によって得られるものではない。人柄が信頼を勝ち取るのだ。人柄こそが人の心を結ぶ力となるのだ。
 高は、シンガポールの人たちが、″憎むべき日本人″を仲間として迎えてくれた心に、深い感動を覚えた。
 彼は思った。
 ″俺はここに残留し、シンガポール人として、シンガポールの人びとのために尽くしたい……″
 現地の人たちは、敗戦で一文無しになっていた彼を助けてくれた。
 その尽力によって、彼はシンガポールで船舶用の食糧納入業を始めることができた。寄港する船に野菜をはじめ、食糧を納入する仕事である。
 一九五二年(昭和二十七年)四月、対日講和条約が発効。やがて日本船も頻繁に寄港するようになった。
 彼は、日本とシンガポールのパイプ役になって、平和のために寄与したいと思った。
 高康明は、商用で日本に行った折、商船学校時代の教官から、信心の話を聞かされた。
 「この日蓮大聖人の仏法こそ、世界の人びとを救う幸福の道なんだよ」
 元教官の確信にあふれた話が胸に響いた。
 この仏法対話が契機となり、六四年(同三十九年)六月、高は信心を始めた。
 ″シンガポールの人たちに真実の仏法を伝えよう。それが最高の恩返しになるはずだ!″
32  SGI(32)
 シンガポールには、一九六三年(昭和三十八年)八月に地区が結成されていた。シンガポールも加わり、マレーシア連邦が発足する直前のことである。
 しかし、高康明が入信した時には、地区部長であった日本人が既にシンガポールを離れており、高の周囲には信心の先輩はいなかった。
 彼は、日本で教えられた通りに、懸命に唱題に励んだ。
 最初に信心の体験をつかんだのは、一緒に題目を唱えるようになった妻であった。彼女は内臓疾患で八回も手術を重ねてきたが、信心を始めると、目に見えて健康になっていったのである。
 この体験を、二人は喜々として語って歩いた。
 しかし、なぜ、そうなるのか、なぜ日蓮大聖人の仏法には功徳があるのかを聞かれると、説明はしどろもどろになった。
 功徳を実感し、語るべき体験もあるのに、意を尽くせないことがもどかしかった。
 高は、日本から学会の書籍や聖教新聞を送ってもらい、教学などを懸命に学びながら、仏法対話を重ねていった。
 大聖人は「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」と仰せである。実践と教学とは、広宣流布を進める車の両輪である。
 高は事業を拡大し、マレーシアのペナンにも支店を出していた。
 彼は、ここでも人びとの幸せを願い、果敢に仏法対話に励んでいった。
 六五年(同四十年)、シンガポールはマレーシアから分離・独立する。
 高は、六七年(同四十二年)六月、シンガポール地区の地区部長に就任した。翌年には、後にマレーシアの中心者となる柯文隆が入信している。
 六九年(同四十四年)八月、シンガポール支部が結成される。支部長になったのは、技術協力事業の仕事で日本から派遣されていた大峰嘉雄という壮年であった。
 高康明はこの時、マレーシアのクアラルンプール支部の支部長となったのである。
 人事の相談を受けた彼は、キッパリと言った。
 「広宣流布のためですから、どこへでも通います。苦労を避けていたのでは、仏道修行ではありません。その精神を忘れたら、信仰の堕落であると思っています」
33  SGI(33)
 クアラルンプール支部の支部長になった高康明と共に、勇んで活動を開始したのが、ペナンで雑貨商を営む柯文隆と、その弟でクアラルンプールにいた柯浩方であった。
 柯文隆は、一九二八年(昭和三年)に、中国南部にある現在の広東省潮州(チャオチョウ)市に生まれた。
 文隆は四人兄弟の長男であり、十三歳年下の浩方は末っ子であった。
 四五年(同二十年)の十二月、父親が病死する。文隆は、一家の生計を担うために、イギリスの植民地であったマレー半島西岸のペナン島で働くことにした。多くの同郷人が、ここで働いていたのである。
 彼は、一生懸命に働いては、せっせと家族に送金し、数年後に母親を呼び寄せた。
 弟の浩方も、十五歳になるとペナンに来た。兄弟で力を合わせて働き、日用雑貨店を開いた。
 文隆はクアラルンプールにも店を出した。その管理を任された浩方は、母と一緒に転居した。
 やがて浩方は、店を譲り受け、着実に発展させていった。
 一方、ペナンの柯文隆の店の経営は、次第に行き詰まっていった。
 そんな折、文隆は、仕事で付き合いのあった高康明から仏法の話を聞いたのである。
 高は、商売一筋に励んできた柯文隆に、わかりやすく信心について語っていった。
 「世の中には、努力をしても報われないことが、あまりにも多い。しかし、この信心をすれば、努力した分だけ幸せになれます。″おまけ″も″不足″もない。
 自分が努力し、信心に励んだ分がすべて結果となって現れる。つまり、仏法というのは、生命の厳然たる原因と結果の法則なんですよ」
 柯文隆は「″おまけ″も″不足″もない」との言葉が気に入った。
 相手の幸福を願い、仏法対話に励むなかで、新しい説得性ある英知の言葉が生まれる。
 巧みな比喩や明快な理論は、現場の知恵であり、真剣さの産物といってよい。
 柯文隆は信心を始めた。唱題にも活動にも懸命に取り組んだ。すると次々と知恵がわき、商売は軌道に乗った。
 そのなかで彼は、幾つもの功徳を実感していった。
34  SGI(34)
 功徳を受けるたびに柯文隆は、信心に対する確信を深めていった。彼は仏法を、人に語らずにはいられなかった。
 相手の幸せを願い、仏法対話に励むと、さらに歓喜と充実を覚えた。
 「われわれは他人のために生きたとき、はじめて真に自分のために生きるのである」とは、文豪トルストイの真理の言葉である。
 人間と人間の輪のなかに、広宣流布の活動のなかにこそ、生命の躍動と真実の歓喜があるのだ。
 柯文隆の店の二階で、座談会は毎晩のように開かれた。そこに高康明がやって来て、日蓮大聖人の仏法のすばらしさを訴えるのである。
 「あそこに行けば、いい話が聞けて、幸せになるそうだ」
 そんな噂が広がった。
 柯文隆は、クアラルンプールで弟の浩方と共に暮らす母にも、仏法の話をしに行った。母は、息子が熱心に勧める信仰ならばと、入信した。
 しかし、浩方は、兄の話を、せせら笑いながら聞いていた。
 彼はこう思っていた。
 ″なぜ、兄貴は、よりによって日本の宗教などやったのかな……。
 日本は、戦時中は武力侵略し、戦後は経済侵略をしてきた。その上、今度は、宗教侵略を狙っているのか。
 兄貴にも困ったものだ。そのお先棒を担いでどうするんだ″
 一九六九年(昭和四十四年)五月のことであった。マレーシアで、選挙を契機にして、人種問題から暴動が起こった。
 マレーシアもシンガポールも、マレー系、中国系、インド系などの人びとで構成される多民族国家である。
 クアラルンプールでは非常事態が宣言され、店を開けることもできない日が続いた。
 ″このまま、いつまで混乱が続くのだろうか″
 不安にさいなまれた浩方は、母の御本尊に向かい、題目を唱えてみた。
 店は、暴動に巻き込まれることもなく、やがて事態は収束した。
 彼は″俺は守られたのだ″と思った。
 しかも、その後、店の商品が飛ぶように売れ始めたのである。
 題目の力を実感した浩方は信心を始めた。
 彼は、この出来事から、どうすれば人種間の争いがなくなるのか、真剣に考え始めた。
35  SGI(35)
 ″それぞれの民族が、互いに理解を深め、信頼し合い、団結していかなければ、マレーシアの発展はない!″
 柯浩方は思った。柯文隆も同じ考えであった。
 彼らは、マレーシアの平和と繁栄を願い、懸命に信心に励んだ。そして、万人に「仏」の生命があると説く仏法の生命尊厳の哲理こそ、人間共和の根本思想であるとの確信を深くしていった。
 一九七二年(昭和四十七年)秋、柯兄弟は高康明らと共に来日した。その折、世界各国のメンバーが集って、正本堂の落慶を祝う文化祭が開催されたのである。
 そこには民族や国籍、言語などの違いを超え、スクラムを組み、人類の平和を誓い合う崇高なる魂の結合があった。
 柯兄弟は、人間共和の実像を見た思いがした。皆が互いに握手を交わし、讃え合う姿は、夢のようでもあった。
 「兄さん、これだ、これなんだよ。マレーシアにつくらなくてはならないものは!」
 「そうだ。まさに平和の縮図だ!」
 二人は肩を叩き合い、小躍りして喜び合った。
 柯兄弟の胸に、マレーシアに、この人間讃歌の哲理を伝え抜こうとの決意が、熱い闘魂となってたぎった。
 平和は彼方にあるのではない。自分のいるその場所に、信頼と友情の世界を築き上げるのだ。その輪の広がるところに、世界の平和があるのだ。
 柯文隆は世界平和会議の前年(七四年)にも、マレーシア、シンガポールのメンバーと共に、日本での夏季講習会に参加した。
 メンバーが学会本部を訪れた折、山本伸一は本部内で行われていた学生部の会合に皆を招いた。
 遠来の友と、さらに出会いを重ね、励ましたかったのである。
 伸一は入り口に立ち、最敬礼しながら、一人ひとりと握手を交わした。
 自らマイクを握って司会・進行役も務めた。質問会を行い、ピアノも弾いた。汗まみれになりながらの、体当たりの激励であった。
 柯文隆は、その伸一の振る舞いを生命に焼き付けるように見ていた。
 ″先生は、まさに命を削って私たちを励ましてくださる。これが仏法指導者の在り方なのか! この精神を受け継がなくては!″
36  SGI(36)
 前年の学会本部での出会いから約半年、今、世界平和会議で柯文隆は高康明の隣の席に座り、満面に笑みをたたえていた。
 山本伸一は、二人を見て言った。
 「多民族国家であるマレーシア、そして、シンガポールに、人間共和と世界平和のモデルをつくり、社会に大きく貢献していってください。
 私たちには、仏法という異体同心の哲学があります。したがって、それぞれの国にあって、人びとの団結の要になっていく使命があります。
 また、未来のために、青年を育ててください。二十一世紀は青年に託す以外にありません。青年が育っていったところが、すべてに勝利します。
 マレーシアも、シンガポールも、これからどんどん発展していくことでしょう。また、皆さんの力で、必ず、そうさせてください。未来を楽しみにしていますよ」
 通訳が伸一の言葉を訳し終えると、柯文隆は、感極まった顔で言った。
 「先生、ぜひマレーシアにいらしてください」
 伸一は、間髪を入れずに答えた。
 「必ずまいります」
 「先生がお見えになる時までに、世界の模範の創価学会をつくります。青年を育て上げます」
 この世界平和会議の翌年、柯文隆はマレーシア本部の本部長となった。
 彼は「団結第一」を叫び抜き、マレーシアに幸福と平和の波を広げた。
 しかし、一九八二年(昭和五十七年)七月、伸一の訪問を待たず、病のために他界したのである。五十三歳であった。
 柯文隆は、自らの人生の時間を自覚していたかのように、一日一日を、一瞬一瞬を、マレーシアの人びとの幸せのために懸命に尽くし抜いた。
 「永遠に生活する心構えで働け。同時に今すぐ死ぬ心構えで働け。そして今すぐ死ぬ心構えで他人にふるまえ」と、文豪トルストイは叫んだ。この言葉のごとく柯文隆は生きたのだ。
 彼は「臨終只今にあり」との決意で、力の限り、命の限り、皆を励まし抜いてきた。それによって、マレーシア創価学会の大発展の礎が築かれたのだ。
 葬儀には、全国からメンバーが集い、彼の死を悼みつつ、その志を受け継ぎ、マレーシアの繁栄と平和建設を、固く、強く心に誓ったのである。
37  SGI(37)
 柯文隆の後を継いで、マレーシアの本部長となったのが、弟の柯浩方であった。さらに、一九八四年(昭和五十九年)にマレーシアの創価学会が全国法人を取得すると、浩方は初代の理事長となった。
 柯文隆は「未来のために、青年を育ててください」との山本伸一の指導を忠実に実践してきた。その精神は、マレーシアのよき伝統として、浩方にも受け継がれた。
 よき精神が、生き生きとして継承されている組織は強い。ましてや青年を大切にし、育んでいこうという心が脈打ち、流れている組織には行き詰まりはない。永遠の発展がある。
 柯浩方は、マレーシアから創価大学に留学したメンバーと、自分が来日するたびに、食事を共にしながら、こう言って激励してきた。
 「私も、若ければ、山本先生がつくられた創価大学で勉強したかった。しかし、残念ながらそれはできない。そういう思いをいだいている、壮年や婦人は数多くいると思います。
 あなたは、私たちに代わって創価大学に留学された。それは私たちマレーシア同志の誇りです。
 どうか、創立者の山本先生のもとで、しっかり勉強してきてください」
 山本伸一が念願のマレーシア訪問を果たしたのは八八年(同六十三年)の二月のことであった。
 マレーシア文化会館を訪れた伸一は、柯文隆の夫人と共に、柯文隆の功労を讃えて、庭に記念の植樹をした。
 伸一は言った。
 「本当に偉大な方でした。柯文隆さんによってどれほど多くの方々が励まされたことか……」
 夫人は、目を潤ませて語った。
 「もう、なんの悔いもありません。山本先生がすべてわかってくださっているのですから」
 また、そこには見事に育った多くの青年たちの姿があった。柯文隆、そして柯浩方が、全精魂を込めて育んできた結晶の若き人材たちであった。
 「成長しゆく世代の人々は未来そのものです。その青年を教育しているあなた方は、未来に対する準備をしているのです」とは、ユゴーの箴言である。
 青年を育ててこそ、人道と平和の流れは永遠の大河となるのである。
38  SGI(38)
 山本伸一はマレーシア訪問の折、マハティール首相と会見し、アジアの平和に思いを馳せながら、指導者論などを語り合い、友誼の交流を深め合った。
 さらに伸一は、引き続いてシンガポールを訪問し、リー・クアンユー(李光耀)首相と会見。二十一世紀を展望しつつ、国連の役割や日本の使命、人生論などについて語り合った。
 そのあと、メンバーの代表者会議に出席した伸一は、シンガポールの理事長になっていた高康明に言った。
 「高さん。マレーシアにも、シンガポールにも、仏法の人間主義の哲学は大きく広がりました。これは、あなたの勝利です。
 あなたが信心を教えたマレーシアの柯文隆さんは亡くなられた。したがって、柯さんの分まで、生きて生きて生き抜いて、希望と勇気の灯台となってください」
 高は、既に七十歳を超えていた。彼は、伸一の手を握り締めて言った。
 「わかりました。人びとの幸福のために、社会の繁栄のために、力を尽くし抜いてまいります」
 高康明は、この約束通り、同志を守り、励まし続けた。彼のもとからたくさんのメンバーが、社会貢献の人材として育っていった。
 SGIに対する信頼も増し、シンガポールもマレーシアも、政府の要請を受け、メンバーが国家行事に連続して出場。ダンスや体操などの演技を披露してきた。
 また、両国には創価幼稚園がつくられ、幼児教育の模範として高い評価を得ている。
 二〇〇〇年(平成十二年)に、伸一がシンガポールを訪問した時には、高康明は八十四歳になっていた。彼は杖をついてシンガポール創価学会の本部に来て、柔和な笑顔で伸一を迎えた。
 この東南アジア広布の開拓者が、尊き生涯の幕を閉じたのは、八十八歳であった。生前、彼は語っていたという。
 「人類の長い歴史のなかで、創価学会に、そして偉大なる師匠に巡り会い、広宣流布のために働けることがいかにすばらしいか、私は今、心の底から実感します」
 大聖人は仰せである。
 「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
39  SGI(39)
 世界平和会議の会場を回っていた山本伸一は、アフリカのメンバーの席に来ると、日本人青年に声をかけた。ガーナ指導長の南忠雄である。
 聖教新聞の海外常駐特派員として、一年前からガーナに派遣されている青年であった。
 「南君、今度は家族を連れて赴任するんだね。
 いよいよ、これからが正念場だよ。大変なことの連続かもしれないが、歯を食いしばって頑張り抜くんだ。
 同じ一生ならば、アフリカの人びとの幸福のために人生を捧げ、広宣流布のパイオニアとして名を残すことだ。それが君の使命だ。
 崇高な使命に生きられるということが、どんなにすばらしいか、やがて、しみじみとわかる時がくるよ。君がこれから、どうしていくのか、私は、じっと見ているよ」
 「はい!」
 南は、すっかり日焼けして黒くなった顔で、目を輝かせて頷いた。
 聖教新聞社では、二年前の一九七三年(昭和四十八年)から、アメリカ、香港、フランスに海外常駐の特派員を派遣してきた。その第二陣として、西ドイツ(当時)、ガーナ、ペルーにも、特派員を送ることになり、南はガーナに派遣されたのである。
 彼は、新聞社で常駐特派員を募った時、勇んでガーナ行きを希望した。創価学会本部の職員となり、聖教新聞社に配属された時から、南は、世界広宣流布のためには、どこへでも行こうと心に決めていたのだ。
 ″キリスト教の宣教師たちも、苦難を厭わず、世界のどこまでも行き、伝道にあたった。
 学会にも、それ以上の決意をもった人が、たくさん出なければ、世界の広宣流布など、できようはずがない……″
 わが身を粉にして働く人、殉難をも恐れぬ覚悟の人の、血と汗と涙の敢闘こそが、広宣流布の茨の道を開くのだ。
 もしも、職員や学会のリーダーたちが、楽をすることや、わが身の安泰や保身ばかりを考えるようになれば、広宣流布の道は断たれてしまうにちがいない。
 仏法のために、一身を捧げた人は、経文に照らし、御書に照らして、わが生命を永遠に荘厳し、絶対的幸福境涯の道を確立していけるのだ。仏法には犠牲はない。
40  SGI(40)
 南忠雄は神奈川県横須賀の出身で、小学校三年の時、病で父親を亡くしていた。
 以来、母親が和裁の仕事をして子ども五人を育てた。生活は至って苦しかった。
 彼が中学に入った年に母が入会。それから間もなく彼も信心を始めた。一九五四年(昭和二十九年)のことであった。一家に希望の光が差した。
 中学を卒業すると、彼は働きながら定時制高校に通った。さらに夜間の大学に進み、新聞学を学んだ。
 南は、学会活動に励むなかで、民衆の幸福と世界の平和を実現することが創価学会の目的であり、自分もその使命を担っていることを自覚するようになっていた。
 また、病苦や経済苦、家庭不和などの悩みで押しつぶされそうになっていた人が、信心で立ち上がり、人生の勝利劇を堂々と演ずる姿を、幾度となく見てきた。
 それが信仰への確信となり、広宣流布に生き抜こうとの思いをいだくようになっていった。
 大学卒業後は本部職員として採用され、聖教新聞の記者となった。念願の職場であった。
 しかし、入社後、体調を崩してしまった。
 南は思った。
 ″仕事をするうえで大事なのは健康だ。体を鍛え、体力をつけよう″
 仕事が多忙であればあるほど、食事や休息の取り方を工夫したり、体を鍛えるなどの努力が大切になる。健康管理の責任は、百パーセント自分にあるととらえることだ。
 彼は、毎朝、始業前にランニングをするようになった。その南の姿を、山本伸一は、じっと見ていたのだ。
 黙々と自らを鍛錬していくなかに、力は蓄積されていくのだ。
 南は、ガーナ行きの希望を伝えて十日ほどしたころ、伸一から会食に招かれた。
 「君はガーナに行ってくれるんだね」
 「はい!」
 「ガーナは英語だな。君は英語はできるのか」
 「できません」
 「かまわないよ。当たって砕けろの心意気で行きなさい。
 『人間到る処青山あり』だ。活躍の舞台は広い。広宣流布の大望をもって、人生を生き抜くことだよ。これからは世界が大事になる。行ってくれるね」
41  SGI(41)
 山本伸一は、最後に、南忠雄に言った。
 「来年になったら出発しなさい」
 南は、ガーナ広布に胸を躍らせながら伸一と別れた。会食の会場を出ると、妻に電話を入れた。彼は結婚して、まだ一年に満たなかった。
 「今度、ガーナに行くことになったよ」
 「よかったわね」
 「うん。永住することになったんだ」
 「…………」
 妻は絶句した。永住するということにショックを受けたのだ。
 南は、この日、ガーナ関係の書籍を購入して帰った。彼はガーナについてほとんど知識がなかった。知っていることといえば、ガーナの名を冠したチョコレートがあることと、エンクルマが大統領を務めたということぐらいであった。
 その後、伸一は、南の妻とも会って激励した。
 「今度、ご主人にはガーナに行ってもらうことになりました。ご苦労をかけますが、一緒に行っていただけますか」
 「はい!」
 彼女は、既に心を定めていたようだ。
 伸一は、諄々と、力のこもった声で語った。
 「夫婦でアフリカに行って、広宣流布の道を開く――これは仏法の法理の上から見れば、過去世からの約束なんです。この世の使命です。したがって、腹を決めて頑張ることが大事です。
 奥さんが、はつらつとして元気であれば、ご主人は頑張れる。しかし、何かあるたびに、めそめそして、愚痴ばかりこぼしていたのでは、ご主人は力を出せません。
 ご主人がガーナで成功するもしないも、すべてはあなたにかかっています。それを忘れずに、強く、強く、生き抜いて、必ず人生の大勝利を打ち立ててください」
 大聖人は「をとこのしわざはのちからなり」と仰せである。
 さらに峯子も、「ご主人のためにもアフリカを好きになってください」と南の妻を励ました。
 この時の伸一と峯子の激励が、彼女の心の支えとなったようだ。
 また、伸一は、南の出発に際して歌を贈った。
  遙かなる
    君が燃えゆく
      アフリカに
    われは命の
      唱題おくらむ
42  SGI(42)
 年が明けた一九七四年(昭和四十九年)の一月下旬、南忠雄は、単身、ガーナへと旅立った。
 一年ほどしてから、妻を呼び寄せることになっていた。
 南はガーナ広布への決意に燃えて、ガーナの首都アクラに立った。
 彼の立場は、聖教新聞の常駐特派員であるとともに、組織的にはガーナの指導長である。
 当時、ガーナのメンバーは二百五十人ほどであった。中心者である現地人の青年は、ある程度、日本語もわかった。彼の妻が日本人であった。
 南は、しばらく、この中心者の家に世話になることになった。
 街は道路整備が進んでいたが、建物は二階建て程度で、高層ビルはほとんどなかった。街の中心部を外れると、トタン屋根の家が並んでいた。
 赤道に近いガーナは、さすがに暑かった。彼が着任したころは乾期で、ハルマッタンと呼ばれる乾燥した風が吹き、温度は四〇度を超えることもあった。
 買い物をするにも、直射日光を浴びずに最短距離ですませる工夫を考えなければならなかった。
 最も閉口したのが電話である。回線が少ないために、国際電話を申し込み、指定された日時を待つ。ところが、その日時になっても、つながらないのだ。
 ガーナ着任の知らせも、結局、国際電報で本社に伝えたのである。
 新聞の原稿はエアメール(航空便)で送った。日本に着くまでに十日以上かかった。船便だと一カ月半はかかってしまう。
 彼が困惑したのは給料の受け取りであった。日本から海外の銀行を経由して、現地の指定した銀行に届くのだが、銀行に行くと、「来ていません!」というのだ。
 「そんなはずはない」といっても、それ以上、調べてはくれなかった。
 あとで判明したところでは、途中の銀行が作った書類に不備があって、振り込まれなかったようだ。
 南は当初、すべて日本と比べて、日々、落胆ばかりしていた。しかし、ある時、その間違いに気づいた。
 ″日本を基準にものを考えていたのでは、いつまでたってもガーナ人の心はわからない。「郷に入っては郷に従え」である。日本と比較して一喜一憂するのはやめよう″
43  SGI(43)
 ガーナで南忠雄は、メンバーの家を激励に回った。皆、歓待して、水を出してくれた。
 どの家も生水である。南は飲むと、必ず腹をこわした。
 三カ月ほどしたころであった。風邪をひいたような感じの熱っぽい状態が続き、それから悪寒と震えに襲われた。
 熱を測ると四〇度を超えていた。
 マラリアである。予防薬を飲んでいたが効かなかったようだ。意識も朦朧となり、立ち上がることもできなかった。
 薬を飲み、やがて熱が下がり始めたが、三八度五分ほどの熱が十日間ほど続き、強い倦怠感にさいなまれた。
 南がマラリアで倒れたという話は、現地の中心者を通して学会本部に伝えられた。
 その報告を聞いた山本伸一は、南の健康回復を祈って唱題した。そして側近の幹部に、何度となく、「南君は、それからどうなった」と尋ねるのである。
 しかし、電話もなかなか通じないために、学会本部には、その後の連絡は入っていなかった。
 伸一は、周囲の幹部につぶやくようにいった。
 「私は、戦地に行った兄たちから、マラリアの苦しさを聞いてる。だから、彼のことが心配で仕方ないんだよ」
 伸一にとっては、南もまた愛しい弟子の一人である。
 アフリカの地に勇んで飛んでいった健気な愛弟子が病に伏していることを思うと、彼の胸は激しく痛むのであった。
 世界平和会議で一年ぶりに南の顔を見た伸一は、包み込むような笑顔で語った。
 「南君、マラリアには注意するんだよ。心配したんだよ。
 ところで、ここに来る前に、マリブの研修所でアフリカの代表と会った時に提案したんだが、ガーナに会館をつくってはどうかね。アフリカ最初の会館だ。
 みんなで相談して、ぜひ実現してほしい」
 南は、元気いっぱい、「はい!」と答えた。
 伸一はガーナのメンバーに、前進の目標を示したかったのである。
 目標があれば希望がわく。希望があれば勇気がわき、活力がみなぎる。
 そこに、目標を立てて前進することの、一つの意味がある。
44  SGI(44)
 南忠雄は、グアムでの行事が終わると、日本に戻り、今度は妻と共にガーナに赴任した。
 彼は現地のメンバーと一緒に、会館の購入に奔走した。しかし、売りに出ている、会館にふさわしい建物はなかった。
 二年が経過した時、基礎だけ造って建設を中断していた物件を、ようやく手に入れた。
 設計を変更し、鉄筋を入れる作業や電気工事は業者に頼み、あとはメンバーが行うことになった。金銭的な余裕がなかったのである。
 工事が始まったのは、翌一九七八年(昭和五十三年)のことであった。
 作業には、土曜、日曜があてられた。トラックで二時間半も揺られて、作業に駆けつけるメンバーもいた。
 朝、作業現場に集まって皆で勤行し、御書を拝読して学会歌を歌った。そして、意気揚々と工事を開始するのである。
 作業は午前中が勝負であった。正午を過ぎると暑すぎて働くことができないからだ。
 一年の大半は、最高気温が三〇度を超えてしまうのだ。
 勇壮にドラムを打ち鳴らし、皆でリズムを取りながらの作業である。資材を担ぐメンバーの肩は腫れ、指先も痛んだ。
 しかし、皆、自分たちの手で、アフリカ初の会館を完成させるのだという誇りと使命に燃えていた。誰もが活気に満ち、喜びにあふれていた。
 指示されて始めた作業ではない。皆、自ら喜んで希望し、参加した会館建設である。
 自分から勇んで行動を起こそうとする自主性、自発性こそが、自らの力と歓喜を引き出す源泉となるのだ。
 この建設作業のなかで、「会館ソング」という愛唱歌も生まれた。
  私たちの会館を造ろう
  広布の城 平和の城を
  ノコギリが一つ
       もう一つ
  シャベルが一本
       もう一本
  ………… …………
  みんなで一緒に働こう
 だが、順調に進むかに思われた会館建設に、思わぬ障害が待ち受けていた。クーデターなどが頻発したのである。
 政治の混乱は経済の混乱を招き、物価は高騰した。クーデターによって通貨自体が変わってしまうこともあった。
45  SGI(45)
 ガーナでは、クーデターによる政情不安が続き、マーケットからは、ほとんど商品が消えた。物価高は際限なく進んだ。
 建設用の鉄筋も三倍から五倍ぐらいに跳ね上がった。需要の高いセメントは特に高値で取引され、値段がないに等しかった。ドアの取っ手一つ手に入れるのも大変であった。
 資材は決定的に不足していた。しかし、メンバーは、必ず幸福と平和の法城となる会館を建てるのだと真剣であった。
 強き決意は、困難をはねのける。
 皆がなんとか工夫して資材が集まると、また、作業に取りかかるのだ。
 その繰り返しのなかで、遂に一九八三年(昭和五十八年)の年末、アフリカ初の会館となるガーナ会館が完成をみるのである。
 八四年(同五十九年)の元日には、会館落成を記念する新年勤行会が晴れやかに挙行されている。
 それは、七五年(同五十年)一月のSGI誕生から九年後のことである。
 ガーナ会館の敷地面積は約二千四百平方メートル。建物は鉄筋コンクリート造り二階建てで、四百人を超える人びとを収容できる大ホールや会議室、事務室、応接室などを備えた堂々たる会館である。
 階段の一段一段に、柱の一本一本に、メンバーの真心が、汗と涙が、広宣流布への誓いが込められているのだ。
 SGIの結成となった、グアムでの第一回「世界平和会議」に集ったどの顔も、新しき決意に燃え輝いていた。
 山本伸一は、会場を巡りながら、メンバーに語った。
 「今、このグアムから世界平和の新しい潮が起こりました。
 まだ、皆さんには実感がないかもしれないが、今日の日の意義は、五十年、百年と年を重ねるにしたがい、燦然と輝きを増していきます。
 皆さんは、歴史に名を連ねた方々です。
 今日から皆さんが何をするか――それが未来の世界を決するんです」
 キューバ独立の英雄ホセ・マルティは叫んだ。
 「私たちが一日一日やっていることが、歴史である」
 広宣流布に生きるわれらの、一日一日の歩みが、人類の新しき歴史をつくっているのだ。
46  SGI(46)
 山本伸一は、世界平和会議に集った人びとが喜々としていればいるほど、韓国のことが、気がかりでならなかった。
 韓国でも多くの人が信心に励んでいたが、世界平和会議に代表を参加させることができなかったのである。
 かつて韓国は、「日韓併合」の名の下に日本の支配下に置かれ、「日帝三十六年」と現地の人びとがいう、辛苦の歳月を送った。
 特に日中戦争が始まると、皇民化政策が進められ、神社参拝や皇大神宮の神札の礼拝などが強要されたのである。
 それだけに、戦後も、日本から伝えられる宗教には、韓国政府は警戒の念が強かった。
 一九六〇年(昭和三十五年)前後から、日本で創価学会に入会した在日韓国人の人たちによって、韓国にも日蓮仏法が次第に広まっていった。
 学会本部の海外局がまとめたところによると、六三年(同三十八年)十月には、ソウル、大邱、釜山などを中心に千世帯ほどのメンバーがいた。
 韓国政府は一万人ほどと見ていたようだが、学会として組織化が図られたわけではなかった。
 そこで六四年(同三十九年)一月、正しい信心の在り方を伝え、メンバーを激励するため、幹部の派遣を計画したが、渡航は不許可となった。
 戦時中、日本の軍部政府が行った皇民化政策などから、創価学会に対しても、誤解、誤認識があり、警戒心をもっていたのであろう。
 韓国のメンバーにも、厳しい目が向けられた。自由な活動が制限される日々が続いた。そのなかでメンバーは必死になって、学会の正義を訴えていった。
 <それらの経緯については、第八巻「激流」の章に詳しい>
 古代ローマの哲人セネカは、次のような言葉を残している。
 「試練を受けていない力は信用出来ないが、あらゆる攻撃を退ける強靱さこそ、最も信頼に値する」
 韓国のメンバーは、試練のなかでも、果敢に仏法対話を進めていった。
 最悪な状況下で一途に信心に励んだ同志には、厳然たる功徳があった。
 その喜びが弘教の原動力となり、その実証が最大の説得力となったのである。それが常に変わらぬ拡大の方程式である。
47  SGI(47)
 戸田城聖は常々、弟子たちに訴えていた。
 「創価学会の組織は、戸田の命よりも大事である!」
 それは、学会の組織こそ、日蓮大聖人の仏法を、広宣流布の精神を、万人に正しく伝えゆく、パイプともいうべき役割を担っているからだ。
 ゆえに、幹部は、まず自らが、どこまでも清流のごとき信心を貫いていかねばならない。
 一九六四年(昭和三十九年)以来、日本から創価学会として、韓国に激励・指導の手を差し伸べることが困難な状態がしばらく続いた。
 しかし、在日メンバーの有志たちが″韓国の同志を励まそう″と、しばしば訪韓しては、個人的に激励を重ねてきた。
 また、韓国の有志は、求道心を燃やし、観光などで日本を訪れた折などに学会本部を訪ね、指導を求めていたのである。
 そんな時には、山本伸一も、最優先して韓国のメンバーと会い、人生のさまざまな相談にのり、全精魂を注いで激励にあたってきた。
 しかし、組織的な激励・指導の手が届かず、メンバーは韓国各地に散在していることから、人脈をもとに、韓国国内には幾つかのグループがつくられていった。
 多くのメンバーは、真面目に、純粋に信心に励み、仏法を正しく学んでいきたいという強い思いをもっていた。
 しかし、グループのリーダーのなかには、勝手に「供養」と称して金を集める者や、選挙の折に政治家の依頼を受け、メンバーの票の取りまとめをするリーダーもいたのである。「信心利用」である。
 本来、広宣流布のための、信心啓発の組織が、一部のリーダーの私利私欲の具にされていったのである。
 正しい信心指導がなされず、学会の精神に基づく組織運営の原則が徹底されなかったゆえの悲劇といえよう。
 七〇年代の半ばごろになると、韓国政府は、次第に、創価学会への理解、認識を深め、誤解はなくなっていった。
 学会としても、韓国メンバーのために、日本の幹部も訪韓できるように、駐日韓国大使館の関係者と語り合い、理解を求めた。
 対応は好意的であり、学会幹部の訪韓にも快く賛同してくれた。
48  SGI(48)
 学会本部として、幹部が訪韓し、各派統一のために話し合いを進めようとしていた矢先に起こったのが、金大中事件であった。
 一九七三年(昭和四十八年)八月、民主化運動を進めてきた韓国の政治家・金大中が、韓国中央情報部(当時)によって日本で拉致され、韓国に連れ戻されたのである。
 事件の舞台となったのが日本であったことから、日韓の外交問題へと発展していった。
 その影響で、学会としても、しばらくの間、日本から幹部を派遣することができなくなってしまったのである。
 この間も、韓国のメンバーは増えていたが、各グループの対立が目立っていった。そして、それぞれが正統を名乗り、互いに批判・中傷し合っていた。また、盛んに分派活動を画策する者もいたのである。
 日韓の外交問題は収束したが、韓国メンバーの、グループ間の対立は、むしろ激しさを増していった。
 グアムでの世界平和会議の開催は、そのさなかのことであった。
 当時、韓国は大別して三派に分かれ、とても、合意のもとに代表を決められる状況ではなかった。
 かといって、合意もないのに、世界平和会議の実行委員会が代表を決めれば、かえって各派の亀裂を深めさせる結果になりかねない。
 山本伸一をはじめ、世界平和会議の運営にあたったスタッフは、考え、悩み抜いた。
 そして、やむなく韓国からは代表の参加なしでの、世界平和会議の開催となったのである。
 ところが、抜け駆けするように、勝手にグアムに来たグループの中心者らもいた。それは、決して求道心からの行為ではなかった。
 世界平和会議に出席したという既成事実をつくり、自分たちが学会の正統である証明にしようとしたのだ。
 実行委員会の委員たちは、彼らの狙いを鋭く見抜き、平和会議への参加を許可しなかった。
 広宣流布のための結合が、純粋な信仰のスクラムが、野心家によって利用されたり、攪乱されたりするようなことがあっては断じてならないからである。
 未来永遠に、清らかな信心を守り抜くための組織がSGIなのである。
49  SGI(49)
 山本伸一は、世界平和会議の会場を巡りながら、韓国メンバーのことが頭に浮かび、不憫でならなかった。
 この世界平和会議の日の夜、伸一は、首脳幹部らと、韓国についての打ち合わせを行った。
 「韓国をなんとかしてあげたい。このままではメンバーが、あまりにもかわいそうだ。
 今日、私はSGI会長として指揮を執ることになったが、それは今の韓国のような派閥争いや、組織を利用して私利私欲を貪ろうという幹部を出さないためでもある。
 もしも、こんな状態が続けば、当事者だけでなく、全メンバーが、いや一国が不幸になってしまうからだ。
 それは、何も韓国に限ったことではない。世界のいずこの組織であっても、清らかな信心が流れないようになれば、幹部の腐敗と堕落が始まり、利害にからんだ派閥争いや、分派活動が起こることになるだろう。
 絶対に、そんなことをさせてはならない」
 そして、伸一は、韓国メンバーが仲良く団結して前進していけるように激励、指導することが、SGIとしての最初のテーマであると語ったのである。
 「まず、韓国の相談窓口を設けよう。
 その担当には、人任せにするのではなく、最も力のある最高幹部がつく必要がある。
 そして、足繁く韓国を訪問し、それぞれのグループのメンバーが納得できるように、何度も話し合いを重ねて、全韓国的な組織へと発展させなければならない。
 そこで訴えるべきは、団結の大切さです。
 大聖人は『同体異心なれば諸事叶う事なし』と仰せだ。団結できなければ広宣流布の道を閉ざしてしまうことになる。
 そうなれば何よりも大きな問題は、皆の幸福の道が閉ざされてしまうということだ。それを断じて防がねばならない。
 さらに大聖人は、『日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候』と御断言になっている。
 どんな逆境にあっても、皆が信心を根本に結束していくならば、必ず事態は開かれ、広宣流布していくことができる。団結こそが力だ!」
50  SGI(50)
 日蓮大聖人は「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と述べられている。
 広宣流布のために心を一つに合わせ、信心に励むなかに、仏法という生命の大法の血脈が流れ通うとの御断言である。
 われらの団結とは、縦には広宣流布の師匠と弟子との不二の結合である。そして、横には同志との連帯である。
 いわば、師と同志という縦糸と横糸の異体同心の団結によって、広宣流布は織り成されるのだ。
 この異体同心の信心に立つなかに、無量の功徳があり、人間革命、一生成仏の道があるのだ。
 仲良く団結しているということは、それ自体、一人ひとりが自身に打ち勝った勝利の姿であるといえる。わがままで自分中心であれば、団結などできないからだ。
 創価学会は、広宣流布を推進する仏意仏勅の団体である。
 「われらは創価学会仏である」とは、軍部政府の弾圧という法難に遭い、御書を身で読み、獄中で悟達を得た戸田城聖第二代会長の大確信である。
 いずこの国も地域も、その尊き組織を、私利私欲の徒輩に利用され、攪乱されるようなことがあっては絶対にならない。
 御聖訓には「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」と。
 広宣流布とは、この破壊の動き、「魔」の働きとの永遠の戦いなのだ。
 グアムでの山本伸一の指導のもと、副会長の泉田弘らが韓国に通い、各地の代表による話し合いの末に、全韓国を統一する″仏教会″が結成されたのは、一九七六年(昭和五十一年)五月のことであった。
 韓国では、その後も分派していく者もあった。日本の反逆者らによる組織の攪乱もあった。
 しかし、それらの試練を乗り越えるたびに悪は淘汰され、団結は強まっていった。そして、二〇〇〇年(平成十二年)四月には、韓国SGIの法人設立が許可され、大きな発展を遂げていくことになる。
 SGI――それは、世界を結ぶ異体同心の絆である。それは、世界平和の赫々たる光源である。

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